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◆◆◆チャダル
<◆◆総記
<◆アフ【ガ】ーニスタン
<南アジアFAQ目次
【珍説】
産経抄によれば,その「自由」の証拠が,ブルカを脱いだことだそうだ.
無知にもほどがある.
ブルカを脱いで喜んでいる女は,既に西洋化・近代化されていた裕福な進歩的文化人であって,アフガニスタンの村の伝統では女性は顔を隠すものなのだ.
(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』 p.166)
ターリバーンは外出する女性に、ブルカ(チャドル)の着用を義務づけています。これが欧米の人権活動家には女性抑圧の最たるものと映っています.
しかし、ブルカ着用は農村部での常識です。農村出身者が多いターリバーンは農村の常識を、都市部で強制しているにすぎません.
(ペシャワール会・中村哲医師,'01年9月30日,福岡市・河合塾講演)
ターリバーンはいろんな意味で原理主義的というよりは,国粋的な政権で,アフガンの慣習法を徹底した.例えば女性にブルカを強制した.これは実は99%の人は強制されているのではなくて,自発的に着ていたのです.
例えるならば,日本人に1日に一遍はみそ汁をすすれというようなものでしょう.あるいは洋服を禁止して和服にするだとか.
(同 「医者よ,信念はいらない まず命を救え!」 P.99-100)
【事実】
無知にもほどがある.
ブルカというのはパシュトゥニスタン(アフ【ガ】ーニスタン南部〜パキスタンに跨る地域)の伝統.パキスタン国内にあった難民キャンプ出身のターリバーンが,それを勘違いしてアフ【ガ】ーニスタン全土に強制しようとしたことが問題なのである.
そもそも,「ブルカ」という言葉自体,それがターリバーンと共にパキスタンから移入してきたものであることを示している.アフ【ガ】ーニスタンでは,これは元は「チャダリー」と呼ばれていた.
ちなみに,「チャダリ」という,イランのチャドルと似たものも,アフ【ガ】ーニスタンには存在する.(レシャード・シャルシャー監修,島岡尚子著「旅の指差し会話帳 アフガニスタン」,情報センター出版局,'03)
中村哲医師すら,ターリバーン台頭前に出版した本「アフガニスタンの診療所から」(筑摩書房)の初版('93)では,ブルカを「チャダル」と表記(P.
91)している.中村医師は,自分が書いたことを忘れてしまったのだろうか?
また,そのパシュトゥンにしても,
――――――
遊牧民達の女達は,定住民達のようにはチャドリを被らない.移動にも作業にも不便であり,家畜を扱うときの支障となるからである.
彼らにとっては女性は単なる愛玩の対象ではなく,主要な屋外労働力の一部なのである.
搾乳,機織りはもちろん,調理もある程度までは屋外作業である.
部族によっては,移動中のテントの設営を,専ら女性が負担することもある.
――――――「アフガンの四季」(佐々木徹)
遊牧民に限らなくても,ブルカを着ない人もかなりいることは,国連高等難民事務所職員,千田悦子の「アフガニスタン祈りの大地」に記述がある.
また,50年代にアフ【ガ】ーニスタンを調査旅行した京都大学学術探険隊の,梅棹忠夫の証言.
――――――
下層階級や農村の女は,働かねばならぬから,かぶりものがいくらか簡単で,顔は出している.
しかし,写真は撮らせない.
――――――『アフガニスタンの旅』(梅棹忠夫監修,岩波写真文庫,1956/10/25), p.18
京都大学学術探険隊が,ワジリスタン地方を訪問したときの記述.
――――――
途中,たまに見かける女は,ヴェールを被っていない者が多い.
男はみんな銃か,または鎌を持っている.
この鎌は草刈のためではなく,主として武器として使われることは,後で知った.
――――――(木原均編「砂漠と氷河の探険」,朝日新聞社,1956/3/10,P.80)
ちなみに,同書にはこのような記述もある.
――――――
カーブルその他の都会では,相当女も歩いている.
しかし,裸で飛び回れる年頃の女の子以外は,老若男女を問わず,一人残らず頭から足の先まですっぽりとチャドルを被っている.
――――――P.106
安川茂雄(日本山岳会員)の文献にも,似たような記述がある.
――――――
地方へ出るとチャドル〔ブルカ〕は少なくなり,赤や緑の派手なスカーフでスッポリと上半身を包みこんで,目だけ出している.
明らかに男性の目を惹きつけようという女の本能と,男性に見られてはならないというコーランの掟〔原文ママ〕に挟まれた奇妙な矛盾に苛まれながら,彼女達は生活しているのだ.
――――――(「アフガニスタンの山脈」,あかね書房,1966/12/25,P.102)
50〜60年代当時はむしろ,農村より都市部のほうがチャダル着用率が高かったことを伺わせる.
農村では女性も働かねばならないため,チャダルを被っていては仕事にならないからだろう.
古代南アジアでは,チャダルが元々,働かなくてもいい上流婦人のための衣装であったことと符合する.
「農村部ではチャダリー着用が普通」
どころか,真逆だったようである.
'77年にアフ【ガ】ーニスタンを周遊した中央アジア史学者,金子民雄の証言.
――――――
年配者でもない限り,アフ【ガ】ーンの若い娘達はもうヴェールを被る者は滅多にいない.
1960-70年代の教育改革が効を奏し,古い回教法が緩和された結果だった.
だから若い娘達は何の屈託もなく,会えば微笑して挨拶し,なに分にも態度に悪意が感じられないことだった.
多分,この民族としての誇りや賢明さが,欧米の植民地にならなかった最大の理由だったのだろう.
――――――(「アフガンの光と影」,'97)
▼ 『バタクシャンからヌーリスタンへ』(佐藤優編,日本ヒマラヤ協会,1977.3.1),p.102,カランガンに関するの記述より.
――――――
ワマは〔補給拠点としては〕期待していた村ではなかった.
〔略〕
女性はあまり顔をかくさない地域になった.
ワマの橋のたもとの大石のところにおいた荷をとりに来た女性の顔ははなの高い目のぱっちりした美人だ.
またテラスにあらわれたスカイブルーの服を着た女性も美しそうだった.
――――――
同書p.101には,その女性の写真(遠影)も掲載されている.▲
対ソ戦時代のムジャヒディン指導者である,ハリカト党指導者アミル・モハマディの証言.
(「ソ連は,アフガニスタンの女性を解放したと主張していますね」という著者らの質問に対し,〕
「ソ連侵攻以前だって女性は自由になりつつあった.自分が望めばベールを被ることができたし,そうする女達もいた.
さもなければジーンズとセーターでもよかった.
農村部の女達は殆どベールを被っていなかった.北のほうにいるタジクやモンゴル,ウズベク等々の女達はベールをつけていなかったし,そんな伝統もなかった.女性の状況を変えるのはイスラム自身のためではないか」
(ドリス・レッシング著「アフガニスタンの風」 晶文社 '88)
久野健著「アフガニスタンの旅」(六興出版,1977/6/5),p.31には
「女子学生(カブール)」
というキャプションのついた白黒写真があるが,これを見ても,ミニ・スカートの下にズボンを履いている.
都市住民がブルカについてどう思っていたかは,亡命アフガン人女性ラティファ(生命の危険があるため,仮名)の著書「ラティファの告白」に見られる.
私はチャドリがどんなものかは知っている.ターリバーンがやってくるずっと前から見たことはあった.母のところに田舎から診察を受けにやってくる女性達の中には,伝統を重んじる気持からチャドリを着ている人もいた.
でも,あくまでも自由意思によるものだ.
それでも,やはり首都カブールでチャドリ姿の女性を見かけることは本当に希だった.
〔略〕
チャドリ姿の女性ととおりで擦れ違うと,高校の友達と一緒になって,よくからかった.私達は彼女達を『瓶』とか『逆様のカリフラワー』とか『買い物篭』とかあだ名をつけ,複数で歩いているときには『パラシュート降下の連隊』と呼んだりした.
〔略〕
私は,その服装をしげしげと眺めた.頭をすっぽり覆う帽子.その帽子の裾に刺繍を施した布が縫い合わされ,足元まで垂れている.中にはもっと丈の短い,歩き易いものもある.
〔略〕
息が詰まる.布が鼻のところにまとわりつく.なかなか格子をちょうどよい目の高さに合わせられない.
『どう? 私のことが見える?』
とファリダが訊いた.
彼女と正面に向かい合って立っている限りは,彼女の姿が見える.頭を横に向けるには,位置をずらさないように顎で布を支えていなければならない.自分の後ろを見ようと思ったら,完全に回れ右をしなければならない.自分の息遣いが聞こえる.暑い.布の中で足が絡まる.こんな服,絶対に着ていられない.
〔略〕
屈辱を覚え,腹を立てながらチャドリから抜け出した.私の顔は私のもの.クルアーンには,女性はベールを被ってもいいとは書かれていても,誰であるか見分けがつかなければならないとも教えている.
ターリバーン達は私の顔を,全ての女性の顔を奪おうとしている.そんなこと問題外だ!
(p.66-68)
イラン現代政治研究家,中西久枝の報告.
今年(2001)イランに半年間調査に出かけていたが,時折アフガン難民に出会った.
下宿先で門番をしていたアフガン難民のフセインに,故郷で待っている奥さんの写真を見せてもらうと,17歳の彼の奥さんは,簡単なスカーフしかしていなかった.
しかし,ターレバンが来るという噂が立つと,すぐにブルカーに着替えるとのこと.
( from 「だれでもわかるイスラーム」,河出書房新社,2001/12/31, P.141)
つまり,チャダリ(ブルカ)は,総人口の内の38%しかいないパシュトゥン人の中の習慣に過ぎず,パシュトゥン人全体の習慣というわけでもない.それを強制することは,じゅぶんに問題である.
加えて,30ドルもするブルカを買えない女性にとっては,この強制は餓死刑に等しい(マイケル・グリフィン『誰がターリバーンを育てたか』).
中村医師の受け売りをしているに過ぎないと推測される小林は論外として,では,なぜ中村医師はこのような勘違いを起こすに至ったのか? それは,パキスタンにおけるアフ【ガ】ーン難民キャンプの様相を見て,そのように思いこんだためと考えられる.
まず, パキスタンのハク将軍は民主化運動抑制のため,イスラーム過激原理主義組織に軍政の支持基盤を構築し,それが過激原理主義が国内に広まる結果となったことは,【珍説】「アフ【ガ】ーニスタン紛争で,アメリカはパキスタンを使い捨てにした」???の項で述べられている通り.
そのため,同じパシュトゥニスタン(パシュトゥン人居住地域)であっても,国境を挟んでパキスタン側のパシュトゥン人は,過激原理主義の影響で保守化.ダウド政権によって徐々に自由化が進められていったアフ【ガ】ーニスタン側のパシュトゥン人との間に,文化的差異が大きくなり,それが対ソ戦が始まって発生したアフ【ガ】ーン難民キャンプにも波及していたようである.
例えばドリス・レッシングはこう書いている.
私は不安だった.『ムッラー』という言葉から,ごく単純な連想しか浮かばなかったからだ.前に女達がこぼすのを聞いていたのだ.
『ムッラー達のせいで,難民キャンプで私らは手も足も出ないんです.私らのすることを指図するし,パキスタンもそれを認めているんです』
(ムッラーが今ほどの有力になった理由の一つが,まさにこれだった.
パキスタンはキャンプ内の治安維持という問題を抱えていた.女性の宿舎には男性は入れないからだ.
だがムッラーは,極めて高潔であるから〔という理由で〕,入ることができる.
そこでパキスタンは,ムッラーを使って女性を管理したわけだ)
私はそれまでこうした頑迷で無知な(大半が年寄りの)男達に会ったことがなく,いまだに出会っていない.
だが,私のグループの何人かは,彼らをフィルムに収め,インタビューもして,愕然として帰ってきた.
(「アフガニスタンの風」)
「若い女医の話では,カーブルでは自由に生きていたし,洋服を着て,勉強も仕事も自分の好きなようにやっていたという.
今ではパルダ(女性隔離)に従わねばならず,ドアから顔を出した途端,ベールを被らなければならない.本を取りに図書館へ行くこともできない.兄弟に取ってきてもらうしかないのだ.
夜になると本を読む以外,なにもすることがない.
『他に私達に何ができるでしょう』
私〔レッシング〕があくまで,厳格で禁欲主義的なパキスタン精神に影響されてしまっていることが,そこで判明する.
『あなたがたが行けるカフェやレストランや劇場すらもないの?』
と尋ねるのに,まるで
『売春宿に繁々いらっしゃるの?』
と聞いているような気になったのだ」
(同)
アフガン女性のタイプあるいは全体を代表する女性として,仮に名前をアミナと呼ぶ女性の身の上を聞かされた.教育を受けているか若干の教育があり,アフガニスタンでは洋服を着てベールも被らず出歩く自由を持ち,自分から進んで,おそらく看護婦か会計士になるための教育と訓練を受けていた.
〔略〕
難民キャンプでは,2つの小部屋とベランダのある,ましなキャンプの一つに住んでいる.
そこで彼女は突然,因習的な考え方の女達に取り囲まれてしまった.アフガニスタンでは全く付き合ったことのない女達だ.
この女達は,彼女が自分達より高い教育を受けていて,あらゆる種類の危険な近代的観念を持ち,それを隠しておけないことを知る.もっと酷い状態にある者達の妬みが,それぞれの苦労に加えて,悪行を摘発し,律法を主張してキャンプをうろつくムッラーによって増幅し,この女性を迫害する.
彼女はパルダに戻り,女性の居室を出るときはベールをつけなければならない.この掟をほんの僅かでも破ると,ムッラーに通告される.
彼女がいるのは政党のキャンプだし,食料も政党に頼っているし,彼女の不品行によって子供達が酷い目に遭うだろう.
彼女の状態は獄中にいるのと変わらず,〔ソ連軍との〕アフガニスタンの戦争が終わるまでは,出口は全くない.
(同)
チトラルに発つ前,私は,探していたような教育ある女性の代わりに,ある男性の教授に会う機会があった.
彼は同胞の女性を擁護して,実に雄弁に語った.
このマジュラ教授は,カーブルで文学を講じていたが,今はペシャワル大学で教鞭を取っている.
彼はこんなふうに語った.
『〔略〕
我々は山の民であり,砂漠の民なんです.広いところに慣れている.アフガニスタンでは街の中でも外でも,誰一人窮屈な思いなどしないのです.ソ連侵攻までは女性の生活も楽だった.ベールを被っている女性はごく僅かしかいなかったし,ベールを強制されたりもしなかった.ムッラーの権力なんて,今と比べると取るにたりないものだったんです.
ムッラーがこんなに影響力を持つようになったのは,この戦争〔対ソ戦〕の悲劇です.アフガン人は本来,狂信的な民族ではないのです.〔略〕』
『女達はみんな歌を歌わなくなってしまった』と,忘れがたい様子で教授は言う.『昔は,あの大破局が起こる前は,どの村へ行っても,女達の歌声が聞こえたものです.
今では子供達と一緒に,いつ戦争が終わるとも知れず,キャンプの中に動物のように閉じ込められています.男達は戦っているし,戦闘の合間にしかやってきません.何ヵ月も来ないこともある.
あなたの国の女性達も,時には鬱状態になるという話を読みますが,それと同じように女性達は鬱状態になって,鎮静剤に頼っています.もっとも,運良く手に入れればの話ですが.
パルダに入り,ベールを被ることを強制され,キャンプから一歩も出られず,キャンプを管轄するパキスタン当局の管理下に置かれているのです.
いや,私はパキスタン人を批判しているわけじゃありません.パキスタン人がいなければ,私達は全員死んでいたでしょう.アフガン人は一人も残っていなかったに違いありません』
(同)
過激原理主義の流入が,それまでの穏健なイスラームを過剰に禁欲的なそれに変えてしまうことは,例えば現代インドネシアでも現在進行形で見られる現象である.
このような難民キャンプないし国境沿いの村村を見て,「これがアフ【ガ】ーニスタンでも当たり前の状態なのだ」と,中村医師は思い込んでいるのではないかと思われる.
さらに言えば,「慣習だ」と解しているほうのアフ【ガ】ーン人の中にも,こんな意見もある.
「私達は慣習に従わねばならない」
と〔ダシュティ・カラの地区司令官,マムール・〕ハッサンは言う.
しかし,彼は必ずしもそれに賛同しているわけではない.
「最も神聖なるイスラム教の地,メッカで,女性が顔を覆わず,男性も頭に何も被らないのは何故か? イスラム教の中心地なのに,どうして彼女達はブルカを着ないのか?」
彼は悲しげな笑みを浮かべて,締めくくった.
「思うに,ブルカは時代遅れのアフガンの慣習に過ぎないからだ」
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.42
中村医師は,その著作から観る限り,生来,思い込みが激しい御仁のようである.
それは,今も中村医師がしつこく「らい」という言葉を使い続けている――ハンセン病患者らは,この「らい」という言葉を使うことをやめるよう,運動を続けている――ことからも分かるし,また例えば,彼がアフ【ガ】ーニスタンに渡る前,偉大を卒業したてで日本の病院で常勤していた頃,植物人間となっていた患者について,「家族が大変だから」と上司と口論した挙げ句,当の家族と相談したようにも見えないのに,生命維持装置を外して安楽死させた――法律上,殺人罪に該当する――ことからも分かる.(安楽死については中村哲著「ペシャワールからの報告」 河合ブックレット
'90 P.51-52を参照)
「らい」という言葉を使い続けるのは正しいに違いない,家族の負担を軽減してやったのだから,自分の好意は正しいに違いない,と思い込んでいるのである.
観察に最も禁物なものは予断である.
したがって,中村医師は,客観的にアフ【ガ】ーン情勢を観察し,報告する人間としては不適格であることが分かる.
【珍説】
「ターリバーン」の著者,田中宇氏によれば,ブルカは伝統的な上着の一形態であり,ブルカを着たくないと思っている女性は,カブールで一割しかいないという.
ところがアメリカの女性団体は,ブルカが「女性差別」と主張する.
これは民族衣装を否定されたも同然で,カブールの女性は怒っているというのだ.(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』
p.167)
【事実】
引用するときには正しくやるべきです.
田中氏の原文はこうです.
「ターリバーンに対する歪んだ見方は,カブールの女性達が着用している『ブルカ』に象徴されている.ブルカは伝統的な上着の一形態であり,ブルカ自体を着たくないと思っている人は,カブールの女性のうち,1割しかいないという調査結果が出ている.彼女達が嫌悪しているのは,たまたま何らかの理由でブルカを着ていない女性に対し,ターリバーンが暴力を振るったり,投獄したりすることである.
ところがアメリカの人権団体などは,ブルカの存在自体が『女性差別』であると主張している.これはカブールの女性達にとっては,民族衣装を否定されたことになるため,多くの女性が怒っているという」(p.155)
小林氏の引用では,ブルカの問題の核心部分がすっぽり抜け落ちています.
アメリカの女性団体によるターリバーンへの非難の核心は,ヒラリー・クリントンの99年のスピーチに見られるように,女性の就労問題・教育問題と共に,こうしたターリバーンの女性への暴力行為なのですが,同書では殆ど触れられておりません.
例えば,アハメド・ラシッド著「タリバン」には,以下のような酷い例が幾つも見られます.
「('98年2月頃),ターリバーンは新しい規則を布告,男性の顎鬚の長さを正確に定め,新生児につけることのできる名のリストを示した.
ターリバーンは,カブールで開かれていた女子の家庭学級を閉鎖,宗教警察が街をパトロールして,女性を路上から追い払い,家主に対し,外から中の女性が見えないように,窓を黒くするよう指示した.女性は一日中,日の光も差さない屋内にいるよう強制された」
'95年,ターリバーンがヘラートを占領すると,
「彼らはやってくるなり,ヘラートの女性たちを屋内に追い込んだ.〔略〕 ターリバーンは女子学校を全て閉鎖し,ムジャヒディンの司令官イスマイル・ハンが何年間も努力した,住民の教育を抹殺した.殆どの男子学校も,教師達が女性だったため,閉鎖された.数少ない病院も男女隔離され,浴場は閉鎖,女性はバザールに行くのを禁止された.
その結果,ヘラートの女性たちは,ターリバーンのやり過ぎに対する,最初の反乱を起こした.'96年10月17日,市の浴場閉鎖に反対して,100人を超える女性達が,知事官邸の外で抗議行動をした.女性達は,ターリバーンの宗教警察に鞭打たれ,逮捕された.宗教警察は家から家へと,男性に女性を外に出さないよう警告して回った.
〔略〕 長時間の内部の討議とヘラートのターリバーンとの実りのない交渉の後,ユニセフとセーブ・ザ・チルドレンは,ヘラートでの教育援助事業を停止した.少女達が教育から除外されたからである」(同)
'96年にターリバーンがカブールを占領したときは,
「カブールの美容院も,女性達がお湯を使える唯一の場所,女性浴場も閉鎖された.服の仕立て屋は,女性のサイズを測ってはならないと命令され,常連客のサイズを頭で覚え込まねばならなかった.ファッション雑誌は破棄された.
『爪を塗ること,友達の写真を撮ること,フルートを吹くこと,ビートを叩くこと,外国人をお茶に招くことをすれば,ターリバーンの布告に違反する』と米国人記者は書いている.
〔略〕
〔略〕国連は'96年10月までに,カブールでの女性のための収入発声援助事業8件を停止した.もはや女性達が,それらの援助事業で働くことが許されなくなったからであった.
〔略〕 ターリバーンは更に締め付けを強化した.彼らは,継続が許されていた,女子のための家庭学級も閉鎖,女性が一般病院に行くことも禁止した.
'97年5月,宗教警察が米国のNGO,ケア・インターナショナルの女性スタッフ5人を鞭打った」(同)
(それに,ブルカの存在自体が女性差別であると主張している「アメリカの女性団体」も発見できておりません.噂が独り歩きしているきらいがあります.心当たりのある方はご一報を)
なお,田中氏のほうの「タリバン」はラシッドの「タリバン」と異なり,ヘクマチアールを死亡したとする(2004年1月現在,なお存命)など,田中氏が直接見聞した以外の記述については,信頼性に欠ける部分も多いので,気をつけるべきでしょう.それが情報ソースを明示していないとなれば,尚更です.
【珍説】
カブールの女性の80%が,未だにブルカを脱がないのはなぜか,分かったか?
パキスタンで,今からアフガニスタンに帰る難民に,ブルカが飛ぶように売れているのはなぜだか分かるか?
それはブルカがアフガニスタンの村村の「伝統」だからだよ!(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』
p.190)
【事実】
伝統なら,わざわざ買わなくても1着ぐらい持っていそうなものですがね…….
上述のように,ブルカはアフ【ガ】ーニスタンの一部地域の習慣でしかありません.
複数の街頭インタビューによれば,女性は,ターリバーン政権が倒れた後も,街に過激原理主義者は市民の顔をして残っており,彼らから暴行を受けかねないため,また,治安への不安もあるため,自衛のためにブルカを着ているとのことです.
例えば,毎日新聞2002年6月22日東京朝刊から.
「女たちが、ターリバーン政権時代に強要されていたブルカ(頭からつま先まで覆う伝統衣装)をまだ脱がない理由を知ってるか。顔を見せて目をつけられたら、彼らは夜中に家を尋ね当て、銃で脅して女を奪っていく。彼らが銃を持ち歩かなくなれば、市内の女は一斉にブルカを脱ぐだろうよ」
2002年4月に行われた,宇佐波雄策氏(朝日新聞アジア総局長)の講演会から
「5年間着用しているうちに市民が慣れてしまった一面があります。
すぐにはブルカを脱がない人が多いです。
政情もまだ不安定なため,いつ元の体制に戻るかもしれないという怯えから自己防衛のためにブルカを脱がない人が多いのです。
またターリバーンの前の政権も悪い政権だったことがややこしくしています」
新聞縮刷版を当たれば,他にも同様記事を幾つも発見できるでしょう.
これと同じ現象は,対ソ戦の頃にも起こっています.例えば,ジャン・グッドウィン著「アフガンゲリラとの100日」(光文社)には,次のような記述があります.
「例えばカブールの,特に教育水準の高い家庭の娘達の中には,戦争開始後,生まれて初めてチャドリを着たという人が少なくない.
『それは,酔ったソ連兵に若い女性が誘拐されたり,強姦されるという事件が続発しているからなのです』そうした娘の一人が私に言った.『チャドリを着ていれば,少しは身を守れますから』」(P.188)
「伝統だから」とは全く無縁の現象であることが,これからも分かります.
▼ 田中香(民間開発コンサルタント会社社員)は,伝統だから〜〜という論法は詭弁であると断じています.
チャダルは現実上,女性にとって悪影響を及ぼすことが問題なのだそうです.
以下引用.
――――――
チャドルの問題は,単にチャドルを強制的に着用させることが是が非かという問題に留まらない.
チャドルを着ることによって視野が狭まり,日常的な動作さえ不便になり,道端の障害物からでさえ自分の見を守ることができず,走って危険から逃れることもできない状況に置かれるということは,女性の行動や態度,ひいてはパーソナリティや心の状態,価値観などにも大きな影響を及ぼすことは想像に難くない.
つまりチャドルが女性への抑圧の象徴的・現実的意味を持っているからこそ問題とされるのである.
「チャドルは宗教的・伝統的意味を持っているから是であり,他国やイスラム教徒ではない者が口を出す問題ではない」
という主張は,問題の矮小化,すり替えといわざるを得ないだろう.
――――――『国際人道支援におけるこころのケア アフガニスタンでの試み』(河野貴代美編著,新水社,2007.6.10),p.40
また,田中香はこうも述べています.
――――――
たとえチャドルの着用が制度として強制されなくなったとしても,その影響は何年にも,何世代にもわたり受けてきた女性が,あるいは社会全体がただちに変化するのはむつかしい.
――――――同上
考えてみれば当然の話ですね.▲
【珍説】
アフガニスタンでは今でも米軍のアルカイダ掃討戦は続いている.
村村を誤爆する事故も続いている.
例えばある村で,男達が留守のところを米軍が急襲し,女達のブルカを脱がせてボディチェックしたという.
これは彼女達の価値観ではレイプに等しい恥辱になる.
女は米兵を射殺してしまった.
すると米軍はこの女をテロリストと勘違いして,村ごと空爆して民間人を虐殺するのである!
民衆の間には反米感情が高まって,遂に米英の国旗と共に日の丸まで焼かれるデモが行われたという.
(小林よしのり「戦争論」3,P. 90)
【事実】
google検索してみたけど,そういった事件は見つからなかった。本当にあったならオオゴトだから見つかりやすいと思うが。
まずこのような緊張した状態で米兵が殺される可能性が少ないというは兎も角とする。
上述のように、アフガンの女性がブルカを羽織るのは,「ブルカを羽織るべき」と思っているからではなく
「ブルカを羽織っていないと残った原理主義者の類に酷い目に合わされる可能性が有るから」
というのが殆どの女性のブルカ着用理由だという事を考えると、この情報自体疑わしい。
#ソースあったら宜しく。
それは親過激原理主義系メディアのどこかが報道し、それを真に受けたペシャワール会の中村医師が言いふらしているだけの代物。
要するに「雨乞い」と同じで、ターリバーン発のプロパガンダと見てほぼ間違いない。
【質問】
チャダル,チャダリーにはどのような歴史があるか?
【回答】
インドのチャットラ(日傘)と関係付ける説もあるが,語源は明らかではない.
プルータルコスは,ペルシア王アルタクセルクセスの妃スタティラは,車駕に下幕を垂らさないで乗り,民衆の女達が近付いて挨拶できたため,王妃は民衆に愛慕されたという話を伝えている(「対比列伝」).
この話は,王家の女性達は通常,下幕を垂らした車駕に乗り,その姿を見ることはできなかったという事実を示している.
〔略〕
今日,ヤズドに残るゾロアスター教徒の女性達はチャードリをつけているが,蔽っているのは頭と首であり,顔ではない.
イスラーム時代になっても,初期の頃には尚こうした慣習が続いていた.クルアーン(コーラン)の規定も曖昧で,
「胸には蔽いを被せるよう」とか,
「自分の夫,親,舅,自分の子供以外には,自分の身の飾りを見せたりしないよう」とか,
「人前に出るときには必ず,長衣で頭から足まですっぽり体を包み込んで行くよう」
と記しているだけである.
やがて,より厳格な基準が求められるようになり,例外的であった顔と手も蔽うようにと,クルアーンの規定が拡大解釈され,面衣が生まれた.初めの頃は,チャードリは面衣と,胸から足元までを蔽う長衣と2つに分離されていたようである.
現在でもイランで着用されるチャードリ〔ダリー語ではチャダル〕は,1枚の長方形の布で,頭から足元まで蔽う型のものである.
アフ【ガ】ーニスタンでは頭からすっぽりと全身を覆い隠す型のもの〔ダリー語ではチャダリー〕とイラン型とが併用されている.
色彩も外出用は一般に暗色であり,お祈りには比較的明るい色が使われている.
近代化が進み,ヨーロッパとの接触によってチャードリ着用の宗教的軌範も揺らぎ始め,イラン(レザー・シャーによる着用禁止令)でもアフ【ガ】ーニスタンでも,若い人達がチャードリを次第に着けなくなっていった.
しかし,その反動もまた起こり,1960年代と70年代のイスラーム復興運動の中で,チャードリは女性の尊厳の保持と謙譲の美徳の象徴として称揚され,積極着用が勧められた.
チャードリもまた歴史の流れの中で,イスラーム社会の文化の徴標として,形や意味を変えてきたのである.
(前田耕作 from 「アフガニスタン史」,河出書房新社,2002/10/30, p.129-130,抜粋要約)
なお,本書はチャダルとチャダリーの区別ができていないようなので,その点,留意されたし.
【質問】
チャダリ着用の利点は?
【回答】
しゃがむだけで用を足すことができる,男達の目からも逃れ得る等,機能的であるという.
以下引用.
さて,「チャドリ」に話を戻そう.
この奇異に映るファッションが,現地にあっては機能的であることを,実は私達は知らない.
単に,女性は抑圧されている,自由な服装が認められていないと思いこんでしまってはいまいか.
アフガニスタンの風土は,一年中,砂漠の砂埃をオアシスに運ぶ.
「チャドリ」は,その砂埃を防ぐのにとても都合がよい.
公衆トイレのない社会にあって,女性達は困り果てる.
しかし「チャドリ」着用は,しゃがむだけで用を足すことができる.
しかも,外観からその女性の年齢を含めた容姿をはかることができないので,男達の目からも逃れ得る.
「チャドリ」の下におしゃれを楽しむ女性も多いが,この「制服」のおかげで,貧富の差を感じさせないのも事実であろう.
「チャドリ」は,ある意味では不自由に見えるけれども,自由に行動できるユニホームでもある.
「女性の隔離の習慣」を知らない人達は,「チャドリ」こそが女性の後進性のシンボルだと信じているかもしれない.
宗教的に「チャドリ」を押しつけているのではない.アフガニスタンは,ずっと昔から女性を登用し,能力主義の国でもあった.
ただ,タリバンがその伝統を閉鎖してしまっただけの話で,「女性を蔑視する国だ」というイメージだけが走っている.
2004/12/7
(松浪健四郎著「折々の人類学」,専修大学出版局,2005/4/10,p.68-69)
【質問】
現在,チャドリ着用率はどれくらいか?
【回答】
ジャーナリストの報告では,2005年頃でだいたい半々であるという.
以下引用.
「強烈な日差し」と「乾燥した空気」と「強い風」というバーミヤン3点セットは,言うまでもなく肌にとって大敵である.ただ日に焼けるだけではなく,頬や唇などの水分が奪われてかさかさに荒れてしまうのだ.
〔略〕
アフガニスタンの女性がチャドルやブルカといった被り物で顔を隠すのも,男性が頭に長いターバンを巻き付けているのも,強い日差しと砂埃を避けるためなのだということを,僕はこの土地を歩き回ることによって初めて実感した.
イスラムという宗教が砂漠で生まれ,日差しが強く,乾燥した国々で受け入れられていったことと,ムスリム女性が顔を隠して歩くことは,おそらく無関係ではないだろう.
外部から見れば理不尽なようにも見える風習も,その土地に根ざした合理性があるのだと思う.
しかし,頭からつま先まで全身をすっぽりと覆ってしまうブルカは,アフガン人の間でも評判が良くなかった.
特に,英語を話すことができる進歩的な考えを持つ人の多くは,
「ブルカは女性を縛りつける醜いものだ」
と断言した.
ブルカというものは,元々イスラムの習慣などではなく,一地方の風俗に過ぎなかったのだが,それをタリバン政権が国民全員に強制したのだ,と彼らは主張した.
とりわけ,タリバン政権によって迫害を受けていた少数民族のハザラ人やタジク人達にとって,ブルカが「抑圧のシンボル」であったのは確かなようだ.
今ではブルカを被るのも被らないのも,個人の裁量に任されている.
地方によっても違うのだが,ブルカを被っている女性の割合は,だいたい半分弱というところだった.
特に首都カブールでは,「非ブルカ率」が高かった.
ブルカを脱ぐ女性の数は,おそらく今後もっと増えるだろう.
(三井昌志著「素顔のアジア」,ソフトバンク・クリエイティヴ,
2005/10/15,p.173)
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