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<第二次大戦FAQ
これは,1943年3月にイタリアで空軍発足20周年を記念して刊行された同名のカラー写真集(写真左)を中心に再編集したもので,多くのカラーのイタリア&ドイツ軍機写真が掲載されています.
この前から食玩や玩具で馴染み深くなった,MC202の迷彩柄も確認出来て満足出来る一冊でした.
当時10リラだったオリジナル写真集は,昨年e-bayでベルギーの紙もの業者より出品されていましたが,始まり値段が5万円を越えていたのでビットを諦めた経緯が在り,ここでこうしてその写真が見られるとは思いませんでした.
―――よしぞう(maro') in mixi,2006年07月12日01:44
【質問】
WW2では,イタリア空軍は活躍できたのですか?
【回答】
WW2におけるイタリア空軍については,イタリアのエンツォ・アンジェルッチの著作に概略が載っている.
この本によれば,戦争の現実はイタリアにとって非常に厳しいものであり,イタリア空軍は「多くの点で過去の幻想の中に生きていた」といえるとのこと.
以下要点だけ引用する.
――――――
開戦時のイタリア空軍は数だけは十分な航空機を持っていたが,そのうち半数以上は実戦に参加できるような状態になく,さらにそれら航空機の軍事的性能はみかけより遥かに劣っており,特に爆撃機は「時代遅れの整備計画」と「計画性の欠如」のため,開戦時前線にあったものはいずれも戦闘に使えるような代物ではなく,戦争の間に爆撃機は一度も近代化されることがなかった.
航空先進国だったイタリアがこのような状況になった根本的理由として,『第二次世界大戦のイタリアの航空』の著者サントロ将軍は,「20年間に渡り戦略思想が改められなかった」ことにあるとしている.
そのような見通しの誤りは,最初の戦闘で明らかになった.
それは1940年の最後の2ヶ月間におけるベルギーでの体験であり,当時の最も激烈な航空戦にイタリア空軍が参加できたのは,「それが最初であり,しかもこの時ただ1回だけであった」.
イタリア空軍機は戦闘に適さないという現実を見せ付けられ,成功した点があるとすれば,それは「乗員の技量と能力によるものだけである.
――――――
軍事板,2010/03/27(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
1942年に行われた,イタリア空軍爆撃機による日本への飛行について教えられたし.
【回答】
これは,秘匿名“G要求”と呼ばれたイタリア空軍独自の計画で,長距離改造のサヴォイア・マルケッティSM75/GA爆撃機がロシアのクリミア半島経由でアルタイ山脈越えを行い,中国のパオトウ,さらに福生(現横田基地)の陸軍航空隊基地まで飛行するという大計画でした.
戦時中に連絡が途切れた日本とイタリア/ドイツのパイプを繋げるという意味でも意義のある計画で,ドイツ空軍でも実現不可能であったG要求作戦は,実際に1942年7月に実行され,勇敢なイタリア人機長モスカッテリ中佐の手で,見事に成し遂げられました.
しかし,当時まだ日本と中立関係にあったソ連領空を侵犯したこの飛行ルートに,過剰に反応した日本陸軍との軋轢と,その後の戦局の悪化に寄り,この極東飛行はわずか一度で終わりを告げています.
実は辻正信中佐が,このイタリア機の帰路に同乗して,ドイツに行くという話もあったようですが,これも日本側の態度の硬化に腹を立てた,イタリア機長モスカッテリ中佐の拒否で立ち消えになりました.
もし連れて帰っていたら,この話が歴史に残る公算は高かったと思いますよ(笑)
(写真1)は,その最初のイタリア空軍省の公式ファイルの表紙で,“G要求”作戦(G:Giappone/日本)のタイトル文字が見えます.
また右のSEGRETO(秘密)スタンプが押された書類からは,光延海軍武官が東京からの指令を受けて,中継基地の手配をしていた様子が伺えます.
この飛行作戦のオリジナル記録書類には,数百枚の飛行ルートや通信記録などのドキュメント画像が記録されていました.
(写真2)は,雑誌に掲載されていた,“G要求”作戦を終えて帰国したSM75機と,そのクルーを称える特集記事.
同機にはパオトウ基地で塗られた,識別用の日の丸が胴体に見えます.
また,右写真の日本陸軍武官は清水中佐,海軍武官は光延大佐です.
(写真3)は,同記事が掲載されている1942年8月2日発行のグラフ雑誌.
表紙はロシア・ドネツ戦線でのイタリア砲兵.
この砲兵が着用しているのは,訓練用のグレーの綿ジャケット&ズボンで,肩から掛けているのは騎兵用弾体ですが,後ろから見ているのでただの負い革に見えます.
それにしても表紙下にデカデカとお酒のカンパリの広告が載った形式は,めずらしいでしょうか.
これらは戦史研究家であるイタリアの友人から,Fedexで届いた資料ですが,友人に確認したところ,この資料はイタリア国家公文書センター:Archivio Centrale
dello Stato (ACS)で見つけたもので,三脚付きカメラで撮影したそうです.
普段,あちこちの研究者に協力しながら,こちらの調査対象をインフォームしていたお陰だと思いますが,それにしても出来過ぎな話で驚きました.
実はこの“G要求”作戦について,拙書『イタリア軍入門』の空軍戦史中で,1ページコラム(P111)を書いています.
詳しくはこちらをご覧下さいー(^^;
よしぞう(maro') in mixi,2006年11月02日03:01
~2006年11月03日 22:08
より再構成
やるときはやる!イタリア人!!ですね.
この連絡飛行はソ連領内を飛んだために,「外交的」見地からパイロットは帰りの飛行まで飛行場で「軟禁」状態となり,日本国内では一切「封印」されてしまいました.
むしろ「厄介者」扱いされたようです.
日本機がソ連に遠慮した南回りコース〔高研機改造機A26によるインド洋ルート〕で結局失敗したことを思うと,いろいろと考えさせられますね.
のりっく in mixi,2006年11月03日 12:25
青文字:加筆部分
【質問】
ANRって何?
【回答】
イタリア社会共和国,通称「サロ共和国」の空軍.
連合軍による爆撃の激化により,防空任務が急がれたため,ドイツ空軍のリヒトホーフェン元帥の同意を得て,休戦で接収された1000機余りの航空機を基に,1943年9月に再建された.
最終的には4個航空群,空挺連隊,対空部隊,地上部隊などを有し,戦闘機隊・雷撃機隊・空挺連隊などは圧倒的な数的劣勢の中,果敢に戦いを挑んだ.
【参考ページ】
『イタリア軍入門』(吉川和篤他著,イカロス出版,2006/2),p.131-133
【ぐんじさんぎょう】,2011/05/28 20:50
を加筆改修
御徒町のギャラリーで土日のみ開催の12インチカスタムフィギュアの展覧会,「CUSTOM FIGURE EXHIBITION 2007」より.
pogoさんのRSI空軍パイロットやフィンランド軍パイロット等,既存に販売されて無いジャンルのフィギュア製作も好きですね.
苦労して染めた,イタリア空軍のジャンパーも良い感じです.
faq110516ss5.jpg
よしぞう maro' in mixi,2007/11/25/06:20
青文字:加筆改修部分
AFNかとオモタ(マテ
バルセロニスタの一人 in mixi,2011年05月26日 19:49
むしろANNかUPSかとry
Bernoulli@ゼネコン in mixi,2011年05月26日 20:02
イタリア軍といえば毎年ジロ・デ・イタリアの山岳コースの警備に,アルピーニっていう山岳警備隊が出てくるのだけど,強いらしいのだけどとても強そうには見えないんですよね.
赤の9番 in mixi,2011年05月26日 20:27
NTRに見えたので,普通の人間やめます(何?)
ぎんなんそう in mixi,2011年05月26日 20:39
【質問】
第二次大戦中のナポリ爆撃について教えてください.
Kérem, mondja el a Bombázás Nápoly a második világháborúban.
【回答】
ナポリは古くは古代ギリシャの植民都市の時代にまで遡る,イタリア最大の港である.
同地には軍港や石油施設,製鉄所などがあることから,1940年から1944年までの間に,200回もの爆撃を受けた.
すなわちナポリは,イタリア最多の爆撃を受けた都市となった.
最初の空襲は1940.11.1.
マルタ島から飛来したブリストル・ブレニム爆撃機が,鉄道の駅や工業地域を爆撃した.
1941.11.18には,コンコルディア広場の建物倒壊により,空襲を避けて避難していた民間人に,多数の死者が出た.
1942.12.4,米軍機が初めてナポリ爆撃に参加した.
また,この頃から爆撃のやり方も変わった.
それまでは軍事目標をピンポイント爆撃していたが,12月以降,絨毯爆撃が行われるようになった.
1943.8.4の爆撃は,最大規模のものだった.
この日,潜水艦基地を攻撃するためにNASAF(アメリカ北西戦略航空軍)所属のB-17爆撃機400機が飛来.
歴史的建築物である聖サンタ・マリア教会も,爆撃により破壊された.
1943.9.27~9.30,ナポリ住民が蜂起し,同地を占領していたドイツ軍を追い出した.
いわゆる「ナポリの4日間 Quattro giornate di Napoli / Négy Nappal Nápolyban」である.
これで爆撃も止むかと思いきや,今度はドイツ空軍からの爆撃をうけることになった.
大戦中,ナポリ爆撃により死亡した人は,2万~2万5千人を数える.
------------
[1941.7.19,自転車旅行でナポリに到着したゼッフィレッリは,食中毒のため,ドメニコ派の修道院で横になった]
真夜中に熱が上がり,ひどく汗をかいて目が覚めた時,突然信じられないものが窓越しに見えた.
修道僧の声を聞き,テラスから谷のほうを見ている彼らの影が見えるまでは,自分が錯乱状態なのだと思った.
日没であるはずもなく,私は毛布を体に巻き付けて寝床から起きると,皆がいるバルコニーへ行った.
悪夢のようだった.
そして一瞬のうちにナポリが攻撃されているのを悟った.
イギリスが準備した奇襲攻撃によって,照明弾がナポリ湾一帯に打ち込まれたのだ.
それまでに見たこともない光景だった.
湾全体が見渡せたが,海は黒々と波が高く,沿岸と町は煌々たるオレンジ色の光の中に浸っていた.
修道僧たちは鳥のように白いガウンをはためかせて広いテラスを駆け回り,ある者は奇跡の聖母にひざまずいて祈った.
何か恐ろしいことが起ころうとしている.
村人たちは教会に駆け込み,まるで黙示録の予言が近づいたかのように祈りを捧げ,ろうそくに火をともした.
私はまだ38度以上の熱があり,全てを十分に理解はしなかったと思う.
私はカルメロに何が起こったのか尋ねた.
「ナポリに爆弾が落とされるだろうと言ってるよ」
と彼は答えた.
しかし音は何も聞こえなかった.
ただ無音の照明弾のめらめらとした光が見えるだけだった.
そして無数の爆弾が波間に落ちるにつれ,ゆっくりした低い爆音が次第に威嚇的に聞こえてきた.
次に対空砲火の切り裂くような轟音が続いた.
信じがたい音と光景が展開した.
あらゆるところから火が吹き出し,地獄さながらだった.
私は気を失い,誰かにベッドに運ばれた.
翌朝起きると,私は元気を取り戻した.
バルコニー側の窓を開けたが,何も見えなかった.
ナポリ湾はすっかり巨大な煙と埃の幕で覆われ,ヴェスヴィオスの山頂だけがそこから覗いていた.
カルメロと私は修道院を出て,何が起こったのか見に行くことにした.
戦争を通じて私たちはもっと酷い光景を目の当たりにすることになったが,何といっても最初の体験は恐ろしいものだ.
特に楽しかるべき旅行の最中ではなおさらだ.
美しい寺院や教会,村々などの夢は打ち砕かれた.
いたるところに救急車が走り,手足のないぞっとする死体が転がり,行方不明の知人を探す錯乱状態の人々がいた.
爆撃で吹き飛ばされた子供たちの体や,知人や友人を求めて手から血を流しながら瓦礫を掘り返す人々も見た.
瓦礫の中から出た腕を誰かが引っ張り上げると,その下から悲鳴が聞こえてくることもあった.
私たちはホテルから身分証明書を取り返すために駅まで戻ろうとしたが,どの通りも遮断されていた.
そこで自転車を置き,がれきの山を歩いて行った.
中央駅に近づくにつれて,自分たちのホテルが破壊され,建物がすっかり潰されたことが次第に分かり始めた.
私たちの書類がなくなったどころか,ホテルの地下室に避難した122人の宿泊客全員が死亡したのだ.
もし私の病気のために修道院に一泊することがなかったら,自分達もまた死んでいただろう.
------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p.38-39
【参考ページ】
http://www.naplesldm.com/Naples%20bombing.htm
https://veralentini.wordpress.com/2011/10/13/from-fascism-to-americanization-naples-during-wwii/
http://humanities.exeter.ac.uk/history/research/centres/warstateandsociety/projects/bombing/italy/
http://ww2db.com/battle_spec.php?battle_id=327
【ぐんじさんぎょう】,2016/08/27 20:00
を加筆改修
【質問】
ブレダ社の開発または計画した航空機を,全て教えてください.
【回答】
型番号/機名 | 種別 | 備考 |
Breda-Pensuit B.1 | 偵察機 | 1918年製作の単座三葉機. アンザーニ Anzani 6気筒 全幅4.00m,全長4,40m,全高 2,90m,自重 180kg,TO 290kg Vm 120km/h / Vmin 60km/h |
Breda-Pensuit B.2 | 偵察機 | 191?年製作の複座三葉機. B.1の改良型. |
Breda Tebaldi-Zari | 戦闘機 | 1922年に,Tebaldi-Zari 戦闘機の試作機を改造したもの. |
A.1 | スポーツ機 | 1924年, 民間市場向けに作られた単座複葉機. Colombo 110D エンジン1基を搭載.140 hp. 全幅10.20m |
A.2 | スポーツ機 | 1924年(英wikipediaでは1921年)開発された,3座単葉機. |
A.3 | 夜間爆撃機 | 1924年製作の複葉機. 全幅23m 当初はSPA 6A エンジン(200 hp)を4基搭載したが, 後にLorraine-Dietrich 12Db V-12エンジン(400 hp)2基に換装. 試作機1のみ. |
A.4 (ロシア語サイト) |
初等練習機 | 1926年開発の,タンデム複座複葉機. (左掲のロシア語サイトによれば1924年) エンジン強化型の A.4 HS,水上機型のA.4 Idroという派生型あり. |
A.7 | 偵察機 | 1929年開発の,タンデム複座複葉機. 高翼のパラソル翼. 14機生産. |
A.8 | 夜間爆撃機 | 1927年製作の複葉機. 試作機1のみ. |
A.9 | 高等練習機 | 1929年開発のタンデム複座複葉機. |
A.10 | 高等練習機 | A.9の派生型. 単座に改められた. |
A.14 | 夜間爆撃機 | 1928年に製作された,3発複葉機. 試作機1のみ. |
A.15? | ??? | 詳細不明. google検索において,左掲のサイトが一つだけ出てくるが,本当にブレダの機体かどうかも定かではない. |
A.16 | 偵察機 | A.7の長距離偵察型. エンジンをブリストル・ジュピター7に換装し,3座とした. |
B.1 | 旅客機 | 1920年製作の双発双支持梁複葉機. 6人乗りの旅客機. 全幅 25m ブレダ社で製作されたカプロニ Ca.5爆撃機が余剰機となったので,これを旅客機に改装したもの. |
Ba.15 | スポーツ機 | 1928年開発の,タンデム複座高翼単葉機. |
Ba.16 | 偵察機 | A.16の別名. |
Ba.19 | 練習機 | 1929年開発の単座複葉機. 42機生産. |
Ba.25 | 初等練習機 | 1931年開発の複座複葉機. 1938年までに753機生産. |
Ba.26 | 初等練習機 | Ba.25のエンジンをワルター NZ120に換え,翼幅を伸ばした. 試作機1のみ. |
Ba.27 | 戦闘機 | 1933年開発の,低翼単葉機. 固定脚. 14機生産. そのうち11機が,中華民国空軍に売却された. |
Ba.28 | 高等練習機 | 中国,エチオピア,ノルウェーなどへの輸出型. ピアッジョ社で生産された,グローム・ローン Gnome-Rhone 7Kエンジンを搭載. |
Ba.32 | 旅客機 | 1931年に初飛行した,3発低翼単葉機. 乗員2,乗客8. 主翼厚みが大きく,また,横向きの水滴形をした車輪スパッツが特徴. 良好な飛行特性を顕彰されたにも関わらず,発注がなかったため, 試作機を含めて2機生産されたのみ. ( ´Д⊂ヽ 価格競争でフォッカー3mに負けたか? |
Ba.33 | スポーツ機 | 1930年に開発された,単発低翼単葉機. 単座型と複座型とがある. 国際大会出場のために製造されたが,事故が発生して,イタリア・チームは 大会から引揚げることに. ( ´Д⊂ヽ |
Ba.39 | 連絡機 | Ba.33の改良型. 1932年9月初飛行. タンデム複座またはタンデム3座(Ba.39S) |
Ba.42 | 連絡機 | 1934年にBa.39のエンジンを, Fiat A.70 S星型エンジン
(180 hp)に換装. 生産数1 |
Ba.44 | 輸送機 | 1934年に,デハビランドDH.89ドラゴンラピードをライセンス生産したもの. 生産数6 |
Ba.46 | 爆撃機/輸送機 | 1934年に初飛行した,三発単葉機. 試作機1のみ |
Ba.64 | 戦闘偵察爆撃機 | 1934年に初飛行した,低翼単葉の多用途軍用機. 単座型と複座型とがある. 生産数42 1939年までに退役した. |
Ba.65 | 戦闘偵察爆撃機 | Ba.64の発展型で,1935年9月初飛行. 1939年までに218機生産され,そのうち55機がチリ,イラク,ウルグアイに輸出. イタリアでは1941年までに退役した. |
Ba.66? | 戦闘偵察爆撃機? | こちらにおいて,そういう名のBa.65の発展型があったらしいとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
Ba.67? | 急降下爆撃機? | こちらにおいて,そういう開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
Ba.75 | 直協観測/攻撃機 | Ba.65の発展型で,1939年初飛行. 乗員2 イタリアの第2次大戦参戦により,開発中止. 試作機1のみ |
Ba.82 | 爆撃機 | 1937年に初飛行した,双発単葉の中型爆撃機. 試作機の問題続出により,競作において落選. 試作機1のみ. |
Ba.88 「リンチェ Lince 」 |
戦闘機 | 元は高速戦闘機として開発された,1936年10月初飛行の複座双発単葉機. 1937年に,100kmのコースと1000kmのコースでそれぞれ世界速度記録を樹立. 全金属製の中翼機で,原型機は単尾翼だったが,量産機では双尾翼形式に改められた. 生産数149 実戦に投入してみると,飛行中の安定不良,武装による速度低下,整備性の悪さなどから,1940年には生産打ち切り. 残った機体は使用可能な部品を取り除いた後,敵の偵察機を欺くための地上固定目標として用いられたという. ( ´Д⊂ヽ |
Ba.88M | 急降下爆撃機 | Ba.88を改造,胴体と主翼を延長し主翼下面にダイブブレーキを装備したが,全般的な性能はBa.88よりも悪化. イタリア降伏時により開発中止. 試作機3 |
Ba.92 | 練習機 | 1938年に計画された,単座複葉機. |
Ba.93? | 練習機? | こちらにおいて,そういう複座機の開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
Ba.94? | 偵察機? | こちらにおいて,Ba.88改良型の,そういう単座機の開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
Ba.99? | 爆撃機? | こちらにおいて,そういう開発計画が1938年にあったとされているが,詳細不明. google検索では,他にドイツ語版wikipediaが見つかるが,内容は閲覧不能. |
Ba.100? | 戦闘機? | こちらにおいて,そういう低翼単葉機の開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他にドイツ語版wikipediaが見つかるが,内容は閲覧不能. |
Ba.201 | 急降下爆撃機 | 1941年初飛行の単発逆ガル翼機. 爆弾を搭載すると飛行性能がガタ落ちになってしまい,また,試作機の墜落により,開発は難航. やがて戦局悪化と,ヤーボRe2001bisの登場により,1942年開発中止. 試作機2 |
Ba.204 | 戦闘・急降下爆撃機 | 逆ガル翼の低翼単葉多目的機. 1940年に計画されたが,開発中止. |
Ba.205 | 高等練習機 | Ba.25の曲技練習専用型で,1942年に初飛行. 生産数2 |
Ba.206? | 戦闘機? | こちらにおいて,Ba.204発展型である,そういう開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
Ba.210? | 急降下爆撃機? | こちらにおいて,Ba.201発展型である,そういう開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
Breda-Zappata BZ.301 |
爆撃機 | カントZ.1018の改良型. 計画のみ. |
BZ.302 | 重戦闘機 | カントZ.1018の改良型. 計画のみ. |
BZ.303 | 夜間戦闘機 /雷撃機 |
カントZ.1018の改良型. 計画のみ. |
BZ.304 | 対戦車攻撃機 | カントZ.1018の改良型. 37mm機関砲搭載. 計画のみ. |
BZ.305? | 輸送機? | カント Cant Z.511の改良型で,4発機. こちらにおいて,そういう開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
BZ.306? | 爆撃機? | カント Cant Z.511の改良型で,4発機. こちらにおいて,そういう開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
BZ.308 | 輸送機 | 1948年に初飛行した,4発低翼単葉機. 乗員5,乗客55(最大時) 旅客機として開発されたが,マーシャル・プランによる圧力で,計画中止. 製造は試作機1機のみで,イタリア空軍において輸送機として使われ,1950年に退役. そしてブレダは飛行機製造をやめた. ( ´Д⊂ヽ |
BZ.401 | 水上爆撃機 | カントZ.1018の改良型. こちらにおいて,そういう開発計画があったとされているが,詳細不明. google検索では,他に探し当たらず. |
CC.20 | 1929製作の,3発単葉爆撃機. エンジンが非力で低速過ぎ,試作機1機が作られたのみ. |
|
CC.2000 | C.C.20のエンジン強化案 | |
CC.3000 | 193x年のC.C.20のエンジン強化案 | |
M.1 | 1919年製作の双発双支持梁複葉旅客機. 8人乗り 全幅 23.40m 余剰となったCa.44爆撃機,別名Ca.57を改装し,気密乗客室を設けた. |
【参考ページ】
http://www.warbirds.jp/data/ita/ita_bleda.htm
http://www.secretprojects.co.uk/forum/index.php?topic=18731.0
http://www.secretprojects.co.uk/forum/index.php?topic=8743.0
http://www.associazioni.milano.it/isec/mostra%20Breda/pagine/home%20page/home.htm
◆◆◆◆装備
【質問】
カプロニ・カンピーニ N.1 って何?
【回答】
カプロニ・カンピニ N.1 Caproni Campini
N.1 は1940/8/27に初飛行した,イタリアのモーター・ジェット研究機です.
前方から空気を取り込み,ファンで圧縮し機体後方から放出することで推進力を生み出すタイプの飛行機で,ファンの駆動のために900hpのレシプロ・エンジンを使用していました.
最大速度が375 km/hと遅い割りに燃料消費量は甚だしく、上昇力は物凄く悪く、既存のプロペラ機より優れている点は何一つなかったので,1942年に開発は放棄されましたが,現在も実機は博物館に保存されています.
【参考ページ】
http://webs.lanset.com/crazy17/jp/air/campini.htm
http://blog.livedoor.jp/mayumiya_naniwa_branch/archives/cat_418465.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Campini_Caproni_CC.2
http://military.sakura.ne.jp/world/w_n1.htm
http://www.airliners.net/search/photo.search?aircraft_genericsearch=Caproni%20Campini%20N-1&distinct_entry=true
http://warandgame.wordpress.com/2007/09/26/caproni-campini-ni-cc2/
以前イタリアの友人から貰った手紙が入っていた切手付き航空書簡の官製封筒の表面に,1941年11月30日のデ・ベナルディとペダーチェ両飛行士による,ミラノ~グィドーニャ(ローマ)間の飛行成功50周年を祝って,1991年に出された800リラの切手部分と記念スタンプが印刷されています.
一応,この時がジェット機で初めて同乗者と郵便を運んだ世界記録という事らしいので,こういう記念切手付き官製封筒が発行されたのですね.
でもよ~く見ると,機体にもファシスのマークが在るし,当時の郵便スタンプを再現した印刷の記念スタンプには,ミラノ-グィドーニャの地名と“噴射推進式カンピオーニ機の初飛行”の文字と,共にサヴォイアの★章の左右にファシスタ党のシンボルである,ファシス(束ねた斧)とサヴォイア家のノッド(結び目)紋章が印刷され,さらにご丁寧に“1941年11月30日”日付けの右に,“XX”のファシスト歴20年(1941年)まで刷られている始末…(^^;
いやー,素晴らしい!
何時もながら,絶対にドイツではあり得ないイタリア人のこだわりのなさというか,実は歴史の正確さへの思いっきりなこだわりに敬服します.
このカプロニ・カンピーニの試作2号機は,ローマの空軍博物館で見られる様なので,一度機会が在れば訪ねたい所です.
http://www.regiamarina.net/arsenals/planes_it/jet/jet_photo_us.htm
ローマの空軍博物館は素晴らしいコレクションを有していて,次に行く機会が在れば是非観たいと思っています.
特にMC202とSM79が…(;´д`)ハァハァ
http://www.ottocubano.com/MUSEO%20VIGNA%20DI%20VALLE%204.htm
http://www.ottocubano.com/MUSEO%20VIGNA%20DI%20VALLE%205.htm
それから,ローマ近郊チェキニョーラには立派な戦車博物館もありんす.これも見逃せません!
http://www006.upp.so-net.ne.jp/hashi/itary-mus.htm
よしぞうmaro' in mixi,2007年05月10日19:23
~05月11日 01:58
【質問】
Diri-Diskって何?
【回答】
イタリアのGuido Talleiが1932年に試作した,飛行船と飛行機の合いの子航空機です.
主翼は円盤型.
さらに家具や自動車のデザインもとりいれ,非常にユニークな形をしていました.
【参考ページ】
http://davidszondy.com/future/Flight/diskplane.htm
余談だが,どういうわけか海外サイトでは,航空機ファン・サイトよりもオカルト・ファン・サイトのほうでよく取り上げられている.
http://wingmakers.narod.ru/Sumeria.html
とか
http://discaircraft.greyfalcon.us/MUSSOLINI%20FIAT%20RIVA%20DEL%20GARDA%20DISC.htm
とか.
【ぐんじさんぎょう】,2009/5/13 21:00
に加筆
【質問】
IMAM Ro.43って何?
3行以上で教えて!
【回答】
イタリアの老舗航空機メーカー,ロメオ社が1930年代初頭に設計した複葉副座の戦闘機/偵察機Ro.37をベースに,「南部機械・航空機工業(Industrie
Meccaniche e Aeronautiche Meridionali : IMAM)」社が海軍向けに開発した水上偵察機.[1][2][3]
海軍からの要求性能はカタパルトから射出でき,時速240km,航続距離600kmというもの.[3]
競争試作で,他の候補機としてはピアジオP.18とP.20,CMASA MF.10,CANT Z.504とマッキC.76があった.[1]
設計者はRo.37と同じ.[3]
機体構造は通常の鋼管羽布張り,すなわち鋼管の骨組みを軟質合金や羽布で覆った機体,主翼はリブのみ木製で後方に折り畳めるというのもRo.37と同じで,降着装置を単フロートに変更したのが主な改修点.[1][2][3]
胴体はRo.37bisによく似ているが,主翼の胴体取付の構成が違っている.[2]
操縦員席の上方視界を妨げることのないよう,Ro.41に似たガル翼気味の配置となっている.[2]
日本海軍の複座水偵と同様,任務に敵の観測機や哨戒機との空戦が要求されていたため.[2]
一方,この配置では操縦員席の前下方視界を妨げており,偵察や観測は後席の偵察員に任せ,操縦員はむしろ対空見張りに専念させようとの意図が感じられる.[2]
1934.11.19に試作機が初飛行.[2]
1936年1月に制式採用となり,4月から部隊配備が開始された.[2]
試作機ではエンジンカウリングがもっと絞り込まれており,シリンダヘッドをクリアするためのいぼ付きカウリングをつけていたが,量産機ではカウリングはイボをやめ,プロペラは二翅から三翅に変更.[2]
これは,先行していた陸上用の直協偵察機Ro.37の空冷エンジン型(Ro.37bis)と部品を共通化したものと思われる.[2]
ちなみにブレダ社は同年,ブレダと提携して消滅している.[1]
元となったRo.37同様に扱い易く,イタリア海軍大型艦搭載の主力水偵として第二次大戦で使用された.[1]
戦艦の場合は3〜4機, 重巡洋艦で1〜2機を搭載.[1]
が,あまり活躍したとは言い切れない.[1][2]
作戦域が地中海であることを考えれば索敵に艦載機を使わねばならない必然性は薄い上,飛行機からの弾着観測にはいろいろ問題も多く[2],加えて,そもそもイタリア海軍大型艦の活動が低調だったため.[1]
軽量構造ゆえの問題もあった.[3]
繊細過ぎて海面で浮いているには不向きで,海上での偵察機回収を難しくした.[3]
エーゲ海方面で水上機基地からの作戦も行ったが,こちらはもともと機会が少ないうえに派生型のRo.44が主力で,目立たない戦場でのさらに脇役という状態であった.[3]
試作機1機を含めて194機が生産され,1940年6月の参戦時には105機が可動であった.[3]
休戦時には48機が在籍,22機が可動状態で残存している.[3]
現在,ブラッチァーノ湖畔のイタリア空軍博物館に,1機が良好な状態で展示保存されている.[2]
【参考ページ】
[1]http://military.sakura.ne.jp/world/w_ro43.htm
[2]http://www.warbirds.jp/data/ita/htm/ro43.htm
[3]https://en.wikipedia.org/wiki/IMAM_Ro.43
【ぐんじさんぎょう】,2016/03/02 20:00
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【質問 kérdés】
カプロニ Ca.97って何?
Mi az Caproni Ca.97?
【回答 válasz】
カプロニ Ca.97は,1920年代後半から1930年代初頭にかけてイタリアで生産された旅客機.
A Caproni Ca.97 az polgári célú légi járművek, ami 1920-as évek végén és
az 1930-as évek elején Olaszországban gyártott.
原設計ではロレーヌ・ディートリッヒ・エンジンを3基搭載.
機種に1基,そして,主翼から胴体脇に伸びている左右の主脚用支柱に,エンジンをそれぞれ1基配置するスタイルだった(写真1).
実際の生産では,エンジンを機種のみ1基の単発型,また,胴体左右に各1基の双発型も作られた.
エンジンは400~500馬力の様々なものが搭載された.
全長10.70m
全幅15.95m
乗員は1名または2名.
乗客6人を載せることができた.
1927年,初飛行.
13機作られ,カプロニ社の旅客機としては商業的に成功した最初の機体となった.
その生産数のわりに多くのヴァリエーションがある.
Ca.97 C(3発,旅客機)
Ca.97 C. Mon.(単発型)
Ca.97 Co(単発,植民地仕様)
Ca.97 Idro(水上機型,写真2)
Ca 97 Ri (空軍の偵察機,写真3)
Ca 97 M (空軍の軽爆撃機)
空軍用の機体では,胴体上面に防御用の機銃塔が設けられている.
カプロニCa.97はイタリアのみならず,ハンガリーでも1928年,ヴァイス・マンフレート社においてライセンス生産された.
トリアノン条約によって軍備を制限されていたハンガリーは,同機を有事には輸送機または爆撃機に転用することを考慮していたらしいが結局,空軍では使われていない.
ちなみに,カプロニ社がCa.97の拡大改良型として製造したのがCa.101である.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.axishistory.com/books/77-hungary-air-force/hungary-air-force-unsorted/914-aircraft-bought-before-the-war-by-the-hungarian-air-force
http://www.airwar.ru/enc/cw1/ca97.html ※写真1~6引用元
http://aviadejavu.ru/Site/Crafts/Craft31049.htm
http://epa.oszk.hu/00000/00018/00022/pdf/hk3.pdf
https://www.youtube.com/watch?v=znOPlTZhzmw
mixi, 2017.10.14
【質問】
サボイア・マルケッティSM82輸送機について,3行で教えてください.
【回答】
サボイア・マルケッティSM82「カングーロ」
Savoia-Marchetti S.M.82 "Canguru"
は,1938年頃から開発が始められた,イタリア空軍の輸送機.
戦前イタリア航空業界を代表する旅客輸送機SM75を,胴体を中心に改設計したもので,1939年11月に初飛行.
イタリア参戦後は北アフリカ戦線や東部戦線への輸送任務に従事し,戦後も1960年代まで主力輸送機として使用された.
【参考ページ】
http://military.sakura.ne.jp/world/w_sm82.htm
http://www.warbirds.jp/data/ita/htm/sm82.htm
http://asso.modellini-modellini.com/archives/2007/04/post_314.html
http://blog.livedoor.jp/lucenagoya/archives/1926535.html
側面図
(こちらより引用)
三面図
(こちらより引用)
そのカラーリング
(画像掲示板より引用)
【ぐんじさんぎょう】, 2013/03/29 20:30
を加筆改修
【質問】
WW2でイタリアの空冷航空機用エンジンが,故障がちで低出力だったのはなぜですか?
【回答】
1930年代初期のFiat A.1エンジンは,後にソ連のT34戦車のV2エンジンに,一部の機構がそっくりそのまま移植されたんですけどね.
まず,イタリア戦闘機のDoctrineとしては,格闘戦を重視していました.
なので,格闘性能を引き出すには軽量の戦闘機が必要となり,軽量小型のエンジンが必要でした.
大重量,大馬力のエンジンは必要なかった.
また,イタリアのエンジンの殆どは,英国のJupiterか,フランスのGnome-Rhoneが基になっています.
お手本になったエンジンは余り出力が出ないモノでしたので,勢い,イタリアのエンジンは馬力が出ないものになっています.
これが,米国のP&WとかWrightとかの技術を導入したのなら,少しは発展したのかもしれませんが.
後,戦時中のものは日本も同じですが,工作精度が低く,故障がちになっていますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/03/04
青文字:加筆改修部分
【質問】
イタリアって,なんで空冷18気筒の大馬力エンジンをものに出来なかったのですか?
せめて誉11型レベル程度の出力は,排気量から逝っても優位なんだし,なんとかなりそうに見えるのですが.
【回答】
Alfa Romeoの場合は,Bristol Pegasus/Mercuryがその原点で,FiatはGnome-Rhone14,P&Wがその原点で,とりわけ,Gnome-Rhoneの影響が大でした.
Piaggioは,両社折衷で,Bristol Jupiter/Mercury,Gnome-Rhoneの影響,とりわけ,Bristol 系の影響が大でした.
この様に,上記各社は技術提携してLicense生産を行った後,自力更生でエンジンの開発を進めていますが,Bristol系にしてもGnome-Rhoneにしても,提携した当時に各社が手本にしたのは,小出力エンジンでした.
これからステップ・アップするには,非常な努力を必要とします.
また,使用ガソリンについても,誉は92オクタンのガソリンを想定していましたが,当時のイタリアのエンジンは87オクタンのガソリンを想定せざるを得ませんでした.
オクタン価の大小は馬力に影響を与える要因です.
また,ボアは問題ないにしろ,ストロークの問題が大きかった様です.
ボア径はイタリアの場合,PiaggioがBristolと同じ146mm,Alfa Romeo,Fiatが140mmを用いています.
しかし,例えば,空冷星形18気筒のAlfa Romeo 135RC32の場合,ストロークは190mmに達しています.
理屈的には,P&W R-2800よりも大きな排気量を持ち,吸入空気量が大きいのですから,大馬力が出せるはずですが,往復運動をする行程が長くなり,燃焼終了までの時間が掛かりすぎる訳ですから,高回転が望めなくなります.
また燃焼の制御も難しく,実際に回転数は,誉の3,000rpm,R-2800の2,800rpmに比べると一段低い,2,400rpmにしかなりません.
ボア径とシリンダ長の適正な長さが求められると,エンジンの設計は8割方終わったも同然ですが,今のように
コンピュータ解析が出来ない時代は,経験に頼るしかなかったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/22(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
WW2のイタリア空軍で採用されているエンジンの命名規則?についてご存知の方,いらっしゃらないでしょうか?
空冷エンジンでは RC○○ というのが空冷を示す記号なのかな,とかと推測したりもするのですが,イマイチ法則性が良くわからないです.
ティフォーネとかデルタとかゼータとか,名前のついているエンジンの命名の法則性もわかりません
.
デルタ・ゼータは同一企業のものだし連続性があるかな,と思いますが,ティフォーネはなんでティフォーネなんだかさっぱり……
【回答】
基本的に法則性はありません.
例えば,Alfa Romeoは100から始まる一連の番号ですし,FiatならAで始まる連番で,二番目のNは使用燃料(ナフサ),Sは特殊を表します.
Isotta-Fraschiniは,初期のものはVono(飛行を表すイタリア語)が付いていましたが,次のエンジンにはAsso(エースを表すイタリア語)が付いています.
以後は発展型にそれぞれGammaとかBetaとか付いている形.
Piaggioは,最初にPがつきます.
エンジンの後ろに付いているRCxxのRは減速装置付,Cは過給器付の記号で,これは統一されている様です.
最後のxxは改良型を表します.
日本の栄の一一型,一二型みたいなもので,最初の数字が,そのエンジンに加えられた生産上の大きな改良,最後の数字が小改良を表します.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問 kérdés】
ブレダSAFAT機銃について3行で教えてくだちい.
【回答 válasz】
ブレダ SAFATは1930~40年代にかけてイタリア空軍で使用された航空機銃.
ブローニングM2重機関銃をベースにして設計され,7.7x56mmR弾を使うタイプと,12.7x81mmSR弾を使うタイプの2種があった.
しかし1940年代になると他国に比べて性能に劣ゐようになり,大戦後期にはドイツのMG151機銃に主役の座を譲った.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.warbirds.jp/ansq/1/A2001489.html
http://www.ww2incolor.com/italian-forces/BREDA-65-ARMI.html
https://www.youtube.com/watch?v=iOki570vHS0
mixi, 2018.3.22
【質問】
第二次大戦中のイタリア消防夫の制服について教えられたし.
【回答】
「UNIFORMI DEI VIGILI DEL FUOCO 1938-1945」は,要するに第二次大戦中のイタリア消防夫の制服本ですが,ほぼパラミリタリーの軍服と変わらない事が良く判ります.
ただし写真のスキャン解像度が低いものが多く,その意味でも同人誌のような体裁でした.
サハリアーナ型熱帯服や空挺バスコ(ベレー)と同様な被服も支給されていたりするのも初めて知った訳で,これが今出て来たらコレクターが混乱する事は間違いナシ.
以前PAI(アフリカ駐留イタリア警察軍)用として入手した真鍮製ファシスト襟章も,この本では消防夫も使用している事が判明.
要するに自治警察/消防系(イタリア語ではどちらもVigile)が使っていたと言う事なのかと一人納得.
よしぞう(maro') in mixi,2006年04月17日02:57
◆◆◆◆◆イタリア軍攻爆撃機
【質問】
Caproni-Bergamaschi Ca-135系列の機体について教えられたし.
【回答】
1937年の日華事変勃発に伴い,従来の九三式重爆では余りにも旧式化し,かと言って,九七式重爆は未だ実戦化出来ておらず,慌てた陸軍は,欧州諸国へ爆撃機を買い付けに奔走します.
当初は,He-111を導入する予定で,Hitlerもそれを承認しますが,当時,He-111は初期のA型が中国に輸出されていたりと,ドイツ国内の外務省や軍部内部にいる親中派の巻き返しに遭い,敢えなく没になりました.
其処で已むなく,もう一方の枢軸国イタリアに焦点を定めます.
まぁ,6,000万円の商談ともなれば,目の色が変わりますわな.
候補機として挙げられたのは,Fiat BR.20と,Caproni-Bergamaschi Ca-135/P11でした.
1938年5月に,実機を飛ばした比較試験が現地で行われ,性能的にはCa-135/P11が勝っていたのですが,構造がBR.20が全金属製だったのに,Ca-135/P11は主翼が金属骨組みに外皮が合板または羽布張り,前部胴体が全金属製,後部胴体は鋼管溶接に羽布張りで,構造が極めて旧式だったこと,更に日本陸軍航空隊が必要とする100機の生産能力がCaproniに無かった事から,B.R.20が伊式重爆として採用された訳です.
Caproni-Bergamaschi Ca-135という機体は,1934年にポンテ・サン・ピエトロで設計され,Caproniのタリエド工場で製作した後,以後の開発はCaproni-Bergamaschiに引き継がれるという複雑な経過を辿って開発された中型爆撃機です.
試作機は,1935年4月1日にIssota-Franschini Asso12気筒V型エンジン(800馬力)を搭載して初飛行し,当時は2枚羽根の木製プロペラでした.
銃座は,機首,背部,腹部にあり,背部と腹部は引込可能.
1936年,イタリア空軍はAssoの馬力向上型(836馬力)を装備し,燃料搭載量を増やしたCa-135をtipo Spagnaとして14機発注します.
しかし,アンダーパワーで性能が極めて低く,スペイン戦争に投入するには流石に危なすぎて,投入されませんでした.
結局,これらは爆撃練習機になります.
同時期に,Peruがイタリア空軍と同じAsso装備型を6機発注し,Assoを900馬力に向上させて,全般的に空力的改良を施し,武装を改めて,金属製3枚プロペラを装備した改良型を32機,tipo
Peruとして発注します.
これは,第二次大戦で米国製機材が引き渡されるまで,同国空軍の第一線爆撃機として配備されていました.
1938年に馬力不足を補う為,Assoを止めて,1,000馬力のエンジン,FiatA.80を装備したCa-135/A80とPiaggioP.11を装備したCa-135/P11が試作されました.
両方とも同じ発動機でしたが,Fiatのエンジンは信頼性に乏しく,性能向上が認められなかったので,結局これもイタリア空軍で少数機が爆撃練習機として配備されるに留まり,以後,イタリア空軍での配備は見送られることになりました.
しかし,Piaggioエンジンの方は,Ca-135中最高性能を誇り,日本でも評価は高かった訳ですが,結局採用されず,1939年のSlovakiaを巡る危機で,良いところが無かったマジャール空軍が,軍備強化のために3億リラの信用で購入したイタリア製軍用機の第一陣として,先ず,36機を採用しました.
ただ,マジャール空軍の装備は1940年半ばにずれ込み,しかも,同年に起きたRomaniaを巡る危機においては,未だに爆弾架が到着しておらず,張り子の虎状態だったり.
8月7日には,Debrecenで,国境を越えてきたRomania空軍の戦闘機に,Ca-135が襲撃されたりしています.
マジャールでは,最終的に100機が発注されますが,ドイツ製機体の充実に伴い,68機の導入で打ち切られ,B.501の名称で,3/5 Boszorkany(魔女)飛行隊に配備されました.
ちなみに,彼の国の空軍兵士達は,この機体の正面形状から,Ca-135/P11をBeka(蛙)と呼んだそうです.
Ca-135/P11は,1941年から実戦に投入され,ユーゴ戦線が初陣で,その後,1943年まで東部戦線南部に投入されて,実戦飛行をしていました.
最終的には,パルチザン掃討戦に投入された後,Me-210に取って替わられ,次第に爆撃練習機として使用されています.
ちなみに,Ca-135/P11の最終号機は1,400馬力のAlfa Romeo135 発動機を搭載して,一式陸攻並の性能を狙っていました.
この機体の開発は大戦勃発後も続けられていて,1400馬力級のIssota-Franschini AssoL180星形エンジンを採用したCa-325とか,1250馬力のIssota-Franschini
Zeta24気筒X形エンジンを搭載したCa-365なんかが計画されていたりします.
しかし,伊式重爆も,Piaggioエンジンを採用していれば,随分信頼性が向上したんではないでしょうかね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月11日21:25
【質問】
Caproni-Bergamaschi Ca-309系列の機体について教えられたし.
【回答】
元々,植民地用万能機であるCa-309 Ghibliから発展した機体で,309を引込脚化し,直列エンジンを星形エンジンに出力強化した310系列を経て,機首を透明風防化し,エンジンを出力向上させ,完全に軽爆撃機としたものです.
この機体の構造は,極めて頑丈だったのですが,製造時の工場に於ける構造検査基準が非常に甘く,発動機,油圧系統,電気系統(つまり全身)これ故障の続発.
しかも,排気管と燃料パイプが構造上,接近しすぎていたが為に,僅かな燃料漏れで発火するという欠陥商品だったり.
戦前,本国空軍には,Ca-309を北アフリカの植民地に69機配備し,Ca-312を1942年に北アフリカで試用した以外は,本格参戦まで専ら輸出用でした.
Ca-310はマジャール空軍がB.36として36機採用した他,クロアチア空軍にも配備されましたが,有名なのは,干鱈と交換して手に入れたノルウェー空軍で,4機のCa-310と20機のCa-312を発注し,これらは文字通り「干鱈」爆撃機と渾名されていましたが,ドイツ軍のノルウェー侵攻時には,Ca-310が4機しか配備されておらず,これらはほぼ喪われています.
Ca-313を採用したのは,1940年に90機発注したスウェーデンがB6,S16,T16,Tp16とそれぞれ,爆撃機,偵察機,雷撃機,輸送機として採用したのが最初でしたが,前述の問題で,空輸時に既に8機が喪われ,5年間で44名の死者を出した殺人機でした.
当時,大戦に参加して軍用機が不足していたイタリアでもこの機体を採用しますが,材料や予備部品,武装が不足して,何時もその入手は滞りがちだったそうです.
また,ドイツ空軍の要求で,機上作業練習や連絡用に,Ca-313Gが製作され,ライセンス契約でドイツ国内において,Ca-315の名称で1000機が生産される予定でしたが,1機も作られずに終わりました.
この系列の最後の発展型はCa-331で,最初のA型はHe-111に似た段無し透明風防で,770馬力のエンジンを搭載した偵察爆撃機でしたが,連合軍の爆撃が本格化すると,これを3座の夜間戦闘機に転用することとなり,段無し風防の機首は段付きの窓無しとなり,其処に12.7mm機関銃6丁を装備した他,840馬力のエンジンに強化され,B型となりました.
この機体は,残念ながら量産準備中に敗戦となり,ドイツ軍に押収されています.
ちなみに,何故かCa-313は1947年にも10機が製作され,軍に納入されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月09日21:31
【質問】
イタリアがP108を開発した理由って何なんでしょう?
技術的問題はともかく,イタリアがそんなに数を揃えられたとも思えませんし.
【回答】
イタリアは,大型爆撃機そろえて戦略爆撃ってアイディア(空中艦隊というのか?)が盛ん.
搭載力が大きくて,航続力のある爆撃機が欲しいとなると,多発化する.
1930年代中頃から長距離爆撃機研究に手を出して,P-50を試作したり.
P-108もその流れで,自然に開発されたと見てよい.
最初から数を揃えるつもりなんてなかったんだよ.
たしか当初計画でも50機ぐらいだった.
あの国は,戦力として有効かどうかは判断基準に入ってないから.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ロンバルダARとは?
【回答】
ARとはアサルト・ラジオギダートの略で,誘導ミサイルという意味です.
発案者F・ラファエルリ将軍はこの機体の前にSM79を無線誘導攻撃機に改造して,実際アルジェリア沖の英艦隊に攻撃をかけたことがあったそうです.(失敗でしたが)
ロンバルダはアンブロシーニ社製で,全木製!
普通のフィアットA80エンジン(1000hp)装備のため,2トンの爆弾を装着すると最大速度も360km/hという鈍足でした.
写真1・2
1943年初飛行に成功したロンバルダは,当初パイロットが搭乗して水平飛行までもっていき,無線誘導に切り替えるとパラシュートで脱出したそうです.
写真で見ると複座になっていますが,意味不明です.
写真3.
MC202とのミステル化は計画のみに終わったようです.
したがって,こんな粗末なスケッチ画しかありません.
MC202との接続はさっぱりわかりませんので,適当工作です.
下写真のロンバルダ胴体下部に爆弾倉が見えます.
1トン爆弾2発を搭載するため,でかいですね.
写真の多くは「Aerofan」というイタリアの航空雑誌からの抜粋.
ロンバルダはもともと戦前のグライダーメーカーでしたが,アンブロシニ社に吸収合併されたため,このAR4も「アンブロシニAR4」と表記されることもあります.
P-斎藤 in mixi,2007年08月22日15:11
& by massage,2008年06月04日 08時34分(青文字部分)
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