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 【link】

「DB103のMiniature World」◆ 1945年ハンガリー戦線におけるソ連捕獲No.一覧表

「La Hongrie en guerre」◆() Le siège de BUDAPEST

「Múlt-kor」◆(2013/09/25) Az 1944-es varsói felkelés magyar emlékei - Műhely -
ワルシャワ蜂起に遭遇したハンガリー兵の動向

「Russia Now」◆(2011/06/19) Bulgarian police look for suspect of Soviet Army monument vandalism

「VOR」◆(2012/09/02) ロシア 第二次世界大戦終結の日

「朝目新聞」(2013/06/08)● 戦場のピアニスト ワルシャワ蜂起

『死闘ケーニヒスベルク 東プロイセンの古都を壊滅させた欧州戦最後の凄惨な包囲戦』(マクシム・コロミーエツ著,大日本絵画,2005.12)

『ヒトラー最後の戦闘』(コーネリアス・ライアン著,ハヤカワ文庫,1982.9)

 ひどいな,これ.
 朝日出版の旧版では掲載されてた写真や地図が,ごっそり削られてる.
 神保町で手に入れた旧版が,あまりに古いからと,新版目当てで買ったというのに……

――――――軍事板,2010/10/04(月)

『ベルリン陥落』(オールウェーブ出版,63分 3400円)

 ジェーコフの映像とか,T-34とかワラワラとベルリン市内を逝くSU-152とかの映像てんこもりなんですが,実は私,最後まで見た事がありません!
 ど~しても途中で寝てしまうのです(笑
 ちゅ~ワケで,眠れない夜のお供にいかがでしょうか?(^^;

------------ベタ藤原 ◆MNjfnp0E :軍事板,2002/07/05
青文字:加筆改修部分

『ベルリン陥落1945』(アントニー・ビーヴァー著,白水社,2004.8)

『ワルシャワ蜂起1944』(ノーマン デイヴィス著,白水社,2012/10/24)

●ハンガリー関連

「You Tube」◆Battle of Budapest

「You Tube」◆Budapest Ostroma 1944-1945

「You Tube」◆1944. tavasza Spring, in1944. Budapest and other Hungari

「You Tube」◆Hungary 1944 Pest county

「You Tube」◆The battle and supplies of Budapest

「You Tube」◆Warplay in Hungary 1944
 ホルティ提督のホンヴェード演習視察

「You Tube」◆WW2 - Tank Battle in Budapest (Nov 1944)


 【質問】
 1944年10月からハンガリーで行われた焦土作戦とは?

 【回答】
 ソ連軍がハンガリー国境に接近したため,彼らには何も与えまいとしてハンガリー政府が開始したもので,農・工具から食糧,原材料,交通・公衆衛生施設のあらゆる備品を解体し,トラック,貨車,荷船に積み込んで,西に向かった.
 また,サーラシ内閣発足翌日の10.17,サクバーリ産業相は,ドイツ全権公使フェーゼンマイヤーとの間で,戦争遂行のため緊急に必要とされる4000tのアルミニウムや,その他の原材料,および工業製品を供給する旨の協定に調印しており,ドイツ軍はこの協定の精神に基き,「欲しい物,また,運べる物は何でも」持っていった.
 協定調印時にサーラシ内閣の支配権が及ばなかった地域の物資だけが,ハンガリーに残され,それ以外はドイツへ大量に移転された.
 これは緊急避難というよりも,生産協調の名の下,ハンガリーの軍需生産がドイツに従属させられていたための,当然の帰結だったと,ロナルド・W・ツヴァイグは見る.

 詳しくは
『ホロコーストと国家の略奪 ブダペスト発「黄金列車」のゆくえ』(ロナルド・W・ツヴァイグ著,昭和堂,2008.10.30),p.76-77
を参照されたし.


 【質問】
 ブダペシュト包囲時の状況について教えてください.

 【回答】
 1944年12月24日のクリマスマス・イブ.
 この日,ブダペシュトは包囲された.
 同日,ドナウ川北方からはソ連軍第6親衛戦車軍,第6親衛軍がハロン川まで到達.
 ドナウ川南方からは第18戦車軍団と第7機械化軍団が,23日までにセーケスフェヘルヴァールとビチケを陥落させていた.

 26日にはエステルゴムも落ち,ブダペスト・ウィーン間街道をソ連軍は遮断して,ブダペシュトに立て籠もる枢軸軍は,退路も断たれてしまう.
 このときブダペシュトに残っていたのはハンガリー軍第三軍の主力,約3万.
第2戦車師団
第10歩兵師団
第12歩兵師団
第20歩兵師団
第1護衛連隊
第3憲兵連隊
その他,雑多な部隊.
 他にドイツ軍,約5万と市民,約8万人がいた.
 ハンガリーの国家指導者サーラシは,既に12月9日,ブダペシュトから脱出しており,ヴェスプレーム飛行場のハンガリー空軍も,ソ連軍が20kmまで接近している中,脱出準備を進めていた.

 ハンガリー第3軍の司令官は,ヘスレーニ・ヨージェフ Heszlenyi Jozsef 大将.
 1890年生まれの彼は,第一次大戦従軍後,ハンガリー王国軍に入隊し,第二次大戦勃発時は第23歩兵旅団長.
 1944年3月,ドイツ軍がハンガリーを占領すると,彼は第3軍司令官に任命された.
 彼はその11万の兵をもって,トランシルヴァニアのハンガリー・ルーマニア国境の防衛を担当したが,装備貧弱,予備役主体のため,10月のデブレツェンの戦いにおいて撃破されていた.

 第3軍の他には,
学生から成る矢十字党の反共ファシスト大隊2個,
少年兵から成るVannay大隊(指揮官 Vannay Laszlo),
そしてソ連兵捕虜から成る「ブダ義勇兵連隊」がいた.

 サーラシ自身は逃げ出したにも関わらず,彼の指示によりブダペシュトでは,
「国家とブダペシュトの防衛にとって,いかほどであれ有害な働きをしたものを懲罰するための野戦裁判所」
が開廷された.
 そこで最初に処刑されたのは,キーシュ退役中将だった.
(と,『バラトン湖の戦い』には書いてあるのだが,ここにはそれらしい名前が見当たらないので,この将軍のプロフィールは不明.
 上記リストから判断するに,ケレシェ・ヨーヂェフ Kereso Jozsef のことである可能性が比較的高い)

 また,ブダペシュトが陥落する最後の日まで,矢十字党民兵はユダヤ人を殺し続けた.
 傀儡政権がふるうことができる権勢と言えば,それくらいしかなかった.

 ドイツ軍は,
武装SS第8師団,
武装SS第22騎兵師団,
第13装甲師団
第21騎兵師団
第271歩兵師団
フェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団
が守備隊の主力だった.
 SS部隊はブダペシュトに早くから配置されていたが,寄せ集めに過ぎなかった.

 本来,包囲される前に脱出すべきであった.
 だが,それを許さなかった者がいた.
 アドルフ・ヒトラーである.
 彼は包囲される前から,ブダペシュト市内の部隊に,現在位置にとどまるよう命令していた.
 そして包囲されてからも,ブダペシュトを要塞都市と宣言し,包囲網からの突破脱出を禁じたのである.
 今やドイツ軍の指揮下にあったハンガリー軍には,他の選択肢などなかった.

 12月29日,ソ連軍第2ウクライナ方面軍司令官マリノフスキーは,ブダペシュト守備隊に降伏勧告するため,将校2名を派遣した.
 ミクローシュ・シュタインメッツ Miklos Steinmetz と,イリヤ・オスタペンコ Ilya Ostapenko は,白旗を掲げ,ドイツ軍陣地に近づいた.
 ドイツ軍は彼らを冷淡に追い払った.
 運の悪いことに,彼らは帰路,乗っていた車が地雷を踏んでしまい,2人とも死亡した.
 ソ連軍はこれを,「ドイツ軍が彼らを射殺した」と喧伝し,憎悪を煽るとともにブダペシュト攻略開始を命令した.

イリヤ・オスタペンコ
(図no.faq211228os1~2,こちらおよびこちらより引用)

 ブダペシュトという街は,ドナウ川を挟んで,西側のブダと東側のペシュトとに分かれる.
 元々は2つの別の街だったものが,1873年に合併してできた.
 ブダは小高い丘が連なるが,ペシュトは平地で建物が密集している.
 ソ連軍の攻勢が,まずペシュトに向かったのも,当然の選択であった.

 ソ連軍によるブダペシュト攻略は,シュミーロフ将軍率いる第7親衛軍と,アフォーニン将軍率いる第18親衛歩兵軍団が,その任に当たった.
 同時に第46軍が,ブダ地区において圧力をかけ続けた.
 ソ連軍はまず,砲兵師団4個の他,多数のロケット砲旅団,迫撃砲旅団をもって,ブダペシュト市内を徹底的に砲撃した.
 沖縄では鉄の暴風雨は海から吹いてきたが,ここでは陸から吹いた.
 天候が許せば,さらに空爆を加えた.

 第7親衛軍の一部が改編され,「ペシュト」戦闘団が編成された.
 彼らは貸与シャーマン戦車を含む装甲車輌に支援され,枢軸軍の防御火点を潰しながら,中央大通りを建物から建物へと前進していった.

 対する枢軸軍は,主として遅滞戦術をとり,じりじりと後退した.
 ブダペシュト東部は,三重の防御線に守られ,それらへの接近路には地雷が埋設されていた.
 同市周辺部の全ての建物,特に街路の角に立っている建物は,トーチカに造り替えられていた.
 通りや広場にはバリケードや防御施設が築かれ,市内いたるところで建物の中にトーチカが設けられていた.

 ブダペシュト攻略戦は,ソ連軍にとっては,スターリングラード以来の苦しい市街戦となった.

 【参考ページ】
リック・スペンス「ブダペスト救出作戦 Bitter End」,『Tactics』1983年12月号(ホビージャパン),p.32-39
コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000)
ジョルジョ・プンカ『ハンガリー空軍のBf109エース』(大日本絵画,2003)
http://www.historynet.com/world-war-ii-siege-of-budapest.htm
http://vorosmeteor.hu/szakirodalom/03/krog.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=a5hicE6tPU0
https://www.youtube.com/watch?v=aMdx74dC7wI

mixi


 【質問】
 「コンラートI」作戦とは?

 【回答】
 ブダペシュトの中で枢軸軍が遅滞戦術をとっている頃,ブダペシュトの外では,ドイツ軍第4SS装甲軍団が,ポーランドから送られ,12月30日までにコマーロムの東,ドナウ川の両岸にに集結した.
 配下の部隊は,第3SS,第5SS装甲師団,第96歩兵師団.
 先に派遣されていた,第3装甲軍団の
第3,第6,第8装甲師団
と合せ,これで6個師団.
 これら兵力をもって,ブダペシュトの包囲を解かせ,守備隊を救出する「コンラート」作戦の始まりである.

 ソ連軍がドナウ川南方と北方からブダペシュトを包囲したように,ドイツ軍にもブダペシュト到達には北ルートと南ルートの選択肢があった.
 ドナウ川南の丘陵沿いに進む北ルートには,険しいゲレクゼズ山脈,荒涼としたブダ丘陵が立ちはだかっている.
 装甲車輌にとっては,南ルート,セーケシュフェヘルヴァールを通って北と東に展開し,ブダペシュトに向かうルートのほうがマシだったが,ドイツ軍はあえて北ルートを選択した.
 燃料と残された時間が少ないため,最短距離を進むことが必要に思われたこと.
 まだ第4SS装甲軍団移送がソ連側に察知されていないため,直ちに進撃すれば奇襲効果が狙えること.
 また,ドナウ川からタタバーニアを守備するソ連軍第31親衛ライフル兵軍団が,消耗しており,ごく少数であったこと.
 これが北ルート選択の理由だった.
 
 12月31日夜半から1月1日早朝にかけ,ドイツ軍第96歩兵師団の兵士たちは,シュトルムボート(突撃艇)に乗ってダニューブ川を渡河.
 エステルゴム西方の数か所に,橋頭保を確保した.
 そして第3,第5SS装甲師団が,ドイツ軍・ハンガリー軍の各種部隊を伴って進撃を開始.
 SS第3装甲師団は左翼に,SS第5装甲師団は右翼についた.
 彼らの第一目標は,タタ~ドナウ間を突破後に合同し,ヴェルテシュ山地の北部に連なる森林を経て,森の東隅にあるビチケ・ザンネックに達する事.
 第二目標はブダペシュトへの進撃だった.

 装甲師団の攻撃は,砲兵の準備砲撃無しで,1月1日18時に開始された.
 産地から伸びる小道は,地雷と対戦車障害物で封鎖されていた.
 にもかかわらず,最初の攻撃目標は,素早く達成された.
 ダニューブ川側面のソ連軍は完全に攪乱され,ソ連軍後方までもが恐慌と混乱を来した.

 実のところ,ソ連軍側では枢軸軍による反撃計画を,ある程度予測できていた.
 第3ウクライナ方面軍の偵察情報から,第4親衛軍は,1/3-1/5にかけて,ドイツ軍戦車部隊の活動が積極化するであろうとは予測できていた.
 しかし,その主要な攻撃方向は,第20狙撃師団が配置されている地域であろうと見誤っていた.
 第4親衛軍には,対戦車駆逐2個旅団と対戦車駆逐2個連隊が増強されたが,防御陣地の縦深は浅く,増援の対戦車連隊の活用も,あまり効果的ではなかった.
 ドイツ軍の主攻撃を受けた第31親衛狙撃軍団の戦区では,対戦車防衛体制は非常に脆弱であり,同戦区の保有する,前線1km当たり平均火砲数は,前線全体の平均火砲数の約半分しかなかった.

 初日の攻撃は完全に成功した.
 しかし攻撃2日目までには,進撃速度は鈍ってきた.
 荒れた地形と,ソ連軍の堅固な防衛線が,その原因.
 それでも3日目までにドイツ軍は,ブダペシュトまでの距離の半分にあたる,25~30マイルまで前進していた.
 ソ連軍歩兵は逃散して,その対戦車拠点は,歩兵の援護がないまま取り残され,3昼夜の戦闘が終わるころには,第31親衛狙撃軍団の砲兵は,人員46~60%,装備70%を喪失.
 包囲された部隊の多くは,損傷していない武器をかき集めて,友軍の陣地に脱出した.

 空では,ソ連空軍第17航空軍(スジェーツ将軍指揮)が,バラトン湖上空での優位を確保しながら,防御線に打ち込まれた敵軍戦車の楔を叩くことに集中した.
 また,ドイツ軍の飛行場にも攻撃をかけた.
 ドイツ軍側は第4航空軍が地上部隊を支援していた.
 1/2だけでドイツ軍機は450回,ソ連軍機は617回の出撃を記録.
 ハンガリー空軍も,第101および第102戦闘航空団が,連日の出撃を行った.
 たとえばハンガリー軍トップ・エースのセントジョルジ・デジェー准尉は,1/4,ピチケ南東でソ連軍のLa-5戦闘機を撃墜.
 第3位のエース,トート・ラヨシュ少尉も,やはり1/4,ピチケ南東でソ連軍のLa-5戦闘機を撃墜している.
 しかし,枢軸軍の2倍の戦力を有するソ連空軍の前には,劣勢を覆すものとはならなかった.

 ドイツ軍のタタ地区侵入により,ブダペシュト突入は現実味を帯びてきた.
 ソ連軍では,それを阻止するための部隊再編が行われた.
 1/5までに,STAVKA(ソ連軍大本営)予備兵力である砲兵31個連隊(うち,対戦車駆逐連隊13個),砲兵大隊,重迫撃砲連隊および親衛迫撃砲連隊,各8個が,ドイツ軍の進撃している地帯に配置された.
 2つめの防衛線には,ルッシヤーノフ将軍麾下の第1親衛機械化軍団の中から無傷の戦車全て,ゴヴォルネンコ将軍麾下の第18戦車軍団,ゴルシコーフ将軍の第5親衛騎兵軍団が移送されてきた.
 その数,火砲・大口径迫撃砲,計1305門.
 戦車と軽自走砲,計210輌.
 その中にはレンド・リースのM4シャーマン戦車も70輌以上あった.
 また,ブダペシュト攻略中のマリノフスキー元帥は,1個ライフル兵軍団を攻略部隊から引き抜き,ブダペシュト西方の防備に回した.
 これらの努力により,1/5夕刻には,ブダペシュトから18kmの街,ビチケにてドイツ軍を食い止めることに辛うじて成功したのである.

 一方,ビチケより北のエステルゴムでは,ドイツ軍第96歩兵師団と第117歩兵師団が,街の占領に成功.
 エステルゴム東方には,一時的にソ連軍が全くいない状況が生じた.
 待望の包囲の開口部!
 だが,このチャンスを枢軸軍はうまく生かすことができなかった.
 ピリピ山脈の急斜面と,機動兵力の欠如とが,ブダペシュトへの進攻を妨げたのである.

 その間,ブダペシュト市内のハンガリー軍は, ドイツ軍に比しても,概ね善戦していたと言える.
 中でも第1空挺大隊(被包囲完成時,空挺連隊の他の部隊は,ブダペシュト周縁にいた)は,エリート部隊の名にふさわしい奮戦を見せ,ソ連軍の攻撃を何度も押し返した.
 憲兵連隊やファシスト大隊も,激しい抵抗を示した.

 コンラート作戦開始は,ブダペシュトの軍民に希望さえ抱かせたりもした.
 しかし現実の状況は,ますます深刻になりつつあった.
 ソ連軍は,包囲陣が攻撃を受けている間も,装甲戦闘車輌や火砲などの支援を受け,3個ライフル兵軍団が市内の掃討作戦を執拗に続けた.
 ブダペシュト市民は武装SSに命じられ,寒空の中,毛皮のコートを着込んで,バリケード作りに借り出された.
 女,子供までもが.
 暫くの間は,市民はそれに従った.
 しかし間近に迫った戦闘や,飢えは,市民に作業を放棄させることになった.
 市民は,トンネルや地下室に逃げ込み,それらは人で鮨詰めになった.
 じめじめとして,悪臭を放つ環境ではあったが,外よりはましだった.
 そうした地下施設のいくつかは,枢軸軍の野戦病院として使われたくらいである.
 レストランのワインセラー.
 フェレンツ・ヨージェフ地下鉄線(1896年開通)
 パーロシュ派教会の地下礼拝堂(1250年創設)
 その他色々の地下室.
 いずれも避難民でいっぱいになった.
 彼らはなるべく空腹を感じずに済むように,ただじっとしていた.

 飢えと渇き.
 それは実際,最も深刻な問題だった.

 渇きに対しては,ドナウ川の水を汲んで飲むことができた
 だが,戦闘真っ最中の都市で,どうそれをやるのか?
 多くの市民が,銃弾の飛び交う中,ドナウ川まで這っていこうとして死亡した.

 飢えに対しては,食料の配給が行われた.
 配給内容は,主に馬肉と薄いスープ.
 騎兵部隊の一部は,ブダペシュトが包囲される前に脱出できたものの,なお2万頭以上の各種動物が市内に取り残されていた.
 肉を削ぎ落とされた後の死骸が,通りに散乱した.
 貧民や難民は,夜になってから,何か食べられるものはないかと,しばしば街を徘徊したが,そんな幸運はそうあるものではなかった.
 飢えと無縁であったのは,ごく一部の裕福層だけであった.
 そのため皮肉にも,そうした裕福層の邸宅の中では,激しい銃撃戦が展開されることとなった.
 そうした邸宅に侵入したソ連兵が,中に遺されていたワインなどを飲み干し,ぐでんぐでんに酔っ払っているところを逆襲するというのが,ドイツ軍の常套戦術となったからである.

 食糧その他の物資の欠乏,特に医薬品の不足から来る病気の蔓延は,ハンガリー軍の士気にも影響した.
 上述したようにハンガリー軍は善戦してはいたが,一方で,脱走兵の数は次第に多くなっていった.
 ことに第10師団からの脱走が多かった.

 この期に及んで,ブダペシュトの兵站を空輸で賄えると信じているのは,殆どヒトラーだけだった.
 それは,ブダペシュト市内のドイツ軍,第9SS山岳軍団長,ペッファー・ヴィルデンブルッフの意見によるものだった.
 ソ連軍によるブダペシュトの包囲が完成した時,彼は,空輸による補給で同市を維持し得ると確信し,そのように意見していた.
 ブダペシュトの守備隊を支えるには,1日80トンの補給が必要とされていたのに.
 その確信の根拠はどこにあるのか,誰もが問いただしたくなるところだろう.
 しかも悪いことに,その直後の12/27には,ブダペストの主要空港はソ連軍に占領されてしまった.

 結局,ヒトラーもそのお追従者達も,スターリングラード包囲戦の教訓を,何一つ学んでいなかったのである.
 そのツケは,スターリングラードの時と同じように,空軍輸送部隊が払わされることになった.
 空港がソ連軍に占領されると,枢軸軍はペシュトにある競馬場を,にわか飛行場に変えた.
 食料・弾薬・ガソリンを搭載したユンカースJu-52S輸送機が,そこに着陸し,代わりに負傷者――ヴィルヘルム・カイテル元帥の息子も,その一人だった――を載せて飛び立った.
 1/9にソ連軍戦車によって,競馬場も制圧されると,枢軸軍は今度は,ペシュトの「王宮の丘」の西の麓にあるヴェールメゼー Vérmező 公園を,臨時の飛行場とした.
 飛行クラブでの飛行経験しかない,ヒトラー・ユーゲントの青年パイロットたちが,夜間,グライダーや軽飛行機を同公園に強行着陸させた.

 さらに,エステルゴムをドイツ軍が一時的に奪還した時には,ドナウ川を利用して,霧と闇に紛れ,輸送用艀(はしけ)での物資輸送を試みた.
 もちろんこちらはすぐに遮断された.
 それに,それらは仮にうまくいったとしても,焼け石に水でしかなかったろう.

 【参考ページ】
リック・スペンス「ブダペスト救出作戦 Bitter End」,『Tactics』1983年12月号(ホビージャパン),p.32-39
コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000)
ジョルジョ・プンカ『ハンガリー空軍のBf109エース』(大日本絵画,2003)
早稲田みか『図説 ブダペスト都市物語』(河出書房新社,2001)
http://www.historynet.com/world-war-ii-siege-of-budapest.htm
http://vorosmeteor.hu/szakirodalom/03/krog.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=a5hicE6tPU0
https://www.youtube.com/watch?v=aMdx74dC7wI

1枚目:Sd.Kfz251とパンター戦車の車列
1945年1月
2枚目:大破したパンター戦車
1945年1月
(図No. faq211230kn,こちらより引用)

3枚目:コンラートI & II作戦状況図解
(図No.faq160530kn. こちらより引用)

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1枚目:上空から見た現代のヴェールメゼー
(図No. faq210507ev4,こちらより引用)

2枚目:ハンガリー・ジャコパン派の処刑
3枚目:公園兼軍事訓練場とされているヴェールメゼー.1909年
4枚目:ブダペシュト陥落直後の様子

グライダーの残骸が放置されている
(図No. faq210507ev1~3,こちらより引用)

2021.5.7


 【質問】
 「コンラートII」作戦とは?

 【回答】
 1月6日までに,第一次コンラート作戦の行き詰まりは明白となった.
 そこでドイツ軍は,攻撃正面を変えることにした.
 1/7朝,戦車110輌から成るドイツ軍先鋒が,ザーモイ Za'moly 突入を試みた.
 ザーモイは,バラトン湖からみて北東,ブダペシュトから見て南東にあって,ソ連軍第20親衛ライフル兵軍団第5親衛空挺師団の担当地域だった.

 一方,この戦区の枢軸軍には,人員・装備の充足率の高かったドイツ軍戦車2個師団,2個重戦車大隊,ハンガリー軍第2戦車師団などがいた.
 第5親衛空挺師団の防御態勢は,砲兵の装備も劣ってはいなかったが,戦闘開始に伴い,ザーモイ~チャークヴァール Csa'kva'r間の道路を封鎖するため,さらに2個砲兵連隊が追加投入された.
 また,第7機械化軍団および第1機械化軍団の一部も,戦闘に差し向けられた.
 この日一日の戦闘で,ドイツ軍の戦車および突撃砲は,38輌が破壊され,夕方には枢軸軍は守勢に回らざるを得なかった.
 ソ連軍のほうは,第20親衛ライフル兵軍団がザーモイを放棄し,セーケシュフェヘールバールの北へ4~5km後退しただけだった.

 一方でソ連軍では6日,第6,第7親衛軍が,手薄となったドナウ川北部のドイツ軍戦線に対し,攻勢に出ていた.
 これはブダペシュトより更に西方,コマルノの街まで脅威を与えるものだった.
 ドイツ軍はこれに対し,第8,第20装甲師団をもって牽制,反撃した.
 第20装甲師団は第4SS装甲師団より遅れて,ポーランドから移送されてきた部隊だった.

 そしてグデーリアンの忠告により,作戦は中止と決まった.
 第二次コンラート作戦は,こうして1日で終わった.

 一方,1/7までに,ペシュト橋頭保は危険な状況となっていた.
 救援部隊であるドイツ第6軍司令官ヘルマン・バルクは,脱出命令が24時間以内に下されなければ,全ては失われるだろうと具申した.
 しかしヒトラーはそれに反対した.
 ここでも彼は頑迷であった.
 第6軍に対し,何があってもブダペシュトまで前進・突破せよと命じた.

 仕方なく南方軍集団司令官,オットー・ヴェーラーは,望みのない博打に出た.
 自動車化歩兵2個中隊とパンサー戦車5台から成るカンプグルッペを編成し,ピリ山脈を抜けてブダペシュトに向かわせることにした.
 本格的な包囲突破は無理でも,ソ連軍に混乱を起こさせるだろう.
 うまくいけば,一時的な回廊がブダペシュトまで開かれ,補給物資を市内に送れるかもしれない…

 しかし案の定というべきか,目論見は成功しなかった.
 カンプグルッペはブダペシュトまであと数マイルの,セント・エンドレ外郭まで進んだものの,そこで退却を余儀なくされた.
 貴重な戦車と兵員と燃料の無駄使いにしかならなかった.

 小手先の奇策は通じない.
 本格的な解囲作戦が,やはり必要だった.
 それは…準備されていた.

 【参考ページ】
リック・スペンス「ブダペスト救出作戦 Bitter End」,『Tactics』1983年12月号(ホビージャパン),p.32-39
コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000)
ジョルジョ・プンカ『ハンガリー空軍のBf109エース』(大日本絵画,2003)
http://www.historynet.com/world-war-ii-siege-of-budapest.htm
http://vorosmeteor.hu/szakirodalom/03/krog.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=a5hicE6tPU0
https://www.youtube.com/watch?v=aMdx74dC7wI

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作戦状況図解
こちらより引用)


 【質問】
 「コンラート III」作戦とは?

 【回答】
 1945/1/9,ドイツ軍では新しい攻勢が決定された.
 第4 SS装甲軍団その他を,南方へ移動させ,再び包囲の突破を試みようとする決定.
 セーケシュフェヘルヴァアール西方が新しい攻勢の場所だった.
 10日~17日の間に,第3,第5 SS装甲師団は,密かに北の突出部から抜け出し,第6装甲師団などを伴い,新しい攻勢地点へ移動.
 彼らと対峙することになった,ソ連軍第4親衛軍は,これまでの戦闘において大きな損害を出しており,対戦車砲と戦車の予備が貧弱だった.
 18日朝,ソ連軍第135ライフル兵軍団は,彼らの攻勢にさらされ,その日の午後までにはドイツ軍先鋒は,40マイル以上前進して,ドナウ川流域のドナペンティエレに到達.
 ソ連軍の抵抗は頑強で,ドイツ軍が突破に成功したのは夕刻になってからだった.
 その日の終わりまでに,ソ連第135ライフル兵軍団の歩兵は,砲兵などを犠牲にしつつ,シャールヴィーズ Sa'rvi'z 運河の奥まで撤退した.

 その日は悪天候だったにもかかわらず,ソ連空軍第17航空軍は,地上支援に出動した.
 枢軸軍部隊の隊列や,装備弾薬集積所を襲撃し,友軍の行動を援護.
 第17航空軍は,のべ718回の出撃を行い,敵の地上部隊や飛行場に打撃を与え,敵機50機を撃墜した.

 1/19,ドイツ軍はショポニャ Soponyaにおいて,シャールヴィーズ運河の渡河に成功した.
 第3ウクライナ方面軍司令部は,ショポニャの東,アバ Aba方面を防衛するため,待機していた第133ライフル兵軍団に2個対戦車駆逐連隊を加え,さらに,同じく待機中の第18戦車軍団に,Su-76自走砲連隊を加えて,出動させた.
 しかしこれらの部隊は,このような組み合わせで訓練されたことはなく,指揮があまり賢明ではなく,その日の終わりには包囲され,一方のドイツ軍はドナウ川に進出した.
 これら部隊は21日,南方を攻撃することによって,包囲を突破し,第57軍の陣地に脱出することができたが,牽引できない火砲を置き去りにせざるを得ず,また,第18戦車軍団は,戦車の半数を失った.

 ドイツ軍がドナウ川に到達したことにより,セーケシュフェヘールバールのソ連軍は,包囲される危険性が高まった.
 前線の北側から少しずつ南側に移動することもまた,不可能だった.
 SS第4装甲軍団長,ヘルベルト・オットー・ギレはまた,北方でも圧力をかけ続けていたからだった.
 エステルゴム南方から,Pilis山脈の狭い道路沿いに,ブダペシュトに向かって進んだ.
 12日には,北欧の志願兵から成るSSヴェスターラント連隊は,ブダから僅か14マイル北にある,Pilisszentkeresztに達した.
 あったことか,なかったことか(Hol volt, hol nem volt),その兵士達には朝の霧の中,ドボゴーケー Dobogókő近くの高地から,二つの鵞鳥の足に支えられた,ブダペシュトの教会の尖塔が見えたという伝説まであった.

 だが,消耗し過ぎたドイツ軍の兵力では,この小さな突破口を生かすことはできなかった.
 彼らは最終的に撤退・再編成を命じられた.

 また,このころカルパチア山脈の北方で,ソ連軍はポーランド方面に対する攻勢に出ていた.
 結果的には,これがブダペシュト方面でも効いた.
 上述の,コルマノ方面を支えていたドイツ軍第8,第20装甲師団は,ポーランド方面への救援に赴くべく,この方面から引き抜かれてしまったからだ.
 残るは消耗した一個歩兵師団のみ.
 一方,ソ連軍のほうも同方面では大損害を受け,消耗していたため,こちらも攻勢を再開することはできなかった.

 その上,ドナウ川では流氷が始まり,全ての橋は壊れ,渡し舟による渡河も不可能となり,よってソ連軍の食料・弾薬補給を困難になった.
 ソ連軍工兵隊はロープウェイを建設し,補給はそれ頼りになった.
 もっとも,流氷は悪いことばかりではなかった.
 ドイツ軍がドナウ川を渡河する上でも,流氷は障害になったからである.

 ソ連軍のマリノフスキイ元帥は,STAVKA(ソ連軍大本営)に増援を求め,また,ブダペシュト攻撃部隊から一部を転ずる許可を得ようとした.
 ブダペシュト攻略の遅さに苛立つスターリンは,それに先立つ11日,元帥に対し,ブダペシュト攻撃強化のための部隊再編を命じていたからである.
 やはりと言うべきか,転出要請は却下された.
 だが,南方へのドイツ軍の進撃を阻止すべく,ソ連第57軍の部隊は再編成され,北へ向けて展開された.
 また,第3ウクライナ方面軍の最後の予備兵力,第5親衛騎兵軍団と,第1親衛機械化軍団の一部が,急ぎヴェレンツェ湖とドナウ川の間に展開した.
 第2,第3ウクライナ方面軍の各戦区からかき集められた,砲兵連隊および迫撃砲連隊,計13個相当も,同地へ派遣されることになった.

 20日には,第3 SS装甲師団の先遣隊は,ソ連軍の後方70マイルまで突進し,ドゥナペンテレ Dunapentele (現在の ドゥナウーイヴァーロシュ Dunaujvaro)の街に達した.
 この町は,ドナウ川右岸,ブダペシュトの南にあって,ブダペシュトまでは,あと67km(41マイル)

 21日の日の終わりまでに,ヴェレンツェ湖~ドナウ川間のドイツ軍の進撃速度は,かなり低下してきた.
 第5親衛騎兵軍団と砲兵隊の巧妙な防御戦闘の結果だった.
 しかし第1親衛機械化軍団の支隊のほうは,ほぼ弾薬も尽きかけ,Su-100自走砲連隊の敢闘が無ければ壊滅するところだった.

 戦況悪化に伴い,STAVKAは21日付で,第2,第3ウクライナ方面軍間の行動調整を,ティモシェンコ元帥に委ねた.
(これにあたり,同元帥は第4ウクライナ方面軍式の任務を解かれた)
 ティモシェンコ元帥の調整により,第2ウクライナ方面軍第5空軍(ゴリューノフ将軍指揮)の一部は,第3ウクライナ方面軍所属部隊の支援に回された.
 第17航空軍と第5航空軍は共同で,1034回の出撃を行った.

 ハンガリー空軍のほうでは,20日に第101戦闘航空群が増派され,ドナウ川周辺で戦闘が繰り返された.

 22日深夜午前,ドイツ軍はブダペシュト近郊を抑える目的で,同都市に収斂する諸方向を攻撃した.
 ドイツ軍の主要な進撃路の先にはセーケシュフェヘールバールがあった.
 ここにはソ連軍が北西方面に,堅固な対戦車陣を敷いていた.
 そこでドイツ軍は,南東方向からセーケシュフェヘールバールを攻撃.
 ソ連軍の歩兵部隊は駆逐され,ドイツ軍は同市に突入することに成功した.
 同市北部に配置されていたソ連軍の全部隊が,包囲される危険性が出てきたため,ソ連第3ウクライナ方面軍司令部は,部隊を同市からチャラ地区へ引き上げるよう命令.
 22日中に,ソ連軍は同市を放棄し,ザーモイ~チャラ~ヴェレンツェ Velence 湖陣地線まで後退した.
 セーケシュフェヘールヴァールからブダペシュトまでは,あと60km!

 23日,ソ連空軍の活動が活発化したにもかかわらず,ザーモイ~チャラ~ヴェレンツェ Velence 湖陣地線を,枢軸軍は攻撃.
 そしてヴェレンツェ湖~ドナウ川間を,北に向けて進撃を開始した.
 このドイツ軍部隊は,二日にわたってバラチカ Baracska方面に3~4km前進することができたが,そこで食い止められた.
 燃料不足,後方で包囲したソ連軍の掃討,広大でむき出しの南側面の保護などが,ドイツ軍の足を引っ張っていた. 

 24日,SS第4装甲軍団は,ヴェリ川渡河に努力した.
 ドイツ軍はブダ南郊13~14マイル以内まで接近し,ソ連軍防衛線は浮足立ったが,辛うじて持ちこたえた.

 25日,ドイツ軍はザーモイからミクローシュにかけて攻撃を行った.
 ソ連軍司令部が,主要な攻撃方面から自軍の兵力の一部を割かざるを得ないようにすることが目的だった.
 ザーモイ周辺でドイツ軍戦車と,ソ連軍対戦車砲兵との戦闘が展開されたが,ドイツ軍は撃退された.

 26日,カーポルナーシュ Kapolnasバラチカ Baracska 間の突破をドイツ軍は試みる.
 ここをソ連軍が抜かれれば,ドイツ軍はドナウ川に集結していたソ連軍予備兵力を迂回し,ブダペシュトへのルートを開くことが可能となる.
 ソ連第3ウクライナ方面軍司令部は,ヴァール Va'lヴェールテシャチャ Vertesacsa 方面へ,第104歩兵軍団,第23戦車軍団その他を移動させた.
 この部隊配置の意図は,「進撃してくるドイツ軍の縦隊に不意打ちを食らわせてやれ」
 策は成功して,ドイツ軍部隊は大損害を出し,足止めを食らった.

 27日,ドイツ軍の先方はブダペシュトまで26~29kmに迫り,最後の追い込みをかけるため,部隊の再編成を行った.
 そのとき,ソ連軍第3ウクライナ方面軍の予備兵力から回された新しい部隊が,ドゥナペンテレ Dunapenteleとナジから,南方向へ進撃を開始した.
 この攻撃により,ブダペシュトへと向かっていたドイツ軍部隊の連絡が遮断.
 ドイツ軍は進撃を停止して,改めて部隊再編し,進路を南に転換することを余儀なくされる.

 だが,ブダペシュト方面に集結していたソ連軍予備もまた,攻撃に転じ,枢軸軍の側面支援部隊を突破して,進撃中のドイツ軍縦隊を襲撃.
 枢軸軍は常に反撃を繰り返しつつ,徐々に後退することとなった.
 そしてその三日後には,ヴェレンツェ湖~バラトン湖を結ぶ線までの後退を余儀なくされた.
 ヴェーラーは,ブダペシュトへの突破は不可能と判断.
 第三次作戦も,ここに頓挫したのである.

 【参考ページ】
リック・スペンス「ブダペスト救出作戦 Bitter End」,『Tactics』1983年12月号(ホビージャパン),p.32-39
コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000)
ジョルジョ・プンカ『ハンガリー空軍のBf109エース』(大日本絵画,2003)
ジュラ・オルトゥタイ編『ハンガリー民話集』(岩波文庫,1996)
http://www.historynet.com/world-war-ii-siege-of-budapest.htm
http://vorosmeteor.hu/szakirodalom/03/krog.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=a5hicE6tPU0
https://www.youtube.com/watch?v=aMdx74dC7wI

mixi

作戦状況図解
こちらより引用)


 【質問】
 ペシュト地区はどのようにして陥落したの?

 【回答】
 1/11,ブダペシュトがなかなか陥落しないことに業を煮やしたスターリンは,ブダペシュト攻撃強化のための部隊再編を命じた.
 編成されたのは,イワン・アフォーニン Ivan Mikhailovich Afonyin 少将指揮する特別戦闘団.
 火炎放射器,重火器を装備し,工兵に支援されていた.
 さらに122mm砲,152mm砲,203mm砲の火砲が直接支援.
 400~800ヤードの幅の攻撃担当域を,ライフル兵師団が受け持たされた.
 1個連隊あたり150~300ヤード.
 一人1ヤードというところもあった.

 ソ連軍は狙撃兵を多用し,その中にはシベリア生まれの正確無比な狙撃手もいた.
 聖ヤーノシュ病院 Szent Ja'nos Ko'rha'z の屋上からの狙撃は,そこから東に行ったところにあるヴァーロシュマヨル Va'rosmajor 公園(現在,ヴァーロシュマヨリ・ギムナジウムの建っている場所)に配置されていた枢軸軍兵士達を悩ませた.

 また,下水道からの侵入も試みた.
 枢軸軍の防衛ラインの背後に浸透し,将校を殺害するのが,その目的.
 例えばソ連海軍歩兵6名から成る班は,狭い下水道の中を這っていき,ドイツ軍防衛線よりもかなり背後,ブダの王宮近くまで浸透することができた.
 彼らは辛抱強く隠れて敵兵をやり過ごすこと数時間.
 2名のドイツ軍将校を発見して,このうち1名を殺害,再び下水道を通って帰還したのである.

 しかし,ソ連兵が入ってこれるという事は,枢軸兵も出ていけるという事でもある.
 ハンガリー軍民兵,Vannay大隊は,地元の労働者から構成されており,ブダペシュトの地下について,ソ連軍よりもよく知っていた.
 ブダペシュトの地下鉄は,包囲下において早いうちに封鎖されたが,それ以外にも同市には,数え切れないほどの下水道本管,メンテナンス・トンネル,地下通路があった.
 彼らは主に,ソ連軍に協力的な市民の狩り出しのためにそれを用いた.

 さらに,宣伝戦も行われた.
 ソ連軍はスピーカーと,空から投下される伝単を通じ,敵の士気を挫こうとした.
 ドイツ軍はあまりこれに動じることはなかったが,ハンガリー軍は動員されたばかりの新兵が多かったため,脱走が頻発した.

 1/12,ヴァーロシュ・リゲット Varosliget (市公園)とミレニアム広場が,激戦の末にソ連軍の手に落ちた.
 そこは枢軸軍にとって,ペシュト北西に残っていた最後のオープン・スペースだった.

 公園奪取後,ソ連軍の進撃速度は,大使館や邸宅の多い,幅の広いアンドラーシ大通りに沿って早められた.

 1/14には,鉄道の「東駅」を巡り,ハンガリー軍と,連合国側に寝返っていたルーマニア軍の第7ライフル兵軍団との間で,死闘が繰り広げられた.
 戦闘は16日まで続き,瓦礫と化した駅舎から,防衛側は環状道路のエルジュベート通りまで撤退した.


 似たような戦闘展開は,「西駅」のほうでも発生した.

 1/17,ヴィルデンブルッフはヒトラーに対し,ペシュト放棄の許可を得ることができた.
 ペシュトを放棄して,ブダ側まで撤退し,ブダ側の防衛線を強化するのである.
 ブダとペシュトとを結ぶ橋には,撤退する枢軸軍部隊の他,避難しようとする難民とで大混雑となった.
 橋に対するソ連軍の砲撃は不活発だったが,ソ連空軍のシュトルモビーク襲撃機が,川に沿って低空飛行しながら攻撃を加え,ドイツ軍の対空砲火がそれに反撃した.

 1/18,移動可能な枢軸軍全軍が渡り切ると,残っていた橋は全て爆破された.
 自由橋,マルギット橋,ベテーフィ橋,エルジェーベト橋,鎖橋は,いずれも歴史ある橋である.
 たとえば鎖橋 Lanchid.
 この橋は1849年11月に完成した,ペシュトとブダとを結ぶ最初の恒久橋だった.
 橋を建設したのは,「最も偉大なハンガリー人」と呼ばれる大貴族,セーチェーニ・イシュトバーン.
 だが彼自身がこの橋を渡ることはなかった.
 完成した鎖橋を最初に渡ったのは,ハイナウ将軍率いるハプスブルク帝国軍.
 独立戦争に敗れたハンガリーの指導者を処刑するためだった.
 セーチェーニは1848年革命の際,一時的に樹立されたバッチャーニ・ラヨシュ率いる革命政府に入閣したが,革命側が劣勢になると発狂し,辞職して入院していた.
 彼は処刑はされなかったが,1860年,ピストル自殺した.
 その鎖橋も爆破.
 橋桁を落とされ,鎖は主塔から垂れ下がった.
 鎖橋のたもとには,箱座りするライオン像があった.
 彫工マルシャコー・ヤーノシュが,文字通り命を懸けたライオン像だった.
 1849年に橋が落成すると,ペシュト・ブダの住民たちは,ライオンに舌がないことを盛んに揶揄.
 マルシャコーはドナウ川に投身自殺したという.
 橋の爆破により,そのライオン像も瓦礫の一部と化した.

 ペシュト地区の攻防戦を通じ,枢軸軍将兵3万6千人以上が戦死,6万3千人が降伏していた.

爆破後の鎖橋
こちらより引用)

 【参考ページ】
リック・スペンス「ブダペスト救出作戦 Bitter End」,『Tactics』1983年12月号(ホビージャパン),p.32-39
コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000)
ジョルジョ・プンカ『ハンガリー空軍のBf109エース』(大日本絵画,2003)
早稲田みか『図説 ブダペスト都市物語』(河出書房新社,2001)
http://www.historynet.com/world-war-ii-siege-of-budapest.htm
http://vorosmeteor.hu/szakirodalom/03/krog.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=a5hicE6tPU0
https://www.youtube.com/watch?v=aMdx74dC7wI

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 【質問】
 ブダ地区攻略はどのようにして行われたの?

 【回答】
 1/20,ソ連軍はブダ地区攻略を開始した.
 2個ライフル兵軍団が,ブダ南部,ケレンフォルド Kelenfold 地区と,西に面した丘・渓谷・鞍状地を守るドイツ軍防衛ラインに対して圧力をかけた.
 しかし攻撃に次ぐ攻撃は,カンプグルッペ「ポルトガル Portugall」によって打ち負かされた.
 この部隊は,ブダ全体を見下ろすことのできるゲッレールトの丘に布陣しており,88mm砲を装備していたとする情報もある.
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=38&t=131933&start=0

 また,ブダの西北西3kmのところにあるファルカシュレーティ墓地 Farkasréti temetőでは,ソ連兵とドイツ兵とが,墓石や墓穴を掩体代わりにして戦いを繰り広げた.
 この墓地は1984年,日本ではちょうど日清戦争の年に開園したもので,数多くの著名人が眠っている.
 1945年9月26日に死去した作曲家バルトークも,ここに埋葬されている.
 ただ,バルトークにとっては幸いなことに,彼の遺体がアメリカから祖国に移葬されたのは,彼の希望により,共産党の一党独裁が終わった1988年7月7日になってからだったが.

 ブダ地区には608の街区があったが,最初の11日間ではソ連軍は,114街区奪取したにとどまった.
 ドナウ川の中州であるマルギット島は,ほぼ1月いっぱいまでは枢軸軍側が保持していた.
 マルギット橋の半分は,無傷でこの島とブダとを結んでおり,ドイツ空軍が補給物資を空中投下する地点,また,ヴェールメゼー Vérmező にあった即席滑走路に着陸しようとする航空機のための最終的なアプローチ地点として重要だった.
 ようやく2/11日までにソ連軍は,さらに109街区を占拠し,2万6千名を捕虜とした.

 すなわちソ連軍は,犠牲者を重ねながら,ファルカシュレーティ Farkasréti 墓地やシュワビアン Schwabian の丘への攻撃を強化.
 堅固だった墓地の防衛は,支援能力や反撃するだけの力がなく,最終的には陥落,仕方なく防衛線はゲッレールトの丘~王宮の丘間まで後退し,枢軸軍は旧タバーンTabán地区を保持しようと試みた.
 2/6,ソ連軍は三方向から攻撃し,6週間にわたって攻撃を続けてきたシャシュヘジ(Sas-hegy "鷹の丘")
http://en.wikipedia.org/wiki/Sashegy
を占拠.
 ブダの防衛にとって,戦術的にはこの丘の失陥は致命的だった.
 シャシュヘジの頂上から,ソ連軍砲兵の観測班は,王宮の丘とゲッレールトの丘の防衛拠点の正確な位置を掴み,そこに砲弾を降らせることができるようになった.
 対抗するドイツ軍側の砲火は僅かであり,ソ連軍の砲撃の嵐に抗することはできなかった.
 ヴェールメゼー滑走路は維持できなくなった.

 一日の配給量は低下し,パン150gと馬肉だけとなった.
 守備隊の殆どが下痢に苦しみ,シラミが蔓延した.
 ブダの市民は戦闘の巻き添えを食わぬよう,地下墓地や「王宮の丘」の地下トンネルとにひしめくことになった.
 地下病院ではチフスに罹患する危険性があった.

 話はいささか都市伝説めくのだが,そんな戦火の中,一人の貴婦人が,戦闘などないかのように,毎日犬を連れて散歩することを続けていたという.
 それは果たして意地であったのか,それとも現実を直視できなくなっていたのか…
 いずれにしろ,彼女がその後どうなったのか,筆者は寡聞にして知らない.

 ブダへの救援の期待が持てなくなり,ブダの更なる防衛は無意味になったにもかかわらず,ドイツ人とハンガリー人は,さらに6日間も降伏を拒否した.
 Vannay大隊,および矢十字党兵士の一部は,セール・カールマーン Széll Kálmán 広場の北西の角にある,大きな城のようなブダ郵便局の上層階から反撃し,ソ連軍部隊を押し返した.
 そして反撃部隊は低層階を奪回し,それによって北西への脱出の鍵となる重要なルートを開くことになった.
 ゲレールト・ホテルの南では,疲弊しきった守備側が,ソ連軍歩兵と戦車部隊に徹底抗戦した.
 このソ連軍部隊は,ギレ率いるドイツ軍の救援部隊がそれを断念したことで,救援部隊阻止の任務からブダ包囲に転用されたものだった.
 2日間の激しい戦闘が,王宮の前面にある最後の重要な建物である「南駅」を中心に展開された.
 それが最終的に陥落したとき,ソ連軍はゲッレールトの丘の南部と西部から攻め上がった.
 2月10日,ソ連海軍歩兵第83旅団は,日本人とスイス人の別荘のある地区の山頂付近に足掛かりを築くため,高地を襲撃し,占領した.

 同時に,戦闘は別荘から別荘へと展開し,さらにTaban地区の正教会へも侵入した.
 防御側の守備を分散させることが狙いだった.

ブダ郵便局
(wikipediaより)

ソ連の海軍歩兵と白兵戦にもつれ込んだハンガリー兵(再現場面)
こちら

 【参考ページ】
リック・スペンス「ブダペスト救出作戦 Bitter End」,『Tactics』1983年12月号(ホビージャパン),p.32-39
コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000)
ジョルジョ・プンカ『ハンガリー空軍のBf109エース』(大日本絵画,2003)
早稲田みか『図説 ブダペスト都市物語』(河出書房新社,2001)
http://www.historynet.com/world-war-ii-siege-of-budapest.htm
http://vorosmeteor.hu/szakirodalom/03/krog.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=a5hicE6tPU0
https://www.youtube.com/watch?v=aMdx74dC7wI

mixi


 【質問 kérdés】
 ブダペシュト攻防戦に参加したイタリア製戦闘車輌について教えてください.

 【回答 válasz】
 別項で述べたCV35以外では,

・M13/40
(1枚目:図表番号faq170509m13)
 これはドイツのSS第12警察装甲中隊が有していたもので,ブダペシュト占領後,集積されたスクラップ置き場の片隅に,それらしい姿があるのが写真に見える.
 写真の元の出典はコロミーエツ『写真集 バラトン湖の戦い』だろう.
 ただしgoogle検索した範囲では,掲示板にしか情報がなく,この話の真偽は不明.
 もし本当だとするなら,想像するにイタリア降伏後にドイツ軍が鹵獲したものだろう.

・M15/42

▼ 1~3枚目(図表番号faq190706m15a~c)は,戦闘後,戦場に遺棄されていたM15/42.
 1945年2月撮影.
 引用元は
https://t.co/gUn0U0b5Hj

 これはドイツのSS第22義勇騎兵師団が有していたもの.
 同師団はハンガリー人を主として編成されたものだが,包囲されたブダペシュトの中に閉じ込められ,壊滅している.

 これらはドイツ軍第12「増強」警察装甲中隊が有していたもの.
 中隊本部に1両,第1小隊に4両のM15/42があった.

 このM15も,想像するにイタリア降伏後にドイツ軍が鹵獲したものだろう.
 第12「増強」警察装甲中隊については,詳しくは以下に.
http://www.eonet.ne.jp/~noricks/Pol/PolpzKp1942-45/12verPolPzKp.html
 4枚目はその編制(図表番号faq190706m15d)
 まあ,書類上の編制ではあるが.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/522027/en/ ※ faq170509m13 引用元
http://www.network54.com/Forum/47207/thread/1009761801/M13-40%27s+in+Budapest,+January+1945-
http://beutepanzer.ru/Beutepanzer/italy/Color/M13-15/m13-15_01.htm ※ faq170509m15 & 15b 引用元
https://live.warthunder.com/post/594714/en/  ※ faq190706m15 引用元
https://live.warthunder.com/post/619035/en/  ※ faq190706m15b 引用元

mixi, 2017.5.10
2019.7.6追記
2019.8.30訂正

▼ 第12「増強」警察装甲中隊は44年9月にイタリアでM15を5,M42突撃砲を9輌をもって再編された後,ブダペシュトには10月末に輸送されました.
 一方の第22SS義勇騎兵師団の装甲車両は戦車猟兵大隊のヘッツアーと突撃砲大隊のⅢ号突撃砲が主だったようです.▲

マーノシュ in twitter, 2019.8.30

▼ M15/42は残骸ばかりですが,ブダペシュトの戦いでハンガリー兵と写る同車が残ってます.
https://t.co/gUn0U0b5Hj

マーノシュ in twitter, 2019.8.30

ブダペストのM15
http://cdn-live.warthunder.com/uploads/7b/3c/15/9602c9e5822587bf2f8055db7db4f269f0_lq/17884622_666783703510513_72584172744275575_n.jpg
http://cdn-live.warthunder.com/uploads/33/977d6e887212319839d0a3eac3166eb5e2323f_lq/rrKerEG.jpg

ギシュクラ in mixi,2017年05月10日


 【質問】
 ブダからの脱出の試みについて教えてください.

 【回答】
 救援作戦が失敗に終わったため,ブダに立て籠もる枢軸軍は,自ら包囲を突破することを決意した.
 ヒトラーも13日になって,ようやく脱出を許可したが,脱出作戦はその前に始まっていた.
 12日深夜,ブダ地区に残っていた兵員2万6千名のうち,1万2千~1万4千名が,前線のある狭い戦区に集結.

 脱出部隊は3波に分かれた.
 ロシア語を話す兵士を,霧に紛れて浸透させた.
 そして,ブダペシュト包囲の内側の輪を突破し,北西ないし西方に向かって脱出を試みた.

 だが,それがうまくいくかと思われたとき,脱出部隊はソ連軍砲兵の砲火を浴び,戦車からの攻撃に晒された.
 それはソ連軍の第3ウクライナ方面軍の予備兵力だった.
 この部隊はブダペシュトの前線に展開されており,装備の修理・交換,弾薬の補充も完了済みだった.

 脱出部隊の装甲車輌は,公園や大通りに出たところで殆どが破壊された.
 枢軸軍の兵士たちは恐慌を来しながら,ソ連軍陣地に突進.
 数の力で暫しの間,ソ連軍の陣地を圧倒した.

 銃撃による夥しい死者を残して,生き残った枢軸軍兵士たちは,ブダの北西部郊外の丘陵地へ逃げ込んだ.
 緑豊かなその地域は,脱出者の身を隠すことができた.
 そのうち何百人かは,ブダの納骨堂から脱出路を見つけることができた.
 他の大部分の者たちは,行く当てもなく右往左往し,掃討された.
 ソ連軍兵士はトラックで,ブダを捜索した.
 防衛側司令官,プフェッフェル=ヴィルデンブルフSS将軍は,司令部ともどもソ連軍に降伏した.
 
 枢軸軍の脱出部隊は,完全に殲滅され,ドイツ軍陣地に到達することができたのは,装備も重火器も全く持たない785名のみだった.

 【参考ページ】
リック・スペンス「ブダペスト救出作戦 Bitter End」,『Tactics』1983年12月号(ホビージャパン),p.32-39
コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000)
ジョルジョ・プンカ『ハンガリー空軍のBf109エース』(大日本絵画,2003)
http://www.historynet.com/world-war-ii-siege-of-budapest.htm
http://vorosmeteor.hu/szakirodalom/03/krog.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=a5hicE6tPU0
https://www.youtube.com/watch?v=aMdx74dC7wI

2016.5.30


 【質問 kérdés】
 1945年2月の「ズュートヴィント(春風作戦)」とは?
Mi az művelet "tavaszi szellő" 1945-os februárban?

 【回答 válasz】
 1945年2月17日,ドナウ川左岸においてソ連軍に対して行われた,ドイツSS第6装甲軍第1装甲軍団による反撃作戦.
 ブダペシュトを陥落させた後のソ連軍は,
・ドイツ第8軍の衛ドナウ川左岸に沿ってコマルノ方面へ
・「コンラートIII作戦」の結果,バラトン湖の北にできた,ドイツ軍突出部へ
・バラトン湖南のドイツ第2装甲軍へ
の3方面で攻勢をかけていたが,コマルノ方面のソ連軍第2ウクライナ方面軍の突出部へ,ドイツ軍は攻撃をかけた.

 主攻を担当したのはLAHとHJの両師団.
 ともにアルデンヌからの撤退後,兵員・装備の補充を受け,当時,人員定数の90%(19,000名),装甲車輌定数の50%(90輌)まで回復していた.
 ただし砲兵火力は貧弱で,例えばHJには自走砲は2両しかなく,砲牽引車も不足していた.

 しかし,不意を突かれたソ連軍は,大損害を出して橋頭保を放棄し,グラン川東岸まで退却.
 24日までの戦闘でドイツ軍の目的は達成された.
 ドイツ第8軍の戦線を直線化することができ,ソ連軍の攻勢も鈍化した.
 しかし一方,この戦区においてドイツ軍が予定していた「春の目覚め」作戦の企図を,ソ連軍に対して早々に露呈する結果も招いた.

 【参考ページ】
コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000),p.42
和久尊「SS装甲軍最期の戦い」,月刊『TACTICS』vol.61, p.47-48
『武装SS全史II』(学研,2002), p.62
http://histomil.com/viewtopic.php?t=21053
http://www.sturovo.com/drupal/385/boje-o-hronske-predmostie-operacia-sudwind

https://www.youtube.com/watch?v=4nwPKdnGgjk

mixi, 2017.3.14


 【質問】
 バラトン湖の戦いについて3行で教えてください.

 【回答】
 1945.3.6からハンガリー西部,バラトン Balaton 湖周辺で開始されたドイツ軍の攻勢(春の目覚め作戦 Operation Frühlingserwachen )と,それに対応したソ連軍との戦い.
 ソ連軍によるブダペシュト占領後,ハンガリー戦線での主導権回復,油田の確保とブダペシュト奪還をヒトラーが企図したもので,
SS第6装甲軍
・第1SS装甲軍団
・第2SS装甲軍団
・第1SS騎兵軍団

第6軍の第3装甲軍団
をもって進撃を開始したが,泥濘化した地面とソ連軍の抵抗により,3.15には進撃は完全停止.
 翌16日からソ連軍は反攻作戦に出て,ドイツ軍はバラトン湖から撤退,オーストリアに向けて敗走し,作戦は完全に失敗に終わった.

 詳しくは,
M. コロミーエツ他『バラトン湖の戦い』(大日本絵画,2000年)
を参照されたし.

【ぐんじさんぎょう】,2016/06/04 20:00
を加筆改修


 【質問】
 「春の目覚め」作戦は,何故始められたのか?

 【回答】
 ヒトラーの強い意思による.
▼ 彼は1月の間,ブダペシュトを奪回し,ソ連軍を分断してドナウ川のかなたに駆逐.
 ナジカニジャ油田を確保し,東部戦線の南翼全部を断ち切るという壮大な計画に拘っていた.▲

 ヒトラーは,ポーランド方面のソ連軍の圧倒的な侵攻を阻止するより,ハンガリー戦線でマリノフスキイ軍を阻止するほうが容易だと考えたのだろうと,ロナルド・W・ツヴァイグは推測している.
 作戦が一瞬であれ成功すれば,ドイツ国民に最後の頑張りを要求できただろう.

 また,ドイツが起死回生を図るなら,ハンガリーの石油とアルミニウムを防衛しなければならない,ともヒトラーは考えたのだろうと,ツヴァイグは述べている.
 特に石油は,1944年8月にルーマニアのプロエシュティ油田を失って以降,毎月7万トンを生産していた,ハンガリーのナジカニジャ油田と,オーストリアのチスタースドルフ油田が頼りだった.

▼ グーデリアンは,第6装甲軍はオーデル川の戦線に配備し,ベルリン防衛に使用すべきだと提案したが,ヒトラーはこの部隊をハンガリー方面へ移動させる命令を出した.▲

 【参考ページ Referencia Oldal】
和久尊「SS装甲軍最期の戦い」,月刊『TACTICS』vol.61, p.47-48
ロナルド・W・ツヴァイグ『ホロコーストと国家の略奪 ブダペスト発「黄金列車」のゆくえ』昭和堂,2008.10.30),p.90-91

2017.3.24追記 utóirat


 【質問 kérdés】
 なぜ「春の目覚め」作戦は失敗したの?
Miért "Tavaszi ébredés" stratégia meghibásodott?

 【回答 válasz】
1) ソ連軍に察知され,対戦車縦深陣地を築いて待ち構える余裕を与えたこと.
2) ドイツ軍第6装甲軍は再編成途中であり,数的劣勢のまま強行されたこと.
3) 燃料不足が深刻だったこと.
4) 春の雪解けによる泥濘の影響で進撃がままならなかったこと
が失敗理由とされている.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://houzankai.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-080b.html
http://hannkotu.blog.shinobi.jp/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%8F%B2%E3%80%80%E5%85%B6%E3%81%AE%E4%B8%80/%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%A6%E9%AB%98%E5%9C%B0%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%94%EF%BC%95%E3%80%80%E5%89%8D%E7%B7%A8
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU/belrin8.htm

https://www.youtube.com/watch?v=XNIZoFHWn-8

mixi, 2017.3.24


 【質問 kérdés】
 ワルシャワ蜂起って何?
 3行以上で教えて!
Mi az Varsói felkelés?
Kérem, mondja meg harom vagy több sorokban!

 【回答 válasz】
 ワルシャワ蜂起は1944年8月1日,ナチス・ドイツが占領していたポーランドの首都における全体的な蜂起であり,ドイツの占領軍に対し,「ポーランド国内軍 Armia Krajowa(Honi Army)」が戦闘指揮した.
A varsói felkelés a náci Németország által megszállt lengyel fővárosban 1944. augusztus 1-jén kitört általános felkelés volt, melyet az Armia Krajowa (Honi Hadsereg) irányított a német megszálló csapatok ellen.

 ソ連軍が接近し,解放地域に親ソ政権が樹立されたことを焦慮したロンドン亡命政府は,内外における権威を回復しようとして国内軍司令官 T.ブル=コモロフスキに蜂起を指令した.
 首都の主人として解放者を迎えようとしたのである.

 8月1日共産党員を含む殆ど全市民の参加のもとに蜂起が敢行され,蜂起軍約5万は首尾よくワルシャワ中心部を解放した.
 (図1)は8/4の状況(wikipediaより)
 赤く囲まれた部分が解放された地域.
 しかし8月上旬,ワルシャワ市を貫流するウィスワ川の対岸でソ連軍が進撃を停止し,ルーマニア方面に転進するに及び,ドイツ軍は態勢を立直して蜂起軍を守勢に追込んだ.
 イギリス,アメリカは自己の戦線から遠く離れたワルシャワに対して空軍機による物資の投下以上の救援行動をとりえなかった.
 他方,ソ連は,軍事的には反ドイツであるけれども政治的には反ソの蜂起運動に対して好意的な態度を取らず,長い間援助を拒んだ.
 ようやく9月中旬に残されていたウィスワ対岸のドイツ軍の橋頭堡を打落し,援助物資の投下を開始したが,それ以上の行動には出ようとしなかった.

 蜂起軍自体は装備貧弱なため,独力ではドイツ軍に対抗できず,結局10月2日までに鎮圧された.

 蜂起の挫折は 20万の犠牲とワルシャワ市の徹底的な破壊を伴い,亡命政府の基礎を弱めたが,同時にポーランド人の間に永続的な反ソ感情をうえつける結果となった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/ワルシャワ蜂起
https://jiyuugatanookite.com/polandlife/muzeum-powstania-warszawskiego-1377.html
http://ona.blog.so-net.ne.jp/2011-10-14

https://www.youtube.com/watch?v=-OoF3vtsoPY

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/28 20:00
を加筆改修

 ちなみに,同時期,イギリスでの亡命政府の下で編成されたポーランド第一空挺旅団は,マーケット・ガーデン作戦に,作戦の失敗がかなり明白になってから投入されて,けっこうな損害を負っていますね.
 気持ち的にはやりきれんでしょうなぁ.

ソフトヒッター99 in mixi, 2017年09月28日


 【質問 kérdés】
 「ハンガリー回廊」って何?
Mi az "Magyar Korridor"?

 【回答 válasz】
 ワルシャワ蜂起に際し,ドイツ軍はハンガリー陸軍第2予備軍団(3個師団)にその鎮圧に当たらせようとした.
 だが,その将兵2万~4万人は,ドイツ軍を欺いた.
 軍団司令官は蜂起鎮圧任務を拒否したばかりではなく,ハンガリー軍はポーランド国内軍に対して大量の弾薬,武器,食糧,薬品を提供.
 また,カンピノス Kampinos の森にいた彼らは,野戦病院を開設し,ポーランド人負傷者を受け入れた.
 そのためドイツ軍との間に小競り合いも発生し,ハンガリー軍側に死傷者も出ている.

 この「ハンガリー回廊」については,ヤムリク・レベンテ Jamrik Levente 監督がドキュメンタリー映画を撮っているので参照されたし.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/454374/en/
https://www.youtube.com/watch?v=AZGEUfyJoug
http://www.kormany.hu/en/ministry-of-defence/news/memorial-to-hungarian-soldiers-assisting-1944-warsaw-uprising-is-inaugurated-in-warsaw

https://www.youtube.com/watch?v=-YCSh7eSTSM

mixi, 2017.9.30


 【質問】
 独ソ戦の末期,東部戦線の防戦を指導したドイツ軍の将軍の中に,
「攻撃側は防御側の3倍の戦力が必要というが,私はしばしば十数倍の赤軍を食い止めた」
というような事を語っていた人物がいたと思いますが,誰が言っていたのか失念してしまいました.
 この人物は誰なのか,ご存知の方おられましたら教えていただけませんでしょうか?

 【回答】
 ゴットハルト・ハインリキ(ハインリーチとも書く本もある).
 東部戦線の第4軍司令官時代の経験からそう述べている.
 独軍の将軍の中でも,防御のエキスパートとして著名.
 ヒトラーとの折り合いが悪く,第4軍司令官を解任されてから,しばらくは無役で療養生活を送らされ,1944年末に第1装甲軍司令官.
 グデーリアンに呼ばれて45年3月にヴァイクセル軍集団司令官になり,ベルリン攻防戦の指揮を取った.


◆◆◆◆◆ベルリン攻防戦以後


 【質問】
 ベルリン市街戦について教えてください.

 【回答】
 1945年4月23日,ソビエト赤軍は初めてベルリン市の郊外に進入, 兵力150万をもって,4月27日までにベルリン市を完全に包囲しました.
 対するドイツ軍側は国防軍,武装SSが45,000,他に警察官,ヒトラー・ユーゲント,国民突撃兵ら40,000人ほどの兵力でした.
 5月1日,ヒトラーは自殺し,その翌日,ベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリングは,ソ連軍第8親衛軍に降伏しました.

 【参考ページ】
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2005/10/post_e356.html
http://www.youtube.com/watch?v=6KlX8i9bbbE
http://www.nicovideo.jp/watch/sm495613
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/tokubetsu/12armee.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/03/16 23:16
を加筆改修

 ちなみにソ連軍はベルリン市街で,牽引式自走砲をぶっ放していたようで・・・.

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年03月16日 05:39

 パンツァーファウストを持って立てこもるドイツ兵を,建物ごと吹っ飛ばしてたそうですね.

Shaul in mixi,2010年03月16日 10:33

faq06g01s.jpg
faq06g01s01b.jpg
faq06g01s01c.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ベルリン戦でキングタイガーが百両以上の戦果を残したのは事実ですか?

 【回答】
 大日本絵画の「SS戦車隊(下)」によれば,ベルリン戦の時点で市内にいたSS第503重戦車大隊のケーニヒスティーガー保有数は10両前後.
 第一中隊に属していた戦車操縦兵ローター・ティビーSS上等兵の記録によれば,ベルリン包囲が完成した4月24日~5月1日の間に,彼の乗っていたケーニヒス・ティーガーは10両のロシア戦車を撃破している.
 つまり合計すれば,100両くらいは503大隊によって撃破された可能性はある.
 しかし5月2日の時点で可動車両は2両しかないので,実際にはそこまでいっていないだろう.
 なにしろ,弾薬も燃料も負傷した隊員の代わりも足りない状態だったから.

軍事板,2006/01/22(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベルリン戦に参加したキングタイガー装備部隊と,その戦いぶりについて教えてください.

 【回答】
 武装SSの第503重戦車大隊の一部がキュストリン及びベルリン前面での防衛戦後4月21日にベルリンに撤収,以後ベルリン市内で戦っている.
 その時点でケーニヒスティーガーは9両,共に戦ったのは第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」及びSS突撃大隊「シャルルマーニュ」.
 「ノルトラント」はノルウェー,デンマークなど北欧人兵士,「シャルルマーニュ」は同名のSS師団から分派されたフランス人兵士だった.
 5月2日最後の2両を先頭に生き残りの兵士たちはベルリンからの脱出を図ったが,2両とも相次いで撃破され,多くの兵士たちがソ連軍の捕虜もしくは戦死/行方不明となっている.
 ベルリンでの戦果の詳細は不明だが,ある隊員の記録では1両のティーガーがベルリン市内で通算10両の敵戦車を撃破している.
 以上「武装SS全史2」(学研)および「SS戦車隊 下」(大日本絵画)より.

 同書には第502重戦車大隊の生存者による手記がいくつか掲載されている
 そのひとつには脱出の際ボルマンらしき人物を戦車上に乗せ,その人物が攻撃により死亡したという記述もある.

軍事板,2006/02/01(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1945年のベルリンで,ドイツが第一次世界大戦時製造の菱形戦車を使っていたらしいのですが,それほど戦車が足りなかったのでしょうか?
 それにその写真は残っていないんでしょうか?

 【回答】
 デルタ出版「グランド・パワー」12月号別冊,「激闘東部戦線(4)ベルリン攻防戦II」に,菱形戦車Mk.Ⅳがベルリン市街で擱坐している写真が掲載されているそうです.

(図表番号 faq060418mk「BERLIN, GERMANY 1945-46」より引用)

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

▼ ほっけも以前,この捕獲されたMARKⅣが1919年1月に起きたローザ・ルクセンブルクを首班とするスパルタクス団の蜂起時に,右派勢力によって使用されている画像は見たことがあったのですが,それでも軽くベルリン戦まで四半世紀は経ってます.
 それが今回ネットで画像検索したら多数ヒットしてびっくりです.

 ソ連軍の本格的なベルリン市内突入は4月20日.
 恐らくヒトラーの誕生日であるこの日に呼応してかのことかと思います.
 降伏が5月2日ですから,その間に使用されたものかと思います.

 ではまず1枚目.
(図表番号 faq080421mk)

 浅識でいて渡独歴の無いほっけとしては,特徴的な後背の建築物にまず目が行き,ひょっとして「ブランデンブルク門?」とも真っ先に思ったのですが,どーにも形状が違う.(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:BrandenburgerTorGold.JPG)

 なら「博物館から引っ張りだした」ということから「ドイツ博物館」(Deutsches Museum)しかないだろうと思ったのですが,これまたかなり違う.というよりこの博物館の所在地はミュンヘンでした^^;
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Deutsches_Museum.jpg)

 あとはもうベルリンの建造物を虱潰しに検索をかけてみることにする.
 すると運良く,5分ほど調べただけで発見しました!
 この建物,ベルリン美術館(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Berlin-old-museum.jpg)であることが判明しました.
 画像に映っているのまさしくこの建物ですよね.
 名称は「美術館」となっていますが,美術館と博物館を兼ね合わせた建物のようです.
 仮にこの美術館にMARKⅣが保存されていたのだとしたら,お蔵だししてすぐのところで各坐されっちゃったようですね.

 で,2枚目.
(図表番号 faq080421mk2)

 ベルリン美術館が分かったお陰で位置関係が判明し,後は簡単でした.
 この建物はベルリン大聖堂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Berlin_-_Katedra.jpg
であります.
 画像に映っている建築物が当時の形を残したまま,今も現存するとは感慨深いものがあります.

 以下,入手できた画像をずらーっと.

3枚目:図表番号 faq080421mk3

1~3枚目;図表番号 faq080421mk4~6

撃破されたマークV型を検分するソ連軍将兵
(図表番号faq190824mk)

 ただし,ほっけはんにもこのときのくわしい状況は不明であるとか.
 Mk.4の戦闘の模様をご存知の方はご一報を.

ほっけ = うるふ in mixi,2008年03月23日15:23

 ウクライナはカルモフの建設労働者広場に展示されていた菱形戦車マークV型.
 1941年撮影.
(図表番号 faq190219mk5,こちらより引用)

 後にベルリンに持って来られて,ベルリン攻防戦に参加したのではないかと疑われている第一容疑車.

mixi, 2019.2.19

動画も作られていた.

 上述の動画や
http://talesanecdotesandtrivia.blogspot.com/2014/05/estonian-vintage.html
によれば,旧エストニア軍のマークV型が2両,ロシア革命後の内戦時代にソ連軍に鹵獲され,スモレンスクで展示.
それをドイツ軍が鹵獲してベルリンへ,ということであるからこちらがホンボシかもしれない.
(図表番号 faq190824mk,上記サイトより引用)

 戦闘時の詳細は不明だが,上記サイトや
https://www.quora.com/Were-any-WW1-tanks-brought-out-in-WW2
によれば,撃墜されたB-17の乗員がヒトラーユーゲントによって捕虜にされた時,マークVに載せられて護送されたという話があるらしい.
 ただし真偽不明とされている.

 しかもこのマークV,どうやら「今も現存するのです」オチらしい.
https://www.warhistoryonline.com/war-articles/know-russia-two-mark-v-tanks.html

2019.8.24


 【質問】
 ベルリン陥落時にソ連兵達による大規模な略奪やレイプがあったといいますが,これらの事件に関してのドイツ市民の証言以外のソースはあるんでしょうか?

 【回答】
 統計的数字は確認が難しく,ベルリンでは140万人の女性がいましたが,数万人,少なくとも10万人,最高の数字が84万~98万人とされています.
 これは婦女の40%が複数回の暴行を受けていたからで,これにより件数の特定が不可能になったこと,更に混乱期で表に出ないことも挙げられるでしょう.

 一つの客観的尺度としては,自殺者統計というので表されます.
 例えば,メクレンベルクの小都市ノイブランデンブルクでは,住民18,000名中2,000~3,000名,同じ規模のフォアポンメルンの小都市デミンでは,自殺者は2,000名近いですし,デミンの墓地には400名の子供が埋葬されています.

 また,ソ連共産党員および「コムソモル」メンバーの数と犯罪件数との間に相関関係があることが証明されています.

 ちなみに,モスクワのプロパガンダでは,ソ連軍兵士に対し,「ドイツ女性は正当な獲物」だと約束していますし,その他の反独プロパガンダの影響もありました.

 ベルリンのソ連軍兵士について,米軍の将軍F.A.キーティングは,以下のように評しています.
「多くの場合,彼らの慎みのない行動はチンギス・ハンの野蛮粗暴な群れのそれと同列である」

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/02/18
青文字:加筆改修部分

 ドイツ人以外にはソビエト軍政治将校の手記にいくつか
「開放の勢いに載せて市民に対し狼藉を働く兵もいた.
 赤軍兵士が情けない」
とか,
「市民への暴行,略奪が頻繁に見られた.
 恥ずかしいとは思うが,わが祖国がドイツ人にされたことを思うと無理もない・・・」
といった記述が見られる.
 あと,戦意高揚の煽り文(正式な命令ではない)だけど
「ソビエト人なら復讐する権利があるからガンガンやってまぇ」
みたいな通達が出てたことも記録に残っている.

 もっとも,あくまでソビエト軍の軍規では一般市民への暴行,略奪行為は厳禁だったから,憲兵にはそういった行爲は厳しく取り締まるように命令は出ていた.
(見て見ぬ振りしてた憲兵も多いが)

 で,戦後独ソで議論になったりは殆どしてない.
 冷戦下だし.
 ソビエト側
「そういうこともあったかもしれませんが何か?
 それを言うならお前らナチがうちの国に何をしたと思ってるんだ?あぁ!?」
 ドイツ側
「・・・(それを言われると反論できない)」
な感じ.

 民間レベルでソビエトを追求しようという動きはあったが,非常に小さいもので終わっている.

軍事板,2005/02/18
青文字:加筆改修部分

 一方,反証もある.
 アンソニー・ビーヴァー(イギリス人)著「ベルリン陥落1945」によれば,終戦で緊張感が解けた結果,ドイツ人同士が姦って出来たガキ堕ろすとき,堕胎がタブーな宗教的文化圏故に,便宜上父親の名前を,「無名のソ連兵」と虚偽申告したケースが相当数含まれる様だ.

 よく言われる,「"3日間姦り放題盗み放題”を許可したスターリン命令」も,ごく少数の信憑性の怪しい"証言"以外,何のソースも無い.

軍事板,2011/05/20(金)
青文字:加筆改修部分

ベルリン陥落
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ソヴィエト赤軍について質問です.
 ベルリン攻略戦でも多数の犠牲者を出してる赤軍ですが,都市や拠点の攻略戦なら,わざわざタンクデサントやその他人海戦術で多数の犠牲者を出さずとも,砲撃や空爆で徹底的にボコボコにしてから戦車や歩兵を出したほうが,犠牲が少なくて済んだと思うのですが・・・
 赤軍の将軍達は,火砲や爆撃機の運用がヘタだったのですか?

 【回答】
 ソビエト空軍は地上支援に忙しく,戦略爆撃兵力は開戦初頭に全滅して結局回復しなかった.
 それでもベルリン爆撃とかはやってるけど.

 火砲の集中運用はドイツなんかよりある種,上手だよ.
 これもやっぱり地上部隊の支援がメインだけどね.

 とにかくソビエトは
「人の数はなんとかあるが,他が全然足りない」
という状態だったので,数で圧すしかなかった.

 あと,独ソ線は結局のところ土地の奪い合いなので,最終的に兵士が占領しないと「勝った」ことにはならない.
 砲撃や爆撃はどれだけ一方的にやっても,敵を「撃滅」することは出来ても,土地を占領することは出来ないから,損害を見過ごしても地上部隊を進撃させて,土地を占領する必要があった.
 だから,リソースの優先度はそこになる.

 ちなみに一般的に,砲撃だけで敵を殲滅させようとすると,制圧を望むときと比べて,必要な弾数は指数関数的に上昇する.
 つまり,弾を異常に沢山必要とする.
 硫黄島でも沖縄でも,陸上の火砲などお呼びでない大砲積んだ戦艦をつれていって,ついでに護衛空母も沢山連ねて,数日間砲爆撃し放題でしたが,それでも,日本軍は戦力を保った.
 それから考えると,ドイツ軍と赤軍でもやはり同様だったんじゃないかと.

 どうしても都市を力攻めしたくないならば,迂回して包囲して断続的に砲爆撃をして干上がらせるのが良いかもしれない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ソ連赤軍について質問です.
 ベルリンや満州での略奪や強姦で悪名高い赤軍ですが,いくらこれらの行為が古今東西の戦場で見られるものとはいえ,WW2当時の他の国の軍隊と比べても多すぎる気がします.
 たとえ建前でも,解放するべき対象に対して,これらの行為が他の国の軍隊と比べて多く行われたのは一体,何が原因だったのですか?
 また,当時の赤軍ではこういった行為に対して,NKVDや政治委員が厳しく取り締まっていた様なのに,効果はほとんど無かったのですか?

 【回答】
 敵国の民間人との接触の機会が大きかったこと.
 戦争が非常に過酷であり,精神的な重圧が大きかったこと.
 軍の規模自体が他国を上回る大きさであったこと.
 さらに,「ドイツ人で罪なき者はいない」などというプロパガンダの副作用でもあった模様.

 戦場での残虐行為,人道に悖る行為については,どの戦争でもあります.
 赤軍の場合,コーラを飲んでハンバーガーを食べて,時には休暇を貰って,本国の家族のところに戻れたり,学校に入校するような環境で戦っていたようではないです.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ ただ,『独ソ戦』の作者は文献資料読んでいくうち,
「こいつらぁー,ベルリンでレイプされてもしかたねえわなぁー」
て考えに変わったらしい.

 東部戦線帰還兵,防衛築城奉仕を渋る市民に対し,
「俺たちが東方でやらかしてきた事を連中がこっちにやり返したら,一体全体どんな事になるのか判ってるのか!?」
てな話も,当時既にあったし.

――――――
 翌日,ディーター・ボルコフスキという名の16歳のベルリン市民が,アンハルター駅発の市内電車で目撃した情景を描いている.
「みんな顔に恐怖の色を浮かべていた.
 怒りと絶望が渦巻いていた.
 あんな不平不満の声はいままで聞いたことがない.

 とつぜん,誰かが騒ぎに負けない大声でさけんだ.
『静かに!』

 見ると,小柄なうすぎたない兵士で,鉄十字章2個と黄金ドイツ十字章をつけていた.
 袖には金属製の戦車4個のついたバッジがあって,肉薄攻撃で戦車4両をしとめたことを物語っていた.
『みなさんに言いたいことがある』
と彼はさけび,車内は静まった.
『おれの話なんぞ聞きたくもないだろうが,泣き言だけはやめてくれ.
 この戦争には勝たねばならん.
 勇気をなくしてはならんのだ.
 もし相手が勝ったなら,そして,おれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら,ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ!』

 車内は,針の落ちる音も聞こえるくらいしんと静まりかえった.

――――――アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』

 まあ,東部戦線での残虐行為はSSだけじゃなくて,国防軍の一般将兵まで普通に荷担してたってのは,結構前から知られてた話だし,両軍の戦争犯罪に関しては探せばそれなりに資料あるし,本まで書いちゃった人の認識にしてはお粗末かな,と思う.

軍事板,2009/07/25(土)
青文字:加筆改修部分

(「ヒトラー最期の7日間」より引用)


 【質問】
 ヒトラーは「そのうち人材が尽きる」と言っていたようですが, 終戦時の赤軍の主な兵力を教えて下さい.

 【回答】
 1945年の年平均(1~5月)戦力が633万人.
 最大約1,000万人まで動員可能.
 終戦時の戦車・自走砲の前線配備数が8,100輌(後方配備を含む総合計が3万5,200輌)
 大砲・迫撃砲の前線配備数が9万4,400門(同32万9,600門)
 軍用機の前線配備数が2万2,300機(同4万7,300機)

 ベルリン攻略戦だけでも3個正面軍250万人が参加….

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/10/03(月)
青文字:加筆改修部分

そうだ! ベルリンへ行こう!
faq110703br.jpg
faq110703br2.jpg
faq110703br3.jpg

ベタ藤原 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年06月29日 00:22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2末期,進撃する米ソ両軍がエルベ川で出会い,平和を誓ったとされる「エルベの誓い」に関してですが,このとき出会った双方の部隊名について教えてください.

 【回答】
 アメリカ軍第69歩兵師団と,ソビエト軍第58狙撃兵師団.

 4月25日,米69歩兵師団の斥候が複数の箇所でソ連軍と接触.
 翌26日に,米69歩兵師団長Reihard少将とソ第58親衛狙撃兵師団長Russakow少将が接見.

以下ご参考
http://www.torgau.eu/p/d2.asp?artikel_id=1170&liste=&tmpl_typ=Detail&l=1
http://www.archives.gov/exhibits/a_people_at_war/war_is_over/articles_war_is_over/map_american_russian_linkup.html
http://www.archives.gov/exhibits/a_people_at_war/war_is_over/articles_war_is_over/morning_report.html

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