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◆◆連合国側勢力
<◆総記
<欧州方面・目次
<第2次世界大戦

【質問】
第一次世界大戦後,英仏はドイツにどのように対応しようとしたのか?
【回答】
以下に箇条書きしてみる.
A.フランスはドイツが再び台頭できないという軍事的保証を求めていた.
B.フランスはイギリスに安全保障を求め,ドイツが復興した場合の軍事的準備を望んだが「侵略者を事前に想定するのは集団的安全保障に反する」「フランスはドイツより強い」という観点からイギリスは抵抗した.
C.そのイギリスはドイツ人を「ヨーロッパ協調」に戻すべきである,という視点から宥和政策を考えていた.
D.フランスはそうしたイギリスの議論に動かされることなく,ポーランド・ユーゴスラビア・チェコスロバキア・ルーマニアとの小協商と同盟を結んだ.(これは,バランスオブパワーの点からしても誤りであった)
E.フランスは,ドイツの賠償支払いが遅れると,軍隊を派遣して,支払いがなされるまで工業地帯であるルール地方を占拠した.(そのため,ドイツは途方もないインフレに悩まされることになった)
Eは間違いなくヒトラーの台頭に貢献しただろうと思う.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
連合国側のアルミニウム確保状況は?
【回答】
一時は在庫が10日分を切る有様だったが,主としてオーストラリアの鉱山のものに頼った.
戦争という非常事態の下,製造原価を度外視してアルミナ収率85%という回収効率の良い生産方法がとられたという.
一方アフリカでは大戦勃発により,探査事業が中断している.
***
1937年,米国内務省が"Geological Survey
Bulletin 878"を発行しました.
この報告書は,1878年に設置したLaboratory
of the United States Department of the Interior(地質調査所)が,1879年から地質調査を開始し,1880〜1914年の間に2,789カ所の調査,1915〜1936年の間に1,533カ所の調査を実施した結果の概略報告書です.
この調査は州毎に実施され,鉱石の分析報告は凡そ,基本物質5種類,硫化物19種類,テルル化合物1種類,塩化物と弗化物8種類,酸化物19種類,炭酸化合物9種類,硅酸化物62種類,チタンの硅酸塩1種類,コロンビウム4種類,硼酸塩類7種類,窒素塩2種類,燐酸塩9種類,バナジウム塩類8種類,砒素塩1種類,硫酸塩21種類,モリブデン塩類その他7種類の合計183種類の岩石と鉱物の見本分析が表示され,米国の地表構造を為す鉱産物と品位が判る様になっています.
ボーキサイトの場合,アーカンサス州にAl2O336〜53%,SiO27〜38%のもの,ミシシッピ州にAl2O315〜59.6%,SiO22.75〜47%,ミズーリ州にAl2O331〜76%,SiO23.8〜40%などが報告されています.
ボーキサイトに関しては,米国には混合鉱を含む多種類の賦存が報告されていますが,巨大鉱床の報告はありません.
しかし,例え少数の鉱物の存在を明らかにする為でも,あの広い米国全土を股に掛けて鉱産物を調べる姿勢は凄まじいものがあります.
これは国家の持つ資源と資産としてだけではなく,将来の産業開発や国民の経済活動に必要な基本情報とも言うべきものです.
日本でも,こうした活動は太平洋戦争中に泥縄式で行った訳ですが,今では殆ど顧みられることはありません.
何しろ,輸入した方が安いですから.
でも,本来は安全保障の為にも,こうした情報はきちんと蓄積すべきではないでしょうか.
そう言えば,気象衛星にしても,気象庁で運用費が賄えないので維持がピンチになっているようですが,数億程度,何処かの天下り法人を潰してしまえば捻出出来るのではないでしょうかねぇ.
気象だって,十分な安全保障政策の一つなのですから,こうした所にお金を掛けないでどうしますか.
さて,本題に戻って,アルミニウム地金がアルミナを電解して商業的製品として生産され始める19世紀に,バイヤー法によるボーキサイトからのアルミナ製造技術が確立します.
こうして,欧州でBauxiteの確保が始まりますが,このBauxiteとは,フランスはアルル地方近郊のLes
Baux村で発見されたシリカと鉄分の比較的低い粘土に付けられた名前で,最初は窯業に用いられていました.
因みに,電解法が見つかるまでのアルミニウム地金は,塩化アルミニウムとナトリウムにより生産されており,この原料は明礬石だったりします.
この電解に用いる電力は水力が主です.
まぁ,「電気の缶詰」と異称のあるものですから,電気を目一杯用います.
ですから,火力発電で電解を行っていた会社は,安い欧州産(欧州では水力発電が主流)に勝てず,米国やカナダのアルミ精錬産業は,程なくナイアガラの滝にある電力会社の水力発電の電力を用いる事になります.
また,当初アルミナは米国での精錬業でも,欧州からの輸入でしたが,これも19世紀末にジョージア州とアラバマ州にボーキサイト鉱山を確保し,そこから原料を確保する様になりました.
ボーキサイト鉱物は,Gibbshite(三水和物),Boehmite(一水和物),Diasporeが自然界に存在し,更に特殊な条件で,Bayerite,Nord
Strandite,Tohditeが存在します.
Diasporeは一般に,アルミナ分が高く鉄分が極めて低く,焼成して耐火物や研削剤の原料として利用されますが,バイヤー法ではアルミナの抽出に膨大なエネルギーが必要です.
また,産出状態と母岩の種類では,terra rossa型とlaterite型に分けられます.
前者の母岩は石灰岩もしくはドロマイトでBoaehmiteが主体であり,結晶水は10%程度,後者の母岩は火成岩,変成岩類で,Gibbshite主体であり,結晶水は30%程度とされています.
しかし,この分類は極めて好い加減なもので,単独鉱床は少なく,混合型であり,母岩での分類も正確とは言いがたいものがあります.
欧州産のボーキサイトはBoaehmiteが主力だったり,Diasporeの混合鉱だったりして,実際に輸入してアルミナ抽出作業をしてみなければ判らなかったりします.
20世紀に入って,アルミニウム需要が急速に拡大すると,大量で均一なボーキサイトが必要となりました.
更に製造原価を下げるには,精錬メーカーは最も効果的なアルミナ分含有の高いボーキサイトを望みました.
Boehmiteの場合は,アルミナ理論値が85%なのですが,これはアルミナ抽出に高温高圧が必要で,シリカの種類によっては苛性ソーダ損失に大きな異動があり,所与の条件を更に複雑にしました.
次いで注目されたのが,Gibbshiteで理論値は65.4%と低いのですが,高アルミナ低シリカ,しかも低リアクティブシリカで,尚かつ赤泥の発生量を少なくする為に,鉄分が出来るだけ低いことが要件となりました.
其の上,輸送費用を逓減する為に,鉱山は海に近く,かつパナマックス,カナールサイズの大型船が停泊出来るのに十分な推進のある港が建設出来,ボーキサイトを現地でアルミナ加工出来る十分な鉱量があり,採掘費が充分安価であることが条件として加わり,更に,発展途上国(ジャマイカ,ギニア,ガーナなど)での様に,政情不安が起こらないこと….
こうして考えていくと,此の条件に合うボーキサイト鉱山は,豪州しかありません.
豪州では,Gibbshite鉱で低リアクティブシリカではありますが,低アルミナ高シリカの西豪州産ボーキサイトの生産革命が起きました.
最初は,採掘し輸送したボーキサイトのアルミナ分は,相手がどんな鉱石であれ,アルミナ分を出来るだけ抽出するプロセスを準備する,または,抽出する最高の条件で工場を操業する様にしていましたが,技術者達は発想の転換を行い,低温低圧の条件下で最も容易かつ最も低原価で抽出するアルミナ分を設定し,抽出しきれないアルミナは全部廃棄する方式を採ったのです.
元々,この生産方法は,1942年末にUボートの通商破壊戦により,南米産の船舶輸送によるボーキサイト供給が不安定になった際に,シリカ含有の高いアーカンサス州産ボーキサイトを利用する為に行った方法でした.
当時はアルミナ収率が70%だった工程に,更に赤泥中のアルミナとソーダを回収する工程を加えることで,アルミナ収率を85%に引き上げることが出来ています.
但し此の方法では,設備費用が非常に大きくなり,戦争という非常事態で製造原価を度外視して初めて実現し得た方法でした.
西豪州でこの方式が利用出来たのは,鉱石の輸送距離が短かったのと,未使用のボーキサイトを安全に貯鉱し,採掘前の元の状態に戻す作業を完璧に行う土地に恵まれたこと,苛性ソーダと熱エネルギー消費が低くて済んだこと,それにアルミナ工場を極大化しても,地金生産業者が多数あり,そちらに生産品を引き渡すことが出来たからだったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/06 21:50
太平洋戦争も末期になった,1944年,豪州では,Australian
Aluminium Production Committee(AAPC)と言う組織が発足しました.
元々,1936年に航空工業自主独立計画として,Commonwealth社を設立して,Wirraway練習機を手始めに,Boomerang戦闘機の量産,第二次大戦に突入してからは英国からの軍用機供給が途切れた為,航空機生産省が国内の工場を総動員して,3つの鉄道工場で最終組立をさせたBeufort爆撃機と,Beaufighter戦闘機,1927年に創立したDe
Havillandのオーストラリア支社が1942年からMosquito爆撃機を生産するなど,軍用機の生産が盛んになりました.
ところが,参戦当初は国内のアルミニウム圧延工場向けの地金が不足し,米国からの割当も未着で,国産地金を待望していました.
幸い,その初期の苦境はカナダから緊急援助2万トンの地金供給により凌ぐことが出来ましたが,一時は在庫が10日分を切る有様で,産業界の声に押され,遅れ馳せながら豪州政府も重い腰を上げ,1942年に4名の調査団が米国とカナダに送られてボーキサイトから地金生産までの資料収集を行い,更にそのうち2名は危険を押して,英国に渡り,スコットランドのLochaber,Kinlochleven,ウェールズのSwansea,イングランドのCheshireの各製錬所を訪問しました.
1943年,その調査団報告が提出され,アルミニウム製錬一貫工場を建設する費用として,年産2万トンのアルミナ工場建設費として75万豪州ポンド,年産1万トンの製錬工場に150万豪州ポンドを見積もりました.
この工場は,水力資源が豊富なタスマニア州に設置されることとなり,連邦政府とタスマニア州政府は共同で1万トンの地金工場,2万トンのアルミナ工場を建設することに合意して,300万ポンドの予算を計上,実施機関としてAAPCを設立しました.
このAAPCにより,国内各地でボーキサイトの調査が行われます.
実際の調査は,Department of National Development内の局であるBureau
of Mineral Resources, Geology and Geophysicsが調査を担当しました.
また,英国本土のアルミニウム会社であるBritish
Aluminium Co,Ltd.(BA)が豪州アルミニウム国産化に協力し,北部直轄領と当時は委任統治領だったパプアニューギニアでのボーキサイト探鉱の為,The
New Guinea Resources Prospecting Co,Ltd.を豪州政府と共同出資で設立し,利用しました.
こうした調査の結果,1949年暮れに沿岸哨戒艇艇長が,Aruhem
LandのTraunt島とWessel群島からボーキサイト鉱の見本を持ち込みました.
1951年10月にWessel群島の詳細な調査を行い,Marchinbar島に有望なボーキサイト鉱を確認し,本土北部直轄領(後のGove)にもボーキサイトが発見出来ました.
AAPCは1952年5月に,Marchinbar島の詳細調査を開始し,更にMelville湾にボーキサイトを確認しています.
Marchinbar島のボーキサイトは900万トンの可採量があり,タスマニア計画には充分であるとして,それ以上の調査を行いませんでした.
Melville湾の方は,港と東側海岸にあるYirrkalaの伝道教会の間の15kmの中間地点に,戦時中緊急避難用に設けた滑走路の直下からボーキサイトが発見され,BAが試掘権を申請しました.
試掘権申請面積は50平方マイル,地表に近い部分は豆状ボーキサイトでアルミナ分は50%,鉱量約650万トン,下部のセメント状部分のボーキサイトはアルミナ50%で鉱量は1,300万トンが確認されました.
但しシリカ3%ですが,鉄分が19.5〜20.0%と高いのが難点だったりします.
この為,第1鉱区の試掘権はBAからCZCとBAの合弁会社であるコマルコに移管されましたが,コマルコの解消に伴いBAに移り,其の儘失権してしまいます.
その外周に第2〜第4鉱区がありましたが,1961年7月,民族資本のDuvalに18ヶ月の期限で探鉱が許可されますが,これも失効,その後はペシネーの子会社Gove
Bauxite Co,Ltd.に1963年2月に許可されたものの,開発計画が連邦政府の条件を満たさないのでこれも失権しました.
以後,この鉱区は公開入札に掛けられ,アルスイスの豪州法人AustraswissとGove
Alminium Ltd(GAL)との合弁会社Nabalcoが開発許可を得ました.
当初予定はボーキサイト採掘年500万トン,アルミナ生産年100万トンの計画でしたが,アルミナ工場の着工が1年遅れました.
この会社の採掘は現在も続いており,ボーキサイト生産は1985年に510万トンに達し,1998年には650万トンに及んでいます.
アルミナ工場も順次稼働し,年110万トンから開始され,現在では年175万トンとなっています.
この鉱区の残存確定埋蔵量は1.6億トンであり,アルミナ生産は2001年に200万トンに達しています.
因みに,日本もこの鉱区には興味を示していました.
1962年に後に大興金属と言う会社の社長となる市川直雄氏がこの地を訪れています.
この人は,日本鋳鋼所から日本曹達にスカウトされて二本木工場でアルミニウム製錬の研究に勤しみ,1937年にアルミニウム一貫製錬に成功したり,戦況悪化でボーキサイト輸入が途絶した時には,礬土頁岩によるアルミナ生産の為に一度人造ボーキサイトを製造し,バイヤー法に適する処理をしてアルミナを生産する手法を編み出すなど,一貫してアルミ畑を歩んだ技術者でした.
彼は,将来アルミニウムは,日本軽金属,住友軽金属,昭和電工の3社では賄いきれないと考え,八幡製鉄でのアルミニウム製錬を考えていました.
この時のアルミニウム製錬計画では,Goveのボーキサイトを輸入してアルミナを生産し,地金は第1期年産25,000トン,第2期年産25,000トン,合計で5万トンのアルミ地金の製錬工場を鶴崎か四日市に建設しようというものでした.
結局,この計画は業界の反対に遭い,通産省から許可を得ることが出来なかったと言います.
八幡アルミニウムの発想は,Lateriteからアルミナを製造し,並行して鉄原にも利用しようと言うものでしたが,後に膨大な競争力のある鉄鉱石が豪州から輸出される様になると鉄原として利用する必要は無くなります.
そう言った意味では,この八幡製鉄のアルミニウム業界進出はポシャって正解だったかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/08 22:36
西アフリカには,15世紀半ば以降,スペイン,ポルトガル,フランス,英国,米国などが奴隷貿易や象牙の採取などで進出しており,革命やナポレオン戦争などにより,フランスの進出は一進一退を繰り返しました.
1849年,フランスは西アフリカに於ける橋頭堡としてボケ地区を保護領とし,ちょっとずつ領域を増やして,1893年,仏領西アフリカの一部として仏領ギニアを成立させることに成功しました.
この仏領ギニアには,19世紀の王立工業学校の調査により,アルミナ分の高い鉱石があることが既に報告されていましたが,1917年にアルコアの鉱山技師が本社に報告書を出すまで,全く顧慮されていませんでした.
アルコアは,この鉱山技師に更なる調査を依頼しましたが,彼は契約を履行しないままに終わります.
1920年,英領ギニアにあるボーキサイト鉱山への技術者派遣が可能になったので,米国人5名と2名のフランス人からなるアルコアの調査団がコナクリに派遣される事になりました.
ところが,一歩先に米国人が以前アルコアの技師が探鉱した地域の探鉱権を申請していました.
その地区は,海岸沿いのロス諸島と内陸部のボケ地区でした.
一方,アルコアの調査団は1鉱区直径3.5kmの探鉱権を20鉱区で申請し,2年間の探鉱が認められました.
この探鉱権は,アルコア本体ではなく,そのフランス法人の名前で申請しています.
1923年,2年間の探鉱権が切れるので,再度,その延長を申請し,今度は20鉱区中15鉱区の探鉱権を20年に渡って取得することに成功しました.
また,一歩先に探鉱権を申請していた米国人が全く探鉱をしていなかったので,1924年にはロス諸島の開発権をも手に入れることに成功しました.
この探鉱権による探鉱は殆ど行われず,1923〜27年に掛けて,幹部が毎年乾期になるとギニアに滞在して,新たに97鉱区の探鉱権を申請していました.
この頃の改訂鉱業法では,20年という長期の探鉱権は認められず,申請当初から3年間有効とし,延長は各2年を2回,つまり通算7年間の探鉱が可能で,8年目には開発権に切り替える必要がありました.
この開発権は50年間有効で更に50年間の延長が可能でしたが,期間中に実際の鉱山活動を実施することが定められていました.
1932年にその8年目がやってきたのですが,大恐慌があったり,集中排除法により米国資本のアルコアは,アルキャンなどに分離し,事業の再編成をしていた時期だったので開発権に切り替える余力が無く,ギニアの植民地政府と交渉して7年間の探鉱権延長を認めさせることに成功します.
その前の1930年に前の割り込んで入った米国人からカッサとタマラ両島の開発権を10万ドルで買収することに成功していましたが,権利関係の移転に手間取り,実際に全権が手に入ったのが1933年1月の事でした.
1935年,仏領ギニアでは新鉱業法が施行されます.
この法規では,鉱区を取得すると鉱業活動が自然と要求され,投資が行われ,鉱区の維持には資金投下が義務づけられる事になりました.
1937年になると再編成に落ち着きが出てきて,資金的な余裕も出来た為,アルキャン(アルコアからこの権利を譲渡された)はロス諸島の探鉱を積極的に実施し,ボケ地区への投資も開始します.
この見本が本国に送られ,分析された結果,1938年からタマラ島の2カ所で採掘が開始され,船積み用の岸壁がフランス業者の手で建築されることになりました.
この採掘は,植民地政府の要望により,タマラ島の囚人を雇用することを義務づけられますが,船積み用岸壁が暴風雨で破壊され,囚人達は植民地防衛用施設の建設に徴用された為,再建の見通しが立たなくなりました.
1939年9月,第二次大戦が勃発し,ギニアのフランス民間人は本国に呼び返されました.
一時,此処の鉱山技師も本国帰国を余儀なくされましたが,一部はタマラ島の6,000トンに及ぶボーキサイトの処理の為に戻りました.
ところが1940年6月,本国がドイツに降伏してしまい,本国とギニアとの通信が途絶し,送金も全く行われなくなり,技術者達は八方塞がりの状態に陥ります.
仏領西アフリカの政府は,連合国に協力してボーキサイトを北米に送ろうとしましたが,船積み岸壁が破壊されている状態ではその実行は困難でした.
こうして4年の月日が流れていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/09 22:26
【質問】
大戦中,日本やドイツは工場の熟練工を徴兵したため兵器の生産に支障がでましたが,ソビエトやイギリスなどではそのような事は無かったのでしょうか?
【回答】
人口に対する兵役人員の割合から,第二次世界大戦におけるソ連とアメリカ,イギリスは軍需生産,および市民生活に支障が出るギリギリの線まで動員を行っており,特にソ連では場合によっては深刻な状態に陥ったようです.
イギリスは動員した本国兵士が比較的少数であったため,これを補うために大量の植民地兵を投入していました.
それでも熟練を要しない単純労働では労働力が不足し,各国で,女性の登用が盛んに行われたようです.
つまり,動員力ぎりぎりまで兵を投入した連合国に対抗するため,枢軸側は動員力を越えて兵を集めざるを得なかった,ということになるかと思います.
【質問】
第二次大戦中,我が国では学徒出陣や勤労動員が実施されましたが,米国や英国の国内情勢はどうだったのでしょうか?
【回答】
日本と同じです.
但し,学徒出陣については,強制ではなく,志願に拠っていました.
米軍の将校では,大学を休学して,志願したケースが多かったみたいです.
米国の場合は,1940年9月に選抜徴兵法が制定され,軍事的には総動員体制が確立しています.
一方,生産現場では,国防諮問委員会(NDAC),生産管理本部(OPM)が既にあり,1941年12月に戦時生産局(WPB)がこれに加わります.
本格的な総動員体制が確立したのは,1942年4月の大統領命令によって,戦時人的委員会(WMC)が設立されてからで,連邦保障局のポール・マクナット元Indiana州知事を長とし,その下に陸軍省,海軍省,農務省,労働省,WPB,行政委員会,選抜徴兵制度代表者などがメンバーになっていました.
しかし,最初はこの委員会にはさほどの権限が与えられず,特に選抜徴兵制度との軋轢があって上手く回りませんでした.
そこで,10月に大統領令で,選抜徴兵制度を膝下に組み込むことになりますが,軍の人的要求とのジレンマによって1943年末に再びこれを分離することとなります.
この委員会の活動は,軍との人的要求の調整(徴兵の対象とならない人々の生産設備への配分)が主な作業となりました.
但し,これは,WMCの地方支部が,合衆国雇用サービス(USES)との共同作業で,地域経済と地場産業の実情に見合う形で配分を行っています.
更にWMCでは,1942〜43年にかけて,全国44カ所で地域雇用安定計画を導入して,軍需産業の急速な拡大で,労働力の不足が深刻化している地域での雇用対策をUSESと共に行っています.
労働者の就業ですが,まずは大恐慌時に職を失った人への再雇用を実施し,次いで,メイド,店員などサービス業への就業を制限して,危急産業へ重点的に割り振っています.
但し,日本とは違って,国家が全てを仕切るのではなく,各企業も独自に求人活動を展開していることが特徴です.
例えば,女性の就業者数は,1940年3月の1073万人から1942年1月には1176万人へ,12月に1472万人,1943年12月で1611万人,1944年7月に1644万人となっており,女性比率は,1940年に全労働力の26%だったのが,1944年7月には37%に上昇しています.
また,英国についても,同様に総動員体制が確立しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
1935年の仏ソ相互援助条約について質問です.
1・これは相互不可侵以外にも軍事的な面を含んでいるんでしょうか?
2・ドイツのフランス侵攻時にソ連がフランスを支援した形跡が無いのですが,1940年までにはこの条約は破棄されていたのでしょうか?
【回答】
当然,軍事協力を行っています.
例えば,エンジンについては,MikulinがGnome-RhoneK.14
Mistral Major空冷星形エンジンを1930年代初頭に輸入して,M-85エンジンを制作していますし,同じく,1934年にHispano-Suiza
12YをLicence生産した後,Klimovの手に因って改造され,LaGG-3やPe-2のエンジンに使用されています.
また,後者に搭載されていたHispanoの20mm機関砲は,ソ連の手によって改造され,ShVAK機関砲となって大量生産されました.
戦車の技術などでも協力していましたし(ただ,実質はItalyの方が大きかった),ソ連の戦艦を稼働させるための部品を供給(旧ロシア帝国の戦艦は,白軍崩壊後,ビゼルタで解体されていた)しています.
逆に,ソ連からは原材料の供給を得ていたりする訳です.
で,そもそも,ソ連としては,西欧列強がロカルノ条約を締結したので,この締約国が協力してソ連に攻め込むのではないか,と言う危惧があり,1929年にソ連の西部から南部に掛けての国境を確保すべく,モスクワ東方協定と言うのを,バルト三国,Poland,Rumania,Turkey,Persiaとの間に締結します.
しかし,東方国境が不安定なために,そのモスクワ東方協定を強化するために西欧列強と不可侵条約を締結する様に政策を転換します.
一方,Franceでは,1934年に右翼の扇動で,従来の左寄り政策を行っていた急進社会党内閣が倒れ,Daladierが短命内閣を組閣した後,右翼寄りの挙国一致内閣が誕生しますが,今度は左翼の逆襲が始まり,社会党,共産党,そして急進社会党が協定を結んで,1936年に人民戦線が誕生します.
Franceは1934〜36年に掛けて一時的に右にぶれますが,その前にソ連と誼を結んでいた訳で.しかも,隣に物騒な国が誕生したので,安全保障上ソ連との友好関係が重視された,と.
しかし,1936年の総選挙で誕生した人民戦線内閣は,国民を満足させる政策を行わなかったので,忽ち支持が低下し,また,粛清の発覚,ソ連を批判した出版物がベストセラーになるなど,1年で瓦解し,後を次いだ急進社会党内閣も,資本の流出が止まらないため,経済政策の破綻で,1938年に内閣を投げ出します.
で,結果的に,ソ連との縁が切れ,反共を明確化し,最終的に1939年の第二次大戦勃発によるポーランド分割,その後のバルト諸国,Finlandへの恫喝で,Franceは,ソ連と断交寸前まで行き,ソ連との相互援助条約も破棄されました.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
第二次大戦前,オーストラリアには軍用機工場や戦車工場,海軍工廠(造船所)などはあったのでしょうか?
どうも兵器関連は,イギリスからの輸入に頼っている気がするのですが……
【回答】
まず,軍用機についてですが,国営企業としては1936年にCommonwealthが設立されています.
これは,政府が提議した航空工業の自主独立計画に基づくもので,この会社は,航空審議会の技術委員会によって選定された,NorthAmericanNA-16(T-6の前身)系のNA-33高等練習機をWirrawayとして1939年から生産を始めました.
その生産の他,国産初等練習機Wackettを同時期に開発,太平洋戦争に突入してからは,Wackettのコンポーネントを用いた戦闘機Boomerangを開発しますが,本格的な軍用機,爆撃機のWoomeraと,戦闘機のCA-15は米国からの輸入機とその国産化(1944年からMustang
Mk.20/21(CA-17/18)をKnock downまたはLicense生産したもの)の充足に依って中止となりました.
また,この会社はPratt&WhitneyエンジンのLicense生産も行っています.
民間会社としては,1927年にDe Havilland
Aircraft Proprietary,Ltd.,つまり,DeHavillandの豪州支社が設立されており,同社の各種機体を生産・豪州向け改造をしていました.
例えば,D.H.91Moss Minor初等練習機,D.H.82Tiger
Moss初等練習機,Mosquito爆撃機などです.
このうち,Tiger Mossについては,南アフリカ,南ローデシアの訓練基地に送られています.
また,自社製エンジンのLicense生産も行っています.
蛇足ですが,Beaufort爆撃機は,国内の400以下の下請工場で部品を作り,これを3つの州にある鉄道工場で組立て,Melbourne,Sydneyの工場で最終組立を行っており,これらは,Beaufort
Division of the Department of Aircraft Productionが統制していました.
戦車工場はありませんが,自動車工場としては,General
Motors-Holdens Ltd.がMelbourne,Sydney,Brisbane,Adelaide,Perthに工場を持ち,Ford
Motor Company of Australia Pty Ltd.は,Melbourne,Victoriaに工場を持っていました.
他に,Chrysler Australia Ltd.がAdelaideに,International
Harvester Company of Australia Pty Ltd.がMelbourneに工場を持っており,各種軍用車両の組立を行っています.
これらの軍用車両の供給は主にカナダ,米国から行われており,これらの工場はその部品を組み立てる感じです.
造船所もありますが海軍工廠は無かった筈.
Cockatoo Docks&Enginieerling Co.Ltdが駆逐艦以下の艦艇を建造できる造船所だったか,と記憶しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
+
【質問】
バスク共和国の大統領は,国がなくなった後はどうなったのですか?
【回答】
スペイン王国が崩壊した後,カタルーニャと共に自治政府を構成したのがバスク共和国で,外交権は無いものの,独自の軍隊なんかもありました.
彼らは残念ながら武運拙く敗れた訳ですが,バスクの大統領は生き延び,フランスへと亡命します.
ところが,その地は安住の地ではなく,程なくドイツ軍の占領下に.
盟友だったカタルーニャのクンパニィス大統領はこの時,ゲシュタポに逮捕され,スペインに追放されて銃殺されたのですが,バスクの大統領は,戦争勃発時にベルギーに逃れた訳です.
ベルギーに隠れ住んでた彼ですが,身辺に危うさが漂ってくると,意を決して敵の本丸たるドイツに居を,しかも,敵のいるど真ん中のベルリンに移住したり.
ここで,ナチスの庇護の下に亡命生活を送っていた,王党派の胴元であるアルフォンソ13世の葬式に出たり(ぉぃ),結構自由に振る舞っていたみたいです.
最終的には,ドイツを脱出してスウェーデンを経て,当時まだ中立国だった米国に亡命する訳ですが,本国で流石に硝煙を嗅いだ人だったりするので,フランスやベルギー,ドイツ各国の戦力分析なんかも冷静に見ていますし,国民の戦う姿勢についても批評を加えてみたり.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月16日22:14
先日,「密林」で注文した古本が届いたので,早速読んでいます.
本編の主人公,Jose Antonio de Aguirreは,1904年に弁護士の息子としてBasqueに生まれ,Bilbaoで教育を受けた後,父の跡を追って弁護士となり,更に,父が同士と共に創設したBasque国民党に入党,その若いリーダーとして活躍した人です.
1931年に,27歳の若さで,とある街の町長に選出され,政界に進出します.
そして,国王AlfonsoXIII世が国外に脱出した年の制憲議会選挙に立候補し,スペイン共和国の国会議員になるという,正に,乱世に出てくるタイプです.
そして,スペイン内戦で共和国が断末魔に喘いでいる時に,中央は地方の自治国形成をやっと認め,彼は,Basque共和国の大統領に就任します.
ですが,既に国運は傾き,Guernica爆撃,首都侵攻と言う事態を招き,結果的に彼を始め,ファランヘ党に反対するBasque人は挙って,フランスに亡命することになりました.
しかし,この地は,既に彼らにとって安住の地でなく,左右の激しい対立の中で,民族の中の裏切り者によって,彼らの多くはFrancisco
Francoに売られ,多くの人間が命を落とすことになりました.
隣国カスティーリャの大統領も犠牲者の一人です.
こうして,Aguirreは隣国ベルギーに亡命しようとしますが,Funny
Warが終わりつつある時で,ベルギーは崩壊.
フランスに舞い戻るも,フランスも又,崩壊し.
再びベルギーにとって返して,そこから,苦難の日々が始まるのです.
既に,ベルギーはドイツ軍の占領下に置かれていた訳ですが,当初,ベルギーの人々は(Goebbelsの宣伝の効果もあったり,占領したドイツ軍の規律の正しさというのもあったのですが),民主主義はDecadenceと腐敗であると言うNegative
Campaignを信じ込んで,従来の政府機関に全ての悪がある,ドイツ軍の占領は,この無秩序に新しい秩序を見いだすことであると言う言葉を信じていました.
ですから,ベルギー軍兵士の中には,母親の意見に従って,敵前逃亡した者もいたとか.
…危険になったら直ぐ捕虜になるか,逃げるかしてしまいなさい.
だって,こんな戦争に私たちが何かをしなければならないと思いますか?
もししたければ政治家がやればいい!
彼らはもうみんな逃げてしまいましたよ.
王様でさえ普通の人みたいに連れて行かれたのだから.今はイギリス人が戦うでしょう.もししたいのなら.
戦争には勝っていました,銃撃が始まるまでは.われわれの民族の精神は何と腐ってしまっていたことか.
…民主主義は失敗したのだ,今やドイツの時代なのだ,決定する時期が来たのだと,
仲間達が言うのを私は聞かねば成りませんでした.
こういう精神で敵に対することが出来ないのはおわかりですね.
何度も私は彼らに言いました.もしもドイツの時代が来たとしても,ベルギーの時代,自由の時代を終わらせてはならない.
しかし,彼らは間も無く悟ります.
生活必需品が次々にドイツ本国に向けて運び去られ,物価が騰貴し始めたから.
しかし,強制収容所はそう言う転向者や騙されている人々には良い教訓です.
自由のない痛みを感じたとき,彼らはやっと自分の祖国がどうなってしまったかに気づくのです.
全てのベルギー人は団結するようになります.
強制収容所を出たときほど,我々の民族をドイツの軛から解放することに熱心になることはないと,私は確信します.
ベルギーには帰る必要のあることは沢山ありますが,そのために我々固有の自由を殺す必要はありませんし,敵に助けや保護を乞うなんて言うことは以ての外です.
何かこうした論議をつい最近も聞いたような気がするのは気のせいでしょうかねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月19日21:45
【質問】
カナダ軍って良く戦ったのに,なんであんなに扱いが地味なの?
【回答】
良くも悪くも,アメリカと共同して戦ったり,宗主国である英国の影に隠れた為だと思います.
1939年の第二次大戦でドイツに宣戦布告したものの,全く近代戦争に対する準備が為されず,米国やら英国やらから,大慌てで装備を導入した為,見た目には識別が付かなかったのもありますし….
【質問】
デンマークは戦わなかったの?
【回答】
デンマークはドイツと不可侵条約を結んでいるのですが,アッサリ無視され侵攻を受けるという悲劇を味わっています(降伏までの両軍の死者はドイツ軍20人,デンマーク軍13人).
しかし,国王の主導によりほとんど無血降伏しましたから,このときにはほとんど被害は受けませんでした(国王はドイツ敗戦後に退位)
そして大戦中盤にドイツ軍は当初の約束を無視してデンマーク全土に戒厳令を敷き,これに反発してレジスタンス活動が始まっています.
例えばデンマーク・レジスタンスは,ドイツ軍に接収された兵器廠を襲撃してサブマシンガンの部品や完成品を大量に奪取,それをドイツ軍管理の市電整備場で,監視の目を盗んで組み立てたことがあったそうです.
そして,それは終戦まで発覚しなかったとか(ドイツ軍,何してたんだ?)
あと,イギリス空軍がデンマークを空襲しに良く来てましたね.モスキート軽爆が小学校を誤爆した事もあったような.
最後まで連合軍地上部隊の侵攻は受けずにドイツの占領下にあった土地だったので,地上戦の惨禍は受けずに済み,ドイツ敗戦時には本国にいられなくなった秘密警察ゲシュタポの本部がデンマークにありました.
第一次大戦でも第二次大戦でもあまり大きな被害をデンマークが受けなかったのは,この国が「戦争の通り道」からちょっと外れた場所にあったからでしょう.
ただ,ノルウェーが主戦場の一つになっていたら,派手に巻き込まれていたでしょう.
イギリスは当初ノルウェーを主戦場にする予定でしたから,かなり危うかったですね.
『嵐の中の北欧 抵抗か中立か服従か』(武田龍夫著,中公文庫,1985.4)によれば,デンマークはドイツの侵攻直後,小規模な戦闘が発生するが数時間で停戦.
ドイツの要求を丸飲みする形で服従せざるをえなくなります.
(尤もデンマークの国力や軍事力,国土では徹底交戦は不可能であるし,英国も侵攻されても見殺しにすると公言されてたが)
グンジ in mixi,2007年11月11日
レジスタンスの簡易装甲車

【質問】
第二次大戦期,独軍はノルウェーやデンマークに侵攻していますが,アレは併合したんですか? それとも単に占領しただけですか?
独軍に占領されたフランスとかどうなってたんですか?
【回答】
ノルウェーもデンマークも軍事占領.
デンマークは侵入当日に降伏した.
従って軍事占領されたと言える.
但し,占領下に置かれたものの,王室や政府は1943年まで存置され,自治も認められていた.軍隊も制限を受けていたが存在した.
1943年にドイツ軍政府の統治下に置かれ,完全占領に近い状況になる.
ノルウェーについては,4月に侵攻を開始し,6月に降伏.
当初は,デンマーク同様緩やかな統治下に置くつもりだったが,国王など主要閣僚の亡命によってそれが不可能となり,完全に軍事占領され,ドイツから古参党員でHitlerに近いテルボーフェンを弁務官として送り込み,彼は,弁務官事務所を核として,占領実務を行った.
一応,ノルウェーにも右翼政党があって,その親玉クヴィスリングを名目上首相にして,政体が存続しているようには見せかけていたが,これは完全な操り人形に過ぎなかった.
フランスは,降伏した時点で,政府がパリからヴィシーに移動し,そこを拠点として南半分と植民地を統治.
アルザス・ロレーヌ地方はドイツに併合され,ニース周辺はイタリアが併合した.
それ以外の北半分は,ドイツの軍事占領地区になっている.
『嵐の中の北欧 抵抗か中立か服従か』(武田龍夫著,中公文庫,1985.4)によれば,占領初期はデンマークの主権は(ドイツの許容範囲内で)尊重され,政府や議会,軍も存続が許されており,ポーランドの様にならなかった安堵感から,被保護占領国の立場に甘んじます.
しかし,所詮「占領は占領である.」
メッキは次第に剥がれ,ドイツとの軋轢は増していき,最終的に1943年以降はドイツの軍政下に置かれます.
政府,議会は解散させられ,軍は武装解除され(この際に戦闘が発生し,死傷者も出ています),ユダヤ人迫害も始まりますが,レジスタンス活動も激化.これにより,デンマークは連合国側に立つ事になります.
デンマーク自体は大規模な戦場になる事はありませんでしたが,それでも多くの産業施設が荒廃し,保有船舶の六割と四千人以上の人命が失われていきます.
所謂「非武装中立論」や「無防備都市宣言運動」を(本心は知らんが)「奇跡の万能薬」のように言い立てる人は,これらの事例をどう見るんだろうか?
スウェーデンは戦後「武装中立」を確固不動の基本政策とした事やデンマークは戦後,NATOに加盟して集団安全保障に参加した事などはどうなんだろう?
(国民の意見を無視して云々とか言うかな? 国民の支持を受けてやってるんだが)
グンジ in mixi,2007年11月11日
【質問】
第2次大戦後のドイツ系デンマーク人への処遇は?
【回答】
さて,デンマークに居住するドイツ系デンマーク人は,1970年代には1.5〜2万人と見積もられています.
第二次大戦前は,その倍以上は居住していたのですが,御多分に洩れず,「ドイツへの協力者」達は,裁判に掛けられ,学校は閉鎖され,財産は没収され,追放が為されました.
ユダヤ人には比較的寛容であったこの国ですが,第一次大戦と第二次大戦を経て,ドイツ系デンマーク人は信用が低下してしまいました.
第一次大戦後の1920〜24年でも,第二次大戦後の1954〜55年でも,ドイツ政府の要望にも関わらず,ドイツ系デンマーク人をデンマーク国内の少数民族としては一切認めませんでした.
これは,何度も対独戦を戦い,不利な条約を押しつけられた歴史があり,デンマークが小国の地位に転落した後には特に,斯うした条約によって国内問題に干渉する危険性を抱いていたからです.
一方で,デンマーク系ドイツ人に対しては,少数民族として保護し,援助していたり….
1997年まで,両国はこれらの人々に対する保護は明示的に拘束することなく,両国は暗黙の互恵主義に基づいて行われていました.
時代は遡って,1945年にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州に於て,デンマーク系ドイツ人や地元居住のドイツ人も巻き込んで,英国占領軍司令部に対する分離自治権要求が幾度も出されました.
ただ,デンマーク政府は,1945年5月にドイツが降伏すると,9日にはもう「国境画定声明」を発して,自国の国境線変更をしないと言う立場を鮮明にしています.
一方で,英国軍司令部は,占領時の民主化運動の担い手として,彼らデンマーク系ドイツ人を援助することとし,6月4日に発した英軍指示で,以下の様に表明しています.
a) デンマーク人財産の押収停止
b) 強制労働の停止
c) 行政ポストへのデンマーク人の登用推進
d) 新デンマーク運動(南シュレスヴィヒ州の独立・自治)支援
そして,10月13日にはデンマーク系ドイツ人の学校(大戦末には9校,生徒数437名だった)の建設促進を告知しました.
その学校への入学条件は,以下の場合です.
a) ナチス子弟以外のデンマーク系ドイツ人であり,両親ともデンマーク学校出か,両親がデンマーク若しくは南シュレスヴィヒ生まれなら,無条件でデンマーク系ドイツ人学校に入学可能.
b) ナチス子弟以外のデンマーク系ドイツ人で,片親がデンマーク若しくは南シュレスヴィヒ生まれで,もう片親がアイダー川の南の生まれであれば,試験により入学可能.
c) ナチス子弟以外のデンマーク系ドイツ人でも,両親ともアイダー川の南の生まれなら,入校は不可.
その学校開設に当たっては,デンマーク系学校教会によって,直接教育管理将校に申し出るだけで良く,英軍との連絡は,デンマーク人学校長ハンゼン氏とデンマーク軍の連絡将校トゥッシェング大尉が担当すると言うものです.
デンマーク軍の連絡将校は,本来デンマーク政府とデンマーク系ドイツ人,そして英国占領軍の連絡調整が任務ですが,実際に英国軍司令部に於て,影響力を行使し,少数者に有利な工作を行っていたのが,この連絡将校でした.
しかし,英国は例によって,二枚舌外交を展開します.
占領当初の少数者への期待感は影を潜め,次第にデンマーク系ドイツ人への優遇を見直し,一転して厳しい姿勢を見せたのです.
先ずは1946年10月22日の書簡で,教育関係の会議を開催する事を提唱します.
これには,英国軍,デンマーク系ドイツ人指導者に加え,ドイツ側州政府も入っていました.
今までは,英国軍とデンマーク軍連絡将校,デンマーク系ドイツ人指導者のみで,ドイツ側は敗戦国の立場でしたから,お呼びでなかったのに,一転して参加が許されたのです.
この会議は,1946年11月7日に第1回が開催され,翌年5月2日に最終委員会が開催されました.
この席上,ドイツ州政府代表は,Prinzip der
Gegenseitigkeit(相同性原則)を主張します.
これは,南北シュレスヴィヒの両国少数民族に「同一の」民族学校原則を樹立するものでしたが,北シュレスヴィヒのドイツ系デンマーク住民の教育は,1946年に4校174名しか居ませんでした.
しかも,ナチスへの嫌悪から公立から私立に移行させられてしまいました.
「同一の」民族学校原則を行うとすれば,当然,ドイツ側にも公立から私立への移行が要求されます.
最終的に,最後の合同委員会開催後,1947年5月23日に英軍政府は「英軍大綱」をデンマーク系ドイツ人組織に示し,2年の情勢変化,1つは1946年9月9日,デンマーク政府に英国軍政部が示した国境変更打診(9月ノート)に対し,デンマーク政府が10月19日に回答した国境再変更の意志無しとの表明(10月ノート),そして,冷戦の進行がそれに追い打ちを掛けました.
この辺,太平洋戦争後に於ける朝鮮民族学校の設立・運営の変遷と似ていない事もないと思ってみたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月15日
【質問】
第2次世界大戦中のフランスのレジスタンスは良く聞くけど,オランダはあまり聞きません,このあたりどうなんだろ? 教えてください.
【回答】
WW2で国土を占領されたオランダは他の国同様,激しいレジスタンス活動をやっています.
抵抗運動の象徴として,国内に様々なレジスタンス活動記念博物館があるそうです.
Het Verzetsmuseum Amsterdam(The Dutch Resistance Museum)
レジスタンス博物館
http://www.verzetsmuseum.org/english/indexE.html#(英語ページ)
National War and Resistance Museum at Overloon
オベルローン・戦争と抵抗博物館
http://www.oorlogsmuseum-overloon.nl/uk/(英語ページ)
その他,ユダヤ人迫害や対日戦に関する記念館が多数存在します.
【珍説】
第二次大戦中も,オランダやベルギーはドイツ軍の侵攻に対して一切,武器を取らなかったし,無駄なレジスタンス活動もやってません.
おかげで,戦禍を全く受けず,中世の建築物が無傷で残ってます.
タイも同じです.日本軍や連合軍とうまく折り合いを付け,自主独立を守りました.ガンジーの教えですね^^
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【事実】
・・・ベルギー軍は,ドイツ軍の侵攻に対し要塞に立て篭もり,激しく抵抗していた筈では?
それと,両国ではレジスタンス活動も行われている筈ですよ?
戦争末期に一斉蜂起までやっているのですが・・・.
オランダのロッテルダムは,ドイツ空軍(ルフトバッフェ)が空襲して市の中心部は廃墟と化した筈だけど.
中世に建てられたゴシック様式の立派な教会(聖ローレンス教会)も完膚無きまで破壊されてます.
大戦後半も両国は激しい戦場と化した筈です.
映画『遠すぎた橋』で有名なマーケット・ガーデン作戦の舞台はオランダです.
(無茶な空挺作戦でイギリス第一空挺師団がアルンヘムで壊滅,失敗したヤツね.モントゴメリー元帥ったらお茶目さん♪)
しかも,アルンヘムの戦いの後には,アルンヘム市民約5000人がドイツ軍によって強制疎開させられたそうで.
また,『アルデンヌ大攻勢』でで戦場となったアルデンヌの森はベルギー領です.
そして連合軍の一大物資集積地となったベルギーのアントワープ港には,報復兵器V1とV2でドイツは総攻撃を掛けました.
合計1万発以上のミサイル攻撃で,ロンドン目掛けて発射した数よりも,アントワープへ発射した数の方が上回っています.
ミサイル発射地点となっていたオランダのドイツ軍基地を叩くべく,連合軍の戦略爆撃機がやってきて,間違えて隣りの都市を誤爆してしまった事もありました.
結局ベルギーやオランダは中立政策だったのにドイツに「通り道だから」という理由だけで攻め込まれ,降服した後も連合軍とドイツ軍との戦場にされてしまい,自らの意思とは関係無く翻弄され続けたわけです.
開戦当初から戦争終結まで・・・ずっとね.
「"えん"とひなたぼっこ」管理人のプロフィールも香ばしい.
お住まい:東京都
興味分野:
旅行
仕事&資格&教育
MyDoblog紹介:
【緊急告知】シバレイさんblogからお越しの”ネトウヨ達”さぞかし崇高な意見は自分の”blog”か”hp”でお願します☆ここは個人のblogなの♪荒す暇あったらサマワに逝けっヽ(°_°>)
↓三日ぶりに覗いてみたら,プロフィールちょっと変わってる?
MyDoblog紹介:
【緊急告知】荒らし目的でジャーナリストblogから態々お越しの方々☆さぞかし崇高な意見は自分の”blog”か”hp”で☆ここは個人のblogなの♪荒す暇あったらサマワに逝けっヽ(°_°>)
(JSF他)
上記ブログ管理人や常連達は,
『関東軍は住民を見殺しにしたのではなく,前島のように住民を巻き込まないように動いた』
と言われたらどうするんでしょうね?
とりあえず,以下をコメント欄に書き込めば,それで終わると思われます.
「アンネの日記」って知ってる?
「いやあれは捏造だから!」とか返ってきたら,それはそれで面白いんですが(笑).
(イスラエル国防相@出張)
(以上,「週刊オブイェクト」)
【質問】
どうも.
〔誤りを指摘したら,指摘コメントを〕削除された人です.
論理的思考及び反論がどうして出来ないんだ.
同じ人間で日本人だろう?!
(通りすがりの白い猫)
【回答】
自分が正しい,絶対正義だと思ってるからですよ・・・間違いなく.
リアルであの手の手合いと対決した事ありますが,人の話全然聞いてない・・・.
曲解・開き直りなんでもあり・・・_| ̄|●
例1・イラク自衛隊派遣ネタ
香田氏を政治利用してるヤツ(ガチのプロ市民,わざわざ普天間の人間の鎖イベントに参加するためだけに東京から沖縄へ行った実績がある(本人談)
俺「遺族の声無視して政治利用するのってどーよ」
相手「そんな状況にした小泉が悪い」
例2・安全保障ネタの議論中
俺「非武装中立は非現実的すぎる(以下WW1ベルギーの説明」
相手「●●君(俺)はどーしてそんなに戦争したがるの?誰を殺したいの?」
高校生にしたって酷いんじゃないかい・・・?_| ̄|(((●
コイツ↓が配られた実績もあるし・・・(ユージ君の方)
http://mltr.free100.tv/faq05d.html#権利制限
ちなみに例1の人は
「パナウェーブは,有事法案を国民の目から隠す為の小泉の陰謀」
「全ての情報は小泉が操作している」
ってガチで主張してた人なんですがね.
もう,どうしようかと
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
(たれ)
>俺「遺族の声無視して政治利用するのってどーよ」
>相手「そんな状況にした小泉が悪い」
↓
( ´∀`)「君の頭が悪いのも,小泉のせいだね」
と返せばOK.
(kkk)
(以上,「週刊オブイェクト」)
◆◆◆フランス
【質問】
英書でもドイツ軍に比べるとフランス軍ものはひどく少ないのは,米英人の関心が低いせい?
【回答】
それは色んなジャンルでおきてる現象だね.
学問分野でも,独仏語で進んでる研究が,米英じゃ全然無視されてるとかある.
アメリカの日本研究とかもひでー.
英語帝国主義の弊害というか,一昔前の米英の現地語で徹底的に地域研究やるお!ってパワーも衰えてるね.
英語なら何とかなるし,中国語も何とか読める(音読は怪しくなったが).
英語が何とかなれば,フランス語とかドイツ語,オランダ語は,何となく理解出来る訳で.
しかし,スラヴ諸国語となれば珍紛漢紛で御座るよ.
ポーランド語の薄い本ですら既に数ヶ月2頁の翻訳で放置状態.
折角,辞書まで買ったというのに.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
ドイツ語と思いこんでポーランド語のHs.129の本を買い,まあなんとかなるさと独話辞典で訳そうとした俺(笑)
どうでもいいが,酔った勢いで"US Liaison
Aircraft in action"なんて本を買ってしまった…….
ばばぼん♪ ◆gdH1Km1a0U in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
仏のレジスタンスって実際役に立ちました?
【回答】
ノルマンディの時は,線路・橋を爆破したり道路を塞いだり先導隊を襲撃したりと,前線に向かうドイツ軍部隊の妨害をかなりやってる.
これと連合軍空軍機の爆撃とで,ドイツ軍は部隊の集結が遅れ,連合軍を追い返すことができなくなった.
まあ,レジスタンスによる襲撃がきっかけで,オラドゥール事件(ダスライヒ師団の一部隊による村民虐殺)も起きてたりするが.
これ以前にも,イギリスの工作機関SOEの支援を受けて鉄道や軍需工場の送電施設を破壊したり,ドイツ軍の配置状況を調べたりと,地道に活動している.
ただし,共産主義派とドゴール派の対立があったりして,レジスタンスも一枚岩ではなく,内部抗争もけっこう起きている.
ノルマンディ後は,撤退するドイツ軍の残兵を襲撃しているが,このときは捕虜殺害などもあった.
ただ,レジスタンスの数はそれほど多くはなく,大多数のフランス人は不承不承ながらもドイツの支配を受け入れていた.
【質問】
WW2時の占領下のフランスでは,レジスタンス活動をやってたグループがいたわけですが,彼らは現在のイラクのように,旧ドイツ軍だけでなく体制側のフランス人も対象にして攻撃していたのでしょうか?
【回答】
していました.
例えば,レジスタンスに死刑を宣告した判事とか,対独協力に積極的だったユダヤ人が暗殺されたりしました.
また,解放前には,ダルラン将軍とかアンリオ情報大臣が暗殺されています.
解放前後の混乱では,正規の裁判を経ずに約10,000人が略式処刑されています.
これらは,当時の言葉で「暴力的決着」と称されました.
この中には,ToulouseのGestapo司令官愛人とかが含まれます.
その後,自由フランス軍将校とか共産党系の自称将校によって,軍法会議が設置されました.
この軍法会議は1944年9月23日まで機能しますが,これで結構な数の人が銃殺されています.
ちなみに,以後は対独協力特別裁判所で審理された訳ですが,この裁判所で審理された事件は12万4,000件でした.
このうち,死刑を宣告された人は4%の6,763名,実際に刑が執行されたのは,767名でした.
これら裁判の対象者は,ファシスト知識人,宣伝扇動家で,専門家,実業家,官僚の殆どは無傷で生き延び,外交官は3分の2がそのまま現職に就いています.
また,知事は半数が入れ替わっただけでした.
これは,フランス再建のために彼らが必要とされたからです.
その代わりにscapegoatにされたのが知識人たちで,共産党系の作家が牛耳る全国作家委員会が,戦後の一時期まで,対独占領下で本を出版した作家たちの本を悉く出版禁止にしたりしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
ドゴールの自由フランス軍は,対独レジスタンス支援より内部の主導権争いのほうにエネルギー使ってたってホント?
【回答】
ホント.
英・米双方の思惑も入り交じったドロドロの主導権争いを展開.
それがやっと収まったか?と思ったところで,今度はパリ解放後の左派系レジスタンスとの争いが待っています.
当然,ヴィシー政府や対独協力者たちは両派とも問答無用で・・・
どうみても,イタリアとは別の意味で,戦争を真面目にやろうとは思ってないような気がする.
ちなみにレン・デイトンの著書によれば,ダンケルクの際,殿軍のフランス兵を助けるため,ドーヴァー要塞司令のラムゼイが個人裁量で輸送船を一隻送ったら,戦闘から逃げ隠れていたフランス兵(つまり,敵前逃亡)がぞろぞろ乗り込んできたのだそうだ.
実は自由フランス軍は,脱走兵よりもさらに不名誉な「敵前逃亡兵の集団」も抱えていた.
【質問】
ドイツの降伏後,ドイツは四カ国によって分割統治されましたが,このなかにフランスが入ってるのはなぜですか?
ついちょっと前まで占領されてたくせに,人様の国を管理する余裕なんかあったんですか?
【回答】
軍事というよりは世界史の質問という気がしますが.
すごくはしょって簡単にいうと,緒戦の戦いやレジスタンス活動の実績を背景に,ド・ゴールが強硬に要請したのを無視できなかった(初期の占領プランではフランスは入っていない)というのが理由.
また,余裕がなかったからこそ,フランスはドイツから賠償を取り立てるのを目的に占領地を獲得したがったのです.
実際にそこから工業設備やらインフラやらを接収して,本国に持ち帰ってます.
【質問】
シャルル・トレネとは?
【回答】
フランスのシャンソン歌手・俳優・作詞家・作曲家で,イブ・モンタンの師匠筋.
第2次大戦中は,「フランス・ディマンシュ」を作曲してナチス支配に抵抗し,ゲシュタポに追われて負傷.
1958年には来日公演を行っている.
ちなみにこのときの興行主は永田貞雄.
詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.310-311を参照されたし.
◆◆◆ポーランド
【質問】
WWU開戦前の,ポーランド軍の実力について,お尋ねしたいと思います.
ドイツとソ連に挟み撃ちされて,あっと言う間に国は無くなってしまいましたが,仮にドイツだけに攻撃されても,あっと言う間に敗戦だったでしょうか?
【回答】
マンシュタイン回顧録を読んだ限り,史実での敗戦は,ポーランドの作戦ミスとドイツ軍の兵力の多さが原因だと思われる.工業地帯を確保しようとし過ぎ,包囲や突破を許すなどしている.
ドイツ軍はドイツ軍でジークフリート線から兵力引き抜いて送ってきてるし.
さらに,イギリス軍やフランス軍の支援が無いに等しいほど少なかった事も挙げられる.
防御に徹するだけなら,ニェーメン,ボーブル,ナレフ,バイクセルおよびサン川の総距離600kmで防御すれば,もう少し時間は稼げたと思う.
ポーランド軍が無理に工業地帯を防御しようとした事とボーゼンに遊兵を作ってしまったのも,戦争が早く終わった原因とも言える.
どちらにしても,イギリス,フランスが主力を『西方防壁』に投入してくれない限り,時間の問題だが.
補足.
1938年のチェコ解体以降では,英仏としては,ポーランドをして対独防波堤とする予定でした.
その際の後方基地というか,共同防衛軍として白羽の矢を立てたのがソ連で,一朝事が起きれば,ソ連軍がポーランド国内に入ってドイツ軍と戦闘すると言う構想を立てていました.
これを蹴ったのが,ポーランド政府.
そこで,英仏はポーランドに対する軍事援助を強化しますが,時,既に遅く,新鋭戦闘機,戦車の来着も無しに,蹂躙されました.
もう一つ,国内の生産工場も全力操業が出来ず,防衛政策にも混乱があったため,新型機の開発に失敗しました.
更に,戦時用基地の設置は十分で,開戦当初のドイツ空軍による航空攻撃は効果を上げていません.
但し,戦闘が進展するに従い,其処に配備する燃料,武器,弾薬の備蓄が追いつかず,補給もまたドイツ軍の進撃に間に合いませんでした.
また,フランスは開戦と共に重爆撃機5個飛行隊でポーランドと本国を基地にドイツ本土爆撃を実施する予定でした.
空軍に関して言えば,260機の損害で220機のドイツ機を撃墜しています.
しかし,ドイツ領内への爆撃は9月5日まで許可されませんでした.
もし,ドイツに勝利するとすれば,後方地域としてソ連が使えること,新型機が十分戦力化されていること,戦車などが集中運用できること,英仏の支援が十分行なわれること,ドイツへの夜間本土爆撃が即座に行なわれていること,補給路が確保できることでしょう.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
ポーランドには他国を侵略する野望はなかったの?
【回答】
いえ,ポーランドは軍事的野心の高い国でした.
第一次大戦直後にソ連と戦争していますが,目的は嘗てのポーランド王国の失地回復で,領土割譲目的でした.
仕掛けたのはポーランドですが,赤軍に反撃されてワルシャワが包囲され,ピンチに陥ったりしました.
が,ヴィスワ川での奇跡的な勝利で形勢逆転し,リガ講和条約ではソ連からかなりの領土を得ています.
更に第二次大戦ですが,ポーランド軍の配置を見る限り,ドイツ領への逆侵攻を企図している点が見受けられます.
ポーランド軍はポズナニ周辺に兵力を集中していました.
当時の世界地図を見れば分かるのですが,ポズナニはドイツ側に向けて突出している地帯です.
突出部に兵力を集中する配置は迂回包囲されやすく,防御戦闘には不向きです.
この事からポーランドは,イギリス・フランスとの相互援助条約を過信し,積極的に攻勢に出る積もりであった事が見て取れます.
ベルリンまでの距離は300kmもありません.
【質問】
第二次世界大戦前後にポーランド人が大量のドイツ人を虐殺したのは事実ですか?
【回答】
開戦後ならドイツ系住民の虐殺はあった.
詳しい数字は忘れたが,H・ヘーネの『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社,2001.7)に,ポーランド側の調査結果とポーランド降伏後のドイツの調査結果からの被害者数があった.
軍事板
【質問】
ポーランドはどうやっていればドイツの侵攻を防げたでしょうか?
無防備宣言すればよかった?
【回答】
まず無防備宣言をした場合はサクッとドイツとソ連に分割されて結果は変わらないので,もっと能動的にどうするかですね.
つまりドイツとソ連に対抗できる方法が求められるわけです.
とりあえず方法としては,「ポーランドにアメリカ軍を駐留させれておく」という,当時としては実現不可能ですが,もしやっておけばドイツとソ連も攻め込むのを躊躇したかなぁ,という案が.
そして実は現実のポーランドは今,それに近いことをやっています.
この国は欧州で初めて,アメリカのミサイルディフェンスに参加することを決定しました.
アメリカと接近することにより,NATO,EUという枠組み以上の保障を得ようとしているのです.
この国はロシアもドイツも信用していません.
それが彼らが世界大戦で得た教訓なのです.
【質問】
ヤルゼルスキって誰ですか?
【回答】
ヤルゼルスキイ【Wojciech Jaruzelski】(1923- )
ポーランドの軍人・政治家.
23才の時に祖国ポーランドを解放した英雄.
1981 年首相就任.同年,自主管理労組「連帯」主導のストライキに対し戒厳令施行,ソ連の軍事介入を防ぐ.
85 年国家評議会議長.
89 年初の自由選挙後,大統領に選出.
翌年辞任. (新辞林 三省堂)
親友はスターリン・チトー・金日成・ホーチミン・毛沢東・ホーネッカー・昭和天皇・アミン・カダフィ・シアヌークとポルポトという節操のないお方.
(軍事板)

Drawn by Andrzej Krauze
ヤルゼルスキイ回顧録「ポーランドを生きる」などの資料を読むと,ワルシャワ蜂起の際, ソ連軍と行動を共にしたソ連指揮下ポーランド軍団のヤルゼルスキイの部隊などは,プラガ地区(右岸)にとどまったソ連軍の将軍を説得して,自分達ポーランドの部隊だけでも,と必死になってヴィスワ河を往復して物資を輸送したり,負傷者をプラガ側へと運んだりと...読むだけで泣けてくる.
【ジョーク】
ヤルゼルスキイ第一書記がクレムリンで贈られたロングコートは,本国ポーランドに帰ってみると,膝までの長さしかなかった.
クレムリンでは,彼はずっと跪いていたからだ.
小島正雄著『強盗の笑顔』
◆◆◆ソ連関連
【質問】
ソ連とドイツは独ソ戦前までは同盟国だったの?
【回答】
どっちも第1次世界大戦後の国際体制下では仲間はずれ扱いだったため,
さびしんぼ同士の連帯をしていました.
すなわち,ドイツとソ連は1922年にイタリアのラッパロで秘密軍事協定を結び,軍事技術の供与や訓練施設の提供などを相互に行っている.
ベルサイユ体制で国内での軍事技術開発を厳しく制限されたドイツが,ソ連領内に提供された施設で,禁止されていた戦車や軍用機の試験や訓練を行い,見返りに,ソ連はドイツ軍から赤軍将校の訓練を受けている.
これは1933年にヒトラーが政権を執るまで続けられた.
【質問】
独ソ不可侵条約はドイツはニ方面からの攻撃を避けるためなのでしょうが,ソ連はどういうメリットのためでしょうか? ポーランドの領土が欲しいだけですか?
【回答】
領土的問題(ポーランド,バルト三国,フィンランド)というものもありましたが,それよりも,ソ連から見て,西側諸国が一致団結して,ソ連に侵攻するのが一番避けたい事態でした.
1918〜20年代初頭に掛けての干渉戦争に対する恐怖が首脳陣に根強くありましたし.
従って,西欧諸国の一角であるドイツがソ連と不可侵条約を締結してくれると言うことは,英仏と合わせて自国を侵攻する懸念が払拭出来ると考えた訳です.
とは言え,第二次大戦が勃発して英仏との間にファニー・ウォーの状態だった時,ソ連首脳は,英仏独三国が共同してソ連に侵攻するのではないか,と考えていましたけどね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
第2次世界大戦でのソ連の戦死者数は1000万人,2000万人,3000万人など,聞いた人によってかなり違ったのですが,実際の戦死者数はどのくらいだったのでしょう?
【回答】
[詳解]独ソ戦全史(デビッド・M・グランツ/ジョナサン・M・ハウス 学研刊)の巻末付属資料によれば,大戦中の赤軍の完全損失(戦死・戦病死・病死・行方不明・捕虜)は
1128万5067名
とある.
ただし,これにパルチザン,パルチザンと誤認されて殺害された民間人などが含まれているかどうかは不明.
また,独ソ戦初期,兵力を大量に損失したソ連軍は強引な兵員の徴集を行い,ろくな訓練を施さずに戦場に投入し大量の犠牲者を出した.
これらが,この統計に含まれているかどうかも不明.
おそらくは上記の数字よりもかなり大きいものと思われるが,正確な数字はおそらく永遠にわからないだろう.
これに,戦闘による民間人の死者(戦闘の犠牲者,餓死,病死など)を足せば2000万以上.
戦時中に行われた反体制分子粛清,親独と見なされた少数民族強制移住による犠牲者等も含めれば,さらに増える.
人により1000万〜3000万と数字が大きく異なるのは,どこまで戦死者に組み込むかによるだろう.
ちなみに,主要各国戦死者数(民間人含む)の一覧表は,
http://mek.oszk.hu/00000/00056/html/258.htm
を参照されたし.
【質問】
第二次世界大戦で,ソ連軍の死傷者数は1000万超と群を抜いて多いわけですが,どうしてでしょうか?
ネットで調べたところによると,
・背後から逃げる自軍を機銃掃射していた
・武器が2人に1人しかいきわたらなかった
・スターリンの粛清が酷く,まともな指揮官がいなかった
等と出てくるのですが,それだけで,桁違いの死傷者が出るとは思えません.
武器弾薬が少ないとか,無謀な突撃ということでいえば,日本軍もそうでした.
にも関わらず,日本軍の戦死者は100万程度です.
桁がこんなに変わるのは,上記の説明だけでは納得できないのですが…
【回答】
日本の死傷者数が,終戦間際の無謀な作戦に比べると少ないように感じるのは,もともと外地で戦ってて,守備隊が全滅した時点で終わるからです.
沖縄戦を本土でやったらどうなるかを考えてみてください.ソ連と大差無いレベルまで死傷者は増えるでしょう.
人口が違うので1000万は超えないと思いますが.
膨大な餓死者や病死者が発生したというのもあります.
独ソ戦の初期には十万単位でソ連兵が捕虜になったが,鉄条網で囲んだだけの野っ原に閉じ込めてまともに食糧を与えなかった.
あまりにも多くの捕虜がいて,ドイツ軍の補給・管理能力を超えていたのと,どうせスラブの劣等人種だからと捕虜の待遇はほとんど考慮されませんでした.
そのため人肉食が起きるほど,捕虜の食糧事情は悪化しました.
医療活動もまともに行われず,衛生状態も最悪だったので,疫病などが発生し,それによる死者も多量に出ました.
さらに戦場となったのがロシアの農村地帯なので食糧供給が極度に悪化し,独ソ双方がとった焦土戦術が追い討ちをかけて民間人も大量に死にました.
さらにまた,開戦前の大粛清で優秀な指揮官がソ連軍には不足してたことと,開戦後の大敗北とで,兵士が大量に失われました.
開戦当初のキエフやヴィヤジマ・ブリヤンスクの包囲では数十万人が一度に捕虜になっています.
開戦から数ヶ月で100万以上の戦力が失われ,12月にはモスクワ直前までドイツ軍が迫るって状況.
初期のキルレシオは20:1を超えていたと言われます.捕虜も死傷者に含めたら比率はかなり増加するでしょう.
ソ連がドイツを押し返してベルリンに迫っていく頃になって,やっと同じくらいになりました.
後半は多少マシになったとはいえ,前半はとにかく数でドイツ軍の進撃を食い止めるしかありませんでした.
そこで根こそぎに近い動員を行い,新兵をろくに訓練もせずに戦場に投入しました.
(そうでもしないと質的に優れたドイツ軍に対抗できなかったという事情もありますが)
田舎の村から成年男子を「志願」させ,前線近くまで連れてきてから銃の撃ち方だけを教えてそのまま突撃→機関銃の餌食なんてのは日常茶飯事でした.
この傾向は終戦まで続き,ソ連軍の損耗率はドイツ軍と比べて段違いに多かったのです.
例えばノルマンディ上陸作戦の時,ドイツの軍服を着たアジア人が一人捕虜となっています.
最初は日本兵かと思われましたが,調べたところ中国国境近くのチベット系遊牧民と判明.
東の果てでソ連軍の兵士として引っ張られてモスクワ前面で捕虜となり,その後ドイツ軍に志願してノルマンディで勤務してたことが明らかになっています.
それくらいてんぱった状況だったわけですね.
日本軍のほうは,大戦末期で大変だ大変だといわれながら,訓練はできる範囲でしていたようですね.
【質問】
WW2時,国内は粛清の嵐が吹き荒れ,高級将校の65%が処刑され軍はガタガタ,
国民も何千万と処刑され, 東部戦線では何十万の死者と何百万もの捕虜を出し,それでも無謀な突撃を繰り返させられる兵隊.
ぶっちゃけどう考えても暴動もんですが,筆髭のおじさまは一体どんな魔法で独ソ戦を戦い抜いたのですか?
【回答】
これは極めて,複合的な要因ですよねえ.
ドイツの占領政策の拙劣.
軍組織の奇跡的な立ち直り.
大祖国戦争というナショナリスティックなプロバガンダの成功.
ギリギリで成功した生産施設の疎開.
米英からの莫大なレンドリース.
年月とともに硬直していくドイツ軍の作戦←→徐々に柔軟性を高める赤軍の作戦
また,処刑も粛清も一応,法に則ったもの.
嫌疑の真偽は別として.
法の後ろ盾を得た秘密警察とそのスパイのお陰で,反スターリンとして糾合される前に個人単位で抹殺,芽を摘む.
とくにスパイ,密告者がどこにでもいるので,誰を信用してよいのかが分からない状態を維持されるとお手上げ.
大粛清によって軍の組織はガタガタになってたけど,逆に言えば反逆しそうな奴もいなくなってたというのもある.
ジューコフのように,大粛清を逃れた若く体制に忠実で優秀な指揮官がそれなりの数いたってのもあるし.
作戦や兵器行政の隅々まで口を挟んだヒトラーと違って,スターリンは戦略的な高度な決断以外は,赤軍の現場の指揮官に一任するようになっていった.
この結果,信任と行動の自由を得られた赤軍の作戦は柔軟性を増し,硬直化していく一方のドイツ軍(ヒトラー)を容易に打ち破れるようになっている.
あと,スターリンというかソ連首脳部は開戦後,それまでの正教会に対する弾圧をやや緩め,彼らに祖国を守る戦いへの結集を大衆に呼びかけさせた.
そういう点では,こと対ソ政策に関しては硬直した姿勢をとり続けたヒトラーよりも柔軟だったりする.
戦争が終わった後は元通りだったが.
【質問】
アメリカの援助がなく,独ソ戦が長引き,第二次大戦が長期化した場合でも,ソ連は持ちこらえることができたでしょうか?
【回答】
その場合は,ドイツの国家経済と戦争経済が先に破綻する.
ドイツは軍隊動かすのに必要な石油の大半をソビエトから輸入してたので,戦争が長引けば長引くほど不利になる.
現実に,ソビエトは1942年の春くらい(モスクワ攻略が挫折して,ブラウ作戦が発動されるあたりくらい)までは自力で持ち堪えてるので,あそこでモスクワを落とせなかったところで,ドイツにとって勝利の可能性が消滅してる以上,ソビエトが崩壊した可能性はありえないだろう.
ドイツ軍がモスクワを落とせなかったのは,当初の予定を後回しにして改めて攻略を再開したら既に時機を失した後だった,というのが原因なので,もしドイツ軍がモスクワを落とせてたとしたら,それは現実とはかなり状況が違っていることになる.
まぁそういうややこしい要素を全部切り落として考えるなら,中央集権国家のソビエトでモスクワが堕ちてしまうと,国家がマトモに機能しなくなる.
史実のように充分な疎開準備もできないままにモスクワが陥落した場合には,ソビエトという国家そのものが機能不全になった可能性がある.
最大限に見積もれば,スターリンは誰かに殺されて,共産党政権そのものが崩壊してしまったかもしれない.
でも,ドイツの国力でウラル以西の広大な元ソビエト領を安定支配できたとは到底思えないので,例えスターリンが死んで共産党が崩壊してても,そのうちドイツは自壊してしまっただろう.
そうなった後,どんな「戦後」が来るのかは想像し切れない.
もしかしたら,ドイツで共産主義革命が起きて,「ドイツ人民連邦」と西側が冷戦をしてたかも.
いや,これは妄想だけど.
繰り返すが戦争が長引くと経済的に不利なのはドイツの方であって,ソビエトではない.
ドイツにはとにかく早く戦争を終わらせるしか選択肢がなく,逆にソビエトには長引けば長引くほど有利になる.
なので,独ソ戦が長引くのはドイツにとって不利にしかならない.
ただ,英米の援助がなければベルリンを落としたりもできなかっただろうが.
また,アメリカが援助をしなかったと仮定した場合,イギリスが史実以上に(裏手から)ソビエトを支援しているだろう.
実際,イギリスは戦後,アメリカがあまりにも一人勝ちするのは自国にとって好ましくないと考え,ジェットエンジンの技術をソビエトに流したり,原爆関連の情報をソビエトに流したりしている.
連合軍は,世間で思われているほど一枚岩ではなかったのよ.
【質問】
レンドリースのルートで最もパーセンテージが多いのは,北極海経由やイラン経由でなくて太平洋→ウラジオストク経由なんですか?
▼ 【回答】
北極海経由が最も多く,太平洋からは2番目,イラン経由は3番目.
ソ連は工業原料なども輸入していた訳で,北極海からだと米国東海岸から近く,なおかつ,バレンツ海に面した港から,生産工場もしくは戦場まで一番近い場所にあったからです.
太平洋は安定した輸送が出来ましたが,太平洋岸の港から生産工場または戦場までが遠く,輸送手段は夏期の北極海航路以外は,シベリア鉄道のみですので,多くの輸送量は望めません.
また,オホーツク海は天候が厳しく,屡々悪天候に悩まされています.
イラン・ルートは,米国東海岸,西海岸から最も遠く,かつ,イラン国内は余り鉄道網が整備されていない為,トラック輸送に頼らざるを得なくなっており,輸送量は余り多くありません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
手持ちの本によれば
――――――
これらの援助物資のおよそ二割がムルマンスクやアルハンゲリスクに陸揚げされ,およそ三割は中東のイランやイラクの港に陸揚げされたあとに陸送された.
残りの五割は?
何と,アメリカから太平洋を横断し,ウラジオストックに陸揚げされ,シベリア鉄道で運ばれていたのだ.
日ソ中立条約のため,ソ連の国旗を翻した商船である限り,たとえ積荷が対ドイツ戦用軍事物資であったとしても,日本はこれを阻止できなかったのである.
――――――青木基行著作『クルスク大戦車戦』(学研M文庫,2001.5),p.206-207
とあります.
また,以下のサイト
http://maisov.oops.jp/w/index.php?ossrev6
にソ連のレンドリースについての詳細がありますが,そこでも輸送量は,太平洋ルート>中東ルート>北極海ルートの順番になっています.
モーグリ in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
アメリカからソ連にレンドリースされた兵器って,何があるんですか?
【回答】
米国は,1941年から1945年6月にかけて,16,651,000tの資材,貨幣換算で,9,119,204,000ドル分のものをソ連に送っています.
陸軍装備の場合は,トラック400,000台,野砲牽引用トラクタ(インターナショナル・ハーベスタTD-14が代表的),タンクポーター,偵察車,ハーフトラック,戦車などありとあらゆるものが含まれています.
シャーマンもリーと同じく車高が高いという欠点があったけど,車内がT-34に比べて広くて居住性がよかったため,ソ連戦車兵には「家」と呼ばれていた.
ソ連軍も親衛戦車師団のようなエリート部隊に重点的に配備している.
トラックの1/4以上は2 1/2t積6×4または6×6のスチュードベーカーで,これは有名なカチューシャ用の
車台としても用いられています.
スチュードベーカーは他に5t積6×4(セミトレーラ付きのトレーラトラックとして)が供給されてます.
残りは,ジープ,ダッヂのウェポンキャリア,シボレーとダッヂの1
1/2t積4×4トラック,GMCの6×6,MAC,マーモンハリントンのダンプとレッカー用6×6などでした.
一時期の東部戦線の一部では,実に赤軍補給車の半分以上が武器貸与トラックでした.
「ソ連はフォードのトラックのおかげで独ソ戦を勝利した」
という意見もある.
ちなみに,ジープは1942〜43年に掛けて,20,000台以上のバンタムまたはウィリスが供給されたほか,フォードGPA,所謂,水陸両用ジープも大量に供給されています.
これらの車輌は,部品状態のまま,ペルシャ湾経由でイランに運ばれ,コーラムシャールで陸揚げされて組立て,そこからイランを北上してソ連に入っています.
後,戦闘兵器ではありませんが,1942年10月に遊休化していたフォードのタイヤ工場を買収してその工場設備をソ連に運び,其処に設備を設置して,年間100万本の軍用車のタイヤを生産したりもしています.
海軍には,Tacoma級フリゲートの他,Omaha級軽巡洋艦Milwaukeeが1944年に貸与され,1949年まで用いられています.
同じ時期に,平甲板型駆逐艦(英国に貸与された50隻のお下がり)が9隻,1944年に貸与され,これらは1952年まで用いられた上で返還されました.
このほか,YMS級掃海艇31隻,70ft級PTボートが140隻,78ft級PTボートが53隻,80ft級PTボートが60隻,SCクラスの駆潜艇138隻が引き渡され,SC級の一部は1955年に漸く返還されました.
余談ですが,ソ連から返還されたタコマ級フリゲイトは再整備の上日本に借与され,"くす"型PFとして,創設間もない海上自衛隊で使用されました.
航空機では,P-39各型が4,924機,P-63各型が2,421機,PBY各型が189機(他にLicense生産もあります),B-24Dが1機,O-52が19機,P-40Bが24機,P-40Cが195機,P-40E以降各型が2,097機,C-46が1機,C-47が709機(License生産が他にあります),A-20Bが665機,A-20Cが48機,A-20G以後の各型が3,125機,B-25B/D/G/Jが862機,P-47Bが203機,P-47Dが203機が引き渡されています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE他)
【質問】
ソ連のレンドリースの代金はどうなったのでしょうか? まさか踏み倒したのでしょうか?
【回答】
第二次大戦終結後すぐ米ソは冷戦に突入した為,レンドリース代は長い間未払いのままだったのですが,米ソの関係修復が行われた72年にレンドリース代支払いについての交渉が始められ,1990年の6月に返済について合意したそうです.丁度,ゴルバチョフ書記長のグラスノスチの頃ですね.
ただし,ソ連側は代金を「この兵器は役に立たなかった.M3中戦車とか(笑)」とかゴネまくって,かなり値切り,支払ったのは米側が提示した金額の半分以下です.
因みに今でも払っています.
なお,ソ連時代の未払い債務だけでなく,帝政ロシア時代の債務も不履行しているので,1934年4月13日施行の,対米戦債不払い国への融資を禁止するジョンソン債務不履行法に基づき,ロシアがアメリカ市場(事実上,国際市場)で起債を行うには,帝政時代の分まで返済する(若しくは外交で決着する)必要があります.
ue◆WomMV0C2P. in 軍事板
▼ その後,ロシアはガスプロムを国有化した年に一方的に「レンドリースの債務は完済した」宣言をして,もう払ってない
去年〔2007〕だったか,ブッシュが訪露した際にレンドリースの返済を要求,プーチンに一蹴されたなんて記事が世界中に配信された
要はエネルギーで大儲けして他国から金を借りる必要がなくなったから,「信用」なんてどうでもよくなったんだろう.
なお,
「ロシアが帝政ロシアの公債の償還をする(開始した)」
っていう,古典的ともいえる詐欺の手口がある.
日本の「M資金」と同類.
▲
【質問】
スパムはレントリースでソビエトにも供給されたのでしょうか?
されたとしたら評判はどうだったのですか?
【回答】
http://read-and-go.hopto.org/Meat/SPAM.html
には,
"Soviet Premier Nikita Khrushchev at
tributed do
nations of American supplies of SPAM for
the ability of the Soviet Union to feed the
Red Army during World War II"
なんて文章が出てくる.
大戦中のロシア兵は
「アメリカ製の靴を履き,アメリカ製生地の軍服を着て,アメリカ製のトラックに乗り,アメリカ製の缶詰を食べて戦う」
なんて言葉があるくらいだから,味はともかく,常に食糧の欠乏に苦しんでいたロシア兵にとってはありがたい食い物だっただろう.
【質問】
独ソ戦のソ連軍では政治将校が兵士を処刑する話がしょっちゅうありますが,兵士は政治将校を殺そうとか思わなかったんでしょうか?
何人かで束になってかかれば殺れそうだし,もしなんかいわれても敵にやられましたと言い張ればいいとおもうんですが.
【回答】
実際そうやって殺された政治将校も結構いたらしい.
でも,政治将校はだいたいいつも司令部にいたりするのに,「司令部は指揮官以下全員無事だが,政治将校だけ戦死」なんてのはあまりにも不自然だし,それにどうせ始末しても代わりが派遣されてくるだけ.
「あの部隊は政治将校が何人も戦死する.怪しい」
と思われたら,部隊ごと懲罰部隊廻し,なんて事にもなりかねない.
要は彼らは「国家体制の使者」なわけで,国家体制が揺らがない限り,末端の下っ端を一人二人殺したところでどうにもならないのが現実.
また,社会主義国家の社会システムでは,表向き派遣されて活動してる監視役の他に,身分を偽ったり隠したりして密かに監視活動している人間がいるのが普通だった.
「コックがKGBだったのか!」
というやつね(元ネタのわからん人はスマン).
更に,「国家と党のための」密告を奨励された世界だったから,監視組織の人間でもなんでもない「普通の人々」も,お互いにお互いを「監視」して生きていた.
それこそ,自分は何もしていなくても「党のおぼえを良くしたい」「裏切り者の名前を挙げろ,さもなくばお前が収容所行きだ,と脅された」といった動機から,何もしていない人をでっち上げで密告することが当たり前だったりしたので,怖くて怪しまれるような行動など何も出来ない,という世界だったり.
「逆らいたくても逆らえない」システムがきっちりと出来上がっていた訳.
ソルジェニーツィンの『収容所群島』って本を読むと,社会主義国家の国民監視と相互監視の構造がいかに壮絶なものだったのかが,嫌になるくらい解るぞ.
ただ日本でも,イジメの酷い学校のクラスとかはこんなだよなって感じではあるが.
軍事板
【質問】
ロシアに駐留していた日本人・日系帰化人は,ソ連参戦までは,どのような処遇がなされていたのですか?
【回答】
岡田嘉子など,日本人は1937年前後に軒並み,「日本のスパイ」として逮捕・拘留され,100名前後がシベリアなどに流刑になったり,銃殺されています.
流刑になった日本人は,1945年から最長で1950年代まで出所出来ませんでした.
従って,無事な日本人は殆どいません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
ソ連の国力増強の規模は?
【回答】
ソ連は,第一次5カ年計画(Gosplan)と第二次5カ年計画で欧米先進各国に追いつき追い越す計画を立てており,更に第三次5カ年計画の策定時には,その生産力を軍備にも傾注しようとして,Kliment
Efremovich Voroshilov国防人民委員と彼のスタッフたちは,軍備増強案を立てていました.
これは
民兵制度を廃止して正規兵のみの軍とする,
常設師団の定員を13,000名から18,000名に増強する,
この常設師団に戦車大隊,野砲連隊,重砲連隊を新設する,
最後に,師団の歩戦砲の総合戦力の機動的用兵と火砲力の強化に努める
事を骨子とするものでした.
元々,第一次5カ年計画では,富農層を中心とする大農園制を中心とした資本主義農業から,中農,小農層の共同耕作を経てkolkhozに発展させる社会主義農業への転換を掲げていました.
これにより,1928年の第一次5カ年計画開始時に1戸当りの平均播種面積4.5haの自営農民層,富農層が98%を占めていた構成を,中農,小農を共同耕作組合に加入させ,耕地の個人利用も農業artel'に転換させていき,最終的に1932年の同計画終了時には,Kolkhozは播種面積の68%,Sovkhozが10%となり,私営農業の比率は22%に低下しました.
またKolkhozの平均播種面積も,1928年には42haだったのが,1932年には434ha,Sovkhozなら544haから2,303haに延ばし,私営農業の平均播種面積は3.15haと相当狭まる事となりました.
この集団化は小麦,大麦,ライ麦などの播種穀物だけでなく,商品作物,綿花,亜麻にも拡大されていきます.
そこで問題となるのが,農業の大規模化に伴う生産性の問題です.
従来の4.5ha程度の農地であれば,人力を動員すれば何とか収穫に漕ぎ着ける事は出来ましたが,2,303haの農地に人力だけでは,殆ど手が回りません.
こうして,農業の機械化が第一次5カ年計画で必要となり,農業用機械の生産部門が拡充されることにあんりました.
第一次5カ年計画では,従来輸入だったトラクターを国産化すべく,ブチーロフ工場,スターリングラード工場,ハリコフ工場,チェリヤービンクス工場を建設し,これらの工場で国産トラクターを中心とした農機具を大量生産する事になります.
トラクターの生産は,1927年の年産874台から1932年には年産46,068台へと急拡大し,自給率は100%となりました.
この生産台数は,米国を抜いて世界一となり,名実共に生産性向上と技術革新の旗手となった訳です.
これが可能になったのが工作機械の充実でした.
1917年の革命当時は国産工作機械の比率は24%,其の後,一時的に内戦で海外からの機械輸入が不可能となった為,その比率を徐々に高め,1928年で34%としました.
第一次5カ年計画ではこの比率を更に高めて,1932年の終了時には46%とほぼ半数が国産の工作機械で賄えるようになりました.
この時期に建設され稼働を開始,または建設中の代表的な工作機械工場としては,
ターレット機のモスクワ工場(年産6,700台),
ミーリング機はゴリコフスキー工場(年産8,000台),
銓孔機のハリコフ工場などがあり,
工具製造工場として,
レニングラードのプネヴマチカ工場,
ウォスコフ工場,
モスクワ工具工場,
ズラトウストフスキー工場
などが挙げられ,更に
モスクワのカリーブル工場,
フレーゼル工場,
スターリングラード・トラクター工場,
スターリン記念モスクワ自動車工場
などでは精密工作機械用のニウマリック工具,ヨガンソン式鋼片,マイクロメーター,旋回刃などの生産を開始し,高速度鋼,超硬質合金を採用し始めていました.
こうした工場の充実は,自動車産業の発展をも促し,1932年には世界4位の自動車大国に成長しています.
また,産業の発展がエネルギー産業の自給を促し,石炭の産出や石油の生産を増加させる為に掘削機械の導入など多くの機械設備を導入しました.
例えば,石炭の機械化水準としては採炭ではソ連のドンバス地方が71.9%なのに対し,ドイツのルール地方は93.0%,米国は77.5%,英国は35.0%と極めて高くなっています.
様々な連関の歯車が上手く回れば,ソ連という国のポテンシャルはとてつもなく高くなります.
1932年には,
電力と自動車の生産は世界で6位,
石炭と銑鉄は4位,
一般機械製造,石油生産は2位,
農業機械,トラクター,泥炭の生産では1位
の座を占める事に成功し,全工業生産品では,世界5位から2位に躍進することになりました.
こうして次の第二次5カ年計画に繋げていくのですが,この5カ年計画では,更に社会主義農業を発達させ,工業は重化学コンビナートの完成と経営,国防と軍戦備の充実に主眼が置かれた他,対ドイツ,対日の東西二正面戦争を想定して,極東を中心とした地方経済の自給自足体制の確立をも視野に入れていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月20日21:35
1933年からの第二次5カ年計画は,農業分野では社会主義農業の発達,工業分野では建設中のコンビナートの完成とその経営,国防分野では軍戦備の充実を主眼とし,更に東西に正面戦争に対応すべく,極東を中心として自給自足体制を確立する事が緊急の課題として浮上しました.
この第二次5カ年計画の最終年である1937年度の生産目標は,
銑鉄生産は年産2,200万トンで世界第2位,
石炭の年間出炭量は25,500万トンで世界第2位,
石油の年産は8,000万トンで世界第2位,
機械生産は2〜3.5倍増強させ世界第2位,
トラクター生産は年産4万台のチェリャビンスク第一工場を始めとするの装軌トラクター工場群が完全稼働すれば,年産17万台となり世界第2位,
自動車生産は年産20〜40万台を計画する
としていました.
これが成功するか否かの鍵になるのは,ウラル=クズネツク,ベレズニク及びボウリコフスク,ドニエプルなどで建設中のコンビナート型結合工場の完成,ドンドスの複合化などコンビナート型結合工場を中核に其処から派生する工業の高度な発達に掛かっています.
一方,こうしたコンビナート型結合工場は,地方に建設される為,地方経済に大きな影響を与え,更に州や地方の経済計画と連関させる様にしました.
こうした動きで党中央が重視したのがシベリア地方であり,良質なコークスとなりうるスーチャン炭と,その近傍にあるオリギンスク鉄鉱山を基に,製鉄工場を興し,その製鉄工場から生産される鉄材を用いて,造船業を盛んにし,缶材を生産して,缶詰工場を造り,造船所で生産された漁船を用いて,北方の豊富な漁業資源を獲り,それを缶詰に加工して輸出する.
他に,穀物経済や牧畜業の他,商品作物である亜麻,大麻,甜菜が栽培されている訳で,これを基礎に,農産物原料品を加工する製糖工場や製麻工場を発展させる事で,極東が自立し,食料品と基礎生活物資を自給自足出来れば,クリミヤ半島から地球を半周させて,ウラジオストクに盥を運ぶ必要もなくなるし,鉄鉱石を延々ウラル地方に運んで,生産した鉄を再びウラジオストクに運ぶのも輸送費ばかり掛かってしょうがないと言う馬鹿な事をしなくても済むと言う事になります.
スーチャン炭やオリギンスク鉄以外の資源,例えば,樺太で産出する石油,カムチャツカで採炭される石炭,金属鉱山をこうしたコンビナート型結合工場で加工して,地域を発展させるのも,この第二次5カ年計画の主眼でした.
国防に関しては,師団編成の再編がありました.
ソ連の狙撃師団の場合,兵員20,000人,馬匹7,600頭で,当時の日本の師団よりも兵員数,馬匹の数は劣っていました.
但しその構成は,狙撃(歩兵)兵3個連隊,捜索1個大隊,軽砲兵1個連隊,15cm重砲1個連隊,戦車1個大隊などから成っており,その火力は,ライフル銃を除けば,自動小銃(短機関銃の事か?)522挺,軽機関銃351挺,擲弾筒522個,重機関銃176挺,76mmと122mm連隊歩兵砲18門,45mm対戦車速射砲85門,82mm迫撃砲18門と重厚であり,更に砲兵装備は,軽砲46門,15cm重砲24門,高射機関銃72挺,76mm高射砲6門となっています.
この火力は日本陸軍に比べると,速射砲は約5倍超,重砲は圧倒的に多く,対空装備も全くない日本軍とは対照的に充実していました.
更に自動車工業の発達を背景に,自動車化狙撃師団の編成を行っています.
自動車化狙撃師団は兵員7,060名,トラック1,530台で編成され,基幹部隊は乗車狙撃3個連隊,砲兵1個連隊,戦車30両で編成される戦車1個大隊,偵察の為に戦車4両と装甲車9両で編成される捜索1個大隊であり,後方部隊以外は,全員自動車で移動していました.
これを補完する部隊として,戦車105両で編成する戦車旅団,装甲車,軽装甲車75両で編成する装甲自動車旅団,戦車150両で編成する機甲旅団が編成され,電撃戦の素地が整っていた訳です.
この電撃戦を大々的に行ったのが,日本軍相手のノモンハン事変でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月21日21:32
【質問】
ゲオルギー・リボン運動とは?
【回答】
2008/5/9付,ノーボスチ通信社によれば,「ゲオルギー・レントチカ(St.George
Ribbon,ゲオルギー・リボン運動)」とは,戦勝記念日の前夜に行動参加者各人が,ロシア全土に亘り,黒色とオレンジ色が交互に交じり合った帯状のリボンを括り付ける行動.
この色は,ロシアとソ連の武勲の賞状に当たる象徴的意義を持つ戦場での兵士の個人的な勇敢を表し,
「このようにして,これは,我が国の独立を守り,国家をファシストから救った,生き残った人,名前の記録は残っている人,あるいは名もなく死んだ人,への感謝の意を表するものだ」
と説明されている.
「ロシア・ノーボスチ通信社」と青年社会団体「ストゥジェンチェスカヤ・オプシーナ(学生社会)」がその運動の提唱者になっており,すでに4年連続で行なわれているという.
***
黒色とオレンジ色が交互に交じり合った帯状のリボンは,ロシアでは聖ゲオルギウス・カラーと言うそうだ
.
ロシアの勲章を見ていると重要な勲章にはこの色使いが見られる.
聖ゲオルギ−勲章
ゲオルギー・リボン運動の参加者



CRS@空挺軍 in mixi,2008年05月10日21:26
◆◆◆UK
【質問】
「イングリッシュペイシェント」って第二次世界大戦を舞台にした映画で,英軍のインド人中尉が,白人の軍曹を指揮してるんですけど,実際に非白人の上官が白人の部下を配下に置くことは当時,可能で,よくあることだったんですか?
かわぐちかいじの「ジパング」では,インド人将校の下に置かれるのは皆インド人の兵士でしたけど.
【回答】
インド人の将校には二種類ありました.
一つは,インド帝国皇帝(つまり,英国国王)から任命された将校,もう一つはインド副王から任命された,副王任命将校で,これはジェムダル→スブダル→スブダル・メイジャーと階級が上がります.
前者は,正規の教育を経た英国の将校という位置づけなので,インド人将校が英国人兵士を指揮することは十分可能です.
某漫画は所詮漫画ですからね〜.
後者は,どちらかというと叩き上げのインド人下士官兵から選抜されたもので,スブダル・メイジャーになると,インド人下士官兵に関するあらゆる問題について,英国人連隊長に助言を行うのが役目で,英国人兵士に対する権限はありませんでしたが,下士官から選抜される将校だけに,経験が豊富なため,インド人,英国人双方から尊敬されていました.
なお,ビルマ軍の場合は,これが総督任命将校と言う名称になっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
なぜ英国はヒトラーを抑えることに消極的だったのか?
【回答】
イギリスにとってはヨーロッパよりも,「お家」のほうが大事だったためだという.
以下引用.
1930年代のイギリスは――仮想敵国と比べた場合――半世紀前より遥かに少ない資源で世界各地に広がる帝国を防衛しなければならないという課題に直面していた.
イギリスが例えフランスと同盟を組んでも,3大陸で日本,イタリア,ドイツからの挑戦を同時に耐えねばならない状態に追い詰められていたのである.
いずれにしても,イギリスは常に,ヨーロッパ大陸への大規模な軍事介入を避けてきた.
1914年から18年には,この伝統を立ち切って大陸に軍事介入したわけだが,その代償は膨大で,二度とこんな経験は繰り返すまいと考えた.
このため,イギリスは東・中央ヨーロッパの領土問題の解決に深い思い入れもなければ,ドイツの挑戦に対して武力を行使してまで防衛しようとも思わなかったのである.
イギリスはドイツの承諾を得ようとして,現地の人々に犠牲を強いて数多くの譲歩を,進んで重ねていった.
要するにイギリスは,「ベルサイユ体制」の道義性に疑問を抱き,再びソンム川へと戻らねばならない恐怖感にも駆られていたのであり,イギリスにとってはヨーロッパよりも,むしろ帝国の優先順位や関係のほうが大事だったのである.
その結果,1939年9月,遂にヒトラーの挑戦に直面すると,イギリスが西部戦線に派兵したのは,あまり見栄えのしない2個師団というちっぽけなものでしかなかった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.146-147
【質問】
第2次大戦中の米国からの武器購入の代金を,英国はどのようにして支払ったのか?
【回答】
1939年9月から第二次大戦が勃発した事を受けて,英国とフランスでは動員を掛けると共に,不足する兵器を各国に発注して取揃えることになります.
特に期待されたのは,米国からの武器購入でした.
しかし,当時,米国には中立法による制約があり,英国を中心とするスターリングブロックからの対米調達は,金,もしくはドルで決済する必要がありました.
更に,戦時スターリング地域の設定と戦時為替管理の導入に伴い,ポンド自体が自由交換性通貨の性格を失った為に,米国以外の第三国地域との取引に於ても,英国を始めとするスターリングブロックは,金・ドル決済を余儀なくされます.
1940年6月以降はフランスの対米調達分も引き取った事に伴い,英国の金・ドル資金は急速に枯渇に向かいました.
また,英国は非居住者並びに外国人居住者の一部に対しても,資金の海外移転に可成り自由を与えたこともあり,戦争初期(1939年9月〜1940年12月)には,資本流出額は7億3500万ドルに達しました.
このうち2億ドルは,中立法の「現金自国船方式」に従い,米国輸出信用の開戦時未払い残高の返済に充てられたとされ,3億ドルが自由ポンド市場を通じて移転された純粋な資本逃避分,残り2億3500万ドルは戦前の短期先物ドルポジション清算とされています.
英国の持つドル資金源は,大部分,保有金準備とドル証券でした.
英国は,大戦勃発時点で20億3800万ドル分に上る金を保有していました.
ドル証券は,第一次大戦にも行った手法で,英国人保有のドル証券を,Defence(Finance)Regulation
No.1(国防(金融)規制第1号)並びにS.R. and
O. No.966(1939.8.26)によって大蔵省に預託させ,英国政府はこれを米国で処分することによりドル資金を調達すると言うもので,これらの総計は約9億5000万ドルに達しました.
総計で比較的英国が容易に利用出来る流動的ドル資産は,
合計28〜29億ドル,加えて,直接投資,民間保有ドル残高を加え,英国にあるドル資産は,44億8,300万ドルと推計されていました.
これに対し,1939年9月〜1940年12月までに英国が買い付けた兵器を始めとする対米取引による英国並びに大英帝国地域のドル総支払額は,43億4,600万ドルで,このうち,軍需関連調達は合計13億8,000万ドル(製品の納入分6億6,000万ドル,米国企業への資本援助1億5,000万ドル,前払い分5億700万ドル)でした.
一方,英国のドル受取総額は20億3,000万ドルだった為,1940年末までに差額23億6,000万ドルを,全て開戦時に英国が保有していた金準備とドル資産で賄う必要があった訳です.
米国政府は,1934年のジョンソン法により対英仏政府貸付が禁止され,1939年9月5日の中立宣言による米国からの交戦国に対する武器の輸出や対米買い付けに対する英仏への貸付も禁じられていたのですが,中立法改定により「現金自国船」方式で,何とか軍需品については英仏に売却が出来る様になりました
しかし,政府貸付は相変わらず出来ないままでした.
この為,当初は民間が英国大蔵省の許可の下,米国市場でドル証券を売却し,大蔵省にドル代金を引き渡す事で,ドル資金の調達が図られていました.
とは言え,余り大量にドル証券を米国市場で売却すると,米国市場の混乱を招きかねない事,民間ベースでドル証券の処分には限界があることから,1940年12月には金現送が可成り必要とされました.
この金現送を出来る限り回避するため,1940年2月17日に,60種,約3,000万ポンド相当の米国企業の株式に対し,最初の証券付託命令が出され,1940年4月末までに約3,400万ポンドが調達されました.
4月13日には,約2,600万ポンド相当の米国証券に対し,第二次付託命令が出されます.
これにより,登録済みで接収されていない上級の米国証券は,約1億3,000〜4,000万ポンド分を残すのみとなりました.
ところが,1940年5月,ドイツによるデンマーク,ノルウェー,低地諸国への侵攻に伴い,ニューヨーク証券市場の市況が悪化し,証券売却によるドル資金調達は頓挫することになりました.
と言う事で,1940年6月末までに英国の金・ドル準備額は合計15億7,200万ドルに減少し,僅か1年足らずで6億5,500万ドル分の損失を生じました.
更に悪いことは続きます.
連合国だったフランスの脱落に伴い,英国はその対米契約を引き継ぎ,米国の余剰兵器を大量に購入することになります.
更に対米調達は急増し,特に1940年7月後半には,BoBで失った航空機の補充の為にも,米国から航空機を月3,000機調達するプログラムも明らかになり,このプロジェクトには総額約70億ドルに達するものとなります.
こうして,僅か1ヶ月の間に英国の金・ドル準備額は証券を除いて,12億8,000万ドルと急降下していきます.
更に,翌8月迄に2億2,800万ドルが流出し,1941年6月までに,対米赤字額は32億ドルに達すると推計されました.
こうした事態を重く見た英国政府は,1940年3月以降,特に6月,7月から為替管理の強化を図りました.
特に自由ポンドを通じたドル流出の抑止に重点が置かれています.
禁じ手としては,ロンドンに本拠を持つ各国の亡命政府が保有する英国管理下の金準備の利用とか,英国の直接投資の処分が考えられました.
当時,英国の管理下にあった金準備は,ベルギー8,700万ポンド,オランダ2,350万ポンド,ノルウェー1,300万ポンド,チェコスロヴァキア約750万ポンドなどがあり,フランスに関しては,オタワにフランス銀行に対するイングランド銀行保有金7,000万ポンド,カナダ銀行保有金9,000万ポンドがありました.
このうち,1941年初めにベルギー保有分約5,900万ポンド分を,戦後復旧を条件に残部に関するオプション付で引き取ったほか,チェコスロヴァキア保有分に関しては,1940年7月,チェコスロヴァキア臨時政府承認と絡めて,合意の下で,敵資産管理として,イングランド銀行の手に委ねられました.
しかし,オランダやノルウェーについては,英国は金貸付を嫌って使用せず,フランスの金については,下手に流用すれば,ケベック問題に絡む可能性が出て来るので,使用しませんでした.
こうなると英国としては八方塞がり.
ドイツと戦争するのに,ドイツは幾らでも打出の小槌の様に刷れば資金が出て来るのですが(国債を使い,国内の銀行に保有させるという手法に加え,輸入と言うのが殆どドイツは無い),英国は保有する金が目減りする一方で,こうなれば,大きな財布を期待するしか有りません.
しかし,当時の米国は,孤立主義の風潮が根強く,直ちに対英援助を開始することが出来ませんでした.
其の上,F.D.Roosevelt政権自体,英国の金・ドル資金の枯渇には疑念を呈しており,米国側は,英国に支払い能力の総浚え("scrape the bottom of the barrel")を要求し,その完全な枯渇を前提に初めて援助すると言う姿勢を示していたのです.
歴史では偶々,「戦争屋」Winston Churchillが政権を担った訳ですが,これが全然違う人物だったら,英国はBoBを戦っただけで,金が無くなって,白旗を揚げずにおれなかったかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/23 20:57
1940年9月末には,英国の金・ドル準備高は8億9,700万ドルに落ち込みました.
しかも,このうち約6億ドルは為替相場安定のための基金として維持しなければならないものであり,そうなると,英国が自由に出来る金・ドル準備高は僅か2億9,700万ドルとなり,1939年末の21億ドルに比べると僅かに7分の1になってしまいました.
こうなると,英国は国家破産の危機に瀕していた訳ですが,1940年に,対英援助を積極的に行おうと言うF.D.Rooseveltの大統領再選が決まり,その方針転換を受けて,英国政府は次々と大型対米調達プログラムを発動させます.
航空機購入については,従来のものに加え,16億9,400万ドル分が加わって,24億1,000万ドルに達し,軍需品については4億1,900万ドルの追加で7億5,900万ドルに上り,戦争第2年次に英国が必要としている対米調達総額は,1940年7月推計の18億9,200万ドルから倍増して,39億7,600万ドルと見込まれることになりました.
こうなると,英国の赤字額は35億ドルに達します.
年末になると,英国の金・ドル準備高は,金準備2億9,200万ドル,其の他公的・私的ドル残高3億5,900万ドルの6億5,100万ドル強に落ち込み,在米直接投資などの9億ドル,ドル証券残高の6億1,600万ドルを加えても,英国の総ドル資産合計額は開戦時の半分以下に落ち込みました.
こうして,窮地に陥った英国を助けるべく,米国が採ったのが1940年12月17日の「レンド・リース」方式での対英援助の基本構想であり,1941年1月2日迄に基本案が纏められ,1月5日に大統領の年頭教書で議会に提示された後,1月10日に議会に提出,最終的に"An Act to Promote the Defence of the
United States"(米国国防推進法)として議会を通過し,成立しました.
以後,1945年後半に至るまで,総額460億ドルに上る援助を与えることになりました.
この最大の特徴は,ドルの債権債務関係を明示的に形作るものではないと言うものです.
其処には,第一次大戦当時の米国の連合国援助は「政府現金貸付」方式であり,この貸付を巡って,戦後に英国やフランス,ベルギーなどの各国がその返済に苦慮した問題が生じた轍を踏むまいと言う意志がありました.
このレンド・リース援助は,貸付ではなく,ドル表示の消去が意図されました.
代わって,このプログラムには,米国は自身の国防への貢献から来る一般的利益を越えて,特定の利益によって補償されるべきものと抽象的に定義されました.
しかも,レンド・リース法自体には,援助供与の条件・条項が盛り込まれることはなく,支払い・返済や其の他直接・間接の米国への「利益」に関しては,大統領が決定すべき事項とされています.
大統領はレンド・リース法によって広範な権限を持ちました.
先ず第1に,大統領は,援助適格国と宣言された諸国政府の為,米国政府の機関,部局に対し,
1. 国防品の製造・調達,試験・検査其の他の権限を与える.
2. 国防品に関して,その売却・移転・交換・リース・貸付其の他の部分の処分の実行,情報交換を行う.
と言う2つの権限を付与出来るものとしました.
第2に,大統領は,「国防品」13億ドルまでは,援助に関する裁量権を与えられました.
(但し,この権限はByrd修正条項によって其の他は全て議会による特別の支出認可法が必要とされた)
米国の各部局支出認可資金によって調達される国防品の一定割合を対外援助に使用する,Transfer方式は,米国参戦後に成立した第3次補正国防支出法によって本格的に導入されましたが,その前提として,米国は英国を初めとする連合国各国が必要とする軍需品の量を,英米の軍事戦略・経済・生産全体に結合して,統合的に運用する必要がありました.
故に,1941年12月8日以前は,8月の第1次国防補正支出法に於ける海事委員会への12億9,600万ドルが初めて認可されたに止まりました.
第3次国防補正支出法では,陸軍省に20億ドル分,自省の契約を同盟国に移転する権限が与えられ,海軍省にも新規支出認可の25%までを同盟国に移転する権限が与えられることになりました.
一方で,大統領の裁量が13億ドルから8億ドルに削減され,陸軍以外の調達に制限されることとなります.
取り敢ず,英国としては戦争遂行上の隘路が一つ解決された訳ですが,これは無条件援助と言う訳ではなく,
1. 大統領の同意無しに援助受取国が国防品や情報を他国に移転出来ない
2. アメリカ市民の特許保護義務を負う
と言う足かせがはめられています.
特に第1の条件は,米英による戦後の経済的覇権絡みの条項だったりします.
未だ,大戦の帰趨も定まっていない頃から,両国の争いは始まっていた訳で,其処にノコノコ参戦した日本こそ,好い面の皮だったりするのではないか,と思わないでもない訳で.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/24 21:56
【質問】
英国にとって植民地は戦争遂行上,役に立ったの?
【回答】
最大の植民地(+連邦)を保有していた英国にとっては,最大の利益をもたらしていたのは事実
両大戦で英国が辛くも持ちこたえられたのは,植民地があってこそ.
間違っても,レーダー・スピットファイア・・・などと言う無かれ.
特にインド帝国は,第一次大戦では兵員135万人・戦費2億5千ポンド,物資8千万ポンドをつぎ込み.
第二次大戦に至っては,兵員265万人・戦費12億ポンドを英国はインドから
搾り取りとった.
兵器の発達と共にほかの植民地はいらなくなるけど.
一方,日本はかなりの予算を台湾・朝鮮・満州につぎ込み,結局は費用対効果は分からずじまいだったが,
【質問】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041020-00000007-wir-sci
>第2次世界大戦の兵士が,毎食出てくるスパムに愚痴をこぼすアニメの展示もある
スパムってどんな食い物なの??
【回答】
スパム,というのは商品名.
味付け豚肉の缶詰だが,味付けと匂いが独特で,激しく不評だった.
大戦中食糧が不足したイギリスに,アメリカは大量の食糧援助を行った.
イギリスの家庭には,肉の代わりにスパムばかりが配給され,その不味さにみんないいかげんうんざりした.
これがモンティ・パイソンの「スパムばかりしかないレストラン」のコントの元ネタになり,また,大量に送りつけられる迷惑メールの語源ともなった.
しかし皮肉なことに,この食糧配給制度により,階級格差の大きかったイギリス人の体格は戦時中大きく向上したそうだ.
今でも,輸入食料品を置いている近所のスーパーでは売れないらしく時々半額で売っている.見つけると良く買う.
加熱調理済みの豚肉なので薄く切って焼いてトーストに乗せて喰う.
でも,カロリー高し.
軍事板
▼ 以下は『歴史群像』No.88内の「奮闘!イギリス艦隊航空隊 枢軸海軍を痛打した空飛ぶ海賊紳士たち」(白石光)
に紹介されている,ビスマルク追撃戦時の英空母ヴィクトリアスの夕食時の一コマ.
第825中隊の副隊長ジョック大尉「このメニューで生粋の国産品てどれ?」
給仕係「コンビーフサンドのコンビーフはブラジルでパンの小麦はカナダ.バターはヤンキー製.オレンジジュースは南ア.コーヒーはブラジル.国産は燻製ニシンと人参のピクルスだけです」
ちなみにイギリス海軍では下士官・兵はコーヒーを愛好しており,艦隊航空隊員もフライト前はコーヒーを好んだそうです.
(カフェインによる覚醒効果も期待されたそうです)
グンジ in mixi,2008年03月23日14:35
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