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(画像掲示板より引用)
「2ch.軍事板」◆ドイツ空軍 ←レス回収済
『図説ドイツ空軍全史』(学研,2007.6)
【質問】
WWIIのドイツ空軍について,編成,作戦,機体開発史等について一通り記述された,通史的な本を読んでみたいと思っています.
学研M文庫の以下の2冊
サミュエル・W・ミッチャム著『ヒットラーと鉄十字の鷲 WWIIドイツ空軍戦記 MEN
OF THE LUFTWAFFE』
ウィリアムソン・マーレイ著『ドイツ空軍全史』
あたりが良さそうかな?と思っているのですが,他にお勧めはありますか?
副読本的な図版の多いMOOKなどもご推薦いただければありがたいです.
【回答】
ドイツ空軍のムックや簡単な通史なら
サンケイ赤本No19「ドイツ空軍 ヨーロッパ上空,敵機なし」アルフレッド・プライス
学研WW2 No26 「ドイツ空軍全史」
学研WW2 決定版「ヨーロッパ航空戦大全」
あたりどうでしょう?
ちょっと赤本は入手難度高めっぽですが・・・
Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツ陸軍航空隊,あるいはドイツ空軍の用語集の類(独英併記希望)はありませんでしょうか?
つまり「A DICTIONARY OF RAF SLANG」の独版というか.
あるいは,スラングとはいえない基本的な部内略号,敵味方不明機=Bogey,敵機=Bandit 高度=Angel 等の独版というか.
http://ime.nu/www.ordersofbattle.darkscape.net/site/ww2/drleo/011_germany/_abbr-air.html
はご紹介いただいたのですが,もそっと詳しいものが希望です.
【回答】
Glossar+Luftwaffe検索であっさり出たぞ.
http://en.wikipedia.org/wiki/Glossary_of_German_military_terms
あと,External linksの
Luftarchiv.de List of Luftwaffe abbreviations
にもかなりある.
――――――
References
Andrew, Stephen; Thomas, Nigel; The German Army 1939-45: Blitzkrieg. Osprey Publishing Lt., 1999.
Bidermann, Gottlob Herbert. In Deadly Combat: A German Soldier's Memoir of the Eastern Front. Kansas, University Press of Kansas. (2001): ISBN 0-7006-1122-3.
Rottman, Gordon L. "FUBAR: Soldier Slang of World War II". London, Osprey Publishing. (2007): ISBN 978-1-84603-175-5. (Contains German slang chapter.)
Sajer, Guy; The Forgotten Soldier. Brassey's Inc. (2001): ISBN 1-57488-286-4. Excellent, personal telling of a regular German soldier's experience of the Eastern Front in World War II.
Shirer, William; The Rise and Fall of the Third Reich. Simon & Schuster. (1990): ISBN 0-671-72868-7.
――――――
これらの書籍をAmazon.deで検索して,関連で出てくる書籍も漁ればOK.
小説家か漫画家か知らないが,あとは頑張れ.
いい本見つけたら,ここに報告な.
軍事板,2011/04/15(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツの航空機産業は第1次大戦後,どのように育成されたのですか?
【回答】
ドイツの場合,航空機産業の整備に関して,国は,利潤を得る部分までは民間主導で,それを越えて企業にとって過度の負担になる部分は国家が介入すると言う概念を持っていました.
ただ,理念はご立派なのですが,実際には戦時にどれくらいの航空機が必要なのか,国として明確に示さず,また,航空機禁止の影響もあって,企業体も中々発展せず,再軍備初期の頃は軍民共に試行錯誤の日々でした.
しかしながら,1930年代後半には,Dornier,Heinkel,Junkers,そしてB.F.Wの様な基幹となる航空機会社が整備され,造船,車輌工業の航空機産業への進出と,自動車会社,工作機械会社の発動機産業への進出が図られます.
また,戦時生産の為,各航空機会社が平時に予め工場を建設する訳ですが,この配分は,戦時に主要機械工場を2交代制として操業する場合,各組立工場は1交代制の完全操業が出来る釣合で整備されました.
更に戦時生産に移行する場合,既存工場の2交代制実施の他,下記の方法が採られました.
(1) 戦時遊休機械工場を下請工場としてそれぞれ航空機製作所に配当,組合せ,その組立工場を2交代制の操業とする.
(2) 空軍部隊が国外の前線に移動したことで,不要となった国内飛行場の格納庫,商品見本市会場を組立工場とし,戦時遊休機械工場と組み合わせて生産単位を作り上げる.
(3) 紡績工場,砂糖工場,家具工場を航空機産業に転業させる.
(4) 航空機会社の創設.
こうした施策は,戦前の内に軍需監督庁が計画し,動員時の図面供給条件などを予め通告した上,軍需転換に要する動員日課予定表を該当工場に作成させて,労力,資材の配給を準備させたり,製作転換を必要とする工場については,資材充足計画を作成させて,労力,エネルギー,治具,原料,半製品,部品などの所要量を申告させ,その配給を準備したり,治具関係は,工作機械類の動員注文計画,不要機械類の相互融通計画を策定したりしています.
また,製作転換をする企業については,予め教育注文を出した上で,治具類を準備させる場合もありますし,官の側でもそう言ったものを準備しておくケースもありました.
但し,官の準備は,製作困難な軍需専用のものに限られています.
この治具類整備に関しては,開戦後は海外から押収した機材の転用というのも行われ,生産拡張に寄与している訳です.
一方,他業種から航空機産業への進出の例には二つのケースがありました.
一つは,最初から簡単な完成機を独力で製作して,次第に高性能機に進む場合.
もう一つは,部品工場として指導を開始し,逐次完成機を独力製作出来るようにする場合です.
前者の例は,Henschelです.
鉄道車輌メーカーだった同社は,1936年にJunkersの指導で航空機産業に進出しますが,JunkersはHenschelに対し,小型機の設計,開発,生産についての助言を与え,1937年には完全独立を果たしました.
後者の例は,Blohm&VossとA.T.G.です.
前者は造船所,後者は鉱山用運搬機材などの製造会社でしたが,両社とも1934年にJunkersの分工場としての指導を受け,まず,B&Vは,Junkersの機体の胴体後半と操舵部分を生産,A.T.G.は,主翼の生産を行い,Junkersは残部の生産と最終組立を行っていました.
両社ともに,Junkersの製作転換指導部から熟練工,技術者の派遣を受けたり,B&VやA.T.G.から技術者,熟練工を受入れて教育したり,治具,工具,検査具を分与したり,あまつさえ一部の社員を転籍させたりしています.
こうして,数年の指導で,両社とも航空機会社として独立出来る状態になった訳で.
同じ総動員と言いつつ,何処かの国の泥縄式生産体制とは大違いです.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
ドイツ航空機産業の資金は,どのように調達されたのですか?
【回答】
ドイツの場合,1920年代から30年代に掛けて,隠れ軍備増強をする際の資金としては,メフォ手形というのを用いてやっていました.
とは言え,財政的には国が出している様な居ない様な,何とも曖昧なもので,一種空手形と言っても過言ではありません.
こうした手形金融が積み重なった結果,1937年頃には財政運営が二進も三進も行かなくなり,Austriaを併合してその資産によって漸く一息つく,足りなくなったら,Czechを併合してその資産で一息…という際限のない自転車操業になっています.
でもって,同じ手口でPolandを併合してその資産を使おうとしたら第二次大戦になった訳で.
で,航空機産業の拡張については,その資金をどうするかが問題になりました.
その方策としては,一に国家が直接支払うが,その支払時期を何年か引き延ばす,二に銀行にクレジットを付与し,国がそのクレジットの保証を行い,企業は,そのクレジットを長期返済させる,のいずれかの手がありますが,ドイツの場合は後者を用いています.
これは航空機購入の資金の方が既に国家にとって過大で,これに加えて生産設備も,となると,財政破綻を来す恐れがあったからです.
そこで,後者の方法として,国家が90%まで返済を保証したライヒス・クレジットを設定し,この保証契約に基づいて市中銀行が直接航空機会社にクレジットを与えるか,もう一つはこの航空機産業専門の銀行を介して,クレジットを与えるかしたものが考え出されました.
この航空機製作所建設資金のクレジットは短期で6〜8年,長期で25年に渡り,利息も普通のクレジットが年利5分のところ,このクレジットでは年利3分5厘と極めて低く設定しています.
ちなみに,この種クレジットで建設された製作所のうち,3分の1が1941年末までにこれら資金の返済を完了していたりします.
このクレジットを扱った航空機産業専門の銀行が,ドイツ航空銀行と言い,1935年3月29日,頭取に太っちょHermann
Wilhelm Goering航空大臣兼空軍長官が就任し,資本金7000万マルクで航空取引銀行有限責任会社という銀行名で設立されました.
この金融機関は,1940年7月6日にドイツ航空銀行株式会社に組織変更し,資本関係はライヒス・クレジット銀行会社とのみ提携していました.
その業務は,金融から,航空に関する財政管理業務の他,航空関係企業の管理,金融,監査,信託業務の処理などを担当し,航空関係産業への経営参画も行う一大コンツェルンになっています.
子会社としては,航空機の補用品調達配給機関である,航空需要会社を経営し,傘下に,フランスの銀行と提携して,その投資下にフランス航空銀行を設立したほか,オランダに於ても,ルイテンランド銀行に資本参加してそれを傘下に加えています.
さて,拡張資金の他,企業を経営するには運転資金も必要です.
ドイツ航空機産業の発注形式は1.5年の仕事を一括契約するのが普通です.
但し,その代金のうち,30%が最初に材料費として支払われ,製品がそれぞれ完成して検査官に支払われる時点で,残りの70%の代金から該当分が分割で支払われる形になっています.
ただ,それは現金で引き渡されることは無く,その注文時に軍が注文価格に相当する軍債務証券を交付します.
会社は所要に応じて,これを逐次銀行に提出して3〜3.5%で割引を実施し,事業資金とすることになっていました.
1942年中期からは,勝ち戦のお陰で企業の手元資金が潤沢に成ってきたことから証券の交付は廃止となり,また,前渡金制度も廃止されました.
1942年10月1日以後,軍需産業が銀行に対してクレジットを得る場合は,軍から発注の証書として交付された注文確認書を担保とすることになりました.
支払いについては,注文確認書の所有者に行われることになります.
このクレジットの形式は一般金融と全く同じものと看做されます.
また,銀行が注文確認書を該当企業の担保として持つのが不安な場合は,軍に対してその注文額の30%以内で欠損保証を要求することが出来ますが,銀行はそのクレジットの1%を軍に納入する必要がありました.
これでも受注会社が所要のクレジットを得ることが不可能である場合は,軍が軍債務証券または不足金額への前渡し金を交付することが出来ました.
これによって,どんなに小さな会社でも,軍の仕事をする場合には,銀行の保証,または軍の保証を得ることが出来た訳です.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
メッサーシュミットのMeとBfの違いはなんでしょうか? どちらが一般的なんですか?
【回答】
元々,バイエルン航空機製造会社という社名だったのを,メッサーシュミット社に改称した際,機体符号もBfからMeに変更された.
ただし,すでに空軍に正式採用された機体については,改名の手続きはとられなかったので,
Bf110以前の機体は,機体符号はBfのまま.
現場では,メッサーシュミット社の機体はすべてMe××と呼ぶことが多かった.
【質問】
ドイツ空軍の編成はどういったものだったのでしょうか?
2機をロッテ,2個ロッテをシュヴァルムといった編成だったというのを読んだことがあるのですが,小隊,中隊はどういった編成だったのか解らなくて.
ドイツ防空戦のころの編成が知りたいのです.
【回答】
戦闘航空団(ゲシュヴァーダー)
│
├第一飛行大隊(グルッペ)
│ ├第一中隊 12機(シュタッフェル)
│ │ ├第1小隊 4機(シュバルム)
│ │ │ ├2機(ロッテ)
│ │ │ └2機
│ │ │
│ │ ├第2小隊 4機
│ │ └第3小隊 4機
│ │
│ ├第二中隊 12機
│ ├第三中隊 12機
│ └本部小隊 4機
│
├─第ニ飛行大隊
│ ├第四中隊 12機
│ ├第五中隊 12機
│ ├第六中隊 12機
│ └本部小隊 4機
│
├─第三飛行大隊
│ ├第七中隊 12機
│ ├第八中隊 12機
│ ├第九中隊 12機
│ └本部小隊 4機
│
└─本部小隊 4機
【質問】
第二次世界大戦時のドイツの航空機の燃料のオクタン価ってどれくらいだったんでしょうか?
【回答】
87オクタンのB4ガソリンと96オクタンのC3ガソリンの二種類です.
エンジンによって違ったりするんで,燃料注入口に燃料の種類を示すステンシルが貼ってあります.
The Luftwaffe page , Daimler-Benz DB 605
>".... The germans had to make do
with 87, 92 or 96 octane,
>the higher grade fuels being especially
scarce. ..."
Fuels & Fluids Used By Germany
>Aviation Gasoline
>Grade A 3 - Light blue color. Rated at
80 octane.
>Grade B 4 - Dark blue color. Rated at
87 octane.
>Grade C 3 - Dark green color. Rated at
100 octane.
How the Luftwaffe Lost the Battle of Britain
>"both the Luftwaffe and the RAF
were using 87 octane aviation fuel. "
FUEL CAT - save money, lower emissions -
petrol, diesel, gas and oil.
>"The Germans eventually produced
96 octane petrol for the Luftwaffe,
>but evidently not the highly aromatic
type. "
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
WWU時のドイツの都市防空システムとか高射砲の活躍とか運用とかを知りたいのですが,手に入りやすくいい本はないでしょうか?
学研M文庫「ドイツ空軍全史」と,光人社NF文庫「ドイツ軍の火砲」は読みました.
【回答】
「ドイツ夜間防空戦」(W・ヨーネン)に,防空システムの運用についての記述が,断片的ながらある.
タイトルで分かるように,あくまで夜間戦闘機メインの話なので,おまいさんの役に立つかどうかは分からん.
とりあえず書店で立ち読みしてみるといい.
ちなみに,昔は朝日ソノラマから出てたが,今は光人社NF.
軍事板,2009/07/01(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦争末期のドイツ空軍の防空体制について教えてください.
【回答】
ドイツの場合,昼間戦闘機隊の防空は,外郭防空と本国防空に分けられます.
但し,外郭防空線(ドイツの外側国境線からオランダ,ベルギーを経てブレストに向かう線)の1000kmに配備されている戦闘機は単座戦闘機3個連隊,複座戦闘機1個連隊で,合計640機だけ,
これが,沿岸航行船舶護衛任務にも機体を割いたので,更に防空戦闘に投入出来る機体は減ります.
此処で,爆撃機は戦闘機の迎撃を受けますが,この時,ドイツ側は空対空ロケット弾攻撃を行います.
一方の連合国側は此処まで護衛戦闘機を付けることが出来ますので,これの撃墜を目指します.
突破を図ったドイツ側は,緊密な編隊を組む敵爆撃機にロケット弾攻撃を行った後,分解した編隊に対し,30mm砲による攻撃を行うことになります.
外郭防衛線は,1941年までは機能しますが,42〜43年になると劣勢になり,44年後期には崩壊します.
本国防衛線についても,戦闘機42個中隊を配備する予定でしたが,Hitlerの同意を得られず,不十分なまま本格空襲を受けることになります(つまり,空襲が本格化しても外郭の限られた兵力だけを用いていた).
ちなみに,戦闘機一個連隊当たりの年間戦死者と定員数の比率を見てみると,1942年以前は40〜50%で,1年を通じてもある程度の操縦士が生き残っていたのに対し,1943年には100%近くに達し,1年でほぼ顔ぶれが入れ替わる状況,1944年になると,250%,場合によっては300%に達しています.
新規補充員は,年間150時間に満たない飛行時間で,出動10回までに消えました.
高射砲では,B-17やB-24でも苦労しています.
88mm以上の重高射砲は,1943年に本国に1,234個中隊(1個中隊の砲台式の場合は12〜24門で編成),1944年に1,508個中隊編成されていますが,数百機侵入の場合の撃墜率は最良の場合は,5〜6%,平均で2〜3%です.
砲弾の消費量は,1機撃墜当たり平均2,500発で,88mmの場合は,1ヶ月317万発になっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/11/23(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
質問なのですが,第二次大戦後半の独空軍の弱体化は,燃料施設や工場の爆撃等の他にどのような理由があったんでしょうか?
【回答】
工場や空軍基地を爆撃した際,迎撃してくる独空軍機を護衛機で撃墜.
連合軍はこれをネチネチと繰り返したおかげで,独空軍はノルマンディーの際まともに行動できなかった.D-Day当日に出撃したのはプリラーともう一人だけ.
地上にいる航空機も機銃掃射できるようになるほどの航空優勢を,連合側が西部戦線で獲得した.
それまでは,その日はどの手を使ってくるのか分かるような作戦を,連合側は繰り返し行っているだけだった.
Bf-109以後の新型戦闘機の開発がメッサーシュミット社内で混迷に陥っていた.
フォッケウルフはあるけども.エースが疲弊して戦死,若手の育成に手が回らない.
主たる敵であるソヴィエト空軍の復活.クルスクのときのように航空優勢を東部で獲得できなくなった.
【質問】
大戦中のパイロットの育成に関し,アメリカは環境・設備がよかったのに対して,日本は環境が悪く,航空戦力の弱体化に拍車をかけたとか言われますが,ドイツの場合はどうだったんでしょうか?
【回答】
ドイツの場合は,1942年まではDenmarkを基地に,滅多に空襲のない状態で,十分な訓練が行えましたが,連合軍のItaly上陸後は,満足な訓練が行えず,急速に戦死者が増加.
実戦部隊は定員割れを起こしたため,訓練未了な状況で実戦部隊に送り出さざるを得ず,1945年には飛行時間150時間で送り出す有様.
なので,新規補充隊員は,出動10回に耐える者は殆ど無かったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/25(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヒトラーが空軍を解体しようとしたって本当ですか?
【回答】
大戦末期の話.
燃料が逼迫した状況下で,半ば逆ギレの形でヒトラーがそう言い出したらしい.
以下,デイヴィッド・アーヴィング「ヒトラーの戦争」より.
――――――
クライペ将軍が9月3日,燃料状況について――すべての爆撃機および一部の戦闘機と急降下爆撃機の作戦を切り詰めなければならないほど,いまは深刻であると――説明したあとで,ヒトラーは
「空軍をすっかり解体して,対空火砲を3倍にすることを考えている」
と述べ,空軍参謀総長をたまげさせた.
ゲーリングが5日,“狼の巣”に恐る恐る再び姿をみせると,ヒトラーは空軍攻撃を繰り返した.
クライベの日記はこう記録している―
総統がまずしゃべった.
空軍非難の長広舌,
空軍は全然よくない,
年ごとに悪くなる,
生産数字と航空機の性能についても,ずっと嘘をつかれた,
フランスにおける完全な崩壊,
地上員と無線部隊は陸軍の戦闘を援けようとしないで,命からがら飛行場を捨ててあわてふためいて逃げ出した,と.
Me262の件が再び議論になった.
なんで「高速爆撃機」しか考えられないかについての同じ議論,
将来はMe262だけ生産するとともに,対空火砲を三倍にする考えを前より穏やかな形で再び展開.
・・・・・・わが方の戦闘機の設計はみな間違っている,
四発爆撃機と闘うのに必要なのは,大口径の機関砲を備えた双発の重戦闘機である,
全国元帥の要求で,戦闘機中隊を指揮している〔ハンス・〕ベーム=テッテルバッハが呼び入れられた.
経験から彼は,戦闘機に護衛された重戦闘機でさえも,重爆撃機と闘う最善の方法でないと説明した.
ベーム=テッテルバッハは乱暴に退去を命ぜられた.
――――――
ただ,アーヴィング・ソースなので,クロス・チェックは必須.
事板,2002/08/08
青文字:加筆改修部分
【質問】
WW2で敗戦国となった独逸からは,航空機の技術は一切合財無くなってしまったのでしょうか?
同じ敗戦国である日本は,練習機とはいえ航空機を自主開発したわけですが,独逸の方ではそのような事例を聞いた事が無く,不思議に思っていたのですが.
単に開発する必要がなかったという事だったりするんでしょうか?
【回答】
ドイツも日本と同じように,戦後の一時期航空機の開発を禁じられていた.
この間,Dornierがまずスペインで再起し,子会社を設立して,スペイン空軍向けの汎用機Do-25を開発する.
1954年に西ドイツに移転して軽輸送機,大型輸送機,VTOL機の開発を行い,1972年12月22日,Daimler-Benzの傘下に入り,1989年5月19日にDeutche
Aerospace(DASA)に参加する.
なお,Dornierのスイス支社は,1948年にFFA(Flug-und
Fahrzeugwerke AG)となり,軽飛行機を主に製造してきたが,後にドイツに設立された,Flugzeug
und Faserverbund Technologie(FFT)に開発が引き継がれている.
余談ながら,Dornier博士の長男が,1982年にDornier
Compositeと言う新会社として立ち上げて飛行艇を開発していたりするが,1990年に頓挫.
Focke-Wolfは,クルト・タンクが国外に去った後,1951年に復活.
イタリアの軽飛行機,Piaggio P.149を製作し,糊口を凌いだ後,VAKと社名変更.
後に,1963年に1956年にSIATから抜けたWeser(第一次大戦後,飛行艇を製作していたRohrbachの後身で,第二次大戦中はBf-109を下請生産していた)と合併し,VFWとなってTransall
C.160やSicorsky S-65を生産.
1964年にHeinkelも参加.
1968年にRFBを傘下に,Henschel(戦後は一旦航空機製造を中止し,1955年航空機製造を復活)の航空機部門を吸収し,翌年Fokkerと合併し,VFW-Fockerとなり,1981年にMBBの傘下に入る.
タンク博士自身はアルゼンチン,インドなどでジェット戦闘機の開発に従事.
Klemmは残り,相変わらず軽飛行機を製造するが,1957年にBoelkow-Entwicklungenに吸収される.
ちなみに,Boelkowは1947年に航空機設計事務所として設立され,1948年にDeutsche
Flugzeugとなり,Boelkowに改称され,1968年10月31日にMesserschmittの傘下に入る.
Blohm & Vossは,1955年にBlohm &
Vossの子会社Hamburger Fahrzeugbau GmbHとして再び発足し,戦後,西ドイツでフランス製のNord
Noratlas輸送機の国産化を行い,再び,Blohm
& Vossに社名変更.
1969年5月14日に,Messerschmitt-Boelkowと合併して,Messerschmitt-Boelkow-Blohm(MBB)を構成する.
Heinkelは,1950年にErnst Heinkel Fahrtzeugbauとして復活し,一時期自動車製造を行った後,1955年にErnst
Heinkel Flugzeugbauに改称.
Fouga CM-170 Magister練習機の国産化に着手,その発展型CM191を開発したが,1964年にVFWに参加する.
Messerschmittも同じく,自動車製造に参入すると同時に,1951年にスペインのHispano
Aviation内に事務所を構え,同国向けの戦闘機,練習機を設計,またアラブ連合の航空機産業育成に参画.
1955年に本国に戻った後,翌1956年,Fouga
CM-170 Magister練習機の国産化のために,Heinkelと共同で,Flugzeug-Union
Sudを設立,1958年にはG.91Rの生産のためにDornierも含めて,Arbeitsgemeinschaft(ARGE)になり,国産航空機の製作のため,Henschelの一部,Heinkelの一部,Siebelと共同で,Entwicklungsring(EWR)となり,1965年にはJunkersを買収.
また,この体制でF-104Gのライセンス生産を実施.
Messerschmitt自体は,1968年にBoelkowと合併し,1969年5月にBlohm&Vossと合併してMBBとなり,1989年にDASAに参加,また,回転翼機部門は1992年にEurocopterに参加する.
Siebelは,政府の要請で,1952年にKlemmとSaaleのフランス領からの移転に伴い,これを吸収.
更に,第一次大戦前からの名門メーカーAlgemeine-Transport-Anlagen
GmbH(ATG:HalberstadtC.V,Rumpler C.VIIなどを製造)と合併し,軽飛行機メーカー,Siebelwerke-ATG
GmbH(SIAT)として存続 .
1955年にKlemmは離脱,1968年にMBBの子会社となり,72年頃吸収.
Buckerは1960年代にCanary Aeroとして復活し,1967年に,Bucker
Aero Technikとなる.
なお,Junkersは,東ドイツに工場があった関係で生産設備が殆ど接収されたが,1954年にVEBと言う国営航空機工場がそれを母体に設立され,Il-14の生産の他,Jumo112を基にした国産ジェットエンジンを用いたジェット旅客機を試作をしている.
1991年に,Elbe Flugzeugwerkeとなり,Deutsche
Aerospace Airbusに吸収された.
会社組織としてのJunkersは下請程度の存在であり,1965年にMBB傘下となり,1975年に消滅.
また,エンジンの分野では,BMWの技術者達が,フランスのSNECMAのために,ATAR101を開発し,ユンカースの技術者は,スペイン,次いでエジプトに流れて,クルト・タンクが設計した戦闘機用のエンジンを開発すると共に,VEBに残された資料を基に,東ドイツでジェットエンジンの開発を続けたものもあった.
資料は,
http://www.worldairforces.com/Companies/Companies.html
が主ですが(此処は結構充実していて,メーカースレの基になっていました…秋になれば復活予定だけんど…メーカースレ),他の資料は,Jane's
All The World Aircraft,航空情報世界航空機年鑑1959〜1972年版です.
【質問】
ハインリッヒ・フォッケとは?
【回答】
1890年に北ドイツブレーメンで生まれる.
ハノーヴァーでグライダーの製造などを手がけ,1911年にゲオルグ=ウルフと出会い,モーターグライダーの製造や設計を手がける.
1914年からの第一次大戦中の兵役期間をへて,戦後1920年学位を取得,
1923年にはウルフ,ヴェルナー=ノイマンら3人で,フォッケウルフ航空機製造会社を創業する.
しかし,ウルフが1927年にエンテ翼機の試験中に事故死すると,その翌々年の世界恐慌もあって,社業は急速に傾き,1930年,ついに会社はアルバトロスに吸収合併されてしまう.
1930年代,オートジャイロのライセンス生産を通じて,回転翼機に興味を移したフォッケは,最初の実用ヘリFW61を製造するなど,社業の方向転換をはかったが,固定翼小型機(戦闘機)の製造をメインとしたい出資者と対立,
1936年,ついに自分の会社から追放された.
時に,ヒトラー政権登場により,軍拡ブームが喧伝されていた中での出来事だった.
しかし,拾う神ありで,FW61を見て感心した航空省は,フォッケにヘリコプター専業メーカーの創業を薦め,最初のペイロード700kgの試作機の製造オファーを出してきた.
そこで1937年,テストパイロットのゲルド=アハゲリスと共同で,フォッケ=アハゲリス航空機製造会社を設立した.
同社のラインアップ
Fa223
Fa225 回転翼グライダー
Fa330 Uボート積載用回転翼グライダー
Fa269 世界初のティルトローター機
faq120906fa269.jpg
faq120906fa269b.jpg
1945年終戦とともに,フォッケらはまずフランスに行き,Fa223をベースとしたシュドエストSE3000ヘリの開発に従事した.
Fa223については,そのほかチェコのアヴィアが残存パーツで2機を組み立て,そのほか何機かを生産したといわれるが,機数は判明していない.
1950年,今度はブラジルの中央航空研究所(CTE)の招きで南米に渡り,そこでFa269をベースとした垂直離着陸戦闘機の開発契約を結んだ.
この機体「コンヴェルティブラーノ」については,ベースとしてアルゼンチン向けに出荷されたことになっているスピットファイアの機体を使用したが,それのためか,使用予定のシドレーツインマンバ・エンジンが,英国から提供を断られてしまい,しかたがなくロッキードコニーのライトR3350を流用,
そのためにいろいろ不調だらけで,失敗に終わった.
しかし全部で300回の飛行を行ったといわれる.
その後も軽ヘリの設計をしたあと,フォッケはドイツに帰国し,故郷ブレーメンのボルクヴァルトに勤めたが,このとき作った風洞は現在,フォッケ博物館となっている.
その後は地元VFW社の顧問などを務め,1979年2月25日,89歳で死亡した.
ゆずこせう in mixi, 2012年09月06日10:28
【質問】
ホルテン兄弟って?
【回答】
ドイツの全翼機バカ兄弟.
兄はヴァルター(1913-1998/10/9 配役:いかりや長介)
弟はライマール(1915-1994 配役:仲本工事)
第二次大戦前から終戦まで全翼機製作に熱中.
そのうちH IXはHo229 または Go229ジェット戦闘機となった.もちろん全翼.
Go229という呼称は,戦闘機を量産できるような工場をホルテン兄弟が持たなかったので,ゴータ社で製造されたため.もっとも,正式にGo229の呼称を付与されたことはない.
(ゴーダ社に生産主体が移った後も,Ho・Goと平行した設計案を分けているらしいから余計ややこしい
)
戦後にはアルゼンチンに招かれて戦闘機開発に従事.
ホルテン兄弟を見てると,「自分がこれに乗りたい」という想いが革新的な機体設計の一番大きな要因だと思えてくるね.愛に走るというか(笑
「震電」開発の鶴野氏も,そこはかとなく同じ匂いがする.
【参考サイト】
軍事板
「世界の名機」;ホルテンHo229(ゴータGo229)戦闘機
「全翼機図鑑」: Horten
●オリジナルエアーボット● ホルテン Ho-229他に変形するサイバトロン戦士
【質問】
ホルテン兄弟が作った航空機を教えてください.
【回答】
Ho1 全翼研究用グライダー 試作1機
Ho2 全翼研究用グライダー 試作4機
Ho3 全翼研究用グライダー 試作4機
Ho4(Ho251)全翼研究用グライダー 試作2機
Ho5(Ho252)全翼研究機 試作2機
Ho6(Ho253)全翼研究機 試作1機
Ho7(Ho227)全翼練習機 試作1機(20機製作予定)
Ho8 6発全翼旅客機 試作1機(未完成)
Ho9(Ho229)全翼ジェット戦闘爆撃機 試作2機(他未完成5機)
Ho9B 全翼ジェット戦闘機(計画のみ)
Ho10 全翼ジェット戦闘機(計画のみ)
Ho11 全翼グライダー(未完成)
Ho12 全翼自家用機 (未完成)
Ho13A 全翼ジェット戦闘機空力試験機(未完成)
Ho13B 全翼ジェット戦闘機(計画のみ)
Ho18A(Ho250)全翼4発ジェット爆撃機(計画のみ)
Ho18B 全翼6発ジェット爆撃機(計画のみ)
他に,Ho5〜Ho6の頃だと思うんだけど「パラボラ」っていう名称の研究機作ってるらしい.ちなみにこいつ,運送中に燃えたらしい.
また戦後,アルゼンチンに招聘され,Ho8元にしたI.A.38っていう無尾翼の貨物輸送機作ったらしい.
でもこれも実験機造った段階でいろんな問題が噴出&アルゼンチンの政情不安で終了と相成ったようで.
IA38等のアルゼンチンでのホルテンの作品については
http://www.laahs.com/art09.htm〔リンク切れ〕
参照.
【質問】
終戦までのHo229の製作状況は?
【回答】
動力無しの1号機Ho229V1が1944年2月28日に初飛行しています.
そしてJumo004Bを2基搭載した2号機Ho229V2は,1944年12月25日に初飛行して,本によって時速800km/hを記録というのと1000km/hを記録という記述があるが,800km/h出たのは確実ではないかと考えられます.
なお2号機はエンジントラブルのために4回目の飛行で墜落して失われました.
量産型原型であるJumo004Cを搭載した3号機は,ほぼ完成の状態で終戦をむかえています.
あとは7号機までが組みたて中だったようです.
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