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◆◆親枢軸勢力
<◆総記
<欧州方面・目次
<第2次世界大戦

Suomen itsenäisyyden ajan sodat kuvina
/ Pictures From Wars During Finland's Independence
(フィンランド語/英語)
「カゼタカ2ブログch」:ドイツとイタリアと日本って何がしたかったの?
『スペイン革命――全歴史』(バーネット・ボロテン著,晶文社,1991.10)
高いがめちゃめちゃ良書.
軍事的なところはそこまでないけれど,人々の動きがすごいよく分かります.
軍事板
『帝国とプロパガンダ ヴィシー政権期フランスと植民地』(松沼美穂著,山川出版社,2007.11)
フランス植民地史の研究書で,他の植民地関係の史書が政治,経済,軍事的な側面から見ていたのに対し,この本は特にヴィシー政府が成立した後の同政府の正当性を喧伝する為にどの様な施策を採ったか,そして,それが本国や植民地にどの様な影響を与えたのか,更に,ヴィシーが消滅し,De
Gaulleの政府にどの様に引き継がれていったのかと考察した本.
―――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月24日20:27
Commando Supremo(伊軍総合)
『La propaganda nella Repubblica Sociale Italiana』
RSI時代のイタリア枢軸側の宣伝ビラだけを集めた一冊.
2色刷りのデチマ・マス部隊の兵員募集ビラは,時々海外オークションにも出るので,今後の真贋確認用(?)に有効かも(笑)
――――――よしぞう(maro') in mixi,2006年12月08日12:18
●よしぞう(maro')関連
それほど多趣味では在りませんが,ミリタリーものでは肩まで浸かった生活を続けています.
こちらは,その趣味の世界の“極”一部をまとめたアルバムサイトです.ご感想をどうぞ.
http://www.photohighway.co.jp/AlbumList.asp?un=97071&m=2
イタリア本国のリナクトメントサイトに掲出されているレポートの一部を紹介.
http://www.jollyrogerxxx.it/itagiap.htm
http://www.jollyrogerxxx.it/JAP.htm
http://www.jollyrogerxxx.it/kazumaggio05.htm
http://www.jollyrogerxxx.it/kazunori1005.htm
2002年,仏ミリタリー誌「Gazette des Uniformes」に日本に辿り着いた伊潜水艦搭乗員の秘史記事3Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000041.jpg
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000042.jpg
2002年,「Armour Modelling」12月号(大日本絵画)に“ミラノのホビーショー”記事1Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000201.jpg
2003年,「Armour Modelling」2月号(大日本絵画)に“リミニのヒストリカルイベント前編”記事2Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000200.jpg
2003年,「Armour Modelling」3月号(大日本絵画)に“リミニのヒストリカルイベント後編”記事2Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000199.jpg
2003年,6月のSF乱学講座にて“サロ(共和国)の600日−知られざるイタリア枢軸国家”を講議.
http://www.jollyrogerxxx.it/kazucorso.htm
2003年,「歴史群像」8月号(学研)に“イタリア潜水艦極東派遣計画”記事8Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000197.jpg
2003年,「歴史群像」10月号(学研)に“ムッソリーニ救出”記事用の解説イラストを作成,掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000208.jpg
2003年,「WW2欧州戦史シリ−ズVol.22 ヨ−ロッパ空挺作戦
」(学研)にてイタリア空挺部隊通史8Pとエル・アラメイン戦2Pおよび日・独・伊空挺の軍装解説5Pページを担当.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000209.jpg
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000210.jpg
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000211.jpg
2004年,1月公開イタリア映画「炎の戦線 エル・アラメイン」の字幕監修とパンフミリタリー解説を担当.
http://www.gaga.ne.jp/el-alamein/html/column.htm
2005年,「ミリタリークラシックス Vol.8」(イカロス出版)に“伊RSI軍/南王国軍特集”と“兵科解説”記事等10Pを掲載.
http://www.jollyrogerxxx.it/rsikazu.jpg
2005年,「歴史群像」2月号(学研)に“第一次大戦イタリア海軍MAS部隊”記事8Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000198.jpg
2005年,伊ミリタリー誌のフォルゴレ空挺装備特集号で以前描き下ろしイラストが再録掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000074.jpg
2005年,「ミリタリークラシックス Vol.11」(イカロス出版)に“イタリア人間魚雷ミニ特集”記事2Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000073.jpg
2005年,パルチザン戦に巻き込まれて命を落とした日本人商社マン達とある海軍武官について調べたイタリア本国の郷土史本に日本側取材で協力.
http://www.lucavalente.it/modules.php?name=Speciale
2006年,2月発売のDVDブック「緑の悪魔」(大日本絵画)に解説インタビュー記事6Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000207.jpg
2006年,3月に「イタリア軍入門」(イカロス出版)を上梓.
http://www.jollyrogerxxx.it/kazunoribook.htm
2006年,イタリア本国の軍装雑誌「MILITES」5&6月号にて「イタリア軍入門」が書籍紹介される.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000263.jpg
2006年,「Armour Modelling」8月号(大日本絵画)に“シャールB1
bisの迷彩”記事3Pのイラスト9点を制作/掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000311.jpg
2006年,「MC☆あくしず Vol.2」(イカロス出版)に“イタリア軍,ギリシア侵攻”記事1P記事とイラスト1点を制作/掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000369M.jpg
2006年,「Armour Modelling」11月号(大日本絵画)に“1945年パンターGの塗装バリエーション”記事2Pのイラスト6点を制作/掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000368.jpg
2006年,イタリア本国の軍装雑誌「UNIFORMI
E ARMI」11月号に“第一次大戦で伊陸軍アルディーティ部隊に参加した日本人,下位春吉”記事4Pを掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000365.jpg
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000364.jpg
2006年,「MC☆あくしず Vol.3」(イカロス出版)に“伊人間魚雷,英戦艦撃沈”記事1P記事とイラスト1点を制作/掲載.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000370M.jpg
よしぞう(maro') in mixi,2006年03月27日
WWIIイタリア軍装展
Vol.1
Vol.2〈RSI軍遍)
『イタリア軍入門』(吉川和篤他著,イカロス出版,2006/2)
【質問】
枢軸国(Axis)は何でこう呼ばれたのでしょうか?
【回答】
ムッソリーニがベルリン/ローマを結ぶ軸を中心に世界を回転させるのだ,と演説したことに始まるようです.
詳しくは,
www.janda.org/politxts/State%20of%20Union%20Addresses/2001-2004%20Bush/AxisofEvil.htm
(HN : System)
【質問】
WWUにおいて日本と同盟国のドイツ・イタリアとの交流はどんなものだったのでしょう?
特に人の行き来は,現代の海外旅行のようにはいかなかったと思うのですが.
【回答】
第二次大戦中の欧州と日本との間を結んだのは,有名なのは,日独間の伊号潜水艦,Uボート,Italy潜水艦によるブレスト〜大西洋〜インド洋〜シンガポール〜東シナ海〜本土と言うコースや,イタリア機によるTianShan山脈越え飛行なんてのが有名だったりしますが,大戦勃発当初は未だ3つの連絡ルートが存在していました.
1つは欧州航路,2つ目がシベリア鉄道,3つ目が太平洋〜米国経由〜大西洋航路です.
欧州航路は,1939年には横浜から名古屋,大阪,神戸,門司,上海,香港,シンガポール,ペナン,コロンボ,アデン,スエズ,ポートサイド,ナポリ,マルセイユ,ジブラルタルを経てロンドンに至る航路(但し,名古屋,大阪,アデンは往路のみ)が日本郵船によって運行されていました.
但し,荷役の関係上,国内の移動には時間が掛かる為,大抵の客は神戸で乗下船します.
ベルリンに行く場合はナポリで下船し,鉄路でベルリンに向かい,パリへはマルセイユで下船し,鉄路でパリへ.
これまた,荷役の関係上,乗船しているよりは途中下船して鉄路で行った方が速かった為です.
神戸からナポリまでは32〜38日かかりました.
先述のシベリア鉄道では14〜15日ですから,倍掛かっています.
意外なことに,この航路は,1939年9月1日以降も機能していましたが,1940年6月10日にItalyの参戦があってから,英国官憲は,独伊の同盟国たる日本のスエズ運河通航を拒否し,航路は最短距離での運行を諦めて,ケープタウンへ大回りするか,パナマ運河を経由するかの選択になります.
しかし,ケープタウン周りの航路は,航路が長いのに反して貨物の取扱量が小さく,経済的理由で維持が困難となり,パナマ運河経由は,1941年7月18日の米国によるパナマ運河通航拒否によって中止せざるを得なくなってしまいました.
ちなみに,民間船として最後の欧州航路の船は,1940年11月にリバプールを出港した伏見丸が最後.
但し,本当の最後の便船は,1940年4月10日に徴用された海軍特設運送艦となっていた浅香丸です.
この船は,行きにドイツへ赴く遣独海軍使節団18名,陸軍関係便乗者6名の輸送と,日本がドイツに送る酸素魚雷などの新兵器の運搬を行い,帰りにはドイツから贈与されたラインメタルの砲などの新式兵器,陸軍向けBf-109E戦闘機,海軍のHeinkelHe-100戦闘機,工作機械などを受け取りをする為のものでした.
浅香丸は,1941年1月16日横須賀を出航します.
普通はハワイを経由しますが,そうせずに一気にパナマ運河のバルボアに直行.
パナマ運河の通航については,米国が特に神経をとがらせたりしたのですが,現地外交官の奔走で,交渉が妥結し,無事通航できるようになりました.
その条件とは,パナマ運河通航中は,拳銃で武装した米国兵(陸上のみ監視すると言う形を取った)の便乗を行うと共に,引替えとして,浅香丸乗船将官5名,士官20名は運河入口で下船し,陸路移動して出口で再び乗船すると言うものでした.
ちなみに,これら将官と士官は,米軍の施設を見学しつつ,陸路移動しています.
そして大西洋を横断した浅香丸は,ポルトガルのリスボンに寄港した後,スペインのビルバオに向かいました.
当初はドイツ占領下のフランスの港に寄港することになっていましたが,それだと英国側から身の安全を保証出来ないと言う通告を受けたため,スペインでドイツとの武器の引き渡しなどを受けたそうです.
帰りは,1941年3月6日に出港し,ビスケー湾から大西洋に出て南下,喜望峰を回ってインド洋に向かい,ティモール島からスンダ海峡を経由して太平洋に出て,4月28日に横須賀へと遙々世界一周の旅を行っていたのです.
次いで,シベリア鉄道コースは,前にも触れましたが,関釜,哈爾浜,満洲里か神戸,門司,大連,哈爾浜,満洲里経由のいずれかのルートでシベリア鉄道で,モスクワまで出て,モスクワから各地に向かうことになります.
このコースが一番時間的に有利なのですが,ソ連による査証発行がなかなか為されず,民間人には夢のまた夢だったそうです.
このコースは,1939年9月1日に一端中断しますが,ポーランド分割後に再開されます.
しかし,1941年6月22日の独ソ戦でソ連経由ドイツ行きの鉄路が封鎖されてしまい,シベリア鉄道から中央アジア,カフカス,小アジア,バルカン半島経由で枢軸国に入るコースを開拓せねばなりませんでした.
最後の米国周りのコースは,時間が更に掛かることから,一般的ではありませんでした.
これは,カナダ太平洋汽船かプレジデント・ライン,日本郵船などが運行していた太平洋航路で,横浜からハワイを経由してサンフランシスコやシアトル,バンクーバーに向かい,大陸横断鉄道でニューヨークに向かった後,ニューヨークから欧州向けの客船に乗り込むケースが主でした.
これには,変形ルートとして,南米のブラジルに向かい,そこから欧州に向かうと言うものもありました.
結局このルートも,米国の経済封鎖と共に窮屈な運行となり,最終的に太平洋戦争で息の根を止められました.
極東の日本と欧州との間,余り人的交流は無いようで,実は結構な数の邦人が行き来していたりするのです.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月05日23:22
太平洋戦争勃発後は,先ず,日米,日英交換船による外交官赴任があります.
これはポルトガル領だったロレンソ・マルケス(今のモザンビークの首都マプト)経由,其処からポルトガルの便船で喜望峰経由でリスボンに向かい,其処から鉄路でベルリンやらヴィシーやらベルンなどに赴きました.
(ちなみに,外交官のポルトガル船での赴任は,連合国に了承されています)
また,陸路は,シベリア鉄道のモスクワ経由は無くなっていますが,満洲里からソ連に入り,中央アジアを抜け,コーカサス経由でトルコに入り,トルコを横断し,ブルガリアへ,ブルガリアからロマーニャ,そしてマジャールを経由してドイツというルートです.
そのルートは二ヶ月の時間を要し,ソ連の通過査証が中々降りないのがネックでした.
一応切り札として,日本領海で遭難して救助したソ連船員との交換で発給を受けていたのですが,なかなか発給されず,屡々在モスクワ日本大使館とソ連外務省との間で丁々発止の遣り取りが行われています.
この陸路を通った例としては,ローマのイタリア大使館から帰国した参事官が最初で,ローマ→ウィーン→ブタペシュト→ブカレスト→ドナウを下ってジュルジュからブルガリアのルセを渡り,ソフィア→スビレングラード→其処からバスでイスタンブール→アンカラ→サルカムシ→カルスを経て此処からアルメニアのレニナカン(現在のクマイリ)→グルジアのチフリス(今のトビリシ)→ソ連に入ってスターリングラード→ラポリ→クイビシェフ→ノボシビルスク→シベリア鉄道で満洲里という右往左往ルートです.
独ソ戦で,コーカサスが最前線になると,チフリスまでは上記通り(但し,ドナウの結氷期は連絡船は動かないため,小舟で渡るか,歩いて渡ることになります),チフリスからはロシアに入らず,バクーに移動し,カスピ海を横断,トルクメニスタンのクラスノボーツクから鉄道でタシュケントに抜け,カザフスタンのアルマアタ,セミパラチンスクを経てノボシビルスクというルートで以後,シベリア鉄道というルートに変わりました.
このルートは,1944年8月23日のルーマニア降伏まで続きました.
で,それ以外は,潜水艦によるものが人口に膾炙されていますが,伊号第30号潜水艦,同第8号潜水艦,同34号潜水艦,同29号潜水艦,同第52号潜水艦の5回試みられ,欧州到達したのは3回,往復したのは1回でした.
ドイツ潜水艦によるものも試みられ,U511,U1224,U234の3回のうち,1回のみ成功,イタリア潜水艦も4艦のうち,1回だけ昭南に到達しました.
後は,物資だけなら,ドイツの封鎖突破船,イタリアからの福生まで空路というのもあったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
▼ 以下,その実例.
[quote]
私は,昭和13年(1938)秋から,太平洋戦争の末期までの6年間,日本公使館付医師として,アフガニスタン主都〔原文ママ〕カーブルに在勤した.
〔略〕
私はふとした機会から,古代貨幣の菟集に熱中するようになり,炎暑をもいとわず風雪にもめげず,公務の余暇の全部を投入して,全国の僻地をも訪い,バザールの隅々まで彷徨して,漁り続けた.
文字通りの粒粒辛苦を嘗めて集め得た金,銀,銅貨等の数は,千数百に及んだ.
〔略〕
さて,私にとって,生涯の研究資料でもあり,終生の記念品でもある上述のコレクション,これを無事,日本に持ち帰ってその研究を続け,祖国の学会に微衷を捧げることは,私の至上の念願であった.
とはいえ,当時は,あの大戦中のことで,海路は全く鎖され,ソ連邦,満州を経て帰国するのが,唯一の道であった.
帰国の一行は,私のほか,私の妻と当時は12歳の私の娘(現在,自治医科大学教授,青木延雄の妻として,2児の母である基子)と従者1名を加えて4人であったが,別に,館員井上英二氏夫人とその乳・幼児2名を同行した.
当時,カーブルからソ連国境のアム・ダリアまでの行程は,山嶮の難路を,2泊3日の自動車旅行と,カディと称する特殊な馬車に分乗しての砂漠横断の旅とで,幸に,天候に恵まれた上,ヴェテランの館員井上氏の保護宰領で,全く無事ではあったが,その困難は並大抵のものではなかった.
この全行程中,騎馬兵士数名の護衛を付けられた,アフガニスタン政府の好意は,一医官の帰国に対する配慮としては,まことに過分のことで,私の終生忘れ得ぬ感激である.
パタキサルの砂漠も無事に過ぎ,アム・ダリアの岸に着くと,ソ連邦の渡船に迎えられて,いよいよソ連領に入った.
6年の歳月を過したアフガニスタンを後にして,未知のソ連領トルキスタン,シベリアの汽車旅8000kmの長途に入る感慨は無量であった.
それから,満州,朝鮮の汽車,釜山からの連絡船で故国日本の土を踏んだときには,さすがにホッとした.
[/quote]
―――『西域の古代貨幣』(渡邊弘編著,学研,1973/10/1),p.6-7
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『世界画報』昭和13年5月号の,イタリア親善使節団一行来日特集
東宝劇場で草笛美子などの歌劇団のレビューを観るパウリッチ団長や,菊五郎の鏡獅子を観劇して一緒に写真に写る団長など,興味深い写真多数

よしぞう(maro') in mixi,2006年05月06日21:43
【質問】
「イタリアからの福生まで空路」というのは,どの程度実現していたのでしょうか? 又,中継地は?
【回答】
特殊型なのですが,1939年7月30日〜8月1日に掛けて,Savoia-MarchettiS.M.82PDと言う改造型は,航研機の持つ周回記録を上回る12,910kmの飛行を行っています.
同じような改造型で,1942年にイタリアのローマから,ブカレスト,コーカサス(当時はドイツの占領下)を経て,其処からは無着陸でアフガンを越え,天山山脈上空を飛行し,中国の日本占領地(蘭州辺りだったかと記憶)に飛び,其処から満州を経て,福生へ飛んでいます.
ちなみに,このルートは,1938年4月23〜28日に満州航空が購入したHe-116の2機が通ったルートをほぼトレースしています.
この時には,カプロニの「ジェット」エンジンを搭載してきたんですよね.
帰りには南方で採取された資源(生ゴム,雲母,錫,タングステン,阿片)を搭載して見事に帰着しています.
後,逆ルートで,立川A-26の2号機を用いて,シンガポールからドイツまで無着陸連絡飛行(セ号)を1943年6月30日に福生を出発,シンガポールで給油し,7月7日にドイツに向かいましたが,インド洋上空で行方不明,1944年から45年にかけて,立川キ-74遠距離偵察爆撃機の2号機を使って同じような飛行をしようとしていましたが,ドイツ敗戦で中止になりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
戦時中,イタリアでは日本はどのように紹介されていたのか?
【回答】
〔たとえば〕これは,戦時中にミラノの出版社から発行された“BIMBI
DELL'ASSE”(枢軸の子供達)という,小学生の学習用ノートです.
さしずめイタリアの戦中版ジ○ポニカ学習帳というところでしょうか.
表紙は,切れ長な眼をした着物を着た少女と剣道をする子供達,富士山に巨大鳥居,松に梅といった典型的な「日本」のイメージをコラージュしたものですが,そんなに嫌みではありません.
画家の署名には1941年の日付けが見えます.
裏面には,「過去からの伝統を大切にする人々,それが日本人で…」と日本の風土や風俗,日本人を好意的に紹介しています.
当時の枢軸同盟の各国旗が載った裏表紙を見る限り,イタリア,ドイツや日本以外にもルーマニアやフィンランド,スペインにハンガリーといった子供達が表紙を飾るノートも存在した様に思えてきます.
フィンランドものとか欲しいなー(笑).
それにしても何故ドイツのスワスチカが,卍と同じ向きに?

でも,〔ノートの〕中は何故だか1943年6月21日の日付けスタンプが入った配給券が張られた配給記録帳になっていました.
今でもよくある,使わない子供のノートを利用した家計簿みたいなもんでしょうか(笑

巨大鳥居と言えば,拙著『イタリア軍入門』でも紹介した,アルファ
ロメオ社による1942年のローマ〜日本間飛行を記念したプロパガンダポスターにも出現しますね.
やはり,日本のイメージで外せないアイテムなのでしょうか.
このポスターは,登場人物の衣装がまた痛いのですが(笑

このアルファ ロメオのポスター絵の日本人風俗には,なんだか悪意ではない無邪気さを感じますが,そうなれば余計に,当時の日本はこういう風に思われていたんだろうなーと想像に難くありません.
でも考えて見れば,戦前・戦中の日本人も都市部を除いた大部分はまだ和服を着ていた筈なので,髪型やかぶりものを除くと,そうメチャクチャだとは言い切れないところがあります.
こういう画像もあります.
この武者の兜の鍬型もちょっと形が変ですが,色合いや構図は実に味わいがあります.
よしぞう(maro') in mixi,2006年07月28日01:37
一番上の画像を見ながら,
「どこかでみた事のある風景だな〜」
と思ったのですが,まさしく熊本の水前寺公園ぢゃなかですか〜!
東海道五十三次を模した回遊式の庭園.
もちろんフジヤマ&鳥居に梅や桜と,異人さんも大喜びの,日本をイメージさせるアイテムがてんこ盛り(ゲイシャはいませんが(笑).
カブリモノスキー in mixi,2006年07月28日 18:57
▼ また,以下は,戦中に発行された隔週雑誌“STORIA”の1941年11月15-30日号.

この号は大平洋戦争突入前の日本特集で,日中戦争での日本軍の状況を伝えるレポートや,日本国内の衣食住を始めとした一般市民生活や,能や相撲など伝統文化の紹介を行っていました.
なかでも軍装マニアとして興味深かったのが,東京のどこかで開催された“イタリア展”と名付けられた催しもので,ファシスト少年団や少女団などの制服が一同に展示されていたこと.
写真をアルバムにアップしました.
その前にあったヒトラー・ユーゲント団訪日に触発されての事かも知れませんが,このファッショナブルな装いが当時の日本人にどう受け止められたか,気になります.
また,特集記事内で興味深いのは,すでにアメリカとの戦争は避けられないと言う論調で,大平洋に展開した米軍の戦力などを比較している点.
やはり当時から日本の攻撃による開戦は,内外には既に予定調和だった事が伺え,事実はこの雑誌発行から20日以内に起った真珠湾攻撃が証明しています.
ちょっと眼を引いたのは,裏表紙にもある甲冑姿の武者人形.
なかなか精巧に出来ていて,明治期に作られて海外にも輸出された日本の生人形を彷佛とされると思っていたところ,現在熊本市現代美術館でこの生人形展の知らせが.『生人形と江戸の欲望展』
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou2/index.html
このサイトを見た所,なんとこの雑誌の中面に紹介されている弓を持つ武者人形(写真上)が,今回日本に里帰りしたフィレンツェの武具博物館所有のもの(写真下/公式サイトより)と同一で,偶然にこのタイミングで里帰りしたことを知り,この1/1和製フィギュアの辿って来た道を感慨深く思い眺めました.


それにしても,この現代のフィギュア物に通じる面白い企画展示が,東京で観られないのが残念!
さりとて熊本に行く余裕もないし…う〜む.
よしぞう(maro') in mixi,2006年09月03日21:02
▲
【質問】
WW2中の枢軸側の軍隊に特殊部隊と言うか,特殊な任務を請け負った,もしくは小数精鋭の兵士で結成された部隊は有ったのでしょうか?
【回答】
ドイツ軍では
・独ソ戦でロシア兵に偽装し重要拠点の占拠などを行ったブランデンブルク連隊(後に装甲師団に拡大)
・スコルツェニーの指揮下でムッソリーニの救出作戦を行ったフリーデンタール特務部隊(ただし作戦自体は空軍の降下猟兵が主体)
・同じくスコルツェニーの指揮で米軍に偽装し,バルジの戦いで後方かく乱(グライフ作戦)を行った第150装甲旅団
などがある.
密猟者や犯罪者で編成され,パルチザン討伐作戦を行ったオラニエンブルク密猟者コマンド(後の第36SS所属武装擲弾兵師団)も特殊部隊といえないことはない.
なおこの部隊の指揮官は,あのディルレワンガー.
イタリア軍では海軍フロッグメン部隊が活躍している.
【質問】
WW2末期の大使館の様子について質問です.
ドイツは日本より先に無条件降伏したわけですが,各国にあった大使館や領事館はどのような扱いを受けたのでしょうか?
また,大使や駐在武官などの敗戦国の人間は身柄を拘束されたりしたのでしょうか?
また,1945年8月15日以降の海外の日本大使館はどうだったのでしょうか?
【回答】
将来的には国外退去処分となります.
これは宣戦布告時に,宣戦した国に駐在していた外交官も同じです.
この場合は,交換船などの手段で,中立国経由で,それぞれの国の外交官を帰しています.
基本的には,中立国かその国の友好国への移動を志向しますが,日本のように,四方海面な国は,諦めて軟禁状態となっています.
但し,外交官としての身分は保障されていますので,変なことは出来ません.
Italyが降伏したときは,各国駐在の外交官の扱いを見て,Italyも日本やその他各国の外交官を扱っています.
Franceの場合は,Vichy政府が崩壊した後も,その亡命地に外交団が移動し,最後は中立国スイスに移動しています.
Finlandの場合は,公使館を閉鎖し,公使館員はホテルに移りますが,軟禁されておらず,日本公使館関係者はそのままMoscow経由で帰国しています.
Romaniaの場合は,公使館員は軟禁されていますが,公使館員は公使館に,駐在武官は駐在武官宅に軟禁となっています.
その後,日本の敗戦で,彼等はルーマニア軍の収容所(第380キャンプ)へ移動し,そのまま1946年までその地に留まっています.
Bulgariaの場合は,中立国Turkeyに退去.
HungaryやGermanyでは,そのままソ連に保護され,シベリア鉄道経由で帰還していますが,米国占領地となった土地に居た人々は,米国本土で抑留され,戦後帰国することになります.
ちなみに,ソ連経由で帰った人々の送還費用は,日本が支払っています.
占領後の1945年10月25日,連合国軍総司令部から日本政府に対し,中立国に所在する日本在外公館の財産・公文書の引き渡し,公務員の引き揚げが指令され,日本の外交機能はサンフランシスコ講和条約まで停止しました.
Afghanistan公使館は,1945年11月10日に日本政府資金,官有品目録を連合国代表に引き渡し,公使館から退去し,インド経由で帰国しました.
Spainは1946年1月21日に公使館を退去(但し,1945年4月11日に対日断交),Portugalの公使館は,1946年1月19日に退去しています.
Croatiaの場合は,国家消滅と同時にItalyに逃げましたが,英米軍の捕虜となり,捕虜収容所に収容されました.
Swedenの日本公使館は,1945年11月1日閉鎖,翌年1月19日に帰国の途につき,Swissの日本公使館も同様に1946年1月24日に閉鎖されています.
Iranの日本公使館は,1945年1月6日の対日断交に伴い,1月27日に閉鎖,外交官は抑留,Turkeyの日本公使館は,1945年2月22日の宣戦布告で閉鎖,外交官は抑留されました.
彼等の帰国は1946年1月から順次行われ,1948年2月にSwiss駐在の外交官が最後に帰国しました.
詳しくは,淡交社から「日本・欧米間,戦時下の旅」(泉孝英著,2005.8)という本が出ていますので,ご参考までに.
【質問】
ベルギーのSS指導者レオン・ドゥグレルは,戦後どうなったのですか? やっぱり死刑?
【回答】
スペイン逃亡後は実業家として成功し,ファシズム運動の黒幕みたいなこともしていたらしい.
同じくスペインに亡命して実業家となったスコルツェニーともつながりがあったようだ.
1994年3月31日マドリッドで死去.
享年88歳.
ヒトラーと関係があったファシスト指導者の中で唯一勝ち組といっていいだろう.
【質問】
第二次世界大戦当時の西ヨーロッパ諸国の対独協力について知りたいのです.
戦車や軍用機といった軍需産業などは,ドイツ軍の軍備のどの程度を占めていたのでしょうか?
昔なんかの本でパンター戦車とか潜水艦とかフランスの工場でかなり生産されていたと読みました.
また,義勇軍としてソ連と戦った者も多かったようですが,そのあたりも教えていただきたいのです.
【回答】
一口にどの程度と言われても,相当数としか答えられません.それこそ,資料を丹念に追わないと….
一例を挙げれば,イタリアは相当数の軍用車輌を独占領時に接収されています.
が,総数は帳簿外のものもありますので,そのうち何割を占めているかは分りません.改造などで,帳簿に掲載されるものもありますが,部隊で捕獲して,そのまま自軍の装備に組み込んでしまうということもありますから.
対独協力については,北イタリアのトリノを占領したドイツ軍は1943年9月〜1945年5月までの間,同地にあるFiatで生産設備をFullに活用すべく,あらゆる事を試みますが,180機の航空機が生産できたはずなのに,実際には最初の数ヶ月は18機しか出来ず,1945年に至っては一切その機体は手に入らなくなります.
航空機用エンジンは,日産1,500台の能力がありながら,実際は300台(後には90台以下)しか生産されません.
トラックは,1945年1月〜3月,日産平均10台でしたが,うち5台は,「何とも不思議な具合に」消えていたりします.
業を煮やしたドイツ軍は,その生産設備を全てドイツ領内に運ぼうとしますが,Fiatを始めとした北イタリアの工業は,ゼネストで対抗したりしています.
フランスの場合,1940年11月の相殺協定の下で輸出入を均衡させ,通貨の移動を防ぐことになっていましたが,この協定を楯に,ドイツは一方的入超でも代金を払いませんでした.
また,為替レートも1マルク=20フラン(戦前は1マルク=10フラン)というレートを設定し,この有利なレートの中で,ドイツの各企業はフランス企業を次々買収します.
一例を挙げると,化学染料産業のキュールマン・トラストはI.G.ファルベンに支配されたりしています.
こういった買収には,フランスの銀行(クレディ・リヨネとか国立商工銀行とか)も深く関わり,フランスの各銀行は資本をこの時期に倍増させています.
自動車業界では,仏独経済関係代表団の後押しにより,ルノーの支配人ルイドゥーを中心として,自動車産業を対独協力に向けさせ,ルノー,シトロエン,プジョーは各種軍用車輌の生産を,ミシュランもタイヤ生産で協力し,各工場もドイツからの大量注文を受けています.
また,ボーキサイトは安値でドイツに売却されたり,ベルギーからの預かり資産である金を引き渡したりもしています.
1941年4月に工業生産大臣のピュシューはドイツ軍向け兵器類製造を約束し,仏独間での航空機製造計画が41年7月28日に調印されています.
こうして,1942年には航空機の100%,自動車・建設・石灰・セメント・造船の75%,ゴム・塗料・化学・織物の60%は独向け製品になっていました.
但し,石炭,鉄鋼業界は元々が競争関係であった為に,対独協力には積極的になっていません.
後にはフランスの戦力温存のために,国内全体で350万人が対独協力関係の工場に勤めていました.
敗戦後,こういった会社の内,ルノーは特に敵視され,国有化されました.
また,個人の追求も為され,ドボアチンはアルゼンチンに亡命したりしています.
ベルギーに関しては,ワロン地域のレックス党とフランデレン地域のフランデレン国民同盟によって国論がリードされます.
特にフランデレン地方は,ブルゴーニュ時代のネーデルラント17州復興を求めており,民衆にそれなりに支持を得ていました.
しかし,ベルギーには大した産業が無かったので,これと言って産業的には協力していた訳ではありません.
但し,前二党は積極的に対独協力を行ない,また,ベルギーの労働党党首でさえ,ドイツの新秩序政策を支持して,ベルギー労働党を解散してベルギー社会党に衣替えしています.
戦後,ベルギーでは,対独協力者として242名を死刑執行に処していますし,幽閉された国王の復位問題(さっさと降伏した上,幽閉中ヒトラーに面会に行ったなどが問題視された)が戦後の大きな問題となっています.
オランダについても同様ですが,こちらはベルギーの様に独立した政府があったわけではなく,占領下と言うことで否応なしに対独協力をさせられ,フォッカーは自国用の機材を完成させ,ドイツに納品させられた上,Ar196,Bu181などを生産し,Ju88用スキーなどの部品も作られています.
また,アビオランダ社ではDo24Tが継続して生産されています.
戦時の占領下による強制的な対独協力と言うことで,こちらは処刑人数は少なく,42名です.
ちなみに,フランスは779名(他に裁判抜きの処刑数が約4万人),イタリアは裁判,裁判抜きで実に10万人以上が処刑されています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
義勇軍としては,
SS第33武装擲弾兵師団「シャルマーニュ」(フランス);反共で集まってきた集団で利害関係が一致.
SS第28義勇擲弾兵師団「ヴァロニエン」(ベルギー):ベルギーのフランス系少数民族ワーロン人が,ナチス・ドイツに協力すれば,自分達の国家や自治を獲得できると信じて利害関係が一致.
SS第34義勇擲弾兵師団「ラントシュトルム・ネーデルラント」(オランダ):元は,オランダの治安維持・警備のため組織されたもの.ドイツ人達がのさばるよりは自分達が,自治をしたほうがまだましという考えで集まった.
これらの部隊は当初,実際の兵員は少数で,とても師団と呼べるような規模ではありませんでした.ネーダーラントとかはドイツ人混じってますし(笑).まあ,言ってみれば宣伝用の部隊ですね.
後に,ベルリンの国会議事堂での奮闘などで有名になりましたが,それは彼らがナチス・ドイツに協力しすぎていて,「毒を食らわば皿まで」という心境で下手なドイツ軍より必死に戦ったためです.
一般に,ドイツ占領下のドイツ系住民や少数民族,反共,現体制に弾圧されていた人達,さらに金儲け第一主義者達は,ナチス・ドイツが勝利しそうだったときには協力的でした.
負けそうになると手を引きましたが,その時点で手を引くことができなかった人達はそのまま運命を共にしました.
ドイツ占領下の国民や政府が協力的であれば,例えば戦車であれば,ドイツの戦車の台数の半分ぐらいは生産できたはずだし,フランスの人口から言えば数十個師団協力できたはずでしょう.
また,フランス海軍の戦力をドイツ海軍に組み込むこともできましたが,自沈により妨害されました.
このことを考えれば,忠誠度の低い部隊を作って,いつ寝返るか分からないよりは,民生レベルの協力にとどめておいたほうが無難だと判断したのかも知れない.
なお,ドイツ占領下などでドイツに協力した人々は,連合軍により解放されると集団リンチされたり処刑されたりしました.
また,ドイツ占領下でないようなところでも,ドイツ系の商店などは嫌がらせや投石などが相次ぎました.
【質問】
イタリア・ドイツなど枢軸国に駐留していた在外邦人は,どのような処遇がなされていたのでしょうか? 枢軸国に帰化した日本人も,徴兵や兵役が課せられたのでしょうか?
【回答】
基本的に居所さえ申告していればOKだったみたいです.
また,その生活も余り窮屈なものでなく,例えば,イタリアの例ですが,1942年4月に「ローマ日本友の会」という組織が出来たときは突然,Mussoliniが現れたりしています.
概ね,イタリア人の場合は寛容だったみたいですし,ドイツ人もそれなりに対応していたようです.
ただ,イタリア降伏の後には,イタリア駐在海軍武官や商社マンがPartisanに殺される例もありました.
詳しくは,木村裕主の一連の著書(特に「ムッソリーニの処刑」)辺りとか,ドイツに滞在していた日本人の手記とかを参照するのが良いか,と.
枢軸国での帰化は庶民レベルではなく,有名どころではクーデンホーフ・光子くらいしか居ないような….
少なくとも,日系ドイツ人ニーゲム大土木さん(ぉぃ)は居なかったはず.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
枢軸国の軍事郵便絵葉書について教えられたし.
【回答】
日本では全然知られていませんが,イタリアの軍事郵便絵葉書はドイツとも違ったグラフィカルな物や作家性の高いイラストの物も多く在り,本国では古くからコレクションの分野として確立しています.
私もRSI時代の物は欲しいけれど,市場に出物がなく,また出ても高額なので手が出なかったりするのが現状.
そんな中で少しづつ集めた絵葉書を,アルバムにまとめたものをこちらにアップしています.
http://www.photohighway.co.jp/AlbumTop.asp?key=1659455&un=97071&m=2
これ↓は,春先に入手した休戦以前のデチマ・マス海上特攻部隊の活躍を描いた絵葉書.
1942年にドイツ軍によるセヴァストポリ攻略の為に黒海に派遣されたMAS魚雷艇が,パトロール中に遭遇したソ連巡洋艦)に,至近距離から魚雷攻撃した模様を,迫力在るタッチで描いています.
こういうのも,まるで戦後のマカロニ戦争映画のポスターの様に“いかにも”で…好きですね(笑

これ↓は,1944年6月にサロ共和国側で発行されたもので,絵柄面には金槌を手にした年輩の労働者と握手を交わす,赤フェズをかぶったベルサリエリ兵が描かれ,荒廃した建物の壁にと下の赤帯に,“祖国と勝利のために働き,そして戦う”とのスローガンが書かれてます.
廃虚となった壁は,連合軍の爆撃が続く北イタリアの状況を示したものでしょうが,イタリアらしい絵柄のせいか今ひとつ悲愴感はありませんw.
右のおじさんは金槌で何をしようと言うのでしょう?

イタリア絵葉書の構図のハデさやカラフルさは,サービス精神が旺盛な国民性や南欧特有の明るい色彩感覚の影響もあるのかも知れませんね.
また,この構図には過去の宗教画の影響がたぶんにあると思います.
大好きな画家Tafuriの作品などは,明らかに数々の聖母子像絵画に引っ掛けている印象を受けます.
それにつけても〔軍事郵便葉書の〕実物は,差出し人が書かれている場合があり,これが特定の軍人や部隊だと二度美味しい思いが出来ます.
アルバムにも在りますが,ロシアに派遣された赤M部隊「タリアメント」の兵士がロシア戦線から出した,部隊検印が入った葉書などは,その絵柄面と相まって落とした瞬間“ビンゴ!”と思った一枚でした.
対して日本の軍事郵便絵葉書は,こういったイタリアの様なドラマティックな構図や絵柄は少ないかもしれませんが,日本画タッチの詫びさびに通じるいかにも日本的な絵葉書が数多くあり,これはこれで味が在ります.
そして軍事郵便葉書では在りませんが,昭和10年頃から民間の出版社が多く発行したジャンルに,兵隊漫画絵葉書があります.
さすがニッポン!70年前から得意分野は変わっていません(笑

上は,1937年の第二次上海事変頃のもので,上の陸軍歩兵部隊と下の海軍陸戦隊としっかり軍服や装備を描き別けているのはアッパレ.
被甲(ガスマスク)ケースのシステムも,これを見れば陸海軍部隊の違いが判ります.
中国兵や便衣(スパイ/ゲリラ) が『〜アル』と言っているお約束が,この当時からあったのかというマメ知識も得られます(笑).
これ以外にも漫画絵葉書では,軍隊に入営して除隊するまで訓練や軍隊生活を紹介するシリーズものがあって,これもたまに古書市に出ますが,なかなか高価でタイミングを逃しています.
藤田嗣治画伯も従軍して戦場絵画を幾つも残していますが,こちらはあまり戦後表に出ない様ですね.
手許に昭和18年8月発行のこんな写真集がありますが,表紙はシンガポール戦線で遺棄された英軍の武器や装備品を藤田画伯が描いたものです.

ドイツなら,Willrichが描いた騎士鉄十字章叙勲者の絵葉書シリーズなども,アート性が高く人気がありますね.
http://www.axishistory.com/index.php?id=4744
Willrichの描くドイツ将兵は皆,「あー,こういう顔のドイツ人っているよねー」という気にさせ,その顔つきから性格や軍歴まで滲み出てくる様に思えます.
古典ドイツ絵画が好きな私は,このいかにもデューラーの系譜の様なWillrichのタッチが好きですが,これまたしっかりしたマーケットが全世界にあって実物はなかなかに良いお値段(泣
今は控えています.
それにしても絵葉書を見るだけで,日独伊三国の国民性が垣間見えて面白いものがあります.
よしぞう(maro') in mixi,2006年06月10日16:29
〜2006年06月12日 23:16
▼ 軍事ネタの絵はがきが掲載された記事を友人に見せたところ,「自然物の省略技法がほぼ現代の物に近い」という指摘がありました.
「描画の技法やマンガでの物語表現などはすでに戦前にその萌芽があったものの,マンガにとって戦中期は受難の時代で,戦争が終わってみれば過去の作品は(紙の供出があったことなどから),物理的な参照もままならなくなってしまったために,我々はそれを参照できないだけなのだ」
という話を,夏目房乃介さんがマンガ夜話でやっていましたね.
映画界の話ですが,これに似た状況は,蓮實重彦が次のように述べています.
<quote>
たしかに「なんでも見られる状況になった」といっていますが,その言葉は明らかに正確さを欠いています.
ごく単純に,映画史的には「なんにも見られない状況」がなおも続いているからです.
ジョン・フォードの作品だって,見られないもののほうが遙かに多い.
プリントがなくなっていればDVDにしようもないし,プリントが存在していてもDVDが出ていないものだって少なくない.
溝口健二だって,1920年代に撮られた作品はほとんど見られません.
小津もプリントが残っていない作品が十数本もあります.
『狂恋の女師匠』(1926)も知らずに溝口を語り,『美人哀愁』(1931)も見ぬまま小津を語らねばならないという悲惨な現実に,ひとびとはあまりにも楽天的すぎると思います.
</quote>
これをマンガに当てはめて考えれば,戦後のマンガの原点は手塚治虫であるという物の言い方は,手塚治虫の原体験となった作品群を見ずに手塚を,あるいは戦前のマンガの表現を語ろうとするものであり,正確さに欠けると言わざるを得ないと考えます.
恐るべきはそれを体得して自らのものとし,分断の時代を乗り越えてマンガという表現を復活させたその記憶力と集中力にあり,その意味ではいまだ手塚を超える漫画家は出てきてはいないのかもしれません.
クローム・ツァハル in mixi,2008年08月25日17:04
▲
【質問】
ソ・フィン戦争が起きたのは,フィンランドの外交ミスなのでは?
【回答】
フィンランドの情勢判断が甘かったのは事実だな.
まさか無茶な要求を断っただけで,ソ連軍が侵攻してくるとは思わなかったのだから.
結果はさらに無茶な領土割譲を受ける羽目に.
とはいえ,善戦によるソ連軍への出血と,余力があるうちの講和によって,最悪の事態(傀儡共産政権の樹立)を避けたのは評価しても良いかと.
ただ,ソ連も冬戦争開始の翌日に傀儡政権を作ったりしてるから,元々カレリアだけで満足するつもりじゃなかったんじゃねえの?
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ソ・フィン戦争でフィンランドが善戦したのは,フィンランド兵の勇戦のおかげ?
【回答】
戦闘においてフィンランドが寡兵よく勇戦したのは事実だが,運が良かったんだよ.
開戦後二週間も悪天候で空軍は動けず,湖は凍らずで攻められない.
その後は急激に寒波が襲い,凍死者続出.
冬戦争を通して赤軍の人的被害の8割が凍死・凍傷という有様.
赤軍が勝手に自滅していったんだよな.
フィンランドの勇戦より,最大の味方はソ連の拙い計画だったということ.
国防人民委員ヴォロシーロフが,スターリンに
「貴様の粛清のせいでこうなったんだ!」
と怒鳴ったのは有名な話.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
フィンランドの独立死守は,その犠牲に見合ったものなのか?
【回答】
色々な考え方があるだろうが,ここに一つの意見を紹介しておく.
死傷6万,これがフィンランドが起こした二度目の奇跡「流血の夏」の代償であった.フィンランド軍が,1941年6月25日に勃発した4年に渡る継続戦争でこうむった人的損害は21万1191名,うち戦死者は6万4120名.その3分の1近くがわずか2ヶ月の戦闘で倒れたのである.
1939年11月30日に勃発した「冬戦争」から,わずかな休止期間を経てふたたび起こった「継続戦争」,そしてその後,ソ連の強要でフィンランド国内からドイツ軍を駆逐するため起こった「ラップランド戦争」での死者,行方不明者の合計は8万5555名.フィンランドの出産による人口の自然増の5年分に当たる数字であった.
また,その3分の2近くが20歳から39歳という年齢層の男子で,これは後々までフィンランドの年齢別人口構成に影響を残した.
さらに,5万人あまりの人々に戦傷による障害が残った.
だが,フィンランド軍は最終的な勝利を得ることができた.ソ連との休戦で枢軸側から連合軍側に寝返ったので戦勝国になったという意味ではない.
第二次世界大戦を戦ったフィンランドの戦争目的は終止,大国の間に挟まれた自国の独立を守ると言うものであった.
フィンランドは見事に独立を守り通すことができた.
欧州の参戦国の中で,自国を他国の軍隊に占領されなかった国は,英国とフィンランドだけなのである.
とはいえ,国家の独立とは,これほどの犠牲に値するものなのであろうか?
その回答の一つは,戦わずにしてソ連に屈したバルト三国の運命に見ることができる.三国とも,ソ連政権下において,数十万人が処刑または,シベリアへの流刑,あるいは強制移住を強いられ,さらに二度にわたって独ソ両軍が戦う戦場になり,ドイツ軍治下の時代にはソ連政権に与した国民と,ユダヤ人が大量に処刑された.
そして,戦後ふたたび帰ってきたソ連政権は,大戦中ドイツに協力した人々を弾圧した.
1940年のソ連による併合から,1945年の終戦に至るまでに,死亡,流刑,亡命などで三国から流出した人口は合計200万人近くに達する.
(梅本弘著「流血の夏」P,404〜405より)
これ
http://www04.u-page.so-net.ne.jp/dc4/startrek/fin.htm
を読むとなあ,
確かにフィンランドの戦いって
「一人で血だらけになって頑張っても,持っていかれるものは持っていかれてしまう」
という辛い話だよ.
のび太とジャイアンみたいな・・・
でもだからって
「さっさと戦わないで言うとおりにしましょ」
っていえるかなあ?
しかもさあ,1932年に結んだ不可侵条約がありながら
「フィン公が言うこときかねんならやめだ!」
って破って1939年に攻め込んできたのはソ連だぜ.
不可侵条約を基礎に,緩衝地帯を設けることだって出来ただろうに
レニングラードがどうとかこうとか知らないが,フィンランドとしてはまずは受けて立つしかないでしょう.
冬戦争の対戦車戦闘

【質問】
ユニティー・ヴァルキリー・ミットフォードって誰?
【回答】
ユニティー・ヴァルキリー・ミットフォード(1911〜1948)
英国の名門ミットフォード家のナチスιょぅι゛ょ.
エヴァが嫉妬して自殺未遂するほどヒトラーと仲良しだった.
ユニたんがあんまり英独友好を説くので,ヒトラーもイギリスは宣戦してこないような気になってしまい,調子に乗ってポーランドへ攻め込んだ,という説あり.



余談だが,ミットフォード家にはユニティの他に,5人の姉妹がいた.
長姉ナンシー・ミットフォード(1904〜1973)は,姉妹の中で一番頭がよかったらしい…
ただし,フランス流に皮肉とエスプリの神に愛されたナンシーは,ド・ゴールの片腕と言われた自由フランス軍のパレフスキー大佐と恋に落ちる.
大佐とは結局破局したが,パリに住んで,恋愛小説家としてベストセラー作家となった.



ミットフォード姉妹の次女がパメラ・ミットフォード(1907〜1994),通称パム.
アカ,ナチ,不倫,カエルと恋愛,等々波乱だらけのリーズデイル男爵ミットフォード家にあって唯一,田園を愛する女らしい女.
娘たちをあまり愛さなかった母親に代わって,姉妹の母親役になったという.
結婚相手もケンブリッジの超一流の科学者だった.
つか,この人慎まし過ぎて写真が見つけられない.
本で読む限り一番萌えキャラなんだけどな.

3女ダイアナ・ミットフォード(1910〜2003)は,ギリシャ彫刻の如き美貌で早くから社交界の花となり,大富豪と結婚するも,英国ファシスト党党首オズワルド・モズリーと不倫.
その後,モズリーと一緒に投獄されたり,再婚してレディ・モズリーになったりした.



4女が上述のユニティ.
5女がジェシカ・ミットフォード(1917〜1996),通称デッカ.
ユニティーと一番仲良しだったが,この人はアカに走った.
共産主義者エズモンド・ロミリーと駆け落ちし,スペイン内戦に身を投じる.
ロミリーが戦死した後はアメリカへ渡り,資本主義社会を批判する書物を次々と著してベストセラー作家となる.
彼女たちの部屋にはハーケンクロイツとハンマーと鎌が溢れ,ヒトラーとレーニンの写真がせめぎあい,お互いに国境線を引いてアカめナチめと罵り合っていたという.
なんつう家庭だ…



ミットフォード姉妹の末娘がデボラ・ミットフォード(1920〜),通称デボ.
2007年現在,姉妹の中で唯一存命,
お騒がせファミリーの語り部である.
この人もわりと常識人で,ちゃんとイングランドの貴族と結婚した.



下の写真は,リーズデイル男爵2世デイビッド・フリーマン・ミットフォード(1878〜1958)
ヤクザすぎる娘たちを持ってしまった可哀想な人.

ついでに言うと,彼女らの爺さんが,『ミットフォード日本日記』(講談社学術文庫,2001.2)を書いたAlgernon
Bertram Mitford.ハラキリや忠臣蔵を欧米に知らせた人物です.
切腹を目撃した初めての欧米人でもあります.
◆◆◆ヴィシー・フランス
【質問】
WW2の時の独の傀儡政権,仏ヴィシー政府のペタン元帥は,どうしてドイツに加担していたのでしょうか?
この人って,WW1の時のソンヌの戦いのペタンさんと同じ人ですよね?
ドイツから強要されて無理やり操られていたのか?
それとも保身のために進んで国を売ったのでしょうか?
先の大戦でソンヌを死守したほどの人に,フランスへの愛国心がなかったとは思えませんし・・・
【回答】
(1)
ペタンはWW1の司令官として近代戦の惨禍を知り尽くしていたが故に,無益な抵抗を避けようとした.
本人的にはドイツに加担するのではなく,フランスが戦場になるのを回避し,出来るだけ中立の立場をとろうと考えていた.
そして,それはドイツ側の思惑と合致していた.
フランスが休戦した時点ではフランス海軍と植民地は無傷であったため,それらがイギリスに合流する前に,ある程度の主権をもつヴィシー政府のもとに中立化させるという戦略であった.
ペタンは愛国者としてフランスを守ろうとしていたし,そこをうまくドイツに利用されたということだな.
(念のためにいっておくが,ヴィシー政府は実際には本物の中立ではなく,色々な面でドイツに協力している)
なお,ヴィシーはイギリス以外の国には承認されていた.
(2)
おいらは別の視点で回答するよ.
そいつを不思議に思うこと自体を疑って見るのもありだよ.
何故,愛国心を持ったフランス人=反ドイツではなかったのか?
現在の日本の歴史教育では,正義の連合国対悪の枢軸国と言うレッテルを貼りがちだけど,当時の人間の視点から見れば,ただの帝国主義国同士の戦争に過ぎなかった.
ドイツ軍の作戦に敗れたフランスは,一部の例外を除いて(ドゴールなど),ドイツに降伏しただけと考えていたんだよ.
また,ドイツもフランスを領土にしようと言う意図などなく,降伏した新しいフランス政権と手を結んで,イギリスと講和しようと考えていた.
だから,当時のフランス人の中には,ドイツ将校などと友好的に付き合う人間もいたんだよ.(シャネルなどが有名)
ただ,連合軍がフランスを”解放”したあとは悲惨な目にあった人間も少なくなかったんだけどね.
結局イギリスに渡って,抵抗運動を呼びかけたドゴールが,戦後英雄になったんだけど,戦争中は不審を唱える人間も少なくなかった.
アメリカのルーズベルトなんかは,選挙に選ばれたわけでも無い人間を国の代表と言えるのかと,非常に不信感をあらわにしている.
でも,戦後連合国が勝利してからは,都合の悪い事は全て報道や教育方針によって忘れられてしまった.
フランス国民を「ドイツに占領され,人権を奪われていたかわいそうな人々」ということにしておかないと,連合軍が「解放」した事にならないからね.
実際にはペタン政権を支持していたフランス人が大半と考えられている.
ドイツなんかでは,ナチスそのものを議論することを,法律で禁止しているくらいだ・・・.
フランスの歴史教育は,自国の都合もあるだろうけど,連合国がそれを容認したと言うのもまた事実.
占領するものが占領されるものの教育(や思想)をコントロールしようとするのは,いつの世も行われてきた事.
レジスタンス神話などはその典型例だろう.
米英にとっては共産主義圏との戦いのためにフランスとの関係は重要だったし,フランス側にとってみれば,ドイツと積極的に戦っていたとアピールする方が,自国の安定や復興に都合が良い.
つまり連合国の利害は一致していたわけさ.
で,それを推進するようにプロパガンダが流された.
もっともこれ自体は,近代国家には良くあることだから,フランスだけが特別じゃないけどね.
(3)
私はもそっと違った視点から.
そもそも戦前のフランスでは,
「ヒトラーと組んでもいいからアカをやつけようぜ」という右翼と,
「スターリンと組んでもいいからファシストをやつけようぜ」という左翼が,
ガチンコで対立していました.
で,大多数の国民は日和見.
フランス国民が敗戦にショックを受けないわけありません.
が,その中で左翼がショボーンとなってしまったのに対して,右翼は,まあ元からの主張が主張だから,「反共」を軸としてドイツと結ぶ余地があったわけです.
そこに(1)のような理由で乗った・乗せられたのがペタンな訳で.
さらにそこに日和見がワッと乗っかった,というのが,「フランス人はペタンを支持した」という説の真相.
ド=ゴール?
彼は右翼の中でも「ナチもアカもフランスの敵じゃ(゚д゚)ゴルァ!」というはねっかえり.
だからドイツに負けるのが我慢できずに戦い続けた訳で.
フランスの解放というのは,逆にドイツ軍が敗退して右翼がショボーンとなったところに,ド=ゴール主義者と左翼が勢いづき,日和見がそっちに乗り換えた,という構図ですね.
ゆめゆめ,「フランス人」というものを1個の生命体のように考えないように.
「戦後都合の悪いことが抹消された」というのも,それぞれの立場で異なる訳で.
ド=ゴール主義者は「輝かしい我等の勝利」を強調したいのは当たり前.
右翼は「ドイツ協力の過去」を隠したいのは当たり前.
日和見は勝者となったド=ゴール主義者に同調するのは当たり前.
(ちなみに,右翼は戦後ド=ゴール主義に吸収されていく)
左翼は?
左翼は大いに不満を持っておりました.自分達だってド=ゴール派とは別個に抵抗運動をしていたのに,その手柄を全部ド=ゴール派にもっていかれたからです.
だから彼らはド=ゴール主義者以上に「頑張った俺達」をアピールしたい.
戦後フランスの歴史観はこういう価値観の相克の中から生まれたもので,
『フランス国民を
「ドイツに占領され,人権を奪われていたかわいそうな人々」
にしないと連合軍が「解放」した事にならないから』
なんて簡単なものじゃないんです.
というか「連合国の都合」なんて関係ありません.フランスの歴史観はフランス国内の問題でした.
それから
「ただ,連合軍がフランスを”解放”したあとは,悲惨な目にあった人間も少なくなかったんだけどね」
などと言っても,ドイツ占領時代に悲惨な目にあった人間のほうがずっと多いことは言うまでもありません.
(ナポレオン ◆vYVYAtFe0o)
>「連合国の都合」なんて関係ありません.
んー,戦後の冷戦構造の中で,フランスの内部の歴史観なんかどうでもいい勢力ってのがいるでしょ?
しかもそういうのがね,英語帝国主義とともにのさばっちまったから,English
Speaking Country に対する内向けの理由付けとして
「連合国は正義の味方 ドイツは悪,フランス国民は無力な羊」
はあるですよね.
ほんでもって日本に入ってくる情報は圧倒的に英語情報だったし.
英米でも「解放軍に手を振るパリ市民」は思いっきりプロパガンダに使われてきた.
最近になるまで,連合軍に冷たい対応をしたノルマンディー人の事は,タブーのようにみんな語らなかったりした.
だから
>戦後連合国が勝利してからは,都合の悪い事は全て報道や教育方針によって忘れられてしまった
はある意味事実でしょうね.
外向けではなく,チャーチルとアイゼンハウアーの「国内向け」プロパガンダだったんだよ.
それからBBCの歴史セクションを見れば,今のイギリス人がどんな情報に接してるのかわかるだろう.
そこにはほとんどフランスのフの字もないのですよ(見出しだけで十分察しがつくはず)
第二次世界大戦は英米ではいまだに自国向きの政策でしかないんです.
めちゃめちゃ内向きでしょ?
(◆6hgEmzypp2)
【質問】
ペタンはWW1の司令官として近代戦の惨禍を知り尽くしていたが故に,無益な抵抗を避けようとした.チャーチルやド=ゴールといった,いわば好戦的ともいえる人々が英雄視される風潮が作られた中で,ペタンのような人は評価されなかった(評価を認めなかった)といえる,ということでしょうか?
【回答】
無用な抵抗というより,賛同したんだよ,ペタンは傀儡になる事に賛成した.
ユダヤ人差別も従来と何ら変わりない(フランスのユダヤ人差別)
ドゴールも差別的な男だったが,「自分の権力が欲しい」から外に出た.ドイツの下で使われるのがいやだっただけ.
チャーチルについては,ドゴールやペタンと一緒に論じられるにはバックの政治状況が違いすぎ.
【質問】
ヴィシー・フランスの発行した国債について教えられたし.
【回答】
1940年6月22日,フランスはドイツに降伏し,24日にイタリアに降伏します.
これにより,フランスは南北に分割され,北部はドイツの占領下に置かれ,南部はニース周辺をイタリアに割譲し,その他の地域は自由地帯として,フランスが無制限に主権を行使できる事とされていますが,実際はドイツの監視を受ける事になってしまいました.
政府はパリから温泉都市ヴィシーに移転し,7月10日には憲法的法律が可決されて,議会は開会される事はなくなり,第三共和制は停止します.
1942年5月にドイツの警察がヴィシー政府の自由地帯での活動を行い,反独活動を取締り始め,11月8日に連合軍が仏領アフリカに上陸すると,11月11日には自由地帯全域がドイツに占領され,国家主席Henri
Philippe Ptainは親衛隊の監視下に置かれ,政府主席には親独派Lavalが就任して,文字通りヴィシー政府は傀儡政権に堕した訳です.
1940年から北部地域はドイツによる占領が行われていましたが,その占領経費は,全てフランス持ちでした.
1940年8月に,ドイツは1マルク=20フランの固定レートで1日辺り2,000万マルク(4億フラン)を10日ごとに前払いする様に求めました.
流石にこれは篦棒(べらぼう)な数字なので,1941年からは1日当り3億フランに削減しますが,連合国のアフリカ上陸によって,地中海沿岸の防備費用が追加され,1日5億フランに値上げされます.
また,イタリアに対しても,月額10億フランの賠償を支払っていましたが,これはイタリア降伏後,ドイツに付け替えされました.
1942年に,ドイツにフランスが支払った占領費と賠償金は1,690億フランで,これは国家予算1,420億フランを上回っています.
更に,そのレートでフランス内の非占領地,自由地帯,海外領土からの物品の買い付けを増大させ,結果的にドイツのフランスに対する清算債務は,1944年8月末には85.3億マルク(1,633.2億フラン)と言う膨大なものになっています.
こうした財政を賄う為,ヴィシー政府も国債を発行しています.
この国債は,1942年に発行された60年満期の3%利付国債で,1946年1月以降額面で繰上償還が可能と言う条件が付いていました.
1942年5月末〜1944年末までのヴィシー国債の日次平均価格は,額面の99.51%と比較的堅調で,第三共和制時代に発行されていた3%永久国債と余り変わらない金額(と言っても,3%永久国債は額面の101.46%ですから,額面割れはしていますが)で取引されています.
この価格安定傾向は株式市場でも続きますが,これは,占領下で購入できる物資が無く,だぶついた資金が,株式市場や債券市場に流れ込んだからと考えられています.
ただ,投資家の判断は,二つに分かれ,ヴィシー政府の将来性を信じられない投資家ほど,政府証券よりも工業株式を選好する傾向にあり,将来性を信じた投資家は債券市場で政府債券を購入する傾向にあったようです.
占領下にあったパリ取引所は,ドイツ軍の管理下に置かれ,理事長はライヒスバンクから任命されました.
その取引所の1日当りの国債売買高は,1941年中は1,500〜2,000万フランでしたが,翌年からは減少を続け,1943年にはリヨンの取引所の方が売買高を上回る状況にありました.
1944年4月以降は,連合国の空爆の活発化で取引所の機能が低下した上,連合軍が上陸し,占領地を拡大するとその占領地で通用する通貨を発行すると言う噂が流れた為,売買高は更に減少します.
1942年9月までは,ヴィシー国債は,第三共和制の3%国債の価格を上回っていました.
これは第三共和制が霧消し,償還確実性が不安視されたものです.
ドイツがオーストリアを併合した時には,その国債はデフォルトされてしまったから,今回も同じ様な事をするのではないか,と言う警戒感があり,更に,Lavalの登場がその見方に拍車を掛けました.
1942年9月からは,連合国優勢になりますが,これに合わせるかの様に,ヴィシー国債と第三共和国の3%国債の価格は拮抗していきます.
決定的になったのは D-Day後ですが,この時期は,どの様な政府が政権を担当するのか判りませんでした.
共産主義的なレジスタンス政府なのか,De
Gaulleの自由フランスなのか,ヴィシー政権の誰かによる政府なのかによって,その国債の償還は大きく異なります.
ヴィシー政権の誰かであれば,ヴィシーの国債が継承され,第3共和制の国債が償還される可能性は低くなり,De
Gaulleだとヴィシーの国債は償還されない可能性が高くなります.
皆が固唾を飲んで見守っていると,1944年6月26日に,連合国は先ず占領通貨の発行を決定しました.
即ち,ヴィシー国債は敵国の国債と見なされ,償還確実性が著しく低下する可能性が高くなる訳です.
この為,債券市場では,フランス人がドイツ敗退の期待から,今まで退蔵していた現金で第三共和制の国債を買い始め,3%国債の価格は,6月27日から額面を上回る様になります.
この時,De Gaulleは,未だ米国の承認を受けていません.
しかし,彼は着々と事実を積み重ね,共産党との暗闘にも勝利し,8月25日に彼はパリに入城.
9月9日には共和国臨時政府はパリに復帰して政務を執り始めます.
此の間,ヴィシー政府は流浪の旅を続け,9月7日,ジークマリンゲンに避難しました.
誰の目にもヴィシー政府の復帰の目は無くなった事が判ると,9月4日以降,その国債は急坂を転げ落ちる様に,額面以下となり,以後価格が低下し続けていきました.
10月23日に米国がDe Gaulleの共和国臨時政府を承認すると,最終的に第三共和制の一応の継続が明らかとなっていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月10日22:36
【質問】
第二次大戦中,フランス軍は何をしていたんでしょうか?
ドイツ軍に併合が妥当だと思うけど戦争映画ではそういうシーン見た事ないし・・.
大戦中,首都も軍隊も無傷でやり過ごしてたたりして.
【回答】
もしあなたがフランス兵なら,お好きなコースをお選びになれ(?)ます.
(Aコース) 捕虜・接収コース
ヴィシー・フランスは中立国ですから併合は有り得ませんが,ドイツ軍が接収した装備は有効に活用されてます.
また,ドイツ軍の捕虜となったフランス兵のうち,約100万名弱が,ドイツの工場などでの労働を強いられました.これはソ連邦人,ポーランド人の次ぐ数字です.
たとえば1942年11月の時点では,ソ連邦人160万人,ポーランド人130万人,フランス人捕虜93万人が,ドイツ国内で雇用された労働者として記録されています.
(Bコース) ヴィシー・フランス軍コース
ヴィシー政権下でも規模は縮小されたもののフランス軍は存続し,非占領地域や植民地の警備などを行っていましたので,これに残留することができます.
特にフランス海軍はほとんど無傷の状態で残っていました.
1940年7月には,アルジェリアにいたフランス艦隊を英海軍が攻撃するメル・エル・ケビル事件が起き,1000人以上の死者が出ました.
このことによりフランス軍の反英感情は強まり,まだ無名だったド・ゴールの自由フランス軍への志願者が激減しています.
その後も失敗に終わった英・自由フランス連合軍によるダカール上陸作戦や英軍のフランス領シリアへの侵攻など,いくつか英仏間で戦闘が起きています.
また,これと並行してド・ゴールの働きかけにより,海外領土に駐留していたいくつかのヴィシー政府軍は自由フランス側についています.
1942年,米英ス軍によるアルジェリアとモロッコへの上陸(トーチ作戦)が開始され,短期間の戦闘の後北アフリカのフランス軍は停戦に応じました.
この後,ドイツはフランス本土の陸軍を解体させ,さらにトゥーロンのフランス艦隊主力が自沈したことにより,ヴィシー政府軍は事実上消滅しました.
(Cコース) 自由フランス軍コース
ダンケルクから脱出できたフランス兵は,ロンドンでドゴール首班亡命政府の下,自由フランス軍に入ることができます.
ただし,当初は8千人ほどしかおらず,チャーチルからは信用されず,後に北アフリカへ追いやられます.
また,ドゴールは一介の陸軍大佐に過ぎませんでしたので,植民地軍やフランス海軍への影響力はあまりありませんでした.
フランスにとり残された場合でも,レジスタンスに参加することができます.
しかし,正当な政府や真当な市民,企業や地域社会は積極/消極的に対独協力していますので,VEデーまでは社会的少数者として生きなければなりません.
(Dコース) SS志願コース
もしドイツ系フランス人なら,SSフランス義勇兵に志願することができます.
ただし,戦争末期から戦後にかけて,かなり悲惨な目に合う可能性がありますので,注意が必要です.
【質問】
フランスのファシスト団体「火の十字団(クロワ・ド・フー)」と「アクシオン・フランセーズ」ですが,党首は誰ですか?
モーズリーは有名なのに,こっちは団体名しか聞いたことがありません.
ドイツがフランスを占領した後は何をしてたんでしょうか? ナチスに協力したのか,それとも鉄衛団の如く潰されたのか・・・
【回答】
クロワ・ド・フの団長はラ・ロック(1886〜1946)で,彼はフランス軍の中佐です.
そして,1931年にクロワ・ド・フを創設して団長となります.
しかし,1936年,愛国同盟解散後はフランス社会党(PSF)を創設し,ドイツによる占領後はレジスタンスに関係して,ペタンの政権に加わらず,1943年にドイツ軍によって逮捕,ボヘミアに連行されてしまいます.
また,クロア・ド・フはペタンを支持しますが,独裁政党への参加は拒みます.
このため,1940年8月に,フランス戦士団が創設され,クロア・ド・フの幹部はこの団体の幹部になります.
しかし,この団体も反独的傾向を持ち,ラヴァルによって解散させられてしまいます.
王党派「アクシオン・フランセイズ」のほうは,
1898年にフランスの右派論客が評論誌「アクシオン・フランセイズ」を創刊
翌年,王党派の文人シャルル・モラス(1868-1952)が参加,組織の中心的人物となり,「共和制打倒,王政復古,カトリシズム,ドイツへの報復」がモットーになります.
1905年に参加者が増え政治団体「アクシオン・フランセイズ同盟」を発足し,このころ参加したレオン・ドーデ(「最後の授業」の作者アルフォンス・ドーデの息子)と共に,モラスが同盟を指導していきます.
1908年日刊紙「アクシオン・フランセイズ」を創刊,以後,機関紙として1944年まで発行されていました.
政治団体としてのアクシオン・フランセイズですが,第一次世界大戦に一時的な盛上りをを見せますが,もともと知識人によるエリート向けの組織であり,労働者階級にはウケが悪く,議会でも少数派でした.
しかし「アクシオン・フランセイズ」紙による共和国の腐敗の報道,1910年頃から暴力組織「カムロ・デュ・ロワ」(もとはアクシオン・フランセイズ紙の売り子)に共和国派や左翼をボコらせるなど長期に渡って活動的でした.
モラスは第二次大戦前でも主戦派,反ドイツでしたが,ペタン政権成立後,元帥支持を表明,「アクシオン・フランセイズ」紙も反共,反ユダヤ,反レジスタンスを論じて,次第に反ドイツは影をひそめてきました.
レオン・ドーデは42年死去,シャルル・モラスはフランス解放後,「対ドイツ協力者」として終身刑になりました.
【質問】
第2次大戦でドイツ軍がフランスを制圧した後,駐留していたドイツ軍将兵と交際のあったフランスの女の子達がいたそうなのですが,彼らはどういったきっかけで知り合うことが出来たのでしょうか?
占領軍と地元住民とでは余り接点が無いと思います.ドイツ語とフランス語の言葉の壁もありますし.
【回答】
占領下のフランス,特にパリは前線から休暇で戻った兵士の休養地とされていた.
さらに,ヴィシー政府との関係から,戦争前半のドイツは比較的穏健な占領政策をとり,兵士は紳士的に振舞うことが求められていた.
また,為替レートはドイツ側に有利にされており,それゆえに兵士は多くの金を遊興やショッピングに使った.
羽振りのいい「お願い」すれば香水やらドレスやらを買ってくれる若い兵士が街にあふれたら,まあどういう状況になるかは決まったようなものだよな.
言語の問題は「かっこいいドイツ兵さんこんにちは」程度が喋れれば問題なし.
60年前の日本だってそうだったし.
【質問】
博覧会列車とは?
【回答】
日本でも其の昔,象列車と言うのが運行された事がありましたが,それとは異質な列車の話です.
1940年,フランス政府は崩壊し,ドイツとの停戦を受容れ,政府はヴィシーに移動して,ペタン政権が発足しました.
一敗地に塗れたフランス国民に自信を取り戻させる為,そして,世界に飛躍するフランス「帝国」のエッセンスを広く国民に知らしめる為,政府が行ったのが,「海外フランス週間」,そして,「帝国15日間」と呼ばれる植民地も含めた全国的な行事でした.
この行事は博覧会も伴っていたのですが,フランスは国土を分断占領されていた上に,移動の制限があり,国内に博覧会場を造営し,運営するのが困難でした.
この為仕立てられたのが,「博覧会列車」と呼ばれるもので,フランス国鉄が戦前に有していた車両のうち,機関車の20%,客車の42%,貨車の60%が失われ,人員も払底していた時期に,この列車が運行されたのは,政府としてもこの行事を最優先事項としていたからに他なりません.
最初の博覧会列車は7月後半に非占領地区と海外領土で予定されていた「帝国週間」に合わせ,1941年6月下旬に,パリ郊外の国鉄操車場にて準備が開始されました.
これにドイツ軍占領当局が掣肘を加えた形跡はありません.
国鉄の要員以外は,植民地庁からの監督ともう1人の官吏,戦間期から植民地でのプロパガンダ事業を行っていた海洋・植民地連盟(LMC)の要員1人,それに付いた秘書1名と,「フランスの仲間」,「青年錬成所」から派遣された要員10名が其の全て.
この体制で,1ヶ月の間に展示品の準備などを進めた訳です.
予定された行程は,「海外フランス週間」(帝国週間から改名…これは多分にシリア戦線での対英戦敗退が原因と見られる)開幕日にヴィシーを発車し,8月15日に至るまで,アルビ,モントーバン,ポー,タルブ,ペルピニャン,ニーム,アルル,エクス・アン・プロヴァンス,グルノーブル,シャンベリーを各都市2〜3日の滞在で巡るというものでした.
更に,この行程は,低アルプス地方の4都市に延長され,最後は占領地区のボルドーに向かい,9月初旬に此処で展示して終了となりました.
大都市ではなく,中小都市での展示が多かったのは,「海外フランス週間」の催しの対象が,主要都市以外の住民を対象としたものだったからと言われています.
さて,この列車の中には何が展示されていたか….
1号車には,入った所にペタン元帥の肖像が掲げられ,其の前で「青年錬成所」の青年が受付をしており,その脇のカーテンを潜ると展示室に入れます.
展示室にはペタンを筆頭に,ダルランやプラトン,及び植民地史上の英雄達の肖像とか彫像が並べられています.
これは,今の帝国の土台が現政権指導者の内,植民地や海軍関係者と過去の英雄を覚えさせようと言うもの.
2号車のテーマは,アフリカ大陸の芸術品と公共事業で,芸術作品は,アフリカを制圧する過程で,各部族から分捕り,或いは送られた木彫細工,象牙細工,陶磁器,金銀工芸品,仮面などがあり,公共事業は,アルジェリアからサハラ砂漠を越え,ニジェール河畔デルタを経て,ダカールやギニア湾岸へと至り,地中海とフランス領アフリカを直結するサハラ縦断鉄道の建設状況と計画が地図パネルや写真,鉄道模型などで紹介されました.
これは第三共和制政府が実現出来なかった物で,これを建設していると誇示する事が,旧政権に対するヴィシー政府の優越を表していました.
3号車のテーマは,同じ植民地でも今度はインドにある植民都市とマダガスカルで,インド洋を一望しようと言う意図が込められていました.
これには木製彫刻,鼈甲細工,布製品,銀製品,絵画などの芸術工芸品が中心の展示です.
4号車のテーマは,アフリカ,インドと来たら,極東アジア.
インドシナの安南貴族の生活を彩る金属器や木工品が展示されていました.
最後尾は5号車で,これは海洋・植民地連盟(LMC)の宣伝用車輌で,工芸品や動物の剥製を並べて通俗的な異国趣味と植民地観を補強する役割を果たしていました.
総じてフランスが当時置かれていた現状から目を背ける様な仕掛けが為されており,そこには敵の存在すら片鱗も感じさせない様になっていたりします.
逆に,敵の存在を出さない事が,体制の安定を示していたりする訳です.
此の列車の展示を見た人は全体で4万人であり,訪問都市総人口の13%程度でした.
娯楽の少ない小都市ほど,この列車への入場者数が多かったりするので,イベントとしてはまずまずの成功だった様です.
第2回目は,1942年5月に開催された「帝国15日間」に合わせ,運行が計画されました.
今回の列車の目的は,エリート青年達の関心を海外植民地の職業に向ける事でした.
そこで今回はリール,ナンシー,ディジョン,クレルモン・フェラン,サン・テチエンヌ,リヨン,エクス・アン・プロヴァンス,モンペリエ,トゥールーズ,リモージュ,ポワチエ,ナント,レンヌ,カン,ルーアンと言う大学都市を巡る事となり,占領地区と非占領地区を何度も越え,しかも北東部国境地域の移動制限地区に迄入る行程となりました.
博覧会列車の構成は,地域別の構成から,機能的分類から帝国を一つの全体性として展望する表現に変ります.
1号車は,帝国の存在の土台として陸海軍の歴史が全面に打ち出され,リヨテ,ジョッフル,マルシャンなど植民地征服史上の歴史上の英雄と,軍艦模型や武器が示され,昨年に展示されたペタンを筆頭とする現政権指導者が退場させられています.
これは,1942年,既にヴィシー政府に対する国民の失望と反感が明らかになってきた事や,占領地区は非占領地区に比べて,ペタン崇拝感情が弱かった事に配慮した結果でした.
2号車は,高等教育の学生向けに,植民地での行政,司法,警察,公共事業,財務,税関業務などの公務を紹介し,知的エリートの職業的関心を喚起すると言うものとなりました.
3号車は,通商と農業と言うテーマで,森林と林業,原住民の芸術・工芸,通商と農鉱業の3つのセクションに分けられ,通商と農鉱業の部では,パーム油,蝋,綿花,ゴム,麻など農産物の見本や,虎や蛇の皮,木工品や布製品が展示されました.
4号車は大規模開発事業で,鉄道,道路,港湾などの土木事業と工業の模型,写真パネルでの説明.
この目玉は,サハラ縦断鉄道と共に雲南鉄道も紹介されています.
なお,3,4号車の経済事項の解説では図版やグラフも多用されています.
5号車は,再び海洋・植民地連盟(LMC)の宣伝用車輌で,LMCの紹介と,植民地経済機関(AEC)関連の書籍販売コーナー,植民地切手コーナーが設けられていました.
乗務員は,列車の監督を始めとする植民地経済機関(AEC)の官吏,LMCの人員,陸軍植民地部隊と海軍の人員で構成され,特に植民地部隊に所属する4名の原住民兵士の存在が異色だったりします.
第2回の運行も好評で,各都市での開幕式には知事,市長,商工会議所長,地元LMC会長,軍の高官に加え,占領地区ではドイツ側の代表が姿を現す事もありました.
2ヶ月の運行により,12万2千人を動員し,内半分以上は学童で占められました.
この好評により,秋以降もこの博覧会列車運行は継続される事となります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/07 21:37
1942年初夏の「博覧会列車」運行の後,これを継続する事が決定され,1942年10月から12月まで,パリ郊外のイル・ド・フランス地方の27の都市を回り,1943年1月から2月はパリの5つのターミナル駅での展示が決定されました.
列車の運行は,滞在初日の朝から丸2日もしくは3日目の夕刻まで開場し,夜間に移動して,翌朝にはその次の都市で開場すると言うスケジュールが立てられました.
乗務員は,前回同様に植民地省,陸海軍,LMCから構成され,展示内容については,前回の運行で就職情報を求める学生の見学者数が限られていることが判明したのと,今回は大学都市を巡る訳ではないので,職業案内関係の展示は縮小され,人気のあった陸海軍関係の展示が1号車だけでなく,2号車にも拡大されました.
まぁ,陸軍と海軍の対立と言うのも背景にあった訳ですが….
1号車は海軍関係の展示で,ペタンの大きな肖像が復活し,彼の「世界中でフランスの心臓が鼓動を打つ」と言う言葉に続いて,歴史上の海軍軍人の肖像,軍艦模型,軍服,武器,フランス領土を目立つ様に描いた世界地図と,地図の下方には,フランスの統治下にある原住民の写真が並べられました.
要は帝国が世界に冠たる広がりと多様性を見せているのが判る展示になっています.
2号車は陸軍,公共事業,職業案内が主で,陸軍は肩身が狭いです(苦笑.
陸軍関係では,リヨテ,ブラザ,ガリエニなどの軍人達の征服と開発の業績が,時代毎の植民地軍の軍服や旗,勲章と共に並べられていました.
公共事業については,展示を見る学童が興味を示す様に,現地の学校の紹介が行われています.
3号車は産業,つまり,植民地の農業,林業,鉱工業,通商,原住民達の芸術に関する展示.
4号車は土木事業で,前回の展示で好評だったサハラ縦断鉄道計画の展示が更に充実され,拡大されました.
5号車はLMCの広報関連.
今回の展示は,高等教育を受けた学生よりも,青少年に対する植民地経営の総合的成果と青少年の使命について近いさせる事が大きな目的でした.
従って,国民教育省から大学区及び県の視学官を通して各学校長に命令が為され,学校からの展示見学が体系的に実施されました.
特に,学童は無料だった事もあり,学童の比率が動員人数の多くを占める様になります.
イル・ド・フランス地区での巡回は,人口5000以下の小都市が主体だった為に,2ヶ月で動員8.3万人,学校の集団訪問はそのうちの60%を占め,住民総数に対する訪問者の割合は,前回の倍になる27%に達しました.
1943年初めのパリの5つの駅での展示は,完全に学童集団見学が主目的でした.
公立学校へは,国民教育省から県庁を通じて各学校長へと通達が送られ,私立学校はカトリック系学校が大多数だったので,パリ大司教を通じて見学のスケジュールが纏められました.
3ヶ月の成果は総入場数12万人で80%以上が学童でした.
特にこのパリ巡回では,列車訪問記のコンクールが行われました.
これにより,10万点余の応募総数がある,つまり,行った人の数分応募があったと言う官製イベントになりました.
因みに入賞者は30名ですが,最高賞4点の賞品は自転車だったりします.
丁度この頃,連合国による北アフリカ上陸作戦が行われ,ヴィシー政府の先行きに暗雲が垂れ込め始めていたのですが,列車に関しては何ら影響は受けなかったようです.
この運行が終わった時点で,北アフリカ上陸作戦の影響を受け,非常時が宣言されて全ての博覧会が廃止されました.
しかし,LMCにしろAECにしろ,こうしたプロパガンダは非常に有益であると考えていたので,政府に対し,此の継続を申し入れています.
当時,ヴィシー政府の人気は益々下降し,政府の看板が国民に拒絶される危険性がありました.
元々,此の博覧会列車はAECの事業でしたが,実際に運行していたのはLMCでしたので,以後の運行は「LMCの博覧会列車」と言う名称になります.
今まで植民地に関する広報機関は,1899年に植民地省内に設けられた植民地局で行われたのが最初でした.
第一次大戦が終了すると,植民地局は植民地総合機関となり,この新設機関を補助する役割で,各植民地総督府のパリ事務所が置かれます.
しかし,この方式では情報が一元化されず,ともすれば植民地総督の個人宣伝になってみたり,不整合な所見が省の公式見解となってみたりと混乱を極めた為,1937年,植民地省内に植民地間情報資料課(SIID)が設けられ,報道と広報関連業務が統合されました.
とは言え,この統合も十分ではなく,ヴィシー政府になって漸く植民地プロパガンダ政府機関として,1941年に植民地庁経済局に付属する外郭団体として植民地経済機関(AEC)が発足した訳です.
なお,植民地庁は,海軍省の傘下にあった官庁ですので,自ずと海軍が主体となります.
AECは総数60名足らずの小さな機関でした.
よって,その配下で動く手足となる機関が,「海洋・植民地連盟」(LMC)でした.
この組織は,19世紀末に設立された「フランス海洋連盟」,「フランス植民地連盟」が1921年に統合して誕生します.
会員総数は1930年の時点で10万人に達し,植民地省から補助金を受け取っていました.
1940年の休戦後,ペタン元帥とヴィシー政府に忠誠を誓い,非占領地区で活動を再開します.
1941年10月からは非占領地区でも活動が認められます.
因みに,同じ年に情報宣伝庁が発足しますが,植民地関係のプロパガンダは,AECとLMCに一手に握られています.
つまり,こうした活動には政府外の主体の活用が効果的だという判断がありました.
公権力からの押しつけの情報に対しては人々は外方を向くが,それ以外の団体からの情報はすんなり国民が受容れたのです.
こうした事から,1943年末から44年に掛けて,LMCによる博覧会列車の運行が続けられる事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/08 21:42
ドイツによる全土占領,それでも博覧会列車は走り続けました.
1943年12月15日,パリを出発した「LMCの博覧会列車」は,フランス北東部の32都市を巡り,ロレーヌ地方のナンシーで2週間の滞在の後,1944年3月31日に一旦運行を終えます.
1944年4月18日から7月10日まで,ナンシーからベルフォールに至るフランス東部ヴォージュ地方の18都市を巡る運行が続けられました.
この時点ではLMCによる運行が行われた訳ですが,ヴィシー政府からの補助金が余り支出されなくなり,財政的限界の為に若干の縮小が行われています.
また,規模縮小が否定的印象を与える懸念から,1942年秋以降に訪れた都市への再訪は慎重に避けられ,全ての見学者にとって列車が初体験となる様に配慮されました.
列車の編成は,輸送能力不足,物資の不足,それに空襲被害への影響により,5両編成から3両編成へと減らされます.
1号車は従来通り海軍の歴史,2号車は植民地の開発と本国と帝国との関係,3号車はLMCの宣伝車輌として,十字軍以来の植民地の歴史と英雄の伝記を展示する様になりました.
前回の列車にあった様な,植民地の官僚や産業への誘いは影を潜め,又,大々的に宣伝していたサハラ縦断鉄道など無かったかの様な感じで,既に末期的状態のヴィシー政府の現実から目を背け,歴史的・精神的紐帯を柱にすると言うものになっていきます.
学童の集団見学はそれでも重視され,列車内で学童向けの講演会や談話会も開催されました.
この巡回では,「LMCの博覧会列車」監督に任じられた植民地省官吏ショメルが,1920年代に帝国各地で映画撮影に携わっており,彼の持っていたフィルムを再編集して完成させた『異国風な魔法』と言う映画が頻繁に上映されるなど,映画の多用が特徴でした.
テーマとは無関係な映画も含め,AECが所有する映画の上映が増えたり,1943年11月からは海軍植民地庁と情報庁が共同製作した映画の上映が商業映画館で義務づけられた様に,国としても宣伝媒体としての映画がこの頃から漸く活用され始めます.
しかし,一部の楽観主義者を除き,連合国による反撃がひしひしと迫ってくるのを誰しも思い始めていました.
ドイツ政府部内では,連合国の上陸を1943年秋以降は時間の問題と考えており,ヴィシー政府でも1944年初夏の時点での上陸が予想されていましたし,フランス国鉄内部でも,1944年4月以降,連合国の上陸が確実視されるようになり,1944年初頭には国民の間に同年中に重大な事態が起こるだろうと言う認識が広がっていました.
1944年3月からは,ノルマンディ上陸作戦の支援作戦として,輸送機関を中心に空爆を強化し始め,列車が訪問した都市のいくつかは既に空襲で建物の70%以上が破壊されている状態だったり,翌日訪問する予定だった都市が空襲を受けた為,その都市での博覧会開催を中止したケースもありました.
それでも「LMCの博覧会列車」は運行され続けました.
AECから「状況故に」列車の運行を中止すると言う決定が国鉄に通知されたのは,1944年6月16日,つまり,ノルマンディー上陸作戦の10日後の事,実際に巡回を中断したのは更に後の1944年6月28日になります.
しかし,此の時点ではAECや列車監督を始めとする関係者は,近い将来,再び此の列車を再開すると言う想定を行い,展示車両を国鉄の車庫に一時保管をしようと試みますが,国鉄側が保管中の経費を免除しなかった為,AECは財政的な問題から展示を解体して3両の車輌は国鉄に返還されました.
展示資料は,パリに戻され,目録に従ってAECの倉庫に収められる事になります.
なお,この間の博覧会列車の成果は,前半が入場者数8万で総人口の15%,後半は乳雨盛者数3.4万で総人口の26%,そのうち,それぞれ60%は学童が占めました.
また,鉄道業務員と空襲被災者に対しては入場無料としていました.
後半では,訪問都市の総人口は前半の4分の1に関わらず,書籍やパンフ類の売り上げは2分の1に達し,住民数に比して倍の結果を出したものとされています.
この時期,フランスではレジスタンス活動が盛んになりつつありました.
博覧会列車は,人々にヴィシー政権とは違う指針を与えると共に,非日常や一時的な希望を人々に与えるツールとなっていきます.
この1943年秋以降の博覧会列車運行の監督に任命されたショメルは,自らの体験に基づいた「世界一周の船旅」と言う講演を訪れる先々で行いました.
この中で彼は,フランスの自立と復興にとっての植民地の不可欠性,エリートの使命,十字軍以来の歴史などと並び,1848年の奴隷制廃止により,ダントンやロベスピエールなど大革命の英雄の理念が実現された事を賞賛しています.
ヴィシー政権の公式イデオロギーは,第三共和制が其の正嫡とした大革命を非難するものだったのにも関わらず,この様な講演を行っていた訳です.
それも,政府側の人物が,です.
ヴィシー政府の中の人とは別に,元からのフランスの官僚達は,第三共和制を否定した訳ではなかった,と考える事も出来ます.
1944年9月9日,ペタンやラヴァルがドイツに去ったのと入れ違いに,ド・ゴールを首班とする臨時政府が誕生します.
そして,新政府の中にも矢張り,帝国プロパガンダを行う機関として,引き続き植民地省の中にAECは存続し続けます.
所長マスロは2ヶ月間職務から離れた後,1944年秋に一旦復帰します.
彼は1945年3月に此の地位を退いたのですが,彼以外の冠部は一切政権交代の影響を受けませんでした.
臨時政府の人事は秩序の回復が最優先で,公務員は概ね臨時政府に合流して,司法や行政の人事では断絶する事はありませんでした.
1944年9月15日から1ヶ月間,AECはアフリカを主題とした「植民地のパイオニアと探検者」と題する展覧会を開催します.
この展示の主眼は,フランスとアフリカとの間の緊密な紐帯を示す事であり,その強調は,戦争中アフリカにあったド・ゴールを中心とした勢力が常にフランスの一部分に立ち続けていたのだ,と言う主張でした.
当時は,ド・ゴール以外に共産党勢力が勢いを得ていました.
こうした情勢の中で,戦争中アフリカにあって,そこから本土に進出したド・ゴール勢力の新政府の自己正当化の意思の表明となった訳です.
この開会式にはAEC所長,内務省次官,共産党系の全国抵抗評議会の代表が出席し,モロッコの保護国化に先鞭を付けたリヨテ元帥の未亡人の出席は,度重なる体制変動と諸政治勢力の差異を超越する事を示しました.
これで,臨時政府内外で緊張関係にあったレジスタンス諸派が,フランスとアフリカ植民地との結びつきを確認する点では一致する事を示す場になりました.
国の分裂を防ぐ為に,本国とアフリカとの紐帯を示すのは,その後も行われ,1945年6月の戦勝パレードではモロッコのスルタンがド・ゴールと並んで出席し,7月14日の革命記念日には,チュニジアのベイがド・ゴールと並んで臨席し,其のパレードでは植民地原住民兵部隊が行進し,植民地兵高官への叙勲が行われました.
そして,戦後もこの植民地の幻想は,此の国に深く根を下ろし,アルジェリアの独立まで此の国をむしばみ続ける事になった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/09 22:37
【質問】
戦後のフランス軍はヴィシーフランス軍を解体し,自由フランス軍を元にしたのでしょうか?
それとも,いさかいも無く両者が統合したのですか?
【回答】
元々,自由France軍として編成された部隊は少数です.
例えば,1940年6月当時,英国には5万人以上のフランス軍兵士がいましたが,7月末に自由フランスに結集したのは,そのうち僅かに3000人程度でした.
後は,植民地の占領によって兵力を増やしたりしていますが,その悉くがVichy政権の軍です.
諍いは当然ありましたが,主に共産党関係のレジスタンスとのものですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
◆◆◆イタリア
【質問】
第2次世界大戦ころの日本の技術力,工業力は,アメリカ・イギリス・ドイツ・ソ連と比べて劣っていたとよく言われてますが,イタリアはどうだったのでしょうか?
【回答】
軍需生産高は日本の半分程度.
航空機生産はピーク時比較で日本の7分の1.
戦争に耐えられるような国ではなかった.
GDPはフランスや日本と同程度だったものの,イタリアは産業構成比の工業の比率が日本やフランスより低かった.
ヘタリアの国力
http://www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/ww2-gdp-sai-axx.htm
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なんでイタリア軍はあんなに弱かったのですか?
【回答】
ローマ崩壊以降,イタリア統一戦争まで,イタリアは1400年近く都市国家乱立状態でした.
しかも,有力な都市は貿易主体で自活するだけの実力があったために,都市間での戦争なども起きていたりして,ぶっちゃけ「1861年までイタリアという国は存在しなかった」と言っても過言ではありません.
んで,統一からまだ100年も経っていない状態で,
「お前らはイタリアという国のために死ぬ気で戦え!」
なんて言われても,兵士にやる気がでるわけがありません.
まぁ,統一が遅かったのはドイツも日本も一緒ではある
(近代化の遅れたこの三国が対外進出で遅れをとったために,それを取り返そうと世界に喧嘩を売るハメになったという見方もありますし)
んですが.イタリアの場合,あまりにもバラバラだった時期が長かったのと,イタリア人の気質が相乗効果を現したのではないでしょうか.
【参考サイト】
イタリア軍はなぜ弱いのか?
【質問】
何でムッソリーニはギリシャやエジプトに侵攻したんですか?
エジプトの場合,英国とインドやアフリカとの連絡を絶つことができるでしょうけど,そんなにインドやアフリカから補給があったのでしょうか?
【回答】
ローマ帝国は,ギリシャやエジプトもその版図に加えていました.
Mussoliniは,イタリア王国こそ古代ローマ帝国の末裔であるべきだという考えですから,アルバニアの様に無血占領が出来ないのなら,侵攻して従わせるまでだと考えていました.
また,当時は未だドイツの勢いが強く,英国は早晩降伏するだろうという読みがあり,戦後の分け取り分が少なくなることを恐れて,かねてから狙っていた地に侵攻したのもあります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
よくヘタレといわれるイタリア軍ですが,スペイン内戦では,かなりの死者を出しているようです.
後のWW2だと,捕虜は多くとも,死者は少ない気がするのですが,この違いは,どういった原因からなのでしょうか?
【回答】
Guadalajaraでの敗戦が響いています.
イタリア陸軍の中の人には,人民戦線軍は烏合の衆であって,正規軍を派遣すれば,鎧袖一触で片付くと言う思いがあり,敵を侮っており,一旦その弱い敵に崩されると総崩れとなるケースが多かったみたいです.
それと,イタリアは4個師団を派遣していますが,内実,正規の師団はリットリオ師団のみで,残りの黒シャツ,黒い矢,黒い焔の各師団は,民間の武装集団であるFascist戦闘団またはFascist市民軍から参加したほぼ素人の青年たちと陸軍兵士を組み合わせて作ったものでしたから,装備は勝っていても,戦闘能力に疑問符が付く部隊です.
後,第二次大戦とスペイン戦争では,国としての参加の構えが違います.
未だ,スペイン戦争では,Duceの威光が残っており,国民としても他国へのFascism拡大という明確な目的を有していましたが,そのスペイン戦争で,14兆リラもの軍費を使い果たしてしまい,第二次大戦はイタリア国民にとって,もう勘弁と言う状況でしたから,士気も低かった訳で.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
この↓ミステリー「ドゥーチェ」サークルについて教えられたし.

【回答】
イタリアのミステリーサークル……では在りません.
が,これが現在も残っている事自体がミステリーな国,それがイタリア.
事の起こりは1930年代,護民義勇軍(MVSN)の森林警備部隊がイタリア半島各地でムッソリーニを称える言葉を植林した事から始ります.
その言葉はDVXの三文字で表され,DUCE(ドゥーチェ:統帥)を意味しました.
上の写真は,連休前にイタリアの友人から送られた週刊誌『La
repubblica』に掲載の衛星写真.
アペニン山脈南に位置するラッツィオ州リエーティのモンテ・ジャーノ山中には,1938年から翌年にかけて植林された「DVX」が,今もご覧の様に残っているそうで,その文字も衛星軌道からハッキリと確認出来ます.
いや〜,イタリア人って(笑
この写真を送って来た友人の住むマッサでも,森林官がDVXの三文字を形にした植林を行ったものの,戦後になると切り倒してしまったそうなので,このモンテ・ジャーノ山の森は,面倒くさい半分と故意半分で残ったものかも知れません(笑)
以前,ミラノの中央駅やその付近に残るファシスト党のシンボルである束ねた斧の形をしたファッショリットーリオについて言及()しましたが,旧ユーゴ国境近くの街トリエステに旅した時もあちこちで見かけました.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000232.jpg
写真左は港に面した広場に立つ第一次大戦慰霊塔の表面にA(Anno)
X(Dieci):ファシスト暦10年の文字と共に刻まれたファッショ.右はアドリア海を照らす灯台と第一次大慰霊碑が一緒になったもので,無名戦士の像の足下にもファッショが見えます.
これなどは,第二次大戦直後からチトー共産政権のユーゴスラヴィアと国境を面したヨーロッパ正面であるトリエステの地政学的な見地を鑑みると,なんでこうもあからさまにファシスト政権のものが残されたかのヒントになりそうで興味深いものがあります.
よしぞう(maro') in mixi,2006年05月09日00:46
【質問】
ムッソリーニの生家は現存するのか?
【回答】
ムッソリーニの場合は,家には入れませんが壁に「ベニト・ムッソリーニの生家」のプレートが貼ってあり,自由に訪ねる事が出来ます.
写真1は,現在市の公文書倉庫になっているムッソリーニの生家.
なにせ,プレダッピオの通りには観光客目当てのお土産物屋が5,6軒連なって,ムッソリーニのTシャツやキーホルダー,マグカップなどありとあらゆるファシストグッズを売っているぐらい緩いものです(笑
そのうちの一軒のサイトがこちらに.
http://www.ferlandia.com/
グッズ類を見るとドイツでこんな店があったなら,即刻官憲の取り潰しに合いそうです(爆
ガルダ湖畔のサロに政権が固まる前に暫定政府が最初に産声をあげたのも,救出後にドイツから戻ったムッソリーニが,このプレダッピオ近くのロッカ・デレ・カミナーテの古城に新任閣僚を呼んだことからです.
そのシーンは,RSI記録映像集でも見られます.
写真1

ちなみに,某国営放送教育テレビ番組の「イタリア語会話」は,毎週欠かさず見ていますが,その中に半年掛けてエミリア・ロマーニャ州の州都であるボローニャの近郊の色々な街を舞台に,毎回違ったテーマで探訪する「もっと知りたいイタリア
ボローニャを歩く」という10〜15分ぐらいのコーナーがあります.
これは上級者のリスニング勉強にも役立つコーナーなのですが,今回のテーマは,なんと『ムッソリーニの故郷』!
レポーターがムッソリーニの生家と一族のお墓が在るプレダッピオを訪ね,別名「ファシズムの博物館」と言われる同地のファシズム建築やムッソリーニのお墓を紹介します.
どうかしたのか,N○K!!(笑
しかもムッソリーニの亡くなった日に集まった,“お洒落な黒いシャツを着た人々”が,墓前で右手を挙げてファシスト式敬礼をする所をバッチリ映し,あまつさえファシスト党のシンボルである,斧を棒で束ねたローマ時代の紋章,ファッショの形や由来,ファシズムの歴史を,「ディスカバリーチャンネル」風映像と共に解説し,ムッソリーニの生家からファシズム建築の市役所やらなにやらを見せ…といった,頭がクラクラする内容でした.
最後には,ファシズム建築の建物内で暖炉をどけたところに現れた壁のファッショのフレスコ画について,発見者が嬉々として解説.
思わず,以前に2度ほど訪ねたプレダッピオの思い出がフラッシュバックしましたw.
(写真2)は,4月28日の命日にイタリア全国から人が集まるムッソリーニの墓前.
中央には,統帥の頭像を挟んで一対のファッショの立体物も見えます.
(写真2)は,典型的なファシズム建築の一つである市役所.
現在もデザイン化された3つのファッショが壁面に残っています.
写真2

写真3

これらの場所は,ムッソリーニの生家と共に,全て番組内で紹介されました.
ムッソリーニやその政権に付いて一言も否定的なコメントが無い不思議な映像でした(笑).
戦後破壊を恐れてファッショに薔薇の花束を描き加えたエピソードも興味深いものがありましたが,それをにこやかに解説するシスターがまた凄い!
いやー,それにしてもドイツ語講座では考えられない素敵な企画で,仕事疲れで帰宅した自分の頭もガッツり刺激されました(笑)
なんだかif物で,ファシズム側が大戦を勝利した世界の番組を見る様でした(笑).
◯HKの戦略かもしれませんが,ここは「◯HK天然説」に一票!(=゚ω゚)ノ
以前,ここはワールドカップ・フランス大会の「イタリアvsオーストリア戦」で,放映終了直前にイタリア三色旗の中心にファッショを掴んだ黒い鷲のRSI軍旗と,それを振るネオ・ファシストサポーターを,TV画面一杯に大写しで放映した経歴がありますので(笑
イタリアでも,今でも都市部では,元ファシストと元パルチザン側の対立があるぐらい(さすがに両者共に高齢になって来た為,次の世代にバトンタッチされている様ですが…)ですが,でも確かに今でもファッショのマークとファシスト歴の表示があちこちに残されていたり,その辺の緩さはドイツとはかなり温度差が在りそうです.
ミラノ中央駅
トリエステにて
ムッソリーニの孫娘であるアレッサンドラは,下院議員や欧州議会議員を続けながら,数年前に右派国民同盟から離党して極右政党/社会行動党(Azione
Sociale)を結成,ネオファシズム運動とも関わりを持ちながらバリバリ活動をやっていますね.
実の所,例えば1943年以降のサロ共和国時代には,国内のユダヤ人輸送にムッソリーニの傀儡政権も加担したりしているので,まったくクリーンでもないのですが….
まあ,これもひっくるめて余りにもその時代について知られていないのが,幸いしているのでしょうか.
ただ最近のネオ・ファシスト運動の動きを見ていると,その辺の無知を利用して一種の幻想を伝播しようという感もありますが.
いや〜,それやこれやを考えるとイタリアってある意味凄いわ(笑 だから,止められません(^^;
よしぞう(maro') in mixi,2006年09月12日04:40
〜2006年09月17日 09:58
より再構成
【質問】
1938年のイタリア訪日団について教えられたし.
【回答】
このイタリア訪日団一行は北京,満州,上海を訪問した後,長崎に上陸して,春の雲仙国立公園で観光(下掲写真)もしております.

上京後は日光にも参拝したそうです.
また,ムッソリーニから預かった品々を皇居で昭和天皇に献上していますので,かなりオフィシャルな国賓扱いだったと思われます.
下の写真は,3月22日に陸軍大臣官邸を表敬訪問して,杉山陸相と乾杯するパウリッチ団長.
および,同日永田町小学校を訪れて男子生徒の剣道を見学する,ガエッチニ博士以下7名の教育関係者.

訪問団が日本で使用したと思われる荷札.
見ると,日本国旗やサヴォイア家の紋章が付いた戦中のイタリア国旗と共に,ファシスのマークも!
イタリア訪日団は,満州経由で東京に到着後,京阪方面に移動しているので,そういった際にこの荷札をパウリッチ団長以下22名のファシスト党員御一行の旅行鞄に下げたのでしょう.
スーツケースに貼るホテルのラベルなども,戦前や戦後すぐの物は良いデザインがあり,こういった旅ものグッズもコレクターが多そうですね.
こういった収集品なら奥さんの理解も得られそうなのですが…(爆笑

ヒトラーユーゲントの富士登山などは多数の写真が残されていますが,残年ながらイタさんはあまり記録が戦後の出版物で紹介されていませんね.
当時の写真を見るとかなり“熱烈歓迎”されているのですが….
訪日団は,京都,大阪,神戸にも立ち寄っていて大阪での歓迎ぶりは,沿道でイタリアの小旗を降る写真がいくつか残っています.
写真↓左手の報道員達に混じって,イタリアのLUCEの腕章を巻いてカメラを手にした記録映画班員も,確認出来ます.

芸者とファシストという取り合わせが粋↓.

どこかの地方での歓迎パレードの様ですが,場所が特定出来ません.↓

このイタリア訪日使節団の来日を機に,満州や日本で各種バッジ記念バッジが作られて関係者に配られていますが,日本の勲章物コレクターにもあまり知られておりません.
以下は,UNIFORMI E ARMI誌Vol.57(1995年12月号)より転載した使節団来日記念バッジ写真の一部です.
富士山と桜の花にファシスタ党のシンボルであるファッショ・リットーリオの斧とマーガレットの花を組み合わせた高級感のある銀製記念バッジ.
裏面にイタリア語と漢字で「Missione Fascista
Italiana(イタリア・ファシスト使節団)伊国政府派遣ファシスト訪日親善使節団
1938」とレリーフされています.サイズ44×19ミリ.

その名古屋版↓.富士山と名古屋城のシャチホコとの組み合わせがなかなかユニークです(笑
こちらは,サイズ38×16ミリとやや小振りで,裏面にはイタリア語のみで「BENVENUTO
ALLA MISSIONE ITALIANA DEL P.N.F.(歓迎,ファシスタ党イタリア派遣団)NAGOYA」と刻まれてなかなか本格的.
この辺のバッジもずっと探していますが,国内より向こうで見つかる可能性が高そうです(笑).

よしぞう(maro') in mixi,2006年05月10日10:10〜05月13日 23:48
▼ 以前,イタリアと深い関わりのある日本人のご遺族を取材した時,仏壇の引き出しから,フィウメ記念章とローマ進軍記念章が出て来て,オーパーツを見つけた考古学者ぐらいたまげた事があります.
この時も
「是非,次の世代に伝えてください」
と言いましたが,ご家族がその意味する所をどれだけ理解しているかが問題でしょうか.
よしぞう(maro') in mixi,2006年08月08日 02:12
▲
【質問】
LUCEとは?
【回答】
LUCEとはL'Unione Cinematografica Educativaの略称でルーチェと呼び,意味は「教育映画協会」です.
1923年に設立され,記録映画制作を主に行っていましたが,ファシスト政権下ではプロパガンダ映画や戦場ニュースなどを中心に制作していまして,新聞の報道写真も手掛けていました.
そして恐ろしい事にこのLUCEは現在もイタリアに存在し,日々当時の戦争記録映画のビデオ/DVD販売や新作記録映画を発表し続けているのです!
http://www.luce.it/istitutoluce/index.htm
LUCEのドキュメンタリーものでは,こんなところもラインナップであります.
『サロの600日』はもう定番アイテムでしょう.
よしぞう(maro') in mixi,2006年09月19日00:53
〜2006年09月19日 20:01
【質問】
Curzio Malaparteとは?
【回答】
こんな家
http://www.architectenwerk.nl/architectenpraktijk02/images/malaparte1.jpg

があったりする.
Casa Malapartetと言うのが邸名で,イタリアはカプリ島に建てられた,地上2階,地下1階の建物です.
外観は近代的ですが,1938〜43年に掛けて作られたものです.
イタリアの1938〜43年と言えば,一番困難な時期だったりするのですが,一応,設計したのは,Adalberto
Libera.
つまり,ドゥーチェお気に入りの建築家だったりする訳です.
でもって,1943年に竣工と言うのも象徴的です.
「20世紀で最も美しい住宅」と言われましたが,実際に着想したのは家主の方で,Adalberto
Liberaが提示した当初案は家主に拒否されてしまい,Liberaは手を引いたとか引いてないとかちょっとこの辺曖昧な部分があります.
で,その家主と言うのは,軍ヲタにもお馴染みかも知れないCurzio
Malaparte.
ファシストでありながらファシズムを批判し,ドゥーチェによって投獄までされていた人物.
その後,チアノの奔走で復帰したものの,KYな行動は相変わらずで,戦争特派員として,東部戦線に従軍した際,ドイツとイタリア派遣部隊の苦戦を送った為,再び戦線から戻され,散々脅されるも,結局,これまた助け出されて,フィンランド戦線の従軍記者となり,イタリア降伏後は,イタリアに戻ったものの連合国軍に幾度か収監され,最終的に共産主義に共鳴して,連合国側に立ち,晩年には毛沢東に傾倒したと言う,ドゥーチェとは逆の方に行った人だったり.
『クーデターの技術』や『ヨーロッパの崩壊』,『皮』なんかの作品を残している作家でもあったりします.
彼は,ドゥーチェと袂を分かってから,『クーデターの技術』でAdolf
Hitlerとドゥーチェを批判した為,リパリ島に国内流刑となっていた訳ですが,流刑地の窓から見える教会の階段にヒントを得て,このデザイン,即ち,屋上の3分の1を占める逆三角形の階段と言うデザインに繋げたそうです.
此の階段は,登るにつれて劇場のように広がり,反対に下ると先細りとなってアプローチに繋がり,更に断崖に沿って降りていくと船着き場へと達すると言う形を形成しています.
でもって,この階段には手摺というものがありません.
それはそれで,ファシズムの行く末に危険なものを感じたのかも知れません.
因みに,この家は,映画監督のJean-Luc Godardの名作『軽蔑』に使われ,Brigitte
Bardotが階段屋根を降りるシーンが有名です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/09/15 21:11
◆◆◆東欧諸国
【質問】
ウスタシュの詳細をどなたかご教示ください.
【回答】
クロアチア人アンテ・パヴァリッチが組織した民兵組織.
ウスタシャが支持を拡大するのは1939年.
この年,クロアチア農民党はユーゴ政府との交渉の結果,クロアチア自治州創設に成功.
この自治州は今のクロアチアよりも更に少し大きく,当時のユーゴ人口の1/3を占めていたのですが,当然,全クロアチア人を含んだものではありませんでした.
クロアチア人の間からは,自治州の領域は狭いという主張がなされ,これが農民党への幻滅・ウスタシャへの支持につながったようです.
ドイツによるバルカン制圧後,パヴェリッチは傀儡国家「クロアチア独立国」の指導者となります.
彼は国内のセルビア人やユダヤ人に対する弾圧を始め,大量虐殺を行ないました.
この迫害にはカトリックの聖職者も多く参加しており,「映像の世紀」にも,それに関するエピソードが出てきます.
この国にはクロアチア人しか住むことはできない.
私は老人から子供そしてセルビア人が育てた家畜にいたるまで綺麗に片づけるつもりだ.
私が神父の格好をしているからといって機関銃を乱射しないと思ったら大間違いだ.
私はクロアチアに反するものは何でも殺してやる.
それがたとえ7歳の少年であっても
汚れたセルビアの血が流れているものは浄化しなくてならないのだ.
――クロアチア人神父の証言より
「映像の世紀」第10集
部下から贈られた籠一杯の牡蠣の剥き身,実はセルビア人の目玉なんていうゲロゲロなエピソードもあります.
戦後チトーにクロアチアを追われたパヴェリッチは,オーストリアとイタリア(法王庁ルート)を経由してアルゼンチンに逃れ,同国でウスタシャを再興,その傍らペロンの保安顧問を務めます.
しかし1957年にチトーの送り込んだ暗殺チームにより重傷を負い,スペインに移住.
そして,その怪我が元で1959年に死亡しています.
なお,「ウスタシ」はクロアチア語で「反逆者」という意味.
【質問】
クロアチアのウスタシばかりが有名ですが,セルビアにはファシズム的な団体が存在したのでしょうか?
戦前のセルビアでアレクサデル王やパヴレ公の様な連中ではなく,真性ファシズム的な団体は存在したのかな,と思って.
【回答】
う〜ん,勢力は弱いです.
一応,1931年の内閣で法相だった,ディミトリェ・リョティッチ率いるファシスト団体,「協同体主義者連合」はありましたが,選挙で殆ど支持を得られていません(全得票数の0.8%).
次いで,1930年代の半ばの政治危機で登場したのが,ミラン・ストヤディノヴィッチで,彼の率いるユーゴスラヴ急進同盟(JRZ)が1938年頃からファシズムに傾斜していっています.
こちらはリョティッチの様に埋没することなく,権力を握っており,彼自身,首相を務めています.
しかし,ドイツに過度に依存しすぎたことによって,国民の支持を失い,更に非セルビア人のと対立してパヴレ公に解任されてしまい,パヴレ公が前面に出た訳で.
【質問】
占領政府のネディッチ将軍は政治基盤となる組織を持っていたのでしょうか?
【回答】
Milan Nedichについては,"YugoslaviaのQuisling"と称する文献もありますから,つまり,政治的基盤は一切持ってなかったか,あっても頗る脆弱なもので,それでいて軍隊に於ける地位は高い為,占領ドイツ軍が利用しやすい人物だったと言えるでしょうね.
【質問】
ホルティ提督のあとがまにハンガリーの政権の座についた,矢十字党のサーラシていうのはどんなやつ?(HN "黒装束")
【回答】
サーラシ・フェランツ(1897〜1946)
軍人の家庭に生まれる.
1935年,ファシスト団体「民族の意志」を創設し,後,「民族社会党」を結成したが禁止され,投獄される.
1940年,出獄し,矢十字党の党首となり,1944年,ヒトラーの後押しで首相に就任.
反対派を徹底的に弾圧し,テロ政治を行う.
政権崩壊時に脱出に失敗して逮捕され,戦後,人民裁判で死刑に処された.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
矢十字党
とサーラシ(右)

【要望】
どっかから,Peter Gosztony氏の著作出さないかなぁ.
『ヒトラーの外国軍』『赤軍 1917-1979年』『第二次大戦とハンガリー陸軍』……
この辺,邦訳で読みたいでし…と,今日は頭が痛いのでチラシの裏.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
ロシアやユーゴスラビアでは,ハンガリー軍はけっこう野蛮なことを仕出かしたようですな・・.
【回答】
ですね.木々のざわめきに恐れを為して…と言う所でしょうか.
例えば,北ジーベンビュルゲンのオルドクトでは,1940年9月9日に,進駐してきたマジャール軍兵士に対して,ルーマニア人司祭が教会の塔から発砲し,4名が負傷.
それに対し,マジャール軍は歩兵部隊を投入,村とその教会を攻撃し,死者68名,負傷者195名の惨事を起こしたり,イプでは,自分が持っていた手榴弾が爆発し,マジャール軍兵士2名が死亡したのを奇襲と司令部が判断した為,9月14日に第32歩兵連隊が村の一斉手入れを敢行,死者152名.
…なにをか況やですな.
ジーベンビュルゲン=エルデイ=トランシルバニアは元々ハンガリー領だっただけに,余計に過剰な反応をしてる感じですね.
ブリヤンスクの森の南方地域では,1941年11月〜43年5月まで,マジャール陸軍の三個師団が占領下に置いており,若干のドイツ軍部隊が協力していました.
しかし,不十分な武装と不足した人員では,占領地を維持することが出来ず,Partisanの活動を抑え切れないと判断したマジャール軍は,大量報復措置と「死のゾーン」設置を実施し,1942年夏までに約3万人のPartisanと,その疑いのある者を殺害しています.
ちなみに,Partisanの損害とマジャール軍損害の比率は,10:1から15:1だったようです.
これは戦後に多数のマジャール軍兵士の訴追,死刑に繋がってきますが,その責任者,ボガニ・カロリ将軍は,その責任を免れ,ソ連もその引渡要求を断念しています.
また,1943年にはUkraineのドロシチで,ユダヤ人労役従事者用の病院や,第105,107病院に放火し,入院患者の焼死なんて事もしているようです.
一方,逆にマジャール国内に戦闘が移ると,逆にルーマニアや,ユーゴ,ソ連軍の暴行の嵐が吹き荒れた訳ですが.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2 & ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w)
【質問】
第二次大戦のとき,ブルガリアって何してたんだ? 一応,枢軸側なのか?
【回答】
ブルガリアは,対パルチザン戦を除けば,殆ど枢軸国としか戦わなかった枢軸国家として知られています.
ブルガリアは,1878年の露土戦争の結果,トルコからの独立を勝ち取った国で,親露国です.
この国は12世紀の大Bulgaria帝国を夢想して周辺各国との争いが絶えなかった.
何しろ,そのころのBulgariaは,Romaniaの一部とGreeceの殆ど,更に,Belgrade近くまで領有してたりする.
1912年には,Serbia,Montenegro,Greeceと組んでTurkeyを相手に第一次バルカン戦争を戦い,Macedoniaを得た.
SerbiaはRussiaの支持の下でアドリア海への通路を要求,ItalyはAlbaniaの占領を望み,GreeceはItalyによるドデカネス諸島占領に抗議し,二重帝国はあらゆる勢力拡大を阻止しつつ,Bulgariaを援護すると言う混沌状況の中,1913年にBulgariaがSerbiaを攻撃し,第二次Balkan戦争が始まる.
このときは二国間戦争だったはずなのに,各国の思惑により,Serbia支援のためにRomania,Greece,Montenegro,Turkeyが参戦.
これに対し,Bulgariaを支持する二重帝国は支援を行おうとするが,GermanyとItalyがこれを阻止し,結果として,Romaniaは南ドブルジャを,Greeceはマケドニアを,それぞれBulgariaより割譲される.
これが,第一次大戦でBulgariaが同盟側に立って参戦する原因となった.
さて,第一次大戦では1915年にドイツと友好・同盟条約を締結し,10.14に参戦します.
その代償に,Serbia領のマケドニア(現在のマケドニア共和国)を同盟諸国から獲得します.
そして,Greece,Romaniaが連合国側に参戦した場合に,これを撃破した暁には,Greece領マケドニアとRomaniaのドブルジャを獲得する権利を持っていました.
後者の権利は,1916年にRomaniaが参戦し,12月に全土を制圧した時に発生しました.
ドブルジャは,1918.5.7のBucharest条約で正式にBulgariaのものになります.
しかし,4ヶ月後,前年に連合国側に立って参戦したGreeceから行われた連合軍のマケドニア攻勢により,Bulgaria軍は崩壊し,同盟国側としては,9月末,最初に戦線を離脱してしまうのです.
第一次大戦後,Bulgariaも敗戦国となり,1919年11月27日,ヌイイー条約を締結します.
これにより,Serbiaにマケドニアを中心とした国境地帯の一部を割譲し,Romaniaにはドブルジャを返還し,Greeceにエーゲ海に面したトラキア西南地方を割譲した上,空軍保有の禁止,保有兵力上限2万人という枠を嵌められます.
このため,戦後は難民問題とYugoslaviaに対するマケドニアの主権要求が主な政治課題となりました.
敗戦後,政治の舵取りをしていたのは,農民党と言う政党で,首相のスタンブリスキーは,農民に対する土地改革,マケドニアとBulgariaの一体化を推進してきました.
これに反発したのが,旧体制勢力で,彼らは軍を動かし,1923年に将校団が決起して,首相を射殺し,共産党と農民党を解散に追い込みました.
更に,世界恐慌で経済が混乱し,国家社会主義勢力が台頭すると,バスに乗り遅れるな,とばかりに,1934年,ツヴェーノと言う保守派将校組織のクーデターが起き,ゲオルギエフ大佐による独裁体制が確立します.
その大佐は1935年に失脚し,国王ボリスIII世の直接統治が始まるのです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
ブルガリアは1941年3月,枢軸同盟に加わりました.
大戦には参加したくなかったようですが,ドイツの圧力により,1941年12月に対米英宣戦布告しました.
ただし,独ソ戦には参加しませんでした.
主な戦闘としては,ルーマニアのプロエスティ油田に対する米英の空爆に対する迎撃戦闘を行っています.
イタリア上陸後はブルガリア自体も空爆の目標とされており,それへの迎撃も行い,これで空軍力は殆ど壊滅してしまいます.
1944年6月のソ連軍の大攻勢により,国境にソ連軍が迫ると,ブルガリアは8月26日,独ソ戦についての中立を宣言しましたが,ソ連はこれを受け付けず,翌27日,ブルガリアにソ連は宣戦布告しました.
そのソ連の圧力で9月9日にブルガリア政府は対独宣戦布告し,1945年の終戦までドイツと戦いましたとさ.
(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)
【質問】
第一次,第二大戦時のブルガリア海軍はどのような艦艇を保有していて,どのような戦闘を行ったのですか?
【回答】
その海軍は,1896年にKrum,Aleksandr I,Simeon Velikiと言う三隻の蒸気船と,Asenと言う練習船,それに三艘の蒸気小型艇から成っていました.
これらの艦艇は,ロシア帝国から供与されたものでした.
その後,フランスの援助を受け,Nadezhdaと言う717tの砲艦を彼の国に発注しました.
これが,1908年まで旗艦となります.
更に,黒海沿岸にフランスの援助で造船所を建設し,Kaliakraと言う80tの小艇を建造します.
1903年に第一次建艦計画が立案されます.
これは,15t級魚雷艇を12隻,90t級魚雷艇を2隻,150t級の魚雷艇を2隻,練習艇と若干の沿岸哨戒艇を含んでいましたが,結果的に,97tの魚雷艇を6隻,魚雷艇母艦が3隻,沿岸防御用の240mm砲2門と100mm砲2門をフランスのシュナイダーに発注しました.
1905年に,更に2隻の機雷敷設艇が完成します.
1910年には更に拡大計画が立てられ,470t級の駆逐艦2隻,190t級潜水艦と,機雷敷設艦が計画されましたが,政府が借款を得るのに失敗したので,立ち消えとなりました.
一方,1908年には,Russiaが黒海艦隊で余剰となった巡洋艦,砲艦,機雷敷設艦,魚雷艇の売却と供与を持ちかけますが,国をRussiaの保護下に置くのを条件としましたので,これは立ち消えとなりました.
第一次大戦は,1898年竣工のNadezhdaと言う砲艦(717t)を旗艦に,魚雷艇Vasil Levski,Hristo Botevと言う20tの魚雷艇(1877年竣工)が現役でした.
前者は,バルカン戦争で砲を陸揚げし,戦争終了後,またその砲を装備し,第一次大戦中の1915年に砲を再び陸揚げしています.
1918年にRussiaのセヴァストポリに送られ,此処でBolshevikの手に落ち,赤軍の艦艇となっていますが,程なく退役し,1941年までセヴァストポリでハルクとして使われました.
後者は元帝政Russia海軍の魚雷艇で,1884年に供与され,Balkan戦争,第一次大戦共に,哨戒艇として用いられました.
Botevは,1930年に退役し,1936年に記念艦としてRuseで係留されていました.
Levskiは程なくガソリンエンジンに換装し,1938年に退役しました.
最初の購入艦であるAleksandr Iは,350tのFrance製で,平時は王室ヨット,戦時は機雷敷設艦兼輸送艦となります.
これは,1913年に座礁し,1914年に修理されましたが,程なく除籍されました.
最初の建艦計画で導入された,France製97.5t級魚雷艇は,Drski,Smeli,Hrabri,Strogi,Letjashchi,Shummiの6隻.
レシプロ水管缶で1900hp,これで26kt/hを出し,石炭10.5tを搭載して,500海里の航続力を誇る.
武装は,37mmシュナイダー速射砲2門と,450mm魚雷発射管が艦首に1基,艦上に連装管が1基装備されている.
Shummiは,1916年9月12日にVarnaに於いて,Russiaの敷設した機雷に触雷して沈没し,Strogiも損傷,Letjashchiは,1918年10月にFranceに鹵獲され,11月28日にVarna沖で沈められました.
Drski級の水雷艇の残りは,しぶとく生残り,1920年代前半に掃海艇に改造され,後に再び魚雷発射管を装着,1934年に改装され,第二次大戦でも哨戒艇になっています.
この時の武装は,450mm魚雷発射管2基と,20mm砲2門,そして1942年には47mm砲2門を追加され,2丁の機関銃と,爆雷が装備されています.
休戦後,これらの艦艇はSoviet海軍に引き渡され,1954〜1955年まで使用されています.
Drskiは,ソ連海軍退役後,Varnaに返還され,陸揚げされてモニュメントとなっているそうです.
このほか,1920年代までに装備した艦艇は,1918年5月25日にドイツから供与されたUB1級潜水艦のNo.18がありました.
これは旧UB8で,Varnaの防備に用いられました.
休戦後,ヌイイー条約でFranceに引き渡され,1921年8月にビゼルタでスクラップになりました.
同時に,UB7も供与される予定でしたが,これは到着前に撃沈されてしまったそうです.
機雷戦艦艇は,105tのFranceの蒸気帆船,De Romasを1906年に購入して,Kamchijaと改名し,機雷10〜12発を搭載する機雷敷設艦として使用しました.
第一次大戦では哨戒艇として用いられ,1924年に測量艦に艦種変更されています.
第二次大戦では再び敷設艦となり,1945年以後,また測量艦に戻され,1952年に除籍されました.
このほか,15t級の内海掃海艇として,Konduktor Dokuzanov,Kapitan-Lejtenant Minkov,Kapitan-Lejtenant Minorの三隻と8t級の内海掃海艇として,Nesebr,Emona,Kalacerkaの三隻が在籍しています.
これらは,1917年にドイツから引き渡されたもので,一度Franceに接収されたものの,返還され,最後の艇は1955年まで使用されました.
1921年,Bulgaria海軍の再建に当たって,米海軍で余剰となったSC級の駆潜艇が2隻購入されました.
これは,Chernomorec,Belomorecと命名されました.
これは,1934年に一度退役しましたが,すぐに再使用され,タニューブ河の警備に使用され,第二次大戦終結まで使用されています.
このほか,少数の哨戒艇と,1906年に購入された28tの訓練艇Strela,17tの魚雷揚収艇が在籍しています.
1919年7月27日に締結されたヌイイー条約の結果,枢軸国から得た有力艦はスクラップまたは連合国に引き渡され,4隻の魚雷艇を主力とする警察部隊として海軍は存続しました.1938年の再軍備宣言に至るまで,忍んだ訳です.
1937年にドイツと軍事援助条約を結び,3000万マルクの援助を貰い,ドイツの軍事物資の購入に充てました.
第二次大戦では,1941年3月に枢軸に加盟し,ドイツの軍事援助を更に貰い,なけなしの商船はドイツ軍の輸送に活動しました.
1944年9月8日にソ連軍が国境線を越えたとき,休戦に同意し,矛を逆しまにしてドイツ軍に襲いかかりました.
海軍も例外ではなく,ソ連軍の指揮下で,Danube河戦隊と黒海艦隊に属して,活動しています.
このうち,前述のDrski級魚雷艇のうち,Smelyは,1943年5月19日に撃沈されました.
このほかの戦闘艦艇は1921年にFranceを通じて米国から購入した,SC級駆潜艇2隻があるだけです.
1930年代には,大戦直前の1939年に,Bulgaria海軍にリュールセン社製のS2級魚雷艇が4隻引き渡されています.
これは,ドイツのSボートと同型で,5隻が建造され,うちS2〜S5の4隻が,F1〜F4と言う艇名で使用されました.(同型艇をBulgaria国内で建造する予定でしたが,大戦勃発による部品入手難で果たせませんでした).
これも不活発で,1944年9月にソ連軍に引き渡され,ソ連軍はTKA958〜961を改名して使っていました.
戦争終盤の1945年4月2日にソ連から返還されています.
もう一つ,その建造できなかった魚雷艇の代わりに,30t級のBritish Power Boat製魚雷艇に似たデザインの魚雷艇をドイツから1942年に引き渡されています.
これは,オランダで建造中のものを捕獲し,1941年に完成させたもので,ドイツではS201〜S202として在籍していたのを,1隻追加してBulgariaに供与したもので,同型艇4隻がRomaniaに渡りました.
この艇の搭載エンジンには,英国デザインらしく,英国製のR.R.Marlinが3基使われています.このエンジンは,大戦初期に欧州で撃ち落されたRAFの機体から取り外したものがそのまま,載せられたそうです.
艇名は1号〜3号で,これもソ連に供出されてTKA962〜964となり,1945年4月2日に返還されました.
これらの艇はいずれも,共産化後の1947年に,除籍されています.
このほかの小艦艇も同じ運命を辿っています.
但し,曳船のVoievodaは,1945年に当時は友邦だったYugoslaviaに供与されています.(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
ブルガリアのボリス三世の経歴について教えてください.(アンチネスク)
【回答】
ボリスIII世((БорисIII)1894〜1943:在位1918〜43)
1894年生まれ.
Sachsen-Coburg-Gotha家のFerdinand I世と,Palma-Bourbon家のMarie Louiseとの間に誕生.
初代Bulgaria国王だったFerdinand I世が,1918年に敗戦の責を負って退位した後を受けて,国王に即位.
当初は,農民党などを立てて,民主的政治を心がけるが,戦後の混乱が拡大するに連れて,政権と対立.
1923年 将校の反乱によるクーデターを支援.
9月に共産主義者の反乱が起きるがこれを鎮圧.
一気にモーナルヒスト(君主制主義者)の地位が向上.
1925年 Sofiaの聖ネデリャ教会で,国王ボリス3世の暗殺を狙った爆弾テロが起きるが未遂に終わる.
1934年 一時民主主義者に政権を明け渡すが,保守派将校組織ツヴェーノによるクーデターを裏から画策.
1935年 ツヴェーノ指導者 ゲオルギエフ大佐失脚により,独裁体制を構築.
1940年 三国同盟加盟により,Romaniaから領土獲得.
第二次大戦に際しては,“象徴的戦争”を宣言
1941年 英国に宣戦を布告.12月に米国に宣戦布告.
マケドニアを併合
1943年 ヒトラーと会談後,急死.
SimeonII世が6歳で跡を継ぐ.
(今のSimeon Saxe-Coburg-Gothaで,Bulgariaの首相)
なお,妻Joannaは,Savoia家のItaly国王,Vittorio Emanuele III世の娘です.(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

King Boris III (Left) & Hitler
【質問】
誰か,アントネスクについて詳しい方,彼の経歴について詳しく教えてください.(アンチネスク)
【回答】
アントネスク(Ion Antonescu 1882-1946)
ルーマニアの軍人,政治家.
1882年 ピシュティに生まれたとあります.
フランスで軍事訓練を受ける.
第一次大戦中の国土防衛戦で名を挙げ,1937年ルーマニア軍参謀長となり,40年には元帥.
一方で,余り国民に人気のない国王カロルII世が外交で失政を重ね,ソ連,ハンガリー,Bulgariaへと領土を喪失し,国内情勢が不穏になったときに,カロルII世の一発逆転を狙って,首相に任命される.
当時,「大天使ミカエル軍団」というファシスト団体の軍事部門,「鉄衛団」の行動がナチスの支持を得て顕著になり,第一次大戦と同様,何としても中立を維持したい国王は,将軍の支持の下でそれを弾圧するつもりだったが,1940年9月,ナチスドイツの教唆により,鉄衛団がクーデターを決行.国王カロルII世に対し独裁権の放棄を要求,王を退位させ,皇太子ミハイを擁立し,国内の実権を握る.,
当初「鉄衛団」指導者シマ Horia Sima を副首相に起用し提携するが,その後の国際情勢の中で中立政策は大きく転回せざるを得ず,ドイツの同盟を強化する必要があり,41年1月にはヒトラーの合意の下,「鉄衛団」を切り捨て,弾圧.軍事独裁政権を確立し,ルーマニアを日独伊三国同盟に加盟させる.
1941年6月の独ソ戦勃発に際し,ベッサラビア,ブゴヴィナ回復を旗印にソ連に宣戦布告,12月に米国に宣戦を布告した.
しかし,国内では民族農民党を中心に反戦運動が繰り広げられ,1944年8月にソ連のRomania侵攻と同時に,国王とその側近勢力のクーデターにより,政権は瓦解,将軍は逮捕.
1946年,戦争犯罪人法廷にて,親ドイツ派の戦犯として死刑を宣告され,同年6月に処刑された.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2 & ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI )
【質問】
第二次世界大戦中のスロバキアの指導者って誰ですか? 当時のスロバキアの指導者の名前と彼の経歴について教えてください.(アンチネスク)
【回答】
Slovakiaの大統領は,1939年10月(つまり,Czechoslovakia解体の翌日)に就任したヨゼフ・ティソ(Jozef Tiso)です.
彼は1887年Bratislava生まれ.
1932年にBratislavaのCatholicの大僧正となる.
そして,Slovakia独立を求めるSlovakia人民党の指導者となり,1938年,前の指導者である,Andrej
Hlinkaが死亡した後,その党首に就任.
ミュンヘン会談直後の1938年10月6日,Slovakia人民党により,Slovakiaの自治が宣言され,その一派は公然と,Czechoslovakiaからの独立を求めます.
1939年3月13日に,ヒトラーはティソを呼んで,独立を宣言するように扇動し,彼はそれに応えて3月14日に州議会で独立を宣言しました.こうして,Slovakiaは独立し,共和国となります.