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(画像掲示板より引用)
「ワレYouTube発見セリ」◆Stalingrad battle won
「ワレYouTube発見セリ」:1942-Hard combats in Crimea
『BLOOD, STEEL, AND MYTH: The II.SS-Panzer-Korps and the Road to Prochorowka』(George M. Nipe著,Rzm Imports Inc,2011/11/5)
届いたんで,12日のとこをちょっと読んでみた.
『クルスクの戦い―戦場写真集 南部戦区』は持ってないんでアレだけど.師団史ではよく分からない第2SS連隊がソフホーズ・オクチャブルに展開してて,252.2高地にパイパーの第3大隊と第6戦車中隊が守ってたとか書かれてて,鼻からうどんだよ.
まあ,おもしろいから,興味があったら買っとけ.
Hell's Gate出したRZMの本だから,大日本絵画が日本語版出すかも.
------------軍事板,2012/02/23(木)
『クルスクの戦い 戦場写真集南部戦区1943年7月』(J.ルスタン著,大日本絵画,2004.1)
『独ソ大戦車戦 クルスク・史上最大の激突』(ジェフレー・ジュークス著,光人社NF文庫,1999.1)
『ドン河の戦い スターリングラードへの血路はいかにして開かれたか? 独ソ戦車線シリーズ』(マクシム・コロミーエツ著,大日本絵画,2004.10)
1942年初夏に行われた,東部戦線南部におけるドイツ軍の攻勢「ブラウ」「クラウゼヴィッツ」両作戦について,戦車部隊を中心に,戦闘前の状況と戦闘の経過を記した本.
全体としてみれば,末尾で著者が結論付けているように,ソ連軍の指揮は依然として稚拙であった.
攻勢を受けたソ連軍部隊は,ドイツ軍の攻勢を押しとどめて反撃に移るだけの兵力を有していたにもかかわらず,そのチャンスを逃したばかりか,南西方面軍に至っては,配下部隊との連絡を完全に失って,事実上崩壊してしまった.
そしてそれは,ドイツ軍の高い指揮統制能力と合わせて,ドイツ軍の広がる広大なドン川湾曲部の占領,そしてスターリングラード方面とカフカス方面への攻勢準備を可能にした.
しかし一方で,緒戦の敗戦の中で,ソ連軍も少しずつ教訓を得て改善を試みていた.
包囲されそうな部隊に対する後退許可・指令や,攻勢を防ぐための増援の投入は,従来よりも「少しは」素早く行われた.
この「少し」はドイツ軍の攻勢を食い止め,部隊の損害を最小限にとどめるには不十分だったが,この小さな差はドイツ軍の計算に狂いを生じさせることに成功していた.
そしてその狂いは,スターリングラードで頂点に達することになる.
本作戦におけるソ連の大きな人的・物的損失は,所謂「懲罰部隊」設置や即決処分を命ずる指令を発令することになったが,この指令について著者は,
「開戦以来初めて,ソ連政府が軍と国民に真実を語った」,
すなわちソ連が,危機的な状況にあることを初めて認めた点が,重要であると指摘している.
また,巻末に付属する,ドイツ第23装甲師団の戦闘経験に基づく,独ソ両戦車・戦車部隊の考察は,3号戦車の60口径50mm砲によって,T-34に十分対抗可能である一方,本砲のPzgr.40は使用すべきでないと書かれている点などが興味深い.
この南方戦線には,イラン経由で援ソ物資が持ち込まれており,ヴァレンタイン,M3軽・中戦車といった米英製の戦車が,部隊に比較的多く配備されていることが注目されるものの,本書には個々の戦車に対する具体的な評価の記述がないことが,やや残念であった.
また,戦車旅団ごとにまとめられた損失の表は圧巻である.
本書はロシア語の原書を翻訳したものであり,冷戦崩壊以降開示されたソ連側資料と,西側の刊行物を中心に経過が述べられている.
バルバロッサやクルスクと比較すると目立たないものの,比較的大規模な作戦であった本作戦を,戦車戦に限らず概観するには良い本だろう.
ただしコロミーエツは,ドイツ側の記述は西側の出版物の誤読・誤訳してるから,その点には注意を要する.
――――――軍事板,2011/05/05(木)
『雪の中の軍曹』(マリオ リゴーニ・ステルン著,草思社,1994/05)
最近,図書館の払い下げ本として入手.
スターリングラードに駆り出されたイタリア軍の,一軍曹の視点での撤退戦を書いてる.
中身は,『八甲田山死の彷徨』に戦闘を加えたような感じ.
横暴なドイツ軍,追撃してくるロシア軍,迫りくる寒さに追い立てられつつ,倒れた隊長に代わり,部下を故郷へ連れ帰ろうと奮闘する主人公.
そのさなかのちょっとした心温まるエピソード.
傑作と評価されるのも頷ける内容,他人様に文句なく奨められる一冊でした.
-------------軍事板,2012/04/20(金)
【質問】
「青」作戦とは?
【回答】
1942/6/28から開始された,ドイツ軍の攻勢.
広田厚司によれば,作戦目標は以下の通り.
――――――
ソ連にとって重要な資源地帯――コーカサスを奪取,ドイツの資源地帯とすることを直接的目標としていた.
作戦の重点はコーカサス油田・穀倉地帯の奪取,および付近に展開する「最後に残っている人間の防衛力」の破壊.
スターリングラードは,コーカサスへの侵攻回廊側面を安定化するための,「少なくとも砲火の影響下に置く」程度の戦術目標に過ぎないはずだったが…….
――――――広田厚司「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10), p.2,抜粋要約
【質問】
「青」作戦の最初の躓きは?
【回答】
7/17,ヒトラーが,マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将のB軍集団(以下,Gr.B)にあった第4装甲軍の主力を,ヴィルヘルム・リスト元帥のA軍集団(以下,Gr.A)の掩護に向かわせたこと.
広田厚司によれば,作戦目標は以下の通り.
――――――
Gr.Aはコーカサス侵攻,Gr.Bはスターリングラードを中心とする戦線側面の安定化をそれぞれ任務としていた.
ドイツ軍の初期攻勢は完全に成功しており,各Gr.に現有兵力のまま攻勢を継続させても,コーカサスはドイツの手に落ち,何ら有力な部隊の配置がなされていなかったスターリングラードも,労せずして占領できただろう.
いや,もしかしたらヒトラーの初期案――北方旋回後,モスクワに対する侵攻も,実行可能だったかもしれない.
だが,自力で十分に進撃できるであろう部隊に,それ以上の部隊を追加したところで,得られるものは一つしかない――混乱である.
悪影響がすぐに現れた.
ドン河下流最大の渡河点・ロストフは,たちまちにして,何の関係もない装甲部隊で埋め尽くされ,それまで第4装甲軍が撒き散らした戦略的混乱の下で,順調に進撃していた第6軍は掩護を失い,カラチ付近で二進も三進もいかない状態に追い込まれた.
スターリングラードにおいてはソ連軍の集中――もっともそれは,壊滅した部隊からの兵員が大部分を占めていたが――が始まり,第6軍独力ではスターリングラード占領は不可能になったのだった.
――――――(広田厚司「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」,アド・テクノス,1986/9/10, P.2,抜粋要約)
▼
『陸軍画報』(昭和17年10月号)より,ブラウ(青)作戦終盤の,コーカサスに展開するドイツ南方軍集団の解説イラスト
まだスターリングラードの悲劇を迎える前の,調子が良かった頃を伝えています
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月13日14:56
▲
【質問】
なぜスターリングラードで市街戦が起こることになったのか?
【回答】
広田厚司によれば,ヒトラー命令による,という.
ヒトラーは,コーカサスで順調に進撃しつつあったGr.Aから部隊を引き抜き,1個装甲軍団を抜かれた穴を,強力とは言いかねるフランス式装備のルーマニア軍で補填していた第4装甲軍と共に,第6軍を助け,スターリングラードを奪取するよう命じた.戦術的目標が戦略的目標に摩り替ったのである.
元来スターリングラードは,コーカサス侵攻の副次的目標であったはずである.
にも関わらず,ヒトラーは,戦略的主目標コーカサスから部隊を引き抜いてスターリングラードに向けた.
1941年の過ち――戦略目標の不徹底を再び犯してしまったのである.
パウルス率いる第6軍は,第4装甲軍と共に,スターリングラードに対して猛攻をかけたが,これは,これまでの
「間接的アプローチをもって戦略的優位を得て勝利する」
というドイツ軍の戦い方ではなく,ただひたすらスターリングラードに猛攻をかけて突き進む,という直接的アプローチの最悪の例だった.
詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10),
P.2-3を参照されたし.
【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」◆鏡音リンのスターリングラード冬景色
【質問】
スターリングラードって独ソ戦の激戦地のひとつだけど,レニングラードやモスクワへ侵攻する進路よりはかなり南方だし,目の前は黒海やグルジア.
カフカスまで攻めくだれば油田があるけど・・・
ウクライナの穀倉地帯を確保するため?
正直,戦略的価値はある作戦だったんですか?
【回答】
もともとスターリングラードは完全占領しようとしていた訳ではない.
A軍集団がカフカスの油田占領に失敗し,第四装甲軍との共同作戦であるドン河下流でのソ連軍撃滅にも失敗.
このザマでは世界と同盟国に対する,ドイツの威信やヒトラーの威信まで危うい.
そのためヒトラーは,ソ連軍けん制目的でスターリングラードに展開していたB軍集団に,スターリングラード完全占領の総統命令を発令した.
何故スターリングラードの完全占領に踏み切ったかというと,スターリングラードはその名の通り敵国の最高指導者の名前が冠されており,軍需産業の一大集積地であり,ヴォルガ河水上交通の要所であったため.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
スターリングラード攻防戦中,最大の激戦地は?
【回答】
市街北端のトラクター工場.
ドイツ軍第305歩兵師団とソ連軍第308狙撃兵師団が寸土を争った.
ドイツ軍第389歩兵師団および第14戦車師団の一部も,これに加わった.
詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10),
P.18-19を参照されたし.
消印所沢
スターリングラード攻防戦時のソ連軍側の損害を抽出すると,
第187狙撃師団
いかなる犠牲を払っても工場を死守するよう命じられ,たった3日間で同師団の90%が戦死&行方不明に.
第95狙撃師団
1942年4月末に,約7000人で到着
10月8日時点で,3075人,10月14日では約500人になって交代
第193狙撃師団
9月27~28日夜に5000人で到着,10月8日には戦力350人
第112狙撃師団
約7000人の戦力でスターリングラード戦初期から参戦
9月29日時点で250人
ある混成大隊に編入されて10月14日に交代
第37親衛狙撃師団
10月2~3日の夜に7000人で到着
激戦地であるトラクター工場で戦い,250人まで減少
10月15日に交代
第17親衛狙撃師団(元第187狙撃師団)
指揮官ロディムチョフ少将は9月15~16日の夜に,1万人以上の兵力を率いて参戦
ママイェフの丘とトラクター工場で戦い,10月15日には数百人となってしまった
【参考文献】
『詳解 独ソ戦全史』(デビッド・M. グランツ他著,学研文庫,2005.6)
CRS in mixi,2007年05月03日20:30
【参考画像】
スターリングラードにおけるソ連軍を描いた戯画
【質問】
ソ連軍はスターリングラード攻防戦で,どのように抵抗したか?
【回答】
広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10)の,P.6からP.21までの各所に散在する記述を纏めると,以下のようになる.
9月半ばから10月初旬にかけ,装備優良な2個親衛師団を,市街中央部防衛のために投入.
また,5万人の民間人による人民防衛軍を組織.
他に市民7万5千人が防衛線に加わった.
ソ連軍は地の利を利用.下水道・地下室・ビルの廃墟と狙撃兵など,必死の抵抗を試みた.
また,夜の内にヴォルガ川を渡河して続々と増強された.増援は峡谷に集結,小部隊で出撃した.
しかし10月末までに,ソ連軍側支配地域は市街の1割になり,精鋭部隊と言われたシベリア第62軍第244狙撃兵師団は,10月下旬には約1500人の兵力に激減.
第13親衛狙撃兵師団も同じ頃,空爆により壊滅的打撃を受けた.
消印所沢
ソ連側は信じられない程の頑張りを示し,甚大な犠牲と損失にも関わらずに頑強に抵抗しました.
スターリングラードで戦術面の防衛はV・I・チュイコフ中将が指揮していました.
彼はドイツ側の空軍力と砲兵火力の優位を無力化するため,自分の部隊にドイツ軍と「抱き合う」ように命じました.
これによってソ連軍は,ドイツ側が砲撃や爆撃を実行出来なくさせました,誤射・誤爆のおそれが出たためです.
そのため超接近戦になり,何週間にわたり,ソ連軍の歩兵と工兵の小集団が,しばしば道一本・壁一つ隔てるだけという程に密着し,捜索・待ち伏せの死闘がメートル単位の距離で行われました.
それでもソ連側は磨耗し押され,10月にはソ連軍陣地は4つの橋頭堡に分断.
陣地の前縁は河からなんと180メートルに過ぎなくなった.
このとき,チュイコフ中将の司令部の真上にあった石油タンクに砲弾が命中.
タンクに引火し,周囲は炎に包まれた.
上級司令部は安否を確かめようと,何度も打電しました.
「今,何処にいる?」
という上級司令部の問いに対し,チュイコフ中将は
「煙と炎の中にいる」
と答えたそうな.
【参考文献】
『詳解 独ソ戦全史』(デビッド・M. グランツ他著,学研文庫,2005.6)
CRS in mixi,2007年05月03日20:30
【質問】
ヒトラーの甥がスターリングラードで赤軍に捕虜になって,スターリンの息子が同様にスターリングラードでドイツ軍の捕虜になった,って聞いたけど本当?
本当ならその二人はどうなったわけ?
【回答】
スターリンの息子は緒戦に,ウクライナかどこかで捕虜になった.
後にドイツ軍は,
「彼の解放と引き換えにスターリングラードの包囲を一時解き,自軍将兵を撤収させる」
という条件でソビエトに交渉を打診したが,スターリンの返事は
「自分にヤコフなどという息子はいない.
いたとしても,捕虜になるような恥知らずではない.
人違いだろう」
というもので,結局ヤコフ=スターリンは捕虜収容所で,「看守の制止を無視して柵を乗り越えようと」して射殺された.
▼ 一方,ヒトラーの甥,ハインツ・ヒトラーは1941年の初頭に捕虜になって,モスクワの収容所に送られ,数ヵ月後に死亡している.▲
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ スターリングラードで捕虜になったのは,ゲリの弟レオ・ラウバルで,ハインツ・ヒトラーも第6軍に所属して捕虜となったと書かれています.
従兄弟のハンス・ヒトラーも参加していましたが,自力で脱出したとこのことです.
(児島襄『ヒトラーの戦い』5巻,238p)
ぷーま in FAQ BBS,2011/5/6(金) 11:55
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
後のソ連書記長フルシチョフは,本当にスターリングラード攻防戦に参加したのか?
【回答】
本当.写真が残っている.
ニキタ・セルゲイヴィチ・フルシチョフは,政治委員として防衛戦を指導した.
彼は1942/9/13,守備隊,第62軍司令官ロパチンを解任,司令官代理のチェイコフを後任に任命した.
広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10),P.10にその写真が掲載されている.
【質問】
ブラウ作戦の後,ハルダー陸軍総参謀長はどうなったのか?
【回答】
彼はブラウ作戦の責任を取らされ,1942年9月24日,当時,D軍集団(フォン・ルンドシュテッド元帥=西方方面軍)の参謀長クルト・ツアイツラー中将(当日大将昇進)と交替しました.
以下によると,ツァイツラーはD軍集団参謀長で少将から特進した様です.
GENERALFELDMARSCHALL WALTHER VON BRAUCHITSCH (RK)
Commander-in-Chief of the Army ? Risen to Reichs Minister in Rank and participated on arrangement of the Führer in the Meetings of the Reichs Cabinet (04 Feb 1938-20 Dec 1941)
HALDER, Franz (RK)
(1884 - 1972)
Generaloberst
Chief of the General Staff of the Army (01 Sep 1939-24 Sep 1942)
ZEITZLER, Kurt (RK)
(1895 - 1963)
Generaloberst
01.04.1942 - 24.09.1942 Chef des Generalstabes of Heeresgruppe D.
24.09.1942 - 01.07.1944 Chef des Generalstabes des Heeres. Succeeded Generaloberst Franz Halder.
(24.09.1942 General der Infanterie (skipped the rank of Generalleutnant)
代表的資料;
HPのURLは
http://www.geocities.com/~orion47/
書籍
『ヒットラーと国防軍』(リデル・ハート著,原書房,1978)
『焦土作戦』(パウル・カルレ著,学研M文庫,2001.1)
等
【質問】
スターリングラード方面のソ連軍の反攻作戦に,ドイツ軍は気付かなかったのか?
【回答】
兆候は報告されていた.スターリングラード左側面に展開する各部隊から.
ドイツ軍第11軍団のシュトレッカー,ルーマニア軍のアントネスク,ドゥミトレスク――彼らは,あまりにも弱体な左翼・ルーマニア第3軍の担当戦線のドン河北岸にソ連軍が集結している事に気付き,警告を発した.
「ソ連軍の反攻が迫っている!」
これは,ソ連軍第65軍が行った,ドン河南岸に対する橋頭堡構築により,いっそう明白となった.
ソースは広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10),
P.23より.
【質問】
予想されるソ連軍反攻に対し,ドイツ軍はどのような対策を講じたか?
【回答】
第6軍司令官パウルスは,戦線縮小の許可をヒトラーに求めた.
が,ヒトラーは,参謀本部の報告――ソ連軍に予備兵力なし――を根拠に,一切の撤退を認めなかった.
その代わり,ルーマニア第3軍の戦線強化を許可した.
その主力となったのは,ハイム中将の指揮するドイツ第48装甲軍団だった.この軍団は,ルーマニア第3軍とイタリア第8軍の後方に展開,弱体な戦線の「支柱」の役割を果たすことになった.
この軍団を構成する2個装甲師団,ドイツ軍第22装甲師団とルーマニア第1装甲師団は,それぞれ戦車104両・108両を有していた.書類上は.
ところが実情は異なっていた.
第22装甲師団は長期に渡って補給を与えられなかったため,保有戦車は42両に減少していた.
ルーマニア第1装甲師団は,装備戦車の大部分がチェコ製T38戦車だった.
前線指揮官達は危機に気付いており,「増援か撤退」を度々要請したが,情勢判断を完全に誤ったドイツ軍首脳部,特にヒトラーはそれを許さず,第6軍に対し,ますます戦力消耗と危険を招くスターリングラード攻撃を続行させた.
詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10),
P.23を参照されたし.
【質問】
「ウラヌス(天王星)」作戦とは?
【回答】
スターリングラード方面に対する,ソ連軍の反攻作戦.
ドイツ軍の弱体な両翼――装備弱体なルーマニア軍――を食い破り,50万の兵士,1500両の戦車,13500門の砲をもって,スターリングラードのドイツ第6軍を包囲撃滅し,あわよくばロストフまで突進して,コーカサスに侵攻しているドイツA軍集団までも撃滅しようとする雄大な計画だった.
1942/11/19,作戦発動.
コンスタンチン・ロコソフスキイ中将率いるドン戦線正面軍と,ニコライ・F・バトゥーティン中将率いる南西戦線正面軍は,160kmに及ぶ戦線左翼を担当していたルーマニア第3軍に攻撃を開始.
-6.1℃,視界ゼロという「ソ連軍向き」の天候の中で開始され,1.5~3kmに1個大隊という,ルーマニア軍の薄い戦線を突破.戦線左翼には50kmの大穴が空く.
11/20には,アンドレイ・イェレメンコ中将のスターリングラード戦線正面軍がルーマニア第4軍の戦線に,80kmの突破口開口に成功.
11/23,ドン河屈曲部のザビエツキイ(カラチ近郊)で,ドイツ軍・ルーマニア軍30万を完全包囲下に置くことに成功した.
もし,この時点でドイツ軍が直ちに包囲下からの突破作戦を開始していれば,最悪の結果は避けられたかもしれない.
ヴォルガ河は完全な凍結に至らず,スターリングラード戦線正面軍に対する補給は滞りがちだった.
ドイツ軍が突破行動をとっても,その後半に展開するソ連軍は,有効な追撃ができなかっただろう.
11/24,解任され(9/24)たハルダー陸軍参謀長の後任ツァイツラーは,ヒトラーに対し,突破命令を下すよう要請.
しかしヒトラーは拒絶.スターリングラードに円形陣を作り,「要塞とせよ」と,彼は命令を下した.
詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10),
P.31-32を参照されたし.
【質問】
第6軍司令官パウルスは,なぜスターリングラード包囲網突破作戦「霹靂」を実行しなかったか?
【回答】
ヒトラーの死守命令に反抗できなかったためと見られる.
1942/12/18,ドン軍集団司令官フォン・マンシュタインはパウルスに命令を発している.
「直ちに霹靂作戦を開始せよ」
パウルスの回答は,こうだった.
「装甲車両の燃料不足.30km以遠に到達できず」
だが,脱出する気があるのなら,可能な限りの手段,例え歩いてでも指揮下の部隊を救おうとしたはずである.
だが,パウルスは実直過ぎた.
さらに,彼の周囲にはヒトラーのシンパ(その代表者は,第6軍参謀長シュミット少将であろう)が存在し,「ヒトラー命令」という圧力で,勇気の必要な決断を下すことを妨げていた.
ソ連軍は,イタリア第8軍の戦線を突破した.
第57装甲軍団は撤退を開始せざるをえなかった.
救出作戦は失敗した.
23万3千名のドイツ軍の精鋭は壊滅し,捕虜となった10万8千人はシベリアその他の収容所で,長く辛酸をなめることになるのだった.
詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10),
P.31を参照されたし.
【質問】
スターリングラード攻防戦で,死守なんて馬鹿な命令を出したヒトラーは責められるべき?
【回答】
ブラウ作戦でカフカズ山脈まででかけたA軍集団(だっけ?)150万の退路をとっとくためには,スターリングラードで,ソ連軍数個師団をひきつけとかなきゃいけないのも事実だけどね.
でもゲーリングの空輸補給安請け合いは責められなきゃね.
ヒトラーに関しては,上記の戦略的理由のほかに,同盟国の手前,死守命令を下さざるを得なかった,というところも割り引いてやらなきゃ・・・
ただ,そういうの度外視して,たんに意地になってた(笑)という説も有望だが.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ ちなみに,小長谷正明著『ヒトラーの震え,毛沢東の摺り足』(中公新書,1999.5)では,ヒトラーはパーキンソン病の症状である保続によって,方針を修正できなくなっていたと分析されてます.
http://harufe.exblog.jp/2590923/
も参考に.
仮 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
スターリングラード包囲戦において,包囲を突破したドイツ兵はいなかったのでしょうか?
【回答】
グムラク飛行場の喪失などで,空路からの脱出手段がなくなった後,徒歩で脱出に成功した者はいなかったはず.
第6軍が降伏した43年2月以降,徒歩でドイツ軍の戦線方向に歩く個人や小部隊は偵察機などから目撃されているが,いずれも消息を絶っている.
パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』(学研M文庫,2000.9)に,ただ一人友軍にたどり着いた直後に砲撃で死んだ下士官の話が出てくるが,これは実話ではないらしい.
他の戦場では,ロシア語が堪能なバルト出身のドイツ人が捕虜を後送するロシア兵に化け,戦線突破に成功した例などがある.
軍事板
スターリングラードで捕虜になったドイツ兵
(『LIFE』より引用)
【質問】
「スターリングラード」が,パリ郊外の街の名前になっているそうですが,どーいう経緯でこんなことに??
【回答】
フランス語wikipediaによれば,パリのスターリングラードは町ではなく地下鉄の駅名.
1946年にスターリングラードの戦いにちなんで改名されたとある.
友好の証として外国の地名を土地や建物につけるのは,欧米では珍しいことではない.
戦後すぐは,まだ東西間は冷戦に突入してなかったからね.
軍事板
【質問】
スターリングラード攻防戦の後の,ハリコフ攻防戦において,ドイツはソ連の親衛師団に大打撃を与えた為,戦線は停滞し,第三次ハリコフ攻防戦後の1942年3月においては,独ソ両軍はほぼ,互角の状況になったんではないんでしょうか?
【回答】
確かにそこ”だけ”取り出してみると互角だが,動員できる補充兵力で,ドイツはソビエトに思いっきり劣っている上に,米英の援助が期待できるソビエトに対して,ドイツは援助してくれる国が何処にもない.
ドイツは資源と生産力でもはるかに劣っており,一時的に戦略的互角を得ても,大局的には到底「互角」とは言えない.
そもそも独ソ戦自体が,
「開戦劈頭電撃戦でモスクワを落とす」
事が,唯一にして絶対の独側勝利条件で始まってるので,それが不可能になった時点で,後がどうなろうとドイツの不利となる.
ドイツは独ソ戦では,「常に攻め側に回っていなければならない」という勝利のための基礎条件があり,それが達成されてない状況は,全て「不利」「敗北状態」と呼べる.
【質問】
1943年の独軍ツィタデレ作戦について質問です.
トルコの連合加入を防ぐため,トルコ軍観戦武官を招き,ソ連側に作戦内容がバレる事を承知の上で,作戦決行数週間前に,新型戦車のパンターやティーガ重戦車を用いて大規模な演習を行なった,と言うのは事実でしょうか?
また,事実ならばどのような内容の演習なのか解りますか?
【回答】
学研M文庫『完全分析独ソ戦史 死闘1146日の全貌』(山崎雅弘著,学研M文庫,2007.3),P.260
によれば,
時期:1943年6月26日
場所:ビエルゴロド(南方軍集団戦区)
視察者:トルコ陸軍参謀総長ケミル・トイデミル大将ほか五名
視察対象:第503重戦車大隊の演習など.
数週間前の演習以前に,彼我の位置関係とスパイ情報,独軍の集結具合で,ソ連側に攻勢意図を見抜かれて防衛準備が整ってしまった.
そのせいで参謀本部も中止か決行かで二つに割れて,中々方針が決まらなかった.
関連記述はこちら.
この演習は「Turkenubung(トルコ演習)」と呼ばれ,南方軍集団司令官だったマンシュタイン元帥がトルコ側を迎えた.
http://vxstllrm.blogspot.com/2007/06/trkenbung-video.html
に,演習を撮影したドイツ側のニュース映像がある.
動いてるティーガーやマンシュタインの映像がある.
シュタールベルクの「回想の第三帝国〔下〕」(平凡社1995)によれば,大小の大砲,Sdkfz251に乗車した歩兵,火炎放射器をもった工兵,第503重戦車大隊などかなり大掛かりで,走行中の戦車に歩兵が砲身に飛びかかり車体によじ登るといった,曲芸紛いの対戦車戦演習も行われたそうである.
ちなみに演習名はTurkenubung(トルコの演習)といった,秘匿もなにもないものだった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
WW2のクルスク戦で独逸は,砲弾,弾薬,砲兵を充実させ,砲爆撃で対処させ,無理に強固な陣地に戦車部隊を投入させずに温存させといたら,戦闘は有利に進んだかなあ?
【回答】
むしろ逆で,早い時期にクルスクへの攻勢を行ったほうが可能性がある.
ハリコフ戦後の3月に南方軍集団のマンシュタイン司令官は,
ソ連軍の準備が整ってないうちにクルスクへ攻勢に出ることを提案している.
この提案は,中央軍集団が兵力が足りない&泥濘期を迎えつつあるということで却下された.
で,泥濘期が終わる5月初めにツィタデル作戦を開始させる予定だったが,総統がイタリア防衛の為に東部戦線から兵力を引っこ抜き&新兵器の投入を望んだ為,7月になってしまった.
ソ連はこのころには,スパイ等諜報活動によってクルスクへの攻勢を把握しており.対戦車陣地の構築を完成させてるから,時間をかけるのは逆効果.
青文字:加筆改修部分
【質問】
プロホロフカ村の戦いに参加したとされるドイツ軍戦車の数が,年を追うごとに減っているのは何故でしょうか?
いったいどれが正しいのでしょうか?
そして,なぜ数が減っているのでしょうか?
【回答】
おそらく,これまでの数字が主として,ソ連公式戦史を始めとしたソ連側資料に拠ったものだったからではないでしょうか.
パウル・カレルの本の中でも引用されている部分があるようですし.
LAH師団第1SS戦車連隊はクルスク戦時,第Ⅰ戦車大隊を「ヒトラーユーゲント」装甲師団編成のためにそっくり引き抜かれており,第Ⅱ戦車大隊も戦車が不足して三個中隊の編成になっていました.
これにティーガー中隊を加えても,連隊の戦車は114輌に過ぎませんでした.
ここらへんの実情が古い資料では全く無視されているようです.
近年出てきたドイツ側参加戦力の数字はLAH師団史によるもので,ほぼ実態に即したものと思われます.
ソ連公式戦史を始めとした古い資料では,ドイツ側の戦車は3個SS装甲師団から成るタイガー戦車100輌を含む(笑)700輌とされていました.
いうまでもなく,戦車不足が深刻だったドイツ側にまともに定数がそろっているはずがなく,350輌というのはそこら辺を資料を洗い直して勘案した数字でしょう.
さらに近年はプロホロフカ戦車戦をLAH師団正面戦区に限定して語られるようになってきましたので,7月11日のLAH師団の戦闘可能車両数であった90輌という数字が出てきたわけです.
因みにソ連側戦力は,ローストミストロフ中将傘下のソ連第5親衛戦車軍約800輌中の約450輌で,そのうち180輌を喪失したと推定されています.
一方LAH師団の戦車は撃破されても回収後戦場に復帰した車両も多く,完全損失は10輌にも満たない数だったようです.
…ソ連側が脚色したくなるのもむべなるかな…
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2004/09/15
青文字:加筆改修部分
ついでに,このサイト
http://dspace.dial.pipex.com/town/avenue/vy75/
に,第二SS装甲軍団の動きを中心としたクルスク戦のデータが詳細に紹介されているので,ここを読むことをおすすめする.
英語だが,さほど難しい文章ではない.
特に,作戦開始から中止までのタイムテーブルや,プロホロフカ村周辺の地図は非常に分かり易い.
軍事板,2004/09/15
青文字:加筆改修部分
【質問】
コルスン・チェルカッシィ包囲戦って何?
【回答】
コルスン・チェルカッシィ包囲戦 Battle of
the Korsun-Cherkassy Pocket とは1944/01/14~02/16,東部戦線のドニエプル川近辺,チェルカッシィで繰り広げられた包囲戦.
ドニエプル=カルパチアン攻勢の最中,ソビエト第1・第2ウクライナ方面軍は,ドイツ南方軍集団第8軍所属の6個師団相当を包囲し,その殲滅を試みた.
だが,包囲されたドイツ軍部隊は救出部隊と協同作戦を行うことにより,包囲を突破し,包囲された将兵の内,約3分の2が脱出に成功した.
【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Korsun-Cherkassy_Pocket
http://dreadnought.at.webry.info/200710/article_9.html
http://ona.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16
faq110521bo.jpg
(http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Korsun-Cherkassy_Pocketより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2011/05/24 20:30
を加筆改修
「合言葉は『自由』.
目標,リサカ.23時.
マンシュタイン」
(コルスン包囲戦時,解囲部隊の消耗により,独力で包囲突破を目指さざるをえなくなった,コルスン包囲下『シュテマーマン戦闘団』の指揮官シュテマーマン大将に対して.)
シュテマーマン大将は殿部隊を指揮し,戦死する.
軍事板,2009/01/31(土)
※http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51442830.htmlに転載されたもの
コルスン・ポケットに関する記述ですが,
南方軍集団 → 南方軍集団,第8軍所属の6個師団相当
……かと.
今の文章のままだと,そっくり南方軍集団が包囲されてしまったかの印象が.
(御指摘に従い,修正済――編者)
ソフトヒッター99 in mixi,2011年05月23日 10:04
御徒町のギャラリーで土日のみ開催の12インチカスタムフィギュアの展覧会,「CUSTOM FIGURE EXHIBITION 2007」より.
マイミクAKxGRENADIEREさん新作の,チェルカッシィ包囲戦をイメージした,国防軍とSSのPK隊員.
作品としての完成度が素晴らしい!
よしぞう maro' in mixi,2007/11/25/06:20
青文字:加筆改修部分
【関連リンク】
『チェルカッシィ包囲突破戦 東部戦線,極寒の悪夢』(ダグラス E. ナッシュ著,大日本絵画,2007.10)
【質問】
コルスン包囲戦の本を探しているんだけど,「チェルカッシィ包囲突破戦」てどうなんでしょ?
アマゾンの書評では,翻訳がひどいといわれているようですが.
【回答】
序文の所を立ち読みすべき.
意味不明で読めないから.
それに,読めるところでも間違ってる.
例えばヴィリィ・ハインの前書きに,
・「洪水の激流は,我々ではなく自分自身を飲み尽くしていった!」
「チェルカッシィ・ポケット」,このように名付けられた包囲陣に関する精密な研究が,
・私は結びの語を,死者と未だ行方不明のすべての者に捧げたい.包囲戦闘中の彼らの犠牲は,悲劇的結末を迎えたのである.
とあるけど,ホントは↓
・「洪水は,我々以外を飲み込んだ!」このように名付けられたチェルカッシイ包囲戦に関する図上研究が
・最後に,包囲戦の間の犠牲的行為が,悲劇的結末を迎えた死者と未だ行方不明者すべてに捧げる.
とか,2行以上の英文はほぼ誤訳じゃないのん.
原著は海外では評価が真っ二つに分かれているみたい.
「チェルカッシィ包囲突破戦」の原著は,Douglas E.Nash 「Hell's Gate」
「細かい描写が多いので,全体像がつかみにくい」
という意見が,
「細かい描写やたくさんのエピソードに興味をそそられる」
という意見にもなる.
興味の対象が戦術レベルなのか作戦レベルなのかによって,変わるんだろうな.
ご参考までに,批判的意見の急先鋒は,コルスン包囲戦の権威であるジャック・ラディというウォーゲームデザイナーらしいよ.
もしあなたが英語の本に挑戦してみようと思うなら,Niklas
Zetterling & Anders Frankson共著の「The
Korsun Pocket」がおすすめです.
軍事板,2011/11/02(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
バグラチオン作戦って何?
【回答】
バグラチオン作戦 Операция Багратион
は,1944年6月22日にベラルーシで開始された,ソ連軍のドイツ軍に対する最大の反撃作戦.
損害を度外視した赤軍流の電撃戦の前に,ドイツ軍は敗走を重ね,同作戦前に兵力90万人とされたドイツ軍中央軍集団は,25個師団を失い壊滅.
ソ連軍も70万人以上もの死傷者を出したが,ドイツ軍は,同年7月末までには独ソ戦開始時の国境付近まで押し戻されることとなった.
【参考ページ】
http://iwase.exblog.jp/966097/
http://yasai.2ch.net/army/kako/1016/10168/1016883500.html
http://nomore-war.jp/main/ww2europe/1944/books/bagu/frame.html
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/tokubetsu/bagration.html(以下図表も)
http://www.cwo.zaq.ne.jp/bface700/frs_plus/Phase%2014.html
東部戦線,1943年8月~1944年12月
faq20h02.jpg
faq20h02b.jpg
【ぐんじさんぎょう】,2009/8/23 21:00
に加筆
【質問】
wikiのカリウスの所に
>カリウスは1944年7月24日偵察中に重傷を負い~
って書いてあるけど ここの詳細おせーて.
【回答】
有名なマリナーファ戦の二日後の話になります.
カリウスたちは当時配属されていた第290歩兵師団の幹部と意見の衝突があったために,その日第502重戦車大隊長シュヴァーナー少佐に特に願い出て,一個小隊4輌を率いてデューナブルグ~リガ間の街道に進出し,カリウスはその街道を偵察することにしました.
ところが,普段使用していたキューベルワーゲンが故障したため,やむなくサイドカーを使用することに.
街道を進み,丘の上の農家の影で地図を確認していると突然ソ連兵が現れ,バイクを捨てて逃げたものの運転手ともども撃たれます.
あわやの時に,後続していたティーガー2輌が助けに入り,カリウスの救出に成功.
偶然居合わせた偵察小隊のキューベルワーゲンで,包帯所に運び込むことができました.
幸い命を取り留めたカリウス少尉は後送され,7月27日に全軍で535番目の柏葉騎士十字章を受賞しました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
オットー・カリウスの相棒でもあった砲手のクラーマーは,戦後まで生き残れたんですか?
【回答】
ハインツ・クラーマー Heinz Kramer 軍曹はカリウス少尉が第502重戦車大隊から去った後に戦車長になり,1944年12月には敵戦車50輌撃破の功績により騎士十字章を受賞しています.
しかし,1945年1月27日にオストプロイセンのプラウテンでの攻撃の際,彼の搭乗したティーガーが撃破され,重傷を負って病院車で後送されます.
ところが,この車両がノイハウゼンの手前で浸透してきたソ連軍に破壊され,クラーマー軍曹は行方不明となり戦死と認定されました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
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