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 【link】

「Russia Now」◆(2011/02/12)Soviet, Russian War Veterans Protest In Russia

「zvezda」:Ищем пропавших солдат. История тульских поисковиков
 トゥーラにおいて大祖国戦争の遺品を収集中

「ザイーガ」:第二次世界大戦に戦場にいた,旧ソ連の女性軍人たち

「ニコニコ動画(ββ)」:ソ連赤軍パレード 1941.11.7 (10月革命24周年)

『Russia's Life-Saver』(Albert L. Weeks著)

 第2次世界大戦時のアメリカの,対ソ連援助についてのまとめのような本.
 以前から欲しいと思っていたのだけど,昨年ペーパーバックになって再出版されていたので購入.

 表と数字で具体的に示されているので,以前から気になっていた,ソ連にとってレンドリースがどの程度必須であったのか?,また,不足していたのはどのような物資なのか?という,自分の疑問を解いてくれた.
 引用元のロシア側資料もしっかりと明記されているので,信用が置ける数字なのかどうか追跡できる事も良.
 ソ連崩壊以後の再調査結果で,それまでのソ連の主張と,実際のアメリカ側援助の占める割合に,どのような食い違いがあるのか?ということも説明されていた.

 T-34に使われた鋼板の80%,鉄道関連資材の90%以上が,アメリカ側からの援助だった事.
 ルーズヴェルトが大好きなジョー叔父さんに,銀の延べ棒をプレゼントしたけれど,Uボートに沈められてしまっ た事.
 太平洋航路の援助が,大西洋周りよりも41年には多かったのに,日米開戦後の42年には激減し,43年以後 は何もなかったかの様に,再び太平洋航路の方が多くなっている事など,色々と面白かった.

――――――軍事板,2011/01/20(木)

『スターリンの赤軍粛清 統帥部全滅の謎を追う』(平井友義著,東洋書店,1012.4)

『ミリタリークラシックス 大祖国戦争』

 本書のソ連軍特集はたいへん素晴らしい出来であるが,P104の「NKVDと赤軍の関係」で悪名高き命令について補足.
 簡単に言うと,「後退した阿呆共は皆懲罰部隊送りじゃぁ!!」というヤツ.
――――――
 スターリングラードの独軍の攻勢に負け続け,パニックに近い状況に発令された.
 この命令の正式名称は「最高司令部指令第227号」といい,表題は「ニ,シャグー,ナザード!(一歩も退くな!)」
 この中でスターリンは前年の経済上の,人的な損失を列挙して,何故これ以上の後退が不可能であるかを説明し,退却した全ての指揮官と政治委員は,懲罰大隊に編入すると定めている.

――――――詳解 独ソ戦全史―「史上最大の地上戦」の実像 戦略・戦術分析 (文庫) より
 ちなみに参考にしたこの本は,良く出来ているのでお勧め.
 ただ,ドイツ軍の所が間違えてる場所があるので注意!

 個人的に興味深いのが,この大戦でのGRUの活躍が目覚しいことだ.
 特にクルスク戦の前には,パルチザン部隊や諜報員からの情報を収集・分析し,伝達機構の完成,ドイツ軍への妨害工作も積極的に開始した点は賞賛に値する.
 この時から「スペツナズ」は存在したようだ.
 ただ,本格的に「スペツナズ」が組織されたのは戦後,1960年代に入ってからである.

――――――CRS@空挺軍 in mixi,2007年05月06日21:45

『モスクワ攻防1941 戦時下の都市と住民』(Sir Rodric Q. Breithwaite著,白水社,2008)

 この本は13年前の2008年に出版されたものです.
 作者は英国人で元ソ連大使.
 但し出自は英国軍情報部員で,1950~52年に掛けてウィーンと言う当時東西冷戦の最前線で勤務したりした人.
 その後も,各地の外交施設に勤務し,ソ連の英国大使館で一等書記官を経て,ソ連崩壊直前のソ連大使として活動していました.
 こうした経歴を頭に入れておけば,この本がとても読み易くなります.

 で,この本は1941年の初夏から冬にかけて,ドイツが始めたソ連との戦闘をソ連側の視点で描いています.
 とは言え,軍事的な視座からこの戦いを見ているのでは無く,どちらかと言えば様々な階層に属する人の日記や書類,回想録やオーラルヒストリーなどを通じて,その時,ソ連の,特に首都モスクワに住んでいた人達が何を思い,どんなことがあったのか,そうしたものを時間軸に載せて再構築したものです.

 大体,「歴史は勝者が作る」という言葉がある様に,公的な歴史は,その時に権力を維持している人間達に都合良く作られる傾向があります.
 御多分に漏れず,1941年のモスクワではスターリンが指導力を発揮し,適材適所に手足となる軍人達を配置して,延びきったドイツ軍の前線に対して効果的な攻撃を仕掛け,結果としてベルリンへの道を創り上げたと言うことになっています.

 しかし,種々の記録を再構築してみると,今にも手に届かんばかりのドイツ軍の攻勢にスターリンは狼狽し,自信喪失してダーチャに引き籠り続けて首尾一貫しない命令を下し,民衆は負け続けていた政府を相手にせず,生活を自衛しなければならないため,勝手に活動をしていましたし,軍は後退に後退を続ける前線の状況が把握できず,戦力を無様に磨りつぶしていきました.
 その後退の遠因はスターリンの命令にもあった訳ですが….

 ロシアにとって幸いだったのは,軍が敗退し続けた御陰で第一線兵力が大量にドイツに投降し,ドイツ軍の兵力がその捕虜対応に充当されたことで,前線に充当できる兵力が少なくなってモスクワ前面で息切れしたこと,また中々思う様に行かないモスクワ攻撃に業を煮やしたヒトラーが,カフカス方面に軍を割いた事です.

 冬将軍の到来がドイツ軍の足を止めたと言うのが定説でしたが,ソ連軍もそれに劣らず酷い目に遭っていますし,空襲についても,ロンドンほどは酷くなかったのですが,それでも少なからぬ被害が出ています.

 秩序を取り戻すために,軍の予備兵力をモスクワに投入すると共に,秘密警察の部隊を投入して不穏分子を一掃し,数多の人間が収容所に送られたり疎開先に送られていきました.
 その疎開先では,家すら用意されず,艱難辛苦を共にする人々が山の様にいました.

 動ける男達は徴兵され,民兵として鉄砲の的になりに前線に投入されて犬死にしてしまったり,逃亡したとかそう見做された行動を取った場合は,処刑か懲罰部隊送りにされました.
 男達がいなくなった職場には女性が投入されると共に,女性でも看護兵として,特異な場合は飛行士とか狙撃兵として前線に投入されたりしています.
 こうした女性兵士でも,職場結婚した者もいれば,将軍の愛人になったりした者もいます.

 この本は丁度ソ連が崩壊して,ロシアへ移行した混乱時に取材が行われました.
 当時はまだこの時代を生き延びている人達もいましたし,国家の記録もある程度秘密が解除されていて,資料を探すのにも好都合な時代でした.

 なので,かなり生々しい歴史がこの本では描写されています.
 今はプーチン独裁体制なので,こうした祖国の黒歴史的な出来事が表に出る事は少ないのでは無いでしょうか.

 13年前の古い本ですが,民衆史と言う視点から見ると良書だと思いますね.
 併せて,『赤軍記者グロースマン』も読めばより深みが出ると思います…ってこれも古い本ですけどね.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2021-09-05

 【質問】
 独ソ戦,ソ・フィン戦争でのソ連側の本とかって無いですか?
 信憑性はさておいて,全く読んだことがないので…

 【回答】
 独ソ戦なら
戦うソヴェト・ロシア
燃える東部戦線
攻防900日
詳解独ソ戦全史(安価で入手しやすい)
ソビエト赤軍興亡史1~3

 それから,アントニー ビーヴァーの一連の著作はどうだろう.

 【反論】
 イギリス人でありながらビーヴァー,「醒めた視点」から一番遠いと思うが.

 そもそもワーズやソールズベリーみたく,現地で見聞きした訳ではないし.
 ビーヴァー本人による「解説」を割り引いて,という留保条件付なら,「赤軍記者グロースマン」は各種のエピソードが興味深いが,「スターリングラード 運命の攻囲戦」や「ベルリン陥落1945」は,ある意味本多勝一的な露悪趣味を感じる(笑)

 第三国人の書いたもので,割と公平中立な物として加えるなら,生存者へのインタヴューを中心に書かれた,ロドリク・ブレースウェート著「モスクワ攻防1941―戦時下の都市と住民」(白水社)がお勧め.
 似た様な題名の作品社の方(アンドリュー・ナゴルスキ著)は,アメリカ人的先入観とポーランド人的怨念に囚われている(笑)

 ロシア人自身の書いた物なら,大日本絵画のコロミーェツ監修「独ソ戦車戦シリーズ」が「前線モノ」としては白眉だろう.
 銃後も含め戦時下の生活を描いた物なら,
「ボタン穴から見た戦争」
「戦争は女の顔をしていない」(いずれも群像社)
等の,スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの一連の作品がお勧め.

 【再反論】
 イギリス人は実際には醒めているわけではないし,客観的でもない.
 奴らは単純に言えばひねくれているんだ.
 だから対象を突っ放した記述になることもあれば,逆に露悪趣味にもなる.

 【再再反論】
 お前ら分かってない.

 H.ニコルソン「外交」より要旨抜粋.

――――――――――――
 カントロヴィッツ博士は,外国人の見地から以下のように分析している――

 イギリスの政策はあまりにもしばしば理想主義と現実主義の間,人道主義と利己主義の間を同様しがちである.
 「不実のアルビオン」という言葉,ならびにイギリスが偽善者であるという国際的な評価が,何ら国民の不誠実によるものではなく,そもそも論理に対する国民の嫌悪と,”情勢が生じないうちによりも,生じたあとで情勢を取り払う方を国民が好む”ことによるものであることを,正しくも認めている.
――――――――――――

 つまり,イギリス人の本質は不誠実ではなく”アドベンチャー”

 じこはーおこるよー♪ と機関車トーマスも楽しげに歌うわけだ.
http://www.youtube.com/watch?v=O7g9sWWKSNQ

 日本だと鉄道事故で,こんな歌作らねえよな(笑)

 引用つづき.
 以下H.ニコルソンの弁.

――――――
 いいかえれば,およそ国際問題に対する典型的なイギリス的アプローチとは,理想主義者のそれから現実主義者のそれへと移るアプローチである.
 最初の衝動は人道主義的衝動であり,私利とか自己保存の動機が働き始めるのは,のちの段階になってからのことである.
 このために,国際的危機の当初に宣明される目的と,結局イギリスの政策を決定する目的の間に,ある種の不一致を産みがちである―

――――――

 ニコルソンはこの本でドイツ,フランス,イタリアの外交類型にも言及しているが,そちらも面白い.
 オススメ.


821 :名無し三等兵:2010/10/27(水) 23:24:36 ID:???

 イギリス人は敵意で書く
 アイルランド人は反逆で書く
 アイスランド人は善悪を超越して書く 
 ノルウェー人はスウェーデンへの対抗心で書く
 スウェーデン人は中立で書こうと心がける
 デンマーク人は大国への媚で書く
 ポルトガル人は綺麗ごとを並べて書く
 スペイン人は善悪織り交ぜて書く
 イタリア人は自分だけは綺麗でいようとする
 ドイツ人は教科書のように書く
 ロシア人は淡々と並べ立てる
 フランス人は書くことがコロコロ変わる
 ベルギー人は何が言いたいのか分からない

 こんな感じかなぁ.
 よく知らんけど.

軍事板,2010/10/24(日)~10/27(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ソ連とドイツは独ソ戦前までは同盟国だったの?

 【回答】
 どっちも第1次世界大戦後の国際体制下では仲間はずれ扱いだったため, さびしんぼ同士の連帯をしていました.
 すなわち,ドイツとソ連は1922年にイタリアのラッパロで秘密軍事協定を結び,軍事技術の供与や訓練施設の提供などを相互に行っている.
 ベルサイユ体制で国内での軍事技術開発を厳しく制限されたドイツが,ソ連領内に提供された施設で,禁止されていた戦車や軍用機の試験や訓練を行い,見返りに,ソ連はドイツ軍から赤軍将校の訓練を受けている.
これは1933年にヒトラーが政権を執るまで続けられた.

軍事板


 【質問】
 独ソ不可侵条約は,ドイツにとってはニ方面からの攻撃を避けるためなのでしょうが,ソ連はどういうメリットのためでしょうか?
 ポーランドの領土が欲しいだけですか?

 【回答】
 領土的問題(ポーランド,バルト三国,フィンランド)というものもありましたが,それよりも,ソ連から見て,西側諸国が一致団結して,ソ連に侵攻するのが一番避けたい事態でした.
 1918~20年代初頭に掛けての干渉戦争に対する恐怖が首脳陣に根強くありましたし.

 従って,西欧諸国の一角であるドイツがソ連と不可侵条約を締結してくれると言うことは,英仏と合わせて自国を侵攻する懸念が払拭出来ると考えた訳です.

 とは言え,第二次大戦が勃発して英仏との間にファニー・ウォーの状態だった時,ソ連首脳は,英仏独三国が共同してソ連に侵攻するのではないか,と考えていましたけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/01(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第2次世界大戦でのソ連の戦死者数は1000万人,2000万人,3000万人など,聞いた人によってかなり違ったのですが,実際の戦死者数はどのくらいだったのでしょう?

 【回答】
 [詳解]独ソ戦全史(デビッド・M・グランツ/ジョナサン・M・ハウス 学研刊)の巻末付属資料によれば,大戦中の赤軍の完全損失(戦死・戦病死・病死・行方不明・捕虜)は

1128万5067名

とある.

 ただし,これにパルチザン,パルチザンと誤認されて殺害された民間人などが含まれているかどうかは不明.
 また,独ソ戦初期,兵力を大量に損失したソ連軍は強引な兵員の徴集を行い,ろくな訓練を施さずに戦場に投入し大量の犠牲者を出した.
 これらが,この統計に含まれているかどうかも不明.
 おそらくは上記の数字よりもかなり大きいものと思われるが,正確な数字はおそらく永遠にわからないだろう.

 これに,戦闘による民間人の死者(戦闘の犠牲者,餓死,病死など)を足せば2000万以上.
 戦時中に行われた反体制分子粛清,親独と見なされた少数民族強制移住による犠牲者等も含めれば,さらに増える.

 人により1000万~3000万と数字が大きく異なるのは,どこまで戦死者に組み込むかによるだろう.

 ちなみに,主要各国戦死者数(民間人含む)の一覧表は,
http://mek.oszk.hu/00000/00056/html/258.htm
を参照されたし.


 【質問】
 第二次世界大戦で,ソ連軍の死傷者数は1000万超と群を抜いて多いわけですが,どうしてでしょうか?
 ネットで調べたところによると,
・背後から逃げる自軍を機銃掃射していた
・武器が2人に1人しかいきわたらなかった
・スターリンの粛清が酷く,まともな指揮官がいなかった
等と出てくるのですが,それだけで,桁違いの死傷者が出るとは思えません.
 武器弾薬が少ないとか,無謀な突撃ということでいえば,日本軍もそうでした.
 にも関わらず,日本軍の戦死者は100万程度です.
 桁がこんなに変わるのは,上記の説明だけでは納得できないのですが…

 【回答】
 日本の死傷者数が,終戦間際の無謀な作戦に比べると少ないように感じるのは,もともと外地で戦ってて,守備隊が全滅した時点で終わるからです.
 沖縄戦を本土でやったらどうなるかを考えてみてください.ソ連と大差無いレベルまで死傷者は増えるでしょう.
 人口が違うので1000万は超えないと思いますが.

 膨大な餓死者や病死者が発生したというのもあります.
 独ソ戦の初期には十万単位でソ連兵が捕虜になったが,鉄条網で囲んだだけの野っ原に閉じ込めてまともに食糧を与えなかった.
 あまりにも多くの捕虜がいて,ドイツ軍の補給・管理能力を超えていたのと,どうせスラブの劣等人種だからと捕虜の待遇はほとんど考慮されませんでした.
そのため人肉食が起きるほど,捕虜の食糧事情は悪化しました.
 医療活動もまともに行われず,衛生状態も最悪だったので,疫病などが発生し,それによる死者も多量に出ました.

 さらに戦場となったのがロシアの農村地帯なので食糧供給が極度に悪化し,独ソ双方がとった焦土戦術が追い討ちをかけて民間人も大量に死にました.

 さらにまた,開戦前の大粛清で優秀な指揮官がソ連軍には不足してたことと,開戦後の大敗北とで,兵士が大量に失われました.
 開戦当初のキエフやヴィヤジマ・ブリヤンスクの包囲では数十万人が一度に捕虜になっています.
 開戦から数ヶ月で100万以上の戦力が失われ,12月にはモスクワ直前までドイツ軍が迫るって状況.
 初期のキルレシオは20:1を超えていたと言われます.捕虜も死傷者に含めたら比率はかなり増加するでしょう.ソ連がドイツを押し返してベルリンに迫っていく頃になって,やっと同じくらいになりました.
 後半は多少マシになったとはいえ,前半はとにかく数でドイツ軍の進撃を食い止めるしかありませんでした.

 そこで根こそぎに近い動員を行い,新兵をろくに訓練もせずに戦場に投入しました.
(そうでもしないと質的に優れたドイツ軍に対抗できなかったという事情もありますが)
 田舎の村から成年男子を「志願」させ,前線近くまで連れてきてから銃の撃ち方だけを教えてそのまま突撃→機関銃の餌食なんてのは日常茶飯事でした.
 この傾向は終戦まで続き,ソ連軍の損耗率はドイツ軍と比べて段違いに多かったのです.

 例えばノルマンディ上陸作戦の時,ドイツの軍服を着たアジア人が一人捕虜となっています.
 最初は日本兵かと思われましたが,調べたところ中国国境近くのチベット系遊牧民と判明.
 東の果てでソ連軍の兵士として引っ張られてモスクワ前面で捕虜となり,その後ドイツ軍に志願してノルマンディで勤務してたことが明らかになっています.
 それくらいてんぱった状況だったわけですね.

 日本軍のほうは,大戦末期で大変だ大変だといわれながら,訓練はできる範囲でしていたようですね.

軍事板

▼ ただ,やはり無茶だったらしく第2次大戦の結果特定年代の男性人口が激減してしまい,国家人口構成(いわゆる人口ピラミッド)がいびつになった.
 その影響は社会の多岐に渡り,廻り回ってソビエト崩壊の一因になる.

 他にも,スターリンのドイツに対する融和的な態度やら,多民族国家ゆえの制度整備の 困難やら,共産党一党独裁の軍への影響やら,人命が多数失われた理由はいろいろ.

軍事板


 【質問】
 トゥハチェフスキイ元帥粛清の煽りで,ショスタコーヴィチまで粛清されかけた話について教えられたし.

 【回答】
 以下は,その子供の証言.

――――――
 父(※ショスタコーヴィチ)は,彼のファンのひとりで,スターリンの命令で銃殺刑に処せられたミハイル・トゥハチェフスキイ元帥とよく交際していたようです.
 作曲家のヴェニアミン・バースネルは,父から聞いたというこんな話をしてくれました.

 トゥハチェフスキイのところへお客に行った数日後のこと,父はボリショイ・ドーム,つまり,レニングラード管理局内務人民委員部へ呼び出されたんです.
 そこで取調官は,
「あなたはトゥハチェフスキイのところへ行きましたね.
 トゥハチェフスキイが客人らと,同志スターリンの殺害を計画しているのを耳にしたのでは?」
と尋問する.
 父が否定すると,取調官は
「考えてみてください,思い出せるでしょう.
 あなたと一緒にトゥハチェフスキイのところへお客に行った者の中から,すでに証言がとれてるんですよ」
と.
 父は,そんなことはいっさいなかったし,何も覚えていない,と主張しつづける…….
「あなたにぜひともその会話を思い出してもらわねば」
と取調官は脅迫するように言い,
「明日午前十一時まで期限を与えよう.明日,もう一度ここへ来てください.
 話の続きをしよう」

 父は生きた心地もなく帰宅しました.
 父は,トゥハチェフスキイに背くような証言はすまいと決意して,逮捕される心づもりをしてたようです.
 翌朝,父は再びボリショイ・ドームへ顔を出し,通行証を受け取り,あの取調官の執務室近くに腰をおろしました.
 一時間が過ぎ,二時間が過ぎても,呼び出されません…….

 しまいに,廊下を歩いていたKGBのある職員が父のところに来て,
「なぜそこに座っているのですか?
 ずいぶん長時間ここに座っておられるようだが……」
と声をかけたそうです.
 父が
「待っているんですよ.
 取調官Nが私を呼ぶはずですから」
と言うと,
「Nですか?」
と職員が聞き返して,
「じゃあ,待たなくてもいい.
 彼は昨夜,逮捕されましたから.どうぞお帰りください」
と言われました.
 こうして,ショスタコーヴィチは,大げさな言い方ではなく,文字通り奇跡的に逮捕を免れたというわけですよ.
――――――

 大テロル期にはNKVD自体も大規模な粛清をうけてるから,取調官が消えるなんて驚くほどのことでもない.
 シャラーモフの「コルィマ物語」に,作者に書類の代筆を頼むNKVD係官が出てくるが,これもやっぱり粛清されてる.
 ただ,消える前に彼は,処刑予定だったらしいシャラーモフの調書を処分してくれていた.

 ちなみにショスタコーヴィッチには,作曲してるときのこんなエピソードも……

 交響曲第5番「革命」第4楽章の出だしのメロディは「ソドレミ♭」
 歌劇カルメンの合いの手のメロディは「ソドレミ」
 で,合いの手のセリフってのが「信じるな!」

 最初は「ソドレミ」でいきたかったんだけど,そのままのメロディだと当局にばれてしまう可能性があるので,「信じるな」の「な」に当たる「ミ」を半音落としてごまかしたそうな.
 ちなみに「信じるな!」っていうのは,↓の17秒と26秒あたりの全員のコーラスのセリフ.
http://jp.youtube.com/watch?v=Gd0FNpiBDyA
 たぶん耳にしたことがあると思う.

 「ソドレミ♭」は出だしの7秒あたりのところ.
http://jp.youtube.com/watch?v=4R8QWcTtb3g

 え,何を信じるなって?
 この時代はエジョフシt…おっと注文してたCDが届いたようだ.

軍事板,2008/12/23(火)~12/24(水)
青文字:加筆改修部分

『ショスタコーヴィチ 揺れる作曲家像と作品解釈』 (ユーラシア・ブックレット) (単行本) 梅津 紀雄 (著)
にも同様の記述がある,
 上記のレスとは違い,さらりと書いている.

 同書によれば,バースネルの他にも,作曲家メイエルにもこの出来事を語っていたとのこと.
 バースネルも作曲家である.
 この一連の大粛清により,ショスタコーヴィチは多くの友人を失っている.

CRS@空挺軍 in mixi,2009年09月19日20:35


 【質問】
 WW2時,国内は粛清の嵐が吹き荒れ,高級将校の65%が処刑され軍はガタガタ,
 国民も何千万と処刑され, 東部戦線では何十万の死者と何百万もの捕虜を出し,それでも無謀な突撃を繰り返させられる兵隊.

 ぶっちゃけどう考えても暴動もんですが,筆髭のおじさまは一体どんな魔法で独ソ戦を戦い抜いたのですか?

 【回答】
 これは極めて,複合的な要因ですよねえ.

 ドイツの占領政策の拙劣.
 軍組織の奇跡的な立ち直り.
 大祖国戦争というナショナリスティックなプロバガンダの成功.
 ギリギリで成功した生産施設の疎開.
 米英からの莫大なレンドリース.
 年月とともに硬直していくドイツ軍の作戦←→徐々に柔軟性を高める赤軍の作戦

 また,処刑も粛清も一応,法に則ったもの.
 嫌疑の真偽は別として.
 法の後ろ盾を得た秘密警察とそのスパイのお陰で,反スターリンとして糾合される前に個人単位で抹殺,芽を摘む.
 とくにスパイ,密告者がどこにでもいるので,誰を信用してよいのかが分からない状態を維持されるとお手上げ.

 大粛清によって軍の組織はガタガタになってたけど,逆に言えば反逆しそうな奴もいなくなってたというのもある.
 ジューコフのように,大粛清を逃れた若く体制に忠実で優秀な指揮官がそれなりの数いたってのもあるし.
 作戦や兵器行政の隅々まで口を挟んだヒトラーと違って,スターリンは戦略的な高度な決断以外は,赤軍の現場の指揮官に一任するようになっていった.
 この結果,信任と行動の自由を得られた赤軍の作戦は柔軟性を増し,硬直化していく一方のドイツ軍(ヒトラー)を容易に打ち破れるようになっている.

 あと,スターリンというかソ連首脳部は開戦後,それまでの正教会に対する弾圧をやや緩め,彼らに祖国を守る戦いへの結集を大衆に呼びかけさせた.

 そういう点では,こと対ソ政策に関しては硬直した姿勢をとり続けたヒトラーよりも柔軟だったりする.
 戦争が終わった後は元通りだったが.

軍事板


 【質問】
 1941年の革命記念日式典での,スターリンの演説はどんなものだったの?

 【回答】
 ようつべで見つけた,1941年革命記念日の式典のスターリンの演説の映像.
「You Tube」:Stalin speech - November 7, 1941[English subtitles]
 以下に翻訳を載せておく.
 英語字幕を適当に訳したので,どこまで正確かはわからない.

――――――
 同志諸君,陸軍と海軍の諸君,将校および政治士官の諸君,労働者の諸君,コルホーズの諸君,知識人の諸君,そして敵の背後にいて,ドイツの盗賊どものくびきの下にある兄弟姉妹たち,
 ドイツの侵略者どもの背後をおびやかしている光栄あるパルチザン諸君,ソビエト政府とボルシェヴィキの党の代表者として,諸君に挨拶を送り,大十月社会主義革命二十四周年のお祝いを申し上げる.

 同志諸君,今日,われわれは困難な状況下において革命二十四周年を祝わねばならない.
 ドイツの盗賊どもの不意打ちと,やつらがわれわれに強要した戦争が,わが国に対する脅威となっている.
 いくつもの地域が失われ,敵はレニングラードとモスクワの門前に迫っている.

 敵は,わが軍が最初の一撃で潰走し,わが国が膝を屈することになると当て込んでいた.
 しかし,それは全くの誤算だった.
 現在の逆境のもとにおいても,陸軍と海軍は全戦線で敵の攻撃を撃退し,膨大な損失を与えており,いっぽう,わが国はドイツの侵略者どもを追い出すために,軍と共同して,国をあげて一つの秩序正しい戦闘キャンプへと組織化しつつある.

 わが国がこれよりも困難な状況に置かれた時代があった.
 十月革命一周年を祝った1918年を思い起こそう.
 そのときわが国の4分の3は外国の干渉軍の手中にあった.
 われわれはウクライナ,コーカサス,中央アジア,ウラル,シベリアおよび極東を失っていた.
 同盟国もなく,赤軍も創設の緒についたばかりだった.
 われわれはパンの不足,兵器の不足,装備の不足を経験した.
 14の国が前に立ちはだかった時も,われわれは意気消沈したり,心挫けたりはしなかった.
 戦争の渦中においてわれわれは赤軍を組織し,わが国を兵営に変えた.
 偉大なレーニンの精神が,干渉軍との戦争に向けて われわれを奮い立たせたのだ.

 そして何が起こったか?
 われわれは干渉軍を打ち負かし,全ての失われた領土を回復し,勝利を達成した.

 今日,わが国は23年まえよりもはるかに良い状況にある.
 今日では,工業,食料,原料は何倍も豊かになっている.
 今日,われわれには,ともにドイツの侵略者に対して統一戦線を形成する同盟国がある.
 今日では,われわれは,ファシストの圧制のくびきの下にある全てのヨーロッパの人民から,共感と援助を得ている.
 今日では,われわれは国の自由と独立,国民の命を守る素晴らしい陸軍と海軍を有している.
 食糧,兵器,装備が深刻に不足しているということもない.
 国の全て,国の全ての人民は陸軍と海軍を支え,ナチの大群を叩き潰す手助けをしている.
 われわれの人的資源は無尽蔵だ.
 偉大なレーニンの精神が,23年前と同じように今日の祖国戦争に向けてわれわれを鼓舞する.

 そうであるならば,われわれがドイツの侵略者に対して勝利できること,勝利するに違いないことを疑う余地があるだろうか?

 敵は臆病風に吹かれた似非知識人が言うほど強くはない.
 悪魔は絵に描かれているほど恐ろしくはないものだ.
 誰が,赤軍が,天狗になったドイツ軍どもを,たびたび肝をつぶして逃げ出させたということを否定できるだろうか.
 ドイツのプロパガンダ作成者の自慢げな主張によってではなく,ドイツの本当の状況によって判断するならば,ナチ・ドイツの侵略者が破局に直面していることを見抜くのは難しくはないだろう.
 飢えと欠乏がドイツに流行する.
 4ヵ月半の戦争の間に,ドイツは450万の兵士を失った.
 ドイツは血を流しすぎて蒼白だ.
 人的資源は底を尽きつつある.
 ドイツの侵略者のくびきの下にあるヨーロッパの国々だけでなく,戦争に終わりが見えないドイツ本国においても,反乱の気配が支配的になりつつある.
 ドイツの侵略者どもは最後の力を振り絞っているのだ.
 疑いなく,ドイツはそのような努力をそれほど長く続けることはできない.
 もう数ヶ月,もう半年,おそらく一年で,ヒトラーのドイツはその罪の重さに崩れ落ちるだろう.

 同志諸君,陸軍と海軍の兵士諸君,将校と政治士官の諸君,パルチザンの諸君,全世界は,諸君を,ドイツの侵略者,盗賊の群れを打倒できる力として頼みにしている.
 ドイツの侵略者のくびきのもと,奴隷にされたヨーロッパの人民は解放者として諸君を頼りにしている.
 解放の偉大な使命は諸君のものとなった.
 その使命にふさわしくあれ!
 諸君が行っている戦争はまさに,解放の戦争である.
 われらの偉大な祖先,アレクサンドル・ネフスキー,ドミトリー・ドンスコイ,クスマ・ミーニン,ドミトリー・ポジャルスキー,アレクサンドル・スヴォーロフ,ミハイル・クトゥーゾフの英雄的な姿によって,自らを奮い立たせるのだ,
 この戦争において!偉大なレーニンの勝利の旗を頭上にひるがえらせよ!
 ドイツの侵略者の徹底的な破壊を!
 ドイツの占領軍に死を!
 われらの栄光ある祖国に自由と独立に長き栄えあれ!
 レーニンの勝利へと前進する旗のもとで!
――――――

 過去の栄光(帝政ロシア)をさりげなく誇示している所が上手い.

軍事板

 【余談】
 戦闘で負傷し入院していた若きミハイル・カラシニコフは,病院で革命記念パレードが開催されるというニュースを聞いた時,仲間達と一緒に狂喜乱舞していたとのこと.
 この頃ドイツ軍は破竹の勢いでモスクワ近郊まで進軍し,あわやモスクワ陥落か?といった所であったが,11月7日に赤の広場でパレードが開催されるということは,スターリンと内閣がモスクワに留まっており,首都が敵の手に落ちたわけではないことを意味していたため.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年11月20日01:05


 【質問】
 ソ連のモロトフ関連の資料はありませんか?

 【回答】
 資料といってもどの程度のものかわからないし,もう読んでたらあれだけど,
下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家――1917-1991』(講談社, 2002年).
 ソ連政治の通史だけど,ペレストロイカ前後まで生きて,ソ連史とほぼ生涯がオーバーラップしたモロトフを,当時のソ連の政治状況を説明する一つの横糸としてたびたび登場させてる.
 モロトフ関係の文献紹介も少しあったはずだから,そこから資料を探すことはできるかと思う.

軍事板
青文字:加筆改修部分

モロトフ


 【質問】
 アメリカの援助がなく,独ソ戦が長引き,第二次大戦が長期化した場合でも,ソ連は持ちこらえることができたでしょうか?

 【回答】
 その場合は,ドイツの国家経済と戦争経済が先に破綻する.
 ドイツは軍隊動かすのに必要な石油の大半をソビエトから輸入してたので,戦争が長引けば長引くほど不利になる.

 現実に,ソビエトは1942年の春くらい(モスクワ攻略が挫折して,ブラウ作戦が発動されるあたりくらい)までは自力で持ち堪えてるので,あそこでモスクワを落とせなかったところで,ドイツにとって勝利の可能性が消滅してる以上,ソビエトが崩壊した可能性はありえないだろう.

 ドイツ軍がモスクワを落とせなかったのは,当初の予定を後回しにして改めて攻略を再開したら既に時機を失した後だった,というのが原因なので,もしドイツ軍がモスクワを落とせてたとしたら,それは現実とはかなり状況が違っていることになる.

 まぁそういうややこしい要素を全部切り落として考えるなら,中央集権国家のソビエトでモスクワが堕ちてしまうと,国家がマトモに機能しなくなる.
 史実のように充分な疎開準備もできないままにモスクワが陥落した場合には,ソビエトという国家そのものが機能不全になった可能性がある.
 最大限に見積もれば,スターリンは誰かに殺されて,共産党政権そのものが崩壊してしまったかもしれない.

 でも,ドイツの国力でウラル以西の広大な元ソビエト領を安定支配できたとは到底思えないので,例えスターリンが死んで共産党が崩壊してても,そのうちドイツは自壊してしまっただろう.

 そうなった後,どんな「戦後」が来るのかは想像し切れない.
 もしかしたら,ドイツで共産主義革命が起きて,「ドイツ人民連邦」と西側が冷戦をしてたかも.
 いや,これは妄想だけど.

 繰り返すが戦争が長引くと経済的に不利なのはドイツの方であって,ソビエトではない.
 ドイツにはとにかく早く戦争を終わらせるしか選択肢がなく,逆にソビエトには長引けば長引くほど有利になる.
 なので,独ソ戦が長引くのはドイツにとって不利にしかならない.

 ただ,英米の援助がなければベルリンを落としたりもできなかっただろうが.

 また,アメリカが援助をしなかったと仮定した場合,イギリスが史実以上に(裏手から)ソビエトを支援しているだろう.
 実際,イギリスは戦後,アメリカがあまりにも一人勝ちするのは自国にとって好ましくないと考え,ジェットエンジンの技術をソビエトに流したり,原爆関連の情報をソビエトに流したりしている.

 連合軍は,世間で思われているほど一枚岩ではなかったのよ.

軍事板


 【質問】
 WW2時のソ連が火砲や戦車などの分野において,ドイツ以上の基礎技術力を確保できていた理由は何なんでしょうか?

 【回答】
 そもそも,ロシア帝国の時代からロシアの技術力はそんなに低くはない.
 ただ,農業主体の経済剤構造だったロシア帝國ではそれを活かす先が余りなかった,と言うだけ.
 それと,主に貴族と皇族の装飾品を作るための技術から,金属の加工技術に関しては欧州の国の中でも高いレベルにあった.
 それを工業生産技術の方面に活かすには,需要も産業もなかったと言うだけ.

 ということで,革命起こす前の国家のレベルがそれなりに高い訳だから,革命の混乱による人材の流出や,革命干渉戦争による国土の荒廃はあっても,ソビエトとしての体制が確立した時点で,それなりのレベルを保っている.

 あと,
「ドイツの技術力は世界一ィイイイイ!」
とはよく言われるものの,むしろドイツは「石炭から石油へ」という工業エネルギーの転換が上手くいかなかった(というか,自国の領域内に油田が乏しいので移行できないし,転換したら不利になる)ので,個々の技術では確かに優れていたかもしれないが,全体としての工業生産技術はむしろ低い.
「天才発明家はいるけど,天才工場経営者はいない」
と言われた国で,「生産力」という点ではかなり遅れていた.
 個人や小規模の工場レベルで,一点ものや少数生産の逸品を作ることには優れても,大規模な工場で流れ作業で一定の品質を持ったものを大量生産する,という点では激しく他の欧米列強に劣っていた.
 よく言われるように,ドイツは「職人の国」であって,「工場労働者の国」ではなかったのだ.

 ソビエトはその辺を
「工場はないし労働者はいないが職人はいる」
という国を,国土に眠る資源を有用に使って,更にその資源を安い値で外国に売ることによって資金を得,農村部の人口を「労働者」とすることによって,人的資源も大規模に投資して,一挙に工業生産力を拡大させた.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 ドイツは教育水準が世界有数で科学者も技術者も職人も優れてた.
 でも,アメリカでフォード生産方式が完成してから,まだ20年~30年しかたってないんだよな.
 本家のアメリカ以外は過渡期だったから,チートっていわれるぐらい生産力に差があった.

 ドイツも産業育成を怠ってたわけじゃないんだけど,なにぶん条件が悪かったんだとおもう
 WW1による荒廃に加え敗戦による政治的混乱と賠償金,
 それに世界大恐慌とブロック経済が追い討ちをかけるという状況だったわけ.
 今の世界と同じで,多額の設備投資をして生産設備を拡充できる時期じゃないと思う.
(アメリカの余剰生産力も,大恐慌の原因になった投機ブームによる過剰投資の側面がある)

 そういう困難な時期だからこそ,ナチが政権をとって戦争への道を歩んだんだ.

 ソ連は独裁・計画経済の強みである,選択と集中でリソースを戦車と大砲の生産に注ぎ込んで,あんなに沢山つくれたんだよね.
 自動車等は,生産力が有り余ってたアメリカからレンドリースしてもらってた.
 T-34みたいなオーパーツも開発したけど,エンジンはコピー.
 フォード生産方式は字も読めないような単純労働者でも生産できるから,ロシアにぴったりさ.
(ちなみにアメリカ大衆の教育水準も決して高いとはいえなかった)

モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 レンドリースのルートで最もパーセンテージが多いのは,北極海経由やイラン経由でなくて太平洋→ウラジオストク経由なんですか?

▼ 【回答】
 北極海経由が最も多く,太平洋からは2番目,イラン経由は3番目.
 ソ連は工業原料なども輸入していた訳で,北極海からだと米国東海岸から近く,なおかつ,バレンツ海に面した港から,生産工場もしくは戦場まで一番近い場所にあったからです.

 太平洋は安定した輸送が出来ましたが,太平洋岸の港から生産工場または戦場までが遠く,輸送手段は夏期の北極海航路以外は,シベリア鉄道のみですので,多くの輸送量は望めません.
 また,オホーツク海は天候が厳しく,屡々悪天候に悩まされています.

 イラン・ルートは,米国東海岸,西海岸から最も遠く,かつ,イラン国内は余り鉄道網が整備されていない為,トラック輸送に頼らざるを得なくなっており,輸送量は余り多くありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 手持ちの本によれば

――――――
 これらの援助物資のおよそ二割がムルマンスクやアルハンゲリスクに陸揚げされ,およそ三割は中東のイランやイラクの港に陸揚げされたあとに陸送された.
 残りの五割は?
 何と,アメリカから太平洋を横断し,ウラジオストックに陸揚げされ,シベリア鉄道で運ばれていたのだ.
 日ソ中立条約のため,ソ連の国旗を翻した商船である限り,たとえ積荷が対ドイツ戦用軍事物資であったとしても,日本はこれを阻止できなかったのである.

――――――青木基行著作『クルスク大戦車戦』(学研M文庫,2001.5),p.206-207

とあります.

 また,以下のサイト
http://maisov.oops.jp/w/index.php?ossrev6
にソ連のレンドリースについての詳細がありますが,そこでも輸送量は,太平洋ルート>中東ルート>北極海ルートの順番になっています.

モーグリ in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アメリカからソ連にレンドリースされた兵器って,何があるんですか?

 【回答】
 米国は1941年から1945年6月にかけて,16,651,000tの資材,貨幣換算で9,119,204,000ドル分のものをソ連に送っています.

 陸軍装備の場合は,トラック400,000台,野砲牽引用トラクタ(インターナショナル・ハーベスタTD-14が代表的),タンクポーター,偵察車,ハーフトラック,戦車などありとあらゆるものが含まれています.


 もっとも,M3リー戦車はロシアの平原地帯で使うには背が高過ぎて,ドイツ軍対戦車砲のいい的で,
「7人兄弟収容自走鉄製棺桶」
というイヤーンな仇名をつけられたとか.

 一方,M4シャーマン戦車は,リーと同じく車高が高いという欠点がありましたが,車内がT-34に比べて広くて居住性がよかったため,ソ連戦車兵には「家」と呼ばれていました.
 ソ連軍も親衛戦車師団のようなエリート部隊に重点的に配備しています.

 トラックの1/4以上は2 1/2t積6×4または6×6のスチュードベーカーで,これは有名なカチューシャ用の 車台としても用いられています.
 スチュードベーカーは他に5t積6×4(セミトレーラ付きのトレーラトラックとして)が供給されてます.
 残りは,ジープ,ダッヂのウェポンキャリア,シボレーとダッヂの1 1/2t積4×4トラック,GMCの6×6,MAC,マーモンハリントンのダンプとレッカー用6×6などでした.

 一時期の東部戦線の一部では,実に赤軍補給車の半分以上が武器貸与トラックでした.
「ソ連はフォードのトラックのおかげで独ソ戦を勝利した」
という意見もあるほどです.

 ちなみに,ジープは1942~43年に掛けて,20,000台以上のバンタムまたはウィリスが供給されたほか,フォードGPA,所謂,水陸両用ジープも大量に供給されています.
 これらの車輌は,部品状態のまま,ペルシャ湾経由でイランに運ばれ,コーラムシャールで陸揚げされて組立て,そこからイランを北上してソ連に入っています.
 ソビエトは勝手にジープをコピーして自国仕様を生産して,そっちが大量に使用されていますが.

 後,戦闘兵器ではありませんが,1942年10月に遊休化していたフォードのタイヤ工場を買収してその工場設備をソ連に運び,其処に設備を設置して,年間100万本の軍用車のタイヤを生産したりもしています.

 海軍には,Tacoma級フリゲートの他,Omaha級軽巡洋艦Milwaukeeが1944年に貸与され,1949年まで用いられています.
 同じ時期に,平甲板型駆逐艦(英国に貸与された50隻のお下がり)が9隻,1944年に貸与され,これらは1952年まで用いられた上で返還されました.
 このほか,YMS級掃海艇31隻,70ft級PTボートが140隻,78ft級PTボートが53隻,80ft級PTボートが60隻,SCクラスの駆潜艇138隻が引き渡され,SC級の一部は1955年に漸く返還されました.


 余談ですが,ソ連から返還されたタコマ級フリゲイトは再整備の上日本に借与され,"くす"型PFとして,創設間もない海上自衛隊で使用されました.

 航空機では,P-39各型が4,924機,P-63各型が2,421機,PBY各型が189機(他にLicense生産もあります),B-24Dが1機,O-52が19機,P-40Bが24機,P-40Cが195機,P-40E以降各型が2,097機,C-46が1機,C-47が709機(License生産が他にあります),A-20Bが665機,A-20Cが48機,A-20G以後の各型が3,125機,B-25B/D/G/Jが862機,P-47Bが203機,P-47Dが203機が引き渡されています.

 ベルPー39「エアラコブラ」とその改良型P-63「キンブコブラ」は,アメリカでは日本にボロボロ落とされまくった駄作機扱いですが,ソビエトに送られたものは大口径機関砲を生かして対地支援に活躍しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2(黄文字部分),名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE(赤文字部分)他 :軍事板,2005/08/01(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ソ連のレンドリースの代金はどうなったのでしょうか? まさか踏み倒したのでしょうか?

 【回答】
 第二次大戦終結後すぐ米ソは冷戦に突入した為,レンドリース代は長い間未払いのままだったのですが,米ソの関係修復が行われた72年にレンドリース代支払いについての交渉が始められ,1990年の6月に返済について合意したそうです.丁度,ゴルバチョフ書記長のグラスノスチの頃ですね.
 ただし,ソ連側は代金を「この兵器は役に立たなかった.M3中戦車とか(笑)」とかゴネまくって,かなり値切り,支払ったのは米側が提示した金額の半分以下です.
 因みに今でも払っています.

 なお,ソ連時代の未払い債務だけでなく,帝政ロシア時代の債務も不履行しているので,1934年4月13日施行の,対米戦債不払い国への融資を禁止するジョンソン債務不履行法に基づき,ロシアがアメリカ市場(事実上,国際市場)で起債を行うには,帝政時代の分まで返済する(若しくは外交で決着する)必要があります.

ue◆WomMV0C2P. in 軍事板

▼ その後,ロシアはガスプロムを国有化した年に一方的に「レンドリースの債務は完済した」宣言をして,もう払ってない
 去年〔2007〕だったか,ブッシュが訪露した際にレンドリースの返済を要求,プーチンに一蹴されたなんて記事が世界中に配信された

 要はエネルギーで大儲けして他国から金を借りる必要がなくなったから,「信用」なんてどうでもよくなったんだろう.

 なお,
「ロシアが帝政ロシアの公債の償還をする(開始した)」
っていう,古典的ともいえる詐欺の手口がある.
 日本の「M資金」と同類.

軍事板


 【質問】
 スパムはレントリースでソビエトにも供給されたのでしょうか?
 されたとしたら評判はどうだったのですか?

 【回答】
http://read-and-go.hopto.org/Meat/SPAM.html
には,

"Soviet Premier Nikita Khrushchev at tributed do
nations of American supplies of SPAM for the ability of the Soviet Union to feed the Red Army during World War II"

なんて文章が出てくる.

 大戦中のロシア兵は
「アメリカ製の靴を履き,アメリカ製生地の軍服を着て,アメリカ製のトラックに乗り,アメリカ製の缶詰を食べて戦う」
なんて言葉があるくらいだから,味はともかく,常に食糧の欠乏に苦しんでいたロシア兵にとってはありがたい食い物だっただろう.


 【質問】
 第2次大戦中のソ連の軍装について詳しい本,何かありますか?
 できれば手に入りやすい本だと有難いです.
 よろしくお願いします.

 【回答】
 正直言って,どこの国でも「軍装」というジャンルは兵器研究に比べ,一部マニアを除き,あまり突っ込んだ研究がされない傾向が有る.
 NATOや米英軍の部内資料も,「敵味方と階級兵科の識別が出来れば良い」レベルで,ディティールは結構適当.
 また,当のソ連がグラスノスチ以前は情報公開に余り積極的でなかった事も有り,和書や西側諸国の洋書は資料性の点であまり期待できない.

 詳しいってほどの内容じゃないのでよければ,

第二次大戦各国軍装ガイド
図解・ソ連戦車軍団

 ただし前者は,勲章の綬の色や説明文に誤りが見受けられるし,後者もやや適当すぎるきつぃが有る.

 比較的入手容易な英語本でほぼ唯一,資料としての使用に耐えうるのは,英osprey社Men-at-Armsシリーズの
”The Red Army of the Great Patriotic War 1941-45”
位なもんだろう.
 軍装+背景で深みがある.

 あと和書で強いて挙げるなら,学研歴史群像シリーズの「ソヴィエト赤軍興亡史」が,上掲osprey本の一部翻訳と,勲章のリストを掲載してるのでお勧め.

 また,露和辞典買って訳す根性が有るなら,こんなサイトもある.
(WW2ソ連各軍の実物軍装を着用写真で紹介)
http://rkka.ru/iuniform.htm
(露国公立アルヒーフ共催 大祖国戦争戦勝記念写真集サイト)
http://victory.rusarchives.ru/index.php
(※写真は”каталог”をクリックし, 各作戦・テーマ名をクリックするとサムネが出てくる)
(ロシア造幣局のソ連勲章サイト)
http://mondvor.narod.ru/
(20世紀における帝政ロシア-ソ連,帝政ドイツ,墺洪二重帝国,西独,米の軍装解説サイト)
http://army.armor.kiev.ua/forma/index.shtml

軍事板,2009/07/17(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 独ソ戦のソ連軍では政治将校が兵士を処刑する話がしょっちゅうありますが,兵士は政治将校を殺そうとか思わなかったんでしょうか?
 何人かで束になってかかれば殺れそうだし,もしなんかいわれても敵にやられましたと言い張ればいいとおもうんですが.

 【回答】
 実際そうやって殺された政治将校も結構いたらしい.

 でも,政治将校はだいたいいつも司令部にいたりするのに,「司令部は指揮官以下全員無事だが,政治将校だけ戦死」なんてのはあまりにも不自然だし,それにどうせ始末しても代わりが派遣されてくるだけ.
「あの部隊は政治将校が何人も戦死する.怪しい」
と思われたら,部隊ごと懲罰部隊廻し,なんて事にもなりかねない.

 要は彼らは「国家体制の使者」なわけで,国家体制が揺らがない限り,末端の下っ端を一人二人殺したところでどうにもならないのが現実.

 また,社会主義国家の社会システムでは,表向き派遣されて活動してる監視役の他に,身分を偽ったり隠したりして密かに監視活動している人間がいるのが普通だった.
「コックがKGBだったのか!」
というやつね(元ネタのわからん人はスマン).

 更に,「国家と党のための」密告を奨励された世界だったから,監視組織の人間でもなんでもない「普通の人々」も,お互いにお互いを「監視」して生きていた.
 それこそ,自分は何もしていなくても「党のおぼえを良くしたい」「裏切り者の名前を挙げろ,さもなくばお前が収容所行きだ,と脅された」といった動機から,何もしていない人をでっち上げで密告することが当たり前だったりしたので,怖くて怪しまれるような行動など何も出来ない,という世界だったり.
 「逆らいたくても逆らえない」システムがきっちりと出来上がっていた訳.

 ソルジェニーツィンの『収容所群島』って本を読むと,社会主義国家の国民監視と相互監視の構造がいかに壮絶なものだったのかが,嫌になるくらい解るぞ.
 ただ日本でも,イジメの酷い学校のクラスとかはこんなだよなって感じではあるが.

軍事板


 【質問】
 ロシアに駐留していた日本人・日系帰化人は,ソ連参戦までは,どのような処遇がなされていたのですか?

 【回答】
 岡田嘉子など,日本人は1937年前後に軒並み,「日本のスパイ」として逮捕・拘留され,100名前後がシベリアなどに流刑になったり,銃殺されています.
 流刑になった日本人は,1945年から最長で1950年代まで出所出来ませんでした.
 従って,無事な日本人は殆どいません.

名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/03(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WikipediaのT-34/76で,42/43年製造型から砲塔は鋳造製となっているんですが,ここにある記述で
「当時,ソビエトは大型部品の鋳造技術ではドイツを大きく上回っており」
とあるのですが,これはどういうことなんでしょうか?
 生産性の面で大量生産が効くような生産設備や体制を整えていたという事なのか,技術的な事なのかが分かりません.
 また,戦前の日本の鋳造技術や量産体制自体は,このソ連に遅れているドイツよりどの程度劣っていたのでしょうか?

 【回答】
 Germanyでは鋳造技術其の物がソ連に劣っていました.
 ドイツは冶金技術全般が高いと思われていますが,プレスや溶接はやたら上手かったのに,鋳造は下手でした.
 ドイツの鋳造技術では,大きなものでも防楯くらいしか作れんかったそうです.
 そこで45mm以上の鋼板をプレスを用いてバタバタ打ち抜いたり,鋳鋼で50mm以上の装甲を製作したりしています.
 但し,これには運用上の割り切りもあり,例え鋳鋼で巣穴が出来ても,砲塔後方ならば許容したと言うものもあります.

 対するソ連はロシア帝国時代から,都市部では工業化がはじまっており,西洋からの技術導入も盛んでした.
 日露戦争時代でも,大砲や戦艦のロシア国産は多く,かなりの基礎工業力を持ってました.
(工業力の国別評価は難しいのであいまいな表現ですが)
 ロシア革命で技術層の一部は国外に流出しましたが,計画経済の下,農業・工業や軍事に繋がる技術開発には重点的に投資され,分野によっては(農業なんかはイデオロギー論争に巻き込まれ駄目になりました) ,当時の最先端まで行っています.
(死体保存技術は今でも世界一)

 鋳造にかかわる冶金技術は,この20年代後半から30年代にかけて大きく進歩しました.
 それは,世界恐慌の影響で他国の技術研究ペースが遅れたことや,計画経済下での重工業への優先的な資源投入です.
 で,重工業への資源投入の結果,いわゆる工業コンビナートの成立が他国より早く,大量生産のノウハウが蓄積されたことがあります.
 ただ,ソ連の場合計画経済下で重視されたのは生産数量であり,品質については・・・というところがあります.

 鋳造は大きければ大きいほど,溶けたものが固まる際の力にどう耐えるか,流し込む際にきちんと鋳型の隅や細い枝部分まで流れ込むか,等,経験の蓄積が必要であり,当時のソ連はそういったノウハウを他国よりも早く取得でき,大量生産が可能になったということです.

 日本の鋳造技術,量産体制は遙かにお粗末で,質も量もお話になりません.
 四式中戦車を作る時に砲塔の一体鋳造ができんというので,前後に分割鋳造して溶接するというステキなことをやっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2(黄色部分)他 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ソ連の国力増強の規模は?

 【回答】
 ソ連は,第一次5カ年計画(Gosplan)と第二次5カ年計画で欧米先進各国に追いつき追い越す計画を立てており,更に第三次5カ年計画の策定時には,その生産力を軍備にも傾注しようとして,Kliment Efremovich Voroshilov国防人民委員と彼のスタッフたちは,軍備増強案を立てていました.
 これは
民兵制度を廃止して正規兵のみの軍とする,
常設師団の定員を13,000名から18,000名に増強する,
この常設師団に戦車大隊,野砲連隊,重砲連隊を新設する,
最後に,師団の歩戦砲の総合戦力の機動的用兵と火砲力の強化に努める
事を骨子とするものでした.

 元々,第一次5カ年計画では,富農層を中心とする大農園制を中心とした資本主義農業から,中農,小農層の共同耕作を経てkolkhozに発展させる社会主義農業への転換を掲げていました.
 これにより,1928年の第一次5カ年計画開始時に1戸当りの平均播種面積4.5haの自営農民層,富農層が98%を占めていた構成を,中農,小農を共同耕作組合に加入させ,耕地の個人利用も農業artel'に転換させていき,最終的に1932年の同計画終了時には,Kolkhozは播種面積の68%,Sovkhozが10%となり,私営農業の比率は22%に低下しました.
 またKolkhozの平均播種面積も,1928年には42haだったのが,1932年には434ha,Sovkhozなら544haから2,303haに延ばし,私営農業の平均播種面積は3.15haと相当狭まる事となりました.

 この集団化は小麦,大麦,ライ麦などの播種穀物だけでなく,商品作物,綿花,亜麻にも拡大されていきます.

 そこで問題となるのが,農業の大規模化に伴う生産性の問題です.
 従来の4.5ha程度の農地であれば,人力を動員すれば何とか収穫に漕ぎ着ける事は出来ましたが,2,303haの農地に人力だけでは,殆ど手が回りません.
 こうして,農業の機械化が第一次5カ年計画で必要となり,農業用機械の生産部門が拡充されることにあんりました.

 第一次5カ年計画では,従来輸入だったトラクターを国産化すべく,ブチーロフ工場,スターリングラード工場,ハリコフ工場,チェリヤービンクス工場を建設し,これらの工場で国産トラクターを中心とした農機具を大量生産する事になります.
 トラクターの生産は,1927年の年産874台から1932年には年産46,068台へと急拡大し,自給率は100%となりました.
 この生産台数は,米国を抜いて世界一となり,名実共に生産性向上と技術革新の旗手となった訳です.

 これが可能になったのが工作機械の充実でした.
 1917年の革命当時は国産工作機械の比率は24%,其の後,一時的に内戦で海外からの機械輸入が不可能となった為,その比率を徐々に高め,1928年で34%としました.
 第一次5カ年計画ではこの比率を更に高めて,1932年の終了時には46%とほぼ半数が国産の工作機械で賄えるようになりました.

 この時期に建設され稼働を開始,または建設中の代表的な工作機械工場としては,
ターレット機のモスクワ工場(年産6,700台),
ミーリング機はゴリコフスキー工場(年産8,000台),
銓孔機のハリコフ工場などがあり,
工具製造工場として,
レニングラードのプネヴマチカ工場,
ウォスコフ工場,
モスクワ工具工場,
ズラトウストフスキー工場
などが挙げられ,更に
モスクワのカリーブル工場,
フレーゼル工場,
スターリングラード・トラクター工場,
スターリン記念モスクワ自動車工場
などでは精密工作機械用のニウマリック工具,ヨガンソン式鋼片,マイクロメーター,旋回刃などの生産を開始し,高速度鋼,超硬質合金を採用し始めていました.

 こうした工場の充実は,自動車産業の発展をも促し,1932年には世界4位の自動車大国に成長しています.
 また,産業の発展がエネルギー産業の自給を促し,石炭の産出や石油の生産を増加させる為に掘削機械の導入など多くの機械設備を導入しました.
 例えば,石炭の機械化水準としては採炭ではソ連のドンバス地方が71.9%なのに対し,ドイツのルール地方は93.0%,米国は77.5%,英国は35.0%と極めて高くなっています.

 様々な連関の歯車が上手く回れば,ソ連という国のポテンシャルはとてつもなく高くなります.
 1932年には,
電力と自動車の生産は世界で6位,
石炭と銑鉄は4位,
一般機械製造,石油生産は2位,
農業機械,トラクター,泥炭の生産では1位
の座を占める事に成功し,全工業生産品では,世界5位から2位に躍進することになりました.

 こうして次の第二次5カ年計画に繋げていくのですが,この5カ年計画では,更に社会主義農業を発達させ,工業は重化学コンビナートの完成と経営,国防と軍戦備の充実に主眼が置かれた他,対ドイツ,対日の東西二正面戦争を想定して,極東を中心とした地方経済の自給自足体制の確立をも視野に入れていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月20日21:35

 1933年からの第二次5カ年計画は,農業分野では社会主義農業の発達,工業分野では建設中のコンビナートの完成とその経営,国防分野では軍戦備の充実を主眼とし,更に東西に正面戦争に対応すべく,極東を中心として自給自足体制を確立する事が緊急の課題として浮上しました.
 この第二次5カ年計画の最終年である1937年度の生産目標は,
銑鉄生産は年産2,200万トンで世界第2位,
石炭の年間出炭量は25,500万トンで世界第2位,
石油の年産は8,000万トンで世界第2位,
機械生産は2~3.5倍増強させ世界第2位,
トラクター生産は年産4万台のチェリャビンスク第一工場を始めとするの装軌トラクター工場群が完全稼働すれば,年産17万台となり世界第2位,
自動車生産は年産20~40万台を計画する
としていました.

 これが成功するか否かの鍵になるのは,ウラル=クズネツク,ベレズニク及びボウリコフスク,ドニエプルなどで建設中のコンビナート型結合工場の完成,ドンドスの複合化などコンビナート型結合工場を中核に其処から派生する工業の高度な発達に掛かっています.

 一方,こうしたコンビナート型結合工場は,地方に建設される為,地方経済に大きな影響を与え,更に州や地方の経済計画と連関させる様にしました.

 こうした動きで党中央が重視したのがシベリア地方であり,良質なコークスとなりうるスーチャン炭と,その近傍にあるオリギンスク鉄鉱山を基に,製鉄工場を興し,その製鉄工場から生産される鉄材を用いて,造船業を盛んにし,缶材を生産して,缶詰工場を造り,造船所で生産された漁船を用いて,北方の豊富な漁業資源を獲り,それを缶詰に加工して輸出する.
 他に,穀物経済や牧畜業の他,商品作物である亜麻,大麻,甜菜が栽培されている訳で,これを基礎に,農産物原料品を加工する製糖工場や製麻工場を発展させる事で,極東が自立し,食料品と基礎生活物資を自給自足出来れば,クリミヤ半島から地球を半周させて,ウラジオストクに盥を運ぶ必要もなくなるし,鉄鉱石を延々ウラル地方に運んで,生産した鉄を再びウラジオストクに運ぶのも輸送費ばかり掛かってしょうがないと言う馬鹿な事をしなくても済むと言う事になります.
 スーチャン炭やオリギンスク鉄以外の資源,例えば,樺太で産出する石油,カムチャツカで採炭される石炭,金属鉱山をこうしたコンビナート型結合工場で加工して,地域を発展させるのも,この第二次5カ年計画の主眼でした.

 国防に関しては,師団編成の再編がありました.
 ソ連の狙撃師団の場合,兵員20,000人,馬匹7,600頭で,当時の日本の師団よりも兵員数,馬匹の数は劣っていました.
 但しその構成は,狙撃(歩兵)兵3個連隊,捜索1個大隊,軽砲兵1個連隊,15cm重砲1個連隊,戦車1個大隊などから成っており,その火力は,ライフル銃を除けば,自動小銃(短機関銃の事か?)522挺,軽機関銃351挺,擲弾筒522個,重機関銃176挺,76mmと122mm連隊歩兵砲18門,45mm対戦車速射砲85門,82mm迫撃砲18門と重厚であり,更に砲兵装備は,軽砲46門,15cm重砲24門,高射機関銃72挺,76mm高射砲6門となっています.

 この火力は日本陸軍に比べると,速射砲は約5倍超,重砲は圧倒的に多く,対空装備も全くない日本軍とは対照的に充実していました.

 更に自動車工業の発達を背景に,自動車化狙撃師団の編成を行っています.
 自動車化狙撃師団は兵員7,060名,トラック1,530台で編成され,基幹部隊は乗車狙撃3個連隊,砲兵1個連隊,戦車30両で編成される戦車1個大隊,偵察の為に戦車4両と装甲車9両で編成される捜索1個大隊であり,後方部隊以外は,全員自動車で移動していました.
 これを補完する部隊として,戦車105両で編成する戦車旅団,装甲車,軽装甲車75両で編成する装甲自動車旅団,戦車150両で編成する機甲旅団が編成され,電撃戦の素地が整っていた訳です.

 この電撃戦を大々的に行ったのが,日本軍相手のノモンハン事変でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月21日21:32


 【質問】
 モスクワの地下鉄は,第2次大戦時の影響をどのように受けたのか?

 【回答】
 ロシア共和国の首都と言えばモスクワですが,此処の名物は地下鉄です.
 ただ,この地下鉄,意外に歴史が浅く1935年に漸く開通しました.

 とは言え,そこはロシア.
 最初に計画されたのは実に1875年まで遡ります.
 当時モスクワの人口は膨張し続け,19世紀末には100万人を突破し,基盤となる交通機関の必要性が取りざたされていました.
 最初に計画された路線は,クールスク駅からルビャンカ広場,トルーブナヤ広場を経てマリイナ・ローシャまで地下を通すというもの.
 しかし,お決まりのロシア的官僚主義にて中々進まず,結局頓挫しました.

 次いで,1902年にピョートル・バリンスキーと言う人物とシベリア横断鉄道の橋梁設計者であるエフゲニー・クノールがモスクワ総督に対し,パヴェレツ駅とトヴェリ関所を高速鉄道で結ぶと言う意見を提出します.
 但し,この鉄道は完全な地下鉄ではなく,赤の広場とプーシキン広場で高架を走ることになっていました.
 日本で言う銀座線とか丸の内線みたいなものですね.
この計画は広く注目を集めましたが,議員達が懐疑的な目で彼らを見ていたことに加え,当時,大きな利益を上げていた路面電車の経営者達によるロビー活動が功を奏して,これも議会で否決されてしまいました.

 今度は1910年の事で,既にモスクワの人口は200万人に達そうとしていました.
 交通問題は深刻化し,市内電車でチンタラ運べる様な数ではありません.
 そこで前面に出て来たのが,モスクワ市当局で,今度こそ実現しそうだったのですが,これも第一次大戦の勃発とその後の革命,更に内戦により国力が疲弊して,問題の解決が先送りされてしまいました.

 そしてソヴィエトが成立し,内戦が終熄しつつあった1924年,4度地下鉄建設計画は日の目を見る様になりました.
 モスクワ市鉄道管理局内にモスクワ地下鉄課が設置され,1930年までに環状線を含む5路線,約50kmに及ぶ地下鉄建設計画が立案されました.
 1930年代初頭には既に400万人の人口を誇るモスクワでは,既に路面電車が機能し得ないほど客が増えている状況で,待ったなしの状況に陥っていました.
 こうして,1931年6月15日の前ソ連邦共産党中央委員会総会で地下鉄建設へのゴーサインが出された訳です.

 地下鉄建設の責任者は,鉄道人民委員のラーザリ・カガノーヴィチで,この地下鉄は彼の名を冠して,「カガノーヴィチ名称モスクワ地下鉄道」と呼ばれました.
 1931年11月に起工し,モスクワのみならず全国から労働力を集め,北カフカスからセメント,カレリア,クリミア,ウラル,極東からは大理石や御影石が集めて,怒濤の建築作業を行い,突貫工事で開通したのが1935年5月15日のこと.

 総延長11.2kmで,ソコーリニキとパルク・クリトゥルィを結び,アホートヌィ・リャートからスモレンスカヤまでの支線がありました.
 一日の乗客数は17万7,000人でしたが,これは全モスクワの交通機関シェアの僅か2%に過ぎませんでした.
 とは言え,13駅で所要時間は20分,同じ経路を走った路面電車は2時間かかったので,顕著なスピードアップになっています.

 その開通の1週間ほど前の5月8日には第2期路線計画が承認され,直ちに着工されました.
 この路線は1937年3月20日にスモレンスカヤ~キエフスカヤが開通し,1938年3月13日にアレクサンドロフスキー・サート~クールスカヤ間が開通,9月11日にはソーコル~テアトラーリナヤ間が開通して,全22駅総延長23.5kmに達しました.

 当時,誰の発案かは知りませんが,これらの駅の一部は地中30mに設置されており,第2次大戦中は,ドイツ軍の空襲を避ける為のシェルターとして利用されました.
 もっとも有名なのは,マヤコフスカヤ駅で,シェルターとして利用する為,線路に板を敷き,追加照明を設置した他,プラットフォームには追加の水飲み場が設けられていました.
 これは,18時になると列車の運行を停止し,線路の板敷きを行って駅を市民に開放したのです.
 大戦中,モスクワ地下鉄の駅では217名の赤ん坊が産声を上げた他,チースティエプルドゥイ駅には赤軍参謀本部が設けられ,スターリンの執務室がこの駅の中に設置されていました.
 クールスカヤ駅には図書館が設けられ,人々に娯楽を与えました.

 地下鉄の修理工場も武器工場に転用されてそこで弾薬が生産され,1943年にはモスクワ地下鉄職員が拠金して,装甲列車『モスクワ地下鉄号』を送り出しています.

 また,ベルゴロド近郊の戦いでは,58名のモスクワ地下鉄職員が武器を取ってドイツ軍と戦い,モスクワへのドイツ軍の侵攻を食い止めたという逸話もあります.

 戦線がモスクワに近づくと,地下鉄の車両と設備の一部を疎開させる決定が下され,179輛がウズベキスタンに移送されました.
 いよいよの時には,地下鉄を水没させ,全ての設備を疎開させることも検討されていました.

 この戦争の期間中でも地下鉄の建設は中止されませんでした.
 1943年から44年にかけては7駅,13.3kmの区間が開通しました.
 とは言え,普通,戦争中の頃と言うのは物資のない時期であり,駅舎などもそんなに力を入れないのが日本なんかでは見られたのですが,ソヴィエトは威信をかけて巨額の資金を投入して芸術的な駅舎が誕生していました.

 ところで,1938年の第2期工事が完成した後,地下鉄の混雑緩和を図る為にも新線の建設が必要となりました.
 当時はスターリン粛清の最盛期であった訳ですが,これはその頃の逸話.
 スターリンがこれからの地下鉄建設計画の説明を受けながら,茶を飲んでいたのですが,ふと路線図の上に置かれていたカップを上げてみると,モスクワ市の中心部辺りの地図に輪の形に茶色の痕が付いていたそうな.
 それを見たスターリンは,環状線こそモスクワに必要なものだ,と喝破し,その建設を命じたとか.
 多分与太話の類でしょうが,実際に環状線の路線カラーは茶色だったりします.

 その環状線は,1938年に計画はされたのですが,実現は戦争などの関係で大幅に遅れ,環状線の経路が定まったのは1943年以降,建設が始まったのは戦後になってしまいました.

 1950年1月1日にパルク・クリトゥルィ~クールスカヤ,1952年1月30日にはクールスカヤ~ベラルースカヤが,最後に1954年3月14日にベラルースカヤ~パルク・クリトゥルィが完成して環状線が完成しました.
 環状線の駅は,既に戦争が終わった為もあってか,当代最高の建築家であるドゥーシキンやレーニン廟の設計者であるシューセフ等が手がけ,中には「地下宮殿」と呼ばれたコムロモーリスカヤ駅のようなものもありました.

 この頃が地下鉄駅舎建築の絶頂期でしたが,同時に凋落の時期でもありました.
 1953年にスターリンが死去し,フルシチョフによる権力掌握が完了すると,絢爛豪華な装飾は影を潜めていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/16 23:00

 スターリン時代は,国家の威信をかけた形で建設が進められ,駅舎も相当豪華に飾り付けられていたのですが,スターリンの死後,その批判が行われると,フルシチョフは地下鉄建設でコストダウンを推し進め,地下鉄の駅は無味乾燥なものが多くなっていきます.
 この頃に大量生産された駅には,いずれも柱が38本,そして,両端を含めると40本ありました.
 これを連想して,モスクワっ子がこうした駅に付けた渾名が,「サラカノーシカ」でした.
 サラカノーシカは百足を意味し,直訳すれば「40本の足を持つもの」だったからです.

 以後,こうした無機質な駅が誕生しますが,ブレジネフ時代になると,初期こそフルシチョフ時代を踏襲していましたが,その支配が長引くにつれて,壁の装飾に大理石が使われる様になっていきました.
 そして,1980年のモスクワオリンピックでは,国の威信を示すが如く,1979年12月30日に開通したカリーニンスカヤ線では,黄金の釣天井の様な煌びやかなものが採用されるに至りました.

 1985年以後のゴルバチョーフの時代からは徐々にソ連色が排除されはじめ,ソ連崩壊後に開通したリュブリンスカヤ線では極めて機能的で洗練された意匠となり,更に政治色は徹底的に排除されました.
 その線のスレーテンスキー・ブリヴァール駅には,ソ連時代,庶民に最も愛され,一方では当局に睨まれていたというウラジーミル・ヴィソツキーの詩の一節が掲げられています.
 彼の詩を掲げると言うことは,それだけ体制が激変したといえるのでしょう.

 因みに,モスクワ地下鉄でも郊外に造られる駅は開削工法のものが多く,従って,掘削深度もそんなに深くありません.
 大抵の駅では2本の細い柱が並んでいますが,1本だけと言う駅もあります.
 後者の場合は,プラットホームの幅が狭くなった為,1938年以後採用されていません.
 もう一つはドーム型で柱のないものであり,柱が無いために広々とした空間を保っています.

 モスクワ中心部になると,地下階のある建物が多く,インフラは地下に埋設されています.
 この為,浅い深度にトンネルが掘れず,必然的に駅は深い位置に造られることになります.
 これは勿論,シールド工法で造られるのですが,柱は頑丈で,且つ太いものが用いられる他,駅の位置では3本のトンネルを掘り進めて両脇のトンネルは左右の路線とプラットホームになり,真ん中のトンネルは,中央ホールとして用いられ,中央から両脇のトンネルの間を掘り進めてその部分を通路として,残りを柱にすると言う工法で造られるものもありました.

 現在,モスクワ地下鉄には12路線,177の駅があり,最短で90秒間隔にて運行されています.
 そう言えば,この地下鉄で事故が起きたという話を不思議に聞きませんねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/17 22:38

現在の地下鉄Komsomolskaya駅@モスクワ


 【質問】
 第2次大戦時のソ連の品質管理は杜撰だったというイメージがあるのですが,なぜ航空機用空冷エンジンや大馬力ディーゼルを量産できたのでしょうか?
 稼働率は劣悪でも,数に物を言わせて乗り切っていたのでしょうか?

 【回答】
 品質管理がずさんだっただけで,決して工業技術力や工業生産力が低かったわけではないので.

 ソ連は産業後進国で技術が低い面があるのは仕方がないが,その分信頼性や量産性を重視した実用的な設計を追及していた.
 部品の素材や工作水準は劣悪でも,装甲やエンジンなど重要な部分は手を抜かず,素材を厳選して高水準に仕上げている.
 特に急速に工業化を進めたばかりで,量産技術においては工業先進国のドイツも上回る部分があり,ドイツはT-34のコピー案を,アルミ合金製ディーゼルエンジンが量産不能として断念している.

 戦車のシフトレバーが固くて金槌で叩き込むテクニックがあったり,サスペンションがボロだとか見え難い部分には問題も多かったが,ドイツのように転輪の千鳥配置みたいな複雑なことはやらず,実用を追求しているため,全体的な可動率という面ではドイツ兵器を上回っていた.

 日本軍好きな人は平然とスルーする(あるいは知らない)が,当時のソビエトの工業技術力は日本よりもずっと高い.
 ▼部品の公差なんか桁が二つ近く違ってた.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ さすがに2桁も公差が違ったら銃弾も一品ものにする必要があります.(笑)
 まともに品質管理した場合の三八式の口径が6.5±0.01mmと仮定.
 この公差を100倍すると
 6.5±1mm,つまり口径が5.5mm~7.5mmになってしまう!!
 寸法を指定する意味がないよ!!

 ということで,2けた公差が違ったなんてのはなんかの勘違いでしょう.

 ちなみに,公差を半分にするとコストは10倍といわれます.
 つまり公差を1/10にするとコストは2000倍くらいかかります.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第2次大戦終結までの,ソ連のレーダー開発の歴史を教えられたし.

 【回答】
 トハチェフスキーと言えば,ソ連最初の元帥の一人で赤軍の機甲化に大なる役割を果たしましたが,その切れ者ぶりが逆にスターリンの猜疑を招き,1937年に粛清された軍人です.

 そのトハチェフスキー,ソ連のレーダー開発にも実は関わっています.
 1933年の初め,既に彼は防空管理部に対し,飛行機監視の為の電磁波利用法研究に適切な研究所,設計ビューローの選定を命じていました.
 既に,彼はレーダーに関心を抱いていた訳です.
 しかし,彼の失脚と粛清により,これ以上の展開はありませんでした.
 もし,彼が失脚,粛清されずに生き延びていたら,意外とソ連でのレーダー実用化は早かったかも知れません.

 それでも,ソ連で初めて製作されたレーダーは,1939年4月~1940年4月にかけて開発された捜索範囲100kmの自動車搭載型レーダー・ステーションРедутです.
 これは,折からのソ芬戦争で試験利用されています.
 実用化については英国やドイツよりも遅れましたが,そう遅れている訳ではありません.

 その試験結果を受けて砲兵総管理部の所管で地上機の研究開発が行われ,1941年5月にはРус-2とРус-2Сの2種類が完成します.
 船舶搭載用のレーダーとしては,第二次大戦直前の時期にРедут-Кが完成し,黒海艦隊の巡洋艦に搭載されました.
 更に,航空機搭載用レーダーとしては,Гнейс-2が開発され,Пе-2に搭載されました.
 因みに,Пе-2は,後に双発急降下爆撃機として大成しましたが,当初は高々度迎撃機として試作されていたものです.

 これらの開発は,独ソ戦勃発で一時的に優先順位が下げられましたが,戦線がソ連有利になってきた時期である,1943年7月4日付国家防衛委員会布告により,レーダー開発・製造・前線配備の抜本的強化を目的とした国家防衛委員会附属レーダー開発会議の設置が決まり,議長には副首相であるマレンコフが就任しました.
 スターリンの腹心が就任するくらいですから,如何にこのプロジェクトが国家的なものであるかが判ります.
 とは言え,実質的な主権を握っていたのは,副議長でかつ優れた電波工学者で,1943年3月に海軍アカデミーから電子工業人民委員部次官に転身したベルクでした.
 この他に,この会議には当時装備人民委員であったウスチーノフ,航空機工業人民委員のフルニチェフ,官僚からゴレグリャド,カバーノフ,軍部から参謀次長のアントーノフ大将,学界からコブザレフ,シチゥーキン,工業分野から後に27年間に亘って電子工業相を勤めたショーキンが常任委員として参加していました.

 1943年7月,国家防衛委員会はその第3,686号布告でレーダー開発の組織化を指示し,此に基づいて全連邦レーダー研究所,全連邦真空管研究所,中央設計ビューローが組織されました.
 こうした官公一体(民は無いわな)となった施策により,終戦を迎えるまでに地上レーダーステーションであるРус-2とРус-2Сが651基,砲兵用レーダー装置СОН-2が124基,航空機用レーダー装置Гнейс-2が255基,船舶用レーダー若干が生産されています.

 こうしたソ連のレーダーについては,ソ連という国では物理学が元々盛んであったのは確かですが,それにしても急速な発達ですが,これには当然諜報活動の成果もあります.
 1941年6月の国家防衛委員会の指令では,ウラン利用計画を始めとする科学技術7分野に於ける対英米諜報活動の強化,系統化がニューヨークとロンドンを中心に追求されることになり,レーダー装置はミリ波装置やポータブル無線機と共にその第2項目に挙げられています.
 その諜報活動の結果,1944年までの段階で,ベルクの下には報告が1,236件,写真5,383葉,図165葉,部品仕様78件が届けられていました.

 もう一つの流れは,英米からの直接支援でした.
 特に,GE社とWH社が開発し,1944年にソ連に供与されたSCR-584レーダーはソ連の研究者の関心を呼び,早速ビリニュスに設置された西部対空防衛網のレーダー試験施設で試験が行われました.
 また,米国へはレーダー技術の直接提供を求め,ポドベリスキー通信専門学校軍事部聴講生となっていた士官グループが派遣され,その中には後に国防次官となったトロフィーモフも含まれていました.
 更に,戦後(!)になっても外国貿易省はRCA社に対し,2,000万ドル規模の技術援助協定締結を求め,1946年3月に専門家を派遣しようとしています.
 …尤も,この時期には冷戦は激化しつつあり,ソ連の技術者は入国ビザ発給を拒まれてしまいましたが.

 1945年5月,ドイツが降伏すると,その戦利品が俎上に上りました.
 1945年6月10日付国家防衛委員会布告第9,047号では,高射砲用レーダーステーションの開発・製造を担当する装備人民委員部が,レーダーの開発研究に必要な設備を選定する為,戦利品へのストックに対する調査を求めています.

 ただ,こうした技術情報は得る事が出来ても,最大の敵は人材不足でした.
 先の布告第9,047号では,赤軍予備役,後方勤務の人員の中から,1945年第2,第3四半期に装備人民委員部第4総管理部所属諸工場に100名の技師を無線技士を派遣する事が決められていました.
 装備人民委員部では,麾下に技術訓練施設を3箇所設置し,バウマンモスクワ高等技術学校内に60名からなる技術者の再教育コースを組織すると共に,当時未だ少なかったレーダー専門家を抱えていた造船工業人民委員部第10科学研究所から,研究員を時給払いで派遣して貰う要請を出していたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/03/16 22:34


 【質問】
 シベリヤに抑留された枢軸国捕虜が強制された無償労働は,ソ連にどれぐらいの経済効果を与えたのでしょうか?

 【回答】
 ドイツ人捕虜は6億8600万労働日の労働をこなし,その収入は111億ルーブル.
 但し,食事,宿泊などの経費が133億ルーブルかかっており,差し引き22億ルーブルの赤字と言うことになっています.
 また,このほか,100の科学・技術上の新案を獲得しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 投稿日:2007/04/21(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ゲオルギー・リボン運動とは?

 【回答】
 2008/5/9付,ノーボスチ通信社によれば,「ゲオルギー・レントチカ(St.George Ribbon,ゲオルギー・リボン運動)」とは,戦勝記念日の前夜に行動参加者各人が,ロシア全土に亘り,黒色とオレンジ色が交互に交じり合った帯状のリボンを括り付ける行動.
 この色は,ロシアとソ連の武勲の賞状に当たる象徴的意義を持つ戦場での兵士の個人的な勇敢を表し,
「このようにして,これは,我が国の独立を守り,国家をファシストから救った,生き残った人,名前の記録は残っている人,あるいは名もなく死んだ人,への感謝の意を表するものだ」
と説明されている.
 「ロシア・ノーボスチ通信社」と青年社会団体「ストゥジェンチェスカヤ・オプシーナ(学生社会)」がその運動の提唱者になっており,すでに4年連続で行なわれているという.

***

 黒色とオレンジ色が交互に交じり合った帯状のリボンは,ロシアでは聖ゲオルギウス・カラーと言うそうだ .
 ロシアの勲章を見ていると重要な勲章にはこの色使いが見られる.
聖ゲオルギ-勲章

ゲオルギー・リボン運動の参加者


CRS@空挺軍 in mixi,2008年05月10日21:26


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