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◆◆反ダウド・クーデター以降
<◆アフ【ガ】ーニスタン紛争(対ソ戦)
<アフ【ガ】ーンFAQ目次
Noor Mohammad Taraki
(1917〜1979)
【質問】
ダウド・ハーン最期の様子は?
【回答】
フランソワ・ミッセン著「地獄からの証言」(故サンケイ出版,1980.7)によれば,ダウド自ら機関銃を持ち,勇戦の末に倒れたという.
私(政府高官ジャマル・スルタニ:仮名)は後に,ダウドの地下指令部にどのように突撃がなされ,どういう最期を迎えたか,詳しい情報を知った.
王宮の周囲は高い壁で固められていて,内部が見えないようになっていた.王宮地下司令部と外部とは,数ヶ所にある哨舎を通じて接触でけるだけであった.
正午少し前,閣議が開かれていたが,このとき最初の砲撃を受けた.
攻撃が始まるとダウドは直ちに閣議を中止し,大臣達に,自由にしてよいと言った.
「自宅に戻りたい者はお帰りなさい…….自宅に戻らない者は,王宮にいらっしゃい.
何の遠慮もいらない.忠誠を誓う軍隊が到着するまで戦おう」
既に戦車と戦闘機の砲撃に晒されていた閣議室をダウドが出たとき,彼に着いていった大臣は3人であった.内相,副大統領,そしてワイド・アブダラーである.
彼ら以外はさらに閣議室に留まり,ぐずぐず逃亡計画を練っていたため,庭から進入してきたハルクの第一特別攻撃隊の手で逮捕されてしまった.農相,情報相,法相,文相などがそうである.
ダウドは王宮二階の非常に大きな広間にあって,ますます激しさを増す戦闘機の爆撃から逃れていた.
篭城軍と大統領一家は,王党軍に一縷の望みを託していた.食糧が支給された.
大統領にはまだ服を着替える余裕があった.
彼は格子縞の上着を着,地下司令部の上や,辺り一面に落とされるロケット弾の音に気も狂わんばかりになっている子供達の気を鎮めようと,懸命になっていた.
五時であった.王宮だけが,否,より正確に言えば王宮二階だけが,市中のあちこちにあった島々を次々飲みこむ大洪水に,最後まで抵抗を試みる島であった.
商相がメガホンを手に王宮に近付き,降伏するようダウドに頼んだ.
ダウドは地下司令部の銃眼に機関銃の一斉射撃を命じ,どういうわけかさっきの閣議に姿を見せていなかったこの大臣に,
「総司令官に,私がどこにいるか教えてやれ……」
と言った.
大臣のそばにいた大尉が,警察長官でありながら,急に反乱軍の内相づらをしはじめたカディルに,ダウドの要求を伝えた.
カディルは最期の突撃を命じ,ダウドを殺せと命じた.
今度は扉越しに,大尉を従えた電気通信相グラブゾイが,大統領と最後の交渉を行った.十メートルかそれより少しあるかの距離であった…….
ダウドは,総司令官を連れて来いと,再度同じ要求を繰り返し言った.
事はあっという間に起こった.
外部の二人が扉を突き破ろうとした.扉の正面と上部に一斉射撃を食らわせた.
二人は遂に地下司令部に侵入した.
自動小銃を持って扉の正面に立っていたダウドが,二人に向けて弾丸の雨を降らせた.グラブゾイが腕に負傷した.
これがダウドの最後の勇姿であった.
ダウドは大尉の軽機関銃弾に倒れた.崩れ落ちるダウドの上に,ダウドの妻が身を投げた.
彼女は,ダウドの弟ナイムや,子供達諸共銃弾の雨を受けた.彼らは主ダウドの上に,折り重なるように倒れていった.
宮殿内で殺戮が続いていた.夕刻には死者は91人を数えた.
逮捕された大臣や運転手達は,この死者の数には含まれていない.彼らは後にリンチを受けた.
夜陰に紛れて脱出を試みたダウド親派のバラ・イサール隊も遂に降伏した.
ダウドとその家族の遺体は一日王宮に放置され,二四時間経過後,夜,プル・チャルキ刑務所近くの広い土地に運ばれた.
一つ大きな穴が掘られ,そこに全員がぶち込まれた.
【質問】
反ダウド・クーデターはソ連が画策したものなのか?
【回答】
不明.
〔略〕
1978年には共産党理論家の暗殺――おそらくPDPAの争いが原因なのだろうが,ダウドのせいにされた――に続いて,カブール市内の反政府感情がいっきょに流出し,ダウドはパニック状態に陥った.
彼はPDPAの主要メンバーを狩り立てたが,軍部の共産党員に適切な処置をとることを躊躇した.
どの程度が計画され,どの程度が先を考えずに即断されたことなのかは明らかではない.
しかしソビエトがハルク派将校が率いる陸軍部隊に反乱を命じなかったとしても,彼らにはそうなることがはっきり分かっていた.
1978年4月24日,ダウドは地位を剥奪され,家族全員と共に処刑された.
デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.26-27
【珍説】
アフガニスタンでは,外国からの多額の借款供与,信用保証に伴って,いささか通貨増発,インフレの傾向となってきた.
王政打倒に参加した軍人達の中から,給与引き上げの要求が起こってきた.
社会主義を志向していた閣僚のモハマド・フェイスらが更迭された.その他,クーデターに協力した軍人達が追放されるに至った(1977年3月).
そのとき,ダウド政権は,ソ連からイランへと舵を右へ大きく切ったのである.
そこにはどんな理由があったのか?
まずダウドは,既に1956年の計画経済推進のときから,強権的な近代主義者であったということである.
〔略〕
第2に,あとの「ソ連のアフガニスタンへの軍事支援の前提」のところで触れるが,CIA,イランのSAVAKなど国際情報機関によるダウド政権の路線転換(脱ソ親米化)への誘導が大きな要因として指摘できる.
つづめて言えば,その転換は,アメリカの石油資本とCIAなどとの提携による綿密慎重な対米従属化デザインである.
(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.85-86)
【事実】
つづめ過ぎですな.
親米路線をとることが,なぜ従属化とイコールで結ばれなければならないのか,さっぱり理解できません.
それに何故石油資本が?
少なくとも2005年現在,アフ【ガ】ーニスタンは産油国になる可能性が全くありません.
アフ【ガ】ーン北部には油田がありましたが,年間生産量20万tに過ぎず,輸出に廻せるほどの量ではなく,また,精油所もないため,石油製品はソ連やイランからの輸入に頼っていました.
なお,北部の原油埋蔵量は700万t.その内,可採埋蔵量は240万tと見られています.1972年の生産量は20万tですから,12年で採り尽してしまう量ですね.
石油胚胎の可能性があると言われている南部Katawaz地域に関しても,採算性は未知数です.
アフ【ガ】ーンの石油事情については,詳しくは「ARCレポート総集 中近東諸国1」(《財》世界経済情報サービス編集&発行,1975/1)を参照してください.
「中央アジアの石油とパイプラインを介して繋がるため,そのルート上にあるアフ【ガ】ーニスタンを確保したかった」
とでもいうのなら,まだ理解できますが,そのためには1977年の時点でソ連崩壊を予知していなければなりません.
そんな予知能力を石油資本やCIAが持っていたとは,寡聞にして存じませんな(笑).
また,ダウド政権がソ連から距離を置いたと言っても,それは程度の問題であり,戦車部隊などはソ連製が主でした.
「不具合修理を名目に,ソ連はアフ【ガ】ーン軍戦車部隊をカーブルから引き離し,クーデターを成功させ易くした」
という陰謀論まで囁かれているくらいです(フランソワ・ミッセン「地獄からの証言」,サンケイ出版).
他にも経済面・軍事面で,クーデター直前までソ連はアフ【ガ】ーニスタンにおいて圧倒的な存在感を示していましたから,仮に親米化の流れがあったとしても,それは単なるバランス外交思考だったと見るほうが自然でしょう.
結局,佐々木の論は論拠が皆無に等しいと言えます.
【珍説】
しかし,翻って考えると,この国で初めてであり最後でもあったモダーニスト,ダウドは,アメリカ石油資本とCIAとの老獪な共同謀議の犠牲者でもあったのではなかろうか.
一般に途上国の指導者は,しばしば,自己の思うままに生涯を終えるというよりは,元の宗主国やアメリカなどの外国の政治的都合や圧力によって自由を失うことがある.
ダウドの場合にも,いくらかそのような暗い影が付き纏っていた.
(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.91)
【事実】
上述の通り,佐々木のこの見解は根拠に乏しいものですが,それにしても,「陰謀論は無知の徒の逃げ場」とはよく言ったものですな(笑).
【質問】
タラキ首相ら【ハ】ルク派による軍の粛清は,どのような規模だったのか?
【回答】
大規模.
首脳部逮捕を始めとして繰り返し粛清は行われたため,兵力激減の主因となったという.
以下引用.
〔1978年8月〕中旬になると,78年4月のクーデターに功績のあったアブデル・カデル国防相,シャプール軍参謀長といった軍首脳部20〜30人が反逆罪で逮捕された.
〔略〕
これら一連の逮捕に関して,タラキは軍の反人民的な性格を変え,今後はもっと建設的な役割を担わせると言明している.
政権転覆の動きが実際にあったかどうかは定かではないが,これは軍粛清の宣言と受け取ってよかろう.
〔略〕
軍の粛清は,タラキの宣言通り何度も繰り返して行われた.
その結果が,先に見た兵力の激減となった.※
全体として見れば,【ハ】ルクよりパルチャムに忠誠を誓っていた軍の幹部にとっては,パルチャム派の大掛かりな粛清に対してとれる道は,にわかに【ハ】ルク側に転向するか,それとも逃げるかであろう.
【ハ】ルクの当局者は前者を期待したに違いないが,党の軍の幹部は後者の道を選んだのであろう.
朝日新聞調査研究室著「アフガニスタン事件」(朝日新聞社,1980/4/15),p.17-18
※ 1979年には,戦況は政府側にとって悪化の一途を辿ったらしい.
8月になると,首都のカブールでもベラ・ヒサール兵舎で軍隊の反乱があり,政府側,反政府側双方で300人の死者が出たと報じられている.
アフガニスタンでは全軍隊の半分がカブールとその周辺に配置されていたと言われるが,それでも首都の安全は危うくなってきたのである.
こういった軍隊の反乱は,タラキ政権発足以後は決して珍しくなくなっていた.
反乱や集団脱走,あるいはゲリラ側への投降を防ぐために,タラキ,アミン両政権は軍部の粛清を繰り返すのだが,それは兵力温存に役立つどころか,逆に軍の崩壊を加速する役割を果たしたように見える.
いずれにしても,この政権が発足する以前には9〜10万人いた軍隊が,79年秋頃には,実際に使える兵力はほぼ半減していたという点では,西側の見方はほぼ一致している.
ダウド前政権下で陸軍の指揮をしていた上級幹部は,刑務所にいるか処刑されており,空軍の場合には,2000人いたパイロットが500人に減ったという報道もある.
こういった脱走,粛清は,一面では戦況の悪化から説明されるのだが,別の面から見ると,政府内部の派閥争いからも説明される.
同,p.12-13
……誰か,スターリンによる軍の粛清が,独ソ戦にどんな影響を与えたのか,教えてやらなかったのか?
【珍説】
農地改革に抗議する最初の狼煙が上がったのは,早くもその3月のことで,ヘラート州では大規模な反政府暴動が起こった(部族のリーダー,イスマイル・ハーンの指揮による).
それ以来,幾つかの州でもそれが発生した.
これは農地改革を敵視する地主達による,改革されたにも関わらず,その恩恵を感じない農民を組織しての「復讐(パダル)」の反乱であった.
(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.214)
【事実】
別項で述べているように,抵抗運動が起こったのは
「改革によって起こった問題が多岐に渡った」
ためであり,地主主導の反乱とはとうてい言えない.
そのような主張では,例えば全守備隊が反乱側に回ったことの説明がつかない.
しかも以下の記述によれば,学生,公務員,商店主までが反政府側に回っていることが分かる.
アフガニスタン国内では首都カーブルの他,ジャラーラーバード,ヘラート,カンダハールなど各地でソ連軍侵攻に反対するゼネストやデモが展開された.
カールマルは急速な社会改革路線をやめ,漸進的な改革の実施を表明し,1980年2月18日には,農村部の反発を押さえるために,農民の土地保有や相続を認めることを発表したが,これで反政府運動が収まる事はなかった.
21日,カーブルの多くの商店が店を閉め,
「アッラーは偉大なり(アッラー・アクバル)」
の合唱が市内で高らかに響いた(今川・清水・長田 1981: 596).
これに対し,政府は取締りを実施,夜間外出禁止令を出した他,翌22日にはカーブル市に戒厳令を敷いた.
23日にはカーブルの公務員もストを開始,状況は混乱する一方だった.
29日,ソ連軍はクナール州やカンダハール州で反政府ムジャーヒディーンに対する空爆を開始,武力衝突は各地に広がった.
5月2日,カーブルで学生によるデモが発生すると,政府軍がこれに発砲,57人の死者と100人の負傷者を出した.
ムジャーヒディーンは様々な場所でゲリラ攻撃を展開したため,14日,カールマル政権はイラン,パキスタンとの関係修復の6項目を提案し,近隣諸国との関係改善で事態を収拾しようとしたが,失敗に終わった.
同時にカールマルは,部族長やイスラーム団体の代表と会見してイスラームの尊重を訴えることも試みたが,これも成功しなかった.
山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.30-31
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンでは共産党は戦前,どのくらいの支持を得ていたのか?
【回答】
4議席がせいぜいのミニ政党でしかなかった.
以下引用.
〔略〕
この変化〔1950年代の,立憲君主制への移行〕が起きている間,2つの対立する地下組織共産党ハルク(「人民」)とパルチャミ(「旗派」)は,「PDPA」を結成した(1965年,書類上でのみアフガニスタン人民民主党として統一された).
少数の知識人,イデオロギー提唱者,ソビエトのエージェントが党員で,皆アフガニスタンの後退に幻滅を感じていた.
しかし,選挙では苦戦を強いられ,1965年の議会選挙では216議席のうち4議席,1969年には2議席しか確保できなかった.
その結果,地下組織活動をこれまで以上に重視するようになり,イデオロギーの違いから彼らは分裂した.
ハルク派はアフガン社会に向けた破壊活動の必要性を信奉するようになり,パルチャミ派は卑屈なまでに親ソ路線をとるようになった.
〔略〕
デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.23-24
某みずぽ党首の率いる,どこかの政党みたいだが,そういう連中に限って,自分たちに問題があるとは決して思わない,というのも日本とアフ【ガ】ーニスタンとで共通のようだ.
【質問】
共産政権の政治理念は,民衆にどれだけ浸透していたか?
【回答】
殆ど伝わらなかった様子.
以下引用.
「文字を知らない人達が多数を占めるアフ【ガ】ーニスタンにあっては,書き言葉には,大衆が理解できない単語,特に政治的な言葉が沢山あって,当時の国の状況を把握できないでいる人は多かった.
これを巧みに利用したのがムジャヒッディーンだった.彼らは存在をアピールするために,地下放送を始めたが,そのやり方が人々の関心を呼んだ.時事漫才とでも言えばよいのだろうか,中年と思しき男性が2人,時の政情を語るのだが,堅苦しい単語は使わず,くだけた話し言葉で,時には相手の話の腰を折ったり,やっつけたりしながら政治を批判するのである.
これが文字を解さない層にも受けて,アフ【ガ】ーニスタンやパキスタンで,この時間を心待ちにしている人が沢山いた.
〔略〕
このことからも分かるように,アフ【ガ】ーニスタンではニュース番組は大衆にあまり理解されていなかった.
したがって,「サウル革命」の理念をラジオで声高に叫んでも,それらは空振りだった,というわけだ.
政府も,地下放送のあまりの人気に便乗して,同じスタイルで始めたが,どうしても硬さは取れない.懸命な努力にも関わらず,全く盛りあがらない.
シディック家の人達〔本書の主人公〕だけでなく,難民の多くは,ムジャヒッディーンの海賊放送とイギリスBBCのペルシャ語放送にチャンネルを合わせて,情報を得ていたのである」
(泉久恵「国際結婚 イスラームの花嫁」,海象社,2000/2/21,p.242-243)
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