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◆◆◆北欧 Észak-Európa
<◆◆総記
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ
『ノルウェーと第二次世界大戦 双書・北欧2』(J.Andenæs, O. Riste & M.Skodvin著,東海大学出版会,2003.5)
クヴィスリングが総統に繋ぎをつけるために,海軍頼ったお陰で,歴史ものにはほとんど出てこないレーダーやら,カールス(海軍追ん出された後,郡長として空襲で死亡)やらがちょこちょこ出てきて来る上,英陸軍の遠征軍の絡みで,簡単に英郷土防衛軍にも触れてあって,俺得だった.
――――――軍事板,2011/06/
「朝目新聞」●フィンランドの天才スナイパー(狙撃手),「シモ・ヘイヘ」の往年の映像 (by酔拳の王だんげの方)
Suomen itsenäisyyden ajan sodat kuvina
/ Pictures From Wars During Finland's Independence
(フィンランド語/英語)
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【2】
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【3】
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【4】
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【5】
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【7】
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【8】
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【総集編】
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【9】
「あんそく」:やる夫が雪中の奇跡を起こすようです 【10】
どうもこの作者,詳しいなぁと思っていたら,有名なコテハン氏のようで(だよもん◆V2ypPq9SqY氏か?)
――――――bernoulli in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
『フィンランド軍入門』<「k-takahashi’s 雑記」
『冬戦争の戦車戦』(マクシム・コロミーエツ著,大日本絵画,2011.4)
他の冬戦争本読むときの副読本や資料集としていいかも.
個人的に単体読みだと,ちょい辛い.
ああ,『雪中の奇跡』と『流血の夏』,積んだままだったorz
――――――軍事板,2011/05/19(木)
【質問】
第二次大戦時の北欧の軍事力はどれくらいでしたか?
【回答】
ざっと散文的にですが;
スウェーデン
航空機の独自開発をしている.
ナチスドイツにはキルナの鉄鉱山から輸出を認める.
領空侵犯してきた機体を強制着陸させており,連合軍機も従わせている.
ノルウェー
ドイツがデンマークに続いて奇襲的に占領.
ボードゲームだと「ナルビク強襲作戦」というのがあります(余談).
各地で抵抗し,ドイツの重巡を固定魚雷発射台で撃沈するなどするも,不利は覆せず降伏にいたる.
この際,イギリス海軍がドイツの駆逐艦勢力に大打撃を与えている.
被占領後はイギリス経由のソ連支援北方船団に対するドイツの海軍,空軍の根拠地となる.
ティルピッツが避退していたことなどが著名.
また,重水工場があり,連合軍が破壊工作をしている.
親ナチスドイツ政党あり.
フィンランド
小国としてソ連相手に善戦.
しかし最後には講和し,ナチスと戦うに至る.
ロシアからの独立後~現在に至るフィンランド軍の歴史については,『フィンランド軍入門』(斎木伸生著,イカロス出版,2007.8)という本がある.
バルト三国
▼第二次大戦勃発前に,ソ連に飲み込まれる.
MR協定の秘密議定書に基づき,1940年6月にソ連に併合された.▲
軍事板
&共(ry in FAQ BBS(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次大戦期,独軍はノルウェーやデンマークに侵攻していますが,アレは併合したんですか?
それとも単に占領しただけですか?
独軍に占領されたフランスとかどうなってたんですか?
【回答】
ノルウェーもデンマークも軍事占領.
デンマークは侵入当日に降伏した.
従って軍事占領されたと言える.
但し,占領下に置かれたものの,王室や政府は1943年まで存置され,自治も認められていた.軍隊も制限を受けていたが存在した.
1943年にドイツ軍政府の統治下に置かれ,完全占領に近い状況になる.
ノルウェーについては,4月に侵攻を開始し,6月に降伏.
当初は,デンマーク同様緩やかな統治下に置くつもりだったが,国王など主要閣僚の亡命によってそれが不可能となり,完全に軍事占領され,ドイツから古参党員でHitlerに近いテルボーフェンを弁務官として送り込み,彼は,弁務官事務所を核として,占領実務を行った.
一応,ノルウェーにも右翼政党があって,その親玉クヴィスリングを名目上首相にして,政体が存続しているようには見せかけていたが,これは完全な操り人形に過ぎなかった.
フランスは,降伏した時点で,政府がパリからヴィシーに移動し,そこを拠点として南半分と植民地を統治.
アルザス・ロレーヌ地方はドイツに併合され,ニース周辺はイタリアが併合した.
それ以外の北半分は,ドイツの軍事占領地区になっている.
『嵐の中の北欧 抵抗か中立か服従か』(武田龍夫著,中公文庫,1985.4)によれば,占領初期はデンマークの主権は(ドイツの許容範囲内で)尊重され,政府や議会,軍も存続が許されており,ポーランドの様にならなかった安堵感から,被保護占領国の立場に甘んじます.
しかし,所詮「占領は占領である.」
メッキは次第に剥がれ,ドイツとの軋轢は増していき,最終的に1943年以降はドイツの軍政下に置かれます.
政府,議会は解散させられ,軍は武装解除され(この際に戦闘が発生し,死傷者も出ています),ユダヤ人迫害も始まりますが,レジスタンス活動も激化.これにより,デンマークは連合国側に立つ事になります.
デンマーク自体は大規模な戦場になる事はありませんでしたが,それでも多くの産業施設が荒廃し,保有船舶の六割と四千人以上の人命が失われていきます.
所謂「非武装中立論」や「無防備都市宣言運動」を(本心は知らんが)「奇跡の万能薬」のように言い立てる人は,これらの事例をどう見るんだろうか?
スウェーデンは戦後「武装中立」を確固不動の基本政策とした事やデンマークは戦後,NATOに加盟して集団安全保障に参加した事などはどうなんだろう?
(国民の意見を無視して云々とか言うかな? 国民の支持を受けてやってるんだが)
グンジ in mixi,2007年11月11日
レジスタンスの簡易装甲車
(画像掲示板より引用)
【質問】
スウェーデンは第二次大戦中,どのように中立を守ったのか?
【回答】
『嵐の中の北欧 抵抗か中立か服従か』(武田龍夫著,中公文庫,1985.4)
によれば,スウェーデンは戦争に巻き込まれない,という外交目的を達成するため,隣国ノルウェーの王室一行の入国さえ拒否.
それどころか,ノルウェーに対してあらゆる援助を(この時点では)拒否しています.
中立状態,つまりドイツにも連合国にも肩入れしない事を建て前としてますが,下手に肩入れしていると見られるとドイツの侵攻を招きかねず――この時のスウェーデン軍では太刀打ち出来ない――,ノルウェーを「見殺し」にする形になってしまいます.
一方,ドイツからは様々な要求――スウェーデン領内の兵員・軍事物資の通過など――が出されますが,スウェーデンはその度に譲歩を余儀無くされ,対ソ戦の為の完全武装の一個師団のスウェーデン領内の通過も議論紛糾の末,
「スウェーデンの国益(非交戦状態の維持)のみを考慮した,一回限りの最大限の譲歩」
として通過を認めています.
(それまでの通過は
「戦闘の為では無く,本国への帰休(または部隊への帰任)」
「ノルウェーは占領下にあり,戦闘中ではない」
などの苦しい理由で認めていたが,この輸送は「戦争に参加する為に」移動するので,中立国の原則に完全に違反する)
その後もドイツからは,追加の通過要求などもあり,この状態はスウェーデンの軍備が拡張し,ドイツの敗勢が明らかになりつつあった1943年まで続きます.
この間スウェーデン国内では言論の統制・検閲(ドイツの反感を買いそうな記事などを差し止め,出版停止など)などが行われています.
しかしその一方で,スウェーデン国内ではノルウェーのレジスタンスへの支援拠点や(警察隊に偽装した)ノルウェー軍の訓練を行うなど,「結果として」中立国としての立場が連合国側の利益になった,との意見も紹介されています.
こうしてみると,スウェーデンの中立は,大国の思惑や力関係などによる「偶然の幸運」によるものでしかない,という意見に同意するしかありません.
グンジ in mixi,2007年11月11日
▼ 【余談】
ゲーリングはWWI後,曲芸飛行士として生計を立てていた.
その彼がスウェーデンに行った際,スウェーデン将校の人妻と恋に落ち,結婚した.
さて,WWIIでドイツ(というか,ヒトラー)がデンマーク・ノルウェーを侵攻作戦を立てていた時,最初はスウェーデンにも侵攻する計画だった.
それを聞いたゲーリングは強硬に反対して,スウェーデン侵攻作戦は計画から外された.
これはゲーリングの妻の親戚筋でスウェーデン王族や貴族に近い人がいて,その縁故を頼ったロビー活動の成果だとする説がある.
朝日ソノラマから出てたサミュエル・ミッチェル著「ドイツ空軍戦記」を引用すると,
「北欧四カ国のうち,スウェーデンだけが第二次世界大戦の惨禍を免れたのだが,その原因は一九二〇年代のひどく寒いある晩に,一人の怪しげなドイツ人の飛行士が,スウェーデンのある美しい女性との恋に落ちたというだけのことだったのである」
ばばぼん♪ ◆gdH1Km1a0U : 軍事板,2003/02/14
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
HX84船団で反転してジャーヴィスベイの生存者を拾い上げ,HX92船団で撃沈されたスウェーデン船籍のStureholmという商船がありましたが,この船は何故英国の船団に所属していたんでしょうか?
デンマーク船のように英政府に傭船されていたとか,それともアメリカへの独航が不能であるために付属していったとかなんでしょうか?
また,当時のスウェーデンの海上通商路がどういった状態で保持されていたのか教えて下さい.
【回答】
多分,英国に傭船されたものと思われます.
Swedenの船舶は中立国船舶ですが,大西洋にドイツ潜水艦が跳梁跋扈するようになると,連合国との物資を運んでいた場合,中立違反として咎められる場合もあります.
従って,連合国の港に繋留されっぱなしになるケースもあり,船を維持する為に,連合国との傭船契約を結ぶケースも出て来ました.
例えば,日米の外交官と引揚げを希望する民間人を交換する為,米国国務省は1942年5月にグリプスホルム号を傭船し,ニューヨークからリオデジャネイロを経由してロレンソ・マルケス(今のモザンビーク)まで,航海を行っています.
また,ニューヨークに戻った後は米国政府に1日4,000ドルで傭船され,主にニューヨークに停泊していましたが,1943年には第二次日米交換船の米国側船舶として用いられました.
海上通商路については,アイスランド航路など北海航路,南米航路,米国航路を維持していましたが,ドイツの米国への宣戦布告と,米国によるアイスランド占領により,南米航路以外の航路は閉じられます.
南米航路は2ヶ月に2隻,座席数8程度なので,座席チケットの争奪は正に戦いでした.
この航路を取る場合は,事前に英国大使館の武官とドイツ大使館の武官から海域を通る許可証を得る必要があります.
Sweden船は基本的に,船腹に大きく国旗が描かれ,船名と所属国(SVERIGE)と書かれています.
出航する船は行先により船団を組んでいき,Sweden領海を出るまで,海軍の護衛を受けます.
そして夜間航行の際には,国旗と船名を確認出来るよう,常に灯りを煌々と付ける様にしていました.
ノルウェー海域に入るとドイツ水上機が近付いて船名を確認し,クリスチャンサンドまでは,ドイツの指令の下,沿岸海域を航行し,場合によっては臨検を受ける事になります.
クリスチャンサンドでドイツ海軍の検査を受け,問題がない事を確認した後,ノルウェー領海を抜けるとフェロー諸島まで,英国側の指令の下,航行を続けます.
航海の3日目に,英国側の航空機が近付いて船名を確認し,フェロー諸島に停泊.英国側の検査を受け,大西洋に入っていきます.
なお,10日の間,機雷原や不意の魚雷攻撃に備える為,船長は一睡も出来ません.
そして,大西洋を抜けて,南米に向かう形になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
◆◆◆◆デンマーク
【質問】
デンマークは戦わなかったの?
【回答】
デンマークはドイツと不可侵条約を結んでいるのですが,アッサリ無視され侵攻を受けるという悲劇を味わっています(降伏までの両軍の死者はドイツ軍20人,デンマーク軍13人).
しかし,国王の主導によりほとんど無血降伏しましたから,このときにはほとんど被害は受けませんでした(国王はドイツ敗戦後に退位)
そして大戦中盤にドイツ軍は当初の約束を無視してデンマーク全土に戒厳令を敷き,これに反発してレジスタンス活動が始まっています.
例えばデンマーク・レジスタンスは,ドイツ軍に接収された兵器廠を襲撃してサブマシンガンの部品や完成品を大量に奪取,それをドイツ軍管理の市電整備場で,監視の目を盗んで組み立てたことがあったそうです.
そして,それは終戦まで発覚しなかったとか(ドイツ軍,何してたんだ?)
あと,イギリス空軍がデンマークを空襲しに良く来てましたね.モスキート軽爆が小学校を誤爆した事もあったような.
最後まで連合軍地上部隊の侵攻は受けずにドイツの占領下にあった土地だったので,地上戦の惨禍は受けずに済み,ドイツ敗戦時には本国にいられなくなった秘密警察ゲシュタポの本部がデンマークにありました.
第一次大戦でも第二次大戦でもあまり大きな被害をデンマークが受けなかったのは,この国が「戦争の通り道」からちょっと外れた場所にあったからでしょう.
ただ,ノルウェーが主戦場の一つになっていたら,派手に巻き込まれていたでしょう.
イギリスは当初ノルウェーを主戦場にする予定でしたから,かなり危うかったですね.
『嵐の中の北欧 抵抗か中立か服従か』(武田龍夫著,中公文庫,1985.4)によれば,デンマークはドイツの侵攻直後,小規模な戦闘が発生するが数時間で停戦.
ドイツの要求を丸飲みする形で服従せざるをえなくなります.
(尤もデンマークの国力や軍事力,国土では徹底交戦は不可能であるし,英国も侵攻されても見殺しにすると公言されてたが)
グンジ in mixi,2007年11月11日
https://www.youtube.com/watch?v=ZNfR3l0JcVE
【質問 kérdés】
なぜナチス・ドイツは1943年以降,デンマークを直接統治下に置いたの?
3行で教えて!
Miért Dániát Kormányozt közvetlen a Nácik-Németország 1943 után?
Kérem, mondja meg 3 sorokban!
【回答 válasz】
A csekély dán ellenállásnak köszönhetően a németek viszonylag engedékenyek
voltak.
デンマークの抗戦は微弱だったため,ドイツは比較的寛大だった.
しかし戦争が長引くにつれ,デンマーク国民はドイツ占領への反感を募らせ,デモやドイツ系企業でのサボタージュが起きた.
Ám a náci követelések egyre nagyobb terhet jelentettek a kormánynak, mely
1943.8.29-ben lemondott, helyette pedig a németek vették át az ország irányítását.
しかし,政府に対するナチの要求は次第に大きくなっていき,1943.8.29に内閣総辞職,ドイツがその国を直接支配したのだった.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-022.html
http://lingvistika.blog.jp/archives/1061767209.html
http://ww2.uc-style.com/nation/denmark.html
mixi, 2018.4.7
【質問 kérdés】
WW2デンマークではレジスタント活動はなかったの?
【回答 válasz】
占領後,抵抗や諜報活動の個々の試みはあった.
たとえば「Princes」という名で知られるデンマーク陸軍の諜報将校グループは,4.13にはロンドンとの間にチャンネルを開設している.
時がたつにつれ,占領に抵抗するグループがいくつも見られるようになった.
たとえば
最初期の抵抗組織の一つであり,ドイツに対する妨害行為やドイツの兵器を盗み出すことに成功した,学生8人から成る「チャーチル・クラブ」,
英軍がパラシュート投下した火器で武装したHvidstenグループ,
サボタージュ活動起案や対独協力者暗殺に成功したHolger Danske
といったグループがあった.
(図1)はレジスタントの集合写真.
着ている服からも容易に想像できるだろうが,彼らのバックグラウンドは様々だった.
1942~43年にかけ,抵抗活動は徐々に暴力的な行動,とりわけ破壊活動の割合が増え,様々なグループが英国特殊工作班(SOE)との連絡に成功した.
1944年8月までは武器投下はさほど多くはなかったが,戦争終盤には増加した.
一方,43年8月からはデンマークはドイツの軍政下に入り,44年6月には首都コペンハーゲンで大規模なゼネスト発生.
また,移送されようとするユダヤ人をスウェーデンへ脱出させる活動が行われた.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/429850/en/ ※図1引用元
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-022.html
https://virtual-journeys.com/ja/denmark/copenhagen/resistance-museum
http://91224772.at.webry.info/201406/article_1.html
http://91224772.at.webry.info/201406/article_5.html
http://besaettelsesmuseet.dk/Engelsk.htm
https://www.youtube.com/watch?v=N6s_g3po2NU
mixi, 2018.4.10
【質問】
第二次大戦後のドイツ系デンマーク人/デンマーク系ドイツ人への処遇は?
【回答】
さて,デンマークに居住するドイツ系デンマーク人は,1970年代には1.5~2万人と見積もられています.
第二次大戦前は,その倍以上は居住していたのですが,御多分に洩れず,「ドイツへの協力者」達は,裁判に掛けられ,学校は閉鎖され,財産は没収され,追放が為されました.
ユダヤ人には比較的寛容であったこの国ですが,第一次大戦と第二次大戦を経て,ドイツ系デンマーク人は信用が低下してしまいました.
第一次大戦後の1920~24年でも,第二次大戦後の1954~55年でも,ドイツ政府の要望にも関わらず,ドイツ系デンマーク人をデンマーク国内の少数民族としては一切認めませんでした.
これは,何度も対独戦を戦い,不利な条約を押しつけられた歴史があり,デンマークが小国の地位に転落した後には特に,斯うした条約によって国内問題に干渉する危険性を抱いていたからです.
一方で,デンマーク系ドイツ人に対しては,少数民族として保護し,援助していたり….
1997年まで,両国はこれらの人々に対する保護は明示的に拘束することなく,両国は暗黙の互恵主義に基づいて行われていました.
時代は遡って,1945年にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州に於て,デンマーク系ドイツ人や地元居住のドイツ人も巻き込んで,英国占領軍司令部に対する分離自治権要求が幾度も出されました.
ただ,デンマーク政府は,1945年5月にドイツが降伏すると,9日にはもう「国境画定声明」を発して,自国の国境線変更をしないと言う立場を鮮明にしています.
一方で,英国軍司令部は,占領時の民主化運動の担い手として,彼らデンマーク系ドイツ人を援助することとし,6月4日に発した英軍指示で,以下の様に表明しています.
a) デンマーク人財産の押収停止
b) 強制労働の停止
c) 行政ポストへのデンマーク人の登用推進
d) 新デンマーク運動(南シュレスヴィヒ州の独立・自治)支援
そして,10月13日にはデンマーク系ドイツ人の学校(大戦末には9校,生徒数437名だった)の建設促進を告知しました.
その学校への入学条件は,以下の場合です.
a) ナチス子弟以外のデンマーク系ドイツ人であり,両親ともデンマーク学校出か,両親がデンマーク若しくは南シュレスヴィヒ生まれなら,無条件でデンマーク系ドイツ人学校に入学可能.
b) ナチス子弟以外のデンマーク系ドイツ人で,片親がデンマーク若しくは南シュレスヴィヒ生まれで,もう片親がアイダー川の南の生まれであれば,試験により入学可能.
c) ナチス子弟以外のデンマーク系ドイツ人でも,両親ともアイダー川の南の生まれなら,入校は不可.
その学校開設に当たっては,デンマーク系学校教会によって,直接教育管理将校に申し出るだけで良く,英軍との連絡は,デンマーク人学校長ハンゼン氏とデンマーク軍の連絡将校トゥッシェング大尉が担当すると言うものです.
デンマーク軍の連絡将校は,本来デンマーク政府とデンマーク系ドイツ人,そして英国占領軍の連絡調整が任務ですが,実際に英国軍司令部に於て,影響力を行使し,少数者に有利な工作を行っていたのが,この連絡将校でした.
しかし,英国は例によって,二枚舌外交を展開します.
占領当初の少数者への期待感は影を潜め,次第にデンマーク系ドイツ人への優遇を見直し,一転して厳しい姿勢を見せたのです.
先ずは1946年10月22日の書簡で,教育関係の会議を開催する事を提唱します.
これには,英国軍,デンマーク系ドイツ人指導者に加え,ドイツ側州政府も入っていました.
今までは,英国軍とデンマーク軍連絡将校,デンマーク系ドイツ人指導者のみで,ドイツ側は敗戦国の立場でしたから,お呼びでなかったのに,一転して参加が許されたのです.
この会議は,1946年11月7日に第1回が開催され,翌年5月2日に最終委員会が開催されました.
この席上,ドイツ州政府代表は,Prinzip der
Gegenseitigkeit(相同性原則)を主張します.
これは,南北シュレスヴィヒの両国少数民族に「同一の」民族学校原則を樹立するものでしたが,北シュレスヴィヒのドイツ系デンマーク住民の教育は,1946年に4校174名しか居ませんでした.
しかも,ナチスへの嫌悪から公立から私立に移行させられてしまいました.
「同一の」民族学校原則を行うとすれば,当然,ドイツ側にも公立から私立への移行が要求されます.
最終的に,最後の合同委員会開催後,1947年5月23日に英軍政府は「英軍大綱」をデンマーク系ドイツ人組織に示し,2年の情勢変化,1つは1946年9月9日,デンマーク政府に英国軍政部が示した国境変更打診(9月ノート)に対し,デンマーク政府が10月19日に回答した国境再変更の意志無しとの表明(10月ノート),そして,冷戦の進行がそれに追い打ちを掛けました.
この辺,太平洋戦争後に於ける朝鮮民族学校の設立・運営の変遷と似ていない事もないと思ってみたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月15日
▼ 1947年5月23日,英国の二枚舌外交(と,ドイツ系デンマーク人には思えた)で,「英軍大綱」が出され,これまで学校の開設や運営に携わってきた英軍の代りに,ドイツ州政府が前面に出る様になります.
又,入校生徒の資格も,従来の出生地と言う客観基準から,南シュレスヴィヒ協会と言う団体に所属していなければならないと言う客観基準に変更されます.
更に新学校には,ドイツの学校昇級試験であるアビトゥーアの受験資格は無く,生徒数の最小は10名とされ,公立デンマーク人学校の存在は,1948年4月1日まで,そして,ドイツの主張する相同性原則により,これ以降,デンマーク系ドイツ人の学校は全て私立となるとしています.
この英軍大綱を基に,州政府側は1947年8月1日に「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン学校規程」を制定し,学校設立にはデンマークと同じく州政府の設立許可が必要であるとし,州の負担は30人クラスなら教員給与の6割を,それに満たなければ3割とすると規定します.
加えて,デンマークでのドイツ系デンマーク人の学校に国家試験が課せられていない事から,ドイツ側でもアビトゥーアの受験資格は無い.
更に,教科は民族教育に加え,ドイツ語,ドイツ史,地理,公民を必須科目とし,学力がドイツの学校に劣ってはならない.
更に,公立校は私立化すると言う事を改めて声明しました.
但し公立校の私立校化は,後に1949年4月1日までに行うと延期されています.
この法律に反発したのは,デンマーク系ドイツ人と,彼らを支援していた野党のヴェンストル党と保守党で,彼らは連携して社会民主党が政権を握っていたデンマーク政府に圧力を掛け,英国との直接交渉に乗り出させます.
こうして,1948年10月18日から23日にかけて,ロンドンで英国外相,デンマーク外相のロンドン円卓会議が持たれました.
その主要要求は以前,デンマーク政府が主張していた国境線不変の声明を覆すもので,デンマーク系ドイツ人の主張をそのままなぞったものでした.
此処で英国が同意していれば,1948年にはデンマークの領土は大きく,西ドイツの領土は小さく,更に各国に浸食されるに至った事でしょうが,残念な事に英国はデンマークの要求に同意せず(デンマーク系ドイツ人の主張にはキール運河から北をデンマーク領にすべきだとしていた者もいた),避難民の一掃,少数者の権利に関する英国の介入拒否と,悉く,その要求は拒否され,下駄はデンマーク系ドイツ人と州政府との直接交渉に委ねられました.
この英国の豹変は,当時英国占領軍は,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州(Provinz)を邦(Land)に格上げしようとしており,州都もシュレスヴィヒ市からキールに移していました.
格上げするのに南シュレスヴィヒを分離するのは,その政策に矛盾する事になるのが一つ,
南シュレスヴィヒの分離は他の地域に波及する可能性があり,ドイツ国内での民族主義運動が高揚し,再びナチスが出現するかも知れないと危惧したのが二つ,
そして,避難民を強制的に排除するのは,民主化の実現というプロセスに反すると言う理由が挙げられます.
結局,英国は東西冷戦問題が深まる中で,ドイツ対デンマークと言う考えで外交を進めるのはソ連を利するだけであり,ドイツの安定を勝ち取る為には,「西側欧州」という視点で物事を考えるべきである,と主張した訳です.
こうして,この問題はデンマーク系ドイツ人と州政府との直接交渉に持ち越されます.
因みに,州議会にデンマーク系ドイツ人は,全得票の10%を得て,1948年現在で6議席を有しています.
この様なデンマーク系ドイツ人の民族主義的高揚感の中で,交渉が始められたのですが,特に対立点になったのが「アビトゥーア」問題です.
ドイツ系デンマーク人中等学校のカリキュラムは,デンマークに合わせていたので,州政府は相同性原則により,デンマーク系ドイツ人中等学校にもドイツの学校制度の適用を求めたのに対し,デンマーク系ドイツ人はこれを拒否し,結果的に中等学校に類する「独立学校」を作る事になります.
占領当初,英国軍では州の学校制度を,日本と同じく民主的な6-3-3制としました.
しかし,占領軍の威光が衰え,州政府のフリーハンドが可能となっていくと,1949年に制定した教育法に基づき,州政府はこれを6-7制に修正します.
こうして,基礎学校が6年,その後大学受験者はギムナジウムに7年(職業選択に伴い中等学校の年数は異なりますが)の都合13年通う事になります.
一方,デンマークの教育制度では7-5制,即ち,国民学校7年の後,理論コースで2年,ギムナジウムで3年の都合12年になります.
結果的に,デンマークの教育制度に合わせると大学受験資格が1年不足している事になり,ドイツ社会に於て,デンマーク系ドイツ人の高等教育の機会から疎外されると言う現象が出来します.
事実,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州のデンマーク系学校で学び,デンマークのアビトゥーアを取得したデンマーク系ドイツ人学生が,南ドイツの大学で,修学していたにも関わらず,年数の不足が発覚したことにより,入学資格を取消される事件もありました.
また,この上に宗教間対立もあったりします.
デンマークとシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の教会は共に福音派に属していましたが,デンマーク系ドイツ人の民族主義高揚に伴い,ドイツ州教会からDanske
Kirke i Udlanndet(ユトランド・デンマーク教会)に鞍替えする信徒が続出しました.
こうしてドイツ州教会を脱退した信徒は,デンマークから派遣されたデンマーク人牧師によるミサを受ける事になりましたが,約100年に及ぶプロイセン,ドイツ支配の間にドイツ語化政策が強力に推進され,住民の日常言語はドイツ語になっていました.
この為,デンマーク人牧師はドイツ語での説教を行ったのですが,ドイツ州教会は,「デンマーク人牧師によるドイツ語説教」を禁じていたりします.
これまた対立の火種となり,一触即発の状態になっていった訳です.
学校については,今の日本に於ける朝鮮初中級学校の問題と極めて似通った性質がある様に思えますね.
場合によっては,イラク並みの状況になってもおかしくない訳で.
て事で,もう少し続ける.
次回は解決編…に繋がればいいなぁ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月16日18:25
▲
▼ 先日は,朝鮮人学校の話を書いた訳ですが,ドイツでもほぼ同じ経過を辿りました.
ただ,日本よりは若干平和裡に物事が進んでいきます.
これは,デンマーク本国政府が英国との外相会談以降,交渉参加に消極的となり,デンマーク系ドイツ人への直接的な掩護射撃を止めた事が最大の原因です.
特に国境線の変更については,当初から余計な少数者(ドイツ系デンマーク人)の増加を好まなかった為,デンマークの政権与党では一貫して反対していました.
一点だけ彼らが強硬に主張したのは,ドイツ系デンマーク人の諸権利に対してで,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州政府や,後の連邦政府の期待にも関わらず,特に教育分野に於て,少数者教育の民族学校の公立化には頑として反対を貫き通しました.
結果的に,相互主義に基づき,デンマーク系ドイツ人の民族学校についても,州政府や連邦政府が公立化を受入れるつもりだったのに,こちらも私立化せざるを得ませんでした.
デンマーク政府が表に出なくなった為,事態収拾の会議は英国占領軍総司令官が仲介する形で,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州政府とデンマーク系ドイツ人民族団体首脳との直接会談に持ち込まれます.
当初は,デンマーク系ドイツ人民族団体首脳の要求は,再三述べている様に,南シュレスヴィヒ州のドイツからの分離とデンマーク併合だったのですが,流石に本国政府から梯子を外された状態では如何ともし難く,会議では条件闘争に転じ,少数民族の権利尊重,特にそれらの権利は法的に保護されなければならない,として,州政府による法制化を求めます.
これに対し,州政府側は,1949年にドイツ連邦共和国が成立して,占領状態が完了する為,今此処で州政府独自の法制化をする事はボン基本法に抵触する可能性がある.
従って,少数民族の権利を法制化する事は出来ない.
但し,それを両者の合意に基づく宣言として行う事には何ら否定はしない.
として,デンマーク系ドイツ人民族団体首脳の要求を一つ一つ反駁しつつ,落し所を探る形になっています.
1949年5月23日に所謂「ボン基本法」が成立し,ドイツ連邦共和国が発足して後もなお交渉が続き,1949年7月7日に宣言内容に両者が合意しました.
1つ目は,デンマーク系ドイツ人の呼称を,民族団体の要求した「デンマーク系民族グループ」ではなく,序文で「デンマーク系少数者(デンマーク心の住民)」と表現,本文では,「デンマーク心の住民」と表現する事にして,少数民族と言う表現を避ける様にしています.
これは基本的に,ボン基本法で「人の権利」に少数民族の権利は含まれていると解釈すると言う事,そして,少数民族にしてしまうと,今は本国政府が否定的だが,本国政府の姿勢が変わると,再びその少数民族を取り込む国境変更要求が出るのではないか,と州政府側(連邦政府側)が恐れたのが最大の要因です.
2つ目は,初等教育の後に行われる高等教育機関,特に職業準備の為の専門学校や職業学校設立の自由で,当初は相互主義に基づき,州政府はその設立を認めない方針でしたが,流石に高等教育の機会を奪うのはボン基本法の「人の権利」からしても問題であり,これは認められる事になりました.
最後に,ワイマール時代までは,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州のデンマーク人多数地区に赴任する官吏の多くが,デンマーク系ドイツ人だったのが,ナチス時代に,彼らは迫害を受け,今でも戦争避難民の流入で差別待遇を受けている,として,デンマーク系ドイツ人民族団体首脳は苦情処理機関の設置を求めていました.
この苦情処理委員会の設置は認められ,その書記にはデンマーク系ドイツ人民族団体に所属している委員から選出し,州政府が任命した上,賃金を支払うと言う事で合意します.
この宣言は1949年9月26日に「デンマーク系少数者の地位に関するシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の宣言(キール宣言)」として州議会で承認されました.
ただ,ドイツ連邦共和国発足に当たり行われた第1回の国会議員選挙では,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州では,州の政権与党SPDは,野党CDUに敗北してしまいます.
この為,州の政権を担ってきたSPD内閣は責任を取って退陣し,州首相代理による議会運営でこの宣言が可決されました.
この際,CDUに配慮してその宣言内容は若干ドイツ人有利に変更されました.
結果的に,ドイツ・デンマークの国境線は守り抜き,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン内部の分裂は避けられ,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の住民は,ドイツに無条件の忠誠を義務付けるとなった訳です.
第二次大戦直後の混乱期,ともすればドイツ解体の危機に晒されていた頃に,ドイツ国家を代表とする政府が未だ存在し得ず,粘り強い州政府の交渉により,何とか話し合いで解決出来たのは奇跡的な事ではないか,と思ってみたり.
1949年9月26日のキール宣言以降,萎縮する一方だったドイツ系デンマーク人も同じく,デンマーク政府相手にデンマーク系ドイツ人と同じ権利を求めて交渉を行います.
こちらは未だ大戦の傷が癒えない時期であり,要求は退けられました.
但し,第一次住民投票前の1919年3月6日に,デンマーク政府は,ドイツ系デンマーク人の言語・学校の権利は保障し,彼らが交渉を持ったデンマーク首相ヘドトフトも,「デンマーク公民としての権利はある」と示唆しました.
こちらの方も,最終的に1949年10月27日に「コペンハーゲン議事録」として認められ,ドイツとデンマーク双方の少数者の権利が穏便に認め合う事になりました.
ただ,この両者の宣言,議事録は根本的な問題を孕んでおり,これが再び危機を生み出す事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月19日22:02
さて,キール宣言とコペンハーゲン議事録で,両国にいる少数民族の地位は一応保障されたのですが,これらには共通の問題がありました.
即ち,キール宣言とコペンハーゲン議事録の両方とも,片や州議会の決議であり,片やデンマーク首相による所信表明の一種であることで,両方とも政府間合意では無かったりします.
そもそも,キール宣言は一地方政府による議決であり,法的な根拠は無いもの,コペンハーゲン議事録も,法的な拘束力のない,首相の所信表明であって,議会の承認も得ていないものです.
このため,国家レベルでの調整が必要な状態が出来しました.
1つは,前にも触れたアビトゥーア問題で,デンマークの学校制度がドイツのそれに比べ1年少なかった為,ドイツ系デンマーク人学校で学ぶ者は,デンマークの大学に留学せざるを得ませんでした.
2つ目は,州政府のドイツ系デンマーク人学校への国庫補助率で,州政府の国庫補助は,その文部省令で「80%まで」と定めていました.
ところが,1951~52年の景気下降による州政府の財政難でこの2年間は50%まで下降します.
1953年は好景気に支えられて財政事情は好転し,元の国庫補助率に戻りましたが,その間の国庫補助不足分をデンマーク系ドイツ人団体が負担した為,その補助分を返還を求めますが,州政府はそれを拒否します.
これも,政府間協定が無い為,明瞭な義務規程が無く,努力目標でしかありませんでした.
3つ目が政治的な問題で,少数民族の政治参加です.
デンマーク系ドイツ人民族団体を母胎とするデンマーク系ドイツ人少数政党は,ボン基本法の「5%条項」(全体獲得票数の5%に満たない場合は議席が配分されない)により,1954年の州議会選挙で,それまで獲得していた4議席を全て失い,連邦議会選挙でも,1議席を獲得していたのが0になってしまいました.
最後の問題が一番重い課題でした.
1955年にドイツ連邦共和国がNATOに加盟する際に,その加盟を審議するNATO委員会に於て,デンマーク政府が少数民族を抑圧しているとして,問題提起したのです.
下手をすれば,ドイツ連邦共和国は少数民族問題で,NATO加盟や再軍備宣言に支障を来す可能性がありました.
今まで連邦政府はこの問題を州政府に任せきりにしていたのですが,この会議にオブザーバで参加していた当時の首相Adenauerは,その問題の重要性を即座に理解し,デンマーク外相と立ち話(「廊下会談」と言われています)して,問題の共同解決を提案,1866年以来,あらゆる種類の国際条約は「デンマークの内政干渉」と忌避してきたデンマークも姿勢を軟化させ,長い交渉の後,1955年3月31日に先ず,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州議会が全会一致で「ボン・コペンハーゲン宣言」を採択,4月19日にデンマーク国会で賛成多数により同じ宣言を採択,6月6日にドイツ連邦共和国議会も全会一致でこれを採択し,漸く両国間での政府間協定が成立しました.
この宣言では,デンマーク系ドイツ人の5%条項の除外(但し,少数者以外の最下位当選者得票を上回る事が条件)を実現し,デンマーク系ドイツ人が議会に代表を送る事が出来る様になりました.
教育の国庫補助については,従来の人件費だけの補助から,「人的及び物的支出の80%を計上する」と定められました.
更に,デンマーク系ドイツ人の為の中等学校や中間学校の設立を容認し,その学校制度をドイツに対応する事を前提として,アビトゥーアを承認するとされました.
これが画期的なのは,両国が少数民族問題で初めて共通のテーブルについて議論を交わした事であり,その結果,両国間の政治的平和を実現した事,南北シュレスヴィヒ少数者の教育権を樹立した事が挙げられます.
1958年にドイツ系デンマーク人は再び代表を州議会に送る事が出来,1964年に得票数が減って議会に代表者を送る事が出来なくなるまで,議席は維持されました.
ただ,議会に議席が維持出来なくても,諮問委員会が設立され,年2回,ドイツ系デンマーク人の統括機関と議会政党との間で財政上若しくは文化上の問題を討議する様になり,少数者の意見は汲み取られる仕組みが出来ています.
デンマーク系ドイツ人の方は,1979年まで,デンマークの政党である民主中央党を通じて1人の議員を議会に送る事が出来ました.
尤も,その連携は短期間で終わってしまい,今は代表者を出していませんけれど….
然し乍ら,両国の係争地域だった領域に安定的な平和が齎され,この地域には両国政府の支援もあって,高水準の教育上,文化上,社会上の制度を築き上げ,比較的富裕な地域となっています.
最近,日本でも外国人参政権問題とか,行政参加とか,教育問題が声高に叫んでいる人も居ますが,デンマークとドイツ両国の関係をもう少し研究してみれば,良い施策が見つかるのではないですかねぇ.
不安を煽るだけでは,何も改善されませんわな.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月20日22:57
▲
【質問 kérdés】
第二次大戦中,アイスランドはどうなったの?
簡潔に教えて!
Mi történt Izlanddal a második világháború idején?
Kérem, mondja meg röviden.
【回答 válasz】
Izlandot és Feröert 1940.5.10-ben a britek szállták meg, hogy megelőzzenek
egy német inváziót.
アイスランドとフェロー諸島は1940.5.10,それらがドイツの手に落ちることを防ぐべく,英国によって占領された.
同日朝,ロバート・スタージェス Robert Sturges 大佐率いる英国王立海兵隊746名が侵攻し,警官60名と未訓練の予備役兵300名がいただけのアイスランドはこれに抵抗しなかった.
その後,英軍やカナダ軍,参戦後は米軍の増援が到着し,最大3万人が駐留.
航空基地を設置して船団護衛のための哨戒任務に当たった.
1944-ben Izland független királyság lett (addig a dán király Izland uralkodója
is volt).
1944年,アイスランドは王国から独立した(それまでデンマーク王はアイスランドの王でもあった)
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.y-history.net/appendix/wh0601-128_1.html
http://psycross.com/blog/?p=10218
https://www.kaho.biz/iceland/d.html
https://www.youtube.com/watch?v=TiyML1_0CBU
https://www.youtube.com/watch?v=53ba78GOvhI
【ぐんじさんぎょう】,2018/4/6 20:00
を加筆改修
◆◆◆◆フィンランド
【質問】
ソ・フィン戦争が起きたのは,フィンランドの外交ミスなのでは?
【回答】
フィンランドの情勢判断が甘かったのは事実だな.
まさか無茶な要求を断っただけで,ソ連軍が侵攻してくるとは思わなかったのだから.
結果はさらに無茶な領土割譲を受ける羽目に.
とはいえ,善戦によるソ連軍への出血と,余力があるうちの講和によって,最悪の事態(傀儡共産政権の樹立)を避けたのは評価しても良いかと.
ただ,ソ連も冬戦争開始の翌日に傀儡政権を作ったりしてるから,元々カレリアだけで満足するつもりじゃなかったんじゃねえの?
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ソ・フィン戦争でフィンランドが善戦したのは,フィンランド兵の勇戦のおかげ?
【回答】
戦闘においてフィンランドが寡兵よく勇戦したのは事実だが,運が良かったんだよ.
開戦後二週間も悪天候で空軍は動けず,湖は凍らずで攻められない.
その後は急激に寒波が襲い,凍死者続出.
冬戦争を通して赤軍の人的被害の8割が凍死・凍傷という有様.
赤軍が勝手に自滅していったんだよな.
フィンランドの勇戦より,最大の味方はソ連の拙い計画だったということ.
国防人民委員ヴォロシーロフが,スターリンに
「貴様の粛清のせいでこうなったんだ!」
と怒鳴ったのは有名な話.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
表紙ラフェッテに搭載されたMG34機関銃イラストが渋い!
発行時期と防寒帽等の軍装を考えると,おそらくドイツ軍ではなく,冬戦争後のフィンランド軍を描いている様ですがどうでしょう.
よしぞうmaro' in mixi,2007年07月12日01:56
▲
【質問】
モッティ戦術は電撃戦?
【回答】
確かにモッティ戦術は,現地人スキー部隊の機動性を利用して側面背面をつくので電撃戦を連想させる.
だが電撃戦は一般には,主力が機動力を持って敵の中枢(または重要地点)を衝くものとされている.
すなわち機甲部隊等が,目的とした敵の司令部なり,兵站地点なり,交通の要所なりに達するまでが電撃戦.
いちいち目の前の敵軍を順番に殲滅していくんじゃなくて,スルーして敵の要点だけどんどん叩いていき,
結果として敵の指令経路,兵站路を破壊して動けなくするというもの.
機動力があるというだけでは,電撃戦とは呼べない.
イラク戦争のアメリカも電撃戦の典型.
相手がそれですっかり降伏してくれたらいいんだが,
指令経路なんかなくてもいくらでも抵抗するぞ,と来られると,今度は攻撃目標が絞れなくなり,己が包囲される被ゲリラ戦になりかねないのが危ないところ.
ただし電撃戦自体が定義の難しい概念で,ドイツ軍でも緒戦のポーランド戦は電撃戦ではないというし,説によってはフランス戦ですら電撃戦と呼ばないものもあったはず.
モッティはソ連軍が掌握できない雪原や山岳地帯をスキー部隊で浸透.
道路を行くソ連軍を側面・背面から襲撃し,場合によって包囲殲滅によって戦果を拡大する.
浸透するときには,電撃戦のような大規模部隊による機動はいらないから.浸透戦術が電撃戦でないのと同じように,モッティも電撃戦では全くない.
目的が敵部隊の撃滅・補給路の切断なので,どちらかというと迂回による機動防御に近い.
スキー部隊のあけた穴を一般部隊で拡大するわけではないので,ただの遊撃戦術とするのが適当だと思う.
実際には,補給を妨害する事で継戦能力を奪い,甚だしきは凍死に追い込むことが最大の戦果だったけど.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
狙撃手スロ・コルッカに関して英語版のWikipediaには,
「記録がほとんど存在しないため,架空の人物ではないか?」
とありますが本当ですか?
from mailform
【回答】
確か軍板のフィンランド・スレッドでしたかな?
英語版のwikiではスロ・コルッカの記録が殆どないので,架空の人物なんじゃないか?というノートでの議論が書かれていました.
結論はまだ出てないと思います.
CRS@空挺軍 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分
【質問】
ソ・フィン戦争のフィンランド軍において,ソリはどのように使われましたか?
【回答】
小部隊による後方襲撃や,物資運搬用に用いられ,ソリやスキーを使ってソビエト軍の補給線に神出鬼没に出現して襲撃しては撤退するという戦術にソビエト軍は悩まされました.
1941年夏期のフィンランド地上軍には第1~3独立そり大隊がありましたが,その後,再編成され,第1そり大隊および第2そり大隊は1942年2月に中止され,第3そり大隊は1943年5月に新たな第15歩兵旅団の基幹部隊として編成されました.
ソリには犬橇,トナカイ橇,人力橇とがあり,トナカイは非常時の食糧にもされたようです.
ちなみにトナカイは,血の臭いが強い肉ですが,ベリーソースのおかげか,それほど不味くは無かったとのこと.
【参考ページ】
http://kasapanos.web.infoseek.co.jp/chari-sori.html
http://japanzer.hp.infoseek.co.jp/Docs/Fin41-44.htm
http://blawat2015.no-ip.com/~mieki256/diary/200602091.html
http://unkar.jp/read/hobby9.2ch.net/army/1161262136
http://homepage3.nifty.com/sweeper/gun/smg/m31.htm
http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/59539
【ぐんじさんぎょう】,2009/8/22 21:00
に加筆
なお,陸自が積雪地で使う部隊用大型雪ゾリを「アキオ」と呼ぶのは,何故かフィンランド語から来ているらしいです.
整備兵 in mixi,2009年08月23日 23:16
フィンランド軍の運搬用橇
http://kasapanos.web.infoseek.co.jp/chari-sori.htmlより引用
(朝目新聞より引用)
【質問】
『モデルグラフィックス』という雑誌で
「フィンランドに大量に輸出された38年式歩兵銃は,主に2線級部隊に配備された」
という記述がありました.これは38年式の評価が低かったせいなのでしょうか?
それとも,専用弾薬や部品の不足のせいだったんでしょうか?
【回答】
後者.
http://en.wikipedia.org/wiki/6.5x50mm_Arisaka#Finn_usage
によれば,
――――――
The Russians, having a surplus of Type 30 and Type 38 rifles from both direct purchase from Japan during WWI and also having captured examples during the Russo-Japanese War, had warehoused some of these rifles in Finland.
During the Russian Revolution, many Finns seized the chance for independence and liberated many Arisakas from Russian arsenals.
They were used mainly by Finn cavalry and after Finland's independence, experiments were taken to upgrade the Type 38s to 7.92. With parts and ammunition drying up,
Finland relegated the Arisaka to the reserves and the merchant marines before trading a large number of them off to Estonia.
Finn used Arisakas will have district numbers and an 'S' branded on the stock.
――――――
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
フィンランドの独立死守は,その犠牲に見合ったものなのか?
【回答】
色々な考え方があるだろうが,ここに一つの意見を紹介しておく.
死傷6万,これがフィンランドが起こした二度目の奇跡「流血の夏」の代償であった.フィンランド軍が,1941年6月25日に勃発した4年に渡る継続戦争でこうむった人的損害は21万1191名,うち戦死者は6万4120名.その3分の1近くがわずか2ヶ月の戦闘で倒れたのである.
1939年11月30日に勃発した「冬戦争」から,わずかな休止期間を経てふたたび起こった「継続戦争」,そしてその後,ソ連の強要でフィンランド国内からドイツ軍を駆逐するため起こった「ラップランド戦争」での死者,行方不明者の合計は8万5555名.フィンランドの出産による人口の自然増の5年分に当たる数字であった.
また,その3分の2近くが20歳から39歳という年齢層の男子で,これは後々までフィンランドの年齢別人口構成に影響を残した.
さらに,5万人あまりの人々に戦傷による障害が残った.
だが,フィンランド軍は最終的な勝利を得ることができた.ソ連との休戦で枢軸側から連合軍側に寝返ったので戦勝国になったという意味ではない.
第二次世界大戦を戦ったフィンランドの戦争目的は終止,大国の間に挟まれた自国の独立を守ると言うものであった.
フィンランドは見事に独立を守り通すことができた.
欧州の参戦国の中で,自国を他国の軍隊に占領されなかった国は,英国とフィンランドだけなのである.
とはいえ,国家の独立とは,これほどの犠牲に値するものなのであろうか?
その回答の一つは,戦わずにしてソ連に屈したバルト三国の運命に見ることができる.三国とも,ソ連政権下において,数十万人が処刑または,シベリアへの流刑,あるいは強制移住を強いられ,さらに二度にわたって独ソ両軍が戦う戦場になり,ドイツ軍治下の時代にはソ連政権に与した国民と,ユダヤ人が大量に処刑された.
そして,戦後ふたたび帰ってきたソ連政権は,大戦中ドイツに協力した人々を弾圧した.
1940年のソ連による併合から,1945年の終戦に至るまでに,死亡,流刑,亡命などで三国から流出した人口は合計200万人近くに達する.
――――――梅本弘著「流血の夏」P,404~405より
これ
http://www04.u-page.so-net.ne.jp/dc4/startrek/fin.htm
を読むとなあ,
確かにフィンランドの戦いって
「一人で血だらけになって頑張っても,持っていかれるものは持っていかれてしまう」
という辛い話だよ.
のび太とジャイアンみたいな・・・
でもだからって
「さっさと戦わないで言うとおりにしましょ」
っていえるかなあ?
しかもさあ,1932年に結んだ不可侵条約がありながら
「フィン公が言うこときかねんならやめだ!」
って破って,1939年に攻め込んできたのはソ連だぜ.
不可侵条約を基礎に,緩衝地帯を設けることだって出来ただろうに
レニングラードがどうとかこうとか知らないが,フィンランドとしてはまずは受けて立つしかないでしょう.
冬戦争の対戦車戦闘
(画像掲示板より引用)
【質問】
ラップランド戦争でフィンランド軍の死傷者1000人,ドイツ軍の死傷者2000人となっていますが,この差はソ連の支援があったからなのでしょうか?
それともドイツ軍が不利だったから?
【回答】
ラップランド戦争でソ連は,フィンランドに全く協力してない.
本気で戦ってるのか疑って,何度も恫喝しているが.
死傷者については,wikiの日本語版では
フィンランド軍の戦死傷 1,000人
ドイツ軍の戦死傷 2,000人
となっているが,英語版では
フィンランド軍の戦死・行方不明が2,872人で負傷者が3,000人
ドイツ軍の戦死が4,300~4,500人で2,300人が負傷,捕虜が1,300人
となっていて,それほど差があるわけではない.
軍事板,2009/07/01(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
トーベ・ヤンソンが「ムーミン」をフィンランド語ではなくスウェーデン語で書いたのは,冬戦争で失ったカレリアのことを蒸し返されたら政治的に困るからという配慮のため
http://blogs.yahoo.co.jp/nandoujp1/48718945.html
というのは本当ですか?
【回答】
トーベ・ヤンソン(Tove Jansson)は名前で分かるようにスウェーデン系のフィンランド人.
フィンランドにはスウェーデン系住民がいる.
全人口の約10%.
フィンランドではスウェーデン系住民は自治を認められ,スウェーデン語を母語として喋っている.
――――――
http://en.wikipedia.org/wiki/Tove_Jansson
"As a Finnish citizen whose mother tongue was Swedish, she was part of the Swedish-speaking Finns minority.
Thus, all her books were originally written in Swedish."
――――――
だからヤンソンがスウェーデン語で小説を書くのは当たり前の話.
カレリアがどうのというのはこじつけもいいとこ.
そもそもムーミンの舞台がカレリアっていうのは,そのブログ以外で言われてることか?
軍事板
青文字:加筆改修部分
ムーミン
faq07jn.jpg
faq051122b.png
(朝目新聞より引用)
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