c
◆◆ムジャヒッディーン関連
<◆アフ【ガ】ーニスタン紛争(対ソ戦)
<アフ【ガ】ーンFAQ目次
「パンジールの獅子」マスード
(うそ)
【質問】
ムジャヒッディーンの勢力は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,彼ら自身の推定では20万人(1987年).
米国資料では9〜12万人(1980〜81年).
1981〜82年のアフ【ガ】ーニスタンの資料によれば,25〜33万人.
1983年の西側分析では20〜25万人.
1984年のムジャヒッディーンの資料によれば,74万4000人.
1985年のフランス人専門家によれば,15万人.
1988年の米国資料によれば,20万人.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.159 & 161を参照されたし.
上記のうち,極端に多い1984年の数字を除いて相加平均すると,約19万9千人という数値が得られるが…….
【質問】
反ソ抵抗勢力には,どのようなものがあったか?
【回答】
組織名 | 指導者 | イデオロギー | 本部要員 | 現場指揮官 | 基礎地域 | 民族 | 推定兵力 | 国際的な繋がり | 備考 |
イスラム国民戦線 Mahaz-e Millî-e Afghânistân/ National Islamic Front of Afghanistan/ NIFA |
ピール・サイイド・アフマド・ガイラーニー
Pîr Sayyid Ahmad Gailânî (別名:エフィンディ・ジャン. 1928年頃生. 父親ナキーブ・サヒブは有名な宗教指導者. 自身,カーデリア教団の精神的指導者. アマヌッラーの孫娘と結婚. カーブル大学卒業後,ザヒル・シャー国王とダウド大統領の宗教顧問を務めたことがある. 議会制度の提唱者) |
伝統主義・民族主義(王党派) 新西側傾向 |
指導者の一族 旧体制の西側教育を受けたパシュトゥーン カーディリー教徒 |
パシュトゥーン部族有力者 (教育を受けた有力者の子弟の一部) カンダハル戦区司令官ハッジ・ラティフが活躍 |
南部(カンダハル) | パシュトゥーン | 数千〜8000 | あまり強くない (アメリカの保守層) |
ターリバーンに吸収さる |
アフガニスタン民族解放戦線 Jabha-e Nejât-e Millî-e Afghânistân/ National Liberation Front of Afghanistan/ ANLF |
スィブガトゥッラー・ムジャディディー※2 (1925年生. ショルバザールで影響力を持つハズラト・サヒブ家の一員であり,処刑されたナクシュバンディ教団の指導者の息子. カーブル大学で神学を学び,エジプトのアズハル大学卒業.イスラーム法学修士の学位を持つ. 1955年,ソ連のフルシチョフ,ブルガーニンがカーブルを訪問した際,フルシチョフ暗殺を企てた容疑で逮捕さる. 後にデンマークへ亡命. 1968年,イスラーム青年組織を結成,反共活動を行う. 1978年,スーフィー主体にANLF結成. 保守的なイスラーム主義活動家. 聡明で愛国心が強い) |
伝統主義・民族主義 | 指導者の一族 旧体制の西側教育を受けたパシュトゥーン |
パシュトゥーン部族有力者や一部のウラマー サブガトゥラーのいとこ,ムハンマド・イブラヒム・ジョジャデディは「クルアーン奉仕者党」を結成して支援. 私財を投げ打って活動するサブガトゥラーへの支持者は多い. |
南部,東部 | パシュトゥーン | 数千〜1万 戦闘には積極的 |
あまり強くない. ソ連のイスラム教徒との連絡あり. |
ターリバーンに結果的に吸収さる |
イスラム革命運動党 HAR,Harakat-e Inqilâb-e Islâmî/ Movement of Islamic Revolution |
モウルヴィー・ムハンマド・ナビー・ムハンマディー
Mawlawî Muhammad Nabî Mohammadî (1925年生. 伝統的ウラマーでマドラサを経営. ロガール州のアフマドザイ・パシュトゥーン. 1970-74年,国会議員. 1978年,パキスタンに亡命. 1979年,ジャミアテ・イスラミとヒズビ・イスラミによる抵抗同盟の議長に就任したが,同盟決裂後,HAR結成. 非常に宗教的な人物で,西欧化を嫌う) |
イスラーム伝統主義 | 指導者の一族 西側教育を受けた,ローガル集出身のパシュトゥーン |
民間教育を受けたウラマーやムッラー | 南部,南東部 | 主にパシュトゥーン,一部にウズベク JIAを離脱したタジク |
4万 or 1万5千(最盛期は2万5千) | あまり強くない パキスタンの宗教政党の一つに近い |
ターリバーン登場後,同派に吸収 |
イスラム党 (ヘクマティアル派) HIH, Hezb-e Islâmî-e Afghânistân/ Islamic Party of Afghanistan |
グルブッディーン・ヘクマティアル Gulbuddîn
Hekmatiyâr (カーブル大学工学部. 北部の脱部族化したパシュトゥーン(ギルザイ系)) |
急進的イスラーム主義 アフガニスタン社会を非イスラム的と見なす. 党による支配支持 |
公立教育を受けた知識人 主に脱部族化したパシュトゥーン |
公立教育を受けた知識人 全てがスンニー派 |
東部 | 3万 | ISI パキスタン人とアラブ人のイスラーム主義者 |
ターリバーンと交戦後,同派に吸収 | |
イスラーム党 (ハーリス派) HIK Hezb-e Islâmî-e Afghânistân/ Islamic Party of Afghanistan 1979年,HIHから分裂 |
モウルヴィー・ユーノス・ハリス Yûnus
Khaâlis (英領インドで教育を受けたウラマー. ナングラハル州のパシュトゥーン) |
イスラーム主義 ウラマーによる支配支持 強い反シーア感情 |
公立教育を受けた知識人 指導者に繋がるパシュトゥーンのウラマー |
一部は公立教育を受けた知識人 殆どは武装した部族地域のウラマー 全てパシュトゥーン |
中東部(ジャララバード) カーブル州では司令官アブドゥール・ハク Abdul Haq の戦区あり |
パシュトゥーン | 1万 or 4万 | ISIからの援助 | ターリバーンと交戦後,同派に吸収. 2001年11月,カーブル陥落後に,ジャララバードで決起し,ターリバーンから自立. |
イスラーム協会 JIA, Jamîat-e Islâmî-e Afghânistân/ Islamic Association of Afghanistan※2 |
ブルハヌッディーン・ラッバーニー Burhânuddîn
Rabbânî (カーブル大学神学部講師. エジプトのアル=アズハル大学留学. バダクシャン州出身のタジク) |
より穏健なイスラーム主義 アフガニスタン社会を,ムスリムを除き,堕落と見る |
公立教育を受けたウラマー タジクと,一部にパシュトゥーン 世俗教育を受けたタジク知識人 |
ウラマーを含む,公立教育を受けた知識人(タジクと一部のウズベク) タジクのスーフィ カンダハルのアリゴザイ部族のウラマー |
北東部(カーブルも),西部 | タジクと,一部のパシュトゥーン | 2.5万 | ISIやアラブ諸国からの一定の支援 | |
アフガニスタン解放イスラーム同盟 ITT, Ittihâd-e Islâmî barâye Âzâdî-e Afghânistân/ Islamic Unity for the Liberation of Afghanistan |
アブドゥッラスール・サヤーフ Abdul Rasûl
Sayyâf (カーブル大学神学部講師. エジプトのアル=アズハル大学留学. バグラーン州のパシュトゥーン(ギルザイ系). 後,ターリバーンのオマルと親しくなる) |
急進的イスラーム主義 強い反シーア感情 ワッハーブ宗を奉じており,セクト色が強いことから,他派との仲は良くなく,支持基盤は広くない. |
指導者やサウディアラビアに繋がりを持つ個人 殆どがパシュトゥーン |
日和見主義的 潤沢な資金で武装 |
東部(バクティカ) カーブル西部 |
パシュトゥーン | 数千 or 2万 | サウディアラビアや湾岸諸国裕福層の支援 | ターリバーンに合流 |
イスラーム労働党 | ムハンマド・アシーフ・モーセーニ (カンダハルのシーア派宗教指導者. パシュトゥー語話者. 1980年,イランが追放命令.(ホメイニのライバル,イラク人に師事)) |
穏健なイスラーム主義 | シーア派 | ハザラジャート周辺都市から避難した,教育を受けたシーア派. カーブル出身のムハンマド・アンワリー(世俗教育を受けたイスラーム主義者) |
中部 カーブル南西部 |
ハザラと一部パシュトゥーン | |||
ハラカティ・イスラミ(イスラーム運動) Harakat-e Islâmî/ Islamic Movement |
アシフ・モホシニ | イスラム法による共和国建設を目標とする穏健派. 「イスラーム聖戦の守護者」や「イスラーム勝利組織」といった,イランの影響を強く受けている組織とは対立関係にあり,1983夏に武力攻撃を受けたため,シューラーと同盟を結ぶ. イスラーム統一党には参画しない. ラッバーニー政権を支持し,ヘクマティヤール内閣に参画する. |
他のシーア派組織がハザーラ人中心であるのに対し,イスラーム運動は民族に拘らず,若きシーア派の人材を登用する. | ハザラ | 数千 戦闘には積極的 党の構成員数は少ないものの,軍事面で優れている. |
イランの軍事援助と軍事顧問を受けていたが,独立性は保持. モホシニはかねてから駐日大使を狙い,幹部を日本へ派遣したり,日本人ジャーナリストらと積極的に会見. |
1978年結党. 92年4月のナジブラ政権崩壊と共に,首都カーブルへ進出. その後の内戦の過程で,磨耗し,消滅. |
||
イスラム革命統一評議会 ショラ・エ・インクラブ・イテファック・イスラミ Shûrâ-e Inqilâbî-e Ittifaqh-e Islâmî-e Afghânistân, (Shûrâ)/ Revolutionary Council of the Islamic Union of Afghanistan |
セイエド・アソ・ベヘシティ | ワルダク州の司令官カリブ・ダッドの部隊(約3000)が有名. ダッドは79年3月,16名の同志と武装蜂起し,ベス郡庁舎占領に成功. 2年以内に同部隊は3000人に成長. しばしばワルダク州からカーブルへ出撃していた. |
首都カーブルに隣接するワルダク州 | ハザラ | 約2万 (ハザラ人の中で一時最大) |
これらハザラ人各派の殆どが,後にイスラーム統一党へと統合さる | |||
ナスル(勝利) イスラーム勝利組織 |
4月革命以降,イランでミール・フサイン・サーデキー(Mîr
Husain Sâdeqî)やアブドゥルアリー・マザーリー(Abdul
Alî Mazârî)が中心となって設立. |
ホメイニー師を強く支持する若い急進派中心. イスラーム過激派.穏健派のイスラーム革命統一評議会,ハラカチ・イスラミなども攻撃. |
カルザイ政権の副大統領であるカリーム・ハリーリー(Karîm Khalîlî)も同党出身. | ハザラ 「イスラーム聖戦の守護者」と共にシューラーを排斥し,ハザーラジャートに一大勢力を築く. |
約1万 | イランの支援を受けているが,独立性保持. 政党と呼べるほどの確固とした組織ではなく,地元の支持を基盤に運営された無形隊の組織と考えられている(Roy 1985: 143-44). イランから武器や資金の支援を受ける. |
|||
パスダラン(革命防衛隊) | イラン・イスラム共和国そっくりの体制を目指す | ハザラジャードの主流 | ハザラ | イラン指導下にある | |||||
アラート(雷) | ハザラ | ||||||||
ナハザット・イスラミ(イスラーム世界運動) | アリ・イフテハリ | ハザラ | |||||||
統一イスラーム革命戦線 | ハザラ | イランが支援 | |||||||
イスラーム戦士同盟(イッティハディ・ムジャヒディン・イスラミ) | ワリ・ベック | ハザラ | |||||||
イスラーム軍事機構 | ハザラ | ||||||||
イスラーム聖戦防衛機構
イスラーム聖戦の守護者 |
ホメイニー師の支持者であり,イランをイスラーム国家のモデルとする. | 組織の構成員は,イラン在住のハザーラ人やハザーラジャートの民兵で,イランで教育を受けた若き宗教指導者が率いる. | イラン革命防衛隊(Pâsdârân)の支援を受けて,1983年にハザーラジャートに設立. シューラーから離脱した聖職者から成る. イスラーム勝利組織と強い同盟関係にあり,1984年にムハンマド・アクバリー(Muhammad Akbarî)はイスラーム勝利組織のサーデキーとともにシューラーをハザーラジャートから排斥する. 当初イランはイスラーム勝利組織を支援していたが,期待したほどの成果を上げないことから,イスラーム聖戦の守護者を支援対象にするようになり,両者間の緊張が高まる. |
||||||
ヒズボラヒ(神の党) | ハザラ | イランが支援 | |||||||
イスラーム統合促進党 | ハザラ | ||||||||
イスラーム統一党 (ワハダッティ・イスラミ:イランによって統合されたシーア各派) Hezb-e Wahdat-e Islâmî-e Afghânistân/ |
アリー・マザーリー (1995年3月,タリバーンによって殺害さる) ↓ ハリリ師 |
ホメイニ型イスラーム革命 JIAと対立. |
シーア派 | ヘラート戦区司令官イスマイル・ハーン.おそらくイランから供与された戦車・ミサイルなどを保有 | 中部(バーミヤン) 中南部(ガズニ) バーミヤーンやワルダク |
ハザラ | 1万 | 1990年6月にイランの指導の下,ハザーラ人のシーア派8組織(後に9組織)の上部組織として結成される.
1993年8月にHIHと協力関係を結んでカーブル西部を支配する. イスラーム統一党政治局長のアクバリーは,マザーリーとの権力闘争に破れ,分派し,ラッバーニー側につく. |
|
イスラーム国民運動党※ | アブドゥル・ラシード・ドスタム (ウズベクの労働組合指導者. 旧ソ連軍を支援し,武装化. 1992年3月,ムジャヒディン側に) |
ウズベク | 北部 | ウズベク | 5万 | 半独立国 | |||
ヒルミ | 元アフ【ガ】ーン陸軍第31大隊にいたザルマル大尉他 | クナール渓谷 | ヌーリスタニ | 80年1月,82年12月,85年5月,同年7月と,ソ連軍の侵攻を受けるが,大損害を与えて撤退させる. 81年7月,バグラム基地を襲撃. |
クナール州に接しているパキスタンの支援 | ターリバーンにも北部同盟にもつかず,おそらく自主独立 | |||
ショーラ・エジャベド(永遠の炎) | ワハーン回廊 | タジク | 中国の支援 | 単なる武器密輸組織かも | |||||
シタム・エ・ミリエ(抑圧国民) | ワハーン回廊 | タジク | 中国の支援 |
上の表の出典は,
・黒字:柴田和重(アフガン・ネットワーク幹事)他著「ポスト・タリバン」(中公新書,2001/12/20)のP.22-23から.
・青字:松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」(光人社文庫,2002/1/18)のp.214-229から.
・緑字:「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.271-282(鈴木均記述)から.
※ドスタム派も,表面上は「アフガニスタン・イスラム国民運動」と,イスラム信仰の戦士を思わせる看板を掲げてはいる.
しかし筆者が実地見聞した範囲では,同派将兵が宗教的戒律を厳しく守っていた例は,皆無に等しかった.
殆どの者が酒好きで,酒に目がなく,酒を拒む者などいなかった.
マスードのジャミアテ・イスラミ軍とは,えらい違いであった.
脱宗教の進んだイラク陸軍に似た雰囲気であった.
服装も,迷彩の戦闘服と戦闘帽姿が多く,このための迷彩の布地が大量に,ウズベクを経て,米国からマザーリ・シャリフに入っていた(米軍特殊部隊の布地と同じ).
総兵力は92〜94年の最盛期には約7万名と,アフガン武装勢力中,最大となっていた.
だが94年から,ドスタム将軍の集金力が落ちて兵力は減少していたと言う.
特色は装備の良いことである.
ソ連製T―55戦車,歩兵戦闘車,野砲,トラックを豊富に持っていた.
マザーリ・シャリフ空港に,ミグ21戦闘機を約30機,ヘリコプター,輸送機などの空軍を持っていたために,機動力に優れ,その気になれば全国に部隊を空輸できた.
ドスタム派は旧正規軍の強みで,装備のメンテナンスをきちんとやっていた.
これは重装備と空軍を持っていることと並んで,同派の強みであった.
というのは,他の武装勢力はゲリラ部隊を出発点としており,知識水準も低く,メンテナンス技術に著しく弱いからだ.
92年のナジブラ政権の崩壊後,ゲリラ各派は旧政府軍から多量の戦車・装甲車などを持ち出した.
だが筆者が見た範囲では,旧ゲリラ各派の戦車・装甲車はメンテナンスが行われていないのと,無茶な取り扱いのため,エンジンが動かなくなったり,キャタピラが切れたりして,錆びついていたのが多かった.
そこで旧ゲリラ各派の戦いは,重装備や機動兵器を活用できず,旧来通りの小銃・機関銃・対戦車ロケットを用いるものとなった.
ドスタム軍は,94年11月のタリバーンの登場以来,同軍と戦っている.
96年6月に首都カーブルをタリバーンに攻略された後も,98年8月まで,マザーリ・シャリフを守り通し,反タリバーン派の中では最も頑強に抵抗した.
〔略〕
ドスタム派はソ連と戦ったことがなく,常に友好関係にあった.
それに,ロシア後の分かる幹部が多く,余り宗教的ではない.
それだけに,ロシアの信頼は,北部同命中,最も深い.
それに,アフガン北部の故地を奪還した現在,天然ガスのロシアへの輸出も再開できる.
ロシアのアフガン・中央アジア政策の手駒として,ドスタム派の存在は大きい.
最近の米ニューズウィーク誌などによれば,米国はドスタム将軍を「血生臭い」「残虐だ」などの理由で忌み嫌っているようだ.
これは,米国がかつて,イラクのサッダーム・フセイン大統領を嫌ったのと同じである.
イラクもアフガンも訪れた筆者にとって,イラク・バース党とドスタム派は,雰囲気が似ている.
どちらも脱イスラムで,酒好きで,広い意味での社会主義集団だが,ドスタム派はマザーリ・シャリフTVを持ち,現在もフェザバードTVを維持していることに見受けられるように近代性を持っている.
〔略〕
今後のアフガン情勢を読む上で,ドスタム派からは目が離せないものがある.
マザーリ・シャリフを奪還した後,ドスタム将軍が発表した政策は,男女平等を唱えた,現アフガンでは最も進歩的なものである.
以前から独自の外交府を持ち,ロシア,ウズベキスタン,トルクメニスタン,タジキスタン,トルコ,インドらと外交パイプを持っていた.
今後,ラバニ派に遠慮して92年4月から中止していた,天然ガスの対ロシア輸出を再開すれば,資金力で他派と桁違いとなる.
国連その他からの援助物資も当面,マザーリ・シャリフを通過することになろう.
ドスタム将軍はまだ50代前半で,ずっと若い.若さと現実的性格が,今後の大きな強みとなろう.
(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」,
光人社文庫,2002/1/18,p.201-202)
ジャミアテ・イスラミ〔イスラム協会〕の兵力は84年頃には2万1千名であったが,勢力を拡大し,約3万名近くと見られる.
各戦区での活躍も目覚しいものがあった.なかでも,パンジシール渓谷の故アハマド・シャー・マスードの部隊が奮戦している.
ジャミアテ・イスラミの戦区は,要衝に多いのが特徴である.
パンジシール戦区は,首都カーブルへ通じるサラン峠を扼することができ,たびたびソ連の補給を切断するのに成功している.
そこでソ連は何回も大攻勢をかけ,中でも84年4月に航空兵力を投入した最大規模の攻勢をかけたが,結局頓挫している.
このカーブル,軍事基地バグラムへの本国からの補給を維持できなかったことが,ソ連軍の撤退の一因となった.
(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」,
光人社文庫,2002/1/18,p.204-205)
※2 モジャヘディン政権の初代大統領を務めたモジャダディ大統領は,軍閥の長というより,もともと宗教指導者であるから,弁には長けている.
同時に,大変激し易い人だ.
憲法ロヤ・ジルガの議長を務めたが,会議の冒頭にファラ県の代議員である女性が,人殺しをした軍閥連中が代議員として会議に出席しているのはけしからんと発言して大騒ぎとなった.
このときも,議長である元大統領自らが興奮して,祖国を防衛したモジャヘディンに対して殺人鬼呼ばわりはけしからんと言って即刻,彼女に退場を宣告した.
また,2004年4月27日,カブールのオリンピック・スタジアム横の広場で開催されたサウル月8日の革命記念日(占領ソ連軍の撤退記念日)軍事パレードの歳,式典の開始を待っていた時のこと.
私達外交団の席の横の特別貴賓席のほうで,口論する声が聞こえる.
〔略〕
あとで大統領周辺の関係者に尋ねると,遅れて会場に来たモジャダディ元大統領が,自分の席がカルザイ大統領の後ろの列に指定されているのを見て,元大統領に対して礼を欠くとして怒り出し,帰ろうとしたのを,まあまあと言ってなだめすかしたとのことである.
関係者によれば,いつものことであるようだ.
駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.118-119
【質問】
ムジャヒッディーン指導者の指揮能力は,どのようなものだったか?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,伝統的な指導者層は生まれや地位,宗教的権威や階級で決まり,個人の能力よりも重視されることがしばしばだったという.
また,ジルガは戦争遂行機関としては不適であり,優秀な指揮官の間でさえ,政策決定には時間がかかったという.
それでも,ゆっくりとではあったが,指導者も経験を積み,例えば戦闘は現代のゲリラがなすべきことのほんの一部でしかないことを理解するようになり,民政にも取り組むようになったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.163 & 165を参照されたし.
【質問】
モハメド・アミン・ワルダクとは?
【回答】
パシュトゥン人でNIFAのワルダク地方の指揮官.
元観光省役人.
効率的な展開行動および市民行動作戦で有名だという.
ワルダク省の民間行政や,国際関係構築にも傾注しているという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.184-185を参照されたし.
【質問】
モハメド・アンワールとは?
【回答】
パシュトゥン人の元教師で運動選手.
ジャミアテにおいては,カーブル省ジャグダラク地区の指揮官.
鋭敏な防衛戦術家だという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.185を参照されたし.
【質問】
ザビオラーとは?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,タジク人で,元教師.
ジャミアテの指揮官で,マザーリシャリフ周辺のムジャヒッディーン総指揮官だtったが,1984年12月戦死.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.183を参照されたし.
【質問】
ラマトゥラー・サフィとは?
【回答】
パシュトゥン人で,王国陸軍時代の元大佐.
NIFA指揮官としてはペシャワールを本拠としながら,1986年,パクティアにおけるコースト飛行場攻撃,1987年,クナールにおける戦闘を指揮した他,ムジャヒッディーンの訓練に従事.
思慮深いカリスマ的指導者だという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.186を参照されたし.
【質問】
サヤフはどんな人物なのか?
【回答】
イスラム過激原理主義者で,世界のテロリスト達と親密に結びついているという.
以下引用.
サヤフはイスラム原理主義者で,80年代のアフガンの聖戦の間に養成された世界のテロリスト達と親密に結びついている.
彼とラバニはカイロのアル=アズハル大学で学び,そこでムスリム同胞団の影響を受け,ともに70年代初頭にカブール大学でイスラム学科を教えた.
彼らは,ソビエトに抵抗する主力になったイスラム教運動の創始者の中にいた.
サヤフはパシュトゥン人でアラビア語を流暢に話し,サウジアラビア人と親しくなった.
サウジ王室のように,彼は厳格なワッハーブ派のメンバーで,70年代終わりに共産主義者がアフガニスタンを支配するようになると,サウジアラビアの国民が様々なアフガン抵抗運動に資金を提供し始めたとき,サヤフはその豊富な資金の巨額の分け前に預かった.
1981年,イッティハーディ=イスラミ,イスラム連合という政党を結成し,4年後,ペシャワル近郊のアフガン難民キャンプに大学を設立した.
マスードやラバニと政治的に同盟を結んだが,タリバンとなったイスラム教徒とは,様々の点でイデオロギーに共通するものがより多かった.
サヤフの大学はダワア・アル=ジハードと呼ばれ,「改宗者と闘争」を意味し,抜群の「テロリズム養成学校」として知られるようになった.
1993年のワールド・トレード・センター爆撃を指揮してコロラド州連邦刑務所で終身刑に服しているラムジ・アハマド・ユーセフは,ダワア・アル=ジハードに通い,サヤフのムジャヒディン達と共に戦った.
同じ刑務所にいる盲目のエジプト人聖職者,シャイフ・オマル・アブデル=ラハマンは,ニューヨーク市の数々の歴史的建造物を爆破する煽動謀議の罪で終身刑に服しているが(ワールド・トレード・センターの最初の爆撃にも関与したと疑われるが無関係),80年代半ば,ペシャワル周辺の幾つかのキャンプで講義した.
オサマ・ビンラディンは財政的にサヤフを援助し,アフガニスタンのサヤフの拠点を使用したアラブ戦士団を指揮した.
ISIは軍事と情報の専門技術を提供した.
ソビエト軍が1989年にアフガニスタンから撤退し,多くの外国人聖戦士が去ると,イッティハーディのメンバーのグループ――生粋のフィリピン人やアラブ人もいる――は,フィリピン共和国にテロ組織アブ・サヤフを作った.
〔略〕
アブドゥル・ラスル・サヤフは大柄の筋骨逞しい男で,色白の肌に灰色の顎鬚が濃い.身長は約190cmはあるに違いないし,体重はおそらく100kg以上あるだろう.
たいてい白い頭蓋帽スカル・キャップか,大きなターバンに民族服のシャルワール・カミーズを着ている.
〔略〕
〔2002年〕3月,アフガニスタンの国際治安支援部隊,ISAFは,市の少数民族イスラム教シーア派であるハザラ人の多くが住む西部郊外で数々の強盗と殺人を行ったサヤフの民兵を非難した.
サヤフは非難を否定した.
アフガニスタンではそのような事件がざらにあるので,この件の捜査は決着がつかぬまま立ち消えになったらしい.
サハフとはザラ人の間には,多くの忌わしい歴史がある.
90年代半ば,サヤフの部隊はカブールでおそらく何千人ものハザラ人市民を虐殺した.
人権監視機関によると,彼の民兵はとりわけ残虐な殺し方で有名になった.敵を金属の輸送コンテナに導き,下から火をつけて生きたまま焼き殺したのだ.
ある医学生は,タリバンが市を掌握する前の1996年に,カブール大学のサヤフの下で学んだと私に語った.
サヤフはイスラム思想の必修科目を教えた.
「彼は16人から20人の武装した護衛と,2,3台の車でやってきた」と,この若者は言った.「数人の護衛は車に残り,他はドアに立ち,2,3人は大講堂の演壇で彼の隣に立った.
時々,彼が教えている間に,爆弾やカラシニコフやRPGの音が聞こえた.
彼の部下がハザラ人と戦っていることや,彼らが近くにいることをみんな知っていた.
サヤフは私達に言った.
『イスラム教ではムスリムを殺す事は禁じられているし,家の破壊や略奪も禁じられている』
そしてそれからちょうど1日か2日後,私達は,彼の部下達が多くの家から略奪し,破壊し,ハザラ人の娘達を兵舎に連れて行ったと聞いた.
サヤフの部下達が女性の胸を切り落としたと聞いた私達は,それについて誰も彼に聞かなかったのは,もしそうしたら,教室から連出されて殺されるのを知っていたからだ」
「私達のクラスには男子と女子がいた」と,若者は言った.
「でも,彼らは私達の間をカーテンで仕切った.
女子は特にサヤフを嫌った.
ある日,彼は,全てのイスラム国がパレスチナに味方し,イスラエルの敵に回っている証拠があるという文書を私達に配った.
『証拠を見せられてもパレスチナ人を助けられない』と彼は言った.『なぜなら,パレスチナ人は,こうした証拠からイスラエルと戦う武器を作れないからだ.パレスチナ人は我々の証拠から食物を造れないし,パレスチナ人は住む家として,我々の証拠を利用できるわけではない.
我々はただ証拠を示したり叫んだりするのではなく,直接に手を貸さなくてはならない』
彼はそのとき,カブールで続いていた戦闘については話さなかった.
〔略〕
私はサヤフに,ムジャヒディン――その中には,アラブ・ワッハーブ派戦士が何百人もサヤフに新兵として補充された――が市を包囲した1989年に,私はジャララバードにいたと言った.
彼は私に,なぜ彼のキャンプに来なかったのかと尋ねた.そこはカイバル峠の,パキスタン国境からジャララバードへ続く道からそれたところにあった.
当時,彼の敵意に満ちた反西側の考えが,外国人ジャーナリスト達を殆ど閉め出し,その多くが彼のワッハーブ派の友人達に威嚇されたことを,私は彼に話すのを思い留まった.
有力なコネがなかったのだと言った.
彼は頷いた.
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.216-222
【質問】
サイード・ジャグランとは?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,ハザラ人で元カブール政府軍少佐.
シューラ部隊の指揮官.
1979〜80年に幾度か勝利を収めたが,以後,ハザラジャートでシーア派同士の戦闘にしばしば巻き込まれるようになったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.182-183を参照されたし.
【質問】
シャビオウラーとは?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,パシュトゥン人で,コーイ・サフィ地区(カーブル北東)のハラカトの指揮官.
イスラム律法学者.
1985年4月戦死.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.184を参照されたし.
【質問】
ハジ・アブドゥル・ハクとは?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,パシュトゥン人指導者の中では最も有能な一人.
頭脳明晰で,激しい戦闘をするという.
同時に国際政治やレジスタンスの政治も良く理解しているという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.181-182を参照されたし.
ターリバーン政権末期に,ターリバーン軍に捕らえられて処刑されたのは,アフ【ガ】ーンにとって,マスード暗殺に次ぐ痛手だったといえよう.
【質問】
ジャルラディン・ハッカニとは?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,パシュトゥン人ザドロン部族のイスラム律法学者で,ヒズビ・イスラム(ハリス派)の指揮官.
1985年,南パクティアおよびパクティカ州随一の指揮官として登場.
1985年のコースト包囲攻撃や,1985年から毎年のように行われたパクティア攻勢に参加.
戦史として広く尊敬されており,政策決定は時間をかけ_熟考する性格だという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.184を参照されたし.
【質問】
マムール・ハッサンとはどんな人物か?
【回答】
ダシュティ・カラの地区司令官.北部同盟軍側.ウズベク人の地主.
人となりについては,以下引用.
――――――
地区の司令官達は交替制で指揮をとる.
昨年の冬,ダシュティ・カラの司令官,マムール・ハッサンは4ヵ月間,コクチャ連合部隊を指揮し,その後,他の地区の司令官の一人に職務を移譲した.
ハッサンは地主で,部下達はまるで彼が封建領主であるかのように最高の敬意を払う.
彼が言うには,この24年間,殆ど戦場にいる.
彼はウズベク族の血筋で,アフガニスタン南部のヘルマンド州にある,アメリカが建てた高校からカブールの農業大学に進学したが,灌漑プロジェクトに取り組もうと,故郷のダシュティ・カラへ戻った.
そこへソビエト軍が侵攻してきた.
私が,この戦争が終わったら何をするのかと聞くと,彼は笑った.
「農業をやる.私には300ジュリブ(6000アール)の土地がある.金持ちになれる」
彼は当分の間,甥達にトラックを預け,甥が農場を運営して,小麦,トウモロコシ,メロン,レンズマメの収穫を彼と分配している.
マムール・ハッサンは小柄ながっしりした男で,足が早い.
顎鬚の長さは中くらいで,灰色,短く刈り上げた黒髪は白髪交じりだ.
服装は大抵,裾の広いチュニックに揃いのパンタロンで,大半のパキスタン人とアフガン人服装だ.
その上に軍服風の,ポケットがたくさんついたベストを着ている.
あぐら鼻で,大きな褐色の目,目じりには深い皺が刻まれている.
人の話をよく聞き,温かな甲高い声で,抑揚たっぷりにウズベク語かダリ語で話す.ダリ語は現代ペルシャ語のアフガン異形の言語である.
マムール・ハッサンは50代後半に見える.
大方のアフガン人と同様,自分の年齢には無頓着らしく,初めて会ったとき,彼は私に,父親は2年前に107歳で亡くなり,自分は父が30歳のときに生まれた,と語った.
それが事実だとすれば,マムール・ハッサンは70歳近いことになる,と私は指摘した.
彼は躊躇して,指で数え始めた.
イスラム暦1322年――キリスト教徒の暦では1943年――に生まれて,今は1380年だから,と言って,自分は57歳か58歳かもしれないと認めた.
ハッサンは2人の妻と7人の息子の内5人と一緒に,果樹園に囲まれたレンガとコンクリートで作った家で暮らしている.
家は,ダシュティ・カラからコクチャ川まで林間の小さな空き地を通り抜ける,土の車道の突き当たりにある.
町自体は,未舗装の道路が交差する周辺に,囲いを巡らした住宅がパラパラとある程度に小さくて,道路に面して並ぶ小店の木製の鎧戸は,大半が弾薬箱で作られている.
川の向こう側は前線だ.
ハッサンの家は小さいが,地域の基準からすれば居心地が良く,近代的だ.
庭は灌漑されているので,青々として緑の芝生と大きなスズカケノキが1本ある.
庭の隅に一段高くなったコンクリートの場所があって,午後の祈りや,暑い夏に戸外で寝るのに使われる.
ピンクのペチュニアや赤と白の薔薇が咲く隣には,コンクリート造りのバンガローがあり,司令部やゲストハウスとして使用されている.
バンガローには絨毯敷きの部屋があり,食事や会合や祈りに使う他,無線室,台所,寝室もある.
外では濁流のそばの泥道を,大きな白い鵞鳥が何羽か歩きまわっている.
2つの檻にはたくさんの雉がいて,ときおり出し抜けに,騒々しいスタッカートで奇妙な歌を始める.小刻みに幾つかのテンポで歌い出したかと思うと,突然,鳴き止むのだ.
家の隣には対空中隊が駐在している.
〔略〕
ハッサンの家で女性には会わなかったが,ハッサンの3歳になる末の息子,バブル・シャーは,私達が話している間,足元で遊んでいた.
ハッサンは時々,幼い息子を呼んで優しく叱っていたが,大抵は愛情の篭った眼差しで眺めているだけだった.
バブル・シャーの兄で,20歳になるアタウラもずっとそばにいて弟の面倒を見た.彼はアタと呼ばれ,中国でジャーナリズムを学ぶために奨学金を貰ったところだ.
ハッサンには息子が他に2人いて,妻の一人の家があるテヘランで勉強している.
ハッサンは息子を遠くへやりたくなかったが,アハマド・シャー・マスードに,戦闘中は息子の世話に気を取られないほうがいいと忠告された.
彼は息子達はヨーロッパへやるだけの余裕がなかったので,イランへ送り出した.
マムール・ハッサンが言うには,1979年,ソビエトに対してムジャヒディンとして武器を取ったダシュティ・カラの男30人の中で,今も生き残っているのは,彼を含めてたった2人だ.
彼らはどことも手を組まず,自力で戦い始めたが,後に,アフガン人のイスラム教指導者が,パキスタン,サウジアラビア,アメリカから武器を貰うようになると,彼らは,パシュトゥン族ムジャヒディン集団の急進的指導者,グルブディン・ヘクマティアルと運命を共にした.
ヘクマティアルはマスードと張り合っていた.
「当初,私はヘクマティアル派の一員で,ソビエトと戦ったが,他のアフガン人とも戦った」とハッサンは語った.「私達は大勢の人を殺し,多くの場所を破壊した.私はこれを後悔している.息子達には,政党と行動を共にするなと言っている」
彼は結局ヘクマティアルと手を切り,マスードの仲間に入った.
1992年,ムジャヒディンがカブールに政府を作ったとき,マスードは彼にポストを用意した.
ハッサンは代わりにダシュティ・カラに戻ることを選んだ.
彼は現在,北部同盟に手を貸しているが,自分の独立は保っている.
「私には,多数の部下と広い土地がある」
と彼は言った.
彼の指揮する部下達は,彼に忠誠を尽くしているのか,それとも北部同盟になのか,と私が質問すると,彼は言った.
「私にだ」
コクチャ連合にはおよそ5千人の兵士がいるらしく,おそらく千人がダシュティ・カラにいる.
「私が命令すれば,いつでも彼らは私のために戦う覚悟でいる」
とハッサンは語った.
北部同盟からカラシニコフ自動小銃を200挺与えられ,定期的に兵士600人分の食料を受け取るが,彼はその不足分を補い,衣類や医薬品など,他に必要な物を全て供給する.
「私が自腹を切っている」と彼は笑った.「私の家は金持ちだったが,聖戦で私が全てを使い果たした」
1980年代の対ソビエト戦と,その後4年に渡るアフガン共産主義政府に対する戦争である.
私がハッサンに,彼の称賛する,つまりアフガニスタンの模範となりうるのはどんなイスラム国家なのかと尋ねると,彼は,自分の理解するところ,イスラム教は文化的な宗教であり,例えば,イスラム教徒とキリスト教徒が問題なく共存できる状態も可能なのだと言った.
「これが私の望むイスラム国家だ」
彼はエジプトとサウジアラビアを引き合いに出して,この2つの国は,基本的な自由を保持し,自国に近代化を取り入れながらも,イスラム教と釣り合いをうまく保っていると思う,と言った.
私は,不信心者をどう思うかと聞いた.
「何とも思わない」と彼は答えた.「彼らがどうあろうと,私は気にしない」
私は,彼がこちらの思惑に沿うように話しているのだろうと思ったが,ハッサンは穏健で公正だと地元で評判の人物らしい.
「彼は宗教のことで興奮する人ではない」ハッサンを昔から良く知る,巨体の農夫,シャハムラトは私に言った.「彼は民主主義者だ」
ダシュティ・カラに住むエンジニアのマスード・アジズは,ハッサンは特に中産知識階級に高く評価されていると言った.
「彼は若い頃のムジャヒディン時代から成長した」とアジズ.「当時は民主主義者ではなかったが,今はそうだ」
〔略〕
対ソビエトの聖戦の間,ハッサンと部下達は,ダシュティ・カラ東部山岳の森林地帯に潜伏していた.ロスタクの隣接地区で,彼らはそこから襲撃を行った.
「そこには山羊などの動物しかいなかった」と彼は言った.「容易には行けない難所だ――ダシュティ・カラから馬で12時間かかる.大きな地下洞窟があって,銃が数挺とロシア製ジープが5台あった.
私はそこで14年間過ごした.
ソビエト軍は夏に何度か攻撃を試みたが,こちらには接近できなかった.
だが,ある年の冬,彼らは雪の中を白い服を着て登ってきたので,私達は彼らの姿が見えなかった.
彼らは3ヶ月間,私達を包囲して兵糧攻めにしようとしたが,そんなときでも私達は食糧を手に入れる方法を知っていた.
結局,彼らは私達を仕留められなかった」
1989年,ソビエトが,ナジブラ大統領の傀儡政府を残してアフガニスタンから撤退すると,ハッサンはタカロン奪回のため,ムジャヒディンの指揮をとり,軍事作戦を支援して成功に導いた.
これは,寝返りを決めた2人のナジブラ側司令官との共謀でうまくいったのだ.
共同で攻撃し,タカロンの政府最高司令官を殺害,都市を奪還した.
そのときから,ナジブラ政府がムジャヒディンに倒された1992年まで,タハール州は,アフガニスタンにおけるムジャヒディンの主要基地の一つになった.
ハッサンには4人の兄弟がいた.そのうち2人が,母や5人の甥と共にソビエト軍に殺された,と彼は語った.彼の母は,彼のムジャヒディン活動に対する報復として殺されたという.
彼は山に潜伏していたが,ある夜,密かに山を降りて母の家に行くと,母や子羊を一匹殺して彼と部下達に食べさせてくれた.
ハッサンが言うには,このことを聞きつけたロシア兵が母のところへやってきて,息子が来たのかと尋ねた.
母は,来なかったと言ったが,どのみち彼らは母を殺した.
2か月の内に,2人の弟も殺された.
「ロシア兵に手を貸した者は」,つまりハッサンが母の家を尋ねたと密告した男は「近所に住む親戚だった」とハッサンは言った.「ムジャヒディンが彼の父親を殺していたから,これが彼なりの仇討ちだった.
その後,私達は彼を捕まえ,私は彼に,
『私達がお前の父親を殺し,お前は私の母を殺した.これでけりをつけよう』
と言った.私達はそこで終わりにした」
彼の慈悲深い行為に私が驚きを示すと,彼は笑った.
「今は自分のしたことに驚いている.でも,そのおかげで,この地は安全で,私を脅す者も,殺そうとする者もいない」
ハッサンは1992年,ダシュティ・カラが再び彼の支配下に戻ったときには,懐柔策も持ちいたと話してくれた.
彼は,ジャルサという集会を召集し,ジャルサは2日か三日続いた.
この地域は,非共産主義者と共産主義者に分かれて激しく対立していた.
彼は,私怨は水に流して,ただ一人の司令官,すなわち彼の下で地域社会を立て直そう,と提案した.
だからこそ,彼は繰り返したのだ.
「ダシュティ・カラは安全な場所で,平和であり,私を殺そうとする者はいない」
〔略〕
ハッサンは私に,何年も続いた聖戦で彼を裏切り,母親を死なせる原因になった男,サドルディンを紹介すると約束していた.
サドルディンは45歳だが,60歳近くに見える.山羊髭を生やした痩身の男で,日焼けした顔には深い皺が刻まれている.
〔略〕
サドルディンはマムール・ハッサンの従兄弟で,ハッサンの姪と結婚している.
私は,彼の視点から話を聞かせて欲しいと頼んだ.マムール・ハッサンがあなたの父親を殺したのか?
そうだ,とサドルディンは言ったが,ハッサンが命令を下したのではなかった.当時,ハッサンが属していたムジャヒディン集団の指導者が,彼に命令して,富裕な地主であるサドルディンの父親と,ダシュティ・カラ地方で彼と同等の地位にある男を他に6人捕らえさせた.
ムジャヒディンは彼らをロスタク山中の洞窟に連れて帰り,そこで,ムジャヒディンの司令官が彼らを拳銃で処刑した.殺害の理由は,親ソビエト派だったからではなく,彼らが影響力を持った富裕な人達だったからで,司令官は彼らの権力に嫉妬と不安を感じたのだ,とサドルディンは言う.
「私の父は善良な人で,多くの人に慕われていた.
父が死んだとき,私はほんの子供だったが,家族の責任を一身に背負うことになった」
彼は,復讐しようとの思いが強かったから,ナジブラ政権の軍隊に入った,と言った.
「ナジブラ政府に入ったあと,私は部下の兵士にマムール・ハッサンの母親を殺せと言った」
処刑に立ち会ったのか?
「そうだ」と彼は認めた.「だが,私はかなり離れたところに立っていた.我々は彼女を銃で殺した」
サドルディンの話によると,マムール・ハッサンはすぐには報復できなかったが,「ナジブラ政権が崩壊して,アハマド・シャー・マスードがこの谷を占拠すると,マムール・ハッサンがムジャヒディンの司令官になり,私は35人の部下と共に,安全な谷へ逃げ込んだ.
マムール・ハッサンは我々を包囲した.
我々は4日間持ち堪え,遂に,アルボブ達の議会が我々の調停に乗り出した.議会を率いていたのは,全アルボブの中でも最も尊敬されていた,マムール・ハッサンの父親だった.
そのとき,我々は和解して,以来,友人になった.
その後,私の兵士は全員,マムール・ハッサンの指揮するムジャヒディンに入隊し,後に私は彼の姪と結婚した」
サドルディンは,これがそれほど異常な話だとは思わなかった.
「聖なるコーランに,誰かがあなたの家族を殺したならば,あなたはその人を殺さなければならない,とある.それは赦しを説いてもいる」
現在,サドルディンは小麦農家だ.
「もう戦争はこりごりだ」
と彼は言った.
――――――Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.30-41&47-48
【質問】
イスマイル・【ハ】ーンは過激原理主義者なのか?
【回答】
以下の記述を信頼するとするならば,そうだと言える.
――――――
しかし,この地方政府に首尾一貫した復興政策があるとは言いがたい.役人たちは全般的に,自分たちの仕事もよく分かっておらず,中央政府が何を決めているのかはまったく知らない.多くのヘラート市民に言わせれば,行政機構がここまで退廃したことはかつてない.
イスマイル・カーンは,カブールの政府や国際社会が「ヘラートのために何もしていない」と,事あるごとに非難している.先に見たように,暫定政権はあまり地方に関与していない.国連や支援諸国も人道援助以上のことはほとんど何もしていない.中央政府に逆らう勢力を強化する必要はないということだろう.しかし半ば見捨てられた地方政府の側は,それだけ自分の活動意義を強調できるようになる.しかも,物価の上昇や「風紀の乱れ」は国際部隊がいるせいだと公に非難する口実にもなる.
タリバン時代のような絶対的な厳格主義はもはや過去のものとなった.しかし,知事は当時の禁令の数々をそのまま残している.今でも公共のコンサートやアルコールは禁止され,町の映画館は閉鎖されたままだ.公式の禁令の中には,必ずしも守られているわけではないにしろ,タリバン時代を髣髴とさせるものもある.表向きは,アフガニスタン人が外国人を自宅に招待すること(6),男性の教える私塾に女性が通うこと(7),スピーカーで音楽を流すこと(8)は厳禁である.女性は再び外で働くことを認められるようになったが,政治からは除外されたままだ.しかも,タリバン時代以前には着用していなかった者も含め,チャドリ(ブルカ)を脱ぎ捨てた女性はほとんどいない.
伝統の擁護者,民族主義の指導者を自称するイスマイル・カーンは,欧米諸国の操り人形と見られがちなハミド・カルザイと一線を画すべく,強力な扇動活動を行っている.こうしてカーンは,社会の中で無視できない集団からの支持を取りつけている.その筆頭は宗教指導者だが(9),支持基盤は彼らだけではない.
(6) イスマイル・カーンが2002年6月の公式会議の折に,口頭で発した禁令.――――――unknown
(7) 2003年1月10日の政令.
(8) 2003年3月1日の政令.
(9) イスマイル・カーンは通常,ヘラートの大モスクから公式演説をしている.
【質問】
「ヘクマティアルってアフガン人の間でも一番の嫌われ者」
のソース出せよ.
【回答】
ヘクマティアルって,アメリカについたりパキスタンについたりイランについたり北部同盟についたりタリバンについたり,裏切りを何度も繰り返している最低野郎なのは有名なんだけど・・・
http://office3way.com/afghan/?p=354
>1992年,内戦の口火を切ったのも,ヘクマティアル.
>彼らが無差別に打ち込んだロケット弾によって,カブールは壊滅した.
これで「嫌われてない」と思う方がおかしい.
それとヘクマティアルはイランに亡命していた時期があるんだが,これでスンニ派は激怒していたしね.
他にも,
アフガニスタン Q & A
「国民に支持のなかったヘクマティアル派」
「アフガン国民には人気のないヘクマティアル派」
http://chiri128.at.infoseek.co.jp/afg/battle.htm
「他の武装組織の幹部の暗殺という非情な手段を平気で行い,他の六派から完全に嫌われた」
「イスラム党は全国民の5%にしか支持されていない」
■ グリベディン・ヘクマティアル
「このヘクマティアルだけは褒めるところが見当たらない.」
ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
「タリバンは名目上,軍閥の1人グルブディン・ヘクマティアルと同盟を結んでいるが,心の中では忌み嫌っている.」
アフガンの全ての勢力から嫌われ,今現在手を組んでいるタリバンからすらも嫌われている,
ある意味,漫画の登場人物の悪役でも,こんな嫌われ者はなかなか居ない・・・
そんなキャラクターを持つのがヘクマティアルという人物だよ.
と言うか,あの当時のアフガン情勢をリアルタイムで追ってた人なら,ヘクマティアル派の最低さ加減を今更疑問視するなんて,ぶっちゃけ有り得ないよね.
外電やらCNNやらのバイアスが仮にあったとしても,事実関係に関しては疑問の余地なく認められてんだから
.
軍事板,2010/03/16(火)〜03/19(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
カリ・タジ・モハメッドとは?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,パシュトゥン人でガズニ地区のハラカット指揮官.
元弁護士.
勇猛果敢な戦いぶりで,この地域からPDPAの社会基盤の殆どを排除したという.
あだ名は「カリ・ババ」.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.182 & 184を参照されたし.
【質問】
サウディアラビア以外には殆どいないワッハーブ派が,なぜアフ【ガ】ーニスタンには存在するのか?
【回答】
松井茂〔軍事・外交評論家〕によれば,サウディ・マネーを得るための改宗であるという.
以下引用.
この〔中央アジアにおける〕ガス利権の他に,サウディは自国のワッハーブ宗を広めようとしている.
日本でも以前,これに目をつけ,イスラムの日本教団を言わばでっち上げて,サウジから金をせしめていた人物がいた.
アフガニスタンでも,これに目をつけた人物がいた.この人物アブドゥール・ラスール・サヤフは,ソ連軍との闘争の中で,自らワッハーブ派となり,サウジから資金を提供させて,自分の組織のイッティハダィ・イスラミ(イスラム統一体)とその軍事組織を作り上げた.
同軍は,今〔2001年まで〕はタリバーンに属し,アフガン北東部に播居し,タジキスタンに攻め入る一方,ホジャバハウディン他で北部同盟軍と戦っていたが,北部同盟に制圧された.
中央アジア諸国がソ連邦から独立した時,タジキスタン共和国の首都となったドゥシャンベに,サウジは聖典クルアーンを何十万部も空輸したり,タジク国内の宗教勢力にモスク建設の寄付金を贈ったりしている.ワッハーブ派を広めるためである.
このワッハーブ派は,中東世界では,サウジアラビアを除き,殆どの国にいない.
〔略〕
アブドゥール・ラスール・サヤフのイッティハディ・イスラム軍は,92年4月来のアフガン内戦では,首都カーブルにおいて,ハザラ族のハラカチ・イスラミ軍及びワアダッディ・イスラミ軍と戦っていた.
人数的にはハザラの両勢力のほうが優勢だが,イッティハディ・イスラミ軍の装備は,サウジからの豊富な軍資金の提供を受けて,アフガン武装勢力の中で最良である.
それとパシュトゥーン族の勇猛さとで,もともと弱小だったハラカチ・イスラミを消滅させ,残るワハダッティ・イスラミ軍にも大きな打撃を与えていた.
その後,アフガン北東部のクンドゥズ州に移動し,93年秋の以前からタジキスタンへ攻め込んでいた.
なお,歴史的にはワッハーブ派は,シーア派,仲でもイランとの中が悪い.
イッティハディ・イスラミ軍が交戦したハザラ族武装勢力はいずれもシーア派であり,イランの支援を受けていた.
イッティハディ・イスラミ軍がタジキスタンへ攻め込んでいるのは,小さな同国を通り抜けると,フェルガーナ盆地のワッハーブ派との連絡が出きる.すなわち,中央アジアにおけるワッハーブ派の支配圏拡大を目指してのことである.
ワッハーブ宗が広まるのは,サウジの喜ぶところで,援助は惜しまない.
さらに,そこに石油の巨大な埋蔵があるとなれば,石油大国サウジアラビアとしては,大いに食指が動くというものである.
イッティハディ・イスラミ軍は,その後のタリバーンの登場によって,当初は交戦したが,やがて,同じパシュトゥーン族の誼(よしみ)か,タリバーンに属している.
そして,指導者アブドゥール・ラスール・サヤフは,タリバーンの最高指導者ムハンマド・ウマルの親友となっている.
イッティハディ・イスラミ軍の動向で注目すべきは,アフガン国内部で,タリバーンと北部同盟との戦闘が激化し,米軍もタリバーンへの攻撃を始めたにも関わらず,アフガン北東部に居座ったまま,タジキスタンへの越境攻撃を続けていたことだ.
なお,アブドゥール・ラスール・サヤフは,あのウサマ・ビン・ラディンと親しい.2人は共に,同じワッハーブ派宗徒なのである.
(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」,
光人社文庫,2002/1/18,p.69-71)
【質問】
ムラー・ナキブはどんな人物か?
【回答】
ラバニ派のカンダハル司令官だったが,ターリバーンにカンダハルを引き渡し,暗殺未遂事件もあってパキスタンへ移住.
ターリバーンが崩壊すると,カンダハルはまた彼の手に戻った.譲られらという話もあるという.
現在は引退.
以下,ソース.
私達は,私がアフガニスタンを去った後で彼の身に起こった出来事について話し合った.
最初は万事順調に行っていたようだ.
「ところが,それから内戦が始まり,混乱が続く間にタリバンが現れた.
タリバンの動きが目立ち始めたとき,ハミド・カルザイが会いに来て,タリバンとは戦うなと言った.
また,ラバニも電話をかけてきて,戦うなと言った.
当時,我々はみんな,タリバンは国王のために戦っていると思っていた」――ザヒル・シャーを国王に復位させるために――「そしてタリバンは私に,
『守備隊と銃を引き渡せ』
と命じてきた.
ラバニは資金も弾薬も送ってこなかった.
そんな状況で誰がどうやってタリバンと戦えるのか?」
ナキブによれば,彼がカンダハルを引き渡すと,タリバンは彼にチャルクルバに帰れと命じた.
「私はここに数年留まった後,暗殺を企てられて負傷し,治療を受けるためにイスラマバードへ行った」
ナキブは片袖とズボンの片方を捲り上げて,傷痕を見せてくれた.一発が左足に,もう一発が左肘に当たり,ここにはロケット弾の破片を受けたのだと言って,胸を指差した.
一緒に移動していた6人の部下は殺害された.彼一人生き残って,犯人グループは逮捕されたという.
「彼らは人違いだったと主張した.私をタリバン幹部だと思ったと言った」
〔略〕
彼が軋轢の問題を持ち出したので,私は,ムラー・ナキブとの現在の関係はどうなったのかと質問した.
「ムラー・ナキブは自ら政権から身を退く事を認めた」とグル・アガは答えた.「だから今,彼は何の任務にも就いていない」
グル・アガはハミド・カルザイに,ナキブとは仕事をしたくないと伝えたという.
「タリバンとアルカイダをカンダハルにつれてきたのはナキブだった」と,グル・アガは言い,さらに,ナキブはタリバン幹部の逃亡に手を貸したと続けた.
「世間は彼を面白くないと思っているし,米軍もそうだ.
ひょっとすると,法の裁きを受けるかもしれない」
カルザイ議長の弟の一人,アハマド・ワリ・カルザイは,カンダハルで州知事公邸から数キロの,厳重に警備された家に住んでいる.
〔略〕
カルザイはナキブのタリバンとの関係について,さほど警戒視していなかった.
「初めの内,私達はどちらかといえばタリバンを支援していた.しかし,そもそも彼らは大半がロシア軍と戦った司令官だった事を理解してもらいたい.アラブ人は一人もいなかったし,パキスタン人もごく少数だった」
カルザイ家は3年以上も前からタリバンとの戦いを始めた.
「1998年7月,兄と私はムラー・ナキブと協議して,ボン行きを要請した」――反タリバン勢力指導者の会議のため――
「そして,飛行機のチケットとパスポートまで渡したが,彼は行かなかった」と,カルザイは言った.「ナキブは自分の土地を離れたくなかったので,ボンへ行けば,帰国後にカンダハルで自分の身は安全ではなくなると言った.それは本当だったと思う.
だが実は,ナキブはタリバンに対して何の行動も起こさなかった」
11月に,グル・アガが南から,ハミド・カルザイが北からカンダハルに向かっていたとき,ムラー・ナキブは協力するようにと衛星電話を渡されていた.
「ところがナキブは,監視が厳しすぎると言った」
とアハマド・ワリ・カルザイは言った.
「結局,彼は,タリバンと兄が話し合う御膳立てをしただけだった.ムラー・ナキブは,クエッタにいる私に連絡してきて,ムラー・オマルは話し合う用意ができていると言った」
カルザイによれば,カンダハルをナキブに引き渡すのはタリバンの意向だったという.
「だが,決められたように事は運ばなかった.私達は,ムラー・オマルがカンダハルに留まるとは思っていなかったが,タリバンには居残ると思っていた」
1998年にナキブが危うく命を落としかけた暗殺未遂の首謀者は,タリバンの防衛長官だったとカルザイは言った.調査の結果,その事実を証明する証拠を掴んだ.
カンダハルの大物実業家も私に同じ事を話し,タリバンは暗殺未遂の共謀を隠蔽するため,タリバンのヘリコプターでナキブをパキスタンに運んで治療させたのだと主張した.
私は実業家に,何故タリバンはナキブの命を狙ったのか,と尋ねた.
「ナキブは,タリバンがやってくる前の時代からカンダハルにいる,ただ一人の実力者だったからだ」と彼は言った.「アルガンダブでは,住民に部族長だと思われている.
彼はタリバンにとって潜在的な脅威だった」
タリバンはムラー・ナキブについて色々と懸念していたかもしれないが,12月にカンダハルを明け渡さなければならないと知るや,彼に協定を結ばせようとした.
カンダハルの部族評議会の著名な長老である,ハイルラという60代の識者が私に語ってくれたのだが,タリバンは退去するとき,ナキブに大量の武器を残していた.
ナキブは私に,ラバニが彼から武器を取り上げたと不満を漏らしていたが,今は武器を持っているようで,しかも出所については,10台のトヨタ・ランドクルーザーを手に入れた経緯と同じく口を濁した.
ハイルラはまた,彼が知る限り,ナキブは精神的に深刻な健康上の問題など――仕事ができなくなるようなことは何も――抱えていなかったことも断言した.
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.184-185 & 189-191
【質問】
グル・アガはどんな人物か?
【回答】
ラバニ政権時代のカンダハル州知事.
人となりについてなどは以下引用.
グル・アガは髪の毛が濃い,ずんぐりした男で,腹も顔も肉付きがよかった.
茶色のシャルワール・カミーズにサンダル履きで,私は,彼の足の爪が伸びて不潔なのに気付いた.
〔略〕
グル・アガは長すぎる舌を持て余すかのように,離すときにぎこちなく舌がもつれる.
〔略〕
州知事と話す順番が回ってきて,私は最近のアフガン情勢における彼の役割について話してもらいたいと言った.
彼はラバニ政権時代にカンダハル州知事を務めたが,当時は軍司令官のムラー・ナキブのほうが権力を握っていた.
1994年にタリバンがカンダハルを制圧すると,グル・アガはパキスタン国境を越えてクエッタに移動した.
「ビジネスを始めた」と彼は言った.「パキスタンや日本,アラブ首長国連邦などの国で色んな品を売買した.
タリバンとアルカイダがアフガニスタンで強大な勢力になったとき,私はムラー・オマルに3度,手紙を書き,今行っている事をやめるよう忠告した.彼がアフガニスタンに災いをもたらすからだ.
オマルは私達の忠告を受け入れなかったので,ロシア軍と戦ったときと同じように,我々は彼に対する戦いを始めた.アフガニスタン人は5千年以上に及ぶ長い歴史を持ち,一度も外国の侵略者を受け入れることがなかったし,常に抵抗して戦ってきた.
我々は,空港を警備する国連軍〔原文ママ〕と米軍に,あなた達は外国の介入を阻止するためにここにいるのだと言ったことがある」
それからグル・アガは,イランやロシアなど幾つかの外国が,元大統領のラバニをはじめとするイスラム原理主義の軍司令官達を支援することによって,いかにアフガニスタンへの介入を続けているかをくどくどと訴えた.
「イスラム原理主義者達は皆,ムスリム同胞団のようなイデオロギーを持っている」
と,グル・アガは言った.彼らは誹謗中傷するデマを広め,カルザイの周囲に殺し屋を送り,騒ぎを引き起こして,ハミド・カルザイの暫定政権を妨害しようとしてきた.
「我々はアフガニスタンへの外国の介入を終わらせたい」と繰り返した.「我々はアフガニスタンの平和を求め,誠実な政権ができるよう力を貸したまえ,とアラーの神に祈る.
そして私の一番の願いは,様々なグループ間の軋轢がない,全てのグループによって受け入れられる新政権の樹立だ」
州知事は椅子に深く座って,自分の演説に満足げだった.
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.187-189
【質問】
紛争初期にはムジャヒッディーンはどこから武器を手に入れていたのか?
【回答】
敵軍からの捕獲以外は,主にダッラにて購入していた模様.
ダッラでは,ゲリラの需要を見込んで対戦車ロケットまで仕入れることがあったという.
以下引用.
ダッラは,パターン人〔パシュトゥン人〕にとって,カイバル峠と並ぶ重要な場所である.
パターンの男達は,ここで命から2番目に大切な銃を手に入れるのだ.
ペシャワールから南に40キロ,部族地域の中にある.
ここに住むアフリディー族は,治外法権を最大限に利用して,既に百年以上も前から銃の密造を続けている.
推定にしかすぎないが,ダッラで密造された銃は50万から百万丁の間と言われる.
パターン語で,ダッラは「峠」を意味する.
だが,なぜかダッラは谷あいの集落である.
道の両側数百メートルに渡って商店が並び,その殆どが銃砲店だ.どこも,できたてほやほやの黒光りする小銃,ピストルを店一杯に広げている.
驚かされるのは,世界各国のありとあらゆる銃(もちろんダッラ製だが)がそろっていることだ.
比較的安いのが西独のモーゼル銃で3千ルピー(6万円),ついでアメリカのトミーガンが5千ルピー(10万円),ソビエトのカラシアンコープ〔カラシニコフ〕突撃銃は1万ルピー(20万円),アメリカのウィンチェスター308が一番高く,1万7千ルピー(34万円)である.
ピストルは桁違いに安い.22口径が150ルピー(3千円),38口径のレボルバーが300ルピー(6千円).
店には対戦車ロケットB41もあり,1発5千ルピー.これはダッラ製ではなく,イランから密輸入したものだという.
もちろんゲリラの需要を見込んで取り寄せたものだが,売れ行きはまずまずということだった.
珍しいものがあった.外形はボールペンだが,真ん中当たりのネジを外して弾丸を込め,発射できるようになっている.いわゆる「ペン・ピストル」である.百ルピー(2千円).
おもちゃまがいのこのピストルには,ご丁寧に「メイド・イン・ジャパン」の文字が入っていた.
ダッラでは「日本製」まで作っている.
商店の裏側は,軒の低い民家が密集している.その一軒一軒が銃器密造工場だ.
モーター,金属の削られる音が一日中絶えない.
仕事の内容は分業化されている.銃口を削っているだけの家もあれば,銃の台尻にヤスリをかけているだけのところもある.薬莢作りは,もっぱら老人と子供がやっている.
すぐそばで腹に響く発射音が響く.できあがったばかりの銃を裏山に向けて試し撃ちをしているのだ.
誰も気にかけないし,仕事の手を止めることもない.
園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.241-242
【珍説】
西側世界全体のアフガニスタン総戦費の約半分は,オイルダラーであったとアハメド・ラシッドは書いている(前掲「タリバン」).
通常,他人の資金で,ある目的のために雇われる兵のことを傭兵と言う.
したがってムジャヒディンは,CIAと中東の地域反動勢力とが連携して雇った国際傭兵という事になる.
(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.165)
【事実】
ムジャヒッディーンには最初からオイル・ダラーの援助があったわけではありません.
既に存在していた武装勢力に,スポンサーがついたというだけの話です.
仮に,
「通常,他人の資金で,ある目的のために雇われる兵のことを傭兵と言う」
という定義が成り立つというのであれば,カルマル政府軍もソ連の援助金で雇われた傭兵だということになってしまいますよ?
ちなみに,初期のアフ【ガ】ーン・ゲリラの実相については,以下のような記述があります.
仮に「傭兵」であったとするなら,こんなに武器が乏しいということはありえないでしょう.
これらのゲリラに共通した叫びは,もっと武器を,ということである.
彼らが現在〔80年代初頭〕使っている武器で最も優れているのは,ソ連製の小銃〔原文ママ〕AK-47である.
しかし,その数はほんの僅かで,手製や古いものが多いらしい.
中には帝政ロシア時代の1893年製のものまであるそうだ.
かつては政府軍の空軍少将として空軍基地の司令官をしていたあるゲリラ指導者は,こう言うのである.
「ゲリラなら6万人集められる.
しかし銃は500丁しかない」
と.
朝日新聞調査研究室著「アフガニスタン事件」(朝日新聞社,1980/4/15),p.24
【珍説】
〔アフ【ガ】ーニスタン紛争で〕女性や子供の犠牲者の割合が多いのは,反革命派が最新の精巧なアメリカ製の,例えば玩具ふうの地雷その他の武器を使って,学校や社会福祉施設を攻撃の標的にしたためである.
(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.139)
【事実】
玩具型地雷〔正確に言うと,まるでオモチャみたいに見える撒布型対人地雷〕を使用したのはソ連軍ですが?
ムジャヒッディーン勢力がそんなことしたって,意味がないでしょ?
以下引用.
特に,こうした難民〔政治色がなく,かつ,農村部からの難民〕は,1980年7月以降急増した.
戦闘の拡大と激化が最大の原因だが,ソビエト軍が空からばら撒いた対人殺傷用地雷の影響も見逃せない.
7月から8月にかけて,ソビエト軍のヘリコプターは,パキスタン国境に接したアフガニスタン領内に膨大な数の小型地雷を撒布した.ゲリラがパキスタン側から越境攻撃してくるのを防ぐためである.
緑と茶色の2種類あって,発見されにくいように,草原には緑色,山の中には茶色のものが撒かれた.場所によっては,1u当たり3個の地雷が見つかったところもあるという.
ゲリラ側に相当な被害が出た.
だが,恐慌状態に陥ったのは一般の住民だった.
命を失う事はまずないが,踏みつければ片足は確実に吹き飛ばされる.
放牧に出るのは自殺行為に等しい.
そうかといって,家に篭っていれば生活が成り立たない.
国境地域には,全村挙げてパキスタン側に逃げ出し,廃村になったところが幾つもあるという.
園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.240
〔略〕
〔1980年〕7月になると初めて,PFM-1「バタフライ」地雷の使用が各地で認められた.
〔略〕
デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.38
言うまでもなくmade in USSR.
【珍説】
米国の梃入れによって深刻化した政治党派の乱立・抗争(ペシャワール会・中村哲医師「アフガニスタンの診療所から」
P.9)
米国の圧力によってゲリラは離合集散を繰り返し,(同
P.104)
【事実】
言いがかりです.
各派の対立が続いていたのは,「種族,王制に関する思想,国の近代化・イスラーム教義の解釈の相違,また組織内の主導権争いなどが原因と見られ」(三野正洋著「わかりやすいアフガニスタン戦争」
'98)ています.
ムジャーヒディーン勢力はイスラーム主義者のイデオロギー以外に何も共通点を持たなかったと指摘される(Magnus, Naby: 141)が,彼らは「イスラームの信仰さえも共有していなかった」(ユアンズ:256).
このため,各派が横の連絡のないまま戦闘を続けたのだった.
さらに地方の反政府グループによる個別の戦闘も加わり,神出鬼没のゲリラ戦は,パキスタン軍兵士と共に,パキスタン国内のグループと「あまり相談せずに効果的な戦闘を展開」(ユアンズ:258)するという,むしろ偶発の戦闘の連続だった.
山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.32
という指摘もあります.
また,援助を分配する際,パキスターンが親パキスターン派であるヘクマチァール派を贔屓することで,他の主要各派との間の確執を生んだともされています.パシュトゥニスタンの帰属問題をアフ【ガ】ーニスタンとの間に抱え,また,インドに対抗しているパキスターンとしては,後背地であるアフ【ガ】ーニスタンとの間に,国防上の憂いがないようにしたかったためです.
さらに,ソ連撤退後の1989年,ゲリラ各派の対立が激しくなり,互いに互いの幹部を暗殺するような事態に発展すると,これらの事情を知ったアメリカ国内で,ムジャヒディンへの武器供与を見直そうという声が強まることになりました.
「納税者の税金で購入した武器が,アフ【ガ】ーニスタン人(それも反共産主義者)同士の殺し合いに使われているのでは,供与の意味がなくなるのである.
この時期からアメリカ国務省のアフ【ガ】ーニスタン紛争に対する関心は,徐々に冷えつつあった」(同)
このことからも,アメリカがムジャヒディンの内部分裂を歓迎していなかったことが分かります.
【質問】
ムジャヒッディーンは志願制だったのか?
【回答】
部族単位で戦士を供出した.
以下は,画家,甲斐大策の目撃談.
「ジャン青年が,祈りの途中でハウリ〔砦ふうの住居〕のほうへ走った.見回すと自転車に乗った一人の男が,危なっかしく荒地を横切ってくる.祈りを途中で抜け出すなど,よほどのことがあったのか?
男は数言,ジャンに耳打ちすると,すぐ去っていった.
『先ほどの男は連絡係だ.イードから10日経ったらここからムジャヒッディーンを9人出すように言ってきた』
誰と誰が行く?
『私が選ぶことになっている』
順番は?
『所帯持ちは,俺も含めて出撃回数が多くなるなあ』
その言葉は衝撃的だった.戦闘員には,血気盛んな独身の若者を最優先にするのが当然だろう,と思う.
『だってそうじゃないか.所帯持ちは生還しようと思うから,無茶はしない.行動も考えも慎重だ.若いと頭に血が上る.万が一の場合も,若い者が家に残っていたほうが,家族のためにもいい』」
(from 「アジア回廊」,石風社,1996/11/30, P.78-79)
けだし名言.
【質問】
ムジャーヒッディーンのゲリラ戦術は優れていたのか?
【回答】
優れていなかった.
戦術としてのゲリラ戦を展開したのは,マスードなどごく限られた陣営だけで,横の連携は皆無に等しく,偶発戦闘の連続だったという.
以下引用.
――――――
ソ連軍が苦戦した事情には,抵抗勢力の「ゲリラ戦」が挙げられたが,戦術としてゲリラ戦を展開したのは,マスード司令官などごく限られた陣営だけだった(Urban: 101).
ゲリラ戦が展開された理由は,「抵抗勢力の共通点が,ソ連とカーブル政権への敵意以外には殆ど何もなかった」(ユアンズ:256)ことが挙げられる.
ムジャーヒディーン勢力はイスラーム主義者のイデオロギー以外に何も共通点を持たなかったと指摘される(Magnus, Naby: 141)が,彼らは「イスラームの信仰さえも共有していなかった」(ユアンズ:256).
このため,各派が横の連絡のないまま戦闘を続けたのだった.
さらに地方の反政府グループによる個別の戦闘も加わり,神出鬼没のゲリラ戦は,パキスタン軍兵士と共に,パキスタン国内のグループと「あまり相談せずに効果的な戦闘を展開」(ユアンズ:258)するという,むしろ偶発の戦闘の連続だった.
これについては,ムジャーヒディーン兵士自身が戦術を学んでいないために場当たり的な戦闘しかできなかった(Bradsher: 207)のに対し,ソ連軍は典型的な上意下達の戦略をとり,臨機応変な戦術をとらなかったことも指摘された.
さらに,ソ連軍兵士の中にムジャーヒディーン側に加わる者や,40℃以上の高い気温の中で様々な疾病にかかる兵士が続出し,麻薬に溺れる者も出て,士気の低下も懸念された.
――――――山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.32
▼ デビッド・イスビーも,ムジャヒッディーンの戦術はソ連軍よりももっと低いレベルにあった,としている.
以下引用.
――――――
ゲリラと活動を共にした経験のあるフランス人専門家,ジェラール・シャリアンは,1981年にこう記している.
「アフガニスタンの反乱勢力は,現代の革命戦争――時間と作業の面における効率性や組織,入念な計画など――について,殆ど何も知ってはいない」
しかしそれ以降,アフガニスタン人は,シャリアンが言う知識を基礎から学び始めた.
彼らは時間をかけて学び――未だにまったく学んでいないものも多いのだが――多くの犠牲を払った.
――――『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.161
これらの記述から考えるに,ムジャヒッディーンの戦闘能力を高く評価するのは過大評価だと言えるだろう.▲
【質問】
ムジャヒッディーンの情報源は?
【回答】
主としてラジオだったという.
以下引用.
〔略〕
〔ゲリラにとって,〕情勢の全体像はラジオが主な情報源で,BBC,ボイス・オブ・アメリカ,ラジオ・テヘランがよく聞かれた.
1987年から1988年になると,これらのラジオはソビエトの撤退やカブールの新政権についてより多くを伝えるようになり,さらに戦争の終結という希望的観測までも報じるようになった.
〔略〕
デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.11
また,中にはマスード部隊のように,アフ【ガ】ーニスタンの秘密警察の内部に二重スパイを潜入させていた例もあるという.
ちなみにペシャワール会の中村医師は,
「アフ【ガ】ーン人はラジオを通じて世界のことをよく知っている」
という主張をしているが,これは上述のような「ムジャヒッディーンがそうだった」ことを,アフ【ガ】ーン人全体のことだと勘違いしているのではないかと推測される.
▼ 軍事情報に関して言えば,デビッド・イスビーによれば,ムジャヒッディーン指導者には宗教的側面が強くあり,また,アフガーン社会では軍隊に対する伝統的不信感があったため,元将校の軍事知識はなかなかムジャヒッディーンには利用されなかったという.
しかし一方,主要リーダーのうちの何人かには軍歴があり(イスマイル・カーンやサイード・ジャグランなど),また,軍事顧問として元将校をそばに置くリーダーも多かったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.162を参照されたし.▲
【質問】
ムジャヒッディーンの小火器は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,最も一般的な銃は.303リー・エンフィールド銃と,AKであり,後者は紛争初期には政府軍の脱走兵から入手,その後は主として中国製が供給されたという.
年配者は射程距離の長いリー・エンフィールドを,若者はAKを使う者が多かったという.
軽機関銃は様々なものが使用されており,7.62mm
RPD,RPK,SGM,PKM,ZB36が最も一般的だったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.195-196を参照されたし.
【質問】
ムジャヒッディーンはスティンガー・ミサイル供与以前,どんな対空兵器を使っていたのか?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,それ以前までカーブル政府軍が保有していたSA-7「グレイル」が,1980年以来,使われていたという.
対空機関銃としては若干の12.7mm DShKM,14.5mm
KPV,ZPU-1,ZGU-1があり,中国製のZU-23連装23mm砲や,エリコン
20mm機関銃も少数使われたという.
ムジャヒッディーンの砦の周囲にはたいてい,このような機関銃数丁が配備されていたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.199-200, 202, 205を参照されたし.
【質問】
ムジャヒッディーンはどんな火砲を使ったのか?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,最も一般的なものはM-1937
82mm迫撃砲で,これを少数の中国製60mm迫撃砲が補完したという.
また,中国製107mmロケット弾は,12連装または単発の発射機の他,岩などで即席のランチャーを作って発射したという.
これを入手するようになってからは,ムジャヒッディーンは待ち伏せ攻撃よりも長距離攻撃を重視するようになったという.
しかし1987年頃になっても,間接射撃は優秀なムジャヒッディーン指揮官にさえ理解困難だったという.
さらに,122mm D-30またはM-30榴弾砲,M-1942
76.2mm 山砲なども鹵獲されていたが,訓練を積んだ人員や弾薬の不足から,大砲の使用は国境地域での作戦に限られていたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p163. 201-202を参照されたし.
【質問】
ムジャヒッディーンの平均的な装備は?
【回答】
デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9)のグラビア項で述べられているところによると,以下の如し.
AK-47
フラッシュ・ライト
ナソワール(かみタバコの一種)
数珠
鏡とクシ
お気に入りのカセット・テープ
ハンカチ
【質問】
ムジャヒッディーンの移動手段は?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,一般市民も使うバスが用いられたという.
アフ【ガ】ーニスタンやパキスタンでよく見られる,派手に飾り付けられた例のバス.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.163を参照されたし.
ただし高部正樹や長倉洋海の著作を読むと,ムジャヒッディーンと行動を共にしているくだりに関し,バスに乗ったという記述は見られない.
常に徒歩.
ゆえに,バスに乗るというようなことは,あったとしても例外的行動ではなかったかと愚考する.
【質問】
ゲリラの技量は?
【回答】
松井茂〔軍事・外交評論家〕によれば,「皆,生まれついての狙撃兵」だという.
以下引用.
――――――
〔1992年〕5月10日の朝を迎えた.
さすがに大隊長は早起きし,外へ出て,折り畳み椅子を広げて座り,周囲を警戒している.
周りでしきりに「パーン」「パパーン」と,自動小銃の音がする.
だが,大隊長は身じろぎもしない.
見ると,兵士達が飛んでいる雀を撃ち落としているのだ.
失敗する兵士は誰もいない.彼らは生まれついての狙撃兵なのである.
長年の訓練なしで,飛んでいる雀を2,3発で瞬時に撃ち落とす.
そんな技量を持つ兵士達が多数いる軍隊なんて,おそらく現在の地球上では他にあるまい.
これでは,さしものソ連軍も苦戦させられたのも無理はなかろう.
小部隊同士でぶつかるゲリラ戦では,部隊長や将校を遠くから狙撃で倒したほうが有利である.
指揮官を失った兵士は,自発的に退却するからだ.
――――――『21世紀のグレート・ゲーム』(光人社文庫,2002/1/18),p.136
▼ しかしデビッド・イスビーによれば,練度は終始低いままだったという.
1984年になっても,ムジャヒッディーンの5〜10%しか訓練を受けておらず,残りの戦士は戦闘に生き残ることで戦い方を学ばねばならなかったという.
1987〜88年には,訓練を受けたムジャヒッディーンの割合は数倍に増えたが,訓練レベルは低いままだったという.
また,
>アフガニスタン人は自分たちのことを生まれながらの名射手だと考えがちだが,
>彼らの射撃の腕前は実際にはかなり低い
とも述べられている.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.189-190を参照されたし.▲
【質問】
ムジャヒッディーンの上下関係はどうやって見分けるか?
【回答】
2つの指針で判断できる.
一つは,武器の良し悪し.いい武器を持っていればいるほど,その人物は指揮系統の高い位置にいる.
もし無線機を持っていれば,かなりの重要人物である.
もう一つは髭の長さ.髭が長ければ長いほど,その人物は身分が高い.一番髭の長いムジャヒッドは,グループのムッラーで,日に5回の礼拝を取り仕切る.
若者達は皆,自分がどれだけ大人びているかを示すため,必死で髭を伸ばそうとする.
(Gaz Hunter 『SAS特殊任務』,並木書房,2000/11/1,p.135-136,抜粋要約)
【質問】
ムジャヒッディーン相互の連絡は,どのようにして行われたか?
【回答】
無線機以外に,彼ら独自の郵便システムがあったという.
以下引用.
――――――
「ムジャヒッディーン達には驚くべき山岳郵便システムがあった.
各グループの指揮官達は,それぞれ自分の個人的なマークを刻んだ,独自のインク・スタンプを持ち,独自のカラー・インクを使って,メッセージが本物である事を証明していた.
どこの村にも配達人がいて,手紙が配達されないことは滅多になかった」
――――――Gaz Hunter 『SAS特殊任務』(並木書房,2000/11/1),p.198
なお,松浪健四郎は,以下に引用するように「バザール郵便」の存在を記述しており,このことから考えて,ギャズ・ハンターの述べている「山岳郵便システム」は,この亜種かもしれない.
――――――
「たとえ親戚がなくとも,いかなる辺境に住もうとも,砂糖,茶,塩,服地,マッチの如く,自給できない必需品を買い求めるべく,最寄りのバザールへは行かねばならないのが実情である.
そんなバザールの人達は,長い長い交際から顧客についてのことは承知しているものだ.
それに加えてバザールの人達は,顧客の郵便物(主に手渡しによる手紙)を預かる,義務に近い親切さを進んで履行するから,付近の住民についての知識は豊富なのが常である」
――――――「シルクロードの十字路」(玉川大学出版部,1979/10/14), p.48
▼ また,デビッド・イスビーによれば,1986〜88年にかけて,マスード,イスマイル・カーン,ペシャワールとの間には,しっかりした無線網があり,マスード陣営自身は長距離におよぶ確実な無線網を構築していたという.
そしてこれが,勝利の一因になったという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.167-168を参照されたし.▲
【質問】
ムジャヒッディーンの兵站は,どのような状況にあったのか?
【回答】
デビッド・イスビーによれば,人口減少が進むにつれ,レジスタンスを支援し食糧を提供する人の数が少なくなり,人口減少地域では都市やパキスタンから大変な苦労をして食糧を運ぶことを余儀なくされたという.
また,大量の弾薬を移動することも難しいため,戦争中,作戦行動は制限されていたという.
1984〜86年にかけては,ソ連軍による輸送妨害のため,問題は深刻化したが,87年からはアフ【ガ】ーニスタン全土に武器の大貯蔵庫が存在するようになったため,問題は緩和されたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.169-170を参照されたし.
【質問】
ムジャヒッディーンの兵站基地での日課は?
【回答】
NHKの取材によれば,ある基地の日課は以下の通りだったという.
午前5時――起床,祈り,コーラン朗唱
午前6時30分――トレーニング
午前7時40分――朝食
午前8時30分――教練(武器の使用法,修理法,組み立てなど)
午前11時30分――昼食,祈り,休憩
午後2時――教練(政治学習を含む)
午後3時30分――スポーツ(レスリング,球技など)
自由時間
午後7時――夕食
午後9時30分――消灯,就寝
園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.257-258
……あれ? あと3回の祈りは?
◆◆◆ラバニ派関連
【質問】
ラバニはどんな人物なのか?
【回答】
アル・アズハル大学でイスラムの神学を学んだイスラム法学者.
「みんな,彼にうんざりしている」
とも言われているという.
以下引用.
ラバニ教授は、エジプトのアル・アズハル大学でイスラムの神学を学び,前国王ザヒル・シャーの時代,カーブル大学でイスラム法を教えていた.
イフワーン(モスレム同胞団)出身で,カーブル大学では反共産主義闘争に参加したことのある反共産主義者で,私財をジハード(聖戦)に投じている献身的イスラム教徒.
68年にジャミアテ・イスラミ〔イスラム協会〕に参加し,72年に指導者となった.
74年,パキスタンに亡命した.
ラバニ教授の信奉者は,北部,北東部,北西部に多かった.
ラバニは92年4月に発足した暫定政権の大統領に就任した.
(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」,
光人社文庫,2002/1/18,p.204)
インタビューは3時の予定だったが,ラバニは1時間半遅れて,その間に,西洋式の服装に,ドライヤーで整えたような髪型で,英語を話す,髭のない青年2人の側近が,私の相手をしてくれた.
私達が部屋に1時間以上も立っていると,別の側近があてつけがましく,チラチラと腕時計を見始めた.
「女王様のお相手で忙しいのに違いない」
と男は皮肉を言った.
私はちょっと驚いて,彼にファイザバードの人達はラバニをどう思っているのか聞いてみた.
「司令官数名とこの人達を別にすれば」と,彼は2人の側近のほうを顎で勺って見せた.「みんなに嫌われている」
男は声を落とし,忠実な部下達をじっと見て,彼らに聞こえないのを確かめた.
「みんな,彼にうんざりしている」
彼の説明では,ラバニとマスードの相互に,愛などそもそもないから,失いようもなく,マスードの部下とラバニの部下との間で権力闘争が続いていた.
マスードの正式の後継者ファヒム将軍は,総指揮権をいまだ握れず,アメリカが絡む陰謀や,「タリバン後」政権樹立の動きで,事態は極めて緊迫していた.
ラバニの身内にさえ,彼に再び大統領になって欲しくないと思っている者がいた.
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.62
【質問】
ブルハヌディン・ラバニ大統領は過激原理主義者か?
【回答】
ラバニの娘はそうではないと否定しているが,肯定証言も複数あることから考えて,過激原理主義寄りである可能聖は高い.
まず,ラバニの娘のファティマ(1983年生)は,これを否定し,そうした見方は「西側メディアの偏見」だと主張している.
以下引用.
「父は女性の権利に全然反対していません! 父が大統領だった時には女子学校がありましたし,女性はブルカの着用を強制されていませんでした」と彼女は言った.「父は女性の教育を支持しているし,女性にも働く
場があると考えています.私を見てください.私は男女共学の学校に通ったんですよ!」
流暢な英語を話すファティマは,シャルジャ(※アラブ首長国連邦)にあるアメリカン大学でジャーナリズムを学んでいる.
この気力旺盛な女性は,去年ハミド・カルザイに道を譲るために自発的に大統領の座を降りた彼女の父が,西側のメディアに「ムラー」のステレオ・タイプで描かれているのを悲しんでいる.
「メディアは父をステレオタイプ化しています.多分見かけがそう見えるから.メディアは間違った印象を受けています.
父は本当はとても開かれた心を持っています」と彼女は述べた.
「彼にも限界はありますが.……父は自分流のやり方で穏健派なのです」
彼女は数か月前にタイム誌に出た記事を引き合いに出した.それはラバニについていろいろ述べていたが,ファティマによると
「まったく事実ではありません.でもそれはたぶんアメリカの雑誌だからでしょう」.
ラバニの政府は,タリバンがアフガニスタンの大部分を制圧する以前では,最後の民主的に選ばれた大統領だったが,「穏健派イスラム」であり「比較的進歩的」だったと広く考えられている.
タリバン支配地域に比べると北部の状況は良かったかもしれないが,そこでもラバニの大統領在任中(1992-1996)に重大な人権侵害や女性に対する暴力があったと国連は報告している.
ファティマはアフガン人の新しい世代の一員であり,戦乱で荒廃した故国を近代化することに熱意を抱いている.
卒業後は彼女はこの国のメディアを刷新することにエネルギーを使うつもりだ.
「アフガニスタンのどの政治指導者も,彼らの狭い関心に応える新聞や雑誌しか持っていません.
これらは自分たちを賞賛して,反対派を批判しています.
誰も民衆がどう思っているかなど気にかけません.
私たちには独立したメディアが必要です」
と彼女は述べた.
彼女の兄ジャラルはカナダに住んでいるが,オマイド(希望)という雑誌を運営している.これは一般アフガン人が投稿した詩と,人間的興味のある他の記事に特徴があり,ファルシー語と英語で発行されている.
タジキスタンで発行してアフガニスタンに発送されている.
ファティマはアフガン・ソ連戦争のさなかにパキスタンで生まれた.1996年にカブールのパキスタン大使館が攻撃された後,家族はロンドンに居を移すことを余儀なくされた.
1年後に彼女の父は,家族をUAEに住ませることに決めた.
〔略〕
(タニヤ・グースージアンfromGulfNews,2003/1/2)
(翻訳:「533」in軍事板)
もちろん,異論もある.
以下引用.
私は彼に,大統領時代――ムジャヒディンがソビエト軍の据えたアフガン政権を倒した1992年から,タリバンが入ってくる1996年まで――どのようなイスラム世界を築こうとしたのか,その説明を求めた.
彼は詳細については言葉を濁して,多少弁解がましく言った.
「ご存知のように,私の大統領時代は内部抗争が絶えなくて,アフガン社会に利益と向上をもたらすような方法で,イスラム法を実施していくことができなかった」
ラバには,次のようなことをやろうとしてきたと語った.
これまで敵対してきた共産主義者に恩赦の承認,政党と様々なメディアに自由な活動の許可,海外からの投資促進,戦禍を被ったカブール大学の再建,教職と銀行業務への女性の参加の奨励.他に多くの事業がまだ計画段階にあった.
「あいにく,打ち続く内乱で,有効な策を講じることができなくて,事業計画を実行するには至っていない」
と彼は言った.
私はラバニに,アフガニスタンの彼の支配地域で,なぜ女性はブルカを着るのかと尋ねた.
「ブルカはイスラム教の伝統ではない」と彼.「私が宗教方の教授だった頃,60年代の終わりから70年代の初めにかけて,カブール大学で女子学生用に,頭と肩は覆っても,顔と手を露出した,新しいスタイルのドレスをデザインした.
残念ながらクーデターが起きて,さらにこの計画を進めることはできなかった.
ここでブルカを着用するのは,長年の慣習からだ.
戦争で不安定な状態が続くため,女性達は怖くて脱げないが,これからは,嫌なら自発的に着用しなくなるだろう」
〔略〕
川原で話をしながら,イドリス〔ジャーナリスト〕はラバニを信用しない理由を話してくれた.
「ラバニの大統領時代」と彼は言った.「我々は顎鬚を生やして,絶えず祈っていなければいけなかった.
今は権力がないから,おとなしく我慢しているが,また盛り返せば,同じことをするだろう.
彼はイスラム原理主義者だ!」
イドリスは38歳だが,アフガンの男達が大抵そうであるように,かなり老けて見える.
ファイザバードから程遠からぬ田舎に育ち,1980年代,カブールでジャーナリズムを学んだ.
卒業後,ムハンマド・ナジブラ政権時代に3年間,軍務に服した.
〔略〕
イドリスは軍刊行物に記事を書き,その後,彼が不偏不党と評する新聞社で働いた.
けれども,カブールがムジャヒディンの手に落ちると,彼は殺されるのを恐れてパキスタンへ逃亡した.
2年後,アフガニスタンに戻った.
〔略〕
ラバニは大統領になると,まずブルカ着用を義務付けたと言う意見を,彼〔ラバニ大統領の外交問題顧問で,大統領の下で薬物・麻薬撲滅対策委員会のメンバーだったムハンマド・ナジル・シャフィー.27歳〕は否定した.
「アフガニスタン・イスラム国は当初,弱体だったので,仕方なく譲歩して,イスラム原理主義者,グルブディン・ヘクマティアルの政権参加を受け入れた.
彼の背後にはパキスタンがいたので,カブールにロケット弾の雨を浴びせた.
彼は女性にブルカを着用させたが,それはアフガニスタン・イスラム国の方針ではなかった.
西側は我々をイスラム原理主義者だと思っている.イスラム革命を始めたので危険だと.
しかし我々は本当に,道理を弁えたイスラム教徒なのですよ!」
〔略〕
ブルカについて彼女〔ザルミーナ.ファイザバード新市街に事務所がある海外援助機関で働く,年齢30歳くらいのアフガン女性〕は,北部同盟領内では公式に義務付けられたものだと思っている.
「これは法律よ」
私は彼女に,アフガン女性は自分の意思でブルカなしで自由に外出できるとラバニが言っていたと話した.
ザルミーナは笑みを浮かべて,眉を上げた.
「彼がアフガン女性のグループにそう言っているところを見てみたいわ」
ザルミーナは少女達に英語を教えていて,彼女自身はまだなかったが,そういうことで,とやかく言われている人達を知っていた.
「ここではどうなるかというと,もしも私が大変積極的で,意見を自由に言うとか,ある会合に出席するとか,好ましからざることをすれば,ムラーが金曜日の祈祷で,私についてあれこれ言うでしょう.
政府はこの点でムラーを支持している.一種の社会統制です.
だから,ここの女性達はブルカを脱がない」
私は彼女に,ブルカなしで外出したいかと尋ねてみた.
「最初にやるのは,かなり勇気がいるわ」と彼女は言った.「とても難しいでしょう」
大統領の長男,サラフディン・ラバニは,ブルカを着ない女性と結婚しているが,私にこの件には触れないで貰いたいと言った.
サラフディンの妻と2人の子供はロンドンに定住し,彼も,9月15日に父親とアフガニスタンに戻るまではロンドンに住んでいた.
〔略〕
サラフディンは父を穏健派の政治家と評する.
彼の記憶では,アフガニスタンで対ソ聖戦が行われていた1980年代に,父親はレーガン大統領の招きで,ワシントンへ行った.
「イスラム世界で反米感情が頂点に達する頃,父は訪米し,ムジャヒディンを支援してきた,多くのアラブ諸国の反感を買ってまで,無名戦士の墓地に花輪を捧げた」
さらにサラフディンは言った.
「富裕なアラブ人達は我々を支持しなくなり,父を『アメリカ人』と呼び始めた」
〔略〕
サラフディンはナジルと同じく,彼の父には,ブルカなどのイスラム社会の制約を持ち込んだ責任はないと言った.
「私の妻は歯科衛生師で,今は家政技師をしている」
つまり,子育てをしているという軽妙な言い回しだ.
「しかし,妻が勤めに出たければ,出ればいい.父はブルカを強制しなかった.ブルカはアフガンの慣習だ.女性達に着なさいとは誰も言っていない」
サラフディンは,妻がアフガニスタンに来たら,子のような状況を実際に試してもらうのが妥当かどうかと言う議論に立ち入らないようにしていたが,側近や護衛に囲まれて,別れの挨拶をしながら,私に向かって言った.
「次に会うのはカブールがいいね」と彼はにっこり笑った.「あちらでは,ブルカではなく,スカーフや,ゆったりとした衣類を身につけた女性達をたくさん見かけますよ」
〔略〕
カブールの医学生だったドクター・ロストゥムは,80年代半ば,共産主義政権の時代に卒業した.
彼は顎鬚を生やし,シャルワール・カミーズを着ているが,昔は綺麗に髭を剃って,西欧流の服を着ていたという.
そして90年代初め,ラバニが政権に就くと,男性は顎鬚を生やし,1日に5回祈るよう義務付けられ,女性はバスの中で男性から離れた席に座らされた.
「私はイスラム教徒だ」と彼は言った.「ときどきモスクへ祈りにも行く.でも,どうして1日に5回の祈祷を強制されなければいけないのか?」
アフガニスタンはムジャヒディンのカブール入りから様変わりし始めたと言う.
彼の話によれば,ムジャヒディンの指揮官は,彼が住んでいたアフガニスタン北部の町で,発電機の破壊を命じた.共産主義者に対する復讐行為だった.
「指揮官は言った.
『共産主義者達は,歴史は元に戻せないという.だが,私は戻してみせる』
そして彼は発電機を破壊した.
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.63-
【質問】
アブドゥル・ラヒム・ワルダクとは?
【回答】
パシュトゥン人で,元カーブル政府陸軍大佐.
NIFA指揮官としてペシャワールを本拠とし,国境地帯およびカーブルで作戦行動を行った.
戦史に啓蒙が深く,効果的な計画を立てたという.
詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.185-186を参照されたし.
◆◆◆◆マスード関連
【質問】
マスードの軍事的基礎はどこで得たものなのか?
【回答】
パキスタンでの訓練によるという.
以下引用.
〔略〕
彼〔ダウド〕の政策ではソビエト連邦と,より緊密な関係を持つことに重点が置かれ,パキスタンとの間にはこれまでにも増して緊張を生み出すこととなった.
〔略〕
ダウドがバルチ暴動を支持したこともあって,パキスタンはそのお返しに,元カブール大学の学生活動家グルブッディン・ヘクマティアルを始め,反ダウド政権のイスラム教徒に資金を提供したほか,ダウドの反対分子の訓練に乗り出した.
そのうちの1人はエンジニアリングを学ぶ学生アハマド・シャー・マスードだった.
マスードは1975年の革命(失敗に終わった)を指導するため,カブールの北にある故郷パンシール峡谷に戻った.
〔略〕
デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.25-26
▼ また,同書,p.173によれば,アフ【ガ】ーン古来からの口承文芸の中には,ゲリラ戦術を伝承するものがあるという.
以下引用.
――――――
「……カザキの(ゲリラ)戦法は,正面決戦よりもずっと効果的である……
この種の戦闘では,良い馬(機動力)と良い射手(火力)の2つが必要条件となる.
この2つがあれば,小人数の部隊が敵の大軍を破ることができる……
小さな分遣隊を相手に戦うときには,奇襲をかけるべきである.
しかし援軍がやってきて,より強力な部隊と対峙しなければならなくなったときには,決定的な戦いを避け,敵の弱点となる部分を襲うため迅速に撤退する.
こうすることで,持久力と長期にわたる消耗戦を戦い抜く力が身につく……
たとえどんなに敵が強かろうと,消耗戦は敵を徐々にくじくのである……
そして侵略軍を相手に戦っている小さな部隊に,勝利の機会をもたらすのだ」
――クシャル・カーン・カナック,ダストルナマ(17世紀のパシュトゥー叙事詩)――A.A.シャラリによる翻訳
――――――
▼ マスードはパシュトゥンではないが,こうした民間伝承を知らなかった可能性は低いだろう.▲
加えてマスードはかなりの読書家であり(他の軍閥指導者もそうであることが多いが),毛沢東やド・ゴールの本も読んでいたというから,そこから得た知識もかなりあっただろうと推測される.
以下引用.
〔略〕
マスードは首都カブールに入城したものの,4年後の1996年,タリバーンの攻勢の前に,首都からの撤退を強いられました.
マスードは撤退を決めてからわずか1日で撤退を完了させましたが,そのあとで彼に会ったときと,撤退の混乱の最中,3000冊の蔵書を持ち出した話を聞いて驚きました.
故郷の実家の隣に客人用の小さなゲストハウスがあるのですが,その廊下に持ち帰った3000冊の本が積み上げられていました.
イスラムの本,トルコのイスタンブールやカイロの歴史を紹介した本,イランの詩や恋愛小説,毛沢東やド・ゴールの自伝などさまざまなジャンルの本がありました.
1997年頃,マスードの睡眠は2時間ほどでしたが,その貴重な睡眠を削っても読書に時間を割こうとしていました.
〔略〕
長倉洋海著『ぼくが見てきた戦争と平和』(バジリコ,2007.5.15),p,19-20
もし孫子もあったら完璧.
【質問】
マスードはいつ,どのように武装蜂起したのか?
【回答】
1978年,手紙で近隣の村村に激を飛ばし,協力を募った上での蜂起だったという.
以下引用.
数日後,カブールで私は,ワジル・アクバル・ハーンの家に近いマスード家の邸で,ヤヒヤに会うと,彼は,アハマド・シャー・マスードの最も古く忠実なムジャヒディン幹部,アジズ・マジュロウ司令官を紹介してくれた.
アジズはソビエト軍との戦いで重傷を負っていた.左手には傷痕が残り,親指を失い,片足を引き摺った.
「マジュロウは『負傷者』という意味だ」
と彼は恥ずかしそうに説明してくれた.
アジズは,最初のアフガニスタンのマルクス主義指導者,タラキが政権を握った1978年,マスードと会った.
アジズは20歳の機械工,マスードはゲリラ活動を組織しようとしていた新生イスラム教指導者の一人だった.
彼はアジズの村,パンジシール渓谷のダシュティ・デバトの人達に手紙を書き送った.
「長老達が村の男達を秘密の場所に集めて,手紙を読み上げた」とアジズは語った.「アフガニスタンの共産主義政権は我々の文化を変えたいこと,我々は自分達の手で守らねばならないことが書いてあった」
手紙は聖戦への呼びかけだった.
アジズの話では,彼を始め,村の百人あまりの男達で纏まり始めたが,銃を持っているのや戦闘経験のあるのは2,3人しかいなかった.
隣村サフィチルの長老達もマスードから手紙を貰い,男達も組織作りを始め,マスードが来るのを待った.
「手紙が来て約1ヵ月後」と,アジズは言った.「マスードは到着し,それから3つ目の村,パイアンが加わった.
この3つの村がパンジシールで最初に団結した」
マスードは,数人の親戚や友人を含む20人ほどの男達とやってきた.
「彼は立派な顎鬚を生やし,ターバンを巻いていて,大物になると私は思った」と,アジズは言った.「たぶん40代か50代には.
でも彼は,グループの中で一番若いと言ってよかった」
マスードはそのとき26歳くらいだっただろう.
「彼は誠実な男だった」と,アジズは語った.「お金には関心がなさそうで,指導者らしく振舞った」
アジズはマスードが暗殺されるまで一緒にいた.
彼の職務は長年に渡り,特にケガをしてから変わったが,ムジャヒディンのままだった.最後はパンジシールの副師団長として働いていた,と語った.
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.236-237
【珍説】
マスードはBBCヒーロー」,すなわちメディアによって作り上げられた英雄(ペシャワール会・中村哲医師,河合塾での講演)
【事実】
全く的外れ.
マスードは,1983年の,カルマル政権による攻撃強化の中で,その指導力と戦略で頭角を現したのだとされている.同年6月には,カーブルでソ連軍代表との直接会談に臨むまでになったほどである.
パンジシール渓谷への攻撃は84年末までに第10次攻勢がしかけられたが,マスード部隊はこれを撃破,これにより,「パンジシールの獅子」と称される伝説的指揮官として,ソ連軍に恐れられることとなったのである.
1985年5月にも,同渓谷への大攻勢が仕掛けられたが,何ら進展は見られなかった.
詳しくは山根聡著「アフガニスタン史」(河出書房新社,2002/10/30),
p.145-146を参照されたし.
中村医師の「イスラーム協会」(ラバニ派)嫌いは,ラバニ派とタリバーンとの戦闘の影響で,ペシャワール会の活動が妨げられた(中村医師の各種著書)ことに起因する私怨のようであり,加えてイスラーム過激原理主義的見解が中村医師には多分に影響しているため,彼のマスード評は傾聴するに値しない.
アフ【ガ】ーンについての中村医師の,マスード評以外のコメントに,傾聴すべき部分が何か存在するかも疑わしいが.
なお,中村のマスード評はおそらく,以下のような話を聞きかじって際限ない拡大解釈したためと思われる.
マスードが国際社会で人気を博した背景には,彼の人柄に加えて,国外のアフガニスタン研究者にペルシャ語を話す者が多く,パシュトー語を理解する者が少なかったことも指摘されている(前田・山根:149-150)(Magnus, Naby: 141).
山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.29
上のような話から,意図的なのかどうなのかは知らないが,「人柄に加えて」が中村脳の中で欠落したのだろう.
【質問】
なぜソ連軍はマスード部隊に決定的打撃を与えることができなかったのか?
【回答】
元KGB将軍,レオニート・シェバルシンの言葉を信ずるならば,情報網のおかげ.
84年春,ソ連軍とDRA(アフガニスタン民主共和国軍;カルマル政府軍)との同盟軍は,パンジシール渓谷のアーマド・シャー・マスードの要塞を共同攻撃していたが,第40軍司令部では,それが今次戦争で最も大規模にして最も成功した共同作戦だったと,盛んに吹聴されていた.
ブリーフィング担当者が淡々とKGBのシェバルシンに言ってのけるところでは,敵のならず者3千人の内,戦闘によって命を落としたのは1700人.残りは撤退したが,その際,死者も武器をもって逃げたという.
「生き残りの1300人が,1700人の死体を運んだというのか? 死人の武器まで?」とシェバルシンは尋ねた.「だいたい,そんな大敗北を喫したら,その部隊はもう脅威でもなんでもないだろう.どうして敵の動きを追うんだね?」
ブリーフィング担当官は,彼の問には答えなかったが,シェバルシンはその後間もなく,自分の情報源から答を得ることになった.
問題の戦闘では,敵に犠牲者は殆ど出なかったのだ.せいぜい死者は15人ぐらいだという.
マスードは,パンジシール渓谷にソ連の攻撃があることを予め知らされており,攻撃が始まる前に自軍を引揚げると共に,渓谷の住民も大半を避難させていたのである.
マスードに攻撃情報を漏らしたのが誰なのか,シェバルシンには確かな事は言えないが,おそらくはカーブルのDRA国防省内の幹部だろう.
また例えば,『顧問』の名目で活動しているGRU将校を通じ,ソ連軍情報をマスードは密かに入手している.
ソ連占領下のこの3年,裏ルートからソ連情報を入手しているおかげで,マスードは多いに助かっていた.いつでもあと一歩で停戦の最終合意に漕ぎ着けられそうに見えたため,第40軍司令部は,マスードの要塞に大々的な攻撃をしかけようとしなかった.
遂に攻撃を始めたのは89年,アフ【ガ】ーニスタン撤退も最終段階に入ってからである.
(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,'03,P.377-379,抜粋要約)
【質問】
マスード部隊の捕虜収容所では拷問は行われていたのか?
【回答】
しばしばそのように指弾されるが,確定的な証言はない.
逆にレジデー捕虜収容所のように,赤十字の検査を受けているところもあった.
以下引用.
レジデーの監獄は赤十字国際委員会の検査も受けており,捕虜には手紙を書く権利が確保され,親類との面会も許されている.ただし,前線を越えてでもここまで来たいという親類がいればの話だが.
他のマスウード軍の監獄では捕虜の爪を剥がすといった拷問が行われているとも言われ,しばしばそのことで糾弾もされているが,ここレジデーの捕虜は明らかに正しい扱いを受けている様子だ.
捕虜達は,日中は武装した看守の監視の下に,聳え立つ峰の下にある菜園の世話をして過ごしている.
犠牲祭の祝日にはマスウードの部下から1頭,雌牛を与えられ,メッカの方向を向いてそれを屠殺したという.
既に3年をこの監獄で過ごしている捕虜も何人かいる.
収監者の交換のため,これまでに9人の捕虜が解放されたが,重要人物の場合は身代金と引き換えだったことを,マスウードの士官達も認めている.
C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.345-346
【質問】
ワリ・マスードとは?
【回答】
アハマド・シャー・マスードの弟.
ロンドン留学経験のある外交官.
以下引用.
私は10年ほど前,ウィンブルドンの友人の家で,ワリ・マスードに会った.
彼は20代半ばで髪が黒く,口髭を蓄えた,痩身の人当たりの良い男だった.
ワリはアフガン軍の少数民族タジク人将校の末息子で,国際関係論研究のため,イギリスに来ていた.
彼には有名な兄がいた.パンジシールの獅子,アハマド・シャー・マスードだ.彼は,1980年代にアフガニスタン北部,パンジシールの大渓谷で,ソ連軍による7回の大攻勢を撃退したムジャヒディンの一団を率いていた.
ソビエト軍がアフガニスタンから撤退した3年後の1992年,マスードの軍――主にタジク民族からなり,イスラム教学者,ブルハヌディン・ラバニが率いる,やや保守的な集団,ジャミアティ・イスラミ(イスラム協会)――が,ソビエト軍が残していった残虐な政権を打倒した.
アハマド・シャー・マスードは国防相に就任,後に,アフガニスタンの新しいイスラム国の副大統領となった.
〔略〕
ワリ・マスードはロンドンに留まった.
結婚して2人の娘を設け,外交論で修士号を得た.
現在は駐英アフガン大使館で代理大使を務めている.
北部同盟は国連のアフガニスタンの席と,パキスタンを除く40数カ国の大使館全てを支配しているが,ただパキスタンにある大使館はタリバンの支配下にある.〔この当時〕
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.14
軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事初心者まとめ