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スロヴァキア空軍のBf-109
(画像掲示板より引用)
【質問】
スロヴァキア空軍について教えてください.
【回答】
1939年,HitlerはSlovakiaの分離主義者,Hlinkaの人民党を扇動し,Josef
Tisoを大統領とするSlovakia国をCzech解体の翌日に独立させ,3月23日,ViennaでHitlerと共に保護条約に調印し,ナチスドイツの保護国となりました.
新国家は270万人の人口を有し,そのうち,Slovakia人が240万,13万のドイツ人,10万のマジャール人,8万のユダヤ人で構成されています.
この保護条約では,Schtzzoneと呼ばれる西Slovakia地域と要塞などの軍事施設ににドイツ陸軍が駐留し,ドイツ空軍はZlinaに第15観測飛行隊,Malacky-Novy,Dvorの空軍射爆場を使用,他に二ヶ所の空港に約40機を駐留させていました.
しかし,保護国とは言え,一定の軍事力は保持していました.
解体前,Czechoslovakia空軍はFranceを範にしており,全土で6個飛行連隊で構成されていました.
第1〜第3までは戦爆連合,第4が戦闘機連隊,第5と第6が爆撃機連隊でした.
このうち,Slovakiaに配備されていたのは第3飛行連隊で,その最後の連隊長,Gustav
Studeny大佐は,Czech人だったので,解体時にBratislavaの州軍司令に格下げされました.
Slovakia独立後,自動的にその連隊はSlovakiaの軍に組み込まれ,国家防衛省直属となります.
司令官は中佐(後に大佐,将軍)Ferdinand
Catlos,Karol Sojcekが短期間勤務していました.
ポーランド戦後の1939年末,泥縄式に設立された空軍の再編成,機材の再整備が行なわれます.
1940年にSlovakia空軍(VVZ)の司令部がTrencinに設置されました.
初代司令官には,Jan Ambrus中佐が就任しました.
彼は国内でもよく知られていた曲技飛行の名手であり,37年のZurichで開催された国際飛行競技大会で,Avia
B.534を駆ってドイツ空軍の誇るBf-109を追いつめたメンバーの一人でした.
しかし彼は,Czechoslovakiaの抵抗運動に加わるために国を出てしまい,以降は陸軍の高級将官が司令官に就任します.
第二代がRudolf Pilfousek中佐,ついでAnton
Pulanich中佐(後に少将まで進級),そしてStefan
Jurech少将が就任し,最後は1944年8月26日の空軍廃止の日まで,Alojz
Ballay大佐が就いていました.
既存の機体の分解整備や,修理については,Slovakia国内では出来ず,ドイツの保護領となっている旧Czechから人が派遣されて行ないました.
戦闘機飛行隊は,第11,12飛行隊がPiestanyに,第13飛行隊がSpisska
Nova Ves.に配備され,これらにはAvia B.534/Bk.534が支給されました.
観測・偵察飛行隊は7個飛行隊を3個に再編し,第1飛行隊をZlina,第2飛行隊をSppiska
Nova Vesに,第3飛行隊はNitraに配備し,機材としては,既存の飛行隊が用いていたLetv
S.328が支給されました.
更に旧訓練部隊は,1940年に入るとSlovakia空軍飛行学校と改称され,各地に点在していた部隊を,Trencianske
Biskupice基地に集約します.
後に,戦火が激しくなってくると,Tri Duby基地へと移動しています.
発足当初の使用機材は,Plaga E.39/E.241,Avia
B.534,Letov S.328,Ba/Bs-122が使用されていましたが,これらの機材はドイツからの供給を受け,Focke-Wolf
Fw-44,Gotha Go-145,Heinkel He-72,Klemm
Kl-35D,そして戦闘練習用にBf-109Eに取って代わられました.
総合整備工場,航空機工場は,元々Nitraにありました.
1943年8月には,Tri-DubyとMokradに移動しています.
ここでは全機種の修理,整備の他,Skoda-Kauba
S.K.257練習機,Junkers Ju-87D-5を生産していました.
話を戻して1941年3月1日,スロヴァキア空軍の再編が行われます.
先に編成された第11,12,13戦闘飛行隊で,第2戦闘機大隊を編成し,Vlasdimir
Kacka大尉が指揮官となりました.この大隊はPiestanyに配備されます.
同時に,第1〜3観測飛行隊は,第1観測機大隊を編成し,指揮官にKournel
Jancek少佐が任ぜられます.これは,Spisska
Nova Ves.に司令部が置かれました.
時代は下って,1943年6月1日,第3戦闘機大隊がPiestanyにて編成されます.
その大隊には,東部戦線で戦闘中だった第13戦闘飛行隊のBf-109G-4と,新しく編成されたBf-109E装備の第14戦闘飛行隊の2個飛行隊から成る予定でしたが,第14の方は機材が間に合わず,紙上の存在でしかありましせんでした.
第2戦闘機大隊は,第13が抜け,第11,12戦闘飛行隊から成っていましたが,Avia
B.534戦闘機からJu-87D-5爆撃機へと機材を更新しようとしていました.
しかし,これは戦局の悪化で,遂に完了しませんでした.
第1観測機大隊は,旧型機を一掃し,Focke-Wolf
Fw-189A-2に機種変更しました.
しかしながら,機材の補充は十分ではなく,これらの機体は,偵察機隊の機材を横滑りさせたものだったりします.
1943年4月1日,第41爆撃飛行隊が編成されました.
これらの基幹要員は,Slovakia空軍の航空学校を卒業後,ドイツはバルト海沿岸のGriefwaldで訓練を行なっていました.
後に,実戦訓練はCrimea半島のSimferopol近郊にあるSakiで,3機のHeinkel
He-111H-10を用いて行ないました.
1943年秋には飛行隊はPopladに移駐します.
この基地には,他に時代遅れのS.328,Fw-58BとJunkers
W.34が配備されていました.
同じ頃,第51輸送飛行隊がTri Duby飛行場にて編成されました.
この飛行隊には,フランス製のCaudron C.445M
Goelands軽輸送機が5機,ドイツ製のKlemm Kl-35D軽飛行機が2機,He-111H-10が1機,Fi-156Cが1機配備されていました.
輸送機部隊としては,このほか,Vajnoryに航空輸送グループ(LDS)があり,C.445M,W.34,Kl-35D,Ju-52/3m,Fw-58B,He-111H-10,そして何故か米国製のStinson
SR-10C Reliantが配備されていました.
後者は軍の輸送の一部を担っていたほか,Slovakia航空の民間航空機としても用いられています.
後に,第51輸送飛行隊の任務の殆どは,軍の輸送ではなく政府機関の要務飛行が中心と成っていき,軍の戦力としては使用されなくなっていきました.
【質問】
スロヴァキア空軍の装備機は?
【回答】
Slovakia独立時,多種多様の機体が300機近くあり,供給は旧Czechから行なわれていました.
その内訳は,
Avia B.534戦闘機が60機,
Bk-534戦闘機が11機,
Letov S.328観測機が73機,
Aero A-100偵察機が14機,
発達型のAb-101偵察機が1機,
Praga E-39練習機が41機,
E-241が33機,
Avia Ba-122高等練習機10機,
Bs-122曲技練習機が13機.
Aero-Bloch M.B.200重爆が1機,
Avia-Fokker F.VII爆撃輸送機が1機,
Avia B.71(Tuporev SB-2のLicense生産型)軽爆が1機,
このほかに戦力として期待できない旧式機として,
Avia B.34戦闘機が3機,
Avia Ba-33戦闘機が2機,
Letov S.16爆撃機が5機,
S.616爆撃機が1機,
Aero AP-32襲撃機が5機,
APb-32襲撃機が1機,
Letov S.128観測機が5機,
Aero A.11偵察機が3機,
Aero A.211練習機が2機,
A.230練習機が1機,
A.330練習機が1機,
Letov S.239練習機が1機
という布陣でした.
1942年まで,Slovakia空軍の装備は,以前のCzechoslovakia空軍の装備をそのまま利用するので十分でした.
しかし更に大戦が進むと,これでは性能不足になり,1942年以降,1944年までドイツとイタリアからの供給で賄われることとなります.
但し,ドイツからの機材については,フランス戦線で使用して,不要になった機材が主に供給されました.
その機材に関しては,実に様々なものが供給され,型もバラバラで,Slovakia空軍が要求するものにマッチしたとは,とても言えないものでした.
自国での生産も行われましたが,少数が引き渡されたに留まっています.
Czechoslovakia製の低翼単葉のスポーツ機/軽旅行機
Benes-Mraz Be-555 Superbibi 8機
これを原型として開発されたZoborI 7機
練習戦闘機Skoda-Kauba SK-257 5機
License生産のJu-87D-5 7機(後,ドイツに接収).
そこでSlovakiaは,ロシア戦線に参加して,更に戦力になる機材を手に入れる計画を立てます.
具体的には,陸軍中央兵器廠の技術者を派遣軍に帯同させ,捕獲したものの内,役に立つものを見極めさせて,本国に輸送させたのです.
こうして入手した機体には,
I-16若干機,
I-153若干機,
Antonov Ss-6(ロシア製Storch)若干機,
Archangelsky SB-3急降下爆撃機1機,
Polikarpov Po-2連絡機1機
がありますが,その殆どの機体は本国への鉄道輸送中に破壊され,Slovakiaが手に入れたのは,僅かに
Ss-6連絡機6機,
I-153戦闘機1機,
Po-2連絡機1機
に過ぎませんでした.
特に,一番入手したかったSB-3爆撃機(Slovakiaには当時まともな重爆が無かった)は,修理して本国へ空輸している最中に,Lvovで離陸中に接触事故を起こしてしまい,修理不能となってしまっていました.
【質問】
スロヴァキア空軍が戦前描いていた将来計画は?
【回答】
薔薇色の計画を描いていました.
色々な増強の結果,1944年7月までに,Slovakia空軍は16個飛行中隊で7個飛行連隊を構成し,更に3個飛行師団を構成する軍備拡張案が完成する予定でした.
第1飛行師団は,偵察と観測を任務とする師団で,第1飛行連隊を構成している,第1飛行中隊,第2飛行中隊はFw-189を装備し,第3飛行中隊は偵察型のBf-109の装備が予定されていました.
第1飛行師団に属する第2飛行連隊は戦爆連合で,第21飛行中隊と第21飛行中隊に,Do-17,Do-215を装備しています.
第2飛行師団は戦闘機師団で,配下の第1飛行連隊に属する第11飛行中隊,第12飛行中隊にはBf-109を装備し,第2飛行連隊には第13飛行中隊,第14飛行中隊を持ち,前者はBf-109,後者はBf-109またはBf-110を配備する予定でした.
第3飛行師団は爆撃機師団で,第1爆撃連隊は第31飛行中隊,第32飛行中隊で構成され,これらの装備機はJu-87,第2爆撃連隊は第41飛行中隊,第42飛行中隊で構成され,これらの装備機はHe-111,S.M.84になる予定でした.
最後が輸送連隊で,第51飛行中隊,第52飛行中隊,第53飛行中隊で構成され,装備機は,Ju-52/3mを装備する予定でした.
これらの装備機はいずれもドイツとイタリアに発注し,代金の払い込みまで済ませていましたが,Slovakia保護国の崩壊で,全然引き渡されませんでした.
Bf-110(これはドイツ空軍)
【質問】
スロヴァキアの航空機メーカーには,どんなものがあったの?
【回答】
Slovakiaの航空機メーカーと言っても,大したものではありません.
けれども,LetovとAreaがBeckovに工場建設を計画し,1941年にはMrazがChocenに分工場を建設しています.
でもって,Slovakiaの航空機として固有のものとしては,Zdenek
Rublicによって設計され,Nitraで製作された機体があります.
この機体は,低翼単葉のZoborIスポーツ機/軽旅行機です.
原型となったのは,Czechoslovakia製のBenes-Mraz
Be-555 Superbibiで,これは10機生産され,うち8機がSlovakiaに引き渡されました.
ZoborIは9機が生産され,その全てがOK-SOB〜OK-SOJの民間登録記号を付けていましたが,Slovakia政府所管の国民防衛隊練習・連絡飛行隊に所属することになっていました.
しかし,何故か最後の2機はドイツ空軍に引き渡されてしまいました.
その他の本物の軍用機については,Trencianske
Biskupiceにある国営軍用機修理工場で生産が行われようとしていました.
また,PragueのSkoda-Kaubaの主任設計技師だったAustria人のOtto
Kaubaが,いくつか製作した試作機の発展型として,ドイツ空軍が採用した,練習戦闘機Skoda-Kauba
SK-257の生産を此処で行おうとしていました.
この機体,最初は,1,000機の生産が目論まれていました.
しかし,後に100機に削減され,最終的にSlovakiaの工場で生産されたのは,僅か5機にしかなりませんでした.
このほか,国営軍用機修理工場では,Ju-87D-5のLicense生産が行われています.
12機のJu-87D-5が此処で生産され,5機がドイツに見本として引き渡されました.この5機は,軍用機として引き渡されたのではなく,あくまでも民間ベースの商業輸出として引き渡された様です.
ちなみに,これらのJu-87D-5には,OK-XAA〜OK-XAEの民間登録記号が付いていました.
残りの7機がSlovakia空軍に引き渡されましたが,残念ながら,これらは接収されています.
【質問】
カルパートウクライナ紛争での,スロヴァキア空軍の戦闘について教えてください.
【回答】
Slovakia地域は元々,二重帝国地域ではマジャール王国に属し,マジャールでは,この地域を「未回収のマジャール」地域と見なしていました.
このため,マジャールとこの国の国境地域は従来から"Hot
Border"となっていました.
特にCzech政府が弱体化した1938年からは,マジャール空軍機が偵察に侵入したり,宣伝ビラをばらまきに越境したりしており,1938年10月25日には,マジャール空軍の1/2"Ludas
Matyi"飛行隊に属するC.R.32戦闘機2機が,Ju-52/3m爆撃/輸送機1機と共にSlovakia南部に越境し,伝単をばらまいていた時に,チェコスロヴァキアを越境した同国空軍第10飛行隊のLetv
S.328を発見,これを撃墜し,操縦士を負傷させ,後席偵察員を死亡させる事件が起きています.
時代は下って,1939年3月のチェコ解体の際,国の東の枢要部であったカルパートウクライナ地区は独立を宣言しますが,既にマジャール陸軍が侵攻を始めており,3月16日に占領(マジャール側から見たら正当な支配者に戻った)が完了しました.
そして,3月23日,占領地区を更に拡大し,あわよくばスロヴァキア全土を支配下に置こうと,カルパートウクライナ地区の国境を越えます.
けれども,この企てにSlovakia人はAugust
Malar大佐の指導の下,軍民挙げて結束し,マジャール軍相手のレジスタンスを開始.
発足したばかりの空軍もまた,国境線で衝突を繰り返しました.
こうして,第45戦闘飛行隊(隊長:Jan Svetlik大尉),第49戦闘飛行隊(隊長:Jan
Prhacek大尉),併せて約20機のB.534戦闘機,第12観測飛行隊(隊長:Frantisek
Wagner大尉),これに第13観測飛行隊の一部から兵力を抽出して,併せて約20機のS.328観測機,AP-32観測機を以て,最前線基地のSpisskaに赴任しました.
しかし機体は確保したものの,乗員はチェコ解体時の戦力分割に手間取り,当初は各飛行隊に6名程度しか居ませんでした.
これは,Ondrej Dumbala少佐指揮下の第37〜39戦闘飛行隊,第15偵察飛行隊から抽出して供給して確保します.
彼らは到着早々にして砲火の洗礼を受けることになりました.
既に,3月23日の侵攻初日,マジャール空軍の奇襲によって,前線基地に19機展開した機体のうち,2機のB.534が撃墜,4機のB.534と1機のS.328が対空砲火で撃墜され,第45戦闘飛行隊の隊長,Jan
Svetlik大尉と,第49戦闘飛行隊のStefan Devan伍長が戦死し,これがスロヴァキア空軍初の戦死者となりました.
翌日の24日はスロヴァキア空軍にとって災厄の日となりました.
スロヴァキア空軍は,Uzhorodから出撃したマジャール空軍の1/1
"Ijasz"飛行隊のC.R.32と17回空戦を行ない,S.328を1機,B.534を2機,撃墜または捕獲(B.534)され,4機のB.534と1機のS.328が損傷して不時着しました.
この時,第49戦闘飛行隊長など3名が不時着しましたが生き延び,1名(Jasef
Zachar軍曹)が捕虜となりました.
この日の午後,Sovrance近郊でこの紛争における最も大きな空戦がありました.
第12飛行隊の12機(3個分隊)のS.328は第45戦闘飛行隊に属する3機のB.534に護衛され,マジャール陸軍部隊の攻撃に出撃しましたが,その途中でマジャール空軍の9機のC.R.32戦闘機に襲われ,惨敗を喫したのです.
この戦闘で,1機のS.328が撃墜され,操縦士のGustav
Pazicky軍曹が機上戦死,偵察員のFerdinad Sveno中尉は,パラシュート降下中にマジャール軍戦闘機に射殺されました.
このほかのS.328はいずれも不時着を余儀なくされ,B.534戦闘機は全機撃墜破されましたが,これらの乗員はいずれも救助されました.
ちなみに,この際,スロヴァキア側の記録ではFrantisek
Hanovac軍曹とMartin Danihel伍長がマジャール戦闘機の撃墜を報告していますが,マジャール側には記録がなく,公式とは認められていません.
更に厄日は続き,Spisska Nova Ves基地にマジャール空軍のDebrecenから飛来した,3/4
”Sarkany"と,3/5 "Huvelyk Matyi"両飛行隊から抽出されたJu-86K-2爆撃機が10機飛来し,スロヴァキア領土に対する初空襲を行ないました.
この攻撃で,12名の兵士と一般市民が死亡し,2機のB.534,3機のAP-32,1機のS.328とB.71を地上で破壊します.
しかし,基地機能の破壊には失敗しました.
その後,戦線は膠着状態が続き,4月に入って直ぐ,マジャールとの戦闘は下火となって,新たな東部国境線が確定し,合意に至りました.
こうして紛争は終わりを告げたのですが,2年後には紛争を起こした両国が共に戦うのですから,運命とは分からないものです.
C.R.32
http://www.ottocubano.com/images/MUSEO%20VIGNA%20DI%20VALLE/DSC05591.JPG
よしぞうmaro' in mixi,2007年05月11日 03:23
【質問】
ポーランド戦におけるスロヴァキア空軍の戦闘について教えてください.
【回答】
マジャールとの衝突で惨敗してから約半年後の1939年9月1日,スロヴァキア陸軍はドイツ陸軍と協同してポーランドに攻め込みます.
と言うか,スロヴァキア駐留ドイツ軍がスロヴァキアとポーランドとの国境を越えたので,仕方ない側面はあったのですが.
当時のスロヴァキア陸軍は35,000名.彼らはドイツ軍南方軍集団の一翼を担っていました.
けれどもスロヴァキア陸軍は,ポーランド内陸部まで侵攻するのにはほど遠い状態で,1938年のミュンヘン条約でポーランドに割譲されたOravaとSpisと言った,ほんの一部の地域を回復するのが精一杯な所でした.
空軍に関しては,僅かに3個飛行隊,即ち,Obdrej
Dumbala大尉の指揮する,第13飛行連隊麾下の第39,第45戦闘飛行隊に所属する約20機のAvia
B.534戦闘機と,第16観測飛行隊のLetov S.328観測機が10機,これらのみ,ポーランド戦役に参戦しています.
このうち,Letovはスロヴァキア陸軍部隊の対地支援,爆撃,連絡,伝単の投下,首都と国境線間の急使派遣など,多様に使われました.
また,ポーランド南部にドイツ軍が侵攻してからは,8機がVinne飛行場に進出し,ドイツ空軍のJu-87と共に襲撃に使用されています.
しかし,ポーランドのStryj近郊で第39飛行隊のAvia
B.534が敵軍の対空砲火で撃破され,操縦士のViliam
Grun軍曹は,敵領土に脱出後,数々の逃避行を行ない,基地に帰還することが出来ましたが,9月9日に,もう1機のAvia
B.534がPresovで不時着し,操縦していたViliam
Jalovier伍長は運が悪く,死亡してしまいました.
ポーランド戦役末期の9月26日,先述のViliam
Grun軍曹は,Prasov近郊でポーランド陸軍第13飛行連隊のRWD-8連絡機を撃墜します.
ちなみに,この時のポーランドは敗北し,所属の空軍機はルーマニアに越境している最中でした.
ともあれ,撃墜は撃墜と言うことで,スロヴァキア空軍初の公式撃墜記録となりました.
【質問】
スロヴァキア空軍は独ソ戦でどのように戦ったの?
【回答】
Slovakiaは,ドイツがソ連に侵攻した1941年6月22日に参戦した最初の衛星国の一つでした.
東部戦線に陸軍が分け入っていったのと同時に,空軍も又,東部戦線に派遣されます.
東部戦線に先陣として派遣されたのは,
Kornel Jancek少佐の第1観測飛行隊の
第1飛行中隊(Rudolf Galbavy大尉),
第2飛行中隊(Frantisek Wagner大尉),
第3飛行中隊(Belo Kubica大尉)
の合計30機のLetov S.328と,
Vladimir Kacka大尉率いる第2戦闘飛行隊の第11〜13飛行中隊に所属する,33機全てのAvia
B.534戦闘機,
そして,
Imrich Kublis大尉率いる連絡飛行隊から,7機のPraga
E-39,E-241,各1機のStinson SR-10C Riliantと
Be-555 Superbibiが抽出されました.
独ソ戦勃発以前には,これらの飛行隊は,平時の基地から野戦基地,即ち,Spisska
Nova Ves,Kamenice nad Cirochou,Nizny Sebes,Nizny
Hrabovecと言った,東部Slovakia地区に展開しており,独ソ戦勃発後の7月7日までに,更にUkraine西部地区に歩を進めることとなりました.
けれども,これが意味するところは,Slovakia国土の防空を実質的に無防備にすることに繋がり,7月1日にはB.534を装備する第11飛行隊はPiestanyに帰還し,航空学校からの特に優秀な3名の操縦士を加え,これらの戦闘機を用いて,ドイツの兵器製造工場が多く配置されている,Vah渓谷の防衛戦力の基幹として配置し直されました.
残りの5個飛行隊については,予定通り,Kiev方面へ向かう西部Ukraine地区に展開し,ドイツ軍の夏期攻勢,秋期攻勢の何れにも参加して成功裏に任務を完了しました.
これらの飛行隊は以下の飛行場に展開して,任務を遂行しています.
第1飛行中隊 → Zagorze,Sambor,Lvov,Rzeszno,Vinnica,Haysin,Berdiczev,Bielaya
Cerkev,
Vasilkov,Mytnica,Bieliki,Nikolayevska,Sofiyevka
第2飛行中隊 → Koniuszki
第3飛行中隊 → Koniuszki,Komarno
第12飛行中隊 → Sambor,Lvov,Proskurov,Bar,Vinnica,Haysin,Berdiczev,Bielaya,Cerkev,
Gubin,Mytnica,Bileliki,Nikolayevska,Sofiyevka
第13飛行中隊 → Sambor,Lvov,Rzeszno,Czortkov,Yarmolincy,Bar,Tulczyn
さて,S.328装備の観測飛行隊は,退却するソ連軍部隊に対する攻撃,戦線を越えての偵察飛行,連絡任務に用いられました.連絡任務はその装備から見て余り適任ではありませんでしたが.
一方で,1941年8月初めの時点で,Avia B.534装備の戦闘飛行隊は,ドイツ軍のHenschel
Hs-126偵察飛行隊である,3.(H)/32,4.(H)/32と共に,戦線を越えていき,後に,S.328装備の飛行隊が彼らに付いていきました.
戦闘機隊の任務もまた,戦場上空哨戒,地上目標への攻撃が主なもので,対戦闘機任務は余りありませんでした.
この襲撃任務で一番戦果を挙げたのは,Vladimir
Kacka率いる第12戦闘飛行隊のAvia B.534戦闘機11機で,Vinnica-Niemirov幹線で行軍中のソ連軍隊列を襲撃したことで達成されました.
この時には4機の戦闘機が損害を被ったのにも関わらず,敵師団に壊滅的な被害を与えています.
また,第12戦闘飛行隊が,空中での戦果を挙げたのは,1941年7月29日のことで,Josef
Palenicek少尉率いる小隊が,15機の"Curtiss"戦闘機(実際は,I-15かI-153と思われる)と空中戦を行い,数機の損害と引き替えに,1機の"Curtiss"を撃墜した,と言うものでした.
Avia B.534戦闘機では,不整地での離着陸性能が良いお陰で,少なくとも二人の戦闘機パイロットがソ連の捕虜になることを免れ,いくつかの冒険譚を作ることになりました.
例えば,1941年7月25日のこと,第13飛行隊のAvia
B.534戦闘機3機は,Ladislav Hodro曹長に率いられて,Henschel
Hs-126の護衛任務に就き,Tulczyn近郊を飛行していましたが,この時,ソ連軍の重対空機関砲の射撃を受け,Frantisek
Brezina軍曹の機体に命中して,機体はソ連軍の勢力圏内に不時着してしまいました.
また,二人目のパイロットである,Stefan
Martis軍曹の機体も,同じく対空砲火で,主翼と風防に損傷を負いました.
しかし,Martis軍曹は不時着したBrezina軍曹の機体の側に着陸し,Brezina軍曹を乗せると,危険で冒険的な飛行を行い,遂に味方の勢力圏内にある飛行場に着陸させたのです.
当然,この二人の操縦士が取った行為に対し,当局はこれを賞賛し,それぞれに2級と3級の英雄勲章を与えました
これは,東部戦線で戦ったSlovakia空軍兵士に対する,最初の叙勲でした.
それから5日後,第12飛行隊のJozef Palenicek少尉率いる6機のAvia
B.534戦闘機は,Gradzev近郊を制空と爆撃任務のため,飛行していました.
この時,Martin Danihelys軍曹の機体が対空放火で損傷し,前線後方の敵勢力圏内に不時着せざるを得ませんでした.
と言うことは,即ち,彼が捕虜になる危険性がありました.
そこで,Gustav Kubovic軍曹と,Jozef Drlicka軍曹の両機が残り,後者がDanihelys軍曹を救うために,彼の機体の側に着陸し,Drlicka軍曹の機体の主翼上にDanihelys軍曹を乗せたまま,離陸し,彼を安全な場所まで連れて行ったのです.
但し,そうそう上手いことが続くことは無かったり.
Slovakia軍の戦闘用航空機の最大の弱点は,燃えやすいことでした.
彼らは,しばしば地上からの対空砲火(幾らかは味方,Slovakia陸軍とかドイツ軍から)により,損傷を受けることがあったのです.
また,特殊なBiBoLi航空ガソリンや補充部品の欠乏に悩まされ,このためにエンジンに特別な改造を施さなければなりませんでした.
これらの要因により,徐々に残存航空機の数を減少させていきました.
さし当たり,第2飛行隊は7月25日の時点でKoniuszki飛行場から,Spisska
Nova Vesに引き揚げざるを得なくなり,第1飛行隊,第3飛行隊についても,その半数を引き揚げてしまいました.
他の飛行隊についても,長期間の派遣から徐々に撤退を行い,8月15日には第13飛行隊がTulczynからPiestanyに撤退し,その2日後には第3飛行隊の残余の部隊が,NitraからKomarnoに撤退.
第1飛行隊の残余の部隊と,第12飛行隊だけは残置され,Kiev正面に進撃する快速師団を支援していました.
さて,1941年9月に入ると,Slovakia空軍の活動は絶頂を迎えます.
最初の半月,第12飛行隊は,Dnieper河の渡河を行うドイツ軍部隊から,Kiev北方60kmに位置するGornostaypolの橋の防衛を任されます.
9月7日,その橋の上空で,10機のAviaB.534戦闘機と,9機のI-16とで空中戦が繰り広げられ,この戦闘では自軍の損害無しで,2機のI-16を撃墜しました.
翌日,3機のB.534と2機のI-16との空中戦になり,今回は1機のB.534が撃墜されました.
10日,3機のB.534が哨戒中,3機の"I-17"戦闘機(この機体は,最高速度480km/h超,20mmCannon砲を装備した新世代の戦闘機(LaGG-3,MiG-3などの可能性が高い)と同じ空域で空戦となり,1機のB.534が大破しましたが,2機の"I-17"戦闘機を撃墜しました.
とは言え,これだけの奮戦に,第12飛行隊だけでは手が回らず,実際には,本土から第13飛行隊所属の10機のB.534が分遣されていました.
しかし,これらの機体も戦闘で疲弊し,3機が損失していました.
一方,快速師団を支援する第1観測飛行隊もまた,9月21日までにRudolfGalbavy少佐率いる7機のLetovS.328が最大級の戦果を挙げています.
彼らは,空爆により,Prosev〜Sofiyevka〜Glikoye〜Voronkovを結ぶ線の東方地域において,集結地に集結した800両の車輌を撃破したのです.
こうして,1941年の秋は概ねSlovakia空軍の旧式機材でも有利に過ごすことが出来ました.
1941年秋の終わりに,最初に東部戦線に派遣された機体が引き揚げて来ました.
1941年10月26日には,最後の第1飛行隊(この部隊は僅かに3機のS.328に減少していました)と,第12飛行隊(同じく4機のB.534戦闘機に減少)が,Sofiyevska基地からTri
Duby,Piestanyの両基地に引き揚げて来ています.
この年の派遣が一応成功裏に終わった背景には,赤軍の総退却と,I-15,I-153,I-16と言った旧式機で無秩序に構成されたソ連空軍が挙げられます.
1941年7月から10月にかけて活躍したSlovakia空軍の兵士達は,自国の宣伝機関から,"tatranski
orli" (タトラの鷲)という渾名を与えられ,その出撃回数は,東部戦線だけで3,275回を数え,殆ど損害無しに,I-16を3機,"I-17"を2機,"Curtiss"を1機撃墜しています.
また,Slovakia空軍の操縦士は,対空砲火,敵機との戦闘で,修理が不可能であると明確に判明しない限り,
極力,機体を持って帰ろうとしています.
作戦行動中に帰還に失敗した唯一人の操縦士は,1941年9月21日のJ.Kalisky軍曹だけでした.
彼はLetov S.328を護衛中,Rogozov上空で対空砲火によってまさかの撃墜を喫してしまいました.
しかし,S.328はこれを助けようとせず,結果的に連絡飛行隊が責任を追求されています.
1942年夏,東部戦線駐留Slovakia空軍部隊は機材補充を本国で行いました.
1942年6月13日にUkraineを出発した部隊は,第1観測飛行隊,第11戦闘飛行隊の第一陣で,前者はLetov
S.328を6機,後者はAvia B.534が12機と相変わらずの機体です.
既に両機とも第一線で使えるものではなく,戦線後方でPartisan対策のための警備師団に協力して観測任務を実施する任務に就くことになりました.
最初,両飛行隊は,Zitomir基地を根拠地にしていましたが,第1小隊(隊長:Frantisek
Wagner大尉)では,連絡任務の他に,対Partisan攻撃任務も追加されました.
これらの飛行隊は,1942年10月までにUkraineに残っていましたが,一旦本隊は本国に帰還し,連絡用の機体として,第3飛行小隊のS.328残存機,フランス製Caudron
C-445M Goelandと米国製Stinson SR-10C Reliantが本国〜Ukraine間,またはCrimeaとその後背地との連絡に用いられています.
第11飛行小隊(Ivan Haluzicky少尉,次いでJan
Dulla少尉,最後がMikulas Guljanic大尉)は,
相当長期間,Ukraineに取り残されていました.
この飛行隊は,1942年10月にOvruchに移駐し,1943年3月にはMinskに移駐しますが,相変わらず,Partisan相手の作戦飛行と偵察を続けていました.
Slovakia空軍の隊員たちにとって,特にStalingrad戦の後の作戦は殆ど理解しがたいものとなり,士気は低下し,B.534とS.328の少なくとも2機が脱走したことが報告されています.
これは,また,ドイツ人兵士たちが揶揄する文句,"Partisanen
nummer zwei"(Partisanが二人いる)の理由の一つとなりました.
1943年8月,部隊はMinskからPiestanyに引き揚げています.
1941年秋に,東部戦線の第一線から最後の飛行隊がSlovakiaに引き揚げてから少し経って,Slovakiaの首都Bratislavaに滞在していた駐留ドイツ空軍司令部に対し,Slovakia空軍は繰り返し使用機材の更新を依頼していました.
Yak-1,LaGG-3,MiG-1/3と言ったソ連の新型戦闘機が頻々と見かけられるようになり,それが段々多くなってくるであろうと言う見通しの元,これらソ連新型戦闘機に対抗するためには,少なくとも1個飛行隊は,現在の機体よりドイツ製の優れた機体に更新し,訓練を積んで,最高の状態に持って来ておく必要がある,と言う訳です.
その願いは,1942年2月25日に漸く叶えられ,18名のパイロットと,98名(一説には88名)の整備士が,新型戦闘機,Messerschmitt
Bf-109Eの転換教育を受けるため,DenmarkのKarup-Grave基地にある戦闘機学校に派遣されました.
その指揮官にはSlovakia空軍で最も有能な指揮官である,Ondrej
Dumbala大尉(彼は,1941年に早くもドイツの二級鉄十字章を授けられた最初のSlovakia人のうちの一人)が任命されました.
厳しい訓練を終えて,1942年7月6日,彼等の殆どは帰国し,第13戦闘飛行隊を編成します.
機材は,1942年から翌年に掛けて,27機のMesserschmitt
Bf-109E,内訳は,E-1/B,E-2,E-3,E-7,E-7/Tropが各2機,残り17機がE-4と言う編成で,何れもドイツ空軍の第一線機材更新によって余剰となった機体が,Slovakia空軍に引き渡されました.
さて,新鋭機(苦笑)を渡された我らがSlovakiaの面々….
1942年10月27日に,OndrejDumbala少佐(昇進した)指揮下の第13戦闘飛行隊の操縦士の面々が,所謂,第一次転換訓練修了者として,Azov海に面した東部戦線の基地へ向けて,Piestanyから出発しました.
その展開時点では,7機のBf-109E"Emil"(1機のE-3,5機のE-4,1機のE-7)が参加し,11月に入ると,更に5機のBf-109Eが供給されました.
1943年7月にJozefPalenicek少佐率いる第二次転換訓練修了者が戦闘任務にとって変わるまで,東部戦線で戦闘を行っています.
この間,1943年1月5日には,第13戦闘飛行隊はKerchから移動して,Maikop基地に移り,此処から作戦行動に出ていました.
3月18日にはTaman基地に送られ,4月1日にはAnapa基地,9月に再びTamanに戻り,その後Kerch,最後はBagerovo基地へと,即ち,独ソ前面の南部戦線で戦闘を繰り広げています.
この頃になると,最早Emilの供給は無くなり,1月5日からBf-109F-3に機種転換され,3月1日には,更に新しいBf-109G-2が,同じ月の後半から月末に掛けては,ロシアに於ける最後の補給となるBf-109G-4が引き渡されていきます.
けれども,これらの機体はSlovakia空軍のものではなく,ドイツ空軍のものを貸与されたもので,その結果,これらの機体にはバルカンクロイツが塗装されていました.
Slovakia空軍の操縦士が使用していることを示すものは,僅かにプロペラスピナーのカバーに描かれたSlovakia国旗の色,赤,青,白に過ぎませんでした.
第13戦闘飛行隊は,もはやSlovakia地上軍の支援に用いられることはなく,OttoDessloch将軍指揮下の第4航空艦隊に属するJagdgeschwader52(JG52)の13(Slowkei)Staffel所謂,13/JG52と称されるようになっています.
この飛行隊は,Crimea半島,Azov海,黒海のあちこちで,中でもKuban近辺で過酷な空中戦を繰り広げていました.
その任務は迎撃戦闘と爆撃機護衛の両方で,警戒警報で飛び上がったり,地上軍も攻撃したりと,正に八面六臂の活躍でした.
1942年11月28日,Vladimir Krisko少尉と,Josef
Jancovic軍曹の2人の乗った2機の"Emil"は,警戒飛行中に9機のI-153に遭遇し,損害無しでそのうちの3機を撃墜しました.
これがEmilでの初めての戦果でした.
この戦場に出撃していたソ連の航空部隊は,第4,第5前線航空軍で,最初のうち,Slovakia人操縦士達に対して,旧式機材と経験の浅い操縦士の組合せで立ち向かっていましたが,後になると,その機材は,MiG-3,Yak-1,LaGG-3,La-5,Spitfire,Airacobra,Pe-2FT,Boston他の機材に更新され,それと共に,操縦士の腕前も上がって,Slovakia人操縦士達は苦戦を免れなくなりました.
第13戦闘飛行隊は,東部戦線から引揚げるまでに,凡そ2,000回の作戦飛行を果たし,210回の空戦(他の記録では204回または215回)に勝利したと考えられています.
一方,操縦士の戦死者は僅か7名…ですが,その中には,Joseph
Drlicka軍曹(三級英雄勲章,二級鉄十字章授章者),Jozef
Jancovic軍曹(三級英雄勲章授章者)の様なエースも含まれていました.
また,この飛行隊で最も成功を収めた操縦士は,Jan
Reznak上級軍曹で,32機の確実,1機の不確実撃墜を記録し,ドイツ人から彼に対し,二級鉄十字章,一級鉄十字章,そしてドイツ十字章金章を授与しました.
次いで戦果を挙げたのがJan Gerthofer中尉で,27機の確実,5機の不確実撃墜により,2級鉄十字章,1級鉄十字章を授与されています.
同じく2位になるのがIzidor Kovarik軍曹で,29機の確実と1機の不確実撃墜により,2級鉄十字章,1級鉄十字章,黄金騎士戦功十字章,ドイツ十字章金章を授与されています.
1位,2位と言った順位付けに関しては,ソ連軍機撃墜の数について,未だはっきりした資料がソ連側から示されていないので,未だ変動する可能性があります.
第13戦闘飛行隊の戦果についても,戦果誤認など様々な理由で誇張していることが明確になっています.
それどころか,戦後に新生Czechoslovakia空軍発足時に参加したSlovakia人達がその戦果(と称されるもの)を声高に主張したこともあり,正確な数が判りません.
不運なことに,第13戦闘飛行隊に関する活動記録と書類が失われてしまっているため,事実を確かめる術はとても難しい訳です.
けれども,その疑問に対する回答の一つとして,あるドイツ人歴史家が述べた様に,
「戦闘機パイロットに関するスロヴァキア人の記録は,ドイツ人の標準から見ても評価できるものである」
と言う賛辞があることも事実です.
第13戦闘飛行隊は,1943年10月末まで東部戦線に留まり,以降,Slovakia本国に引揚げ始めました.
ロシア戦線での最後の勝利は,1943年10月23日,Gustav
Lang軍曹によって達成されています.
第13戦闘飛行隊がSlovakia本国に呼び戻された理由ですが,主な理由の一つに,数人の操縦士がソ連側に寝返った事が挙げられます.
特に,StalingradとKurskでの第三帝国とその同盟国の大敗北によって,彼等には,枢軸国側として戦うための意義が見いだせなくなり,戦意を喪失していきました.
1943年9月9日,Kuban上空を哨戒飛行していた2機のBf-109G-4…Anton
Matusek軍曹(彼は僅か1週間前に一級鉄十字章を授与されていた)とLudovit
Dobrovodsky軍曹が操縦していた機体…は,無線でソ連機と衝突したと伝えた後,ソ連側に亡命し,後にソ連でLa-5FNの操縦教育を受け,Slovakiaの叛乱での戦闘に参加しています.
また,1943年9月11日には,Alexander Geric軍曹が,Stefan
Martis曹長と共にドイツ軍のFw-189偵察機を護衛中に戦線を越えてしまい,帰還に失敗したとされました.
実は,彼等は元々の計画で,この偵察機を撃墜する予定でいましたが,その攻撃に失敗しました.
しかし,Stefan Martis曹長がAnaba着陸後に,ソ連軍機によって攻撃を受けたと報告した上,Alexander
Geric軍曹のBf-109G-4が撃墜されたとしています.
Moscow放送すら,そのGericの撃墜について触れ,撃墜したパイロットは勲記を受けたとしていました.
実際は,Geric軍曹機の胴体内には,無線修理兵のVincent
Tkacik一等兵が同乗しており,彼等は共にソ連の地に亡命していました.
Tkacik一等兵は,ロシア人達にとって未だ秘密の塊だった通信基地設備のエキスパートで,彼の情報はソ連軍にとっても有用だった様です.
1944年にAlexander Geric軍曹は,諜報任務のためにソ連からSlovakiaに戻ります.そして,1944年8月29日,彼はPraga
E-39で,Illava北方に飛行するため,Piestanyを離陸しますが,失敗して死亡しました.
1943年9月11日に発生した事実が発覚すると,遂に,Ferdinand
Catlos将軍を第13戦闘飛行隊の司令に任命し,部隊は,「士気の低下」を撤収の理由としましたが,実際は,Slovakia駐留ドイツ空軍作戦司令部の命令が下ったためで,10月までにVajnoryに撤収を完了しました.
撤退後は,Emilが5機,Slovakia空軍の所有物として引き渡され,1943年に引き渡されたGustavは,全機がドイツ空軍で用いられ,失われました.
このため,最新の機体が,新たに飛行隊に供給されています.
MiG-3
(画像掲示板より引用)
【質問】
スロヴァキア空軍は,本土防空ではどう戦ったのか?
【回答】
1944年からイタリア南部を基地にした第15空軍の空爆標的としてSlovakiaが挙げられるようになります.
Slovakiaの空爆目標には,首都Bratislavaの精油所,Dubovaの石油貯蔵施設,Dubnice
nad Vahomその他の 兵器工場があり,Slovakia空軍は,その状況に対する早急な対応をしなければなりませんでした.
東部戦線から撤収後した第13戦闘飛行隊(Vladimir Krisko中尉,彼は東部戦線で9機を撃墜したエース)が
指揮官になりました)は,Vajnoryに基地を置き,1944年2月からはPiestanyに移駐しました.
その任務は,首都Bratislava近辺の拠点防空であり,このため,Emergency
Flightと非公式に呼び慣わされる 様になりました.
けれども,その機体は旧式化しており,12人の操縦士に14機の機体が配属されてはいますが,2機のBf-109E-1/B,1機のE-2,1機のE-3,6機のE-4と,1機のE-7/trop,更に2機のAvia
B.534と1機のBk.534だったりします.
その飛行隊の本土防空戦に於ける「初撃墜」は,Danubeに不時着させたもので,1944年3月13日のこと,緊急警報により出撃した,2機から成る警戒飛行隊のうちの1機,Rudolf
Bozik曹長が,ドイツ空軍II/ZG1の「双発機」Bf-110G-2を攻撃したものでした.
この駆逐機は,接近してくる2機のEmilをP-51と誤認し,攻撃したので,その結果として,Rudolf
Bozikは,これを撃墜し,後に,「米国の『四発爆撃機』を撃墜した!」と報告した不幸な事故だったりします.
さて,ポンコツと言っても良い機材で編成された,Slovakia空軍第13戦闘飛行隊ですが,これらの機体は漸く,ドイツ本国から供給された14機のBf-109G-6で代替されることになりました.
この部隊は,Wienにある,ドイツ空軍本土防空戦闘機隊の一部隊である,Oberst
Gotthard Handrickが指揮 するJG8の配下にある予備部隊としての位置付けをされています.
1944年春にそのBf-109G-6群は,莫大な数の米国爆撃機に対して,毎日の様に迎撃戦闘任務を行っていま
したが,実際は人目に付かずに訓練を実施すると言う名目で,万一戦闘に巻き込まれたとしても,それを回避
することになっていました.
と言うのも,その機体と乗員たちは,来るべきドイツに対する叛乱の為に温存しておくべきだと判断されたから
です.
その叛乱計画は,Slovakia国防相のFerdinand
Catlos将軍が陸軍の参謀達と計画していたものとは別個に,
Jan Golian大佐が計画していたものでした.
ですから,BratislavaにいたSlovakia駐留ドイツ空軍作戦本部の将校達は,Slovakia空軍の飛行が消極的だと言ってSlovakia空軍の部隊を非難していました.
【質問】
対ドイツ反乱の際の,スロヴァキア空軍の働きについて教えてください.
【回答】
1944年8月29日,ドイツ軍は,アテにならないSlovakia保護国の直接統治域のいくつかを占領下に置きました.
同時期,Slovakia陸軍は,連合国の一部であるCzechoslovakia陸軍の一部であることを宣言し,ドイツ軍に対する抵抗戦に入ります.
叛乱した陸軍は,1944年10月には5万の兵士と7,000のPartisanで構成され,Jan
Golian大佐(後,准将)と,後に彼の後を継いで,師団長だったRudolfViest将軍が就任します.
なお,Viest将軍はCzechoslovakia併合後,Londonに亡命し,Moscowを経て着任しました.
さて,叛乱空軍は,ZvolenとBanskaBystricaの間に位置するTriDubyに集中配備していました.
それまでこの基地は,青年航空学校,整備学校,操縦学校と言った航空関係の学校から来た生徒を,Slovakia空軍兵として訓練する空軍飛行学校が設置されていた場所でした.
可能な限り,Slovakia空軍兵士(偶にはその乗機も含んで)達は,Vajnory,Piestany,Trecinなどの残存Slovakia空軍基地からこの基地めがけて集まって来ました.
それに加えて,残置されたMokradの航空補給部隊,また,Popradの第41爆撃飛行隊から,叛乱初日の占領ドイツ軍に対する作戦任務に従事した後,TriDubyに移動したLetovS-328が数機――元々,これらは混成航空団の機体,但し,この機体は既に用途廃棄になっていた旧式機――増加しました.
こうして増えた混成航空団の構成は,
Messerschmitt Bf-109E-4が2機(但し,弾薬は欠乏している),
Avia B.534が4機,
Letov S.328が7機,
Savoia-Marchetti S.M.84bisが2機,
同S.M.84が1機,
Focke-Wolf Fw-58Cが2機,
Junkers Ju-52/3mが2機,
Caudron C.445Mが2機,
Junkers W.34が2機,
Klemm Kl-35Dが2機,
Praga E-39が6機.
このほか,操縦訓練学校のFocke-Wolf Fw-44,Heinkel
He-72,Gotha Go-145も加わっています.
こんな状態であるため,混成航空団は1944年9月初旬から,以前航空戦闘団の基地にあったMesserschmitt
Bf-109G-6を2機,Letov S.328を2機,Focke-Wolf
Fw-189A-2を1機,それぞれ整備の上,ソ連を通じて引き渡して貰っています.
それでも,いくつかの機体は,弾薬と予備部品の欠乏で早々に失われ,それ故に,機体は少数であり,戦闘に必ずしも適切な戦力投入が出来ませんでした.
混成航空団の指揮官は,MiklasSinglovic中尉(後にVladimirKrisko中尉)で,彼の下に,25名の操縦士と12名の機上偵察員,そして,12名以上の地上要員から成っていました.
また,彼等に混じって,旧Yugoslaviaの2人の操縦士が所属していました.
1人は,Arsenije Bolievic少佐(Yugoslavia王国空軍第34戦闘飛行隊)とSavo
Poljanec大尉(同国空軍第161戦闘飛行隊)の2人ですが,彼等はドイツ軍の捕虜収容所を脱走して:,Slovakiaに入ったところで,叛乱に遭い,彼の国の空軍に身を投じたものです.
なお,叛乱空軍の総司令官は,Jozef Toth大佐でした.
叛乱初日から,混成航空団は基地周辺を防禦しつつ,ドイツ占領軍に対する攻撃,宣伝ビラの散布,安全な連絡手段の提供,包囲された味方への補給などを行っていました.
これらの任務は,主にS.328,B.534,Bf-109G-6が担っていました.
混成航空団の航空機は,戦闘中に損傷を負ったり,時には乗員が怪我をした状態で帰還することも屡々でした.
その整備士達は,これらの機体を維持し続けるために戦闘による損傷を修復するのに一生懸命に働き続けました.
また,彼等は夜間の間中ずっと,ソ連軍の輸送機であるLisnov
Li-2やDouglas C-47から補給品や武器をTri Duby基地に荷下ろしする任務に就かなければなりませんでした.
他の航空兵や飛行学生達は,凡そ1,200名に達しましたが,彼等に行き渡るくらいの機体が十分に無く,歩兵部隊としてドイツ軍相手に勇敢に戦いました.
これらの歩兵部隊は,3つの歩兵大隊…これらは,Ivan
Haluzicky大尉,Daniel Kunic大尉,Teodor Slajchart大尉の3名の士官の指揮下にありました…と,3つの歩兵中隊…これらは,Mikael
Minka中尉,Juraj Mesko中尉,Jan Zubrik中尉が指揮していました…で構成されていました.
ちなみに,彼等の部隊のことをドイツ人達は,「青い悪魔」と呼んでいました.
【質問】
スロヴァキア反乱における,米ソ等のスロヴァキア空軍への支援の内容は?
【回答】
Slovakia叛乱の期間中,空軍は困難な立場に追い込まれています.
その理由の一端は,1944年7月1日にMoscow北東350kmのIvanovo飛行場で編成された,第1チェコスロヴァキア戦闘機連隊が,ソ連から派遣されてくることにありました.
その連隊は以前,英国空軍に参戦していた20名の戦闘機操縦士達で編成され,彼等は義勇兵として東部戦線に参戦していたものでした.
彼等はRussiaの地で,更に2人のSlovakia人,1943年9月9日にBf-109G-4を駆ってソ連側へ脱走し,ソ連戦闘機の飛行訓練を受けていた,元第13戦闘飛行隊所属のAnton
Matusek曹長とLudorvit Dobrovodsky一等軍曹を組込ます.
1944年9月17日,連隊は,Zvolen近郊のZolna飛行場で,新品のLavochkin
La-5FNを21機受け取り,後に,Tri Dubyからの作戦に参加することになりました.
この精鋭飛行隊は,直ちに前線に参加することを宣言し,混成航空隊は短い勝利の後に,その要員の休息と,保有航空機の修理の時間を与えてくれたのです.
既に9月18日の時点で,連隊の8機の機体が,Piestanyのドイツ空軍基地に対する攻撃を行い,6機の機体を地上で破壊し,自らの損害はゼロと言う戦果を挙げました.
その後,9月20日には,Slovakiaにある別のドイツ空軍基地,Malacky-Novyを破壊する,米国陸軍航空隊第15空軍の空襲に参加し,米軍と共同で27機を破壊しています.
このためドイツ空軍は,Poland南部に配備していた,第77地上襲撃航空団とマジャール北部に配備していた第52戦闘航空団をこの叛乱に投入せざるを得なくなりました.
この戦闘飛行連隊は,のべつ幕無しに,多くの作戦に参加しました.
爆弾を搭載して地上部隊を支援したり,叛乱軍の航空基地上空の防空なども実施しています.
これらの活動期間中,573回の戦闘飛行任務に就き,13機を撃墜(Bf-109を4機,Fi-156を3機,Fw-189とFw-190をそれぞれ2機ずつ,Ju-87とJu-88をそれぞれ1機ずつ)し,多くの機体と地上設備を地上で破壊しました.
この中で最も戦果を挙げたのは,チェコ人のLeopord
Srom准尉で,彼は,3機のBf-109,1機のFw-189と1機のFi-156を撃墜しています.
反面,彼等の損害は,10機の航空機が破壊され,そのうち3人の操縦士が死亡,1人が捕虜となり,4人が不時着して負傷しました.
この損害の総ては,地上からの対空砲火に依るものでした.
ソ連側もこの叛乱に手を差し伸べています.
武器や軍需物資の運搬には,主に第4親衛爆撃航空師団"Bryansk"のNorthAmericanB-25Mitchell
が投入されました.
こうした物資は,1944年9月4〜5日の夜間にTriDuby飛行場に,同じく1944年9月21〜22日夜間からは,BreznoとHronom近郊のRohozna補助飛行場にそれぞれパラシュートで投下されました.
これらのMitchell爆撃機は,1944年10月27日までに498回の投下を行い,うち352回が成功,そして,253tに及ぶ武器,弾薬,火薬を叛乱軍に届け,その間に1機を失っただけでした.
同時に,ソ連長距離空軍第5航空軍"Orel"の第53航空師団"Stalingrad",第54航空師団"Orel"所属のDouglasC-47とLisnovLi-2もまた,物資や人員の輸送にあたりました.
天候が許す限り,これらの機体は,TriDubyに向けて軍需物資を輸送すると共に,Slovakia陸軍からの脱走兵とCzechの亡命兵で構成され,ソ連国内で編成された第2Czechoslovakia空挺師団の2000名程度の兵員も援軍として送り込んでいます.
このほか,Lavochkaの第1飛行連隊は航空燃料を運搬し,帰りに傷ついた兵士,女性,子供たちの脱出を助け,ドイツによる叛乱鎮圧前には,Slovakia所有の準備金をRussiaに運搬しています.
1944年9月26〜27日の夜間から叛乱鎮圧までの間,第5航空軍"Orel"は,701回の飛行を行い,うち354回が成功,その輸送で,385tの武器,弾薬,軍需物資と1,928人の兵士が輸送され,698名の人々と,20.3tの物資がソ連側に輸送されました.
失われた機体は,DouglasC-47が6機,LisnovLi-2が8機を数え,最後の飛行は,1944年10月24〜25日の夜間飛行でした.
次は米軍の間接支援.
1944年6〜8月に掛けて,Slovakia上空で,ドイツ空軍本土防衛戦闘機隊と,米国陸軍航空隊第15空軍との間で幾度の戦闘があり,米陸軍航空隊は,13機のB-24,2機のB-17,2機のP-38,1機のP-51を喪失しました.
ドイツ軍はこれら撃墜機から脱出した米軍の乗員を捕獲し,Ferdinand
Catlos将軍指揮下のPerzinok近郊にあるGrinavaの捕虜収容所に収容していました.
1944年9月1〜2日の叛乱に際し,其処のSlovakia軍監視兵は捕虜収容所を脱走し,叛乱の中心地,Banska
Bystricaに向かいますが,
その時,収容されていた米陸軍航空隊の兵士26名も彼らに合流して脱走しています.
▼ 1944年9月17日,Tri Dubyから米陸軍航空隊の脱走兵達をItalyに輸送するため,ItaliaのBariから第15空軍第483爆撃航空隊のB-17が2機,派遣されてきました.
そのアメリカ人達は,10時頃,Slovakiaの地に降り立ったのです.
また,護衛には,以前Slovakia空軍を鎧袖一触に蹴散らした第52戦闘飛行隊所属の41機のP-51Bが動員され,B-17とこれらのP-51Bは,行きに8tの武器弾薬と,OSSの特殊部隊隊員6名を同乗させていました.
このうち護衛機の1機,Ethan Smith中尉の機体は基地上空を低空で飛びすぎて,地面に接触して墜落してしまいました.
彼の機体は破壊されますが,彼は大怪我をしてZvolenの病院に入院し,一命を取り留めます.
更に,その後間も無く,Alexander Watkins中尉の機体も又,エンジン故障で不時着しました.
彼の機体はそのまま放置して,中尉はB-17に乗り込み,13時15分に両機は無事,Bariに着陸しました.
で,更に米軍の捕虜引取り飛行は続く.
1944年10月7日には,再びBariから第52戦闘飛行隊所属の32機のP-51Bに護衛された,第483爆撃航空隊のB-17Gが6機,他に撃墜された米軍航空隊の飛行兵達を回収する為に叛乱軍の占領地に派遣されました.
このB-17Gには16tに及ぶ武器弾薬と共に,20名の米国OSSと,英国SOEに属する特殊部隊兵士達も搭載していました.
これらの機体の帰りには,20名の米国人飛行兵と,Londonに赴くSlovakiaの政府及び軍の代表3名が搭乗しています.
この荷物の積み卸しと,彼らの搭乗手続きが進む間,Mustangと第1戦闘機連隊に属するLa-5が,上空を哨戒飛行していました.
この時の米国側の護衛戦闘機隊指揮官は,Charles
Boedeker大尉でしたが,彼はドイツ空軍のFw-190が機銃掃射の為に基地に接近するのを見逃してしまいます.
結果的に,Czech側の航空機に搭乗していた,Frantisek
Sticka准尉が軽い怪我をしただけで済みましたが….
空では連合国の協力で或る程度制空権を握っていましたが,地上の第一線では,当然のことながらドイツ軍の方が優勢で,叛乱軍は,その支配地域を徐々に減少させていきました.
天候が悪化するということは,連合国との空の架け橋が途切れることを意味する,つまり,安定した補給が受けられなくなり,航空機の地上支援活動も出来なくなることを意味します.
しかも,そのことは,叛乱軍の終末がより早く訪れることを意味するのです.
こうした理由で,混成飛行隊が失った航空機は,ソ連からの同型機供給で補充を受けることになりました.
同じく,歩兵として戦っていた航空隊の要員を,ソ連赤軍の指導の下,新しい飛行隊を編成する計画で,ソ連後方に送ることも出来なくなりました.
1944年10月25日,ドイツ軍のSchill戦闘団は,Zvolenに到達し,Tri
Duby飛行場から,避難をしなければならなくなりました.
撤収先まで飛ぶことが出来ない不要な航空機には火が付けられて破壊され,午後には,第1Czechoslovakia戦闘飛行隊のLa-5FNの生き残り11機と,混成飛行隊のGustav
Kubonic曹長の操縦するBf-109G-6が1機,Fw-189A-2が1機,S-328が1機,W.34が1機,この飛行場を飛び立ち,ソ連の前線に向けて飛行しました.
しかし,Kubonic曹長の操縦するBf-109G-6と,Anton
Matusek軍曹の操縦するLa-5FNは,Dukla Pass通過時にドイツ軍の高射砲に捉えられて撃墜され,Kubonic曹長は戦死,Matusek軍曹は民間人に保護され,助けられました.
残りの機体は,UkrainaとRumaniaの赤軍支配地に逃れ,赤軍の保護の下,新たに戦争に参加することになりました.
飛行機に乗ることの出来なかった空軍の残りの人々は,叛乱後の弾圧の中,或る者は田舎に逃れ,或る者は陸軍の叛乱部隊と共にTatra山脈に逃れて,Partisanとして闘いを繰り広げ,1944〜45年の冬をそうして過ごし,1945年春に赤軍によって解放されることになります.
てことで,叛乱の項は終わり,
次回は終章として赤軍に逃れたSlovakia空軍について.
1944年10月29日,Czechoslovakia亡命政府軍のLudvikBudin中佐は,ソ連国内にある全てのCzechoslovakia航空隊を統括する
司令官に任命されました.
そして,配下の航空隊は,ソ連空軍の第2前線航空軍の司令官,S.A.Krasovskyi将軍麾下となり,それらは
La-5FNを装備する2個戦闘飛行隊,
Il-2を装備する1個地上攻撃飛行隊,
Pe-2FTを装備する1個爆撃飛行隊
で構成された混成航空隊でした.
この飛行師団は,以前,LudvikSvoboda准将麾下にあった第1Czechoslovakia陸軍航空隊に属していた部隊です.
なお,本土解放の進行に伴い,1944年の末までに,ソ連の前線後方で提供されていた乗員養成のための基地は返還を促され,訓練機材の提供は中止されました.
この影響で,爆撃飛行隊用の要員が不足し,爆撃飛行師団の編成は見送りとなり,地上攻撃飛行師団用のIl-2についても,整備員とその機関銃手が不足していましたが,後者については,ソ連兵を補充することで解決を図っています.
こうした要員の教育は,比較的ゆっくりと進められました.
その要因として信じられているのは,教育をするのに不利な悪天候,教育用航空機の不足,また,Slovakiaの操縦士の飛行技術が,前線で働くには不十分だった事が挙げられています.
少なくとも彼らの殆どは,以前旧式複葉機に搭乗していた人々であり,そこから最新鋭航空機にステップアップすることは非常にハードルが高く,その結果,多くの航空事故を経験していたからでした.
第1Czechoslovakia混成航空団は,公式には1945年1月25日に編成されました.
この航空団は,ソ連赤軍第8前線航空軍のN.V.Zdanov将軍指揮の下にありました.
この航空団を編成している飛行要員のうち,70%はSlovakia人で占められていました.
また,その航空団の司令官代理業務も行っており,それには,JuliusTrnka少佐,次いでMikulas
Lisicky少佐が就任していました.
その航空団に属する第1戦闘機連隊は,Ludovit
Koza大尉が連隊長に就任し,また航空団参謀を兼ね,第3飛行隊は,Jozef
Kolembus大尉が掌握しています.
第2戦闘機連隊はIvan Haluzicky大尉が指揮を執り,隷下の第2飛行隊はLadislav
Stasik少尉が指揮を受け持っていました.
第3地上攻撃連隊はMikulas Guljanic大尉が指揮し,隊長代理としてFrantisek
Wagner中尉がおり,参謀兼3つの飛行隊の隊長としてOsvald
Fencl,Jozeff Niznansky,Miclas Singlovicの各大尉が就任していました.
1945年2月20日,第1と第3連隊は,前線にほど近いIwonicz飛行場に進出していました.
その間,第2連隊は装備機が無かったので,引き続き,Przemyslに有った赤軍第41訓練飛行連隊の機材で,訓練を重ねていました.
この連隊の装備機は結局戦争に間に合わず,1945年4月末に漸く,新型のLavochkinLa-7が引き渡されました.
前線が更に進んで,Katowiseでの訓練が完了した後,第1,第3連隊は,1945年4月13日に,前線から僅か20kmの地点に設置されたPoremba飛行場に移動します.
翌日からOstravaでの作戦行動に参加し,両方とも地上作戦支援に乗り出します.
Lavochkinによって護衛されたShtrumovikが,Ostrava,Opava,Tesinの各地区に於て,ドイツ軍の中央軍集団の各部隊や補給網に対する攻撃に参加しました.
1945年4月から5月にかけて,第1Czechoslovakia混成飛行師団は,567回の作戦飛行を実施し,90tの爆弾を投下し,600発以上のRS-82ロケット弾を発射,多くの軍事施設を破壊しています.
Shtrumovikが行った空中戦闘は4回で,Fw-190を1機撃墜しています.
(撃墜したのは,第3連隊に所属する後部銃手で,以前,英国空軍の亡命Czechoslovakia人部隊である第311sqn.のCzech人空中勤務者となっていたRichardHusman曹長)
また,戦闘機同士の空中戦では,第1連隊が1機のBf-109,1機のFw-190に損傷を与えた代わり,2機のLavochkinが失われています.
第1連隊の操縦士で唯一の戦死者はMichalMinka少尉で,彼は1945年4月20日にLa-5FNに乗って戦闘飛行に出撃する際,地上に駐機していたShtrumovikに激突して,機体を破壊した時に死亡しました.
このほか,第3連隊では,地上対空砲火により,5機が失われ,2人の乗員が死亡しました.
別の乗員は,作戦飛行に出る際に,別のShtrumovikに接触して機体を破壊しています.
他の機体の何機かも,大なり小なり対空砲火による損傷を受けています.
第二次大戦を通じて最後に戦死したSlovakia人操縦士は,1945年4月28日にWodzislaw近郊でShtrumovikに搭乗中,撃墜されたJarolimGucman曹長でした.
師団としての最後の作戦飛行は,1945年5月2日に行ったIl-2攻撃機7機による,Tesin鉄道駅の攻撃でした.
1945年5月10日,第1混成Czechoslovakia航空師団は,解放されたCzechoslovakiaにあるAlbrechticky飛行場に集まり始め,5月18〜25日にかけてPrague-Letnany飛行場に移駐しています.
これらの機体は以下の通りです.
師団司令部:
Polikarpov Po-2連絡機4機,
Focke-Wolf Fw-58 Weihe1機.
第1戦闘機連隊:
Lavochkin La-5FN戦闘機22機,
La-7戦闘機13機,
La-5UTI練習機2機,
Polikarpov Po-2連絡機1機
第2戦闘機連隊:
Lavochkin La-7戦闘機41機,
La-5FN戦闘機4機,
La-5UTI練習機2機,
PolikarpovPo-2連絡機1機,
Junkers W.34連絡機1機
第3地上攻撃連隊:
Ilyushin Il-2攻撃機24機,
Il-2UTI練習機2機,
PolikarpovPo-2連絡機1機
1945年6月1日,これらの機体はCzechoslovakia大統領EdvardBenesの閲兵に参加するため,Letnaey飛行場を飛び立ちます.
6月20日に,この部隊は今まで指揮下に入っていた赤軍から独立した部隊となりました.
8月1日には,第1Czechoslovakia混成航空団は,Czechoslovakia空軍第4飛行師団となり,多くのメンバーの出身地であるSlovakiaのTrancianske
Biskupice,PiestanyとTriDubyに移動しました.
こうしてSlovakiaは消滅した…政治的にも軍事的にも…のですが,その空軍に対する興味やら,注目すべき事象やらが有りすぎており,それは非常に起伏のあるものです.
一方,第二次大戦での彼らの行動というのは常に論争の種に成ってしまいます.
彼らは,マジャールを筆頭に,Poland,ソ連,米国,そして,ドイツ軍とも戦いました.
けれども,同じように第二次大戦を戦ったPoland,France,英国,ソ連,Czechoslovakia各国空軍の方が目立っています.
それは,不名誉なSlovakia保護国のあった6年間を無きものとしたいという動きがあり,また,この時代のことを思い出したくないというのもあったのかもしれません.
ということで,Slovakia空軍一代記完結.▲
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