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Афганистан Последний солдат
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アフガーン侵攻から撤退までを,当事者の証言を交えながら追って行くドキュメンタリー
Армейский лифчик - история
советской разгрузки
アフガーン紛争におけるソ連兵のチェストリグについて
"Боевое братство"
в день 20-й годовщины вывода
советских войск из Афганистана
установит на Поклонной
горе боевую машину десанта
Концертный ансамбль ВДВ
"Голубые береты" примет
участие в мероприятиях,
посвященных 20-летию вывода
войск из Афганистана
Командующий ВДВ поприветствовал
участников фестиваля военно-патриотической
песни "Афганский ветер"
アフガーン撤退20周年を記念するイベントが開催されたようです.
空挺軍公式アンサンブルである「Голубые береты」が,アフガーン撤退を記念する歌を作り,会場で歌った.
その会場は空挺軍総司令官であるワレリー・エフトゥホビッチ中将も訪れたようです.
――――――CRS@空挺軍
「CNN」◆(2013/03/07) アフガンで行方不明の旧ソ連兵士,33年ぶりに生存を確認
CRS@VDV in twitter◆Фильм "Афганский ветер":
アフガニスタン紛争時のFIM-92スティンガー鹵獲任務についたGRUスペツナズの話
「D.B.E.三二型」(2010/09/18)◆「フルメタル・ジャケット」+「地獄の黙示録」のようなアフガン戦争末期の実話を元にしたロシア映画「9th Company(第九中隊)」
Пограничники в Афганистане.
К 20 летию вывода. Сюжет.
アフガーンにおいての国境警備隊に迫るドキュメンタリー
Полк в Афганистане 1985 год
アフガーンにおけるロシア空挺軍の写真集
Российский союз ветеранов
Афганистана
アフガーン紛争の退役軍人団体
Этот сайт посвящён сложившим
головы на земле Афганистана.
アフガニスタンにおけるGRUスペツナズの画像あり
「militaryphotos.net」:Afghantsi
「militaryphotos.net」:russian special forces in afghanistan
名前を変えたようですが,jamal氏が再登場しました.
鹵獲したスティンガーの画像がゾロゾロと.
――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年07月19日20:55
「militaryphotos.net」:Soviet-Afghan war thread
アフガーンおけるGRUスペツナズの画像をアップしているjamal氏登場.
何所から持ってきるのやら謎.
――――――CRS@空挺軍 in mixi
「militaryphotos.net」:Soviet Choppers in Afghanistan
「military video」:Afganistan
「military video」:Afganistan 2
「Picasa」:Pawelさんの公海ギャラリー>afganistan
「Picasa」:Pawelさんの公海ギャラリー>afganistan2
GRUスペツナズによって鹵獲されたスティンガーミサイルの画像もあります.
空挺軍とGRUスペツナズがごっちゃになってるので注意.
さぁ画面の前の諸君! 消される前に全てDLするのだ!! m9(・∀・)
――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年07月17日07:17
СОБЕСЕДНИК: Анатолий Исайкин: ≪НАШЕ ОРУЖИЕ С ПРИСТАВКОЙ ≪СПЕЦ≫
Рособоронэкспорт(ロシア国営兵器輸出公社)の役員が,元Вымпеле隊員でアフガニスタン従軍経験ありの猛者だった
――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年11月12日20:24
ЖАРКОЕ НЕБО АФГАНИСТАНА
Война в воздухе
ЖАРКОЕ НЕБО АФГАНИСТАНА
ШТУРМОВИКИ СУ-25
ソ連空軍による近接航空支援の様子
ТАК КТО ЖЕ СТАЛ ГЕРОЕМ?
Охота за первым ≪Стингером≫
FIM-92スティンガーの鹵獲に成功したGRUスペツナズ隊員の回顧録
「You Tube」:A 1988 documentary by Peter
Kosminsky. IMHO very good. A last some one
youtubed it.
http://www.youtube.com/watch?v=MW9zOCEB56I
http://www.youtube.com/watch?v=jxeY5gEVmc4
http://www.youtube.com/watch?v=p6gBhZFdEjg
http://www.youtube.com/watch?v=RQXY4ebnsdc
http://www.youtube.com/watch?v=KEGaTAQgDTE
ソ連側からみたアフガーン侵攻
【質問】
ソ連軍がアフ【ガ】ーンへ侵攻したのは,1979年が最初か?
【回答】
いいえ.
帝政ロシア時代を別にすれば,まず1925年,国境のアム・ダリヤ川の中洲をソ連軍が占拠.
この事件をきっかけに,翌26年には両国は不可侵中立条約を結んでいる.
これ以後,ソ連はアヌマラー政権の下で影響を強め始める.
次は1928年,アヌマラー王が,急激な近代化政策への反発によって権力の座を追われた際,ソ連は彼を再び王座につけようと,アフ【ガ】ーニスタンの駐ソ大使を司令官に担ぎ出し,現地人に変装させた850〜1000人の兵士をアフ【ガ】ーニスタン北部へ送り込んだ.
1929年4〜6月,この軍隊はマザリシャリフとタシュクルガンを制圧,カーブルへ進撃するが,国際的な非難を受けて撤退している.
その次に1930年6月,中央アジアにおける抗ソ組織「バスマチ」の指導者イブラヒム・ベグを越境追跡するため,ソ連軍は再度アフ【ガ】ーンへ侵入している.
この一件をきっかけに,ソ連とアフ【ガ】ーンの新王ナディル・シャーは1932年,二度目の不可侵中立条約に調印しているが,ナディル・シャーとその息子ザーヘル・シャーは,ソ連に対する不信感を強め,30年代には次第に距離を置くようになった.
詳細は,Assistant Professor L. P. Goodson著「アフガニスタン 終わりなき争乱の国」(原書房,'01,P.85-86)を参照.
【質問】
9年間に渡るアフ【ガ】ーニスタン戦争において,平均して同国に駐留したソ連軍の兵力は,
ソ連側発表:103,100
西側発表 :115,000
である.
なぜ世界最大の陸上兵力を持つソ連軍が,もっと多くの兵員をアフ【ガ】ーニスタンに投入しなかったのか?
【回答】
理由はただ一つ,経済面を含んだ輸送力の不足である.
「1984年頃,ソ連陸軍首脳は,政府に対し,地上兵力増強を要求した.
彼らの要求した兵員数は30.5万人で,駐留軍を3倍に増やすというものであった.
確かにこの要求が実現すれば,アフ【ガ】ーニスタン国内のゲリラ勢力を一掃することが可能であったはずである.
よく対比されるベトナム戦争では,最大55万人も投入し,約20万人の民族解放戦線ゲリラ,北ベトナム正規軍と対峙した.
しかし,アフ【ガ】ーニスタンのゲリラ勢力は最大でも10万人であり,ベトナムの場合よりソ連・カルマル政府軍の側に有利と見られた.
したがって,30万人増強が行われれば,反政府勢力は壊滅していたと思われる.
戦闘が最も激しかった1985年のソ連軍の総兵力は,実に511万5000人(他に,国内保安部隊など113万5000人)という大きなものであった.他国では陸軍と呼ばれている地上軍だけをとっても184万人である.
〔略〕
計算の根拠として,次のような数値を仮定する.
・約10万人の軍隊が,ソ連国境の町(クシカ,テルメズ)から平均700km地点に駐留している.
・アフガン国内では,飲料水以外は殆ど入手できないから,食糧,暖房用・車輛用燃料,医薬品を含む全生活物資をソ連国内から輸送し,その量は兵員1人1日当たり,40kgとする.
この見積もりは航空機用燃料,弾薬,爆弾を含む.したがって少々低めの見積もりである.自衛隊幹部による推定では,戦闘中は1人当たり50kg,警備態勢40kg,休養中30kgの物資が必要とされる.
・これらの数値を合計すると,ソ連軍が必要とする輸送量は280万km・t(輸送距離と輸送重量の積)である.
・輸送手段としては,大型トラック1台1日当たりの輸送力(貨物4tを積み,250kgを走破)は1000kg・t,また,航空機は同じく(10t, 1000km)10000km・tと見ればいい.
・全輸送量の20%をソ連の軍事航空部隊(VTA)とアエロフロート航空が運び,残りの80%を地上輸送部隊の大型トラック,トレーラーが担当する.
以上の控え目な見積もりによって計算すると,1日当たり大型輸送機56機,トラック2240台が休みなく運航しなければならないのである.
また当然のことながら,この数字は往路だけのものであるから,復路にも――荷物は積んでいないが――距離は消化しなければならない.
とすると,112機の輸送機が1000km,4500台の大型車が250kmを飛び続け,走り続けることになる.
これらに必要な燃料・人員を考慮すれば,いかに大国のソ連とはいえ,軍事介入を長期間続けることは不可能であった.
これが著者の推測の結論である.
アメリカ国防省報告によれば,航空輸送は順調に行われていたが,トラックによる輸送は困難を極めた.この原因は,アフ【ガ】ーニスタンの最悪とも言える道路事情と,絶え間ないゲリラの交通網に対する攻撃である.
テルメズから首都カーブルまでの距離は約700kmであるが,トラックはこの区間に平均4日,場合によっては1週間を費やした.
また,道路封鎖や車輛整備に要する時間を算入した時,アフ【ガ】ーニスタンにおける1日当たりのトラックの平均走行距離は220kmとなっている.
〔略〕
〔略〕,ここに記した輸送力に対する分析は,あくまでソ連からアフ【ガ】ーニスタン国内のソ連軍駐屯地までの間の事柄である.駐屯部隊は戦場まで輸送され,また,駐屯地間の輸送も行われる.
とすると,アフ【ガ】ーニスタン国内の地上・航空輸送能力は,別に必要ということになる.
ソ連軍の1個自動狙撃兵師団(西側の機械化歩兵師団)は,兵員11,000-13,000名から構成されている.
アフ【ガ】ーニスタンには3個狙撃兵師団(一部増強),1個空挺師団,1個空中強襲師団(ヘリボーン師団)が配備されていた.
各師団は平均1250台のトラックを持っていたから,前記の輸送部隊とは別に6250台の車輛があることになる.
これらを合計すると,アフ【ガ】ーニスタンで10-12万のソ連軍が戦闘継続していくためには,13,000台以上のトラックが活動しなければならない.
このトラックの運転手だけで,交代要員を加えれば,少なくとも兵士3万人が必要である.
このように見ていくと,例え兵員を2倍に増強したところで,直接戦闘に参加する兵士の数は,さほど増えるわけではない.
これらの事実から,長期に渡ってアフ【ガ】ーニスタンにソ連が派遣可能な兵力は,約10万人が限度と推測されるわけである」
(三野正洋著『わかりやすいアフガニスタン戦争』光人社,'98)
+
加えて戦費の問題もあった.ソ連の戦争支出は詳しくは分からないが,推定では9年の占領中,一年当たり70〜120億ドルだったと見られている.
ソ連のその他の防衛費と,同国の一般的な財政的・経済的制約を考えると,ソ連政府がさらに高い支出に耐えられたかどうかは疑問だ.
ソ連は輸送を強化するため,アム・ダリヤ河を越えて道路および線路用の橋を建設し,また長丁場を支えるため,その他の様々な兵站強化策を行った.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P. 263,抜粋要約)
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンにおけるソ連軍の戦闘序列は?
【回答】
細かい分遣隊など除けば,おおむね以下の通り(1988年2月時点).
第40軍司令部 | テルメズ | |
第40軍前進司令部 | バラ・ヒサール砦,カブール | |
第103空挺親衛師団 | カブール南西キャンプ | |
第108自動車化狙撃兵師団 | カブール北東キャンプ | |
第201自動車化狙撃兵師団 | クンドゥズ | 1988年7月撤退 |
第5自動車化親衛狙撃兵師団 | シンダンド | |
第88自動車化狙撃兵師団 | ソ連・クシュカ | |
第4自動車化親衛狙撃兵師団 | テルメズ | |
第70自動車化狙撃兵旅団 | カンダハール | 1988年9月撤退 |
第66自動車化狙撃兵旅団 | ジャララバード | 1988年5月撤退 |
第191自動車化狙撃兵連隊 | ガズニ | 1988年6月撤退 |
第866自動車化狙撃兵連隊 | フェイザバード | |
第56空中進攻旅団 | ガルデズ | |
独立空中進攻大隊(総数不明) | ||
第375空挺親衛連隊 | バグラム | |
2個スペツナズ旅団 | シンダンドおよびカブール | |
1個大隊相当の特殊部隊 | バラキ・バラク,チャガ・セライ, クナール,シルダラバードに展開 |
1988年撤退 |
1個空中機動大隊 | カブール? | |
第40砲兵旅団 | カブール | |
第40ロケット連隊 | カブール | |
第40空港警備大隊 | バグラム | |
2個KGB国境警備機動隊 | カブールおよびヘラート | 1988年撤退 |
その他独立旅団(総数不明) |
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.101-104を参照されたし.
アフ【ガ】ーニスタンのGRUスペツナズ
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンにおけるソ連軍の部隊編成はどうだったか?
【回答】
大半が混成部隊であり,特に1981〜83にかけては,各連隊が諸兵連合大隊1個を戦場に配置,こうすることで残り3分の1は訓練に従事,後の3分の1は地域防衛や非戦闘要員として扱うことができたという.
また,特に編成表に縛られていたわけでもなく,1987年までは,アフ【ガ】ーニスタン全土に膨大な数の中退・大隊・連隊級の部隊がいたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.96を参照されたし.
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンにおける,ソ連軍の指揮系統は?
【回答】
侵攻当初は
ソロコフ国防次官
┗TVD(南部戦域軍総司令部.ミハイル・M・ザイツェフ将軍)
┗LCSFA(アフガニスタン特別派遣軍)
┗第40軍
また,モスクワの参謀本部も,可能な限り直接参加,さらに,カブールとソ連のテルメズにそれぞれ司令部を置く作戦集団(オペラティヴナヤ・グルッパ)2つ,およびいくつもの地方守備隊司令部(解明されているもので,7〜18)が統制しており,こうした指揮系統では迅速な作戦・戦術の変更は不可能だったという.
また,内務省国内軍やKGB国境警備隊は,ソ連国防省の管轄外にあったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.91-95を参照されたし.
【質問】
アフ【ガ】ーン共産軍の指揮系統は?
【回答】
名目上は,カブールの国防省を頂点に,3つの軍管区司令部から,いくつもの独立した師団や旅団に流れていたという.
地域的な作戦以上のものが要求されたときには,連隊や師団が,より大きな部隊を形成したという.
もちろん,ソ連軍の作戦に従わなければならなかったことは言うまでもないが,ただしソ連軍がカブール政府を完全に掌握できたことは,一度もなかったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.93-96を参照されたし.
【質問】
1980〜1981年の,アフ【ガ】ーンにおけるソ連軍の苦戦の原因は?
【回答】
ソ連は当初,ゲリラ掃討にはカーブル政府軍を使う予定だったため,同地に派遣された自動車化狙撃兵師団の兵士は,訓練未熟な予備役兵の寄せ集めだった.
戦術面では,警戒や戦術偵察などの安全確保策が欠けていたため,峰や高地などではしばしば奇襲を受けた.
また,経験不足からソ連軍はゲリラに接近しすぎ,火力支援の効果を大きく減じた.
ソ連軍戦車部隊は,幾度も歩兵による掩護のない戦闘を行ったため,ろくな対戦車兵器を持たないゲリラに対して,相当の損失を出した.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.36-40を参照されたし.
共産政府軍?
【質問】
アフガーンに派遣されたソ連兵の練度は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,1980年初頭にかけては自動車化歩兵師団の大半は予備役兵であり,徴兵を終えてからの再教育訓練は殆ど受けていなかったという.
1980年中ごろまでには予備役兵はいなくなり,また,1984年以後は,アフ【ガ】ーニスタンの内情に合わせた訓練を6ヶ月受けてから,アフ【ガ】ーンに派遣されたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.107を参照されたし.
アフ【ガ】ーンでの1こま
【質問】
ソ連のアフガン帰還兵への評価ってどうなっているんでしょうか?
アメリカのベトナム帰還兵は,ずいぶん酷い言われようでしたが.
【回答】
ロシア映画,旧ソ連映画でアフガン帰りを抱えた一家が登場するものはあります.
そこらを丁寧にみていくと自ずと分かると思います.
麻薬汚染や戦争神経症,放心して仕事にも就けない有様などが描かれている物があります.
これはイラク戦争から帰還した米兵についても同様で,戦争を戦い抜いた英雄として歓迎するものから,その後の極めてショッキングな人生(重度の火傷を負い,熱心に看病してくれた幼馴染と結婚するも離婚,短い生涯を終えるとか)など様々です.
また,最近では米陸軍の戦傷者,ことに長期療養者に対する待遇の劣悪さ,官僚主義の蔓延による医療サービスの欠陥が指摘されて軍医総監が更迭されたり(昨年だったと思います)しています.
国内の雰囲気については,戦地に慰問小包を送る動きが開戦直後は随分あったけども,最近ではさほど報道されていないように感じます.
これは感謝祭の前後の報道を定量比較していくと跡付けられると思います.
ということで一口に回答するのは難しい.
ちなみにアフガン帰還兵はアフガンツィと呼ばれており,一部はロシア・マフィアになって,アフガン時代から手を染めていた麻薬取引に携わったりしていました.
『ブラック・ラグーン』のバラライカ姐さんとその一党なんかは,そうした事実を元にして設定されてる.
ソ連崩壊の前後にNHK特集でアフガンツィを取り上げてたが,そっちではアル中になったり新興宗教にはまったりと,悲惨な生活を送ってる人々が出てたな.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ソ連軍って,独ソ戦や満州侵攻の印象からか,大挙して機甲部隊がなだれ込んでくるというイメージがあるね.アフガン侵攻でも街道を戦車や装甲車が数珠つなぎでドドッと来たのかな?(軍事板)
【回答】
アフ【ガ】ーニスタンの険峻な地形では,梯団攻撃はむりほ.
ソ連軍は従来の,中国か中央平原の向こうの敵に対する大規模,迅速な軍事行動のために訓練されており,アフ【ガ】ーニスタンの山がちな地形には全く不慣れだということに気付いた.
ソ連軍は戦車その他の重兵器を大量に持って来たが,狭いアフ【ガ】ーニスタンの渓谷では使えなかった.(T-72はオフロード走行に耐えられず,T-55とT-62しか使い物にならなかった.ディスカバリーチャンネル『泥沼にはまったソ連軍のアフガン侵攻』より)
また,地上と空から大規模な攻撃を行うこともできたが,抵抗勢力は攻撃されている場所から姿を消すだけで,後で戻ってきて,ソ連軍に対する妨害と奇襲を再開した.
80年3月にクナール渓谷で行われた反撃が,占領初期の例として挙げられる.チャガ・サライで包囲された守備隊をソ連軍は解放することはできたものの,その地域に永続的影響を与えることはできなかった.
彼らはただ,住民の住む村を攻撃し,地方から人を消そうと努力を尽くした.ムジャヒディンが潜伏しているかもしれない地域に,大砲,航空機,ヘリで支援した機甲師団を送った.
また,ソ連から逃れるために住民が山岳地帯に逃げると,彼らは焦土作戦を行い,建物,家畜,穀物,灌漑システムを破壊した.そして村に残った人を残らず殺害し,村を離れる際には地雷を敷設していく.ときには村や渓谷を絨毯爆撃することもあった.
アフ【ガ】ーニスタン侵攻が長丁場になりそうだと気付いたソ連は,80年夏から軍隊を再編成し,戦略に磨きをかけた.多くの戦車や重兵器を本国に帰し,地上攻撃と兵員輸送のためにヘリコプターを大幅に増やした.指揮権は現場に委譲され,戦術はより柔軟になった.空爆の前に大規模な掃討が行われ,部隊はムジャヒディン集団背後にヘリコプターで下ろされ,彼らの退路を絶った上で,前面から攻撃を仕掛けた.
ムジャヒディンは夜に移動する作戦をとり,攻撃が行われると姿を消し,ソ連と政府軍が消えた後に戻った.
特に激しい戦闘の舞台となったのは,カーブル北方からサラン峠への道路付近に戦略的に位置していたパンジシール渓谷で,ここでマスードが軍事行動を続けていた.ソ連占領時代,マスードは傑出したゲリラ指導者として国際的な評判を獲得する.彼は優れた知性を持ち,彼の効果的な軍事行動と,広報活動への天性では誰にも引けをとらなかった.
長年の間,マスードが一時的な休戦を交渉したとき以外は,ソ連はこの渓谷に主要な攻撃を続け,兵員数千名の部隊を送った他,激しい空爆を行った.
両者とも常に大量の犠牲者を出している.
その内渓谷は空き地になり,ムジャヒディンも市民もいなくなり,マスードは拠点をヒンズークシュ山脈の北に移した.この地で彼は,北部評議会(シューラ・イ・ナワズ)を通じて抵抗勢力を調整した.
ソ連もまた,航空機やヘリコプターから「バタフライ爆弾」や対人地雷をばら撒いて,地方に至る道路や小道を絶とうとしたが,大した成功は収められなかった.これらの爆弾は,石や玩具を装っていることが多く,人を殺すよりも体の自由を奪うことを目的としていた.ゲリラ集団の力を何より奪うのは,医療施設から遠く離れているところで,いずれ死ぬ運命にある負傷者治療をせねばならないことだ.また,地雷は家畜を殺すのにも役立った.
(Sir M. Ewans 『アフガニスタンの歴史』,明石書店,P. 258-263,抜粋要約)
戦争後すぐにソ連側は,訓練不足の若い徴募兵達で構成される軍隊を,高度に専門化された山岳戦に投入するのは得策ではないと気付いた.
ソ連軍全体が,ドイツ北部平原に展開するNATO軍に対し,機甲部隊による大規模攻撃をかけるために整備されており,大幅に贅肉を殺ぎ落として状況に合わせる必要があった.
まず最初にソ連軍が捨てたのが戦車である.戦車砲は山岳戦に必要なだけ上に向けることができなかった.
さらに,現場指揮官が自主的に判断を下せる流動的な共同作戦のやり方を学ばねばならなかったが,これはソ連軍にとって新しいコンセプトだった.
そして何よりも,現代戦に不可欠な兵器としてのヘリコプターの価値を,ソ連軍は認識する必要があった.
(Gaz Hunter 「SAS特殊任務」,並木書房,2000/11/1,p.114-115)
彼〔英語の上手いムジャヒッディーン〕は,我々のようなパキスタンから来るムジャヒッディーンの輸送隊を,ソ連軍はどうやって妨害しているか話してくれた.
日が沈む頃,ソ連軍はヘリコプターでコマンドー部隊を投下し,無作為に選んだ小さな峠に浸透させる.彼らは入念に偽装して岩の間に隠れ,通りかかった抵抗派の驢馬輸送隊をずたずたにする機会を待ち望みながら,夜を徹して監視を続けるのである.例えば我々のような.
彼は,こういう待ち伏せチームに遭遇する事をムジャヒッディーン達は皆恐れていると教えてくれた.
(同 p.132-133)
また,対ゲリラ戦術としては,ゲリラが隠れることのできる「人民の海」を枯らすという,仮借のない戦術がとられた.
これが夥しいアフ【ガ】ーン難民を出す主因となった.
以下引用.
〔略〕
〔国境なき医師団のクロード・マルレ〕博士の言うソビエトの対ゲリラ戦略とはどのようなものであろうか.
それは全体主義的政治体制をとった国家特有の戦略である.
それは,中国の解放戦争を指揮した毛沢東が,抵抗運動(ゲリラ戦)の力の根源を「魚が水を得る」ことにあるとした理論から学び取った戦略である.
つまりゲリラを人民(民衆)から引き離す最も簡単な方法は,魚の入っている鉢から水を空にして,魚を捕えることである.
いいかえれば,ゲリラ活動に対する最も効果的な対抗戦略は,人民に対して大規模な報復,時にはその住民のかなりの部分を根絶することも含む仮借なき戦略を展開することである.
この想像を絶する恐怖の戦略はすでに世界各地で実験済みで,MSF〔国境なき医師団〕はその国際的な医療活動の中でこれを目撃した.
エチオピア内戦の際,政府軍は反政府軍側の根拠地であるオガデン地方の町や村を一つ残らず爆破し,この地方のほとんど全住民といっていい100万近い人々が難民としてソマリアに逃亡した.
そして政府軍はその難民キャンプに対して躊躇することなく空からの爆撃を行っている.
カンボジア内戦でベトナム軍が勝利を収めたときも,ベトナムは支援するヘンサムリン派などカンプチア救国民族統一戦線側に支援物資を送れば,それが敵側のクメール・ルージュの手に移ってしまうと考えて,徹底的な兵糧攻めの戦術を取った.
何万というカンボジア人が餓死し,何十万人が国境を越えてタイに逃げ込み,国際救援組織から送られた何万という食糧が,コンポン・ソン港で腐ってしまった.
これらの食料の残りは全てベトナム軍と救国民族統一戦線軍に利用されるだけであった.
アフガニスタンでソビエト軍が行っている対ゲリラ戦略は,こうしたエチオピアやカンボジアですでに実験済みの戦略である.
それは例えばアルジェリア戦争のフランス軍やベトナム戦争のアメリカ軍など欧米諸国がとった対ゲリラ戦略とは明らかに違う.
〔略〕
ソビエト軍は町を占拠しても,これを近隣の地域を支配するための拠点として使おうとはしない.
占拠した町はあくまで駐屯地か,兵站用の場所として利用するに過ぎない.
そこにソビエト軍は兵器,物資を保管する施設,航空基地,兵舎,陣地などを建設する.
しかし住民をソビエト軍の保護下に置く「戦略村」は作らない.
住民をソビエト軍やカルマル政権の側に引き付けるため,彼らに何かの給付を与えるといった努力もしない.
地上部隊を動員するソビエト軍の軍事作戦はごく限られており,作戦が行われる場合は戦略的目的のためにだけ行われる.
例えばカブールから北方のソビエト国境に通ずる幹線道路を守るための作戦,カブール北東の軍事上の要衝パンジシール渓谷やアフガニスタン最東部の中国,パキスタン,インド,ソビエトと国境を接する「ワハン回廊」での作戦であり,これらの作戦はゲリラ部隊を捕捉するのが目的ではなかった.
ソビエト軍はこのように支配地域の拡大を目指さない代わりに,村をはじめ住民の居住地域を徹底的に殲滅する作戦を展開している.
反政府ゲリラの拠点と見られる村をソビエト軍が急襲すると,村の住民は近くの山岳部へ逃げ込むが,ソビエト軍はこの間に住居や備蓄用の穀物など食糧を残らず焼き払う.
例えば1980年12月中旬,カブール南方のガズニ地方でソビエト軍の対ゲリラ作戦が行われたが,戦闘の2日後にこの地域に入ったMSFの医療グループは,焼き払われた多くの村村でまだ煙が立ち昇り,ソビエト軍が残していった偽装敷設爆弾(ブービー・トラップ)で負傷した村人達を発見した.
ソビエト軍は初め空軍と歩兵部隊を中心とする地上軍の共同作戦という形でこの作戦を行っていたが,ゲリラ側の激しい抵抗で損害が大きかったため,1980年末頃から,この共同作戦に代わってヘリコプターを主力とする空からの攻撃に力を入れるようになった.
空から居住地域を爆撃して破壊するだけでなく,地雷や偽装爆弾を落とすが,これは人を殺戮するためではなく負傷させるのが狙いである.
ゲリラ戦では死者より負傷者のほうがゲリラ部隊にとって負担になる.負傷者を運ぶ事によってゲリラ側の戦闘能力は落ちる.
それだけではない.
地雷や偽装爆弾はゲリラが支配する地域の経済に大打撃を与える.
特に東部の住民は隣のパキスタンとの交通によって経済を成立させているのだが,その交通路に大量の爆発物がばらまかれることで,兵糧攻めに遭うことになる.
家畜の被害も大きい.傷ついた家畜が伝染病のもとになるのを防ぐため,大量の屠殺が行われているという.
ソビエト軍のこうした殲滅作戦のもう一つの帰結は難民問題である.
1983年12月の段階でアフガニスタン難民の数は,パキスタンに300万人以上,イランに100万人以上に上り,さらに首都カブールはじめアフガニスタン国内の主要都市にも多くの難民が流れ込んでいる.
この異常とも言える大量の難民の流出は,単に内戦に巻き込まれまいとする人たちの動きというより,ソビエト軍の意図的な戦略によってそのように追い込まれた結果だというのがマルレ博士の見方である.
大量の難民によって,ゲリラが支配する地域の住民人口は極端に減少し,過疎化の現象を起こすのに対し,カルマル政権の支配するカブールなど都市部の人口は激増する.
長期的に見ればソビエトとカルマル政権(あるいはそれに代わる傀儡政権)が支配する人口と,反政府勢力側の人口の差は,比較にならないほど差が出てくるはずである.
ソビエト軍の徹底した戦闘ぶりを伝える,このMSF報告を裏付けるのが,米国務省広報局の報告(『アフガニスタン.占領4年』 1983年12月,特別報告第112号)である.
それによるとソビエト軍はゲリラ側の攻撃に対して報復攻撃を強めており,周辺の村,耕作地,果樹園を徹底的に火力を使って破壊し,住民のうち男子を残らず処刑する作戦をとっている.
その例として,国務省報告は
83年7月,ガズニでソビエト軍数人が殺された報復として,この町の約30人が処刑された事件,
同10月,カンダハルでのゲリラ側の奇襲攻撃に対して近隣の村がいくつか報復を受け約100人の民間人がソビエト軍によって殺された事件,
さらに同時期,ショマリ地方でも村落に対するソビエト軍の連続的な爆撃によって,アフガニスタン農業の模範的地域といわれていた同地方のブドウ畑や果樹園が修復不能なまでに破壊され,女性や子供も含め民間人数百人が殺された事件
を挙げている.
〔略〕
マルレ報告によると,MSFの医療グループは過去4年間,アフガニスタンの戦闘の現場でつぶさにこうした異常な状況を目撃してきた.
当然の事ながら,MSF医療グループはソビエト軍の標的となった.
1980年と81年,4つの医療施設がソビエト軍のMi24型ヘリコプターの意図的な攻撃によって破壊される一方,パンジシール渓谷では別のフランスの組織「国際救急組織」(Aide Madicale Internationale)が運営する2つの病院が同様に破壊された.
攻撃を受けた病院の一つは屋根に赤十字の大きなマークをつけていたと報告は告発している.
MSFの医師や看護婦達はソビエト軍地上部隊の追及も受けており,1983年1月,医師のフィリップ・オーゴヤール博士が捕えられた.
〔略〕
――――――『アフガニスタンはいま』(飯田健一著,日本放送出版協会,1984.5.20),p.25-32
【質問】
ソ連軍が輸送部隊を守るために行った戦術は?
【回答】
部隊を高地の陣地に空輸し,「交互躍進」させたという.
これは,トラック縦隊が山中の曲がりくねった道を通るときは,その部隊が警護して,その後再び別の目的地へ移動するというもの.
地上から到達可能な陣地では,輸送車も投入されて迅速な対応を行い,ムジャヒッディーンが待ち伏せするチャンスを全く与えないようにしたという.
ただし,こうした作戦は兵力を集中させねばならず,メンテナンスや兵站の必要もあって高くついたとの由.
詳しくは
『最新コンバット・バイブル』(クリス・マクナブ&マーティン・J・ドハティ著,原書房,2008.5.10),p.275
を参照されたし.
【質問】
アフガーンにおけるソ連軍の斥候のやりかたは?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,遠距離斥候の際はよくヘリが使われたが,スティンガー・ミサイル投入後は減少したという.
また,防御,待ち伏せ,偵察,目標設定を目的とした斥候はソ連軍侵攻後,次第に増えていき,観測所(OP)も設置されたという.
OPは通常,ヘリコプターでなければ近づけない山頂に置かれ,周囲に地雷を敷設したという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.105を参照されたし.
アフガーン紛争におけるVDV(ソ連空挺軍)
【質問】
「アクティヴ・メジャー」とは?
【回答】
アフ【ガ】ーニスタン国内および世界の状況に影響を及ぼす情報戦,心理戦,秘密工作などの,ソ連による呼称.
アフ【ガ】ーニスタン戦争ではこれは殆ど成功せず,1988年頃には現実的ではなくなったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.86を参照されたし.
まあ実際には,「アクティヴ・メジャー」に相当するロシア語で呼んでいるのだろうが.
【質問】
アフ【ガ】ーニスタン紛争に登場したソビエト空中強襲旅団(ヘリボーン旅団)について教えてください.
【回答】
アフ【ガ】ーニスタン紛争のソビエト空中強襲旅団(ヘリボーン旅団)は,1970年代頃から編成されました.
空挺軍(VDV)の大規模な降下作戦も基本ですが,コンパクトで機動性の高いヘリコプターに着目し,色々と思索を重ねた結果,誕生したもので,正式名称は「Desantnaya
Shturmvaya」(訳は空中強襲部隊) 略してDShB
(Day-Shah-Bey) です.
基本的な概念や装備はアメリカと同じですが,師団ではなく旅団単位で構成されます.
ただ,自前のヘリを持つ部隊と,空軍のヘリを借りる部隊とがあったそうな.
VDVと同じく兵員は募集されます.
もっとも,VDVから引き抜きされた隊員もいるかもしれません.
VDVと同じくらいの訓練を受けた精鋭部隊ですが,パラシュート技能は持っていません.
人種はスラヴ人で,シベリアやアルタイから来た人が多いそうです.
訓練補佐官にはアフガン人も多く居たようです.
DshBは常に中隊規模で戦闘し,めったに中隊以上の戦力では戦闘しませんでした.機動力に重点を置いたためです.
お陰で対ゲリラ戦に多大な効果を発揮しました.
また,時々は補給コンボイの護衛や,暴動鎮圧のため陸軍の手伝いもしました.
GRUスペツナズに間違えられてムジャヒッディーンからなぶり殺しにあった隊員もいたそうですが,DShBも敵地にひっそりと侵入し,殲滅したこともあります,
ただ,報告によれば稀な出来事だったそうで,GRUの様なことはあんまりしなかったようです.
DShBはVDVやGRUスペツナズと共に前線で戦い,多大な功績を残しました.
Mi-8 ヒップから降りるDShB隊員
CRS in mixi,2007年04月05日21:34
【質問】
アフ【ガ】ーニスタン紛争時のソ連軍の画像ですが,どれが空挺軍なのか,ソ連軍素人には分かりません.
素人目にもすぐ分かるチェック・ポイントを教えてください.
【回答】
簡単な見分け方は,青のベレー帽や,襟の近くに空挺軍の記章があることですが,ただ,写真を見る限り,儀礼の際やソ連支配地域内でしか付けていません.
また,水兵シャツもこの頃から一般化しており,空挺軍なのか判別不能です.
これは空挺軍の兵士はよくGRUスペツナズに勘違いされてゲリラになぶり殺しにあうケースが多発したため
,この防止策として陸軍の記章を付けたり,記章類を付けなかった――これが一番多い方法だった模様――りしたようです(証明書も陸軍に書き換え).
GRUスペツナズは空挺軍を隠れ蓑にしていましたから.
空挺軍隊員
空挺軍所属BMP2 砲塔にうっすらとマークが見えます
【質問】
ニコライ・チェピクとは?
【回答】
ニコライ・ペテロビッチ・チェピク Чепик Николай Петрович
は,1960年4月16日ベラルーシのミンスク付近出身.
第317空挺連隊の工兵副小隊長としてアフガニスタンへ派遣.
1980年2月29日,戦死.
1980年4月28日にソ連邦英雄として認定され,故郷ミンスクに彼の記念碑が立てられた.
現在でも彼の名前を冠した学校や通りが存在する.
2008年10月には,第242空挺軍教育センターで,「ソ連邦英雄Чепик
Николай Петрович記念格闘技杯」が開催された.
Итоги 15-го всероссийского
турнира по армейскому
рукопашному бою памяти
воина-афганца Героя Советского
Союза Николая Чепика
CRS@空挺軍 in mixi,2008年11月07日23:47
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争における共産軍の装甲車輛は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,T-55が初期の主力.
後にT-62が増強された.
T-72も初期には少なかったが,1988年までには多数が参加するようになったという.
装甲車輛は初期にはBTR-60,その後BTR-70,BTR-80に切り替わり,BMP-1,BMP-2も使われたという.
また,山岳地帯では戦車砲の射角には制限があったため,ZSU-23-4自走対空砲や自走榴弾砲が使用されるようになったという.
さらに空挺軍は,BMD空挺歩兵戦闘車も持ち込んだが,戦場で見かけられることはあまりなかったという.
カーブル政府にはT-34,T-54A,T-62があったが,その多くを損耗したという.
装甲車輛はカーブル政府にはBTR-152が少数しかなく,それも損耗したため,BTR-60,BRDM-2に切り替えられたという.
BMPには多量の弾薬と燃料が一緒に積まれているため,RPGが命中するとしばしば爆発炎上したという.
また,BMPの側面は重機関銃弾に貫通されてしまったという.
幸いなことに,重機関銃はムジャヒッディーンの手には入りにくかったわけだが.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.122-127を参照されたし.
アフ【ガ】ーニスタン紛争のBMP-1
アフ【ガ】ーニスタン紛争のBMP-1
現地改造で砲塔に無反動砲?とAGS-17自動榴弾発射機を積んでいる
アフ【ガ】ーニスタン紛争のТ-62М
鳥籠装甲を施している,珍しい画像です.
1988年に撮影されたそうなので,部隊の現地改造と考えられます.
CRS@空挺軍 in mixi
【質問】
BTR-70改造自走砲について教えられたし.
【回答】
アフガーンにおけるGRUスペツナズの動向を記した本より.
BTR-70の車体にロケット弾ポッドを装着した現地改造モデル.
航空部隊からの借り物か,
詳しい背景は不明だが,素晴らしいゲテモノ改造と言わんばかりである.
CRS@空挺軍 in mixi,2010年03月22日21:44
【質問】
ZSU-23-4 「シルカ」って何?
【回答】
輸送車列の護衛任務やGRUスペツナズの支援車輌として配備された自走式高射機関砲.
上記の任務の他にも,ソ連空軍各飛行場にも配備されていた.
というのも航空攻撃に悩まされていたアフガーン・ゲリラは,この忌々しい飛行場を襲撃することがしばしばあったらしく,この厄介者を始末するのにシルカは大いに役立った.
適度な装甲※と23mm機関砲の火力は,こうした襲撃に対して大いに威力を発揮した.
後のチェチェン紛争でもシルカは同じような任務(対ゲリラ戦)に就いていることから,対歩兵駆逐戦闘車両として側面もあるかもしれません.
また,アフガーンやチェチェンでの経験が,本格的な対歩兵駆逐戦闘車両である「BMPT」を開発したのかもしれません.
その意味ではシルカはその先駆けと言える存在かもしれませんね.
本来の任務である対空では無くて,対地というのがちょっとアレですけど(笑)
※ 防衛任務だったら,重機関銃やZU-23-2連装機関砲(2A13)でも良いのですが,シルカの場合は装甲化されているので,射手が生身ではないことに注目.
流石にRPGの直撃はダメですが,銃弾や破片を防げれば問題ないのです.
CRS@空挺軍 in mixi,2009年02月16日23:17
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争における共産軍の対戦車兵器は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,アフ【ガ】ーン人の家やサンガー(アフ【ガ】ーンでよく見かける低い石壁)を狙うために,以下のような対戦車兵器が使用されたという.
RPG-7(OG-7 破片榴弾と共に用いた)
RPG-16
RPG-18
RPG-22
AT-3 「サガー」
AT-4 「スピゴット」
RPO-A
RPO-50
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.130を参照されたし.
RPG-16を持った空挺軍隊員
RPO-A 「Schmel」
発射されたRPG-7弾頭を見事にキャッチ!
(うそ)
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争において共産軍が使用した火砲は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,カーブル政府軍は旧式の76.2mm砲を使っていた.
戦争中はM-30 122榴弾砲が長期間使われたが,D-30
122mm牽引榴弾砲に次第に依存するようになったという.
また,ロケット砲では,132mm BM-13多連装ロケット発射機を使ったという.
迫撃砲では,
120mm M-1943型
82mm M-1937型
が使われたという.
ソ連軍も初期にはM-30を装備していたが,D-30に切り替えられ,さらに一部はSO-122
2S1 122mm自走榴弾砲に切り替えられたという.
また,D-1 152mm牽引榴弾砲や,SO-152 2S3
152mm自走榴弾砲も使われたという.
一方,ソ連軍重砲兵旅団は当初,長射程の130mm M-46牽引野砲を使っていたが,1987年までにはSP-152
2S5 SP 152mm砲に切り替えられたという.
さらに空挺軍は,ASU-85空挺突撃砲も持ち込んだが,それらは戦場で見かけることはあまりなく,かなり初期に撤収,代わって2S9
120mm自走迫撃砲が使用されるようになったという.
ロケット砲では,BM-21a(40口径),BM-21b(36口径)
122mm多連装ロケット発射機や,BM-22 220mm多連装ロケット発射機を使用したという.
後者は特に,スティンガー・ミサイルによってはインドの活動が制限されると,その任務を代替するようになったという.
迫撃砲では,
SM-240 2S4 240mm自走迫撃砲,
2B2「ヴァシリエク」 82mm自走迫撃砲,
120mm M-1943型
82mm M-1937型
などが使われたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.125-130を参照されたし.
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争における共産軍の歩兵用火器は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,ソ連軍では
AK-74
AKS-74
AKSUカービン銃
RPK軽機関銃
BG-15 40mm擲弾発射機
など.
また,1984〜86年は特殊作戦部隊の活動が増えたため,消音器付きの,AKM小銃やP6
9mm拳銃が導入されるようになったという.
カーブル政府軍では
AK-47
AKM
AKMS
RPK
SVD 7.62mm狙撃銃(1個小隊当たり9丁)
PKM 7.62mm汎用機関銃
NSV 12.7mm重機関銃
など.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.130を参照されたし.
画像掲示板から引用(原出典は「Men at Arms」シリーズ?)
各種銃器を持つ,アフ【ガ】ーン紛争のソ連兵
プラモデルのパッケージより
当時スペツナズが持っていた小火器
【質問】
アフガーン紛争におけるソ連軍の迷彩服は?
【回答】
KLMK・KZMの他,ウクライナ軍迷彩(と私は勝手に呼んでいる)を着用していた模様.
ただ後者はそんなには広まっていないようで,どちらかと言えばKZMの着用率の高さが目立つ.
しかしこのウクライナ軍迷彩は,第一次チェチェン紛争では着用が目立つ.
CRS@空挺軍 in mixi, 2008年03月18日21:42
【質問】
国境地帯の砦の役割は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,ムジャヒッディーンの補給路を封鎖し,共産党の存在を誇示し,標的を発見し,また,ヒューミント網の通信センターとしての役割があったという.
そのため,国境の砦はムジャヒッディーンの標的となり,その攻撃の際にはムジャヒッディーンは自軍を集結せてしまい,ソ連軍による空爆・砲撃の格好の標的となったという.
砦にはカーブル政府軍兵しか義勇兵しか配備されず,封鎖は大して期待できなかったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.128を参照されたし.
【質問】
ソ連軍は地雷をどう使用したのか?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,直接火力の及ぶ範囲を越えて支配地域を広げるべく,大規模な妨害工作をするためと称して地雷を多用,1985年の東部国境作戦だけで200万個を使用したという.
主に使われたのはPFM-1「バタフライ」地雷で,アフ【ガ】ーニスタンの一般市民と動物に多くの犠牲を出したという.
ソ連軍は撤退する際,地雷撤去はおろか,地雷原がどこにあるのかも通告しなかったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.131 & 134を参照されたし.
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争におけるソ連軍航空部隊の兵力は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,1988年2月時点では
●戦闘機
15機編成の飛行隊×10個がアフ【ガ】ーニスタンに.
同数が,ソ連領内にてアフ【ガ】ーンでの作戦を支援するために.
機種は
MiG-21
MiG-23
MiG-27
Su-17
●ヘリコプター
30〜50機編成の飛行連隊およそ7個
独立飛行隊が数個
275機以上がアフ【ガ】ーニスタンに.
その1.5倍がソ連領内にて,アフ【ガ】ーンでの作戦を支援するために.
●攻撃機
Su-25
●爆撃機
Tu-16(最大2個飛行隊)
Tu-26
▼ このうちSu-25「フロッグフット」は攻撃精度が高く,アフ【ガ】ーニスタンではムジャヒッディーンから最も憎悪される航空機となったという.▲
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.120 & 131を参照されたし.
MiG-21PF
MiG-23
アフ【ガ】ーンにて.墜落したヘリ
【質問】
共産軍は空爆には,どのような兵器を使用したのか?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,普通爆弾,旧式設計の57mmロケット弾,クラスター爆弾などが最も多用されたという.
時にはレーザー誘導爆弾や燃料気化爆弾も使われたが,カブール政府軍パイロットは,安全装置を解除しないまま投弾しがちだったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.131を参照されたし.
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争初期のソ連軍のヘリコプター戦術は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,低高度において4〜8機のハインドが,WW2のシュトルモビクの「死のサークル」戦術のような円形パターンで攻撃したという.
しかし即応性や地上軍との調整,戦術上の柔軟性などが欠けていたという.
1983年までにはハインドによる攻撃は,まず目標から7000〜8000m離れたところから発進し,低高度に入るという方法をとるようになったという.
また,1機が高高度から爆撃する間,僚機は稜線の背後に低空でとどまり,発砲し始めた敵を攻撃する態勢を取ったという.
輸送護衛任務では,輸送部隊に随行している空軍兵士が直接「前線航空統制」を行い,待ち伏せさ攻撃れた場合には,彼がハインドの援護を呼んだという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.113-116を参照されたし.
アフ【ガ】ーン紛争における「ハインド」ヘリ
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争におけるソ連軍のヘリの損害は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,ソ連軍がアフ【ガ】ーニスタンで失った航空機,ほぼ1000機のうち,80%以上がヘリコプターであり,その損失の約3分の1がハインドだったという.
その損失原因の半数は,事故や故障によるものだったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.116-117を参照されたし.
「ハインド」ヘリ・パイロットが撮ったアフ【ガ】ーニスタン
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争での,ソ連のMil-8による空中強襲検問の実態を,概要だけでも教えてもらえないだろうか?
サーチ・アンド・デストロイと,どこがどうちがうんだろう?
【回答】
『Great Gamble』によれば,この動画
http://www.youtube.com/watch?v=0Z4RwkNK42U
に出てくる,ブラックホーク+米軍部隊+アフガン治安部隊の組み合わせを,Mi-8+ソ連軍でやっていた.
幹線道路沿いにヘリで飛んで,怪しげな車列や人,活動などを発見したら,舞い降りて車両と人を調べる.
幹線道路沿いの固定検問とちがって,場所の自由が大きく,迂回されにくく,武装勢力が戦力を集結してその場や帰路で待ち伏せを仕掛けにくい利点あり.
うまくゆけば,行動の自由を大きく阻めることになる.
軍事板,2010/10/23(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争において,ヘリへの対空攻撃に対し,どんな対策がなされたのか?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,1983年には,ハインドとヒップは自動投弾システムで爆撃するようになり,包囲攻撃を受けている前哨拠点には,螺旋形を描くようにして接近するようになったという.
また,1986年までには,赤外線ミサイルを引きつけてしまう熱放射を少なくするため,排気管にはフレア投射装置および排気冷却システムがとりつけられるようになったという.
さらに,機体下部に装甲が施されるようになったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.114を参照されたし.
「ハインド」ヘリ・パイロットが撮ったアフ【ガ】ーニスタン(2)
【質問】
アフガニスタンでソ連軍がスカッドミサイルを2000発ほど使った,という記述がウィキペディアにありましたが,いったいどんな目標を狙うために使用されたのでしょうか?
あと,今アフガンで戦っているアメリカ軍も,やはり弾道ミサイルを使用しているのでしょうか?
【回答】
ゲリラの村とかを攻撃した.
弾道ミサイルを使用,というと大げさだけど,要は射程の長い大きなロケット弾だから.
ただし弾道ミサイルは,単弾頭だと効率が悪く,あまり使った意味がない.
核弾頭か化学弾頭,せめてクラスター式の子弾内蔵型でないと非効率的.
ソビエトはアフガンで化学弾頭型の弾道ミサイルを何回も使ったと見られている.
また,イラン・イラク戦争ではイラクがイランの都市攻撃に弾道ミサイルを使用した.
国内でもクルド族の反乱鎮圧に,化学弾頭型の弾道ミサイルを集落のある谷に撃ち込んだりしている.
アメリカは湾岸戦争やイラク戦争で,ATACMSという短距離弾道ミサイル(クラスター弾頭型)をイラクに対して使用している.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ソ連のアフガン侵攻時,都市もそれほどの規模ではなく,主要都市はソ連が支配している中で,なぜ通常弾頭の弾道ミサイルをたくさん撃つ必要があるのか,それがよくわからないのです.
命中精度の低さをカバーできる核や化学兵器弾頭を使わない場合でも,スカッドは貧弱なアフガンの村落に対しても,それなりの効果を与えることができたのでしょうか
【回答】
当時のソ連軍の戦術は硬直的で,相手が誰だろうとスカッドを大量発射することになっていたからだよ.
前世紀末ぐらいの月刊プレイボーイ日本語版に,旧ソ連軍大将の回顧録が掲載され,その辺りの事情がわかる.
また,ソ連軍といえど,アフガニスタン駐留に回せる戦力には限りがあるため.
ゲリラ支配地域にてっとり早く,火力を砲の射程外に投射するにはスカッドが適している.
歩兵や機甲にヘリを出すとなれば,どこからか引き抜いて捻出して投じる手間が掛かる.
航空戦力という選択肢もあるのだけど,スティンガーなどの西側の個人携帯対空ミサイルが入ってきたこと,アフガニスタンは地形が険しく標高が高いため,航空機,ことにヘリの行動が制約されることなどの問題がある.
「the other side of the mountain」と「the
bear over the mountain」を読むといい.
コンボイ護衛とルート維持の戦力については,田岡俊次が「トラックの戦争」という形でいろいろ書いていたはず.
サラン峠のトンネルがにわかに脚光を浴びたりしている.
あとは,「the lessons of modern warfare」のアフガニスタン篇辺りにも書かれている.
それとアメリカのイラク戦争も参考になる.
スカッドを撃つかわりっていうと,地上部隊を寄せ集めて包囲網を作って封じてから叩くことになるが,これが部隊集めでかなり苦労している.
このあたりは最近「 On PointU」が出ているし,CSIで2004年11月のファルージャ包囲・市街戦の話がある.
以上をもとに推測してみた.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
アフ【ガ】ーン紛争において,化学兵器は使用されたのか?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,ソ連軍侵攻以前からたびたび,その使用が確認されているという.
西側に運ばれた,捕獲したガス・マスクに付着していたトリコテシン毒素(「イエロー・レイン」)の標本2つ,オランダ人ジャーナリスト,ベルンド・デ・ブルイジンが撮影した,化学戦攻撃及びその犠牲者のフィルム,アフ【ガ】ーニスタンの情報源やパキスタンの医師から繰り返された報告が,その証拠だという.
CS,CN,非致死性インキャパシタントなど,非致死性薬剤は,さらに広い範囲で使われたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.134を参照されたし.
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンでソ連軍が使った兵器は,在庫処分のための中古のものだったのか?
【回答】
逆に多くは最新兵器だったという.
戦場では火力を最大限に利用しようとし,地対地ミサイルまでもがソ連軍やカブール政府軍によって使われたという.
また,情報網の改良のための航空機やセンサーまで投入されたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.96-97を参照されたし.
【質問】
捕虜になったソ連軍兵士は,どういう扱いを受けたか?
【回答】
まちまちだった模様.
ソ連を見限ってマスードのボディ・ガードになった元ソ連軍兵士のような例もあれば,手荒い扱いを受けた例もあり.
以下に,それについて触れてある記述を幾つか引用したい.
――――――
ソ連軍兵士が捕虜になった場合を尋ねた.
だが,皆は口を噤む.
ハジが口を開く.
「取り調べの後はよく知らない……」
やっとハジが一例を語る.
「肉用の斧で両足首を切り落とし,さあ帰れ,さあ帰れ,と言うと,泣き喚きながら立とうとし,そして這いずって遠ざかろうとするよ.
そこへ皆で石を打つ.
ある村で女を犯したソ連兵が捕らえられた.
このときは,石打ちの後で小石の山ができてたな.
その山がちょっとでも動いたように見えると,石を取り払って,改めて投げつけた」
――――――『アジア回廊』(甲斐大策著,石風社,1996/11/30), p.93-94
▼
――――――
〔略〕
同じ〔1981年の〕旅で私は,ムジャヒディン(イスラム戦士)の捕虜になったソ連兵を見た.
彼もまた,幼い私を〔太平洋戦争後の〕引揚者の列へ戻してくれたソ連兵と同じように,小さな赤い鼻髭をたくわえた碧眼の少年兵だった.
旧知のムジャヒディンは私の不安げな表情を見ると笑いながら言った.
「あいつはタジクのムスリム(イスラム教徒)だ.殺しはせんよ」
〔略〕
――――――『神・泥・人』(甲斐大策著,石風社,1992.2.20),p.10
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「彼ら〔ムジャヒッディーン〕が僅かでも恐れている唯一の運命は,捕虜となり,KGBまたはKHAD――アフ【ガ】ーン政府の諜報機関――の手に委ねられることだった.
ムジャヒッディーン達によれば,尋問の手始めにソ連人達は,まず捕虜の指を一本ずつじわじわと切り落としていくのがお気に入りなのだという.
KHADがどんなやりかたをするのかは,とても聞くに耐えなかった.
しかし,ムジャヒッディーン達もその報復に,ソ連側以上とは言わないが,それと同じくらい残酷になれた.
彼らには『シャツを捲くる』と呼ばれる拷問法があった.捕虜の皮を部分的に剥いで,蝿と太陽に晒したまま置き去りにするのである.これは,ソ連の空挺隊員や特殊部隊隊員のためのとっておきの拷問法だった.
(Gaz Hunter 「SAS特殊任務」,並木書房,2000/11/1, p.142,抜粋要約)
「この2人組〔のソ連兵捕虜〕が本当についていれば,ムジャヒッディーン達は彼らを傷つけずに生かしておき,味方の重要な捕虜との交換に使うだろう.
そうでなければ,この少年達を彼らはすぐに殺すか,それとも死ぬまで拷問するだろう――どちらかは時間的余裕によって決まる.
このソ連兵達はついていなかった.
〔略〕
ムジャヒッディーン達が捕虜を地面に打ち据え,その周りを取り囲むと,蹴ったり小銃の床尾で殴ったりが始まった.休む間もない激しい責め苦が長時間,続いた.
情報を引き出そうというのではなかった.この少年達と共通の言葉を,彼らは話す事はできなかった.
ただ,捕虜達に苦痛を味わわせたかっただけだ.それはうまくいった.
ソ連兵達は,とりわけ激しい一撃をお見舞いされたときに不明瞭な呻き声を上げる以外,全く声を上げなかった.
彼らは,重傷を負った兵卒のほうを,主に責めさいなんだ.
もう一人の捕虜のほうは,地面に跪かせられ,仲間がいたぶられるのを見守らされた.
少しの間,その捕虜はその場でじっとしていた.
しかし,ムジャヒッディーン達がみんな手いっぱいだと思った瞬間,中腰になって一方によろよろ歩き出し,逃げ出そうと拙い試みをした.
それは酷い間違いだった.すぐにムジャヒッディーン達は彼に群がり,脚と小銃の銃床で力一杯痛めつけた.
捕虜は仰向けに倒れ,身を守るために赤ん坊のように丸くなり,雨霰と降り注ぐ打撃から,頭を腕でしっかり庇った.
4人が捕虜を取り巻くと,両手両足を引っ張ってダイノジにさせた.
さらに2人が,捕虜の肩と腎臓の上に座った.第3の男が捕虜の尻のところに座り,右足を自分の両足の間に挟み,脚が上にぴんと突き立つようにした.
スメアゴル〔ムジャヒッディーン〕が前に進み出た.煌きと共に,手にナイフが現れた.ナイフの素早い一閃で,彼はソ連兵のブーツを切り裂いた.ナイフの歯が,足の肉を深く抉った.
少年は足を蹴ってのたうち回り,辺りを見まわそうとした.
脚が剥き出しになると,足を支えている男が,捕虜のつま先を掴んで力一杯押し下げると同じに,踵を突き上げさせた.
スメアゴルが前に歩み出た.彼はナイフを振り上げると,アキレス腱の後ろで足首に切っ先を突き立て,刃を抉るように捻った.
アキレス腱がピアノ線のように弾けて切れた.
切断部では,白い筋肉繊維がぷっつりと切れていた.
ソ連兵は絶叫した.耳を劈く恐ろしい叫び声は,果てしなく続いた.
その恐ろしい絶叫を止めさせるため,彼の顔を小銃の床尾でムジャヒッディーン達は殴りつけ,おとなしくなるまで打ち据えた.
ムジャヒッディーン達は,重傷のほうの捕虜を掴んで真っ直ぐ立たせると,両手両足を開かせ,原が突き出すように岩肌の上でそっくり返らせた.
別の男がナイフ片手に近付いて,捕虜の衣類を切り裂いた.右脇腹に,弾片か銃弾による酷い傷があり,まだ血が流れていた.
ムジャヒッディーンの男は,短剣の切っ先を兵卒の脇腹に突き立て,両手で刃を斜め下に引っ張った.切り口が大きく口を開いた.徴募兵の腹腔が裂け,内臓が溢れ出た.
臭いが私の鼻を襲い,喉がげっとなった.
次の瞬間,腹を裂かれた激痛が,岩肌に立つ兵士に襲いかかって,彼は叫び始めた.
あんな声を忘れる事は一生できまい.
ムジャヒッディーンが,今,腹を裂いたばかりの兵士の喉を切り裂いた.
それとほぼ同時に,もう一人の戦士が拳銃をソ連兵の頭に突きつけ,一発発射した.
私は目を疑った.ソ連兵が追いかけてきていれば,銃声を聞かれる恐れがある.敵は徹底的に報復するだろう.なぜあんなふうに少年を殺さねばならないのか,私には理解できなかった.
彼らは,腹を裂かれた死体を岩の上に放置した.
我々は前進を再開し,基地にしている村のすぐ外までやってきた.
私は十分に距離を置いていた.もう何も見たり聞いたりしたくなかった.何よりも,残る一人のソ連兵と再び目を合わせたくなかったのだ.
顔を上げるたび,私の視線を彼は捉えようとした.私の服装にも関わらず,彼には私が同じヨーロッパ人だということが分かっていたのだ.彼の心の中では,私は唯一のチャンスだった.
しかし,彼を救う事は私にはできなかった.今起きていることを止める手立ては,世界中探してもどこにもなかった.
今も,私は彼の目付きを忘れることができない.あの死に物狂いの声なき懇願を.
我々が前進を止めると,彼らはソ連兵を土の上に放り出し,1分ほど,飛行機の爆音がしないか聞き耳を立ててから,捕虜の周りを取り囲んで,何事か呟き始めた.捕虜を引っ張って歩かなければならないことにうんざりしているのだ.
スメアゴルが近付いてくるのを見た捕虜は,身もがいて後ずさりしようとしたが,彼らに捕らえられ,今度は頭と首の周りをしっかりと押さえられてしまった.
スメアゴルは少年の前に立ち,顔の前でナイフをちらつかせ,彼を嘲笑った.まるで襲いかかろうとする蛇のようだった.
突然彼が突進し,ナイフの切っ先を,捕虜の目の周りの皮膚に繰り返し突き立てた.
深い切り傷が,額と頬の皮膚に現れた.
そのあとスメアゴルは,ナイフを腕と胸のほうに下ろしていき,刃を皮膚の上でゆっくり滑らせ,切り口から血を溢れ出させた.
私は再び顔を背け,彼らに背を向け,平気なふりをしようとした.私はAK-47をもてあそびながら,ビルボに話しかけようとしたが,どういうわけか声が出てこなかった.
そのとき,私はまた叫び声を聞いた.彼が足首を切られたときに上げたのと同じ,あの耳を劈くような絶叫を.
そしては,彼らがもう一方の足にも同じ事をしたのを私は見た.
これでもまだ,彼らには十分ではなかった.
彼らは捕虜の上にのしかかり,全く身動きできないよう,彼を押さえつけた.
人差し指と親指で瞼を押し開けたスメアゴルは,ナイフの切っ先をソ連兵の左目に突き立てた.手首を捻って眼球を抉り出し,それから眼球を視神経でぶら下がらせたまま,上体を起こした.
もう一方の目にも同じ事をしようとしたとき,アラルゴン〔著者が一人のムジャヒッディーンにつけたあだ名〕が彼の腕に手をかけた.我々の指揮官は,ソ連兵の残っている目をそのままにしておくことを望んでいた.しかし,それは慈悲の気持ちからでも,もう十分だからでもなく,彼らが次に何をしようとしているのかを見せて,正確に理解させるためだった.
〔略〕
あとになってビルボ〔著者が別のムジャヒッディーンにつけたあだ名〕が自分から近付いてくると,彼らがソ連兵にどんな仕打ちをしたか話してくれた.
彼らは,野生の獣達に彼を殺させることにし,キャンプから離れた山中へ彼を引っ張って行ったのだった.
そして,低い岩のそばの平らな場所に来ると,両手両足の指を小銃の床尾で叩き潰した.
そのあと,彼の腹を切り裂いた.そのとき,切り口が,腸がはみ出しかけるちょうどいい深さと大きさになるように気をつけた.
そうすれば,彼は自分の血と腸の臭いを放ちながら,なおも6〜12時間は生き続けるだろうからだ.
そのあと,彼らは彼の絶叫を止めるため,彼の舌を切り取った.私は,彼が自分の血で窒息してくれればと願った――少なくとも,そちらのほうが早く死ねる.
彼らはこうして,彼をうつ伏せにして,片方の眼球をぶら下げ,腸をはみ出させたまま放置した.
獣達が襲ってくるのを捕虜が見ることができるように注意深く計算して,鼠達や野犬達や山の狐達に与えたのだ.
(同 p.151-156,抜粋要約)
イスラム教徒達にとって,処刑の方法は幾つもあるが,一般的には左右の頚動脈を切り,出血多量で死に至らしめる.
まず,アラーへ祈りを捧げる.そして鋭利なナイフで左右の頚動脈を瞬時に切るそうだ.
かつてイスラム批判の書物を訳した筑波大助教授が,学内で殺害された.
このときの殺害方法は,前述の処刑の通りであった.
恐らく外国からのイスラム教徒の刺客の手による犯行だったのかもしれない.
事件は迷宮入りしたけれど,イスラム教徒の復讐激だったとも想像することができた.
〔略〕
1979年12月,アフガニスタンに軍事侵攻したソ連は,やがて完全撤退する.
近代教育を受けたソ連兵達は,ムジャヒディン(イスラム戦士)に首を刎ねられた同僚の姿を見て震え上がり,すっかり戦意を喪失したのだという.野蛮だと感じたのであろうか.
殺し方に近代的,野蛮といった考え方があるとすれば,いかに「苦しみ」を与えたかどうかではあるまいか.
2004/6/10
(松浪健四郎著「折々の人類学」,専修大学出版局,2005/4/10,p.189-191)
以前は捕虜は全員殺したのだが,今では色んな仕事に使っている.
私達の厨房にも,カブール軍の捕虜が2人働いている.
ホーストでは,戦利品の仕分けに捕虜が使われている.爆弾などを種類別に仕分けるのだが,ときには暴発して手が吹っ飛んだりする.
Karla Schefter著「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」
(主婦と生活社,2002/9/17),p.95
「アフガニスタン政府軍兵士については,捕虜にしてゲリラ側に寝返らせることもある.
しかし,ロシア兵はその場で殺してしまう.投降もいっさい認めない.
ロシア兵とムジャヒディンが出会ったら,生きるか死ぬかの二者択一なのだ」
園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.263
▼ 一方,こんな幸運な例も.
――――――
1983年,マスードの家に,一人のソ連軍捕虜が連れてこられました.
戦闘のあと,降伏して捕まったそうです.
それが当時,19歳だったニコライです.
最初はとても怯えていて気の毒なくらいでした.
ソ連兵は捕まったら八つ裂きにされると信じていたようです.
ぼくも捕虜が残虐な扱いを受けている英国のテレビ・ドキュメンタリーを見たことがありました.
ただ,それは,パキスタンの支援を受け,マスードと対立していた,ヘクマチャール率いるヒズビ・イスラミ(イスラム党)のものでしたが,ニコライには違いは分からなかったでしょう.
そんなニコライに,戦士たちは全く敵意を見せることなく,ロシア語ができる戦士を中心にニコライを車座に囲み,どこの出身か,家族はいるのかと優しく話しかけています.
ただ,ソ連軍の地雷で片足を失った戦士だけは話の輪に加わろうとしませんでした.
〔略〕
ただ,多くの戦士たちが本当にこだわりなく,同じ国の人のように接する姿に驚きました.
戦士たちの穏やかさに,ニコライにも笑顔が浮かぶようになりました.
何日かして,礼拝の時間になると,ニコライが礼拝に加わろうとするのを見て驚きました.
ソ連兵は捕まったときの用心に,コーランの聖句を覚えたりすると聞いたことがありますが,ニコライもコーランを少し唱えることができました.
国に妻と子がいるニコライは何とか助かりたい一心だった荷違いありません.
5年ぶりに訪れると,なんとニコライがイスラム戦士になっていて,これには本当に驚きました.
イスラム教徒になり,名前もイスラマディンと変わっていました.
本当は国に帰りたいだろうに,とあわれに思えて,彼の指揮官のモスリムに,
「帰してやってくれ」
と頼んだこともあります.
モスリムは
「帰っていいと言っても,ここにいたいと言うんだ」
と言うし,ニコライも,
「ここが好きなんだ.みんなやさしくしてくれるから」
と言うのです.
ソ連政府は,家族に戦死公報を送っていたため,ニコライの妻が再婚してしまっていたことを,ニコライはやっと届いた母からの手紙で知ったようでした.
その2年後には,に古来はマスードのボディガードをしていました.
英雄マスードを身近で守るボディガードは戦士たちの憧れの的ですから,戦士の中には,
「アフガン人がいるのにどうしてロシア人が」
という気持ちをもつ人もあったようです.
特別,体が大きいわけでも,また勇敢だとも思えませんが,マスードは彼を同じイスラム教との戦士として認めたのです.
その後,マスードや仲間が結納金を工面してアフガン女性と結婚しましたが,妻が病気になり,その治療のため,ニコライはロシアに帰ったと聞いたのが1995年でした.
そのあとも何度かマスードたちに会いに来ていて,一度などは金を借りて帰ったと聞いたときには,あっけにとられました.
〔略〕
出会った当初,怯えきっていたニコライを励まそうと,日本から持参していた貴重な「マツタケ御飯」のジフーズ(乾燥米の料理)をご馳走すると,タバコを口にする真似をして,タバコをぼくにせがんだこともありました.
それから12年後には,ニコライは髪を黒く染め,アフガン人になりきって,
「オマール〔長倉洋海のアフ【ガ】ーンでの通り名〕のダリ語は上達しないなあ」
と軽口を叩くほどになっていました.
――――――長倉洋海著『ぼくが見てきた戦争と平和』(バジリコ,2007.5.15),p.160-163
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【珍説】
後になって,ゴルバチョフやシェワルナゼの主任通訳を務めていたパーベル・パラシチェンコの「ソ連邦の崩壊」(濱田徹訳 三一書房 1999年)を読むと,当時国連機関で働いていた彼は,
「ソ連の大勢の人々は(ソ連のアフガニスタンへの)侵攻に,無関心な態度しか示さなかった」(25ページ 傍点引用者)
と述べている.
あってはならないことであるが,ソ連の人民が総体的にそのことに関心を持たなかったのは,事実であるか,もしくはその傾向が強かったようである.
なぜ関心が乏しかったのか.当時のアフガニスタンの問題を今日のロシア人が回顧しているものを読むとき,筆者の知る限り,その多くがその問題を負のイメージ,否定の文脈で捉えている.
これでは歴史の偽造にもなりかねない.いや,なっているものもある.
では当時の党・政府の公文書では,それをどのように扱っていたか.
〔共産党党大会におけるブレジネフ報告が引用されているが,割愛〕
(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.188)
もしソ連で人々が広く自発的意志に基き,集団的に討議していたならば,アフガニスタンにおける革命と反革命の「せめぎ合い」も,別の形をとっていたかも分からない.
もし,キューバ型の連帯活動〔前ページの,アンゴラへのキューバの軍事支援を指す〕が,そこで展開されていたならば,その「せめぎ合い」の顛末はどうだっただろう.
(同,p.191)
【事実】
別項目で述べられているように,ソ連軍が敗北したのは,
・ムジャヒッディーンが「ゲリラ戦の勝利の方程式」を完全に満たしており,
また,
・兵站上の限界のため,増援しうるソ連軍の兵力には限界があった
ためである.
これらは,仮にロシア人の大多数がカルマルに同情を寄せたとしても,解決できる問題ではない.
佐々木の主張は,悪しき精神主義でしかない.
なお,当時のロシア人のアフ【ガ】ーニスタン問題についての考え方が,共産党党大会におけるブレジネフ報告と同じであるかのように述べたいなら,その報告以外の論拠を示すように.
その報告だけを論拠とするのは単なる決め付けでしかない.しばしば党の見解と一般民衆の見解に大幅なズレがあるのは,各国共産党の歴史を見ても容易に分かることである.
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