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<第二次世界大戦FAQ
(画像掲示板より引用)
「Togetter」◆(2011/08/23)米国経済状況から見えるWW2開戦前の米国の戦争願望の有無
『戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊』(モリー・グプティル・マニング著,東京創元社, 2016)
今日まで読んでいたのは,モリ・グプティル・マニングと言う女性弁護士の書いた『戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊(原題は"When Books Went to War: The Stories That Helped Us Win World War II")と言うハードカバーのノンフィクションです.
物語の始まりとなっているのは第二次世界大戦前,ドイツが行った「焚書」です.
これで数多の貴重な書物が炎の中に投げ込まれました.
それに猛然と反発したのが,米国を始めとする民主主義国家です.
ナチスドイツの蛮行に対し,焚書にされた作家の本を出版したり,作家を保護したりと言った活動をしていきます.
そして,第二次世界大戦が始まりますが,米国はドイツに対し何もかも準備不足でした.
選抜徴兵法を成立させ,兵士となる若者が続々と集まってくるのですが,兵隊の軍服やら武器,それに兵舎に至るまで,巨大な国で生産力があるにも関わらず全く一からの作業となります.
徴兵された兵士達は,来る日も来る日も駐屯地に繋がる道路に残された切り株を取り除いたり,兵舎を建設する仕事に追われました.
そんな中では兵士の士気を維持する為や,教育の為の書籍は全くありません.
陸海軍も,遅れ馳せながら図書館の整備を始めますが,第一次大戦で整備された図書館からは,戦後の軍縮で多くの書物が民間に放出されてしまい,殆どめぼしいものは残っていませんでした.
そこで,一から図書館事業を始めなければなりませんが,先ず,陸軍は(そして海軍も)各地の図書館と連携し,民間から余分になった本を寄付して貰う運動を始めました.
丁度,その運動を始めた頃に真珠湾攻撃があり,米国が第二次世界大戦にコミットを始めた頃で,国民の間に運動は爆発的に拡がり,何十万冊に上る本が最初の数ヶ月で寄付されます.
ただ,そのうちの何割かは兵士に供給するには不向きな本でしたし,ハードカバーは本土の訓練基地に送付するなら未だしも,米軍がこれから行こうとしている国々に送るには余りにも嵩張るものでした.
兵士達は,文字に飢えてはいたのですが,行軍の為に1,000ページに上るハードカバーを持つ気になれなかったのです.
寄付運動は1,000万冊という目標は達成に漕ぎ着けますが,国内では統制が始まり,紙資源も余り出版業界に宛がわれなくなって,運動は先細りになる可能性があります.
一端,戦場に本を送ろうと言う試みは,政府内部からも反対者が出て来て,残念ながら中断を余儀なくされてしまいました.
1943年,陸海軍は兵士達の為に良書を供給する体制を整えることになります.
出版業界もハードカバー中心のラインナップでは,割当制となった紙の無駄遣いになり,表紙に用いていた木綿も統制物資になった為,小さく,軽く,紙の量も少なくて済むペーパーバックへと移行していきました.
こうした素地があって,民間の出版社を中心とした業界団体を結成して,そこが陸海軍と契約して,兵士用のペーパーバック,「兵隊文庫」が登場したのです.
勿論,連合国として他者を排撃するような作品は事前検閲で出版対象になりませんでした.
あくまでも自主検閲であって,陸海軍部は業界団体を信用していました.
なお,ジャンルは多岐に渡り,「教科書,技術書,児童書,女性向けの本以外のあらゆる種類の本」が兵隊文庫になりました.
こうして凡そ1,200作品が毎月何作品かずつ4年以上に亘って出版されたのです.
戦地に送られた兵隊文庫は,兵士達に引っ張りだこになりました.
その中には今までの評価が引っ繰り返った作品もあります.
今や米国を代表する作品として映画にもなった『華麗なるギャツビー』は,1925年の発表当初,失敗作とされていましたが,兵隊文庫に入るや,兵士達が挙って評価し,それが本国に跳ね返ってきました.
第二次世界大戦と言うのは,米国の若者にとって,見聞を拡げる切っ掛けになりました.
それは欧州やアジアの異文化に触れるだけで無く,兵隊文庫を通じて一般の人々が書物を読む切っ掛けを提供し,それを読むことで今まで知らなかった世界に興味を持つ切っ掛けになったのです.
戦争が終わり,復員してくる兵士に対し,米国の指導者は恐れ戦きます.
教育の無い若者が一気に本土に帰り,失業率を引上げ,犯罪率を増やしかねないと考えたのです.
それを払拭すべく,復員兵プログラムが考えられます.
ベースとなったのは,第二次世界大戦中の満期除隊者に対する施策ですが,これは年齢制限が厳しく,数年を戦地で過ごした兵士達には使えない施策でした.
そこで,規定をかなり緩くし,復員兵達に使いやすいプログラムを提供する事にしたのですが,ここで意外だったのが,兵隊文庫を読んで学習意欲を高めた復員兵達が,高等教育を受けるプログラムを選択するケースが多かった事です.
復員兵達は進学すると,真面目な成人学生となり,一所懸命に勉強してトップクラスの成績を収めました.
彼等よりも若い同年代の学生は,彼等を「平均点を上げる忌々しい奴ら」と呼んでいます.
そして,彼等が社会に出て,米国の基礎を築いていった訳です.
但し,このプログラムでは復員したアフリカ系米国人,そして女性にはそれ程の恩恵が無かった事も事実です.
しかしながら,本を読む習慣を身につけた人々は,考えることを覚え,そして,社会を良くする方向へと活動を始めました.
公民権運動の高まりやウーマンリブ運動は,こうした目覚めた人々が中心になって始まっていった訳です.
勿論,出版社も今までのハードカバー中心の書物からペーパーバックを業態の中心に据えることで,大きく成長を遂げていったのです.
大まかにはこんな感じの本なのですが,最初の図書館運動から戦場文庫へと至る流れが極めて自然に書かれており,また立ち塞がる障害などもユーモアたっぷりに触れられており,一気に読ませる本です.
全体は200ページそこそこなのですが,巻末には兵隊文庫の一覧や原註がたっぷり載っており,ここから別の世界に興味を惹かれた人が参照出来る様になっています.
翻訳も首を捻る箇所はありません.
一頃に比べると最近は翻訳家の質も上がってきたのか,軍事関係の用語でも全然違和感ないことが多かったりします.
正にこの本は米国の底力を見せつける本でもあり,書物の偉大さを再確認する本でもあります.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/08/07 22:48
【質問】
戦前の米国が対英戦争を想定したレッド計画を作っていたのは何故か?
【回答】
英国が米国にとって最大の脅威であり続けたからだ,と主張する者もいるが,その根拠は怪しく,疑わしい.
実際には,1903年に陸軍戦争大学,1921年に陸軍戦争計画局が設立されたことに伴い,アメリカで戦争研究が盛んになったために過ぎないと考えるのが自然だろう.
***
太田述正コラム#1621(2007.1.16)によれば,英国が米国にとって最大の脅威であり続けたからだという.
同コラムが,
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/12/29/AR2005122901412_pf.html
http://www.shunpiking.com/ol0309/0309-WD-UswarplanRED.htm
http://lefarkins.blogspot.com/2005/12/war-plan-red.html
http://www.glasnost.de/hist/usa/1935invasion.html
http://www.ihr.org/jhr/v12/v12p121_HNAC.html
http://www.lewrockwell.com/floyd/floyd42.html
http://thoughthammer.com/product_info.php?products_id=1787
http://en.wikipedia.org/wiki/War_Plan_Red
(いずれも1月16日アクセス)
をソース――ただし,「最後から二番目の典拠は信頼性に若干疑問があるので,これに拠った箇所は≪≫に入れた」としている――にして論じるところによれば,米国が行った戦争の中で,米国が負ける可能性があったものは,2回行った英国との戦争だけであり,しかも,英国は,カナダが独立するまで米国と長い国境を挟んだ隣国であったため,英国が米国にとって最大の脅威であり続けたという.
米国人の多くは,独立戦争の時に英本国側に与したカナダ人を快く思っておらず,また,≪第1次大戦頃の米国の対英作戦計画には,しばしば英国が米国との人種的紐帯を裏切って日本と同盟しているという文言が登場≫しているという.
さらに,1920年代には米国の対カナダ投資が英国のそれを抜き,対するカナダは,早晩米国によるカナダ侵攻が避けられないと判断,1921年に,カナダ軍の作戦・情報部長のブラウン(James
Sutherland Brown)は,カナダ侵攻の兆候があったら対米先制攻撃を行った上で,橋や道路を破壊しつつ次第に撤退し,英本国軍来援までの時間稼ぎをする,という作戦計画,Defence
Scheme No. 1を策定したという.
これに対して,アメリカはレッド計画をフーバー(Herbert
Hoover)大統領の時の1930年に策定完了.
ローズベルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領の時の1934年と1935年に改訂されるが,1934年の改訂は,カナダの人々に対して化学兵器を先制使用することと,カナダのハリファックス市の占領に失敗した場合に同市に戦略爆撃を行って破壊することを認めたものだという.
計画の詳細について,太田は次のように述べている.
レッド計画は,英国との戦争は,英国人が冷静で最後まで戦い抜く傾向があり,かつ,英軍は英国の植民地の有色人兵力による増強が見込めることから,長期戦になると見ていました.
具体的な作戦は,英・豪・ニュージーランド・インド軍によってフィリピンとグアムが占領されるのは甘受する代わりに,米国はカナダに侵攻するとともに,カリブ海における英国の全植民地に海空からの攻撃を加え,そのうちのいくつかの島は占領する,というものでした.
また,作戦開始と同時に,米国内の英国人やカナダ人は強制収容所送りにする計画でした.
そして,万一米国が敗れるようなことがあれば,アラスカを失うであろう一方,米国勝利の暁には,英領のカナダとジャマイカ・バルバドス・バミューダを米国は併合するとともに大英帝国を解体するつもりでした.
≪もっとも,米国の武器製造能力,特に艦艇の製造能力は英国のそれを上回っているので,戦争が長引けば米国は必ず勝利すると見込んでいました.≫
1935年には,レッド計画に基づく作戦準備が開始されます.
まず,カナダとの国境付近に,5,700万米ドルの予算で民間空港に偽装した航空基地の建設が始まります.カナダの航空基地にここから飛び立った軍用機で先制奇襲攻撃をかけるためです.
この件の議会での秘密聴聞会でのやりとりが漏れてカナダ政府が抗議するという騒ぎが当時起こっています.
更に同年,米軍は,史上最大規模の軍事演習をカナダ国境付近で行うのです.
すなわち,オタワの国境を挟んだ南方に36,000人の兵力を終結させ,ペンシルバニア州に15,000人の予備兵力を控置させたのです.
このレッド計画が無効とされたのは,日独伊の枢軸国に対する,オレンジ計画を発展させたレインボー計画が策定された1939年になってからです.
この論の難点は,
・一度でも戦争を行った国同士に,ある程度の感情的わだかまりが残るのは,むしろ当然であり――欧州の例を見よ――,それをもって,戦争に発展するような現実の脅威として感じていたかどうかは別問題であること
(ただし実際に兵力配置を,対カナダ戦向けに行っていたとされることは,留意されるべき)
・純軍事的に見れば,当時世界最強(だと考えられていた)英国を最大の仮想敵国と考えるのは,むしろ当然であり,それを考慮した作戦計画が存在していても不自然とは言えない
ということになろうか.
また,
「週刊オブイェクト」●軍事評論家
の,太田述正に関するエントリを見ても分かるように,自己検証能力欠如という点において,太田の提供する情報の信頼性には問題がある.
消印所沢
アメリカ人はまだまだカナダ侵略を諦めてませんから!
http://invadecanada.us/
現在の侵攻計画はレッド計画よりもさらに洗練されています(図参照).
まず,リトルリーグ各一チームを4方向から公共交通網を使って侵入させ,カナダの最も強固な防衛網(ビーバー)を殲滅させ,おしゃれな毛皮の帽子に変えちゃいます.
なぜ北から攻めないのかって?
北部はカナダ人に残しておきます.
小さくなったカナダは「カナディー」と国名変更させ,併合した領土はカナダ州と呼ぶことにします.
カナダ人はさぞかしくやしがるでしょう.
アンクル・サムを印刷したTバックを買って,君も戦意高揚と軍資金に貢献しよう!
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20u05.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20u05b.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20u05c.jpg
……という冗談は置いておいて,まじめに書くと,所沢さんの二点の反論が核心をついていると思います.
レッド計画が米国にとって重要で差し迫った具体的な計画であったと主張するため,太田氏はホロコースト肯定論者であるにもかかわらず,悪名高いIHR(歴史見直し研究所)やボードゲームの解説文まで引用していることから,いかにデスパレートであるか察せられるというものです.
太田氏の論拠の一つであり,対カナダ戦向けに実際に兵力が配置された,と主張しているのはFloyd
Rudminというカナダ国籍の心理学者です.
彼の著作を読んだわけではないので,実際に何を根拠にそう主張しているのか分かりませんでしたが,検索をかけた限り,この事実を主張しているのはRudminだけです.
そして太田氏の引用文献のうち,二つはこのRudminによるものです.
1935年夏にカナダ国境のパイン・キャンプ(現フォート・ドラム)で平時としては最大規模の軍事演習が行われたこと自体は事実です.
下の写真は,その模様を伝える新聞報道から.
36,500人を動員した大規模演習は予定通り二日間で終了.
Rudmin先生はこれをカナダ侵略の予行演習だと主張しているんですね.
単なる思い込みだと思いますが,
日本にも関特演なんてのがありましたねえ.
ソ連はそれをもって,「不可侵条約を先に反故にしたのは日本のほうだ」と主張してましたが...
一方で所沢さんと同様に,レッド計画の具体性に疑問を呈する文章も見つけました.
http://www.straightdope.com/mailbag/mcanadawar.html
こちらは誰が書いているのかはっきりしなかったのですが,参照文献に挙げているRichard
A. Prestonはカナダ歴史学会会長も務めた歴史学者,Thaddeus
Holtは陸軍省副次官も務めた法律家,となっているので,妥当性・確度は高いと思われます.
まず,
>・純軍事的に見れば,当時世界最強(だと考えられていた)英国を最大の仮想敵国と考えるのは,むしろ当然であり,それを考慮した作戦計画が存在していても不自然とは言えない
に関して.そもそも,偶発戦争に備える計画(Contingency
plan)は,軍事的に必要なものであって,レッド計画が特異的なわけでも,米国の専売特許でもないということです.
当時,米国にはレッド計画以外に,ホワイト(内戦),グリーン(対メキシコ),グレー(対カリブ海国),パープル(中央アメリカ),ゴールド(対フランス,カナダ・英国との同盟),レッド-オレンジ(対日英同盟)というのもありました.
レッド計画(よくあるのはオレンジ計画)だけを取り出してことさら強調するのはミスリーディングです.
そもそも,この手の戦争研究は19世紀のプロイセン/ドイツのまねであり,1920年代になって米国で盛んになったのは,1903年に陸軍戦争大学,1921年に陸軍戦争計画局が設立されたという経緯があるからです.
レッド計画の主な対象であるカナダでも,太田氏が紹介した防衛計画一号(対米国)以外に,防衛計画二号(対日本),防衛計画三号(対欧州)というのもありました.
戦争計画が発動されるかどうかは政治によって決まります.
19世紀には確かに米加あるいは米英間で軍事衝突が何度か起きていますが,20世紀に入ると,緊張はどんどん緩和されていきます.
すなわち
・ベネズエラとイギリス領ギアナ間の国境紛争の円満解決(1899年)
・中米に計画されていた運河の通行の自由を定めた英米間のヘイ・ポーンスフット条約(1901年)
・五大湖などをめぐる国境紛争の解決を目指した米加間の国境水域条約(1909年)
・これを基に成立した米加二国間の組織である国際共同委員会
・ワシントン海軍軍縮条約(1921年)
などなど.
ですから,議会の秘密聴聞会からレッド計画の一部が漏れると,ルーズベルト大統領は激怒して,このような計画は大統領や同政権の政策をなんら反映しておらず,今後このような証言を行う場合は,軍の最高司令官であるルーズベルト自身からまず許可をとるように,と陸軍長官と下院の陸軍聴聞会議長に警告しました(1935年5月1日付ニューヨークタイムズ一面記事).
太田氏は同コラムで,ブラック計画(対独戦)が手付かずであった点を根拠に,米国はドイツを「友邦」とみなしていたと主張していますが,これは暴論もはなはだしいです.
二つの大戦時の大統領であるウィルソンとルーズベルトは,大統領選挙で欧州の戦争に参戦しないことを公約にしており,ウィルソンは1916年に,もしも対独戦を計画していることが発覚したら将軍を全員クビにする,と脅しをかけました.
つまり,ブラック計画がなかったのは政治的リスクがあまりにも高かったからであり,戦争計画のあるなしから単純にある国を敵視あるいは友邦視していたと結論することはできません.
パイン・キャンプでの軍事演習の模様
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20u05d.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20u05e.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20u05f.jpg
【質問】
1930年頃のUSAの軍事力は?
【回答】
ポール・ジョンソンによれば,海軍はかなりの規模だったが,旧式化が進行.
陸軍は将兵数13万2069人で世界第16位.
チェコスロヴァキア,ポーランド,トルコ,スペイン,ルーマニアの陸軍よりも少なく(138),陸軍でリムジンを使用しているのはマッカーサー参謀長だけという有様だったという.
(138) Manchester, opus cit, 7.
詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.235を参照されたし.
ちなみに平間洋一著『日英同盟』(PHP新書,2000.6.5),p.156において,
>アメリカは世界第1位のイギリス海軍と第3位の日本海軍に,大西洋と太平洋から挟撃される幻想に脅えた
結果,4ヶ国同盟に置き換えることで日英同盟を解消させるよう仕向けた,と主張している.
しかし,いかに日英同盟破棄(1921/7/11)から10年たっているとはいえ,イギリスの脅威(言うまでもないことだが,英自治領カナダは陸続きの隣国)を感じていたとされる国の防備にしては,あまりに貧弱であるように思われるのだが……?
【質問】
そもそも何故アメリカは,いくらドイツの日米開戦に合わせた宣戦布告があったとはいえ,直接ドイツから攻撃を受けたわけではないのに,ドイツに対してあそこまで大規模な兵力を出したのですか?
連合国としての反ドイツの姿勢を示すためなら兵器のレンドリースやその他の支援で示せるはずですし,ドイツの戦後処理をアメリカ有利に進めたいなら,終戦間際に大規模参戦して占領した方が,犠牲が少なく,かつ一応は参戦したと言う実績は残せるはずですし,日本との戦争があるのだからヨーロッパよりも太平洋に兵力をまわしたほうが良いと思うのですが.
【回答】
どんなに援助物資を送って戦争を支えても,実際に部隊を送って戦争に参加しなければ,戦後処理の際に発言権が得られない.
「お前の国は実際の現場では何もしてねぇだろ.
金と物出しただけの奴は引っ込んでろ」
ということになるからだ.
それに,自分の国の軍隊を送り込んで土地を占領しておかないと,実力による支配ができない.
「あそこは君にあげるっていうことにしといたけど,やっぱ,やめね」
とか言われたときに,相手国の軍隊がその地域に居座っていたら,強制的に排除しなければ土地が得られない.
実効支配して利権を得るには,どうしても自国の陸軍で土地を選挙する事が必要になる.
原則はそう言うことで.
政治的には,アメリカはWW1の時に
「終盤になって戦争の帰趨が決してから,ノコノコやってきて勝者のつもりか」
とイギリスに嫌われ,派兵して苦労した割には直接的利益を得られなかった.
その事を踏まえ,「口と金と物だけ」ではないということを示す必要があったのと,何よりもフランス本土は無事確保していたWW1と違い,「連合軍」はフランスの土地を,というかフランスという国を失っていた.
ダンケルクで大損害を受けて,そこから回復しきれないイギリス軍と逃げてきた,僅かなフランス軍だけでは,兵力が圧倒的に不足していて,「大陸反抗」がやりたかったらアメリカが大兵力を送り込んで,主力になるしかなかった訳.
軍事板,2008/09/14(日)
青文字:加筆改修部分
また,大杉一雄によれば米独関係は当時,抜き差しならないところまで来たと言えるほど悪化しており,「水晶の夜」事件後には大使を相互に召還したほど険悪だったという.
米国政府は言論の自由や人権を侵害し,ユダヤ人を弾圧し,国際法を蹂躙して侵略を行ったナチスを,許すべからざる存在と見て,参戦を辞さない決意を固めていたという.
(『真珠湾への道』(大杉一雄著,講談社,2003.7.25),p.294-295)
そこから考えれば,米国政府は日米開戦が仮になかったとしても,何かのきっかけでナチスを打倒するにじゅうぶん過ぎる数の兵力を派遣しただろう可能性は高い.
【質問】
以下は本当ですか?
――――――
〔米国〕世論はそれまでアメリカが国是としてきた一国平和の「孤立主義」を圧倒的に支持していた.
ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発.
ドイツ軍がフランスを降伏させ,イギリスが危機にあっても,他国の戦争への介入などもってのほかという状態だった.
――――――小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.231
【回答】
どうやら誤りであるようです.
大杉一雄に寄れば,当時のアメリカ世論については,以下のように述べられています.
――――――
〔1940年〕9月2日,米旧式駆逐艦50隻と大西洋西岸の英領基地との交換協定が締結されたが,これが国際法上,中立を逸脱していたことは明白とされる(1907年<中立に関する>ハーグ条約違反.大沼保昭『戦争責任論序説』).
したがって駆逐艦交換協定は孤立主義者から激しい批判を浴びたが,これに対する米国政府の立場は,侵略戦争は国際連盟規約,9ヶ国条約,不戦条約等の国際法上違法であり,侵略国は放置すべきではなく,これを制裁さらには打倒すると共に,被侵略国は援助すべきであるとしていた.
ドイツの隣接諸国に対する相次ぐ中立侵犯を目の当たりにし,今や中立では国を守ることはできないとし,同じ民主主義国,英仏援助の必要を説く政策は,多数の国民にアピールするところとなった.
10月15日公開されたチャップリン映画『独裁者』は,孤立主義のハースト系新聞から不評を買ったが,興行的には大成功を収め,国民の間に反ナチ感情が浸透していった.
――――――『真珠湾への道』(大杉一雄著,講談社,2003.7.25),p.210
したがってこの記述を信頼するとするならば,
>他国の戦争への介入などもってのほかという状態だった
など,
「どこの国の話?」
ということになるでしょう.
ちなみに大杉は,同書で次のようにも述べています.
――――――
すなわち米独間の民主主義対全体主義のイデオロギーの対立は,抜き差しならぬところまで来ており,しかもそれは世界制覇を巡る米独の国家的利害と関わっていたのである.
このころ日本国内では,米国のこのようなドイツ観を指摘する者はおらず,英米派の石橋湛山ですら,独米間には実質的な争点はなく,
「独米衝突は,一転して独米提携を打ち出す可能性も考えられる」
という理解であった(「英独戦終了後の欧州――独米提携亦不可能ならず」『新報』40年9月7日号).
これこそ日米パーセプション・ギャップの最たるものであったといえよう.
このような米国のナチスに対する厳しい態度について認識不足の日本が,慌ただしくドイツと同盟したところに問題があり,日本はナチスと同類の「ならず者国家」の一味となったとされ,日独伊枢軸はまさに文字通り,現在言うところの「悪の枢軸」とみなされたのである.
――――――同,p.211
小林よしのりの認識には,まるで1940年で時間が停止しているかのような印象を受けます.
▼ 【反論】
米国「世論」は真珠湾奇襲まで,ヨーロッパの戦争に参戦することに反対していたというのは,一般的に言われていることでは.
米国政府は,連合国を支援する手立てをいろいろと講じてはいますが.
オンラインで読めた,1940年7月の世論調査.
8割近くが参戦に反対している↓
――――――
http://poq.oxfordjournals.org/content/4/3/387.full.pdf
If the question of the United States going to war against Germany and Italy came up for a national vote within the next two or three weeks, would you vote to go into the war or stay out of the war? (July 3, 1940)
Go in 13%
Stay out 79
Don't know 8
――――――
バグってハニー in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年07月28日
06:05
青文字:加筆改修部分
▲
▼ まあ,上述の大杉一雄の記述は,このアンケートの行われた1940年7月より後の状況について述べられているわけですが.▲
▼ 同じ人物による同じ質問に対する1940年7月以降の世論調査の結果も調べてみました.
ドイツに対する宣戦布告に賛成すると答えたのは
1941年1月 14 %
1941年4月 22 %
1941年6月 29 %
じわりと数字は挙がってますけど,3割を超えることはありませんでした.
7割の人は参戦に反対です.
一方で,同じく7割の人々は,ナチス・ヒトラーはなんとしてでも打倒すべきだと考えていたようですが.
ソース:Steven Casey. Cautious crusade: Franklin
D. Roosevelt, American public opinion, and
the war against Nazi Germany. 2001. p. 30
2011年09月03日 05:27 バグってハニー
当時のアメリカの世論調査のやり方には無知ですが,Yes/No的な2択なのでしょうか.
Not in favorは必ずしもoppositeとは言えないのでは?という素朴な疑問ですが.
2011年09月03日 23:48 HASU
3択です.設問と答は既出です.
1940年7月以降の結果は,「参戦すべきでない」や「わからない」と答えた人の割合が書いてなかったのですが,同書によると,1941年10月,ルーズベルトはハリファックス卿駐米英大使に,
「(1)7割のアメリカ人は参戦を望んでいない.
(2)7割のアメリカ人はヒトラーを倒したいと思っている,たとえそれが戦争を意味するとしても.
この2つの要素の間で,いかに舵を取るかが悩みの種だ」
と語ったとされています(ハリファックスからチャーチルへの電信).
ちなみに,当時はちょうど現代的な世論調査が行われるようになった時期みたいです.
ルーズベルトは,後のギャラップ調査のジョージ・ギャラップや,世論調査研究の草分けハドレー・キャントリルの調査を活用したそうです.
2011年09月07日 07:23 バグってハニー
以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
第二次大戦中の米軍兵器の生産管理手法はどのような物だったのでしょうか?
なるべく具体的に教えて下さい.
【回答】
戦前の自動車や電化製品の部品の互換性向上,作業標準化を各産業が応用し,限定された種類の製品を大量生産するシステムが生まれています.
また,工作機械の操作は,単能機械の電化が進んだため,比較的容易になりました.
これを受けて,労働過程の細分化や単純化を進め,時間=動作研究に基づいた作業分析を行い,労働者の適正な配置を行っています.
具体的には,非熟練労働者を有効活用すべく,可能な限り小さな組立てに分割するサブ組立方式が発達します.
これにより,組立てに必要とされる熟練のレベルが大きく下がり,労働者の職業訓練期間が短くなりました.
部分組立はそれぞれ,本工場ではないフィーダープラントで行われ,それには本工場から指導員が派遣されたほか,フォーディズムの導入は積極的に図られる事になります.
また航空機工場の場合,生産に際しての教育は,数週間(日本では1週間ほど)の教育が行われ,リベット工として作業に従事,その後,溶接工に進む過程と,板金を打ち抜き,ヤスリを掛ける作業から入り,ドリルプレス工へと進み,更に教育を受ける事で検査工やフライス盤を操作する機械工に進んで行きます.
メーカー同士も生産ノウハウを共有するため,主要会社同士で構成される生産協議会が設立され,主要機種の生産融通や,部品の共有化,互換性の向上を図っています.
工場内では,男女混合作業チームを作り,体力を要する「男性の仕事」と,それ以外の「女性の仕事」を切り離す試みも行われています.
女性の組み立て工のグループに肉体労働専門の非熟練男性労働者を配し,資材運搬や部品運搬を彼等に担当させ,女性は組立てに専念すると言った手法も採られています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
女性工員
(画像掲示板より引用)
【質問】
米軍の総兵力数は?
【回答】
戦争全期間でおよそ1600万人,戦争末期のアメリカ軍の総数が1100万人(いずれも概数)だと,ライフ第2次世界大戦シリーズの『戦時下のアメリカ』に書いてあった.
軍事板
【質問】
大戦期の米国では,被動員人的資源の枯渇は発生しなかったのでしょうか?
新卒でも徴兵猶予でも徴兵逃れでもない,特に不健康等の理由がなく徴兵されなかった人はいるのか?という質問です.
【回答】
それなりに枯渇は発生しています.
1942年10月の大統領令まで,選抜徴兵制度が戦時人的資源委員会の傘下に収まるまで,屡々,産業界と軍との間に緊張関係が生まれています.
この戦時人的資源委員会の地方支部が,合衆国雇用サービスですが,この機関は戦時人的資源委員会の要請に基づき,重点的に労働者を動員する必要のある工場や職種の優先付を行い,優先順位に基づいて求職者に仕事を斡旋しています.
また,選抜徴兵法の下で登録している18~65歳の男性を分類する権限を持ち,徴兵の対象とならない男性には,重点産業を中心に就業を勧めると共に,各地域で食糧生産に従事する農民の数を調整していました.
さらに合衆国雇用サービスは,1942~43年前半まで,全国44箇所で地域雇用安定計画を導入し,軍需産業の拡大により,労働力の不足が深刻化している地域での雇用調整を行い,危急産業に従事している労働者は,合衆国雇用サービスの承諾がなければ転職出来ない様になっていきます.
兵員との関係では,当初は重点産業の労働者は徴兵が猶予され,選抜徴兵委員会と交渉して熟練工の徴兵を見合わせて貰っていましたが,戦争の進展につれて,即ち戦線の拡大につれて,兵士として徴兵される工員が増え,労働力不足に陥っています.
1942年8月の時点で,カリフォルニアの航空機工場の徴兵数は3,500名に達し,その年の徴兵数は15,000名に達しており,また,ノースアメリカンの場合,技術者の37%,機械工の24%,検査工の23%が徴兵対象となっていました.
これに対応する為,陸海軍は30日~6ヶ月の徴兵猶予を決めていましたが,それでも生産ラインの維持には限度があり,徴兵された男性で妻や娘がいれば,彼女たちに求職票を書かせる慣行が出来ていったりします.
また,女性達や黒人などの求職や徴用も盛んに実施されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次大戦中のアメリカって徴兵制ですか?
何歳以上から強制徴収ですか? 配属って志願は通りますか?
【回答】
1940年9月に選抜徴兵法が制定され,制度的な準備が整えられています.
従って,徴兵制と言えます.
その制定当初は,独立した存在でしたが,1942年4月の大統領令によって,戦時人的資源委員会(WMC)が設置され,10月に選抜徴兵制度がその下部組織に置かれます.
但し,その実施に際して,毎月の徴兵数は直接軍当局が関与し,地域の徴兵委員会に割り当てられ,戦時生産,民需,兵員充足の三つの計画がなかなか揃わず,WMCと屡々紛争を起こしています.
結果的に,1943年末から選抜徴兵制度は,WMCの枠を離れた独立機関となりました.
その選抜徴兵法では,18~65歳の男子を登録しており,その中から兵役に適さない人間を重点産業や食糧生産に従事する農民として調整しています.
配属に関しては,何とも言えません.
必要な所に配分されると言う形を経ているためです.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
米軍には黒人兵部隊もあったの?
【回答】
それはあった.
第二次大戦時米軍には約25万名の黒人兵がいたが,補給や建設,危険度や疲労が高い割りに日のあたらない弾薬輸送など非戦闘任務についていた割合が高かった.
当時の偏見として戦場は白人の男がその勇気を示す場所だから,臆病で信用できない黒人は後方任務で充分と思われてたわけ.
また,(現代のガタイのいいブラザー像からあんまし想像がつかないが,)栄養状態の不良が原因で身体的に徴兵検査を撥ねられる割合が高かったらしい.
全般的な前線勤務率は低く,黒人運動の指導者が「黒人兵を名誉ある前線任務に就かせろ!」運動をしたぐらいだった.
欧州戦線には黒人兵の師団が派遣されたが,その戦績は芳しいものではなかった.
ただし,イタリアで爆撃機護衛任務についていた黒人兵の戦闘機隊「ブラックイーグルス」は勇猛さで名高かった.
あと,硫黄島の守備隊の話では,始めに上陸して来たのは肌の色が黒いのと赤いので,戦闘が一段落したら白いのがやってきたということだが,米軍側では,硫黄島では事前に猛砲撃を加えたので,上陸時の日本軍の抵抗は微弱と思われていたために起きた事.
「黒人兵が弾除け代わりにされた」
というのは俗説に過ぎない.
そもそも,弾除け代わりの兵士などという発想は負けている側のもので,優位な状況ならできるだけ強力な兵力を送り込み,橋頭堡の迅速な拡大を狙うもの.
詳しくは
『二次大戦下の「アメリカ民主主義」―総力戦の中の自由』
参照.
日系人問題・黒人問題について詳しく扱われている.
unknown
&軍事板,2005/09/18(日)(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次大戦中,米軍内に黒人差別はなかったのか?
【回答】
米軍は,南部で行われていた黒人隔離制度を全面的に採用し,ひどい差別を行った.
そのために暴動も起きている.
そもそも志願しても黒人は門前払いされることのほうが多かったし,逆に嫌がらせのためにわざと黒人を徴兵するようなこともあったという.
以下引用.
------------
現在93歳の米歴史学者のフランクリン(John H. Franklin.1915年~)が昨年12月に上梓した自伝'Mirror to America. The Autobiography of John Hope Franklin. Farrar, Straus & Giroux, Dec. 2005’には,黒人差別社会である米国を生き抜いてきた一人の黒人知識人の力強い歩みが記されています.
〔略〕
フランクリンは,黒人として初めてハーバード大学で歴史学のPh.Dを取得し,黒人として初めて白人向け大学でテニュア(tenure)付き教授に就任し,その後,シカゴ大学とデユーク大学の教授を歴任した人物であり,1947年に初めて上梓されてから何度も改訂されてきた,彼の主著の’From Slavery to Freedom. A History of African Americans‘は300万部以上売れたベストセラーです.
〔略〕
先の大戦時には黒人は米軍でひどい差別を受けていました.
当時の米軍は,南部で行われていた黒人隔離制度を全面的に採用したのです.
しかも,米軍は,黒人隔離を米軍内で行っただけではなく,米兵が稼業外生活を楽しむ街の中にまで普及させたのです.
黒人兵は兵舎も別,訓練も別でそれだけでも米軍の運用に足かせになっただけでなく,兵員数の確保が至上命題であったというのに,隔離兵舎の整備等が追いつかなかったため,徴兵されるべき黒人の多くは徴兵免除になりましたし,志願した黒人の多くは門前払いをくらったのです.
兵士になった黒人には過酷な運命が待ち受けていました.
白人の士官からは虐待され,駐屯先の街では嫌がらせを受けたのです.
ドイツ兵捕虜の方がずっとマシな取り扱いを受けたものです.
やがて,米軍内の各所で黒人兵による暴動が起きたのは当然のことでした.
------------
さて,フランクリンは,陸軍に徴兵されたらひどい目に遭うことが分かっていたので,海軍を志願することにしました.
真珠湾攻撃を受けた直後で,海軍は能力ある若者を集めようと必死になっていました.
募集担当官はフランクリンの志願書を見て驚嘆しました.速記ができてタイプも一分間に75字印字できる上にハーバード大学の博士号を持っていたのですから.
しかし,募集担当官は一言つぶやいただけでした.
「君は一つの重要な資格要件を欠いている.それは肌の色だ」
と.
そこで,フランクリンは次に陸軍省に志願先を切り替えました.ハーバードの中退生等を集めて公式の戦史を編纂しようとしていたからです.
彼は既に歴史の本を書き上げ,印刷に回したばかりでしたし,その上,ローズベルト大統領夫人の口添えも頼んだのですが,採用には至りませんでした.
フランクリンの兄はもっと悲惨な経験をしました.
黒人虐めを旨とした地方の徴兵委員会によって,30歳を超えていて結婚もしていた高校教頭の兄は徴兵され,入隊後白人士官にいじめ抜かれたために,精神に変調を来し,二度と快復することがありませんでした.
この兄は戦後すぐの1947年に,ホテルの窓から落ちて(飛び降りて?)亡くなっており,フランクリンは,これは事実上殺人であったと主張しています.
4 感想
フランクリンの自伝に対するNYタイムスの書評兼論説(NYタイムス上掲)は,米国の「栄光の」歴史は今や全面的に修正主義的見方による批判的洗礼を受けているけれど,先の大戦だけはその例外であり,先の大戦における米国の役割は依然褒め称えられ続けているとしつつ,先の大戦当時の米国でひどい人種差別が横行していたことを決して忘れてはならないと述べています.
その上でこの書評兼論説は,これは栄光の陰のささいな恥部などというものではなく,政府によって実施された人種差別主義は先の大戦の核心的部分に関わる問題であって,戦争遂行の努力を阻害しただけでなく,当時の米国社会における人種差別を増幅し,黒人達に快復不可能な傷を与えたのであって,このことを忘れることは犯罪行為の上塗りである,と言い切っています.
【質問】
先の大戦中の米軍には,米国人以外の将兵はたくさんいたんですか?
日系人部隊ってのは知ってますが,米市民権を持った日系人ですよね.
外国人となると・・・・・・?
【回答】
第二次大戦のアメリカの徴兵制度は,1917年の選抜徴兵制に基づきます.
徴兵登録して,名簿にある人を引っ張ると.
登録するのはアメリカの国籍を持つか,永住権のある人です.
ですので「滞在しているだけの外国人」であれば,徴兵登録そのものがされません.
母国の徴兵義務もありますし.なので「外国人」であれば志願で従軍したことになります.
日系人部隊はみな志願です.
なにせ日系人全体が敵性外国人で強制収容されましたから.
どっかの馬鹿が「アメリカでは兵役を果たして,市民権を得るのが普通です」とか脳内妄想を並べてますが,年間で30万から50万の人間が移民してくるのに,いちいち兵役に就かせていたら軍隊が機能しません.
市民権と永住権との区別がありますが,永住権を持っていれば国籍がなくても,徴兵登録の義務がありますので,日本人でも徴兵の可能性はあります.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
アメリカの「選択徴兵登録」では,観光ビザで入国した人が徴兵されることは無かったのですか?
下記の記述は嘘なのでしょうか?
http://www.susumu-sakaguchi.com/comment_link/coment03-09.htm
霞ヶ浦の住人 ◆SJ6H1biwJ2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【回答】
リンク先をちゃんと読みましたか?
>「日本人留学生に対してもベトナム戦争に参加すると,永住権を与えるという条件が出された」
志願制ですね.
「私は徴兵されない成績を常にキープし続けた」
「坂口さんは12才の時にアメリカに移住されたそうですが,初めて見たアメリカの印象はどうでしたか?」
http://blog.white-gallery.com/article/6386066.html
1956年,12歳のときアメリカ合衆国に移住し,ロサンゼルスのダウンタウンで育った.
http://vsm1997.exblog.jp/5384919/
移住してんじゃん.
ふみ in 軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
記憶書込ですのでなんですが,『丸』の巻末に回想記があったのをご存じでしょうが,3~40年前のに,ベトナム戦当時留学していたら,徴兵カード?が来てそれに応じて行った人が手記を出していました.
留学生の場合も徴兵が来たそうですが,学業が終われば最終的に国に帰るという理由などで拒否できたそうです.
娯楽センターの警護に当たったそうですが,ほとんどが徴兵.
志願兵なんていると,あいつらだけで「戦争すればいいんだ!」という感じだったようです.
(その時点では周りの人に,まだ,エイリアン(外国籍:隊に新兵ではラテンアメリカなど数人)だと知られていなかったようです)
部外者 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
アメリカのイタリア系移民は戦時中,イタリア側に味方したりしなかったの?
【回答】
イタリア移民のファシスト団体とかはあったが,開戦後に解散させられてる.
移民とはいっても二世三世になれば,アメリカ市民としての意識は確立してるので,祖国をファシズムから解放するために喜んで戦地に赴いた者も多い.
あと,マフィアはムッソリーニ政権下で厳しく取り締まられていたので,ファシスタ党には激しい敵意を抱いていた.
有名なラッキー・ルチアーノなどは,シチリア島のマフィアに情報提供などで米軍に協力させていた.
そのため,一時は衰退しかかっていたマフィアは戦後,また勢力を盛り返したりしている.
軍事板
【質問】
軍法会議のシステムに興味があります.
国によってかなり違うようですが,アメリカもしくは旧軍でお願いします.
例として怠慢行為で大損害を出した師団長を起訴するとしますが,一般裁判なら検察に相当する部門は何という役職の人でどこに属しているのでしょうか?
また,判事は(法務官ではない)軍人が勤めるのでしょうか?
それとも専門の法務官でしょうか?
判事は何処に属しているのでしょうか?
海外の映画などでは,両方のケースを見たことがあります.
【回答】
第二次大戦中の米軍の場合は,大きなものであれば,Court
Martial(軍法会議)で行います.
これには,陸軍軍法会議と,海軍軍法会議とがあり,主に軍人と軍属について軍の規律に反する犯罪について裁判します.
犯罪の種類は法律によって制限されています.
怠慢行為で大損害を出した師団長の場合という例示ですが,一番有名なのは,第二次大戦末期の巡洋艦インディアナポリスの撃沈に関する査問会がそれに該当すると言えるでしょう.
査問会は,艦長の場合,艦隊司令官クラスが査問委員長となり,査問委員には戦域指揮官クラスの人物が2名選出されます.
そして,法廷において検察官,法律顧問,書記相当の仕事をする調査官には参謀クラスが1名選出され,彼が事件の細部を捜査する指揮を執ります.
査問会は,準被告人と言える「関係人」を招致しますが,この関係人は,全ての法廷に出席し,全ての証言を聞く権利を持ち,また,弁護人と相談する権利を持ちます.
各人は証言を行い,調査官の手によって事実を再構成し,最終的に査問委員と委員長の合議で,審決を下します.
陸軍の場合はMilitary Council(軍事委員会)と言うもので,最高司令官たる大統領権限で設けられるものですが,その委任で軍の司令官が招致する場合もあります.
これは司法権ではなく,行政権の執行で,判決に際しては上級審への上告は出来ません.
ですので,判決に際しての判決理由もありませんし,司令官は法務官が審査し,その意見に従って,判決の認可と変更を行うと言う性格のものです.
軍法会議では,法務官が裁判全体の進行を管理し,検察官役を務め,法律を解釈します.
弁護士もいますし,陪審役として,将官クラス,上級将校クラスの判士団数名がいます.
判士団は,陪審役ではありますが,証人に対し質問するのは自由です.
普通に公開で審判が進められますが,この辺は米国の一般法廷と同じです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
WW2中のアメリカに於ける,血液代替品開発について教えられたし.
【回答】
連合国では,米国を中心に血液の代替品が多く生まれました.
それが血漿であり,乾燥血漿であり,アルブミンでした.
ただ,これらは原料が人の血液であることから,それが幾ら有っても足りない状態です.
確かに,献血運動は盛り上がって,市民からの血液提供は引きも切らない状態でしたが,それでも,戦場では瞬く間に使い尽され,そのうちこの市民からの提供でも足りなくなることが予想されていました.
また,今は献血運動が盛り上がっているから良いけれども,そのうち,戦争が長引いて人々がそれに飽きはじめると,熱気が下がるのもあっという間という問題もありました.
そこで,人の血液に代るものを探す必要に迫られました.
こうした考えが研究所全体に行き渡り,参加している大学や企業から提案が相次ぎました.
何しろ,その要求量は膨大であり,戦争が続く限りは,儲けを保障してくれる分野でもあったからです.
ノックスゼラチン社は,血液と同じ粘度で,抗ショック作用を持つゼラチンの提供を,自発的に申し入れ,カリフォルニア果実栽培協同組合は,柑橘類の果皮の内側の白い部分から取れる,液状炭水化物のペクチンを提供しました.
しかし,これらは,肝臓や腎臓に蓄積する事無しに,血管壁内に長く留まって血圧を維持する要求を満たしませんでした.
コーンが注目したのは,牛の血漿でした.
これは理想的な血液代用物に思われ,化学的に見ても牛の血漿は人の血漿に近く,原料は屠殺場から幾らでも入手出来ます.
その上,分画処理をすることで,人のアルブミンと変わらないアルブミンが取り出せました.
ボストンとミネアポリスで,ウシ・アルブミンの臨床試験が開始され,見込みのある結果が出ました.
1941年4月には,ハーヴァード大学のチャールズ・ジェーンウェイ博士が,30名以上の患者に24グラムのウシ・アルブミンを輸注した所,1名に僅かな副作用が出ただけだと言う報告をしています.
その後,1例に容器の汚染による悪寒が報告されたのを除いて,目立った副作用が全くなかったと言う実験結果を受け,臨床試験を拡大して,3,000名近くの受刑者や医学生のボランティアに,少量の皮下注射を行いましたが,有害なアレルギー反応が見られなかったことから,シカゴのアーマー社がコーンの指導の下でウシ・アルブミンを大量生産して軍用生産に備え,更なる臨床試験の為のテストサンプルを製造しました.
こうしてウシ・アルブミンは極めて有力な人血代替品として,将来を嘱望されましたが,1942年7月に,62歳の男性が輸注の10日後に,発熱,貧血,皮膚の変色,蚯蚓脹れを起こして,暗雲が漂います.
コーンはその反応を起こした原因をあれこれ考えると,遅延型免疫反応が出ない様に細心の注意を払って,処理過程に修正を加え,当初より純粋で20倍以上安定なアルブミンを作ろうとしました.
ところが,そんな修正を加えた頃,研究メンバーがマサチューセッツ州のノーフォーク刑務所で,刑期の軽減を交換条件に受刑者のボランティアを募って実験を行っていた所,輸注を受けた66名の内,21名に同じような遅延反応が出て,筋肉痛,貧血,蚯蚓脹れを起こしました.
その内の1名は,極めて重度の反応が出て,輸注の19日後に発熱,腰痛が出て,その8日後になると目覚めた後急死してしまいます.
死後解剖の結果,心肥大による心臓発作が原因での死亡が確認されます.
心肥大と言うのは,免疫反応の徴候です.
10月19日,この実験の検討会議が開かれ,コーンはプロジェクトマネージャーとして,全ての責任を取って辞任すると申し出ましたが,同僚達はこれに同意せず,それどころか,集まった者達は,計画を進めることを主張しました.
因みに,海軍の責任者であるスティーブンソン大佐も,受刑者の犠牲は,「医学の歴史の優れて英雄的な一例」であると記録に残しています.
会議のメンバー達は,研究続行の為に解決策の実行を採決しましたが,コーンはウシ・アルブミンをボランティアに用いる研究を全て中断する決断を下しました.
こうして,ウシ・アルブミンの臨床実験は中止されたのです.
そんなことを行っている間にも,血液処理の機械は休み無く働き続けました.
7社のプラントからアルブミンが生産され,9社で乾燥血漿が生産されました.
そして,赤十字はそれらのプラントに何百万パイントの血液を供給し続けました.
一方,コーンの研究所では,それまで廃棄されていた分画から,新たな産物を作り出しました.
その1つが免疫物質のガンマグロブリンで,当時,軍の基地で悩みの種であったお多福風邪と麻疹に,特に効果的でした.
別の分画からは,血液型を判定する試薬が開発され,更に別の分画からは繊維素膜と繊維素泡が開発され,脳外科手術の際の止血用に用いられました.
この様に,血液の需要は益々拡大し,軍部は必要な輸血用血液を10万パイントと当初見込んでいましたが,その見込みは大幅に外れ,1943年末までに乾燥血漿250万単位とアルブミンアンプル125,000本を受け取りました.
それでも,戦場で兵士達を診ている軍医達はこれでも十分ではないと報告する様になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/13 22:24
【質問】
米軍の野戦病院に於ける,輸血の実態について教えられたし.
【回答】
血液の需要は益々拡大し,軍部は必要な輸血用血液を10万パイントと当初見込んでいましたが,その見込みは大幅に外れ,1943年末までに乾燥血漿250万単位とアルブミンアンプル125,000本を受け取りました.
それでも,戦場で兵士達を診ている軍医達はこれでも十分ではないと報告する様になります.
こうした戦場の実態を調査していたのが,コーンの同業者であるエドワード・チャーチルです.
チャーチルはハーヴァード大学及びマサチューセッツ総合病院の外科学教授で,1943年春,陸軍の「巡察顧問」の一員として,北アフリカの米軍を検分しました.
戦時中に於ける米国の研究の強みというのは,政府が戦地に設備を急送すると共に,研究者を前線に送り込み,その成果を評価させたことです.
新兵器や技術が届く度に,戦地のエンジニアが点検を行って欠陥や故障があれば報告をし,それを受けて本国の技術者は設計を修正します.
同様に,医療技術の分野でも,その分析をする医療顧問団が派遣されました.
その派遣顧問団は,最高レベルの大学や病院から集められた,胸部外科,形成外科,脳外科,眼科,耳鼻咽喉科,その他いくつかの特定疾患など様々な分野の代表的な専門医達でした.
顧問達は,謂わば,軍医の肩越しに医療の現状を覗き込んで観察と批評を行うのです.
そして,戦場で活動する軍医達には,自らの持つ最高の処置法を紹介し,文書を回してその処置を標準化し,最新の医療について語るセミナーを行って,最新状況に聾桟敷に置かれている軍医の知識向上に努めています.
時には,自ら執刀することもありました.
しかし,この顧問団派遣は屡々軋轢を生み出しました.
軍隊で仕事をしている人間達に取ってみれば,顧問には直接の権限も何も無く,それが一端の命令をしてくるのに我慢出来ない人もいたからです.
それでも彼らは,助言をして実際に命を救うことで次第に尊敬を勝ち取り,遂には賞賛される様になりました.
てことで,明日は何も無ければ,戦場外科の話何ぞ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/13 22:24
さて,今週から戦場外科の話に入ってきています.
特に血漿などがどのくらい効果を上げているかを調査したのが,エドワード・チャーチルと言う人です.
そのチャーチルですが,胸部外科の専門医で,胸部手術の分野で新しい術式を幾つか開発し,国際的な評価を確立すると共に,マサチューセッツ総合病院の外科の組織を効率的に改善し,それは現代病院に於ける外科組織の原型となっています.
こうした民間人としての業績を上げていたチャーチルですが,第1次大戦には医学生であったことで兵役を免除されます.
当時,兵役免除の医学生は,医学の象徴であるヘルメスの杖を象った銅のバッジを付けていたのですが,ある日,友人達と一緒に映画館の通路を歩いていると,バッジに気がつかなかった観客から徴兵忌避者と間違われて野次を飛ばされ,それが長らくトラウマになっていたと言います.
第二次世界大戦が始まり,米国が戦争に参加すると,目に付いた最初の機会に進んで名乗りを上げ,1943年春に大佐待遇となり,北アフリカ・地中海戦域の外科顧問に就任します.
そして,欧州で最初に米軍が実戦に参加したトーチ作戦に参加しました.
ところが,戦地医療の分野では,外科は相当長い間,一般の外科手術と違って粗雑であると見做されていました.
スペイン戦争の際に,フェデリコ・デュラン・ホルダとホセ・トルエッタの両医師により,外科医が負傷兵を系統的に選別すると言う,所謂トリアージの手法を開発していましたが,それは米国軍医学界には導入されておらず,相変わらず,戦地に赴く外科医は,自分がそれまでに修得した一般の医療技術を応用するのが普通でした.
ところが,戦場では現在までに自分たちが習得した技術と質的に全く違う状況に置かれました.
本国では何でも無い喉の感染や「塹壕足炎」と呼ばれる凍傷に似た真菌症が流行病となりましたし,怪我の程度も,民間の医師が扱う様な,喧嘩で刺されたとか,銃で撃たれたと言う程度の傷では無く,爆弾に吹き飛ばされてぐちゃぐちゃになったり,機関銃の弾を嵐の様に浴びてズタズタになって死亡する者が日常的に出る流血の現場でした.
民間から来た医師達は,『私はデトロイト救急病院で長年働いているので,怪我の扱いには慣れている』と言う様な認識で戦場に来ることが多かったりするのですが,ここではそれは通用しません.
高初速で発射される弾丸の破壊力は単なる鉄砲傷とは違いますし,時間が治療の重大な因子となるなど,戦時の外科医療を本質的に特殊な物にする様々な要素を全く知りません.
とは言え,戦地の外科医療は,外科の基準から外れた粗雑な医療では無く,疫病の様な規模の外傷を相手にする外科医療と見做すべきなのです.
この様な観点から,チャーチルの最初の仕事は,戦場に初めて動員された民間出身の軍医達に新しい技法を幾つか教えることでした.
今までは,前線に近い野戦病院や医療班が待機する包帯所に負傷兵が運び込まれると,傷口を洗浄して十分に手当を行い,ギプス包帯をきっちり巻いていました.
ギプス包帯を巻くのは,後方の病院に輸送した際に縫合した所が開かない様にする為でした.
しかし,チャーチルが調査した所,ギプスは組織が腫脹すると血液循環を妨げる為に,益になるより寧ろ害になっていると軍医達に告げ,医師達に,組織が膨らんでも支障の無い分割型のギプスを紹介しました.
またチャーチルは,負傷した兵士を直ぐに手術せず,何時間かそのままにしておくと言うやり方も変えさせました.
この方法は,負傷兵がそうして安静にさせておくことで容態が安定するのだと長い間信じられていましたが,チャーチル達は他の顧問達と一緒に,それは症状が安定するのでは無く,衰弱しているのだと指摘し,軍医達を説得して出来るだけ早く手術を開始する様にやり方を変えさせたのです.
そして,チャーチルが最も気に掛けたものの一つが,輸血に血漿を使用することでした.
確かに血漿の評判はチャーチルも知っていましたが,利点が誇張されている様な気がしたのです.
そして,実際に野戦病院を次から次に回っていくと,血漿やアルブミンは決して万能薬では無く,一時的な効果しか無い様に思えてきました.
何時間も血漿輸血で生命を維持している兵士達は,戦地の医師達が「空気飢餓」と呼んでいる,頻脈と特徴的な呼吸困難が見られる状態に陥りました.
そして,酸素不足の為に臓器が衰弱し始めます.
衰弱が進むと手術が出来なくなる可能性がありました.
基本的に,手術と言うのは人間の身体に大きな負担を掛けるものだからです.
確かに血漿やアルブミンと言うのは血管を満たすのには役に立ちます.
しかし,その中には人間の身体全体に酸素を運搬する最も重要な任務を持つ,赤血球が含まれていません.
従って,血漿やアルブミンは,血液の体積を回復して差し迫ったショックを回避する手段にはなり得ますが,身体が要求し続ける酸素を供給することが出来ない為,血漿で生命を維持している患者は手術中に二次ショックに陥る可能性が極めて高い状態に置かれていました.
これに対処するのはただ一つ,全血輸血を行うしか有りません.
結局,最初の問題に行き着き,どうやって全血を確保するのかと言う話になります.
米国では,血漿や血液製剤の万能神話が知れ渡ったことから,米軍では皮肉なことに赤血球を含む輸血用の血液が全く送られてきていませんでした.
この為,全血輸血が必要な場合,周囲にいる人達が旧来の方法で供血者を探し回ると言ういつもの光景が繰返されていたのです.
北アフリカでその光景をある従軍看護婦が描いています.
――――――
衛生兵達は供血出来るだけの血液を全て提供した.
看護婦達も供血を申し出たが断られた.
医師達は供血出来ない…一人残らず働き続けなければならないからだ….
ワイリー大佐が解決策を思いついた.
軍需品部と補給部に連絡して供血を頼んだのだ.
2時間もしないうちに30人が送り込まれてきた.
彼らには空いているテントで待機して貰い,血液が必要になると呼び出した.
――――――
時には医師が自分の血液を使うこともありました.
オハイオ州出身のケネス・ラウリー医師は,弟のフォレストと共にチュニジアのガフサで医療班に所属していました.
ラウリーは彼の救護所に来たチャーチルに,戦地の医療状況を記録した日誌を見せました.
1943年2月2日の項にはこうあります.
――――――
我々はあらゆる種類の手術をした.
胸部や腹部の外傷,複雑骨折,それに腕や脚や足の切断.
今のところ死亡例は左の脚と腿に多数の外傷が有って,腿の下3分の1から切断した1例だけだ.
血漿と血液500ccと大量の葡萄糖を使ったが,重度のショック状態が続いていた.
手術でショック状態が悪化することは無かったが,改善もしなかった.
もっと血液があれば助かったかも知れない.
血液は極めて貴重で,どうしても必要だ.
手に入るのは此処の人員の血液だけで,皆進んで提供しているが,その血液は,本当は長い間不眠不休で働く彼ら自身に必要なものだ.
昨晩は天晴れな海兵隊員に血を提供できる人間が見つからなかった.
重度のショックで,血漿と葡萄糖に追加する者が必要だった.
それでフロスティ(弟フォレストのこと)が自分の血を提供し,少し休んで又手術を続けた.
――――――
チャーチルが訪問した翌日,ラウリーは手紙にこう書いています.
――――――
もう1つ,此処の様子を付け加えておきたい.
乾燥血漿は,それが無ければ死亡していたに違いない人達を何百人も救っている.
全血の方が望ましいのは勿論だが,全血は入手が困難だ.
――――――
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/14 23:04
【質問】
WW2の米軍では,違法薬物の人気はどんなもんだったのでしょうか?
【回答】
軍隊で人気のある違法薬物は圧倒的に覚醒剤.
ただ,これは「覚醒剤」と兵士本人に知らせず軍が使いまくるもので,自覚的に覚醒剤に手を出す兵士は少ない.
第二次大戦に関して言えば,米軍で深刻だったのは何よりもアルコール中毒(依存症)で,次がモルヒネ中毒.
あとは性病.
アルコール度数の強い酒をがぶ飲みするものが続出していた.
更に,後方の兵舎から前線の塹壕まで,密造酒作るのが大流行してた.
前線では,糧食にある桃の缶詰を発酵させて,手製の蒸留装置(墜落した飛行機の部品パクって来て作るのが,セオリーだったとか)でブランデー造るのが流行った.
Cレーションのメニューには桃缶はないが,10in1レーションには開きスペースに,メニュー以外のフルーツの缶詰が入れられたこともあったという.
また,10in1レーションのメニューにフルーツの缶詰があったようだ(何のフルーツかは不明だが)
フルーツの缶詰として桃缶が10in1レーションに入ってた可能性は高い.
この密造ブランデー,酒に弱い人だと「水筒のキャップ一杯飲んだだけ」で倒れるようなシロモノで,愛称も「ガツンと一発」(英語で何というのか忘れた)という名前がついてたほど.
これを水筒に常に入れて常に飲んでるような兵士が,普通にいたそうである.
軍事板
青文字:加筆改修部分
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