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「D.B.E. 三二型」(2012/01/19)◆独でヒトラー著作販売へ 英出版社,禁止求め提訴も
「D.B.E. 三二型」(2012/01/19)◆ヒトラー暗殺計画の舞台を観光地に,ポーランド当局が投資誘致
「F速VIP(・ω・)y-~」:みんな大好き ヒトラー名言集
「VOR」◆(2012/05/03)「ヒトラーは読み書きができなかった」
>スコットランドのアバディーン大の研究者らは1916年にヒトラーが第1次大戦で負傷した後にミュンヘンの知人に対して書いた電報を分析した結果として,ヒトラーは読み書きができなかった,との結論を導き出す.
>研究グループはヒトラーは識字能力が無い事を恥ずかしがっていた為,自身の命令を口述筆記させていたとしている.
「YouTube」:Hitler in England
「YouTube」:Hitler Rap
「YouTube」:Hitler Song
「YouTube」:Spring time for Hitler 2005
「YouTube」:Jesus vs. Hitler
「YouTube」:Jesus vs Terminator(おまけ)
「裏日本観察学会」:exciteニュース:米兵が持ち帰ったヒトラーの地球儀、1300万円で落札
「ザイーガ」;【画像】ヒトラーが治療をしていた陸軍病院の廃墟画像
「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫がフューラーになるようです
「それにつけても金のほしさよ」◆(2009/12/04)やる夫がフューラーになるようです 番外編 ヴィニフレートとヘンリエッテ
「それにつけても金のほしさよ」■(2011/01/30)(最終回)やる夫がフューラーになるようです 第36章 意志の勝利
「大陸浪人のススメ ~迷宮旅社別館~」:中国人「第二次大戦で好きな人物は?」→「ハイル,ヒトラー!!」
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「メガとんトラック」◆(2010/04/07)ヒトラー入手図るも失敗,トリノ聖骸布を極秘移送 - 政治・社会 - ZAKZAK
「やる夫がフューラーになるようです」番外編 やる夫と「メトロポリス」
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第3章(前)
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第3章(後)
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第5章 後編
「ワラノート」:やる夫がフューラーになるようです 第6章 後編
『ヒトラーが寵愛した銀幕の女王 寒い国から来た女優オリガ・チェーホワ』(アントニー・ビーヴァー著,白水社,2013/5/18)
『ヒトラーの経済政策』(武田知弘著,祥伝社,2009,4)
すげえトンデモだよ.
著者の主張は
「今の管理通貨制度のようなものを,ナチスは既に実践していた!」
というものだね.
ケインズが褒めていたとか,独逸の行った画期的な通貨制は,不況を脱しするに有効だったが,戦後アメリカによって世界は金本位制に戻された,とか.
しかしあの政策は,その経済政策を採ったシャハト博士の功績なんだがね.
で,せっかく上手く行きそうだったのに,ヒトラーが再軍備始めておじゃん.
再軍備はヒトラー政権以前からの志向であり,政権獲得に際しての軍部との約束でもあったからなあ.
だもんで就任直後から本音をバラして,金を使い始めたり….
『大国の興亡』(ポール・ケネディ著,草思社,1993.3)の下巻でも,その辺は詳しく述べられている.
あの本の執筆者は,『大国の興亡』すら読んでないんじゃないかね.
内容を読んでて,どうもおかしいと思っていたが,著者が1967年生まれで,経済学部中退の只のライターと知って納得した.
他の著作も見てみたが,似たりよったりだったな.
新書は,本職の研究者が一般人向けに書いた概説書と在野の人のトンデモ本との落差が激しいね.
が,アマゾンでは好評で,2chではこの本を元に演説する人も….
なお,著者についてはこちらも参照されたし.
――――――名無しの愉しみ(黄文字部分)他 in 軍事板,
2009/05/15(金)~05/16(土),06/10(水)
青文字:加筆改修部分
『ヒトラーの最期 ソ連軍女性通訳の回想』(エレーナ・ルジェフスカヤ著,白水社,2011.6)
やっと読了.
本題自体は,1964年にソ連で初版が出て,ヒトラーが1945年4月に地下壕で自殺していた事を,初めて世に知らしめた古典なのだが,その後幾度か改訂を経て,今回もソ連の崩壊で新たに入手出来た資料,また西側の補完資料,そして,検閲で削除されたものを加えた改訂が行われている.
勿論,ヒトラーの歯形を解析する辺りがこの本の頂点なのだが,そこに至る前に,モスクワ攻防戦において,ルジェフで初めて著者が戦争に通訳として加わった(そして,ペンネームをルジェフスカヤとした)事や,以降の戦争の様相も書かれていて興味深い.
また,戦争に派遣する通訳の為の辞書を作っていた軍司令部が,最後の最後に辞書の不備に気がついた話も面白かった(罵倒語の辞書がなかったのだ)
本論の他に,幽閉されていた死の直前のジューコフとの会見記もあって,興味深く読んだ.
つか,ジューコフの回想記も,日本では1970年に朝日から出されたのが最期だが,その後,検閲解除版がソ連崩壊後に出されているので,そろそろこちらも改訂版が欲しい所だったりする.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/10/01(土)
青文字:加筆改修部分
『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック著,文藝春秋,2010.1)
邦題が少しおかしいけど,読書人として見た総統評伝.
ヒトラーの個人蔵書は約16300冊,軍事関連書籍は約7000冊.
戦史,軍服,武器,補給品,動員,訓練,士気,弾道学,あらゆる分野を網羅.
7000冊の多くを明らかに読破している.
建築,演劇,絵画,彫刻関係が1500冊.
他には社会学,占星術,栄養・食事療法関連,教会関係等など.
大衆小説が800~1000冊.推理主説,冒険小説を愛読していた.
極度に集中して読書する性格で,1日1冊は読む.
徹夜もしばしば.
書斎のドアには「静粛に」の札が.
読書を邪魔したエヴァを怒って泣かした,なんて話も.
――――――軍事板,2010/01/14(木)
ちょっとかじって思った.
以前このスレッドの前の前の前の前の前の前位で,
「我が闘争の原著って幾らくらいだろうか」
と質問された時に,ヒストリカのオークションに掛けられていたタイプ原稿を,最低価格付きでカタログupしたけど,これって,この本が著された関係で掘り起こされた物だったんじゃないんかい.
そう考えると,あの時あんなんがいきなりオークションに現れたことに,納得がいくわなぁ.
――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2010/01/19(火)
傑作.
当のヒトラー本人が蔵書に書き込んだ傍線・メモや,贈呈者からの献辞などを手がかりに,ユンゲ秘書嬢(「最後の十二日)のだ)等多くの関係者の助けを借りつつ,ヒトラーの思考過程を追い直すという手法は凄い.
特に,ガセ情報が多すぎるOccult/Supernatural方面の考証に関しては,これが今後の真面目なスタンダードになるだろう・・・でなけりゃ困る.
ただこの板的に,1940年フランス戦役の書き方に,疑問なしとはしない.
ハルダー以下の参謀が,シュリーフェン計画に加えた二つの重要な改良が,
「イギリス軍の上陸を阻止するためにオランダに侵攻する,
及び,パリへではなくフランスの海岸線に向かう,という二点」(P269)
って…
確かにそうなんだが,当時,アルデンヌ方面から戦車で打って出るって事の意味合いが,これで伝わるかどうか.
他の項目でも,似た様な,結果として誤認になりかねない省略しすぎがなけりゃいいけど…
――――――軍事板,2010/01/23(土)
ふお!?傑作ですかい.
ちょっと齧って思ったことだけど,アレを理解するのはかなりの雑学知識が必要だよ.
グラントの優生学が,あからさまに確信的に,残酷に纏め上げられているなんて,読んでも居ない私に解かるわけもなし,
ショーペンハウエルの澄み切った理解力なんて,著書を読まなければ読者たる我々には判断できんのよ.
ニーチェを芸術家と位置付けている事も然りで,なぜヒトラーがそう思ったのかなんて,それらを読まなければ解かるわけがない(笑)
――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2010/01/24(日)
『もし高校野球の女子マネージャーがヒトラーの「マイン・カンプ」を読んだら』
第三帝国の「顧客」とは? 支配人種の資質とは? 国家社会主義におけるイノベーションとは?
フェルキッシャー・ベオバハター紙で絶賛!
最高の感動型政治論集! 国家とはなにか,民族とはなにかこれでもかと訴えてくる.
オペルブリッツ車内にもかかわらず,思わず男泣き(国防軍兵士)
物語形式でとてもわかりやすく読めました.「マイン・カンプ」でこんなに感動するとは.
後半の盛り上がりには手が震えました(親衛隊全国指導者)
ベルリンへ撤退中ですが,一旦行軍を中止してでも読むべし!
「顧客とは何か」から考えることで,東部におけるスラブ人追放やレーベンスラウム,ドイツ人入植後のイメージを膨らませることができます(国民突撃隊員)
――――――軍事板,2010/08/20(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーとヒットラーって,どっちがドイツ語の発音に近いんですか?
【回答】
どっちもどっち.
ドイツ語は英語なんかと比べると子音が強い.
Hitlerの発音の際,英語だとTとLが続いてると,どっちか消えたりするんだが,ドイツ語はちゃんと発音するせいで,Hiの後に若干の間が出来る(舌を動かしてる間ね).
英語圏の人間はHit+lerで発音するんで完全ヒットラーだが,ドイツ語ではヒトラーとヒットラーの中間,かな?
吃音までいかないが,若干の間があるから.
世界史板
青文字:加筆改修部分
[quote]
[オスロ 21日 ロイター]
ノルウェー北部にある戦争博物館の館長が21日,第2次世界大戦中にヒトラーが描いたとみられる漫画を発見したと述べた.
同館長はこの漫画について,ドイツのオークションで約300ドル(約3万2000円)で落札した「A・ヒトラー」の署名入り絵画の中から見つけたとしているが,第三者による確認はまだ行われていない.
漫画は1937年のディズニー映画「白雪姫」に登場する小人が3色で描かれたものと,同じくディズニー映画のキャラクター「ピノキオ」のスケッチ.
小人の漫画には「A・H」のイニシャルが書かれているが,ピノキオの方には書かれていないという.
同館長はロイターの取材に対し
「私はこれらの絵をヒトラーが描いたと100%信じている.
もし誰かが偽物を作ろうとしたなら,絶対に見つからないかもしれない絵の後ろには隠さないだろう」
と話している.
[/quote]
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-30461820080222
Did Adolf Hitler draw Disney characters?
結構上手いな.
ヒトラーはもとは画家志望なんだっけ?
【回答】
小さい頃から画家志望だったが,基本的に都市の風景画とか印象画とかそういう方面が得意で,人物画とか抽象画は本人に描く気が無かったせいであんまり上手くなかった.
▼ それだけなら,自分の得意な絵をちょっと頑張ればウィーン美大にも受かってたはずだが,ヒトラーにとって不幸だったのは,ちょうどその頃の欧州画壇が印象派→抽象派表現主義への大転換の真っ直中だったという事.
「抽象画を描けてこそ一人前」
という風潮がまかり通っていたから,ヒトラーも2回受験して2回とも落とされてしまった.
この時にもしヒトラーが抽象画を頑張って練習して,2回目(か3回目も受けて)に受かっていたら…というのは,「歴史のif」.
NASDAPが政権取ってヒトラーが総統になった後は,
印象派の絵→買い上げたり所持していたら名乗り出るよう触れ回って保護,美術館等で展示
抽象派の絵→無理矢理接収して焼却処分
●近代以前の古典的なスタイルの美術作品(ロマン主義等)
→買い上げたり所持していたら名乗り出るよう触れ回って保護,美術館等で展示.
●それ以後の抽象的,表現主義的なスタイルの美術作品(ドイツ表現主義等)
→無理矢理接収して焼却処分.あるいは逆に一所に集め「退廃芸術展」なるものを行う.(侮辱的なキャプションを付けた上で嘲笑・罵倒する展示)▲
因みに重度のディズニー・ヲタだったのは,ヒトラーよりもゲッベルス.
某板
&kozaru in FAQ BBS(訂正部分)
【質問】
ヒトラーが祖国オーストリアではなく,ドイツ軍に「移籍」したのは,オーストリアでは弱すぎて欧州制覇の野望を達成できないと判断したからですか?
もしそうなら,何故そのような判断をしたんですか?
【回答】
ヒトラーは当時墺=洪二重帝国に大量にいた酷使様だったんだ.
それも,オーストリアに忠誠を誓う酷使様じゃない.
ドイツに忠誠を誓ってたんだ.
こう書くと日本人にはわけわかめだが,『大ドイツ主義酷使様』にとっては,異民族で半数以上が占められるオーストリアより,ドイツ民族のみで構成されたドイツ帝国のほうが魅力的だったんだろう.
だからオーストリアで戦うのはイヤだけど,ドイツのためなら命は惜しまないぜって感じ.
戦争がイヤだったわけじゃないことは,その後の勇猛果敢な戦いが示している.
軍事板,2009/08/12(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
アドルフ・ヒトラーはオーストリア生まれですが,ドイツ軍に志願してドイツ兵となりました.
欧州では,このように他国の軍隊に志願できるんですか?
それとも,オーストリアがゲルマン人が非常に多い国だったから,当時は入れてくれたんですか?
【回答】
19世紀前半以前の軍隊ならよくあることだった.
たとえば大モルトケの父親はデンマーク軍に勤務し,モルトケ自身も短期間デンマークの士官だった.
それ以前の18世紀の軍隊は,アメリカ独立戦争における英軍のドイツ人部隊のように,外国人で編成された部隊すらあった.
フランス革命を契機として,19世紀後半になり国民国家という概念が確立するとともに,その国の国民で編成される国民軍と成っていった.
ヒトラーの場合は,
多民族国家であるオーストリア陸軍に入りたくなかったのでミュンヘンに移住
↓
度重なる出頭命令をシカトしてとうとう逮捕
↓
でもオーストリア軍の徴兵検査に不合格
↓
第一次大戦が始まったので,どうしても軍人として戦場に出たくて,バイエルン国王に「入れてください」と手紙を書く
↓
OKの返事をもらって(ドイツ帝国の一部である)バイエルン王国の連隊に入隊
という裏技を使ってる.
この辺の経緯は,「やる夫がフューラーになるようです」の1~2章あたりを読むのが手っ取り早いかも.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーのWW1時の階級は伍長なの? 上等兵なの?
資料によって違うんだけど.
【回答】
ヒトラーのWW1時の階級は"Gefreiter"です.
ゲフライターは米英では一応"Lance Corporal"に相当する階級とされています.
これをどう訳すかと言う話になりますが,実はけっこう面倒です.
これ,日本語への訳し方がモノによって伍長,兵長,上等兵とバラバラだったりします.
ドイツ陸軍では兵の階級は(1943年以降)
Grenadier
→Obergrenadier
→Gefreiter
→Obergefreiter
→Stabsgefreiter
となってまして,例えばこれを日本軍の階級に当てはめて
二等兵
→一等兵
→上等兵
→伍長勤務上等兵
→本部勤務上等兵
と訳すか,翻訳してその意味に近いように
擲弾兵→
上級擲弾兵
→伍長
→上級伍長
→本部伍長
と訳すか,"ゲフライター"の解釈によって違ったり.
伍長を下士官と解釈して"Unteroffizier"(下士官の最下級)を当てるか,逆にウンターオフィツィーアを英語のSergeantと解釈してゲフライターには伍長(もしくは伍長補)を当てるか….
なんにせよ,下士官に近いベテランと言う解釈には違いありませんが.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/09/04(日)
青文字:加筆改修部分
〔ちなみに〕当時のナチのスローガンの一つに
「宰相が纏め,元帥が救い,兵卒により完成される」
とかいうのがあったと思います.
宰相はビスマルク,元帥はおべっかでヒンデンブルク,兵卒はヒトラーですね.
下士官への登用を頑なに拒否していたようですし,,,〔ここから判断するならば〕上等兵ですかね.
でも,そしたら
「ボヘミアの伍長」でなくて「ボヘミアの上等兵」,
「伍長閣下」ではなくて「上等兵閣下」,,,
しまりがないですね(笑)
【珍説】
〔ヒトラーは〕勇敢な伝令兵で,勲章まで授けられているのだが,反面,態度がだらしなく,人望もなかったため,伍長どまりだったといわれている.
林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.22
【事実】
http://ww1.m78.com/topix/hitler%20at%20war.html
を見るに,この辺の記述は,ニュールンベルク裁判の証言に拠っているようですが,ヒトラー本人に昇進の意思がなかったと考えるほうが自然なようですね.
態度がたらしなくて人望のない人が,政党の党首になれるとも思えませんし.
WWⅠでの一級鉄十字って普通は将校のみが対象だったと思うが,
異例の功績を立てたとはいえ,態度のだらしない奴に,そんな勲章が授与されるのか?
ホホイ語さんは単に「勲章」としか理解してないんだろうか.
Posted by 名無しT72神信者 at 2007年03月30日
19:48:15
【質問】
第一次大戦中,ヒトラーがたった一人でフランス人十数人を捕虜にしたって本当?
【回答】
ジョン・トーランドの「アドルフ・ヒトラー」(集英社文庫,1990.4)によれば,捕虜にしたフランス兵は4名.
移動中,塹壕の中にいる敵をみつけ,自分の背後に向かって大声でどなって仲間がいるように見せかけて投降させたとのこと.
ヒトラーは伝令任務だったため,ピストルしか持っていなかったというから,度胸があったのは確かだ.
ただし,この後ヒトラーがもらった一級鉄十字章はそれまでの功績に対してであって,この事件を対象としたものではない.
なお,鉄十字章を渡したのは授与を推薦したグートマン大尉というユダヤ人だった.
この他にヒトラーが授与された勲章類は以下のとおり.
二級鉄十字章,剣付三級戦功十字章,傑出した勇敢さに対して連隊感状,戦傷者勲章,三級服務勲章.
軍事板,2006/05/07(日)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/07 (vasárnap)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
ヒットラーが着けている勲章は,何と言う名前の勲章なのですか?
旧ドイツで最も上位の物なのですか?
【回答】
結論を言うと,ヒトラーが胸に好んでつけていたのは第一級鉄十字章.
1918年6月,伍長勤務上等兵としてドイツ軍にいたヒトラーは,伝令の途中で見つけた四名のフランス兵をたった一人で捕虜にするという功績をあげた.
これに対し,〔それまでの功績と合わせて〕同年8月,一級鉄十字章を授与されている.
この勲章は当時最高位のものではなかったが,通常は士官に与えられ,兵卒や下士官に対する授与は異例のものであった.
これより上位の勲章にはプル・ル・メリート勲章(通称ブルーマックス)などがある.
ヒトラーは終生この勲章を誇りにしており,常に佩用していた.
どうも自力で獲得したその栄誉に彼はこだわっていたようで,新たに制定された各種の勲章を,自らに与えることはなかった.
なおこの授与を推薦し,戦地で彼に渡したたヒトラーの上官は,皮肉なことにユダヤ人であった.
ソースはジョン・トーランド「アドルフ・ヒトラー」第1巻(文春文庫)
軍事板,2004/09/21
青文字:加筆改修部分
一級鉄十字章の他にヒトラーが佩用していた勲章には,黒色戦傷章があります.
WW1で負傷したため授章したものです.
普段は一級鉄十字章のみを佩用している場合が多いですが,公式の場ではナチス党員章と一級鉄十字章,黒色戦傷章の三つを左胸に佩用していました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE : 軍事板,2004/09/21
青文字:加筆改修部分
ちなみに,ヒトラーが兵士として従軍した第一次世界大戦では,ドイツ帝国(の中のプロイセン王国)のプール・ル・メリート勲章が最高位.
ヒトラーが総統として軍を指揮した第二次世界大戦では騎士十字章が最高位.
ただし戦争の進展と共に柏葉付,剣付などさらに上位の騎士十字章が制定され,その最高位はダイヤモンド剣付黄金柏葉騎士十字章だった.
これをただ一人受賞したのが,Ju-87(シュツーカ)で戦車から戦艦まで撃破したスーパーエースのハンス・ウルリッヒ・ルーデル.
なお,プール・ル・メリートは将校のみの授与だったが,騎士十字章は下士官や兵卒に対しても与えられている.
軍事板,2004/09/21
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーはなぜ,四角いちょび髭を生やしていましたか?
【回答】
ヒトラーはWW1の戦中はいわゆるカイゼル髭を生やしていました.
彼は,敗戦後も軍の情報関係の仕事を続け,激増した新政党の調査を担当していました.
ある日,「ドイツ労働者党」(DAP)の集会に参加,調査をおこなっていたとき,経済学者のゴットフリート・フェーダーの演説に立ち会いました.
彼は"ちょび髭"を生やしていたのですが,その小さな髭は,彼がしゃべるたびに,形を変えてまるで生き物のように動いているように見えたそうです.
それを見ていたヒトラーは,小さい髭のカッコよさにあこがれ,それまで生やしていた大きな口髭を剃ってちょび髭にしました.
それ以来,ちょび髭はヒトラーのトレードマークになったというわけです.
これを機に,彼はDAPに入党して政治家への道を歩むのですが,これはまた別の話.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/06/22(水)
青文字:加筆改修部分
ヒゲなしヒトラーの図
(画像掲示板より引用)
【質問】
ヒトラーの,あのテカテカ頭はいったいどんな整髪料を使っていたんですか?
もしくは当時の一般的な整髪料はなんですか?
【回答】
ヒトラーがつけていたのはポマードでした.
ナチス(というかドイツ人は)はさっぱりとした短髪が好みのようで,当時のニュース映画や戦争記録を見ても,みんなかなりの短髪をぴっちりポマードで整髪してます.
軍からは戦場でもポマードが配給されるくらい,ドイツでは一般的な整髪料でした.
余談ですが,今でもドイツ人はさっぱり短髪が好みのようで,ニュースなんかよく観察すると,髪の短い人が多いですよ.
民族性ですかね.
髪型をイメチェンしたヒトラーの図
(画像掲示板より引用)
【質問】
ヒトラーおじさんは身長,どんくらいあったの?
映画『ヒトラー最期の13日間』では,やけにチビだったように見えるけど.
【回答】
173センチ.
当時のドイツ人の基準からみて,極端に小柄というわけではない.
ヒトラーの政権掌握後に兵役年齢に達したドイツ人は,第一次大戦中~終戦直後の,栄養状態が最悪だった頃に生まれ育った若者だった.
その為,我々がイメージするほどに平均身長が高くなかったりする.
(それでも当時の日本人よりは高かったが)
ギュンシェみたいに,ヒトラーの副官に任じられるようなSS将校は,エリート中のエリートだから,成績の他にアーリア人的容貌や身長,血統も考慮して選ばれている.
だから長身の奴も多かった.
ちなみにヒトラーの側近で,一番背が低かったのは党報道全国指導者のマックス・アマン.
写真で見るとヒトラーの肩の高さしかない.
ヒトラーが小柄というイメージは,チャップリンの映画『独裁者』によって定着したとも言われる.
しかしこれは逸話のようだ.
事実,『独裁者』での,ヒトラーがモデルの独裁者は基地外だが,チビではない.
海外の映画でも,「ヒトラーが小さい」というのはちょっとない.
明らかに小男として描かれているのは,日本の『アニメトラップ一家物語』だな,
将軍たちのヘソくらいの身長しかない.
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーが持っていた政治権限について知りたいのですが,彼はどれくらい独裁的な政治を行う事が出来たのでしょうか?
例えば,立法権についてですが,自分の好きな法律を作る事とか出来たのですか?
他の閣僚の賛同を得る必要が有ったのでしょうか?
【回答】
突撃隊の粛清以降は,国内に競争相手はいなくなり,あらゆる重大問題は,ヒトラーだけが裁決を行ない,大臣は任命しても閣議の召集は余り行なっていません.
嘘か誠かは分りかねますが,第二次大戦勃発を大臣がラジオで知ったという逸話が有る位です.
写真は映画『To be?, or Not to Be?』より
【質問】
「ヒトラーは政治家としては優れていた」といいますが,実際優れていたのでしょうか?
【回答】
ぶっちゃけ優れちゃいない.
たとえば財政上の解決にしても,短期の国債を乱発して銀行に引き受けさせ,帳簿に現れない予算をひねり出す.
インフレは国民生活に対する様々な統制でムリヤリ抑える.
都合の悪いことは報道管制で全部秘密.
それらすべては親衛隊の強権的な武力で裏打ち.
最終的にツケが回ってきたモノ不足や財源の欠乏などは…戦争起こして占領地からの収奪でまかなう(笑).
そりゃ,こんなことすれば,どんな国でも一時的には収まるだろう.
しかしこのシステムを継続するには,永久に新しい収奪先を手に入れなきゃいかん.
ヒトラーの性格上,会議でアドリブかまして予算や資源を配りやすいから,システムを変えるとも思えない.
つまり破滅は確実に迫っていたわけだ.
例えば金正日が広範囲な植民地を獲得して,そこから資源や資財を吸い上げる形で,党や北朝鮮本国の人民の生活を保障したとして,果たしてそれは優れた政治家だと言えるだろうか?
なお,A・シュペーアの分析によると,ヒトラーの仕事のスタイルはボヘミアン風で,一つのことを決定するのに,長い時間無為な時間を過ごして,そこからひらめきを出す,芸術家タイプだったとのこと.
戦争が始まって,自分の手にありとあらゆる権限を置いて,代理人も立てなくなってからは多忙を極め,その結果そういうスタイルがとれなくなり,急激に擦り切れていったらしい.
あと,意外なことにオカルト趣味はあまりなく,ヒムラーのオカルト趣味を内輪ではバカにしていたらしい.
軍事板,2006/03/12(日)
青文字:加筆改修部分
ベルリンの執務室
faq090609ht.jpg
faq090609ht2.jpg
ミュンヘンの執務室
(画像掲示板より引用)
【質問】
大戦勃発前の,ヒトラー政権の財政について教えられたし.
【回答】
Hitlerが政権を取った時,予算や国債発行に関する裁量権は確保しますが,未だWeimarの残滓があって,国債や中央銀行の独立性を侵害してまで,我を押し通すことは出来ませんでした.
1933年6月と9月に「失業減少に関する法律」が公布されます.
これは財政支出によって事業を行い,結婚によって女性を家庭に復帰させ,その空いたポストに失業者の男性を押し込むことで失業率を下げようというものでした.
この計画に必要な金額は,1933年半ばから2年半で50億マルクとされました.
これは当時の国民総生産の9%にも上ります.
ところが,この計画を実行するのに,国は30億マルクしか手当出来ません.
しかも,このうち19億マルクは,公共事業の受注を受けた土木業者が手形を振り出し,発注者の裏書きを受けて銀行に割り引かせて請求代金を回収し,銀行は手形を中央銀行に持ち込んで再割引すると言うやり方で対応しています.
よって,国が支出したのは11億マルク…なんか詐欺っぽい.
残り20億マルクは鉄道会社や自動車会社での政府機関発注の仕事ですが,12億マルク分は短期金融でファイナンスされています.
また,アウトバーン建設についても,本格化するのは1936年以降で,1933年に整備を打ち上げても,この投資額は1933年度は300万マルクにしかなりませんでした.
結局,Hitlerの経済政策は多分に,景気の上昇局面に当たったから上手く行っている様に見えると言う程度のものだったりします.
まぁ,つまりは宣伝上手だったのもありますが.
この年以降,今まで財政均衡していたのが破れていきます.
しかし,一番費用が掛かったのは,再軍備による支出でした.
アウトバーン投資は,1939年9月まで累計で55億マルクだったのですが,再軍備費用は累計で610億マルクに達しています.
このうちの120億マルクが,Mefo手形と言うものでファイナンスされています.
これは1934年に,先述の雇用創出手形の振出額を既に上回っていたり.
このMefo手形と言う代物.
国が軍事支出と財政赤字を隠蔽する為に開発したもので,Mefoと言うのは,「冶金研究有限会社」と言う一種のダミー会社です.
これは,KruppやSiemensなどを中心とする軍需企業4社を株主とした資本金100万マルクの会社で,1933年5月に設立されました.
軍需産業は国から発注を受けると,手形を振り出します.
この手形の引受先が「冶金研究有限会社」だった訳です.
この会社が引き受けた手形には政府保証が付き,中央銀行によって他の商業手形と同様の再割引が行われました.
この手形の期限は3ヶ月ですが,5年間を限度に3ヶ月ごとの再延長が可能でした.
こうして商業手形の扱いを受けたMefo手形は,国債とは別に割引を受けることが出来,市中銀行の単名手形などの形でも市場で流通していました.
1938年3月末でも,120億マルクのMefo手形のうち,約半分は市場で流通していたと言います.
当然,こうした手形の形で発行された金額は,予算書に現れず,中央銀行の貸借対照表にも割引商業手形として起債されるだけで,軍事支出を隠すことになります.
そして,この軍事支出は,武器や自動車,艦船,航空機産業に回り,これらの業界を潤すと共に,二義的にドイツ経済を活性化させることとなります.
ちなみに,日本の大蔵省理財局は,1936年の段階で,Mefo手形の存在を喝破していたりするのが面白かったり.
元々,この制度を考え出したのはH. G. Hjalmar
Schachtでした.
彼は,
「中央銀行によってこの手形を割り引かせることが,つまりは紙幣の流通量を増大させることになり,通貨の安定性が脅かされることとなる.
そして,5年の猶予期間が終われば,莫大な金額の償還が必要となる為,必然的に軍備に回す金が減り,軍備増強に歯止めが掛かる」
と考えていたようです.
しかし,1938年4月以降はMefo手形の代わりに国庫債券が発行され,彼の抵抗は蟷螂の斧になってしまった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月14日21:13
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーは原稿とか無しで2時間くらい演説ができたっていうのは本当?
【回答】
その話が本当かどうか知らんが,戦後米陸軍情報部がヒトラーについて調査したことがある.
それによれば,頭脳明晰判断能力優等,記憶力は信じがたいほど高かったそうだ.実際独逸の将軍連が驚くほどの莫大な知識を持ち合わせていた.
それに映像を見る限り,原稿なしで演説している.
さらに精神状態は健康そのもの,異常は全くみられないという結果が出ている.
ヒトラーを狂人に仕立てた歴史家は余り信用しない方がいい.
ところで自分の体験からすると,キチンと予習する時間さえあれば,実際,2時間話すのは難しいことではないと思う.
それこそ最初は,逐一話すことを組み立て,草稿並のノートが必要だが,2,3回もやると,ちょっとした資料の用意があれば,1時間半の間を持たせることは難しくはないと思えるようになった.
回数を重ねるほど,1時間半では足りない,2時間くらいは話せる.そう思えるようになっていった.
恐らく,もう少し経験を積めば,資料なしでも2時間ぶっ続けで話せるくらいになれただろう.
要は事前の準備と場数を踏めば,長時間話し続けることは可能だ.
ただし,内容の質が伴っているかは別問題.
人を魅了するだけの演説をやるには,明らかに別の才能が必要だと思う.
さらに,ぶっつけでやれと言われれば,それはかなり無理.
ぶっつけでそれが出来るとしたら,それはかなり特異な才能.
演説台に立つヒトラー
(画像掲示板より引用)
【質問】
ドイツ第三帝国総統という名の独裁者になったアドルフ・ヒトラーですが,あの凄まじい演説の能力はどうやって徹底的に能力を磨いたのでしょうか?
【回答】
ヒトラーについては,ドイツ軍所属以前にウィーンで絵描きやってた頃のほうが,政治的な素養には影響してるかと.
おおむねこの時代に,ウィーンで見聞きした事やら読んだ本が,思想的には基本みたいだし.
http://www.amazon.co.jp/dp/4582854559
青年ヒトラー (平凡社新書) (新書)大澤 武男
(著)
緑川だむ,2009年11月29日 21:12
ヒトラーは1918年に戦争が終わってしばらく,連隊の職場委員をやってます.
その後も除隊せず,軍命令で政治工作員やってたようです.
NSDAPに入ったのも最初は,正式の命令で内調が目的でした.
工作員としてはこれまた官費で,ミュンヘン大学の政治学セミナーを受けさせてもらったりしてますし,当時から弁舌さわやかな要員という評判が立ってました.
ウィーンの画家時代は,たぶんその仕事柄そんな才能については,本人も自覚してなかったんじゃないですかね.
入隊してから存外こいつは社交性のある愉快な奴だということになったんじゃないかと.
よくいると思いますよ,こういう人って.
ゆずこせう,2009年12月07日 10:47
以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーは兵器一つ一つにコメントしたと聞きましたが,それはどのようなモノだったのでしょうか?
【回答】
「戦車はもっと大きく!
装甲厚く強力な主砲を!
電動モーター?ナイスじゃないか博士!
ジェットエンジンは爆撃機に!
戦闘機!?
レプシロで十分だそんなもの!
さっき見せてもらったA-4いいね!
ただちに兵器として採用し,月産2000発を目指すように!
これは他の兵器より優先する!
ついでに高圧ポンプ砲も開発を急げ!
カレー海岸に並べてロンドン砲撃だ! 」
……といった感じ.
意外と的を射た判断も多かった.
特に戦車開発の前期は,かなりの明断.
普通の国なら硬直した思考や人事のしがらみに埋もれて終わりだったろうものに鋭く目をつけたのは,ヒトラーの英断だし,それを可能にしたのは独裁政治のフットワークの軽さ.
ただし,それらがデメリットを生んだ事例も当然あるというだけで.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼「弾頭質量を10倍にした上で,コンクリートの地下サイロから発射するようにしようぜ!」
とも言ってます(笑)
通常弾頭ではありますが,IRBMの先取りをやりたかったらしいです.
kz78 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年04月13日 02:58
▲
【質問】
ヒトラー自らデザインしたというフォルクスワーゲンって,完全オリジナル?
【回答】
1933年,ベルリンでオートショーが開催された.
これには,その年の1月に政権を獲得したHitlerがやって来た.
彼は他の車には目もくれず,真っ直ぐにタトラのスタンドに向かった.
そこで,彼は主任設計者のHans Ledwinkaに出会い,彼が遊説を繰り広げた際,タトラ・ツインという車で100万キロメートルも走り回ったことを話したという.
そして彼は,Ledwinkaの開発している空冷V8RR駆動の新型タトラについて,熱心に質問し,その夜,Ledwinkaは再度Hitlerに呼ばれ,10時過ぎまで,新型車に関する説明を求められた.
最後に別れる時,Hitlerはドイツが生産する新しい国産車は,タトラのような強い空冷にすべきだ,と言ったと言う.
Porscheの国民車構想の最初の基本設計は1933年暮れ,次の詳細な提言は,1934年1月に行われ,その後のPorsche-Hitler会談で,Volkswagenの誕生につながっていくのであるが,Volkswagenの試作車が1938年のWolfsburg工場起工式で,Hitlerの横に置かれた時,Porscheの下には,タトラ社からの10項目に渡るパテント侵害の通告が来ていた.
それには,シャーシの構造,トランスミッションのギアボックスレイアウト,冷却空気のダクト方式などなどがそのままそっくり取り入れられていた.
その後のチェコ併合で,タトラの訴えはうやむやになりましたが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
ヒトラーの,画家としての腕前は?
【回答】
建物を描くのは上手かったが,人物描写が下手だったとか.
以下引用.
ここからまた場所を移して,今度は何気ない建物の前に集合.
ここはなんとヒトラーが画家を目指していた時に,小遣い稼ぎの絵葉書の題材として書いた建物でした.
ガイドの兄ちゃんはそのヒトラーが書いた絵葉書のコピーを見せてくれたのですが,たしかに色使いといい建物の描写といい,なかなかの腕前です.
ところがヒトラーの問題は,建物を書くのはうまいのだが人物画が下手,というところにあったようで,これから政治のキャリアを目指していくようになったみたいですな.
余談ながら,芸術家としての側面では,こんなエピソードもヒトラーにはある.
ここ〔国立劇場〕でヒトラーはワーグナーのオペラを好んで聞いていたそうなのですが,なんせワーグナーのオペラは長いことで有名.
「ジークフリート」は六時間あるのですが,これをつれてきた幹部たちと一緒に観ていたときに,ある一人の幹部が居眠りをしていたのを見つけて大激怒.
これ以降は,つれてきた幹部全員を立たせて観るようになったらしいのです.
しかし六時間も立ちっぱなしというのは,ちょっとつらい.
ヒトラーも酷なことをするもんですな.
【質問】
ヒトラー時代のドイツって第三帝国とか自称してましたよね.
通貨もたしかライヒ・マルク(帝国マルク)ですし.
でも既にヒトラー時代には皇帝いませんでしたよね?
「帝国」って何か変じゃないですか?
【回答】
ドイツ語のReichには「帝国」の他「領域」,「界」という意味もある.
ここでいうReichとは(ドイツ人の)統一国家というところ.
旧帝政以前のドイツの諸国はStaat(=State,日本語ではしばしば「邦」と訳される)と呼ばれた.
フランスをドイツ語では今でもFrankreich(フランク人の国)というしオーストリアは今でもOesterreich(東方の国)である.
なおヒトラーが政権をとるまでのワイマール共和制時代のドイツ軍はReichswehr(国軍)と呼ばれた.
Wehrmacht(国防軍)と改称されたのはヒトラー以後.
もうひとつ,第三帝国は神聖ローマ帝国,ホーエンツォレルン王朝ドイツ帝国につづく三つ目のドイツ人国家というほどの意味で,正式の国名ではない.
軍事板,2004/12/18
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーの「威嚇外交」ってのを詳しく教えてくれ!
レジュメには,「近隣の小国に対する拡張」としか書かれていない.
このままでは追試がヤバいorz
【回答】
威嚇外交;武力を中心とする国力を持って相手の国・勢力に対して強硬に自国の主張を押しつけようとすること.
ヒトラーの威嚇外交としては,
1.ラインラント進駐
2.オーストリア併合
3.ズデーテンラントの割譲要求
4.ミュンヘン会談
5.チェコスロヴァキア併合
6.ポーランド回廊の割譲要求
がある.
このうち,ラインラント進駐以前の政策は,(再軍備宣言など)は,どちらかといえばドイツの内政に関わる問題である.
もちろん,ヴェルサイユ=ロカルノ条約違反であるため,外交問題の側面もあるが,やはり「ドイツの内政」の面が強い.
よって,外交とは考えない.
また,ラインラント進駐は,ドイツは軍備が弱く,威嚇にはあたらないのかもしれないが,ドイツの実力を水増しして見せていたのと,「戦争になりますよ」という威嚇の面があるので威嚇外交と言えよう.
【質問】
ヒトラーが取った外交戦略はどのようなものだったか?
【回答】
彼が取った「強行突破」戦略は四つの段階に分けられる.
1.ヴェルサイユ条約体制の破棄
・1933年10月の国際連盟の場において,フランスが兵力の削減に消極的だと,フランスに責任転嫁をした上で,国際連盟の軍縮会議から脱退し,1934年には,ポーランドと10年の不可侵条約を結んだ.
これはフランスがポーランドや東欧の小国軍(チェコ・ルーマニア・ユーゴ)の小協商推進に対抗するものであった.
・英仏は,ヒトラーの活動に対応すべく,イタリア・ストレーザに集まったが,ヒトラーは三国が集結する前に,イギリスに海軍条約の交渉を申し出,イギリスはこれに飛びついたので,ストレーザ会議からは,なんら建設的な見解が出ることはなかった.
・1936年3月に,ヨーロッパがエチオピア問題に関心を集めている隙に,ヒトラーはラインラントへ進駐し,実質上ロカルノ条約を破棄した.
そして,この理由を「フランスとソ連が協調したためである」と述べた.
以下,ナイ教授の文章を引用
「彼によると,フランスがソ連と協調路線をとろうとしたことで,ロカルノ条約は既に破綻していた.
他のヨーロッパ諸国がヴェルサイユ条約の改正に関する見解を受け入れるなら,国際連盟に復帰するかもしれない,とヒトラーはほのめかした.
これは西洋民主主義の罪悪感と不安感に働きかける,巧みな戦術だったのである」
2.近隣の小国に対するヒトラーの拡張
まず,彼は1940年までに戦争準備を整えることを目標に,1936年に4ヵ年の経済計画を立て,イタリアと枢軸同盟を,日本と防共協定を調印した.
また,スペインのファシスト,フランシスコ・フランコに軍隊や爆撃機を送り,ポルチェヴィズムに対する,西洋防衛の一端であると正当化.
1937年には,ゲルニカ爆撃を行い,スペインをドイツ軍事力の実験場とした.
これは国際的な非難を浴びたにも関わらず,英仏米は,共和国の愛国者たちを支援することを,ほとんどしなかった.
オーストリアでは,シュシュニック首相が,ヒトラーが強要する前に,国民が反対の意思を表すのを期待し,オーストリアがドイツと統一すべきかについて,国民投票を呼びかけたが,ヒトラーはこれに介入し,ウィーンに侵攻,ここにオーストリアの独立は終わった.
チェコスロバキアには,ズデーデンラントにいる,300万人のドイツ人の民族自決問題を持ち出して,圧力を掛けた.
ここはチェコスロバキアにとって,潜在的にドイツの攻撃を防ぐ拠点であったが,ヒトラーは,第一次世界大戦後の処分は民族自決の侵害であり,西洋諸国の背信行為だと論じ,この地方をチェコからドイツに割譲すべきであると主張した.
チェコ側はこれに対して,予備軍の一部を動員したが,これがヒトラーを激怒させ,チェコ侵攻に踏み切らせた.
これに対して,イギリスのチェンバレンは三度ドイツを訪れた.
以下ナイ教授の文章を引用.
「チェンバレンは,チェコスロヴァキアは遠隔であるため,そしてイギリスは大陸に兵力を持っていないため,イギリスがチェコスロヴァキアを防衛するのは不可能だと考えていた.
さらに重要なことに,彼はチェコスロヴァキアが戦争に値するとは思っていなかったし,イギリスに戦争の準備がないことも知っていた,
ゲルニカ爆撃が示したように空軍力がますます重要になってきており,空爆に対する恐怖が高まっていた.イギリスの防空・レーダー体制が航空戦に充分でないことを,チェンバレンは認識していたのである .
こうした理由から,チェンバレンは1938年9月にミュンヘンでヒトラーと会談し,もしヒトラーがチェコスロヴァキアの残りの地方に手を出さないことを約束するならばと,同国を分割してズデーデンランドをドイツに割譲することに同意した.
(中略)
わずか6ヶ月後の1939年3月に,ドイツ軍はチェコスロヴァキアの残りになだれ込み,首都プラハを制圧した」
これに衝撃を受けたイギリスは,次はポーランドを狙うのではないかと認識していた.
ここにも,ドイツ系住民がいたのである.
ここでも,ヒトラーは同じ手を使った
以下,ナイ教授の文章を引用.
「ドイツ系移民がこの地域に含まれているのは民族自決の侵害であり,ヴェルサイユ条約の背信行為の更なる好例だと彼は主張した.
今回はポーランド防衛を保証することで,英仏はヒトラーを抑止しようとした.
ここでヒトラーは,外交上のクーデターをまんまとやってのけた.西洋をポルシェヴィズムから守ると主張していたにも関わらず,1939年8月に彼は突如としてスターリンと独ソ不可侵条約を締結したのである,
この条約のおかげで,ヒトラーは西部で好きなことをするフリーハンドを得た」
これは,ポーランドを分割するための,秘密条約も含まれていた.
3.ヨーロッパ大陸での支配権確立
ヒトラーがポーランドに侵攻した後は「奇妙な戦争」と呼ばれる時期があり,彼は,イギリスが和平を求めてくることに期待した――なんか,第一次大戦のヴィルヘルム二世みたいだな――が,イギリスがノルウェーに上陸することを恐れ,機先を制するためノルウェーに侵攻した.
続いて,オランダ・ベルギー・フランスに対して電撃戦を仕掛け,マジノ線を迂回してアルデンヌの森を戦車で突破し,英仏の虚をついた.
イギリス軍はダンケルクに追い詰められ,装備を捨ててイギリス本土に退却した.
こうして,彼は1940年に欧州の派遣を握ることになった.
4.全面戦争への道
ヒトラーははじめから,東進し,ソ連と戦争するつもりであったが,それにはイギリスが邪魔であったので,二正面作戦を避けるために,イギリスを片付けたいと思った.
しかし,ドーバー海峡での制空権を取るためのBOBで敗北し,制空権を獲得できなかった
ここで,ヒトラーは難題に直面することになる.
以下ナイ教授の文章を引用.
「制空権を獲得しそこなったヒトラーは,難題に直面した.
ソ連の侵攻計画を延期すべきであろうか?
たとえイギリスを降伏させられなくとも,ソ連を攻撃しよう,とヒトラーは決意した.というのも,スターリンはたやすく打ち破れるし,その後再びイギリスを相手にすればよい,と彼は考えていたからである.
さらに,イギリスからソ連との潜在的な同盟の可能性を奪うことにもなるであろう.
1941年6月にヒトラーはソ連に侵攻したが,これは大きな誤りであった.
1941年12月に日本軍が真珠湾を攻撃した後,彼はもう1つの誤りを犯した.アメリカに宣戦布告したのである.
恐らくヒトラーは日本を戦争に組み込み続けようとしてそうしたのであろう.
彼は日本に独ソ戦に参戦するように促してきたし,機会のあるごとにアメリカ船舶に対し,Uボート(ドイツの潜水艦)作戦を展開していた.
このようにして彼は世界戦争に向かい,その帰結として,第三帝国は崩壊するのである」
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
ただし,ドイツがアメリカに宣戦布告したのは,もはやアメリカとドイツが実質的に戦争状態にあったからである,という見方もある.
以下引用.
「すでに,英ソ二正面作戦に陥ったヒトラーは,対米中立政策を堅持し,忍の一字に徹して米国の挑発をかわしていたが(米艦攻撃の責任者を極刑に処し,これを公表したと言う.
このような米国の政策が続いていけば,いずれその機は熟し,米独戦争となるのは時間の問題であった.
ヒトラーが日本の真珠湾攻撃直後,条約上の参戦義務がないにも関わらず,対米宣戦したのは,この流れの行き着くところだったのである」
「真珠湾への道」(大杉一雄著,講談社,2003.7)P.336より抜粋.
ただ
>米艦攻撃の責任者を極刑に処し,これを公表したと言う.
に関しては,ソースがないので,どなたか知ってる方はプリーズ.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
『サザエさんうちあけ話』で長谷川町子姉妹は,母親に「ヒットラー」とあだ名を付けた(戦後に「ワンマン」と改名)とありますが,戦前の日本でもヒットラーは独裁的・強権的なイメージが強かったのでしょうか?
また,ナチスへのイメージもどのようなものだったのですか?
【回答】
ヒトラーが首相と大統領を兼任したときから独裁者という認識はあった.
ただ当時は,独裁者=悪というイメージではない.
また,ナチスドイツへのイメージは時期によって異なる.
1930年代前半には,ナチスやヒトラーへの批判記事が日本の新聞に載っている.
ベルリンオリンピックの前後から親ヒトラー的な報道が増え,米英への反発から日独の軍事同盟を望む世論が沸いた.
その後,ノモンハン事件の最中に独ソ不可侵条約が結ばれたことにより,ヒトラーおよびナチスドイツへの不信感が広まった.
だがポーランド戦の勝利以降は,日本国内の政治家への不信感とあいまって,ヒトラーおよびナチスへ憧れともいえるイメージを持った.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【珍説】
ヒトラーは親日家.
【事実】
へぇ,親日家なのにバルバロッサ作戦のことは日本側に秘匿してましたねぇ.
総統指令24号で総統自身触れられてますよぉ.
あ,そういや独ソ不可侵条約なんて日独防協結んだ後ですよねぇ.
また例えば,……
[quote]
もし白色人種の国々が結束してことに当たっておれば,極東を手に入れることは不可能ではなかった.
その場合は日本がこれほどのさばることもなかったはずだ.
日本と言う国にはナチ党式の革命の必要はない.
日本は西欧からの余計な影響を排除しさえすれば,国内の社会問題の発生など考えないですむ国なのだ.
ある工場が国営か民営かという問いは,彼らにとっては単に形式的なものでしかない.
あの国には小規模な土地所有者たちばかりがいて,大地主階級は存在しない.
中産階級が国民の中心なのだ.
もし日本に社会問題が発生するとすれば,それは国が莫大な富を手に入れた時だろう.
大島(浩駐独大使)は,ドイツが征服しようとしているロシアが荒涼とした土地だったことは我々にとって幸運だったと考えているようだ.
確かに日本が占領している南の群島の方が,ずっと温暖な気候に恵まれているからな.
オランダにとっては,日本との通商条約を結んでおいた方が賢い選択だったろうな.
ところがイギリスの圧力で,ここ数年は全く反対の路線をとってきたわけだ.シンガポールが陥落すれば,オランダはすぐにも日本との協定を結ぶだろう.
占領地の島々では日本はドイツ人を雇用することになるだろう.
我々は現地に住む同胞のおかげで,労せずしてそちら方面にコネを持てるようになるだろう.
[/quote]
―――『ヒトラーのテーブルトーク 1941-1944』(ヒュー・トレヴァー=ローパー編,草思社,1994.12)
これで,「親日家」ねえ.
そもそも,「有色人種は劣等民族」などと書く素敵な親日家もいたもんだ(笑)
最近のリビジョニストは『我が闘争』すら読まないのかよ…
【質問】
ヒトラーの戦略はどこで間違えたのでしょうか?
1939年9月?
1941年6月?
【回答】
略奪的な拡張主義政策が成功を収めていた,という点で言えば,1938年のミュンヘン会談の結果に便乗し,チェコを併合,ソロバキアを保護国にした時点までは彼の戦略は当たっていた,と言えるかもしれません.
ただ一方で,参謀本部筋が常に,世界大戦の危機に警鐘を鳴らし,そうなったらドイツは必敗だと警告し続けていたことにも注目する必要はあるでしょう.
そして,その参謀本部の警鐘・警告が現実のものとなったのが,ポーランド戦のわけです.
当初,ヒトラーとその周辺は,ドイツ本土から東プロイセン間のポーランド領,いわゆる「ポーランド回廊」の割譲を迫ったわけですが,ポーランドはその要求を飲む気はさらさらなく,さすがに英仏もこれ以上の妥協と宥和は不可能という態度に転じました.
ヒトラーにしてみれば前年のミュンヘン会談の再現を狙ったこの要求は,結局,想定もしていなかった第2次世界大戦を引き起こすことになりました.
ポーランド戦および西方戦役の成功は,飽くまでも作戦上の勝利でしかありません.
西方戦役に勝利しても,英国は屈服させることはできず,手詰まり状態.
その後,バルカン戦役,そして対ソ戦へと流れていきますが,これらも,後知恵でみれば戦力の過剰展開でしかありません.
そもそも,ヒトラーの膨張主義的な政策が根本から間違っていたと言えるかも知れませんが,その膨張主義的な政策において決定的な誤りを犯したと言えるのは,やはり1939年ということになるでしょう.
【質問】
アドルフ・ヒトラーは単なる機会主義者であって,自ら戦争を欲したわけではないのでは?
イギリスの歴史家,A.J.Pテイラーも,1924年にヒトラーが書いた『我が闘争』に書かれている漠然とした戦争計画は,フランスのルール地方占領に対する怒りに過ぎないと言っているが.
【回答】
A.J.Pテイラーは,いくつかの事実を無視しているといわざるを得ない.
テイラーは,1928年の未公刊の本で,『我が闘争』での多くの議論を繰り返している.
また,テイラーは「ホスバッハ覚え書き」を軽視しすぎていると,ナイ教授は指摘する.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「ヒトラーの副官であったホスバッハ(Hosshbach)大佐は1937年にベルリンの総統官邸で開かれた会議のメモを残しており,それによると,ヒトラーは機会を掴むことが重要であり,機会は東方で,オーストリアとチェコスロバキアで最初に訪れることを知っていた.
テイラーはこの覚書の重要性を,これは公式の覚書ではないとして退けている,
だが,テイラーの著作以来,新たな史料が付け加えられている.
ヒトラーがしばしば[侵略計画の]予定と目標を語ったことが,明らかになっている.
ホスバッハ覚書はヒトラーの行動を,おおまかに予言していたのである」
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
ヒトラーが権力を掌握した時に,彼には戦争以外の選択肢はあったのか?
【回答】
四つの選択肢があったと,ナイ教授は指摘している.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「1933年にヒトラーが権力を掌握したとき,ヒトラーには4つの選択肢があったが,かれはそのうち三つを拒否した.
ドイツの弱体化した国際的地位を受け入れて,彼は屈服を選ぶこともできた.
彼は(第二次世界大戦後の日本のように)経済成長を通じて拡張を図ることもできたし,工業的拡張を通じてドイツの国際的影響力を高めることもできた.
彼は目標をヴェルサイユ条約の改定と,ドイツが1918年に失った領土の一部回復に限定することもできた.
ドイツ軍に第一次世界大戦の全ての責任を押し付けた不正に,1930年までに西洋民主主義諸国は敏感になっていた,
しかし,ヒトラーは上に述べた3つの戦略を拒否し,強行突破を選んだのである」
というわけで,彼は規模はともかく「戦争ありき」ではあったのだろう.
ただ,そのきっかけを与えたのは,チェンバレンではなく,フランスのルール地方占領かもしれない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
どうしてヒトラーは大統領兼首相(=総統)に選ばれたんですか?
国民が選挙で選んだんじゃないんですか?
【回答】
当時のドイツは議会政治が機能してなくて,ヒンデンブルクと取り巻きが非常大権で,勝手に首相を選んでた.
そして,次々と首相の首をすげかえたが,どいつに任せても政権運営がうまくいかなかったため,自前の首相候補がいなくなり,やむなく反共で保守派でも受け入れられるヒトラーを首相にした.
(ヒンデンブルグがずっと渋っていたから,なかなか首相になれなかった,というのが実情)
当時のナチスは議会第一党だったけど,国民の票の力で首相になれたわけではない.
大統領職を兼務して総統になったのは,国民投票で国民の支持を得たからだけどね.
ドイツ国民のほとんどは,閉塞的状況下で機能しない民主主義体制に愛想をつかしていて,強力なリーダーシップを取れる政治体制を求めていた.
ヒトラーはそういう時代背景に完全に合致していたし,国民も嫌々ではなく圧倒的な支持を与えて,彼を大統領に選出した.
ただし,ちょいと細かいところだが,国民投票は総統になった後に行われた.
要は追認.
首相…ヒンデンブルブの任命(33年1月)
大統領…ヒンデンブルグの死去に伴い引き継ぐ(34年8月2日)
そしてこの後(8月19日)に国民投票が行われるんだが,既に法律上ではヒトラーは大統領に就任しているので,複数人が立候補する大統領選ではなく,その手続きを信任するか否かの国民投票になった.
そしてその国民投票では,9割近い支持を得た.
つまり,独裁・強権政治こそが国民が望んだものなんだよ.
完全比例代表制のせいで単独過半数を取れる政党が現れず,大恐慌以後の経済混乱に対応するためには一貫した政策の実施が必要なのに,内閣はすぐに閣内対立が起きて崩壊.
帝政時代の安定した政治を覚えてる国民は,こんな政治よりも,安定して一貫した統治を切望していた.
「ヒトラーは非合法的手段で権力を固めた」っていう見方は微妙.
・国会放火事件 → 犯人が確定してない(自作自演なら非合法的手段だが)
・放火事件を受けての緊急大統領令 → 合法的手続き
・全権委任法 → 合法的手続き
というわけで,基本的には違法な手段は取っていない.
あと,常識かもしれないけども,当時の知識人を中心に
「ヒトラーみたいなやつに何が出来る.
あんなやつにめちゃくちゃなことをさせるな!」
的な見方はされていたらしい.
でも,(きっと幸運もあって)彼の政策での失業対策の成功,景気回復(これは本当はヒトラーの功績じゃないが),対外的強硬姿勢が受け入れられて,敗戦国的感情にうちひしがれていたドイツ国民の,誇りの救済に成功したこと,など.批判層も評価せざるを得なくなっていった.とのこと.
当時,WW1でボロ負けなうえ,多額の負債を背負わされて,国民は不景気も不景気,ピーピーだったんだよ,
今の日本の閉塞感よりも酷い雰囲気だったと思えば,想像つくだろうか.
口先で理念をいうよりも,行動して貧者に飯を食わせる力のある指導者,ということだよなぁ.
世界史板,2009/12/07(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーは何故,権力を掌握できたのか?
【回答】
世界恐慌による社会不安に乗じたことと,演説のうまさによるという.
以下引用.
ビアホールでのナチス蜂起で逮捕されて〔後のヒトラーは,〕ランツブルグの刑務所ではかなり模範的な受刑者だったらしく,長期のはずがなんと13ヶ月ほどで出所.
ところが,出所してきたころのドイツは社会的にすでに安定した状態であり,ナチスやヒトラーの出る幕ではない状態.
要するにドイツ人民の間の不満がある程度減少していたわけですね.
ところがここで1929年のニューヨークの株の大暴落による世界恐慌が勃発.
ドイツはヴェルサイユ条約による第一次世界大戦の賠償などもあって,経済的に大打撃をうけてハイパーインフレが発生.
ここでヒトラー率いるナチスドイツの出番となったわけです.
その前に,ミュンヘンのあるこのドイツのバーバリア地方では一時共産主義政権が出来ていたこともあって,ヒトラーは共産主義も敵に回して大批判.
演説のうまさもあって,あっという間に政治的人気を高めていったというわけです.
【質問】
やはり,ヒトラーの外交戦略を見ると,第二次世界大戦は「ヒトラーの戦争」ではないのか?
【回答】
その見方は,あまりにも背景を理解していないと言わざるを得ない.
以下,ナイ教授の文章を引用.
第二次世界大戦は単にヒトラーの戦争以上のものであり,この点でA.J.P.テイラーの見解は傾聴に値する.
システム上の原因があり,それは構造とプロセスの双方に関わっている.
構造のレベルでは,第一次世界大戦がドイツ問題を解決していなかった.
ヴェルサイユ条約は,ドイツのナショナリズムを掻き立てた点では粗暴に過ぎたし,ドイツに余力を残した点では寛大に過ぎた,
しかも,事態の最終局面までアメリカとソ連がバランス・オブ・パワーに関与しなかったため,ドイツへの抑制が効かなかった.
さらに,国際システムのプロセスが中庸を欠いた.
ドイツはヴェルサイユ体制打破をめざす修正主義国家であった.
また,イデオロギーの拡張,つまり,ファシズムや共産主義といった壮大な「イズム」(主義)が1930年代の憎悪に油を注ぎ,コミュニケーションを困難にしたのである.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
第二次世界大戦の「背景」には,どのようなものがあるのか?
【回答】
少なくとも,ヨーロッパでは,以下の3つが原因となる背景が存在する.
1.西洋民主主義国家における「階級間の亀裂とイデオロギー論争」による,意見の相違で,外交政策の調整がほとんど不可能になっていたこと.
例えば,1936年にフランスで社会主義者レオン・ブルムが政権を奪取したとき,フランスの保守は「ブルムより,ヒトラーがましだ」というスローガンを使った.
イギリスは,1939年にモスクワに使節団を送り,スターリンと条約締結を結ぼうと模索したが,使節団の中ですら,意見が対立していた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
イギリスが意を決する前に,ヒトラーは両国を撹乱したのである.
遅延の理由の一端は,イギリスの上流階級の間で,共産主義者と取引することへの躊躇があったことである.
2.経済の崩壊
以下,ナイ教授の文章を引用.
世界大恐慌は,それが全ての国々に与えた影響と,主要な資本主義諸国が国際貿易と国際金融の流通の不均衡に対処すべく効果的な国際経済の調整を確立できなくしてしまったという意味で,システム全体の問題であった.
しかし,大恐慌は国内政治と階級対立にも大きな影響を持っていた.
膨大な数の失業者には,火に油を注ぐ政治的効果があった.
それは,ナチスの政権獲得と民主主義諸国での政府の弱体化に貢献したのである.
3.アメリカの孤立主義(モンロー主義)
アメリカは第一次世界大戦の結果,世界で最大の経済大国になったが,その力に見合う責任を果たそうとしなかった.
1930年代には,大恐慌のため,一段とモンロー主義に拍車がかかった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
フランクリン・ローズヴェルト大統領も他の国民と同様に,その一期目には,ヨーロッパにほとんど関心を払わなかった.
1936年に再選を果たしたローズヴェルトは,もしヒトラーが強大になりすぎれば,彼がヨーロッパを支配し,最終的にはアメリカを脅かすかもしれないと認識し始めた.
1937年にローズヴェルトはヨーロッパの出来事について語り始めたが,アメリカの世論は関与を避けたがった.
その後,イギリスがドイツに敗北するのを避けるため,レンドリースのための法律「武器貸与法」を成立させがた,それでも世論は,積極的な関与には反対だった.
日本の真珠湾攻撃と,ヒトラーの宣戦布告で,ようやくアメリカの孤立主義は終焉を迎えたのである.
んまぁ,要は,アメリカにとって,ソ連よりもドイツの法が商売の邪魔になったってことかな?
纏めると,第二次世界大戦は,第一次世界大戦の不備を機会主義者であるヒトラーにまんまと利用されたというところか.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
ヒトラーと電撃戦の関連は否定されているの?
たまたま結果的に,電撃戦にとっても好判断だったというだけ?
【回答】
電撃戦という軍事教条は1940年の時点で存在していない.
その辺の事情は,レン・デイトンの『電撃戦』で基礎的な情報を仕入れてから,カール=ハインツ・フリーザー『電撃戦という幻』を読めば,理解できる.
ヒトラーは装甲部隊,自動車化部隊の設立に理解を示したのは確かなのだけど,それは政治宣伝効果という側面でしかみておらず,グデーリアンらの提唱する自動車化部隊を用いた,新しい戦争の形態に理解と賛意を示したからではない.
グデーリアンら,自動車化推進の将校らが目指した,1940年の対仏戦以降の「電撃戦」は,1939年時点ではまだ彼ら将校の思念の中にしかなく,マンシュタインの「鎌」計画を得て,対仏戦が成功を収めたから,後付けで実体化されたに過ぎない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーはソ連に勝ったら,後の予定はどうするつもりだったのでしょうか?
本気で世界征服なんて考えていたのですか?,あの人.
【回答】
ウラル山脈の西側を併合し,ドイツ民族を移住させる予定だった.
ドイツ民族の生存圏(レーベンスラウム)の確率が独ソ戦の目的.
主要都市はアウトバーンで結び,都市の周囲と幹線道路沿いに農場を配置.
ここを予備役のSSに経営させ,スラブ人農民の叛乱の際は要塞とする.
スラブ人は知識階級を絶滅し余剰人口はウラルの東に追放,残りを高度な教育を禁止し農奴化する.
村の行き来を厳しく制限し,教会も村単位で分断して抵抗拠点とならないようにする.
勢力圏下の西欧諸国は傀儡国家化し,特にゲルマン民族系の国家はドイツ化を進める.
その上で大国アメリカと対峙し,その影響を排除する.
一部ヒムラーの構想も混じっているが,こんな感じの国家建設を夢想していたようだ.
(ヒムラーはヒムラーでブルゴーニュ(ブルグント)に純ゲルマンのSS自治国家を作ることも考えていたようだが)
ドイツ本国と黒海沿岸を結ぶ巨大鉄道(確か通常の二倍くらいの超広軌)を建設し,ドイツ人労働者の保養地とするという構想もあった.
実際この大帝国ができたとしても,ここまで誇大妄想的なものになったかどうかは分からんが.
なお,上記の歴史が実現した世界を舞台に,ロバート・ハリスがスリラー「ファーザーランド」(文春文庫)を書いている.
軍事板,2004/10/15
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツの主な反ナチ派を教えてください.
【回答】
●ドイツ国防軍内部グループ
ベック将軍,カナリス提督,オスター次長,フォン・ドナンニー少佐,フォン・シュタウッフェンベルク大佐,トレシュコウ少将,オルブリヒト将軍,
●貴族・クライザウグループ
フォン・モルトケ伯,ヨルク伯
●警察(クリポ/ゲシュタポ)
ネーベ,ギゼビウス,へルドルフ
●政治家
ゲルデラー,シャハト,ハッセル,
●聖職者
ボンヘファー,ニーメラー,ミュラー,ガーレン,ファウルハーバー
●学生,社会主義者
ショル,レーバー
軍事板
青文字:加筆改修部分
陸軍のヒトラー暗殺については
「回想の第三帝国」(シュタールベルク著)
にも,書かれてます.
著者はマンシュタインの副官(そう記述されている)だった人です.
マンシュタインの周囲には反ヒトラーの人間が何人もいて,マンシュタインに協力を求めたが,結局協力が得られなかったとのこと.
ロンメルやルントシュテット(確か)がマンシュタインに,クーデター後の軍の掌握を期待していた,とも書かれてました.
暗殺に失敗したワインのボトル型の爆薬は,イギリス工作員から押収した遅延信管の爆薬なんです.
昔読んだ資料です.
自営業 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
警察隊長(SA,SS准将)フォン・ヘルドルフ伯は水晶の夜事件を抗議したり,彼のの代理フォン・シューレンブルク伯も古参ナチでありながら,なぜか人道主義グループのフォン・モルトケ伯のクラウザウに加わる.
秩序警察(ゲシュタポ・クリポと同じSS警察)にもいたとは・・
ネーベはたしかアインザッツ・・の指揮官だったな.
大量殺戮に良心の呵責を感じたのか,それとも戦争に負けそうだったからなのかわからん.
武装SSにも,銃を持たず無抵抗な人間を虐待したり殺戮したりを繰り返す一般SS(収容所警備員やゲシュタポなど)を憎んでいた者も少数ながらいたらしい・・と思えば,一般SSにもそれが出来なくてねをあげ抗議したところ,降級のうえ武装SSに左遷され,最も危険な東部戦線に配属された人もいるらしい.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラー暗殺計画についての質問です.
映画などで話題になっているシュタウフェンベルク大佐のもの以外にも,いくつかの暗殺計画が存在していたらしいのですが,これらの首謀者は計画が成功した後,どのような政策を考えていたのでしょうか?
1)連合軍との講和を考えていたのでしょうか?それとも継続でしょうか?
2)講和の場合,侵略地からの撤退は当然としても,それだけで済むとは考えてないでしょうし,
降伏まで考えていたのでしょうか?
いずれにしても国内的にも大混乱というか収拾がつかなくなるような事態になりそうなんですが・・
【回答】
選択肢が多すぎて何とも言えません.
Hitlerが暗殺される可能性があったのは,1938年9月,1939年~40年に掛けて,実際に暗殺事件の起こった1944年と,主なものでも3つあります.
1938年と1939年の場合は,英仏との間と,獲得した領土,特にCzechoslovakiaの回復が問題になるでしょう.
その後の政体についても,Goeringが後を継ぐならば,ソ連,Italyとの枢軸体制を維持しようと考え,且つ,アジア関係では伝統的な中国よりの姿勢に戻し,日本との同盟を切り捨てる可能性が高いでしょう.
体制が転覆された場合は,国内は混乱に陥り,それに乗じたPolandなどの侵攻があるかも知れません.
軟着陸を目指すのであれば,王制復古の上,Hohenzollern家から国王を迎えるくらいの話が必要となるでしょう.
但し1938年の時点で,ドイツ経済は破綻寸前であり,英仏が速やかな援助を与える必要があります.
1944年の場合は,曲がりなりにもGoeringによる後継体制が固まっていました.
従ってHitlerが死んでも,Goeringが後継総統に就任するでしょうし,彼を頂点に或程度の期間,政権は維持出来るでしょう.
こちらについては,外相の首のすげ替えは行うでしょうし(恐らく,親戚の前ローマ駐在大使辺り),戦線は国防軍の助言通り,各戦線,西部戦線,北部戦線の速やかな撤退と,東部戦線の縮小などを実施し,守りに入りつつ,国内を糾合して,連合国との講和を模索するのではないでしょうか.
第三帝国の興亡よんだけどラストの巻の前半にくわしいよ.
ヘプナーとベックだっけかな?
一応,西部戦線は閉じるつもりだったらしいけど,だけどヒトラーがすげえ悪運が強くて失敗続きで,動員した軍隊も演習だとゲーリングに汲々と言い訳したり,最後は実行役が怖じ気づいてシュタウフンベルクに
「失敗してもいい,ドイツがヒトラーに抵抗した事をしめすんだ」
なんて言われて.
その後もシュペーアだったかシューペアさえ豪にチクロンなげこんだろか,なんて事もあったけど,もう末期だし国家戦略もあったもんじゃなかったしね.
▼ なお,1944年7月20日に暗殺未遂事件を起こしたベックやシュタウフェンベルクらのグループは,米英とは講和するがソ連とは戦争を続行するつもりだった.
その他のヒトラー暗殺計画とその顛末については,『ヒトラー暗殺』(ロジャー・ムーアハウス著,白水社,2007.10)が,邦訳された本としては一番新しい.邦訳されている他,ヒトラー暗殺を扱った邦訳本としては以下がある.
『ヒトラー暗殺事件』(ロジャー・マンヴェル著,サンケイブックス,1976)
『通達,総統は死んだ ヒトラー暗殺計画』(スティーヴン・マーロウ著,サンリオ,1979.6) フィクションかも?
『ヒトラー暗殺計画』(小林正文著,中公新書,1984.10
『ヒトラーを狙った男たち ヒトラー暗殺計画42件』(W・ベルトルト著,講談社,1985.1)
『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』(山下公子著,講談社,1997.4)
『ベルリン「水曜会」 ヒトラー暗殺未遂事件に関与した将軍と教授』(中沢護人著,近代文芸社,2002.6)
『ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争』(ジョン・H・ウォラー著,鳥影社,2005.1)
『ヒトラー暗殺計画ドキュメント』(グイド・クノップ著,原書房,2008.3)
『ワルキューレ ヒトラー暗殺の2日間』(スティ・ダレヤー著,原書房,2009.3)
軍事板,2009/02/20(金)
青文字:加筆改修部分
▲
▼ いずれにせよ,シュタウフェンベルクらが英米とだけ講和して,対ソ戦は続ける考えだったのは事実だから,もしヒトラー暗殺&暫定政府樹立が成功していたら,間違いなく早く戦争は終わっただろうというクノップの主張は,説得力に欠ける.
当時の国際情勢では,英米がそんな虫のいい内容の講和を受け入れた可能性は,かなり低いだろう.
軍事板,2012/02/25(土)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
ゲーリングが政権取れたかと言うとどうだろうね?
一応あれが成功したらベルリンは取れたろうし,そしたらSSは粛清だろうし,あいつヤク中だし,ロンメルを含めた元帥連が付いてたら,軍はナチスを捨てるだろうし.
……と,恐れ多くも眠い人にたてついてみる.
【回答】
それ故,色々なケースが考えられる訳です.
ですので,このスレ的な本来の回答は,3嫁になる訳で….
ただ1939年11月の段階で,ハルダーの考えと言うか陸軍首脳の考えは,
「ドイツが英国にとってのHelot民族(Spartaの奴隷)になるのは我慢出来ない」
と言うものです.
加えて1943年1月にマンシュタインは,ソ連は主導権を握るまで戦うし,そうするに違いないと力説していました.
シュタウヘンベルクだって1944年夏までは,ドイツが受容れ可能な休戦条件を交渉する望みがあるなら,ドイツは強国の一つとして生き残らなければならない,と言う考えを持っていました.
連合国の和平条件が無条件降伏から緩和される可能性があったとしても,強国として生き残る様な条件でなければ,例え暗殺に成功したとしても,軍部の支持は得られないと言うのが,最近の歴史家の分析みたいです.
ついでに,Hitlerは,何だかんだ言っても軍の最高司令官ですし,国家元首です.
彼に代わって,非合法的に誰かが国家元首の地位に就いたら,その人物に対する忠誠は得られるのか,疑問です.
後,暗殺未遂の際の通信管制は,暗殺を爆破のニュースを世間が知るのを防ぐ意味もありました.
しかし爆破の数分後には,Goering以下の重要指導者にはその一報が知れ渡り,彼は東プロイセンから急遽狼の巣に向かっています.
勿論,Goeringは合法的にHitlerの後継者として指名されていますから,よって,彼の権力掌握は意外にスムースに行われるのではないでしょうか.
但し,その後に関しては選択肢が色々有りすぎて予測するのは困難でしょうね.
尤も,1945年5月までずれ込むことは無いでしょうが.
【質問】
もし7月20日にヒトラー暗殺に成功していたら,講和は可能だったでしょうか?
【回答】
ロンメルは連合軍にも人気のある将軍だったから,そのカリスマを見せ付ければ,講和は決して不可能ではないと思うな.
スウェーデンとかの中立国もこのチャンスを見逃さず,仲介を買って出るだろうし.
レジスタンスグループには,ゲルデラーやシャハトのような民間人もいますし,後の西独首相,コンラート・アデナウアー氏など民主派勢力が復活して,ドイツ国内で勢力を伸ばして,民主化を行うことも講和を成功させる前提の一つに入ると思います.
でも,その前に,もしクーデターが成功したとしても,ドイツはナチ派と反ナチ派で分裂して,内戦になるという可能性も無視できないかも.
SSやゲシュタポだって,絶大な勢力を誇ってますし,7/20クーデターを鎮圧したオットー・エルンスト・レーマー中佐のように,国防軍内部にもナチ派がいるから,講和の前にドイツ内で内戦が勃発.
双方の勢力が弱体化したところを米英仏ソが介入して終結,なんてのは,どうでしょう?
ポーランド分割と同じことが,今度はドイツで起こる……
歴史にifはないのですが,想像すると結構面白いかも.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
スイス人がヒトラー暗殺を試みたことがあるというのは本当か?
【回答】
本当.
スイス人神学生モーリス・バボー(当時22)は,「神と人道のため」,ヒトラーを拳銃で射殺せんと何度か企てたが,その都度,警備陣に遮られて失敗.
1938/11/9,ミュンヘンにて暗殺に失敗したのを最後に帰国しようとしたが,翌日,パリへ向かう途中,無賃乗車で逮捕.
その際,銃の所持も発覚し,ゲシュタポに拘束され,1939/12/18,ベルリン裁判所で死刑判決を受ける.
1941/5/14,断首刑執行.
一方,スイス政府は,在ベルリン公使が大のナチスびいきであることや,ナチスに対する遠慮から,彼を救う素振りも見せなかったばかりか,捜査に協力,モーリスの家族にも実情を隠した.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.59-67を参照されたし.
【参考ページ】
「swissinfo」:ヒトラー暗殺を企てたスイス人の名誉を回復
モーリス・バボー顔写真
(上記参考ページより引用)
【質問】
ヒトラーって最期はどうなったの?
【回答】
ヒトラーは1945/4/29未明,総統官邸地下壕の小会議室でエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ,接見室でささやかな披露宴を開く傍ら,秘書に遺言状を口述筆記させました.
翌30日午後2時,ヒトラーは残った幹部を食堂に集め一人一人に無言で握手して回り,エヴァ・ブラウンと共に自室に篭った後,新しい制服に着替えた上で,拳銃または青酸カリで自殺しました.
遺体は側近の者が毛布に包んで運び出し,官邸裏庭の弾痕の穴で,ガソリンをかけて焼いたとされています.
【参考ページ】
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_7_d.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Adolf_Hitler
http://www1.yadvashem.org/about_holocaust/chronology/1942-1945/1945/chronology_1945_13.html
http://www.historyplace.com/worldwar2/holocaust/h-death.htm
(写真1)
Visitors look at items belonging to Adolf
Hitler, including clothing, at right, which
were taken by Soviet troops in Berlin in
1945, at an exhibit marking the 90th anniversary
of the Soviet military counter intelligence's
establishment at the Central Armed Forces
Museum in Moscow, Friday, Dec. 5, 2008. The
exhibit covers the last 90 years of Russian
military counter intelligence, from the first
Soviet secret service, called the Cheka,
to modern Russia's Federal Security Service,
known by its Russian acronym FSB.
(写真2)
Items belonging to Adolf Hitler, which were
taken by Soviet troops in Berlin in 1945,
are seen at an exhibit marking the 90th anniversary
of the Soviet military counter intelligence's
establishment at the Central Armed Forces
Museum in Moscow, Friday, Dec. 5, 2008. The
exhibit covers the last 90 years of Russian
military counter intelligence, from the first
Soviet secret service, called the Cheka,
to modern Russia's Federal Security Service,
known by its Russian acronym FSB.
CRS@空挺軍 in mixi,2009年01月17日22:34
<以下,ぼくが考えたヒトラーの最期>
セガールとの最後の決闘で倒された.ラスボスらしく.
例題
ロバート・デ・ニーロの如く,手榴弾で爆死.
bernoulli in mixi,2009年02月13日 20:36
実はまだ生きていて・・・
小泉ジュンイチローとの麻雀勝負を楽しみに待っている
ぎんなんそう in mixi,2009年02月13日 21:07
いまだにヨーロッパで最も危険な男は,ハウニブで飛来して
「焼きソバパン買ってこい!」
と,道すがらの少年を脅迫したりしているそうですね.
ほっけ = うるふ in mixi,2009年02月13日 21:27
「まだだ.もうひとつある…」
自分の頭を指さすヒトラー.
「私のプログラムでは,自分を殺すことはできない」
「アスタ・ラ・ヴィスタ」
そして静かに溶鉱炉に沈みゆくヒトラー.
udon in mixi,2009年02月15日 23:12
【質問】
ヒトラーは南極に逃れたんじゃなかったの?
【回答】
現在では,1945年自殺ということがほぼ事実として確定しています.
近年公開されたKGB機密文書によれば,ヒトラーの死体はソ連の諜報機関SMERSHの手に渡って検死された後、ドイツ・マクデブルクに移され、一旦、極秘のうちにSMERSHの事務所前の舗装の下に墓標なしで埋葬されました.
その後の1970年、ヒトラーの墓がネオナチの崇拝対象になる可能性を恐れたKGB議長アンドロポフの命令により,ヒトラーの死体は掘り起こされて再度焼却され、遺灰はエルベ川に流されました.
後から見つかった頭蓋骨とあごの骨の一部は現在,モスクワの公文書館に保管されているそうです.
【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Hitler%27s_death?
http://www.bk1.co.jp/product/0000047600/p-jokai28866/
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20050722HitlersEnde.ht
ヒトラーの頭蓋骨のレントゲン写真
(http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20050722HitlersEnde.htより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2009/2/17 22:25
に加筆
南極に逃れたのではなく,難局から逃れられなかったのです.
ちゃんちゃん.
井上@Kojii.net in mixi,2009年02月17日 00:22
>難局
┌──────────────────────────────────┐
|―――――――――┐┌―――――――――――――┐┌――――――――|
|LIVE 【審議中】||LIVE
【審議中】||LIVE 【審議中】|
| ∧,,∧ || ∧∧
∧,,∧ || : : : : : :
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| (・ω・`) ∧,,∧ ∧|| ( ´・ω)∧,,∧
∧,,∧ (・ω・` )|| : : : : : : : : : :
: : : : : :|
| ∧∧ (´・ω・) ∧,, || (∧,,∧ ´・ω・)(・ω・`∧,,∧
)|| ;_;_;_;_;_;_;_;_; ヘ⌒ヘ _;_;|
| ( ´・ω) ∧,,∧ ( ´|| ( ´・ω)
つと) l U (・ω・`) || ヘ⌒ヘ (´・ω・) |
| U ) (´・ω・`) ( || ( ´・)
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ(・` ) || (´・ω・`)ノノ川川 |
| ( ) ||( ´・)
旦 旦 ヽ(・` || ノノ川川レ
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| 埼玉支部 ||( つ/ 旦
旦 NY支部|| 火星支部 |
|―――――――――┘└――― ∧,,∧ zZZ
――――┘└――――――――|
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(´-ω-`) ∧,,∧ ∧,,∧ ∧,,∧
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| (ω・` ) (´・ω・) (・ω・`) ___(___)__
(・ω・`) (´・ω・`) ( ´・ω・)
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| ( U) ( つと) ( ) E=======ヨ
( U) ( つと ) ( ) |
|,∧/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | 議 長
|「 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ |
| ∧∧ ∧∧ _____| |
||__ ∧,,∧ ∧,,∧ ∧,,∧ |
| ( ´・ω) (ω・` ) ∧,,∧ ∧,,∧
∧,,∧ || ( ´・ω・) (ω・` )
( ´・ω・) |
| | U | lと | ( ´・ω・)(´・ω・`)(・ω・`) ―┘ ̄
( ´・)∧,,∧ (・` ) ( ´・ω)|
| ( ´・) (・` ) | U| ( つと
∧,,∧ と) | U ( ) |と |
( ) |
└──────────────────────────────────┘
【質問】
大戦終了後,ヒトラーやエヴァ・ブラウンの親族の人達はどの様な境遇をたどったのでしょうか? 親族だという理由で,ドイツ国民に迫害されたり,米軍やソ連軍に拘禁されたりしたんでしょうか?
【回答】
ヒトラーの一族についてはこの本がくわしい
ヴォルフガング・シュトラール著「アドルフ・ヒトラーの一族―独裁者の隠された血筋」(草思社,2006.3)
ヒトラーは独裁者には珍しく自分の家族や親族を優遇しなかった,というより政権掌握後は故意に自分から遠ざけようとした.
そのため西側の占領地域にいた者には,非ナチ化裁判にかけられたものもいたが,罪に問われたものはなく戦後はひっそりと暮らしている.
ただ,東側にいた者の中には,ほとんどヒトラーと面識がなかったにも関わらず,ソ連に連行され長期間拘留されたり死亡した者もいる.
イギリスに渡ったヒトラーの異母兄アロイスの息子ウィリアム・パトリックは米国に移住して戦時中,米海軍に従軍し,その子供は戦後,名を変えてアメリカに住んでいる.
【質問】
ドイツが負けた後,ドイツのヒトラーさんやアドルフさんはみんな改名したんですか?
あと,ナチス幹部の姓名と同じ人も改名したんでしょうか?
【回答】
アドルフって名前はヒトラーにかぎらずドイツ民族によくある名前だから問題ない.
それでも改名した人は結構いたそうな.
新たにアドルフと名前を付ける親はほとんどなくなった.
最近だとドイツ民族由来の名前自体が人気なくなってきて,欧州共通の聖書由来の名前を付ける事が増えてる,と読んだことがある.
ヒトラー姓はもともとオーストリア由来の珍しい名字なのでドイツ国内にはほとんどいません.
ついてに法律で名乗ることが禁止されてるとか.
ちなみに「アドルフ」は高地ドイツ古語で,「高貴な狼」と言う意味なのです.
古英語で言うとthelwulf です.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
2006年現在,ヒトラーの官邸や地下壕はどうなっているんですか?
【回答】
総統官邸および総統地下壕の現状;
http://www.geocities.jp/dokidokigermanhours/sub2.html
http://www.geocities.jp/dokidokigermanhours/newpage204.html
東ベルリン側にあった総統地下壕は,長らく封鎖されて放置されていたが,ドイツ統一後埋め立てられ,現在では何一つ残っていない.
記念として残すべきという意見もあったが,ネオナチの聖地になる可能性が高いということで破壊された.
青文字:加筆改修部分
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