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(画像掲示板より引用)
「カゼタカ2ブログch」:ドイツとイタリアと日本って何がしたかったの?
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-30)[図書館][柳田國男] 戦時下の日独図書交流?
「時は来た!それだけだ」◆(2010/05/09)第二次世界大戦 日独伊+ 何がいれば勝てたの?
【質問】
枢軸国(Axis)は何でこう呼ばれたのでしょうか?
【回答】
ムッソリーニがベルリン/ローマを結ぶ軸を中心に世界を回転させるのだ,と演説したことに始まるようです.
詳しくはこちら.
HN : System
▼
他は,それ以外のこの日の収穫.
また買ってしまった寄せ書き旗は,極薄の洋服の裏地用スフ生地で出来ており,びっしりと名前が書かれた上物.
イタリアメーカーが出したRSI徽章が,わずか1Kで売りに出されていたので,NP大隊のものを二つばかり購入.
ちなみに,同誌にあった『日独伊行進歌』大木惇夫作の一節.
―――――
東に日の丸かがやけば
西にも立つよ,ハーケン・クロイツ
トリ・コローレもひらめきて
呼べば応える三つの誓ひ,
いざ,行かん
ああ,日,独,伊.
―――――
凄いですねー.
でも,イタリア語ならトレ・コローリにして欲しかったり(笑)
よしぞうmaro' in mixi,2007年03月29日02:43
~30日 02:27
▲
【質問】
ドイツがイタリアと同盟を組まなければ,第二次世界大戦では枢軸国が勝っていた可能性が高いというのは本当ですか?
【回答】
その話はイタリア軍がバルカン半島で失態をおかして,その後始末にドイツ軍がかりだされ,ソビエト侵攻予定が遅れたことからよく言われる歴史のイフ.
もしバルカンへの侵攻を最低限の時間で終わらしていれば,モスクワの手前で,ドイツ軍は冬将軍が来る前,モスクワの陥落させることができていたのではないか?という予測に起因する.
が,モスクワを落とされたところで,偉大なる同志スタちゃんが降伏するとも思えず,結局,泥仕合になって,占領したモスクワから東への進撃は無理だろう(冬将軍だけではなく,ドイツ軍はモスクワで,完全に攻勢限界点だったと思われ.)
となると,廃墟となった首都を手に入れたからといって,何が変わったか?と言われると,正直なにもかわらないだろう.
そして日本軍が真珠湾をやれば,アメリカが押し寄せてくるわけで,どっちにしてもチェックメイトだ.
また,バルカン半島侵攻による対ソ開戦の遅れについては,ギリシャにイギリスが橋頭堡を築く可能性もあるため,評価が難しい.
思いっきり希望的観測をするとすれば,モスクワ陥落で「偉大なるスタちゃん」の威信が急落して,ソビエトでクーデターでも起きて,ドイツと講和を考える政権が発足すれば,西部に全力投球できる余裕が生まれるが,それでも第一次大戦のカイザー戦と同じく,資本家の権化の悪辣なるルーズベルトを倒すことはできないだろうね.
軍事板,2007/05/29(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
WWⅡにおいて日本と同盟国のドイツ・イタリアとの交流はどんなものだったのでしょう?
特に人の行き来は,現代の海外旅行のようにはいかなかったと思うのですが.
【回答】
第二次大戦中の欧州と日本との間を結んだのは,有名なのは,日独間の伊号潜水艦,Uボート,Italy潜水艦によるブレスト~大西洋~インド洋~シンガポール~東シナ海~本土と言うコースや,イタリア機によるTianShan山脈越え飛行なんてのが有名だったりしますが,大戦勃発当初は未だ3つの連絡ルートが存在していました.
1つは欧州航路,2つ目がシベリア鉄道,3つ目が太平洋~米国経由~大西洋航路です.
欧州航路は,1939年には横浜から名古屋,大阪,神戸,門司,上海,香港,シンガポール,ペナン,コロンボ,アデン,スエズ,ポートサイド,ナポリ,マルセイユ,ジブラルタルを経てロンドンに至る航路(但し,名古屋,大阪,アデンは往路のみ)が日本郵船によって運行されていました.
但し,荷役の関係上,国内の移動には時間が掛かる為,大抵の客は神戸で乗下船します.
ベルリンに行く場合はナポリで下船し,鉄路でベルリンに向かい,パリへはマルセイユで下船し,鉄路でパリへ.
これまた,荷役の関係上,乗船しているよりは途中下船して鉄路で行った方が速かった為です.
神戸からナポリまでは32~38日かかりました.
先述のシベリア鉄道では14~15日ですから,倍掛かっています.
意外なことに,この航路は,1939年9月1日以降も機能していましたが,1940年6月10日にItalyの参戦があってから,英国官憲は,独伊の同盟国たる日本のスエズ運河通航を拒否し,航路は最短距離での運行を諦めて,ケープタウンへ大回りするか,パナマ運河を経由するかの選択になります.
しかし,ケープタウン周りの航路は,航路が長いのに反して貨物の取扱量が小さく,経済的理由で維持が困難となり,パナマ運河経由は,1941年7月18日の米国によるパナマ運河通航拒否によって中止せざるを得なくなってしまいました.
ちなみに,民間船として最後の欧州航路の船は,1940年11月にリバプールを出港した伏見丸が最後.
但し,本当の最後の便船は,1940年4月10日に徴用された海軍特設運送艦となっていた浅香丸です.
この船は,行きにドイツへ赴く遣独海軍使節団18名,陸軍関係便乗者6名の輸送と,日本がドイツに送る酸素魚雷などの新兵器の運搬を行い,帰りにはドイツから贈与されたラインメタルの砲などの新式兵器,陸軍向けBf-109E戦闘機,海軍のHeinkelHe-100戦闘機,工作機械などを受け取りをする為のものでした.
浅香丸は,1941年1月16日横須賀を出航します.
普通はハワイを経由しますが,そうせずに一気にパナマ運河のバルボアに直行.
パナマ運河の通航については,米国が特に神経をとがらせたりしたのですが,現地外交官の奔走で,交渉が妥結し,無事通航できるようになりました.
その条件とは,パナマ運河通航中は,拳銃で武装した米国兵(陸上のみ監視すると言う形を取った)の便乗を行うと共に,引替えとして,浅香丸乗船将官5名,士官20名は運河入口で下船し,陸路移動して出口で再び乗船すると言うものでした.
ちなみに,これら将官と士官は,米軍の施設を見学しつつ,陸路移動しています.
そして大西洋を横断した浅香丸は,ポルトガルのリスボンに寄港した後,スペインのビルバオに向かいました.
当初はドイツ占領下のフランスの港に寄港することになっていましたが,それだと英国側から身の安全を保証出来ないと言う通告を受けたため,スペインでドイツとの武器の引き渡しなどを受けたそうです.
帰りは,1941年3月6日に出港し,ビスケー湾から大西洋に出て南下,喜望峰を回ってインド洋に向かい,ティモール島からスンダ海峡を経由して太平洋に出て,4月28日に横須賀へと遙々世界一周の旅を行っていたのです.
次いで,シベリア鉄道コースは,前にも触れましたが,関釜,哈爾浜,満洲里か神戸,門司,大連,哈爾浜,満洲里経由のいずれかのルートでシベリア鉄道で,モスクワまで出て,モスクワから各地に向かうことになります.
このコースが一番時間的に有利なのですが,ソ連による査証発行がなかなか為されず,民間人には夢のまた夢だったそうです.
このコースは,1939年9月1日に一端中断しますが,ポーランド分割後に再開されます.
しかし,1941年6月22日の独ソ戦でソ連経由ドイツ行きの鉄路が封鎖されてしまい,シベリア鉄道から中央アジア,カフカス,小アジア,バルカン半島経由で枢軸国に入るコースを開拓せねばなりませんでした.
最後の米国周りのコースは,時間が更に掛かることから,一般的ではありませんでした.
これは,カナダ太平洋汽船かプレジデント・ライン,日本郵船などが運行していた太平洋航路で,横浜からハワイを経由してサンフランシスコやシアトル,バンクーバーに向かい,大陸横断鉄道でニューヨークに向かった後,ニューヨークから欧州向けの客船に乗り込むケースが主でした.
これには,変形ルートとして,南米のブラジルに向かい,そこから欧州に向かうと言うものもありました.
結局このルートも,米国の経済封鎖と共に窮屈な運行となり,最終的に太平洋戦争で息の根を止められました.
極東の日本と欧州との間,余り人的交流は無いようで,実は結構な数の邦人が行き来していたりするのです.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月05日23:22
太平洋戦争勃発後は,先ず,日米,日英交換船による外交官赴任があります.
これはポルトガル領だったロレンソ・マルケス(今のモザンビークの首都マプト)経由,其処からポルトガルの便船で喜望峰経由でリスボンに向かい,其処から鉄路でベルリンやらヴィシーやらベルンなどに赴きました.
(ちなみに,外交官のポルトガル船での赴任は,連合国に了承されています)
また,陸路は,シベリア鉄道のモスクワ経由は無くなっていますが,満洲里からソ連に入り,中央アジアを抜け,コーカサス経由でトルコに入り,トルコを横断し,ブルガリアへ,ブルガリアからロマーニャ,そしてマジャールを経由してドイツというルートです.
そのルートは二ヶ月の時間を要し,ソ連の通過査証が中々降りないのがネックでした.
一応切り札として,日本領海で遭難して救助したソ連船員との交換で発給を受けていたのですが,なかなか発給されず,屡々在モスクワ日本大使館とソ連外務省との間で丁々発止の遣り取りが行われています.
この陸路を通った例としては,ローマのイタリア大使館から帰国した参事官が最初で,ローマ→ウィーン→ブタペシュト→ブカレスト→ドナウを下ってジュルジュからブルガリアのルセを渡り,ソフィア→スビレングラード→其処からバスでイスタンブール→アンカラ→サルカムシ→カルスを経て此処からアルメニアのレニナカン(現在のクマイリ)→グルジアのチフリス(今のトビリシ)→ソ連に入ってスターリングラード→ラポリ→クイビシェフ→ノボシビルスク→シベリア鉄道で満洲里という右往左往ルートです.
独ソ戦で,コーカサスが最前線になると,チフリスまでは上記通り(但し,ドナウの結氷期は連絡船は動かないため,小舟で渡るか,歩いて渡ることになります),チフリスからはロシアに入らず,バクーに移動し,カスピ海を横断,トルクメニスタンのクラスノボーツクから鉄道でタシュケントに抜け,カザフスタンのアルマアタ,セミパラチンスクを経てノボシビルスクというルートで以後,シベリア鉄道というルートに変わりました.
このルートは,1944年8月23日のルーマニア降伏まで続きました.
で,それ以外は,潜水艦によるものが人口に膾炙されていますが,伊号第30号潜水艦,同第8号潜水艦,同34号潜水艦,同29号潜水艦,同第52号潜水艦の5回試みられ,欧州到達したのは3回,往復したのは1回でした.
ドイツ潜水艦によるものも試みられ,U511,U1224,U234の3回のうち,1回のみ成功,イタリア潜水艦も4艦のうち,1回だけ昭南に到達しました.
後は,物資だけなら,ドイツの封鎖突破船,イタリアからの福生まで空路というのもあったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/15(日)
青文字:加筆改修部分
▼ 以下,その実例.
[quote]
私は,昭和13年(1938)秋から,太平洋戦争の末期までの6年間,日本公使館付医師として,アフガニスタン主都〔原文ママ〕カーブルに在勤した.
〔略〕
私はふとした機会から,古代貨幣の菟集に熱中するようになり,炎暑をもいとわず風雪にもめげず,公務の余暇の全部を投入して,全国の僻地をも訪い,バザールの隅々まで彷徨して,漁り続けた.
文字通りの粒粒辛苦を嘗めて集め得た金,銀,銅貨等の数は,千数百に及んだ.
〔略〕
さて,私にとって,生涯の研究資料でもあり,終生の記念品でもある上述のコレクション,これを無事,日本に持ち帰ってその研究を続け,祖国の学会に微衷を捧げることは,私の至上の念願であった.
とはいえ,当時は,あの大戦中のことで,海路は全く鎖され,ソ連邦,満州を経て帰国するのが,唯一の道であった.
帰国の一行は,私のほか,私の妻と当時は12歳の私の娘(現在,自治医科大学教授,青木延雄の妻として,2児の母である基子)と従者1名を加えて4人であったが,別に,館員井上英二氏夫人とその乳・幼児2名を同行した.
当時,カーブルからソ連国境のアム・ダリアまでの行程は,山嶮の難路を,2泊3日の自動車旅行と,カディと称する特殊な馬車に分乗しての砂漠横断の旅とで,幸に,天候に恵まれた上,ヴェテランの館員井上氏の保護宰領で,全く無事ではあったが,その困難は並大抵のものではなかった.
この全行程中,騎馬兵士数名の護衛を付けられた,アフガニスタン政府の好意は,一医官の帰国に対する配慮としては,まことに過分のことで,私の終生忘れ得ぬ感激である.
パタキサルの砂漠も無事に過ぎ,アム・ダリアの岸に着くと,ソ連邦の渡船に迎えられて,いよいよソ連領に入った.
6年の歳月を過したアフガニスタンを後にして,未知のソ連領トルキスタン,シベリアの汽車旅8000kmの長途に入る感慨は無量であった.
それから,満州,朝鮮の汽車,釜山からの連絡船で故国日本の土を踏んだときには,さすがにホッとした.
[/quote]
―――『西域の古代貨幣』(渡邊弘編著,学研,1973/10/1),p.6-7▲
2008.5.28
▼ また,『アジアの二つの日出ずる国』(ハルン・アミン著,駐日アフガニスタン大使館,2007),p.38によれば,1932年に日本が招いたアフ【ガ】ーニスタンの学生6人は,第二次大戦中も教育を受け続け,卒業後,1943年10月,日本を離れてシベリアを経由し,同年12月にアフ【ガ】ーニスタンに到着したという.▲
2009.4.26
『世界画報』昭和13年5月号の,イタリア親善使節団一行来日特集
東宝劇場で草笛美子などの歌劇団のレビューを観るパウリッチ団長や,菊五郎の鏡獅子を観劇して一緒に写真に写る団長など,興味深い写真多数
よしぞう(maro') in mixi,2006年05月06日21:43
【質問】
「イタリアからの福生まで空路」というのは,どの程度実現していたのでしょうか?
又,中継地は?
【回答】
特殊型なのですが,1939年7月30日~8月1日に掛けて,Savoia-MarchettiS.M.82PDと言う改造型は,航研機の持つ周回記録を上回る12,910kmの飛行を行っています.
同じような改造型で,1942年にイタリアのローマから,ブカレスト,コーカサス(当時はドイツの占領下)を経て,其処からは無着陸でアフガンを越え,天山山脈上空を飛行し,中国の日本占領地(蘭州辺りだったかと記憶)に飛び,其処から満州を経て,福生へ飛んでいます.
ちなみに,このルートは,1938年4月23~28日に満州航空が購入したHe-116の2機が通ったルートをほぼトレースしています.
この時には,カプロニの「ジェット」エンジンを搭載してきたんですよね.
帰りには南方で採取された資源(生ゴム,雲母,錫,タングステン,阿片)を搭載して見事に帰着しています.
後,逆ルートで,立川A-26の2号機を用いて,シンガポールからドイツまで無着陸連絡飛行(セ号)を1943年6月30日に福生を出発,シンガポールで給油し,7月7日にドイツに向かいましたが,インド洋上空で行方不明,1944年から45年にかけて,立川キ-74遠距離偵察爆撃機の2号機を使って同じような飛行をしようとしていましたが,ドイツ敗戦で中止になりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/15(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
独UボートU-864は1945年にJumo004Bジェットエンジン,V-2誘導装置,水銀65tを日本に輸送中に撃沈されたということだそうです.
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Caesar
質問ですが,これらは莫大な価値があると思うのですが,日本政府が一体いくらで購入したとかの記録は残っているのでしょうか?
また,どうやって払ったのでしょう?
【回答】
他の件はともかく,本件は1944年に締結された,「日独製造権および原材料供給協定」による,両国勝利の後による日本政府支払い.
それまではドイツ政府の立替払いによる,結果的に空手形になったものなので,結局,日本政府の支払いは無しだ.
wikiだが,「遣独潜水艦作戦」の項目参照.
1944年3月締結だから,それ以降のものは適用対象.
あえて言えば,日本が先に潜水艦でゴムやら錫やらをドイツに送った,その対価がそれらの品々.
日本が水銀を求めたように,ドイツは錫や天然ゴムを求めていた.
何をどれぐらいドイツに送ったかはウィキなんかにも書いてあったはず.
その数字の信憑性についてはコメントしない.
また,当時の国際通貨はポンドかドルだが,ドイツにも日本にもそれを使う場所があまりない(中立国にある公館くらいかな).
物々交換で,足りない分を金で決済(あるいはその逆も)して当然だろう.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
WW2中の枢軸側の軍隊に特殊部隊と言うか,特殊な任務を請け負った,もしくは小数精鋭の兵士で結成された部隊は有ったのでしょうか?
【回答】
ドイツ軍では
・独ソ戦でロシア兵に偽装し重要拠点の占拠などを行ったブランデンブルク連隊(後に装甲師団に拡大)
・スコルツェニーの指揮下でムッソリーニの救出作戦を行ったフリーデンタール特務部隊(ただし作戦自体は空軍の降下猟兵が主体)
・同じくスコルツェニーの指揮で米軍に偽装し,バルジの戦いで後方かく乱(グライフ作戦)を行った第150装甲旅団
などがある.
密猟者や犯罪者で編成され,パルチザン討伐作戦を行ったオラニエンブルク密猟者コマンド(後の第36SS所属武装擲弾兵師団)も特殊部隊といえないことはない.
なおこの部隊の指揮官は,あのディルレワンガー.
イタリア軍では海軍フロッグメン部隊が活躍している.
【質問】
日本の対ソ参戦を望むドイツと,大島大使との間の交渉について教えられたし.
【回答】
さて,時はスターリングラード戦の初め頃に遡ります.
1942年7月20日,駐独の大島大使はリッベントロップ外相からの要請として,ドイツから対ソ参戦を要求された旨の報告を送ってきます.
この時,同時に大島大使は,「このまま行けば独ソ両国が単独講和を行う虞がある」と寄越しています.
これに対し日本側は,7月25日の大本営政府連絡会議で対独回答を審議決定の上,大島大使に回訓しましたが,この内容は,日本側は米英の前衛拠点である重慶勢力の処理に忙殺されており,米側の反攻も依然執拗であり,南方資源の獲得や利用にも一層の努力が必要である為,ソ連に対する宣戦布告は,日本の勢力を過度に分散する事になるので,北方については静謐を保持する方針であると告げています.
要は,「米国相手でも厄介なのに,今更そんな事出来るか,ボケっ」と言うものです.
この動きは何も今回が初めてではなく,既に4月29日,駐日ドイツ大使のオットーが東郷外相に対し,ウラジオストクとバイカル湖に向けて日本が進撃する場合の利点を立証しようとしています.
オットー曰く,
「ソ連の事態は困難であり,東西からの挟撃は,その完全な殲滅をもたらす事になる」
と熱弁を振いますが,東郷外相は確答を避けています.
この報告を受け,リッベントロップ外相は5月15日,大島大使に対する書簡でこう書き送っています.
――――――
疑いもなく,日本の安全の為に現実に必要な,シベリアの沿海州とウラジオストクとを奪取するには,欧州戦線に於てロシアの総合戦力が極度に緊張している現時点ほど,絶好な機会は又とない.
この事態に於ては,もしもシベリアに於けるロシアの兵力に関する,日本側情報が正確であり,ウラジオストクに於て日本がロシアの抵抗を排し,バイカル湖に向かってシベリアに進出しうるとすれば,その作戦は今後の戦争の展開上に,絶大な意義を有する事になるであろう.
――――――
更に,リッベントロップ外相がこの構想を補強するに至ったのは,6月に実施した日本のアリューシャン列島占領にありました.
リッベントロップ外相の考えからすれば,それは日本のシベリア進撃の序曲と受け取られた訳です.
この他,マジャールやスオミの各国武官や外交官も,日本の動きとしてそれぞれ自国政府に,日本が第2段作戦としていよいよ沿海州に歩を進めると言う報告を為し,それが回り回ってドイツ外務省に入ってきました.
そして,6月24日,リッベントロップ外相は大島大使に対し,日本で出現した事態を利用すべきであり,東方から決定的にソ連を討つべきであると述べました.
これに対し,大島大使も,日本軍は一定計画の下に進撃の準備中であり,決定した時期に出撃するであろうと確言します.
こうして,期待を掛けたリッベントロップ外相は,大島大使の回答を一日千秋の思いで督促するに至った訳です.
また,日本政府の動きを注視していた米英両国も又,日本がソ連に新たな攻勢をかけるのではないかと見ていました.
さて7月27日,大島大使の下に訓電が到着します.
内容としては先の様に
「こんなもの出来るか,ボケっ!」
なのですが,日本がドイツと共に起つと信じ込んでいた大島大使にとっては,まさに青天の霹靂とも言うべき内容でした.
この為,日本政府の回答をドイツ側に伝えるのを逡巡し,7月30日に漸くこれを伝える事になります.
こうして,リッベントロップ外相を訪れた大島大使は,東京の見解として,日本の対ソ攻撃は現在に於て日本の勢力を過度に分散する事になるので,東条内閣としては,『情勢上,南方と中国に於ける軍事作戦に専念する予定である』と言明し,更に大使は自国政府の立場を説明し,『日本としては中国壊滅に一層専念しなくてはならないし,米国の抵抗によってその敵国に対する今後の作戦上,自国の戦力を保持せざるを得ない』と述べ,更に,
『日本としては太平洋とインド洋方面の作戦拡大の為に,北方に於ける静穏を維持する事を余儀なくされる』
と述べました.
ドイツ外務省も,日本の対ソ参戦を待ちわびていた上に,大島大使が大見得を切ったので,思い切り期待していたのですが,結果的に大失望させた事になります.
しかし大島大使は,失望したリッベントロップ外相を慰撫しながら,日本政府の回答は最終的なものでは無かろう,何となれば東京にはこの問題について一致した意見がないからであると語り,自身の個人的見解として,
『或いは対ソ攻撃は10月以前にも可能となるかも知れない.
若し不可能ならば,来春以後となろう』
と希望的観測を述べたりしています.
その焼け木杭は密かに残り,ゾルゲ事件で更迭されたオットーの後任として,1943年2月4日に信任状を奉呈したスターマー大使は,2月に東条首相,島田海相,陸軍参謀総長,海軍軍令部総長等と相次いで会談をし,日本の今後の軍事計画を知ろうとしますが,彼らは挙って,ドイツとの連携と同盟を維持する事は吝かではないとし,『ドイツの終局の勝利』を確信する旨を表明しますが,自己の意図はこれを開陳しようとはしませんでした.
スターマーの結論としては,スターリングラード戦に敗れても,日本に於てドイツの威信が揺らいではいないと言うもので,それをベルリンに報告しました.
この結果を受けて,リッベントロップ外相は,3月6日に大島大使と会談を持ちます.
再びリッベントロップ外相は,ソ連に対する日本の態度を説明しましたが,前回の大島大使の希望的観測と異なり,今度の回答は,日本政府としてはロシアからする危険性を全面的に意識しており,日本も対ロシア戦に参加する様求める,同盟国ドイツの希望をよくよく理解するものではあるが,現在展開される軍事情勢に於て,日本政府は参戦不可能である,と言うものでした.
前の大島大使の個人的見解が,リッベントロップ外相に希望を持たせるものであったが故に,リッベントロップ外相が受けた打撃は相当のものでした.
大島に説明を求めても,日本は困難な状況にあり,南方から勢力を動かせず,従って南北への同時進出は不可能であると言う回答が帰ってきただけでした.
更に,3月15日にクイビシェフで佐藤大使とロゾフスキー外務人民委員代理との間に交わされた,漁業条約の1年延長に関する議定書が調印されたと言う報道が為され,ベルリンでは非常な不満を持って迎えられました.
特に,リッベントロップ外相にとっては,佐藤大使が調印の際,日本の対ソ中立維持を言明したと言う「特別筋からの情報」を得て,憂慮を増しています.
ドイツ自身の戦況も思わしくなく,4月18日,3度リッベントロップ外相は,大島大使を呼び出して,東西からの対ソ同時攻撃の有利さを力説しました.
しかし,大使の回答は又も不明瞭で回避的なものであり,リッベントロップ外相は更に,米国の対ソ補給路である海上連絡に対する,日本政府の積極的行動を執拗に要望し,佐藤大使の中立条約維持言明が,両国共同の戦争遂行にとって重大な危険をもたらす事を述べました.
大島大使はこれに対して,
「日本政府の意図を知る事はないにしろ,従前から日本陸軍の作戦計画は対ロシア戦争に関するものであり,この方向に於て成功の見込みがあれば,勿論対ソ攻撃を行うであろうが,米英の空軍が絶えず増大され,新たに又新たにこれを殲滅しなければならないので,その方面の危険性は絶えず増大し,対米英攻撃を繰返さねばならないので今はその時期ではない」
と述べています.
こうした判った様な判らない様な回答をする大島を見て,リッベントロップ外相は,一時期同志と言うくらい信頼していた大島大使でさえも,ドイツの実力への信頼を持たない様になった事を感じさせたのでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/20 21:41
【質問】
WW2末期の大使館の様子について質問です.
ドイツは日本より先に無条件降伏したわけですが,各国にあった大使館や領事館はどのような扱いを受けたのでしょうか?
また,大使や駐在武官などの敗戦国の人間は身柄を拘束されたりしたのでしょうか?
また,1945年8月15日以降の海外の日本大使館はどうだったのでしょうか?
【回答】
将来的には国外退去処分となります.
これは宣戦布告時に,宣戦した国に駐在していた外交官も同じです.
この場合は,交換船などの手段で,中立国経由で,それぞれの国の外交官を帰しています.
基本的には,中立国かその国の友好国への移動を志向しますが,日本のように,四方海面な国は,諦めて軟禁状態となっています.
但し,外交官としての身分は保障されていますので,変なことは出来ません.
Italyが降伏したときは,各国駐在の外交官の扱いを見て,Italyも日本やその他各国の外交官を扱っています.
Franceの場合は,Vichy政府が崩壊した後も,その亡命地に外交団が移動し,最後は中立国スイスに移動しています.
Finlandの場合は,公使館を閉鎖し,公使館員はホテルに移りますが,軟禁されておらず,日本公使館関係者はそのままMoscow経由で帰国しています.
Romaniaの場合は,公使館員は軟禁されていますが,公使館員は公使館に,駐在武官は駐在武官宅に軟禁となっています.
その後,日本の敗戦で,彼等はルーマニア軍の収容所(第380キャンプ)へ移動し,そのまま1946年までその地に留まっています.
Bulgariaの場合は,中立国Turkeyに退去.
HungaryやGermanyでは,そのままソ連に保護され,シベリア鉄道経由で帰還していますが,米国占領地となった土地に居た人々は,米国本土で抑留され,戦後帰国することになります.
ちなみに,ソ連経由で帰った人々の送還費用は,日本が支払っています.
占領後の1945年10月25日,連合国軍総司令部から日本政府に対し,中立国に所在する日本在外公館の財産・公文書の引き渡し,公務員の引き揚げが指令され,日本の外交機能はサンフランシスコ講和条約まで停止しました.
Afghanistan公使館は,1945年11月10日に日本政府資金,官有品目録を連合国代表に引き渡し,公使館から退去し,インド経由で帰国しました.
Spainは1946年1月21日に公使館を退去(但し,1945年4月11日に対日断交),Portugalの公使館は,1946年1月19日に退去しています.
Croatiaの場合は,国家消滅と同時にItalyに逃げましたが,英米軍の捕虜となり,捕虜収容所に収容されました.
Swedenの日本公使館は,1945年11月1日閉鎖,翌年1月19日に帰国の途につき,Swissの日本公使館も同様に1946年1月24日に閉鎖されています.
Iranの日本公使館は,1945年1月6日の対日断交に伴い,1月27日に閉鎖,外交官は抑留,Turkeyの日本公使館は,1945年2月22日の宣戦布告で閉鎖,外交官は抑留されました.
彼等の帰国は1946年1月から順次行われ,1948年2月にSwiss駐在の外交官が最後に帰国しました.
詳しくは,淡交社から「日本・欧米間,戦時下の旅」(泉孝英著,2005.8)という本が出ていますので,ご参考までに.
▼ また,佐藤優が外務省元アメリカ局長・吉野文六から聞き取りしたところでは,ベルリン陥落に際して大島大使は,若い外交官たちを決死隊として大使館の地下壕に残し,自身は温泉地に逃げ,しかも「酒とつまみを持ってこい」と命令したりしたという.
以下引用.
――――――
1945年4月,ソ連軍によるベルリン攻撃が必至になったとき,大島浩駐独大使以下,日本大使館のほとんどの職員は,ドイツ南部の温泉地バードガシュタインに避難する.
ドイツの軍人や政府高官はソ連軍の捕虜になることを恐れていた.
戦争末期にこれらのドイツ人は,アメリカ軍の捕虜になることを織り込み,西部や南部に逃げる.
当時,ソ連と日本は外交関係をもっていたので,国際法的にはベルリンにソ連軍が侵攻してきても,日本人が捕虜になることはない.
しかし,大島大使以下の幹部外交官は,ソ連軍と遭遇するよりもアメリカ軍の捕虜になる方がましと考えたのである.
しかし,ベルリンには在留邦人がいる.
日本国籍保持者を保護することは,外交官としての基本だ.
そこで10数名の日本人外交官とドイツ人職員が,「決死隊」としてベルリンの大使館に残留することを命じられる.
その内の一人が吉野文六外交官補だった.
外交官のランクは,大使,公使,参事官,一等,二等,三等の各書記官がいるが,さらにその下に外交官補(アタッシェ)がいる.
ベルリンの日本大使館は,陥落に備え,自家発電装置と空調施設を備えた地下事務室を作り,食料も十分に備蓄していた.
ちなみに東京との国際無線電話が,4月初めまではつながり,日本に残した家族とも電話で話ができた.
また,仕事絡みの話は,盗聴を警戒して,鹿児島弁で行ったそうだ.
吉野氏は長野県出身なので鹿児島弁は話せないが,大使館と外務本省の鹿児島出身者が連絡を鹿児島弁で行うのだ.
温泉地にいる大島大使から,「酒とつまみを持ってこい」という連絡が入り,吉野氏は米空軍P51戦闘機の機銃掃射を避けながら,酒とつまみを運んだことをユーモラスに話す.
「吉野さんが車を運転したのですか」
「いや,ドイツ人の運転手です.
ドイツ人の若者は根こそぎ動員でベルリン防衛にあたっているので,運転手は50歳を過ぎた年配者だった.
私は助手席に乗って,運転手が眠りそうになると肩をたたいたり,チョコレートを渡したりして,励まし,なんとか目的地に行きました」
「大島大使以下,大使館の連中はバードガシュタインでどういう生活をしていたのですか」
「それは温泉地なので,みんなくつろいでいましたよ」
〔略〕
――――――「佐藤優の『地球を斬る』」,2007/6/13
▲
【質問】
ベルギーのSS指導者レオン・ドゥグレルは,戦後どうなったのですか?
やっぱり死刑?
【回答】
スペイン逃亡後は実業家として成功し,ファシズム運動の黒幕みたいなこともしていたらしい.
同じくスペインに亡命して実業家となったスコルツェニーともつながりがあったようだ.
1994年3月31日マドリッドで死去.
享年88歳.
ヒトラーと関係があったファシスト指導者の中で唯一勝ち組といっていいだろう.
ちなみにクロアチアのウスタシャ指導者,アンテ・パヴェリッチも逃亡している.
こちらはヴァチカンルート(ラットライン)を使ってイタリアからアルゼンチンに亡命.
ペロン大統領の保安主任を務めたりウスタシャの亡命政権を作ったりしたが,その後やはりスペインに移住.
しかし暗殺されかかった時の傷が元で,1959年に死亡している.
軍事板,2005/05/08(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次世界大戦当時の西ヨーロッパ諸国の対独協力について知りたいのです.
戦車や軍用機といった軍需産業などは,ドイツ軍の軍備のどの程度を占めていたのでしょうか?
昔なんかの本でパンター戦車とか潜水艦とかフランスの工場でかなり生産されていたと読みました.
また,義勇軍としてソ連と戦った者も多かったようですが,そのあたりも教えていただきたいのです.
【回答】
一口にどの程度と言われても,相当数としか答えられません.それこそ,資料を丹念に追わないと….
一例を挙げれば,イタリアは相当数の軍用車輌を独占領時に接収されています.
が,総数は帳簿外のものもありますので,そのうち何割を占めているかは分りません.改造などで,帳簿に掲載されるものもありますが,部隊で捕獲して,そのまま自軍の装備に組み込んでしまうということもありますから.
対独協力については,北イタリアのトリノを占領したドイツ軍は1943年9月~1945年5月までの間,同地にあるFiatで生産設備をFullに活用すべく,あらゆる事を試みますが,180機の航空機が生産できたはずなのに,実際には最初の数ヶ月は18機しか出来ず,1945年に至っては一切その機体は手に入らなくなります.
航空機用エンジンは,日産1,500台の能力がありながら,実際は300台(後には90台以下)しか生産されません.
トラックは,1945年1月~3月,日産平均10台でしたが,うち5台は,「何とも不思議な具合に」消えていたりします.
業を煮やしたドイツ軍は,その生産設備を全てドイツ領内に運ぼうとしますが,Fiatを始めとした北イタリアの工業は,ゼネストで対抗したりしています.
フランスの場合,1940年11月の相殺協定の下で輸出入を均衡させ,通貨の移動を防ぐことになっていましたが,この協定を楯に,ドイツは一方的入超でも代金を払いませんでした.
また,為替レートも1マルク=20フラン(戦前は1マルク=10フラン)というレートを設定し,この有利なレートの中で,ドイツの各企業はフランス企業を次々買収します.
一例を挙げると,化学染料産業のキュールマン・トラストはI.G.ファルベンに支配されたりしています.
こういった買収には,フランスの銀行(クレディ・リヨネとか国立商工銀行とか)も深く関わり,フランスの各銀行は資本をこの時期に倍増させています.
自動車業界では,仏独経済関係代表団の後押しにより,ルノーの支配人ルイドゥーを中心として,自動車産業を対独協力に向けさせ,ルノー,シトロエン,プジョーは各種軍用車輌の生産を,ミシュランもタイヤ生産で協力し,各工場もドイツからの大量注文を受けています.
また,ボーキサイトは安値でドイツに売却されたり,ベルギーからの預かり資産である金を引き渡したりもしています.
1941年4月に工業生産大臣のピュシューはドイツ軍向け兵器類製造を約束し,仏独間での航空機製造計画が41年7月28日に調印されています.
こうして,1942年には航空機の100%,自動車・建設・石灰・セメント・造船の75%,ゴム・塗料・化学・織物の60%は独向け製品になっていました.
但し,石炭,鉄鋼業界は元々が競争関係であった為に,対独協力には積極的になっていません.
後にはフランスの戦力温存のために,国内全体で350万人が対独協力関係の工場に勤めていました.
敗戦後,こういった会社の内,ルノーは特に敵視され,国有化されました.
また,個人の追求も為され,ドボアチンはアルゼンチンに亡命したりしています.
ベルギーに関しては,ワロン地域のレックス党とフランデレン地域のフランデレン国民同盟によって国論がリードされます.
特にフランデレン地方は,ブルゴーニュ時代のネーデルラント17州復興を求めており,民衆にそれなりに支持を得ていました.
しかし,ベルギーには大した産業が無かったので,これと言って産業的には協力していた訳ではありません.
但し,前二党は積極的に対独協力を行ない,また,ベルギーの労働党党首でさえ,ドイツの新秩序政策を支持して,ベルギー労働党を解散してベルギー社会党に衣替えしています.
戦後,ベルギーでは,対独協力者として242名を死刑執行に処していますし,幽閉された国王の復位問題(さっさと降伏した上,幽閉中ヒトラーに面会に行ったなどが問題視された)が戦後の大きな問題となっています.
オランダについても同様ですが,こちらはベルギーの様に独立した政府があったわけではなく,占領下と言うことで否応なしに対独協力をさせられ,フォッカーは自国用の機材を完成させ,ドイツに納品させられた上,Ar196,Bu181などを生産し,Ju88用スキーなどの部品も作られています.
また,アビオランダ社ではDo24Tが継続して生産されています.
戦時の占領下による強制的な対独協力と言うことで,こちらは処刑人数は少なく,42名です.
ちなみに,フランスは779名(他に裁判抜きの処刑数が約4万人),イタリアは裁判,裁判抜きで実に10万人以上が処刑されています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
義勇軍としては,
SS第33武装擲弾兵師団「シャルマーニュ」(フランス);反共で集まってきた集団で利害関係が一致.
SS第28義勇擲弾兵師団「ヴァロニエン」(ベルギー):ベルギーのフランス系少数民族ワーロン人が,ナチス・ドイツに協力すれば,自分達の国家や自治を獲得できると信じて利害関係が一致.
SS第34義勇擲弾兵師団「ラントシュトルム・ネーデルラント」(オランダ):元は,オランダの治安維持・警備のため組織されたもの.ドイツ人達がのさばるよりは自分達が,自治をしたほうがまだましという考えで集まった.
これらの部隊は当初,実際の兵員は少数で,とても師団と呼べるような規模ではありませんでした.ネーダーラントとかはドイツ人混じってますし(笑).まあ,言ってみれば宣伝用の部隊ですね.
後に,ベルリンの国会議事堂での奮闘などで有名になりましたが,それは彼らがナチス・ドイツに協力しすぎていて,「毒を食らわば皿まで」という心境で下手なドイツ軍より必死に戦ったためです.
一般に,ドイツ占領下のドイツ系住民や少数民族,反共,現体制に弾圧されていた人達,さらに金儲け第一主義者達は,ナチス・ドイツが勝利しそうだったときには協力的でした.
負けそうになると手を引きましたが,その時点で手を引くことができなかった人達はそのまま運命を共にしました.
ドイツ占領下の国民や政府が協力的であれば,例えば戦車であれば,ドイツの戦車の台数の半分ぐらいは生産できたはずだし,フランスの人口から言えば数十個師団協力できたはずでしょう.
また,フランス海軍の戦力をドイツ海軍に組み込むこともできましたが,自沈により妨害されました.
このことを考えれば,忠誠度の低い部隊を作って,いつ寝返るか分からないよりは,民生レベルの協力にとどめておいたほうが無難だと判断したのかも知れない.
なお,ドイツ占領下などでドイツに協力した人々は,連合軍により解放されると集団リンチされたり処刑されたりしました.
また,ドイツ占領下でないようなところでも,ドイツ系の商店などは嫌がらせや投石などが相次ぎました.
【質問】
イタリア・ドイツなど枢軸国に駐留していた在外邦人は,どのような処遇がなされていたのでしょうか?
枢軸国に帰化した日本人も,徴兵や兵役が課せられたのでしょうか?
【回答】
基本的に居所さえ申告していればOKだったみたいです.
また,その生活も余り窮屈なものでなく,例えば,イタリアの例ですが,1942年4月に「ローマ日本友の会」という組織が出来たときは突然,Mussoliniが現れたりしています.
概ね,イタリア人の場合は寛容だったみたいですし,ドイツ人もそれなりに対応していたようです.
ただ,イタリア降伏の後には,イタリア駐在海軍武官や商社マンがPartisanに殺される例もありました.
詳しくは,木村裕主の一連の著書(特に「ムッソリーニの処刑」)辺りとか,ドイツに滞在していた日本人の手記とかを参照するのが良いか,と.
枢軸国での帰化は庶民レベルではなく,有名どころではクーデンホーフ・光子くらいしか居ないような….
少なくとも,日系ドイツ人ニーゲム大土木さん(ぉぃ)は居なかったはず.
名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/03(水)
青文字:加筆改修部分
なお,学研の「武装SS全史2」によれば,1940年5月時点で武装SS隊員に2名,日本出身者がいる.
ただしこれは日本生まれ(日独混血である可能性もないわけではないが),もしくは当該時点で日本在住のドイツ人と思われるとのこと.
名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/03(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
枢軸国の軍事郵便絵葉書について教えられたし.
【回答】
日本では全然知られていませんが,イタリアの軍事郵便絵葉書はドイツとも違ったグラフィカルな物や作家性の高いイラストの物も多く在り,本国では古くからコレクションの分野として確立しています.
私もRSI時代の物は欲しいけれど,市場に出物がなく,また出ても高額なので手が出なかったりするのが現状.
そんな中で少しづつ集めた絵葉書を,アルバムにまとめたものをこちらにアップしています.
http://www.photohighway.co.jp/AlbumTop.asp?key=1659455&un=97071&m=2
これは,春先に入手した休戦以前のデチマ・マス海上特攻部隊の活躍を描いた絵葉書.
1942年にドイツ軍によるセヴァストポリ攻略の為に黒海に派遣されたMAS魚雷艇が,パトロール中に遭遇したソ連巡洋艦)に,至近距離から魚雷攻撃した模様を,迫力在るタッチで描いています.
こういうのも,まるで戦後のマカロニ戦争映画のポスターの様に“いかにも”で…好きですね(笑
これは,1944年6月にサロ共和国側で発行されたもので,絵柄面には金槌を手にした年輩の労働者と握手を交わす,赤フェズをかぶったベルサリエリ兵が描かれ,荒廃した建物の壁にと下の赤帯に,“祖国と勝利のために働き,そして戦う”とのスローガンが書かれてます.
廃虚となった壁は,連合軍の爆撃が続く北イタリアの状況を示したものでしょうが,イタリアらしい絵柄のせいか今ひとつ悲愴感はありませんw.
右のおじさんは金槌で何をしようと言うのでしょう?
イタリア絵葉書の構図のハデさやカラフルさは,サービス精神が旺盛な国民性や南欧特有の明るい色彩感覚の影響もあるのかも知れませんね.
また,この構図には過去の宗教画の影響がたぶんにあると思います.
大好きな画家Tafuriの作品などは,明らかに数々の聖母子像絵画に引っ掛けている印象を受けます.
それにつけても〔軍事郵便葉書の〕実物は,差出し人が書かれている場合があり,これが特定の軍人や部隊だと二度美味しい思いが出来ます.
アルバムにも在りますが,ロシアに派遣された赤M部隊「タリアメント」の兵士がロシア戦線から出した,部隊検印が入った葉書などは,その絵柄面と相まって落とした瞬間“ビンゴ!”と思った一枚でした.
対して日本の軍事郵便絵葉書は,こういったイタリアの様なドラマティックな構図や絵柄は少ないかもしれませんが,日本画タッチの詫びさびに通じるいかにも日本的な絵葉書が数多くあり,これはこれで味が在ります.
そして軍事郵便葉書では在りませんが,昭和10年頃から民間の出版社が多く発行したジャンルに,兵隊漫画絵葉書があります.
さすがニッポン!70年前から得意分野は変わっていません(笑
上は,1937年の第二次上海事変頃のもので,上の陸軍歩兵部隊と下の海軍陸戦隊としっかり軍服や装備を描き別けているのはアッパレ.
被甲(ガスマスク)ケースのシステムも,これを見れば陸海軍部隊の違いが判ります.
中国兵や便衣(スパイ/ゲリラ) が『~アル』と言っているお約束が,この当時からあったのかというマメ知識も得られます(笑).
これ以外にも漫画絵葉書では,軍隊に入営して除隊するまで訓練や軍隊生活を紹介するシリーズものがあって,これもたまに古書市に出ますが,なかなか高価でタイミングを逃しています.
藤田嗣治画伯も従軍して戦場絵画を幾つも残していますが,こちらはあまり戦後,表に出ない様ですね.※
手許に昭和18年8月発行のこんな写真集がありますが,表紙はシンガポール戦線で遺棄された英軍の武器や装備品を藤田画伯が描いたものです.
ドイツなら,Willrichが描いた騎士鉄十字章叙勲者の絵葉書シリーズなども,アート性が高く人気がありますね.
http://www.axishistory.com/index.php?id=4744
Willrichの描くドイツ将兵は皆,「あー,こういう顔のドイツ人っているよねー」という気にさせ,その顔つきから性格や軍歴まで滲み出てくる様に思えます.
古典ドイツ絵画が好きな私は,このいかにもデューラーの系譜の様なWillrichのタッチが好きですが,これまたしっかりしたマーケットが全世界にあって実物はなかなかに良いお値段(泣
今は控えています.
それにしても絵葉書を見るだけで,日独伊三国の国民性が垣間見えて面白いものがあります.
よしぞう(maro') in mixi,2006年06月10日16:29
~2006年06月12日 23:16
▼ 軍事ネタの絵はがきが掲載された記事を友人に見せたところ,「自然物の省略技法がほぼ現代の物に近い」という指摘がありました.
「描画の技法やマンガでの物語表現などはすでに戦前にその萌芽があったものの,マンガにとって戦中期は受難の時代で,戦争が終わってみれば過去の作品は(紙の供出があったことなどから),物理的な参照もままならなくなってしまったために,我々はそれを参照できないだけなのだ」
という話を,夏目房乃介さんがマンガ夜話でやっていましたね.
映画界の話ですが,これに似た状況は,蓮實重彦が次のように述べています.
<quote>
たしかに「なんでも見られる状況になった」といっていますが,その言葉は明らかに正確さを欠いています.
ごく単純に,映画史的には「なんにも見られない状況」がなおも続いているからです.
ジョン・フォードの作品だって,見られないもののほうが遙かに多い.
プリントがなくなっていればDVDにしようもないし,プリントが存在していてもDVDが出ていないものだって少なくない.
溝口健二だって,1920年代に撮られた作品はほとんど見られません.
小津もプリントが残っていない作品が十数本もあります.
『狂恋の女師匠』(1926)も知らずに溝口を語り,『美人哀愁』(1931)も見ぬまま小津を語らねばならないという悲惨な現実に,ひとびとはあまりにも楽天的すぎると思います.
</quote>
これをマンガに当てはめて考えれば,戦後のマンガの原点は手塚治虫であるという物の言い方は,手塚治虫の原体験となった作品群を見ずに手塚を,あるいは戦前のマンガの表現を語ろうとするものであり,正確さに欠けると言わざるを得ないと考えます.
恐るべきはそれを体得して自らのものとし,分断の時代を乗り越えてマンガという表現を復活させたその記憶力と集中力にあり,その意味ではいまだ手塚を超える漫画家は出てきてはいないのかもしれません.
クローム・ツァハル in mixi,2008年08月25日17:04
▲
▼
※ 藤田嗣治の戦争画のカラー図版は,いくつか『画家たちの「戦争」』(新潮社)に収録されている.
収録されていた藤田嗣治の作品のタイトルは以下の通り.
・アッツ島玉砕
・サイパン島同胞臣節を全うす
・ハルハ河畔之戦闘
・南昌飛行場の焼き討ち
・神兵の救出到る
(この書籍に載ってる図版の中で,一番印象的だったのは,小早川秋聲の「国之楯」だな.
暗い背景の中に,日の丸被った兵隊さんの骸だけが描いてあって,反戦画にしかみえんかった)
また,藤田嗣治の『サイパン島同胞臣節を全うす』は,東京近代美術館で見られる.
確か常設展示だったはず.
そういえば藤田嗣治が描いたノモンハン事件の絵が実は二枚あって・・・ っていう話があったな.
軍事板,2011/02/02(水)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
「英ファシスト連合」って何?
【回答】
英ファシスト連合(British Union of Fascists、略称:BUF)は、オズワルド・モズレー卿が1932年に設立したファシスト政党。
モズレーの政党「ニュー・パーティー」をはじめ、「英ファシスト党」など,幾つかの英国のファシスト系小政党が連合する形で結成された.
「黒シャツ」と呼ばれた彼らの私兵は,暴力事件をしばしば起こし,また,選挙では1議席も取れないまま,1940年に活動禁止令を受けた.
【ぐんじさんぎょう】, 2013/11/29 20:00
を加筆改修
【質問】
ユニティー・ヴァルキリー・ミットフォードって誰?
【回答】
ユニティー・ヴァルキリー・ミットフォード(1911~1948)
英国の名門ミットフォード家のナチスιょぅι゛ょ.
エヴァが嫉妬して自殺未遂するほどヒトラーと仲良しだった.
ユニたんがあんまり英独友好を説くので,ヒトラーもイギリスは宣戦してこないような気になってしまい,調子に乗ってポーランドへ攻め込んだ,という説あり.
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余談だが,ミットフォード家にはユニティの他に,5人の姉妹がいた.
長姉ナンシー・ミットフォード(1904~1973)は,姉妹の中で一番頭がよかったらしい…
ただし,フランス流に皮肉とエスプリの神に愛されたナンシーは,ド・ゴールの片腕と言われた自由フランス軍のパレフスキー大佐と恋に落ちる.
大佐とは結局破局したが,パリに住んで,恋愛小説家としてベストセラー作家となった.
ミットフォード姉妹の次女がパメラ・ミットフォード(1907~1994),通称パム.
アカ,ナチ,不倫,カエルと恋愛,等々波乱だらけのリーズデイル男爵ミットフォード家にあって唯一,田園を愛する女らしい女.
娘たちをあまり愛さなかった母親に代わって,姉妹の母親役になったという.
結婚相手もケンブリッジの超一流の科学者だった.
つか,この人慎まし過ぎて写真が見つけられない.
本で読む限り一番萌えキャラなんだけどな.
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3女ダイアナ・ミットフォード(1910~2003)は,ギリシャ彫刻の如き美貌で早くから社交界の花となり,大富豪と結婚するも,英国ファシスト党党首オズワルド・モズリーと不倫.
その後,モズリーと一緒に投獄されたり,再婚してレディ・モズリーになったりした.
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4女が上述のユニティ.
5女がジェシカ・ミットフォード(1917~1996),通称デッカ.
ユニティーと一番仲良しだったが,この人はアカに走った.
共産主義者エズモンド・ロミリーと駆け落ちし,スペイン内戦に身を投じる.
ロミリーが戦死した後はアメリカへ渡り,資本主義社会を批判する書物を次々と著してベストセラー作家となる.
彼女たちの部屋にはハーケンクロイツとハンマーと鎌が溢れ,ヒトラーとレーニンの写真がせめぎあい,お互いに国境線を引いてアカめナチめと罵り合っていたという.
なんつう家庭だ…
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ミットフォード姉妹の末娘がデボラ・ミットフォード(1920~),通称デボ.
2007年現在,姉妹の中で唯一存命,
お騒がせファミリーの語り部である.
この人もわりと常識人で,ちゃんとイングランドの貴族と結婚した.
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写真は,リーズデイル男爵2世デイビッド・フリーマン・ミットフォード(1878~1958)
ヤクザすぎる娘たちを持ってしまった可哀想な人.
ついでに言うと,彼女らの爺さんが,『ミットフォード日本日記』(講談社学術文庫,2001.2)を書いたAlgernon
Bertram Mitford.ハラキリや忠臣蔵を欧米に知らせた人物です.
切腹を目撃した初めての欧米人でもあります.
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