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 【link】

Фото хроники Великой Отечественной Войны

 大祖国戦争画像集

――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年05月08日23:10

『Eastern Front : SS』(イアン・バクスター著,リイド社,2006.10)

Pobediteli.

 1941年6月22日から1945年5月9日までの戦線の動きがアニメ形式で動いていって,気になった都市や戦場を地図上でクリックすれば,そこに関しての記録映像も見られるという優れモノ.
 かなりの大長編で,最後まで見るのにかなり時間がかかったのを覚えてる.

 ページの右側の地図をクリックすれば見られる.
 ロシア語わからなくてもなんとかなると思う.

 かなりクオリティが高かったから,ロシア政府が戦勝60周年に合わせて作成したサイトかも.

――――――軍事板
青文字:加筆改修部分

『ヴィットマン LSSAHのティーガー戦車長たち』(上下巻,パトリック・アグテ著,大日本絵画,2005.9)

 値段がクソ高いが粗製濫造が多い本の中で,極めて高い価値を持った本.
 ただ少々見難い部分もあるが,そんな事は気にならないくらい素晴らしい本である.
 この資料本は戦車戦マニアには必読かもしれない,
 ヴィットマンの戦いは,戦車戦のあり方を的確に示しているからだ.
 戦車の目標が戦車からテロリストに移り変わっているが,両者とも大した違いはない.
 如何に相手より先に発見し,射撃,撃破するのが戦車の戦いなのだ.

 またビットマンは砲隊鏡を愛用していたが,現代に無理やり置き換えれば「車長用独立熱線映像装置(CITV:Commander's Independent Thermal Viewer)」の先駆けとも言えるかもしれないね.

―――CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日16:55

『ヴィットマン戦記1943』(小林源文著,学習研究社,2008.4)

 最新の資料に基づき構成されたヴィットマン戦記.
 また小林源文先生の特徴は,所々に解説が載っていることだ.
 例えば名射手である,バルタザール・ヴォルの射撃についての解説は非常に面白い.
 この細かな気配りというのが,小林 源文先生が今でも支持されている理由だろう.
 是非この方式を,他の漫画家の人達も継いでいって欲しい!

―――CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日16:55

『ヴィレル−ボカージュ ノルマンディ戦場写真集』(ダニエル・テイラー著,大日本絵画,2005.12)

『カフカスの防衛』(マクシム・コロミーエツ著,大日本絵画,2004.8)

『クルスクの戦い 戦場写真集南部戦区1943年7月』(J.ルスタン著,大日本絵画,2004.1)

『詳解 独ソ戦全史』(デビッド・M. グランツ他著,学研文庫,2005.6)

『焦土作戦 独ソ戦史』(パウル・カレル著,学研文庫,2001.1)

『西部戦線全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2008.3)

 第二次世界大戦の主要な戦場の一つであった欧州戦線.
 その欧州戦線を「中東戦争全史」「完全分析 独ソ戦史」の著者が第一次世界大戦終結からナチスドイツの降伏までを通して解説した一冊.
 今回の舞台は殆どが西部と中部ヨーロッパ.イタリアに関しては「独VS.英米仏」という構成のため,北アフリカ戦線は簡単に触れられてる程度.
 多数の戦況図などもあってわかりやすく,西部戦線について知る事のできる一冊です.

――――――グンジ in mixi,2008年05月04日16:55

『赤軍記者グロースマン 独ソ戦ノート1941-45』(リューバ・ヴィノグラードヴァ編,白水社,2007.6)

『第10戦車師団戦場写真集』(J.ルスタン共著,大日本絵画,2004.5)

『タンクバトル』(斎木伸生著,光人社,2002.3)

『タンクバトル 4』(齋木伸生著,光人社,2008.9)

『ティーガーの騎士 ミヘル・ヴィットマン物語』(カール・コーラッツ著,大日本絵画,1993.8)

『電撃戦 グデーリアン回想録』(ハインツ・グデーリアン著,中央公論新社,1999.3)

 読んで損はしない.
 ただし,グデーリアンの人物評はまったく当てにならないけどな.
(軍事板)

『電撃戦という幻』(カール=ハインツ・フリーザー著,中央公論新社,2003.2)

『独ソ大戦車戦 クルスク・史上最大の激突』(ジェフレー・ジュークス著,光人社NF文庫,1999.1)

『バラトン湖の戦い』(M.スヴィーリン他著,大日本絵画,2000.4)

『バルバロッサ作戦』(パウル・カレル著,学研M文庫,2000.9)

『ヘルマン・ゲーリング戦車師団史』(フランツ・クロヴスキー著,大日本絵画,2007.5)

「ワレYouTube発見セリ」:D-Day, The Invasion of Fortress Europe

「ワレYouTube発見セリ」:Stalingrad battle won

「ワレYouTube発見セリ」:1942-Hard combats in Crimea

絶版のときは↓

 【質問】
 シモ・ヘイヘって誰?

 【回答】
★★★同志スターリンと語らい合うスレ【69】★★★
より.

----------------------------
 頭を撃ち貫かれたい赤軍将兵にお薦めの「白い死神」(Белая Смерть),シモ・ヘイヘ

・4000人いれば大丈夫だろうとコラー河一帯へ侵入したら,たった32人のフィンランド兵に撃退された
・銃声と硝煙を発見したが,すでに頭部を撃ちぬかれた後だった
・足元がぐにゃりとしたので雪を払ってみると,頭部を撃ちぬかれた赤軍兵が敷き詰められていた
・「スナイパーだ!」と叫んだ将校が,次の瞬間こめかみを撃ちぬかれてて倒れていた
・スコープもない旧式モシンナガン小銃で狙撃,というか距離300m以内なら確実にヘッドショットされる
・いとも簡単に1分間に150mの距離から16発の射的に成功した
・野営中の真夜中にトイレからテントまでの10mの間に頭を撃ちぬかれて即死
・戦車と合流すれば安全だろうと駆け寄ったら,戦車長がヘイヘから狙撃済みだった
・赤軍の7/10000がヘイヘに狙撃された経験者,しかも白い死神という伝説から「積雪期や夜間ほど危ない」
・「そんな奴いるわけがない」といって攻撃しに行った25名の小隊が1日で全員死体になって発見された
・「サブマシンガンなら狙撃されないから安全」と雪原に突撃した兵士が穴だらけの原型を止めない状態で発見された
・最近流行っているヘイヘは「何が何でもヘッドショット」,気温が−40℃でも弾薬が残りわずかでも赤軍狩りに出て行くから
・5階級特進で少尉となったシモヘイヘに狙撃の秘訣を尋ねると,ただ一言「練習だ」
・コラー河付近はシモヘイヘに殺される確率が150%.一度狙撃されて命をとりとめても凍死する確率が50%の意味
・ヘイヘが狙撃で殺害した数は505人,他にサブマシンガンで倒した数は正式なものだけで200名以上

----------------------------

 そういや,我が敬愛するワシーリー・マルゲロフ将軍も,フィンランド戦線(冬戦争)で戦っているんだよな・・・
 もしヘイヘに狙われていたらきっと・・・・・

CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日21:28

「大丈夫,跳ね返した」


◆◆◆ポーランド戦以後


 【質問】
 第二次世界大戦のポーランド軍はドイツの戦車に騎兵で突撃した話があるんですが、これはドイツのプロパガンダというのは本当ですか?

 【回答】
 騎兵科単独で海軍、空軍以上の予算が割かれていますし、ポーランドの防衛構想では、騎兵を機動戦力の中核としています。
 従って、騎兵の数は軍の中の比率的には多めでした。

 本来なら、ポーランドの戦略は、一線兵力が遅滞戦術を採りながら、動員を掛けると言うものでしたが、ドイツの方が小刻みな動員で大兵力を一気にポーランドに侵攻させたため、その戦略が採れませんでした。

 結果、第一線兵力として騎兵が前面に出る形となり、各個で包囲撃滅されることが多かった為、その様な話もあったみたいです。

 実際にいくつかのポーランド軍騎兵部隊はドイツの装甲部隊に対して騎兵突撃を敢行した。
 ほとんどは戦車の機銃になぎ倒されて一方的に虐殺されたが、機銃になぎ倒されつつも突撃してくる人馬の群になにか言い知れない恐怖を感じた戦車兵がパニックに陥って戦車を捨てて逃亡してしまった、という例も多少あった。

 戦車に向って騎兵で突撃、というのは無謀のようだが、第2次大戦前の武装が機銃だけで無線機を搭載していない為,各車の連携が取れず、また外部視察装置が貧弱なので廻りがよく見えない・・・という戦車に対しては、馬の脚の早さを生かして死角から戦車に肉薄、対戦車手榴弾を投げつけて撃破、という戦術もあながち無茶とは言えないものがあった。
 ドイツ軍はモスクワ前面の戦闘でも,コサック騎兵に上記の戦術でかなりの戦車をやられたりしている(コサック騎兵側の被害も甚大だったが)。

 また,2次大戦初期の戦車には機銃しか武装が無く、照準装置も機銃付属の照準器を覗く穴がついてるだけ・・・というのが結構あったので、(騎兵がそういう戦術を採ってたかはともかく)対戦車ライフルで機銃の射程外から攻撃する、というのも不可能なことではない。

 ドイツ側資料でなおかつ正確性にいささか疑問がある本なのだが,クルト・マイヤー著「擲弾兵」(学研M文庫,2004/3)冒頭のポーランド戦の章に

 霧の中からポーランド軍の騎兵がギャロップで現れた。まっすぐこっちをめざし、私の機関短銃でもたじろがない。
 オートバイ狙撃兵が戦闘加入し、馬をいく頭か倒して、やっと勇猛な騎馬部隊は霧の奥に戻っていった.

 という記述がある.
 当時、マイヤーは装甲猟兵中隊長で重装甲偵察車(Sd.kfz234?)と一緒だった.

 また,レン・デイトンの「電撃戦」(早川文庫,1994/11)には,

 ポーランド軍も猛虎のように奮戦したが、ポーランド騎兵部隊と歩兵部隊はドイツ軍の猛攻に切り裂かれ、張るかに古い大時代的な戦い方の中で戦死していった。
 ポーランド騎兵隊はドイツ軍の戦車に向かって突撃し、はなばなしく散っていったのだ.

とある.
 しかし、この後のページではドイツの南北軍集団の動きは語られているが,ポーランド軍の動向については語られていない。

 リデル・ハートの「第二次世界大戦」(中央公論社,1999.8)でもグーデリアン(第19)やクライスト(第22)の軍団と戦ったポモルゼ軍やクラクフ軍、ポズナニ軍の戦いの様相は語られていない。
 ただ当時の各国の政治、軍事情勢が考察された章にこんな記述があった。

 ポーランド軍の軍事思想は時代遅れで、軍の編制も旧式であった。
 機甲師団、自動車化歩兵師団を持たず、対戦車砲、高射砲もきわめて不足していた。
 その上さらに、軍指導部は依然として騎兵の価値を信じ、騎兵の大部隊による突撃の可能性を悲壮に信じ込んでいた。(10)
 †原注10 不気味なほどの皮肉として思い出されるのだが、私(著者)がこの大戦の直前に出版した「英国の防衛」(The Defence of Britain,1939)で、ポーランド軍首脳部が現代兵器よりも騎兵の突撃を信じ続けていることに危惧の念を表明したところ、(97〜7ページ)、同軍首脳部は正式の抗議文を、ポーランド外務省を通じて送達してきた。

 「ナチスドイツの映像戦略」(大日本絵画,1996.8)の中で,著者の三貴雅智氏はポーランド戦で、偵察部隊の装甲車がポーランド騎兵を撃退したというニュースをドイツ軍の新聞が取り上げ、それがいつの間にか「戦車に騎兵が突撃」という話になった、と言っておられました。
 しかしソースは挙がってなかったような.クルトマイヤーの部隊のことではないかと思うのですが。

Last Great Charge of the Polish Cavalry
は,ドイツの歩兵大隊に対する騎馬突撃に参加した人が書いている話です。
 目標となった歩兵大隊には装甲車が含まれており、機関銃で反撃していますね。
 そしてポーランド騎兵は槍やサーベルで突撃していますが、対戦車砲があらかじめ戦車の反撃のある方面へ向いて掩護しており、さらに重機関銃が突撃支援射撃をしています。

 ということで、騎兵とはいえ、下馬して夜間敵後方に浸透して戦車を破壊するような任務が記憶に残っているが、機会、この場合は森に潜む騎馬旅団の至近を街道に縦列となって進む歩兵大隊ですが、があれば突撃もしたということだと思います。

 他にも騎兵の突撃をやりはしたという資料は英語で引けば幾つか出てきます。
 対象は戦車ではなかったかもしれませんが、歩兵相手ならしているわけですし、歩兵の脇に戦車がどれだけいたのかという問題になるのでは?と.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

Polish Cavalry, September 1939
Polish Cavalry, September 1939


 【質問】
 ポーランド軍の豆戦車TKSが,ドイツ軍戦車を撃破したエピソードについて教えられたし.

 【回答】
 1939年9月17日,カンピノスの森でポーランド軍のオルリック見習士官は,20ミリ機関砲搭載型の豆戦車TKS
(旋回砲塔が無く,車体に直接武装を搭載している豆戦車.20ミリ機関砲は対空用の物を転用した物で威力は大きいが前方にしか発射できない)
で,車体の小ささを利用して藪の中などに隠れ,3両の38(t)戦車
(独軍が使用した軽戦車で,旋回砲塔には37ミリ砲を装備)
を,側面への射撃や至近距離からの射撃で撃破.
 翌日にはさらに7両の38(t)戦車を撃破しています.
(この事実が,ドイツ軍の突撃砲兵や日本軍戦車兵の戦術に,大きな影響を与えた……という話は多分無い)

 このオルリック見習士官の話は,以前に『ナチスドイツの映像戦略』(三貴雅智著,大日本絵画,1996.8)での注釈で見たことはあるのですが,詳細については今回,『萌えよ!戦車学校 V型』で初めて知ることができました.
 なんせ注釈では,1988年8月号のモデルグラフィックス誌を参照,とあって分からなかったもので.(「ナチスドイツの映像戦略」の初版は1996年)

 ただ少し残念なのはオルリック見習士官の事について,マンガパートでは21歳の予備役将校で10両を撃破,とあり,本文のほうでは19歳で13両を撃破,とあるのだが,どっちなんだろう?

グンジ in mixi, 2008年08月17日18:13


\

 【質問】
 マジノ線Maginot line に莫大な予算を使わず,連合国が効率的に軍備を進めていれば,チェコの段階でドイツを掣肘していた?

 【回答】
 フランス降伏までは,各国の軍部も国家元首も(ヒトラー含む)みんな,WW1型戦闘,1日でウン万人が死んでもおかしくないような塹壕型大消耗戦になると予想していた.
(だからこそフランスはマジノ線を整備したわけで)

 だから最後の最後までみんな開戦に及び腰だったし,ヒトラーもそれを読んだ上で軍事力の誇示を続けていた.

 よって,連合国側の軍備が向上していたとしても,ヒトラーの「本気で戦争しちゃうぞ」ジェスチャーは有効.

54 :名無し三等兵 :03/11/06 08:58 ID:???
マジノ線を自走化すればいいじゃない

55 :名無し三等兵 :03/11/06 09:00 ID:???
超重多砲塔マジノ線車キタ━━━━━━(°∀°)━━━━━━!!!!

56 :名無し三等兵 :03/11/06 09:04 ID:???
1日数mmドイツに迫る,恐怖のマジノ線車

114 :名無し三等兵 :03/11/07 00:44 ID:???
フランス全土を覆う「マジノ面」ってのはどうか?

(軍事板)


 【質問】
 フランスはセダン以東の仏独共通国境にはマジノ線を築いていたが,仏白国境にはより弱い縁辺部防衛線を築いていただけだった.なぜ海岸まで伸ばさなかったのか?

 【回答】
 マジノ線の延引をセダンで停止したのは,ベルギー領内にドイツ軍を嚮導させるための高等戦術だった.何の役にも立たなかったが.

 また,マジノラインを海岸まで伸ばしちゃうと低地諸国を見捨てることになってまずいという政治的判断があった.
 で,マジノラインの分浮かせた戦力で低地諸国保護のため積極的に兵を進めてドイツを迎え撃つ計画を立案.
 まあ,史実では集中した戦力は戦車師団にあっさり背後から包囲されて終わったが.

(軍事板)


 【質問】
 マジノ線を大西洋まで延長してたら,フランスは勝てた?

 【回答】
 それは無理かと.
 要塞だけあっても,独軍の機動力に対応できる部隊(戦車の運用も重要だが,部隊間の連携がとれるよう無線の配備をしておくのが必須だろうね)も合わせて存在しなきゃ,意味無いし.
 アルデンヌにも作っておくというのはいいかもしれないが.

 陣地防御に関する戦術思想が,フランス軍は第一次大戦レベルだった.
 独軍主攻正面の仏第9軍壊滅の原因が,「一連不断の戦線」という旧観念にとらわれ,両翼側の掩護を各隣接部隊に依存していた為,独軍の戦線突破によって連鎖反応的に戦線の崩壊を招いた.
 この戦訓からウェイガン将軍は,全周防御可能な無数の拠点を散布した縦深陣地帯をエーヌ〜ソンムの戦線に構築し,独装甲部隊の進撃を食い止めようとしたが,装甲部隊予備をフランダース会戦で失っていた為,有効な機動打撃を与え得ず,3日で突破されてしまった.

(軍事板)


 【質問】
 WW2時,通れないとされていたアルデンヌの森を,ドイツ戦車が通れたのは何故ですか?
 ベルリンオリンピックの聖火リレーのコース調査という名目で,欧州各国の主要幹線道路の様子をドイツは調べていたそうですが,道路があったなら,なんで「通れない」なんてフランス軍は思ったんでしょうか?

 【回答】
 「通れない」というのが,そもそも幻想.

 「電撃戦という幻」上巻(カール=ハインツ・フリーザー著,中央公論新社,2003.2))の「『通り抜けできないアルデンヌ』という神話」という章から引用したいと思います.

 2 「通り抜けできないアルデンヌ」という神話

 フランス軍上層部の軍事思想は,第一次世界大戦後ますます硬直化し,教条主義的になった.とりわけアルデンヌ-セダンの戦線区については次の二つの先入観が人々の心を支配していた.
-「アルデンヌを車両部隊が通過することはできない」
-「ムーズ川を渡ることはできない」

 「戦車が走れないアルデンヌ」,「渡れないムーズ川」という観念は普遍的法則となり,権威ある人々がこれを保証した.
 「ヴェルダンの英雄」アンリ・フィリップ・ペタン元帥は
「アルデンヌの森を通り抜けることは不可能である」
と断言し,総司令官ガムラン将軍はムーズ防衛線について
「ヨーロッパ大陸においてムーズ川は戦車に対する最良の障害物である」
と太鼓判を捺した.
 フランス軍にとってアルデンヌ-ムーズ川の二重の天然の要害は,克服不能な,もはや迂回するしかない戦略上の障害物であり,セダン地区は明らかにこの二つの障害物に守られている安全地帯であった.
 そこで彼らは,他の戦線区を優先させるため,セダンの防衛陣地をなおざりにし,二戦級の部隊をここに駐屯させることにした.
 ドイツ軍がアルデンヌで攻勢をかけたと聞いたとき,フランス軍総司令部は,これからでも増援部隊を送る時間はまだ十分にあると考えた.(p.239)

 はじめから「絶対にアルデンヌ&ムーズ川は通行不可!!」と考えてたわけです・・・

 この神話に対し,かの有名な軍事評論家のリデル・ハートが,意見を述べましたが……

 「通り抜けできないアルデンヌ」は神話にすぎないとする警告の声が第二次世界大戦前の連合国のあいだに無かったわけではない.
 イギリスの軍事評論家リデル・ハートは,1928年にアルデンヌを視察旅行したさい,フランスの軍人たちが「ここは天然の要害である」と安心しきってることに驚きを隠せなかった.
 1933年,イギリス国防省が大規模な機甲師団を編成したとき,ハートは戦車戦術の専門家として意見を述べるように要請された.「将来の戦争における機甲師団のもっとも有効な運用法」について助言を求められた彼は,
「たとえばドイツ軍がフランスに侵入した場合,機甲師団によってアルデンヌから反攻に出るべきである」
と提案した.
 彼がイギリス軍から公式に得た回答は
「アルデンヌは通り抜けできない」
であった.
(同書 P240)

……イギリス軍もフランス軍と同じでした.

 最後に実際にアルデンヌが障害物として有効かどうか試験されました,
 その結果は…….

 1930年代,フランス軍においてもアルデンヌが障害物として本当に有効かどうかが試験された.
 たとえばブルギニョン大佐は,戦車部隊によるアルデンヌへの奇襲攻撃はおそらく可能であるとする報告を行った.
 1983年の五月と六月に第二司令官(当時)アンドレ・ガストン・プレートラ将軍が指導した兵棋演習の結果は,1940年五月にグデーリアン装甲軍団が実際に演じた攻撃と恐ろしいほどに酷似していた.
 上層部の誰もがぎょっとしたことには,プレートラは,ドイツ軍は60時間でムーズ川に達し,一日で川を渡るだろうとの調査結果をつきつけたのだ.
 実戦でドイツ軍はセダン北方,ムーズ川の小さな屈曲部に面したサン・マンジェに57時間で到達したから,誤差はわずかに3時間ということになる.
 兵棋演習のただならぬ結果について報告をうけたガムランは,プレートラを,悲観的展望を示した――「いたずらに不安をかきたてた」――罪できびしく問責した.
 フランス軍総司令部が講じた唯一の措置は,「将兵に不安をあたえないように」,この兵棋演習の内容を封印することであった.
(同書 P240〜P241)

……もうアホかとバカかと小一時間(以下省略).

 このように,アルデンヌ攻勢の成功は,フランス軍上層部の致命的な失策を重ねた結果だったのです.

CRS in FAQ BBS


 【質問】
 電撃戦であっけなくドイツに降伏したフランスですが,マジノ要塞の中の兵士はほとんど戦わずして降伏してしまったのでしょうか?
 それとも,ある程度の期間は立て篭って交戦し,ドイツ軍にダメージを与えていたのでしょうか?

 【回答】
 当時は,マジノ線に10個要塞師団を貼り付けていました.
 ドイツ軍が最初に攻撃を行ったのは,その最西端にあるラ・フェルテ要塞で,此処には,47mm対戦車砲1門, 25mm対戦車砲2門,機関銃2丁から成るブロックと,25mm機関砲2門の隠顕式砲塔と機関銃2丁を有したブロックから成っていましたが,砲兵支援が後方の一方向しか受けることが出来ず,12月15日からドイツ軍は攻勢を開始し,16日に要塞東南の高地を奪取,18日から88mm〜210mmの砲259門を集中し,19日に陥落させています.

 大要塞自体も頑強に抵抗したため,降伏までに39要塞のうち,4要塞,102堡塁中12が攻略されたに過ぎません.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 1940年のフランス陸軍は,そんなにダメな組織だったのか?

 【回答】
 惨状を呈していました.
 『西部戦線全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2008.3),P.163〜252から,フランス軍が主戦線と考えていた北東方面だけを挙げると,仏軍最高司令官ガムラン大将と東北方面軍司令官ジョルジュ大将は,ガムランがジョルジュの頭越しに命令を下す等の行為が原因で不仲.
 そのため独軍の進攻開始当日は,「ジョルジュのプライドを傷つけない様に配慮」して,具体的な指示を出さず,仏軍参謀総長はパリ東端バンセンヌのガムランの司令部と50キロ以上離れたラ・フェルテ・スー・ジウアルに置かれたジョルジュの司令部を,自動車で往復する事を余儀無くされます.
(参謀本部は両者の中間のモントリに置かれた)

 おまけに司令部に無線機はもちろん,伝書鳩も無くオートバイや自転車の伝令と民間の有線電話(混雑時には不通になりやすい)を使って下された命令は,戦場の実態にそぐわない物だったり.

 とどめにガムランは,当時の仏首相レイノーとも対立していたり.
 ガムランの能力に疑問を持ってたレイノーは,解任を画策するが,国防相兼陸軍相でありガムランの友人でもあるダラディエ元首相が反対し実現せず.
 これにより政府と軍のトップが完全に決裂.

…という状態.
 ほかにも色々あるけど,悲しくなるので後は本書を読んで確認されたし.
 負けて当然だわ,こりゃ.

グンジ in mixi,2008年05月04日16:55


 【質問】
 エバンエマール要塞はどうやって攻略されたの?

 【回答】
 ドイツ軍はヒトラー総統の発案により,エバンエマール要塞攻略とアルベルト運河に掛かる橋の奪取にグライダー空挺部隊の降下猟兵による強襲作戦を実行します.
 要塞に投入された兵力は僅か78名.
 隠密のうちに部隊は降下し,成形炸薬と火炎放射器を使い,要塞のトーチカを次々と沈黙させ,無力化に成功します.
 守備隊が外に出て戦っていれば撃退に成功していたでしょうが,混乱する守備隊は何もできず,次の日の朝にドイツ軍主力が到着し,降服しました.

週刊オブイェクト,2004/12/12


◆◆◆独ソ戦以前


 【質問】
 アイザック・アシモフの雑学本の中で.「1942年に潜水艇でニューヨークに上陸しようとしたドイツ特殊部隊」というのが出てくるのですが,
・これは本当なのですか?
・本当だとしたら,どのような計画で何度くらい行われていたのでしょうか?
・この作戦のことが書かれているほかの本はありますか?

 【回答】
 実話です.1944年にも工作員はアメリカに上陸してますよ.
 西部タイム刊/アメリカの世紀(6)1940-1950パールハーバーの衝撃の198〜199ページ参照.
ISBN4-8275-1228-0
3900円
 たぶん絶版だけど,大きめの図書館にあるよ.


 【質問】
 第二次世界大戦のイタリア軍が,10万で1000人に負けるという大敗を喫したそうなのですが,誰かご存知ありませんか?

 【回答】
 1000対10万は若干大げさですが,1940年2月5日に,北アフリカのベダフォムというところで,約3000名の英軍によって数万のイタリア軍が壊滅したという事実はある.

 (1)1940年12月初旬の一連の「コンパス作戦
 在キレナイカ地方のイタリア軍約25万のうち,約8万人がエジプトに侵攻.
 英軍は僅か2個師団を基幹とする兵力4万人で,反攻に出て,シディバラニ付近で,これを包囲殲滅.

 (2)「コンパス作戦」後の追撃戦〜ベダフォムの戦い
 攻勢主力が殲滅され,英軍がリビアに侵入してきた事態に対し,イタリア軍は未だに数的優位を持つにもかかわらず,海岸道路沿いに敗走状態に陥る.
 この敗走の最中,約4万人が戦死または降服(この間に英軍には1個師団が増援され,総兵力は6万程度になっている).

 さらに,英軍は,一部戦力に内陸の砂漠を突っ切らせ,キレナイカ−トリポリタニアの境界近くの小村ベダフォムにて,海岸道路を封鎖.
 ベダフォムにおいて,この封鎖を突破しようとしたイタリア軍と英軍との間で起った戦闘において,このときイタリア軍はベダフォムに辿り着けた数万人,約100両の戦車以外に重火器を有さず,対するイギリス軍は,約30両の戦車を巧みに利用してイタリア軍を待ち伏せし,イタリア戦車隊を壊滅.
 唯一の重火器を失ったイタリア兵は,イギリス軍に投降.

 こうして,在キレナイカのイタリア軍は,ほぼ殲滅された.

 ただイタリア軍の名誉のために言っておけば,最弱のように言われているイタリア軍だが,勇戦した例がないわけでもない.
 例えば1941年12月,アレクサンドリア港に潜入したイタリア海軍フロッグメン部隊が仕掛けた爆弾により,英戦艦クイーン・エリザベスとヴァリアントが大破着底している.
 この任務を担当したXMAS戦隊はこの他にも爆装ボートによる体当たり攻撃で巡洋艦や貨物船を多数撃沈.ジブラルタル近くで座礁した貨物船を秘密基地にして,そこから出撃した人間魚雷部隊が14隻の船舶を撃沈するという,映画みたいな活躍もしている.
 なおこのXMAS戦隊はイタリア降伏後も枢軸側につき,XMAS師団を編成して終戦まで戦い続けた.
 そして終戦後,捕虜収容所に押しかけたパルチザンによって,多数の隊員が殺害されるという悲劇も味わっている.(「ラスト・オブ・カンプグルッペ」)

 何かと評判の悪いアフリカ戦線でも,包囲され,絶望的な状況になったとき,ドイツ兵があっさり諦めるのに,イタリア兵は最後まで戦意旺盛だったという.これなどはちょっと信じがたい話ではあるが.
 イタリア軍は,自分の戦いじゃないと思うとあっさり降伏するが,ロマンチシズムや自分の男意気を示す為には命を賭けて戦うという感じだろうか.

 最近では,こんな例も.

 フランス公共ラジオによると,イタリアのフラティニ外相は2004年4月15日,イラクで「カタイバ・ムジャヒディン(戦士大隊)」と名乗るグループに拉致,殺害されたファブリッツィオ・クアトロキさんの最期の様子を明らかにした.
外相によると,クアトロキさんは短銃を突きつけられると,頭にかぶせられた袋を外そうとし,
「イタリア人の死にざまを見せてやる!」
と叫んだという.
 カタールの衛星テレビ,アルジャジーラに届けられた映像に基づく情報とみられる.
 また外相は同日,国営テレビで,残る3人の人質を解放させることは極めて難しいとの認識を示した.

http://www.sankei.co.jp/news/040415/kok096.htm


◆◆◆独ソ戦


 【質問】
 バルバロッサ戦からの独ソ戦について少し調べたいのですが,
パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』(学研M文庫,2000.9)
デビッド・グランツ&ジョナサン・ハウスの『<詳解>独ソ戦全史』(学研,2005.6)
山崎雅弘の『完全分析独ソ戦史』(学研M文庫,2007.3)
あたりで最初に手をつけるのにはどれが良いでしょうか?

 【回答】
『どくそせん』

……という,かなり真面目な冗談はおいといて,その中じゃ山崎さんですかね.
 独ソ戦概略史を知るなら一番手っ取り早いかと.
 構成も整っていて非常に読みやすいし,抑えるべき情報を満遍なく抑えている.
 独ソ双方の行動の背景の説明も丁寧だから,理解もしやすい.
 戦況図が多くて見やすいし,全体を概観して抑えるのなら,多分一番良いのでないかと.

 もし赤軍側についてより詳しく知りたいなら,詳解独ソ戦のが良いかもですが.
(まあ,細かすぎても却って分かりにくいとは思うけど)
 グランツの「詳解独ソ戦全史」は,ソ連崩壊後に出てきた赤軍の実像というのが売りだが,読者がある程度知ってると想定して書かれているので,予備知識がないと理解しずらい面がある.

 パウル・カレルはどちらかというと,読み物として捉えた方が良いと思います.
 カレルは冷戦時代の著作ということもあって,赤軍関係の記述に難あり.
 特にソ連将軍の人物評価は,「当時は最新情報だと思われていた」フルシチョフ時代のプロパガンダにかなり影響されている.
(諸悪の根源はスターリンにあり,みたいな)
 ただしドイツ軍側の記述は,訳者の文才もあって非常に良い.
 幾多のドイツオタが,ここから入ってきた.

 あと,『どくそせん』をブックオフで買うなら,初版・二版は避けた方がよさげ.
 結構アレな表記がちらほらあるから,むしろ初心者があれで入るのは注意した方が良いと思う.
 戦況図は多分別な本のが良い.
(地図は山崎本の出来が良いね)
 それと,ここ(書評スレッド)では割と好評だけど,赤軍ヲタ的にはなんか微妙だった.
 独軍好きなんだな,ということは伝わってくるのだが・・・.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 もし、ドイツがソ連に侵攻していなかったら、ソ連は先にドイツに侵攻するつもりはあったんですか?

 【回答】
「スターリンは極秘裏に対ドイツ戦争計画を進めており、実際に1941年6月の時点でソビエト軍はウクライナ南部、ルーマニア−ウクライナ国境付近に集結を始めていた」
という説もあるが,賛否両論あって定説とはなっていない.

 まず,肯定意見は以下のようなものである.

 フライブルクの軍事史研究所の元研究員であるヨアヒム・ホフマンや、最近近代史の正教授に任命されたヴェルナー・ マーザー、その他のさまざまなジャーナリストや歴史家によって、ドイツの対ソ戦の研究がされているが,それによれば、ヒトラーはソ連を攻撃したのではなく、直前に迫ったスターリンの対ドイツ攻撃に対して機先を制した「だけ」である、としている。
 こうした予防戦争テーゼは、多くの歴史学者によっても「議論の価値がある」とされている。

 「対独攻撃計画書」(独及びその同盟国に対する戦争の為の戦略開進計画)
・支攻撃をジードルチェ、デンブリン方面に加え、ワルシャワ近郊に独軍を拘置する
・スロヴァキア国境に近いボーランド南部をクラカウ方面に進み、ドイツと同盟国を分断した後北上し、ポーランドに展開している敵軍を包囲
・フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、東プロイセンに対しては防御
・作戦には303個師団、砲兵74個連隊、218個飛行連隊を使用

 ソ連が41年7月に対独開戦を予定していた、等の説が出ている。
 また西部に防衛するだけにしては多すぎる部隊を配備していたのは事実。

 ソ連の対独侵攻計画について詳細に触れた本は「砕氷船」という本。
 著者がソ連からの亡命将校(GRU所属の佐官)であることもあって、ドイツ系の書籍では大きく扱われることが多い。
 「知られざるスターリン」等、ロシアでは否定的に扱われている。

 「ヒトラーがソ連の先制攻撃に機先を制した」という見解を取ってる資料一覧:
Victor Suvorov, Icebreaker: Who Started the Second World War ?, Hamish Hamilton, London, 1990;
V. Suworow, Der Tag M, Klett-Cotta, Stuttgart 1995;
V. Suworow, Stalins verhinderter Erstschlag, Pour le Merite, Selente 2000;
E. Topitsch, Stalin’s War, Fourth Estate, London 1987;
W. Post, Unternehmen Barbarossa, Mittler, Hamburg 1995;
F. Becker, Stalins Blutspur durch Europa, Arndt Verlag, Kiel 1996;
F. Becker, Im Kampf um Europa, Leopold Stocker Verlag, Graz/Stuttgart 1993;
W. Maser, Der Wortbruch, Hitler, Stalin und der Zweite Weltkrieg, Olzog Verlag, Munich 1994;
J. Hoffman, Stalin’s War of Extermination, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000;
J. Hoffman, “Die Sowjetunion bis zum Vorbend des deutchen Angriffs”, in: Horst Boog and others, Das Deutsche Reich und der Zweite Weltkrieg, vol. 4: Der Angriff auf Sowjetunion, Deutsche Verlag-Anstalt, Stuttgart 1987;
J. Hoffman, “The Soviet Union’s Offensive Preparations in 1941”, in: From Peace to War, Providence/Oxford, 1997, pp. 361-380.

 一方,否定的意見は以下のようなものである.

 現実にジューコフは独軍の集結状態に対して、先制攻撃計画をスターリンに提出していはいる※。
 ただし、バルバロッサ初期の赤軍の体たらくを分析する文章でよく言われているように、スターリンは,独軍がソ連を攻撃しないと信じたがっていたし、ジューコフはそのお陰で、参謀総長を地位を追われ、一時的に左遷された。
 スターリンはまた,ドイツと対峙している部隊に
「ドイツ側より攻撃らしき行為があっても決して応戦してはならない。
 ドイツ側の挑発に乗る事を厳に戒めよ」
という命令を出していて、これが独ソ戦初頭で徹底的に先手を取られる遠因になった。

 さらに,41年夏季に攻勢を予定していたのならば、赤軍の部隊集結はさらに西に重点を移し、予備役のさらなる動員も、進められていなければならないが、現実ではそうではない。

 D.M.グランツ&J.M.ハウス「詳解 独ソ戦全史」では,以下のように述べられている.

 (29)
 最近二年間の間に高まってきた議論として、一九四一年五月に、ドイツ側の動員と明白な攻撃意図に照らして、ソ連側がヒトラーに対する「予防戦争」に乗りだすことを計画していた、というものがある。
 これはジューコフによる一九四一年五月一五日付の提案(マーザー著『独ソ開戦』小社[学習研究社]刊)の再評価によってかき立てられたもので、かなりの数のソ連の雑誌で断片的なかたちで発表された。
 亡命ソビエト将校V・レズーンがビクトル・スヴォロフの筆名で書いた二冊の著作では、スターリンのそのような戦争計画が断定的に論じられている。
 レズーンの説は、当然のことながらドイツの歴史家たちの中でも広く受け入れられた。
 また、主として政治的な理由から、今では旧体制の信用失墜になるのなら何でも真実だとして受け入れるロシア研究者の改革派グループからも受け入れられている。

 簡単にいうとレズーンは、一九三〇年代末から四一年六月までの期間にスターリンがとった軍事上の措置は、すべて攻勢を目指したものであり、四一年夏にドイツに対する一撃に乗り出すためだったとしている。
 ジューコフの提案では、七月にそのような攻撃を始めるように求めているが、これがレズーンの説の核心となっている。
 この提案は恐らく事実であろう。
 だがそのような提案は、どの参謀本部の業務でもありうる多くの計画立案の一つであるように思われる。
 さらにレズーンは、一九四一年の、攻撃せんと身構えていた、堂々としてしかも不吉な能力を持つ、巨大なソビエトの「戦争マシーン」なるものを生き生きと描いている。

 スターリンが将来ドイツとソ連との間で戦争があるかもしれない、と認識していた事実を承認することはできるが、彼が最低一九四二年までは戦争が起ってほしくない、と願っていたことは数々の証拠から明らかである。
 また、その後にあったソ連側の戦闘での動きのすべて、そして特に実在する独ソ双方の文書資料は、一見堂々とした赤軍が、一九四一年には実はまったく戦争の用意もできておらず、堂々となどしていなかったことを示している。
 たとえレズーンの説が正しいとしても、ドイツ側の攻撃計画はソ連のそれよりも先んじており、ジューコフの攻勢は七月に発起していることになっているのだから、これはドイツ側の攻勢の日程よりもはるかに遅い。
 ドイツの攻勢はもともと五月に実施するものとして計画されていたのだが、六月二二日まで延期されたのだから(ジューコフの計画については第三章を参照)。

(D.M.グランツ&J.M.ハウス「詳解 独ソ戦全史」,第2章/脚注29番,p.570-571)

 結論が出るまでには,なお時間を要するだろう.

※「ソビエト国軍の戦略的展開に関する意見書、人民委員会議議長宛、一九四一年五月付」
という,ジューコフの手書きになる文書が人民委員会議議長=スターリンに提出。
 これは,ティモシェンコ元帥の連署になるジューコフの手書き文書で、152師団による即時攻撃(ただし即時といっても7月)を提案していた。


 【質問】
 独ソ戦は序盤はドイツ圧倒的有利なのですが,なぜ負けたか不思議です.

 【回答】
 元々独ソ戦は,ドイツにとっては,秋が来るまでの間にモスクワを陥として終わらせられる短期決戦の筈だった.
 秋までどころか冬になっても戦争が終わらず,それどころか翌年になっても,その翌年になっても,ソビエトを負かせられなかった時点で敗北必至.

 序盤で圧倒的に有利だったのは,
*開戦初日,ドイツの兆発と誤解(誤認)したスターリンが反撃禁止の指令を出した
*スターリンが粛清で実戦経験のある有能な将校をほとんど始末してしまっていた
*ドイツと違い,ソビエトは戦時体制に入っていなかったので,人員や資源の動員が遅れた
為.
 それらが全て覆され,さらに米英の援助まで受けるようになっては,ドイツの敗北は必然.

 そもそも,当時のドイツが準備できた軍需物資(例えばトラックとか,予備部品とか),鉄道建設部隊の質と量とかからすりゃ,ヒトラーが超天才だろうと,中央軍集団がクーデター起こそうと,あと二ヶ月早く対ソ開戦しようと,冬の到来が一ヶ月遅れようと,絶対モスクワまではいけなかった(参考:クレヴェルト「補給戦」).


 【質問】
 やっぱ東部戦線でもドイツ軍は死守命令で苦労したんですかね?

 【回答】
 非常に苦労していた.
 戦線によっては,死守命令がなければ戦況を覆せるであろうものもあった.

 モスクワ前面からの撤退について...
 将軍たちはヒトラーに向かって,冬期の防衛線を確保するために思い切って大幅に後退するべきことを進言した.
 軍は冬の厳しい戦闘の準備をしていないという点を指摘したのだが,しかし,ヒトラーは聞こうとはしなかった.
「軍は一歩も退いてはならぬ.各自その現在位置で戦うべし」
と.

 この決定は一見,壊滅を招くように見えたけれど,その後,事態は彼の命令が正しかったことを再度証明した.
 フォン・ティペルスキルヒ将軍の話;
「前線の防衛は,1914年〜18年の時より遥かに堅固であった.ロシア軍は我々の戦線を突破しようとして何度も失敗した.
 彼らは遠く我々の側面へも迂回したけれども,その有利な形を完全に成功させるだけの技量も補給もなかったのである.
 我々は鉄道と道路の集合地点であるいくつかの町に集結し,そこをハリネズミ型の要塞に固め上げ ――これはヒトラーのアイディアだったが――それを固守することに成功した.
 事態はそのようにして救われたのである.
 多くの将軍達は,当時はそうは思わなかったが,今なっては,ヒトラーのこの決定が当時の事態としては最善であったと考えている.
 これは彼の大きな一つの手柄であった」
と,ティッペルシスキルヒは言うのである.
「あの重大な危機に直面した時,軍隊はナポレオンのモスクワ敗退について聞かされていたことを重い浮かべながら,その影の下で生きていた.
 もし,ひとたび退却をはじめたならば,おそらく恐慌的な壊走状態になっただろう.」...

 ただルントシュテット将軍はこれについても手厳しい
「最初にこの危機を招来したのは,ヒトラーの頑固な抵抗命令だったのである.
 もし彼が適時に後退を許していたなら,そもそもこういう危機は発生しなかったろう」

 そんなこんなでヒトラーは,ますます将軍達の言うことを聞かなくなり,41年の冬には巧くいった「死守命令」の連発で,ドイツ軍の柔軟な機動性を生かした防御戦を張るといったこともできず,ドイツ軍は各地で無理な地形での圧倒的に不利な条件の中,防御戦を強いられ,徐々に消耗していったようです.

 ここで死守命令を出した張本人,ヒトラーについての話;

 42年の作戦計画中に
「諜報機関の情報によれば,月に600台から700台の戦車がウラル山脈,またはそのあたりの工場から送られてきているということであったが,ハルダーがそれを話すとヒトラーは卓を叩いて,
『そんなことはあり得ない!』
と言った.彼は自分が信じたくない事は信じようとしなかった.

 また,リデルハートのインタビューでは・・・
「私が多くの将軍に尋ねたことは
『スターリングラード以後でも,もしうまくやれば敗北が避けられたと思うか?』
ということであった.
 ルントシュテットはそれに答えて
『避けられたと思う.もし前線の司令官達が,いつでも適当と思う時に後退することができたならば』
ということである.
 ところが実際には,もう至るところで,いつまでも無理な抵抗をやらされた」
 彼は1941年に東部戦線を去ったのだから,その後の事態を,割合客観的に見ることができた.
 その上,彼は性格的にも楽観主義者ではなかったし,さらに,両戦線で共に上級指揮官をやったことがあるという特別な経験からしても,彼の大局的な意見は拝聴に値する.
 同じ質問を,最後まで東部戦線に残っていた将軍達にした時には,彼らの返事はもっとはっきりしていた.
 ドイツ軍が弾力的な防御戦をやりさえすれば,ロシアの攻撃力は消耗してしまったろうと言うのである−もし,そうすることが許されるならば…と.

 これがヒトラーの死守命令について,
 インタビューでの見解については全く同感.
 少なくとも戦略的な勝利は可能であったはず,
 下手をすれば戦争に負けなかった可能性もある.

 以上,「ナチスドイツ軍の内幕」(B・H・リデル・ハ−ト著,岡本訳)からの引用あり.


 他にも死守命令のさい,指揮官が
「塹壕を掘ろうにも地面がこうりついてほれません」
というと,ヒトラーは
「ならば重砲の砲撃で穴をあければいい」
「お言葉ですが総統,砲撃に使う分のそれから差し引いても,一個師団が防御体制を整えることは不可能です」
……といった取りもしばしばだった.

 また他にも,防寒具・食料よりも弾薬燃料を優先したため,歩兵部隊は半数が戦わずして戦闘不能.
 戦車に関しても,ヒトラーが色々と面倒なことをしでかしたために,雪道はまだしも,春になって雪がとけ,泥沼になった道路を走ることは無理だった.
 さらに,道路が整備されていないという前線の報告を無視した総統が,無理に部隊を前進させたせいで,一本の道路を2つの師団が奪い合う,といったことも起きた.

 とにかくひどい有様だった.

名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM:
FAQ BBSに転載


 【質問】
 バルバロッサ作戦・青作戦・クルスクの戦いまでのの,枢軸国の独逸以外の同盟国(イタリアなど)の参加兵力と,師団の名前や軍団などを教えてください.

 【回答】
 1943年前半までの東部戦線における枢軸同盟国の参加兵力は,師団以上の編成に限定して,おおまかに列記すると,以下のようになります.

・ルーマニア第3,第4軍
(第1装甲師団,第1,2,5,6,7,8,9,10,11,13,14,15,18,21,35,近衛,グランチエリ歩兵師団,第1,5,6,7,8,9騎兵師団,第1,第2,第4山岳師団)
・ハンガリー第2軍
(第1機甲師団,第6,9,10,12,19,23歩兵師団,第105,121,124保安師団)
・イタリア第8軍
(ジュリア,トラディンティナ,クニエンセ山岳師団,コッセリア,パスビオ歩兵師団)

 上記の他に,フィンランド軍,スロバキア軍,スロベニア軍,スペイン軍などの部隊も参加しています.

 1942年夏期の「青作戦」には,ドイツ軍はかつて南方軍集団と呼ばれていたA軍集団とB軍集団を投入しました.
 A軍集団には第1装甲軍と第17軍が含まれ,一方のB軍集団には第6軍と第4装甲軍のほかに,ルーマニア第3,第4軍,ハンガリー第2軍,イタリア第8軍が含まれていました.
 B軍集団は攻勢の左翼となるウォロネジからスターリングラードへ至る戦線を担当し,ハンガリー軍はウォロネジ正面,イタリア軍とルーマニア軍は,スターリングラードを攻撃するドイツ第6軍の両翼に配置されていました.

 ハンガリー第2軍は3個軍団編成で,装甲師団1個,歩兵師団6個,保安師団5個を有し兵力は約7万,
イタリア第8軍は3個軍団編成で,山岳師団3個,歩兵師団5個,機械化師団1個,保安師団1個を有し,兵力は約10万,
ルーマニア第3,第4軍は合計で6個軍団を擁し,歩兵師団13個で兵力約15万,
というような陣容でした.

 なお,ルーマニア両軍とイタリア第8軍は1942年11月〜翌年1月までにほぼ壊滅しました.


 【質問】
 ロシア派遣スペイン義勇軍(青師団)の戦歴と装備した兵器が知りたいのですが.

 【回答】
 青師団は,兵力18,000名で,1941年7月20日ニュルンベルク軍管区にて編成
 262、263、269歩兵連隊、250砲兵連隊(3個砲兵大隊10.5cm野砲と1個砲兵大隊15cm砲を装備)
 250戦車猟兵大隊(3個中隊、3.7cmPak装備)250偵察大隊(2個オートバイ中隊)
250通信大隊(2個中隊)250工兵大隊(3個中隊)等々

 8月20日中央軍集団、第9軍に配属、東部戦線へ参戦、26日にヴィテブスクへ進撃
 ちなみに,スペイン出発時は同国陸軍の制服を着用していたのですが,前線ではドイツ国防軍の制服を着て戦っていた.
 10月10日北方軍集団、第16軍に転属、以後ノヴゴロド、イリメリ湖周辺、ヴォルホフ、レニングラード包囲に出撃
 特に1943年2〜3月のクラスニボルでソ連43、45、63、72、4個師団に対して前線を守り切った.

 1943年10月7日青師団は解隊、ほとんどはクリスマスまでにスペインへ帰国するも,一部の兵士はドイツ121歩兵師団にて1944年1月でもエストニア戦線で戦闘を続行.
 1944年3月にスペインに全員帰国.

 1941年、718名戦死、1612名負傷、86名行方不明
 1942年、1252名戦死、2777名負傷、3名行方不明
 1943年、1964名戦死4077名負傷、237名行方不明
 他に1941年-1944年の間に484名が捕虜になった.

 スペインの空軍義勇兵は,中隊規模でJG57に所属して,1941〜44年初期まで,交代制で合計4個中隊が東部戦線で戦っている.
 他にも海軍義勇兵(掃海艇に乗艦)が有名だが,ソ連側にもスペイン内戦後の亡命者による歩兵部隊や戦闘機パイロットがいた.

 光人社NF文庫に「中立国の戦い」という本があって, そこにも少しだけスペインが取り上げられている.

Ospleyには確か青師団本があった.

(軍事板)


 【質問】
 ロシア派遣イタリア軍の戦歴と装備した兵器が知りたいのですが.

 【回答】
 同軍は,Romania経由でUkraine方面に進撃しています.
 第3"Amedeo d'Aosta"軽機械化騎兵師団は,1942年4月に第3騎兵師団を改編し,機械化したもので,1942年12月当時の編成は,
師団司令部,
第213自動車化師団司令部警護小隊,
第874自動車化師団司令部警護小隊,
第3"Savoia"竜騎兵連隊,
第5"Nobara"槍騎兵連隊(配下に第5"San Giorgio"槍騎兵戦車大隊,第5,第6槍騎兵大隊),
第3自転車化軽歩兵連隊(第18,20,47,103自転車化軽歩兵大隊),
第6自転車化軽歩兵連隊(第6,13,19自転車化軽歩兵大隊),
第3"Principe Amedeo Duca d'Aosta"機動野砲兵連隊,
第120自動車化野戦砲兵連隊(第13自動車化対戦車大隊),
第99自動車化迫撃砲大隊,
第103自動車化通信中隊,
第105自動車化工兵中隊,
第73自動車化衛生中隊(第159,837野戦病院,第26治療隊)
で構成されていました.

 装甲兵力としては,第3騎兵師団(第3軽機械化師団)に属する,第67ベルサリエリ装甲大隊所属のL6/40軽戦車と,1個中隊のセモベンテL40 47/32,それに少数のL3 カルロベローチェも有ったそうです.
 T34を鹵獲して用いたと言う話もありますが,主力戦車の殆どが北アフリカと本土に持って行かれたので,結局は数の多かった軽戦車を送ったみたいです.
 でも,セモベンテを送っているのだから,主力戦車M13/40系列を送っていたのかもしれませんね.
 また,対戦車大隊にはM35 47mm対戦車砲,迫撃砲大隊には,M27/31 81.5mm迫撃砲が装備されていた様です.

 前身の第3騎兵師団は,1940年6月,北部のヴェネト州第45ベローナ軍管区のベローナ衛戍地で編成,アルプス軍団に配属され,ユーゴ戦に参加.
 後,第8軍イタリア派遣軍団(後の第29軍団)に配属され,1941年8月からドイツ南方軍集団と共に転戦,1942年4月にハリコフ方面に侵攻し,12月のスターリングラード救出作戦支援の際,ドン川付近の戦闘に参加.
 そしてStalingrad北方で壊滅的な打撃を受け,1943年初めには本国に呼び戻されます.
 1943年3月にイタリア北部,エミーリャ・ロマーニャ州の第6ボローニャ軍管区,ピアチェンツァ駐屯地に移動し,8月にボローニャ駐屯地に移転し,再編を完了.
 9月15日にドイツ軍の武装解除を受け,解隊となっています.

 空軍に於いては,ロシア方面特別航空兵団が編成され,ドイツの第4航空軍傘下で活動しました.
 その兵力は,22°Gruppo C.T.のM.C.200が51機,61°Gruppo O.A.のCa-311が22機,S.M.81が11機を基幹とし,M.C.200はKrivoy Rogから作戦していました.
 初撃墜は展開初日で,SB-2bisとI-16の戦爆連合の大編隊を迎撃し,6機の爆撃機と2機の戦闘機を撃墜して います.
 後に,B.R.20,Z.1007が追加され,1942年からは,M.C.202が参加,激しい戦闘を繰り広げましたが,指揮官が戦死,兵団も地上軍の敗退に伴って1943年に引き揚げました.

 イタリア降伏後も,東部戦線に残ったイタリア軍部隊が少数存在しており,ドイツ軍の指揮下で戦ったとか.空軍もSM.81がドイツ軍への輸送機として活躍したらしい,という話もあります.

 このロシア派遣イタリア軍については,個人戦記なら,「雪の中の軍曹」(マリオ・リゴーニ・ステルン著/出版:草思社/発行年月:1994.5)つー正真正銘の傑作があります.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 【余談】
http://www.4gamer.net/news.php?url=/weekly/hoi2/006/hoi2_006.shtml
 ↑イタリアがレニングラード・スターリングラードに到達してしまった衝撃的なSLGリプレイレポート.

名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in 軍事板


 【質問】
 スロヴァキア陸軍は独ソ戦でどのように戦ったの?

 【回答】
 Slovakiaは,ドイツがソ連に侵攻した1941年6月22日に参戦した最初の衛星国の一つでした.

 Slovakiaはまず,Rudolf Pilfousek大佐指揮の2,000名からなる快速グループ(1941年7月に5,000名で編成された快速旅団に格上げ)と,Ferdinand Catlos将軍指揮下の50,000名以上の兵力を以て侵攻軍を編成しています.
 この50,000名の兵力の内,35,000名は,8月には自国の農産物収穫のために,復員させています.
 こうしてSlovakia陸軍は再編成されますが,快速旅団は,Jozef Turanec砲兵大佐(後,将軍)指揮の下,8,000名に拡張されて快速師団となり,陸軍本隊は,Augstin Malar大佐(後,将軍)率いる,8,000名から成る警備師団となっています.

 快速師団は,Slovakia陸軍でも優秀な装備を優先的に割り当てられ,最も近代的で,最も機械化された部隊でした.
 また,警備師団は,快速師団の後方で,その補給路を守っていました.
 これらの師団は,ドイツの南方軍集団に属し,Livov,Kiev,Rostov経由でCaucasusにまで足跡を印しています.

 しかし,「快速師団」「警備師団」は度重なる消耗で, 機械化部隊も歩兵師団化されてしまい,名称も,第1,第2歩兵師団となっていました.
 しかも,その撤収までに,総兵力16,000名のうち,前線を去ってソ連側に投降する兵が続出し,その数は3,000名に達しました.
このため,1943年11月には,残った兵員で,脱落したイタリア軍の装備を接収して,第1, 第2機械化師団に再編成し,本国に戻されました.

 同時期に空軍も撤収,こうして,東部戦線からSlovakia軍はいなくなりました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 スペインって確か青旅団を東部戦線に送ってたけど,ヴィシー・フランスってそういうの無かったんですか? SSの外国人部隊以外で.

 【回答】
 ありました.

 まず,Franceのファシストである,デア,ドランクル,ドリオらに依って,1941年9月4日に,「反ボルシェヴィズム・フランス義勇軍団」が正式発足し,ドイツ軍の軍服を纏ったドリオ自らが,前線に赴き,赤軍と戦闘しています.
 隊員は11,000人の応募に対し,6,500名が採用されましたが,ドイツ軍やHitler自体はこれをお荷物としか思っておらず,ドイツ軍の軍服着用を禁じたり,徴募人数の制限(15,000名まで).という制限を行っています.

 隊員には,独身者で1,800フラン,妻帯者で2,400フランの月給が支払われ,これを基本給として,戦闘手当一日20フラン,児童手当が350フラン支給されました.
 三人の子持ち兵士なら,3,480フランとなり,これは,ドイツに行った労務者よりも高給でした.

 この軍団は東部戦線へ5,800名送り込んでいますが,彼等はドイツ国防軍の一個歩兵連隊として扱われたに過ぎません.
 しかも,この軍団の指導層は過去にVichy政府に楯突いた人々だったので,尚更国の援助は与えられませんでした.
 志願者の質も低く,当初の条件であったフランスの軍服と兵器が支給されなかったため,兵士の士気は低いものでした.

 41年初冬,この部隊の2個大隊が東部戦線に派遣され,モスクワ前面で戦いましたが,大損害を蒙り,戦意に欠けるこの部隊をドイツ軍は戦闘能力なしと見なしました.
 42年2月この部隊は第638フランス歩兵連隊と改称され,もっぱら対パルチザン戦に投入されました.
 その後,44年,フランス人SS部隊である第7義勇突撃旅団と統合されて第33SS武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」となり,後に師団となりました.

 逆にVichy政権の要人であるラヴァル,ブノワ−メシャンらの肝いりで作ったのが,1942年7月に創設された「フランス三色旗軍団」です.
 しかし,正規軍の復活に繋がるとして,ドイツはこれも潰します.

 他にアフリカ戦線で,1942年11月21日に「アフリカ軍団」なる総勢400人程度の軍事組織を作ってみたりしてますが,結局フランスの準軍事組織でモノになったのが,1943年1月に,フランス戦士団保安隊を核に誕生した「民兵団」.ラヴァルがダルナンを頭目にして作った組織で,兵士の月給は3〜4,000フランです.
これは,最盛期には10,000人の規模となり,南フランスの被占領地域で,43年秋から親衛隊の指導の下,Resistance弾圧に投入されています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 独ソ戦の際に,ソ連に徴用されていたコサックなど少数民族が,ドイツ軍へ寝返ったようなケースがあるらしいと聞いたのですが,これはある程度まとまって組織的に行われていたのでしょうか?
 それとも兵個々人の判断で行われていたのでしょうか?

 また,これらコサック兵の戦後はどのようなものだったのでしょうか?
 ソ連へ召還されたのでしょうか?第三国へ脱出したのでしょうか?

 【回答】
 基本的にはケースバイケース.

 しかし,共産主義体制下で抑圧されていたイスラム系や,一旦独立後に再併合されたバルト三国などでは当初はドイツ軍を解放者として歓迎したものも多かった.
 また,ロシア人やウクライナ人の中にもドイツ軍を歓迎した者もおり,独ソ戦当初には政治士官を殺害して部隊ごと投降する場合も多かった.
 これらの人々がドイツに解放者としての期待を抱き,それが裏切られていく過程はJ・トールヴァルトの「幻影」(絶版)に詳しい.

 これら対独協力者の運命だが,ほとんどが処刑もしくは流刑された.
 西側に投降した人々も,米英がソ連と結んだ協定により引き渡され,ソ連に送られるよりはと部隊単位で焼身自殺したケースもあった.
 イスラム系民族ではチェチェン人やイングーシュ人,クリミアタタール人などはその多くがシベリアや中央アジアに流刑されている.
 その後にロシア人が入植し,これがソ連崩壊後大きな問題となっている.
 チェチェン紛争もその原因の一つがこれである.


 【質問】
 WW2の東部戦線において「コサック義勇兵の中隊」などといったものが登場するかと思いますが,スペインの青師団のように国単位での義勇軍でなく,部族単位と形容すべき(?)義勇兵の部隊編成はどうなっていたのでしょうか?
 やはり中隊規模程度で,あくまで独逸軍の補助的な役割だったのか?
 もしくは大隊以上の規模でいたりするのでしょうか?
 もし,ある程度の規模で存在したならば,彼らの戦績なども知っている方がいたらお聞かせ願いたい .

 【回答】
 SSの義勇師団も含めての話かな?
 主にスラブやカフカス地方の住民で編成された陸軍の外国人部隊(いわゆる東方大隊)は,基本は大隊編成だが,連隊や師団規模の部隊もあった.
 師団規模以上だとパンヴィッツ将軍が率いたコサック騎兵師団とか,ウラソフのロシア解放軍とか.
 ただ兵士たちの来歴(反共主義から熱烈に戦ったコサックもいれば,収容所での餓死を逃れるために志願した捕虜もいる)もさまざま.
 サックが頭目(アタマン)に率いられて家族ぐるみの集団で志願した場合もあるし,捕虜収容所からかき集めた場合もある.
 武装SSのカミンスキー旅団のように,元は国防軍の占領地域で自治区の治安部隊として作られたのが,ソ連軍の侵攻で故郷を捨て,そのままSSに拾われたというのもある.

 ヒトラーやヒムラーのスラブ人蔑視から大規模な部隊の編成や実戦投入が中々許可されなかった為に,多くは後方での建設労働や捕虜収容所の警備といった汚れ仕事をやらされている.

 これらの部隊の成り立ちや戦歴,運命についてはユルゲン・トールヴァルトの「幻影 ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語」(フジ出版)が詳しい.
 ただし現在絶版状態なので,古書店か近くの図書館を当たってみるしかないだろう.


 【質問】
 「2重包囲」について説明が載っているところを教えていただきたいのですが。
「独ソ戦書籍を読め」
「ぐぐれ〔google検索しろ〕」
といわれそうですが、書籍は手が出ず、検索したところ「2重包囲を意図した」ばかりで解説が見つけられませんでした。
 調べたところ
「両翼から相手を完全に包囲」
「前線で敵を包囲し、同時に別働隊で後退路も絶つ」
の2つぐらいしか分かりませんでした。

 【回答】
 単純な一重の包囲は、包囲側の全ての部隊が包囲された敵に向かって展開することになり、必然的に、敵の予備隊や後続部隊が救援に駆けつけた場合、背後を突かれることになりやすいのです。
 包囲しているのとは別の部隊を使ってこれを防ぐのが「二重包囲」です。
 つまり、予測される外部からの敵の反撃経路(包囲下の部隊にとっては脱出経路)を遮断し、友軍包囲部隊の背後を防護するわけです。
 もちろん、その過程で実際に敵の予備隊などが出現すれば、その包囲にも成功する場合もあるでしょう。


 【質問】
 北方軍集団がドヴィナ川を渡る前に最後に遭遇した,ソ連軍の機甲部隊との戦いはどんなものでしたか ?
 敗北の情報は正しく伝えられましたか? 

 【回答】
 バルバロッサ作戦の初期,北部で,レープの北方軍集団が目的地である,バルト軍管区の向こう側,レニングラードを目指し,彼らとそのの間にある最大の障害,ドヴィナ川に向かって進軍していた.
 ゲオルグ・ハンス・ラインハルトの第42機甲師団は,6月23日の夜にリストニアのライゼニヤ村において,編成されたばかりの機械化軍団の一部である戦車部隊に攻撃を受けた.
 しかし,編成されて間もないこの部隊が,ドイツの熟練した機甲部隊にかなうはずもなく,戦術は単純そのもの,ただただ,火力で勝る敵に対し正面から波状攻撃を掛けていった.
 当然,自らの手で戦力を消耗する形となり,挙句の果てに,側面からの別働隊の攻撃にさらされ湿地帯に追い込まれた.
 結局,ソ連軍虎の子の戦車部隊は185両の損失を出し,全滅.
 ドイツ軍はほとんど損害を出さず,何食わぬ顔でソヴィナ川に向かって進軍していった.
 ソ連機甲部隊の唯一の戦果といえば,弾薬と燃料を浪費させ,さらにほんの数時間,ドイツの進撃を鈍らせたにとどまった.

 情報については,同日午後十時
―「ソ連側に有利な戦況にあり,ドイツは押し戻されている」―
 ・・・ソ連軍参謀総長を務めるゲオルギー・K・ジェーコフが,開戦後の戦況とこう判断したことからわかるように ,モスクワでは,すべての命令が実行され,ドイツ軍に対して猛反撃が加えられているだろうと確信していた.
 つまり,情報は正しく伝えられず,命令と架空の戦況のみが報告されていた.

名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM


 【質問】
 ドイツはモスクワまで最高どのくらいまで近づけたのですか?

 【回答】
 1941年12月5日、第二装甲師団の前衛部隊がモスクワ近郊,ヒムキという都市まで到達している。ヒムキはクレムリンから16km、モスクワ市の外縁からは8km。
 この直後に攻撃中止命令が出てモスクワ攻略が頓挫した。
 ヒムキには,これを記念した対戦車バリケード(鉄骨を三本直交するように組み合わせたもの)を模したモニュメントがある。

 ちなみにクレムリン=皇居で換算すると、川崎市宮前区、溝の口あたりまで進出されたことになる。
 そら,クイビシェフにも逃げるわな。


 【質問】
 バルバロッサ作戦で,中央軍集団はヒトラーの命令で,途中でキエフに向かうことになりましたが,命令を無視しそのままモスクワに向かって進撃は出来なかったのでしょうか?
 戦争末期はおおっぴらに命令違反してますが……

 【回答】
 無理です.
 戦争末期だって,おおっぴらに命令違反してるわけじゃないはずです.
 ヒトラーの前線への介入は,末期ほど酷いわけですから.
 末期の命令無視状態は,命令系統が混乱していたか,物理的に命令遂行が不可だったか,指揮官が無謀なヒトラーの命令に対して,抜け穴を見つけたか,指揮官がたまたまヒトラーのお気に入りだったか,に限られます.

 それで,命令を無視してモスクワに進撃といったって,準備もなくできるわけでなく,そうした兆候がバレた時点で,指揮官が解任される可能性が大です.
 解任された指揮官に従うものは皆無でしょう.
 もし命令を無視してモスクワに進撃することができるとするならば,それはクーデタでも成功した場合に限られるでしょう.


 【質問】
 ドイツ軍のタイフーン作戦の際,一部はクレムリンを望むところまで到達していたそうですが,作戦中止命令が出ていなければ,現地の戦力的に占領しえたのでしょうか?

 【回答】
 無理です.
 クレムリンを望めるといっても,モスクワ市外外縁から30kmの地点が最大進出点であり,それも偵察部隊が突出したものです.
 その時点で,積雪が本格化し,冬季装備のない独軍は,もう攻勢どころじゃありません.


 【質問】
 第2次大戦で、ドイツがソ連に侵攻準備をしていた段階で,ドイツ上層部は,ソ連領内の鉄道の規格が違う事や道路事情が悪い事を充分に認識していたのでしょうか?
 その解決策を持ってからソ連に侵攻したのでしょうか?

 実際にはその輸送関係で苦戦したので,解決策は用意できなかったのだと思いますが、鉄道・道路事情は何とかなると思って侵攻したということでしょうか?

 【回答】
 鉄道に道路網は考えずに侵攻を開始したようです。

 ドイツ陸軍には鉄道連隊があって、侵攻に合わせて鉄道の幅を改修して、トラック輸送部隊で不足分は補えると考えてました。
 実際は鉄道連隊は数が少なく(西部戦線で手がいっぱい),前線部隊の進撃に追いつけなかった。
 ロシアの道路網も舗装道路はモスクワ-スモレンスク間だけで、その他は良くて砂利道でした。
 西ヨーロッパの地図表記と、ソビエトの道路の表記は同じだと勘違いをしており、道路網の不備と泥道が進撃を阻んだと言って間違いがありません。
 ドイツ陸軍の戦車も機械化部隊も基本的には、舗装道路を進撃する軍隊だったのです。
 不整地の走破力は非常に非力でした。

 絶版になってますが「補給戦」には割と詳しく書かれています。

(一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)


 【質問】
 東部戦線のドイツ軍は,なぜ冬季戦準備が十分でなかったのですか?

 【回答】
 ドイツ軍には,ロシアの冬の寒さをあまく見ていたところがあったようだ。

 厳冬の東部戦線の前線で,食糧や防寒具を待ち焦がれている部隊の元に,貨物列車が到着。
 しかし中身は,ガラスと色つきの氷の破片の山。
 それは,後方の補給将校が気をきかせたつもりで送ったフランスのワインで、零下数十度の寒さで瓶が割れてしまったものだったなんてこともあったそうだ。
 ほかにも、ドイツの靴底に金属鋲のついたブーツをみて、
「そんなものを履いていたら,熱が逃げてあっという間に凍傷になる」
とフィンランド軍の将校が注意したとか,あるいは死んだドイツ兵のはいていたブーツをみて、
「我々はワンサイズ大きいブーツを履く。これなら新聞紙や布を詰め込んで防寒できるのに」
とソ連兵が嘲笑した,といった逸話がある。


 【質問】
 「青」作戦とは?

 【回答】
 1942/6/28から開始された,ドイツ軍の攻勢.
 広田厚司によれば,作戦目標は以下の通り.

 ソ連にとって重要な資源地帯――コーカサスを奪取,ドイツの資源地帯とすることを直接的目標としていた.
 作戦の重点はコーカサス油田・穀倉地帯の奪取,および付近に展開する「最後に残っている人間の防衛力」の破壊.
 スターリングラードは,コーカサスへの侵攻回廊側面を安定化するための,「少なくとも砲火の影響下に置く」程度の戦術目標に過ぎないはずだったが…….

(広田厚司「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」,
アド・テクノス,1986/9/10, P.2,抜粋要約)


 【質問】
 「青」作戦の最初の躓きは?

 【回答】
 7/17,ヒトラーが,マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将のB軍集団(以下,Gr.B)にあった第4装甲軍の主力を,ヴィルヘルム・リスト元帥のA軍集団(以下,Gr.A)の掩護に向かわせたこと.
 広田厚司によれば,作戦目標は以下の通り.

 Gr.Aはコーカサス侵攻,Gr.Bはスターリングラードを中心とする戦線側面の安定化をそれぞれ任務としていた.
 ドイツ軍の初期攻勢は完全に成功しており,各Gr.に現有兵力のまま攻勢を継続させても,コーカサスはドイツの手に落ち,何ら有力な部隊の配置がなされていなかったスターリングラードも,労せずして占領できただろう.
 いや,もしかしたらヒトラーの初期案――北方旋回後,モスクワに対する侵攻も,実行可能だったかもしれない。

 だが,自力で十分に進撃できるであろう部隊に,それ以上の部隊を追加したところで,得られるものは一つしかない――混乱である.
 悪影響がすぐに現れた.ドン河下流最大の渡河点・ロストフは,たちまちにして,何の関係もない装甲部隊で埋め尽くされ,それまで第4装甲軍が撒き散らした戦略的混乱の下で順調に進撃していた第6軍は掩護を失い,カラチ付近で二進も三進もいかない状態に追い込まれた.
 スターリングラードにおいてはソ連軍の集中――もっともそれは,壊滅した部隊からの兵員が大部分を占めていたが――が始まり,第6軍独力ではスターリングラード占領は不可能になったのだった.

(広田厚司「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」,
アド・テクノス,1986/9/10, P.2,抜粋要約)


 【質問】
 なぜスターリングラードで市街戦が起こることになったのか?

 【回答】
 広田厚司によれば,ヒトラー命令による,という.

 ヒトラーは,コーカサスで順調に進撃しつつあったGr.Aから部隊を引き抜き,1個装甲軍団を抜かれた穴を,強力とは言いかねるフランス式装備のルーマニア軍で補填していた第4装甲軍と共に,第6軍を助け,スターリングラードを奪取するよう命じた.戦術的目標が戦略的目標に摩り替ったのである.
 元来スターリングラードは,コーカサス侵攻の副次的目標であったはずである.
 にも関わらず,ヒトラーは,戦略的主目標コーカサスから部隊を引き抜いてスターリングラードに向けた.
 1941年の過ち――戦略目標の不徹底を再び犯してしまったのである.

 パウルス率いる第6軍は、第4装甲軍と共に,スターリングラードに対して猛攻をかけたが,これは,これまでの
「間接的アプローチをもって戦略的優位を得て勝利する」
というドイツ軍の戦い方ではなく,ただひたすらスターリングラードに猛攻をかけて突き進む,という直接的アプローチの最悪の例だった.

 詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10), P.2-3を参照されたし.

 【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」:鏡音リンのスターリングラード冬景色


 【質問】
 スターリングラード攻防戦中,最大の激戦地は?

 【回答】
 市街北端のトラクター工場.
 ドイツ軍第305歩兵師団とソ連軍第308狙撃兵師団が寸土を争った.
 ドイツ軍第389歩兵師団および第14戦車師団の一部も,これに加わった.

 詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10), P.18-19を参照されたし.

消印所沢

 スターリングラード攻防戦時のソ連軍側の損害を抽出すると,

第187狙撃師団
 いかなる犠牲を払っても工場を死守するよう命じられ,たった3日間で同師団の90%が戦死&行方不明に.

第95狙撃師団
 1942年4月末に,約7000人で到着
 10月8日時点で,3075人,10月14日では約500人になって交代

第193狙撃師団
 9月27〜28日夜に5000人で到着,10月8日には戦力350人

第112狙撃師団
 約7000人の戦力でスターリングラード戦初期から参戦
 9月29日時点で250人
 ある混成大隊に編入されて10月14日に交代

第37親衛狙撃師団
 10月2〜3日の夜に7000人で到着
 激戦地であるトラクター工場で戦い,250人まで減少
 10月15日に交代

第17親衛狙撃師団(元第187狙撃師団)
 指揮官ロディムチョフ少将は9月15〜16日の夜に,1万人以上の兵力を率いて参戦
 ママイェフの丘とトラクター工場で戦い,10月15日には数百人となってしまった

 【参考文献】
『詳解 独ソ戦全史』(デビッド・M. グランツ他著,学研文庫,2005.6)

CRS in mixi,2007年05月03日20:30

 【参考画像】
スターリングラードにおけるソ連軍を描いた戯画


 【質問】
 ソ連軍はスターリングラード攻防戦で,どのように抵抗したか?

 【回答】
 広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10)の,P.6からP.21までの各所に散在する記述を纏めると,以下のようになる.

 9月半ばから10月初旬にかけ,装備優良な2個親衛師団を,市街中央部防衛のために投入.
 また,5万人の民間人による人民防衛軍を組織.
 他に市民7万5千人が防衛線に加わった.

 ソ連軍は地の利を利用.下水道・地下室・ビルの廃墟と狙撃兵など,必死の抵抗を試みた.
 また,夜の内にヴォルガ川を渡河して続々と増強された.増援は峡谷に集結,小部隊で出撃した.

 しかし10月末までに,ソ連軍側支配地域は市街の1割になり,精鋭部隊と言われたシベリア第62軍第244狙撃兵師団は,10月下旬には約1500人の兵力に激減.
 第13親衛狙撃兵師団も同じ頃,空爆により壊滅的打撃を受けた.

消印所沢

 ソ連側は信じられない程の頑張りを示し,甚大な犠牲と損失にも関わらずに頑強に抵抗しました.

 スターリングラードで戦術面の防衛はV・I・チュイコフ中将が指揮していました.
 彼はドイツ側の空軍力と砲兵火力の優位を無力化するため,自分の部隊にドイツ軍と「抱き合う」ように命じました.
 これによってソ連軍は,ドイツ側が砲撃や爆撃を実行出来なくさせました,誤射・誤爆のおそれが出たためです.

 そのため超接近戦になり,何週間にわたり,ソ連軍の歩兵と工兵の小集団が,しばしば道一本・壁一つ隔てるだけという程に密着し,捜索・待ち伏せの死闘がメートル単位の距離で行われました.

 それでもソ連側は磨耗し押され,10月にはソ連軍陣地は4つの橋頭堡に分断.
 陣地の前縁は河からなんと180メートルに過ぎなくなった.

 このとき,チュイコフ中将の司令部の真上にあった石油タンクに砲弾が命中.
 タンクに引火し,周囲は炎に包まれた.
 上級司令部は安否を確かめようと,何度も打電しました.
「今,何処にいる?」
という上級司令部の問いに対し,チュイコフ中将は
「煙と炎の中にいる」
と答えたそうな.

 【参考文献】
『詳解 独ソ戦全史』(デビッド・M. グランツ他著,学研文庫,2005.6)

CRS in mixi,2007年05月03日20:30


 【質問】
 後のソ連書記長フルシチョフは,本当にスターリングラード攻防戦に参加したのか?

 【回答】
 本当.写真が残っている.
 ニキタ・セルゲイヴィチ・フルシチョフは,政治委員として防衛戦を指導した.
 彼は1942/9/13,守備隊,第62軍司令官ロパチンを解任,司令官代理のチェイコフを後任に任命した.

 広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10),P.10にその写真が掲載されている.


 【質問】
 ブラウ作戦の後,ハルダー陸軍総参謀長はどうなったのか?

 【回答】
 彼はブラウ作戦の責任を取らされ,1942年9月24日,当時,D軍集団(フォン・ルンドシュテッド元帥=西方方面軍)の参謀長クルト・ツアイツラー中将(当日大将昇進)と交替しました.

 以下によると,ツァイツラーはD軍集団参謀長で少将から特進した様です.

GENERALFELDMARSCHALL WALTHER VON BRAUCHITSCH (RK)
Commander-in-Chief of the Army ? Risen to Reichs Minister in Rank and participated on arrangement of the F&uuml;hrer in the Meetings of the Reichs Cabinet (04 Feb 1938-20 Dec 1941)

HALDER, Franz (RK)
(1884 - 1972)
Generaloberst

Chief of the General Staff of the Army (01 Sep 1939-24 Sep 1942)

ZEITZLER, Kurt (RK)
(1895 - 1963)
Generaloberst

01.04.1942 - 24.09.1942 Chef des Generalstabes of Heeresgruppe D.
24.09.1942 - 01.07.1944 Chef des Generalstabes des Heeres. Succeeded Generaloberst Franz Halder.
(24.09.1942 General der Infanterie (skipped the rank of Generalleutnant)

 代表的資料;

HPのURLは
http://www.geocities.com/~orion47/

書籍
『ヒットラーと国防軍』(リデル・ハート著,原書房,1978)
『焦土作戦』(パウル・カルレ著,学研M文庫,2001.1)

通行人 in FAQ BBS


 【質問】
 スターリングラード方面のソ連軍の反攻作戦に,ドイツ軍は気付かなかったのか?

 【回答】
 兆候は報告されていた.スターリングラード左側面に展開する各部隊から.
 ドイツ軍第11軍団のシュトレッカー,ルーマニア軍のアントネスク,ドゥミトレスク――彼らは,あまりにも弱体な左翼・ルーマニア第3軍の担当戦線のドン河北岸にソ連軍が集結している事に気付き,警告を発した.
「ソ連軍の反攻が迫っている!」

 これは,ソ連軍第65軍が行った,ドン河南岸に対する橋頭堡構築により,いっそう明白となった.

ソースは広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10), P.23より.


 【質問】
 予想されるソ連軍反攻に対し,ドイツ軍はどのような対策を講じたか?

 【回答】
 第6軍司令官パウルスは,戦線縮小の許可をヒトラーに求めた.
 が,ヒトラーは,参謀本部の報告――ソ連軍に予備兵力なし――を根拠に,一切の撤退を認めなかった.

 その代わり,ルーマニア第3軍の戦線強化を許可した.
 その主力となったのは,ハイム中将の指揮するドイツ第48装甲軍団だった.この軍団は,ルーマニア第3軍とイタリア第8軍の後方に展開,弱体な戦線の「支柱」の役割を果たすことになった.
 この軍団を構成する2個装甲師団,ドイツ軍第22装甲師団とルーマニア第1装甲師団は,それぞれ戦車104両・108両を有していた.書類上は.

 ところが実情は異なっていた.
 第22装甲師団は長期に渡って補給を与えられなかったため,保有戦車は42両に減少していた.
 ルーマニア第1装甲師団は,装備戦車の大部分がチェコ製T38戦車だった.

 前線指揮官達は危機に気付いており,「増援か撤退」を度々要請したが,情勢判断を完全に誤ったドイツ軍首脳部,特にヒトラーはそれを許さず,第6軍に対し,ますます戦力消耗と危険を招くスターリングラード攻撃を続行させた.

 詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10), P.23を参照されたし.


 【質問】
 「ウラヌス(天王星)」作戦とは?

 【回答】
 スターリングラード方面に対する,ソ連軍の反攻作戦.

 ドイツ軍の弱体な両翼――装備弱体なルーマニア軍――を食い破り,50万の兵士,1500両の戦車,13500門の砲をもって,スターリングラードのドイツ第6軍を包囲撃滅し,あわよくばロストフまで突進して,コーカサスに侵攻しているドイツA軍集団までも撃滅しようとする雄大な計画だった.

 1942/11/19,作戦発動.
 コンスタンチン・ロコソフスキイ中将率いるドン戦線正面軍と,ニコライ・F・バトゥーティン中将率いる南西戦線正面軍は,160kmに及ぶ戦線左翼を担当していたルーマニア第3軍に攻撃を開始.
 -6.1℃,視界ゼロという「ソ連軍向き」の天候の中で開始され,1.5〜3kmに1個大隊という,ルーマニア軍の薄い戦線を突破.戦線左翼には50kmの大穴が空く.

 11/20には,アンドレイ・イェレメンコ中将のスターリングラード戦線正面軍がルーマニア第4軍の戦線に,80kmの突破口開口に成功.

 11/23,ドン河屈曲部のザビエツキイ(カラチ近郊)で,ドイツ軍・ルーマニア軍30万を完全包囲下に置くことに成功した.

 もし,この時点でドイツ軍が直ちに包囲下からの突破作戦を開始していれば,最悪の結果は避けられたかもしれない.
 ヴォルガ河は完全な凍結に至らず,スターリングラード戦線正面軍に対する補給は滞りがちだった.
 ドイツ軍が突破行動をとっても,その後半に展開するソ連軍は,有効な追撃ができなかっただろう.

 11/24,解任され(9/24)たハルダー陸軍参謀長の後任ツァイツラーは,ヒトラーに対し,突破命令を下すよう要請.
 しかしヒトラーは拒絶.スターリングラードに円形陣を作り,「要塞とせよ」と,彼は命令を下した.

 詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10), P.31-32を参照されたし.


 【質問】
 第6軍司令官パウルスは,なぜスターリングラード包囲網突破作戦「霹靂」を実行しなかったか?

 【回答】
 ヒトラーの死守命令に反抗できなかったためと見られる.

 1942/12/18,ドン軍集団司令官フォン・マンシュタインはパウルスに命令を発している.
「直ちに霹靂作戦を開始せよ」
 パウルスの回答は,こうだった.
「装甲車両の燃料不足.30km以遠に到達できず」

 だが,脱出する気があるのなら,可能な限りの手段,例え歩いてでも指揮下の部隊を救おうとしたはずである.
 だが,パウルスは実直過ぎた.
 さらに,彼の周囲にはヒトラーのシンパ(その代表者は,第6軍参謀長シュミット少将であろう)が存在し,「ヒトラー命令」という圧力で,勇気の必要な決断を下すことを妨げていた.

 ソ連軍は,イタリア第8軍の戦線を突破した.
 第57装甲軍団は撤退を開始せざるをえなかった.
 救出作戦は失敗した.
 23万3千名のドイツ軍の精鋭は壊滅し,捕虜となった10万8千人はシベリアその他の収容所で,長く辛酸をなめることになるのだった.

 詳しくは,広田厚司著「写真集 オペレーション・ウィンターストーム」(アド・テクノス,1986/9/10), P.31を参照されたし.


 【質問】
 スターリングラード包囲戦において,包囲を突破したドイツ兵はいなかったのでしょうか?

 【回答】
 グムラク飛行場の喪失などで,空路からの脱出手段がなくなった後,徒歩で脱出に成功した者はいなかったはず.
 第6軍が降伏した43年2月以降,徒歩でドイツ軍の戦線方向に歩く個人や小部隊は偵察機などから目撃されているが,いずれも消息を絶っている.
 パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』(学研M文庫,2000.9)に,ただ一人友軍にたどり着いた直後に砲撃で死んだ下士官の話が出てくるが,これは実話ではないらしい.

 他の戦場では,ロシア語が堪能なバルト出身のドイツ人が捕虜を後送するロシア兵に化け,戦線突破に成功した例などがある.

軍事板


 【質問】
 プロホロフカ村の戦いに参加したとされるドイツ軍戦車の数が,年を追うごとに減っているのは何故でしょうか?
 いったいどれが正しいのでしょうか?
 そして,なぜ数が減っているのでしょうか?

 【回答】
 おそらく、これまでの数字が主として,ソ連公式戦史を始めとしたソ連側資料に拠ったものだったからではないでしょうか。
 パウル・カレルの本の中でも引用されている部分があるようですし。

 LAH師団第1SS戦車連隊はクルスク戦時,第T戦車大隊を「ヒトラーユーゲント」装甲師団編成のためにそっくり引き抜かれており、第U戦車大隊も戦車が不足して三個中隊の編成になっていました。
 これにティーガー中隊を加えても,連隊の戦車は114輌に過ぎませんでした。
 ここらへんの実情が古い資料では全く無視されているようです。

 近年出てきたドイツ側参加戦力の数字はLAH師団史によるもので、ほぼ実態に即したものと思われます。

 ソ連公式戦史を始めとした古い資料では、ドイツ側の戦車は3個SS装甲師団から成るタイガー戦車100輌を含む(笑)700輌とされていました。
 いうまでもなく、戦車不足が深刻だったドイツ側にまともに定数がそろっているはずがなく、350輌というのはそこら辺を資料を洗い直して勘案した数字でしょう。

 さらに近年はプロホロフカ戦車戦をLAH師団正面戦区に限定して語られるようになってきましたので、7月11日のLAH師団の戦闘可能車両数であった90輌という数字が出てきたわけです。

 因みにソ連側戦力は、ローストミストロフ中将傘下のソ連第5親衛戦車軍約800輌中の約450輌で、そのうち180輌を喪失したと推定されています。
 一方LAH師団の戦車は撃破されても回収後戦場に復帰した車両も多く、完全損失は10輌にも満たない数だったようです。

 …ソ連側が脚色したくなるのもむべなるかな…

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


◆◆◆アフリカ戦以降

 【質問】
 大戦中,英軍はリビアのドイツ・北アフリカ軍団司令部にコマンドを送り込み,ロンメル将軍の暗殺を 狙ったらしいですが,本当ですか?

 【回答】
 本当です.

 簡単に解説すると,この作戦はトブルク奪回作戦に先立って敵にショックを与えるという趣旨の元に計画された作戦でした.
 この作戦を指揮したのは,元コマンド部隊総指揮官であったロジャー・キーズ海軍元帥の子息,ジェフレー・キーズ中佐です.
1941年11月14日,キーズ中佐に率いられた奇襲班はベダ・リットリアにあるロンメルの
司令部を奇襲すべく二隻の潜水艦に分乗して潜入しました.
17日深夜,キーズ中佐達は司令部と思われる建物に突入しましたが,ドイツ兵の逆襲により
キーズ中佐は戦死.残りの人員は急ぎ撤収しましたが迎えの潜水艦との合流に失敗.
陸路脱出に成功して41日後にキレナにたどり着いた2名を除いて他の隊員はすべて
戦死もしくは捕虜になってしまいました.

キーズ中佐は独軍によって丁重に葬られ,死後ビクトリア十字勲章を受章しました.
ちなみに,彼らが突入した建物は独伊軍の補給本部の司令部で,もちろんロンメルは不在でした.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板

アフリカ戦線でロンメルによって作られたニセ戦車


 【伝説】
 北アフリカ戦での一こま.
 ドイツ軍に隣の戦区のイタリア軍から
「水が不足して戦闘不能になりそうだ! 至急水の救援を!」
って要請が来た.
 ドイツ軍が急いで水を運んで行ってやったら,イタリア軍は将兵総出でパスタを茹でる準備してて
「よかった,これでパスタが茹でられるよ」
と言って,ドイツ軍を唖然とさせたことがある.

 【事実】
 う〜ん,まあ,話としては面白いのですが,それは都市伝説の一種で,イタリア兵も最前線では食事と言えば缶詰めレーションがほとんどでした.

 イタリアはドイツ軍ほどフィールド・キッチンの配備が進んでいなかったので,暖かい食事は兵舎以外はなかった様で,当時の記録を見ても,砂漠の真ん中での食事は,レーションも配備されていましたが補給が滞り,わずかな牛肉缶詰めの配給とビスケットと水だけです.

 ただし,将校はこれにあてはまらず,戦線後方の司令部では豪奢な食事をとっていたので,もしかしたらこれがドイツ軍の戦史本などを通して伝わったのかも知れません.
 兵と将校の待遇差は英軍以上,ロシア軍以下と言えば判り易いでしょうか.

 …だから,パスタを食べれなかった前線の塹壕にいた兵隊達は,戦争をやる気も起きなかったのかも知れませんが(笑

 ここの英文サイト
http://17thdivision.tripod.com/charlottesaxisattic/id26.html
にイタリア軍の糧食について,やや詳しく再現写真付きで解説しています.

 下の項目をクリックすると兵舎での食事や,部隊,個人糧食についても写真付で解説しているので,ご覧ください.

 因に現用イタリア軍では,暖めて食べる缶詰パスタが入ったレーションを個人支給しています.

 それから,なんとなく「砂漠でパスタ」を思うと,日本人ならのんびり大鍋でスパゲッティを茹でている図を想像するのではないでしょうか?
 実は兵舎や国内の演習場で供される暖かい食事でパスタ料理が出る事がありますが,それはペンネやマッケローニの様な短いパスタをトマトとひき肉ソースで煮込んだ料理がほとんどだった様です.
 何故か?
 それはちょっと考えてみれば判る話ですが,それは長いスパゲッティと違って,短いパスタなら手早くおタマでよそって飯盒に分配しやすいからです!

 また,海軍の話ですが艦内でパスタを茹でる際は,海水を汲んでこれに水を半分加えて湧かし,それでパスタを茹でて水の節水に努めていたとも聞きます.

 詳しくは,拙書『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006/2)をご覧ください.

吉川和篤 by mail

 ちなみに,パウル・カレルの「砂漠のキツネ」にも,

 アメリカ軍は戦争の全期間を通じて,兵士にホテル並みの食事を出すことができた.
 ドイツ軍も,時に滞ることはあったが,下宿屋の晩餐程度は可能であったが,イタリア軍には何もなかった.

とあります,
 その後の記述もイタリア軍はそれでも戦い続け,カメラード(戦友)という言葉の意味をイタリア軍から学ぶドイツ人が多かったとあります.

「笹山さん」 in FAQ BBS

「MC☆あくしず」7号より


 【質問】
 チョイグイ峠の戦いって?

 【回答】
 1942年11月26日,チュニジアのチョイグイ峠西方で発生した米独戦車大隊同士の戦闘.
 50mm砲3号6両,75mm砲4号7両からなる独軍に対して,米軍はM3スチュワートで25両で対抗した.
 米戦車大隊A中隊が独軍右翼に回り込んだが,独戦車の装甲を貫徹できず,反対に4号の75mm砲で手痛い打撃を受ける.
 しかし,その間にB中隊が背後へ迂回,9両を撃破.
 これは奇襲となり,独戦車残余は退却.追撃した米戦車部隊はドイツ陣地を確保した.
 この戦闘で米軍は戦車25両中7両,独軍は13両中9両を失った.

丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM


 【質問】
 有名なノルマンディー上陸作戦を知りたくて,文庫を読んだんだけど,地名に無知だから何が何だかさっぱり・・
 視覚的なものの方が分かりやすいし,理解も早いと思ったのですが,歴史群像の『ノルマンディー上陸作戦』(学研,2008.8)は良いでしょうか?

 【回答】
 視覚的というのが地図や戦況図であれば,下記の方がお勧めかもしれんです.

『ノルマンディー上陸作戦 地図で読む世界の歴史』(チャールズ・メッセンジャー著,河出書房新社,2005.5)
 原題『THE D-DAY ATLAS』.
 ノルマンディーに至るWW2欧州戦線の上陸作戦を概観しながら,戦況図を多用し解説.
 ただし,計画や部隊運用の記述解説が中心なので,兵器に関する記述は少なめ.
 なお,NATO兵科記号を覚えてないと,いちいち調べるのが面倒.
 しかし旧来ウォーゲーマーには,各種規模における作戦図の多さから狂喜できる可能性大.

 ただし概観と写真類,そして兵器や上陸作戦の戦術基礎を望むなら,歴群『ノルマンディー』の方が良いです.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 学研M文庫の山崎雅弘著『詳解西部戦線全史』(2008.3)も,戦況図が多くて本文の記述と対照しやすいと思うよ.
 ノルマンディ関係だけで,文庫1ページの地図が16点ある(p.44〜59)

軍事板
青文字:加筆改修部分

ノルマンディ上陸作戦


 【質問】
 ドイツ軍はノルマンディーを要塞化していたようですが,連合軍はなぜノルマンディーに上陸したんでしょうか?
 上陸地点なら他にいくらでもあったと思うのですが,あえてノルマンディーにこだわった理由はなんなのでしょう?
 安全な場所にきっちりと部隊をあげた後で,じりじり陸路を進んでもよかったのではないかと思えてしまいます。

 【回答】
 ある程度幅がある海岸で無いと速やかに大兵力を揚陸出来ないから。
 更には確保した橋頭堡から内陸に進軍する為の物資も揚陸しなければならない。
 そうなると揚陸可能な場所は限られてくる。
 仮に狭い海岸だと,上陸直後に敵側に直に戦力を集中されて、動けないままやられる危険性が高い。
 渡河、及び上陸作戦では素早く縦深の確保する事が重要。
 その点,ノルマンディーなら,上陸地点の目と鼻の先にフランス北部の交通の要衝であるカーンがあった。

 また,要塞化されていたのはより英本土に近いカレーで、ノルマンディーの沿岸陣地はカレーと比べると未完成の状態だった。
 様々な欺瞞工作を連合軍は行い,海峡間の最も狭い場所、カレーに来るとドイツ軍に思わせていた.
 しかも陣地は事前の艦砲射撃と航空爆撃で潰しまくった。
 オマハ・ビーチで多少苦戦はしたが,その日の内に橋頭堡が出来てるし,英軍の担当地域ではさほどの抵抗は受けなかった。
 根拠地の目と鼻の先に上陸に適した地点があるのに,しない手は無い。

 「他にいくらでも上陸箇所があった」というなら,具体的にどこなのか書いてもらいたいもんですが.

>安全な場所にきっちりと部隊をあげた後でじりじり陸路を進んでも
>よかったのではないかと思えてしまいます。

 これをやろうとすると,その間に防御を固められて,却って損害が増す可能性がある。
 フランス西部では上陸地点に向かないし、南部では遠い。


 【質問】
 ノルマンディーの人工港の一日の最大揚陸量ってどのくらいだったのですか?

 【回答】
http://search.eb.com/normandy/articles/Mulberry.html
によれば,ノルマンディー上陸作戦に使用された人工港「マルベリー」は、米軍がサンローランに設置した一基は嵐で破壊されましたが、英軍が設置したアロマンシュの人工港は使用され続け、10カ月間で250万人の兵士、50万台の車両、および400万トンの物資の揚陸を行ったそうです。

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 当時のアメリカの国力なら,徹底的な爆撃と砲撃を連続で行えば,オマハ・ビーチも無血上陸できたんじゃね?

 【回答】
 オマハビーチにはかなりの事前爆砲撃が加えられた.
 だが,爆撃が目標を外して全く効果を与えていなかった上に,艦砲射撃もドイツ軍陣地を正確に捉えていなかったので,大した被害を与えられず,結果的にあぁなった.
 もし事前爆撃と艦砲射撃が正確にドイツ軍陣地を捉えていたら,もっと被害は少なくなっただろう.

 あと,米軍がオマハビーチで大損害を出した理由の一つに,装甲工兵車両の開発を怠った,ということがある.
イギリスはディエップ上陸作戦の失敗からこの手の戦車改造装甲工兵車両を各種開発しており(開発担当権部隊指揮官の名を取って「ホバートファニーズ(ホバート氏の変な連中)」と呼ばれた),工兵部隊の活躍を助け,被害を最小限にする事に成功している.

 英軍は米軍にもこの「ホバートファニーズ」を提供しようと持ち掛けたけれど,英軍の兵器開発に懐疑の目を向けていた(まぁパンジャンドラムとか作ってる人達だし・・・)ので,水陸両用走行機構付きシャーマン(シャーマンDD)以外を採用しなかった.

 ちなみにオマハ方面に投入されたシャーマンDDは,発進させるのが沖合い過ぎた為,波に煽られて次々と転覆し沈没.
 遠浅の波打ち際にどうにか辿り着いた数両も,砲弾穴にはまって動けなくなり,海岸に辿り着いたものは一両もなかった.

 【関連リンク】

「gigazine」:オマハ・ビーチ上陸作戦を淀川で再現したムービー


 【質問】
 映画「プライベート・ライアン」見て思ったけど,なんで海岸にある敵のトーチカ,前もって艦砲射撃で潰さなかったんですか? 戦艦の大砲を連射しとけば潰されてたのでは?

 【回答】
 巧妙に構築された陣地は,短期間の艦砲射撃だけで完璧に潰す事は難しいです.
 特に厚いコンクリートで防御されたトーチカは,相当な砲撃に耐えられますし,要塞砲は,同一口径の艦砲の5倍の威力に相当すると言われています.
 第2次世界大戦において,上陸前の空襲や艦砲射撃で上陸海岸の砲台や陣地,トーチカなどが壊滅したという例は殆どありません.
 ということは,砲弾と砲撃時間の限られた艦砲射撃では,トーチカの壊滅は不可能だということです.
 100kmを超える上陸海岸全体に隙間なく砲弾を注ぎ込むには,どれほど艦艇があっても足らないでしょう.

 例えば,これは太平洋での戦いの例ですが,軍事研究の2001年六月号によれば,テニアン攻防戦において,この戦いで二門の六インチ砲しか持たない日本軍が,戦艦コロラドと駆逐艦ノーマン・スコットを撃退しています.
 戦艦コロラドは,さすがに重装甲に守られ撃沈はしなかったが,上部機関に22発も砲弾をくらい43人の死者を出して撤退しました.
 理由は波で,揺れる艦上からの砲撃では,偽装して隠された海岸砲台に当てるのはそれだけ難しかったからとのことです.

 英仏海峡には,建造を中止された戦艦から外された40cm砲も有り(数は十分で無かったのですが),米英海軍も安易には近づけませんでした.

 さらに,オマハ・ビーチでは,事前爆撃が爆撃隊のミスで失敗していたという史実もあります.
 他の上陸地点では,抵抗はあれほど強力なものではありませんでした.


 【質問】
 映画「プライベートライアン」の冒頭,上陸するシーンで浜辺に点在していた鉄製のテトラポットのような,こんぺいとうのような,毬栗のような弾除けの名前はなんて言うのでしょうか?
 NHK「映像の世紀」のノルマンディー上陸のシーン(だったかな?)にも同じ鉄製の弾除けが浜辺に転がっていました.
 気になったものでよろしければお願いします.

 【回答】
 *←こういう形をした奴ならあれは弾除けではなく,上陸用舟艇が波打ち際に乗り込んでくるのを妨害する為の水中障害物.
 ものによっては上の方に地雷を取り付けておいて,機雷のように船艇の破壊を狙った.

 本来は水面下に沈んで効果を発揮する物だが,ノルマンディー上陸作戦時,連合軍は干潮時に上陸してきたので,水中障害物はみな陸上に露出してしまい,上陸してきた連合軍兵士にバリケード替わりに使われてしまった. 

軍事板

 一等自営業閣下の「ノルマンディー1944」には,
「木製海岸障害物 衝突杭 テトラヘドロン」
「”チェコのハリネズミ” 先端に地雷が取り付けられている」
「”地雷杭” 満潮時には水面下になり艦艇を破壊する」
の図解がありました.

 正式名称っぽいのだと,「チェコのハリネズミ」かなあ?

 ちなみにノルマンディには,「ロンメルのアスパラガス」と呼ばれる鉄杭もありました.
 秦郁彦著「第二次大戦鋼鉄(はがね)の激突」(中公文庫,1988/5)の「ノルマンディー」の章から引用しますと,

 彼(引用者註 ロンメル)はまた,空挺部隊の脅威も忘れてはいなかった.
 海岸線の背後の低地は水浸しにされ,海岸から10キロまでの樹木の少ない平地には,爆雷で結ばれた「ロンメルのアスパラガス」という名の鉄杭が林立した.(P114)

ぴぴ in FAQ BBS


 【質問】
 ノルマンディ上陸作戦で,工兵車両は役に立ったの?

 【回答】
 英軍の第79機甲師団,異名をホバートファニー,について調べると面白いと思います.
 1943年1月だったかの連合国首脳カサブランカ会談により,フランスからベルギーに戦線を開く事が決定され,準備が開始されます.
 英国はその前年にディエップにカナダ軍の1個旅団(たぶん)を上陸させ,潰滅.
 持って行った「チャーチル」戦車は海浜の阻塞を超えられず立ち往生,という経験があり,大西洋の壁を越えるには特殊な装甲戦闘車両が必要と考えました.
 その中心となったのが,英国で軍の機甲化に情熱を捧げたパーシー=ホバート少将(退役後復帰)です.
 日本語では最近のパンツァー(PANZERという月刊戦車写真雑誌.ことに北海道の各師団連隊戦闘団の演習写真が秀逸)で取り上げられています.
 同師団は装甲工兵戦車A.V.R.E.(armored vheicle royal engineerかな?)に柴束,橋のセット,それに工兵が乗車し,ペタード迫撃砲(flyingdustbin 綴りは曖昧)を装備,を中心として,シャーマンD.D.(当初はヴァレンタインD.D.でした),シャーマンクラブ(これも訓練の当初はヴァレンタインだったかな?),カーペットレイヤー,チャーチルクロコダイル火焔放射戦車,CDL(装甲シャッター付サーチライトを砲塔の上に載せたシャーマン)などの開発と運用研究,そして師団傘下の部隊が実戦参加をしています.

 特殊戦車のおかげで歩兵の犠牲は減ったか?
 当初の計画では歩兵第一波とともにシャーマンD.D.(Duplex Drive)が(そんなに遠くは無い.2000mくらいの沖合いでLSTから海中へと入ってスクリューで自走)が上陸.ドイツのバンカーに対して直射支援を行う.その次の波で特殊戦車が上陸して各種障害を除去の予定でした.
 が,作戦計画というのはどうも実戦では覆される運命らしくて,この予定が色々狂います.
 が,結果だけ見れば英軍は橋頭堡を築くのに成功.
 これに対して,シャーマンD.D.のみを用いた米軍は,多大な犠牲をオマハで出しています.ユタではさほど損害は大きくなかった.

 その後,ノルマンディー,ブリタニー半島からブルージュに至る,ドイツが強固に防御していた要塞都市への攻撃には,しばしば英軍の特殊戦車,それに場合によってはカンガルー(シャーマンだったか? ともかく旧式の戦車の砲塔を外した装甲兵車)が投じられていますから,その価値は認められ,活用されていたようです.

 【質問】
 こんな時に「パンジャンドラム」が有れば・・・

 【回答】
 実はパンジャンドラムでカーペットを敷いて,砂浜の緩い地盤の上でも戦車が沈まないようにしよう,という案があったらしい.


 【質問】
 オラドゥール事件とは?

 【回答】
 フランス中南部の小村で,1944年6月10日,武装親衛隊(SS)により住民六四二人が虐殺された事件.

 ノルマンディ進攻の時,戦場に向かう途中で武装SSダスライヒ師団の一部隊が,オラドゥール村の村民をほぼ皆殺しにした.
・レジスタンスの妨害にキレた指揮官が,見せしめのために殺害を命じた
という説と,
・ダスライヒの高級指揮官(ランメルディング師団長?)が横領した金塊が,輸送途中にレジスタンスに奪取され,奪回と証拠隠滅のために村を襲撃させた
という説とがある.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

 オラドゥール村(Oradour-sur-Glane)には1944年、凡そ700名の住人が住んでいましたが、1944年6月10日、村は武装親衛隊第二戦車師団の中隊に占領され、焼き払われました。
 この時、197名の男性が銃殺、240名の女性と205名の子供が教会内で」焼死しています。

 この大量虐殺を巡る事情は、フランス古文書館公文書資料室が史料を公開していないので,全てが解明されていません。

 明確なのは、
 1. 親衛隊突撃連隊指揮官ケンプェが「マキ」の捕虜になった。
   連隊長シュタトラーは、仲介者を通じて、フランス側の捕虜に
   身代金を幾らか付けて交換しようと提案したが「マキ」に拒絶
   された。(ちなみに、ケンプェは作戦開始翌日に殺害)
 2. 別の突撃連隊下級指揮官ゲルラッハは、Oradour-sur-Glaneが
   「マキ」の活動拠点であることを報告したが、同じLimoges地方
   には、Oradourと言う地名の場所がもう一ヶ所あり、村の構造は
   いずれもよく似ていた。
 3. 連隊本部には、1944年6月10日に別の村の方で上級将校が1名処刑
   されたようだと言う報告があった。

 さて、シュタトラーは、第一大隊長ディークマンに、仲間のケンプェを捜索、これを救出すべしと命じ、救出できなければケンプェとの交換取引のため、出来るだけ多くの人質を取れと指示します。

 しかし、6月10日午前、第三中隊の将校たちと行なった協議で、ディークマンは、Oradour-sur-Glaneを「焼き払い、乳飲み子から老人まで一人残らず抹殺せよ」と命令し、14時頃、第三中隊はOradour-sur-Glaneを無抵抗で占領、住民は村の広場に集められ、抵抗したものは射殺します。
 そして、村長に30名の人質を出すように命令したが、村長は拒否し、代わりに自分と息子が人質となることを申し出ますが、ディークマンはこれを拒否し、男たちは車庫や納屋に連れ込まれ、カーン中隊長の合図で全員射殺、女性と子供たちは、村の教会に閉じこめ、爆薬と手榴弾で火を付けました。

 作戦は21時に終了し、窓から逃げた女性1名と、死んだふりをした男性数名が生き延びただけでした。

 ちなみに、ディークマンは、その大量虐殺直後にNormandyの戦闘で死亡.
 一説には、人質だけ取れとの命令に不服従だということで軍法会議に掛けられることになり、自殺したと言います。

 以上、世界戦争犯罪事典P.573〜575より抜粋。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
ドイツ戦車兵A「奴ら,もう勝った気でいやがるぜ」
ドイツ戦車兵B「よし,教育してやろう」

 これの元ネタは何ですか?

 【回答】
 1944年6月12日,ノルマンディのヴィレル・ボカージュでの戦闘において,SS第101戦車大隊のエースであるミヒャエル・ヴィットマンSS大尉が,砲手のバルタザール・ヴォルSS軍曹と交わしたとされる会話.前半がヴォル,後半がヴィットマン.
 この戦闘で,ノルマンディの要衝であったカーン後方に回りこもうとしたイギリスの機甲旅団が壊滅し,連合軍のノルマンディ攻略に大きな狂いが生じた.
 ヴィットマンはこの時,自車のみで英軍部隊の縦列に突進し,不意をついて十数両の戦車と兵員輸送車多数を撃破したとされている.
 上記のセリフはその縦列を確認した時のものとされている.

 その後ヴィットマンはヴィレル・ボカージュ市街に突入し,さらに戦果を挙げるが,対戦車砲により撃破された.
 しかし乗員全員と共に脱出に成功し,生還した.

 なお国防軍発表ではその後,再出撃し,市街に突入していた部隊と共に残敵の掃討を行ったとされているが,最近の研究ではそうではなかったらしいことが明らかになってきている.
 この戦闘によってヴィットマンは全軍71人目の剣柏葉付騎士十字章を授与され,その後8月9日の戦闘で戦車撃破総数138両以上のスコアを残して戦死している.


 【質問】
 「バンドオブブラザース」のE中隊って何で有名なの?

 【回答】
 E中隊だけが突出して特に有名なわけではない.

 事の始まりは,Dデイについての話を書きたいと希望していた原作者のスティーブン・アンブローズが,E中隊の同窓会に参加する機会を得たことから.
 彼はそこで,隊員達の思い出話を聞くことができた.
 その内容が非常に興味深かったので,さらにインタビューを重ね,E中隊を視点を当てた,欧州における米軍の戦いを書くことにした.
 それが「バンドオブブラザース」となった.
 他の空挺部隊の話は,コーネリアス・ライアンの「史上最大の作戦」や「遠すぎた橋」などでも述べられている.

「バンド・オブ・ブラザーズ」

……うむ,「うそ」ではないな


 【質問】
 連合軍のノルマンディー上陸後,パ・ド・カレーの要塞群はどうなったのですか?

 【回答】
http://www.civilization.ca/cwm/disp/dis003_e.html
によれば,ドーバーを扼する沿岸砲台として建設されたパ・ド・カレーの要塞群は,陸上伝いの攻撃に対して充分な防備がなされていなかった.
 ノルマンディのドイツ軍が突破された後,士気の低下などもあり,44年9月にカナダ第1軍の攻撃によってかなりあっさりと陥落しているとのこと.


◆◆◆アルンヘム強襲作戦以降


 【質問】
 マーケットガーデン作戦は連合軍の敗北に終わったと聞きますが、ドイツ軍側の被害はどれくらいだったのでしょう?

 【回答】
 高橋慶史の「ラスト・オブ・カンプグルッペ」によれば、アルンヘム戦でのドイツ軍の死傷者数は2,565、3,300または5,175名と記録により異なるとのこと。
 うち約1,000名がSS第9装甲師団「ホーエンシュタウフェン」の将兵と思われるとある。
 連合軍側の損害は、1万6千名前後。

 この作戦が失敗と言われている理由は、損害の過多では無く、作戦目標(ルール工業地帯への突破とアントワープを補給港として使用する為のアルンヘムの確保)が達成出来なかったからですので,念のため.
 素人さんがよく誤解されている事なのですが(ゴーマニズムの人とか)、作戦の成功、失敗は損害の大小では無く、目標を達成出来たか、です。
 東部戦線では、ソ連軍の方が損害が大きいドイツ軍の負け戦なんて、ゴロゴロしています。

 【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」:Beginnings of Operation Market Garden


 【質問】
 アルンヘムに降下した英第一空挺師団は,結局どうなったのか?

 【回答】
 アルンヘムを占領しようとした英第一空挺師団の主力は,44年9月17日,アルンヘム北西のオーステルベークに降下.
 その後,再編中のホーエンシュタウフェン師団他からなる雑多なドイツ軍戦闘団群に包囲され,アルンヘムへの前進を阻まれた.
 9月26日夜,その5日前に対岸に降下したポーランド第一空挺旅団の支援を受け,ネーダー川を渡河して撤退した.
 第一空挺師団の内,フロスト中佐の指揮する第一パラシュート大隊がアルンヘムに到達し,アルンヘム橋を望む地域の占拠に成功した.
 9月18日には橋の強行突破を図ったグレープナー戦闘団を攻撃し,指揮官のグレープナーSS大尉を戦死させるなど大損害を与え,撃退に成功した.
 しかし,その後完全に包囲され,師団主力から孤立,9月20日には大半が捕虜となった.
 第一空挺師団の損害は,降下部隊10,005名中撤退に成功したのは2,163名.
 その他は戦死もしくは捕虜となった.

 以上,高橋慶史著「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」(大日本絵画)より抜粋.


 【質問】
 米軍がアルデンヌの戦い序盤で大混乱に陥った要因は?

 【回答】
 山崎雅弘によれば,米陸軍情報部の失態,つまり
「兵力集中,補給物資の集積など前線からの状況証拠の分析から,第一軍司令部情報参謀が
『独軍が攻勢を準備中』
と報告していたのに,情報部の独軍上級司令部の通信を傍受する『ウルトラ情報』に依存しすぎていた為に,この報告に疑問を呈し,戦線強化を行わなかった」
とされています.
(独軍は命令伝達を暗号通信ではなく,将校による命令書の運搬によって行っていた)
 結論部分で米軍の傾向として,総合的な合理主義が戦争遂行上の経験不足を補っているが,その反面としてパターンの多用から想定街の事態に有効な対応策を見いだせず,弱点を更に深める危険性もある,と指摘.
 現代の事例として,人件費節約という「合理主義的な観点」から公開情報の分析部門を縮小し,コストのかからない電子情報への過度の依存に陥りつつある各国情報機関の問題をあげています.

 詳しくは『歴史群像』No.87(学研)を参照してください.

グンジ in mixi,2008年01月26日16:02


 【質問】
 もし連合軍航空機による打撃/阻止がなかったら,ドイツ軍のバルジ作戦は成功したでしょうか?

 【回答】
 航空支援のあるなしはあまり関係がない.

 アルデンヌ攻勢は悪天候で連合軍側が航空支援が出来ないのにつけこんで開始されたものから,たとえ独軍側に驚異の対空兵器があっても戦況は変わらない.

 攻勢が失敗したのは,補給線が伸び切るより先に攻勢終着点に辿りつけなかったからで,それはアメリカ軍の各部隊が1940年のフランス軍とは違い,包囲され孤立しながらも抵抗し続けたから.
 1940年当時の英仏軍と違い,無線で離れている部隊同士が連絡し合え,総司令部からの的確な指示が得られる1944年の連合軍の状況では,高速進撃により敵軍を分断し孤立させてその隙に後方の総司令部を突く,という電撃戦術が通用しなかった.
 ドイツ軍の装備している戦車は,1940年のものよりずっと重武装重装甲になった代わり,機動性が激しく低くなっていたから尚更.


 【質問】
 旧ドイツ海軍の「シャルンホルスト師団」ってなんですか?
 英文の文献で見たのですが,検索しても出てきません
 戦艦のことではなく,なんかの陸戦隊?の名称らしいのですが.

 【回答】
 歩兵師団「シャルンホルスト」は1945年3月30日にデッサウで士官学校生徒や壊滅した師団残余などから編成された師団.
 ソ連軍と戦い,5月2日に米軍に降伏した.
 これとはべつに海軍歩兵大隊「シャルンホルスト」というのが存在していたらしいので,それと混同されてるのかもしれない.

 なお戦争末期,水上作戦がほぼ不可能になったドイツ海軍はデーニッツの命令により余剰人員からなる海軍歩兵部隊の編成を始めた.
 1945年1月〜4月にこれらの部隊から5つの海軍歩兵師団(第1〜3,第11,第16)が編成された.
 第1〜3はドイツ本国で編成され兵員は1万名前後で,第1,第3はソ連軍と,第2は英軍と戦っている.
 第11,第16はオランダで沿岸警備部隊を寄せ集めて編成したもので実質連隊規模でほとんど戦闘を経験せぬまま終戦を迎えた.
 以上海軍歩兵師団については「ラストオブ・カンプグルッペ」より.


 【質問】
 ミヒャエル・ヴィットマンとその部下の搭乗員が戦死した際に仮埋葬され…40年後に遺骨が発見されたという一連の事実に関して質問します.
(1)誰が彼らの遺体を残骸から発見し埋葬したのですか?
(2)仮埋葬の場所は記録に残してなかったのですか?
(3)戦後発見するまでにだいぶ時間が掛かってますがなぜですか?
(4)遺骨が発見されたのは工事中「偶然」だったのですか?
(5)発見された遺骨は再埋葬されるまでの間にどのような鑑定を受けたのですか?
 以上回答お願いします.

 【回答】
1)
 戦場の遺体は伝染病などの原因となるので,戦闘終了後にできるだけ早く埋葬する事が多い.
 その場合,そういった業務専門の部隊や懲罰を受けた兵士,捕虜などを使って行われる.

2)
 ヴィットマンの埋葬場所についての記述ではunmarked tombとなっているので,墓標などを立てずにそのまま埋葬したものと思われる.
 戦闘の合間にだから,記録をとられたとしても曖昧なものだろうし,
 数年も経てば風景も変わるので,ますますわからなくなる.
 写真では,ヴィットマンの007号車は砲塔が吹き飛ぶほどの爆発を起こしているので,遺体の身元の確認も難しかっただろう.

3)
 そういう状況でどこの誰ともわからない,どこにあるかも正確にはわからない遺体をわざわざ捜す手間はかけられない.

4)
 うろ覚えだが,フランス人の戦史研究家が当時の住民の証言などからあたりをつけ,工事に便乗して発掘調査を行ったという経過だったと思う.

5)
 ヴィットマンについては歯型から,他の一名については認識票から身元が確認された.

 以上推測も含むが,大体こういうことだろうと思う.
 ヴィットマンが最後に乗っていたのが007号車だというのも,分かったのは戦後かなりたってから.


◆◆◆ベルリン陥落


 【質問】
 ベルリン戦でキングタイガーが百両以上の戦果を残したのは事実ですか?

 【回答】
 大日本絵画の「SS戦車隊(下)」によれば,ベルリン戦の時点で市内にいたSS第503重戦車大隊のケーニヒスティーガー保有数は10両前後.
 第一中隊に属していた戦車操縦兵ローター・ティビーSS上等兵の記録によれば,ベルリン包囲が完成した4月24日〜5月1日の間に,彼の乗っていたケーニヒス・ティーガーは10両のロシア戦車を撃破している.
 つまり合計すれば,100両くらいは503大隊によって撃破された可能性はある.
 しかし5月2日の時点で可動車両は2両しかないので,実際にはそこまでいっていないだろう.
 なにしろ,弾薬も燃料も負傷した隊員の代わりも足りない状態だったから.


 【質問】
 ベルリン戦に参加したキングタイガー装備部隊と,その戦いぶりについて教えてください.

 【回答】
 武装SSの第503重戦車大隊の一部がキュストリン及びベルリン前面での防衛戦後4月21日にベルリンに撤収,以後ベルリン市内で戦っている.
 その時点でケーニヒスティーガーは9両,共に戦ったのは第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」及びSS突撃大隊「シャルルマーニュ」.「ノルトラント」はノルウェー,デンマークなど北欧人兵士,「シャルルマーニュ」は同名のSS師団から分派されたフランス人兵士だった.
 5月2日最後の2両を先頭に生き残りの兵士たちはベルリンからの脱出を図ったが,2両とも相次いで撃破され,多くの兵士たちがソ連軍の捕虜もしくは戦死/行方不明となっている.
 ベルリンでの戦果の詳細は不明だが,ある隊員の記録では1両のティーガーがベルリン市内で通算10両の敵戦車を撃破している.
 以上「武装SS全史2」(学研)および「SS戦車隊 下」(大日本絵画)より.
 同書には第502重戦車大隊の生存者による手記がいくつか掲載されている
 そのひとつには脱出の際ボルマンらしき人物を戦車上に乗せ,その人物が攻撃により死亡したという記述もある.


 【質問】
 1945年のベルリンで,ドイツが第一次世界大戦時製造の菱形戦車を使っていたらしいのですが,それほど戦車が足りなかったのでしょうか?
 それにその写真は残っていないんでしょうか?

 【回答】
 デルタ出版「グランド・パワー」12月号別冊,「激闘東部戦線(4)ベルリン攻防戦II」に,菱形戦車Mk.Wがベルリン市街で擱坐している写真が掲載されているそうです。

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

(引用元:「BERLIN, GERMANY 1945-46」

▼ ほっけも以前,この捕獲されたMARKWが1919年1月に起きたローザ・ルクセンブルクを首班とするスパルタクス団の蜂起時に,右派勢力によって使用されている画像は見たことがあったのですが,それでも軽くベルリン戦まで四半世紀は経ってます.
 それが今回ネットで画像検索したら多数ヒットしてびっくりです.

 ソ連軍の本格的なベルリン市内突入は4月20日.
 恐らくヒトラーの誕生日であるこの日に呼応してかのことかと思います.
 降伏が5月2日ですから,その間に使用されたものかと思います.

 ではまず1枚目.

 浅識でいて渡独歴の無いほっけとしては,特徴的な後背の建築物にまず目が行き,ひょっとして「ブランデンブルク門?」とも真っ先に思ったのですが,どーにも形状が違う.(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:BrandenburgerTorGold.JPG)

 なら「博物館から引っ張りだした」ということから「ドイツ博物館」(Deutsches Museum)しかないだろうと思ったのですが,これまたかなり違う.というよりこの博物館の所在地はミュンヘンでした^^;
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Deutsches_Museum.jpg)

 あとはもうベルリンの建造物を虱潰しに検索をかけてみることにする.
 すると運良く,5分ほど調べただけで発見しました!この建物,ベルリン美術館(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Berlin-old-museum.jpg)であることが判明しました.
 画像に映っているのまさしくこの建物ですよね.
 名称は「美術館」となっていますが,美術館と博物館を兼ね合わせた建物のようです.
 仮にこの美術館にMARKWが保存されていたのだとしたら,お蔵だししてすぐのところで各坐されっちゃったようですね.

 で,2枚目.

 ベルリン美術館が分かったお陰で位置関係が判明し,後は簡単でした.
 この建物はベルリン大聖堂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Berlin_-_Katedra.jpg
であります.
 画像に映っている建築物が当時の形を残したまま,今も現存するとは感慨深いものがあります.

 以下,入手できた画像をずらーっと.




ほっけ = うるふ in mixi,2008年03月23日15:23

 ただし,ほっけはんにもこのときのくわしい状況は不明であるとか.
 Mk.4の戦闘の模様をご存知の方はご一報を.


 【質問】
 ベルリン陥落時にソ連兵達による大規模な略奪やレイプがあったといいますが、これらの事件に関してのドイツ市民の証言以外のソースはあるんでしょうか?

 【回答】
 統計的数字は確認が難しく、ベルリンでは140万人の女性がいましたが、数万人、少なくとも10万人、最高の数字が84万〜98万人とされています。
 これは、婦女の40%が複数回の暴行を受けていたからで、これにより、件数の特定が不可能になったこと、更に混乱期で表に出ないことも挙げられるでしょう。

 一つの客観的尺度としては、自殺者統計というので表されます。
 例えば、メクレンベルクの小都市ノイブランデンブルクでは、住民18,000名中、2,000〜3,000名、同じ規模のフォアポンメルンの小都市デミンでは、自殺者は2,000名近いですし、デミンの墓地には400名の子供が埋葬されています。

 また、ソ連共産党員および「コムソモル」メンバーの数と犯罪件数との間に相関関係があることが証明されています。

 ドイツ人の証言以外には,ソビエト軍政治将校の手記にいくつか
「開放の勢いに載せて市民に対し狼藉を働く兵もいた。赤軍兵士が情けない」
とか
「市民への暴行、略奪が頻繁に見られた。
 恥ずかしいとは思うが,わが祖国がドイツ人にされたことを思うと無理もない・・・」
といった記述が見られます。

 ちなみに、モスクワのプロパガンダでは、ソ連軍兵士に対し、「ドイツ女性は正当な獲物」だと約束していますし、その他の反独プロパガンダの影響もありました。

 なお、ベルリンのソ連軍兵士について、米軍の将軍、F.A.キーティングは、以下のように評しています。
「多くの場合、彼らの慎みのない行動は,チンギス・ハンの野蛮粗暴な群れのそれと同列である」

 もっとも、あくまでソビエト軍の軍規では一般市民への暴行、略奪行為は厳禁でしたから,憲兵にはそういった行爲は厳しく取り締まるように命令は出ていました.
(見て見ぬ振りしてた憲兵も多いが)。

 で、戦後独ソで議論になったりはほとんどしていません。
 ソビエト側:
「そういうこともあったかもしれませんが何か?
 それを言うなら,お前らナチがうちの国に何をしたと思ってるんだ? あ?」
 ドイツ側:
「・・・(それを言われると反論できない)」
な感じ。

 民間レベルでソビエトを追求しようという動きはありましたが,非常に小さいもので終わっています。

眠い人 ◆gQikaJHtf2他

ベルリン陥落


 【質問】
 ヒトラーは「そのうち人材が尽きる」と言っていたようですが, 終戦時の赤軍の主な兵力を教えて下さい.

 【回答】
 1945年の年平均(1〜5月)戦力が633万人.
 最大約1,000万人まで動員可能.
 終戦時の戦車・自走砲の前線配備数が8,100輌(後方配備を含む総合計が3万5,200輌)
 大砲・迫撃砲の前線配備数が9万4,400門(同32万9,600門)
 軍用機の前線配備数が2万2,300機(同4万7,300機)

 ベルリン攻略戦だけでも3個正面軍250万人が参加….

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE


◆◆◆戦後


 【質問】
 大戦終了後,ヨーロッパで埋められたままの地雷は誰が処分したのでしょうか?

 【回答】
 Denmarkと北海沿岸諸国の場合,大戦中に埋設された150〜200万発の対人,対戦車地雷の除去を,英国軍の指令によって,各国の黙認の下,武装解除されたドイツ軍によって除去作業が行われました.

 Denmarkでは,1945年5月10日から10月1日に掛けて,Denmark軍将校と憲兵の監視下で,地雷に関する教育も行われず,性能の悪い地雷探知機しか与えられない状況で,徒歩で地雷原に送り出され,誤って地雷に触れた者は,爆死か重傷を負っています.
 1945年11月1日の報告書では,死者250名,重傷250名に上っています.

 Franceでは,全土で1,000万発の地雷除去を,ドイツ兵捕虜を使役して行いました.
 従事した捕虜は4万人で,これに鉄棒と短剣を与えただけで,除去をやらせました.
 死亡事故は当初2,000件,死亡率40%でしたが,暫くすると4%に低下しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 WW2でのバルジの戦いのときに連合国に破壊工作したスコルツェニー中佐ってどうなりましたか?

 【回答】
 戦後ニュールンベルク裁判でアルデンヌでのグライフ作戦の件で告訴されたけど,同業者のイギリス軍中佐の
「いや,同じこと連合軍でもやってたから」
という証言があったりして無罪に.
 その後の非ナチ化裁判の審理中,ナンセン旅券でスペインに亡命.
 その地で起業して実業家として成功し,恵まれた後半生を送りましたとさ.

 その他,右翼の大物として世界各国の反共運動やネオ・ファシズムに関与し,CIAやモサドとも繋がりがあったという話もある.

軍事板

スコルツィニー


 【質問】
 ヨハヒム・パイパーはなぜ戦後おフランスで暮らしたんですか?

 【回答】
 パイパーは出獄後,自動車会社の技術文書の翻訳で生計を立てていたんだが,労組から経営者に抗議が出て失職することが度々あった.
 それでいい加減ドイツに住み続けるのがいやになったところで,先に移住していた元戦友の誘いでその隣家を買ってフランスに住むようになった.
 フランスに住むに当たってはフランス政府の許可は得ており,翻訳業をそのまま続けていたそうだ.

 しばらくは平穏に暮らしていたが,フランスの新聞にパイパーがフランスに住んでいることが掲載されたことがきっかけとなって,脅迫状が届くようになった.
 家族を家から出して,隣家の友人に銃を借りた1976/7/13の晩,極左と思われるテロリストの襲撃を受け,翌日炎上した家の焼け跡から遺体が発見された.

 パイパーのように,元SSであったために戦後不遇な人生を送った人は多い.
 故郷の町長になったバルクマンや,家業の農園業を継いで地域の名士となったニコルッシ=レック(どちらもまだ存命)みたいな幸運な人もいるけど.

(軍事板)

 パイパーの死は,
「ヨーヘン・パイパー,フランスの極左テロにより殺される」
という僅か数行の記事として,14年前,雑誌に掲載されただけである.
 私はまだパイパーは生きていると確信している.確信している.
 なぜなら……

(小林源文著「炎の騎士」,学研,2004/2, 最終ページ)


 【質問】
 エルンスト・バルクマンとマックス・ベンシェは戦後どんな人生を歩みましたか?

 【回答】
 バルクマンはバルクマンは戦後故郷に帰り,エルンスト・シュムック・バルクマンと改名,その町の消防団長と後に町長を勤め,その後,最近になって他の元町長と共にKisdorfの名誉町長職に任じられる.
 今も健在.
http://www.geocities.com/alkantolga/

 マックス・ヴュンシェは1948年に釈放された後に,ヴッパータール(Wuppertal)の工業製品の会社でマネージャー(社長?)として名声を馳せ,1995年4月17日に80歳の人生を全うした,と言うことらしいです.
http://www.ritterkreuztraeger-1939-45.de/Waffen-SS/Wuensche-Max.htm

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE

 バルクマンについて付け加えると,彼の故郷Kisdorfの消防団のHPの年表に消防団の制服を着た写真がある.
 また,現在は引退したようだが,CSU/CDUの地方支部の幹部を勤めるなど,町の名士としての穏やかな生活を送っているようだ.


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