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(画像掲示板より引用)
Biplane Fighter Aces from the Second World War(英語)
「D.B.E.ミニ型」:ストライクウィッチーズOP【元ネタ戦闘機で再現】
JG109(模型サイト.WW2メイン)
Restoration of Spitfire Mk.VB BL628(復元機,英語)
「Togetter」◆(2011/02/26)漫画家・松田未来氏,WW2戦闘機のコクピット視界について
「御神楽」■(2011-06-09)クロアチア空軍と航空兵団
『Mr.ブラウン 空の鮫』(ジヤン・ツムバッハ著,フジ出版社,1978.12)
読了.
ポーランド戦の後RAFでエースになって,戦後は密輸業者を経て,アフリカへ雄飛を企てたりする盛りだくさんな内容.
中盤はビジネス中心で,ちょっと肩透かしを食ったけど,ナイジェリア駆逐艦にドラム缶爆弾を投下したりと,戦闘シーンの見所もけっこうあって面白い.
カタンガやビアフラの内情だの,RAFのポーランド人パイロットの戦いぶりに,興味ない人でも小説みたいに読めるから,図書館にあったら読んでみて欲しい.
-------------軍事板,2012/01/24(火)
『キラーと呼ばれた男 オーストラリア人エースパイロットの栄光と挫折』(クリステン・アレキサンダー著,津雲,2011.9)
第2次世界大戦でオーストラリア空軍のトップエースとなった,クライブ・R・コールドウェルの評伝.
著者はオーストラリア軍事歴史協会のメンバーで,何と女性.
彼女は,第2次大戦中にコールドウェルが出した自筆の手紙を入手した事から,彼との縁が出来,
彼の奥さんが託した膨大な資料から,コールドウェルと言う人の生き様を描いており,その描写は頗る丁寧.
軍歴の最初,つまり,空軍入隊から中東戦線で頭角を現すまで,そして,太平洋戦線に転じ,更に撃墜記録を重ねるも,次第にパイロットと言う天職から引き離され,部隊の指揮官として,不本意ながら軍法会議に掛けられるまでを,丹念に追っている.
400ページ近い本で,実に読み応えがありそうで,パラッと見た限りに於いては,おかしな訳は無さげ.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2011/09/03(土)
青文字:加筆改修部分
銀行員からスーパーエースになったコールドウェルについての空戦記,というより伝記ですね.
女性が書いて女性が翻訳,しかも訳者は軍事本は初めてという事で,専門用語は大丈夫か?と思ったのですが,久しぶりに「50口径12.7mm機関銃」に出会た.
この本の翻訳は,自然かつ緻密です.
内容は本人が書いたわけではなく記録,証言からの記述になります.
随所に語録が出てきますので,なかなか読める本です.
当時から相当な有名人だったようで,本人不在でも周辺事情は詳しいです.
アフリカではBf109と戦い,オーストラリアでは零戦と戦い,ガンカメラでは白煙を出す百式司偵が・・・
膨大な資料を駆使して書かれた本なのは,何十ページにも及ぶ参考資料欄からも分かるのですが,日本側記録はあっさりスルーされています.
本人が書いてないのはマイナスにならず,むしろ客観的視点になっていて好印象でした.
まだ前半までしか読んでいませんが.
-----------------軍事板,2011/11/28(月)
けっこう面白いよね,この本.
見越し射撃の訓練方法とか,マルセイユに射撃の腕前を誉められたりとか.
後半は後半なりに私は面白く読んだけど,おっしゃる通りでこの本,伝記であって戦記じゃないから,なんか延々と裁判(軍法会議)してたりとかで,戦記のつもりで手にとると,意外と空振り感を持つかも.
あと,巻末史料が充実しているのも特長.
飛行機の機種の説明なんかまで載ってるし.
グラディエイターの説明に,思わず吹いたわ.
-----------------軍事板,2011/11/28(月)
読了.
栄光と挫折という副題だが,挫折の部分はこういう事があったなんて全然知らなかった.
退屈がいけなかったんだろうか?
もう少し日本軍と遭遇する機会が多ければ,事件そのものも起こらなかったなんじゃないかと思ったり.
コールドウェルはスピットファイアに満足していなかったみたいだね.
生産国から遠いため,部品不足でエンジン不調,
4時間飛べば燃料切れになる,戦闘時に燃料消費すると帰れない,増槽の不足,機関砲はまるで信頼性がない,向かい風だと短い航続距離がさらに短くなって,未帰還機が出てしまう――などなど不満たらたら.
べた褒めP40に比べて,ずいぶん使いにくい機材だと思っていたのでは.
-----------------軍事板,2011/12/22(木)
『戦闘機』(レン・デイトン著)
バトル・オブ・ブリテンを客観的に書いています.
技術検証,人物検証も鋭い.
映画の「空軍大戦略」も,もちろん,何度も見ましたが.
――――――すいか in 軍事板
『第二次大戦のフィンランド空軍エース』(カリ・ステンマン&カレヴィ・ケスキネン著,大日本絵画,2000.7)
『フィンランド空軍戦闘機隊』(イルマリ・ユーティライネン著,大日本絵画,1997.7)
『フィンランド空軍第24戦隊』(カリ・ステンマン&カレヴィ・ケスキネン著,大日本絵画,2005.3)
「ワレYouTube発見セリ」:America’s First Jet Flight, October 1942
「ワレYouTube発見セリ」:Grumman F6F Hellcat vs. GM4 Betty
「ワレYouTube発見セリ」:Curtiss P-40 with the RAF, RNZAF and RAAF
「ワレYouTube発見セリ」:P-47s Germany 1945
「ワレYouTube発見セリ」:USAF: P-47 Fighter
「ワレYouTube発見セリ」:P-51 Mustang Historical overview
「ワレYouTube発見セリ」:The P-51 Mustang
「ワレYouTube発見セリ」:The P-51 Mustang
【質問】
WW2時代の戦闘機の性能を,実際の事象に基づいて比較してあるような資料はありますか?
あと,開発機のような書籍も教えてもらえるとありがたいです
【回答】
どのようなもんを想定してるのかいまひとつよくわからんが,とりあえず世界の傑作機シリーズを集め
,日本機については渡辺洋二の本(ほぼ全部が文春文庫にある)を読むといい.
開発機?が計画機試作機の意味なら,ドイツ機以外で現在入手できるものは多くない.
日本機・ドイツ機ならNF文庫に何冊かある.
ドイツ機はムック形式で多数出ているが玉石混淆.
立ち読みして判断すればいいから,余り問題はないけど.
あ,「一冊で全部比較」ってのも多数あるが,たいてい,いや全部が全部著者の個人的趣味の吐露に過ぎないので薦めない.
典型的な悪例として三野の「戦闘機対戦闘機」(たしかNF文庫にある)を挙げておく.
マニアのネタとしては必読本だけどな.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
第2次大戦のエース・パイロットって,世界中で何人くらいいるんですか?
【回答】
残念ながらすべてのエースの数を把握しているわけではありませんが,例えばアメリカでは,陸軍航空隊だけで大戦中に1300人以上のエースを輩出しています.
ドイツ空軍のエース,騎士十字章以上を叙勲した戦闘機パイロットは総数で566人だそうです.
また,フィンランド空軍は96名のエースを生んでいます.
日本陸海軍はヘンリー・サカイダの著書では,それぞれ百数十名が挙げられていますが,これらの多くは記録があいまいなので注意が必要です.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
WW2アメリカ,ドイツ,イギリスの戦闘機は,与圧キャビン持ってたのでしょうが?
【回答】
英国の場合,Ju-86P/RとHs-130対策で,SpitfireもMk.VIとMk.VIIで与圧室を設けています.
しかし実用化された時点で,既にJu-86やHs-130は来なくなったので肩透かし.
そのエアフレームを利用したのが,MkIXでこれが大量生産されていたり.
このほかに,専用高々度戦闘機で開発されていたのが,Vickers432とWestland
Welkin.
前者は不採用となり,後者が試作に勝って67機が量産されましたが,これまた,高々度爆撃機の悪夢は無くなったので量産は中止されています.
ソ連も同じく,Ju-86P/R対策でPetlyakovPe-2の原型であるVI-100を1938年に開発しています.
こちらは,排気タービンの不調でそれを外して,急降下爆撃機になりました.
ドイツはBf-190G-0〜G-3が与圧キャビン付き.
これも,生産が面倒くさいので,結局それを外して,量産に適した形にしたのがG-6.
イタリア,フランスの戦闘機は実用化されず.
米国はP-38の増加試作機の1機が与圧キャビンを付けて飛行しています.
これがXP-38Aで,続いて量産型B型,C型が計画されましたが,結局これらは試作のみで,実際の量産型はP-38Dで与圧キャビンは取り払われました.
その後,同じくLockheedが試作でP-49を製作しますが,エンジンの問題で断念.
更に,これを元にP-58を開発しますが,重量増で試作すら断念.
Curtissの単発戦闘機P-62も与圧室付きで,生産が予定されましたが,Curtissの既存機種(P-47G)の量産を妨げないようにと,試作で打切りになりました.
眠い人◆gQikaJHtf2
青文字:加筆改修部分
【質問】
大戦中の戦闘機の照準機は光像式が主流ですよね?
でも,わざわざこんな複雑なシステムを使う理由はなんでしょう?
現用ジェット戦闘機のように色々なデータを表示するわけではなく,照準環を表示するだけですよね?(ジャイロ式は除く)
それなら,前面風防に照準環を描いておけばいいのでは?
電球の球切れもないし,視界の邪魔にもならないと思うのですが.
【回答】
全然わかってない.
照準器の役目は銃身がどっちを向いてるかを示すことだ.
銃身の根元(射手の側)と銃口のところに,何か印をつける.
その二つの印(つまり,照門と照星だけど)が重なって見える位置にいれば,そのとき,視線の向きと銃の向きは一致していることになる.
そこで,さらに照門と照星と目標が一致していれば,銃は目標を向いていることになる.
しかし,照門と照星を一致させるといっても,絶対に一致させるというわけには行かない.
どうしても誤差が出る.
この誤差は照門と照星の間隔を広げることで減らすことができる.
レンズとか使って,照門と照星の間隔を光学的に見かけ上広くするのが,望遠鏡式の照準器.
ところで,銃の先に(銃身と一緒の向きになるように)真っ直ぐな棒をつける.
そのまま棒をまっすぐ伸ばしていく.
たとえば,100メートル先の目標を狙うなら,100メートルの長さの棒をつける.
そうしておけば,目標に棒の先が当たったところで,発射すれば,弾は絶対当たる(弾が真っ直ぐ飛べばだけど).
もちろん実際にそんなに長い棒を,真っ直ぐ,銃身に取り付けることはできない.
そこで光学装置を使う.
レンズとか使って,真っ直ぐ前方,ずっと遠い位置(無限遠方も可)に印を映せば,それは,すごい長い棒をつけたのと同じことになる.
これが光像式照準器の原理.
軍事板,2005/08/10(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
WWU当時,日本の陸海軍は毎年のように多数の新型機を投入していますが,ドイツやイギリスはメッサーシュミットやフォッケウルフ,スピットファイアやハリケーン等,ずっと同じ機種で戦い続けている印象があります.
メッサーやスピットの後継機が出現しなかった理由は何でしょうか?
逆に言えば,日本は陸軍機に限ったとしても,短期間に多種の戦闘機を投入しているのは何故でしょう?
零戦や一式戦はエンジン出力を補う為の突き詰めた設計なので,改修の余地が少なかったというのは解るのですが…
スピットやメッサーが,まるっきり別の機体と言えるくらいになるまでの改修に耐えることが出来たのは,基本設計が優秀だったからで,逆に技術力で劣る日本は毎回設計から練り込まないと性能を絞り出せなかった,みたいな認識で良いんでしょうか?
【回答】
メッサーはMe 309やらMe 209 IIやら,後継機候補がダメすぎたので無理にでも改良発展させざるをえなかった,というべき.
Me-109などは本来は,G型でもう改修の限界に来ていました.
ハリケーンは後期型スピットやタイフーンに更新されてるし.
エンジン出力を増やす方法としては,気筒数を増やすことが挙げられます.
ですが増やすと重量,外形が大きくなり,機体側の大改修か新型機が必要となってしまいます.
液冷はV12以降,H24などは成功作が早期に登場せず,空冷復列18気筒化もドイツのBMW139やBMW802は失敗し,イギリスも投入したのは後半になってからです.
日米は空冷18気筒に比較的早く成功しています.
マーリンとDB601/605は燃料が良くなった分(プラス水メタ),出力が増えている程度で,気筒数を増やした場合のような飛躍的な出力増大はないです.
日本の場合,気筒数を増やした新型エンジンの誉と栄の改良型を同時に開発できないのは,エンジン開発チームに余裕がないからです.
> 零戦や一式戦はエンジン出力を補う為の突き詰めた設計なので
> 改修の余地が少なかったというのは解るのですが…
航続力を無視してよければ,零戦の防弾はより充実したものとなるでしょうし,翼内タンクもぽいっと捨てられるので,より高速に適した抗力の低い翼型に出来ますね.
隼だって武装強化の方向が開けたでしょうね.
おお,まるっきり別の機体の出来上がりだ!(笑)
> スピットやメッサーがまるっきり別の機体と言えるくらいになるまでの改修に耐えることが出来たのは
> 基本設計が優秀だったからで,逆に技術力で劣る日本は
まるっきり別の機体になったわりには,航続力はずっとクソなままですね,どっちも.
大出力エンジンにあわせて新型を投入してきたのは米軍も同様ですが,つまりはそういうことです.
太平洋と言う広大な戦域で戦う日米は,いきおい航続力・運送性能・速度,その全てを高いレベルで満足させた機体を投入しないかぎり,相手に対する優位を確保できません.
旧型には限界があるのです,どうしたって.
基本設計の優劣なぞ,両者の最終型の航続力がいずれも疾風・ムスタングに及ばないと言うのを見れば分かるでしょう.
旧型はどう頑張ろうとも,総合性能で(マトモな)新型には勝てないのです.
日米双方,あるいはどちらかを意図的に貶したいヨーロピアンは無視してますけどね,航続力.
スピットやメッサーは航続力に目を瞑ってしまえば,日米の新型よりも優れているように見えるでしょうが,日米の新型が戦う空域まで「飛んでいけない」という,致命的な欠陥を抱えていると見ることもできるのです.
ifでしかありませんが,航続力と言う要素を無視してしまえば,日米の旧型機も少しは延命できたでしょうね.
置かれている戦略環境を無視して,瑣末な部分が劣っていた優れていたと論じるのはばかばかしいと思われます.
環境が違えば,導き出される最適解もまた異なるものとなるのです.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
大戦中,何故,イギリスやドイツは,日本やアメリカの様に航続距離の長い単発レシプロ戦闘機を開発しなかったのですか?
【回答】
長い航続距離を必要とするような土壌がなかったから.
あと,長距離援護戦闘機は,複戦に任せるつもりで居たから.
大陸の戦場は,飛行場から戦闘空域までの距離が短いから,わざわざ多量に燃料を積む必要がなかったわけ.あの航続距離で間に合ってたわけだ.極一部を除いて.
じゃあ,BOBはどうなの?って言う人が居るかもしれないけど,むしろBOBの方が例外的な戦場だと考えたほうがよいと思う.
なぜならBOBまでは,航続距離が短い点が問題にされたことはないし,その後の戦場でも,大して問題にされてないのだから.
逆に日本は,大陸奥地の敵拠点を爆撃する関係上,長距離援護戦闘機が必要であるという土壌があって,ゼロ戦を作った.
つまり,用兵思想の違いです.
ドイツ側から見れば,
「俺らのが短いんじゃなくて,日米の方の航続距離が長すぎるんだよ.ボケ!」
って感じなんでしょうね……
【質問】
双発戦闘機が実戦投入されたのは夜戦だけですか?
【回答】
日本の場合,B-29に護衛戦闘機がつくまでは,双発機も昼間の戦闘にしばしば投入されました.
護衛戦闘機がつくようになると損害が大きくなり,ほぼ夜間戦闘専用になりました.
ドイツの場合,大戦初期には機材を昼間戦闘と夜間戦闘で共用するというアイデアがありました.
昼間のパイロットの部隊と夜間のパイロットの部隊が同じ飛行機を交代で使えばいいんじゃない?というアイデアでしたが,整備の時間がとれないのと,1機の損失が昼間・夜間両方にとっての損失になるので
,すぐに取りやめになりました.
大戦末期には押し寄せる陸上兵力に対抗するため,夜間戦闘機も爆装して地上攻撃に投入されましたが,双発機の場合,高価な機材が激しく消耗するので,たいてい夜間専用に戻されました.
単発機の部隊はほとんど昼間戦闘部隊に改変されました.
従って,敵方に昼間戦闘機がついてなくて夜間戦闘機でも問題なく行動できる場合か,夜間戦闘機でもお構いなしに昼間戦闘に投入せざるを得ないせっぱつまった場合と言えるでしょう.
戦後は夜間戦闘機という区分が消滅して,後継者である「全天候戦闘機」は昼間にも普通に活動するようになりました.
軍事板
【質問】
日独は対爆撃機用の大口径搭載の戦闘機などを開発していますが,米英には似たようなコンセプトの戦闘機はありませんか?
【回答】
英国の場合は,旋回機銃塔のみの戦闘機と言うのでお茶を濁しています.
ですので,対爆撃機用の大口径機関砲搭載の戦闘機はありません.
対戦車用では,HurricaneMk.IIdが翼下に40mmを搭載していますが.
計画機でも精々20mm砲が精精で,変った所では,Boulton
Paul P.62と言う双発戦闘機が,胴体背部の中央翼上に平べったい砲塔を搭載し,此処に20mm砲4門を搭載すると言う,例のDefiantやRocの親玉みたいなものがあるくらいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
米国では,P-39 エアラコブラが正にそう.
また,P-38 ライトニング も, P-47 サンダーボルト も,開発コンセプトとしては「高高度で戦略爆撃機を迎撃する」ことが主眼にされていた.
ターボチャージャーがついてるのはそのせい(P-39も元はそういう設計)
結果的にはどれも開発コンセプトとは違った用途に回されて活躍しているわけだが.
あと,試作だけど ベル YFM-1 エアラクーダ っていうゲテモノもある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
イタリア,フランス,ソビエトそれぞれの「初のジェット戦闘機」は何ですか?
【回答】
ソ連の場合は,セミジェット機とでも言うべき,MiG-13(I-250)とSu-5が1945年に初飛行しています.
純ジェット機は,Yak-15が先に開発しました(Yak-3にJumo004を付けたもの)が,政治的事情で,初飛行は
MiG-9と同時期になっています.
イタリアの場合は,アンブロシーニが製作したピストンエンジン練習機から発展したSagittario2が1956年に初飛行に成功しています.
フランスはSud-OuestがSO6020-01迎撃機を1945年から設計開始し,1948年に初飛行に成功しています.
ちなみに,日本初のジェット戦闘機は,1977年のF-1になるのではないか,と思います.
橘花は特攻機ですから.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
敵国上空で撃墜され,脱出した戦闘機パイロットが,下にいる敵兵や民衆にブチ殺された例はありますか?
敵軍人ならともかく,空襲で家族を失い,怒り狂った民衆に刃物を持って追い回されたりしたら,拳銃一丁ではどうにもならず,国際法も話も通じずもう終わりなんてこともありえますか?
【回答】
ドイツ軍の対ソ連戦,いわゆる東部戦線では,ソ連側の戦線の後方に不時着した多数のドイツ軍パイロットがその後消息を絶っています.
捕虜になったものもいたかもしれませんが,その多くが地上で敵兵やパルチザンに惨殺されたであろうことは想像に難くありません.
一例を挙げると,188機のスコアを上げて柏葉騎士十字章を獲得したヨアヒム・キルシュナー大尉は,1943年12月17日に撃墜されてパラシュートで脱出しましたが,降り立ったクロアチア地方でパルチザンに捕われ,射殺されています.
日本では,本土防空戦で落下傘降下した戦闘機搭乗員が,住民に敵兵と思われて襲撃され,死亡するという事件がおきています.
これは昭和20年2月17日のことで,殺害されたのは横須賀空の山崎卓上飛曹です.
このため3月には,陸海軍共に味方識別のために飛行帽や右袖に日の丸を縫いつけることが通達されました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
最近の例では,いわゆる「ブラックホーク・ダウン事件」(モガディシュの戦闘)において,撃墜されたMH-60「ブラックホーク」ヘリのパイロットの一人が,ソマリア人の住民や民兵に殺害されている.
戦闘機じゃないけど.
【質問】
なぜ夜間戦闘機は昼間戦闘機よりも鈍重なのでしょうか?
【回答】
レーダー等の電子機器を搭載する必要があるし,爆撃機を墜すには大口径の機銃を何丁も積む必要があるので,その分,大型の機体が必要になる.
また,レーダーを搭載しているということはレーダー手が必要なので,最低でも複座になる.
だから夜間戦闘機は必然的に双発複座機が多くなり,単発単座が普通の昼間戦闘機と比べると鈍重になる.
ただ,夜間戦闘機は普通爆撃機だけを相手にするもので,夜間爆撃には護衛戦闘機が随伴してこないのが普通だから,運動性はあんまり重視されない.
F6Fヘルキャットの夜戦型とかFw190の夜戦型とか,単発単座の夜間戦闘機もあるけどね.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
フラニョ・ヂャルとは?
【回答】
クロアチア語版Wikipediaにある,第2次世界大戦時の撃墜王,フラニョ・ヂャル(Franjo
Dz^al)についての記事を,和訳してみました.
例によってざっくりと意訳な箇所が多々ありますので,間違いなどありましたらご指摘よろしくです.
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フラニョ・ヂャル(1906年4月9日ビハチ※1生まれ〜1945年9月ベオグラド没)は,NDH※2空軍大佐.
ビハチで小学校とギムナジウムを卒業し,1924年,ベオグラドの士官学校に入学した.
ユーゴスラヴィア王国軍では,戦闘機パイロット課程を修了した.
1941年4月のユーゴスラヴィア崩壊の時は,少佐の階級で,ニシュ(Nis~)※3の第5航空団※4の副隊長だった.
NDH空軍では,東部戦線においてクロアチア人航空兵団の第4戦闘機隊※5隊長だった.
彼の数多くの輝かしい勝利のゆえに,その隊は非公式に「ヂャル部隊※6」と名付けられた.
東部戦線で,合計撃墜数56の戦果を挙げ,1945年3月,NDH空軍司令本部※7長の地位に就いた.
NDHの崩壊後,捕虜となり,ベオグラドのDFJ※8の特別法廷で,1945年8月に死刑を宣告された.
※1:ボスニア西部の都市.クロアチアとの国境付近に位置する.
※2:クロアチア独立国.クロアチアに建国されたナチスの傀儡国家で,ファシスト組織ウスタシャに支配され,セルビア人へのジェノサイドを行った.クロアチア語では,ネザヴィスナ・ドルジャヴァ・フルヴァツカ(Nezavisna Drz^ava Hrvatska).
※3:セルビア南部の都市.
※4:原文では5. zrakoplovna pukovnija.辞書を引くと,pukovnijaは空軍のwingと出る.よって,「航空団」と訳出した.
※5:ここではskupinaを「隊」と訳出した.
※6:おそらく元の形は,ヂャロヴァ・スクピナ(D?alova skupina).
※7:Stoz^er Zapovjednis^tva vojnog letas~tva NDHなので「NDH空軍司令本部」と訳したが,佐官がそんな地位に就けるものだろうか?
※8:民主連邦ユーゴスラヴィア(Demokratska Federativna Jugoslavija).ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の前に短期間できた政体らしい.
僕にもよくわからないので,クロアチア語版Wikipediaの記事を参照してくだしあ.
Demokratska Federativna Jugoslavija - Wikipedija.
「ストパン」■(2011-06-07)クロアチア独立国空軍の撃墜王,フラニョ・ヂャルについてのメモ
青文字:加筆改修部分
クロアチア独立国空軍の撃墜王,フラニョ・ヂャルについてのメモ
- Danas je lep dan.
に触発されて,相も変わらず毎度のオスプレイ本とメモ帳を引っ張り出す(笑
(主要参考資料:クロアチア空軍のメッサーシュミットBf109エース)
引用元資料にあったフラニョ・ジャールで一応書いてあります.
近いうちにヂャルでメモり直そう(笑)
■フラニョ・ジャール(Franjo Dzal)
1909年4月9日,ビイェリイナ生まれ.
1927年ペトロヴァラディンの偵察員学校に入学.翌年,ノヴィ・サド第一飛行連隊(1.VP)パイロット学校へ入学を許可され,1931年,ゼムンの第六戦闘機連隊(6.LP)の戦闘機パイロットになった.
大戦勃発前夜には既にウスタシャに加盟しており,大戦前のユーゴスラヴィア王国空軍においてもっとも広く知られたパイロットの一人だった.
枢軸軍によるユーゴスラヴィア侵攻が開始された時,彼はレザノヴァチカ・コサおよびコサンチッチに配備され,ホーカー・フューリー×25機,アヴィアBH-33E×1機を擁するた第五戦闘機連隊(5.LP)の副指揮官だった.
1941年4月6日早朝,ドイツ空軍のBf109,Bf110がルジァノヴァチカ・コサ※1飛行場を攻撃してきた時,彼は離陸を避け,旧式な複葉機で構成された第六戦闘機大隊(6.LG/※2)の友軍機が次々と撃墜されていくのを地上で見ていた.
この戦いで,離陸途中だった5機を含むフューリー×10機,地上でフューリー×2機他練習機と連絡機の計14機が失われた.ドイツ軍側の損害はBf109×3機,Bf110×1機の4機だった.※3
1941年4月19日,クロアチア軍創設.同29日,彼は少佐の階級でクロアチア独立国(ZNDH)に参加した.
1941年6月22日,独ソ開戦.同27日,クロアチア兵団設立.同年7月12日,クロアチア航空兵団(HZL)設立.同兵団の実戦部隊,第四混成航空連隊(4.MZP)指揮下の,第四空軍戦闘機飛行隊(4.ZLS)の指揮官に就任する.
4.ZLSの前線への移動は配備機不足で延期された後,ドイツで約二ヶ月の戦闘訓練を受けたパイロットから選抜されたパイロットを中心に先発隊が編成され,彼はこれに加えられた.この部隊は予定していた25機編成から規模を縮小して合計11機でウクライナへ指揮官として出発.ポルタヴァで第52戦闘航空団第三飛行隊(?./JG52)に配属され,15(クロアチア)./JG52という中隊番号をつけられ,10月9日には隊員が初戦闘を経験する.
1942年10月,中佐に昇進.
1941年11月7日,彼はラタ1機を初撃墜.部隊としては3機※4めの撃墜となる.
また,彼は編隊の列機3機と離れ離れになった際にラタ4機を撃墜し,基地に帰還すると歓声を上げた.クロアチアの新聞とラジオはこの戦果を大々的に報道し,彼には大量の祝辞が届いたが,ドイツ空軍の戦果評定委員会は撃墜不確実との判定を下した.この判定はNDH最高司令部からの要請にも覆らず,不満をもったジャールは年末に本国帰還命令を受け,チュリノヴィッチ少佐と指揮官を交代した.
1942年2月25日,フラニョ・ジャールは同中隊の指揮官に復帰した.彼が指揮官を務めたこの時期,同飛行隊は非公式に『戦闘飛行隊「ジャール」』と呼ばれた.
1942年3月25日,彼は部下1機を連れて偵察機と合流する筈だったが悪天候の為に偵察機が到着せず,パトロールを続けた彼らは9機から成る敵攻撃機の編隊と遭遇してこれを攻撃し,彼は一機を撃墜した.敵攻撃機は爆弾を捨てて後退し,代わって10機の戦闘機と対空砲火による攻撃を受けた.彼の機は命中弾を受けて損傷し,低い雲によってお互いの機影を見失い,無線も不通になったものの無事帰還した.
この頃には中隊機の稼働率は低下し,補充される機体もドイツ軍が使い古した老朽機ばかりだった.ドイツ軍にF型が行き渡った頃になっても,彼らは未だにE型(エミール)が配備されており,強い不満を抱いていた.
1942年6月3日,彼はベルリンへ赴いてZNDH駐在武官マリヤン・ドランスキ中佐を通じて強く不満を申し立てた.7月1日からグスタフの配備が始まり,月末までに14機のグスタフが配備されたことで同中隊は戦果を伸ばした.
1942年7月26日,彼と部下の2機は多数のソ連機から攻撃を受けて被弾.敵戦線の内部に墜落したが,数時間後にドイツ軍側の戦線に脱出した.
1942年9月11日,彼を含むグスタフ×4機はパトロール中にチャイカ×5機,ラタ×14機の大編隊と交戦し,彼はそれぞれ1機の計2期を撃墜したが自身も被弾.辛うじて基地に帰還した.
1942年11月15日,15(クロアチア)./JG52のパイロットたちは一時クロアチアに帰国して休養をとった.この一度目の派遣における彼の戦闘出撃は157回.戦果は確認撃墜16機,確認外撃墜3〜5機.部隊第二位を記録する.
1943年2月12日,同中隊は再び戦線に移動を開始し,3月30日には前線に復帰した.前線を離れていた三ヶ月の間に,戦況は著しく悪化していた.
この頃から,マト・ドゥゴヴァッツら次世代のエースが活躍が目立つようになると共に,フラニョ・ジャールは戦闘に出撃しなくなる.
1943年5月12日,彼の弟であるジーヴコ・ジャール軍曹他数名が配属される.同15日,彼は弟の初陣に付き合って先頭に立って出撃し,Ju88の護衛任務に就いたが何事も無く帰還する.この出撃は,この時期における彼の唯一の出撃となった.
1943年5月22日,彼はクロアチア航空兵団(HZL)全体の指揮官に任じられ,中隊指揮はイヴァン・チェニッチ少佐に引き継がれた.
しかし,戦況が悪化し始めたこの頃からクロアチア人兵士の忠誠心は薄れ始め,多くのベテランパイロットは出撃を忌避し,パイロットの脱走が相次ぐようになる.彼もまた,全く出撃しないどころか毎日のように酒を浴び,酔っていない時間が珍しいほどだった.(※5)(※6)数回連続した脱走によってドイツ航空将はクロアチア中隊の飛行禁止を命令し,彼を出頭させて事情聴取し,結局,彼はクレーン将軍によってクロアチア航空兵団の指揮官から解任され,帰国して閑職に廻された.
1943年11月2日,ゲーリング元帥の命令によってHZLの司令官に復帰したが,戦況は悪化する一方だった.
1944年2月,大佐に昇進したジャールは,翌3月,作戦担当将校としてZNDH司令部に転任.
1944年6月27日,クロアチア航空兵団の第三回創設記念日の直前に,同兵団は,クロアチア独立国空軍(ZNDH)への復帰の約束を反故にされてドイツ指揮下に留めおかれるとの発表があった.このニュースは兵団の失望と反感を買い,隊員から五名の脱走者を出した.
彼は兵団隊員に対して演説を行い,兵団に残りたくない者は次の三つのいずれかを選べと無遠慮に言い放った.クロアチア独立国空軍に戻るか,もっと訓練を受ける為にドイツに行くか,パルチザンになって「森の中へ行く」かのいずれかである.隊員は一斉に口笛と反対の怒声を彼に浴びせた(※7).対抗措置が取られ,航空兵団(HZL)は解散されて別組織になり,翌1945年前半には後継組織も消滅している.
大戦末期,彼はスロヴェニアでユーゴスラヴィア軍部隊の捕虜になり,ベオグラードで軍事法廷で死刑判決を受け,1945年10月に処刑された.
※1:さっきとカナ読みが違う(笑)
※2:おそらく第五飛行連隊を構成する飛行大隊
※3:事実上の40対5,しかも旧式な複葉機で4機撃墜したのは十分だと思うのは私だけだろうか.それとも記載されていない戦力がもっとあったのか?
※4:あるいは4機(笑)
※5:弟の初陣に付き合った一度きり
※6:ついでに,敬礼して報告する部下を前に,犬を相手に遊んでいる写真もある
※7:資料によっては80%がZNDH復帰を望んで拒否されたとある.資料によっては,と書いてあるので不正確なのかも.
「御神楽」■(2011年 06月 08日)[資料]フラニョ・ジャール関係
【質問】
アビアB35.1
アビアB35.2
という模型が出ます.
1938年初飛行,チェコスロバキア初の低翼単葉戦闘機で,液冷エンジンの固定脚だとか.
もっと詳しいことを教えてください.
【回答】
昔,CzechのKPから1/72でプラモが出ていました.
すんごく作りにくかった覚えが….
機体自体は,1938年初頭からB.534の後継機として設計が行われたもので,最初のB.35/1はB.534の単葉化から発展したものです.
なので,最初の試作機は固定脚でした.
機構的にも引込脚は複雑ですし,構造も簡単で,重量も引込機構のない分軽くできる,と.
胴体は鋼管骨組で,前半はジュラルミン張り,後半は羽布張り,主翼は木製で,ジュラルミンと木を接着した合板で作られています.
この構造はB.534と全く同じで,B.534に比べると,Hispano-Suiza12Yシリーズでもモーターカノンを付けた12Ycrsを装備しています.
まずこの習作による試作試験を経て,離着陸性能改善の為の補助翼と大型フラップを取り付けたのが,B.35-2.
ちなみに,Aviaの機体は先ずベースとなる機体を開発し,それを徐々に改善していくという手法が多いです.
そして,1939年8月に初飛行したのが,本格的な戦闘機型で,これが本命のB.35-3です.
こいつは,固定脚から引込脚に代わったのが最大の改良点.
で,更に主翼近辺を中心に改良を加え,より実用的にしたのがB.135.
この機体は,Bulgaria空軍の戦闘機として12機が輸出され,1941年に引き渡されています.
Bulgariaは同時にLicenceも購入し,部品図がBulgaria国立航空機工場に引き渡されましたが,大戦の進展でドイツ機が供与されたため,生産は中止となり,この機体の開発も中止されています.
Bulgaria空軍の機体は,配備後,本土防空用の迎撃機となり,Rumaniaの油田を空襲しに来た米国陸軍航空隊の爆撃機と激しい戦闘を繰り広げています.
【質問】
I.A.R.80について教えられたし.
【回答】
後にI.A.R.80として知られることになる航空機の開発は,1937年10月から開始されました.
それは,P.24から操縦室や後部胴体,内部装備品を流用するものでした.
このプロジェクトに於て,試作機を作り上げるには60,000時間を費やしました.
試作機の最初の金属製部品は,その年の12月に完成し,1938年早春に可成りの部分が完成します.
金属部品はライセンス生産工場から供給され,IAR80の最低限の飛行に必要な部品を払い出しています.
胴体の構造部材は,鋼管を溶接したものから構成され,それにジュラルミンの金属カバーを貼り付けたもの.
そして,動力系統は,ポーランド製戦闘機の余剰部品を取り付けました.
【質問】
北欧の「零戦そっくりさん」,サーブL-12について教えられたし.
【回答】
『あっと驚く飛行機の話 新しい視線で眺めるWWU』(飯山幸伸著,光人社NF文庫,2008.5)によれば,SAAB
L-12は1930年代末にスウェーデンで計画されていた戦闘機.
「北欧空戦史」や「弱小空軍の戦い方」などによると,第二次大戦直前のスウェーデンは空軍力の強化に狂奔しており――当時の主力戦闘機はグラディエーターやヤクトファルク等の複葉戦闘機――,アメリカ人の技師たちの指導によって計画されてた戦闘機(採用されればSAAB-19と呼ばれる筈だった).
本書のP.317に記載されてるスペックによれば
ブリストル・トーラスU(1065馬力)搭載
全幅10.5m
全長不詳
全備重量2690s
最大速度605q/h
13.2o機銃×4,8o機銃×2
しかし第二次大戦の勃発に伴い,アメリカ人技師たちは帰国.
またSAAB社は二種類の爆撃機を同時に開発中だった事から計画段階で中止.
戦闘機はアメリカからP-35戦闘機の輸出型であるEP-106を購入する事にした.
(爆撃機戦力の近代化も急務であった.この二種類の爆撃機はSAAB-17軽爆とSAAB-18中型爆撃機となる)
P.31の三面図を見てみると零戦に似てなくもないが,個人的にはカーチスP-36の面影が濃く見えます.
余談だがスウェーデンが期待したこのEP-106という機体,発注した数の半分が到着した時点で米政府の禁輸措置に引っかかり,入手不可に.
第2次大戦が激化していく中,極端な戦闘機不足に陥ったスウェーデンは,大急ぎでイタリアから戦闘機(といっても「外貨目当てに輸出してもかまわないので許可した」レベル)を買い入れる一方,戦闘機の国産化を目指して開発されたのが,手堅い設計の戦時急増戦闘機J-22と本命の単発双胴,推進式プロペラの戦闘機J21.
(いつ戦争に巻き込まれるかわからないし,すぐ近くには中立宣言なんぞ屁とも思わない指導者が2人もいるのだ)
ちなみにこの機体が零戦に「似ている」点について,著者は
「思い込み」「他人の空似」
そして
「スウェーデンの零戦似の計画戦闘機は実機が作られることはなかったが,1930年代後半から1940年代にかけての時期,空冷星型エンジンの戦闘機ならば,「エンジンの大きさに合わせた極力コンパクトな胴体」「主車輪を収納するテーパーした主翼」「コックピットは胴体の一番高いところに置かれて全周囲視界」「比較的,舵面が大きな尾翼」というのが流行のモードだったことを示しているようでもあるのだが….」(P.32)
と指摘しています.
そういや昔,日本の(加藤隼戦闘隊で有名な)第六四戦隊の戦記(タイトル忘れた)でカーチスP-36戦闘機は隼と姿形や運動性能が比較的似ていて意外と苦戦する相手だった,という記述があったが,だからといって
「隼はP-36のコピーだ」という話は聞かないのはなざだろう?〔原文ママ〕
(それとも知らないだけ?)
グンジ in mixi,2008年05月11日16:52
【質問】
何故,第2次世界大戦初期の戦闘機は,武装が貧弱なのでしょうか?
貧弱だと,十分な制空戦闘や邀撃戦闘ができないのでは?
12.7o機関銃6〜8丁や20o機関銃4丁など,もっと重武装の戦闘機を開発すればいいのに.
【回答】
そりゃ初期はエンジン出力が低いし,機体強度も低いから.
戦前の戦闘機の技術レベルだと,あまり大きな馬力のエンジンが開発できてなかったので,飛行機としての性能をちゃんと確保したいなら,あまり重い武器が積めない.
だから単発の戦闘機では積める武装に限度があった.
で,これを何とかするために各国で開発されたのが「双発戦闘機」で,要はエンジン2つ積めば馬力2倍だから,重武装と基本性能を両立させられるだろ,というコンセプト.
実際は「確かに馬力は倍になったが,機体が大きくなった分機体自体が重くなったので,さらに重武装させたら鈍重になった」のは良く知られている通り.
航空機の技術が日進月歩で進歩して,馬力のでかいエンジンが開発できるようになったため,単発式でも重武装と基本性能が両立させられるようになり,P-47とかの大型戦闘機が続々開発された.
戦争中期以降も,軽武装機を使い続けた某国の方が問題だと思うぞ.
44年に,12.7o機銃二丁の戦闘機を主力で使い続けてたんだから.
重武装の必要性が証明されていなかったことも理由でしょう.
戦闘機は巴戦で戦うもの,という常識なら重武装はむしら運動性低下に繋がるから嫌われるでしょう.
他に,撃たれる側にも防弾装甲や自動防漏タンクが装備されてない物が多い,というのもある.
例えばバトル・オブ・ブリテンの頃の戦闘機は,英独双方共に防弾対策が不十分.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
エリコン20mm機関砲って何?
【回答】
エリコン Oerlikon 20mm機関砲は,スイスの兵器メーカー・エリコン社が開発した航空機用機関砲です.
20x72RB弾を用いる最軽量のFF、20x101RB弾を用いるFFL、20x110RB弾を用いる大型のFFSと,3つの種類がありました.
1921年に生産が開始され,日本海軍でも九九式
20mm機銃としてライセンス生産し,零戦などに搭載されました.
【参考ページ】
http://www.navnav.jp/word-association/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Oerlikon_20_mm_cannon
http://sidenkai21.cocot.jp/m470.html
http://www.warbirds.jp/ansq/1/A2000714.html
http://homepage3.nifty.com/sweeper/gun/hmg/99-1.htm
頭の悪そうなアイドルが,自分を呼ぶときの呼び名ではない.
【ぐんじさんぎょう】,2009/3/20 01:00
に加筆
ばかにすんな! 中村さん馬鹿にすんな!
VF-22 in mixi,2009年03月19日 00:29
【質問】
「ユーティライネンの,イタズラと航空戦に明け暮れた愉快な毎日」を知るには,何を読めばよいのかしら
?
【回答】
ご自身が本書いてます.
『フィンランド空軍戦闘機隊』というのがそれです.
・基地の側で釣れる魚がうまい!釣りが一番うまかったのは…
・イタズラしてやったよ!あいつびっくりしてたよ!
・イタズラしたよ!大目玉食らったよ!でもね…
・部隊の合計撃墜100を祝して飲んだよ!
・ヒトラーの髭の色,実際見てみるとね…
まあこういう話が延々と.
文体はこんなんじゃないけど(笑)
…なんというか,天真爛漫で,いい意味で子供がそのまま大きくなったような印象を受けると思います,はい.
あと,注釈が異様に細かく,それだけで本が書けそうなレベルに達している事,写真が多数載っていること,他のフィンランド空軍エースのインタビュー付がついていること,などなど非常に内容は濃いです.
軍事板,2009/08/13(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
アイノ・ルーカネンって誰?
【回答】
Eino Antero LuukkanenはWW2におけるフィンランド空軍エース.
最終階級:少佐.第34戦闘機隊司令.
総撃墜数56機.
著書に『フィンランド上空の戦闘機』(大日本絵画,1999.4)があるので,詳しくはそちらを参照されたし.
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