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◆◆戦史
<◆アフ【ガ】ーニスタン
<南アジアFAQ目次
Demetrius I of Bactria
(こちらより引用)
「NHK」◆(2013/04/24) アフガニスタン 遺跡破壊し銅採掘へ
>「われわれと中国企業は,今のままでは損をしているだけなので,できるだけ早く銅の採掘を始めて利益を得たい」と述べ,来年中には遺跡を破壊して,掘削工事用の施設を建設し,来年末か再来年の初めには銅の採掘を始める方針を明らかにしました.
「フォーリン・アフェアーズ」◆(2010年5月18日)ルイ14世からアフガンは何を学べるか― アフガンに近代国家を誕生させるには(1)
『アフガニスタン 終わりなき争乱の国』(ラリー・P・グッドソン著,原書房,2001.12)
『アフガニスタン史』(前田耕作著,河出書房新社,2002.10)
『アフガニスタンの歴史』(マーティン・ユアンズ著,明石書店,2002.9)
『アフガニスタンの歴史と文化』(ヴィレム・フォーヘルサング著,明石書店,2005.4)
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンの歴史を,10行で教えてください.
【回答】
アフ【ガ】ーニスタンは,東西文明の十字路と呼ばれちょる.
そう呼ぶと聞こえはええ.
じゃが,要は様々な民族が出たり入ったりを繰り返しちょるっちゅうこっちゃ.
ほんで,そんたび,戦乱が繰り返されとるんじゃ.
紀元前2000年頃にはインド=イラン語族が入ってきよったんじゃが,そん前はドラヴィダ語族が先住しとったと思われるけぇの.
以後,スキタイ人,アケメネス朝ペルシャ人,ギリシャ人,クシャーン人,もいっぺんイラン人,アラブ=イスラーム勢力,三度イラン人,モンゴル人といった勢力が入れ替わり立ち代りしたんじゃ.
ようやっと18世紀にアフ【ガ】ーニスタン王国が勃興し,インド侵攻さえしばしば行えるほどの勢力になったんじゃが,ヨーロッパから英国人がやってきよって,アフ【ガ】ーニスタンはまたまた主を変えることに.
累代の侵入勢力は,(ソ連も含めて)アフ【ガ】ーン人によって追い出されたというよりは,次の侵入勢力に取って代わられた,または衰微して勝手に出て行ったっちゅうパターンが殆どじゃ.
「甘やかすと太うなるけん,今のうちに追い出しちゃれ!」(映画「仁義なき戦い」より)
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/326802406664962048
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青文字:加筆改修部分
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンの歴史の始まりは?
【回答】
アフガン含むイラン高原では,最後の氷河期が終わった紀元前6千年から,農耕が始まってたんじゃ.
ほんで,農耕に石器の他に,青銅や銅といった金属器も使うようになったんが,金石併用時代と言われる紀元前5500〜3000年頃のことじゃ.
ただ,上記の年代は,もしかしたら変わるかもしれん.
なんでじゃ言うたら,アフ【ガ】ーニスタンじゃまだ考古学調査が不十分じゃけん.
ソ連軍侵攻より前のダウド政権時代でも,まーだ考古学調査の「揺籃期」言われてたでのう.
戦乱と貧困とが,それに追い討ちかけとってのう,こんな状況がザラにあるんじゃ.
>中国企業は,来年中には遺跡を破壊し,銅の採掘を始める方針を明らかにした.
>http://t.co/XimNjFcc0G
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【質問】
メディア王国って何?
【回答】
アケメネス朝の縄張りになる前のアフ【ガ】ーニスタンは,メディア王国のシマじゃった.
メディア王国についちゃ,文献がなんぼも無いんで,ようは分かっちょらん.
西はユーフラテス川流域から,東はバクトリア(今のアフ【ガ】ーン北部)あたりまで支配しちょったようじゃ.
ほんでレリーフなんかから推測しようるに,メディア王国時代のアフ【ガ】ーンには,新参者のスキタイ人,スキタイ人に先行しようるイラン人集団,その前に入ってきちょったインド・アーリア語族,その前からおったドラヴィダ語族の,4つの階層があったらしい.
その大部分の地域では,超越した強さと移動性を持っちょったスキタイ人が,支配者層を構成しとったようじゃ.
暴力団対策法で言うところの一次団体のようなもんかのう.
このメディア王国を前550年頃に殺(と)ったんが,メディア王国の舎弟じゃったアケメネス朝のキュロス2世ちゅうわけじゃ.
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青文字:加筆改修部分
【質問】
アケメネス朝ペルシャは,いつごろからアフ【ガ】ーンを支配していたの?
【回答】
アレクサンドロス大王の遠征の前は,アケメネス朝ペルシャがアフ【ガ】ーンのシマをしめとったっちゅうこっちゃが,いつからそうなんかは,ようは分からん.
ただ少なくとも,紀元前530年にキュロス王が没した時点ではすでに,アフ【ガ】ーンはアケメネス朝のシマになっとったんじゃ.
アケメネス朝時代,南部アフ【ガ】ーンではスキタイ人の反乱もあったもんの,北部アフ【ガ】ーンじゃ水路がようけ整備されて,ミカジメ料をがっぽりとれる,生産力の高い地域となっちょった.
アレクサンドロスとアケメネス朝との対決に際しても,アフ【ガ】ーン人の部隊がアケメネス朝ペルシャ軍の中にいたことが分かっちょるけえの.
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/338471643045298176
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青文字:加筆改修部分
【質問】
アフ【ガ】ーニスタン,アイ・ハヌムにあった古代ギリシャ人入植都市は,どのようなものだったのか?
【回答】
同地は軍事前哨地として適しており,ここに駐屯することで,バクトリアナ東方の進路を掌握でき,また,市街からオクサス河上流にあたる左岸の支流に沿って南へ通ずる,有力な侵入路を抑えることも可能だった.
遺跡の市街部から60m高い自然の山塊から成るアクロポリス(古代ギリシャ都市の城塞)は,外敵が東から接近するのを防ぎ,オクサス河とコクチャ河とに面した垂直の崖面は,南北2km,東西1.5kmの広さがあるこの場所の,南と西の側面を保護した.
さらに古代ギリシャ人は,2つの河の岸辺に沿い,さらにアクロポリスの斜面にまで続く堤防を作って,都市を完全に取り囲み,防御を強化していた.
低地の市街地の北辺には,自然の防塞がないので,高さ10m以上,厚さ6〜8mの堅固な城壁が築かれていた.
城壁には高さ10mの,方形の塔が付属していた.
城壁の外側には,攻城兵器の接近を防ぐための,深い濠があった.
最後にアクロポリスの東南隅には,100×150mの角面堡があり,その2つの面は,コクチャ河の80cmの崖によって,第3の面は濠によって守られていた.
市街の幹線道路に沿った,大中庭に面した場所には,造兵廠があった.
140m×100mの長い倉庫群が,その特徴だった.
【参考ページ】
『考古学の新展開 別冊日経サイエンス』(日経サイエンス,1995.11.20),p.56-62
【ぐんじさんぎょう】,2011/09/22 20:40
を加筆改修
【質問】
入植民ギリシャ人達の蜂起は,なぜ起こったか?
【回答】
単なる故郷帰還の願望では説明し切れない,深い原因があったとされている.
それは,アレクサンドロスの植民政策とギリシャ人達の心情の相違に根ざしたものであったという.
以下引用.
------------
バクトリアとソグディアナにおける入植民ギリシャ人の最初の蜂起は,アレクサンドロスの生前である前325年に始まった.
前323年,王の死の直後には,強力な蜂起が起こり,バクトリアとソグディアナの全住民が参加したと見られる(資料によれば23000人).
アレクサンドロスが東方に彼の権力の拠点として作った新しい集落地には,ポリスのステータスはなく,王によって任命された司政官ギパルク Giparch によって統治された.
また,その住民構成は混じり合っていて(ギリシャ人,マケドニア人,現地住民),ギリシャ人は何の特権も持っていなかった.
-------------(V. G. Gaibov, G. A. Koshelenko, Z. V. Serditykh from 「アイハヌム 2001」,東海大学出版会,2001/11/20, p.4,抜粋要約)
【質問】
セレウコス朝について,3行で教えてください.
【回答】
グレコ・バクトリア朝の前にアフ【ガ】ーンのシマをしめとったんが,セレウコス朝じゃ.
セレウコス朝はセレウコス1世が紀元前305年,メソポタミア(イラク)地方に興した王国で,最盛期にはアフ【ガ】ーニスタンのほか,シリア,アナトリア,イランなんかを支配しよった,でっかい帝国じゃった.
ケツは紀元前64年にローマに敗れて,併合されてしもうたがのう.
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/335774431517483008
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/335774662111924225
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/335774764226473985
青文字:加筆改修部分
【質問】
セレウコス朝のインド侵攻の結果は?
【回答】
東方におけるカニ道楽,じゃのうてニカトールのライバルは,インドに彗星のごとく現れたチャンドラグプタじゃった.
チャンドラグプタはマウリヤ朝の建国者じゃけど,出自はレイモンド・チャンドラーとは何の血縁もないこと以外,なんもはっきりしておらん.
紀元前305年頃に,セレウコス1世の兵隊がインダス川を越えたとき,チャンドラグプタはこれを迎撃した.
その兵力,実に60万.
セレウコス軍は西方へ撤退しよることとし,紀元前303年,チャンドラグプタとの間に条約を結んだ.
ガンダーラ,パロパニサダエ(カーブル河谷),アラコシア(カンダハールのオアシス),ゲドロシアがマウリヤ朝へ割譲され,その見返りとして象500頭がセレウコス1世に引き渡された.
手打ちっちゅうわけじゃ.
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/335789062310989824
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/335789178694549504
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/335789274358222848
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/335789411717484544
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/335789513408385025
青文字:加筆改修部分
【質問】
バクトリア王国について教えてください.
【回答】
こいつはグレコ・バクトリア王国とも言って,アレクサンドロス大王の遠征によってやってきたギリシャ人の子孫じゃ.
彼らはセレウコス朝シリアの支配を受けておったんじゃが,紀元前250年頃,バクトリア太守ディオドトスDiodotosが,反乱を起こして独立したんじゃ.
首都は現在のアフガニスタン北部のバルフ(古称バクトラBaktra)に置き,周辺のシマ切り従えて,今のタジキスタンやウスベキスタン,トルクメニスタンのあたりまで縄張り広げおってのう.
また,やはりセレウコス朝から独立したパルティアと,前228年ごろに同盟を結んで,西の守りを固め,東に向かってはガンダーラまで侵攻しようる.
じゃけど,そん頃が勢いのてっぺんで,紀元前171年頃,アンティマコス1世がエウクラティデス将軍にタマとられ,王位を奪われる事件が発生.
しようると,インド・グリーク朝が分離独立し,グレコ・バクトリアはこのインド・グリーク朝との抗争や,そん他ようけ戦争やって国力を消耗.
前150年ごろ,大月氏に侵略され滅亡したっちゅうのがケツじゃ.
「盃は返しますけん,今日以後わしをセレウコス組のもんと思わんでつかい」(ディオドトス談)(うそ)
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https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/328527192961200128
青文字:加筆改修部分
【質問】
セレウコス朝のシマで,ギリシャ人が反乱起こせるまでに勢力でかくなったんは,何でじゃ?
【回答】
何でじゃ?言うたら,それはセレウコス朝自身のおかげじゃけーの.
セレウコス1世ニカトールは,紀元前301年にアンティゴノスを破ってシリアを獲得した後,東方に目を向け,マケドニア・ギリシャ人の入植を推し進めたんじゃ.
メソポタニアからバクトリアに至るルートを確保しようっちゅうんで,そのルート沿いにギリシャ人の町を作ったっちゅうわけじゃ.
いっちゃん,こいつは彼らの定住地域の縁に沿って住むスキタイ人の反発を買った.
それまでの,中央アジア南部の定住民と,遊牧民であるスキタイ人との共生関係を壊すもんじゃったからのう.
紀元前290年頃には,マルギアナとアレイナっちゅう町が,スキタイ人の連中によってカンペキにブチ壊された.
この襲撃は撃退されたが,脅威が去ったわけじゃないので,ギリシャ人は主要な農業地域の周囲に,巨大な壁を巡らせた.
…どっかの漫画で聞いたような話じゃのう(笑
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青文字:加筆改修部分
【質問】
そもそも,マケドニア人・ギリシャ人が南アジアにそがいにぎょうさんおったんは何でじゃ?
【回答】
なんでじゃ言うたら,歴史にその名をとどろかす,アレクサンドロス大王の遠征のおかげじゃ.
アレクサンドロス大王の遠征についちゃ,ここで改めて説明しよる必要もないじゃろが,アフ【ガ】ーニスタンでは,それまでこんシマしめちょったアケメネス朝ペルシャの太守が敗北しよると,さほどの抵抗もなく,現地住民はアレクサンドロスの舎弟になった.
紀元前330年頃のことじゃけーの.
例外はアームー・ダリヤー川北岸で,こんシマに住んじょったスキタイ人は,アレクサンドロスの兵隊との間で,激烈な戦いを繰り広げたんじゃ.
これこそ仁義なき戦いじゃけえ.
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【質問】
ディアドコイ(後継者)戦争って何?
【回答】
アレクサンドロス3世(大王)が紀元前323年に急逝した後,その配下の将軍たちは大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って抗争を繰り広げた.
これをディアドコイ(後継者)戦争と言うんじゃ.
当初,台頭しよったんは,大貴族でアレクサンドロス4世の後見人,ペルディッカスじゃったが,彼はエジプト遠征の最中に暗殺されてしまったけーの.
紀元前321年のこととも,320年のこととも言われちょる.
ほんでアンティパトロスが摂政に就くや,アンティゴノスを大将に立てて,ベルディッガス派の討伐を始めた.
じゃけどアンティパロトスも紀元前319年に病没し,今度はアンティゴノスが台頭,その勢力があまりにでかくなったことで,他のディアドコイ達との対立が激化.
アンティゴノスは紀元前301年,イプソスの戦いでボロ負けして,自身もタマとられよった.
アンティゴノスのシマは勝者たちによって分割され,イラン高原を得たのが,前に述べたセレウコスっちゅうわけじゃ.
「現実いうもんはの,おのれが支配せんことにゃ,どうにもならんものよ」(仁義なき戦い」より)
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青文字:加筆改修部分
【質問】
クシャーン朝について,3行で教えてください.
【回答】
クシャーン朝はイラン系の王朝でのう,紀元1世紀に大月氏のシマ獲って独立したんじゃ.
ほんで,クシャーン朝は大乗仏教が栄えとってのう,ギリシャ・ローマ美術とインド美術が混じり合うた,ガンダーラ美術っちゅうもんで有名じゃ.ガンダーラの名は聞いたことあるじゃろ?
まあ,最後はサーサーン朝ペルシャに征服されて,3世紀に終わったけどのう,クシャーン朝.
「知らん仏より,知っとる鬼の方がマシじゃけぇの」
(「仁義なき戦い」より)
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青文字:加筆改修部分
【質問】
♪その国の名はガンダーラ どこかにあるユートピア
どうしたら 行けるのだろう? 教えて欲しい〜
(ゴダイゴ)
【回答】
ガンダーラは,昔のペシャワール付近.
今はもうない.
だから行けない,永遠に.
以下引用.
------------
ガンダーラというのは昔の地名であって,今はない.パキスタン西北の辺境州のペシャワール付近にあった.
この地は,スワート河がカーブル河と合流し,さらにインダス河と合流する辺りの平野にある.
ところが,一般に「ガンダーラ」と呼ばれるのは「ガンダーラ美術」のことであって,その美術の分布する範囲は単にガンダーラ平野に限らない.
東隣,かつてガンダーラの隣国であったタキシラや,北方山中の渓谷にあるスワート,一部はアフ【ガ】ーニスタン東部をも含んでいる.
------------樋口隆康『アフガニスタン 遺跡と秘宝』(日本放送出版協会,2003),p.10
遺跡も盗掘などによって破壊されつつあるので,やがて痕跡すら消えて無くなるかもしれない.
+
【質問】
ガンダーラの城塞技術はどんなものだったか?
【回答】
現在,ガンダーラ式城塞を現地に見ることができるのは,タキシラのシルカップ遺跡とシルスフ遺跡である.シルカップでは西暦前2世紀から後1世紀にかけて断続的に築かれ,積み重なった城壁が,調査によって北の壁の内側に姿を見せた.
壁材には,周辺で産出する石灰石の切石が使われている.石の間を粘土で埋め,野石積みになった壁の両側には化粧材が施されている.ガンダーラの浮き彫りには,壁の石積みは表現されていないが,それは上塗りによって覆われていたからである.
厚みは全体で4.5-6.5mになる.
上層部は殆ど失われているが,マーシャルの推定では,この城壁の高さは場所によっては6.1-9.15mあった.
ガンダーラの浮き彫りでは,土のブロックを積んだ城壁は,横に渡した梁で補強されている.それとは直角に壁を補強している控え取りが見られる.
更に外側からは,幅7.6mの犬走りと,等間隔に気付かれた稜堡で補強されてた.これら稜堡は角塔形であったが,隅のものは五角形をしていたようだ(北東角でのゴーシュの推測による).
稜堡内部は空洞ではないが,城壁より高くなっており,この高くなった部分は幾層かに分かれ,衛兵の部屋や住居があったに違いない.
おそらく城壁の上を巡回炉が巡り,稜堡を繋いでいたと考えられる.
シルカップ遺跡では城壁の保存状態が悪く,防戦用の銃眼までは認められない.
ガンダーラの浮き彫りでは,笠石を被せた胸壁に,銃眼のついた建物がある.遺跡では城壁の巡視路の上に銃眼つきの衛兵室があり,この銃眼から光が入るようになっている.
三角形の銃眼は,矢印形や十字形の矢狭間とは大きな違いがあった.この3つは共に存在していたに違いないが,中でも矢印形の矢狭間じゃ.シフスフと西バクトリアのディルベルジン・カザンの遺跡で発見されている.
窓には,住居を寒暑から護るため,木製のひさしがついていたと推測される.
(F. Tissot 「図説ガンダーラ」,東京美術,'93, P.36-38,抜粋要約)
【質問】
バーミヤーン石窟の造営はいつ始まったのか?
【回答】
造営開始年代は不明であるが,クシャン時代のいつ頃かに始まり,その終末まで続いた事は確かである.
最初に開鑿されたのはカニシュカ王の時代であったという説がある.〔遺跡調査〕フランス隊の初代隊長で,ガンダーラ美術の泰斗であるフーシェの説である.
玄奘の「大唐西域記」の中に先王伽藍という表記がある.フーシェは,この先王をカニシュカ王と考えたのである.
しかし,これも仮説であって,確証はない.
〔略〕
バーミヤーン石窟は5世紀頃に始まり,中心は6-7世紀で,8世紀まで続いたと思われる.
(樋口隆康「アフガニスタン 遺跡と秘宝」,日本放送出版協会,'03,P.177-181)
【質問】
インド=パルティア王国について教えてください.
【回答】
これはクシャーン朝があった頃,南アフガニスタンにあった王国でのう,本家パルティア王国から,ゴンドファルネスという貴族が切り取って独立したもけえ,スィースターンからタシキラにいたる地域をしめとったんじゃ.
ゴンドファルネスっちゅう名前は,古代イラン語の「Vindafarna(栄光を勝ち得た者)」が反映しちょる.
聖トマス伝に登場しよる,キリスト教に帰依したっちゅうインドの王「グンダファル」と同一視しよる説もあるが,こっちは定かじゃないけえの.
それはともかく,ゴンドファルネスの武勲は一代限りのものじゃったようで,彼の甥で後継者のアブダガセスの時代になると,早くも王国は分解し始める.
じゃけど,北アフ【ガ】ーニスタンをクシャーンが席巻しても,2世紀中期か,それ以降までスィースターンとその周辺地域の支配を維持しとった.
あいつらに最終的にとどめ刺したんは,ペルシア人じゃ.
サーサーン朝ペルシアの開祖,アルダフシェールの軍事遠征によって,クシャーンともども征服されたけえの.
「アフガンの喧嘩いうたら,トルかトラれるかの二つしかありゃあせんので」(「仁義なき戦い」より)(うそ)
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/327404505178181632
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青文字:加筆改修部分
【質問】
カーブルにある,シャー・ド・シャムシラ寺院の由来は?
【回答】
カーブル河畔にある同寺院は,以下のように説明されている.
[quote]
7世紀に初めてイスラーム軍が,カーブルのヒンドゥー勢力と衝突したとき,両刀使い(ド・シャムシラ)〔2刀流の意味か?〕で奮戦したアラブの将軍を記念し建てたもの.
20世紀初頭の建築.
[/quote]
―――『アフガニスタン』(小西正捷編,講談社,1968/2/24),p.45
7世紀の出来事を20世紀になって何故記念することにしたのかについては,データ不足により不明.
【質問】
アイヤーラン運動とは?
【回答】
アイヤーラン Ayyârân は アイヤール
Ayyar の複数形で「戦士」の意味.
アイヤーラン運動とは8世紀頃,イスラーム世界の東側の大部分を支配するアバシッド・ヒラファトの下で発生した大衆運動であり,次第にイスラーム神秘主義と融合しながら,アラブ人支配&圧制に反抗して,アフ【ガ】ーニスタンとイランの重要都市において,多くの者がグループを結成した.
ニムロズ州ザランジ出身のシスタン,ヤアクーブ・ブン・ライス・サッファールに率いられたアイヤーランは872年,アフ【ガ】ーニスタンおよびイランの一部にサッファーリ朝を樹立した.
8〜9世紀には,アイヤーラン運動は政党の形で特定の組織を成し,アブドゥル・ラーマン・ハーン(1880〜1901)が,有力2大部族の対立を機に,アイヤーラン運動を禁止するまでこれは続いた.
詳しくは『アジアの二つの日出ずる国』(ハルン・アミン著,駐日アフガニスタン大使館,2007),p.10-11を参照されたし.
【質問】
バーミヤーン大仏の顔は誰が削ったのか?
【回答】
8世紀,アラブの侵入の時,イスラム教徒が顔を削った.
1646年,インド・ムガール帝国第6代の王アウラングゼブ(1816-1707)がバルフ遠征の途次,仏像の足に大砲を撃ちこんだが,このとき顔と前腕が削られたという説もある.
(樋口隆康「アフガニスタン 遺跡と秘宝」,日本放送出版協会,'03,P.210-211)
イスラームのアラブ軍が現在のアフガニスタンに侵攻したのは,652年のことであるという.
しかしカーブルは871年頃まで占領されなかったというから,また,慧超が訪れた700年代前半には,バーミヤンはどこにも服属せず,まだ仏教が盛んであったというから,イスラームのバーミヤン侵略はその後のことであった.
ウマイヤ朝を倒し,アッバス朝を建てたアブー・アル・アッバスの後継者アル・マンスールが第2代カリフ(在位754-75)になったとき,ウァルウァリーズ(現在のクンドゥズ近辺)の総督ムルザヒム・ビン・ビスタームを派遣,バーミヤンを落としたという.8世紀半ば過ぎのことだった.
このとき仏窟や仏像の破壊があったかどうかは定かではないが,アラブの地理学者達の記録ではなおバーミヤンの大仏や仏堂の壮麗さに触れているところから,破壊は免れたものと思われる.
それにはムルザヒムの息子とバーミヤン王(スィル)の娘の結婚も起因しただろう.
この結婚から生まれたアル・ハサンも,やがてスィル・イ・バーミヤン(バーミヤン王)と呼ばれることになった.
イスラーム最高の歴史家と称えられるアル・タバリー(838-923年)は,アル・ハサンの息子ハルトハマがイスラーム暦229年(844年),ヤマン(イエメン)総督に任じられたと伝えている.
このことは,アッバス朝後期,バーミヤンの王統が「まだバグダッドの宮廷で重要な地位を保っていた」証拠であるという.
バーミヤンの人々は既にイスラームへ改宗していただろうが,彼らがそれまで信仰してきた仏教の伽藍や仏像を,自らの手で破壊したとは思われない.
9世紀半ば,バーミヤンでの仏教の活動は終息していたけれども,仏跡は保持されていたと考えたい.
バーミヤンが最初の破壊を被ったのは,アッバス朝より独立し,地方の統治権をカリフより委譲された地方王朝の一つ,サッファール朝のヤクブによってであった.
ヤクブがバーミヤンを攻略したのはイスラーム暦257年(871年)から翌年にかけてだった.
そのときヤクブは大きな仏堂を打ち壊し,数々の偶像を掠奪してバクダッドに送ったという.
この時ヤクブが大仏の顔も削ったかどうかは明らかではない.
彼がバーミヤンの富裕に目をつけたことは事実だが,偶像破壊を目指したという確たる裏付けはない.
次いでバーミヤンは,首都をブハラに置くサーマーン朝の支配を受けたが,やがて,トルコ人奴隷から身を起こし,サーマーン朝のホラサン総督となり,王位継承を巡る紛争からアフガニスタンへと逃れたアルプテギンが建てたガズナ朝(962-1186)の支配下に入ることになる.
ガズナ朝2代目の英主サブクテギンの子がスルタン・マフムード(在位998-1030)で,アフガニスタンを名実共に支配下に置いた英傑だった.
イスラームの旗印を掲げ,幾度も西へ東へと遠征を行ったマフムードはまた,苛烈な偶像破壊者だったという.
バーミヤンの大仏が破壊の対象になったのは,マフムードの遠征のときではなかったか,というのが私の想像である.
しかし,イスラーム時代の地理学者ヤークート(13世紀)は,
「バーミヤンには円柱に支えられた堂があり,その壁にはアッラーの神が作りたもうた鳥にも似た彫刻が施されていた」
と,仏堂がまだ依然として美しく残っていたことを証言している.
バーミヤンの破壊を全てイスラームに帰することはできない.
大仏に再び破壊の手を下したのは,ムガール朝のアウラングゼーブ帝だったという.
バルフよりカブールへと退却の途中,ヒンドゥー・クシュ山中でハザラ族の迎撃を受け,バーミヤンにようやく辿り着いたアウラングゼーブは,「アランギル・パドシャー(イスラームの戦士)」の称号を辱めまいと,大仏に向かって大鵬を撃ち込んだ.西大仏の左右の足の破壊は,この砲撃によってなされたという.
1647年のことである.
いや,そうではなく,トルコ系アフシャール族のナーディル・シャーがアフガニスタンを征服したときの砲撃によるものだともいう.
そうだとすれば,1730年代のこととなる.
(前田耕作「アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン」,晶文社,
2002/1/20, p.123-124 & 196-199,抜粋要約)
【質問】
ガズニの戦勝塔とは?
【回答】
守屋和郎は次のように解説している.
これは979年出現したガズニ王朝の霸王マームードが,印度を劫掠したりした勝利を記念する爲に建てた六角の塔である.
2基あつて,ガズニの郊外の丘陵の坂の上に立つて居る.
何れも10世紀末のものらしいが,大きい方のは11世紀には入り,別の王の立てたものであらうとの説もある.
六角の塔は内部が粗末な煉瓦で之を石灰で固めて行つたものゝ樣である.表面にも煉瓦が出て居り,之がモザイックの模樣になつて居る.六角な面は直線になつているのではなく,面が凹んで居るのである.
大きい方の塔には,崩潰を防ぐ爲に後になつて雨覆を被せてある.
10世紀前後の囘教藝術品で梢粗野なものであるが,現代アフガニスタンに在つては最も古き囘教記念物である.
(「アフガニスタン」,岡倉書房,1941/11/15,\1.70(外地1.87),p.202)
【質問】
セルジューク朝はアフ【ガ】ーニスタンにどの程度のシマを持っとったんかいのう?
【回答】
トゥルクマーンの遊牧民,グズ部のセルジューク族に,それまでアフ【ガ】ーンを縄張りとしとったガズナ朝が敗れたんが,1040年のことじゃった.
同年,セルジューク族は都市ニーシャープールを奪い取り,ほいでガズナ朝との間に講和条約を結んで,手打ちとなった.
じゃけえ,アフ【ガ】ーン北部と西部はセルジューク朝のシマとなり,ヒンドゥークシュ山脈の東部と南部がガズナ朝のアフ【ガ】ーンでのシマとなったんじゃ.
いわば半分こにしたようなもの.
その後,ガズナ朝の歴代のスルターンは,インド北部征服には関心を示したものの,アフ【ガ】ーンの残りの部分を取り戻そうとはしなかった.
たいぎかったんかのう?
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青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜゴール朝(1000頃-1215)は,ヘルマンド河流域を徹底破壊したのか?
【回答】
ガズニ朝(977-1186)の補給源を絶ち,その復興を阻止するため.
ガズニ=ラシュ【カ】ルガー Lashkargah 地域,すなわちアフ【ガ】ーニスタン南半地帯こそ,ガズニ朝の命脈を最後まで支えた地域だった.
ラシュ【カ】ルガーはヘルマンド河流域の中心であり,ガズニ帝国の中で農業・興業・商業の最も盛んに行われたところであり,ガズニは,この地域をインド・中央アジアに結びつける扇の要に当たる地点である.ガズニ朝を興したマフムードをして,その大をなさしめた,そもそもの基地はヘルマンド河流域に他ならない.
ゴール朝は,この地域の重要性をよく知っており,ガズニ王朝を倒すに当たって,この基地を徹底的に破壊し,特にその灌漑施設に壊滅的打撃を与え,ガズニ王朝の後継者に復興の望みを絶たしめたという.
南アフ【ガ】ーニスタンの荒廃は,ここに始まる.
詳しくは
榎一雄『ヨーロッパとアジア』(大東出版社),p. 273
を参照されたし.
【質問】
アフ【ガ】ーンへの蒙古襲来について教えてください.
【回答】
歴史上,アフ【ガ】ーンに最も大きな損害を与えたのは何者か?
それはソ連軍でも米軍でもなく,モンゴル軍かもしれん.
チンギス=ハーンの軍勢は,1221年よりアフ【ガ】ーニスタンへの本格侵入を開始.
最低でも数十万の死をもたらし,イラン高原の殆どの都市をカンペキに破壊し,同地で農業に必須の灌漑水路をも,全面的に荒廃させちょった.
チンギス=ハーンの軍勢は,1221年よりアフ【ガ】ーニスタンへの本格侵入を開始.
バーミヤーンではチンギス=ハーンの曾孫の一人が殺されたことから,報復として文字通り「生き物をみんな抹殺」したんじゃ.
当時の記録によれば,飛ぶ鳥すら見ることがなくなったっちゅうけえの.
自発的に降伏しとったヘラートは,その後蜂起したもんの,モンゴル軍によって再占領されちょった.
そんときの死者は,イスラームの資料では160〜240万.
数字に誇張はあるじゃろうが.
アフ【ガ】ーンがモンゴル軍のくびきから解放されるには,チンギス=ハーンが死んで,その帝国が内部分裂しながら縮小しよるのを待たなんならんかった.
「お前ら,かまわんけ,そこらの都市,ササラモサラにしちゃれい」
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【質問】
蒙古に対するアフ【ガ】ーニスタンの抗戦は,どのようなものだったの?
【回答】
もちろん,アフ【ガ】ーニスタンも無抵抗でモンゴル軍の侵入を許したわけじゃない.
当時アフ【ガ】ーンをも縄張りにしとったホラズム・シャー朝が,抵抗を試みてはおる.
ホラズム・シャー朝の勢力もなかなかのもんで,中央アジアからイラン高原一帯を仕切っとった.
当時の王,アラーウッディンはチンギス・ハーンと誼を通じ,友好国,いわば兄弟のはずじゃった.
じゃけど1216年に,それを一変させる事件が起こる.
スィル川河畔のオトラルで,ホラズム・シャー朝のオトラル総督イナルチュク・ガイールが,モンゴルの派遣したショーバイ使節の一行400人を,殺害してその保持しようる商品を奪ったんじゃ.
使節を中央アジア侵攻のための密偵じゃろうと疑っての凶行じゃ.
モンゴルは,イナルチュクの引き渡しを要求.
じゃけどアラーウッディーンは,王族の外戚テルケン・ハトゥンの親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み,使者を殺害.
これによって戦争(でいり)となった.
1219年,親分(ハーン)自ら親征を開始.
サマルカンド,ブハラなんかの諸都市は次々に陥落し,アラーウッディーンは逃げて逃げ,最期はカスピ海の南東隅のアバスグン島で死んだ.
死亡年は1220年とも1221年とも言われちょる.
アラーウッディンの息子,ジャラール・アッディーンはアフ【ガ】ーニスタン東部でなお抵抗し,1221年10月,カーブル郊外のパルワーンにてモンゴルの先遣部隊を破った.
ヘラート蜂起は,この戦勝を受けて起きたもんじゃけえ.
その後,ジャラール・アッディーンは抵抗を続けながら次第に南に後退し,インダス川を越えて逃亡.
2年ほどインドに逗留した後,バローチスターンとイラン南部を経由して,イラクへ転戦.
さらにアゼルバイジャンを拠点として,1231年まで粘り強く抵抗を続けるんじゃけど,同年暗殺され,ここにホラズム・シャー朝は滅亡した.
「つまらん連中が上に立ったら,下のものが苦労し,流血を重ねたのである」
(『仁義なき戦い・完結編』冒頭のナレーション)
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【質問】
シャル・イ・ゾハクとは?
【回答】
バーミヤンの東15km,赤茶けた岩山の断崖の上にある山城.
これを巡る歴史的記録は16世紀になるまではないが,伝説はもっと古くから数々伝えられている.その多くはモンゴル軍襲来に関わるものである.
チンギス・ハンの孫ミュデュゲンが戦死したのは,バーミヤン攻めの前,この山城を攻めた折であったとか,シャル・イ・ゾハクの支配者の娘がイスラームの攻城軍の将と恋に落ち,城の水道穴の所在を自らの身を断崖の下へ投ずることによって教え,その穴を通って攻城軍が攻め入り,遂に不落の城を落としたとか,この城は「シカンダル(アレクサンドロスのことをイスラームでは常にこう呼んだ※)の築いたものであるとか,実に様々である.
しかし,実際にシャル・イ・ゾハクがいつ築かれ,そして破壊されたかは定かではない.
ゾハクという名がフィルドゥシーの「王書」に見えるアラブ系の暴君の名であることは,よく知られたところだ.
しかし何故,バーミヤンへの前哨地ともいうべきこの地が,「ゾハクの町」(シャル・イ・ゾハク)と呼ばれるに至ったかは,やはり不明.
イギリス人考古学者,ベイカーとオルチンの2人によれば,
これらの遺跡の建築や土器という物証から,様々な類似関係が見えてくるが,そこから明確な日付を引き出すことはできない.
しかし明らかなことは,シャル・イ・ゾハクとそれに繋がる,より小さい遺跡が,いずれも「前イスラーム期」の建造物であること,そしてそれらは紀元後1千年紀の中期のものであるらしいということである.
ここで言う「前イスラーム期」とは,バーミヤンがイスラームの手中に収められるのは,周辺の低地域が征服されたときよりもずっと後のことで,少なくともガズナ朝初期になってからであるので,遡って言う「前イスラーム期」のことである.
歴史的文献からすれば,バーミヤンが仏教王国として栄えたのは6世紀頃から8世紀まで,どんなに遅くとも10世紀までであろう.
大仏建立とその壁画については,なお決着はついていないが,6世紀が,あの素晴らしい芸術活動の結実を受け取ったとしよう.
これが仮説だとしても,前イスラーム期の後期,ずっとこの王国が土地のイラン系支配者の統治の下にあったと考えを進めることができよう.
こう考えれば,シャル・イ・ゾハク建設は,これらの土地の支配者の住居であったとすることもできよう.
さらに思いを巡らせば,これらの砦と城塞を兼ねた王宮が,バーミヤンの最盛期に建造されたということもありえよう.
また,ある建物は,バーミヤンが交易によって繁栄し始めたため,この地を治める支配者の重要性が増大したことの表れとして作られたとすれば,バーミヤンの最盛期に先立っていたとも考えられよう.
いずれにせよ,私達は,シャル・イ・ゾハクを,バーミヤンの半ば独立した支配者の,城塞化された住居兼砦とする考えを採りたい.
時は10世紀中要と考える.(「シャル・イ・ゾハクとバーミヤン渓谷の歴史」,1991)
(前田耕作「アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン」,晶文社,2002/1/20, p.101-105,抜粋要約)
※ちなみに,ダリー語ではアレクサンダレ・マ【ク】ドニと呼ぶ.
【質問】
チンギス・ハーン軍は,アフ【ガ】ーニスタンにどんな影響を与えましたか?
【回答】
広い地域に及ぶ人口減少,荒廃,経済的崩壊をもたらしました.
モンゴル軍は,1218年,突如トルキスタンを急襲,ホラズム・シャー朝を破ってボハラとサマルカンドを奪い,徹底的に掠奪.
1221年にはバルフを攻略,破壊し尽くすと共に住民を殺戮.
ヘラートはいったんは降伏して,モンゴル軍から寛大な扱いを受けたが,6ヶ月後に反乱を起こすと,速やかに制圧され,7日かけて住民全員処刑.
バーミヤンも破壊され,住民はやはり殺害.
ガズニ,ペシャワールも同じ運命を辿る.
しかし,チンギス・ハーン Genghis Khan
は,おそらくはインド平野の暑さが兵士に及ぼす影響を考慮して,パンジャブを越えはしませんでした.
この1世紀後にアフ【ガ】ーニスタンを通った,モロッコ出身の旅行家イブンバットゥータは,廃棄と化した無人のバルフ,一村落に成り下がったカーブル,荒廃したガズニを目にしています.
彼は,チンギス・ハーンが,柱の下に財宝が隠されていると考え,「世界で最も美しい」バルフのモスクを破壊したのだと伝えています.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.36-37,抜粋要約)
【質問】
ホラズム・シャーがアフ【ガ】ーニスタン東部まで縄張りにできたんは何でじゃ?
【回答】
簡単に言えば,ゴール朝が,版図を広げたはええが,広げ過ぎていっこもシマを統治できよらんかったけえ,氏族集団同士のケンカが絶えんと,分割されてしもうたせいじゃ.
ゴール人と,アフ【ガ】ーン人と,マルムークのそれぞれの集団が,後継者(あとめ)擁立争いを繰り広げた.
そんときホラズム・シャー朝は,アラーウッディーン・ムハンマドの下で勢いがてっぺんにあって,1204年,カラ・キタイ軍と連合して,ムイッズ・アッディーン率おるゴール朝軍を倒した.
ほいで1215年には,遂にゴール朝の最後(ケツ)のスルターン,アラー・アッディーン・ムハンマド4世を廃位させることにより,ゴール朝を滅ぼしたんじゃ.
その後,アラーウッディーンは,アラル海の南から中近東,インド亜大陸,中央アジアと中国の間で行われよった,みなの交易を支配しよる大帝国となっており,アラーウッディンがモンゴルとの間でケンカ起こさなければ,その支配が数年で終わることもなかったろう.
アラーウッディーンは,ほんまにいなげな事したのう.
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【質問】
ゴール朝って何?
【回答】
ここまで聞くと,ゴール朝は情けないように思えるが,こいつらも最初はなかなかどうして大したもんじゃった.
ゴール朝(グール朝)はヘラート東部の広がる山岳地帯の出で,そこは初期イスラーム時代の地理学者がゴール地方として紹介しとったシマじゃ.
ここを11世紀初め頃,ガズナ朝のマフムード王が侵略し,地元のシャンバーニー家を家臣,ほいで同地の代官とした.
じゃがガズナ朝がセルジューク朝に滅ぼされると,セルジューク朝のスルタン・サンジャルに朝貢しよるようなった.
じゃけどセルジューク朝がカラ・キタイに負けて勢力を減退しよると,1150年頃,ゴール朝の王イッズ・アッディーンの息子,アラー・アッディーン・フサインがアフ【ガ】ーニスタン東部や南部へ進撃を開始したんじゃ.
変わり身の早いやっちゃで.
そらサンジャルも怒って,戦争になるわな.
1152年,サンジャルはゴール軍を撃破して,アラー・アッディーンも捕縛され,ゴール朝の野望も挫折したかに見えた.
じゃけど今度は1153年,サンジャルがトゥルクマーンの遊牧民,グズ部との戦いに負けて,捕虜となり,勢力の空白ができたことから,ゴール朝はもいっぺんシマを拡大していき,1173年頃,グズ部にとられとった都市ガズニーを奪還.
ガズナ朝の最後(ケツ)の王を破り,最大でカスピ海から北インド深部にまで広がる広大な帝国を作り上げたんじゃ.
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青文字:加筆改修部分
【質問】
クシハール・ハン・ハタックとは,どのような活躍をした人物か?
【回答】
17世紀,パシュトゥン族の様々な部族が,ムガール帝国に反乱を起こすために度々協力し合っていたが,武人であり,詩人でもあるハタックは,それを鼓舞した.
以来,彼はアフガニスタン史では名誉ある地位を占めている.
それでもムガール帝国は,賄賂と抑圧を巧みに取り混ぜながら,不安定ながらも全体の領主権を維持した.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.44)
【質問】
ラフマーン・ババって誰?
【回答】
ラフマーン・ババ Rahman Baba こと アブドゥル・ラフマーン・ババ
Abdur Rahman Baba (1650-1715) は,17世紀のスーフィーであり,パシュトゥン人
Pashtun の間で最も著名な詩人.
ペシャワール南郊,バハダル Bahader 村の生まれであり,【ハ】リル・ムハンド
Khalil Muhmand 部族アブドル・サタールの子.
スーフィズム文化の神秘性を平和的に表現した作風で知られ,大英図書館などには彼の手書きの原稿が保存されている.
彼の墓所は詩人やスーフィーたちの参拝場所として人気を集め,毎年4月には記念行事が行われていたが,2009年,テロリストによって墓は爆破された.
google翻訳では「Rahmanさん馬場」と機械翻訳されるが,ジャイアント馬場とは関係ない.
【参考ページ】
・『ペシャワール会会報』vol.5 (1983年),pp.6-7
・http://en.wikipedia.org/wiki/Rahman_Baba
ラフマーン・ババ肖像画
(http://en.wikipedia.org/wiki/Rahman_Babaより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2011/02/24 20:30
を加筆改修
【質問】
アフマッド・【ハ】ーン,後のアフマッド・シャー・ドラーニは,なぜアフ【ガ】ーニスタン王国を建国できたのか?
【回答】
(1) アブダリー族の計算違い.
(2) 彼が人心掌握に長けていた事.
(3) 彼に有利な要素が幾つか存在していたこと.
元駱駝使いで山賊だったナーディル・クリー・【ハ】ーン・ペグは,ペルシャ王となった後,偏執的な残虐性ゆえ,1747年に傭兵隊キジルバシの部下達に殺害さる.
アブダリー族から成るナーディルの親衛隊は,これによって危機に陥る.キジルバシは数においてアブダリーを上回っており,アブダリーがナーディルの下で引き立てられていたことを深く恨んでいたからだ.
そこでアブダリー9亜族が集まったジルガは,当時,親衛隊を率いていたアフマッド・【ハ】ーンをシャーに選ぶ.
言い伝えによると,9日経っても議論がまとまらなかったとき,有名なダーウェシ(聖人)であるモハンマド・サビール・【ハ】ーンが仲裁に入り,アフマッド・【ハ】ーンを推したという.アフマッド・【ハ】ーンが躊躇すると,ダーウェシが再び仲裁に入り,近くの畑から取ってきたトウモロコシの穂を,儀式的にアフマッド・【ハ】ーンのターバンに載せ,彼をバドシャー,ドゥル・イ・ダゥラン(シャー,この時代の真珠)と宣した.
もっと現実的な考え方をすれば,アフマッド・【ハ】ーンは次の2つの理由からシャーに選ばれたと思われる.一つは,彼がナーディルの強力な親衛隊のリーダーだったこと,もう一つは,年が若く,ポパルザーイーという小さな亜族に属するサドザーイー家の出身だったことである.もっと有力な亜族から指導者を出すよりは操縦し易いと思われたのだろう.
もしそうであれば,アブダリー族はアフマッド・【ハ】ーンを見くびっていたことになる.
人心掌握に長けた彼は,アブダリー族の評議会を設け,平等な者達の代表者として意見を求めると同時に,パシュトゥンの他の部族に対しては懐柔的態度を取った.
また,パシュトゥン族の忠誠を維持するには,戦争と略奪の機会を作るのが一番である事も,良く心得ていた.
彼に有利な要素も幾つか存在していた.
アブダリー族のライバルに当たるキルザーイー族が,ペルシア侵略によって弱体化し,アフマッド・【ハ】ーンの支配に服従していたこと.
ナーディル・シャー亡き後のペルシアが混乱に陥っていたこと.
ムガール帝国崩壊が進んでいたこと.
アフマッド・【ハ】ーンの手には,この地域で最も優れた戦力と,コー・イ・ヌールと呼ばれるダイヤモンドを含む,ナーディル・シャーの大量の財宝があったが,更に幸運なことに,カンダハールを通ってペルシアへ向かっていた隊商まで捕らえることができたこと.この隊商は,インドからの財宝を積み,ナーディル・シャーの死を全く知らずにペルシアに戻ろうとしていた.これでアフマッド・【ハ】ーンは,兵士に報酬を支払ったり,ライバルの政治勢力や部族を懐柔したり,軍資金にしたりするための財源を得たのである.
ちなみに,ドゥル・イ・ダゥランという肩書きをアフマッド・【ハ】ーンが得たことを受け,アブダリー族はドラーニと名乗るようになった.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.46-48,抜粋要約)
【質問】
パニパットの戦いとは,どんな戦いだったか?
【回答】
インド大陸におけるアフマッド・シャーの領土が,南から前進してきたマラータ族の軍によって脅かされたため,2年に渡って戦ったが決着がつかず,遂に1761年,パニパットで対決したものである.
両軍の兵士はそれぞれ8万人に達したかも知れず,前線は長さ13kmに及んだ.
最初はマラータ軍がアフ【ガ】ーン軍の防御線を破りそうだったが,数時間の戦闘の後,アフマッド・シャーが率いる猛烈な逆襲により,突然マラータ軍は崩れた.この後のマラータ軍と非戦闘員の敗走および大虐殺は,壮絶なものとなった.
しかし,アフマッド・シャー軍は戦利品を持って山岳地帯へ退却し,パンジャブに力の真空地帯を残して行った.
この真空地帯を間もなく埋めるのが,シク教徒である.
1760年代,アフマッド・シャーは何度もインドに戻り,シク教徒を破っているが,勝利を確定することはできず,アフマッド・シャーが退却するたびに,シク教徒は力を盛り返した.
もしマラータ軍が勝っていれば,これ以降もかなりの軍事力を保ち,シク教徒勢力出現や,その後の英軍のデリーおよびパンジャブ侵攻を妨げた可能性も十分ある.
1772年,外征に疲れていたアフマッド・シャーは,50歳の若さで死んだ.顔の癌だったようだ.
彼はカンダハールの霊廟に埋葬された.霊廟は今でも人々の崇拝を集めている.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.50-51,抜粋要約)
【質問】
ペルシアのシャー(王),モハムメド・ミルザは,ロシアの支援を受けていたのに,なぜヘラートを占領できなかったのか?
【回答】
シャー=ロシア側の作戦の不手際と,英国の介入による.
1830年代,トルコマンチャーイ条約によりペルシアのシャーを従属状態に置くと共に,この地域で支配的立場を得たことで自信を得たロシアは,東方に目を転じ,シャーを唆して,シャーが領有権を主張していたヘラートを占領させようとした.
しかし,当のシャーと,その跡を継ぐと目されていた者の死によって計画は遅れ,ミルザがヘラートの前に到着したのは1837年11月だった.一般に,シャーは,ヘラート攻略後,カンダハールを狙っていたと考えられている.カンダハール・サルダール(サルダールは『族長』の意味.プルディル・ハンを頭とする5人のディール兄弟,およびその子孫のこと)からは,既にシャーに対して提案がなされていた.
シャーの軍には,ロシアから宮廷に派遣されたペルシア使節シモニッチ伯の他,隊外勤務を命じられたロシア士官数名,それにポーランド人のベロウスキイ「将軍」率いるロシア脱走兵の一連隊が同行していた.
全員が力を合わせれば,殆ど難なくヘラートを占領できたはずだが,ロシアがついていながらも,包囲は不手際だらけで,約8ヶ月後になっても防衛側が何とか持ち堪えている状態だった.
その一因は,ベンガル砲兵隊の士官エルドレッド・ポティンジャーがたまたまヘラートにいて,この都市の防備を強化できたからかもしれない.
1838年6月,ついに英国は腰を上げ,インドからペルシア湾のカーグ島の小隊を上陸させた.
その上で英国使節ジョン・マクニールがシャーに対し,ヘラート占領を行えば,
「英国に対する敵対的な威嚇行動」
と見なすと告げ,カーグ島の軍隊が「英国の名誉を守るために進めている措置を中止」して欲しければ,直ちに退却せよと迫った.
はったりと武力外交を組み合わせたこの作戦に,シャーはあっさり屈したのである.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.70-71,抜粋要約)
【質問】
なぜ第1次アフ【ガ】ーン戦争を英国は起こす気になったのか?
【回答】
ロシアがペルシアとアフ【ガ】ーニスタン双方に干渉していたのは明らかで,しかもペルシアとカンダハール・サルダールの間に協定があり,ロシアがそれを保証しているという報告まであったため,インド総督,オークランド卿ジョージ・イーデンは積極政策に転じた.
彼は,シャー・ジュシャーの復位を画策した.彼は難なく復位するだろうというのが,オークランドの顧問達の一致した意見だった.どうしてアフ【ガ】ーン人が,敵であるシク教徒の侵略に屈するのか,どうして一度ならず国から追放したサドザーイー族の「老いぼれ傀儡」の支配を受け入れると彼らが考えたかは,何も説明がない.
1838年晩夏,なぜか理解しがたいことに,この企てに英軍を投入すべしという決定に至る.
考えられる理由は,インドの最高司令官サー・ヘンリー・フェイン将軍が,シャー・ジュシャーと協定を結んでいるシク教徒指導者ランジート・シンを,信頼に足る人物とは全く見なさなかったこと,もし手を染めるのなら,中途半端ではいけないと強硬に主張したことにあるかもしれない.
またシク教徒軍は,少なくとも閲兵場では,東インド会社軍に比べてさほど見劣りはせず,もし独力でアフ【ガ】ーニスタンを支配下に置けたなら,北インドにおける英国の地位を脅かすに十分な力を持つようになるかもしれない,と心配したのが,もう一つの理由だろう.
さらに,シャー・ジュシャーの新米軍隊の経費を払うより,英軍を使うほうが安上がりでもあった.
加えて,オークランドが非公式の書信にしたためているところによれば,目的は
「西からのあらゆる侵略に対する難攻不落の,そして望むらくは永続的防壁を作り上げ,英国の中央アジアにおける影響力を維持し,拡大する基盤を確立すること」に変わっていった.
かくて1838年の12月,この大所帯の,2万からなる「インダス軍」は侵略の途についたのだった.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.82-86,抜粋要約)
Anglo-Afghan War
(画像掲示板より引用)
【質問】
第一次アフ【ガ】ーン戦争でイギリス軍が負けたのはどうしてですか?
【回答】
第一次アフ【ガ】ーン戦争は冬にかかってしまい,地形条件が高地故に冬が厳しく,補給部隊が山道に入って難渋している所で地元諸部族の略奪を受け,壊滅.
英国軍は補給物資が足りなくなった為に,一時撤退しようとするが,その際に各部族から攻撃を受けてほぼ全滅している.
要は地元部族の懐柔に失敗し,補給路が確保できず,尚かつ地理的条件が伴わなかったために撤退,敗北したと言える.
英側の政治的判断ミスと軍事的無能のため.
英軍は,インド情勢に鑑みて,カンダハールに1個師団,カーブルに2個旅団を残し,残りは全て撤退していた.
カーブル駐屯部隊は,「カーブルが英国管理下にあり,駐屯軍が永遠に駐留し続けるかのような印象を与える」として,明らかに最適地だったバラ・ヒサールではなく,脆弱な新造宿営地に移っていた.
1841年10月,ロンドンのトーリー党政府は,支出削減を決定.その結果,駐留軍の規模を更に縮小され,キルザーイー族への報奨金も中止される.これがギルザーイー族の離反を招く.
11月2日,カーブル使節アレクサンダー・バーンズが暴徒に殺害され,これに対する有効な報復が行われなかったことが,英軍占領に反対する者,もしくは手っ取り早く略奪に加わろうとする者を勇気付けた.
市内にあった穀物貯蔵庫は,勇敢な抵抗の後,放棄された.
物資の不足と迫り来る冬の緊迫感の中,休戦交渉が始まったが,トルキスタンに住んでいた,ドースト・ムハンマドの息子,ムハンマド・アクバルが,反乱の指導者として到着すると,反乱側は態度を硬化させていた.
1月始め,アフ【ガ】ーニスタンからの安全な撤退を保証する条約が,ギルザーイー族の首領との間に締結されると,4500名の部隊と1万2000名の非戦闘従事者は,ジャララバードへ抜ける峠を目指し,宿営地を出発する.
最初の峠クルド・カーブルまで来たときには,厳しい寒さのため,多くの死者を出しており,シャー・ジュシャーの分遣隊は,その多くが逃亡していた.
次の日,条約に反して敵が峠を抜けて大挙して襲い掛かってきたため,更に3000名が死亡.
その後も逃亡,寒さ,ギルザーイー族の攻撃による被害が続き,出発4日後に苦難の行軍を続けているのは,120名の英国兵と2000名の非戦闘員だけとなった.
その2日後,僅か80名が遂に安全地域へと辿り着いたが,ガンダマクでの最後の戦闘で,その人数は更に20名にまで減った.騎乗の将校6名が逃げ延びたが,その内5名は後に捕らえられて殺され,たった1人の男性,軍医のバーデンが負傷しながらも,瀕死の馬に跨り,同行者を叱咤激励しつつ,ジャララバードに辿り着いた.
数日間というもの,昼夜を問わず,ジャララバードの駐屯地では明かりを灯し,15分置きにラッパを吹き鳴らしたが,その後,生存者は一人も到着しなかった.
カーブルからの退却者の内,生存者はバーデン医師1人のような印象を与えるが,実際は翌年,100名以上の英国人捕虜が「報復部隊」により救い出されている.このとき,インド人傭兵と非戦闘員も合わせて2000名救出された.
その他にも時間が経ってから姿を現した者が多少いるが,残りは二度とインドへ生還できなかった.
1920年代,カーブルの英国公使館員が,2人の高齢の女性と引き合わされる.2人はこの退却の生存者で,赤ん坊の時,現地の家族に救われ,育てられた人達だった.全生涯をアフ【ガ】ーニスタン人として生き,年老いて同国人に会いたいという希望を抱いたのだ.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.91-95,抜粋要約)
【質問】
親英派だったアブドゥラーマンが,次第に反英になった原因は?
【回答】
モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=によれば,アブドゥラーマンは強力な国家の樹立を望んでいた.
しかし,英国はアフガニスタンをインド防衛のための緩衝国として維持したい姿勢を変えなかった.
そのため彼は英国に対し,不満を抱くようになったという.
以下引用.
――――――
アブドゥラーマンはロシアに長いこと亡命していたことがあるが,露西亜を憎んでいた.
ロシアの拡張主義を警戒し,イギリスから毎年,武器の無償援助を受けていた.
〔略〕
アブドゥラーマンは実は,現状に満足していたわけではなく,強力なアフガニスタン国家の樹立を望んでいた.
そのためイギリスにより多くの財政的・軍事的援助を求めた.
だが,アフガニスタンをインド防衛のための緩衝国として維持しておきたかったイギリスは,この要請に応じようとはしなかった.
アブドゥラーマンは,こうしたイギリスの冷淡さに,どぎついジョークで答えたことがある.
彼がイギリス政府の招待を受けたとき,息子のナスルラー王子をロンドンに派遣した.
そのときビクトリア女王に,宝石をちりばめた裁縫箱に金の針,指貫,はさみ,糸巻を入れて送ることにした.
このような道具は大帝国の偉大な支配者に必要であろうはずがない.
彼はその疑問に答えて,
「彼女は女であろう.それなら,これが彼女の本当の仕事なのだ」
と言った.
そればかりでなく,ナスルラー王子の訪問団に対し,ロンドンではあらん限りの粗暴な態度をとってこいと厳命した.
それによってアフガニスタンをイギリスに印象付けようとしたのである.
訪問団は命令された通り,バッキンガム宮殿で水ぎせるの灰をまきちらし,吸いかけのタバコをじゅうたんや磨きあげた床に投げ捨てた.
宿舎でも,噛みたばこを壁や床になすりつけて汚しまくった.
イギリスのジャーナリズムはこぞって,この「未開人的行動」を書きたてた.
もちろんこの訪問は,なんの成果も挙げなかった.
――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.21-22
【質問】
第2次アフ【ガ】ーン戦争は何故始まったのか?
【回答】
ロシアの南下政策に対する英国の懸念から.
国王シェール・アリと,英国との関係が徐々に悪化していき,またボハラ,サマルカンド,ヒワへとロシアが進攻することで,ロシアに対する懸念が英国に大きくなる中,ストリアトフ将軍を長とするロシア使節団が,防衛用であると同時に攻撃用でもある条約,ロシアのアフ【ガ】ーニスタン領内への配備,道路と通信線の建設許可などを申し込む書簡を持ってカーブルに向け出発.同時にロシア軍がトルキスタンに配備される.
シャール・アリはロシアの強引さに押されて不承不承カーブルに使節団を受け入れる.
それに対抗して,インド総督であり,生粋の外交官にして,衝動的で偏狭,尊大な考え方の持ち主であり,「前進政策」の強固な擁護者であるリットン卿も,英国使節団をカーブルに受け入れるよう主張し,使節団が既に出発したことを知らせる書簡を送った.
シェール・アリもロンドンも対立を避けようとしたが,リットンは政府の指示を無視して強引にことを運んだ.
1878年9月21日,使節団のルイス・カヴァナリ少佐はハイバル峠で追い返される.
ロンドンでは,ロシアとの関係改善を図っている今,アフ【ガ】ーニスタンで事を起こすのは非常に愚かだという見方が一般的だった.
しかし,今や国家の威信が危うくなっていると見たディズレーリ内閣は,開戦を決意するに至る.
アミールに謝罪と外交使節の常駐を求めるようリットンに指示が送られ,リットンはシェール・アリに3週間後の回答を要求する一方,軍事的準備を進めていった.
当時の通信状況を考えれば,とても回答は不可能と思われる3週間で返答が帰ってこないと,リットンは宣戦布告した.
このようにして,頑迷な総督と優柔不断な内閣が,アフ【ガ】ーニスタンとの2度目の対決を生み出し,結果としてそれは,1度目に劣らぬ手痛い失策だったことが明らかになっていく.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.109-114,抜粋要約)
【質問】
第2次アフ【ガ】ーン戦争の勝敗は?
【回答】
戦闘においては,英軍は苦戦したが,戦局有利の内に終結.
政治においては英国の保護国化.
最後通告の期限が切れるとすぐ,3方面で前進命令発令.
ハイバル峠を越えて前進を開始したのは,サミュエル・ブラウン将軍率いる15000名の部隊.この将軍は,今でも彼の名が冠せられている軍用ベルトを発明,不死身と称された人物でもある.
作戦開始時,ブラウン隊は惨澹たる状況に見舞われ,アリ・マスジド砦への攻撃は,失策続きの混乱の内に行われたが,それでもアフ【ガ】ーン軍は結局退却,12月20日,ジャララバードは陥落した.
ボラン峠とクエッタを通って進軍した第2の部隊は,ドナルド・ステュアート将軍率いる1万2000名.1月初めにカンダハールに着いてみると,アフ【ガ】ーンの守備隊は逃げた後だった.
クラム谷を目指した,フレデリック・ロバーツ将軍(後の,カンダハールのロバーツ卿)を指揮官とする第3の部隊は,谷の先端の峠ペイワン・コタルの攻略で,激しい抵抗に遭遇した.
しかし,正面攻撃に掩護されながら,困難な側面迂回を成し遂げたため,アフ【ガ】ーン軍陣地を砲撃できる位置を占めることに成功し,アフ【ガ】ーン軍は混乱の内に退却した.
ヤクブ・ハンがアミール(国王)に擁立されたが,ヤクブ・ハンの兄弟であるアユーブ・ハンが連隊を率いてヘラートからカーブルに到着すると,不穏な造反の兆候を見せ始める.
9月3日,彼らはバラ・ヒサールで,賃金未払いに対して示威行進し,一部しか支払われないことが分かると,それは暴動へと発展した.英国特命全権大使ルイス・カヴァナリ少佐を含む駐在官所の館員は,数時間の内にほぼ一人残らず殺害された.
虐殺事件当時カーブルに呼び寄せ可能な部隊はロバーツ隊だけだった.10月1日には,7500名の部隊がシュターガルダン峠を越えてロガー谷に至り,同地で逃亡中のヤクブ・ハンと遭遇.
その後,ヤクブ・ハンは退位してインドに亡命,1923年に同地で没した.
「アフ【ガ】ーニスタンの支配者になるくらいなら,英国軍駐留地の草刈り人夫になったほうがましだ」
と語ったという.
ロバーツ隊はカーブルに向けて進軍し,カラシャブで砲兵隊と不正規兵を含む大軍の抗戦に出会った.激戦の末,峠は確保され,9日にロバーツ隊はカーブルに入城した.
カーブルでは多くの人が逮捕され,軍事法廷で裁かれた.この恐怖政治は非難の的となった.
第1次アフ【ガ】ーン戦争のときは,アフ【ガ】ーン側の抵抗勢力が結束し始めるのに2年かかったが,今回は数週間しかかからなかった.
ムシク=イ=アラーム「宇宙の芳香」の名で知られる,ギルザーイー族の高齢で声望あるムラー,ミール・ディン・ムハンマドからの聖戦の呼びかけに,民衆は奮起した.
12月始め,部族勢力に支援された別々の2つの部隊が集結中の情報を得たロバーツは,各個撃破をしようと2つの部隊を送り出したが,アフ【ガ】ーン側は英軍主力部隊を巧みにかわし,野戦砲を4門だけ装備した騎兵300の部隊を,1万の軍勢で突然包囲.
英軍は大砲を捨てて死に物狂いで血路を開き,その場に居合せたロバーツは,斬りつけられながらも辛うじて逃げ延びた.
折よく援軍が到着したため,破局は避けられたが,アフ【ガ】ーン軍が英軍の裏をかいたという事実が,数千人のアフ【ガ】ーン人を奮い立たせて戦いに身を投じさせた.
カーブル周辺の山々での,いつ果てるとも知れない戦闘が数日続いたが,結局ロバーツはカーブル市を捨てて宿営地に退却することにした.
アフ【ガ】ーン軍司令官モハムメド・ジャンはロバーツに,ヤクブ・ハンを復位させ,英国人将校2人を人質として引き渡すことを条件に,インドに退却するよう勧めた.
しかしロバーツは,1842年冬の退却を繰り返す危険を冒すよりは,残って戦うことを選び,シェルプールで防備を固めた.
12月23日,アフ【ガ】ーン軍は英軍宿営地を猛攻.攻撃は数時間続いたが,さしたる困難もなく撃退する.英軍側の死者11名,負傷46名に対し,アフ【ガ】ーン側は少なくとも3000名の死傷者を出したと言われる.
翌日,英軍騎兵隊が偵察に出ると,アフ【ガ】ーン兵はそれぞれの部落へと散り散りに逃げ戻ったようで,山野に人影は見当たらなかった.ロバーツはカーブルを再占領し,かなりの数の部族長に大赦を与えた.
増援がカーブルに到着し,1880年春,ステュワート将軍がカンダハールから進軍し,ロバーツから指揮権を委譲された.
ステュワート将軍の行軍は,平穏無事と言うわけではなかった.部族民の襲撃に遭い,用心深い距離を置くハザラ族の集団に付き纏われた.ステュワートが通過したアフ【ガ】ーン人部落を,この男達は略奪し,焼き払っている.
ガズニから約20kmのアーメッド・ケルでは,インド・ラシカー(土民兵)の部族が大挙して襲撃.数千人のガジ(訳注;異教徒と戦い,相手を殺すことを誓ったイスラーム戦士のこと)の猛攻に英軍は混乱状態となり,一時は敵がステュワート将軍と幕僚まで数メートルまで近付いて,幕僚達は剣を抜いて自ら戦う準備を整えるまでになった.
遂に攻撃が撃退された後,原野には1000に及ぶアフ【ガ】ーン人の死体が残されていた.
7月27日,ヘラートめざして進撃してきた,アユーブ・ハン率いるアフ【ガ】ーン軍を英軍はマイワンドで迎撃.
このときばかりは,英軍の火力は,数で勝るアフ【ガ】ーン軍を撃退するに十分でなかった.
また,アユーブ・ハンは敵将バローズ将軍に戦略で勝り,30門を越す大砲の使い方も巧妙だった.
戦いに続く潰走で,英国兵とインド兵からなる兵力2500名の英軍の内,1000名近くが戦死.もしアフ【ガ】ーン軍がさらに攻撃していたら,間違いなくもっと多くの損害が出ていただろう.
敗残兵はカンダハールに退き,市街から全てのアフ【ガ】ーン人を追い出して攻囲に備えた.
一方,カーブルで指揮権を取り上げられたことに不満を抱いていたロバーツは,カンダハールへの救援を嬉々として引き受け,1万の精鋭部隊と共に出発して,かの有名な強行軍を行った.2つの市の間の500kmあまりをきっかり20日で,つまり夏の最中に1日平均25km進んだわけだ.行軍中に攻撃されなかったことも幸いしたが,隊の秩序と規律は称賛に値する.
カンダハールに到着すると,守備隊と共に出撃し,アユーブ・ハンに決定的な敗北を与え,戦闘行為に関しては,これでこの戦争は終結する.
1880年4月,シェール・アリ〔ガズニ総督〕の甥のアミル・アブドラハマン・【ハ】ン(アブドゥル・ラフマーン)と英国は接触,英国は彼をアミールとして認める代わりに撤退交渉を開始.英国はアフ【ガ】ーン占領の経費が負担になっていた.
英国はアフ【ガ】ーニスタンの国内問題に干渉しないこと,カーブルに英国外交使節は駐在しないこと,謂れのない侵略に対しては支援が与えられること,アフ【ガ】ーニスタンは英国以外のどの国とも政治的関係を持たないこと,カンダハールは独立を保ち,ガンダマク条約で英国に割譲された領土は,そのまま英国の支配下に置かれること,が決められ,英軍はインドへ帰還した.
経済が酷く混乱し,人口と財力が大きく削がれたアフ【ガ】ーニスタンには,カーブルに,いまだ全国土を掌握したとは言えないアミル・アブドラハマン・【ハ】ンが王として残された.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.116-127,抜粋要約)
【質問】
マイワンドの戦いとは?
【回答】
1880/7/27,第2次アフ【ガ】ーン戦争において,アユブ・ハーン王子率いるアフ【ガ】ーン軍が,ジョージ・バロウズ准将率いる英軍に対し,カンダハールから40マイル西方のマイワンドにおける野戦で決定的な勝利を収めた戦い.
指揮が巧みなことと,戦闘開始前に高所を奪取したことが,アユブ・ハーンの勝利につながった.
また,砲力も英軍の12門に対し,30門と勝っていた.
戦いに続く潰走で,英国兵とインド兵からなる兵力2500名の英軍の内,1000名近くが戦死.
もしアフ【ガ】ーン軍がさらに攻撃していたら,間違いなくもっと多くの損害が出ていただろう.
詳しくは上記項目,および『アジアの二つの日出ずる国』(ハルン・アミン著,駐日アフガニスタン大使館,2007),p.16を参照されたし.
【質問】
アミル・アブドラハマン・【ハ】ンが,ギルザイ人などの部族数千人を,彼らが昔から拠点としていたカーブル南西部からヒンドゥクシュ北部へ強制移住させたのは何故か?
【回答】
2つの狙いがあった.
まず,叛乱の起こりそうな地域から反体制勢力を除き,再び彼らの影響が及ばないようにしたこと.
そして,彼自身に忠実な軍隊を作り出すこと.
ギルザイは古来の領地では反ドラーニー派だったが,北部の非パシュトゥン人地域の中では親パシュトゥン派にならざるをえないのである.
なお,それまでの支配者においても,強制移民による敵の排除は行われている.
(Assistant Professor L. P. Goodson 「アフガニスタン 終わりなき争乱の国」,原書房,'01,P.68-69,抜粋要約)
【質問】
英国の勢力圏に入る以前のパキスタン・アフ【ガ】ーニスタン国境地帯の状況は?
【回答】
木村郁夫によれば,18世紀末には,アフ【ガ】ーニスタンのDurani王国から独立したシーク(カシミール,パンジャブを含む),シンド,ケラット等の部族独立国が存在していたという.
また,チトラル地方などのインダス川右岸の山岳地帯は,宗主権はアフガーン王にあったが事実上,支配力は及んでおらず,険峻な山脈の間には,各種遊牧部族が蟠居していたという.
詳しくは 『ヒンズー・クシュ,カラコルム研究誌』(高木泰夫編,日本ヒンズー・クシュ,カラコルム会議,1980/12/10),p.
を参照されたし.
【質問】
パキスタン北西辺境州は,どのようにしてできたのか?
【回答】
木村郁夫によれば,1893年にいわゆるデュランド・ライン
Durand Line が決定され,アフ【ガ】ーニスタンと英領インドとの間で国境が確定したが,これはインドが実効支配できていた領域とは必ずしも重ならなかったという.
統治されている地域とそうでない地域の境界は,統治境界
Administerd Border と呼ばれ,デュランド・ラインと統治境界の間の中間地帯は,部族などの反撃で事実上,部族の独立状態に置かれ,これが独立部族地帯
Independent Tribal Zone または未統治地帯
Unadminitered Zone と名づけられたという.
この地域は現在の北西辺境州の3分の2を占めていたという.
詳しくは 『ヒンズー・クシュ,カラコルム研究誌』(高木泰夫編,日本ヒンズー・クシュ,カラコルム会議,1980/12/10),p.121を参照されたし.
そしてこの状態が,パキスタン独立後もほぼ続いている模様.
【質問】
19世紀末のチトラルを巡る英軍の動きについて教えられたし.
【回答】
木村郁夫によれば,1880年末のロシア軍のヨノフ大佐や1890年のグロムチェフスキイ大尉のチトラル探検に示されるロシアの進出に対し,英国は同地方の各汗国を帰順させることによって,それを防ごうとしたのが始まり.
まず1889年,アルジャノン・デュランド大佐を特務官に任命し,ギルギットに特務機関
Political Agency を設置.
1890〜92年にかけてスリナガール〜ギルギット間に道路を建設.
1891年からはインド政庁派遣の遠征軍が,フンザ,ナガール地方を征服して,漸次チトラル方向へ侵攻した.
1892年にはチトラル太守のアマン・ウル・ムルク死去後の後継者争いに英国は便乗し,ネイザ・ウル・ムルクを後押しして太守の座に就けた.
同年,クッラムに特務機関設置.
1894年12月,ペシャワールの弁務官リチャード・ウドニー卿は,ジャララバード駐留のアフガーン軍総司令官ゴラム・ハイダルとの間で,ハイバル峠のランディ・ハーナからモーマンド,バジャウール,アスマルまでの国境線確定に着手.
一方,アフガーン人で密輸の首魁ウムラを,ゴラム・ハイダルに討たせた.
しかししばらくして再び力を得たウムラを見たアフ【ガ】ーン王アブダル・ラーマンは,1895年1月,国境部族地帯ヤーギスタンを制圧しようと進軍させた.
同月,ネイザは暗殺され,アフ【ガ】ーンはシール・アフザルをチトラル太守に据える.
ロバートソン大佐指揮下の英軍は,チトラルに来援し,ウムラと対戦したが敗北し,3月始めから4月末までチトラルの町は包囲される.
その後,キリー大佐の手兵650によってロバートソン大佐は救出.
さらに,ロバート・ロウ将軍指揮下の兵士15000によって,ウムラの勢力は一掃され,シャウジア・ウル・ムルクをチトラル太守に擁立.
ドロッシュ駐屯の英印正規軍の他,地元民より成るチトラル義勇軍
Chitral Scout 1000人,および太守親衛隊3000人を組織し,守備隊を強化した.
1895年8月,ヤーギスタン経由でチトラルに至る軍用道路を,インド政庁は完成させる.
1895〜1896年,マラカンドおよびワジリスタン各地に特務機関設置.
1898年,反英部族討伐作戦終了.
その後,治安は比較的安定したものの,時に部族討伐作戦なども行われ,そしてインド・パキスタン独立に至る.
詳しくは 『ヒンズー・クシュ,カラコルム研究誌』(高木泰夫編,日本ヒンズー・クシュ,カラコルム会議,1980/12/10),p.122-123を参照されたし.
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンにおける日英共同作戦案とは?
【回答】
元陸上自衛隊幹部学校研究員の高井三郎によれば,これは日露戦争後間もない1907年5月,日英同盟に基づく軍事協定の審議の場において,英国側から提案されたもので,有事の際に,日本陸軍約3個師団をカラチ港に揚げ,クエッタ経由でカンダハールへ北進させ,ペシャワールからカーブルに向かう英軍と共同作戦をする,という内容.
日本軍の海上輸送用船舶14万トン,および現地到着後の輸送力,物資などの兵站支援は英軍が提供するとした.
しかし日本側は,日本軍の能力を超えるとして,これに応じなかったという.
詳しくは,『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9)の「解説」(p.227-228)を参照されたし.
【質問】
日露戦争はアフ【ガ】ーニスタンにどんな影響を与えたのか?
【回答】
ハビブラー国王は日露戦争に関するトルコ語の本を,民族主義者のジャーナリスト,マフムード・タルズィーにダリー語訳させたが,これは国王のみならず,知識人の間で広く読まれ,近代主義者および民族主義者双方が,深く感銘を受けたという.
その後,ロシア革命がアフ【ガ】ーニスタンにおいても政情不安を増大させ,民族主義および改革主義の勢いを強めたという.
しかし最も民族主義の即座の高揚の引き金になったのは,ハビブラー国王が協議さえも受けなかった,1907年の英露協定だったという.
詳しくは『アジアの二つの日出ずる国』(ハルン・アミン著,駐日アフガニスタン大使館,2007),p.21-22を参照されたし.
【質問】
第1次大戦中の同盟国軍によるアフ【ガ】ーニスタン遠征について教えられたし.
【回答】
David Fromkin によれば,戦争当初,同盟国軍はアフ【ガ】ーニスタンに陸路4つの遠征部隊を送り込んだが,ドイツ軍とトルコ軍,またドイツ軍将校同士のいさかいが災いし,カーブルに到達できたのは1個部隊だけだったという.
ドイツ軍はカーブルに6ヶ月とどまり,ハビブラー国王に対し,ドイツと組んで英国と戦うよう説得したが,国王は,同盟国軍がアフ【ガ】ーニスタンに部隊を展開し,自分の対英戦争が確実に成功するよう保証してくれなければ行動を起こさないと答えた.
これは同盟国軍にとっては無理だったので,アフ【ガ】ーニスタンは参戦しなかったという.
詳しくは『平和を破滅させた和平』上巻(David Fromkin 著,紀伊国屋書店,2004.8.31),p.329-330を参照されたし.
▼ また,『アジアの二つの日出ずる国』(ハルン・アミン著,駐日アフガニスタン大使館,2007),p.24-26
によれば,この遠征部隊は
ヴェルナー・オットー・フォン・ヘンティッヒ
Hentig 中尉
オスカー・フォン・ニーダーマイヤー Niedermayer
中尉
に率いられ,
カジム・ベイ(オスマン帝國)
ラジャ・マヘンドラ・プラタップ(インド人ヒンドゥー教指導者)
マウラナ・バラカトゥッラー(インド人イスラーム指導者)
が同行していたという.
イランのマシュハドにあった英国領事館は,この遠征隊について通報を受けており,遠征部隊がアフ【ガ】ーニスタン国境に到着したときには,装備や制服は全て奪われていたという.
また,英軍は大規模な分遣隊を対アフ【ガ】ーン国境沿いに配置したという.
彼らは軍事・金融支援を約束し,アフ【ガ】ーニスタンの参戦を促したが,ハビブラー国王は積極的中立に基づく駆け引きで時間を稼ぎ,勝敗がはっきりするまで成り行きを見守ることにしたという.▲
【質問】
なぜ第3次アフ【ガ】ーン戦争は始まったのか?
【回答】
アマーヌラー国王の挑発による,とSir M.
Ewansは説明している.
彼は英国へのジハードを宣言するときが来た,と謁見で述べ(1919年5月),同時にアフ【ガ】ーニスタン軍が国境地帯に展開,小部隊がハイバル峠近くの部落を占拠した.
その地点からは,ランディ・コタル駐留の英軍への水の供給をコントロールできた.
速やかに断固とした行動を起こさない限り,多くの部族が蜂起し,手に負えない状況になるだろうということが,デリー当局者の目には明かだった.
そこで英軍が投入され,第3次アフ【ガ】ーン戦争が始まった.
アマーヌラーが戦争を挑発した動機については,
・「前アミール〔国王〕殺害についての真相究明ぶりから,民衆が現アミールに不快失望を抱いたことは明らかである.自分の地位を維持するのが難しいことに気付いたアミールは,酷く誇張されたインド動乱の話に勢いづいたせいもあり,自分自身への反乱を回避するために,インド征服も簡単だろうという見込みに乗じて,聖戦を宣言する気になったのだろう」(インド総督チェルムスファードの報告)
・アマーヌラーは何はともあれ愛国者であり,母親と外相マフムード・タルジから反英感情を吹き込まれて育ち,英国にアフ【ガ】ーニスタンの独立を認めさせたいだけでなく,アフマッド・シャー・ドラーニの時代にアフ【ガ】ーニスタン王国の領土だった,デュランド・ラインとインダス川の間の地域を取り戻したいという野心に燃えていた.
・汎イスラーム主義の考えを強く持っており,自らをインドのムスリムの擁護者と任じていた.インドのムスリムの間では,カリフを頂くトルコが第1次大戦で敗北したことに対して大きな怒りが沸き上がっており,民族自決の原則は既に時代思潮となっていた.
・ロシアは混乱していて,北からの脅威がない.
・インド軍は世界大戦で大損害を蒙って士気が低下しており,その大半はまだメソポタミアにいる.インド駐留の英国部隊は比較的小規模で,貯蔵物資も輸送能力も不足している.実戦経験のある精鋭を多数失い,除隊による兵力減少に苦しみ,多くの国防義勇軍兵士を一時的にインドに配属させていた.
・国境地帯では,宗教指導者が部族を蜂起させようと躍起になっており,いつなんどき全面戦争に突入しても不思議ではなかった.
(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.154-156,抜粋要約)
ただし,アマーヌッラー王は盲目的反英ではないとする見方もある.
然し,アマヌラ王の親蘇も反英も盲目的ではなかつた様である.
即ち1926年に蘇聯兵がオキサス河上の一島ダルカバットに密かに至り,1アフガン兵を殺したとき,王は厳重な抗議をして居るし,之に関聯しオキサス河の右岸(即ちアフガニスタンの側)を以て國境とするてふ蘇聯側の主張に對して,河の中央部が國境だと頑強に抗議して居る.
又王はホストの近くで同じく1926年一,二のパタン〔パシュトゥン〕族が叛亂を起こしたときに,英國に請ふて航空機の爆撃をして貰つて居る.
(守屋和郎=元アフ【ガ】ーニスタン駐在武官?,「アフガニスタン」,
岡倉書房,1941/11/15,\1.70(外地1.87),p.76)
ディヴィッド・フロムキン著「平和を破滅させた和平(下)」の第46章にも,この辺の事情が書かれています.
1919年2月19日,アフ【ガ】ーン国王が暗殺され,後継者争いの上,26歳のアマーノッラー・ハーンが,インド総督に対し,「自由にして『独立した』アフ【ガ】ーン政府」の後継者となることを宣する書状を送りました.
ちなみに,1907年の英露合意で,アフ【ガ】ーンは外交行為を英国に付託することになっているので,完全に自由で『独立した』という訳ではありません.
にも関わらず,4月19日に示威行動を行います.
元々,アマーノッラー・ハーンは,Khyber峠を越え,Indiaを攻撃する計画を密かに練っていました.
攻撃に呼応して,英軍の主要駐屯地PeshawarでIndiaの民族主義者が叛乱を起こす手はずで,この叛乱がIndia全土に波及すると信じていました.
ところが,アマーノッラー・ハーン軍の司令官が,Peshawarの叛乱準備が完了する前に軍事行動に出る,即ち,軍の分遣隊が,5月3日にKhyber峠を越えてIndiaに侵攻し,国境の村とIndia軍駐屯地への給水制御用ポンプ場を制圧します.
アマーノッラー・ハーンの言い分としては,当時英国がIndiaで行っていた「アムリッツァーの虐殺」とそれが象徴する政策に触れ,英国支配に対して立ち上がったIndia民衆を,Islamと人道主義の名において正しいと考え,それを支援するため,そして,アフ【ガ】ーンの兵士は,混乱が広がるのを防ぐために国境に派遣されたと言うものでした.
5月5日,インド総督からロンドン政府へ戦争の第一報を打ちます.
当時Indiaは混乱のまっただ中にあり,アフ【ガ】ーンの侵攻は正に寝耳に水,大規模暴動で軍が出払っているので,迅速な鎮圧も出来ないと言う状況でした.
アフ【ガ】ーン軍は聖戦の呼びかけに応えた狂信的を先兵とし,国境地域の部族と連動する正規軍に支えられ,3つの前線で攻勢を目論んでいました.
国境地帯に居た英国軍部隊の将校は,迅速な鎮圧を目論み,対抗して攻撃を行いますが,現地人部隊が戦力にならないことを知らしめられた上,とりあえず,Indiaからアフ【ガ】ーン軍を駆逐することに成功しますが,アフ【ガ】ーン本国への制圧は無理で,1ヶ月に1475万ポンドという大出費を強いられています.
とりあえず,英国は航空機の都市爆撃で何とか勝ちに持っていき,アフ【ガ】ーンは,8月8日に英国との和平条約(Rawalpindi条約)を結んで,戦争は終了しますが,アフ【ガ】ーンは完全独立を勝ち取り,外交行為の支配権を取り戻します.
元々,英国によるアフ【ガ】ーンの外交権の支配は,ロシアなどの敵対勢力を排除するためのものでしたが,それを放棄したことで,Bolshevikが早速アフ【ガ】ーンに接触し,彼の国と外交条約を締結し,領事館を開設することになります.
この中には,ソ連領事館の設置も含まれていましたが,1921年,英国はアフ【ガ】ーン政府にその条約修正を要求する(「ロシアにとって正統な利害関係のある地域を遙かに離れており,領事館がインド国境に於ける敵対的謀略を容易ならしめるために存在するのは明らか」)羽目に陥り,同年には外交交渉を再開しますが,英国情報部の暗号解読の結果,アフ【ガ】ーン政府とBolshevikが協同で,英国に対抗する軍事行動を起こし,また,アフ【ガ】ーン政府はBolshevikへの便宜を提供し続け,諜報員が国境地帯の好戦的部族と陰謀を巡らせていることが発覚するなど,常に頭痛の種となっていったわけで.
なお,第一次大戦の際,ドイツ軍部隊とトルコ軍の一部は,ペルシャとアフ【ガ】ーンに派遣され,同盟側に立って宣戦するよう工作を繰り広げています.
ペルシャでは或程度成功を収め,英国はその鎮圧に少なからぬResourceを食いつぶされましたが,アフ【ガ】ーンはシャーが遂に首を縦に振らなかったため,頓挫しました.
また,1920年,Bolshevikとの提携の結果,彼らに庇護されていた元オスマン・トルコ帝国海軍大臣ジェマル・パシャは,Moscowの勧めでアフ【ガ】ーンに赴き,Bolshevikへの疑念解消に相務め,アフ【ガ】ーン国王は,年末にLeninに宛てた書簡で,「ジェマル・パシャ閣下は,Soviet共和国が東宝世界の解放について,高邁なる理想と意図を保持しておられる旨を我々に明言され…」と述べています.
この様に,国王に信頼されたジェマル・パシャは,国王の相談相手として新憲法草案の起草に手を貸し,軍隊の再編に取り組みました.
この軍隊再編の意図は,Indiaに対するソ連の脅威を高めるためで,他にIslam革命同盟という団体を組織し,英国支配からのIndia解放を目指したりもしています.
更に,彼は辺境の好戦的部族を宣撫し,反英気運を高めたりしています.
彼は,戦争こそ上手くありませんでしたが,彼の存在こそが,英国本国政府,India帝国政府の不安を高め,懸念を募らせていったものとなったりしていた訳です.
エンヴェル・パシャと対照的な生き方と言えば言えなくはないですな.
【質問】
なぜアフ【ガ】ーン軍は,第3次アフ【ガ】ーン戦争において敗北したのか?
【回答】
攻撃の不徹底と,アマーヌラーの戦争遂行意思急減のため.
アフ【ガ】ーン軍は,攻撃を持続できる体制ではないのに,全ての戦線を同時に攻撃するわけでもなく,予想されたペシャワールでの蜂起と連携して動くわけでもなかった.
アフ【ガ】ーン族の郵便局長が混乱を引き起こそうとしたが,英国諜報機関によって事前に察知され,蜂起が起こるとされた前日,英国部隊配置の門を閉ざし,反乱者が降伏するまでの間,水の供給を止めた.
国境地帯中央部では,ナーディル・ハンが部族の支援を集めて,タールにある英軍の砦を攻撃し,幾つかの英軍前哨地点は,かなりの犠牲者を出しながら撤退しなければならなかったが,ナーディル・ハンは攻撃を徹底することなく,英軍救援部隊の到着により,撤退してしまった.
ジャララバードには1日の間に1.5tの爆弾が,爆撃機から投下され,アマーヌラーはインド総督への書簡の中で,空襲について遺憾の意を述べた.
戦闘は,始まってから1ヵ月もしないうちに終了し,どちらの陣営にも大した利益はもたらさなかった.
7月末,アフ【ガ】ーン代表がラワルピンディに招かれ,和平交渉が行われた.
アフ【ガ】ーンは,戦争を始めたとして英国を非難したばかりか,軍事援助を願いで,さらに,部族地域を支配できるよう国境を再画定するよう提案し,蒙った迷惑の埋め合わせとしての報酬金まで要求して英国側を仰天させたが,アフ【ガ】ーン側のこの虚勢は糾弾され,数週間後,英国側の言い分を全面的に取り入れた条約を受け入れざるを得なかった.
【参考ページ】
Sir M. Ewans 『アフガニスタンの歴史』,明石書店,P.153-158
【質問】
確かエンゲルスが,イギリスとアフガニスタンとの第3次アフガニスタン戦争におけるイギリスの敗北を,詳細に研究して,現代のアフガン情勢にも通じる分析をしている論文があったかと思うんですが,その論文を日本語で読める本ってあるでしょうか?
【回答】
見つけた.
これが初邦訳なのか?
英訳あるなら英文の方がヨサゲ.
環 Vol.8 に収録のエンゲルス「アフガニスタン」
特別掲載;
エンゲルスから学ぶアフガニスタン
エンゲルスのアフガニスタン論を読む 松井健
アフガニスタン フリードリヒ・エンゲルス(杉本俊朗訳)
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=520
杉本俊朗氏は京大の方かな・・・
マル経訳出多数だけど,軍事翻訳はないですね.
アマゾンにあったわ.
人柱だれか.
環 Vol.8
大月書店版のマルクス・エンゲルス全集なら14巻.
軍事板,2010/01/23(土)
青文字:加筆改修部分
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