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「Togetter」◆(2013/05/30) 【アジ歴】徹甲弾・徹甲榴弾・破甲榴弾の対ベトン(コンクリート)抗力の概算
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「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 12 (忌み嫌われる砲兵)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 13 (砲兵を捨てる機械化部隊)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 14 (砲兵に頼らない戦争)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 15 (火力戦ドクトリンの復活)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 16 (砂漠の機動戦)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 17 (モンティ登場以前にあった変化)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 18 (エルアラメイン戦が示した原則)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 19 (機動力と火力)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 20 (ドイツ軍砲兵火力の分散)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 22 (ソ連軍の火力主義)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 23 (モスクワ戦で何が起きたか)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 24 (戦場の女王とはどういうことか?)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 25 (突撃砲という名の戦車 1)
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「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 29 (第18砲兵師団とは何か)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 30 (ソ連軍の自走砲)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 31 (バクラチオン作戦の砲兵戦術)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 32 (T−34の損害要因)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 33 (後れをとるアメリカ軍砲兵)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 34 (イタリア戦線での学習)
「いろいろクドい話」砲兵の仕事 35 (アメリカ軍の自走砲)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 36 (機動力と火力の逆転)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 37 (火力主義の背景)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 38 (砲兵から見たアルデンヌの戦い)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 39 (第二次世界大戦のまとめ)
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 番外編 (名前の無い航空戦 1 )
「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 番外編 (名前の無い航空戦 2 )
「カラパイア」:【画像】ロシア軍の掩蔽壕(えんぺいごう)廃墟
「 ワレYouTube発見セリ」:1941-Russian position building (ロシアの塹壕やトーチカなどの拠点的建造物)
『Andare Cntro i Carri Armati』
faq20i01e46.jpg
イタリア軍の対戦車兵器本.
火炎瓶から自走砲まで,第2次大戦中に使用された,ありとあらゆる伊軍の対戦車兵器が網羅されていますが,対戦車ライフル好きとしては,スイスのゾロターンから輸入したS型20ミリ自動対戦車ライフルの解説もあったのが嬉しい.
――――――よしぞうmaro' in mixi,2007年09月09日00:43
『ドイツ軍装備大図鑑 制服・兵器から日用品まで』(アグスティン・サイス著,原書房,2011.11)
【質問】
第二次大戦のドイツ軍が防御に使ったという,トーチカの上に戦車砲塔を乗せたものって,主にどの時期にどのあたりで使われていたんでしょうか?
【回答】
1943年5月に,戦車砲塔のトーチカへの利用の指令が出された.
初期はI・II号,35・38(t),採用されなかった試作車(VK3001(H)とか),マーダーIIに再改造されたII号火炎放射戦車の砲塔のみが使われる予定だった.
1944年2月に,古い42口径5cm砲を搭載するIII号戦車の砲塔を使う許可が出て,10月にはR35,P40,T-34,KV-Iといった捕獲戦車の砲塔を使う許可が出た.
もっとも,ノルマンディー上陸作戦の頃には既にFT-17やH35,S35の砲塔を使ったトーチカが見られるけど.
配備数などは,グランドパワー誌2007年12月号に詳しい.
軍事板
青文字:加筆改修部分
(画像掲示板より引用)
【質問】
米軍歩兵師団の装備を教えてください.
【回答】
米軍の1943年型歩兵師団で,
将兵総数:14,253名
榴弾砲:合計66門
・105mm榴弾砲54門
・155mm榴弾砲12門
迫撃砲:合計144門
・60mm軽迫撃砲90門
・81mm迫撃砲54門
対戦車砲:
・57mm対戦車砲57門
30口径カービン:5204,
30口径ライフル:6761,
45口径拳銃:1157,
30口径機関銃:157,
50口径機関銃:236
45口径サブマシンガン:90
突撃舟艇:14,
観測機:10,
トラクター:3,
救急車:30,
乗用車:1,
トラック計1337
M3ハーフトラック:5,
M8装甲車:13
◆◆◆WMD
【質問】
ドイツ軍は化学兵器を使用したか?
【回答】
1941年12月から開始されたセバストポーリ包囲戦において使用.
(吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕 from 「疫病最終戦争」,
ビジネス社,2001/12/20,p.,52 抜粋要約)
【質問】
ドイツ軍の化学戦準備は,どの程度のものだったか?
【回答】
吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕によれば,以下の通り.
第2次大戦開戦時,ドイツは約2900tの各種毒ガスを保有していたが,ヒトラーがガス攻撃を禁じたため,効果的な撒布手段を持っていなかった.
ただし,新型ガス開発にはドイツは極めて熱心だった.
1942年には致死性神経ガス,タブンを開発し,大戦終了間際にはサリンの生産に取り掛かろうとしていた.
また,ソマン開発も進行中だった.これは致死性の有機燐化合物の神経ガスで,サリンよりもさらに強力だった.
( from 「疫病最終戦争」,ビジネス社,2001/12/20,p.52, 抜粋要約)
【質問】
英軍の化学戦準備は,どの程度のものだったか?
【回答】
吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕によれば,以下の通り.
1940年7月,ドイツ軍によるイギリス本土上陸作戦が実行されるかに見えた時期,英軍は各種毒ガス約410tを保有していたと言われる.
これが41年12月には1万5262tになり,終戦時にはこれがさらに倍増していた.
撒布方法としては砲弾・爆弾に詰めて発射・投下することが考えられていた.
これら毒ガスはドイツ軍上陸の場合には使用されていた確率が高いが,チャーチルが真剣に毒ガス使用を考えたのは,44年6月からロンドンに向けてV-1による攻撃が開始された時期である.
チャーチルは,ドイツがこの新兵器の弾頭に生物兵器を用いるのではないかと恐れたのである.
ドイツがボツリヌス毒素をドイツが開発したことを,情報によってイギリスは知っていたから,それに対する報復措置ということだったが,チャーチルの案は実現性に欠けるとして参謀本部から却下されている.
しかし連合国側は以後,ボツリヌス毒素の解毒剤開発に力を注ぐことになる.
結局,ボツリヌス毒素も,それに対する解毒剤も,実戦使用されることはなかった.
(「疫病最終戦争」,ビジネス社,2001/12/20,p.52-53, 抜粋要約)
【質問】
米軍の化学戦準備は,どの程度のものだったか?
【回答】
吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕によれば,以下の通り.
第2次大戦参戦時のアメリカは,化学戦に対する準備ができていなかった.
しかしイギリスとの協定が手際よく成立,共同作戦の手筈が整えられていった.
イギリス駐留のアメリカ陸軍第8航空軍には,イギリスからホスゲン爆弾1万発が供与されていた.
程なくしてアメリカの生産も軌道に乗るようになり,新たに13の各種毒ガス生産工場が建設されている.
1945年までに,アメリカは8700tの有毒化学物質を保有するまでになった.
アメリカが化学兵器使用に踏み切ろうとしたのは,45年2月19日からの硫黄島攻略戦のときである.
スフィンクス作戦と称するデモンストレーションで,アメリカ陸軍は,通常爆薬では効果の薄い洞窟陣地に対しては,毒ガス攻撃が極めて有効であることを知らされた.
自軍の損害を可能な限り押さえ込むために,全島が堅固な洞窟陣地で固められた硫黄島に対し,アメリカ軍は毒ガス攻撃を決心したのである.
しかしルーズベルト大統領の決定により,この計画は中止された.
彼は報復以外に化学兵器を使用する事はないと宣言していたからだが,日本側も毒ガス兵器を所有していたから,それによる報復を無視するわけにはいかなかったはずである.
( 「疫病最終戦争」,ビジネス社,2001/12/20,p.53-54, 抜粋要約)
第2次大戦中にイギリスは作物を破壊する化学薬品を開発し,そのデータをアメリカに提供.
アメリカはそれを日本の稲田に使用する計画だったが,実行には移されなかった.1945年中盤のことである.
(同 p.55, 抜粋要約)
【質問】
第2次大戦で,生物兵器が使用された例はあるか?
【回答】
吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕によれば,以下の通り.
1943年,小規模ながらポーランド国内軍が使用している.
この攻撃により,ドイツ軍兵士とゲシュタポ要員,数百人が死亡している.
使用されたのは,腸チフスの病原菌に感染させたシラミだった.
(「疫病最終戦争」,ビジネス社,2001/12/20,p.58-59, 抜粋要約)
【質問】
英軍の細菌戦準備は,どの程度のものだったか?
【回答】
吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕によれば,以下の通り.
イギリスは1930年には,炭疽菌に関する実験を開始していた.中心になったのは,ウィルトシャー州ポートンダウンにあった化学防衛実験体制(Chemical Defense Experimental Establishment)に所属する化学者だった.
特に,ポール・ファイルズとディヴィッド・ヘンダーソンが結成したチームは,アメリカ人化学者の見守る中,炭疽菌を詰めた25ポンド爆弾を,ロープで繋がれた数十等の羊の群れに飛行機から投下.
場所はスコットランド北西部沿岸約5kmの沖合にあるグルイナード島で,1942年夏のことだったと記録されている.
この実験は防護策が不充分な状態で行われたため,島全体が汚染される結果となり,1986年になってやっと立入が許可される始末だった.
しかし,この実験により,炭疽菌を培養して武器として爆弾に詰め,飛行機で何百kmも輸送した上で,目標に向かって投下できることが立証されたのである.
羊は殆ど死亡したが,生き残った羊は後に処分されている.
また,別の計画としてイギリスは,炭疽菌似汚染された牛の飼料の開発を,1941年12月から開始している.ドイツの牧草地に投下するのが目的だった.
他に,小型の炭疽菌爆弾の開発にもイギリスは成功していて,それをアメリカに提供,大量生産を促した.
V-1ロケットがロンドンに飛来した際には,アメリカから炭疽菌爆弾を提供してもらい,それによって反撃を行うという計画も存在した.イギリスの参謀本部が検討した作戦.英米は,生物化学兵器の開発・生産・情報については共同で行うという事で同意していたからである.
しかし,炭疽菌爆弾に関するこのイギリスの要求は,アメリカ側に拒否され,イギリスの報復計画は挫折した.
アメリカ側の拒絶理由は,日本に対して生物化学兵器を使用する必要が起きた際,行動の自由を確保しておきたいとの思惑があったものと見られている.いちいちイギリスに相談して決めるというのが煩わしく思えたに違いない.
なお,ヒトラーが生物化学兵器使用を厳禁としていたため,V-1に生物化学兵器が搭載される事はなかったが,ゲシュタポ長官ヒムラーは,この禁令の抜け道を探して生物兵器開発を試みたことが明らかになっている.
( 「疫病最終戦争」,ビジネス社,2001/12/20,p.59-61, 抜粋要約)
【質問】
米軍の細菌戦準備は,どの程度のものだったか?
【回答】
吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕によれば,以下の通り.
アメリカは1942年からボツリヌス菌と炭疽菌の研究を開始,44年までには相当な成果を上げるに至っている.
化学戦局(CWS)は工場での生産設備を整え,炭疽菌爆弾を1ヵ月当たり1.8kg生産することが可能になっている.
また,ある程度のボツリヌス菌の撒布方法も完成させている.
ブルセラ症や鼻疽病の研究も鋭意進められていた.
(「疫病最終戦争」,ビジネス社,2001/12/20,p.60, 抜粋要約)
◆◆◆火砲
【質問】
大戦中のドイツの有名な88mm対空砲(36型でしたか)に,対戦車用の徹甲弾や対地攻撃用の榴弾が製造され,配備され出したのはいつごろからなのでしょうか?
【回答】
http://en.wikipedia.org/wiki/88_mm_gun
によれば,最初に開発されたFlak18の時点で,対戦車戦を前提として徹甲弾や対戦車榴弾があった.
アハトアハトが対地目標に対しても絶大な威力があると認識されたのは,スペイン内乱に派遣されて実戦運用した時.
第2次世界大戦ではPzgr39という徹甲榴弾が開戦当初から装備されていた.
あと,いわゆる「ハチハチ」の最初の型は「8.8
cm FlaK 18」(8.8cm高射砲(19)18年型)と言う名前だが,これはヴェルサイユ条約の規制に高射砲がひっかかるために年式を誤魔化したためで,実際には開発されたのは1928なので注意.
軍事板
青文字:加筆改修部分
牽引中の88mm高射砲
(画像掲示板より引用)
【質問】
ドイツの88mm砲による活躍は有名ですが,連合国や日本では高射砲を対戦車戦闘などに転用して戦果を挙げた例はあるのでしょうか?
ドイツ側の重戦車に対抗するには有効な手段だと思うのですが.
【回答】
英国では,元高射砲だった3in20cwtを搭載したChurchill自走砲が,1942〜43年に掛けて製作されていますが,少数生産で終わりました.
後,イタリア戦線では,3.7in高射砲を野戦砲代わりに使用しています.特に,榴散弾の様なエア・バースト弾は効果的に使用されました.
また米国も,M1高射砲などは本来の対空砲としてではなく,地上目標への攻撃に多用されています.
ちなみに,カナダが至るところで苦戦して,歩兵が枯渇しかけたときでも,高射砲部隊は歩兵師団に匹敵するくらい遊休化してた訳で.
日本のそれも対戦車攻撃などに使用されていますが,尾栓などが対地攻撃向けに出来て居らず,数発撃って故障,放棄という話しが多く出てきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 軍事板,2006/01/21(土)
青文字:加筆改修部分
イギリスに関して言えば,主力野戦高射砲だった3.7インチ高射砲には直接照準機が取り付けられていなかったため,対戦車戦闘は難しかったようです.
むしろ対戦車戦闘用に多用されたのは25ポンド野砲でした.
名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE
また,イギリスも3.7インチ高射砲改造の対戦車砲を開発してます.
ソ連のT-34/85に搭載された85ミリ砲も高射砲の転用,
M4シャーマンも高射砲を載せたタイプがあります.
高射砲と対戦車砲は,要求される性能が似ている(高初速,高発射速度)ので,転用される例は多いです.
ドイツ軍の88mm砲
(画像掲示板より引用)
【質問】
なぜ戦時中の各国で37mmという口径が採用されたの?
【回答】
ちょっとうろ覚えだが,先込め式の砲だった時代の砲弾の重量が口径を決めたと言う話だったかと.
昔の方は実体弾,要するにただの金属塊だから重量が威力の目安になる.
そうなると重量がたとえば1ポンド,2ポンドというふうに標準化され,その重さの砲弾がどれくらいの直径になるかで砲の口径が決められたということ.
ここに重量と口径の対照表があるが,なんとなく近い数値にはなってる.
http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/faq/bore.htm
ちなみに英軍はたしか今でも,何ミリ砲とは言わず何ポンド砲と呼ぶ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
Che cos'è il cannone da 47/32?
【回答】
第2次大戦中のイタリア軍で,歩兵砲,山砲,対戦車砲,空挺砲などとして使われた47mm砲です.
1920年代後半にオーストリア・ベーラー(Bohler)社が開発した砲で,フランスが第1次大戦中に戦線投入したプトー砲の拡大改良型です.
1935年にイタリア軍はライセンス生産権を取得,第2次大戦全般を通じて使われましたが,対戦車砲としては威力不足であり,次第に歩兵砲としての役割が強くなっていきました.
【参考ページ】
http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/gun_db/47atg_m35.htm
http://www42.tok2.com/home/avionroad/Italians.html
http://www.comandosupremo.com/Cannone4732.html
http://www.esercito.difesa.it/root/equipaggiamenti/mez_sto_art_ita_47_32.asp
http://www.afrikakorps.org/italianartillery.htm
【ぐんじさんぎょう】,2009/2/19 21:00
に加筆
チュニジア戦線で対戦車任務に就く,ベルサリエリ兵とアンサルド47ミリ砲
敗色濃厚な1943年のこの時期というか,北アフリカの全作戦を通じてこれ以上の対戦車砲を持っていなかったイタリア陸軍に,問題アリでしょうか.
ただ,47ミリ砲自体は,ご存知の様に1935年にオーストリアで開発された優秀な砲だったので,シャーマン相手にもそこそこは活躍したと思わされます.
元来がコンパクトな対戦車砲をコンセプトに設計された32口径なので,同じ47ミリでも一式機動砲よりだいぶ小さいかも知れませんねー.
以前,ピサの空挺博物館で実物を見ましたが,私も割と華奢な印象を受けました.
http://www.photohighway.co.jp/ImageAlbum.asp?key=204.654093&src=12670656&un=97071&m=2&pos0=11&type=2
http://www.photohighway.co.jp/ImageAlbum.asp?pos=15&key=204.654093&un=97071&m=2&pos0=11&type=2&cnt=235
そう言えば47ミリ砲にはなんで防盾が無いんでしょうね?
空挺仕様ならいざ知らず,他兵科にも防盾付は配備されていませんね.
そもそも作っていなかったとか?
よしぞうmaro' in mixi,2007年04月19日00:08
〜19日 14:25
【質問】
米軍の中隊や大隊の火砲は迫撃砲のみですが,敵部隊の大隊砲や連隊砲に苦戦したなどという話はあるのでしょうか?
【回答】
米軍は,自分たちの砲火力に不足が有れば,師団砲兵を呼び出したり,航空支援,戦車,或いは艦砲の支援を仰いだりしています.
苦戦という件については,日本軍が十分な戦備を整えていた緒戦の段階であれば被害甚大と言うケースがありましたし,上陸反抗戦の局面でも,砲配置が適正で奇襲となれば米軍の被害が或程度はありました.
しかし,例えば,第17師団の西部ニューブリテンでの上陸防禦の場合,水際撃滅のために全火砲を持って行こうとしていましたが,兵力が足りず弾薬が持てないということで,装備火砲を各口径1門ずつとし,弾薬も5発ずつを何十人かで持つと言う状況でしたので,有効な打撃が行えませんでした.
また,ガダルカナルでは,大攻勢を掛けたものの,迫撃砲のFPFのため,全て撃退されています.
更に砲弾が少なく,砲の門数も少ない状況では,何をしても無駄だと言う諦観もあったみたいで….
日本軍の歩兵学校が作成した対米戦闘法は,大砲は撃つと叩かれるから撃つなと言うものだったりします.
ついでに,ジャングル戦では,樹木が生い茂っているために平射をしても効果が少なく(後の陣地構築が充実した状況は別),樹木越しの見越し射撃が多用されました.
また,下が泥濘状態になっていれば,機動力に劣る牽引砲は不利で,迫撃砲の方が効果があります.
ジャングル戦では,寧ろ大隊砲,連隊砲より,重擲弾筒の方が敵に被害を与えています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/30(土)
青文字:加筆改修部分
実のところ大隊砲は威力・射程共に81mm迫と大して変わらないですし,連隊砲にしても105mm榴を持ってこられるともうどうしようもない.
それに日本軍には恒常的な弾薬不足という弱点がありましたし.
ただし,眠い人氏がおっしゃられたように,米軍には分隊支援火器としては小銃擲弾くらいしかなかったため,日本軍の擲弾筒にはかなり悩まされたと言う話です.
軍事板,2005/07/30(土)
青文字:加筆改修部分
US 60mm迫撃砲M2
(画像掲示板より引用)
◆◆◆◆ドイツ軍火砲
【質問】
ドイツがドーバー海峡越しにイギリスを砲撃するため,「ビッグ・ベルタ」という巨大砲を作ったとのことですが、google検索でもヒットしません。
どんな大砲だったのでしょうか?
また、実戦で効果はあったのでしょうか?
【回答】
「ビッグ・ベルタ」と呼ばれた重砲は,WW1のドイツ軍に二つ存在しました。
一つは1914年にクルップが製造した42cm超重臼砲ディッケ・ベルタです。
ベルギーとフランスのコンクリート製重要塞を破壊する目的で製造され、ベルギーのリェージュ要塞の破壊などに用いられました。
もう一つは21cm列車砲カイザー・ヴィルヘルム・ゲシュッツ、俗に言う「パリ砲」です。
38cm列車砲「マックス」を改造し、口径を21cmにする代わりに砲身長を6m延長して初速を増すことで、最大射程132kmを得ることが出来ました。
これをもって1918年に96km先のパリに砲弾を浴びせかけました。
被害はさほどではなかったものの、むしろ心理的効果が大きかったようです。
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
ドーバー海峡越えを狙った大砲は,コイル砲と多連薬室砲の二つ。
コイル砲は実用には至らず、多連薬室砲(ムカデ砲)もドーバー越えの砲撃にはいたっていません。
多連薬室砲は,高圧ポンプという意味の「ホッホドルックブンペ」と呼ばれていました。
43年にカレー付近の丘を切り取って、150メートル砲2門分の土地が用意されました。
43年10月に、これとは別に砲身長を小さくした実験砲が作られますが、満足な性能は得られませんでした。
その後に実物大の砲が組み立てられますが、3〜5発発射たびに砲身が裂けるというお粗末な物で実用には至っていません。
この特殊砲の存在をキャッチしたイギリスはこの地域に徹底的な爆撃を加え、これを破壊することに成功します。
結局、この構想は潰えてしまい砲の残骸はノルマンディーに上陸した連合軍によって捕獲されました。
短砲身の実験砲のうち1門は汽車でアントワープに運ばれそこかえら60km遠方を砲撃しました。
もう一門は44年10月のアルデンヌ攻勢支援としてルクセンブルクで使用された記録が残っています。
極東の名無し三等兵◆5cYGBbCsjQ
もっとも,このアントワープの件とアルデンヌ攻勢支援,「砲撃した」という記録はありますが,公式な資料も物的証拠も残っていないため,疑問視する向きもあります.
当時の記録を仔細に検討すると,どうも疑わしく見えてくるそうな.
以下,「ドイツの傑作兵器 駄作兵器」(広田厚司著,光人社NF文庫,),P65より引用.
この砲は1944年冬から1945年にかけて,ドイツ軍最後の攻勢作戦となった"アルデンヌの戦い"で用いられ,二門が参加しドイツ中部モーゼル川中流のトーリルと,そこから30キロ離れたヘルメスカイルから,距離30〜40キロほどのところにあるルクセンブルグのジョージ・パットン中将の米第三軍を目標に発射された.
一門は連結した平貨車の上から,もう一門は丘の傾斜を利用したコンクリート砲台から発射され,両砲共にドイツ軍撤退と同時に爆破されたとされるが,今日の研究ではこれを証明する資料はなく,また,当時の状況を子細に見ると実際に使用されたのか,大いに疑問が残るところである.
極東の名無し三等兵◆5cYGBbCsjQ in FAQ BBS
【質問】
第二次大戦中ソ連軍の砲兵戦力はトップクラスでしたが,対するドイツ側の砲兵戦力はどの程度だったのでしょうか?
連合軍・ソ連軍との規模や,砲の性能,砲兵部隊の錬度などをご教授願いたいです.
【回答】
第二次世界大戦当時のドイツ軍の師団砲兵は,軽大隊三個と重大隊一個で,それぞれ10.5cm軽榴弾砲と15cm重榴弾砲で編成されていました.
また,歩兵大隊に所属する二個砲兵中隊が7.5cm軽歩兵砲6門と15cm重歩兵砲2門を装備していました.
ところが対ソ戦が始まってみると,主力野砲だった10.5cml
eFH18と15cm sFH18はソ連砲兵の主力装備である107mmカノン/152mm重榴/152mmカノンに完全にアウトレンジされてしまいました.
そこで,改良型である10.5cm leFH18Mを投入したり,自走化によって射程の短さを補ったりしました.
後継砲の開発にも踏み切っていますが,終戦までに完成しませんでした.
さらに生産量の不足が拍車をかけ,多くの歩兵師団では鹵獲した野砲が支給されていたりしました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/02/07(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
カノン砲(重砲類)と榴弾砲を一緒に師団レベルで運用していたのはドイツだけだったと聞いたのですが,これは本当でしょうか?
仮に事実だとするとどんなメリット,デメリットがあったのでしょうか?
【回答】
カノン砲と榴弾砲を一緒に師団レベルで運用していたのは帝政ドイツの時からです.
当時は野砲として7.5cmFk16カノンと10.5cmleFH16軽榴弾砲を運用していました.
再軍備後の国防軍では,軽野砲の口径を10.5cmに定めたため,新型カノン砲として10cm
sK18重カノン砲(52口径10.5cm砲)を1933年から生産しました.
しかし,重榴とほぼ同じ重量(5.6t)や威力の低さから次第に第一線から退いて沿岸警備用にまわされています.
諸外国でも威力が半端なのか,10cmクラスのカノン砲はあまり用いられていないようです.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/02/07(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
東部前線でT-34相手に歯が立たなかった3.7cm対戦車砲や5cm対戦車砲はその後,どのような使われ方をしたのでしょうか?
【回答】
二線級装備に格下げとなり,さほど重要ではない戦線に送られたり,本土防衛部隊に装備されたり,友好国に供与されたり,訓練用となりましたが,大戦終了まで用いられています.
後,Pak35/36については,成形炸薬弾が配備されていて,曲がりなりにも対抗出来るようにはなっていました(射程が360mと短すぎて,意味がなかったのですが).
また,5cm対戦車砲の方は,完全に代替するほど生産が為されませんが,辛うじてT34の装甲をぶち抜けるため,ほどほどに第一線装備になっています.
なお,戦後の一時期,この砲はベルギー陸軍に配備されていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/10/30(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
すみませんが,この重砲の詳細分かる人いますか?
http://i.imgur.com/XT9lKZN.jpg
レニングラード包囲戦に使われたとか聞きましたが.
【回答】
30.5cmVz.16臼砲という砲.
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/30%2C5_cm_hmo%C5%BEd%C3%AD%C5%99_vz._16.jpg
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=70&t=170553&start=30
http://www.fronta.cz/dotaz/30-5-cm-mozdir
チェコ併合後にドイツ軍が6門を入手して,30.5cm臼砲(i)としてレニングラード戦線に投入.
その後の1944年に,少なくとも1門が西部戦線に回されて,米軍に捕獲されてる.
写真の兵士は,ヘルメット形状から見てソ連兵と思われるので,これはソ連が捕獲した砲か.
軍事板,2013/08/31(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ネーヴェルベルファーは役に立つ兵器だったのでしょうか?
色々検索しましたが,好評だった,恐れられた,……との話は出てきません.
【回答】
ネーベルファーは日本では煙幕発射器と訳されており,最初は35型と40型の二つがありました.
前者は,歩兵突撃の際,煙幕を張って味方の損失を少なくするのを目的に使用されました.
また,毒ガス弾の発射も可能でしたが,国際法規の上から使用することはありませんでした.
1939年のポーランド侵攻や,フランス侵攻に使用されましたが,15cmのものが実用化されると,普通の迫撃砲として,歩兵師団で,歩兵5人を充てて使われるようになりました.
後者は,砲尾から砲弾を入れるために構造が複雑化し,ゴムタイヤまで付けたので,35型の9倍の価格(4000ライヒスマルク)になってしまい,少数生産に終わっています.
15cmネーベルファー41型,21cmネーベルファー42型は,迫撃砲弾に比べ,広範囲に飛散面積を持ち,発射地点の急速移動に耐えられる軽快な装置として製作されています.
弾体の爆発力は凄まじく,至近距離で爆風を浴びた場合,圧搾効果で可成りのダメージを蒙ることが確認されています.
但し,欠点として,初期のものは,発射煙と光跡が軌跡を描くこと,更に大きな飛翔音で攻撃地点が暴露されやすいことが上げられ,後期のものは,発射薬をディグリィコールに変えて改善されました.
15cmの次に21cmが開発されたのは,大量の弾薬を発射することが可能なものとして生産されたもので,砲架を15cmのものと共用とするため,5本の砲身に減らされました.
また,この砲身にはアダプターを取り付けることで,15cm弾体を使用可能としていました.
但し,21cm砲弾は榴弾しか生産されませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/03(火)
青文字:加筆改修部分
◆◆◆◆米軍火砲
【質問】
WW2時の米軍の砲に105mm榴弾砲が有りますが,これは師団砲兵の装備なんでしょうか?
また,旧軍でいう大隊砲や連隊砲に相当する火砲はあったのでしょうか?
【回答】
基本的に105mm榴弾砲は軽砲でありますが,編成上,師団砲兵の装備に組み込まれます.
師団砲兵の装備としては,105mm榴弾砲3個大隊と155mm榴弾砲1個大隊で編成されます.
但し,機甲師団の野砲大隊の場合は,105mm榴弾砲搭載のM7自走砲のみが装備されています.
米国の歩兵連隊は,3個歩兵大隊によって編成されます.
歩兵大隊は4個中隊で編成され,そのうちの1個は重火器中隊です.
(中隊を構成する小隊も,同様で,4個小隊のうちの1個は重火器小隊)
但し,その装備はM1917/M1917重機関銃8丁からなる機関銃小隊と81mm迫撃砲6門からなる迫撃砲小隊で構成されています.
従って,連隊砲というのはなく,迫撃砲で代替されます.
さらに師団砲兵の105mmを適宜,連隊支援に配備します.
分隊支援砲兵的なものとしては,更に小銃の擲弾発射がありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/30(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
米軍の圧倒的な対地砲撃は,単に物量に頼ったものだったのですか?
【回答】
物量だけではなく,砲兵火力の指揮・運用が極めて優れていました.
砲兵戦力の効率的運用法の最たるものは,一元集中管理.
陣地後方に陣取ってる各種火砲の多くは指揮所直轄.指揮所で状況を見ながら,必要な場所に集中射撃.
で,指揮所からだと細かい状況は見えないので,弾幕射撃になる.
しかも,状況不明であることから,開き直って梳櫛射撃をする.
言うならば,前線の各陣地を監視哨として扱うわけです.
陣地攻防戦そのものは「如何でもよい」というのは,攻撃側に於けるある種の発想の転換でした.
陣地は目的にあらず,陣地の裏にある要衝を突くのが目的なのであり,素早く要衝を押さえてしまえば,戦いは勝利できるし,ちんたらやってるよりそっちのほうが損害総数も少ないというものですね.
これを防戦でやってみせたのが米軍だとも言えるでしょう.
地図と監視哨と砲兵と通信ネットワークで戦場を管理しちゃったんです.
我が砲兵は敵砲兵を拘束できればよいと開き直れば,分散して他方向から五月雨で撃ってみる等の工夫で,少なくとも半日程度の攻防戦なら敵砲兵を拘束できなくはないでしょう.
つまりは,砲兵火力(砲数や弾薬数)ではなく,砲兵火力の使い方の部分に鍵があったわけです.
詳細は,
http://www.warbirds.jp/town/script/board.cgi?no=0002
を参照してください.
唯野 in mixi支隊
◆◆◆その他
【質問】
WW2当時のドイツ軍にシチュー砲というものがあったそうですけど,
これの総生産数はどのくらいあったのでしょうか?
【回答】
シチュー砲ってのはドイツが使っていた,馬挽きの野戦調理装置(フィールドキッチン)のこと.
馬挽きの野砲を引くような感じで移動するので,「シチューをかっとばす砲」と愛称がつけられた.
生産数はちょっと手元に資料が無いが(あるのかどうかすら…)
大型の物が歩兵連隊直轄の補給部隊1つにつき1台
小型の物が歩兵大隊直轄の補給部隊1つにつき1台
らしいので,そっからある程度逆算はできるかも.
▼ タミヤからフィールドキッチンが発売された時,タミヤニュースに記事が出ていたね.
一日のうち一番量が多いのは昼食だったとか,その他メニューとか.
タミヤニュースは実家に置いて来たので,何号かは不明でorz
古い方のキット(馬付きのやつ)の組み立て説明書にも,そこそこ書いて有った気がする.
ちなみに,ドイツだと現代でも一般家庭の昼食は,火を使わない,加熱処理せずに済むハムだかソーセージだかとパンみたいな献立が普通だったような.
往事の戦場で非加熱は,衛生的にどうなんだという気はするが.
軍事板,2011/11/09(水)
青文字:加筆改修部分
▲
シチュー砲
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq061219sc.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq061221sc.jpg
(画像掲示板より引用)
【質問】
独ソ戦でドイツ軍は冬将軍に悩まされていましたが,当時ソ連軍はどのような防寒装備をしていたのでしょうか?
【回答】
ソ連軍の防寒装備で最も基本になったのは,ウール製のコート.
シューバと呼ばれる羊の毛皮を使った厚手のコートもあります.裏側には羊毛が敷き詰められており,保温性は非常に高いです.
また,1941年にはチュラグレイカと呼ばれる木綿製のキルティング衣服も用いられました.
ブーツは皮製で,ワレンキと呼ばれるフェルト製のオーバーシューズを使うこともあります.
ブーツを履くときには,ポルチャンキと呼ばれる木綿製の布を靴下代わりにしっかり足に巻いて,その上からブーツを履きます.
冬季は分厚い布を使い,ワンサイズ大きいブーツの隙間に新聞紙や藁などを詰めました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
ただし,キルティング防寒服はあんまり寒さは防げなかったというのをごく最近何かで読んだ覚えがあります.
【質問】
M&Msのチョコレートはアメリカ陸軍が開発したというのは本当ですか?
【回答】
本当です.以下,抜粋.
〔略〕あのM&Msプレーン・チョコレート・キャンディも米軍と深い関わりのあることは案外,知られていないのかもしれない.そう,「お口で溶けて,手に溶けない」というコマーシャルで有名なやつである.
現在の溶けにくいタイプのチョコレートは,陸軍のIG(Inspector General:監察官)が開発(あるいは協力)したと言われている.
ある監察官が第2次世界大戦中,南太平洋に展開する兵士達を視察した時に,一人の兵士が監察官に「口の中で溶けて,手に溶けないチョコレートを開発してくれ.単純で当たり前のことだろう」と嘆願した.当時のチョコレートは「お口で溶けて,手にも溶ける」が常識だったのだ.
そこで考案されたのが,チョコレートをオートミールでコーティングしたものだった.
しかし,このオートミール・チョコレートも,やはりユニフォームのポケット内で溶け出した上,チョコレート本来の味が損なわれた失敗作だった.
次に開発されたのが,薬の糖衣(Sugar coat)錠のようにコーティングされた,マーズ・コーポレーションInc.のプレーン・チョコレート・キャンディだった.一般的に日本でキャンディと言うと,飴やドロップなどを想像するが,米国では飴ではなくこうしたタイプのものを言うこともある.
このプレーン・チョコレート・キャンディは1940年に市場へも売り出された.
第2次世界大戦が起こると陸軍は,今までのチョコレートに替え,紙筒にM&Mプレーン・チョコレート・キャンディを詰めたものを補給品目に加え,海軍もこれに従った.
これにより,世界中いかなる所に展開しても,溶けにくいチョコレートを兵士達は手にすることができるようになった.これが世界ではじめて大量生産されたパン・コーティング・チョコレートで,この登場は,今までの市販チョコレートでは考えられないほどの画期的出来事だった.
しかも,これはまだ一般家庭に冷蔵庫やエアコンが普及する前のことである.
当時のM&Mプレーン・チョコレート・キャンディのキャッチ・フレーズは
"The family treat that's neat to eat"
で,
"The milk chocolate melts in your mouth, not in your hand"
に代わったのは1950年代初頭だった.
しかし,すぐにはそれを兵士達は真に受けなかった.
当時,砂糖は多くの軍需品の内の一つであり,また,大変貴重品でもあったため,プレーン・チョコレート・キャンディの一般向け生産量も限られ,ほぼ軍が独占する形となった.
こうして,初の軍・政府御用達チョコレートとなり,後にはスペース・シャトルのクルーの食料の中にも加えられることになる.
最近では,セントルイスに司令部を置く陸軍TROSCOM(Troop Support Command)が開発したMRE(Meals. Ready to Eat C-ration)にも,他の数種類のドロップなどと共にバリエーションに加えられ,現在でも人気が高い.
TROSCOMは陸軍マテリアル・コマンド傘下にあり,マサチューセッツ州ボストン近くのNatick Research Centerで陸海空海兵4軍の野戦食開発を行っている.現在は宇宙食を中心に味の良い物を開発中で,「まずくて食べられなければ,食事の意味をなさない」というのがポリシーである.
TROSCOMは,この他にも色々な食品やアウト・ドア用品を開発しており,一般製品の約30%は,何らかの形でTROSCOMが開発に携わっていると言われる.
特に乾燥野菜,チキン・ナゲット,ミート・パテ,インスタント・プリン,ケーキ・ミックス,フリーズ・ドライ製品などは,陸軍が開発に大きく寄与している.言い換えればアメリカ人にとって,自分達の支払った税金により開発されたといってもよいだろう.
TROSCOMはチョコレートに限らず,より良い製品開発・改善のため,戦場の兵士達の意見を熱心に取り入れており,これから先も,もっと質の良いMREなどが開発されれば,それらはいつの日か一般にも販売されることになるだろう.
マーズ・コーポレーションInc.には,今でも世界中の兵士達から賛美の手紙が送られてくるそうである.これに敬意を表してか,'84年には戦闘補給艦USS「マーズ」AFS-1艦載のHC-1, Det.3のCH-46D(Bu.No.154000)にはマーズ・チョコ・バーのパッケージが描かれたこともあった.
------------M. TOYOSHIMA「GIチョコレート・キャンディ」,『航空ファン』 '92
大戦末期,南方で運良く米軍の補給物資を手に入れた,日本軍の部隊があった.
入っていた緑色の大きな缶詰を開けると,中には黄色い粉末が.
結局よく分からなかったので,ヤバイ薬や危険物だといけないと,捨ててしまったんだそうだ.
それが乾燥卵だったらしい.
そのときの兵士が,後年それを知って,
「そうと分かっていれば,何人かは死ななくてもよかったのに」
と悔やんでいた.
昔の『暮らしの手帖』に載っていた.
当時の乾燥卵缶詰を使って,卵焼きを作っていた.
結構普通に食べられるらしい.
軍事板,2003/12/16
青文字:加筆改修部分
【質問】
よく,ジェリ缶ジェリ缶言いますが.語源は何ですか?
つか,何語ですか?
【回答】
まずjerry canと英軍の石油缶の比較.
http://www.fandom.tv/SunCompass/gear.htm
ここの2段目の写真.
第二次大戦当時の石油缶が4つ並んでいるが,それぞれ左から,
英軍石油容器初期型
英軍石油容器"フリムジー"
改良型フリムジー
ドイツ軍ジェリ缶
英軍の缶はいわゆる「石油缶」で,今でもせんべいや駄菓子などを入れるのに使われている.
フリムジー(ぺなぺな)とあだ名がつけられていた.
直方体の隅の辺を折り曲げてハンダづけしてあるので,衝撃で簡単に口が開いてしまう.
当時の英軍ではなんと,輸送中に半分近くの燃料が失われていたそうだ.
ドイツ軍の燃料缶はこれに対し,缶の角を大きく丸めた上,板を容器の中央でハンダ付けしたので,「石油缶」に対して比較にならないほど強度が上がった.
さらに一体型のハンドル,強度を上げるための側面の形押し,斜めに落した角に設けた注ぎ口など,今われわれが使ってる「ポリタンク」のデザインは,全てジェリ缶から来ている.
英軍はアフリカ戦線で,ドイツ軍の燃料容器の優れていることに驚き,全力でコピー生産に乗り出して大きな成果をおさめた.
なぜドイツ軍がjerryなのかだが,これには,german→gerry→jerryと訛ったという説と,WWI当時英国兵がドイツ軍のヘルメットを便器(chamberpot)呼び,便器の英国でのスラングがjerryだったため,ドイツ軍の俗称になったという2説があるようだ(笑).
http://www.feldgrau.net/phpBB2/viewtopic.php?t=13516&postdays=0&postorder=asc&start=15
語源家 :軍事板,2005/05/29(日)
青文字:加筆改修部分
ちなみにjerryってのはドイツ人のことね.
軍事板,2005/05/29(日)
青文字:加筆改修部分
ジェリ缶
(画像掲示板より引用)
【質問】
WW2では,戦地で兵隊さんはテントを張ったりして寝るんですか?
【回答】
個人に持たせる,一枚ではポンチョ(雨合羽)だが何枚か合わせるとテントになるという装備があった.これは今でもある.
それとは別にトラックや輸送馬車なんかで持ち運ぶ大型テントも当然あった.
アメリカ軍は金属のパイプで骨組みを組んで,そこに布を張る大型テントや,簡単に組み立てられるプレハブ式の小屋も装備していた(2X4,ツーバィフォーというやつね).
この辺の後方装備が充実していたのはアメリカ軍の強み.
これらの軍用大型テントは,外布の他に遮光用の暗幕があり,外に光が漏れないようになっている.
作戦指揮所などの大型のテントや,小屋の中には,小型発電機で電気を起こして電灯をつけた.
それとは別に,兵士は大体個人装備として燃料式のランプを持っていることが多く,兵用テントの明かりは主にこれを使っていた(当然必要も無く点けるのは禁止).
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