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◆◆マスード暗殺以降
<◆戦史
アフ【ガ】ーニスタンFAQ目次


 【質問】
 マスードを暗殺したのは誰か?

 【回答】
 アル・カーイダである可能性が高い.
 当時,自爆攻撃を行う組織はアフガーンには,アル・カーイダしか存在していない.
 また,以下の報道によれば,暗殺実行犯の用いた偽造書類を用意した嫌疑で,アル・カーイダのメンバーが裁判にかけられようとしているという.

反タリバン指導者の死に関連した裁判が命じられる

 ベルギーの裁判所が反タリバン指導者の暗殺に関連したパスポート偽造事件で,12名に対する公判を命じる
 ベルギー ブリュッセル 2月14日―ベルギーの裁判所は金曜,パスポートを偽造したとされる12人の一味に対して,アフガンの反タリバン指導者アーメド・シャー・マスードの暗殺実行犯が用いた偽造書類を用意した嫌疑で裁判を行うことを命じた.

 マスードは9月11日の2日前,ジャーナリストを装い,ベルギーの偽造パスポートを所持した2人の自爆犯によるテロ攻撃によって暗殺された.
 当局は,この暗殺者はマスードを除去するためにオサマ・ビンラディンが送り込んだものと考えている.

 パスポート偽造一味の首謀者とされるのはタレク・マロウフィ容疑者で,テロ組織アルカイダとのつながりの嫌疑があり,外人部隊への新兵募集を含む容疑で裁判されるだろうと検察官は述べている.
 マロウフィはチュニジア出身で,2001年12月にベルギーで逮捕された.

 マロウフィはまた,アルカイダが関係した他の事件の容疑もかけられている.
 チュニジア出身の元プロサッカー選手ニザル・トラベルシは,パリの米国大使館および米軍が使用しているベルギーの軍事基地に爆弾を仕掛けようとした容疑が持たれているが,トラベルシを中心とする事件との関連である.

――――――ABCニュース 2003年2月14日
(翻訳: HN"533" in 軍事板)

▼ なお,マスード暗殺はCIAの仕業だとする主張もある.

――――――
 ある国連関係者から,
「マスード将軍暗殺の事情を知る人物がいる」
と聞いた.
 ラスル・サヤフ氏(58).
 多数派のパシュトゥン人ながら,暗殺されたカディル氏(副大統領兼ナンガルハル州知事)と同様,少数民族主体の北部同盟の一角を担った人物である.

 〔略〕

 その後の裏取り取材で会った,暗殺事件の捜査を指揮してきたアフガン国防省の事実上のナンバー2,ビスヒラ・カーン司令官(41)によると,暗殺犯2人に関して,ロンドンのパキスタン大使館宛てに「アラビア国際ニュース」の記者だと紹介状を書いた,エジプト出身の男ら3人が逮捕されたと言った.
 一部がアルカイダとの繋がりを供述しているという.

 しかし,サヤフ氏はこう語る.
「犯行の黒幕はウサマ・ビンラディンに違いない.
 しかしビンラディンに誰が指図したかについては諸説ある」
 本人は言葉を濁したが,一つはISI説,もう一つはCIA説である.

 アフガンを舞台にした米国の「テロとの戦い」を機に,米国の支援で息を吹き返した北部同盟は,タリバン後の新政権で要職を占める.
 ISI関与説はともかく,北部同盟内部では意外にも「背後には米国の存在がある」との陰謀説も広く信じられていた.
 将軍暗殺は,将軍のカリスマ性が余りに絶大であり,タリバン後を見越し,米国の思い通りにできそうにない人物を排除しておきたいとの判断が働いたのだ,というのが根拠だった.

――――――『アフガニスタンから世界を見る』(春日孝之著,晶文社,2006.210),p.317-319

 しかし上記引用文を読めば分かるように,憶測のみであって根拠が何もない.

 また,本書は,あちらこちらにミスリードを誘うような文章が見られるため,鵜呑みは絶対に禁物.

 総合的に考えて,CIA犯行説は荒唐無稽以外の何者でもない.
 にも関わらず,そのようなデマを垂れ流す春日の見識を疑う.▲

▼>なお,マスード暗殺はCIAの仕業だとする主張もある.

 『倒壊する巨搭』下巻 ローレンス・ライト著 P273)より引用.

――――――
 翌9月9日,アフマド・シャー・マスードは,取材許可を得るため,もう9日間もキャンプに待機しているアラブ人記者と会うことを決めた.
 (略)
 ザワヒリの偽造文書がきいて,2人の偽ジャーナリストは,かくしてマスードの事務所に招き入れられた.
 カメラマンの構えたバッテリー・パックには爆薬が詰めこまれ,それが会見場所で爆発した.
 その瞬間,暗殺者2名はバラバラに吹きとび,通訳1名も死亡.
 また,2個の金属片がマスードの心臓を直撃した.
――――――

 ザワヒリはアル=カーイダの幹部.

 今となっては,アル=カーイダがターリバーンに協力して,マスードを暗殺したとしか考えられないのだが.

90式改 in FAQ BBS,2011/3/5(土) 20:37
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マスードはどのように殺害されたのか?

 【回答】
 2人の自爆テロリストによって命を落とした.
 殆ど即死.2つの金属片が,彼の心臓に入っていたという.
 犯人の内,一人は死亡,一人は生き残っていて監禁されたが,逃亡しようとして射殺されたという.
 以下引用.

 マスードは9月9日の午前3時まで,数人の同僚と起きていて,ペルシアの詩を朗読した.
 彼が寝入って数分後,彼の秘書――ジャムシドという若者で,彼の甥であり,義弟――は北部同盟の司令官,ビスミラ・ハーンから,タリバンがシャマリ前線を攻撃したとの電話を受けた.
 ジャムシドはマスードを起こし,マスードとビスミラ・ハーンは夜明けまで電話で話した.
 それからマスードはベッドに戻った.
 7時半頃,ジャムシドはタリバンが退却しているのを知り,伯父を9時まで寝かせておいた.

 朝食後,マスードは偵察に行こうとしていたとき,9日前にパンジシール渓谷からホジャ・バウディンへやってきて,彼にインタビューするのを待っている2人のアラブ人ジャーナリストと会うことにした.
 彼らはその日,ホジャ・バウディンを離れなければならないと通告していた.
 アラブ人達は,ロンドンのイスラム監視センターという組織の指導者からの紹介状を持ってきた.
 ジャムシドによれば,アフガン・イスラム運動創始者の一人で,現在は千人余の反タリバン戦士をパンジシールの拠点から指揮するアブドゥル・ラスル・サヤフのもとにいる男から連絡を受けたという.
 ジャムシドは,アラブ人はサヤフの友達だと言われた.

 私はジャムシドに,そのアラブ人達に何か異常なところはなかったかと尋ねた.当時,アフガニスタンにいるアラブ人が,アルカイダと結び付いていたからだ.
「それはなかった」と彼は言った.
 そして,彼の伯父は彼らが役に立つと思った.「伯父は彼らを通して,イスラム社会に
『我々は異教徒ではない.イスラム教徒だし,ここでロシア人やイラン人を戦わせない』
と言いたかったのだ」
 〔略〕

 現在カブールで多言語新聞の編集者をしている痩身の若者,ファヒム・ダシュティも9月9日,ホジャ・バウディンにいた.
 ダシュティは子供の頃からマスードを知っていた.
 〔略〕
 彼は2人のアラブ人と同じゲストハウスに滞在した.
 彼の記憶では,北部同盟領でアラブ人を見るのは奇妙だったが,その2人は怪しく見えなかった.
「彼らは難民キャンプへ行き,捕虜を訪ねた.どれもジャーナリストがすることだ」
と彼は言った.
 一人は片言のフランス語と英語を話し,もう一人はアラビア語だけだった.

 数週間前,私はアリアナ〔映画会社〕の,マスードに関する最新の未編集フィルムを見せられた.
 2人のアラブ人は幾つかのシーンに映っている.
 8月に撮影したフィルムでは,彼らはブルハヌディン・ラバニにインタビューしている.
 噂の記者は白い肌で,筋骨逞しく,30代半ばに見える.綺麗に髭を剃って,クルーカット.西側の服――茶色いシャツとスラックス――に眼鏡.額には丸い傷痕のような,奇妙な茶色っぽい痣が2つある.
 カメラマンはこのシーンには映っていないが,後半のフィルムの中に,ゲストハウスの戸口に立つ彼の静止場面がある.
 彼は背が高くて,浅黒い肌.黒いシャツを着て,憎悪と恐怖の両方が容易に想像できる表情で,カメラを睨みつけている.

 アリアナ・チームはいつもマスードのインタビューを撮影していて,9月9日の正午頃,ファヒム・ダシュティと2人のアラブ人と通訳は,車でマスードの司令部にやってきた.
 マスードとジャムシドは警備隊長と一緒にいて,警備隊長のオフィスがインタビューに使われていたし,北部同盟のインド駐米大使,マスード・アリリも同席した.
 アハマド・シャー・マスードはソファに座り,背中の慢性の痛みを和らげてくれる整形外科用のクッションを使っていた.
 彼はアラブ人達に挨拶した.
「彼は出身地を尋ねた」とダシュティは言った.「一人は,2人ともベルギー人だが,生まれはモロッコで,パキスタンからカブールへ来て,そこからホジャ・バウディンへ来た,と言った」
 ハリリ大使の記憶では,マスードが,インタビューを行うアラブ人に,先に質問のリストを聞きたいと言い,男が英語でそれを読み上げたという.
 ハリリがマスードのためにペルシア語に訳した.
 彼は,質問が殆どオサマ・ビンラディンについてであることにかなり驚いたと言った.
 例えば,
「もし権力を握ったら,オサマ・ビンラディンをどうするつもりか?」
とか,
「なぜ彼を原理主義者と呼ぶのか?」
とか.
 大使は質問が偏っているのに気付いて,何と言う新聞に書くのかアラブ人に尋ねた.
「私はジャーナリストではない」と男は答えた.「イスラム監視センターから来た.
 ロンドンやパリなど全世界にオフィスを持っている」
 ハリリはマスードのほうを向いて囁いた.
「司令官,彼らはあの連中の手先です」
 アルカイダのことだ.
 マスードは頷いてそっけなく言った.
「とにかく片付けてしまおう」
 アラブ人達は,マスードと自分達のカメラの間にあったテーブルと,数脚の椅子を動かした.
 そのカメラは三脚の一番低い高さに設置されていた.
 彼らのカメラの後ろに自分のカメラを据えていたダシュティが,逆光を調整していたとき,部屋が爆発した.
 ハリリ大使は,自分のほうへ向かってくる太く青い炎を見たと言った.
「私は自分が燃えているのを感じた」
とダシュティは言った.
 外へ出ると,警備隊長と共に2,3分早く部屋を出ていたジャムシドに会った.
「私を病院へ連れていってくれと頼んだら,彼がマスード氏はどこだと訊くので,中へ戻って彼を見た.
 彼は全身を,顔や両手,両脚も酷くやられていた」
 アフガン情報部員が最近,私に語ったところによると,マスードは30秒以内に亡くなっていたに違いない.2つの金属片が,彼の心臓に入っていた.右手の指は殆ど吹き飛ばされていた.
 私は彼の遺体を見せられた.
 彼の皮膚は,2,3㎝おきに傷口が開いていた.白いガーゼが眼窩に詰めてあった.

 カメラマンのバッテリー・ベルトには爆薬が詰まっていた.
 マスードが座っていたソファは丸焦げで,背もたれに穴が一つ空いていた.
 アリアナのフィルムには,ストれっチャーに乗せられたカメラマンの遺体が映し出されている.両脚は焦げて血まみれ,上半身はバラバラに吹き飛ばされているようだ.
 アフガンの通訳も死んだ.

 〔略〕

 インタビューを行ったアラブ人は爆発を生き延びて,マスードの遺体がタジキスタンへ運ばれている間,爆発が起きた近くの部屋に監禁されていた.
 彼は小窓から金網を破ってくぐり抜けると,走って墓場を超え,2,300メートル先の土手へ逃げた.
 地元の軍司令官の下にいた男が,後を追って殺害した.

 〔略〕

 マスードの暗殺者達はチュニジア人で,彼らが言っていたようなモロッコ人ではなかった.
 彼らはベルギーにいて,ベルギーのパスポートとイスラム監視センター指導者,ヤシル・アル=シリの署名入り紹介状を持参していた.
 パスポートのスタンプは,アラブ人達が7月25日にパキスタンのイスラマバードに到着し,そこでタリバンの大使館でヴィザを取得し,そこからカブールへ向かったことを示していた.
 しかし,パスポートとヴィザは偽造だった.
 暗殺者は2人とも,ジャララバードに近いアルカイダ訓練キャンプで数ヶ月暮らした.

 暗殺者達は北部同盟の指導者,アブドゥル・ラスル・サラフの支援でパンジシール渓谷に入った.
 8月中旬に,ソビエト軍との聖戦で共に戦ったあるエジプト人から連絡を受けた,と彼は言う.その男はボスニアから電話していると言った(アフガンの情報部員は,実はその電話はカンダハルからだと語ったけれども).
 その男はサヤフに,彼やマスードやラバニ大統領にインタビューを希望している2人のアラブ人ジャーナリストへの援助を依頼した.
 エンジニア・ムハンマド・アレフ(「エンジニア」とは,工学技術を研究した教養ある人を示す,アフガンのごく普通の尊称である)は,現在アフガン情報機関の責任者で,かつてはマスードの警備責任者だった.
 暗殺が行われたのは彼のオフィスである.
 アレフによれば,サヤフの許可があったので,アラブ人達は通常の警備手続きを免れた.
「彼らはジャーナリストとしてではなく,客としてやってきた」とアレフは言った.
「サヤフとビスミラ・ハーン」――シャマリ前線の司令官――「が部下達と彼らを乗せる車を送った.
 みんなに助けられて,彼らは多くの人に会った」

 〔略〕

 2001年10月,イスラム監視センターのヤシル・アル=シリが,2人のアラブ人暗殺者に紹介状を用意した容疑で,ロンドンで逮捕された.
 2002年4月,ニューヨークで,スタテン島在住のアメリカ郵政公社職員,アハマド・アブデル・サッタルが逮捕され,シャイフ・オマル・アブデル=ラハマンの「代理」であるとして告発された.
 サッタルは90年代半ば,ニューヨークで謀議審理の間,弁護士補助員としてシャイフの下で働いた.
 起訴状によると,サッタルはシャイフのために通信機器」の役目をしていた.つまり,刑務所から命令を伝えていた.
 サッタルの電話は長期間傍受されていて,綿密に調べた通話の中には,彼とロンドンのヤシル・アル=シリとのやりとりが数回あった.
 5月,イギリスの判事はアル=シリに対する告訴を却下した.

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.207-211 & 215-217


 【質問】
 北部同盟内部に,マスード暗殺を手引きした裏切り者はいたのか?

 【回答】
 賛否両論あり,ことにサヤフ裏切り説は比較的広く流布されているが,それを裏づける証拠はない.サヤフは灰色といったところ.
 以下に賛否両論を引用する.

 私はダシュティに,マスードは裏切られたと思うかと尋ねた.
「そう思う」と彼は言った.「そうでなければ不可能だった.どういうわけか,アルカイダと我々の仲間の間につながりがあるらしい」

 〔略〕

 ワリ〔マスードの弟〕をはじめ,私が話したアフガン人は,パキスタンもまたマスード殺害に関与していると主張した.
 〔略〕
 マスードと親しかった情報部員は,9月9日の夜,パキスタンの大統領ペルヴェズ・ムシャラフが暗殺を祝うパーティを開いた,と語った.彼はこの情報の出所が,ハミド・カルザイ率いるアフガニスタン暫定政府の現国防相ファヒム将軍だと言った.
 私がファヒムに,そのようなパーティがあったのかと尋ねたところ,彼ははぐらかそうとした.
「たぶん」
と彼は言った.
 しかし彼は,ムシャラフがその夜,ISI本部にいて,アフガニスタン北部から戻ったばかりの元ISI長官,ハミド・グルと会っていたことを確認した.
 私はファヒムに,カブールで最近ムシャラフに会った時,何を感じたかと尋ねた.
 彼は手を振った.
「ときにはより大きな利益のために」とファヒムは言った.「毒を一杯飲まねばならない」

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.211

「論理的に見れば」と彼〔マスードの弟,ワリ〕は言う.「彼らは11日に好きなようにやりたかったが,マスードがいないということが条件だった」
 マスードを殺害した者達は,彼の死が北部同盟を崩壊させ,もし米軍がワールド・トレード・センター攻撃に報復するとしても,地上にアフガンの支持者はいない,と思った.
 晩夏から初秋にかけて,前線に軍を増強したのは,つまり,マスード暗殺の準備だったのだ.
「彼らは何かを待っていた」とアフガン情報部の幹部は言った.士気を挫かれた北部同盟を壊滅させようと準備をしていた外国の軍隊が,中央アジアに侵攻してきたようだ.
 その後に続く混乱の中で,オサマ・ビンラディンとタリバンに対する報復は困難だろう.
 しかし公式発表は当初,マスードだけが負傷したが,北部同盟は領土を死守しているというものだった.
 そしてもちろん,ムラー・オマルの電話の会話から分かるように,アメリカに対する攻撃があれほど劇的になるとは予期していなかった.
「彼らは報復を予測していた」と情報部の幹部は言った.「しかし,クリントンのような反応だと思った.ここで起きたような報復は予想しなかった」

 〔略〕

 暗殺者達は北部同盟の指導者,アブドゥル・ラスル・サヤフの支援でパンジシール渓谷に入った.
 8月中旬に,ソビエト軍との聖戦で共に戦ったあるエジプト人から連絡を受けた,と彼は言う.その男はボスニアから電話していると言った(アフガンの情報部員は,実はその電話はカンダハルからだと語ったけれども).
 その男はサヤフに,彼やマスードやラバニ大統領にインタビューを希望している2人のアラブ人ジャーナリストへの援助を依頼した.
 エンジニア・ムハンマド・アレフ(「エンジニア」とは,工学技術を研究した教養ある人を示す,アフガンのごく普通の尊称である)は,現在アフガン情報機関の責任者で,かつてはマスードの警備責任者だった.
 暗殺が行われたのは彼のオフィスである.
 アレフによれば,サヤフの許可があったので,アラブ人達は通常の警備手続きを免れた.
「彼らはジャーナリストとしてではなく,客としてやってきた」とアレフは言った.
「サヤフとビスミラ・ハーン」――シャマリ前線の司令官――「が部下達と彼らを乗せる車を送った.
 みんなに助けられて,彼らは多くの人に会った」
 カルザイ暫定政府の副大臣,マウラナ・アター・ラハマン・サリムは人々から尊敬を集めるムスリム学者であり聖職者である.
 彼は昨秋,ホジャ・バウディンにオフィスを持ち,暗殺の1週間前にマスードと共にパンジシール渓谷へ行った.
 ラハマンは,マスードが殺されると直ちに報復の声が聞かれたという.
「誰もが言い出した.
『なぜテロリストをもっと徹底的に捜さないのか? なぜもっとよく任務を果たさないのか?』
 非難は誰よりもサヤフに集まり,イランの新聞はその幾つかの疑惑を活字にした」

 サヤフはイスラム原理主義者で,80年代のアフガンの聖戦の間に養成された世界のテロリスト達と親密に結びついている.
 彼とラバニはカイロのアル=アズハル大学で学び,そこでムスリム同胞団の影響を受け,ともに70年代初頭にカブール大学でイスラム学科を教えた.
 〔略〕
 オサマ・ビンラディンは財政的にサヤフを援助し,アフガニスタンのサヤフの拠点を使用したアラブ戦士団を指揮した.
 〔略〕

「ご存じの通り」と,私はサヤフに言った.「マスードの暗殺者のあなた方との関係について疑いを表明した人達がいる.彼らがあなた方を通して初めて北部同盟領に入ったからだ」
 サヤフの目が細くなり,厳しく私を見つめた.
 彼は私が言ったことを,英語を話さないビスミラ・ハーンに通訳し,それから私に向かって,先に会った時よりも口篭もりがちの英語で,アラブ人達が善良なイスラム教徒に見えたので彼らを入れたし,彼らの軍隊は欧米人達に汚されていないと言った.
 ビスミラ・ハーンがペルシア語で話し始めて,サヤフが通訳した.
 ハーンが言うには,振り返ってみると,2人のアラブ人の言動には不審なところがあったが,あの時は気付かなかった.
「今考えてみると,彼らは顎鬚を生やしていたが,最近剃ってしまったのだ.顎鬚の痕がまだ残っていた」
 彼は話の意味が分かるように,両手で顎の線をなぞって見せた.
 サヤフはくすくす笑って,アラブ人達は車に乗ると,いつも酷く緊張していたと言った.
「彼らが私の部下達と塹壕へ行くとすると」――シャマリ前線で――「彼らは言うのだった.
『もっとゆっくり走ってください,カメラがあるので.壊したくない』
 車が走り出す前に,彼らはいつもカメラを膝に置いて,運転手に,気をつけるように言った」

 私はサヤフに,そもそも2人のアラブ人はどうしてあなたのところへ来たのかと尋ねた.
 彼は元聖戦士――「エジプトのアラブ人,アブ・ハニ」――からの電話について語った.
 彼はボスニアにいて,サヤフにマスードにインタビューする2人のジャーナリストに手を貸して欲しいと言ってきた.
 サヤフはまた,アラブ人達が来ている間に,北部同盟指導者達の会議がパンジシール渓谷で開かれたことも語った.
 サヤフによれば,アラブ人達は会議室へ入ろうとしたが,警備兵に止められたと言った.
「彼らはそこで計画を遂行したかった」と彼は言った.「抵抗運動の指導者達全員を排除したかったのだ」
 ビスミラ・ハーンがペルシア語で何か言うと,それをサヤフが通訳した.
 サヤフがマスードとビスミラ・ハーンに,自分はアラブ人達を疑っていると言い,マスードに彼らと会わないほうがいいと警告したとのコメントである.
 サヤフは,自分にできることは全てやったと両手を挙げた.

 〔略〕

 サヤフは興奮していた.ソファの縁に座って前屈みになった.
 彼は,カブールでは,西側を訪れて見識の高いアフガン人の間でも珍しくない陰謀説を表明していた.
 アメリカは侵攻を正当化して,この国を支配できるように,パキスタンと協力してタリバンやオサマ・ビンラディンを支援した.
「外国人の支援を受けた過激派は,我々を攻撃できた」とサヤフは言った.「我々は被害者だった」
 彼の側近達や,パクティアから来た将軍が,頷いて同意した.
「オサマとタリバンが暗殺したのを私は知っている」とサヤフは言った.「しかし,彼らの後ろにいたのは誰だ? タリバンを助けようとしていた者全員が,暗殺の背後にいた」

 〔略〕

 アフガニスタンの外相アブドゥラ・アブドゥラは,大変魅力ある世慣れた男で,タリバンを敗北に導いた米軍空爆の間,北部同盟のスポークスマンとして西側のテレビでお馴染みの人物だ.
 〔略〕
 アブドゥラは,マスード暗殺計画にサヤフが関与していることにも懐疑的だ.
「私個人としては信じていない」と彼は言った.
 サヤフは,アラブ人達がマスードに会えるようにしてやったが,これはもし彼らが間違いのない人物であれば,正当と認められるはずだ.
「彼らはジャーナリストのように振舞った」とアブドゥラは言った.「もっとも,私が会いに行ったとき,彼らは酷く無礼だったが」
 これは暗殺者達がサヤフの客人だったとき,パンジシールで開かれた北部同盟指導者達の会議でのことだ.
「自己紹介すると,彼らは私に憎悪の一瞥をくれた.
 そのことに気付かなかったのが悔やまれる」
 マスード暗殺の企ては他にもあって,結局これが成功したのはマスードの人柄のせいだ.
 彼は人に便宜を図ろうと心がけていた.
「マスード司令官は無頓着な人だった」とアブドゥラは言った.「彼はある程度の警備対策をとったが,インタビューは単独で受けるのを好んだ.
 そして,彼には決して100%の安全はなかった.
 私達は,あの男達が我々の領域内に滞在した3週間に,危険を見極めることができたはずだ.
 でも,そうしなかった」

 〔略〕

 数日後,カブールで私は,ワジル・アクバル・ハーンの家に近いマスード家の邸で,ヤヒヤに会うと,彼は,アハマド・シャー・マスードの最も古く忠実なムジャヒディン幹部,アジズ・マジュロウ司令官を紹介してくれた.
 〔略〕
 私はアジズに,誰がマスードを殺したと思うかと尋ねた.
「テロリストであることは間違いない」と,彼は言った.タリバンとパキスタンのことだ.
「だが不幸なことに,パンジシールの州司令官達は,彼が直面していた危険に充分な注意を払わなかった.彼の護衛は万全には組織されていなかった.
 我々は彼に,気をつけるよう警告していた」
 暗殺者達は将校達の不注意があったから,マスードを殺すことができたのかと私はアジズに尋ねた.それとも北部同盟の内に裏切りがあったのか?
「サヤフはもちろん,酷く怪しい」と,アジズは答えた.「おそらく彼は計画を知っていた.
 あるいはテロリストが何を狙っているのかを知らず,彼らに利用されたのかもしれない」

 〔略〕

 後刻,ビスミラ・ハーンのオフィスで,私は彼に,マスード暗殺事件で自分の役割をサヤフが釈明した,ある重要な事柄について尋ねた.
 サヤフは,私や他の人達に,ビスミラ・ハーンとマスードに対して,アラブ人達は危険かもしれないし,自分は信用していないと警告したと言っている.
 ビスミラ・ハーンは,サヤフはマスードに,アラブ人は「奇妙」に見えると話したにすぎないと言った.
 こちらがもう一押しすると,彼は機嫌を損ね,サヤフと話すべきだと言った.
「誰が前線からカブールへ彼らを連れてきたのですか?」
と私は尋ねた.
「知らない」とビスミラ・ハーンは言った.「たぶんタリバンだろう」
 アラブ人暗殺者はサヤフの家に連れていかれて,お茶を出され,カジ・カラマトゥラ・シディクという男を紹介された.
 シディクはアラビア語を話し,アラブ人達がパンジシールにいる間,彼らに同行するように言われていた.
 彼はムスリム学者で,ペシャワル近郊のサヤフの大学,ダワア・アル=ジハードのイスラム法学部卒業生だった.
 現在は暫定政府の内閣で働いていて,私はアラブ人について彼と話した.
 シディクはサヤフの忠実な部下だが,サヤフの記憶を幾つか,特に暗殺者達がパンジシールで北部同盟指導者の会議に,おそらく彼等全員を殺すため出ようとしたことについては否定した.
 これは,サヤフが,彼自身も殺されていたかもしれないので,マスード殺害計画に関与していなかった証拠として,私が何度も聞いた話である.
 しかしシディクに言わせると,アラブ人達は決して会議に近づかなかったという.なぜなら,サヤフが前もって彼らに許可しなかったからだ.
 サヤフはそれで,アラブ人達がホジャ・バウディンでマスードにインタビューする御膳立てをしたという.
 シディクはまた,サヤフがアラブ人達に対する疑いを暗殺の後まで口にしなかったとも言ったが,これがサヤフを巻き込むとは思っていなかったようだ.
「サヤフ教授とアハマド・シャー・マスードは兄弟みたいだった」とシディクは私に断言した.「マスードが亡くなったとき,サヤフ教授以上に悲しんだ人はいなかった」

 陰謀説がアフガニスタンで信用されるのは,歴史的に数多くの陰謀があったからだ.
 支配的な政治風土は適者生存で会って,同盟は流動的だ.
 アフガンは地理的に孤立し,外国人嫌いで,長年の戦争から人を信用しない.
 サヤフは暗殺に手を貸し,私が話をした,マスードに近い親戚・情報部員・軍司令官といった人達の殆どは,彼が暗殺者達の計画をはっきりとは知らないまでも,感づいていたに違いないと信じている.
 しかしサヤフは,2人のアラブ人が高性能の爆発物を持って,巧妙な演出による自爆計画の下にホジャ・バウディンにやってくるのを可能にした人達の中で唯一の,おそらく最後の要となる人物であった.
 例えば,暗殺後,アラブ人達の所有物から見つかったCDやノートやコーランの詩に混じって,アフガン赤新月社の社長が書いた推薦状があった(各NGOとタリバンとの間に生まれた,共謀と譲歩の文化の驚くべき文書).
 マスードの暗殺者はオサマ・ビンラディンとアルカイダ,そして推論すればワールド・トレード・センター爆撃に繋がっている.
「これらの繋がりは極めて強い力だ」と,マスードの死亡捜査に近いアフガン情報部員が私に言った.「2つの事件に関係があることは,テロ組織やアフガニスタンの情報を持つ情報部の誰も疑っていない」

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.212-215 & 235-241


 【質問】
 2001.9.20の米議会上下両院合同会議における演説において,ブッシュ大統領はアフ【ガ】ーニスタンに何を要求したのか?

 【回答】
 ターリバーン政権に対し,「交渉あるいは議論の余地はない」とする,次の5つを要求したという.

――――――
1. アフガニスタン国内に潜むアルカイダの指導者を,全て米国当局に引き渡すこと

2. 同国内で不当に拘留されている米国人および,全ての外国人を釈放すること

3. 同国内の外国人記者,外交官,援助隊員を保護すること

4. アフガニスタン国内のテロリスト訓練キャンプを,全てただちに永久閉鎖すること

5. 米国がテロリスト訓練キャンプの活動停止を確認できるよう,米国に同キャンプへの自由な立入を許可すること

――――――国立グジャラート法科大学学長・V. S. マニ in 『グローバルガバナンスと国連の将来』(中央大学出版部,2008.8.10),p.136

 要するに,自国をテロの温床とすることをやめ,不当な外国人拘禁をやめろと要求しているわけで,国際社会の基準に照らせば,不当な要求とも思えない.
 しかし,これに対してターリバーン政権は事実上,すべて拒否している.


 【質問】
 ターリバーン戦争に対するアメリカ人の平均的なスタンスは?

 【回答】
 アメリカ政治を専門とする東大教授,久保文明によれば,アフ【ガ】ーニスタンはアメリカが受けたテロの元凶であり,その点でイラク戦争とは異なるという.
 放置するとアフ【ガ】ーニスタンには再びテロリストが集結して基地ができてしまう可能性があるため,その軍事作戦は支持が高く,超党派の支持もあるという.
 また,NATOがこれを支えている点から言って,「アメリカ単独の戦争」というレッテル貼りは適当ではない旨,述べている.

 詳しくは『オバマで変わるアメリカ』(アスペクト,2009.3.13),p.59-60

 ただし2009年10月頃の全米世論調査では,アフ【ガ】ーンでの軍事作戦に対するアメリカ国民の支持が,初めて5割を切っている.


 【質問】
 なぜターリバーンはビン・ラーディンを引き渡さなかったのか?

 【回答】
 アフガン・ネットワーク幹事,柴田和重の分析によれば,

 (1) パシュトゥンワルィ(パシュトゥンの生活規範)に従ったため※1

 (2) 「信者の司令官(アミール・ウル・ムウミニーン)」オマル師が,ムスリム社会の「英雄」ビンラーディンの引き渡しに応じれば,裏切り者の烙印を押されて自らの立場が危うくなりかねない.

 (3) ビンラーディンは,ターリバーンにとって大きな存在となっていた.
 ビンラーディンは,アラブ諸国からアフ【ガ】ーニスタンに集まってきた義勇兵を,自前の資金で訓練して一人前にしている.
 ブッシュ大統領は,ビン・ラーディンが過去5年間で1億ドルの現金と軍事援助をターリバーンに与えたと発言している.
 長引く内戦で厭戦機運が高まり,パシュトゥン地域からの兵士徴募に徐々に陰りを生じていたターリバーンにとって,士気が高く,死をも厭わないとされるアラブ義勇兵は,貴重な存在となっていった.
 訓練された5000人ともされるアラブ義勇兵が存在し,そのエリートで構成される第55旅団は,多くの戦闘で重要な役目をしていたとされている.

 (4) ビン・ラーディンの4人目の妻は,オマル師の娘であり,オマル師の3人目の妻はビン・ラーディンの娘であるとも伝えられている.
 また,ビン・ラーディンが,オマル師に直接助言できるカンダハール評議会に加わっていたとの説もある.

( from 「ポスト・タリバン」,中公新書,2001/12/20,P.58-59,抜粋要約)

 また,以下の記事によれば,宗教指導者の多くは引き渡しに賛成していたが,オマルら一部強硬派の反対によって引き渡し拒否となったという.

――――――
 アフガニスタンの旧タリバン政権で穏健派として知られたムタワキル元外相※2が2日,カブール市内でパキスタンの民間テレビのインタビューに応じ,タリバン残存勢力に対し,カルザイ政権との対話に応じるよう求めていると語った.
 タリバン政権の元高官がテレビのインタビューに応じたのは初めて.
 元外相は
「タリバンは現実を直視し,現体制と協力すべきだ」
と述べ,タリバンのメンバーに武装闘争路線を放棄するよう呼びかけていることを明らかにした.

 タリバン政権が01年の同時多発テロ事件後,首謀者のウサマ・ビンラディン容疑者の引き渡しを拒否して米軍によるアフガン攻撃を招いたことについて,
「(宗教指導者の会議で)多くの指導者は引き渡すべきだと考えたが,一部の強硬派が反対し,最終的には(最高指導者の)オマル師が拒否を決定した」
と語った.
 元外相はタリバン政権崩壊後,アフガン当局に投降して米軍に拘束されたが,03年に釈放された.

――――――(毎日新聞,2005/5/4)

 引渡し拒否は,アフガーンの民意とは全く関係なかったことが分かる.

 そればかりか,現在ではターリバーンの中にさえ,あのときビン・ラーディンを国外追放しておくべきだった,という考えが広がっているという.
 以下,引用.

「ターリバーンに広がる反ビンラディン」

 アフガニスタン国境のカイバル峠に近いパキスタンの町ボラ.
 今は廃墟と化したホテルの一室で,ターリバーン兵サラジュ・ディン(35)は嘆く.
「ウサマ・ビンラディンというつまらない男のために,我々は純粋なイスラム政権を犠牲にしてしまった」
 後悔しているのはディンだけではない.2001年11月のターリバーン政権崩壊は,アフガンに潜伏して投降を拒んだビンラディンの責任だという思いが,ターリバーンの若い兵士の間に広がっている.
「アメリカが我々に軍事攻撃を仕掛けるとわかった時点で,彼はアフガンから出ていくべきだった」
と,ターリバーンの元情報担当官は言う.彼はアフガンのカルザイ現政権とアメリカにゲリラ攻撃を仕掛けようと,パキスタンで密かに資金を集め,義勇兵を募っている.
 同じ失敗は繰り返さないと,ターリバーン兵達は誓う.
「ビンラディンだろうがアルカイダだろうが,外国勢力の助けは一切必要ない」と,ターリバーン司令官のムハマド・ニアズ(32).「我々の運動を部外者が奪うようなことは,もう二度とさせない」
 最高指導者ムハマド・オマルがビンラディンと親しくしていた当時も,一般のターリバーン兵はビンラディンやアルカイダ,ISIの干渉を疎ましく思っていた.

 今ではオマルもビンラディンと決別したという.
 オマルは2月,政権崩壊後,初めてメッセージを発信.
「アメリカとの同盟を捨て,即時に聖戦を開始せよ」
とアフガン国民に呼びかけた.
 ニアズは
「(ターリバーンには)隠している武器がたくさんあり,信仰という富もある」
と言う.
 アルカイダが今でも兵士の訓練に協力していることは,ターリバーン指導者達も認めている.
 だが,アルカイダに命じられて動くことはないという.
「我々だけで戦ってみせる」
と,ニアズは断言する.

――――――ニューズウィーク日本版 2003/3/19
 ※1 別項で述べるように,パシュトゥンワルィはそれほど強制力を持ったものではないとする見解もある.

※2 ムタワキールの言葉が,必ずしも真実を語っていない可能性もある.
 以下によれば,ムタワキールも当時,引き渡しに消極的だった模様だという.
――――――
 外相時代のムタワキル氏と何度か顔を合わせたが,その場に応じて本音と建前を巧みに使い分けていた.
 雑談の中では,タリバンが厳禁したテレビやインターネットの必要性を認めるような人物だった.
 本音と建前の使い分けは,長い戦乱の中で生き抜くアフガン人の知恵だと聞いたことがある.

 しかし,私の書面インタビューに対するムタワキル氏の回答は,いかにも公式的だった.
 約3ヶ月前,ケニアとタンザニアの米大使館で発生した同時爆破テロを受け,米国がアフガンにミサイル攻撃を敢行した余韻が残っていた時期である.
「ウサマが首謀者だと立証されるなら,裁判のために引き渡す用意がある」
 そうは述べながらも,
「彼の行動はジハード(聖戦)であり,テロではない」
と言い切った.
 事実上,身柄の引き渡しはありえないと明言していた.

――――――『アフガニスタンから世界を見る』(春日孝之著,晶文社,2006.210),p.62
 ただし本書は,あちらこちらにミスリードを誘うような文章が見られるため,鵜呑みは絶対に禁物.


 【珍説】
「日本の報道で本当におかしいと思ったことがあります.
 トランジットでバンコクの新聞を読んだのですが,第一面の見出しに“Afghan Offer Rejected ”と大きく書かれている.どういう内容かというと,ターリバーンが宗教者を集めて会議をしてその中で,ビンラディンに自主的に国外に行くように勧告しましたよね.

 それはターリバーンにとっては,もうほとんど自殺行為に近い決定だったんです.アフガンにとっては,とても大きなシグナルなんです.
 でも,アメリカはそのシグナルを無視してしまった.
 だから,見出しの意味は,「アフガンが出した申し出が拒絶された」ということです.見出しの書き方としては正確です.
 ところが,日本の新聞を見たら,“ビンラディン引渡し ターリバーン拒否”と書いてあるんです.意味がまったく反対です.
 読んでいると,「ターリバーン強硬姿勢を鮮明に」とか書いてあって,全く正反対のことが書いてある.
 本当はブッシュが強硬姿勢を鮮明にして,ターリバーンはそれを何とか緩和しようとして,物凄い決断をしている.

(山本芳幸)

▼旅人に対する奉仕の精神は,我々日本人の想像を超えたものだからです.
ですから,アメリカに旅人・客人であるオサマ・ビンラディンを差し出せといわれても,差し出せるわけがないのです.
 差し出すことは自分の死を意味します.
 我々が想像できないくらい厳しいものです.

蓮岡修〔ペシャワール会の医師〕 in 『痛み癒される社会へ』
(阿部知子著,ゆみる出版,2003/2/5),p.30▲

 【事実】
 情報操作をしない国などないだろう.
 マスコミでさえ,事件を面白おかしくする為に,意図的な報道をよくやるくらいだ.
 今更騒ぎ立てることではない.

「ターリバーンにとっては,もう殆ど自殺行為に近い決定だった」
というのも,ターリバーンにとって都合の良い言い分でしかない.
 そもそも,この宗教会議の出したものは退去布告,それも退去期限を定めない,実効性が疑問視されるものだった.
 次いで,オマルによって「あれは布告ではなく,勧告」とさらに緩和された.

 第3に,国際社会はかねてから,「ターリバーン=アルカイダ」と見ていた.
 ターリバーンは,北部同盟とアフガン全土を支配する戦いを続けていく上で,ビンラディンの資金やビンラディン支配化の外国人テロリスト兵を利用した.
 その見返りに,ビンラディンはアフガン国内にテロリストキャンプを確保した.
(これは,クンドゥズで頑強に抵抗していたターリバーン精鋭部隊に,アルカイダの外国人部隊が多数含まれていた事から明らかになってる.
 つまり,ターリバーン軍の中枢にアルカイダが食いこんでいた訳だ).
 アメリカが証拠を示そうが,ターリバーンがビンラディンを引き渡せる訳がないだろう.
 ターリバーンとビンラディンは相互依存していて,運命共同体と化していたからだ.
 国際社会はそう見ていた.

 そういう背景があった上,オマルが事実上,ビン=ラーディンが退去しなくても,何ら問題の生じない「勧告」しか出さなかったことにより,国際社会はこれを「事実上の拒否」と見たのである.

「ふーん,ターリバーンの言葉は疑わないんだ.
 アメリカの事はあんなに疑うのに.
 ダブル・スタンダード?」
って感じちゃうね.

軍事板


 【質問】
「証拠を出せばビン=ラーディンを引き渡す」
とターリバーンは主張していたのだから,ビン=ラーディンが犯人であるという証拠を示せばよかったのでは?
 そうすれば攻撃を正当化できて,万々歳じゃねえか.

 【回答】
 ビンラディンはそんじょそこらの泥棒じゃない.
 ガードの固いアルカイダのリーダー,ビン=ラーディンが犯人であるという証拠を提示できるとしたら,無論,アルカイダ内部の人間のリーク.
 ターリバーンとアルカイダが一体化している以上,ターリバーンにその証拠を教えれば,当然ビン=ラーディンに筒抜けとなり,リークした人間はたちまち粛清されるだろうね.

 また,犯人を逮捕する前に検察側の示す予定の証拠が残らず被告側に洩れてしまったら,どういうことになると思いますか?

 さらにまた,ビン=ラーディンの犯行であるという容疑濃厚さを示す証拠は,既に幾つも提示されている.

 とりあえず,911に犯人がいるのは確実なわけだが,その場合の候補は
・PLO・PFLP・ヒズボラなどのパレスチナ過激派
・ビンラディンを中心とするアルカイダグループ
・ミリシア等の国内過激派
と大体,こんなところが考えられる.

 その中でビン=ラーディンが疑われている理由として

<状況証拠>
ビデオ
フライトレコーダ
マスード将軍暗殺
WTC襲撃前科
アメリカに対する攻撃の,度々のほのめかし
これだけのことを実行可能にする資金力・人脈
動機
アルジャジーラ報道
他国情報機関の情報提供

<直接証拠>
・預金・資金関係
・ハイジャック犯達の素性
・ターリバーン関係者(ハクサル)の証言
・アルカイダ所属逮捕者の証言
・偽造身分証の製造ルート
・計画書の存在

……と,とりあえず,思いつくだけでもこれだけある.

 あくまでも比較に過ぎないが,他の主体に比べ,ビン=ラーディンのアルカイダ・グループが最も怪しいことは事実.

 犯人を捕まえる際に,これ以上の証拠を必要とすることがあるかね?
 国内の犯罪者を捕まえる際にも,逮捕時には有罪確定時よりも緩やかな証拠しかいらないというのは,刑事訴訟法の常識だと思うけどね.

 だからこそ,アラブ・イスラーム各国を含む国際社会が,ターリバーンに圧力を掛けたんだが.
 証拠がないからと放置し,あるいは逃げ場を与えた場合のリスクを勘案するなら, 今回のアメリカの行動は当然の措置.

軍事板

 もっと言えば,証拠を示せば本当にターリバーンがビン=ラーディンを引き渡したかどうかも,非常に怪しい.
 上述のように,ターリバーンとビン=ラーディンは一体化していた上,
・1997年CNNテレビとのインタビューにおいて,彼はそのグループが1993年ソマリアで米兵18名の殺害の黒幕であったことを認めている(片倉邦雄 from 「アフガニスタン」,明石書店,'03)
・1998年8月にアフリカで起こった米国大使館連続爆破事件では,実行犯の一人が生き残り,ビン=ラーディンの犯行を証言している
にも関わらず,オマルはビン=ラーディンを引き渡すことはせず,1998年11月に独自の調査とやらでビン=ラーディンを無罪と「断定」し,そのために国連からの経済制裁まで受けている.※
 また同じようなことになれば,証拠に繋がる内通者についての情報を,タダでビン=ラーディンにくれてやるだけに終わる可能性が高い.

軍事板

※サウディアラビア学者,中村覚は,この件に関して次のようにターリバーンの矛盾を指摘している.

――――――
 両大使館〔ケニアとタンザニア〕の爆破事件直後,ターリバーン高官の中には,ウサーマに関して,
「ウサーマと,米国大使館爆破犯との関係が証明されても,タリバーンは彼を引き渡さない」
と述べる者がいた.
 ターリバーン内部の本音なのかもしれないが,あまりに矛盾している発言であった.

――――――「だれでもわかるイスラーム」(2001/12/31), p.107

▼ ちなみに以下は,ターリバーンでも穏健派とされる人物の見解.

――――――
 私がハッサン師にビン・ラディンのことを訊ねたとき,〔略〕彼は辛抱強そうな笑みを浮かべた.
「彼は実に分別のある,穏やかな人物ですよ」師はそう答えた.「いい思想を持っていて,我々を尊敬してくれます.
 いいですか,彼は今住んでいるジャララバード周辺を我々が征圧するよりも前から,ずっとアフガニスタンにいるのですよ.
 彼のもとにいた人の多くが,アフガニスタンの自由のために戦って亡くなりました.
 彼はアメリカを助けることさえしました.
 頂点に立った原因はそれです」
「でも,もしあの男を引き渡さなければ,世界はあなたたちを孤立させますよ」私は,自分をもてなしてくれる主人に指摘した.
「ええ,世界がそれを選択するなら可能でしょう.しかし,彼は我々ムスリムの管轄区域の法律を犯したりはしていません.
 彼にも,他の人と同じような権利があります.
 アフガニスタンとアメリカの間には,拘束者の交換に関する正式な合意が成されていない.
 我々には神の前で報告する義務があり,もし彼を法を破ったかどで敵の手に引き渡したとすれば,それは我々の良心に反することでしょう.
 世間では色々と議論がありますが,我々には関係ありません.我々はパシュトゥーン人であり,賓客の安全を守らなくてはならないのです」
 この答えはあまりにも超俗的で,私には,タリバンはまさに見た目そのものであるという結論付けしかできなかった.
 ほとんど教育を受けず,一般の家庭が砲塔に護られた泥製の砦の中で暮らしているようなパシュトゥーン人の村出身のムッラーたち.
 そして妥協を求める言葉――「ギブラン」――は,「降参」と訳された.

――――――C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」(東洋書林,2006/8/10),p.154-155

>彼は我々ムスリムの管轄区域の法律を犯したりはしていません.

など,多くの誤った情報に基づいているというものの,ターリバーン穏健派でさえこういった見識だったのだから,ビン・ラーディン引き渡しは殆ど絶望的だったと言わざるを得ない.▲

 なお,ボブ・ウッドワード著「ブッシュの戦争」によれば,911直後からブッシュ政権はビン=ラーディンの犯行を確信していたようである.以下抜粋.

――――――
 テネットが,かなりの確信を込めて,今回のテロ攻撃の背後にはビン・ラディンがいる,と報告した.
 アルカイダの工作員と判明している3名が,ペンタゴンに突っ込んだアメリカン航空77便に乗っていたことが,乗客名簿によって分かった.
 3人の内の一人,ハミド・アルミダルは,前年にマレーシアでCIAに目をつけられていた.金で雇われたCIAスパイが,ハリドがアルカイダの会議に出席しているのを突き止めたのである.
 CIAがFBIにそれを伝え,FBIがハリドを国内要注意人物リストに載せたのだが,ハリドは夏の間に密かにアメリカに入国し,FBIには発見されていなかった.
 これだけ大掛かりでよく調整された攻撃が可能なテロリスト組織は,アルカイダ以外にはない,とテネットは述べた.
 通信情報の傍受により,ビン・ラディンの工作員と判明している者多数が,テロ攻撃後に祝いの言葉を交わしているのを聞き取っている.
 何日も前に収録され,今ようやく解読中の情報によれば,世界中の既知の工作員が,大事件を予期していた模様だった.
 ただ,攻撃日時・場所・方法は,どの情報でも明確にされていなかった.
――――――

 付言すれば,

――――――
 当初は,特にイスラーム社会では,本当にこれがビン=ラーディンとその組織アルカーイダの仕業かどうか疑問視する声があったが,彼のインタビュー・ビデオが次々公開されるにつれて,その声は次第に薄れていった.
 ビン=ラーディンは最初のビデオで,今後もテロ活動を行うと公言し,後のビデオでは,同時多発テロについて事前に知っていたこと,そして自分の命令で行われたことを明かしている.

――――――「アフガニスタンの歴史」(Sir M. Ewans著,明石書店),p. 335-336

 【質問】
 本当にビンラディンが狙いだったのなら,下のような交渉を続ければよかったんじゃないのか?

米政権とターリバーン,ビンラーディン引き渡しで秘密協議

 【ブリュッセル=鶴原徹也】米国とアフガニスタンの旧ターリバーン政権の間で,国際テロ組織アル・カーイダの指導者,ウサマ・ビンラーディンの引き渡しを巡る秘密協議が同時テロの約1年前に独フランクフルトで行われた――.交渉を仲介したエルマー・ブロック欧州議会議員(ドイツ出身)が4日夜,本紙の電話取材で認めた.

 ブロック議員によると,ターリバーン密使を名乗るアフガンのビジネスマン,カビル・モハバト氏がクリントン前政権下の1999年夏,同議員に接触し,
「第三国で米国に引き渡す用意がある」
と伝え,米当局への仲介を要請した.
 同議員は半信半疑ながらも駐独米大使に伝達.
 その後,モハバト氏は訪米し,米当局者と交渉した.ターリバーン代表団と米当局者は2000年11月,フランクフルトで秘密協議を行った.

 この協議を巡り独公共放送ZDFが3日夜報じたところによると,ターリバーン政権外相は
「第三国を指定すれば,いつでも引き渡しができる」
とする一方,「見返り」を米国に要求.
 時期と場所を詰めるため,在パキスタン米大使館で交渉を継続することになったが,結局,交渉は途絶えたと報道した.「見返り」には米国によるターリバーン政権の承認が含まれていたと見られる.

 ブロック議員は
「モハバト氏は在アフガン独企業関係者から,私の名を聞いた.私は仲介しただけで,交渉には関与していない.引き渡しが実現していれば,米同時テロはなかったかもしれないが,それは誰にもわからない」
と述べた.

(読売新聞,2004/6/6)

 【回答】
 「交渉事とは,全て合意に達するはずのものだ」などと考えてやしないかね?

 何らかの点でアメリカには飲めない「見返り」要求があっただろうことは,想像に難くない.


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