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南アジアFAQ目次

軍閥


 【link】


 【質問】
 どうやれば,アフ【ガ】ーニスタンで軍閥を作る事ができるか?

 【回答】
 1万ドルを用意し,1ヵ月に百人の護衛を雇い,トヨタのピックアップ・トラックを2,3台購入すれば,誰でも軍司令官になれるという.
 ただし,その兵力を維持するためには,資金源を確保する必要があるという.

 以下引用.

私はキアス〔著者の通訳〕に,アフガニスタンの軍司令官に成りすますには,どうすればいいか,と訊ねた.
「それは簡単です」と彼は言った.「1ヵ月に百人の護衛を雇い,トヨタのピックアップ・トラックを2,3台購入すれば,もう軍司令官になります」
 彼の見積もりでは1万ドルほどかかるという.護衛は安く済むし,大半は自前のカラシニコフを持っていた.とにかくカラシニコフも安かった.
 戦力を増強するためには,もう少し金をかける必要がある,と彼は示唆した.例えば,RPG2,3挺と強力なPK機関銃1,2挺を購入する.

 分かった,と私は答えた.
 しかし,このような部隊を持って,私は何をするのか? 始めるのは安く済んでも,どうやってそれを維持するのか?
 それも簡単なことだとキアスは言った.
「最初の1ヵ月で,これ以上つぎこまなくてもいいように,金を儲ける方法を見つけるのです」
 地元の金持ちや商人や貿易商などのところに行って,金を要求すれば,彼らは金を出した.
 キアスが強請りの手口を話しているように見えた.
 もちろん,強請りは最初だけだと彼は説明した.
 例えば北部同盟のムジャヒディン司令官はたいてい,阿片やヘロインの取引にも関わっていた.

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.193-194

 どうりで軍閥が各地にうじゃうじゃいるはずである.
 治安維持と軍閥解体は,どちらか一方が先行すべきものではなく,同時進行で進めなければならない,ということになろうか.


 【質問】
 軍閥の武装解除は進んでいるのか?

 【回答】
 田中浩一郎によれば,進んでいない模様だという.

 DDR(武装解除)プログラムの第1段階として行われる,10万人規模の武装解除のためには,実施主体の中立性確保が大前提となる.
 そして,「アフ【ガ】ーニスタンの新たな出発計画」(Afghanistan's New Beginnings Program)の枠組みの中では,国防省がDDRを統括することから,その国防省自体の改革が先行しなければならない.
 還元すれば,信頼醸成装置の促進のため,国防省の民族的な構成に手が加えられる事が先決となる.
 プログラムの対象である実働兵員(Security Personnel on Active Duty)がそれなりの精度をもって正確に抽出される必要もある.
 ちなみに,人事移動を通じた改革は,遅れ馳せながら2003/2/20,DDR会議(東京会議)に合わせて発表された.これを契機として,特定の派閥と民族による国防省支配に終わりを告げることが期待されている.

 そして,このような改革の必要性は,内務省,諜報機関,秘密警察についても当て嵌まる.
 しかし現段階では,国防省改革の深度と人事移動の効力を判定することは難しい.
 地方勢力の行動を見る限り,実体の上では改善が進んでいない模様である.

 また,DDRプログラムの中で,軍閥の私兵を改めてアフ【ガ】ーニスタン国軍へ登用する道筋が残されていることに対しても,懸念する声が大きい.
 既存のどの勢力からも中立な国軍の創設のためには,内戦時代のしがらみに縛られていない兵員の調達が求められているからである.

 なお,武装解除実現には本来,全国一斉で同一プログラムの一律適用が不可欠であるが,アフ【ガ】ーニスタンにおいては,この原則が担保されていない.
 現状のままでは,例えばファヒーム国防相の配下にある私設部隊などが特権的に温存されることから,本来であれば信頼醸成に基づくプログラムが,かえってアフ【ガ】ーン人同士の不信感を高め,危機を煽ることになりかねない.

 この問題は,より広い視野で見なければならない.
 2003年7月に始まるはずであったプログラムも,実施が度々延期された.
 DDRの停滞をもたらしている真因は,国防省という一政府組織に限ったものではなく,正統性に本質的な挑戦が生じている移行政権にこそ求められるのである.

 国連関係者は,国防省が一軍罰によって支配されていると見なされている状況下ではDDRの進展は望めないとして,国防省改革の必要性を説くようになっている.
 このような見解における「国防省」を移行政権と置き換えて読めば,より現状に即した認識となる.
 それを考えると,国連の認識は今だ中途半端な分析と言わざるを得ない.
 国連とドナーが,本質的な改革の出発点となる認識を厭うのであれば,アフ【ガ】ーニスタン和平は今後とも暗礁に乗り上げることは避けられない.

(田中浩一郎 from 「アフガニスタン――再建と復興への挑戦――」,
日本経済評論社,2004/3/5, p.112-113,抜粋要約)

 ただし,その後,日本外務省サイトによる最新情報では

 2004年3月27日からの本格段階においては,特に10月9日の大統領選挙前後に武器を捨てて政治に参加する機運も高まったこともあって,2005年2月末には,合計4万2000名が武装・動員解除され,190の部隊のうち151部隊が解体されるに至った.

 また,2005/6/30の報道では,

軍閥6万人が武装解除 アフガン,日本の支援で

 日本政府が中心となり支援してきたアフガニスタンの軍閥や旧国軍兵士の「武装・動員解除,元兵士の社会復帰」(DDR)計画のうち,武装解除が30日,終了した.
 国連によると,同計画が始まった2003年10月以降,6万人以上が武装解除に応じた.
 長年の戦禍で各地に割拠してきた軍閥の解体はアフガン復興の課題.同計画は国防省に登録されている軍閥や旧国軍の兵士が対象で,アフガン政府は今後,国連や支援国と新たに「非合法武装グループの解体」を進め,約10万人ともいわれる未登録の武装グループや私兵の解体を目指す.

(共同通信,2005/6/30)

となっており,それなりの進展はあったようである.


 【質問】
 DDR対象者の数「10万人」は,どのように決められたのか?

 【回答】
 軍閥部隊の推定兵員数には大きな開きがあったため,妥協の産物として出された数字だという.
 実際には,「軍閥部隊10万人」は過大な数字だった模様.
 以下引用.

まずDDR対象者の数の特定が必要になる.数をはっきりさせなければ,金を出すドナーもあるまい.
 これは10万人と決められた.
 国防省には,全国の部隊の詳細な情報は存在しなかった.いい加減な話であるが,米軍に味方してタレバンに勝った軍閥の部隊が,国防省傘下の軍として認知されていた.
 国防省傘下の兵士には給料が支払わなければならないが,実態が明らかにならないまま,国防相と財務相の政治レベルでの交渉で定員10万人と決められた経緯がある.
 その際,そうしたジハーディは全国に70〜80万人はいる,と主張する国防相側と,4〜5万に過ぎないと確信する財務相側で大激論となった結果の妥協として,10万人と決められた.
 その際,アシュラフ・ガーニ財務相は,10万人の内訳を早急に準備し,財務省に提出する事を条件にしたが,今だ実現していない.
 〔略〕
 DDRの実施においては,現地の部隊から提出される兵員リストをいちいち検証しながら進めていくが,その過程で,大半の部隊にはリストに記載されているほどの要員は存在しないことが明らかになっている.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.102


 【質問】
 DDR試験段階での問題点は?

 【回答】
 司令官クラスがDDRに応じず,また元兵士に支給される現金を司令官が巻き上げるケースが頻発したという.
 以下引用.

 試験段階を通じてDDR実施上の問題点も浮かびあがってきた.

 まず,差し出される武装解除対象が,ほぼ兵卒であることだ.司令官クラスは出て来ない.
 これでは部隊はそのままであるし,武器が国中に溢れているアフガンでは,いつでも部隊の再編が可能だ.
 部隊を解体しないことには,DDRは意味をなさないし,部隊の解体のためには,司令官クラスをDDRしなければならないことも明らかとなった.
 これが最大の教訓であった.

 また,DDRに応じた兵士には,一時金として200ドルを支給したが,司令官達が,部下であった元兵士達を脅して現金を巻き上げるケースが頻発した.
 これは,兵士達が差し出した武器はもともと司令官達が渡したもので,したがって兵士が得た金も自分達のものとの考えに基く.
 現実はそうであろうが,これでは兵士達は市民生活に復帰できない.
 そこで現金一括払いを停止し,物あるいは元兵士が職業訓練を受ける間に受け取る日当などに上乗せするようにしたが,これは司令官達から相当な反発を買った.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.123-124

 NGOに対する詐欺行為も横行しており,また,掠奪に対する罪悪感の乏しさという彼らの遊牧民的価値観から考えても,最初から,兵士一人一人に直に渡すべきであったと愚考するのだが.

 また,DDRを担当する日本は当初,復員だけやればいいと勘違いしており,さらに,アフガンには自衛隊を派遣できないため,政治交渉のみで武装解除を行うはめになったという.

 以下引用.

 日本の担当はDDRだった.
 当初,外務省は武装解除は他の国が行い,日本はR(復員)だけやればいいと勘違いしていたふしがある.
 というのは,通常DDRでは,国連軍などの圧倒的な軍事抑止力を示すことで,敵対する武装勢力間に信頼醸成を作る事が前提なのだが,アフガンという「戦闘地域」には自衛隊を派遣することができない.
 結局,抑止力の確保が不十分なまま,政治交渉のみで武装解除を行うという難題に取り組むことになった.

 03年2月から日本政府特別顧問としてアフガン入りし,DDRが始まった.
 アフガンのミッションで何が難しかったかと言えば,司令官の扱いである.
 彼らに恩恵を与えて解任し,その部隊を解体させるにしても,大量殺戮を先導した戦争犯罪者である可能性がある.
 かといって下手に処罰すれば,再蜂起したり,あるいは麻薬で潤っているからマフィアのボスに転じたりする.
 過去の戦争犯罪を問い始めたら,カルザイ政権の閣僚でも半数ぐらいは起訴されると言われているほどで,ただでさえ脆弱な暫定政権がもたなくなるので,国際社会もその問題に口を噤んでいる.

 アフガンのDDRはあくまでアフガン人のオーナーシップ,つまりカルザイ政権を主体に進めなければならないので,武装解除も国防省が主体となり,アフガン人の手で行わなければならない.
 ところが,その当時,国防省は一武装政治勢力で構成されていたので,このまま武装解除を始めれば,他の勢力から抵抗が生まれるのは必至で,最悪,再び内戦に発展する危険があった.
 そこで我々は,国防省に複数の勢力を入れて中立化させることを条件として提示し,これが満たされなければびた一文払わないと突き付けた.
 この時は地元の新聞に「内政干渉だ」と批判され,いつテロのターゲットになってもおかしくない状況に陥ったが,数ヶ月粘って条件を呑ませた.
 内政干渉には違いないが,中立な武装解除の実施という大義の下に行った,良い内政干渉だと信じている.

伊勢崎賢治 from SAPIO 2004/6/23号,p.24


 【質問】
 なぜDDRは上手くいくようになったのか?

 【回答】
 ファヒーム国防相が,副大統領候補を外されたのは,DDRに消極的であるからと解したことと,イスマイール・カーンが権力失墜したことが大きいという.
 以下引用.

 そのこと〔大統領選挙に際し,カルザイ大統領の副大統領候補からはずされたこと〕に激怒したファヒーム国防相が,一応の落ち着きを取り戻してからの話である.
 全国の司令官を集めた会合でファヒームは,部隊が選挙に介入してはならないと訓示した際,自分は国際社会にDDRに消極的だと誤解されて,ポストを失う羽目となった,自分はDDRの促進のため努力してきたし,今もその気持ちは変わらない,ぜひDDRをしっかり進めて欲しい,と発言した.
 発言記録も見せてもらったし,国防相の幹部からも直接話を聞いた.
 ファヒーム国防相が大統領選挙後,国防省を去ることが確実となって,その前に自らの汚名を晴らすために頑張った結果であろうが,大統領選挙に向かってDDRが俄然進み始めたことも事実である.
 その理由がファヒーム国防相の努力にあるなら,逆説的であるが,私の言ったことの正しさを証明することになる.

 8月になると,大統領をさらに忙しくするような出来事がヘラートで勃発する.
 イスマイール・カーン知事と対立する地方の軍閥何人かが同時に,3方からイスマイール・カーンの部隊に攻撃を仕掛けたのである.
 特に,ヘラートの南100kmに位置する,アフガンで第2の大きな空港であるシンダンド空港がアマノッラー・カーンの部隊に襲われ,イスマイール・カーンの部隊は空港を奪取されたのみならず,ヘラートに向けて後退を余儀なくされる始末であった.

 イスマイール・カーンは,こうした予想外の事態に,中央の支援・仲介を求めざるをえなかった.
 ここに,ヘラートで独立王国の観を誇っていたイスマイール・カーンの面目は失われ,その権力は大幅に後退した.

 私が大使館で離任のレセプションを行ったとき,米国のハリルザード大使がレセプション終了後駆けつけてくれたが,その大使の携帯にイスマイール・カーンから電話があり,米軍が自分の部隊を爆撃している,何とか止めてくれと哀願した.
 イスマイール・カーンはその後,知事職からも解任された.
 遅れていたヘラートのDDRも進み始めた.私の,知事へのアドバイスは正しかったと思う.

 これは,カルザイ大統領にとっては棚から牡丹餅であり,ファヒーム国防相の引き摺り下ろしに次ぐ大きな政治的勝利であった.
 DDR促進の観点からも,ヘラートのみならず,その他の地域でも良き影響を及ぼす事態であった.
 DDRはその後,急速に進んだ.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.133-134

 カルザイ大統領が,最大の軍閥であるファヒーム国防相を切り,また,イスマイール・カーン・ヘラート県知事が,周辺地域の軍閥による一斉攻撃を受けて苦杯し,知事を更迭される中で,機を見るに敏なドスタム将軍は,早速率先してDDRと重火器の回収に応じた.
 これで大きな流れができかけている.

同,p.233


 【質問】
 現在でも軍閥軍は中央政府に対する軍事的脅威になっているのでは?

「武装解除:アフガニスタン安定への鍵」
http://www.ngo-jvc.net/jp/projects/advocacy/prj04detail.html
「米軍,アフガニスタン軍閥に武器提供」
http://www.jca.apc.org/afghan-women/Special/Warlords_receive_USweapons.html
によれば,軍閥軍の解体は少しも進んでいない.

 中央政府に与えられた政治力の行使を地方まで及ばすことができないことは,中央政府にとって政治的な脅威であり,軍閥に地方政府ともいえる特別な自治権を可能にしているのは,いざとなれば自由に中央政府に反抗しかねない軍事力と言える.
 実際に,その軍事力を背景に軍閥は独自な地方自治を形成しており,米軍はテロ勢力を排除する手段として軍閥を利用している.

 別々の政治力が衝突しあったとき,自身の政治力を物理的に及ぼすために,政治の延長として戦争,軍事衝突が発生する.

 中央政府にとって自身の政治支配を最終的に達成させるための軍事支配に対して,軍閥側が潜在的な対抗手段になりうる軍事力を保有していることは,中央政府の政治支配を脅かし,軍事力を行使しての政治支配も困難な状況においやり,これは,たんに中央政府に対する軍事的脅威だけではなく軍事は政治の延長であるので,中央政府に対する政治,軍事の両面を脅威にさらすことになるでしょう.

(イラク板)

 【回答】
 必ずしもそうは言えないようです.

 まず,「武装解除が少しも進んでいない」という見解には,疑問があります.
 進んでいるという情報もあるからです.

 以下は2002/12/10の記事.

北部で徐々に武装解除が進む(AP)
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A33627-2002Dec10.html
 ドスタム派とアタ派の散発的な衝突はありましたが,武装解除も徐々に進展しており,バルフ州,サマンガン州,ジョウズジャン州で1000点の武器を回収.これらの武器は貯蔵されて,中央政府および国連の監視下に置かれるとのことです.
 米国の駐アフガニスタン大使がこの進展を賞賛したとか.
 なお前にも紹介しましたが,クンドゥズ州ではすでに6000点の武器を回収しています.

(HN "533" from 軍事板)

 また,より最新の情報としては,日本外務省サイトに以下のような記述があります.

 2004年3月27日からの本格段階においては,特に10月9日の大統領選挙前後に武器を捨てて政治に参加する機運も高まったこともあって,2005年2月末には,合計4万2000名が武装・動員解除され,190の部隊のうち151部隊が解体されるに至った.

 なお,同じページの次の部分

 これにより,本年6月までの武装・動員解除の達成も視野に入ってきており,このような目標達成のため,更なる支援が不可欠となっている.

を見ると,一見,外務省は楽観論的にも見えます.
 ですが,ダリー語に堪能な日本人スタッフも外務省には在籍しておりましたし,また,戦前からの(緩やかですが)結びつきを考えますと,外務省のアフ【ガ】ーニスタン情報の信頼性は,決して低いものではないと言えるでしょう.

 さらに,質問項で引用されている情報はいずれも2004/3/27以前のものであり,すなわち本格段階以前のものであるので,それをもって武装解除が進んでいないとするのは不適当でしょう.

 第2に,政治の延長に戦争があるのは確かですが,それだけをもって脅威の存在の証とすることはできません.
 政治の延長にあるゆえに,戦争という手段に訴えることには,国際政治からの強いブレーキが働くからです.
 まして,一軍閥が,国際社会から認められた中央政府軍と対決するとなれば,大きなペナルティを覚悟しなければなりません.武器を調達するのも困難になりますし,経済的にも孤立しかねません.
 長い内戦が終わったばかりの社会において,そのような事態を招くことは,よほど先の見えない軍閥でない限りは避けたいところでしょう.

 また,軍隊にも性格があり,大きく外征型と治安維持型に分かれます.
 アフ【ガ】ーニスタンの例で言うならば,兵員を敵地にすばやく送り込めるピックアップ・トラック,支援用の砲兵や航空隊を用意しなければ,外征は困難です.ターリバーン軍が正にそうだったように.
 軍閥軍の場合,最も装備の良いドスタム軍であっても,そこまでの準備ができているとは寡聞にして存じません.

 もちろん,中央政府と政治的に対立した場合には,軍閥にとって軍事力は有用な1ツールたりえますが,国軍が再建できた後も,軍閥軍がなお優位に立てるとは考え難い.
 また,国軍再建前の段階でも,軍事力の無闇な行使は,やはり国際社会のペナルティを覚悟する必要があります.
 したがって,ツールとしての軍閥軍の効用は限定的・非永続的と言えるでしょう.

HN「チャウキダル」 in 2nd FAQ BBS)改装型

 なお,軍閥という呼び方には注意を要する.

 DDRの対象となる武装勢力を軍閥と述べたが,これも彼らとの関係では注意を要する.
 ダリー語では彼らは Jihadi と称している.これは,ジハードすなわちイスラム法上の聖戦を戦う戦士という意味であり,多くのジハーディは自分達の行為に誇りを持っている.
 軍閥はダリー語では jang-salaan というが,これは彼らにとって屈辱的なニュアンスを持っており,軍閥への説得工作の席でそんな言葉を使おうものなら,そこでお仕舞いである.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.101


 【質問】
 DDRの新たな課題は?

 【回答】
 非合法武装勢力解体が課題であるという.
 以下引用.

 一番大きな課題が,非合法の武装勢力の存在である.
 国防省傘下にない集団であるが,日頃は武器を所持しているわけではなく,農業などに従事し,一朝事あるときには命令一下,武器を持って戦うわけで,実態が分かりにくいし,扱いも難しい.
 正規の民兵を武装解除したところで,こうした非合法の民兵を放っておいては,DDRは意味をなさない.
 また,これらの非合法武装集団は,麻薬取引に関わっている場合も多く,かつ,組織犯罪に関わるグループも多い.
 麻薬問題と組織犯罪がクローズ・アップされる中で,麻薬対策とDDRとがタイアップする必要性が増している.むしろ,タイアップしないとうまくいかない.
 緒方代表はこの点について,緒方イニシアティヴで提唱した地域総合開発,すなわち地域のコミュニティを対象とした支援がますます重要であると指摘し,今後の日本の支援の筋道を明確にした.

 〔略〕

 非合法の民兵は,そもそも誰が対象なのか特定しにくいことに加えて,もともと非合法に武器を所持している者達であるから,これに個人が裨益するような形で支援することなどありえない.
 そこで,彼らの属するコミュニティを対象として武器と引き換えに支援する以外ないが,ここでも地域・コミュニティ支援が鍵となる.

駒野欽一著「私のアフガニスタン 駐アフガン日本大使の復興支援奮闘記」
(明石書店,2005/8/18),p.233-235


 【質問】
 ドスタムは現在,何を目指しているか?

 【回答】
 以下の記事を信じるならば,悪役イメージを改善しようとしており,また,マザリシャリフの現代的再開発を構想している様子である.

アフガニスタンの軍閥は役割を交換
バート・ハーマン AP通信ライター 2002年4月28日(日)1:56 PM

アフガニスタン シベルガン―日曜,アフガニスタンの独立記念日を祝うために戦車,大砲,兵士がたくさん集まっていた.
 しかしアブドゥル・ラシッド・ドスタム将軍の気配はこれらの戦争玩具の近くにはどこにもなかった. 彼はもうこれらに用はないと言う.

 東部アフガニスタンでは依然として軍閥抗争が蔓延しているが,北部はおおむね異論のないドスタムの縄張りである.

 ドスタム―その名前はかつては「無慈悲な」「獣のような」「残忍な」などの形容詞と結びついていたものだ―は戦闘服にかえてビジネススーツを まとった.今では軍事戦略よりも予算とか建設計画について多くを語る.

「私はもう将軍として見られることは望まない」ドスタムはマザリシャリフから約75マイル西のシベルガンにある自宅で金曜に行われたAP通信とのインタビューで述べた.「戦車や大砲のパレードはわがことにあらず.
私は本当に過去と訣別しようとしている」.

 新政権を作ったプロセスについては,それが十分包括的でないといってひとたびは批判的だったものの,ドスタムは自分をタリバン後のアフガニスタンにとって重要なプレイヤーの1人として位置づけた.

 権威を確立するチャンスを増すにはドスタムが必要だと悟った暫定政権の指導者ハミド・カルザイはドスタムを国防次官に指名し,先月には彼を北部におけるカルザイの特別代表であると宣言した.

 賢いオポチュニストだという評判に合わせるかのように,ドスタムはモハマド・ザヒル・シャー元国王が30年の亡命生活を終えて先週カブールに帰ったとき,彼を迎えた最初のアフガン指導者の1人になり,檜舞台を分け合ったのはただ1人カルザイとだけだった.

 ドスタムは今まで,おじぎして引き下がるような様子を見せたことはない.
 1989年に終わったソ連占領時代でも鍵となる人物だったこのウズベク人は抜け目なく立ち回り,同盟を作っては破りながら地歩を固め,ついにはこの国をタリバン支配から解放するのに大きな役割を果たした.

 元国王がロヤ・ジルガつまり国民大会議を6月に開いて国政選挙までの間統治する指導者を選んだあとも,彼は北部アフガニスタンで何らかの指導的な役割にとどまりたいと述べている.

「もし将来の政府がなんらかの地域的構造を決めるのなら,私は北部の民衆に奉仕する役として残ることができれば嬉しい」彼は戦争ではなく,平和で国家的な役割を果たそうと決めた人物にふさわしい言葉で語った.
 それはイメージチェンジをしようとするドスタムの努力の一環である.彼は国際人権団体などからの戦時虐殺に関する非難をどこかへ置き去りにする方策を探している.このような非難は彼の軍歴―米軍の助力で11月にマザリシャリフをタリバンの支配から奪回したが,これはアフガニスタンで最初の主要都市の解放だった―を傷つけている.

 ドスタムはPRに関しては天性の資質をそなえており,ペンよりも銃のほうが雄弁な地域で,実際最も洗練された政治家のように振る舞っている.
 木曜シベルガンで行われた電力中継所の開設式で,ドスタムはリボンをカットし,パワースイッチを入れたが,その様子はあたかも赤ん坊にキスをする政治家を絵に描いたようだった.
 先月カルザイも参加してマザリシャリフで開かれたペルシャの新年祭で演説したとき,ドスタムだけはその内容を英語に翻訳して外国メディアに配った.
 彼はまた英語を話す顧問を持っており,それがプレスとの関係を円滑にするのに役立っている.

 市の中央にあるブルーモスクで行われたこの祝典では,ドスタムは肩に4つの金星をつけた正式の軍服を着ていた.
 しかしカルザイの特別代表という肩書きになって以来,文官の服装のほうがドスタムの頑丈な体を包む にはよりふさわしい.

 金曜のインタビューの時は,彼はグレーのビジネススーツにダークグリーンのセーターのベストを着,黄と青のネクタイをしめていた.このインタビューの間に,側近の一人がガラスで覆われたモダンなオフィスビルとショッピ ングセンターの絵を彼に見せた.
 ドスタムが構想するマザリシャリフの現代的再開発である.北部がかつてそれで知られた家畜の繁殖や石油・ガス産業を再活性化する投資として3億ドルの計画が交渉中だと彼は言った.

 再構築を妨げている問題の一つは暴力事件が絶えないといってもいいことである.ドスタムは「マザリシャリフの治安状況には満足していない」ことを認め,「不安定さの原因になっている兵士や司令官たちと真面目な議論
をする」計画をもっていると述べた.

 ピックアップトラックがカラシニコフとロケット推進のグレネードランチャーをかついだ男たちを乗せて疾走するのはマザリシャリフでは壮麗なブルーモスクと同じぐらい馴染みの光景である.

 ドスタムは治安が悪い理由の一つは彼が長いことマザリシャリフを留守にしていた―最近のカブール,トルコ,インド,そしてウズベキスタンへの旅行―ことによると述べた.彼は現在ではもっと多くの時間を北部アフガニス タンで過ごすつもりだという.
「きっと秩序をもたらすことができるだろう」と彼は述べた.

 日曜のパレードには彼の姿はなかったが,そこには彼の写真がたくさんあり,兵士がそれを運んだり,大砲や戦車を飾ったりしていた.大きな彼の似顔絵の一つは戦車司令官のヘルメットをかぶっていた.

ワシントン・ポスト紙
翻訳: HN "533"


 【質問】
 アタとドスタムの兵士がしばしば衝突するのはなぜか?

 【回答】
 両者とも戦争する気はないものの,面子があって譲歩できないということのようです.
 そのへんは↓の記事に詳細あり.
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A57211-2002Apr26.html

(HN "533")


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