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◆通史
<大西洋・地中海方面 目次
<第二次世界大戦FAQ
(画像掲示板より引用)
「Togetter」◆(2011/08/07) 勝者が敗者を処断する -ニュルンベルグ裁判と東京裁判-
World War 2 Live History & Historical Society
『金が語る20世紀 金本位制が揺らいでも』(鯖田豊之著,中公新書,1999.3)
『タイムズ・アトラス 第二次世界大戦歴史地図』( ジョン・キーガン著,原書房; コンパクト版,2001)
あの世界地図でお馴染みのアトラスから,第二次世界大戦歴史地図のコンパクト版が出た.
値段は6800円と少々値が張るが,買って損はない内容だった.
むしろ安いくらい.
もうあらゆるデータがテンコ盛り・・・・
------------軍事板,2001/08/08(水)
図法をいじってしきりに鳥瞰しているのが難点だ.
コンピュータいじれて嬉しかったんだねと微笑ましくも思うが,図上で距離を測れないのではなあ.
もとより大威力に疑いは入れない.
しかしもう少し使い勝手を考えて作られていれば,とも思う.
------------軍事板,2001/08/08(水)
【質問】
WW2のヨーロッパ戦線の戦記で,物語としても楽しめる,フィクションとノンフィクションの中間のような作品でオススメってありますか?
イメージとして,梅本弘の雪中の奇跡や流血の夏みたいな.
【回答】
とりあえず,かたっぱしから並べてみるので,後は検索するなりして,自分の趣味にあうのを探すと良いかも.
「バルバロッサ作戦」「焦土作戦」「彼らは来た」「砂漠のキツネ」
「最終戦」「ヒットラー最後の戦闘」 「擲弾兵 パンツァー・マイヤー戦記」
「空軍大戦略」「遥かなる橋」「一番ながい日」「最後の100日 ヨーロッパ戦線の終幕 上下」
「バルジ大作戦」「パリは燃えているか」「ラプラタ沖海戦」「バレンツ海海戦」
「ポケット戦艦」「戦艦ビスマルクの最期」「SS戦車隊」「パンツァーフォー」
「コンバット 第二次世界大戦-ヨーロッパ戦域」←TVとは無関係,WW2参加将兵の手記
「若き将軍の朝鮮戦争」「ドイツ戦車軍団 上/下」「イスラエル・生か死か」
「大日本帝国の興亡 1~5」「勝利なき戦い 朝鮮戦争 上下」
「戦艦ティルピッツを撃沈せよ!」
Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2011/03/03(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
1929年の恐慌の煽りをモロに受けた国の軍隊は,一時期の露軍のように予算不足でガタガタになってしまったんでしょうか?
【回答】
世界大恐慌自体は世界中にダメージを与えたので冷戦崩壊みたいな差は付かなかった.
ただし,孤立していた故に被害が出なかったソビエトが相対的にましだった.
その後各国はブロック経済に以降,ブロック経済と言うのは自分の植民地を囲い込む政策であるから,軍事力が物を言った.
そして植民を持たず,自由貿易に頼っていた国が「煽りをモロに受けた国になった」.日本とかドイツとかイタリアとか.
こうして市場・植民地獲得競争が再燃し,無理してでも軍事力を増強する国が続出.ファシズムや軍国主義,共産主義があいまみえる楽しい世界になったのでした.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
国際連盟が上手く機能することはあったのか?
【回答】
一応,1924年~1930年までは機能していた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「ドイツが支払わなければならない賠償を減額する計画ができた1924年には,各国政府は相違点を調停し,紛争を平和的に解決する議定書に調印した[ジュネーヴ議定書].
おそらく最も重要なことに,1925年に結ばれた結ばれたロカルノ条約は,ドイツに国際連盟の加盟を認め,理事国の椅子を与えたのである」
ちなみにロカルノ条約は,ドイツと周辺国に対する領土の取り決めなどを定めた条約.
ただ,問題点があって,東部方面(ポーランド・チェコスロバキア)には,問題が残っていた.
以下ナイ教授の文章を引用
「東部方面では,ドイツはポーランド,チェコスロバキアとの東部国境の変更をはかる前に,調停に応じると約束した.
しかし,この第2の条約は警鐘となるべきであった.というのも,いまやドイツには2種類の国境があり,一方は西部で不可侵であり,他方は東部で交渉次第だったからである.
だが,当時はこうした取り決めは進歩活動の拠点であった.
加盟国ではなかったものの,アメリカとソ連はジュネーヴでの国際連盟の会合にオブザーバーを派遣し始めた」
ただ,ソ連はロカルノ条約に関しては,「西側陣営によるソ連の封じ込めである」として強硬に反対した」けど.それでも,上手く機能はしていた.
もっとも,これは満州・エチオピアという1930年代の二つの危機のために霧散するのだが・・・.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)を参照されたし.
【質問】
国際連盟体制の瓦解原因は?
【回答】
1930年代の満州・エチオピアという,二つの危機によって,この体制は崩壊したと言っていい.
まず,満州だが,細かい話は,色々なところで語られているだろうから割愛するが,このときの国連の対応は非常に緩慢であったとナイ教授は指摘する.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「全体として,満州を巡る事例は,国際連盟の手順が緩慢かつ慎重で,総じて効果がなかったことを示している.
満州のできごとは国際連盟にとって試金石であり,そして,それは失敗に終わったのである」
個人的には,リットン調査団の共同統治案は受け入れたほうが良かったと思う.
次にエチオピアだが,この時,国連は,イタリアに対して制裁を課したが,それが中途半端だったと言える.
国連はイタリアに対して
・イタリアへの全ての軍事物資の禁輸
・イタリアへの借款禁止
・天然ゴム・鈴などの物資販売禁止
等の措置をとったが,実は,イタリアは,鉄や,石炭・石油を輸入することができ,さらに,スエズ運河をイギリスが閉鎖しなかったため,イタリアからエリトリアへの物資輸送も可能であった.
これは国際連盟が,イタリアはこの制裁でエチオピアから撤退すると言う楽観論から来ている.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「制裁はイタリア経済にある種の打撃を与えた.
この一年でイタリアの輸入は3分の1に低下したし,イタリア通貨リラの価値は下がり,イタリアの保有する金は9ヶ月で払底すると見られていた,
だが,制裁は苦痛をもたらしたものの,ムッソリーニのエチオピアに対する政策に変更を強いることはできなかった」
また,ヨーロッパのリアリストは,遠く離れたアフリカのことなど,ヨーロッパの安全保障に脅威ではないとみなした.
英仏は,エチオピアを二つに分け,1つをイタリアに,もう一つを国際連盟の統括区にすること計画を練った.
これに対して,イギリスでは
「集団安全保障を売り渡した」
と言う批判があったが,3ヵ月後にヒトラーがロカルノ条約を破棄し,ラインラントへ進駐したため,エチオピアどころではなくなり,英仏両国はイタリアと会同し,ヨーロッパのバランスオブパワー回復について協議した.
結果として,イタリアはエチオピアに対して軍事的勝利を収め,1936年7月までに制裁は解除された.
以下ナイ教授の文章を引用.
「この悲劇に関しては,国際連盟のハイチ代表が,最も明瞭に語っている.
『大国か小国か,強国か弱国か,近隣の国か遠方の国か,また白人の国か,非白人の国かを問わず,いつの日にかわれわれも誰かにエチオピアにされるかもしれないということを,決して忘れないようにしよう』
と.
そして,数年のうちにほとんどのヨーロッパ諸国が第二次世界大戦でヒトラーの侵略を被ったのである.
集団安全保障に関する世界で最初の試みは,陰鬱な失敗に終わった」
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
【質問】
国際連盟ができてから侵略をしたのは日独伊ソで,そのうちソ連は国際機関からは侵略認定されていない,でokですか?
【回答】
間違い.
まず,侵略をしたのがどこかは,評価が分かれる.
その4国以外では,パラグアイ,ボリビア,フィンランド,タイ,ペルー,ギリシャ,アフガニスタンあたりなんかは,侵略行為と呼ばれる行動をしてる.
例えばチャコ戦争に関しては
http://ww1.m78.com/topix-2/bolivias%20statement.html
もちろん,各国に言い分はあって,失地回復だとか自衛戦争だとか主張する.
また,ソ連は冬戦争がらみで侵略国として国際連盟で認定されている.
除名処分.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
1934年ローマ議定書って何?
Mi az 1934-os Róma Protokoll ?
【回答 válasz】
ローマ議定書は,1934年3月17日にローマでオーストリア,ハンガリー,イタリアの各国政府との間で締結された一連の国際協定.
ベニート・ムッソリーニ首相,オーストリアのエンゲルベルト・ドルフス首相, ハンガリーのゲムペシュ・ジューラ首相が署名.
(図表番号faq170905rm)は署名時の様子である.
3つの議定書から成り,すべて1934年7月12日に発効.
なお,議定書3号は,イタリアとオーストリアの政府間でのみ締結された.
議定書の内容は経済協力だったが,1933年のヒトラー政権成立を受け,ヒトラーの国境修正政策への対抗と,ユーゴスラビアの領土保全に対する,上記3か国の協力体制の一部だった.
この頃はヒトラー政権誕生に対し,周辺国が懸念を持っていた頃が窺える.
この頃,ハンガリーとイタリアの外交関係は良好で,もしハンガリーとユーゴスラビアとの間で戦争が起こった時には,ハンガリーを支持することをムッソリーニはゲムペシュに保障していた.
これに対してドイツは,ハンガリー,ユーゴスラヴィア,ルーマニアのそれぞれと為替精算協定を含む通商協定を結ぶことによって,中欧諸国への影響力を強めていった.
さらに,ユーゴスラビアが,
・このローマ議定書によって対ユーゴスラビア包囲網が強まった事
・1933年のイギリス・フランス・ドイツ・イタリアによる四カ国協定や1935年のフランス・イタリアによるローマ協定の締結により,イタリア,フランスがイタリアへ接近し始めたのを見て,対ユーゴスラビア包囲網が強化されたと考えた事,
・イタリアによる経済封鎖により経済苦境に陥って,ドイツへ依存が高まった事
から,イタリアへの対抗策としてドイツへ接近する効果ももたらした.
…あれ? この議定書,逆効果にしかならなかったのでは?
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/447760/en/ ※図表引用元
http://ecommons.luc.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=2195&context=luc_diss
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/JapanBorderReview/no3/03fukuda.pdf
https://books.google.com/books/about/Rome_Protocols_1934.html?id=cvyYtwAACAAJ
http://www.worldlii.org/int/other/LNTSer/1934/241.html
http://www.worldlii.org/int/other/LNTSer/1934/242.html
http://www.worldlii.org/int/other/LNTSer/1934/243.html
mixi, 2017.9.5
【質問】
なんでベルサイユ体制はあっけなく崩壊し,ヒトラーの進撃が始まったのですか?
【回答】
A,フランス一国で,どうやってヒトラーの野心を抑止しろっちゅーねん.
アメリカは孤立主義で関わってこない.
イギリスはWW1の再来を恐れて宥和主義に走る.
東欧には列強オーストリア帝国がもう存在しない.代わって生まれたのは,クソの役にも立たない小国ばかり.
同盟国だったロシア帝国は滅亡してソ連になり,英仏と対立する.
もうダメぽ.
以下,ドミニク先生『帝国の興亡』上巻,p144より引用.
【東欧とアメリカの場合】
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ヒトラーの一撃で,ヨーロッパのベルサイユ体制はあえなく崩壊した.
東・中央ヨーロッパの各民族が領土を巡って互いに調整できないほど対立していたことを考えれば,一九一九年の解決がもともと多くの敵を生み出すのは当然だった.
この地域における戦後の解決の勝者――ポーランド,チェコスロバキア,ルーマニア――はあまりに弱く,しかもばらばらだったため,ドイツに立ち向かえなかった.
以前はロマノフ,ハプスブルグの両王朝とオスマン帝国に支配されていた東・中央ヨーロッパには,ドイツが簡単に進撃できる力の真空があった.
こうしたプロセスを食い止めることができたのは,ベルサイユ体制を支配し,戦後のヨーロッパ秩序を打ち立てた旧連合国だけだったが,もはやその意思も能力もなかった.
この秩序はもともと,アメリカのヨーロッパ介入が無ければ存在すらせず,アメリカが一九一九年以降,孤立主義に向かうと,戦後の解決は大きな砦をひとつ失ってしまった.
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【イギリスの場合】
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イギリスは(自治領を数に入れなくても)フランスより強かった.
しかし,一九三〇年代のイギリスは――仮想敵国と比べた場合――半世紀前よりはるかに少ない資源で世界各地に広がる帝国を防衛しなければならないという課題に直面していた.
イギリスがたとえフランスと同盟を組んでも,三大陸で日本,イタリア,ドイツからの挑戦を同時に耐えねばならない状態に追い詰められていたのである.
いずれにしても,イギリスは常に,ヨーロッパ大陸への大規模な軍事介入を避けてきた.
一九一四年から十八年には,この伝統を断ち切って大陸に軍事介入したわけだが,その代償は膨大で,二度とこんな経験は繰り返すまいと考えた.
このため,イギリスは東・中央ヨーロッパの領土問題の解決に深い思い入れもなければ,ドイツの挑戦に対して武力を行使してまで防衛しようとも思わなかったのである.
イギリスはドイツの承諾を得ようとして,現地の人々に犠牲を強いて数多くの譲歩を進んで重ねていった.
要するにイギリスは,「ベルサイユ体制」の道義性に疑問を抱き,再びソンム川〔フランス北部イギリス海峡に流れる川で,第一次大戦の激戦地だった〕へと戻らねばならない恐怖感にも駆られていたのであり,イギリスにとってはヨーロッパよりも,むしろ帝国の優先順位や関係のほうが大事だったのである.
その結果,一九三九年九月,ついにヒトラーの挑戦に直面すると,イギリスが西部戦線に派兵したのは,あまり見栄えのしない二個師団というちっぽけなものでしかなかった.
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【仏とロシアの場合】
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一方,フランスは厄介な役目を背負い込んでいた.基本的な点は,フランスが一国だけでベルサイユ体制を支える手段をまったく持っていなかったことだ.
一九二〇年代,ドイツの人口はフランスの人口の倍もあり,ドイツの産業もフランスのそれよりはるかに優っていた.
一九一四年以前でもフランスは,ドイツ・オーストリアはいうまでもなく,ドイツ一国に対しても,独力で立ち向かえなかった.
これこそ,一八九四年に露仏同盟が結ばれた理由にほかならない.
それゆえ,一九一七年のロシア革命と帝政ロシアの崩壊は,フランスにとって,さらにヨーロッパのバランス・オブ・パワーにとっても破滅的だった.
実際,一九三〇年代にドイツの脅威が再び頭をもたげてくると,不十分ではあるがロシアとの同盟再構築に向けた努力が費やされた.
しかし,一九一九年に東ヨーロッパにきわめて反共的な国家の緩衝地帯がつくられていたため,ソ連が直接ドイツに干渉するのは困難だった.
それより重要だったのは,ソ連の共産主義と英仏の自由主義的資本主義のイデオロギー対立である.
英仏両国の世論はほとんど,共産主義ロシアとの同盟を毛嫌いしていた.
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【質問】
ベルサイユ体制において,ソ連は対ドイツ包囲網の一角として計算されていなかったのですか?
英仏ソの三国で独を封じ込める,というのは悪くないと思いますが.
【回答】
英仏がソ連を敵視したうえ,ソ連の側も西側を信用していなかった.
もしもドイツがソ連に進撃したら,自国だけで対抗する羽目になると思っていた.
以下,『帝国の興亡』上巻,p147より
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スターリンによる粛清が明るみに出ると,スターリン政権への反感は高まり,西側の政府も,国内の軍事的,政治的エリートを虐殺するような国家は戦争で活躍できないとの確信を強めた.
ソ連指導部のほうも,英仏への嫌悪や不信を鸚鵡(おうむ)返しにした.
ソ連側はミュンヘン協定〔一九三八年九月にミュンヘンで開かれたヒトラー独総統,チェンバレン英主張,ダラディエ仏首相,ムッソリーニ伊首相の四大国首脳会談で結ばれた.チェコスロバキアのズデーデン地方をドイツに割譲するとの内容で,宥和政策の典型例.ソ連は交渉から一貫して排除された〕を,ソ連の犠牲の下でドイツが東方へ拡大することを英仏が認めたものと見なした.
ドイツと戦争になった場合,ソ連が戦闘のほとんどを引き受けなければならないと信ずるに足る理由がソ連政府にはあったのだ.
フランスはマジノ線〔第二次対戦前にフランスがドイツとの国境につくった要塞〕を築き,その背後に身を潜めようとしているのは明らかだった.
(略)
他方,イギリス陸軍の状態を考えれば,ヨーロッパの戦争が決して長続きしなくても,イギリスが地上戦で役に立たないのは,もはや自明だった.
こうした要因が重なって,フランス,イギリス,ソ連はドイツに対する強固な共同戦線を構築できなかった.
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【質問】
ドイツはロカルノ条約を破ってラインラントへ兵を進めたり等,条約を破りまくりなんですが,それらについて,当時の国際機関であった国際連盟は具体的なことは出来なかった,ととらえてよいのでしょうか?
【回答】
何もできませんでした.
まあ,ラインラントはドイツの領土――ロカルノ条約により,非武装地帯にされていただけ――ですし,国民は進駐を熱狂的に支持しましたから….
ラインラント住民にとっても,いつフランスやイギリスから占領されるか分かりませんでしたからね.
軍事板,2004/06/13
青文字:加筆改修部分
加えて言うなら,英国の世論は概してドイツに同情的でしたし,フランスは政情不安でとても出兵できる状態でなかったということを考えれば,じゃあどこの国が制裁するのよ?ということになりますわね.
それを見越してヒトラーも進駐に踏み切ったんですが.
ただ,いざ実行するに際しては,ドイツ側もおっかなびっくりだったようで,(
ロカルノ条約では違反時に武力制裁が認められていましたから)英仏軍が攻撃してきた場合には,すぐに撤退できるよう準備をしていたそうです.
当時の独軍には実戦を耐え得るだけの実力はありませんでしたので.
【質問】
もしチェコがドイツに抗戦していたら,防衛可能だったでしょうか?
【回答】
その可能性は比較的高かったと思われます.
『第三帝国の興亡』(ウィリアム・シャイラー著,東京創元社,1977)によれば,割譲されたズデーテンランドにはボヘミアの山稜の背全の防衛線と,チェコの「マジノ線」要塞がありました.
それはこれまで,おそらくフランスのマジノ線を除いてはヨーロッパでもっとも大規模な防衛線を形成しているものでした.
また,ドイツが兵隊を集めだすと部分動員をかけています.
カイテル将軍はニュルンベルグの証言台で
「私たちは最初から,チェコスロヴァキアの国境要塞を攻撃するには,わが方の準備が不十分だという意見でした.
純粋に軍事的見地からすると,わが方は,国境要塞を突破するに必要とする攻撃手段を欠いていました.」
マンシュタインも
「チェコスロヴァキアが防戦しましたならば,わが方は,その要塞によって食い止められたことにはいささかも疑いありません.わが方は,突破するだけの手段を持たなかったからであります.」
ヒトラーさえも,チェコ要塞線を検分したあと,少なくとも部分的にはこれを認めた.
彼はあとでダンチヒの国際連盟弁務官カールブクルハルトに語って
「ミュンヘンのあと,チェコの軍事力を内側から検討する機会を得たとき,われわれが見たものは,ひどく,われわれを驚かせました.
われわれは重大な危険をおかした次第だったのです.
チェコの将軍たちが用意した計画は恐るべきものでした.
私は今になると,わが方の将軍連が抑制を主張した理由がよくわかります」
チェコ軍三十五師団が要塞線に拠って防戦した時,西部側には12個の師団,しかも正規師団は五個しかいないドイツにとって,百のフランス師団を止める術はありはしない.と結論付けています.
その事をドイツ軍の将軍たちは理解し,チェコへの攻撃に反対し,反ヒトラーへの最初の謀議をしています.
ただし不安要素としては,国力でドイツに劣っていた点がある.
確かに,チェコは中東欧の中では先進的な工業を持ち,人口も1千万程度でかなりの国力を持っていたが,それはあくまで中欧・東欧の小国の中での話.
もうひとつ,当時のチェコスロバキアは国内に数百万のドイツ人を抱えていたので,総力で戦える体制もとれなかった.
ナチス政権下でドイツ国民が団結していたのに対して,当時のチェコの人口の30%を占めていたドイツ系住民は,チェコではなくドイツに対する忠誠心を持ち,ドイツへの併合を求める活発な政治運動も存在した.
世界史板・改
スコダの38cm砲
(http://geopoli.exblog.jp/4195543/より引用)
【質問】
WW2(に相当する大きな戦争)の兆候を最初に感じたのは,何時の時代の,何処の国のどの様な人たちだったのでしょうか?
【回答】
ヒトラーがベルサイユ条約を公然と無視し始めた段階で,「次の大戦」は政治家にも軍人にも市民にも広く危惧され始めた.
でもだからこそ,
「あのような戦争をもう一度やってはいけない」
と,英仏は戦争回避に動いたので,結果的にナチスドイツを増長させて「次なる戦争」を起こしてしまった,とも言える.
果たして次の戦争とはどんなものになるのか?ということであれば,第1次世界大戦の終結後には既に,海軍大臣をやっていた人がこのように記している.
――――――
「戦争から煌きと魔術的な美が遂に奪い取られてしまった.
アレキサンダーやシーザーやナポレオンが,兵士達と危険を分かち合いながら馬で戦場を駆け巡り,帝国の運命を決する.
そんなことはもう無くなった.
これからの英雄は,安全で静かで物憂い事務室にいて書記官達に取り囲まれて座る.
一方,何千という兵士達が電話一本で,機械の力によって殺され息の根を止められる.
これから先に起こる戦争は,女性や,子供や,一般市民全体を殺すことになるだろう.
やがてそれぞれの国には,大規模で限界の無い,一度発動されたら制御不可能となるような破壊の為のシステムを生み出すことになる.
人類は初めて,自分達を絶滅させることが出来る道具を手に入れた.
これこそが人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である」
――――――
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次世界大戦での宥和政策は害悪だったのか?
【回答】
必ずしもそうは言えない.
そもそも,宥和政策は,古くからある手法の一つである.
宥和政策とは,敵の侵略を抑制したり,封じ込めるよりも,敵に穏当な利益を認める方が,こちらにとって,望ましい結果を得られる時に実行する政策である.
以下,ナイ教授の文章を引用.
1815年に戦勝国が敗れたとはいえ,未だに強大なフランスに宥和した時,宥和政策は成功裏に用いられた.
1890年代にイギリスは,台頭しつつあるアメリカに宥和した.さらに,1920年代に西洋諸国がドイツに宥和政策を取った方が良かったとさえ言えよう.
戦間期の大いなる皮肉の1つは,1920年代に西洋諸国が宥和すべき時に対決姿勢をとり,1930年代にドイツと対立すべきときに宥和政策をとったことである.
宥和はヒトラーに対しては誤ったアプローチであったが,イギリスのネヴィル・チェンバレン首相は,ミュンヘン会談の敬虔から言われているほど臆病な人物ではなかった.
彼は新しい世界大戦を回避したかったのである.
1938年7月に彼は次のように述べている.
『この恐ろしい(第一次世界大戦の4年間,人生の盛りに命を落とした700万の若者,不具になった1300万人の人々,父母や子供たちが味わった悲惨と不幸を思うとき,戦争に勝者はなくすべてが敗者である,と言わなければならない.
こうした思いから,ヨーロッパでの大戦争の再現を何としても避けることが,私の主要な義務だと感じるのである』」
外交上の失敗が戦争の原因という見本の1つとして,留意すべき事ではないだろうか?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
【質問】
では,チェンバレンの失敗は何だったのか?
【回答】
状況把握ができていなかったことだろう.
彼は,ヒトラーが計画的な侵略に対して,無知であり,この点は「無知の傲慢」と言えるかもしれない.
だが,その過ちを犯したのはチェンバレンだけではなかった.
第一次世界大戦は,意図しない敵意の連鎖反応であって,これは「ドイツとの宥和」という形で回避可能だったかもしれない.
(シュリーフェン・プランは結構致命的な気はするし,オーストリアに対する対応は褒められたものではないが)
政治学者,デビット・ガリレオが言うように,「成り上がり者(ドイツ)との理に適った協調を拒否したことの破壊的結果である」かもしれない.
だが,第二次世界大戦は,ヒトラーの計画的な侵略に対する抑止の失敗である.
以下,ナイ教授の文章を引用.
この意味で,2つの世界大戦を阻止するための適切な政策は,ほとんど正反対であった.
ドイツとの協調は第一次世界大戦を阻止するのに有益だったかもしれないし,ドイツに対する抑止は第二次世界大戦を防いだかもしれない.
だが,実際の政策は逆であった.
第一次世界大戦の再現を避けようとして,1930年代のイギリスの指導者たちは第二次世界大戦の引き金の手助けをしてしまったのである.
同じ時期に,日本を抑止しようというアメリカの指導者たちの努力は太平洋戦争をもたらした.
抑止は破綻した.というのも平和という選択肢が戦争に敗れるよりもひどい状況になる,と日本の指導者たちは不安を感じていたからである.
もちろん,これは単純な見方であって,第一世界大戦は完全に偶発的な戦争ではないし,第二次世界大戦は,単にヒトラーの計画的な侵略とも言えないので,過度に単純化するのには,慎重にならなければならない.
これらのモデルが,歴史の事実に照らして事実かどうか,それが現在の事態に適合しているかどうか,常に問い続ける必要があるだろう.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
【質問】
チェンバレンの宥和政策はいろいろと批判が多いですが,アレは時間稼ぎでミュンヘン会談後,イギリスは軍備を大拡張しているという話を聞きました.
これって真実ですか?
【回答】
軍備の拡張ならば,海軍を除いて,陸軍と空軍は1934年から開始しています.
軍縮条約に束縛されていた海軍も1936年から拡張を開始しており,防空用RDFの設置も1935年から開始されています.
そもそも,軍備の拡充などは一朝一夕に出来ませんので,それよりも早い時期に準備を行わなければ成りませんから….
また,操縦士の養成については,1936年から開始されています.
遅れたのは陸軍兵士の動員だけです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問 kérdés】
第一次ウィーン裁定って何?
Mi az első bécsi döntés?
【回答 válasz】
ありていに言えば,ミュンヘン協定のあとの旧チェコ領土分捕り合戦.
1938.9.30,ミュンヘン協定が成立し,ズデーテン地方のドイツへの割譲と共に,その他の地域は国際委員会によって係争地域の境界を定め,3ヶ月以内に行われる人民投票によって帰属を定めるとされた.
それに先立つ9.22,ハンガリーが旧領のスロバキアとカルパティア・ルテニアを,さらにポーランドがチェコ領シレジアの割譲を要求していたからだった.
ドイツとポーランドはこの協定に応じ,ズデーテン地方はドイツ,シレジアのうちテッシェンは人民投票の後の12月1日にポーランド領となったが,ハンガリーは応じず,チェコスロバキア政府に即時割譲を求めた.
両国交渉中の10.13,ハンガリー軍が動員されて国境地帯に集結.
チェコに圧力をかけたが,交渉は不成立となり,10.28,チェコスロバキアとハンガリーはドイツとイタリアに調停を依頼し,その裁定に従うと発表.
これを受け,ウィーンでドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップとイタリア外相ガレアッツォ・チャーノが主導し,国境画定の交渉が行われた.
11.2,交渉成立,協定が結ばれた.
これはウィーン協定と呼ばれる.
結果,南部カルパティア・ルテニアと南部スロバキアはハンガリーに帰属することとなったが,ブラチスラバや北部ニトラについてはハンガリーの主張は通らず,スロヴァキア帰属となった.
(図1)は帰属の移動を示す.
帰属地域にはハンガリー第4軍団が進駐.
しかし,これに反発したスロバキアとカルパティア・ルテニアでは独立運動が激化.
スロヴァキア全域の併合を目指したハンガリーとの間でスロヴァキア=ハンガリー戦争が発生したことは,別項にて述べる通りである.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.rubicon.hu/magyar/oldalak/1938_november_2_az_elso_becsi_dontes/
http://adatbank.sk/lexikon/elso-becsi-dontes/
https://www.arcanum.hu/hu/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/a-delvideki-hadmuvelet-1941-aprilis-874/tendenciak-a-ket-vilaghaboru-kozott-88B/az-elso-becsi-dontes-szovege-8AB/
https://www.youtube.com/watch?v=CfrRAPCZ2Xs
ポーランド・ハンガリー両国が直接国境を接することになったため,握手を交わして互いに抱き合う両国兵士
歴史的経緯から,両国関係は今日に至るまでほぼ良好である
faq180502bd.jpg
faq180502bd2.jpg
(こちらより引用)
mixi, 2018.5.2
【質問】
スロヴァキア・ハンガリー戦争について3行以上で教えてください.
【回答】
スロヴァキア・ハンガリー戦争 Slovak–Hungarian War (ハンガリー側呼称 "小戦争"Kis háború
)は,スロヴァキアとハンガリーとの間で, 実質的に1939.3.23~3.31にわたって行われた戦争.
スロヴァキアはハンガリーから見れば「歴史的ハンガリー」の一部であり,オーストリア=ハンガリー二重君主国においてはハンガリー王国領だった.
1938.9.30のミュンヘン協定においてチェコスロヴァキア解体が決まると,1939.3.15,国の東の枢要部であったカルパート・ウクライナ地区は独立を宣言.
アウグスティーン・ヴォローシンが大統領に就任した.
だが枢軸国側では1938.11.2の第1次ウィーン裁定により,この地区をハンガリーに「返還」することが決定されていた.
これにより,11,927㎢の土地と,人口869,299人(このうち86.5%がハンガリー人)がハンガリーに帰属することになった.
ハンガリー国内では,裁定の結果に,殆ど国民全体が有頂天になって満足感を表した.
平和主義詩人であるバビツ・ミハーイ Babits Mihály ですら狂喜し,
「ハンガリー人に祝福あれ Áldás a magyarra 」
という一編の詩でもって,こうした事態を歓迎したほどである.
Youtubeでもってこの詩のタイトルで検索すると,極右の動画がたくさん出てきて,なんだかなあ…という気分になるので注意.
1939.3.16,ハンガリー陸軍は同地区占領を完了し,「カルパート・ウクライナ共和国」首脳部はルーマニアへ亡命.
同国の軍事組織「カルパート・シーチ」は,同年5月まで武力闘争を続けたが敗れた.
ハンガリー軍の侵攻はそれにとどまらなかった.
1939.3.23,占領地区を更に拡大し,あわよくばスロヴァキア全土を支配下に置こうと,ハンガリー軍はカルパート・ウクライナ地区の国境を越える.
相手は建国されたばかりの傀儡国家と,甘く見ていたのかもしれない.
だが,スロヴァキア人達はアウグスト・マラル August Malar大佐の指導の下,軍民挙げて結束し,ハンガリー軍に対して抗戦.
3.24にはオクナ Okna 川までハンガリー軍を押し戻した.
3.25には空からの反撃を開始.
3.26には,可能ならばハンガリー勢力圏側に逆侵攻することを計画し,スロヴァキア軍は国境に結集.
3.31までに戦線は膠着状態となって,事実上戦闘が停止.
4.4,両国は和平条約に調印し,戦争は正式に終結した.
ハンガリーにとっては,軍備を浪費しただけに終わった.
この戦争の後,カルパート・ウクライナではハンガリー政府は行政機関にジェントリ出身の官吏を多数登用し,ジェントリ的態度と権威を「旧ハンガリー王国の」住民に叩き込もうとした.
しかし,それら住民は民主的なチェコスロヴァキアで20年を過ごしていた.
「権威主義体制」なんてお呼びじゃない.
激しい抵抗に遭い,政府でさえ,新旧の価値観の対立を露呈したこの問題を取り上げざるを得なかったほどだという.
また,スロヴァキア語の教育機関が閉鎖されるなど,高圧的な同化政策が行われたと非難されている.
【参考ページ】
フランク・ティボル『ハンガリー西欧幻想の罠』(彩流社,2008),p.100-102
http://slovakia.web.fc2.com/rusyn/rusyn.htm
http://ww2db.com/battle_spec.php?battle_id=231
【ぐんじさんぎょう】,2016/06/21 20:00
を加筆改修
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