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◆◆◆ルーマニア王立航空隊 Aeronautica Regală Română(ARR)
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<第二次大戦FAQ
https://www.youtube.com/watch?v=BGLOzLeel2Y
【質問】
ルーマニア空軍にはどんな機体があったの?
【回答】
ルーマニアは独伊と英仏のせめぎ合い.
ブレニム有り,S.M.79有り,He-111有り,Br.693….
あと,国産機も独特ですね.
ルーマニアの末期の戦闘機はBf-109だけど,ポーランドのP.Z.L.24から派生したI.A.R.81もなかなか味があって良い.
ちなみにwikipediaによれば,第一次大戦終結後から第二次大戦大戦終結までの間に,以下の機体をルーマニア王立空軍は有していたそうです.
●戦闘機⇒別項参照
●偵察機
開発国 | 機種 | 備考 |
イタリア | カント Z.501 | 偵察飛行艇 |
サボイア・マルケッティS.55 | 軽爆撃機兼用 | |
サボイア・マルケッティ/ STC SM.62 | 偵察飛行艇 | |
ドイツ | アラドAr 66 C | |
アラドAr 196 A-3 | 未確認 | |
ハインケルHe 114 A-2 | 水上偵察機 | |
フィーゼラーFi 156 C-2 | ||
フォッケウルフFw 189 A-1 / 2 | ||
フランス | ポテーズ 631 & 633 | 軽爆撃機兼用 |
ポーランド | PZL.23A/B Karaś | 軽爆撃機兼用 |
RWD-14 Czapla | ||
ルーマニア | IAR 37 | 爆撃機兼用 |
IAR 38 | 爆撃機兼用 | |
IAR 39 A/B | 爆撃機兼用 |
●爆撃機
開発国 | 機種 | 備考 |
イタリア | IAR JR-79B/JRS-79B1 | |
サボイア・マルケッティSM.79 B / JR | ||
英国 | エアコー DH.9 | |
ブリストル・ブレニム Mk.I | ||
ドイツ | ハインケルHe 111 E / H | |
ヘンシェルHs 129 B-2 | 攻撃機 | |
ユンカースJu 87 D-3 / D-5 | 急降下爆撃機 | |
ユンカースJu 88 A-4 / D-1 | ||
フランス | ブロック MB.210 BN.5 | |
ポテーズ25 | ||
ポテーズ543 | ||
リオレ・エ・オリビエ LeO 20 BN.3 | ||
ポーランド | PZL.37 A/B BŁoś | |
ルーマニア | IAR 81 A/B/C | 急降下爆撃機 |
●輸送機
開発国 | 機種 | 備考 |
イタリア | サボイア・マルケッティSM.62 bis. | 輸送飛行艇,爆撃機兼用 |
英国 | デ・ハビランド ドラゴンフライ | |
デ・ハビランド ドラゴンレイピッド | ||
チェコスロヴァキア | アヴィア BH-25 J | |
ドイツ | ゴータ Go 242 A-1 | 輸送グライダー |
フォッケウルフFw 58 C | ||
メッサーシュミットBf 108 B | ||
ユンカースF.13 | ||
ユンカースW 34-H | ||
ユンカースJu 52 -3m | ||
フランス | ポテーズ651 | |
ポーランド | RWD 13 |
●練習機
開発国 | 機種 | 備考 |
イタリア | ナルディFN.305 | |
カナダ | フリート10 | |
ドイツ | クレムKl 35 D | |
フォッケウルフFw 44 C | ||
ポーランド | RWD 8 | |
RWD 17 W | 水上練習機 | |
ルーマニア | IAR 22 | |
SET 3 | ||
SET 4 | ||
SET 7 A/K/H | 偵察機兼用 | |
SET 31 |
眠い人 ◆ikaJHtf2 : 軍事板,2002/06/27
青文字:加筆改修部分, 2019.11.24
https://www.youtube.com/watch?v=LjZdiqA_vMk
【質問】
I.A.R.の黎明史について教えられたし.
【回答】
1930年代までに欧州諸国では,経済や軍事が大きく発展していました.
Romaniaも例外ではなかったのですが,第一次大戦で得た領土が大きくなり,周辺諸国との紛争の火種となっていたため,特に潜在的な軍事的な脅威に対抗して,独自の航空兵力整備が必要になりました.
1925年に,早くも,Romaniaに航空会社,I.A.R.(Industrial
Aeronautica Romania)が航空機のライセンス生産を始めるために創設されます.
これは同時に,海外から航空機を輸入することに伴う,機材ならびに部品の供給が絶たれないようにするというリスクマネジメントの結果でもあります.
こうして,同盟を組んでいたFranceの示唆により,その仲介を受け,同じくFranceの影響下にあったPolandから,50機のP.Z.L.11b戦闘機を導入することになりました.
この戦闘機に装備するエンジンは,FranceのGnome-Rhoneのものを装備することとなります.
この戦闘機は,1933年からRomaniaの工場からDeliveryされ始めています.
但し,実際にはエンジンの生産が遅れ,これらの機体は,Franceから供給を受けたGnome-Rhoneエンジンを装備した機体が部隊に引き渡されることになりました.
また,重要部品もPolandから供給され,それをRomania側で組立てただけだったりします.
1934年,パリの戦闘機設計ビューローでは,国営航空機工場(P.Z.L.)向けにP.Z.L.P.11cを原型とした輸出型の開発に着手します.
これはRomaniaからの要請で行われたもので,当時,同国で生産中だったP.Z.L,P.11bの代替となるものでした.
1935年,Brasovの工場では,P.11戦闘機のコンポーネントを使って,P.11fと呼ばれる一つの型の量産化に成功しました.
同時に,Romania王国空軍と航空大臣は,I.A.R.の航空機工場に対し,世界標準の航空機生産
ノウハウの学習と,機体製作についての学習を行うことを指示しました.
後者の目標に向けて,全国から航空機技師,on
Grosu,Ion Coseveanu,Gheorge Zotta,そして,
Gheorge Vallnerらを召集することになりました.
彼らは簡単でかつ,比較的安易な方法で,ライセンス生産を行っている機体を基に,そのP.Z.L.P.24Eの部品とライセンス生産されているエンジンを改修して,新しい機体を作り出そうとします.
つまりそれは,困難抜きで,完成度の高い航空機を製作しようというものです.
但し,この機体については,元々の機体構造に加え,新たに引込脚を採用することになりました.
【質問 kérdés】
WW2ルーマニア軍の戦闘機は?
【回答 válasz】
ルーマニアは,ポーランドから技術導入した高翼単葉のP.Z.L.P.24をライセンス生産し,それを低翼単葉引込脚化した,I.,A.R.80を開発.
IAR-80からは更なる派生型IAR-80攻撃機も作られた.
但し,主力戦闘機としては,ハリケーンMk,IとハインケルHe-112を保有.
ハリケーンは1940年,英国に50機を発注.
しかし12機が輸入されたところでルーマニアは枢軸国入りし,その後の輸入は途絶.
また,ドイツ軍が鹵獲したユーゴスラビア空軍のハリケーンを,1941年に輸入している.
ハリケーンは第53邀撃中隊に配備されたが,その後徐々にIAR80に置き換えられた.
He-112は30機輸入したが,この内11機はエンジンを強力なJumo 210Gに換装したB-1型,他はB-2型だった.
独ソ戦当初は戦闘機隊に配備されていたが,IAR80が生産されると攻撃機として使われるようになり,1942年以降は第一線から退いた.
しかし一部は夜間戦闘機に転換され,1942年7月にソ連機を迎撃している.
後は,供与されたBf-109 E-3/4/7,F-2/4, G-2/4/6で補完.
IARでもライセンス生産し,一部は戦後,共産政権の空軍にも引き継がれた.
ちなみにwikipediaによれば,第一次大戦終結後から第二次大戦大戦終結までの間に,以下の機体をルーマニア王立飛行隊は有していたという.
開発国 | 機種 | 備考 |
英国 | ホーカー・ハリケーン Mk.I | |
オランダ | フォッカー D.VII | |
フォッカー D.XI | ||
フォッカー D.XVI | ||
ドイツ | ハインケルHe 112 B-1 / B-2 | |
フォッケウルフ Fw190 A-8 / F-8 | ||
メッサーシュミットBf 109 E / G | ||
メッサーシュミットBf 110 C / D / F | 戦闘爆撃機として運用 | |
フランス | ドヴォアティン D.27 | |
ポーランド | PZL P.7 | |
PZL P.11 B / C / F | ||
PZL P.24 E | ||
ルーマニア | IAR 14 | |
IAR 15 | ||
IAR 80 A/B/C |
眠い人 ◆ikaJHtf2 : 軍事板,2002/06/30
青文字:加筆改修部分
ルーマニア空軍はトップエースで60機撃墜のConstantin Cantacuzinoを始め,
2位で55機撃墜のAlexandru Serbanescu,
3位で45機撃墜のIon Milu
(ルーマニア第三位のエースはFlorian Buduかも.
どうもIon Miluは資料によって生涯撃墜数がかなりばらついている)
他多数のエースを抱えていたようですが,彼らを含めて主なエースは大戦末期はBf-109を使用していたみたいですね.
Constantin Cantacuzinoもこの国では少数派のハリケーンMk.Iで初撃墜を記録していますけど,結局はBf-109に乗り換えていますしね.
IAR.80/81も終戦まで迎撃任務とかで頑張っているんですけどね.
この国のエースは撃墜数もさる事ながら,P-51とかLa-5とか結構大物を喰っている奴がいるのが印象的です.
戦争後半になると,ルーマニア領内のプロエスティ油田などに対し,米軍が爆撃を行っていた関係上,P-38,P-51,B-17,B-24等,米軍機とも戦う機会が結構あったようです.
それと後々対独戦に参加するのですがBf109やFw190を撃墜している奴もいますね.
軍事板,2002/07/23~7/24
青文字:加筆改修部分
Bf-109に出番を奪われたHe-112をルーマニア空軍が使っているのにはちょっと嬉しいですね.
第二次世界大戦以前に作られた戦闘機としては洗練されているほうですし.
軍事板,2002/06/30
青文字:加筆改修部分
【参考ページ Referencia Oldal】
http://j1n1sa.yu-nagi.com/HC1-B.html
http://ttsuji.xsrv.jp/GB_F_Hurricane1.html
http://military.sakura.ne.jp/world/w_he112.htm
http://wp.scn.ru/en/ww2/f/228/12/0
http://www.warbirdsresourcegroup.org/LRG/he112_foreign_users.html
https://www.worldwar2.ro/arr/?article=753
https://www.rumaniamilitary.ro/aventura-avionului-messerschmitt-bf-109g-la-industria-aeronautica-romana
【質問 kérdés】
ルーマニアでのフォッカーD.XVIについて教えてください.
Kérem, mondja meg Romániában Fokker D.XVI-ről.
【回答 válasz】
フォッカーD.XVIは1920年代後半にオランダで開発された複葉戦闘機.
オランダでは14機,ハンガリーでは4機が納入された他,ルーマニア,中華民国,イタリア,オランダ領東インド空軍において評価試験が行われた.
ルーマニアにはオランダ陸軍が保有していた1機が渡され,他の機体との競争試験が行われた.
そしてこの試験には勝ち残ったが,発注は行われなかった.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://military-history.fandom.com/wiki/Fokker_D.XVI
https://wikitltl.top/wiki/Fokker_D.XVI
模型の箱絵
(図No. faq220719fk,こちらより引用)
mixi, 2022.7.20
【質問 kérdés】
ルーマニア軍のホーカー・ハリケーンについて教えてください.
Kérem, mondja meg román Hawker Hurricanejeiről
【回答 válasz】
1939年,ルーマニア軍代表団は渡英し,ハリケーンMk Isを50機発注.
当時,ハリケーン生産数は英空軍の新型航空機導入能力を僅かに上回っていたので,英国政府はホーカー社に対し,当時拡大中のドイツ軍に抗する可能性のある国に,余剰生産分のハリケーンを売却する許可を与えた.
だがその後,ルーマニアも枢軸陣営に加わったため,ルーマニアが入手できたハリケーンは,陣営加入以前に届いた12機だけだった.
12機はEscadrila53 Vânătoare(第53戦闘飛行隊)に配備.
バルバロッサ作戦においては,コンスタンツァ軍港やチェルナヴォダ鉄道のドナウ川を渡る鉄橋を含む黒海沿岸の戦略的要衝を防衛するために投入された.
戦争初期にはルーマニア軍のハリケーン・パイロットは損失無しで敵機8機を撃墜.
1941年終わりまでにハリケーン2機を喪失している.
その後,ドイツはユーゴスラビアから入手した2機のハリケーンをルーマニアに提供したが,第53戦闘飛行隊のハリケーンは徐々に消耗していき,IAR-80に置き換えられた.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.destinationsjourney.com/historical-military-photographs/hawker-hurricane-in-romanian-service/
https://www.asisbiz.com/il2/Hurricane/RRAF/pages/Hawker-Hurricane-Rumanian-AF-Esc-3.53-Red-3-Horia-Agarici-Rumania-June-1941-0C.html
https://military-history.fandom.com/wiki/List_of_Hawker_Hurricane_operators
1枚目:ホーカー・ハリケーンMk.1a
東部戦線
2~4枚目:第53戦闘飛行隊のハリケーン
(図No. faq220710hh1~4,こちらより引用)
mixi, 2022.7.10
【質問 kérdés】
ルーマニア軍のハインケルHe112について教えてください.
Kérem, mondja meg román Heinkel He112-ről.
【回答 válasz】
ドイツ本国ではでは戦闘機選定競争に敗れたHe112だが,ルーマニアに20機以上輸出された.
これはメッサーシュミットBf109がドイツ国内の需要を満たし,輸出が可能になるまでの間のつなぎだった.
ルーマニアはこれを30機発注.
もっとも,後のIAR-80との競争試験の結果,IAR-80のほうが殆どの面で優れていることが分かり,He112の追加注文分はキャンセルされた.
輸出機のうち11機は,エンジンを強力なJumo 210Gに換装したB-1型,他はB-2型だった.
1939年9月15日までに必要数分が到着し,Escadrila 10と11に配備された.
この2個戦闘飛行隊はブカレスト防衛を担当するGrupul 5 vânãtoare(第5戦闘航空群)麾下にあった.
同年10月,上述の2個飛行隊は第51と第52に改称された.
He112の初陣は1940年に起きた,北トランシルヴァニアを巡るハンガリーとの紛争で,同年8月27日,ニコラエ・ポリズ少尉は,訓練飛行中のハンガリー軍のカプロニCa.135bis複葉爆撃機に遭遇し,これを撃墜.
ポリズは,空中戦で飛行機を撃墜した最初のルーマニア人となった.
バルバロッサ作戦では,主として地上攻撃任務を行ったが,兵站の悪さから稼働機は7月29日時点で14機のみとなり,第52戦闘飛行隊は残存機を第51に渡して搭乗員は帰国.
第52はIAR-80を受領することになった.
オデッサ戦後は黒海沿岸の哨戒任務や,ブカレスト防空に従事.
1943年には練習機となった.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://ww2db.com/aircraft_spec.php?aircraft_model_id=56
https://simhq.com/forum/ubbthreads.php/topics/3461682/Re_OT_WW2_Profiles_Heinkel_He_.html
https://www.destinationsjourney.com/historical-military-photographs/heinkel-he-112-in-romanian-service/
1枚目:カラー側面図
(図No. faq220714he,こちらより引用)
2枚目:三面図
(図No. faq220714he,こちらより引用)
3枚目:着色写真
(図No. faq220714he3,こちらより引用)
4枚目:He112 B-2/U2 「白の30」
(図No. faq220714he4,こちらより引用)
mixi, 2022.7.14
【質問 kérdés】
ルーマニア軍のBf-109について教えてください.
【回答 válasz】
ルーマニア王国航空隊ではBf 109E-3/4/7,Bf 109F-2/4,Bf 109G-2/4/6を戦後まで運用した.
1939年12月,Bf-109Eを50機,バイエルン航空会社に発注.
1940年春, 最初の11機がルーマニアに到着した.
その1年後に残り39機が到着.
これらは新編された第7戦闘機群に配備され,独ソ戦勃発時の1941年6月,同部隊には36機のBf-109Eがあった.
ルーマニア軍のBf-109Eはバルバロッサ作戦に参加,ソ連軍の飛行場を攻撃する爆撃機を護衛した.
独ソ戦2日目の 6月23日,16機のBf-109Eがソ連軍機25機と交戦,6機を撃墜した.
だが,東部戦線南部での空中戦は非常に過酷であり,7月5日には第7戦闘機群の最初の損失が出た.
対空火器による撃墜.
イリエ・ヴァタマル Ilie VatamanuのBf-109Eだった.
1941年の作戦終了後,同部隊は再編し,損害を補充する必要があった.
15機の中古Bf-109E7が1942年初頭にドイツから到着し,第7戦闘機群に補充された.
同部隊は1942年秋,再び東部戦線へ.
配置先はスターリングラード近郊だった.
1942年11月,ソ連軍は反攻作戦を開始し.
同部隊は包囲された飛行場からの脱出を余儀なくされ,5機のBf-109Eを喪失.
他に3機が遺棄,ソ連軍に鹵獲された.
残存兵力は第5爆撃機群の残存兵力と合流,1943年2月に帰国するまで混成群を形成して前線に残った.
第7戦闘機群は3月に前線復帰したが,Bf-109Gを装備する予定だったので,残存のE型は訓練任務または第52戦闘飛行隊に配属された.
同部隊は黒海上空での防空任務に当たったが,1944年にはアメリカ第15空軍に対する迎撃にも加わった.
E型の活動が確認できるのは1944年8月まで.
それらは徐々に退役し,1946年までに残る全機がリタイヤした.
F型はルーマニア軍では1943年,Bf-109Gの中間訓練機として使用.
ドイツ軍のマークがそのまま残されていたことから,中古品を譲渡されたと思われる.
G型は1943年からドイツからの輸入が始まり,200を超えるBf-109G-2,-4,-6をルーマニア軍は受領した.
また,1943年にルーマニアのブラショブにあるIndustria Aeronautica Romana(IAR)工場は改装を完了し,Bf 109
Gの製造を開始した.
生産は1944年に始まり,17機が完成.
1945年に最初のBf-109Ga-4およびGa–6が配備された.
さらに42年11月にはDB605エンジンのライセンス生産権を購入し,44年7月には生産開始する予定だったが,米空軍の空爆により計画は遅延.
最終的には計画中止となった.
Bf-109Gは1943年3月にルーマニア軍航空隊第7戦闘機群に配備.
3月29日には最初の出撃を行ったが,同日,早くも戦果を挙げたが,同時に損失も出た.
同部隊は1943年10月下旬まで前線で活動したが,その後,第9戦闘機群と交代.
第9戦闘機群は,機体とパイロットの一部を引き継いだ.
Bf-109Gを装備した別のユニットは第53戦闘飛行隊で,1943年8月1日にTidal Waveにて最初の撃墜(2機)を記録した.
1944年夏までに,第7戦闘機群はBf-109Gを部分的に再装備して,第9戦闘機群に編入.
ソ連軍や米空軍との戦いを展開した.
ルーマニアが陣営を変えた1944年8月23日以降は,この2個戦闘機群はドイツ空軍の空爆からブカレストを防衛するために配備され,ドイツ空軍の爆撃機と輸送機の撃墜も記録した.
Bf-109Gグループの残りは第7/9戦闘機群を形成したが,すぐに第9戦闘機群と改名し,トランシルバニア戦線に送られた.
IAR-80とBf-109Gから成る第44戦闘飛行隊もそこに派遣された.
9月18日には最初のルーマニアとドイツのBf-109G同士の戦闘が発生.
ドイツ軍が勝ち,アンドレイ・ポップ軍曹の機を損傷させた.
第44飛行隊は1944年後半に撤退.
第2戦闘機群のIAR-80は地上攻撃任務に就いたため,第9戦闘機群は実質的に同戦線で唯一のルーマニア軍戦闘機部隊だったが,1945年2月,Bf-109Gを装備した第1戦闘機群が加わった.
ルーマニアのBf-109Gは,戦争が終わるまで最前線で活動し続け,Bf-109シリーズの最後で最高性能を持つBf-109 K型の撃破さえ記録している.
そして,戦後もIAR社ではBf 109Ga-4/6を58機ライセンス生産,配備・運用したという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=4843
http://www.worldwar2.ro/arr/?article=751
http://www.worldwar2.ro/arr/?article=750
5ch. 軍事板,2013/01/24(木)
青文字:加筆改修部分,2019.12.24
1枚目:Bf-109の前で,犬と一緒にポーズをとる,2人のルーマニア軍パイロット.1941年
(図表No. faq191127bf, こちらより引用)
2枚目:Me-323の手前に駐機しているルーマニア軍のBf109G-2.1943年
(図表No. faq191127bf3, こちらより引用)
3枚目:滑走路に駐機中のルーマニア軍のBf109G-2.1943年
(図表No. faq191127bf4, こちらより引用)
4枚目:着陸に失敗した,ルーマニア軍のBf-109G.1944年
(図表No. faq191127bf2, こちらより引用)
【質問 kérdés】
I.A.R.-14って何?
Mi I.A.R.-14?
【回答 válasz】
ルーマニア初の国産戦闘機.
不採用となったIAR-12試作戦闘機の改良型として1933年設計完了.
エンジンはIAR-12同様ロレーヌ・ディートリヒ Lorraine-Dietrich 12だったが,低翼単葉で,機体は,後部は木製,前部はジュラルミン製の混合構造.
機首に2 門のヴィッカース製7.7 mm機銃を搭載していた.
1933年6月初飛行.
試験結果はあまり期待できるものではなかったが,同年9月,ルーマニア空軍は20機を発注.
しかし生産の優先順位は高くなかったため,最後の3機が納入されたのは1939年9月末.
1939年9月と言えば,独ソ戦も間近の時期であり,IAR-14は既に旧式化.
大戦中は練習戦闘機として使用されたという.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.aviastar.org/air/romania/iar-14.php
http://www.airwar.ru/enc/fww1/iar14.html
https://rumaniamilitary.wordpress.com/tag/iar14/
1~2枚目:カラー図面
(図No. faq220725ir1・3,こちらより引用)
3枚目:写真
(図No. faq220725ir2,こちらより引用)
4枚目:航空博物館に展示されているロレーヌ・ディートリッヒ12Ebエンジン
(図No. faq220725ir4,こちらより引用)
2022.7.25
【質問 kérdés】
IAR-15って何?
Mi az IAR-15?
【回答 válasz】
IAR-15はルーマニア空軍向けにElie Carafoliによって設計された低翼単葉単座戦闘機.
1933年初飛行.
コックピットは開放式.
制式採用されたIAR-14の改良型で,直列型発動機の代わりに9気筒星型発動機Gnome&Rhone 9 Krseを採用.
これを搭載するために機体前部は大幅に改設計された.
エンジンパワーは600 hp(447 kW).
この発動機により高度4,000 mで最高速度375 km/hを出し,高度5,000 mまで8分間で上昇.
実用最高高度は10,500 mに達し,1935年に38,160フィート(11,631 m)のルーマニア国内高度記録を樹立している.
胴体は前部はジュラルミンだが,後部は帆布張りの鋼管構造.
IAR-15では後部胴体断面を拡大,強化した.
尾橇は尾輪に置き換えられた.
主翼は楕円.
11.00 mに短縮され,総面積は19.00㎡となった.
プロペラは試作1号機のみ木製2枚羽根.
続く試作機では3枚羽根の金属製プロペラだった.
兵装は0.303インチ(7.7 mm)のビッカース機関銃×2.
試作機は合計5機製造.
試験結果ではIAR-15は競合する航空機(主にPZL P.11)と同程度の速度を出したが,機動性が低いとして軍は不採用.
試作機は航空学校に移管された.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/546735/en/
http://www.1000aircraftphotos.com/Contributions/EwingBill/13664.htm
http://www.res-aeronautica.com/iar-15.php
http://www.fliegerweb.com/de/lexicon/Geschichte/I.A.R.+15+und+I.A.R.+16-661
IAR-15三面図
(図No. faq200323ia5, こちらより引用)
1枚目:IAR-15側面図
(図No. faq200323ia4, こちらより引用)
2~4枚目:IAR-15写真&スケッチ
(図No. faq200323ia1~3, こちらより引用)
mixi, 2020.3.25
【質問 kérdés】
I.A.R. 37について教えてください.
Kérem, mondja meg I.A.R. 37-ről.
【回答 válasz】
1938年から配備された複葉軽爆撃機兼偵察機.
フランスのPotez 25を参考にして製作され,試作機は1937年春に初飛行.
グローム・ローンのミストラル・メジャー星型エンジンをコピーしたものであるIARK14-IIC32エンジン(870HP)を搭載.
乗員は3名.
コックピットはガラス張りで,前席がパイロット席,中席が航法士席,後席が機銃手席.
操縦装置はデュアル・コントロール式だった.
爆撃照準器やカメラはルーマニア国産.
固定尾輪式.
1937年から生産が開始されたが,エンジン生産の遅れがこの航空機自体の生産遅延を招いたため,同年中の生産は50機のみ(全てI.A.R.製).
そこで信頼性の高いBMW132エンジンを搭載する改良型I.A.R. 38に生産ラインが更新され,75機を生産(全てI.A.R.製)
1938年11月に新しいIAR14K IIC-32エンジンが利用可能になったため,未完成状態だったI.A.R. 37にこれを搭載して49機が完成.
この新型エンジン搭載のために必要な構造上の改修も施して,I.A.R. 39と呼称された.
これを年末までに,先の49機と合わせて合計95機生産.
1942年から生産はブカレストのSET工場に移管.
搭載するエンジンも改良型のIAR14K IVCとなり,160機を生産.
この機体も呼称は同じI.A.R. 39だが,シリアル番号に「S」を追加して区別をつけた.
1944年10月に生産打ち切りとなるが,それまでに各型合計380機が生産されたことになる.
ルーマニアの対ソ参戦時,18個あった偵察機中隊のうち,15個はI.A.R. 37系列の機体を装備.
そのうち11個(第11,12,13,14,15,16,17,19,20,21,22)と第18軽爆撃機中隊が実戦投入された.
敵の位置の発見から弾着観測,船団護衛,対空砲銃撃,パルチザン掃討まで様々な任務に用いられ,偵察写真は軍団または軍の司令官に伝達された.
参戦から2日後,第22偵察中隊のIAR 39の後部銃手バシレ・プシュカスがI-16戦闘機を撃墜するという戦果もあったが,1939~41年中に30機を喪失.
1942年9月から1943年1月までのスターリングラード戦では軽爆撃機中隊1個,偵察中隊6個が投入され,13機を喪失した.
その後1943年中は,殆どのIAR-38 / 39は,主に黒海沿岸の偵察またはコンスタンツァ,オデッサ,セヴァストポリ間の船団の護衛,および陸軍任務の接近偵察に使用.
また,1943年11月から,第109輸送隊のDFS-230グライダーを牽引するため,数機のIAR-37と39が使用された.
1944年,I.A.R. 39の大部分は,偵察中隊9個に配備されて前線に投入され,IAR 37の残存機は第7軽爆撃機群に配備された.
8月のクーデターで連合軍側に寝返った後,トランシルバニア戦役では,第2偵察群麾下のI.A.R. 39×24機が2個偵察中隊に配備されて実戦投入.
第1偵察群もその後すぐに実戦投入され,この戦役中に10機のI.A.R. 39を喪失.
この当時,この機体はすでに旧式化していたが,枢軸軍側は戦闘機が不足していたため,実績は良好だった.
ただ,対空砲で数機が損耗.
第二次世界大戦での最後のI.A.R. 39の損失は,1944年5月8日に東モラビアのVoderadyの近くでのことだった.
また,I.A.R. 39による大戦中最後の飛行任務は,ドイツの降伏を知らせるチラシをまいた5月9日のこととなった.
戦後,IAR-37 / 38/39ファミリーの残存機のうちごく少数だが,民間機として登録され,1960年代初頭まで練習機として使用されたという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/576952/en/
https://www.worldwar2.ro/arme/?article=414
http://www.warbirds.jp/data/ru/ru_iar.htm
https://dbpedia.org/page/IAR_37
http://www.airwar.ru/enc/spyww2/iar37.html
1枚目:側面図
(図No. faq210917ia2,こちらより引用)
2枚目:I.A.R. 37
(図No. faq210917ia,こちらより引用)
3枚目:I.A.R. 37
(図No. faq210917ia3,こちらより引用)
1枚目:I.A.R.38
(図No. faq210919ia,こちらより引用)
2枚目:I.A.R.38
(図No. faq210919ia2,こちらより引用)
3枚目:I.A.R.38
(図No. faq210919ia3,こちらより引用)
4枚目:I.A.R.38四面図
(図No. faq210919ia,こちらより引用)
1枚目:I.A.R.39側面図
2枚目:I.A.R.39内部構造図
3枚目:I.A.R.39計器類
4枚目:I.A.R.39四面図
(図No. faq210920ia1~4,こちらより引用)
mixi, 2021.9.18
【質問】
IAR-80は中々良い機体?
【質問】
IAR-80は中々に興味深いですね.
バリエーションとか結構ありますし.
カタログスペック見る限りでは,中々良い感じの機体?
【回答】
ライセンス生産していたP.Z.L.P.24の後継機として,1938年に試作されたものですが,直前にHurricane,He-112が供与されて開発ペースが低下.
しかし第二次大戦勃発により,それまで頼っていたポーランドがドイツ軍に占領されたこと,大戦が勃発したヨーロッパ各国から飛行機の輸入が不可能となったこと等から,戦闘機の不足に直面して,慌てて実戦・量産化したものですな.
エンジン周りはP.24の流用だったりします.
出現当時は既に対戦闘機戦には苦しくなってましたけど,そっちはBf-109Gに任せて,自ずから迎撃とか地上攻撃機として活動したみたいです.
ただ,機動性は良かったみたいで,しばしば敵戦闘機の襲撃を交わして,返り討ちにしていたようです.
この戦闘機の機銃ってFN製なんですね.
B型の機関砲はMGFFと,東西入り乱れてますよねぇ.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://minkara.carview.co.jp/userid/122372/blog/8657428/
http://military.sakura.ne.jp/world/w_iar80.htm
眠い人 ◆ikaJHtf2 : 軍事板,2002/07/21
青文字:加筆改修部分
https://www.youtube.com/watch?v=NgeaBXpaYd8
【質問 kérdés】
ルーマニア軍のPZL P.11について教えてください.
Kérem, mondja meg Román PZL P.11-ről.
【回答 válasz】
PZL P.11は1931年に初飛行した,ポーランドの戦闘機.
この機は輸出の面で成功し,ルーマニアを含む複数国に輸出された.
ルーマニアに輸出されたのは,P.11b型で1934年に最初の10機が同国に到着.
これは同国でライセンス生産を行うための半製品であり,そのため重要なパーツを幾つか欠いていた.
1935年1月,ルーマニアはライセンスを取得.
これはIAR P.11fとも称され,Gnome-Rhône 9Krse エンジン (560/610 HP) を搭載した派生型だった.
オリジナルとはエンジン・ケーシングの形状が異なり,プロペラ・キャップも無かった.
ルーマニアの国営メーカーIARではこれを95機生産.
1937年から空軍に配備された.
1939年9月のポーランド侵攻では,ポーランド空軍のPZL P.11はドイツ空軍相手に本土防空戦を行ったが,数・性能共に劣勢のため,ポーランド崩壊と共に36機がルーマニアに逃亡.
これらもルーマニア空軍に編入された.
1941年6月に独ソ戦が勃発した時,PZL.11は既に旧式化しており,制空戦闘には投入されなかった.
少数が訓練に使用され,残りはスペアパーツとして解体されたという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://ro.wikipedia.org/wiki/PZL_P.11
https://pl.wikipedia.org/wiki/PZL_P.11
https://en.wikipedia.org/wiki/PZL_P.11
1~2枚目:模型
(図No. faq220730pz1~2,こちらより引用)
3枚目:P.11 C型
(図No. faq220730pz3,こちらより引用)
4枚目:写真
(図No. faq220730pz4,こちらより引用)
mixi, 2022.7.30
【質問 kérdés】
PZL P.24って何?
Mi PZL P.24?
【回答 válasz】
PZL P.24はポーランドで開発された戦闘機.
ルーマニア向けの輸出機はP.24Eと呼ばれ,ルーマニア製のGnome-Rhone 14Kllc32エンジン(671kW)が搭載された.
ルーマニアはこれを6機輸入すると共に,ライセンス生産権を購入.
1937~39年に44機を生産した.
これはI.A.R. P.24Eと呼ばれ,I.A.R.製の14KMc36エンジン(701kW)を搭載した.
1940年初頭には空軍に就役.
その後,ポーランド戦役により国外脱出したポーランド空軍のPZL P.11Cが,数機ルーマニアに亡命.
これをルーマニア軍はP.24Eに改修して使用したという.
バルバロッサ作戦に参加した後は,ブカレストやプロイェシュティ油田の防空を主に担当.
しかし1942年初頭には,残存機23機は練習機となった.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.frrom.com/index.php?page=frrom-fr011-2
http://www.aviastar.org/air/poland/pzl_p-24.php
https://hmn.wiki/ja/PZL_P.24
1枚目:イラスト
2枚目:模型の作例図
(図No. faq220707pz1~2,こちらより引用)
mixi, 2022.7.7
【質問 kérdés】
RWD-13って何?
Mi RWD-13?
【回答 válasz】
ポーランド・RWD社製の3人乗り軽飛行機.
ポーランド戦役では28機がルーマニアに避難.
ポーランド降伏後,ルーマニアの民間航空や空軍に引き継がれた.
ルーマニアの第二次大戦参戦後は,空軍によって連絡機として使用.
また,先の28機の中には救急搬送機型であるRWD-13Sが5機含まれていたが,女性が操縦する「エスカドリラ・アルバ」 (ホワイト・スコードロン)
によって,やはり救急搬送機として使用.
当初,RWD-13Sは白く塗装され,胴体と翼には赤十字が描かれたが,東部戦線では赤十字マークをソ連軍は無視して攻撃してきたため,1941年末には通常の軍用機塗装となった.
終戦時には21機が残存.
最後の1機が退役したのは1950年代に入ってからだったという.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://forum.worldofwarplanes.com/index.php?/topic/8316-romanian-white-squadron/
https://romaniadacia.wordpress.com/2014/11/16/for-the-heroes/rwd-13-escadrila-alba-romanian-pilot-women-world-war-2-famous-romanian-people/
1枚目:RWD-13S側面図
(図No. faq221231rw,こちらより引用)
2~3枚目:飛行中のRWD-13S
(図No. faq221231rw3~4,
こちらおよびこちらより引用)
4枚目:RWD-13側面図
(図No. faq221231rw,こちらより引用)
5~8枚目:写真
連絡機仕様のものも含む
(図No. faq221231rw5~8)
mixi, 2022.12.31
【質問 kérdés】
S.E.T. XVって何?
Mi S.E.T. XV?
【回答 válasz】
1930年代半ばにルーマニアの公営航空機メーカー Societatea pentru exploatari technice(S.E.T.)
で開発された戦闘機.
N型支柱で支えられた,長さの異なる2枚の千鳥翼を備えた単座複葉機であり,降着装置はスパッド付きの主脚と,固定式の尾橇.
コックピットは完全密閉式.
エンジンは500 hpで,NACAカウルが取り付けられていた.
金属製の骨組みに帆布を張った構造だった.
1934年に試作機が初飛行し,評価試験に臨んだが,その頃既にルーマニア空軍の次期戦闘機はポーランド製のPZL P.11に内定していた.
S.E.T. XVの製造は試作機1機にとどまり,航空相がこれを購入して,曲技飛行訓練に使用した.
そして1940年,事故により退役したという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/569761/en/
https://www.armedconflicts.com/SET-XV-t78945
https://wikimili.com/en/SET_XV
1枚目:S.E.T. XV側面図
(図No. faq220702se3,こちらより引用)
2枚目:写真
3枚目:S.E.T. XV三面図面図
(図No. faq220702se1~2,こちらより引用)
4枚目:S.E.T. XV写真
(図No. faq220702se4,こちらより引用)
2022.7.4
【質問 kérdés】
アレクサンドル・シェルバネスクって誰?
Ki az Alexandru Serbănescu?
【回答 válasz】
第二次世界大戦におけるルーマニア空軍のエース・パイロット.
撃墜数48~55でWW2の同国第2位.
幅があるのは算定方式の違いに寄る.
ニックネームは「Alecu」.
ちなみに姓の冒頭のSは,Sにコンマビローを付した文字だが,編者のソフトウェアの都合により,ただのアルファベットのSで代替している.
1912年5月17日,オルト県オルト郡コロネシュティ地区のヴライチ村生まれ.
父親のアレクサンドルは公証人で,6人兄弟の3番目だった.
1931年,Dealu修道院付属高校卒業.
1933年,シビウの「ニコラエ・フィリペスク」歩兵士官学校を卒業.
席次は456人中70位.
少尉に任官し,7月1日,ブラショフの第3山岳猟兵大隊に配属.
1934年,機関銃小隊小隊長.
1935年9月1日~10月31日,歩兵高等学校の課程を履修.
帰隊後,小銃小隊指揮官となる.
1937年,スキー技術の優秀さが認められ,山岳小隊小隊長となり,数々の大会で優勝.
1938年11月1日 ,軍の管轄下にある国立体育研究所に体育生として配属.
平時が続いていたならば,名のあるスキーヤーとなれたかもしれない.
1939年,空中観測員学校へ入校し,同年中に飛行士資格取得.
1940年,飛行学校に入校し,10月31日に戦闘操縦士資格取得.
Nardi-305戦闘練習機兼連絡機,PZL P.11戦闘機やIAR-80戦闘機で飛行経験を積んだ.
ルーマニアが第二次大戦に参戦した1941年6月22日以降,彼はNardi-305,次にIAR-80に搭乗.
1942年8月22日,彼はスターリングラード近郊の,Bf-109Eを装備した第7戦闘機群に配属
同年9月2日,第57戦闘飛行隊の一員としてスターリングラードへ初出撃.
同年9月12日,飛行隊長戦死により,シェルバネスクが隊長代理に.
同年9月17日,スターリングラード北東でYak-1を撃墜.
これが彼の初戦果となる.
同月25日には2機目の撃墜を記録.
同年11月22日夜,カルポフカ飛行場がソ連軍の攻撃を受ける.
シェルバネスクは歩兵将校としての訓練を受けていたため,彼の指揮で防衛戦を行う.
対空砲2(ラインメタル37mm砲と75mm Vickers -Reşiţa砲)とBf109Eの20mm機銃,および装備不十分な歩兵中隊という兵力だったが,偽装陣地と優れた防御戦術により,ソ連軍の戦車はその後2日間飛行場攻撃を躊躇した.
このとき防衛部隊はBf109Eの尾部を釣り上げて,この戦闘機を機銃座として使用したという.
翌23日,無線機と装甲板を取り外したBf109Eに地上勤務員を1~2人ずつ乗せ,8機が夜明け前に同飛行場から脱出.
3機は離陸時に攻撃されて喪失した.
その後,第5爆撃機群と第7戦闘機群の残存兵力から成るニコラエ・イオシフェスク混成航空機群はモロゾフスカヤやタチンスカヤの飛行場に駐留し,2月末に休息と戦力回復のために部隊は帰国.
その間にシェルバネスクは1月20日,クドリエフの近くでハリケーンを撃墜している.
1943年3月6日,30名のパイロットが選抜されてドイツ空軍第3戦闘航空団内に実験的に設けられる「ドイツ=ルーマニア王国戦闘団」が編成され,Bf109Gに機種転換.
3月29日,シェルバネスク大尉に昇進し,同戦闘団第57戦闘飛行隊の指揮官に就任.
5月までに出撃を200回以上行い,撃墜数8を記録.
同年6月1日,同戦闘団は解隊し,シェルバネスク指揮下の飛行隊はルーマニア第1航空軍団に転属.
同年7月5日,航空有功勲章騎士十字章授与.
同月9日,敵軍機銃掃射中に対空銃火で顔面を負傷し,基地に不時着帰投.
同年8月,撃墜確実10機,不確実2機という自己最多の戦果を上げるが,同月20日に再び負傷.
同月31日,功三等ミハイ勇敢公勲章,およびドイツの一級鉄十字章を授与.
同年9月,休暇3週間.
同年10月は撃墜数6.
同月10日の戦闘で,敵と友軍の中間地点に不時着.
第4山岳師団の戦線に辿り着いて救出さる.
10月23日,第9戦闘群は疲労した第7戦闘群と交代したが,シェルバネスクらエースは残って戦いを続けた.
1944年1月14日,レペティハ上空でヤク戦闘機11機と単身戦い,1機撃墜.
同年2月13日,第9戦闘航空群指揮官就任.
同月4月,実戦出撃500回に到達.
同年6月11日,米陸軍航空隊のB-17を撃墜.
これは彼にとっては初の米軍機撃墜記録だった.
同年7月31日,P-51を撃墜.
同年8月4日,P-51Dを撃墜.
これが彼の最後の戦果となった.
同月18日,第9戦闘機群の僚機12機とともに米軍機を迎撃するも,米第31戦闘航空群のP-51数十機に高高度からの攻撃を受け,シェルバネスクのBf109G-6はブラショフ近郊の渓谷に墜落して戦死.
無線機が故障していたため,P-51が背後に回ったことを知らせる僚機からの警告を聞くことができなかったという.
彼の戦死から5日後の1944年8月23日,ルーマニアは連合国との休戦協定に調印.
戦後の共産政権時代,シェルバネスクの名は政治的タブーとされたが,例外的に軍による彼の墓の墓参行事は続いた.
1989年12月に共産主義体制が崩壊すると,再び公の称賛の対象となり,ブカレスト市内の大通りの一つが彼に因んで命名.
また,2006年12月1日にはルーマニア空軍第95空軍基地が「アレクサンドル・シェルバネスク」基地と命名された.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/253645/en/
https://www.worldwar2.ro/arr/p006.htm
http://www.roaf.ro/?page_id=4789
https://ww2gravestone.com/people/serbanescu-alexandru-alecu/
1枚目:機上のシェルバネスク,1944年
功三等ミハイ勇敢公勲章授与後の記念写真
画像は復元彩色されたもの
(図No. faq200327sr,こちらより引用)
2枚目:山岳猟兵時代のシェルバネスク軍曹
(図No. faq200327sr,こちらより引用)
3枚目:上級将校の賛辞を受けるシェルバネスク
後方では整備員がBf109G-2の作業をしている
(図No. faq200327sr2,こちらより引用)
4枚目:中尉時代のシェルバネスク
(図No. faq200327sr3,こちらより引用)
mixi, 2020.3.28
【質問】
ルーマニア王国軍航空隊のサヴォイア・マルケッティS.M.79系列の爆撃機について教えてください.
【回答】
ルーマニアは1937年,イタリアのサボイア・マルケッティ社からS.M.79Bと言う機体を24機購入しました.
これはS.M.79を改造した輸出型で,三発爆撃機だったのを,機首に爆撃手席を新設し,746 kW(1,000 hp)の グノームローン14Kミストラルマヨール Gnome-RhôneMistral Major 14Kエンジンを取り付けて双発にしたものです.
S-79Bとも称されます.
この機体は第1爆撃機群(第71・第72爆撃飛行隊)が配備しました.
しかし,この機はパワー不足であるとルーマニア政府は判断.
1940年2月,ルーマニアはイタリアからさらに8機のS.M.79Bを発注.
届いたのは1941年8月でしたが,それらに1,200馬力(890 kW)のユンカースJumo 211をとりつけました.
これはS-79JR,またはJIS-79(JumoのJ,ItalyのI,およびSavoiaのS)と称され,1941~42年に就役しました.
また,IARの工廠でもユンカースJumo 211Da (1200 HP)搭載型がライセンス生産され,こちらはIAR JRS-79B(Jumo Românの略)と称されます.
1941年7月,第2爆撃群の中の第75爆撃飛行隊にはJRS-79Bが配備され,オデッサの戦いに参加しました.
1942年にはJIS-79Bが第71飛行隊に,JRS-79Bが 第72飛行隊に配備され,S-79Bの残存機は飛行学校に転校しました.
1942年秋,IAR工廠に対し,36機が追加発注.
これらはエンジンがユンカースJumo 211F(1400 HP)を搭載し,IAR JRS-79B1と称されます.
しかしこれらの改良型も,胴体はオリジナルのS.M.79そのままの鋼管フレームに帆布張り,胴体前方部分だけがジュラルミン製,胴体上部がジュラルミンと合板でできていました.
1944年,第2爆撃群(第82・第83爆撃飛行隊)にIAR JRS-79B1は配備.
1944年10月には第1爆撃群が再編成され(第72飛行隊と第82飛行隊から成る),前線に投入されました.
この部隊は1945年5月の終戦まで戦いました.
なお,隣国のユーゴスラヴィアは,オリジナルのS.M.79を購入したりしています.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.warbirds.jp/data/ita/htm/sm79.htm
http://panssarivaunut.blogspot.com/2016/04/
https://www.deviantart.com/the-roast/art/Savoia-Marchetti-SM-84B-RO-AH-710017008
https://www.worldwar2.ro/arme/?language=ro&article=405
S-79B
(図No. faq191203s79b,こちらより引用)
S-79JR
(図No. faq191203s79jr1~2,こちらおよびこちらより引用)
JRS-79B1
(図No. faq191203jrs79b1,こちらより引用)
眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2002/10/20
青文字:加筆改修部分,2019.12.3
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