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<第二次大戦FAQ
【質問 kérdés】
MVG(ハンガリー車輌&機械工場株式会社)での航空機生産について教えてください.
Kérem, mondja meg a MVG (Magyar Vagon- és Gepgyár Részvénytársaság)
repülőgépgyártásáról.
【回答 válasz】
MVGの歴史の中では短期間だが,もし十分に操業できていたならば,間違いなく自動車よりも大きな経歴となり得ていたのが航空機生産だった.
この航空機生産は戦時中,最もダイナミックに発展し,最も収益性の高い事業となった.
飛行場の工房が設立されたのは1936年だが,これは当初は車輌工場の機械をもっと有効活用するためのものだった.
ジェールでは航空機修理から始まり,次いで「ショーヨム」やフォッケウルフ双発練習機の生産を開始した.
1936年にはアルミニウム鋳物や非鉄金属の製造・機械加工も始まった.
航空機の胴体部材は深絞り加工された.
1937~38年にかけて航空機エンジンをテストするために試験施設が建設され,航空機エンジンワークショップの建設が始まった.
1939~40年にかけては,航空機生産のため,機械施設と部品倉庫を建設.
工場単独での航空機生産を開始し,「ショーヨム」偵察機12機を生産.
また,「レベンテ」のプロトタイプを完成させた.
1940年から42年の間に,車輌工場は「ショーヨム」27機とフォッケウルフFw 58×29機を生産した.
ところでバトル・オブ・ブリテンは,ドイツ軍参謀本部の手持ちの戦闘機の装備に(イギリス軍とは対照的に)限界があることを世界に晒した.
これにより,車輌工場は大量の航空機の注文を受けた.
(当初は急降下爆撃機を生産する予定だった)
当時,ハンガリーでの兵器生産において,2つの欠かさざるべき核が車輌工場とヴァイス・マンフレート製鋼&金属工業だった.
1942年,メッサーシュミット生産計画開始.
ドナウ航空機工場と協力してBf-109戦闘機,次いでMe210戦闘爆撃機の製造を行うというもの.
工作機械がドイツ側から提供され,ハンガリー側は組立に当たった.
1943年春,ヂョルト・ジュラにより,ジェールで生産されたメッサーシュミットBf-109の初号機が初の試験飛行.
連合軍によるドイツの工場への爆撃を懸念したドイツ側の思惑により,戦争中に質的進歩も遂げた.
最後に航空機分野では,「シャールカーニ(ドラゴン,航空機の主翼を含まない主に胴体構造のこと)」生産において重要な役割を与えられた.
(ただし,注文が頻繁に変更されるため,それまでの計画の修正が必要になることがよくあった)
第二次世界大戦中に〔ハンガリーにて〕製造されたドイツ〔ライセンス〕の戦闘機の大半は,航空機胴体の生産にジェールのMVGが協力することになった.
MVGでは航空機胴体が組み立てられ,これにツェペルで生産されたエンジンが装着され,試験された.
その後,飛行するパイロットの数に問題があり,その間に航空機生産の概念は,[ドイツの]軍需大臣アルベルト・シュペーアの協業計画に基づいて修正された.
その計画により,ベーチューイヘイ,ジェールの車輌工場,およびドナウ航空機工場は,協業を余儀なくされた.
大戦中,MVGは計450機以上の航空機をドイツ軍やハンガリー軍のために生産した.
そのように重要な軍需生産施設に進化すれば当然,連合軍による攻撃目標としての優先順位も上がる.
大戦中,大規模爆撃18回,小規模爆撃17回が,この都市を襲った.
最初の爆撃であると同時に最も破滅的な爆撃だったのが1944年4月13日である.
大量破壊用の焼夷爆弾で,MVGと工業用水路を挟んでその向かいにあった飛行場やそこにある航空機の破壊を目指した,163機の英米のB-17爆撃機がジェールを攻撃した.
工場への空爆は12分間続き,車輌工場の建物と設備の約60~70%を破壊し,飛行場の設備にも深刻な打撃を与えた.
十分にシェルターが用意されていたにもかかわらず, 300人近くの犠牲者を出した.
その後,疎開と称して生産設備の多くうはドイツ軍に持ち去られ,最後はソ連軍に占領・接収されて,ジェールでの航空機生産は終焉を迎えた.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://t.co/Ys2W9p2xZv
https://t.co/qliGgmc65h
https://t.co/MAOCgnv6qz
https://t.co/nwjMWTKnmx
https://t.co/tgKgFnqXO5
※上記資料の仮訳
https://togetter.com/li/1629937
mixi, 2021.12.8
【質問 kérdés】
ヴァイス・マンフレートが製造した航空機は?
Milyen repülőgépet gyártott Weis Manfrét?
【回答 válasz】
片方のソースが掲示板なので,どこまで信頼できるかは不明だが,
https://www.secretprojects.co.uk/forum/index.php?topic=10540.0
http://www.airhistory.org.uk/gy/reg_H-M.html
によれば,おおよそ以下の通り.
「ブダペシュト」シリーズについては情報の混乱も見られる.
また,WM番号が付与されないままライセンス生産された航空機もあるという.
(Fokker F.VIIIb,Udet U12など)
ちなみに同社は
1927年,航空機部門創業.
1928年,航空エンジン部門創業.
名称 | 生産開始年月 | 備考 |
WM-5 | 1928 | カプロニCa.97旅客機のライセンス生産型. |
WM-9 "Budapest" | フォッカー C.V-E軽爆撃機のライセンス生産型. | |
WM-10 "Ölyv" | 1930 | 試作複葉練習機.別項参照. |
WM-10a | 1931.9 | WM-10の量産型.別項参照. |
EM-10 | WM-10にSiemens-Halske Sh 12エンジンを搭載した軍納入機.別項参照. | |
WM-11 "Budapest" | フォッカー C.V-D軽爆撃機のライセンス生産型. | |
WM-13 | 1934 | WM-10aのうち1機を改修.別項参照. |
WM-14 "Budapest" | フォッカー C.V-D軽爆撃機のライセンス生産型. | |
WM-16A "Budapest"II | 1933 | 別項参照 |
WM-16B | 別項参照 | |
WM-17 | 単座戦闘機 | |
WM-18 | 単座戦闘機 | |
WM-20 | 1937 | ハンガリーの航空学校向けに製造された,ハインケルHD練習機のコピー.試作機1機のみ作られ,軍航空学校に納入. |
WM-21"Sólyom" | 1938 | WM-16の改良型 |
WM-23"Ezüst Nyíl" | 1941 | 別項参照 |
WM-23B | 複座偵察型.計画のみ. | |
WM-23G | 練習戦闘機型.計画のみ. | |
WM-24 | WM-23のDB603エンジン搭載型.計画のみ. | |
WM-123 "Ezüst Nyíl" II | WM-23のDB603エンジン搭載型.計画のみ. |
mixi, 2017.10.13
【質問 kérdés】
ヴァルガ・ラースローって誰?
Ki az Varga László?
【回答 válasz】
Varga László (1904 – ?) magyar gépészmérnök, repülőgép-tervező.
ヴァルガ・ラースロー(1904~?)はハンガリーの機械技師であり,航空機設計者.
A Budapesti Műegyetemen elvégzését követően a Székesfehérvári Központi
Repülőgép-javító üzem repülőgép-tervezője, üzemmérnöke lett.
Tervező munkája mellett az üzem területén aerodinamikai és repülőszerkezeti
kísérleteket végzett.
ブダペシュト工科大学修了後,彼はセーケシュフェヘーヴァールにあった中央航空機修理工場の航空機設計技師兼機械技師になった.
彼は工場内での設計業務に加え,空力実験や航空機構造実験を行った.
1938-ban a Műegyetemen létesült Aerotechnikai Intézet vezetője, tanári
címmel.
Az intézetben a nagy sebességű repülőgépek rezgésmentességének vizsgálatával
foglalkozott.
1938年,教授職として,工科大学に設立された航空技術研究所の責任者に就任.
研究所では,高速機の振動制御の研究に彼は取り組んだ.
1939 közepén az Aerodinamikai Tanszék mellett létrehozták az Aerotechnikai Intézetet, amely az egész magyar repülés ügyére jelentős hatással volt.
A Légügyi Hivatal mérnökeként az intézet vezetője lett.
1939年中旬,航空力学部門が航空技術研究所に付属して設立されたが,これはハンガリーの航空全体に大きな影響を与えた.
航空研究所の技師として,彼は研究所長となった.
Amikor az intézetet 1943 tavaszán Ferihegyre költöztették, rögtön elkezdték
egy Repülőgépek Tanszék szervezését, melynek első vezetője lett.
Az 1943 végén a RMI (Repülő Műszaki Intézet) a korábbi műegyetemi Aerotechnikai
Intézetből alakult meg.
Az RMI (Repülő Műszaki Intézet) a intézményi szervezet, ami fő feladata
volt katonai repülőgéptípusok tervezése.
Varga László a repülőgép tervező iroda vezetője lett.
1943年春に研究所がフェリヘジに移転したとき,彼らは直ちに航空部門の編成に着手した.
1943年末,RMI(航空技術研究所)が旧工科大学航空技術研究所から設立された.
RMIは,軍用機を設計することを主な業務とした研究機関.
ヴァルガ・ラースローはその航空機設計部門の長となった.
Varga 1947-ben nyugatra távozott, s a tanszék vezetését dr. Rácz Elemér
vette át.
1947年,ヴァルガは西側へ渡り,彼の部署はラーチ・エレメール博士が引き継いだという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://hu.wikipedia.org/wiki/Varga_László_(repülőgép-tervező)
https://hu.wikipedia.org/wiki/RMI%E2%80%931
mixi, 2018.2.8
【質問 kérdés】
WW2ハンガリー軍にあった偵察機は?
Milyen felügyeleti repülőgépek a magyar honvédségben a második világháborúban?
【回答 válasz】
以下の表の通り.
機種 | メーカー | 保有数 | 保有年 | 備考 |
Bf-109G-8 | Messerschmitt (Germany) | 12 | 1944-45 | 戦闘機だが,近距離偵察機としても使用 |
Do-17Ka-3 | Dornier (German) | 1 | 1941-44 | 遠距離偵察機 |
Do-215B-4 | Dornier (German) | 10 | 1942-44 | 遠距離偵察機 |
Fw-189A-1 /2 | Focke-Wulf (Germany) | 20 | 1943-44 | 近距離偵察機 |
He-111P-2 /P-4 | Heinkel (Germany) | 7 | 1940-43 | 遠距離偵察機 |
He-46E-2 | Heinkel (Germany) | 36 | 1937-44 | 近距離偵察機.観測機としても使用 |
He-70K / He-170 | Heinkel (Germany) | 18 | 1937-42 | 遠距離偵察機 |
IAR 37 | Industria Aeronautica Româna (Rumania) | 1 | 1940-41 | 近距離偵察機 |
Ju-86K-2 | Junkers (Germany) | 2 | 1939-44 | 遠距離偵察機 |
Ju-88D-1 /3 /5 | Junkers (Germany) | 28 | 1942-44 | 遠距離偵察機 |
Me-210 / Da | Messerschmitt (Germany) | 6 | 1943-45 | 近距離偵察機.観測機としても使用 |
Ro.37 / 37bis | IMAM (Italy) | 14 | 1939-41 | 近距離偵察機.観測機としても使用 |
WM-21A & B Sólyom | Weiss Manfred (Hungary) | 128 | 1938-41 | 近距離偵察機.観測機としても使用 |
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/_aircraft.html
wikipediaの各機種ページ(「備考」の種別分けの訳語を参照)
mixi, 2017.10.7
【質問 kérdés】
WM-16「ブダペシュト」について教えてください.
Kérem, a WM–16 "Budapest"-ről mondja meg.
【回答 válasz】
WM-16「ブダペシュト」は,ハンガリーの複葉偵察機兼軽爆弾機.
A WM–16 Budapest egy magyar gyártású felderítő és könnyűbombázó repülőgép.
(写真1 - wikipediaより)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/hu/3/3b/Wm16.jpg
開発は1920年代まで遡る.
Fejlesztése az 1920-as évekbe nyúlik vissza.
1920~1922年にハンガリーでもライセンス生産していたフォッカーC.Vを基に,構造を強化.
主翼を布張りから金属製に替え,エンジンを星型550馬力のWM K-9に換装.
8mm ゲバウエル Gebauer機銃を2丁搭載し,また,爆弾を100kg搭載出来た.
また,300㎏までの爆弾を搭載できる軽爆撃機型には,より強力なエンジンである880馬力のWM K-14が搭載されていた.
「ブダペシュト」は1933年に試験に合格し,採用された.
偵察機型は1939年まで,軽爆撃機型は1942年まで第一線にあった.
偵察機型をWM-16A,軽爆撃機型をWM-16Bと区別することもある.
また,フォッカーC.Vのライセンス生産型も「ブダペシュト」と呼ばれており,それと区別するためにWM-16を「ブダペシュト」IIと呼ぶこともある.
なお,WM-16からは改良型WM-21偵察機も開発されている.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.warbirds.jp/data/hun/hun_mw.htm
http://forum.valka.cz/topic/view/185400/HUN-Weiss-Manfred-WM-16-Budapest-14
https://www.masodikvh.hu/haditechnika/repulogepek/magyar-repulogepek/1801-wm-16-budapest-koezelfelderit
https://www.secretprojects.co.uk/forum/index.php?topic=10540.0
https://2vilaghaborufegyverei.blog.hu/2019/05/12/wm_16_budapest_kozelfelderito ※faq190903bd
引用元
https://live.warthunder.com/post/549483/en/ ※faq190903bd2~4 引用元
mixi, 2017.10.11
【質問 kérdés】
WM-21「ショーヨム」って何?
Mi az WM-21"Sólyom"?
【回答 válasz】
WM-21「ショーヨム Sólyom」は1937年にヴァイス・マンフレート社が開発した,星型エンジンの複葉近距離偵察機で,第二次大戦中,ハンガリー王国空軍が組織的に運用した.
A WM–21 Sólyom a Weiss Manfréd Művek 1937-ben kifejlesztett csillagmotoros, kétfedelű közelfelderítő repülőgépe, melyet a Magyar Királyi Honvéd Légierő rendszeresíett és használt a második világháború időszakában.
担当技師はハラース・アンドル Halász Andor,ホッフ・ミクローシュ Hoff Miklós,シャム・ベーラ Samu Béla.
ちなみに,Sólyom は「隼」の意味.
2枚目にB型三面図を示す.
(図表番号 faq171014wm2,wikipediaより)
WM-16「ブダペシュト」IIを改良して構造強化したもので,草地の飛行場への着陸を想定して,尾橇が装備された.
主脚は固定脚.
操縦席は開放式だった.
エンジンはWM-K-9.
これはグローム・ローン Gnome-Rhone のコピーだった.
後にWM-K-14A,870馬力エンジンを装備したWM-21Bも作られた.
武装は7.9mmゲバウエル Gebauer 機銃3丁.
また,10kg爆弾12個または1kg爆弾1個を搭載し,軽爆撃機として使用することも可能だった.
生産はヴァイス・マンフレート(25機)の他,MÁVAG(43機),MWG(60機)の各工場で行われた.
1936年から開発が開始され,初飛行は1937年.
3枚目(図表番号 faq171014wm2)は,国際フェアにて展示されたWM-21である.
空軍には1939年に採用され,1940年のルーマニアとの紛争を皮切りに投入された.
1940.8.27,ルーマニア軍のHe-112戦闘機がハンガリー軍のSa.135爆撃機を銃撃し,パイロット一人を死亡させた.
この事件への報復として同年8.30,WM-21が1機,Satmarnemetiのルーマニアの飛行場に2つの爆弾を投下した.
しかしこの飛行機は墜落した.
幸いにして,紛争はそれ以上拡大することなく政治決着している.
実戦への本格投入は,ユーゴスラヴィア侵攻.
このときには喪失は1機のみだった.
1941.6.27,第8偵察飛行隊 VIII.Koz.Szdと第10偵察飛行隊 X.Koz.SzdのWM-21が,独ソ戦に投入されることが決まった.
1枚目(図表番号 faq171014wm)は第10偵察飛行隊の塗装例を示す.
計48機が偵察機として使われたが,原設計が古いせいもあって既に旧式化しており,独ソ戦の最初の数ヶ月で,少なくとも25機を喪失.
残存機は第一線から退き,代わってHe-46が,さらに代わってFW-189が偵察任務に投入された.
1943~1944年,WM-21はソ連やユーゴスラビアのパルチザン掃討作戦に投入.
それ以後は訓練用として使用され,ハンガリー軍の退却により破壊された.
1枚目:部隊配備中のショーヨム
2~3枚目;操縦席の計器類
4枚目:後部座席の計器類
(図表番号 faq190830wm1~4)
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.airwar.ru/enc/spyww2/wm21.html ※faq171014wm2~6 引用元
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/kepek/planes/wm21.html
http://www.repulomuzeum.hu/VirtualHangar/Wmm/wmm/wm21.html
http://www.aerofriends.hu/repules-tortenet/elfeledett-tipusok-wm-21-solyom
http://www.repulomuzeum.hu/Roncskutatas/WM-21/WM-21.htm
http://www.letletlet-warplanes.com/2014/05/06/wm-21-solyom/
http://www.fortepan.hu/?view=all&lang=hu&tags[]=Weiss+Manfréd+WM-21+Sólyom ※faq171014wm2引用元
https://live.warthunder.com/post/549505/en/ ※ faq190830wm1~4 引用元
mixi, 2017.10.15
【質問】
第二次大戦中,ハンガリーが有した爆撃機は?
Mi az magyari bombázók a második világháborúban?
【回答】
以下の通り.
100機を超える機体が殆ど無いというのが悲しい.
機体 | メーカー | 機数 | 就役期間 | 備考 |
Bf-109F-4B | Messerschmitt (Germany) | 66 | 1942-43 | 戦闘爆撃機 |
Ca.101/3m | Caproni (Italy) | 15 | 1931-44 | |
Ca.135bis | Caproni (Italy) | 68 | 1940-44 | |
Cr.42bis | Fiat (Italy) | 12 | 1944-45 | 軽攻撃機 |
Fw-190F-8 | Focke-Wulf (Germany) | 72 | 1944–45 | 戦闘爆撃機 |
Fw-58C /B-2 | Focke-Wulf (Germany) | 17 | 1944-45 | 夜間攻撃機 |
He-111H-6 | Heinkel (Germany) | 12 | 1944-45 | 夜間爆撃機 |
Hs-129B | Heinschel (Germany) | 4 | 1943 | 対地攻撃機 |
Il-2 | Ilushin (USSR) | 1 | 1942-44 | 対地攻撃機,鹵獲機 |
Ju-86K-2 | Junkers (Germany) | 63 | 1937-45 | |
Ju-87A | Junkers (Germany) | 4 | 1941-44 | 急降下爆撃機 |
Ju-87B-2 | Junkers (Germany) | 10 | 1941-43 | 急降下爆撃機 |
Ju-87D-1 /D-3 | Junkers (Germany) | 30 | 1943-44 | 急降下爆撃機 |
Ju-87D-5 | Junkers (Germany) | 20 | 1944-45 | 急降下爆撃機 |
Ju-88A-14/C-6 | Junkers (Germany) | 32 | 1944-45 | 戦闘機としても使用 |
Ju-88A-4 /A-5 | Junkers (Germany) | 51 | 1943-45 | |
Me-210Ca-1 | Messerschmitt (Germany) | 128 | 1944–45 | 戦闘爆撃機 他に33機が夜間戦闘機他として使用 |
Re.2000 Héja | MÀVAG (ライセンス生産) | 2 | 1943-45 | 急降下爆撃機,戦闘機としても使用 |
SM.79 | Savoia-Marchetti (Italy) | 1 | 1941.42 | |
WM-16 Budapest | Weiss Manfred (Hungary) | 9 | 1933-42 | フォッカーC Vdを元に開発された偵察機兼軽爆撃機 |
WM-21 Sólyom | Weiss Manfred (Hungary) | 128 | 1938-42 | WM-16の発展型で偵察機兼観測機兼軽爆撃機 1942年以降は練習機 |
【参考ページ】
ジョルジョ・プンカ『ハンガリー空軍のBf109エース』(大日本絵画,2003)
『航空機 第二次大戦1 万有ガイド・シリーズ4』(小学館,1981)
http://www.niehorster.org/015_hungary/_aircraft.html
http://www.masodikvh.hu/haditechnika/repulogepek/magyar-repulogepek/1801-wm-16-budapest-koezelfelderit
http://www.masodikvh.hu/haditechnika/repulogepek/magyar-repulogepek/704-wm-21-solyom-felderitbombazo
カプロニCa101/3m
(こちらより引用)
東部戦線における4/III爆撃群のカプロニCa135bis
(こちらより引用)
ユンカースJu-86K-2
(こちらより引用)
https://www.youtube.com/watch?v=PNmGcwo_Bfc
mixi, 2017.2.4
【質問 kérdés】
RMI-5って何?
Mi az RMI-5?
【回答 válasz】
RMI-5(試作機コードX/U)は,1943年に航空技術研究所において実機が立ち上げられた中型輸送機.
Az RMI-5 (X/U kísérleti jelzésű) közepes szállító repülőgép kivitelezését 1943-ban kezdték meg a Repülő Műszaki Intézet ferihegyi kísérleti műhelyében.
WW2ハンガリーが開発した最初で最後の4発機でもあった.
Az volt az első és eddig egyetlen magyar tervezésű 4 motoros gép
1941年以降,ドイツやイタリアは輸送機輸出を一時停止していた.
1941-től a németek és az olaszok is szüneteltették a szállítógépek átadását.
そのため,自前で空挺部隊用の輸送機を開発する必要が生じ,その年の内に設計開始.
開発に当たっては,ドイツのフォッケウルフFW-200「コンドル」輸送機が参考にされた.
また,民間用旅客機としても使えるよう考慮された.
計画では
全幅 fesztáv :25m
全長 hossz :18.3 m
アーガスAS-411(480 HP)を4基搭載して最高速度320km/h.
3.5tのペイロード,または20個のパラシュート投下コンテナを搭載.
武装なし.
機体の組み立てが行われていた1944年,空爆により破壊された.
一方,エンジンは当座100基が発注されたものの,終戦までに完成したものはごく一部だけだった.
しかし仮に完成していたとしても,制空権が連合軍に奪われていた状況下では,空挺部隊降下の出番は極めて限られていたのではないかな?と思う.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://balaton-modell.gportal.hu/gindex.php?pg=3083346&nid=669522 ※図1~3引用元
http://druhasvetova.com/?p=letadla/madarska/Varga-X_lomeno_H-a-X_lomeno_G
http://docplayer.hu/2486408-Szaktortenet-2-1-a-legideszantcsapatok-legi-szallito-es-deszanteszkozei.html
1枚目:カラー側面図
2枚目:3面図
3枚目:概念図
(図No.faq171023xu1~3)
mixi, 2017.10.24
【質問 kérdés】
RMI-10って何?
Mi az RMI-10?
【回答 válasz】
1942年,グライダー部隊のパイロットの訓練を開始したハンガリー王国空軍は,グライダー生産を提案した.
A Magyar Királyi Honvéd Légierő 1942-ben írt ki pályázatot szállító vitorlázó
repülőgépek gyártására, miközben a légierőnél Pápán megkezdték a vitorlázó
repülőgépes alakulatok szervezését és a pilóták kiképzését.
その空軍の要求に基づき,航空技術研究所(RMI)はRMI–10 (X/S)製造を計画し,「Aero Ever」のルビク・エルネーはR-21の設計を開始したが,これは15人搭乗可能なものだった.
A légierő pályázatára a Repülő Műszaki Intézet (RMI) az RMI–10 (X/S) jelzésű
gép terveit készítette el, míg az Aero Evernél Rubik Ernő az R–21 jelzésű,
15 fő befogadására alkalmas gép tervezésébe kezdett.
ハンガリー王国空軍は「Aero Ever」に5機の滑空グライダーを発注したので,RMI-10は計画段階で終わった.
A RMI-10 a tervezési szakaszban fejeződött be, mivel a Magyar Királyi Honvéd
Légierő öt darab szállító vitorlázógépet rendelt az Aero Evertől.
詳細は不明.
A részletek ismeretlenek.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://lemil.blog.hu/2016/08/25/csendes_szarnyakon?token=5b52ba44b50d183fe7aca23f02e94b31
https://library.hungaricana.hu/en/view/ORSZ_KOZL_TechnTortSzle_05/?query=SZO%3D(iskola)&pg=139&layout=s
mixi, 2017.11.8
【質問 kérdés】
WW2ハンガリー軍にあった練習機は?
Milyen repülőgépgyárak a magyar honvédségben a második világháborúban?
【回答 válasz】
機種 | メーカー | 保有数 | 保有期間 | 備考 |
Ar-96A | Arado (Germany) | 65 | 1939-45 | 高等練習機 |
Ar-96B | Arado (Germany) | 45 | 1942-45 | 射撃練習機 |
Ba.25 | Breda (Italy) | 3 | 1939-42 | 初等練習機 |
Bü-131D-2 | Bücker (Germany) | 150 | 1939-45 | 初等練習機.連絡機としても使用 |
Bü-81 | Bücker (Germany) | 23 | 1942-45 | 初等練習機.連絡機としても使用 |
R-11b Cimbora | Aero Ever (Hungary) | 10 | 1942-44 | パイロット練習用グライダー |
D.F.S. - Kranich | D.F.S. (Germany) [2] | 3 | 1943-45 | 練習用グライダー |
D.F.S. 230 | D.F.S. (Germany) [2] | 3 | 1944-45 | 練習用グライダー |
Do-23 | Dornier (German) | 3 | 1937-44 | 爆撃練習機 |
FN 305 & 315 | Fratelli Nardi (Italy) | 52 | 1941-44 | 高等練習機 |
Fw 58K-7 /8 | Focke-Wulf (Germany) | 84 | 1937-45 | 練習機 |
Fw-56 | Focke-Wulf (Germany) | 32 | 1937-44 | 練習戦闘機 |
Go-242 | Gothaer Waggonfabrik (Germany) | 15 | 1944-45 | 練習用輸送グライダー |
He-45C | Heinkel (Germany) | 6 | 1937-44 | 観測練習機 |
HS-9 | Hirtenberg (Austria) | 1 | 1939-45 | Tourerとしても使用 |
Ju.86K | Junkers (Germany) | 3 | 1937-45 | 爆撃練習機 |
Káplár | Varga (Hungary) | 5 | 1941-45 | 初等練習機 |
Kevély | Rubik (Hungary) | 5 | 1942-44 | 練習用グライダー |
Levente I | Fábián (Hungary) | 2 | 1941-45 | 初等練習機 |
Levente II | Fábián (Hungary) | 80 | 1942-45 | 初等練習機.連絡機としても使用 |
M-22 | Müegyetem (Hungary) | 2 | 1942-44 | パイロット練習用グライダー |
Móka | Rubik (Hungary) | 2 | 1944-45 | パイロット練習用グライダー |
NA-16 Harvard | North American (USA) | 3 | 1943-45 | 練習戦闘機 |
R-08 Pilis | Rubik (Hungary) | 5 | 1942-44 | 練習用グライダー |
Potez 63.11 | Potez (France) | 40 | 1944-45 | 駆逐練習機 Destroyer Trainer |
RMI-3 | Repülo Muszaki Intézet (Hungary) | 4 | 1942-45 | 双発練習機 |
Ro.41 /41B | IMAM (Italy) | 8 | 1939-44 | 戦闘練習機 |
RWD 8 | Podlaska Wytwórnia Samolotów (Poland) | 2 | 1940-45 | 初等練習機兼Tourer |
Tücsök | Rubik (Hungary) | 5 | 1942-44 | 練習用グライダー |
Vöcsök | Rubik (Hungary) | 5 | 1942-44 | 練習用グライダー |
WM-10/13 | Weiss Manfred (Hungary) | 9 | 1933-44 | 初等練習機 |
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/_aircraft.html
wikipediaの各機種ページ(「備考」の種別分けの訳語を参照)
mixi, 2017.10.8
【質問 kérdés】
WM-10 "Ölyv"って何?
Mi az WM-10 "Ölyv"?
【回答 válasz】
WM-10 "Ölyv"はManfred Weiss社によって設計・製造された,1930年代の複葉練習機.
A WM-10 Ölyv egy 1930-as évekbeli kétpályás repülőgépgyár volt, amelyet a Manfred Weiss tervezett és épített.
"Ölyv"は動物のノスリの意味.
1931年9月,初飛行.
この試作機は100hpのMW シュポルトSport I エンジンを搭載した,single-bay,2人乗りの複葉初等練習機だった.
量産型WM-10aでは,より強力な120hpのMW シュポルト Sport IIIエンジンを搭載,改良型着陸装置が装備された.
これは1933年に8機が生産された.
このうち1機は,さらに強力な130hpのエンジン,MW シュポルトIIIに換装され,燃料タンクも大型のものに改修されて,WM-13と呼称された.
軍の飛行訓練用としては,シーメンス・ハルシュケ Siemens-Halske Sh 12エンジンを搭載したものが5機作られ,EM-10と呼称された.
1938年,シュポルト・エンジン搭載機の全てがシーメンス・エンジンに換装されたが,WM-10という呼称に変更はなかった.
軍では1941年まで3機が残っていたが,退役して準軍事組織のグライダー曳航機となった.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://1000aircraftphotos.com/Contributions/GyenesCollin/12559.htm ※写真1引用元
http://www.cfiamerica.com/id42.html ※写真2引用元
http://www.levente2.hu/a-levente-ii-tortenete/ ※写真3引用元
https://kepesrepules.wordpress.com/2015/08/31/evfordulok-2015-szeptember/ ※写真4引用元
WM-10 Ölyv
(図No. faq171013wm1~4,こちら & こちら & こちら & こちらより引用)
mixi, 2017.10.14
【質問 kérdés】
RMI-3って何?
Mi az RMI-3?
【回答 válasz】
RMI-3は別名をZ/Gと言い,ヴァルガ・ラースロー Varga László 技師らの設計による双発の急降下爆撃練習機 zuhanóbombázó-gyakorló.
X/H(RMI-1)試作戦闘機から派生したX/G(RMI-2)空力試験機からの派生機であり,軽爆撃機/水上爆撃機RMI-4の姉妹機.
正直,そこまで無闇に手を広げても…という感はある.
1941年,設計開始.
機体構造は鋼管骨組,合板張り.
エンジンは105hpのヒルス Hirth HM-504/A2を2基使用した.
試作機には武装無し.
他の急を要する作業に追われてこの機の作業は進まず,ようやく1943年初めに試作機は完成されたが,1944年,米軍の空襲により破壊され,実用には至らなかった.
(ただしサイトによっては4機完成としているものもある)
【参考ページ Referencia Oldal】
http://balaton-modell.gportal.hu/gindex.php?pg=3083346&nid=754095 ※faq171021rm引用元
http://all-aero.com/index.php/125-planes-r-s/16510-rmi-rmi-3-z-g
https://www.warbirdsforum.com/topic/212-honved-experimental-aircraft/
https://live.warthunder.com/post/548102/en/ ※faq171021rm2引用元
1枚目:三面図
(図表No. faq171021rm)
2枚目:RMI-3と思われる機体が写り込んでいる写真
(図表No. faq171021rm2)
mixi, 2017.10.22
【質問 kérdés】
RMI-7って何?
Mi az RMI-7?
【回答 válasz】
RMI-7 V/Gはヴァルガ・ラースロー Varga László とラーチ・エレメール Rácz Elemér によって設計された試作練習機.
RMI-7 V/G az kísérleti gyakorlógép, akit Varga László és Rácz Elemér terveztek.
V/GはRMI-3 Z/Gと並行して,1941年に設計を開始された.
Az RMI-3 Z/G-vel párhuzamosan, 1941-ben indult a V/G tervezése.
機体構造はZ/Gと同一.
Törzsszerkezete megegyezett a Z/G-vel.
AS-410エンジンが1基,機体に搭載された.
A törzsben egy AS-410 motor kapott helyet.
風洞実験と技術試験とが機体設計と同時に行われた.
A szélcsatorna- és technológiai tesztek ennél a gépnél is a tervezéssel egyidőben zajlottak.
機体は金属・木材混合構造であり,ねじりのついた主翼は木製.
A vegyesépítésű gép faépítésű torziós szárnnyal.
そして主脚は水圧式だった.
És hidraulikusan bevonható főfutókkal készült.
武装は無し.
A fegyverzete nem volt.
最終的な骨組み,搭載機材一式,シャーシコーティングおよび最終組み立てを完了するにあたって,より難しい構造であるために,RKM(航空試験廠)で行われねばならなかった.
Az igényesebb szerkezet miatt az RKM (Flying Experimental Workshop)-et
is be kellett vonni, ahol is végül a sárkányszerkezet, a teljes mechanikus
berendezés, a futóműbevonás és a végszerelés készült.
(図表 faq171031vg2)は組立中のV/Gの様子.
Az (faq171031vg2. fotó) az összeállító V/G állama.
1944年,試作機は飛行のためブダエルシュ Budaörs飛行場に運ばれたが,それ以降のことは不明である.
1944-ben a prototípust a budaörsi reptérre szállították berepülés céljából,
további sorsáról még nincs adat.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://balaton-modell.gportal.hu/gindex.php?pg=3083346&nid=765457 ※faq171031vg1~3引用元
https://live.warthunder.com/post/548108/en/
1枚目・3枚目:RMIの図面
(図表No.faq171031vg1 & 3)
mixi, 2017.11.1
【質問 kérdés】
RMI-9って何?
Mi a RMI-9?
【回答 válasz】
RMI-9 M/G (Me/G) は,Bf-109での再訓練を容易にするために製作された,戦闘機パイロット用練習機.
RMI-9 M/G (Me/G) az kísérleti gyakorló vadászgép, ami a Bf-109 típusra
való átképzés megkönnyítésére jött létre.
1943年以降,ハンガリー空軍は新鋭戦闘機Bf-109(F型やG型)を徐々に受領したが,その特徴的な狭い主脚幅と狭い座席にはハンガリー軍パイロットは不慣れだった.
A légierő 1943-tól fokozatosan megkapta az akkor korszerű Bf-109 vadászgépeket
(F és G változatok), azonban a magyari pilótáknak nem volt könnyű hozzászokni
a típus jellegzetesen keskeny nyomtávú futójához és szűk kabinjához.
これは離着陸の際に特に問題だった.
Ez különösen a fel-, leszállások alkalmával volt problémás.
そこで1944年,航空技術研究所はBf-109の座席,風防,そして機体を備えたが,ただしエンジンは馬力が小さいという小型練習機を,メッサーシュミットに乗るパイロット達のために特別に設計した.
Tehát az Aerotechnikai Intézet 1944-re egy Bf-109 üléssel, kabintetővel
és futóművel, de gyengébb motorral ellátott kis gyakorlógépet alkotott,
kifejezetten a Messerschmitt pilóták kiképzésére.
本物のBf-109の飛行特性により近づけるように主翼スラットが設計されていた.
Terveztek a géphez orrsegédszárnyat, hogy ezzel is jobban utánozza a Bf-109
repülési tulajdonságait.
1944年,フェリヘジ Ferihegy の試験機用ハンガーにおいて爆撃によって破壊された.
1944-ben a Ferihegyi kísérleti hangárban, egy bombázás elpusztította.
Festése: Nem ismert.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://balaton-modell.gportal.hu/gindex.php?pg=3083346&nid=754109 ※三面図引用元
http://all-aero.com/index.php/125-planes-r-s/16514-rmi-repuelo-muszaki-intezet-rmi-9-m-g
三面図
(図表No. faq171106ms)
mixi, 2017.11.7
【質問 kérdés】
WW2ハンガリー軍にあった,その他の航空機は?
Milyen magyari egyéb repülőgépek a második Világháborúban?
【回答 válasz】
機種 | メーカー | 保有数 | 就役年 | 備考 | |
Ar-79B | Arado (Germany) | Courier | 16 | 1944-45 | 連絡機 |
Bf-108B | Messerschmitt (Germany) | Courier / Spotter | 7 | 1937-45 | 連絡機 / 着弾観測機 |
Blenheim I | Bristol (United Kingdom) | Observation | 1 | 1941-44 | 観測機 |
Br. XIX | Breguet (France) | Observation | 1 | 1941-44 | 観測機 |
Bü-131D-2 | Bücker (Germany) | Primary Trainer / Courier | 150 | 1939-45 | 連絡機 / 初等練習機 |
Bü-81 | Bücker (Germany) | Primary Trainer / Courier | 23 | 1942-45 | 連絡機 / 初等練習機 |
C.600 Aiglon | Caudron–Renault (France) | Courier | 6 | 1943-45 | 連絡機 |
C.630 Simoun | Caudron–Renault (France) | Courier | 6 | 1943-45 | 連絡機 |
E-39 | Praga (Czechia) | Courier | 12 | 1939-44 | 連絡機 |
EM-29 Csóka | EMESE (Hungary) | Courier | 25 | 1942-45 | 連絡機 |
Fi-156C /D | Fiesler (Germany) | Courier | 36 | 1942-45 | 連絡機 |
Fw-189 | Focke-Wulf (Germany) | Mapping | 1 | 1944-45 | 地図作製機 |
Fw-58C | Focke-Wulf (Germany) | Courier | 1 | 1937-45 | 連絡機 |
Fw-58E-1 | Focke-Wulf (Germany) | Weather | 2 | 1939-45 | 気象観測機 |
Fw-58K-1 /2 | Focke-Wulf (Germany) | Transport | 3 | 1943-45 | 輸送機 |
G.12 | Fiat (Italy) | Transport | 18 | 1942-45 | 輸送機 |
Gerle | Bánhidi (Hungary) | Tourer / Courier | 1 | 1940-41 | 連絡機 |
Gipsy Moth | De Haviland (United Kingdom) | Courier | 1 | 1939-42 | 連絡機 |
He-111H-2 | Heinkel (Germany) | Courier | 1 | 1944 | 連絡機 |
He-46E-2 | Heinkel (Germany) | Observation / Short Range Recon | 36 | 1937-44 | 観測機/近距離偵察機 |
HS-9 | Hirtenberg (Austria) | Tourer / Trainer | 1 | 1939-45 | 旅客機 / 練習機 |
Ju-52/3m | Junkers (Germany) | Tranport | 23 | 1943-45 | 輸送機 |
Ju-52/3mg 3-9 | Junkers (Germany) | Transport | 7 | 1941-45 | 輸送機 |
Ju-86Ga-1 | Junkers (Germany) | Courier | 2 | 1943-45 | 連絡機 |
Levente II | Fábián (Hungary) | Primary Trainer / Courier | 80 | 1942-45 | 連絡機 / 初等練習機 |
M-24 | Müegyetemi (Hungary) | Courier | 4 | 1940-42 | 連絡機 |
Me-210 / Da | Messerschmitt (Germany) | Observation / Short Range Recon | 6 | 1943-45 | 観測機/近距離偵察機 |
Potez 25 | Potez (license built in Poland) | Observation | 1 | 1941-44 | 観測機 |
Ro.37 / 37bis | IMAM (Italy) | Observation / Short Range Recon | 14 | 1939-41 | 観測機/近距離偵察機 |
RWD 8 | Podlaska Wytwórnia Samolotów (Poland) | Primary Trainer and Tourer | 2 | 1940-45 | 初等練習機兼旅客機 |
Si-204D | Siebel (Germany) | Courier | 5 | 1944-45 | 連絡機 |
SM.75 | Savoia-Marchetti (Italy) | Transport | 5 | 1938-45 | 輸送機 |
UT-2 | Yakovlev (USSR) | Courier | 1 | 1942-44 | 連絡機 |
WM-21A & B Sólyom | Weiss Manfred (Hungary) | Observation / Short Range Recon | 128 | 1938-41 | 観測機/近距離偵察機 |
WM-Fokker C.Vd | Weiss Manfred (Hungary) | Observation | 50 | 1928-42 | 観測機 |
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/_aircraft.html
wikipediaの各機種ページ(「備考」の種別分けの訳語を参照)
mixi, 2017.10.9
【質問 kérdés】
RMI-6「スーニョグ」って何?
Mi az RMI-6 "Szúnyog"?
【回答 válasz】
RMI-6「スーニョグ」は前輪式降着装置開発のための試験機.
RMI-6 "Szúnyog" azért kísérleti repülőgépek, hogy az orrfutóműves
rendszer kifejlesztésére szolgált
これはハンガリーでは初めて引き込み式の前輪式降着装置をもった飛行機となった.
Ez volt az első bevonható orrfutós magyar gép.
X/V戦闘機は前輪式降着装置をもった航空機だったので,「スーニョグ」がその前輪式降着装置のリハーサル用に特別に設計されたのだった.
Az X/V csatarepülőgép olyan egy orrfutóval ellátott gép volt, hogy az "Szúnyog"
kifejezetten ennek az akkor még újdonságszámba menő orrfutókerekes elrendezésnek
a próbáira készült.
ちなみに降着装置は手動.
1枚目(図表 faq171030sg)はプラモデルのボックス・アートを,2枚目(図表 faq171030sg3)は三面図を示す.
全幅6.6m
全長5.8m
武装なし
チェコ製 Zlin Persy II エンジン(45馬力)を搭載し,時速250kmの予定だった.
ヴァルガ・ラースロー Varga László によって設計され,1943年から航空技術研究所で試作機組立が始められた.
3枚目(図表faq171030sg2)は組立中の写真.
だが1944年,爆撃によって破壊された.
4枚目(図表faq171030sg4)は破壊後の残骸の写真.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://balaton-modell.gportal.hu/gindex.php?pg=3083346&nid=669561 ※faq171030sg1~3引用元
http://all-aero.com/index.php/125-planes-r-s/16511-rmi-rmi-6-szugyog-mosquito
https://live.warthunder.com/post/549813/en/ ※faq171030sg4引用元
mixi, 2017.10.31
【質問 kérdés】
ファービアーン「ホンヴェード」とは?
Mi az Fábián Honvéd?
【回答 válasz】
ウリ兄弟車体&車輌工場の航空機部門で働いていたファービアーン・アンドラーシュ技師が1942年に設計した軽爆撃練習機.
4人乗りで,105hp Hirth HM 504エンジンを2基搭載.
ヴァルガ・ラースローのRMI-3 Z/G急降下爆撃練習機にも外見はやや似ている.
1943年に試作機が2機完成したが,初飛行において改修が必要な点が幾つか判明.
1944春までに再設計し,機体の重量バランスの問題を解決するため,機首重量を増加させた.
この改修を行った試作機「ホンヴェード」IIが2機製造された.
国防軍はこれを承認したものの,量産が行われたとの記述は無い.
「ホンヴェード」IIは爆撃を受けたパパ飛行場において損傷した姿が目撃されているが,その後の消息は不明.
1~2枚目:「ホンヴェード」
IかIIかは明記されておらず
(図No.faq200731fb1~2,こちらより引用)
3枚目:三面図
(図No.faq200731fb3,こちらより引用)
3枚目:コックピット
(図No.faq200731fb4,こちらより引用)
mixi, 2020.7.31
【質問 kérdés】
ファービアーン「レベンテ」について教えてください.
Kérem, mondja meg a Fábián "Levente"-ről.
【回答 válasz】
第二次大戦ハンガリー軍が使用した複座初等練習機または連絡機.
第一次大戦後,トリアノン条約によって軍備を制限されていたハンガリーは,民間航空活動の影に隠れ,民間航空局(LÜH)の監督下で秘密の空軍を作ろうとしていた.
しかし再軍備宣言後も航空機やパイロットの不足は深刻であり,パイロット養成のためにハンガリーはドイツからビュッカー Bücker Bü-131「ユングマン」練習機を輸入.
だがその数は必要数には及ばず,納入も遅延.
そこで1938年8月,LÜHは航空学校向けの練習機を公開入札で公募した.
マンフレート・ヴァイス社で働いていた技師ファービアーン・アンドラーシュ Fábián Andrásはこれに応募.
設計審査で残ったのが
ヤンチョー・エンドレ Jancsó Endre とスポーツ大学の共作であるM25「ネブロ Nebulo (星雲)」
ヴァルガ・ラースロー Varga László 教授の「カープラール Káplár (キャプテン)」
そしてファービアーンの「レベンテ Levente (パラディン)」だった.
これら3機種は実機を試作し,それによる比較試験が行われることとなった.
レベンテはジェールにある「ハンガリー車輌&機械工場(MWG)」において,1940年11月に完成.
だが飛行試験中の11/17,1機を航空機事故によって喪失.
MWGのテスト・パイロット,ディチェーフィ・ヨーヂェフは死亡した.
そのため低高度での飛行特性を改善し,また,製作工程を簡易化した試作機レベンテIIが製作され,試験を続行.
この試験飛行と飛行実験研究所(RKI-空軍航空機認証機関)の技術検査の後,国防省は1941年にレベンテIIを制式採用.
120機を発注.
後に20機を追加発注した.
この飛行機は,松材の骨組みに帆布張りした楕円パラソル翼,クローム・モリブデン鋼管に帆布張りまたは木板張りで作られた,シンプル設計.
そのために損傷に強く,しかも損傷はすぐに修理可能だった.
初号機からの変更点としては,垂直・垂直尾翼の楕円形が単純化され,胴体が太くなり,機首の形もシンプルに,丸びを帯びた形となった.
性能要目は
全長:6.08 m
全幅:9.45 m
全高:2.53 m
翼面積:13.50m²
空荷重量:470 kg
最大離陸重量:750 kg
発動機:Hirth HM 504A – 2 4気筒直列エンジン×1
最大出力:78 kW(105 hp)
最高速度:160 km / h
航続距離:650 km
実用最高高度:4500 m
ところでファービアーンは応募後の1939年春,ヴァイス・マンフレートを辞め,ウリ Uhri兄弟工場に転職していた.
この会社は小規模な自動車車体メーカーだったが,航空機部門を新たに立ち上げようとしていた.
同社はファービアーンをヘッドハンティングし,レベンテ採用の場合には同社で製造しようという提案を出していた.
しかし同社は100機を超すような大量生産施設など持っていなかった.
かといって他の航空機工場には余力が無く,レベンテIIの生産はここで滞る.
このため国防省は一時的に,ドナウ川の近郊のブダペシュト・ツェペルCsepel地区北端にある,ヴァイスマンフレート社の飛行場を生産施設に指定.
1942年,ウリ兄弟とファービアーンの新会社「飛行機工場㈱ Repülőgépgyár Rt.」が,その場所に発足.
ファービアーンは株式の10%を保有し,また,彼は工場移転監督者となり,ようやくレベンテIIの生産を開始した.
従業員は常時採用され,30人でスタートした従業員は,年末までに900人に膨らんだ.
1943年10月,ツェペルの飛行場にて最初の10機が引き渡された.
このの10機はホルティ・ミクローシュ国立航空基金(HMNRA)があるフェリヘジまで空輸され,航空学校機として使用された.
だが同社は,他方でBü-131やBü-181の修理も手掛けねばならず,また,部品生産の遅延や材料不足,空爆によってレベンテII生産は遅延.
一方,国防省はマーチャーシュフェルド Mátyásföld に飛行機工場㈱ の本工場を開設すべく,1943年6月,建設工事を開始.
第2ロッドの10機の引き渡しは1944年4月となり,同月5日には,空爆の危険性を鑑み,国防省は飛行機工場㈱に対し,現在建設中の工場敷地に移転するよう命じた.
その後,生産は幾分加速して1944年の秋までに40のレベントIIを納入したが,移転作業に入る前にブダペシュトはソ連軍が包囲.
工場はベルメゼー Vérmező に急遽避難して,その場所に作られた臨時飛行場において,最後の4機を組立.
これで試作機4を含め,生産総数は100となった.
臨時飛行場も失われると,パパ飛行場近傍のセールメゼープシュタ Szélmezőpuszta にさらに避難.
その避難中に工場の設備,機械,半完成品の大半を空爆によって失い,避難地での生産は事実上不可能に.
そして撤退前に陸軍によって爆破され,機械や技術資料などの諸々は殆どが失われた.
それでも空軍では各飛行中隊に最低でも一機のレベンテIIを受領し,訓練の他,連絡任務や軽輸送,ときには近接支援任務までこなした.
開放式コックピットは東部戦線の冬の戦いには不向きだったが,損傷に耐性があり,小型で機動性に優れていたことは,そうした欠点を補って余りあった.
第二次大戦後,損傷機の中からレベンテII×5機がレストアされた.
ハンガリー王国のものは全否定するという共産政権の政治的意味合いから「シュトルッツ Strucc(ダチョウ)」と改名.
民間航空においてパイロット訓練や牽引に用いられたが,スペア・パーツ不足により1956年以降,徐々に消耗していき,1機だけが博物館に保存された.
この機はハンガリーが戦時中に生産した航空機の中では,現存する唯一のものである.
しかし2017年後半になって,レベンテIIを新たに1機製造することになった.
残存していた設計図に基づき,一部に現代の部品を使用した他は当時と同じ材料で,大学生や航空技師の私的支援,ボランティアによって製造されたこのレプリカは,2019年末に試験飛行プログラムが正常に終了.
その優れた飛行特性を試験においても発揮していたという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://hu.wikipedia.org/wiki/Levente_II
https://live.warthunder.com/post/549145/en/
http://www.levente2.hu/a-levente-ii-tortenete/
1枚目:交通博物館所蔵のレベンテII
唯一現存する機体.
(図No.faq200723lv2,こちらより引用)
2枚目:同.2019.6.22,コロシュ・フェレンツ Kolos Ferenc氏撮影
(図No.faq200723lv5,こちらより引用)
3枚目:三面図
現存機から3Dコンピュータ・モデルを使用して作成されたもの
(図No.faq200723lv3,こちらより引用)
4枚目:1941年にジェールで製造されたレベンテ
(図No.faq200723lv4,こちらより引用)
mixi, 2020.7.25
【質問 kérdés】
ファービアーン「モカーニ(タフガイ)」について教えてください.
Kérem, mondja meg a Fábián "Mokány"-ról.
【回答 válasz】
ウリ兄弟車輌工場の航空機部門で働いていた技師,ファービアーン・アンドラーシュが1942年に設計した練習機.
第3ステージ(戦闘機搭乗)のための練習機で,ヴァルガ・ラースローの設計したRMI-7 V/G練習機との競作.
軍はRMI-7のほうに傾きつつあったが,「モカーニ」の試作機1号機は1944年12月に完成.
試験飛行を行ったかどうかは不明.
1944年6月27日,米軍のブダペシュト空襲により,ファービアーン技師はフェレンツ・ヨーヂェフ兵舎の近くで死亡しており,開発も鈍化したと思われる.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/549140/en/
https://hu.m.wikipedia.org/wiki/Fábián_András_(mérnök)
https://mek.oszk.hu/02100/02185/html/812.html
http://www.levente2.hu/a-levente-ii-tortenete-sorozatgyartas/
http://www.levente2.hu/a-levente-ii-tortenete-a-haboru-vege/
「モカーニ」三面図
(図No.faq200728mk,こちらより引用)
mixi, 2020.7.28
【質問 kérdés】
ルビク・エルネーって誰?
Ki az Rubik Ernő?
【回答 válasz】
Rubik Ernő magyar gépészmérnök, pilóta, feltaláló, repülőmérnök, cserkésztiszt.
A legismertebb magyar repülőgép-tervező.
Fia, ifjabb Rubik Ernő a Rubik-kocka megalkotója.
ルビク・エルネーはハンガリーの機械技師,パイロット ,発明家,航空技師にして,航空スポーツ指導者.
彼はハンガリーにおいて最も有名な航空機設計者である.
彼の息子のルビク・エルネーは,ルービック・キューブの発明者.
1910.11.27-ben Pöstyénben(ma: Piestany, Szlovákia) született.
Édesapja uradalmi írnok volt, aki 1915-ben, az első világháború első időszakában,
katonai szolgálat közben eltűnt az orosz fronton, hátrahagyva feleségét
három kicsi gyermekkel.
1918-ban a család került Pöstyénből Magyarországra menekült, mivel Csehszlovákia
független volt Ausztria-Magyarországtól.
Több hónapot töltöttek vagonlakásban.
Édesanyja ezután varrónőként kereste kenyerüket Szentesen, Orosházán, Tótkomlóson.
Családja csak nagy nehézségek árán tudta taníttatni.
Tótkomlóson végezte el az elemi iskola négy osztályát, ahol a tanító felfigyelt
Rubik tehetségére.
1910.11.27,ペシュチェーン(現在のスロヴァキア,ピエシュタニ)生まれ.
彼の父親は大工の棟梁だったが,1915年,第一次大戦初期,徴兵されてロシア戦線で行方不明となり,妻と3人の幼い子供が後に遺された.
1918年,チェコスロヴァキアがオーストリア=ハンガリーから独立したため,一家はペシュチェーンからハンガリーへ移住.
数か月間,廃車輌住まいを余儀なくされた.
その後,彼の母親はセンテシュ,オロシュハーズ,トートコムローシュにて針子をして糊口をしのいだ.
家計は大変困窮しており,教育を受けさせることができなかった.
トートコムローシュにて彼は小学校4年生まで終了したが,そこで教師からルビクの才能を見出されたのだった.
1921-ben mint jól tanuló hadiárva, pályázat útján a váci Szilágyi Dezső
Hadiárva Intézetbe került.
1929-ben a váci kegyesrendi katolikus gimnáziumban (ma: Váci Piarista Gimnázium és Kollégium) kiemelkedő eredménnyel érettségi vizsgát tett.
1929-1934 között a Népjóléti Minisztérium támogatásával tanult a Királyi
József Nádor Műegyetem Gépészmérnöki Karán.
Tanulmányaival párhuzamosan a Műegyetemi Sportrepülő Egyesületnél vállalt munkát mint repülőgép asztalos, majd repülőgép lakatos.
1921年,よく訓練された軍人となるべく,ヴァーチにあるシラージ・デジェー戦争孤児学院へ試験を受けて入学.
1929年,ヴァーチの古典カトリックのギムナジウム(現在のヴァーチ敬虔派ギムナジウム&カレッジ)にて優秀な成績で卒業試験を終えた.
1929~34年,福祉省の援助の下,ヨージェフ・ナードル王立工科大学機械工学部に学ぶ.
研究と並行し,航空機の木工や金属加工といった,全国航空スポーツ協会の仕事も始めた.
A Műegyetemen kapcsolódott be az 1921-ben alapított Műegyetemi Sportrepülő
Egyesület (MSrE) munkájába, ahol addigra már több repülőgépet építettek.
1929-től 1935-ig az MsrE repülőgép-tervezője.
Rubik a Bánhidi Antal-féle Gerle sportrepülőgép tervezésében és építésében már fontos szerepet játszott, részt vett a tervrajzok elkészítésében.
Az MSrE-ben, jutalmul az egyesületben végzett munkájáért, 1930-tól motorospilóta-kiképzésre
javasolták.
Így a nyarakat egy Érd-közeli repülőtéren töltötte.
Megszervezte a műegyetemi vitorlázó csoportot, egyúttal Esztergomban ellenőrizte az ottani sportrepülő műhelyt.
1930 nyarán elsőfokú motoros pilótaképesítést szerzett.
工科大学関連施設として1921年に設立された工科設計大学(MSrE)の仕事として,幾つかの航空機を製作した.
1929年から1935年まで,彼はMSrEの航空設計技師だった.
MSrE――この団体では報われたことに,彼の仕事として発表された――において,彼の機は1930年からはエンジン機操縦士訓練用として奨められた.
そのため,彼は夏休みを近くの飛行場で過ごした.
大学では彼はグライダー・チームを組織し,と同時にエステルゴムでは同地のスポーツ機工房を監督した.
1930年夏には,エンジン機パイロット資格一級を取得.
1931 nyarán Lampich Árpád egyik gépének építésébe kapcsolódott be Budapesten, a Mester utcában.
A motorospilóta-vizsgát 1934-ben tette le, majd 1935 decemberében egy Hol's
der Teufel géppel vitorlázó C-vizsgát tett.
1935-től 1937-ig a Műegyetemen tanársegéd és mint műszaki ellenőr segítette az egész országban a vitorlázórepülés terjedését.
Ő alapozta meg a kétkormányos vitorlázógép-oktatást Magyarországon.
1936-ban Mitter Lajossal megalapította az Aero-Ever kft, vitorlázórepülőgép-gyártó
üzemet Esztergomban, amelynek vezetője, majd üzemigazgatója volt.
1936–37-ben tanársegéd is a Műegyetemen, és Anderlik Előd professzor munkatársaként segédkezett az aerodinamikai szélcsatorna létrehozásában.
1931年夏,ブダペシュト,メシュテル通りにあるラムピチ・アールパードの機械工場の一つに加わった.
1934年,エンジン機操縦士試験を受け,1935年12月にはHol's der Teufel機でのグライダーC級試験を受けた.
1935年から1937年まで彼は工科大学講師を務め,テクニカル・チェックマンのような者として,全国でのグライダー飛行の普及を推進した.
彼はハンガリーにおいて,2人乗りグライダーによる訓練を確立した.
1936年,彼はミッテル・ラヨシュと共に,エアロ・エヴェル株式会社を設立.
エステルゴムにあったグライダー生産工場の責任者,後に経営監督者を勤めた.
1936~37年は工科大学の助教授としても,アンデルリク・エレード教授の空力学風洞作成を補助した.
1944-től a második világháborúban alkalmazott repülőgép alkatrészeket gyártottak.
第二次大戦においては1944年以降,工場では航空機部品を製造.
Cégük 1949-es államosítása után különböző repülőgépgyárakban műszaki osztályvezetőként, főkonstruktőrként dolgozott.
S 1949-től 1951-ig az Országos Magyar Repülő Egyesület (OMRE) központi
tervezőirodájának a vezetője, emellett a BME meghívott előadója volt.
1957-ig csak faépítésű gépeket tervezett, a fémépítésű gépek területén teljesen új gyártási módszereket szabadalmaztatott.
1961–1967 között a Közlekedési és Postaügyi Minisztérium osztályvezető-helyettese,
majd 1971-ig a Malév műszaki tanácsadója volt, és emellett részt vett a
társadalmi szakegyesületek munkájában is.
Munkája elismeréseként 1963-ban Kossuth-díjjal tüntették ki.
1980-ban megkapta a Sport-érdemérem arany fokozatát, nyolcvanadik születésnapján
életműve elismeréseként a Magyar Köztársaság Zászlórendje kitüntetést,
1997. február 13-án hunyt el Budapesten.
2009-ben posztumusz Magyar Örökség-díjat.
1949年に会社が国有化された後,彼は様々な航空機工場で技術部長として,あるいは主任設計技師として働いた.
また,1949~51年,彼はハンガリー国立飛行協会中央設計局局長に就任し,さらにBME客員講師となった.
1957年までは木製機のみを設計していたが,金属製機のための完全に新しい生産方法の特許も取得.
1961~67年,運輸・郵便省の副部長を務め,その後,1971年まではマレーヴ Malév の技術顧問を務め,さらに専門職協会の活動にも参加していた.
1963年,その業績により,コッシュート賞を受賞.
1980年,彼はスポーツ章金章を受賞し,彼の18番目の作品の登場日には,ハンガリー共和国旗の名誉が捧げられた.
1997.2.13,ブダペシュトにて死去.
歿後の2009年,ハンガリー遺産賞受賞.
28 különböző típusú vitorlázó repülőgépet és 5 motoros repülőgépet tervezett
1935 és 1987 között.
Rubik tervezési elve a könnyű, egyszerűen gyártható klubrepülőgépek létrehozása
volt, melyeket az anyagilag kevésbé tehetős egyesületek is olcsón megvásárolhattak.
Műhelyükben készült többek között a híres Vöcsök iskola-vitorlázógép, amelyből
az évek folyamán hozzávetőleg 300 darabot gyártottak, továbbá a Tücsök,
a Pilis, valamint a Cimbora nevű gépek.
Gépeinek többsége – a híres Rubik-szabadalom szerint – alumíniumelemekből készült, ezért nagyon könnyű és egyszerűen gyártható volt.
Több ezer pilóta az R-26 Góbéval tanult meg repülni, amelyet a világ egyik legjobb iskolagépének tartottak, példányai még a 21. század első évtizedeiben is repülnek a hazai égbolton.
Kezdő pilóták százait oktatta saját tervezésű repülőgépein, köztük Göncz
Árpád későbbi köztársasági elnököt is.
Rubik Ernő és társai vállalkozása a magyar repülőiparban nagy jelentőségű,
mert megteremtette Magyarországon a motor nélküli repülőgépek sorozatgyártását,
ezáltal számos fiatalnak tette lehetővé a vitorlázórepülést, nagyszámú
magasan képzett szakembert nevelt ki, és a csúcsidőszakban 500 embernek
biztosított munkalehetőséget.
1935年から1987年までに彼が設計したものはグライダー28種,航空機5種に上っている.
ルビクのデザイン原則は,財政的余裕のないクラブでも安く購入することができ,軽量で使い易い飛行クラブ用飛行機を作ることだった,
工房で製作されたものの中で,とりわけ有名なのがヴェチェク学校のグライダーであり,トゥチェク,ピリシュ,チムボラなどと命名された機体が,長年にわたって約300機生産されてきた.
有名なルビク特許により,これらグライダーは殆どアルミ製だったので,非常に簡単に単純に組み立てることができた.
何千というパイロットがR-26「ゴーベ」で操縦を習ったが,この機体は世界最優秀の訓練用グライダーの一つとされており,たとえば21世紀初頭になってもまだハンガリーの空を飛んでいる.
何百人というパイロット初心者が彼によって設計された飛行機で教わったが,その中には後の共和国大統領ゲンツ・アールパードもいた.
ルビク・エレネーと彼の仲間の事業は,ハンガリー航空業界に大きな足跡を残し,ハンガリーにおいて無動力航空機生産を行うことにより,それによって多くの若者がグライダーを操縦することを可能にして多くの高度に訓練された専門職パイロットを教育すると共に,ピーク時には500人に雇用機会を提供した.
Nevét viseli Esztergomban egy füves repülőtér, amelyet elsősorban sportcélokra használnak, vitorlázó gépek és ejtőernyősök veszik igénybe.
主にグライダーやパラシュート降下といったスポーツ目的で使われる,エステルゴムにある飛行場が,彼の名にちなんで命名されている.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://cultura.hu/kultura/idosebb-rubik-erno-repulogep-tervei/
https://www.kemma.hu/hirek/helyi-hirek/egbe-irt-hostortenet-rubik-erno-es-magyar-repules-910781/
http://fmmk.hu/mernokokfejerben/imapbuilder/RubikE.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=XR1uvCXPqaE
https://www.youtube.com/watch?v=8aB6imSfMig
mixi, 2018.3.1
【質問 kérdés】
ルビク・エルネーが設計した航空機は?
Melyik repülőgépet Rubik Ernő tervezte?
【回答 válasz】
●Vitorlázó repülőgépek
グライダー
M–20, 別名R–01
R–03 Szittya I
R–04 Szittya II
R–10 Szittya III
R–07a Tücsök
R–07b Vöcsök
R–08 Pilis
R–11 Cimbora
R–12 Kevély
R–15 Koma
R–16 Lepke
R–17 Móka
R–21 (katonai szállító vitorlázó repülőgép 軍用輸送グライダー)
R–22 Futár
R–22S Június 18.
R–23 Gébics
R–24 Bibic (a prototípus csak részben készült el 試作機が一部分作られたのみ)
R–25 Mokány
R–253
E–31 Esztergom (R–254)
R–26S Góbé
R–27 Kópé
R–31 Dupla
●Motoros repülőgépek
エンジン機
M–19 (R–02)
R–14 Pinty
R–18 Kánya
R–32 (ultrakönnyű repülőgép 超軽量機)
2018.3.2
【質問 kérdés】
R-11 グライダーについて教えてください.
Kérem, mondja meg az R-11 vitorlázó repülőgépről.
【回答 válasz】
R-11は2人乗りの練習用グライダー.
1939年に工科大学から発注されたもので,ロッテル・ラヨシュ Rotter Lajos によって仕様が決定され,ルビク・エレネーが設計.
1940年5月に初飛行した.
翼は上翼単葉で,N字型の鋼管フレームによって支えられている.
機体は合板製.
約50機がエステルゴム Esztergom のアエロ・エヴェル Aero Ever によって,また,12機がトランシルヴァニア,ナジヴァーラド
Nagyvárad (現オラデア Oradea)の飛行機工場によって製作された.
これら量産型にはR-11a, R-11b, R-11b1といったヴァリエーションが存在するが,識別点は不明.
R-11bには「Cimbora(友人)」という愛称がついていた.
R-11bは戦後も使用され,1950年には20時間44分の長時間飛行記録を達成している.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://gliders-fega.freeweb.hu/cimbora.html ※三面図引用元
https://doksi.hu/get.php?order=DisplayPreview&lid=2101&p=6
https://www.j2mcl-planeurs.net/dbj2mcl/planeurs-machines/planeur-fiche_0int.php?code=1104
https://www.youtube.com/watch?v=T2tYH0EHTfE
mixi, 2018.3.4
【質問 kérdés】
R-21グライダーについて教えてください.
Kérem, mondja meg az R-21 vitorlázó repülőgépről.
【回答 válasz】
Az R–21 magyar katonai szállító vitorlázó repülőgép, melyet Rubik Ernő
tervezett az 1940-es évek elején.
R-21は1940年代初期にルビク・エルネーによって設計された,ハンガリー軍の輸送グライダー.
A Magyar Királyi Honvéd Légierő 1942-ben írt ki pályázatot szállító vitorlázó
repülőgépek gyártására, miközben a légierőnél Pápán megkezdték a vitorlázó
repülőgépes alakulatok szervezését és a pilóták kiképzését.
A légierő pályázatára a Repülő Műszaki Intézet (RMI) az RMI–10 (X/S) jelzésű
gép terveit készítette el, míg az esztergomi Aero Evernél Rubik Ernő az
R–21 jelzésű, 15 fő befogadására alkalmas gép tervezésébe kezdett.
A Magyar Királyi Honvéd Légierő öt darab szállító vitorlázógépet rendelt
az Aero Evertől.
A gépek építését 1943-ban kezdték el, a tervezése és az építés párhuzamosan
folyt Esztergomban.
1942年,ハンガリー王国空軍は輸送グライダー生産について試作競作させることを発表し,同時に空軍首脳部ではグライダー部隊編成とパイロット訓練を開始.
空軍の試作競作により,航空技術研究所(RMI)はRMI–10 (X/S)型の設計を用意し,一方,エステルゴムのアエロ・エヴェルではルビク・エレネーが,15名乗り組み可能なR-21型グライダーの設計を開始した.
ハンガリー王国空軍はアエロ・エヴェルに5機の輸送グライダーを発注.
1943年,エステルゴムにおいて,設計と並行して機体製作が始まった.
Teljesen faszerkezetű vitorlázó repülőgép.
A vitorlázógép vontatását Me 210-es gépekkel tervezték.
A kéttörzsű-hátsórész kialakításnak.
A törzsközép négyzet keresztmetszetű, ehhez a konténer kialakítású részhez
csatlakozott a kéttörzsű elrendezésű törzs-hátsórész, melyhez osztott függőleges
vezérsíkok csatlakoztak.
A törzsközép hátsó része két felfelé és lefelé nyitható volt a teher rakodásához.
A felfele nyíló rész a levegőben is nyitható volt a teher kidobásához, míg az ejtőernyősök az oldalajtót is használhatták az ugráskor.
A gép 10–15 katona, vagy kb. 2 tonna teher szállítására lett volna alkalmas.
A számított adatok szerint 3000 kg-os felszálló tömeggel kb. az 5000 m
magasra vontatott gép kb. 80 km-t tudott volna siklásban megtenni.
A gép leszálláshoz csúszótalpakkal rendelkezett, a földön történő mozgatáshoz kerekekkel lehetett volna felszerelni.
グライダーは全木製.
Me-210によって牽引されるよう設定されていた.
機体後部は双胴の設計.
胴体中央の断面は正方形で,兵員輸送区画は2か所で機体後部と接合されている設計となっており,分割面は垂直に接合されている.
輸送区画は後部が上下に開き,そこから積載/搭乗する.
上側ハッチは飛行中にも開くことができ,積載物を空中投下できたが,空挺隊員はパラシュート降下の際にはサイド・ドアを使うこともできた.
このグライダーには兵士10~15人,または貨物約2tを搭載できるようになっていた.
計画値では離陸時重量3000kgで高度5000mを80km/hで牽引されることになっていた.
この機は降着装置としてはスキッドを装備していたが,地上で車輪を装備することも可能だった.
Több példány építése folyt, egy géptörzs és a szárnyak befejezés előtti
állapotban (80%-kos készültségi állapotban) voltak, amikor a háborús események
folyamán a gyárat a szovjet csapatok elfoglalták.
A gépekhez elkészített részegységeket később, 1946-ban más vitorlázó repülőgépekhez
használták fel.
幾つか試作が行われ,機体胴体と翼は製造中(80%完成状態)だったところを,戦争中に工場をソ連軍に占領された.
準備済みの部品は1946年,他のグライダーに使用されたという.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://harmashatarhegy.hupont.hu/66/rubik-erno-repulogepei
https://hu.wikipedia.org/wiki/Rubik_R%E2%80%9321
http://richard.ferriere.free.fr/3vues/R-3vues.html ※faq180309rb2 引用元
http://harmashatarhegy.hupont.hu/66/rubik-erno-repulogepei ※faq180309rb1
& 3 引用元
1枚目:R-21模型
(図表番号faq180309rb)
2枚目:三面図
(図表番号faq180309rb2)
3枚目:図面の一部
(図表番号faq180309rb3)
mixi, 2018.3.9
【質問 kérdés】
第二次大戦中,ハンガリー軍が保有していたドローンについて教えてください.
Kérem, mondja meg az drone, amit bírt a Honvédség a második világháborúban.
【回答 válasz】
第一次大戦中,ハンガリーが世界で初めて実用ヘリコプターを開発・運用していたことは,あまり知られていない.
PKZ-2という名のそれは,1918年4月,観測という軍務に初めて就いた.
https://www.youtube.com/watch?v=yqiEoDPMRnw
第一次大戦後,このヘリはイタリア軍に接収されたが,技術者はハンガリーに残った.
アシュボト・オスカール Asboth Oszkár はヘリコプターの研究を続け,1920年,彼にとって最初のヘリを完成させた.
だが当時,トリアノン条約の枷によって,ハンガリーは軍備を厳しく制限されていた.
アシュボトのヘリも,協商国軍統制委員会の命令によって破壊されてしまう.
彼が次に試作機を飛ばすことができたのは,1928年になってからのことになる.
PKZ-2を基にしたその試作機は,1930年までの間に150回以上の飛行成功をおさめた.
https://www.youtube.com/watch?v=_c382hxGQVI
しかし,当時のハンガリー軍はまだ再軍備宣言前であったので,それを採用するわけにはいかない.
アシュボトは英国に移住して同国やフランスに会社を作り,1938年,英軍への売り込みに成功した.
皮肉にもその同じ頃,ハンガリーは再軍備を宣言した.
とはいえ,軍事費に乏しいハンガリーが,そうやすやすとヘリを導入できるわけがない.
そこでハンガリー軍が考えたのが,安価な超小型無人ドローンの開発だった.
ドローンの開発自体は既に先の大戦末期,PKZ-2無人機型を開発していたので,技術的にはそう難しいことではない.
1941年にハンガリーに帰国したアシュボトは,同年のうちにそれを作り上げ,41.M飛行爆弾 Repülő bomba として制式採用された.
名前が示す通り,これは無人爆撃機だった.
遮蔽物の向こう側にいる敵や,塹壕に籠る敵のところへ,このドローンを飛ばし,ドローン諸とも敵を爆破するためのもの.
爆弾は楕円球形の機体にしまい込むことができるようになっており,5kgまでの爆発物なら何でも搭載出来た.
前線ではしばしば手榴弾を集めてこのドローンに載せることが行われた.
全高は1.02m.
爆弾を除くと,自重は6.3kgしかなく,幾つかのパーツに分解すれば,歩兵でも携行可能だった.
第二次大戦勃発当時,ドローンは主として歩兵連隊付属の工兵小隊に,3~5機が配備されていた.
とはいえ,それは一線級の師団8個にあっただけで,後備師団には配備されていなかった.
また,空軍や水軍には配備されなかった.
独ソ戦にハンガリー軍第2軍が投入されると,ドローンは初めて実戦を経験した.
強力なソ連軍を前にして苦戦するハンガリー軍は,たちまち手持ちの全機を使い果たした.
対戦車火力の貧弱なハンガリー軍は,T-34戦車の頭上にドローンを飛ばし,後部エンジンルームを狙って爆撃することも試みたが,この戦術はあまり成功はしなかったらしい.
追加生産も検討されたが,そんなおもちゃみたいな兵器より優先して生産すべきものが,ハンガリー軍には沢山あった.
アシュボトのドローンのお仕事は,そこでしまいとなった.
アシュボトは大戦を生き延び,ラーコシの時代に投獄されたり釈放されたりしながら,回転翼についての研究を続けた.
彼の業績は高く評価され,ハンガリー国内外で賞を授与された.
1969年,彼はブダペシュトにて死去したという.
【参考ページ】
http://www.aviastar.org/helicopters_eng/petroczy.php
http://modelingmadness.com/review/w1/austrian/fosterpkz.htm
http://www.feltalaloink.hu/tudosok/asbothoszkar/html/asboszindex.htm
2017.4.1
注意! この項はエイプリル・フールのネタです
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