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◆◆◆◆東部戦線
<◆◆◆陸戦史
<◆◆陸戦 目次
<◆大西洋・地中海方面 目次
<WW2 FAQ
「CRS@空挺軍 in mixi,2009年06月17日01:11」:
March Nazi Army across Moscow on July, 17th
1943.
Marsh of prisoners
大祖国戦争のドイツ軍捕虜を晒し者に・・・・ここまで纏めた画像は初見.
恐らく歩いた後にだと思うが,捕虜が歩いた道を洗浄しているのは,なんと言えばいいのだろうか?
・・・・人間の執念というか怨念は,恐ろしいものですね.
CRS@空挺軍 in mixi◆(2010年05月08日)
国連事務総長 「ゲオルギーのリボン」配布キャンペーンに参加
メドヴェージェフ大統領:「戦争について真実を知るべき」
露大統領「大戦の教訓,安保の仕組みにつなげるべき」
「Gigazine」:ソビエト連邦の「大祖国戦争」を壮麗な戦争美術で描く
Фото хроники Великой Отечественной Войны
大祖国戦争画像集
――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年05月08日23:10
「English Russia」◆(2011/06/21)The Day
of Memory And Mourning
バルバロッサ作戦写真集
Ледовое побоище. Сюжет
プスコフにて,チュド湖上の戦いのリエナクトメントが開催
同地に駐屯している第76親衛空挺師団の兵士達も訪れたようです
1941年6月22日から1945年5月9日までの戦線の動きがアニメ形式で動いていって,気になった都市や戦場を地図上でクリックすれば,そこに関しての記録映像も見られるという優れモノ.
かなりの大長編で,最後まで見るのにかなり時間がかかったのを覚えてる.
ページの右側の地図をクリックすれば見られる.
ロシア語わからなくてもなんとかなると思う.
かなりクオリティが高かったから,ロシア政府が戦勝60周年に合わせて作成したサイトかも.
――――――軍事板
青文字:加筆改修部分
「VOR」◆(2012/02/23) ロシア「祖国防衛者の日」を祝う
「VOR」◆(2012/02/23)ロシア大統領 無名戦士の墓に献花
「VOR」◆(2012/05/06)モスクワ 軍事パレードの予行演習行われる
「VOR」◆(2012/05/06)ロシアの退役軍人
>ゴリコワ保健社会発展相によると第二次大戦の退役軍人約340万人のうち,503人が100歳を超える.
「VOR」◆(2012/05/08)モスクワ無名戦士の墓「永遠の火」 45周年
「VOR」◆(2012/05/09)9日 大祖国戦争 戦勝67周年
「VOR」◆(2012/05/09)赤の広場で軍事パレード 1万4000人以上の軍人が参加
「VOR」◆(2012/05/10)戦勝記念日:85人が病院へ搬送,数十人拘束
「VOR」◆(2012/05/22)ロシア 87歳の参戦軍人 刃物を持った強盗を殺害
「アラスカ物語」:独ソ戦は「ヨーロッパとハートランドの戦い」
「兵士たちとの対話」◆(2012/04/26)マトヴェイ・ツォジコヴィチ・リフテルマン
>1943年のドニエプル降下作戦に参加した空挺兵
「ワレYouTube発見セリ」:1942-Hard combats in Crimea
『カフカスの防衛』(マクシム・コロミーエツ著,大日本絵画,2004.8)
『幻影 ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語』(ユルゲン・トールヴァルト著,フジ出版社,1979)
絶版なのが惜しい良書.
独ソ戦初年度のソ連兵捕虜虐待のくだりは,「まさかそんなに大量の投降者が出た後も,まだソ連との戦争が続いてるとは予期しなかった」ドイツ軍の管理面の不手際で,収容所のソ連兵捕虜が家畜並みの劣悪な環境下に置かれて,病気などでバタバタ死ぬ様子が描かれている.
現場レベルで対処できないほどの根本的な不手際.
あれ見ると,「捕虜の死者」=「管理者(現場)の意図的な虐待」とは,短絡的に捉えられない,という気がした.
無論,ドイツ国防軍擁護の文脈じゃなく,時代や国,民族区分を超えた,普遍的な「戦争捕虜の扱い」全般についての話だけど.
――――――軍事板,2010/05/20(木)
『鋼鉄のアナバシス 死神と呼ばれた少女』(内田弘樹著,藤沢孝イラスト,イカロス出版,2009.7)
今回の内田弘樹先生の作品は,東部戦線を舞台にした少年少女の物語であるが,笑い,悲劇,挫折,成長,暗躍のバランスが程よく文章化されており,楽しく読ませていただきました,
特に台詞回しが非常に良かったです.
今後の展開として,ドイツの逆襲が始まりソ連を打ち倒すのか,それとも史実通りにベルリン陥落なのか,はたまた第三の道を進むのかは,これからの楽しみにしておきましょう.
細部は,これまで先生が学んできた知識が良く活かされているのが特徴的で,特にあまり焦点を当てられていないソ連方面の視点が面白く,ソ連側から見た独ソ戦の一コマが,ありありと表現されているのは面白い方向でした.
ドイツ側の物語ではありますが,こうした方向性も悪くは無いと思います.
ちょっとしたオカルト?ネタも交えながら進んでいく世界ですが,果たしてドイツだけなのか,それともソ連も保有しているのか気になる所ではありますが,どう転んでいくのかが楽しみですね.
P・S 同志イリヤ・カミンスカの絵はまだですかね?
――――――CRS@空挺軍 in mixi,2009年07月25日20:24
『最強の狙撃手』(アルブレヒト・ヴァッカー著,原書房,2007.4)
東部戦線のドイツ軍も結構歩いていたらしいことが分かる.
歩兵らしく小火器のことは詳しいが,重火器は自分のところの奴でなくて,ソ連側の弾が降ってくる話が多い.
あまり口径とか砲の名称などはこまごまと触れない.
装甲車両もT-34と突撃砲が主で,こまごまとした名称はでてこない.
戦闘の描写もさることながら,冷静な筆致で負傷した兵や死にいく者を描き,また戦闘に入る際の精神の動揺と想念を,やや分析的に高揚した言葉で彩ってみせる.
後者はカレルも似たような書き方をすると思う.
ドイツ人の著作は観念を分析して精神を描き出そうとするのが好きなのかもしれない.
戦場でカメラを携行し遺体の写真を撮影し,それを記録し保存してあるあたりは几帳面でもあり,また戦場の異常さを克服というか受け止めて変容した兵士というものを考えさせる.
だが,よく考えると誰が撮影したのか分からない写真も入り混じっており,多少注意が必要かもしれない.
宣伝中隊のカメラマンのものなども,例えば使われているので.
――――――軍事板
『宿命の「バルバロッサ作戦」』(山崎雅弘著,学研パブリッシング,2011.3)
まだ前半しか読んでないが,なかなかに充実した内容だと思う.
出典が細かく明記されているのが○.
1920年代の独ソ両軍協力時代から,独ソ戦を描くという内容構成も面白い.
結構たくさんの有名どころのドイツ軍人が,ソ連に出張していたんだね.
――――――軍事板,2011/02/26(土)
今までと違う意味でのポスト冷戦本という気がした.
ポスト冷戦というと,ソ連時代秘密にされてたデータが,アーカイヴから発掘されたみたいなイメージだが,冷戦時代の西ドイツとアメリカに好都合な歴史解釈に,読者が印象操作されてたことも実は重要だったりする.
グデーリアンがキエフへ南進作戦をやっていた時に,ハルダーが嫌がらせのようなことしてたというのは初耳.
バルバロッサが時間切れでゲームオーバーになったのは,実はドイツ参謀本部の責任,という話にもなるな.
――――――軍事板,2011/03/05(土)
青文字:加筆改修部分
『詳解 独ソ戦全史』(デビッド・M. グランツ他著,学研文庫,2005.6)
『焦土作戦 独ソ戦史』(パウル・カレル著,学研文庫,2001.1)
『赤軍記者グロースマン 独ソ戦ノート1941-45』(リューバ・ヴィノグラードヴァ編,白水社,2007.6)
「解説」をアントニー・ビーヴァーが付けてる訳だが,例によって本多勝一調とでも言うべき,無理矢理こき下ろす方向のバイアスがかかってるので,それを差っ引いて,グロスマン本人が書いた部分だけ読む分には,ソ連のその種のルポにありがちな政治臭も少なく,興味深いエピソードや描写も多い.
例えばスターリングラード作戦時,枢軸軍内で一番弱兵扱いされてたのはルーマニア兵だったが,ソ連軍内ではトルクメニスタン(うろ覚え)出身兵が一番弱兵扱いだった.
で,対峙した独軍の将兵が野次ついでに,
「そっちのトルクメニスタン兵と,こっちのルーマニア兵を交換しないか?」
と軽口を叩いた話とか.
――――――軍事板,2010/05/21(金)
アントニー・ヴィーヴァー氏の本全体にいえることだと感じるけれど,物語っぽさがあると思う.
読みやすくて良いと見るか,脚色気味と見るかは人それぞれだと思うけれど.
ソヴィエト・ロシア側の兵士の感情が垣間見えるのは新鮮.
グロースマン氏も兵士一人一人の方に焦点を向けており,ミクロな視点で大祖国戦争を見たい人にはお勧めできる.
スターリンの功績としたかった当局からは,そのせいで煙たがられているけれど.
あと,グロースマン氏はユダヤ系だったようで,ナチスドイツのホロコーストには大きく項を裂いている.
ソヴィエト・ロシア的には「ユダヤ人」ではなく,「ソヴィエト人」が殺されたことにしたかったようで,やっぱり煙たがられていたりと,氏の政治センスの無さにはキラリと光るモノを感じる.
――――――軍事板,2010/05/25(火)
『ドイツ戦車猟兵 vs KV-1重戦車 東部戦線1941-43』(ロバート・フォーチェック著,大日本絵画,2013.6)
『どくそせん』(内田弘樹著,イカロス出版,2007.9)
マンガが,萌え系の中でも特に下品なのは別にしても,非常に内容も濃く,図版も多く,分かりやすい.
独ソ戦の全体を知るうえでは非常にいい.
値段は1600円くらいで,ボリュームの割には安いと思う.
――――――軍事板,2009/09/19(土)
萌え化の進展で悲壮感が増すのは,むしろ萌えに眉を顰める側だと思う.
萌え化するのはいいけど,なんでも萌えが先行し,ジャンル全体を覆い尽くすのは困る.
つまり,軍事書籍ならなんでも萌えイラストが無いと刊行されない状況になったら困る.
萌え軍事の辞典 とか 萌える包囲下のベルリン日記 とか 本当に燃えてどうするってな調子になる.
――――――軍事板,2009/09/17(木)
立ち読みした,周囲を警戒しながら.
悔しいけど,すげぇ面白い.
家でじっくり読みたいが,表紙が…
萌え要素を除去したバージョンも出してくれよ…
――――――二人兄弟の墓 in 軍事板,2009/12/07(月)
あの恥ずかしい絵で相当損をしている.
神田の「書泉」で立ち読みしている人を見たこと無い.
バランスよく独ソ戦の全体像をまとめているだけに,本当にもったいない.
同じテーマの完全なんたらより,遥かにいい本だと思った.
――――――軍事板,2009/12/08(火)
『バービイ・ヤール-無削除決定版-』(A・アナトーリ 著,講談社,1973)
第二次世界大戦中,ドイツ占領下のキエフで暮らした著者が,直接体験したり,後に体験者から聞いた事を元にして書いた,小説風ノンフィクション.
何だかんだとこすっ辛い事を言いながら,ドイツ占領下を生き抜いてしまう祖父や,自分でソーセージを作りながら
「ソーセージは食わんし,お前も手を出さん方がいいぞ」
と言い,最後は金貨をたんまり持って西へ去るソーセージ職人などの,しぶとく生きる人達の話や,ドイツ占領当初のNKVDによる独軍ビル爆破事件,何度も負けるチャンスを貰いながら勝ち続け,最後はバービイ・ヤール送りにされてしまうウクライナ人サッカーチーム,キエフを焼く命令を受け,夜になると
「生命のあるうちに面白くやろうぜ!」
とお祭り騒ぎをするウラソフ軍兵士の話などの興味深い事が色々と書かれいます.
総統の誕生日を記念して行われた配給の話や,次第にドイツ語が占める割合が増えて行く新聞の話,そして労働者狩りの話など,ロシア地域に置けるドイツの占領下の日常がどんな物であったかを知るのには,格好の一冊かと思います.
------------ベタ藤原 ◆MNjfnp0E :軍事板,2002/08/04
青文字:加筆改修部分
『バルバロッサ作戦』(パウル・カレル著,学研M文庫,2000.9)
『武装SS師団写真史 1』(高橋慶史著,大日本絵画,2010.4)
ようやく読了.
サイズが大きくなった分,取り回しは不便になったけど,その分地図や写真も大きくなって見やすくなったな.
紹介している部隊はトーテンコップフ,ノルト,ホルスト・ヴェッセル(!),ハンガリー第一・第二,ロシア第一(……)
師団の前身である部隊や創設に関わった人物の概略,部隊が関わった事件の小解説なども載っていて,東部戦線におけるマイナーな話や,ブラックなネタにも事欠かない.
特にホルスト・ヴェッセル以降の部隊の,泣きたくなるような末期戦状態は,分かる人間にはとてもオススメ.
「部隊のてこ入れとして,ディレルヴァンガー旅団(?!)を編入」
だの,
「士気は最高,装備は皆無」
だの,
「白ロシア独立に備えて設立されたが,ドイツの傭兵扱いで西部戦線に回され反乱を起こした」
だの,どんどんヤケクソになっていくのに比例して,明らかに筆者がノリノリになってるのが……
降伏後のハンガリー師団の末路は,涙を誘わずにはいられない.
総じて,ドイツ軍のマニアにはオススメの一冊.
願わくば続きが出てくれる事を.※
※ 2011年7月現在,第2巻までは出ています.
――――――軍事板,2011/06/15(水)
『燃える東部戦線』(ハリソン・E・ノールズベリー著,ハヤカワ文庫,1986)
ソ連側から見た独ソ戦の話です.
この本を読みながら飯を食ってたのですが,たまたま開いたページがレニングラード包囲戦の個所で,読んでて一気に食欲がなくなりました……
一日300グラムのパン……
食用おがくす……
バターエフ倉庫の土……
正体不明の肉が使われたシチューや,ソーセージ……
う~ぐ~
教訓『食べれる時には食べとけ!』
------------ベタ藤原 ◆94Ls6/3E :軍事板,2002/02/08
『モスクワ攻防戦 20世紀を決した史上最大の戦闘』(アンドリュー・ナゴルスキ著,作品社,2010.5)
ノリはコールデストウィンター風味だから読みやすいけど,やはり著者の来歴から,センセーショナルな人物描写が目に付く.
当該戦役を詳しく書くというより,両陣営の双方の視点から,独ソ戦初期全体を書いてる感じ.
特色はモスクワが陥落するか否かが,独ソ戦全体ひいては大戦において決定的ともいえる影響を及ぼした可能性を強調していることかな.
これには俺も同意.
スターリングラードとかクルスクより,よっぽど重大だと思う.
関係者に直接聞き取り調査もしてるし,証言や資料を鵜呑みにはしてないのが良い所.
ただ,両体制の悪を暴いて糾弾する調子は,なんつーかもユダヤの使い魔臭い(笑)
経歴もね.
ネットの画像をそのまま乗っけたような,質の悪い写真が散見されるのがどうかなと.
――――――軍事板,2010/05/23(日)
ドイツ軍によるモスクワ攻略は可能だったかについての著者の見解は,識者によって賛否が分かれると思う.
――――――軍事板,2010/05/23(日)
ソ連側から書いた書籍.
双方が虐殺したりされたりとか,著書では10月13日をターニングポイントとしている点,そして未だにモスクワ郊外では地面を掘ると,遺骨や遺品が出るなど,非常に参考になった.
又,トルストイの生家をグーデリアンが司令部として使っていたが,撤退時に生家を燃やすという非道も紹介.
――――――軍事板,2011/03/08(火)
青文字:加筆改修部分
カターエフ『連隊の子』(『少年少女世界文学全集33 ロシア編4』《講談社,1961》収蔵)
とあるサイトの簡単な紹介で興味を惹かれたので読んだら,予想以上のガチ戦争小説だった.
物語は独ソ戦後半,戦災孤児となった少年がとある赤軍砲兵中隊に拾われ,部隊の兵士というかマスコットとして生活を共にするという内容.
冒頭の,周囲を警戒しながら移動する斥候隊の描写の細かさに始まり,兵士たちの何もかもがきちんとあるべきところに置かれている,テント内部のありさま.
中隊一の照準手(なんとソ連邦英雄)による試射に始まり,前線の観測所からの指示での修正,そして全力での効力射と,砲撃の描写もきっちりしている.
作中で出てくる砲は,一人で照準操作してるのでZiS-3だと思うが,防盾や駐退機の形など,写真と見比べると実に正確に描かれてる.
もちろん間接射撃なので,主人公の少年が照準を覗いても,目安となる木しか見えない.
ラストの,高地に陣取ったドイツ軍への攻撃で,
1) 1個中隊が正面攻撃をかけ陽動.
2) 敵が陣地から出て逆襲をかけようとしたところで,あらかじめ移動させていた2個中隊が,側面と後方から攻撃.
3) 1個中隊を予備として控え置き,戦果の拡大や敵の増援に備える.
4) そして砲兵はそれを後方から支援し,必要に応じて前進して直接照準で攻撃.
という,セオリーどおりの攻撃を,児童文学で読むことになるとは思わなかったし.
欠点といえば,途中で出てくるドイツ軍将校の描写がステロタイプなところか.
逆に,体臭が匂ってきそうな赤軍の兵士達や,戦闘直後の死体や,ガラクタが転がる戦場のリアルさは,戦時中に書かれた小説ならではだと思う.
制服やヘルメット,兵士の持ってるPPShも,今と違って映画や洋書くらいしか資料がない時代に,よくぞここまでというくらい正確.
http://bookcover.exblog.jp/11477078/
挿絵画家の名前で調べたら医学教室で顕微鏡画などを描いてた人なので正確なのも納得できる.
もし仮に復刻するようなことがあったら,ぜひ挿絵も込みでお願いしたい.
訳者もシベリア抑留経験があるだけに,用語などもおかしく感じるところがほとんどない.
こんな小説が50年も前に,児童文学として出ていたことも驚きだが,現在ほとんど忘れ去られているのはもったいない.
図書館の蔵書として眠っている物もあると思うので,ぜひ読んでほしいと思う.
――――――軍事板,2011/01/25(火)
『レニングラード封鎖 飢餓と非情の都市1941-44』(マイケル・ジョーンズ著,白水社,2013/2/14)
『忘れられた兵士―ドイツ少年兵の手記』(ギイ・サジェール著,早川書房,1980/09)
こないだ古本屋で買った,独軍の東部戦線に従軍した兵士が書いた本.
一等自営業先生の劇画世界とオーバーラップして,引き込まれ,曙の光が射す頃までに一気に読んでしまった.
日本海軍の戦記本は別として,モノハン戦や沖縄戦の日本陸軍の戦記本と大違いで,スケールが違うし,機甲戦の凄まじさに圧倒された.
原本はかなりの大作で,翻訳本は後半部分を飛ばしているのが惜しい.
廃版本だけど探せば在るかも.
------------軍事板,2003/05/05
青文字:加筆改修部分
◆◆◆◆独ソ戦以降
【質問】
独ソ戦の戦史で良書があれば教えてください.
【回答】
▼『スターリングラード』
http://www.amazon.co.jp/dp/4022614773/
まずはこれでしょう.
題名はスタグラですが,全般的な経緯も書かれてます.
読む前は構えましたが,悲惨な表現はそれほど多く無い.▲
『完全分析独ソ戦史』
▼ 開戦からクルスクあたりまでは概略をつかむにはいいが,後半の尻すぼみ感が実に残念な本.
後ろの方も,しっかり書いてほしかったな.
戦争は女の顔をしていない
http://www.amazon.co.jp/dp/4903619109/
(半端でなく精神的にキツいです.
読後は読前の自分には戻れない,と覚悟して読んでね)
不屈の鉄十字エース
http://www.amazon.co.jp/dp/4059012041/
こちらは空戦話よりも,投降前後の混乱と,戦後の長期間収容所暮らしが参考になると思います.
『詳解 独ソ戦全史』(デビッド・M・グランツ,ジョナサン・M・ハウス共著,学習研究社,2005年)
▼ 個人的にお勧め.
古い赤軍のイメージを払拭できる良書.
文庫だから,値段も手ごろだし.▲
『どくそせん』内田弘樹著,EXCEL画,イカロス出版,2007年)
山崎さんの独ソ戦全史は,大戦後半がけっこうハブかれているから,痒いところに手が届く感は,「どくそせん」が上.
▼萌えに抵抗がなければ,結構いける.
全体の概略にさらっと触れられる良書と認識してる.▲
まぁ,「どくそせん」はここじゃ嫌う人が多いみたいだから,強くは薦めんが.
『ソヴィエト赤軍興亡史』の2及び3
『戦うソヴェト・ロシア』
パウル・カレル著,松谷健二訳『焦土作戦』フジ出版社,一九七二年
パウル・カレル著,松谷健二訳,吉本隆昭監修『バルバロッサ作戦』上中下,学習研究社,二〇〇〇年
あと,個人的な趣味で,
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル著,高木真太郎訳『急降下爆撃』学習研究社,二〇〇二年
軍事板
&軍事板,2011/08/08(月)(2011.10.9追記分)
青文字:加筆改修部分
▼『ソビエト航空戦 知られざる航空大国の全貌』
お勧め.
コンビニとかのWW2戦闘機比較!とかの本だと省かれがちなソ連の航空機だが,決して雑魚だったわけじゃないと分かると思う.
『モスクワ上空の戦い 知られざる首都航空戦』
お値段は張るが,こちらも省略されがちなロシアの航空戦を知るいい本だと思う.
ジャンル別に列挙すると,
<戦史総論>
・学研歴史群像「ソヴィエト赤軍興亡史2~3」
・アレクザンダー・ワース「戦うソヴェト・ロシア」
<戦史各論>
・ブレースウェート「モスクワ攻防1941」
・ソールズベリー「攻防900日」
・グロースマン/ビーバー「赤軍記者グロースマン」
・アレクシエーヴィチ「ボタン穴から見た戦争」
・マイルズ「出撃!魔女飛行隊」
<兵器関連>
・コロミーエツ「独ソ戦車戦シリーズ」
・オスプレイ「第二次世界大戦のソ連戦闘機エース」他
・戦車マガジン別冊「第二次世界大戦ソ連軍用機写真集」
軍事板,2011/08/08(月)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
独ソ戦の詳しい書籍はありますでしょうか?
【回答】
詳しいのなら「詳解独ソ戦全史」(学研M文庫)とか.
アドバンスト杜聖 ◆REH634FRNQ in 軍事板
青文字:加筆改修部分
『完全分析 独ソ戦史』
『詳解独ソ戦全史』
『ソヴィエト赤軍興亡史』
こんなところか.
『どくそせん』も評判は良いみたい.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
バルバロッサ戦からの独ソ戦について少し調べたいのですが,
パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』(学研M文庫,2000.9)
デビッド・グランツ&ジョナサン・ハウスの『<詳解>独ソ戦全史』(学研,2005.6)
山崎雅弘の『完全分析独ソ戦史』(学研M文庫,2007.3)
あたりで最初に手をつけるのにはどれが良いでしょうか?
【回答】
つ『どくそせん』
……という,かなり真面目な冗談はおいといて,その中じゃ山崎さんですかね.
独ソ戦概略史を知るなら一番手っ取り早いかと.
構成も整っていて非常に読みやすいし,抑えるべき情報を満遍なく抑えている.
独ソ双方の行動の背景の説明も丁寧だから,理解もしやすい.
戦況図が多くて見やすいし,全体を概観して抑えるのなら,多分一番良いのでないかと.
もし赤軍側についてより詳しく知りたいなら,詳解独ソ戦のが良いかもですが.
(まあ,細かすぎても却って分かりにくいとは思うけど)
グランツの「詳解独ソ戦全史」は,ソ連崩壊後に出てきた赤軍の実像というのが売りだが,読者がある程度知ってると想定して書かれているので,予備知識がないと理解しずらい面がある.
パウル・カレルはどちらかというと,読み物として捉えた方が良いと思います.
カレルは冷戦時代の著作ということもあって,赤軍関係の記述に難あり.
特にソ連将軍の人物評価は,「当時は最新情報だと思われていた」フルシチョフ時代のプロパガンダにかなり影響されている.
(諸悪の根源はスターリンにあり,みたいな)
ただしドイツ軍側の記述は,訳者の文才もあって非常に良い.
幾多のドイツオタが,ここから入ってきた.
あと,『どくそせん』をブックオフで買うなら,初版・二版は避けた方がよさげ.
結構アレな表記がちらほらあるから,むしろ初心者があれで入るのは注意した方が良いと思う.
戦況図は多分別な本のが良い.
(地図は山崎本の出来が良いね)
それと,ここ(書評スレッド)では割と好評だけど,赤軍ヲタ的にはなんか微妙だった.
独軍好きなんだな,ということは伝わってくるのだが・・・.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
話題のどくそせんを買うのと,歴史群像欧州戦史シリーズの独ソ関連数冊買うのでは,どちらがいい?
【回答】
普通に後者.
独ソ戦ってのは,ペレストロイカ以降のソ連側資料の「再発見」をどう扱うかによって,論者によってトーンがかなり違ってくる分野だから,単一著者/監修者による一冊だけ読み予断を身に付けるより,複数のライターによる考察の集合体である雑誌やムックから入った方が,一見迂遠に見えるが長い目で見れば吉.
「刷り込み」じゃないけど,人間第一印象が与えるパラダイムってかなり影響強いからな.
最近,一連のカレル本への風当たりが強いのも,概ねそういう理由だろう.
ちなみに学研あたりのムック本は,副読本として一緒に読むのがいいな.
大きな地図やら車両の図解やら載ってるから,イメージしやすくていい.
軍事板,2011/08/14(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
全体を知るなら,「どくそせん」より,元ネタの詳解独ソ戦全史や完全分析独ソ戦史のほうが良い?
【回答】
「完全分析独ソ戦史」より「どくそせん」の方が遥かにしっかりしていると思う.
「完全分析独ソ戦史」は,クルスク戦前後で気合の入れ方が全く違う.
1944年以降の記述なんか,内容があまりにも薄っぺらくて笑ってしまった.
しかも,巻末に参考文献を列記しているけど,それを参考に書いたとは思えない.
どうみてもパウルカレルの独ソ戦2冊のダイジェスト版のような印象を受ける.
それに比べて「どくそせん」は,独ソ戦後半もしっかり書いているし,よくまとまっている.
例えば,1944年秋のメーメル橋頭堡から孤立したクーアラントに対する解囲作戦,「銀の筋作戦」なんか全く知らなかった.
あの萌え系イラストを止めてくれたら,もっと評価されてもおかしくない本だと思うよ.
名刺は切らしておりまして in 軍事板,2009/09/20(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
電撃戦と縦深突破だっけ?
WW2当時の独蘇両軍の戦術について詳しい本で,手に入りやすいモノってありますかね?
ずっと戦略的・政治的な物しか見ずにいたから,戦車とか飛行機の使い方の違いが分からなくて.
特にソビエトになると,兵の回顧録も無いですし.
【回答】
どこまで本当かしらないけれど,A・フアデェエフの「若き親衛隊」は一応記録を元に小説化したものらしい.
独逸がクラスノドン市を占領した後,若き親衛隊という組織を作ったパルチザンの話で,ドイツ軍本部を放火したり,ソビエトの放送をビラにして巻いたり,無線で独逸の動静を知らせたり,独逸軍が集めた小麦の倉庫を焼いたり,持って行かれたコルホーズの家畜を野原に追い散らしたり,裏切り者を絞首台にかけたりしたけど,最後は殆ど死んだという話.
名無しの愉しみ in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
東部戦線好きなんで,『最強の狙撃手』の「これでもか!これでもか!」っていうくらいの悲惨な話がよかったです.
カレル本では味わえない,読後に暗澹たる思いにしてくれる独ソ戦ものを紹介してください.
【回答】
ソ連側視点だが
スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』
がテッパン(笑).
『戦争は女の顔をしていない』は,体調の悪い時は読まないで下さい,マジで.
話に救いが無く,つらすぎ,キツすぎなんで.
ドイツ側視点では
『ベルリン終戦日記 ある女性の記録』
タイトルからして,もう楽になった方が良さげな感じがして怖い.
同書の著者,アントニー・ビーヴァーには他にも,
『スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943』
『ベルリン陥落 1945』
『赤軍記者グロースマン』
と,独ソ戦関連の作品がある.
両軍共に身も蓋も無い事をやらかしてるのを,割と容赦なく書いてる.
『忘れられた兵士』ギイ・サジェール
『雪の中の軍曹』マリオ・リゴーニ・ステルン
前者は,アルザス出身だった為に独軍に入隊したフランス人兵士の話.
後者は,東部戦線に従軍したイタリア軍兵士の話.
どちらも地味にキツい.
『戦争の科学』
読み終わって,
『ああ,今の文明は絶対滅びるな」
と確信できる本だった,
あと未読ながら,ハインツ・G.・コンザリクには東部戦線三部作なる小説がある.
『第6軍の心臓』
『スターリングラートの医師』
『極限に生きる』
古い本が多いので,図書館を利用するといいかもしれない.
軍事板,2011/01/24(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
パウル・カレルっておもしろいの? 泣ける?
【回答】
思いっきり泣けます.
多くの日本人戦史研究者が,カレルの本からヨーロッパの戦史に興味を持ったのは事実ですが,カレルの本を参考文献として引用している研究者は,ほとんどいません.
なぜならカレルの本は聖書であり,イリアスやベオウルフのような叙事詩であります.
間違っても史実に裏づけされたノンフィクションとして読んではだめです.
カレルは,当時は資料不足だったから,想像で書いてるところがあるのです.
たとえば,部隊の行動みたいな細かい所で,例えばクルスク戦でGD軽歩兵連隊第III大隊が,パンターが来ないから出撃しなかったとありますが,パンター連隊は軽歩兵連隊に配属予定も無いし,そもそもGDの攻撃開始時間とパンター連隊の出撃時間は違っています.
これを書いてる私は,既に感涙に咽んでおります.
あなたが迷える子羊になる前に,勇気を持ってカレルの世界に飛び込んでください.
暖かい光に包まれて,至福のときを迎えることができるでしょう.
857 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2009/07/27(月)
13:39:32 ID:???
〃´⌒ヽ
. , -―― メ/_´⌒ヽ
/ / ̄ ´ヽ ヽ
. / , /// ト. ! 、 丶ヽ
l / /(((リ从 リノ)) '
| i l . ヽノ .V l ついにねんがんの
l ,=! l /// ///l l パウル・カレルを手に入れたぞ
l ヾ! ', l ヽ_フ l l
| ヽヽヽ //
l ヾ≧ , __ , イ〃
li (´`)l {ニ0ニ}、 |_"____
li /l, l└ タl」/l´焦土作戦 l
リヽ/ l l__ ./ |_________|
,/ L__[]っ / /
【反論】
『チェルカッシィ包囲突破戦』(下)より引用.
――――――
1966年に,パウル・カレルは彼の東部戦線の戦いの記念碑的解説の第2部,『焦土(焦土作戦)』を出版し,丸まる1章がチェルカッシィの戦いに充てられた.
彼の戦闘の扱いの中で,彼は公的な歴史,戦後の解説,そしてベテランのインタヴューをまとめて,最初の真にバランスのとれた,作戦レベルでの戦闘の解説を行った.
彼は戦術的な詳細については詳しく書いていないが,彼の解説は戦闘を素早く読み解くには最善のものであり続けている.
――――――
同様に,詳細な戦時のソ連の作戦に関する戦闘後報告,選集は1944年9~10月に印刷された「戦争経験に関する研究資料の収集」は重要であり,旧ソ連で提示される公式の物語とは,しばしば議論のある,比較的飾り気の無い解説であった.
興味深いことに,この報告に描かれた戦術行動は,ドイツ軍の記録と並行しており全く似通っている.
選集をドイツ軍の解説と並べて比較すれば,日付,場所,そして部隊の移動は,ほとんど正確に対応するのである.
もちろん,特定の交戦で認められた結果は異なっているだろうが,戦術的報告における事象は共通している.
――――――
著者のダグラス・E・ナッシュはウェストポイント出の米軍士官で,「砂漠の嵐」作戦にも参加.
95年にはフォート・レヴンワースの指揮幕僚大学の名誉指揮官を授与されてる.
この本の執筆には,マイクロフィルム化された,当時のドイツ軍の軍集団から連隊に至る作戦日誌なども使われている.
その上で,こういってるわけだ.
パウル・カレルを「卒業」とか言ってる人は,自分の資料に対する姿勢を見直した方がいい.
ちなみにナッシュは,同書の中で,グランツが座長を務めた米陸軍戦争大学校での戦争シンポジウムの一連の論稿をまとめた冊子
「ドン~ドニエプル,1943年11月~1944年8月のソ連軍攻勢作戦」
も高く評価している.
もっともカレルは,ソ連軍の戦略作戦レベルの高等統帥のうまさをバカにしすぎの傾向はあるな.
ただ,そうした傾向も,どうしてそういう傾向になっているのか,とか,大戦中の独軍指揮官のソ連軍に対する認識を知る上でも,有用に思える.
要するに,なんでも使いようであって,「最悪」って切って捨てるのは,自らアホって告白しているようなもんだよ(笑)
軍事板,2009/07/27(月)~07/28(火)
青文字:加筆改修部分
さて,カレルが独側資料の集成というのであれば,最近のソ連側資料も【ソ連側からみた資料の集成】という事にお気づきになってもよろしいかと.
カレル(研究時期が古いから正しくない)/ソ連資料○(最新研究だから正しい)
も
カレル(古いというのは当事者からも話きけるぞ)/ソ連資料×(プロパガンダじゃん)
どっちも片手落ち.
両方読むのが戦史オタのたしなみ.
Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/07/28(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
そりゃ,ソ連側の資料のみ(例えばマルクス・レーニンアカデミー刊「第二次世界大戦史」)はそうだろう.
しかしコロミェーツの独ソ戦車戦シリーズや,グランツの詳解独ソ戦(著者が米軍人であるため,その視点の影響を受けていると思われる記述も無きにしもあらずだが…)等,双方の資料を対照した資料も今日ではある訳で,
それらを超越した,一種の聖書のごときドグマ的信仰には,疑問を持つべきなのでは?
【回答】
その考え方が,共産主義の無信仰論的な,定型化したアンチにすぎなくなってはいませんか?
貴官のいってることは,カレルは不正確だから,ともかく無価値といってるようなものですよ.
データの正しさだけが,その本の価値ではないと思います.
Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/07/28(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
逆に言えば,戦略・戦史を読み取る為の資料としては最悪,って事は認めるんだ(笑)
【回答】
まったくの見当違いです.
当時の独側資料のみを使っていると言う事は,その資料をもとに独軍は実際の戦略を立てていたという事です.
つまり,独側の作戦意図を知るに,これは非常に重要な資料といわざる得ません.
逆にいえば…
この場合,正確な資料では駄目なんです.
あくまでも【独軍がなにを根拠にして考えていたか】という視点が,戦略や戦史の読解に必要かはお分かりでしょう?
もし正確な資料だけで構成された本しかなかったら,【なぜ独軍は,あの時点でこのような行動を取ったのか?】など疑問が多数噴出することになりますが,なにか?
Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/07/28(火)
青文字:加筆改修部分
【反論】
大木毅さんのコマンドマガジンの記事読む限り,パウルカレルの著作は今後,参考文献として使えないことになる.
曰く,元SS中佐の経歴を隠して著作を発表し,SSと国防軍の蛮行を意図的に隠蔽して,国防軍を悲劇のヒーローに仕立て上げている,とかそんな感じだったと思う.
山崎雅弘さんも『ロンメル戦記』で,カレルの『砂漠のキツネ』を参考文献に挙げてなかった.
ご本人のブログでも,「カレルはもう卒業すべきなのかもしれない」と書いてある.
大体,ドイツの連邦国防省でも公刊戦史は出してるだろうし,戦史以外のドイツ軍の分野でも,例えば当時の軍の服装規定の様な資料性の高い公文書は出てるだろうに,何故かそういう公文書って,「ティーガーフィーベル」の様な兵器マニュアルの一部と,映像資料だが「ドイツ週間ニュース」を除き,和書でも洋書でも復刻版や訳書が出ない.
その結果,自己弁護の回顧録や,著者の個人的思い入れの産物のような「研究書」が,「一級資料」扱いされるドイツ軍の「研究」って,アカデミズムの見地からすれば甚だお寒い限りだと思うが?
【再反論】
史料としての日記,手紙,回顧録の否定につながる気がする.
それが当事者の手によるものであれば,一次史料として扱われるべき.
史料批判や解釈の問題じゃないかな.
(そういう意味では最近出た守屋純の『国防軍潔白神話の生成』は,かなり有意義な著作だと思う.
戦後の冷戦下の西独で,政治的要請から創り出されたイメージが,戦史研究に大きな悪影響を及ぼしてきたことを解説している.
ドイツではそのあたりの見直しも盛んのようだけど,日本では昔の
「ドイツ国防軍はフェアプレー」
「負けたのはヒトラーの干渉のせい」
みたいな,創られたドイツ軍賛美のイメージがなお支配的だからね)
なお,山崎雅弘は,まだまだカレルを批判できるレベルじゃあない.
第7装甲師団と第11装甲師団マークを間違えるような恥ずかしい本出すことになる.
本人はあのマークが骸骨なのか幽霊なのかもわからんらしいけど,西方戦役での第5装甲師団長との確執とか知らんで,ロンメル戦記書いたのかね.
【反論】
別に全否定はせんよ.
ただしまず第一に,本人が直接参加したこと以外の信憑性は低いし,それすら本人自身が後から脚色したり事故に不利な事実を隠蔽,あるいは捏造する可能性は否定できない.
だから公刊戦史の様な形で,公の検証を経て裏が取れたものに比べると,やはり全般的に信憑性は劣ると言わざるを得ない.
その意味ではカレルは,「一次史料」ではあっても,上の問題を考えれば「一級資料」ではなかろう.
逆に言えば後述するように,本来「一級史料」となるべき公刊資料が「出てこない」故に,そういう個人の回顧録や個人研究家の著作が「第一級の資料」扱いされる,「ドイツ軍研究」の世界がアカデミズム的におかしい.
軍事板,2010/02/18(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
カレルはナチ?
【回答】
カレルが擁護してるのはドイツ国防軍であってナチじゃない.
むしろナチの親玉ヒトラーを,「ドイツが負けた元凶」と描いている.
ヒトラーの馬鹿な干渉さえなければ,ドイツはソ連に勝てたと書いている.
本当にカレルがナチシンパだったら,逆にヒトラーを礼賛していないとおかしいだろう.
ネオナチにとってはヒトラーはアイドルだからね.
カレルの本はむしろ「反ナチ」バイアス.
冷戦が終わって,第二次大戦史の見直しが進んでいるのは確か.
守屋純の『国防軍潔白神話の生成』みたいな本が出たのも,その流れ.
まともな戦史ファンは,ちゃんとそのあたりの変化も理解しているし,別にドイツ国防軍がクリーンだったなんて誰も思ってやしない.
ただし,戦史解釈の文脈が変わったからといって,冷戦期に出た文献の価値が全部ゼロになるわけではない.
軍事板,2010/05/19(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
独ソ戦では,太平洋戦線の何倍もの人が死んでいますが,硫黄島や沖縄,南洋諸島でやったみたいに,あらかじめ民間人を避難させることは考えていなかったんですか?
【回答】
ドイツ軍の進撃が急で逃げる時間がなかった.
ソ連の道路・鉄道などの交通網が貧弱なため,大量に人員が運べなかった.
政府の指示で,住民はできるだけその地に留まって抵抗せよと言われていた.
避難が行われなかったわけではなく,できないケースが多かったということ.
ロシアの国土の広大さと人口を考えれば,避難が容易でないのは想像がつくだろう.
国土が広大で人口密度が低いって事は情報の伝達もままならないって事でもあるんだよ.
家族単位であてもなく逃げ回るのと,秩序を保って地域単位で疎開させるのとではかなり違う.
やる以上は,避難させた先での生活再建も支援しなくちゃいけないし.
軍事板,2009/06/05(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
包囲下のレニングラードで食人が行われたというのは本当ですか?
【回答】
今は手元にないので記憶モードだが,ソールズベリー著「攻防900日」に同主旨の記載がある.
雪道に解体された金髪の少女の生首が置いてあったとか,ブーツを買いに出た若者がアパートに案内され,室内を覗いたところ,天井から解体された人体のパーツが吊り下げられていたとか
(その若者は何とか逃亡,兵士に助けを求めて生き延びた).
レニングラード周辺の攻防は3年くらい続いたが,ソ連が盛り返してくると,包囲下とはいえ生活も徐々に楽になっていったようだ.
1944年にソ連軍が独軍を駆逐して,完全に包囲が終わったあとの市場では,人肉を売る闇商人は姿を消し,みんなが子猫を買いたがっていたと書いてあった.
質問とは関係ないが,この本はルーデルがJu87を駆ってマラートを大破着底させた時の,レニングラード市民の証言も載っていて面白かった.
マラートの受けた大損害の様子は,市民の間でも語り草になっていたみたい.
二人兄弟の墓 ◆z8d8W/sbaQ in 軍事板
青文字:加筆改修部分
ソースにはならんが,NHKでソ連の戦争に関しての取材で,老婆(取材時)がくじ引きで隣村の赤ん坊をさらってきて食べた,と証言していたな.
さらに,食人全書のレニングラード包囲戦の章にも記述がある.
そういやドイツでも,人肉を売ってた肉屋が何人も逮捕されてるよな.
むちゃくちゃ怖い話.
軍事板
青文字:加筆改修部分
俺は『攻防900日』のラスト,レニングラード解囲後の市場の風景描写,「みんなが子猫を欲しがっていた」っていうくだりで泣いたよ.
アパートの住民がまるごと凍死や餓死で全滅してたり,闇市場で普通に人肉が売られている,そんな地獄のような生活がついに終わって,やっと街の人々の普通の生活が戻ってきた,ってのにじーんときた.
はるか昔の小学生時代,ドラクエ3のエンディングの風景(光が戻ってきたラダトームの街で,人々が喜んでる)
を見た時も,同じ気持ちになったのを思い出した(笑)
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ダニール・グラーニンとは?
【回答】
作家ダニール・グラーニンはかの有名なレニングラード包囲戦の生き残りであり,市民の体験記録をまとめた本も出しております.
『封鎖・飢餓・人間 : ドキュメント1941~1944年のレニングラード』上・下(アレーシ・アダーモビチ&ダニール・グラーニン著,新時代社,1986.1986.3)
なお,著者の一人であるアレーシ・アダーモビチは,1994年に亡くなっています.
2009年には,グラーニンに聖アンドレイ守護勲章が授与されました.
Годовщина снятия блокады
Ленинграда. Гранину вручили
орден Андрея Первозванного
Медведев вручил Даниилу
Гранину орден Святого
Андрея Первозванного
メドベージェフ大統領から直接手渡されたようです.
この聖アンドレイ守護勲章は帝政ロシア時代からある勲章ですが,1917年に廃止.
そして1997年にエリツィン大統領によって復活し,ロシア連邦における最高勲章として認定されたそうです.
著名な叙勲者の一人には,銃器設計者ミハイル・カラシニコフがいます.
ロシア連邦英雄が最高勲章ではないのね・・・
ロシア連邦英雄は「ロシア連邦政府からその市民に授与される,最高の名誉称号である」と書いてあったから,また別枠なのか・・・
CRS@空挺軍 in mixi,2009年01月28日09:17
【質問】
もし,ドイツがソ連に侵攻していなかったら,ソ連は先にドイツに侵攻するつもりはあったんですか?
【回答】
「スターリンは極秘裏に対ドイツ戦争計画を進めており,実際に1941年6月の時点でソビエト軍はウクライナ南部,ルーマニア-ウクライナ国境付近に集結を始めていた」
という説もあるが,賛否両論あって定説とはなっていない.
まず,肯定意見は以下のようなものである.
フライブルクの軍事史研究所の元研究員であるヨアヒム・ホフマンや,最近近代史の正教授に任命されたヴェルナー・ マーザー,その他のさまざまなジャーナリストや歴史家によって,ドイツの対ソ戦の研究がされているが,それによれば,ヒトラーはソ連を攻撃したのではなく,直前に迫ったスターリンの対ドイツ攻撃に対して機先を制した「だけ」である,としている.
こうした予防戦争テーゼは,多くの歴史学者によっても「議論の価値がある」とされている.
「対独攻撃計画書」(独及びその同盟国に対する戦争の為の戦略開進計画)
・支攻撃をジードルチェ,デンブリン方面に加え,ワルシャワ近郊に独軍を拘置する
・スロヴァキア国境に近いボーランド南部をクラカウ方面に進み,ドイツと同盟国を分断した後北上し,ポーランドに展開している敵軍を包囲
・フィンランド,ハンガリー,ルーマニア,東プロイセンに対しては防御
・作戦には303個師団,砲兵74個連隊,218個飛行連隊を使用
ソ連が41年7月に対独開戦を予定していた,等の説が出ている.
また西部に防衛するだけにしては多すぎる部隊を配備していたのは事実.
ソ連の対独侵攻計画について詳細に触れた本は「砕氷船」という本.
著者がソ連からの亡命将校(GRU所属の佐官)であることもあって,ドイツ系の書籍では大きく扱われることが多い.
「知られざるスターリン」等,ロシアでは否定的に扱われている.
「ヒトラーがソ連の先制攻撃に機先を制した」という見解を取ってる資料一覧:
Victor Suvorov, Icebreaker: Who Started the
Second World War ?, Hamish Hamilton, London,
1990;
V. Suworow, Der Tag M, Klett-Cotta, Stuttgart
1995;
V. Suworow, Stalins verhinderter Erstschlag,
Pour le Merite, Selente 2000;
E. Topitsch, Stalin’s War, Fourth Estate,
London 1987;
W. Post, Unternehmen Barbarossa, Mittler,
Hamburg 1995;
F. Becker, Stalins Blutspur durch Europa,
Arndt Verlag, Kiel 1996;
F. Becker, Im Kampf um Europa, Leopold Stocker
Verlag, Graz/Stuttgart 1993;
W. Maser, Der Wortbruch, Hitler, Stalin und
der Zweite Weltkrieg, Olzog Verlag, Munich
1994;
J. Hoffman, Stalin’s War of Extermination,
Theses & Dissertations Press, Capshaw,
AL, 2000;
J. Hoffman, “Die Sowjetunion bis zum Vorbend
des deutchen Angriffs”, in: Horst Boog and
others, Das Deutsche Reich und der Zweite
Weltkrieg, vol. 4: Der Angriff auf Sowjetunion,
Deutsche Verlag-Anstalt, Stuttgart 1987;
J. Hoffman, “The Soviet Union’s Offensive
Preparations in 1941”, in: From Peace to
War, Providence/Oxford, 1997, pp. 361-380.
軍事板,2005/04/17(日)
青文字:加筆改修部分
一方,否定的意見は以下のようなものである.
現実にジューコフは独軍の集結状態に対して,先制攻撃計画をスターリンに提出していはいる※.
ただし,バルバロッサ初期の赤軍の体たらくを分析する文章でよく言われているように,スターリンは,独軍がソ連を攻撃しないと信じたがっていたし,ジューコフはそのお陰で,参謀総長を地位を追われ,一時的に左遷された.
スターリンはまた,ドイツと対峙している部隊に
「ドイツ側より攻撃らしき行為があっても決して応戦してはならない.
ドイツ側の挑発に乗る事を厳に戒めよ」
という命令を出していて,これが独ソ戦初頭で徹底的に先手を取られる遠因になった.
さらに,41年夏季に攻勢を予定していたのならば,赤軍の部隊集結はさらに西に重点を移し,予備役のさらなる動員も,進められていなければならないが,現実ではそうではない.
D.M.グランツ&J.M.ハウス「詳解 独ソ戦全史」では,以下のように述べられている.
------------
(29)
最近二年間の間に高まってきた議論として,一九四一年五月に,ドイツ側の動員と明白な攻撃意図に照らして,ソ連側がヒトラーに対する「予防戦争」に乗りだすことを計画していた,というものがある.
これはジューコフによる一九四一年五月一五日付の提案(マーザー著『独ソ開戦』小社[学習研究社]刊)の再評価によってかき立てられたもので,かなりの数のソ連の雑誌で断片的なかたちで発表された.
亡命ソビエト将校V・レズーンがビクトル・スヴォロフの筆名で書いた二冊の著作では,スターリンのそのような戦争計画が断定的に論じられている.
レズーンの説は,当然のことながらドイツの歴史家たちの中でも広く受け入れられた.
また,主として政治的な理由から,今では旧体制の信用失墜になるのなら何でも真実だとして受け入れるロシア研究者の改革派グループからも受け入れられている.
簡単にいうとレズーンは,一九三〇年代末から四一年六月までの期間にスターリンがとった軍事上の措置は,すべて攻勢を目指したものであり,四一年夏にドイツに対する一撃に乗り出すためだったとしている.
ジューコフの提案では,七月にそのような攻撃を始めるように求めているが,これがレズーンの説の核心となっている.
この提案は恐らく事実であろう.
だがそのような提案は,どの参謀本部の業務でもありうる多くの計画立案の一つであるように思われる.
さらにレズーンは,一九四一年の,攻撃せんと身構えていた,堂々としてしかも不吉な能力を持つ,巨大なソビエトの「戦争マシーン」なるものを生き生きと描いている.
スターリンが将来ドイツとソ連との間で戦争があるかもしれない,と認識していた事実を承認することはできるが,彼が最低一九四二年までは戦争が起ってほしくない,と願っていたことは数々の証拠から明らかである.
また,その後にあったソ連側の戦闘での動きのすべて,そして特に実在する独ソ双方の文書資料は,一見堂々とした赤軍が,一九四一年には実はまったく戦争の用意もできておらず,堂々となどしていなかったことを示している.
たとえレズーンの説が正しいとしても,ドイツ側の攻撃計画はソ連のそれよりも先んじており,ジューコフの攻勢は七月に発起していることになっているのだから,これはドイツ側の攻勢の日程よりもはるかに遅い.
ドイツの攻勢はもともと五月に実施するものとして計画されていたのだが,六月二二日まで延期されたのだから(ジューコフの計画については第三章を参照).
------------(D.M.グランツ&J.M.ハウス「詳解 独ソ戦全史」,第2章/脚注29番,p.570-571)
結論が出るまでには,なお時間を要するだろう.
※「ソビエト国軍の戦略的展開に関する意見書,人民委員会議議長宛,一九四一年五月付」
という,ジューコフの手書きになる文書が人民委員会議議長=スターリンに提出.
これは,ティモシェンコ元帥の連署になるジューコフの手書き文書で,152師団による即時攻撃(ただし即時といっても7月)を提案していた.
軍事板,2005/04/21(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
独ソ戦は序盤はドイツ圧倒的有利なのですが,なぜ負けたか不思議です.
【回答】
元々独ソ戦は,ドイツにとっては,秋が来るまでの間にモスクワを陥として終わらせられる短期決戦の筈だった.
秋までどころか冬になっても戦争が終わらず,それどころか翌年になっても,その翌年になっても,ソビエトを負かせられなかった時点で敗北必至.
序盤で圧倒的に有利だったのは,
*開戦初日,ドイツの兆発と誤解(誤認)したスターリンが反撃禁止の指令を出した
*スターリンが粛清で実戦経験のある有能な将校をほとんど始末してしまっていた
*ドイツと違い,ソビエトは戦時体制に入っていなかったので,人員や資源の動員が遅れた
為.
それらが全て覆され,さらに米英の援助まで受けるようになっては,ドイツの敗北は必然.
そもそも,当時のドイツが準備できた軍需物資(例えばトラックとか,予備部品とか),鉄道建設部隊の質と量とかからすりゃ,ヒトラーが超天才だろうと,中央軍集団がクーデター起こそうと,あと二ヶ月早く対ソ開戦しようと,冬の到来が一ヶ月遅れようと,絶対モスクワまではいけなかった(参考:クレヴェルト「補給戦」).
【質問】
第二次大戦独ソ戦開戦の年,ドイツ軍は東部戦線で泥将軍が来ようが冬将軍が来ようが,いったん止まって後方体制(鉄道網の整備とか,土の道を舗装するとか)を完全にすることなく,ひたすら東進を続けたのはなぜでありますか?
秋のうちの進軍を止め,防御に有利な地形を占領又は陣地を構築し,補給を得て,暖かい陣地に立て篭もって冬篭りし,雪解けを待って万全の体制で攻勢を再開しなかったのはなぜでしょうか?
タイフーン作戦にかなり無理があるようなので疑問に思いました.
【回答】
それはあなたの根本的な勘違いです.
ひたすら東進などしていません.
1.まず,ヒットラーは当初よりモスクワ攻略など目指しておらず,穀倉地帯と工業地帯の割譲を望んでいます.
2.従って,バルバロッサ作戦はひたすらモスクワを目指してなどおりません.
(それは多分ご存知なんですよね.)
バルバロッサ作戦はスモンレスクあたりで決戦になり,それに打ち勝つことでソ連を屈服させられると言う,一方的(敵方が自分達の思ったとおりに大規模かつ組織的なな反抗をするはずで,そのタイミングまで決め付けていた)な構想の上に立案しています.
ご存知の通り,ソ連はそれに応じず,スモンレスク決戦は起こっていません.
2.様々な要因でタイムスケジュールに遅れを生じたものの,スモンレスクは陥落したのですが,ソ連側が南方に
大戦力を投入しはじめたため,その対策としてキエフ攻略を実施します.
キエフ攻略をしなかった場合,ソ連側の大戦力がドイツ軍の側背をつくことになり,今日ではキエフ攻略は必要な転進だったとされています.
3.キエフ攻略の終了時点で,スモンレスクでの越冬も視野にあったものの,キエフでの大勝利により,ソ連に予備兵力は無いと言う勘違いとスモンレスクからモスクワまでの距離の短さ,キエフ攻略の間にスモンレスク
に物資が集積できたことなどから,冬までにモスクワ攻略が可能であると考えたため,タイフーン作戦が立案されます.
結局,冬までにモスクワに辿り着けなかった訳ですが,眼前のモスクワを攻略しなければ,ソ連は屈服しないと言う思いと,前線の将が屈服させることで得られる名誉欲,どんなに苦戦しても結局その都度,「もうソ連に予備兵力は無い」と言う誤解が原因です.
簡単に言うと,あなたの言うのは正論ですが,ドイツ人は「自分には出来る」と言う誤解があったと言うだけの話です.
【質問】
ヒトラーの行った作戦は,稚拙だとか無謀だとか伍長の作戦だとか,よく批判されてますが,
もしヒトラーが作戦に横槍を入れずに軍人に任せていれば,独ソ戦の結果は違ったものになったのでしょうか?
それとも,ドイツの敗北が数ヶ月遅れて日本の後になるくらいでしょうか?
【回答】
独ソ戦はヒトラーが口を出さなかったからといって,おいそれと結果が変わるような戦争ではない.
捕虜と戦死者が少し減るかもしれない程度.
何となれば参謀本部も予測を外し,赤軍に何度も出し抜かれているのだから.
あと,チョビヒゲが横槍を入れたことについては,逆に役立ったものも多い.
III号に長砲身50mm砲載せたりしたのがそれ.
まぁ入れた横槍の半分が役に立ってもう半分が害をなしたら,後者の悪評の方が目立つようになるわな.
457 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/08/26(火)
23:21:46 ID:???
>>454
それにそもそも,ソ連はドイツがどんなに効率的な戦法をとっても,国力的に元から勝てる相手ではない.
まぁ,早めにモスクワを陥として,共産党幹部全員ブチ殺すことに成功すれば,あるいは勝てたかも知れんが,あまり現実的な話ではないと思われ.
ソ連はタイフーン作戦の際,万一に備えてモスクワの首都機能の移転を進めて一部実行していたくらいだから,一時的にモスクワ占領できたからって,翌年には奪還されて何の意味もなかったかもしれないしな.
ヒトラーが口を出さず,バルバロッサ作戦が行われなかったらという仮定なら,それこそ全く違うものになるだろうが.
軍事板,2008/08/26(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
やっぱ東部戦線でもドイツ軍は死守命令で苦労したんですかね?
【回答】
非常に苦労していた.
戦線によっては,死守命令がなければ戦況を覆せるであろうものもあった.
モスクワ前面からの撤退について...
将軍たちはヒトラーに向かって,冬期の防衛線を確保するために思い切って大幅に後退するべきことを進言した.
軍は冬の厳しい戦闘の準備をしていないという点を指摘したのだが,しかし,ヒトラーは聞こうとはしなかった.
「軍は一歩も退いてはならぬ.各自その現在位置で戦うべし」
と.
この決定は一見,壊滅を招くように見えたけれど,その後,事態は彼の命令が正しかったことを再度証明した.
フォン・ティペルスキルヒ将軍の話;
「前線の防衛は,1914年~18年の時より遥かに堅固であった.ロシア軍は我々の戦線を突破しようとして何度も失敗した.
彼らは遠く我々の側面へも迂回したけれども,その有利な形を完全に成功させるだけの技量も補給もなかったのである.
我々は鉄道と道路の集合地点であるいくつかの町に集結し,そこをハリネズミ型の要塞に固め上げ
――これはヒトラーのアイディアだったが――それを固守することに成功した.
事態はそのようにして救われたのである.
多くの将軍達は,当時はそうは思わなかったが,今なっては,ヒトラーのこの決定が当時の事態としては最善であったと考えている.
これは彼の大きな一つの手柄であった」
と,ティッペルシスキルヒは言うのである.
「あの重大な危機に直面した時,軍隊はナポレオンのモスクワ敗退について聞かされていたことを重い浮かべながら,その影の下で生きていた.
もし,ひとたび退却をはじめたならば,おそらく恐慌的な壊走状態になっただろう.」...
ただルントシュテット将軍はこれについても手厳しい
「最初にこの危機を招来したのは,ヒトラーの頑固な抵抗命令だったのである.
もし彼が適時に後退を許していたなら,そもそもこういう危機は発生しなかったろう」
そんなこんなでヒトラーは,ますます将軍達の言うことを聞かなくなり,41年の冬には巧くいった「死守命令」の連発で,ドイツ軍の柔軟な機動性を生かした防御戦を張るといったこともできず,ドイツ軍は各地で無理な地形での圧倒的に不利な条件の中,防御戦を強いられ,徐々に消耗していったようです.
ここで死守命令を出した張本人,ヒトラーについての話;
42年の作戦計画中に
「諜報機関の情報によれば,月に600台から700台の戦車がウラル山脈,またはそのあたりの工場から送られてきているということであったが,ハルダーがそれを話すとヒトラーは卓を叩いて,
『そんなことはあり得ない!』
と言った.彼は自分が信じたくない事は信じようとしなかった.
また,リデルハートのインタビューでは・・・
「私が多くの将軍に尋ねたことは
『スターリングラード以後でも,もしうまくやれば敗北が避けられたと思うか?』
ということであった.
ルントシュテットはそれに答えて
『避けられたと思う.もし前線の司令官達が,いつでも適当と思う時に後退することができたならば』
ということである.
ところが実際には,もう至るところで,いつまでも無理な抵抗をやらされた」
彼は1941年に東部戦線を去ったのだから,その後の事態を,割合客観的に見ることができた.
その上,彼は性格的にも楽観主義者ではなかったし,さらに,両戦線で共に上級指揮官をやったことがあるという特別な経験からしても,彼の大局的な意見は拝聴に値する.
同じ質問を,最後まで東部戦線に残っていた将軍達にした時には,彼らの返事はもっとはっきりしていた.
ドイツ軍が弾力的な防御戦をやりさえすれば,ロシアの攻撃力は消耗してしまったろうと言うのである-もし,そうすることが許されるならば…と.
これがヒトラーの死守命令について,
インタビューでの見解については全く同感.
少なくとも戦略的な勝利は可能であったはず,
下手をすれば戦争に負けなかった可能性もある.
以上,「ナチスドイツ軍の内幕」(B・H・リデル・ハ-ト著,岡本訳)からの引用あり.
他にも死守命令のさい,指揮官が
「塹壕を掘ろうにも地面がこうりついてほれません」
というと,ヒトラーは
「ならば重砲の砲撃で穴をあければいい」
「お言葉ですが総統,砲撃に使う分のそれから差し引いても,一個師団が防御体制を整えることは不可能です」
……といった取りもしばしばだった.
また他にも,防寒具・食料よりも弾薬燃料を優先したため,歩兵部隊は半数が戦わずして戦闘不能.
戦車に関しても,ヒトラーが色々と面倒なことをしでかしたために,雪道はまだしも,春になって雪がとけ,泥沼になった道路を走ることは無理だった.
さらに,道路が整備されていないという前線の報告を無視した総統が,無理に部隊を前進させたせいで,一本の道路を2つの師団が奪い合う,といったことも起きた.
とにかくひどい有様だった.
名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM:
FAQ BBSに転載
【質問】
バルバロッサ作戦・青作戦・クルスクの戦いまでのの,枢軸国の独逸以外の同盟国(イタリアなど)の参加兵力と,師団の名前や軍団などを教えてください.
【回答】
1943年前半までの東部戦線における枢軸同盟国の参加兵力は,師団以上の編成に限定して,おおまかに列記すると,以下のようになります.
・ルーマニア第3,第4軍
(第1装甲師団,第1,2,5,6,7,8,9,10,11,13,14,15,18,21,35,近衛,グランチエリ歩兵師団,第1,5,6,7,8,9騎兵師団,第1,第2,第4山岳師団)
・ハンガリー第2軍
(第1機甲師団,第6,9,10,12,19,23歩兵師団,第105,121,124保安師団)
・イタリア第8軍
(ジュリア,トラディンティナ,クニエンセ山岳師団,コッセリア,パスビオ歩兵師団)
上記の他に,フィンランド軍,スロバキア軍,スロベニア軍,スペイン軍などの部隊も参加しています.
1942年夏期の「青作戦」には,ドイツ軍はかつて南方軍集団と呼ばれていたA軍集団とB軍集団を投入しました.
A軍集団には第1装甲軍と第17軍が含まれ,一方のB軍集団には第6軍と第4装甲軍のほかに,ルーマニア第3,第4軍,ハンガリー第2軍,イタリア第8軍が含まれていました.
B軍集団は攻勢の左翼となるウォロネジからスターリングラードへ至る戦線を担当し,ハンガリー軍はウォロネジ正面,イタリア軍とルーマニア軍は,スターリングラードを攻撃するドイツ第6軍の両翼に配置されていました.
ハンガリー第2軍は3個軍団編成で,装甲師団1個,歩兵師団6個,保安師団5個を有し兵力は約7万,
イタリア第8軍は3個軍団編成で,山岳師団3個,歩兵師団5個,機械化師団1個,保安師団1個を有し,兵力は約10万,
ルーマニア第3,第4軍は合計で6個軍団を擁し,歩兵師団13個で兵力約15万,
というような陣容でした.
なお,ルーマニア両軍とイタリア第8軍は,1942年11月~翌年1月までにほぼ壊滅しました.
【質問】
WW2東部戦線における,ルーマニア軍とハンガリー軍の戦歴を教えてください.
派遣軍がスターリングラードで潰滅したことぐらいしか知らないのです.
また,このような同盟国軍は,言語の違うドイツ軍と柔軟な作戦行動をとれていたのでしょうか?
【回答】
どっちも1レスでは入りきらない長さになるのはわかりきった話.
wikiの英語版に記事があるので,英語が読めるならこちらを読んでくれ.
http://en.wikipedia.org/wiki/Romania_during_World_War_II
http://en.wikipedia.org/wiki/Hungary_during_the_Second_World_War
ごく簡単に言えば,ルーマニア軍もハンガリー軍も軍の近代化が遅れ,独ソ戦では大きな損害を出し続けている.
また農村の封建的な身分関係が,軍内部にも反映されていたため,農民出身者が多い兵卒と,旧貴族や地主階級の多い将校の関係も,ドイツのような円滑なものではなかった.
言語の問題ももちろんあったが.
ちなみに両国はトランシルバニアの帰属という問題を抱えていたため,同じ枢軸に属してはいたが関係はよくなかった.
そのためスターリングラード戦では,両軍の間にイタリア第8軍が配置され,隣り合わないようにしていた.
ちなみにルーマニア軍の唯一の戦車師団については,「ラスト・オブ・カンプグルッペ」で紹介されてるので,そちらを読んでくれ.
軍事板,2009/06/05(金)
青文字:加筆改修部分
▼ 並木書房の第二次大戦各国軍装全ガイドと言う本がありまして.
大戦で戦った全世界の軍の主な軍装が出てるものです.
マジャール陸軍機動旅団憲兵隊の軍曹;
帽子は黒のフェルト帽に雄鶏の羽根飾りだったが,東部戦線でフェルト帽はすぐに姿を消し,布製のカーキ色の制帽に同じ雄鶏の羽根飾りになり,最後はドイツと同じ胸章になったとか.
4万の兵力と160両の戦車で東部戦線に出動するも,ウマンの戦いで26,000名の兵と戦車の90%,車両1000台を失って,騎兵隊を残して1941年12月6日,ブダ=ペシュトに撤退.
マジャールの第一機甲師団の少尉:
チェコ陸軍形式のオーバーオールと,イタリア陸軍と同じ戦車帽を着ている.
同師団にはLT-38が38両,トルディが2両,II号戦車22両を装備していたが,あっという間に席巻されたそうです.
眠い人 ◆ikaJHtf2 : 軍事板,2002/08/04
青文字:加筆改修部分
▲
▼昭和17年1月に発行された東部戦線ドイツ軍写真集「モスクワへ」より
一見警察部隊のパナール装甲車写真かと思いきや,folgoreさんのご指摘で,ハンガリー軍の珍品チャバ(Csaba)装甲車と判明.
車輌もハンガリー第1騎兵師団の所属の様です.
この手の装輪装甲車は結構好きですが,チャバは知りませんでした.
見れば中々味のある形です.
http://www.axishistory.com/index.php?id=4244
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月20日01:44
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
ロシア派遣スペイン義勇軍(青師団)の戦歴と装備した兵器が知りたいのですが.
【回答】
青師団は,兵力18,000名で,1941年7月20日ニュルンベルク軍管区にて編成
262、263、269歩兵連隊、250砲兵連隊(3個砲兵大隊10.5cm野砲と1個砲兵大隊15cm砲を装備)
250戦車猟兵大隊(3個中隊、3.7cmPak装備)250偵察大隊(2個オートバイ中隊)
250通信大隊(2個中隊)250工兵大隊(3個中隊)等々
8月20日中央軍集団、第9軍に配属、東部戦線へ参戦、26日にヴィテブスクへ進撃
ちなみに,スペイン出発時は同国陸軍の制服を着用していたのですが,前線ではドイツ国防軍の制服を着て戦っていた.
10月10日北方軍集団、第16軍に転属、以後ノヴゴロド、イリメリ湖周辺、ヴォルホフ、レニングラード包囲に出撃
特に1943年2~3月のクラスニボルでソ連43、45、63、72、4個師団に対して前線を守り切った.
1943年10月7日青師団は解隊、ほとんどはクリスマスまでにスペインへ帰国するも,一部の兵士はドイツ121歩兵師団にて1944年1月でもエストニア戦線で戦闘を続行.
1944年3月にスペインに全員帰国.
1941年、718名戦死、1612名負傷、86名行方不明
1942年、1252名戦死、2777名負傷、3名行方不明
1943年、1964名戦死4077名負傷、237名行方不明
他に1941年-1944年の間に484名が捕虜になった.
スペインの空軍義勇兵は,中隊規模でJG57に所属して,1941~44年初期まで,交代制で合計4個中隊が東部戦線で戦っている.
他にも海軍義勇兵(掃海艇に乗艦)が有名だが,ソ連側にもスペイン内戦後の亡命者による歩兵部隊や戦闘機パイロットがいた.
光人社NF文庫に「中立国の戦い」という本があって,
そこにも少しだけスペインが取り上げられている.
Ospleyには確か青師団本があった.
【質問】
ロシア派遣イタリア軍の戦歴と装備した兵器が知りたいのですが.
【回答】
同軍は,Romania経由でUkraine方面に進撃しています.
第3"Amedeo d'Aosta"軽機械化騎兵師団は,1942年4月に第3騎兵師団を改編し,機械化したもので,1942年12月当時の編成は,
師団司令部,
第213自動車化師団司令部警護小隊,
第874自動車化師団司令部警護小隊,
第3"Savoia"竜騎兵連隊,
第5"Nobara"槍騎兵連隊(配下に第5"San
Giorgio"槍騎兵戦車大隊,第5,第6槍騎兵大隊),
第3自転車化軽歩兵連隊(第18,20,47,103自転車化軽歩兵大隊),
第6自転車化軽歩兵連隊(第6,13,19自転車化軽歩兵大隊),
第3"Principe Amedeo Duca d'Aosta"機動野砲兵連隊,
第120自動車化野戦砲兵連隊(第13自動車化対戦車大隊),
第99自動車化迫撃砲大隊,
第103自動車化通信中隊,
第105自動車化工兵中隊,
第73自動車化衛生中隊(第159,837野戦病院,第26治療隊)
で構成されていました.
装甲兵力としては,第3騎兵師団(第3軽機械化師団)に属する,第67ベルサリエリ装甲大隊所属のL6/40軽戦車と,1個中隊のセモベンテL40
47/32,それに少数のL3 カルロベローチェも有ったそうです.
T34を鹵獲して用いたと言う話もありますが,主力戦車の殆どが北アフリカと本土に持って行かれたので,結局は数の多かった軽戦車を送ったみたいです.
でも,セモベンテを送っているのだから,主力戦車M13/40系列を送っていたのかもしれませんね.
また,対戦車大隊にはM35 47mm対戦車砲,迫撃砲大隊には,M27/31 81.5mm迫撃砲が装備されていた様です.
前身の第3騎兵師団は,1940年6月,北部のヴェネト州第45ベローナ軍管区のベローナ衛戍地で編成,アルプス軍団に配属され,ユーゴ戦に参加.
後,第8軍イタリア派遣軍団(後の第29軍団)に配属され,1941年8月からドイツ南方軍集団と共に転戦,1942年4月にハリコフ方面に侵攻し,12月のスターリングラード救出作戦支援の際,ドン川付近の戦闘に参加.
そしてStalingrad北方で壊滅的な打撃を受け,1943年初めには本国に呼び戻されます.
1943年3月にイタリア北部,エミーリャ・ロマーニャ州の第6ボローニャ軍管区,ピアチェンツァ駐屯地に移動し,8月にボローニャ駐屯地に移転し,再編を完了.
9月15日にドイツ軍の武装解除を受け,解隊となっています.
空軍に於いては,ロシア方面特別航空兵団が編成され,ドイツの第4航空軍傘下で活動しました.
その兵力は,22°Gruppo C.T.のM.C.200が51機,61°Gruppo O.A.のCa-311が22機,S.M.81が11機を基幹とし,M.C.200はKrivoy
Rogから作戦していました.
初撃墜は展開初日で,SB-2bisとI-16の戦爆連合の大編隊を迎撃し,6機の爆撃機と2機の戦闘機を撃墜して います.
後に,B.R.20,Z.1007が追加され,1942年からは,M.C.202が参加,激しい戦闘を繰り広げましたが,指揮官が戦死,兵団も地上軍の敗退に伴って1943年に引き揚げました.
イタリア降伏後も,東部戦線に残ったイタリア軍部隊が少数存在しており,ドイツ軍の指揮下で戦ったとか.空軍もSM.81がドイツ軍への輸送機として活躍したらしい,という話もあります.
このロシア派遣イタリア軍については,個人戦記なら,「雪の中の軍曹」(マリオ・リゴーニ・ステルン著/出版:草思社/発行年月:1994.5)つー正真正銘の傑作があります.
【余談】
http://www.4gamer.net/news.php?url=/weekly/hoi2/006/hoi2_006.shtml
↑イタリアがレニングラード・スターリングラードに到達してしまった衝撃的なSLGリプレイレポート.
よしぞうmaro' in mixi,2007年04月23日01:05
【質問】
スロヴァキア陸軍は独ソ戦でどのように戦ったの?
【回答】
Slovakiaは,ドイツがソ連に侵攻した1941年6月22日に参戦した最初の衛星国の一つでした.
Slovakiaはまず,Rudolf Pilfousek大佐指揮の2,000名からなる快速グループ(1941年7月に5,000名で編成された快速旅団に格上げ)と,Ferdinand
Catlos将軍指揮下の50,000名以上の兵力を以て侵攻軍を編成しています.
この50,000名の兵力の内,35,000名は,8月には自国の農産物収穫のために,復員させています.
こうしてSlovakia陸軍は再編成されますが,快速旅団は,Jozef
Turanec砲兵大佐(後,将軍)指揮の下,8,000名に拡張されて快速師団となり,陸軍本隊は,Augstin
Malar大佐(後,将軍)率いる,8,000名から成る警備師団となっています.
快速師団は,Slovakia陸軍でも優秀な装備を優先的に割り当てられ,最も近代的で,最も機械化された部隊でした.
また,警備師団は,快速師団の後方で,その補給路を守っていました.
これらの師団は,ドイツの南方軍集団に属し,Livov,Kiev,Rostov経由でCaucasusにまで足跡を印しています.
しかし,「快速師団」「警備師団」は度重なる消耗で, 機械化部隊も歩兵師団化されてしまい,名称も,第1,第2歩兵師団となっていました.
しかも,その撤収までに,総兵力16,000名のうち,前線を去ってソ連側に投降する兵が続出し,その数は3,000名に達しました.
このため,1943年11月には,残った兵員で,脱落したイタリア軍の装備を接収して,第1, 第2機械化師団に再編成し,本国に戻されました.
同時期に空軍も撤収,こうして,東部戦線からSlovakia軍はいなくなりました.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
スペインって確か青旅団を東部戦線に送ってたけど,ヴィシー・フランスってそういうの無かったんですか?
SSの外国人部隊以外で.
【回答】
ありました.
まず,Franceのファシストである,デア,ドランクル,ドリオらに依って,1941年9月4日に,「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍団」が正式発足し,ドイツ軍の軍服を纏ったドリオ自らが,前線に赴き,赤軍と戦闘しています.
隊員は11,000人の応募に対し,6,500名が採用されましたが,ドイツ軍やHitler自体はこれをお荷物としか思っておらず,ドイツ軍の軍服着用を禁じたり,徴募人数の制限(15,000名まで).という制限を行っています.
隊員には,独身者で1,800フラン,妻帯者で2,400フランの月給が支払われ,これを基本給として,戦闘手当一日20フラン,児童手当が350フラン支給されました.
三人の子持ち兵士なら,3,480フランとなり,これは,ドイツに行った労務者よりも高給でした.
この軍団は東部戦線へ5,800名送り込んでいますが,彼等はドイツ国防軍の一個歩兵連隊として扱われたに過ぎません.
しかも,この軍団の指導層は過去にVichy政府に楯突いた人々だったので,尚更国の援助は与えられませんでした.
志願者の質も低く,当初の条件であったフランスの軍服と兵器が支給されなかったため,兵士の士気は低いものでした.
41年初冬,この部隊の2個大隊が東部戦線に派遣され,モスクワ前面で戦いましたが,大損害を蒙り,戦意に欠けるこの部隊をドイツ軍は戦闘能力なしと見なしました.
42年2月この部隊は第638フランス歩兵連隊と改称され,もっぱら対パルチザン戦に投入されました.
その後,44年,フランス人SS部隊である第7義勇突撃旅団と統合されて第33SS武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」となり,後に師団となりました.
逆にVichy政権の要人であるラヴァル,ブノワ-メシャンらの肝いりで作ったのが,1942年7月に創設された「フランス三色旗軍団」です.
しかし,正規軍の復活に繋がるとして,ドイツはこれも潰します.
他にアフリカ戦線で,1942年11月21日に「アフリカ軍団」なる総勢400人程度の軍事組織を作ってみたりしてますが,結局フランスの準軍事組織でモノになったのが,1943年1月に,フランス戦士団保安隊を核に誕生した「民兵団」.ラヴァルがダルナンを頭目にして作った組織で,兵士の月給は3~4,000フランです.
これは,最盛期には10,000人の規模となり,南フランスの被占領地域で,43年秋から親衛隊の指導の下,Resistance弾圧に投入されています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【質問】
独ソ戦の際に,ソ連に徴用されていたコサックなど少数民族が,ドイツ軍へ寝返ったようなケースがあるらしいと聞いたのですが,これはある程度まとまって組織的に行われていたのでしょうか?
それとも兵個々人の判断で行われていたのでしょうか?
また,これらコサック兵の戦後はどのようなものだったのでしょうか?
ソ連へ召還されたのでしょうか?第三国へ脱出したのでしょうか?
【回答】
基本的にはケースバイケース.
しかし,共産主義体制下で抑圧されていたイスラム系や,一旦独立後に再併合されたバルト三国などでは当初はドイツ軍を解放者として歓迎したものも多かった.
また,ロシア人やウクライナ人の中にもドイツ軍を歓迎した者もおり,独ソ戦当初には政治士官を殺害して部隊ごと投降する場合も多かった.
これらの人々がドイツに解放者としての期待を抱き,それが裏切られていく過程はJ・トールヴァルトの「幻影」(絶版)に詳しい.
これら対独協力者の運命だが,ほとんどが処刑もしくは流刑された.
西側に投降した人々も,米英がソ連と結んだ協定により引き渡され,ソ連に送られるよりはと部隊単位で焼身自殺したケースもあった.
イスラム系民族ではチェチェン人やイングーシュ人,クリミアタタール人などはその多くがシベリアや中央アジアに流刑されている.
その後にロシア人が入植し,これがソ連崩壊後大きな問題となっている.
チェチェン紛争もその原因の一つがこれである.
【質問】
WW2の東部戦線において「コサック義勇兵の中隊」などといったものが登場するかと思いますが,スペインの青師団のように国単位での義勇軍でなく,部族単位と形容すべき(?)義勇兵の部隊編成はどうなっていたのでしょうか?
やはり中隊規模程度で,あくまで独逸軍の補助的な役割だったのか?
もしくは大隊以上の規模でいたりするのでしょうか?
もし,ある程度の規模で存在したならば,彼らの戦績なども知っている方がいたらお聞かせ願いたい
.
【回答】
SSの義勇師団も含めての話かな?
主にスラブやカフカス地方の住民で編成された陸軍の外国人部隊(いわゆる東方大隊)は,基本は大隊編成だが,連隊や師団規模の部隊もあった.
師団規模以上だとパンヴィッツ将軍が率いたコサック騎兵師団とか,ウラソフのロシア解放軍とか.
ただ兵士たちの来歴(反共主義から熱烈に戦ったコサックもいれば,収容所での餓死を逃れるために志願した捕虜もいる)もさまざま.
サックが頭目(アタマン)に率いられて家族ぐるみの集団で志願した場合もあるし,捕虜収容所からかき集めた場合もある.
武装SSのカミンスキー旅団のように,元は国防軍の占領地域で自治区の治安部隊として作られたのが,ソ連軍の侵攻で故郷を捨て,そのままSSに拾われたというのもある.
ヒトラーやヒムラーのスラブ人蔑視から大規模な部隊の編成や実戦投入が中々許可されなかった為に,多くは後方での建設労働や捕虜収容所の警備といった汚れ仕事をやらされている.
これらの部隊の成り立ちや戦歴,運命についてはユルゲン・トールヴァルトの「幻影 ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語」(フジ出版)が詳しい.
ただし現在絶版状態なので,古書店か近くの図書館を当たってみるしかないだろう.
軍事板,2006/03/07(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「2重包囲」について説明が載っているところを教えていただきたいのですが.
「独ソ戦書籍を読め」
「ぐぐれ〔google検索しろ〕」
といわれそうですが,書籍は手が出ず,検索したところ「2重包囲を意図した」ばかりで解説が見つけられませんでした.
調べたところ
「両翼から相手を完全に包囲」
「前線で敵を包囲し,同時に別働隊で後退路も絶つ」
の2つぐらいしか分かりませんでした.
【回答】
単純な一重の包囲は,包囲側の全ての部隊が包囲された敵に向かって展開することになり,必然的に,敵の予備隊や後続部隊が救援に駆けつけた場合,背後を突かれることになりやすいのです.
包囲しているのとは別の部隊を使ってこれを防ぐのが「二重包囲」です.
つまり,予測される外部からの敵の反撃経路(包囲下の部隊にとっては脱出経路)を遮断し,友軍包囲部隊の背後を防護するわけです.
もちろん,その過程で実際に敵の予備隊などが出現すれば,その包囲にも成功する場合もあるでしょう.
軍事板,2004/10/24
青文字:加筆改修部分
【質問】
独ソ戦では,戦死者の遺体の埋葬はどうしたんですか?
凍土を掘るのは大変だし,放置されたんでしょうか?
また,遺族には,どこで亡くなったかの連絡は入ったんでしょうか?
遺品は届いた例は多かったですか?
【回答】
ずっと冬ってわけでもあるまいし.
ドイツの場合は,集団墓地を作ってそこに埋葬.
認識票を回収して,それを元に死亡を記録して,本国に連絡→家族に連絡.
補充や部隊の再編成のためにもこれは必要.
もっとも,これは余裕のあるときの話で,負け戦のときは遺体を遺棄して,そのまま後退する場合もあった.
そういう時は赤軍が捕虜を使って埋めさせたり,近隣住民が命令や自発的に埋めたりした.
遺体は腐敗して伝染病などの原因になるので,どこの戦場でも可能な限り埋葬する.
赤軍の場合は,共産党員や党員候補でないと,家族に死亡連絡が行かなかった.
だから大攻勢の前には入党志願者が急増したとか.
独ソ戦の戦死者の遺族には,息子や夫や兄弟がいつどこで死んだかわからないままの者が多い.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
北方軍集団がドヴィナ川を渡る前に最後に遭遇した,ソ連軍の機甲部隊との戦いはどんなものでしたか?
敗北の情報は正しく伝えられましたか?
【回答】
バルバロッサ作戦の初期,北部で,レープの北方軍集団が目的地である,バルト軍管区の向こう側,レニングラードを目指し,彼らとそのの間にある最大の障害,ドヴィナ川に向かって進軍していた.
ゲオルグ・ハンス・ラインハルトの第42機甲師団は,6月23日の夜にリストニアのライゼニヤ村において,編成されたばかりの機械化軍団の一部である戦車部隊に攻撃を受けた.
しかし,編成されて間もないこの部隊が,ドイツの熟練した機甲部隊にかなうはずもなく,戦術は単純そのもの,ただただ,火力で勝る敵に対し正面から波状攻撃を掛けていった.
当然,自らの手で戦力を消耗する形となり,挙句の果てに,側面からの別働隊の攻撃にさらされ湿地帯に追い込まれた.
結局,ソ連軍虎の子の戦車部隊は185両の損失を出し,全滅.
ドイツ軍はほとんど損害を出さず,何食わぬ顔でソヴィナ川に向かって進軍していった.
ソ連機甲部隊の唯一の戦果といえば,弾薬と燃料を浪費させ,さらにほんの数時間,ドイツの進撃を鈍らせたにとどまった.
情報については,同日午後十時
―「ソ連側に有利な戦況にあり,ドイツは押し戻されている」―
・・・ソ連軍参謀総長を務めるゲオルギー・K・ジェーコフが,開戦後の戦況とこう判断したことからわかるように
,モスクワでは,すべての命令が実行され,ドイツ軍に対して猛反撃が加えられているだろうと確信していた.
つまり,情報は正しく伝えられず,命令と架空の戦況のみが報告されていた.
名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM
【質問】
オデッサの戦いって何?
【回答】
オデッサの戦い Odessa csata / Bătălia de la Odessa は,1941年8月の独ソ戦初期,黒海沿岸の軍港都市オデッサを巡って行われた戦い.
枢軸国軍に約10万,ソ連軍に約4~6万の死者・行方不明者が出たが,枢軸国側が辛勝した.
なお,この戦いの際,オデッサ市民約10万人がルーマニア軍に2日で虐殺された.
ドイツ軍は既に兵員不足に悩んでいたので7月末,ヒトラーはアントネスクと交渉して,ブーク河とドニエストル河の間を,事実上のルーマニア領とするかわり,ルーマニア軍はドニエストル河以東での作戦に参加することになった.
そのため,オデッサ攻略戦の主力はルーマニア軍で,ニコラエ・チュペルカ将軍麾下のルーマニア第4軍第3軍団の歩兵4個師団と機甲1個戦闘団.
ルーマニア第4軍12個師団16万人の約3分の1だから,5万弱の兵力と見ていいだろう.
対するソ連軍はオデッサに8万6000で,対海軍艦艇用の大口径沿岸砲を有していた.
堅固な防衛陣地もあった.
ルーマニア軍は1941年8月5日,オデッサへの侵攻を開始.
8月始めにはオデッサを陸上から包囲したが,黒海の制海権はソ連黒海艦隊が握っていたので,オデッサのソ連軍への補給・増援は海路で続いた.
それどころか「1月革命工場」で作られた「オデッサ戦車」なるものまで出現し,さらにルーマニア軍の戦意を挫く.
これはトラクター(STZ-5軍用トラクター)に砲を載せ,鉄板や木の板を重ねたものを装甲板代わりに被せただけの急造戦車.
これを夜間に敵から見えるように動き回らせて,ソ連軍には戦車があるように見せかけ,ルーマニア軍の攻勢の意思を鈍らせようとした.
これはある程度,成功したという.
このためルーマニア軍は苦戦し,オデッサを陥落させることができない.
9月には指揮官がイオシフ・イアコビチ中将に交代.
攻囲戦が始まって以降3度の総攻撃を行なったが,オデッサが陥落する気配は一向になかった.
状況が変化したのは9月27日になってからである.
この日,マンシュタイン麾下のドイツ第11軍は,ペレコプ地峡のソ連軍防衛線を突破.
クリミア半島に侵入を開始した.
これによりクリミア防衛が危機に瀕し,ソ連大本営は,オデッサを放棄してその守備兵をセバストポリ防衛に転用することに決めた.
10月15~16日,オデッサの守備隊は,黒海艦隊によりセヴァストポリへ海路撤収.
10月16日,ようやくオデッサは陥落した.
もしドイツ軍がさらに突撃工兵2個大隊と突撃砲大隊を増援してくれていたら,もっと楽な展開になっていただろう.
だが,話はこれで終わらない.
10月22日,ルーマニア第4軍司令部および第10歩兵師団本部が置かれた建物で,爆発が発生.
建物は倒壊し,士官16名を含む67名が死亡.
死者の中にはイオアン・グロゴレアヌ将軍もいた.
実はこの建物,元はNKVDの施設で,撤退前にソ連軍は地雷を仕掛けておいたのだった.
第三者から見れば,接収前によく点検しなかったルーマニア軍の手抜かりなわけだが,理屈で復讐心が収まることなど滅多にない.
翌23日,ルーマニア軍は5000人の市民を射殺.
また,19000人の市民を港の9つの火薬庫に押し込め,これを銃撃したのち焼き殺した.
これを皮切りに,2日間で約10万人の市民が殺害された.
これを超える規模の殺戮は,ドイツ軍やアインザッツグルッペにさえ記録されていないという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiF3qG-3bXmAhXM62EKHU64B6IQFjADegQIAR
https://repmart.jp/blog/military-terms/hastily-built-tank/
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-3270.html
https://u-ff.com/ww2/
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/country/romania.html#%E3%83%BB%E9%99%B8%E8%BB%8D
http://adolf45d.com/2014/11/06/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%A5%B5%E6%82%AA%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E5%A4%96%E4%BC%9D%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%B7%A8%E2%91%A2%E3%82%AA%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5%E3%81%AE/
軍事板,2009/02/14(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツ軍はモスクワまで,最高どのくらいまで近づけたのですか?
【回答】
1941年12月5日,第二装甲師団の前衛部隊がモスクワ近郊,ヒムキという都市まで到達している.ヒムキはクレムリンから16km,モスクワ市の外縁からは8km.
この直後に攻撃中止命令が出てモスクワ攻略が頓挫した.
ヒムキには,これを記念した対戦車バリケード(鉄骨を三本直交するように組み合わせたもの)を模したモニュメントがある.
ちなみにクレムリン=皇居で換算すると,川崎市宮前区,溝の口あたりまで進出されたことになる.
そら,クイビシェフにも逃げるわな.
▼
昭和17年1月に発行された東部戦線ドイツ軍写真集「モスクワへ」より
faq110422ys12.jpg
faq110422ys13.jpg
前年のバルバロッサ作戦発動時から秋ぐらいまでを,PK(宣伝中隊)が記録した写真で構成されていますが〔略〕,写真がまた未見が多くて素晴らしい!
ダス・ライヒ師団のフリッツ・クリンゲンベルクSS
大尉(後のゲーツ・フォン・ベルリヒンゲン師団長/SS准将)の勇姿が染みます.
〔略〕
それにしても戦中にこういう写真集が売られていたとは驚きです.
これは当時の日本にも,ドイツ軍ファンは多くいたのでしょう.
因にこれは第一号ですが,第二号は出なかった模様で….
表紙もコレ以外に,黒いも帯とスワスチカ旗が描かれたタイプや,PKの文字が刷られたセロハンカバーが掛かったタイプもある様です.
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月20日01:44
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
バルバロッサ作戦の時,ドイツ軍は最大で何キロくらいの道のりを踏破するつもりだったのでしょう?
あと,フランス戦の場合は何キロを踏破したのでしょうか?
【回答】
バルバロッサ作戦時にドイツ軍が到達目標としていたのは,北は白海に面したアルハンゲリスクから,南はヴォルガ川がカスピ海に注ぐデルタ地帯のアストラハンを結ぶ線.
いわゆるA-Aライン(アルハンゲリスク=アストラハン・ライン)である.
旧東プロイセンのケーニヒスベルクからアルハンゲリスクまで直線距離で約1400km.
枢軸国だったルーマニアの旧国境からアストラハンまではやはり約1400km.
無論,直線では到達できないし,ソ連の道路網は整備状況が劣悪な上モスクワから放射状に広がっているので,所要距離はもっと長くなる.
最終的にはこのラインのさらに東にあるウラル山脈までを占領し,ドイツに併合する腹積もりだった.
また,侵攻が順調に進み,A-Aライン到達後には,イラン経由またははトルコを枢軸に引き込んだ上で,中東へと侵攻するというプランも検討されていた.
まあ,今考えると誇大妄想過ぎな目標だが.
フランス戦ではダンケルク後,ドイツ軍は進路を大きく左旋回して,フランス中~南部の残存兵力の掃討を行っている.
こちらの方はなんだかんだで1000km近く移動している.
ただソ連に比べ,フランスの道路網ははるかに整備されていたし,フランス軍の抵抗も衰えていたので,はるかに楽だったようだが.
【質問】
バルバロッサ作戦で,中央軍集団はヒトラーの命令で,途中でキエフに向かうことになりましたが,命令を無視しそのままモスクワに向かって進撃は出来なかったのでしょうか?
戦争末期はおおっぴらに命令違反してますが……
【回答】
無理です.
戦争末期だって,おおっぴらに命令違反してるわけじゃないはずです.
ヒトラーの前線への介入は,末期ほど酷いわけですから.
末期の命令無視状態は,
・命令系統が混乱していたか,
・物理的に命令遂行が不可だったか,
・指揮官が無謀なヒトラーの命令に対して抜け穴を見つけたか,
・指揮官がたまたまヒトラーのお気に入りだったか
に限られます.
それで,命令を無視してモスクワに進撃といったって,準備もなくできるわけでなく,そうした兆候がバレた時点で,指揮官が解任される可能性が大です.
解任された指揮官に従うものは皆無でしょう.
もし命令を無視してモスクワに進撃することができるとするならば,それはクーデタでも成功した場合に限られるでしょう.
軍事板,2006/01/27(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツ軍のタイフーン作戦の際,一部はクレムリンを望むところまで到達していたそうですが,作戦中止命令が出ていなければ,現地の戦力的に占領しえたのでしょうか?
【回答】
無理です.
クレムリンを望めるといっても,モスクワ市外外縁から30kmの地点が最大進出点であり,それも偵察部隊が突出したものです.
その時点で,積雪が本格化し,冬季装備のない独軍は,もう攻勢どころじゃありません.
軍事板,2006/01/27(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツ軍のモスクワ攻略は可能だったの?
本とかで,よくスモレンスク占領のあと,キエフ戦のためにモスクワ攻略をあとまわしにした事が,後のモスクワ,ひいてはロシア(当時ソ連)打倒の失敗につながったといわれてるが,やっぱりつまみぐいせず,まっすぐ首都に切り込めば,モスクワはおちていた?
【回答】
41年にモスクワに直行しても,赤軍主力を取り逃がすだけ.
ドイツ軍としては,なるべく近くで赤軍を撃破したいところ.
ウラルまで追いかけるのは辛い.
正面攻撃は犠牲が大きく戦果が少ないので,モスクワ攻略は大包囲によるべきだ.
しかし41年にはとてもそこまでの時間も力も無いので,態勢を固めるのに集中する.
具体的にはレニングラード,ウクライナのドニエプル以西とセバストポリの制圧.
レニングラードを抑えることによる効果は絶大.
・バルト海の聖域化による輸送の効率化
・北方援ソルートへの攻撃(ムルマンスク,アルハンゲリスク)
・ソ連第2の都市の生産力破壊
・鉄道結節点を抑えることによる北方ソ連軍の柔軟性喪失
ウクライナを抑えるのは石炭,鉄,農作物などの資源が目的.
ソ連の鉄鋼生産の3割程度があったはず.
副次的にはルーマニア油田の安全確保.
大戦末期にはソ連軍の人材も枯渇していたのだから,ドイツ軍がより効率よく戦っていれば,勝った可能性もゼロではないと思う.
(1:3の損失比を1:5くらいにできていれば・・・
ソ連人も学習するんだから,さすがに無理か)
ソ連の地形って,地図見るとわかるけど,東へ行けば行くほど広がっていく扇型だから,侵攻すればするほど前線が広がって,各ドイツ軍部隊の負担がより大きくなっていく.
そうすればアルハンゲリスク~アストラハン線どころか,仮にレニングラード~モスクワ~ドネツ川線を占領したとしても,それを維持するため兵力を(衛星諸国を合わせても)持ち合わせておらず,広く分布した薄い戦線をソ連軍が突破するのは難しくなかったと思う.
大体,初期ロシア西部におけるドイツ軍の電撃戦の成功のときでさえ,あまりにも作戦地域が広いため,戦車や快速部隊,歩兵が足りず(また,それに追いつけず)ロシア軍を完全に包囲壊滅しきれなかった位だから,領土拡張によるソ連を追い詰めるやり方は,まず無理でしょう.
(逆にいえば,守る側からすれば,後退すれば兵力が浮くわけだから,そこで生かして戦っていくほかないか…)
スターリンは6月22日(だっけ?開戦日)と,モスクワ攻防戦当時,赤軍のクーデターや,側近による暗殺をめちゃめちゃ恐れたようだし,その可能性は否定できないけど,ソ連体制の崩壊は,どうかなあ・・・?
もしスモレンスクからモスクワに直進してしたとしても,初期の電撃戦ほどの効果(ロシア側では予期していて,防御の準備も整っていた)は望めなかっただろうし,極端にモスクワへ突き出た形は,キエフ北からの側面脅威が生じるため,キエフへの攻勢を転じたヒトラーの方が正当性があった.
仮に占領後,モスクワをソ連の冬季攻勢から死守しても,モスクワがドイツ軍の大突出部の最先端のため,スターリングラードのような包囲撃滅戦になりうる可能性は十分ある(Barry
Leachによる)
ウラル東への軍事プラントの移転は終わってたし,モスクワ占領による経済的な利益は,南部で入手できる資源等には及ばない.
モスクワがロシア鉄道網の重要な結節点としても,ロシア東部の産業地域とシベリアから前線との連絡接触は,モスクワの北と南の線路を通じていくらでもできる.
北海や中東からについても同じこと.
心理的,政治的な崩壊を招くかについては,1941~42年に莫大な人名と資材の損失に耐えてきた国民からすれば甚だ疑問.
みんな,ソ連を過小評価しすぎ.
レンドリースなくても,そうとういい勝負できたし,陸軍国家としては,じつは当時世界有数のハイテク国家だった.
ただ,無線機がないとか,アンバランスはあったけどね.
また,兵站の機械化については,アメリカのトラックがなければきつかろうと,ダニガン先生もどこかでいってましたね.
たとえばレンドリースがなかったとか,モスクワが陥落したとか,スターリンが暗殺されたとか,42年のブラウ作戦が成功して,南方資源の北方への輸送が不可能になったとか,いろいろ<架空戦記>的な歴史の転換点はあるでしょうが,おそらく,よくて数回にわたる独ソ休戦程度でしょうねえ.
後方のイギリスがアメリカの援助で頑張ってるところが,ニ正面作戦のつらいところですねえ.
そもそも,「相手に打撃を与えて講和に持ち込む」って発想が,第二次世界大戦の様相にそぐわないと思いますが?
あの戦争では相手の継戦能力を奪って戦争継続の意志を砕かないと,相手側は屈服しませんし,戦争継続の意志を捨てません.
(これはWW2での日独を見れば分かるでしょう)
日本のハワイ占領やドイツのモスクワ占領では,アメリカやソ連の継戦能力は奪えないし,継続して戦う力が残っていて戦局逆転の余地があれば,戦争指導者達は継戦の意志を捨てないでしょう.
これでは講和などが成り立つ筈がありません.
もし日露戦争の様な2国間の戦争なら,まだ間で仲介に立つ有力国の斡旋で講和(休戦の後に行われる講和(平和)会議の事,ここで双方の条約が合意に達せば終戦)が成り立つ場合がありますが,第二次世界大戦の様に,その有力国同士が世界を2分して戦う図式では,どちらかの陣営が敗北して消え去るまで戦争は終わらないと思います.
WW2でドイツや日本は講和の意志をもっていましたが(日本の場合は希望と言った方が良い),連合国側ではファシスト政権打倒まで徹底的に戦うとの意志を持っていましたので,
(下記「連合国共同宣言」)
http://archive.hoops.ne.jp/law/1942Washington.html
この共同宣言を反故にしてソ連ほどの国を単独講和に応じさせる事は,それこそ首都一つの占領ではなくソ連の継戦能力を奪って,国そのものの存続を危うくさせる以外にはないでしょう.
しかしモスクワ占領だけでそれが出来たとは思えません.
【質問】
第二次大戦で,ドイツがソ連に侵攻準備をしていた段階で,ドイツ上層部は,ソ連領内の鉄道の規格が違う事や道路事情が悪い事を充分に認識していたのでしょうか?
その解決策を持ってからソ連に侵攻したのでしょうか?
実際にはその輸送関係で苦戦したので,解決策は用意できなかったのだと思いますが,鉄道・道路事情は何とかなると思って侵攻したということでしょうか?
【回答】
鉄道に道路網は考えずに侵攻を開始したようです.
ドイツ陸軍には鉄道連隊があって,侵攻に合わせて鉄道の幅を改修して,トラック輸送部隊で不足分は補えると考えてました.
実際は鉄道連隊は数が少なく(西部戦線で手がいっぱい),前線部隊の進撃に追いつけなかった.
ロシアの道路網も舗装道路はモスクワ-スモレンスク間だけで,その他は良くて砂利道でした.
西ヨーロッパの地図表記と,ソビエトの道路の表記は同じだと勘違いをしており,道路網の不備と泥道が進撃を阻んだと言って間違いがありません.
ドイツ陸軍の戦車も機械化部隊も基本的には,舗装道路を進撃する軍隊だったのです.
不整地の走破力は非常に非力でした.
絶版になってますが「補給戦」には割と詳しく書かれています.
(一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)
【質問】
東部戦線のドイツ軍は,なぜ冬季戦準備が十分でなかったのですか?
【回答】
ドイツ軍には,ロシアの冬の寒さをあまく見ていたところがあったようだ.
厳冬の東部戦線の前線で,食糧や防寒具を待ち焦がれている部隊の元に,貨物列車が到着.
しかし中身は,ガラスと色つきの氷の破片の山.
それは,後方の補給将校が気をきかせたつもりで送ったフランスのワインで,零下数十度の寒さで瓶が割れてしまったものだったなんてこともあったそうだ.
ほかにも,ドイツの靴底に金属鋲のついたブーツをみて,
「そんなものを履いていたら,熱が逃げてあっという間に凍傷になる」
とフィンランド軍の将校が注意したとか,あるいは死んだドイツ兵のはいていたブーツをみて,
「我々はワンサイズ大きいブーツを履く.これなら新聞紙や布を詰め込んで防寒できるのに」
とソ連兵が嘲笑した,といった逸話がある.