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◆◆中立国
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<第二次大戦FAQ
スウェーデンの自走砲 Pvkv m/43
(画像掲示板より引用)
『カタロニア賛歌』(ジョージ オーウェル著,ちくま学芸文庫,2002)
ジョージ・オーウェルって言う英国人のスペイン内戦従軍記.
内戦中の左翼勢力内の対立についての記述が,大部分を占める.
軍事にはあまり関係の無い事だが,興味のある人はどうぞ.
------------軍事板,2001/05/30(水)
『中立国スイスとナチズム 第二次大戦と歴史認識』(独立専門家委員会スイス=第二次大戦/原編,京都大学学術出版会,2010.11)
全体で2部構成,本論で約500ページ,論文集部分が約150ページ,以降参考文献がずらずらと並ぶもので,中々読み応え有りそうと言うのがfirst impression.
帯に国松さんの推薦文が載っていた.
…この前,誤配送の憂き目にあったのがこれだったり.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/11/18(木)
他に第二次大戦中のスイスの動向,特にダークサイドを扱った日本語文献は,
アダム・レボー『ヒトラーの秘密銀行』
G・トレップ『国際決済銀行の戦争責任』
福原直樹『黒いスイス』
フォルカー・コープ『ナチス・ドイツ,IGファルベン,そしてスイス銀行』
明石から出てるチューリヒ州の歴史副教材『中立国とナチズム』
ぐらいしか,今のところまとまったものは出てないから,値段と分厚さがネックだが,貴重な日本語文献だと思う.
近所の図書館に早く入って欲しいもんだ.
――――――軍事板,2010/11/20(土)
「中立国の戦い スイス,スウェーデン,スペインの苦難の道標」(書評):リアリズムと防衛を学ぶ
【質問】
1936年当時,ポルトガルは海軍艦艇では,戦艦や水上機母艦などの大型艦は保有していたのでしょうか?
また,航空戦力は?
【回答】
1936年当時,海軍はJunkers K.43とBlackburn
Sharkを主力攻撃機にしていましたが,攻撃機は何れも水上機基地からの運用となっています.
僅かにHawker Ospreyが水上艦から運用されていました.
彼の国の海軍の1936年当時の主力艦は,英国Ambuscadeに範を取ったDouro級駆逐艦7隻と,Vickersが建造したDelfim級潜水艦3隻で,戦艦や水上機母艦はありません.
他にVelho級スループ2隻,Nune級スループ2隻.
そして最大の艦としては,排水量2,440t のAlbuquerque級スループ2隻があります.
最後の艦は多目的に運用できる艦として,機雷敷設設備や対潜兵装を有しますが,それらを撤去することで,Osprey1機が搭載できました.
蛇足ですが,1936年のPortugal空軍.
多用途機:
Potez25(Jupiterエンジン)22機,
Potez25(Lorraineエンジン)1機.
練習機:
(初等)Tiger Moth26機,
(高等)Morane-Saulnier 230(Salmsonエンジン)1機,
同233(Titanエンジン)16機,
(高等)M.S.130(Titanエンジン)4機
攻撃機:
Vickers Valparaiso(Napier Lionエンジン)1機,
Valparaiso(Jupiter9エンジン)13機.
連絡機:
Junkers W.34L 1機,
Ca-100,Ca-113各1機
戦闘機:
Hawker Fury 3機
輸送機:
D.H.88 Comet "Salazar" 1機
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2007/01/02(火)
【質問】
1936年当時のポルトガルの海外植民地を,全て教えてください.
【回答】
今,帝国書院だったかな,地図の出版会社から復刻版の世界地図が出ていますから,その辺を購入なさった方が良いかと思います.
Portugalの植民地としては,以下のものがあります.
(Africa)
Angola,Mozambique,Portugal領Guinea(今のGuinea-Bissau),Cabinda(今のAngolaの一地域),Cabo
Verde,Madeira Islands,
Sao Joao Baptista de Ajuda(今はBenin領)
Madeira,Sao Joao Baptista de Ajudaを除いて,何れも1973〜75年に独立.
Sao Joao Baptista de Ajudaは1961年武力併合
(Asia)
Macao(1999年返還),East-Timor,Oecussi(今はEast-Timorの一部で2002年独立)
(India)
Goa,Terekhol,Ilha de Angediva(両方ともGoaの一部),Diu,Ghogla,Simbor(何れもDiuの一部),Daman,Dadra,Nagar
Haveli
大抵は1961年に武力併合されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2007/01/02(火)
【質問】
ポルトガルのサラザール大統領は,同じファシストでありながら,なぜナチを支援しなかったのか?
逆に1940年には米軍に基地を無償提供しているようだが.
【回答】
サラザールは反ナチというよりは反近代主義者で,農村主体の社会を理想としていたそうだ.
秘密警察の訓練でゲシュタポの協力を仰いでいたそうだけど,ナチとは思想的にはかなり違うところにいたようだ.
この辺の出典は中公新書ラクレの「世界ファシスト列伝」(長谷川公昭)より.
フランスのファシスト達についてもかなり詳しく紹介してるので,安いし買って損はないと思う.
ちなみにサラザールは昼寝中にハンモックから落ちて寝たきりとなり,晩年は公務を遂行できなくなっていた.
しかし側近達は,偽の書類を作って署名を求めたり,彼が安心するような内容の偽新聞を毎朝届けたりしていた.
だから彼は,死ぬまで自分がポルトガルを指導していると信じていたそうだ.
まあ,ある意味,最も幸せな死を迎えた独裁者と言えるかもしれない.
【質問】
第二次大戦中の中南米諸国(といっても10ヶ国以上あるが…)ってどういう状況だったんでしょうか?
大半の国が末期に駆け込みで参戦したり,ブラジル軍がイタリアで戦ってたことぐらいしか聞いたことがない…
第一次大戦のときは,ツィンメルマン事件なんてのがあったけど.
【回答】
全体としては親独的傾向が強かったものですが,余りドイツ支持を明確にすると,経済界から政府(殆どが軍事政権)が支持されなくなるので,表だった形はありません.
1939年に中南米諸国の代表がパナマに集まり,パナマ会議が開かれます.
この会議では,カナダを除く南北両アメリカ大陸の周囲300マイル幅の安全中立海域を宣言し,その海域での交戦行動を禁じる宣言を出しています.
しかし,ドイツ(日本も)が対米宣戦をしたことに伴い,1942年にリオ・デ・ジャネイロにて中南米諸国の外相会議を開き,枢軸国に対する宣戦布告を決議し,まず,対枢軸国断交が行われました.
全体の流れは以上の通りですが,個々の国を見ていきますと,……
アルゼンチンは,英国や米国との農産物貿易で大儲けし,第二次大戦後,暫くの間は,世界的に見ても大金持ちの国になって独自の超音速ジェット戦闘機を開発したりしています.
1943年に対独・伊宣戦を行っていますが,航路帯から外れていた所為で,周辺海域の対潜哨戒くらいで,軍は積極的に動かしていません.(対日宣戦は1945年…大抵の国は対日は1945年に入ってからです)
ただ,1943年6月4日にクーデターが勃発し,新大統領に枢軸国寄りの元陸相P.ラミレス将軍が就任しますが,米国の圧力(貿易停止)によって,中立の維持は困難になっていました.
ブラジルは,G.ヴァルガス Vargas独裁政権が共産党とファッショを禁じ,米国と良好な関係を保っていた関係と,自国艦船が潜水艦の脅威を受けていたため,1942年8月22日に独・伊に宣戦を布告し,米国からの軍事援助を得て,自国沿岸,自国沖の哨戒を手始めに,1943年2月に陸軍部隊を北アフリカ戦線に派兵しています.
1945年には欧州戦線にP-47戦闘機中隊を送り,イタリアで戦闘を繰り広げています.
(ヴァルガス大統領肖像画 - こちらより引用)
メキシコは,1941年4月に米国と基地と地上設備の相互扶助協定を締結し,1942年5月29日に対枢軸国宣戦を行っています.
しかし,装備は旧式なものが多く,その更新に時間が掛かったため,1945年まで戦争参加はずれ込み,1945年にP-47Dの部隊が南太平洋戦線で対日戦に参加を準備中に終戦となりました.
中米諸国は米国の干渉政策を恐れていずれも共同歩調をとり,
グアテマラは1941年12月12日に対独伊宣戦布告,
ホンジュラスは,1941年12月9日に対日,12日に対独伊宣戦布告,
サルヴァドルも同様,
ニカラグアは8日に対日,12日に対独伊,
コスタリカもニカラグアと同様,
キューバは12月9日に対日,1942年3月12日に対独伊宣戦布告.
パナマについては軍事的な要衝であることから,運河地帯は元より,全国土に米軍が進駐し,警戒に当たっています.
宣戦は他の国々と同様.
エクアドル,パラグアイ,コロンビア,ヴェネズエラ,チリ,ウルグアイは1944年まで宣戦布告をせず,中立を保っていました.
ボリヴィアは1943年4月7日に対枢軸国宣戦を行い,ペルーは各国と同様に対枢軸国断交を行った後,米国と軍事協定を1943年2月に締結し,国内に米国の陸軍航空隊基地を建設することに同意しています.
なお,ペルーとエクアドルとの間では,エクアドルの経済的混乱に起因して,その不満を外に向けるべく,1941年に大規模な国境紛争が発生しています.
この紛争は,1942年のリオ・デ・ジャネイロ会議で取り上げられ,結果的に係争地の領土がペルー有利に裁定されました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/01/01
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次大戦中,USAから中南米諸国へ行われたレンド・リースについて教えられたし.
【回答】
中南米諸国は,元々親独的な傾向を持つ国が多かったりするのですが,米国は「西半球防衛」の観点に基づき,中立法の枠外で援助が追求されていました.
1939年9月後半に行われたアメリカ諸国外相会議の結果,「パナマ宣言」でカナダを除く,全米諸国の中立が宣言され,安全保障地域が設定されました.
続いて,1940年6月,ピットマン法が成立し,これにより,大統領に対し,中南米諸国政府に代わって,陸海軍軍備,軍需品の製造・調達・修理の権限が与えられました.
実はこれは,後のレンド・リースの原型とも言うものでありました.
しかし,これには資金援助は無く,調達援助でしかありませんでした.
これによって,中南米諸国全体で1940年から数年間で4億ドルの現金買入れプログラムが作出されたに止まりました.
「レンド・リース」が開始された事により,ピットマン法は「レンド・リース」援助に置き換えられましたが,中南米諸国の「レンド・リース」は船舶を除き,大部分がCash-reimbursable(現金払い戻し)ベースの援助でした.
とは言え,中南米諸国に現金がそうそうある訳ではなく,米国によるその他の経済的援助に依存しています.
此の面では,1939年9月のパナマ外相会議によってアメリカ諸国間金融経済諮問会議が設置されますが,米国が中南米各国で産出される戦略物資を買付ける為に結んだ二国間協定の交渉に於て,1940年1月に設置されたアメリカ諸国間開発委員会が積極的に関与しました.
また,米国自身の国防プログラムの実行と,大規模なその他諸地域への「レンド・リース」援助の実行が,中南米諸国経済に阻害的影響を与えない事を目的とした,所謂,中南米諸国の「パリティ措置」に向けた指示が,1941年4月5日にF.D.ルーズベルトから,クヌードセンに与えられました.
これを受けて,1941年4月末には早くも,Committee
on Essential Latin American Requirements(ラテン・アメリカ必須必要量委員会)が指名されると共に,7月に米国の国務省,商務省,財務省,農務省,輸出入銀行,OPM優先部,OPACSの各代表から構成されるCommittee
on Inter-American Affiairs(アメリカ間問題委員会)が新設され,その調整官にはネルソン・ロックフェラーが指名されています.
このCommittee on Inter-American Affiairsが中南米諸国問題を統括する米国側の中心機関であり,中南米諸国の民需,軍需の必要量に対する優先付与の決定は,民生部門はOPM優先部が,軍事部門は大統領が管轄する事とし,1941年秋には「パリティ措置」が機能し始めました.
また,9月には輸出入銀行法の改正により,輸銀貸付限度が2億ドルから7億ドルに引上げられ,此の面からの資金供給も図られました.
とは言え,全体としてみれば,中南米諸国の現金支払能力は,米国の中南米諸国からの戦略物資その他の買付け増大によってその能力が維持されていたと言えます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/19 23:40
【質問】
WW2終結までのアイルランドの動向を教えてください.
【回答】
1919〜21年の独立戦争,1922〜23年の内戦で国内は大混乱.大恐慌とかどうとか以前に失業率・移民率とも高かった.
エイモン・デ・ヴァレラらのもと,独立国家としての体裁を整え,国際連盟に加盟,英国の経済制裁を耐え抜く.
第二次大戦では英独どちらにもつかず,「中立」を標榜するが,義勇兵(4万人以上!)などの名目で連合国側に加担している.
また,アメリカにも多くのアイルランド系移民がいた.
世界史板
青文字:加筆改修部分
◆◆◆スイス
【質問】
WW2終結までのスイスの動向を教えてください.
【回答】
第一次大戦後,ジュゼッペ・モッタ外相のもと20年間に渡る「モッタ外交」を展開.
1920年には国際連盟に加盟し,国際社会での仲裁役を買って出て威信を高める.
ただモッタは反共主義者だったため1925年にソ連と国交を断絶した.
大恐慌では,金融立国であることからかなりのダメージを受け,イタリアとの友好関係からムッソリーニを支持.
ナチス党員のグストロフもスイスで活動して,シンパを増やし始め,1938年にスイスは国際連盟を脱退する.
1939年8月には非常事態・武装中立を宣言し,アンリ・ギザンを軍の最高司令官に選出.
国民総動員体制でドイツの侵攻を防ぐが,戦時中は資金保護など親ドイツ的行為もして生き残りを図っていた.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次大戦中スイスは中立国でしたが,まわりは全部枢軸国なので,貿易はできたのですか?
特に石油なんかは,枢軸国は不足していたので,買いたくてもかえなかったと思うのですが,教えてください.
【回答】
スイスは永世中立国として第二次大戦中も局外中立を保ちました.
ここまでは,誰でも知っている話です.
しかし,例えばアメリカから石油を輸入しようとしても,周りが枢軸国で占められていれば難しそうですよね.当然の疑問です.
実際の物資輸送のルートとしては,ビシー政権下のフランスを経由する手段がありましたし,米英との取引であればその間にスペイン等を入れることも可能でしたから,現実にも第二次大戦中に石油をアメリカの石油会社から購入していました.
実は,スイスを経由してアメリカのスタンダード石油は,1942年まで枢軸国に石油を売っていたことも知られています.
【参考画像】
スイス・ドイツ国境にあったドイツ軍要塞内部の様子(復原写真)
【質問】
第二次大戦中,ドイツからスイスが買った兵器は,ヘッツァー以外で何があるんでしょうか?
【回答】
空軍がメッサーシュミットBf109を導入してます.
1937年秋にまずBf109D-1を慣熟訓練用に10機導入し,39年にはE-1を30機,さらに追加でE-3を50機輸入しています.
なお,スイス軍のヘルメットはドイツ製のM35ではなく,M1916(第一次大戦型)に似てるけど,山の部分とふちが浅いもの.
http://www.gostak.demon.co.uk/helmets/switzerland.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Stahlhelm
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナチス侵攻の可能性に対し,スイスはどのような対策を講じたのか?
【回答】
33年以降,軍事費を増額する一方,36年には国内のナチス組織を非合法化.反民主主義的言論活動も,その後禁止.
38年には「中立」を際立たせるため,国際連盟から事実上脱退.
国境警備を強化し,兵役年齢上限を60歳に引き上げ.
39年には連邦政府に全権移譲.国民投票なしで法律が施行されることになり,同年末には物価統制令,40年には女性動員令など戦時法施行.
この結果,動員兵力は80万人となった.
フランスが降伏して四面楚歌の状況になると,軍最高司令官・ギザン将軍が40年7月,軍幹部をスイス建国伝説の地・リュトリに集め,
「万一の際は,アルプスの『砦』に引き篭もり,徹底交戦する」
と,国民を励ますことも.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.50-51を参照されたし.
(引用元:朝目新聞)
【質問】
>スイスは第二次世界大戦時,その重武装で侵略を「思いとどまらせる」
>政策で,ナチスの侵略を免れた.
http://www.nnn.co.jp/dainichi/column/tisin/index.html
とのことですが,スイスってどのくらい強かったの?
【回答】
特別重武装と言う事ではなく,むしろ,山岳という地形を有効に使ったのと,さらにそこに要塞を設けるという用兵で,ドイツの侵略を思いとどまらせた.
フランス降伏前のスイス軍は湖などを使って,東西の交通を遮断する陣地を用いた.
その時のドイツの戦略目的は,フランスへの速やかな奇襲であり,スイスの平野部の一部を占領できても陣地で時間を費やしては,フランス攻略が失敗に終わる可能性が高い.
フランス降伏後のスイス軍は,アルプス山中の要塞に篭った.
この要塞は独伊を結ぶ峠道に位置しており,ドイツが侵略してきたらトンネルの爆破やゲリラ戦で,独伊の交通を遮断する予定だった.
侵略しなければ軍事物資以外の輸送は行なわれたので,ドイツからすればわざわざ手を出して軍事物資以外も輸送できなくなるより,そのまま中立にしておくほうが有利となる.
このように,手出しすればドイツの欲しいものを入手できないようにする用兵を行なった事で,手出しする気を失わせた.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
スイス政府はなぜ,スペイン内戦に参加した義勇兵を処罰したのか?
【回答】
「国民皆兵」を国是とするスイスは,当時も今も,国民が外国の軍隊で戦うことを禁じているため.
スペイン内戦中,スイス人は800名が国際旅団に参加し,200名が戦死.
帰国者は連邦警察に拘留され,軍法会議において最高1年の懲役刑を宣告すると共に,何年間にも渡り,公民権を停止させた.
彼らは出獄後も警察による監視が永年続き,就職もできなかった.
スイス議会では義勇兵の「罪」を許すための決議案が何度も上程されたが,全て否決.
2000年4月の名誉回復決議案もやはり否決されている.
フランス,デンマーク,ベルギーなど欧州諸国では義勇兵を温情的に扱ったのとは対照的である.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.54-58を参照されたし.
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