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◆◆◆連合国側勢力
<◆◆総記
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ
(画像掲示板より引用)
『職業軍の建設を!』(シャルル・ド・ゴール著,不知火書房,1997.5)
なんだか文学的表現,歴史的な引用が多く,疲れる.
まあ,実際言ってる事は具体的で,今でも通用する部分も多く悪くないが・・・
当然凄まじいフランス視点なので万能でもないし.
『剣の刃』(葦書房,1993.4)は読んでないけど,本書よりも精神論的なんだと?
想像するだけでつらいね.
――――――軍事板,2010/06/09(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
第一次世界大戦後,英仏はドイツにどのように対応しようとしたのか?
【回答】
以下に箇条書きしてみる.
A.フランスはドイツが再び台頭できないという軍事的保証を求めていた.
B.フランスはイギリスに安全保障を求め,ドイツが復興した場合の軍事的準備を望んだが「侵略者を事前に想定するのは集団的安全保障に反する」「フランスはドイツより強い」という観点からイギリスは抵抗した.
C.そのイギリスはドイツ人を「ヨーロッパ協調」に戻すべきである,という視点から宥和政策を考えていた.
D.フランスはそうしたイギリスの議論に動かされることなく,ポーランド・ユーゴスラビア・チェコスロバキア・ルーマニアとの小協商と同盟を結んだ.(これは,バランスオブパワーの点からしても誤りであった)
E.フランスは,ドイツの賠償支払いが遅れると,軍隊を派遣して,支払いがなされるまで工業地帯であるルール地方を占拠した.(そのため,ドイツは途方もないインフレに悩まされることになった)
Eは間違いなくヒトラーの台頭に貢献しただろうと思う.
ますたーあじあ in mixi
【質問】
連合国側のアルミニウム確保状況は?
【回答】
一時は在庫が10日分を切る有様だったが,主としてオーストラリアの鉱山のものに頼った.
戦争という非常事態の下,製造原価を度外視してアルミナ収率85%という回収効率の良い生産方法がとられたという.
一方アフリカでは大戦勃発により,探査事業が中断している.
***
1937年,米国内務省が"Geological Survey
Bulletin 878"を発行しました.
この報告書は,1878年に設置したLaboratory
of the United States Department of the Interior(地質調査所)が,1879年から地質調査を開始し,1880~1914年の間に2,789カ所の調査,1915~1936年の間に1,533カ所の調査を実施した結果の概略報告書です.
この調査は州毎に実施され,鉱石の分析報告は凡そ,基本物質5種類,硫化物19種類,テルル化合物1種類,塩化物と弗化物8種類,酸化物19種類,炭酸化合物9種類,硅酸化物62種類,チタンの硅酸塩1種類,コロンビウム4種類,硼酸塩類7種類,窒素塩2種類,燐酸塩9種類,バナジウム塩類8種類,砒素塩1種類,硫酸塩21種類,モリブデン塩類その他7種類の合計183種類の岩石と鉱物の見本分析が表示され,米国の地表構造を為す鉱産物と品位が判る様になっています.
ボーキサイトの場合,アーカンサス州にAl2O336~53%,SiO27~38%のもの,ミシシッピ州にAl2O315~59.6%,SiO22.75~47%,ミズーリ州にAl2O331~76%,SiO23.8~40%などが報告されています.
ボーキサイトに関しては,米国には混合鉱を含む多種類の賦存が報告されていますが,巨大鉱床の報告はありません.
しかし,例え少数の鉱物の存在を明らかにする為でも,あの広い米国全土を股に掛けて鉱産物を調べる姿勢は凄まじいものがあります.
これは国家の持つ資源と資産としてだけではなく,将来の産業開発や国民の経済活動に必要な基本情報とも言うべきものです.
日本でも,こうした活動は太平洋戦争中に泥縄式で行った訳ですが,今では殆ど顧みられることはありません.
何しろ,輸入した方が安いですから.
でも,本来は安全保障の為にも,こうした情報はきちんと蓄積すべきではないでしょうか.
そう言えば,気象衛星にしても,気象庁で運用費が賄えないので維持がピンチになっているようですが,数億程度,何処かの天下り法人を潰してしまえば捻出出来るのではないでしょうかねぇ.
気象だって,十分な安全保障政策の一つなのですから,こうした所にお金を掛けないでどうしますか.
さて,本題に戻って,アルミニウム地金がアルミナを電解して商業的製品として生産され始める19世紀に,バイヤー法によるボーキサイトからのアルミナ製造技術が確立します.
こうして,欧州でBauxiteの確保が始まりますが,このBauxiteとは,フランスはアルル地方近郊のLes
Baux村で発見されたシリカと鉄分の比較的低い粘土に付けられた名前で,最初は窯業に用いられていました.
因みに,電解法が見つかるまでのアルミニウム地金は,塩化アルミニウムとナトリウムにより生産されており,この原料は明礬石だったりします.
この電解に用いる電力は水力が主です.
まぁ,「電気の缶詰」と異称のあるものですから,電気を目一杯用います.
ですから,火力発電で電解を行っていた会社は,安い欧州産(欧州では水力発電が主流)に勝てず,米国やカナダのアルミ精錬産業は,程なくナイアガラの滝にある電力会社の水力発電の電力を用いる事になります.
また,当初アルミナは米国での精錬業でも,欧州からの輸入でしたが,これも19世紀末にジョージア州とアラバマ州にボーキサイト鉱山を確保し,そこから原料を確保する様になりました.
ボーキサイト鉱物は,Gibbshite(三水和物),Boehmite(一水和物),Diasporeが自然界に存在し,更に特殊な条件で,Bayerite,Nord
Strandite,Tohditeが存在します.
Diasporeは一般に,アルミナ分が高く鉄分が極めて低く,焼成して耐火物や研削剤の原料として利用されますが,バイヤー法ではアルミナの抽出に膨大なエネルギーが必要です.
また,産出状態と母岩の種類では,terra rossa型とlaterite型に分けられます.
前者の母岩は石灰岩もしくはドロマイトでBoaehmiteが主体であり,結晶水は10%程度,後者の母岩は火成岩,変成岩類で,Gibbshite主体であり,結晶水は30%程度とされています.
しかし,この分類は極めて好い加減なもので,単独鉱床は少なく,混合型であり,母岩での分類も正確とは言いがたいものがあります.
欧州産のボーキサイトはBoaehmiteが主力だったり,Diasporeの混合鉱だったりして,実際に輸入してアルミナ抽出作業をしてみなければ判らなかったりします.
20世紀に入って,アルミニウム需要が急速に拡大すると,大量で均一なボーキサイトが必要となりました.
更に製造原価を下げるには,精錬メーカーは最も効果的なアルミナ分含有の高いボーキサイトを望みました.
Boehmiteの場合は,アルミナ理論値が85%なのですが,これはアルミナ抽出に高温高圧が必要で,シリカの種類によっては苛性ソーダ損失に大きな異動があり,所与の条件を更に複雑にしました.
次いで注目されたのが,Gibbshiteで理論値は65.4%と低いのですが,高アルミナ低シリカ,しかも低リアクティブシリカで,尚かつ赤泥の発生量を少なくする為に,鉄分が出来るだけ低いことが要件となりました.
其の上,輸送費用を逓減する為に,鉱山は海に近く,かつパナマックス,カナールサイズの大型船が停泊出来るのに十分な推進のある港が建設出来,ボーキサイトを現地でアルミナ加工出来る十分な鉱量があり,採掘費が充分安価であることが条件として加わり,更に,発展途上国(ジャマイカ,ギニア,ガーナなど)での様に,政情不安が起こらないこと….
こうして考えていくと,此の条件に合うボーキサイト鉱山は,豪州しかありません.
豪州では,Gibbshite鉱で低リアクティブシリカではありますが,低アルミナ高シリカの西豪州産ボーキサイトの生産革命が起きました.
最初は,採掘し輸送したボーキサイトのアルミナ分は,相手がどんな鉱石であれ,アルミナ分を出来るだけ抽出するプロセスを準備する,または,抽出する最高の条件で工場を操業する様にしていましたが,技術者達は発想の転換を行い,低温低圧の条件下で最も容易かつ最も低原価で抽出するアルミナ分を設定し,抽出しきれないアルミナは全部廃棄する方式を採ったのです.
元々,この生産方法は,1942年末にUボートの通商破壊戦により,南米産の船舶輸送によるボーキサイト供給が不安定になった際に,シリカ含有の高いアーカンサス州産ボーキサイトを利用する為に行った方法でした.
当時はアルミナ収率が70%だった工程に,更に赤泥中のアルミナとソーダを回収する工程を加えることで,アルミナ収率を85%に引き上げることが出来ています.
但し此の方法では,設備費用が非常に大きくなり,戦争という非常事態で製造原価を度外視して初めて実現し得た方法でした.
西豪州でこの方式が利用出来たのは,鉱石の輸送距離が短かったのと,未使用のボーキサイトを安全に貯鉱し,採掘前の元の状態に戻す作業を完璧に行う土地に恵まれたこと,苛性ソーダと熱エネルギー消費が低くて済んだこと,それにアルミナ工場を極大化しても,地金生産業者が多数あり,そちらに生産品を引き渡すことが出来たからだったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/06 21:50
太平洋戦争も末期になった,1944年,豪州では,Australian
Aluminium Production Committee(AAPC)と言う組織が発足しました.
元々,1936年に航空工業自主独立計画として,Commonwealth社を設立して,Wirraway練習機を手始めに,Boomerang戦闘機の量産,第二次大戦に突入してからは英国からの軍用機供給が途切れた為,航空機生産省が国内の工場を総動員して,3つの鉄道工場で最終組立をさせたBeufort爆撃機と,Beaufighter戦闘機,1927年に創立したDe
Havillandのオーストラリア支社が1942年からMosquito爆撃機を生産するなど,軍用機の生産が盛んになりました.
ところが,参戦当初は国内のアルミニウム圧延工場向けの地金が不足し,米国からの割当も未着で,国産地金を待望していました.
幸い,その初期の苦境はカナダから緊急援助2万トンの地金供給により凌ぐことが出来ましたが,一時は在庫が10日分を切る有様で,産業界の声に押され,遅れ馳せながら豪州政府も重い腰を上げ,1942年に4名の調査団が米国とカナダに送られてボーキサイトから地金生産までの資料収集を行い,更にそのうち2名は危険を押して,英国に渡り,スコットランドのLochaber,Kinlochleven,ウェールズのSwansea,イングランドのCheshireの各製錬所を訪問しました.
1943年,その調査団報告が提出され,アルミニウム製錬一貫工場を建設する費用として,年産2万トンのアルミナ工場建設費として75万豪州ポンド,年産1万トンの製錬工場に150万豪州ポンドを見積もりました.
この工場は,水力資源が豊富なタスマニア州に設置されることとなり,連邦政府とタスマニア州政府は共同で1万トンの地金工場,2万トンのアルミナ工場を建設することに合意して,300万ポンドの予算を計上,実施機関としてAAPCを設立しました.
このAAPCにより,国内各地でボーキサイトの調査が行われます.
実際の調査は,Department of National Development内の局であるBureau
of Mineral Resources, Geology and Geophysicsが調査を担当しました.
また,英国本土のアルミニウム会社であるBritish
Aluminium Co,Ltd.(BA)が豪州アルミニウム国産化に協力し,北部直轄領と当時は委任統治領だったパプアニューギニアでのボーキサイト探鉱の為,The
New Guinea Resources Prospecting Co,Ltd.を豪州政府と共同出資で設立し,利用しました.
こうした調査の結果,1949年暮れに沿岸哨戒艇艇長が,Aruhem
LandのTraunt島とWessel群島からボーキサイト鉱の見本を持ち込みました.
1951年10月にWessel群島の詳細な調査を行い,Marchinbar島に有望なボーキサイト鉱を確認し,本土北部直轄領(後のGove)にもボーキサイトが発見出来ました.
AAPCは1952年5月に,Marchinbar島の詳細調査を開始し,更にMelville湾にボーキサイトを確認しています.
Marchinbar島のボーキサイトは900万トンの可採量があり,タスマニア計画には充分であるとして,それ以上の調査を行いませんでした.
Melville湾の方は,港と東側海岸にあるYirrkalaの伝道教会の間の15kmの中間地点に,戦時中緊急避難用に設けた滑走路の直下からボーキサイトが発見され,BAが試掘権を申請しました.
試掘権申請面積は50平方マイル,地表に近い部分は豆状ボーキサイトでアルミナ分は50%,鉱量約650万トン,下部のセメント状部分のボーキサイトはアルミナ50%で鉱量は1,300万トンが確認されました.
但しシリカ3%ですが,鉄分が19.5~20.0%と高いのが難点だったりします.
この為,第1鉱区の試掘権はBAからCZCとBAの合弁会社であるコマルコに移管されましたが,コマルコの解消に伴いBAに移り,其の儘失権してしまいます.
その外周に第2~第4鉱区がありましたが,1961年7月,民族資本のDuvalに18ヶ月の期限で探鉱が許可されますが,これも失効,その後はペシネーの子会社Gove
Bauxite Co,Ltd.に1963年2月に許可されたものの,開発計画が連邦政府の条件を満たさないのでこれも失権しました.
以後,この鉱区は公開入札に掛けられ,アルスイスの豪州法人AustraswissとGove
Alminium Ltd(GAL)との合弁会社Nabalcoが開発許可を得ました.
当初予定はボーキサイト採掘年500万トン,アルミナ生産年100万トンの計画でしたが,アルミナ工場の着工が1年遅れました.
この会社の採掘は現在も続いており,ボーキサイト生産は1985年に510万トンに達し,1998年には650万トンに及んでいます.
アルミナ工場も順次稼働し,年110万トンから開始され,現在では年175万トンとなっています.
この鉱区の残存確定埋蔵量は1.6億トンであり,アルミナ生産は2001年に200万トンに達しています.
因みに,日本もこの鉱区には興味を示していました.
1962年に後に大興金属と言う会社の社長となる市川直雄氏がこの地を訪れています.
この人は,日本鋳鋼所から日本曹達にスカウトされて二本木工場でアルミニウム製錬の研究に勤しみ,1937年にアルミニウム一貫製錬に成功したり,戦況悪化でボーキサイト輸入が途絶した時には,礬土頁岩によるアルミナ生産の為に一度人造ボーキサイトを製造し,バイヤー法に適する処理をしてアルミナを生産する手法を編み出すなど,一貫してアルミ畑を歩んだ技術者でした.
彼は,将来アルミニウムは,日本軽金属,住友軽金属,昭和電工の3社では賄いきれないと考え,八幡製鉄でのアルミニウム製錬を考えていました.
この時のアルミニウム製錬計画では,Goveのボーキサイトを輸入してアルミナを生産し,地金は第1期年産25,000トン,第2期年産25,000トン,合計で5万トンのアルミ地金の製錬工場を鶴崎か四日市に建設しようというものでした.
結局,この計画は業界の反対に遭い,通産省から許可を得ることが出来なかったと言います.
八幡アルミニウムの発想は,Lateriteからアルミナを製造し,並行して鉄原にも利用しようと言うものでしたが,後に膨大な競争力のある鉄鉱石が豪州から輸出される様になると鉄原として利用する必要は無くなります.
そう言った意味では,この八幡製鉄のアルミニウム業界進出はポシャって正解だったかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/08 22:36
西アフリカには,15世紀半ば以降,スペイン,ポルトガル,フランス,英国,米国などが奴隷貿易や象牙の採取などで進出しており,革命やナポレオン戦争などにより,フランスの進出は一進一退を繰り返しました.
1849年,フランスは西アフリカに於ける橋頭堡としてボケ地区を保護領とし,ちょっとずつ領域を増やして,1893年,仏領西アフリカの一部として仏領ギニアを成立させることに成功しました.
この仏領ギニアには,19世紀の王立工業学校の調査により,アルミナ分の高い鉱石があることが既に報告されていましたが,1917年にアルコアの鉱山技師が本社に報告書を出すまで,全く顧慮されていませんでした.
アルコアは,この鉱山技師に更なる調査を依頼しましたが,彼は契約を履行しないままに終わります.
1920年,英領ギニアにあるボーキサイト鉱山への技術者派遣が可能になったので,米国人5名と2名のフランス人からなるアルコアの調査団がコナクリに派遣される事になりました.
ところが,一歩先に米国人が以前アルコアの技師が探鉱した地域の探鉱権を申請していました.
その地区は,海岸沿いのロス諸島と内陸部のボケ地区でした.
一方,アルコアの調査団は1鉱区直径3.5kmの探鉱権を20鉱区で申請し,2年間の探鉱が認められました.
この探鉱権は,アルコア本体ではなく,そのフランス法人の名前で申請しています.
1923年,2年間の探鉱権が切れるので,再度,その延長を申請し,今度は20鉱区中15鉱区の探鉱権を20年に渡って取得することに成功しました.
また,一歩先に探鉱権を申請していた米国人が全く探鉱をしていなかったので,1924年にはロス諸島の開発権をも手に入れることに成功しました.
この探鉱権による探鉱は殆ど行われず,1923~27年に掛けて,幹部が毎年乾期になるとギニアに滞在して,新たに97鉱区の探鉱権を申請していました.
この頃の改訂鉱業法では,20年という長期の探鉱権は認められず,申請当初から3年間有効とし,延長は各2年を2回,つまり通算7年間の探鉱が可能で,8年目には開発権に切り替える必要がありました.
この開発権は50年間有効で更に50年間の延長が可能でしたが,期間中に実際の鉱山活動を実施することが定められていました.
1932年にその8年目がやってきたのですが,大恐慌があったり,集中排除法により米国資本のアルコアは,アルキャンなどに分離し,事業の再編成をしていた時期だったので開発権に切り替える余力が無く,ギニアの植民地政府と交渉して7年間の探鉱権延長を認めさせることに成功します.
その前の1930年に前の割り込んで入った米国人からカッサとタマラ両島の開発権を10万ドルで買収することに成功していましたが,権利関係の移転に手間取り,実際に全権が手に入ったのが1933年1月の事でした.
1935年,仏領ギニアでは新鉱業法が施行されます.
この法規では,鉱区を取得すると鉱業活動が自然と要求され,投資が行われ,鉱区の維持には資金投下が義務づけられる事になりました.
1937年になると再編成に落ち着きが出てきて,資金的な余裕も出来た為,アルキャン(アルコアからこの権利を譲渡された)はロス諸島の探鉱を積極的に実施し,ボケ地区への投資も開始します.
この見本が本国に送られ,分析された結果,1938年からタマラ島の2カ所で採掘が開始され,船積み用の岸壁がフランス業者の手で建築されることになりました.
この採掘は,植民地政府の要望により,タマラ島の囚人を雇用することを義務づけられますが,船積み用岸壁が暴風雨で破壊され,囚人達は植民地防衛用施設の建設に徴用された為,再建の見通しが立たなくなりました.
1939年9月,第二次大戦が勃発し,ギニアのフランス民間人は本国に呼び返されました.
一時,此処の鉱山技師も本国帰国を余儀なくされましたが,一部はタマラ島の6,000トンに及ぶボーキサイトの処理の為に戻りました.
ところが1940年6月,本国がドイツに降伏してしまい,本国とギニアとの通信が途絶し,送金も全く行われなくなり,技術者達は八方塞がりの状態に陥ります.
仏領西アフリカの政府は,連合国に協力してボーキサイトを北米に送ろうとしましたが,船積み岸壁が破壊されている状態ではその実行は困難でした.
こうして4年の月日が流れていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/09 22:26
【質問】
大戦中,日本やドイツは工場の熟練工を徴兵したため兵器の生産に支障がでましたが,ソビエトやイギリスなどではそのような事は無かったのでしょうか?
【回答】
人口に対する兵役人員の割合から,第二次世界大戦におけるソ連とアメリカ,イギリスは軍需生産,および市民生活に支障が出るギリギリの線まで動員を行っており,特にソ連では場合によっては深刻な状態に陥ったようです.
イギリスは動員した本国兵士が比較的少数であったため,これを補うために大量の植民地兵を投入していました.
それでも熟練を要しない単純労働では労働力が不足し,各国で,女性の登用が盛んに行われたようです.
つまり,動員力ぎりぎりまで兵を投入した連合国に対抗するため,枢軸側は動員力を越えて兵を集めざるを得なかった,ということになるかと思います.
【質問】
第二次大戦中,我が国では学徒出陣や勤労動員が実施されましたが,米国や英国の国内情勢はどうだったのでしょうか?
【回答】
日本と同じです.
但し,学徒出陣については,強制ではなく,志願に拠っていました.
米軍の将校では,大学を休学して,志願したケースが多かったみたいです.
米国の場合は,1940年9月に選抜徴兵法が制定され,軍事的には総動員体制が確立しています.
一方,生産現場では,国防諮問委員会(NDAC),生産管理本部(OPM)が既にあり,1941年12月に戦時生産局(WPB)がこれに加わります.
本格的な総動員体制が確立したのは,1942年4月の大統領命令によって,戦時人的委員会(WMC)が設立されてからで,連邦保障局のポール・マクナット元Indiana州知事を長とし,その下に陸軍省,海軍省,農務省,労働省,WPB,行政委員会,選抜徴兵制度代表者などがメンバーになっていました.
しかし,最初はこの委員会にはさほどの権限が与えられず,特に選抜徴兵制度との軋轢があって上手く回りませんでした.
そこで,10月に大統領令で,選抜徴兵制度を膝下に組み込むことになりますが,軍の人的要求とのジレンマによって1943年末に再びこれを分離することとなります.
この委員会の活動は,軍との人的要求の調整(徴兵の対象とならない人々の生産設備への配分)が主な作業となりました.
但し,これは,WMCの地方支部が,合衆国雇用サービス(USES)との共同作業で,地域経済と地場産業の実情に見合う形で配分を行っています.
更にWMCでは,1942~43年にかけて,全国44カ所で地域雇用安定計画を導入して,軍需産業の急速な拡大で,労働力の不足が深刻化している地域での雇用対策をUSESと共に行っています.
労働者の就業ですが,まずは大恐慌時に職を失った人への再雇用を実施し,次いで,メイド,店員などサービス業への就業を制限して,危急産業へ重点的に割り振っています.
但し,日本とは違って,国家が全てを仕切るのではなく,各企業も独自に求人活動を展開していることが特徴です.
例えば,女性の就業者数は,1940年3月の1073万人から1942年1月には1176万人へ,12月に1472万人,1943年12月で1611万人,1944年7月に1644万人となっており,女性比率は,1940年に全労働力の26%だったのが,1944年7月には37%に上昇しています.
また,英国についても,同様に総動員体制が確立しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/10/15(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
1935年の仏ソ相互援助条約について質問です.
1・これは相互不可侵以外にも軍事的な面を含んでいるんでしょうか?
2・ドイツのフランス侵攻時にソ連がフランスを支援した形跡が無いのですが,1940年までにはこの条約は破棄されていたのでしょうか?
【回答】
当然,軍事協力を行っています.
例えば,エンジンについては,MikulinがGnome-RhoneK.14
Mistral Major空冷星形エンジンを1930年代初頭に輸入して,M-85エンジンを制作していますし,同じく,1934年にHispano-Suiza
12YをLicence生産した後,Klimovの手に因って改造され,LaGG-3やPe-2のエンジンに使用されています.
また,後者に搭載されていたHispanoの20mm機関砲は,ソ連の手によって改造され,ShVAK機関砲となって大量生産されました.
戦車の技術などでも協力していましたし(ただ,実質はItalyの方が大きかった),ソ連の戦艦を稼働させるための部品を供給(旧ロシア帝国の戦艦は,白軍崩壊後,ビゼルタで解体されていた)しています.
逆に,ソ連からは原材料の供給を得ていたりする訳です.
で,そもそも,ソ連としては,西欧列強がロカルノ条約を締結したので,この締約国が協力してソ連に攻め込むのではないか,と言う危惧があり,1929年にソ連の西部から南部に掛けての国境を確保すべく,モスクワ東方協定と言うのを,バルト三国,Poland,Rumania,Turkey,Persiaとの間に締結します.
しかし,東方国境が不安定なために,そのモスクワ東方協定を強化するために西欧列強と不可侵条約を締結する様に政策を転換します.
一方,Franceでは,1934年に右翼の扇動で,従来の左寄り政策を行っていた急進社会党内閣が倒れ,Daladierが短命内閣を組閣した後,右翼寄りの挙国一致内閣が誕生しますが,今度は左翼の逆襲が始まり,社会党,共産党,そして急進社会党が協定を結んで,1936年に人民戦線が誕生します.
Franceは1934~36年に掛けて一時的に右にぶれますが,その前にソ連と誼を結んでいた訳で.しかも,隣に物騒な国が誕生したので,安全保障上ソ連との友好関係が重視された,と.
しかし,1936年の総選挙で誕生した人民戦線内閣は,国民を満足させる政策を行わなかったので,忽ち支持が低下し,また,粛清の発覚,ソ連を批判した出版物がベストセラーになるなど,1年で瓦解し,後を次いだ急進社会党内閣も,資本の流出が止まらないため,経済政策の破綻で,1938年に内閣を投げ出します.
で,結果的に,ソ連との縁が切れ,反共を明確化し,最終的に1939年の第二次大戦勃発によるポーランド分割,その後のバルト諸国,Finlandへの恫喝で,Franceは,ソ連と断交寸前まで行き,ソ連との相互援助条約も破棄されました.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
ノルマンディ上陸作戦以降の,連合軍の輸血体制について教えられたし.
【回答】
ここ暫くは北アフリカから地中海にかけての米軍を見ていたのですが,これからは以降の主戦場たるフランス戦線に話を移します.
1944年春,イングランド南部は巨大な物資集積場となり,何百トンもの兵器や何千両もの戦車や装甲車,何千着物航空機がそこら中を埋め尽くしました.
倉庫には軍服や背嚢,携帯用の非常食やヘルメット,それから歯ブラシからトイレットペーパーの日用品に至るまで溢れかえっていました.
村に今まで住んでいた人々は立ち退き,代って軍服を着た兵士達がやって来て,機動演習をしたりしています.
これらは,来たるべき連合軍の新しい作戦,オーヴァーロード作戦の準備でした.
勿論,医療品の備蓄も拡充され,包帯,血漿,アルブミン,モルヒネ,外科用器具,差込み便器,酸素テントからX線装置に至るまで,何万トンもの補給品が集積されていました.
また,1,000床を収容できる規模を持つ野戦病院を構築する為の完全な設備一式から,指くらいの大きさの何千万本に達するペニシリンのアンプルがあり,何万個に及ぶ眼鏡,大きさが4種類,色が5種類の義眼が合わせて何千個も用意され,これらの物資は,英国各地にある16箇所の集積所に保管されていました.
こうした際限の無い補給物資は,彼方此方に移動され,格納され,リスト化されていきます.
ある補給将校はこの状態を称して,何処までも続く「組織された無秩序」と述べています.
補給品を統括する責任者は,欧州戦域の軍医部長であったポール・R・ホーリー軍医准将でした.
補給部隊を統率するに相応しく,頑健で率直な人柄の准将は,補給品を速やかに且つムラ無く移動する為に,1年ほど掛けて各官庁と渡り合いました.
しかし,准将はたった1つの物資が本国から輸送されてこないのを気に掛けていました.
それは例によって全血でした.
既に参戦している英国もフランスもカナダも,全血を本国から輸送していましたし,ホーリー自身も自国軍の恐ろしいほどの死亡率を避けるのであれば,全血を使用する必要があると認識していました.
ところが,先に見た様に,軍医総監はこの戦争を血症とアルブミンで戦うと明言していたので,ホーリーも又,チャーチルと同じように全血輸送についての独自計画を立てる必要に迫られました.
まず,ホーリーは1943年夏より,イングランド南部のソールズベリーにある米軍医療部隊の基地で,医師や顧問達から構成される全血供給委員会と称する特別委員会を作りました.
そのメンバーは,ハーヴァード大学医学部の外科教授で,ボストンのピーター・ベント・ブリガム病院の外科医長であるエリオット・C・カトラーで,肩書きは軍医准将や,泌尿器科を専門とする医師で,"Great
shouter"と言う渾名を頂戴していた医療部隊の責任者として顧問と軍の調整をしていたジェームス・C・キンブロー軍医大佐,同じく職業軍医のジェームズ・B・メイソン大佐は今回の計画立案のまとめ役,それに,アイオワ大学から来た血液学者で,将来血液銀行が出来た場合に管理者に就任する予定のロバート・C・ハーディン軍医中佐,それに数名の顧問達という陣容でした.
軍の立案担当者は,物資の供給量を算定するのに,「D+90」と言う基準変数を使っていました.
つまり,上陸後90日間の侵攻を維持するのに必要な軍需品と糧食と燃料の量でした.
委員会でも,血液について同様の算定を行いました.
当時,軍情報部は今回の作戦で1日当り1,875名の死傷者を見込んでいました.
それに対し,血液供給量については,北アフリカでの英軍の経験から,負傷者10名に付き1パイントの割合で見ておかねばならないことが判っていましたので,それを今回の死傷者数で単純計算すると,,必要推定量は1日当り約200パイントとなります.
とは言え,その調達に目を転じると,軍医総監は本国からの全血輸送を認めていませんので,英国に駐屯する150万名に達する米兵から調達することを考えました.
しかし,この数値は大きい様で実は小さかったりします.
この150万名の殆どは,侵攻が開始されると欧州に送られます.
後方の支援部隊に留まる者の内,血液銀行が必要とするO型を持っている兵士はその内の40%,更に,あてに出来ない者や,血液型が当てはまらない者,献血を拒否する者の人数を想定してそれを除外し,最終的に1日当り650パイントを収集できると見込みました.
これで,数的には足りるはずです.
しかし,カトラーだけは楽観視していませんでした.
今回の作戦は,ドイツ軍が待ち構えている鉄壁の布陣の中に飛び込むので,想定以上の死傷者が出る可能性が考えられます.
その補充兵は英国にいますから,補充兵が欧州戦線に送られると,その分供血者は減ります.
そうなると,650パイントは確保できるか….
一方,英国に後送されてきた負傷兵が多数押し寄せてきたら,果たして前線に全血を供給し続けられるか.
この様に,あらゆる可能性を考えて英国に設置した血液銀行が機能しなくなった事を想定し,警鐘を鳴らしています.
ともあれ,委員会では1943年の秋から冬にかけて手順の概略を決め,必要な器材を入手する為の手続きを進めます.
システムとしては,英国と同様に,冷蔵トラックに乗った採血チームが各基地を回り,兵士から血液を集めて貯蔵本部に持ち帰り,本部でその血液を処理して,フランスの貯蔵所に航空機や船舶で輸送,貯蔵所からは冷蔵トラックで更に前線に近い後送病院や野戦病院に順に配達すると言う仕組みで,英国と違う点は,英国はこれを専門部隊で行ったのに対し,米国は医療補給品と一緒に輸送したことでした.
1944年1月,訓練や補給のペースが早められました.
米軍ではLSTに手術室や寝台を備え付け,負傷者を英国に後送する輸送船としました.
カトラー達はこれらの船舶を下見して,担架兵が狭い戸口や鋭い曲がり角や急階段を上手く通り抜けられる様に,ルートを図面に詳しく記載し,血液用冷蔵室の設計を行いました.
計画では,前線で負傷した兵士達が後送された場合は,負傷兵を船舶や航空機で英国本土に連れ帰り,波止場や飛行場の直ぐ側に設置した野戦病院で手当をした後,イングランド全域にある79箇所の病院に急送する手順でした.
その病院の割当は,最も重傷な兵士は南部の病院に急送させ,重傷度が下がる者は,少し遠い東アングリア方面の病院に送ると言うものでしたが,ホーリーは,システム全体に流動性を持たせ,そのままその病院に居着くこと無く,軽症になると,直ぐに別の病院に移動させて,空きベッドが無くなってしまわない様に注意を払う必要があると指摘しました.
血液銀行の準備の着々と進んでいきましたが,当然,この混乱では足を引っ張る事態も発生しました.
例えば,きちんと準備していた筈の冷蔵トラックと冷蔵庫が全く本国から届きませんでした.
ニューヨークの埠頭の何処かで大量の補給品に紛れて見過ごされていたのです.
この為,委員会では補給部隊に頼み込んで冷蔵トラックを20~30台回して貰い,英国軍から瓶やチューブその他の器具を借り受けました.
全血の保存期間を考慮して,未だ血液の採取は開始されていませんでしたが,設備は整い,後は献血者を待つばかりになっていた3月下旬,北アフリカとイタリア戦線に調査に出向いていた1人の軍医将校が驚くべき報告を持って帰還しました.
かの戦線では,当初負傷者8名に付き1パイントの全血が使われていましたが,現在では長期管理が必要な患者が増加した為,全血の消費量が当初予想量の5倍になっていると言うものでした.
元々,10名の負傷者に対し1パイントで計算した算式が脆くも崩れてしまったのです.
更に,イングランド駐留米軍司令官も,供血者の人数が予想よりも少ないと言う報告が来ました.
その結果を受けて再検討した結果,「D+90」の血液を確保するのは難しく,「D+45」,つまり,侵攻後45日分の血液しか確保できないと言う結果になりました.
委員会では,「全血を本国から入手することを早急に検討すること」を勧告しましたが,ホーリー准将は,カークが折れることが無いことを知っていました.
この為,委員会は準備の推定量を下げ,更に多くのスタッフを訓練して少しでも貯蔵が増える様,採血を開始したのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/19 23:54
青文字:加筆改修部分
さて,1944年5月頃,イングランド南部には300万人の男が,600万トンの物資と共に,集合して,作戦の開始を今か今かと待っていました.
港には,戦車や水陸両用車両を搭載した何千と言う上陸用舟艇や輸送船が波間を上下して停泊していました.
命令は封印され,通信は監視されました.
こうして,厳重に作戦開始日の秘密は保たれたのですが,最後の数週間の間に,Time誌が,「イングランド南部の血液銀行が活動を開始すると,それから3週間以内に侵攻が始まると言う記事を載せ,ホーリーを苛立たせました.
ホーリーは,「守秘違反の問題について」と題した文書を出し,誰がその情報を漏らしたのかを知りたいと要求します.
それに対して,血液銀行の管理者だったハーディンが,実は…とばつが悪そうに説明に訪れました.
数ヶ月前に記者が取材に来た時,血液はどのくらい保存可能かを質問され,その記者にハーディンが凡そ21日だと回答したのです.
記者は,厄介にも正しい推量をして,血液採取と侵攻を結びつけたのでした.
これはこれで取材力の勝利でもある訳ですが….
御陰で,ハーディンは事態を何とか収拾する様に命じられました.
そこで,ハーディンは,軍が陽動作戦として実際の侵攻地点では無い所に見せ掛けの軍を送る様に,偽の輸血チームを四方八方に派遣して収集の日をごまかしました.
これ見よがしに鍵を掛けた室内で採血を行い,血液の瓶を巧みに混ぜて,実際に採取した血液がどれほど少量か判らない様にしました.
ハーディンは,偽の採血が始まってから1週間後,本部の司令官に呼び出されます.
そして,大きな部屋の真ん中に連れて行かれ,Dデーの予定日を耳打ちされました.
実際の侵攻は,この日付の前後48時間以内に実行されることになったのです.
そして,欺瞞では無い,本格的な採血が開始されました.
Dデーが近付き,在庫が増えていきましたが,在庫品の有効期間や量を把握しているのは特定の将官だけでした.
6月2日,ホーリーはスタッフに次の様に話をします.
――――――
Dデーが何時かは知らない.
仮に知っていても諸君に言うことは出来ない.
しかし論理的に見て,余り先のことでは無い.
やり残しがあれば,時間が足りなくなるだろう.
準備は整っていなければならない.
――――――
こうして,ペニシリンから移動病院設備一式まで,何百トンの医療補給品の積込みが行われ,血液の瓶を保冷容器に詰める様命じました.
6月6日の朝,ヒトラーが築いた大西洋防衛線に連合軍が突進していきました.
上陸地点では,連合軍とドイツ軍の熾烈な戦闘が展開されましたが,午後になると,ドイツ軍はある見慣れない,しかしその後次第に見慣れたものとなる光景を目にしました.
衛生兵が膝を突いて負傷者の上に屈み込み,輸血用の瓶を高く掲げている姿です.
激戦が続く中では,軍医が血漿やアルブミンを用意するゆとりが無く,手近に有るもの,つまり,全血の輸血瓶を用いたのです.
この日だけで使われた全血は250本に達しました.
これはかなりの量ではありましたが,予想量よりも少ないものでした.
英国本土では,カトラーとホーリーが,ウィンチェスターからネトリー,ストックブリッジ,そしてソールズベリーへと,各地の病院を回って医療班や補給品の点検をしていました.
負傷兵が運び込まれてくると,大急ぎで症例報告を走り書きして,治療態勢や輸送態勢に欠陥が無いことを特筆しました.
2週間後,カトラーはノルマンディーに飛びます.
既に戦闘は海岸から内陸部へと移動しており,橋頭堡の医療部隊が輸血液を効率よく配送していました.
ある医療班では,オマハ・ビーチの小飛行場の近くに冷蔵庫を埋めて,届けられた血液を補完し,そこから配送トラックを彼方此方に往復させていました.
視察の結果,カトラーとしては,自分が築いた血液銀行の仕組みが効率よく機能しているのに安心した反面,軍医達が明らかにイタリア戦線よりも多くの全血を使用しているのが明らかになり,供給に対する懸念が再び浮上しました.
これは戦線が更に内陸のノルマンディー高地に差し掛かり,パットン率いる米国第3方面軍が作戦行動を開始すると,全血の需要は一気に増え,その量は1日1,000パイントを超える事で一気に憂慮に変わりました.
カトラーは血液銀行の供給量が下降しつつあることを承知しており,不足するのは時間の問題との認識を示していました.
それを打破するのはたった1つの方法,つまり,軍医総監を説き伏せて本国から全血を輸送する許可をもらう事でした.
それは,7月28日のスタッフ会議でカトラーから提案され,ホーリーはカークに無線電報を打ちました.
欧州戦域の血液銀行は負担を強いられ,フランス戦線の全血需要を賄いきれなくなりました.
血液が必要であること,胃のチオ救っていることは間違いありません.
1日当り1,000パイントの空輸が必要と考えられます.
そして,念の為に2,3日後に今度は手紙で,部下の軍医将校をワシントンに送り,この問題を直に説明させると書き送りました.
今度はカークも無碍にはしませんでした.
7月にカークはイタリア戦線を視察し,血漿だけで戦線の維持が出来ない事を漸く理解したのです.
そこで,ホーリーからのメッセージを受け取った後,会議を招集して,血漿事業からどれくらい全血を融通して,どのくらい早急に輸送できるかを検討させ,ホーリーに,間もなく1日当り250パイントの輸送を開始し,次第に増量すると打電すると共に,説明役としてやって来たカトラーに,9月までに輸送量を1,000パイントまで増やすと約束し,次の様に述べました.
「欧州戦域の軍医が血液を要求するなら,それに応えなくてはならない」
と明言したのです.
今までのTNTっぷりは何だったのか,と言う感じですが,「過ちを改めざる,これを過ちと言う」諺通りの何処かの国の政治屋や官僚に聞かせてやりたいものです…と同時に,自らの間違いを認めて方針転換を素早く行うのが,米軍の強さかも知れません.
8月下旬,連合軍がパリに入城し,市民から喝采を受けていたほぼ同じ時期に,米国から血液を搭載した最初の航空機が欧州に着陸しました.
この頃には連合国各国も揃って戦地に血液を供給していました.
フランスでは,アルノー・ツァンクが亡命先のチリからパリに帰国して輸血センターを設立し,このセンターは後に,「ORT2」と呼ばれる様になりましたが,ツァンクは,大勢の市民が負傷兵の為に献血をする「血液の日」を制定し,また,「血液ルート」と言うフランス人の血液を前線の病院に送り込む,列車や救急車や軍用四輪駆動車の輸送ルートを作り上げました.
また,国外に亡命したり追放されたポーランド医学会の医師達は,エディンバラに輸血研究所を設立し,ワルシャワ蜂起の際には,英国の支援を受けて1,000本の血液を空中投下して支援しました.
英国は既に見た様に設備の整った貯蔵所や採血センターに加え,血漿を凍結乾燥するプラントを2箇所に建設し,何トンもの乾燥血漿を大陸に空輸し,血液の使用は英連邦であるカナダ,オーストラリア,ニュージーランドでも行われていました.
更にソ連ですら,「タンク車で何台」単位で,血漿や抗ショック溶液を保有していたのです.
この様な活動の御陰で,連合軍の方は,血液に纏わる悲劇的な死をある程度制御することに成功したのです.
それは太平洋でも同じでしたが,こちらは欧州と違って高温多湿と血液に対する無理解と言う環境が主な敵でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/20 21:58
【質問】
第二次大戦前,オーストラリアには軍用機工場や戦車工場,海軍工廠(造船所)などはあったのでしょうか?
どうも兵器関連は,イギリスからの輸入に頼っている気がするのですが……
【回答】
まず,軍用機についてですが,国営企業としては1936年にCommonwealthが設立されています.
これは,政府が提議した航空工業の自主独立計画に基づくもので,この会社は,航空審議会の技術委員会によって選定された,NorthAmericanNA-16(T-6の前身)系のNA-33高等練習機をWirrawayとして1939年から生産を始めました.
その生産の他,国産初等練習機Wackettを同時期に開発,太平洋戦争に突入してからは,Wackettのコンポーネントを用いた戦闘機Boomerangを開発しますが,本格的な軍用機,爆撃機のWoomeraと,戦闘機のCA-15は米国からの輸入機とその国産化(1944年からMustang
Mk.20/21(CA-17/18)をKnock downまたはLicense生産したもの)の充足に依って中止となりました.
また,この会社はPratt&WhitneyエンジンのLicense生産も行っています.
民間会社としては,1927年にDe Havilland
Aircraft Proprietary,Ltd.,つまり,DeHavillandの豪州支社が設立されており,同社の各種機体を生産・豪州向け改造をしていました.
例えば,D.H.91Moss Minor初等練習機,D.H.82Tiger
Moss初等練習機,Mosquito爆撃機などです.
このうち,Tiger Mossについては,南アフリカ,南ローデシアの訓練基地に送られています.
また,自社製エンジンのLicense生産も行っています.
蛇足ですが,Beaufort爆撃機は,国内の400以下の下請工場で部品を作り,これを3つの州にある鉄道工場で組立て,Melbourne,Sydneyの工場で最終組立を行っており,これらは,Beaufort
Division of the Department of Aircraft Productionが統制していました.
戦車工場はありませんが,自動車工場としては,General
Motors-Holdens Ltd.がMelbourne,Sydney,Brisbane,Adelaide,Perthに工場を持ち,Ford
Motor Company of Australia Pty Ltd.は,Melbourne,Victoriaに工場を持っていました.
他に,Chrysler Australia Ltd.がAdelaideに,International
Harvester Company of Australia Pty Ltd.がMelbourneに工場を持っており,各種軍用車両の組立を行っています.
これらの軍用車両の供給は主にカナダ,米国から行われており,これらの工場はその部品を組み立てる感じです.
造船所もありますが海軍工廠は無かった筈.
Cockatoo Docks&Enginieerling Co.Ltdが駆逐艦以下の艦艇を建造できる造船所だったか,と記憶しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/09/23(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
バスク共和国の大統領は,国がなくなった後はどうなったのですか?
【回答】
スペイン王国が崩壊した後,カタルーニャと共に自治政府を構成したのがバスク共和国で,外交権は無いものの,独自の軍隊なんかもありました.
彼らは残念ながら武運拙く敗れた訳ですが,バスクの大統領は生き延び,フランスへと亡命します.
ところが,その地は安住の地ではなく,程なくドイツ軍の占領下に.
盟友だったカタルーニャのクンパニィス大統領はこの時,ゲシュタポに逮捕され,スペインに追放されて銃殺されたのですが,バスクの大統領は,戦争勃発時にベルギーに逃れた訳です.
ベルギーに隠れ住んでた彼ですが,身辺に危うさが漂ってくると,意を決して敵の本丸たるドイツに居を,しかも,敵のいるど真ん中のベルリンに移住したり.
ここで,ナチスの庇護の下に亡命生活を送っていた,王党派の胴元であるアルフォンソ13世の葬式に出たり(ぉぃ),結構自由に振る舞っていたみたいです.
最終的には,ドイツを脱出してスウェーデンを経て,当時まだ中立国だった米国に亡命する訳ですが,本国で流石に硝煙を嗅いだ人だったりするので,フランスやベルギー,ドイツ各国の戦力分析なんかも冷静に見ていますし,国民の戦う姿勢についても批評を加えてみたり.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月16日22:14
先日,「密林」で注文した古本が届いたので,早速読んでいます.
本編の主人公,Jose Antonio de Aguirreは,1904年に弁護士の息子としてBasqueに生まれ,Bilbaoで教育を受けた後,父の跡を追って弁護士となり,更に,父が同士と共に創設したBasque国民党に入党,その若いリーダーとして活躍した人です.
1931年に,27歳の若さで,とある街の町長に選出され,政界に進出します.
そして,国王AlfonsoXIII世が国外に脱出した年の制憲議会選挙に立候補し,スペイン共和国の国会議員になるという,正に,乱世に出てくるタイプです.
そして,スペイン内戦で共和国が断末魔に喘いでいる時に,中央は地方の自治国形成をやっと認め,彼は,Basque共和国の大統領に就任します.
ですが,既に国運は傾き,Guernica爆撃,首都侵攻と言う事態を招き,結果的に彼を始め,ファランヘ党に反対するBasque人は挙って,フランスに亡命することになりました.
しかし,この地は,既に彼らにとって安住の地でなく,左右の激しい対立の中で,民族の中の裏切り者によって,彼らの多くはFrancisco
Francoに売られ,多くの人間が命を落とすことになりました.
隣国カスティーリャの大統領も犠牲者の一人です.
こうして,Aguirreは隣国ベルギーに亡命しようとしますが,Funny
Warが終わりつつある時で,ベルギーは崩壊.
フランスに舞い戻るも,フランスも又,崩壊し.
再びベルギーにとって返して,そこから,苦難の日々が始まるのです.
既に,ベルギーはドイツ軍の占領下に置かれていた訳ですが,当初,ベルギーの人々は(Goebbelsの宣伝の効果もあったり,占領したドイツ軍の規律の正しさというのもあったのですが),民主主義はDecadenceと腐敗であると言うNegative
Campaignを信じ込んで,従来の政府機関に全ての悪がある,ドイツ軍の占領は,この無秩序に新しい秩序を見いだすことであると言う言葉を信じていました.
ですから,ベルギー軍兵士の中には,母親の意見に従って,敵前逃亡した者もいたとか.
…危険になったら直ぐ捕虜になるか,逃げるかしてしまいなさい.
だって,こんな戦争に私たちが何かをしなければならないと思いますか?
もししたければ政治家がやればいい!
彼らはもうみんな逃げてしまいましたよ.
王様でさえ普通の人みたいに連れて行かれたのだから.今はイギリス人が戦うでしょう.もししたいのなら.
戦争には勝っていました,銃撃が始まるまでは.われわれの民族の精神は何と腐ってしまっていたことか.
…民主主義は失敗したのだ,今やドイツの時代なのだ,決定する時期が来たのだと,
仲間達が言うのを私は聞かねば成りませんでした.
こういう精神で敵に対することが出来ないのはおわかりですね.
何度も私は彼らに言いました.もしもドイツの時代が来たとしても,ベルギーの時代,自由の時代を終わらせてはならない.
しかし,彼らは間も無く悟ります.
生活必需品が次々にドイツ本国に向けて運び去られ,物価が騰貴し始めたから.
しかし,強制収容所はそう言う転向者や騙されている人々には良い教訓です.
自由のない痛みを感じたとき,彼らはやっと自分の祖国がどうなってしまったかに気づくのです.
全てのベルギー人は団結するようになります.
強制収容所を出たときほど,我々の民族をドイツの軛から解放することに熱心になることはないと,私は確信します.
ベルギーには帰る必要のあることは沢山ありますが,そのために我々固有の自由を殺す必要はありませんし,敵に助けや保護を乞うなんて言うことは以ての外です.
何かこうした論議をつい最近も聞いたような気がするのは気のせいでしょうかねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月19日21:45
【質問】
カナダ軍って良く戦ったのに,なんであんなに扱いが地味なの?
【回答】
良くも悪くも,アメリカと共同して戦ったり,宗主国である英国の影に隠れた為だと思います.
1939年の第二次大戦でドイツに宣戦布告したものの,全く近代戦争に対する準備が為されず,米国やら英国やらから,大慌てで装備を導入した為,見た目には識別が付かなかったのもありますし….
【質問】
第二次世界大戦中のフランスのレジスタンスは良く聞くけど,オランダはあまり聞きません.
このあたりどうなんだろ?
教えてください.
【回答】
WW2で国土を占領されたオランダは他の国同様,激しいレジスタンス活動をやっています.
抵抗運動の象徴として,国内に様々なレジスタンス活動記念博物館があるそうです.
Het Verzetsmuseum Amsterdam(The Dutch Resistance Museum)
レジスタンス博物館
http://www.verzetsmuseum.org/english/indexE.html#(英語ページ)
National War and Resistance Museum at Overloon
オベルローン・戦争と抵抗博物館
http://www.oorlogsmuseum-overloon.nl/uk/(英語ページ)
その他,ユダヤ人迫害や対日戦に関する記念館が多数存在します.
【珍説】
第二次大戦中も,オランダやベルギーはドイツ軍の侵攻に対して一切,武器を取らなかったし,無駄なレジスタンス活動もやってません.
おかげで,戦禍を全く受けず,中世の建築物が無傷で残ってます.
タイも同じです.日本軍や連合軍とうまく折り合いを付け,自主独立を守りました.ガンジーの教えですね^^
【事実】
・・・ベルギー軍は,ドイツ軍の侵攻に対し要塞に立て篭もり,激しく抵抗していた筈では?
それと,両国ではレジスタンス活動も行われている筈ですよ?
戦争末期に一斉蜂起までやっているのですが・・・.
オランダのロッテルダムは,ドイツ空軍(ルフトバッフェ)が空襲して市の中心部は廃墟と化した筈だけど.
中世に建てられたゴシック様式の立派な教会(聖ローレンス教会)も完膚無きまで破壊されてます.
大戦後半も両国は激しい戦場と化した筈です.
映画『遠すぎた橋』で有名なマーケット・ガーデン作戦の舞台はオランダです.
(無茶な空挺作戦でイギリス第一空挺師団がアルンヘムで壊滅,失敗したヤツね.モントゴメリー元帥ったらお茶目さん♪)
しかも,アルンヘムの戦いの後には,アルンヘム市民約5000人がドイツ軍によって強制疎開させられたそうで.
また,『アルデンヌ大攻勢』でで戦場となったアルデンヌの森はベルギー領です.
そして連合軍の一大物資集積地となったベルギーのアントワープ港には,報復兵器V1とV2でドイツは総攻撃を掛けました.
合計1万発以上のミサイル攻撃で,ロンドン目掛けて発射した数よりも,アントワープへ発射した数の方が上回っています.
ミサイル発射地点となっていたオランダのドイツ軍基地を叩くべく,連合軍の戦略爆撃機がやってきて,間違えて隣りの都市を誤爆してしまった事もありました.
結局ベルギーやオランダは中立政策だったのにドイツに「通り道だから」という理由だけで攻め込まれ,降服した後も連合軍とドイツ軍との戦場にされてしまい,自らの意思とは関係無く翻弄され続けたわけです.
開戦当初から戦争終結まで・・・ずっとね.
「"えん"とひなたぼっこ」管理人のプロフィールも香ばしい.
お住まい:東京都
興味分野:
旅行
仕事&資格&教育
MyDoblog紹介:
【緊急告知】シバレイさんblogからお越しの”ネトウヨ達”さぞかし崇高な意見は自分の”blog”か”hp”でお願します☆ここは個人のblogなの♪荒す暇あったらサマワに逝けっヽ(°_°>)
↓三日ぶりに覗いてみたら,プロフィールちょっと変わってる?
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(JSF他)
上記ブログ管理人や常連達は,
『関東軍は住民を見殺しにしたのではなく,前島のように住民を巻き込まないように動いた』
と言われたらどうするんでしょうね?
とりあえず,以下をコメント欄に書き込めば,それで終わると思われます.
「アンネの日記」って知ってる?
「いやあれは捏造だから!」とか返ってきたら,それはそれで面白いんですが(笑).
(イスラエル国防相@出張)
(以上,「週刊オブイェクト」)
ベルギー陸軍歩兵
(画像掲示板より引用)
【質問】
どうも.
〔誤りを指摘したら,指摘コメントを〕削除された人です.
論理的思考及び反論がどうして出来ないんだ.
同じ人間で日本人だろう?!
(通りすがりの白い猫)
【回答】
自分が正しい,絶対正義だと思ってるからですよ・・・間違いなく.
リアルであの手の手合いと対決した事ありますが,人の話全然聞いてない・・・.
曲解・開き直りなんでもあり・・・_| ̄|●
例1・イラク自衛隊派遣ネタ
香田氏を政治利用してるヤツ(ガチのプロ市民,わざわざ普天間の人間の鎖イベントに参加するためだけに東京から沖縄へ行った実績がある(本人談)
俺「遺族の声無視して政治利用するのってどーよ」
相手「そんな状況にした小泉が悪い」
例2・安全保障ネタの議論中
俺「非武装中立は非現実的すぎる(以下WW1ベルギーの説明」
相手「●●君(俺)はどーしてそんなに戦争したがるの?誰を殺したいの?」
高校生にしたって酷いんじゃないかい・・・?_| ̄|(((●
コイツ↓が配られた実績もあるし・・・(ユージ君の方)
http://mltr.free100.tv/faq05d.html#権利制限
ちなみに例1の人は
「パナウェーブは,有事法案を国民の目から隠す為の小泉の陰謀」
「全ての情報は小泉が操作している」
ってガチで主張してた人なんですがね.
もう,どうしようかと
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
(たれ)
>俺「遺族の声無視して政治利用するのってどーよ」
>相手「そんな状況にした小泉が悪い」
↓
( ´∀`)「君の頭が悪いのも,小泉のせいだね」
と返せばOK.
(kkk)
(以上,「週刊オブイェクト」)
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ 本館サイト・マップへ