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◆◆総記
<◆アフ【ガ】ーニスタン
南アジアFAQ目次


(作・ミリグラム)


 【link】

Quick Jump

ジェンダー問題

支援団体

総記書籍

地図

パ【シュ】トゥー語

「47 News」◆(2012/10/22)アフガンで初の原油生産 中国企業が採掘開始

@-rans

Afgha.com(最新ニュース,英語)

Afghanan Dot Net(BBS,英語)

Afghanistan Online(総合,英語)

Afghanland.com

Ariaye(ほぼ画像庫,英語)

「DUNGEON HEART」>アフガン航空相撲

「DUNGEON HEART」>アフガン航空相撲VS元軍

「DUNGEON HEART」>アフガン航空落としプロセス

Luke Powell Photographs(写真集,英語)

「militaryphotos.net」:Afghanistan
 アフガーン近影

「militaryphotos.net」:Pic's from Old Good Afganistan of Soviet Era
 アフガーンの過去と今

net bunker」(2010/06/15)◆米国:アフガンでリチウムなどの鉱床発見,約92兆円規模−NYT紙 - Bloomberg.co.jp

Real Afghan Network(英語,ダリー語)

「Skipjack and the Sea of Stories」:パシュトゥーニスタン問題についてメモ

「tnfuk」◆(2007/12/26)France24によるタリバン支配地域のレポート,ほか

Trail Dog(ニュース短信)

VOA(Voice of America) News(ダリー語)

アフガニスたん( from ちまきing,4コマ漫画)〔リンク切れ〕

アフガンウォーカー(風習・生活)

アフガン情報

アフガンのうた

「地政学を英国で学ぶ」:アフガニスタンも相当ヤバい

中東調査会(アフ【ガ】ーニスタン情報にも比較的詳しい)

「中東調査会」:最近のアフガニスタン情勢(PDFファイル)

日本・アフガニスタン協会

ひろぶろ」■大きな写真で見る,アフガニスタンの日常(Boston.comより)

「ワールド&インテリジェンス」◆(2012/07/09) 民主化と欧米化
> タリバンが前近代的なイスラム原理主義で女性の権利を著しく侵害したのは有名な話ですが,アフガニタンで前文明社会的な風習がいまだ残っているのは,タリバンに限りません.

●ジェンダー問題

「VOR」◆(2012/01/30)「名誉」を守って女性4人を殺害したアフガン移民に終身刑 カナダ

「VOR」◆(2012/10/18)アフガン女性,売春拒否で殺される

マルヤムの証言

『アフガニスタン 未だ攻撃に晒される女性たち』(アムネスティ,2005)

『アフガニスタン国高等教育教員養成支援計画予備調査報告書』(国際協力事業団,2003)

『アフガニスタンの指導的女子教育者のための研修』(藤枝修子他編,お茶の水女子大学開発途上国女子教育協力センター,2005)

『アフガニスタンの少女,日本に生きる』(虎山ニルファ著,草思社,2005.4)

『カイト・ランナー』(カーレッド・ホセイニ著,アーティストハウスパブリッシャー,2006)

『カブール・ビューティー・スクール』(デボラ・ロドリゲス Deborah Rodriguez著,早川書房,2007.7.25)

『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31)

『教育と平和』(緒方貞子著,御茶ノ水学術事業会,2003)

『国際結婚 イスラームの花嫁』(泉久恵著,海象社,2000/2/21)

『国際人道支援におけるこころのケア アフガニスタンでの試み』(河野貴代美編著,新水社,2007.6.10)

『ブルカ沈黙の叫び』(アナ・トルタハーダ著,集英社,2002.4)

『紛争時,紛争後におけるメンタル・ヘルスの役割』(喜多悦子著,国際協力機構国際協力総合研究所,2005)

『ラティファの告白』(ラティファ著,角川書店,2001.12)

●支援団体

International NGO Activities in Afghanistan Set of 4 Maps: (February 2003)(英語)

アフガニスタンの会

ペシャワール会(プロパガンダ注意)

●総記書籍

『1時間でわかるアフガニスタン』(桑田剛著,廣済堂出版,2001.12)

『21世紀のグレート・ゲーム』(松井茂著,光人社,2002.1)

『アフガニスタン』(守屋和郎著,岡倉書房,1941.11)

『あふがにすタン』(ちまきing著,三才ブックス,2005.7)

『アフガニスタン 南西アジア情勢を読み解く』(広瀬崇子著,明石書店,2002.1)

『アフガニスタン 再建と復興への挑戦』(総合研究開発機構編,日本経済評論社,2004.3)

『アフガニスタン戦争』(デビッド・イスビー著,大日本絵画,1993/9)

『アフガニスタンに住む彼女からあなたへ』(山本敏晴著,白水社,2004.8)

『アフガニスタン敗れざる魂』(長倉洋海著,新潮社,2002.4)

『アフガニスタン山の学校の子どもたち』(長倉洋海著,偕成社,2006.9)

『アフガン戦略とアメリカの野望』(柴田三雄著,双葉社,2002.3)

『神々の戦争』(大高未貴著,小学館,2001/12/20)

『「哀しみの国」にすべてを捧げて』(カルラ・シェフター著,主婦と生活社,2002.9)

『獅子と呼ばれた男』(ジョン・リー・アンダースン著,清流出版,2005.6)

『獅子よ瞑れ』(長倉洋海著,河出書房新社,2002.10)

『女性と復興支援』(緒方貞子著,岩波ブックレット,2004/2/5)

『タリバン拘束日記』(柳田大元著,青峰社,2002.9)

『ポスト・タリバン』(遠藤義雄著,中央公論新社,2001.12)

『見えない難民』(谷本美加著,草の根出版会,2004.4)

『ワタネ・マン』(長倉洋海著,偕成社,2002.4)

『私のアフガニスタン』(駒野欽一著,明石書店,2005.8)

●地図http://www.1uptravel.com/worldmaps/afghanistan.htmlより)

基本的なアフ【ガ】ーン全国地図(簡潔で分かりやすい)

大雑把な地形河川,州境,都市の位置がひとまとめ。上の地図に山岳を足したもの。
古い地図みたいな雰囲気がおしゃれ,かつ地形が分かりやすい。

http://www.lib.utexas.edu/maps/historical/bokhara_n_1838.jpg

http://www.lib.utexas.edu/maps/historical/bokhara_s_1838.jpg

白地に線で描いた主要道路と空港の位置(隣接のタジキスタン南部にあるのはロシア軍用?)

カーブル〜ジャララバード〜パキスタンのぺシャワールに至る詳細地形図

http://www.lib.utexas.edu/maps/middle_east_and_asia/jalalabad_tpc92.jpg

http://www.lib.utexas.edu/maps/middle_east_and_asia/kabul_tpc92.jpg

アフ【ガ】ーニスタン民族分布図(アメリカ・テキサス大学作成)

「地政学を英国で学ぶ」◆(2010/08/27)アフガニスタンへの兵站:北ルート

●パ【シュ】トゥー語

A Dictionary of Pukhto, Pushto(パ【シュ】トゥー語―英語辞典)

Pashto Dictionary(パ【シュ】トゥー語―英語単語集)

WorldLanguage.com;「パ【シュ】トゥー語」(パ【シュ】トゥー語関係のソフトウェア,辞書等)


 【質問】
 カブールとカーブル,どちらが正解?

 【回答】
 前田耕作によれば,どちらも正解.

 「カーブル」と語頭を伸ばす人もあれば,「カブール」と呼ぶ人もいる.

 なお,バーミヤンは古くはバーミヤーンと呼ぶのが正しいが,アフガニスタンの人々は,今は誰も「ヤーン」と語尾を伸ばしては呼ばない.

(「アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン」,晶文社,2002/1/20, p.252,抜粋要約)

 ただし,嶋岡尚子著「旅の指差し会話帳 アフガニスタン」(情報センター出版局,2003/3/12)では,
「カーブル」
とされている.

▼ 大野正雄は複数の文献を参照した上で,
「フィールドワークした人たちの表記ではカーブル=C外務省用語では"カブール"表記だが,実際には正誤はない」
と結論している.
 以下引用.

――――――
「カブールは本当はカーブルと呼ぶのである」
 これは1941年に刊行された守屋和郎著の「アフガニスタン」の首都カブール≠フ書き出しである.
 守屋氏はそう言いながら本文中はカブール≠ニ表記せざるを得なかった.
 そうさせる立場であったのだ.
 彼は第2次大戦前の在アフガニスタン全権公使であったのである.

 一度カーブルを訪れたものは,カブールと言えなくなる.
 聞こえてくるのはカーブルだからである.
 つまり,アクセントが違うのである.
 カーブルでないと通じないのだ.
 手許の大野盛雄著「アフガニスタンの農村から」(岩波新書)と津田元一郎著「アフガニスタンとイラン」(アジア経済研究所)を見た.
 いずれもカーブルであった.

 ところが,日本の官公庁がらみのモノはカブールとなっている.
 外務省監修の「海外安全ハンドブック」は,当然ながらカブールであった.
 守屋氏の苦渋の一文を思い出す.
 官に右へならいして,学校の教科書,地図帳はカブールである.
 今も変わらないようだ.
 「世界大百科事典」(平凡社),現代用語事典の「イミダス」「知恵蔵」,そして中東調査会の中東・北アフリカ年鑑を調べてみた.
 カブールなのである.
 これは意外であった.

 確認のため,書棚にあるアフガニスタンに関係ありそうな本を開いてみた.
 岩村忍「アフガニスタン紀行」(朝日文庫),長澤和俊「シルクロード」(講談社文庫),梅棹忠夫「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫),松田寿男「砂漠の文化」(岩波書店),西川浩治「仏教文化の原郷をさぐる」(NHKブックス),本田實信「イスラム世界の発展」(講談社),これらはカーブルと表記している.
 予想通りであった.
 いずれもアフガニスタンをフィールドワークした著名な学者達である.

 もともと外国の地名を現地の文字と現地のアクセントで表記するのは困難なわけで,正誤ではなく,どちらでもいいような問題ではある.

――――――大野正雄著『アジア・ハイウエー見聞録』(さきたま出版会,2006.9.15),p.113-114

 本サイトでは,引用などの場合を除き,発音は『会話帳』に準じる.


 【質問】
 ヒンドゥークシュ山脈の「ヒンドゥークシュ」の意味は?

 【回答】
 「インド人殺し」という意味.
 少なくとも14世紀には,「ヒンドゥークシュ」の名が文献に見える.
 イブン・バットゥーダはこの地域を1330年代初めに訪れ,このように記している.
「山はヒンドゥークシュと呼ばれるが,これは『インド人殺し』を意味する.
というのも,インドから連れてこられた少年少女の奴隷が,厳しい寒さと大量の雪のために,数多くそこで死ぬからである」

 現在,ヒンドゥークシュ山脈には,サラン・トンネルと呼ばれるトンネルが掘られている.
 掘らせたのはソ連である.
 ソ連の経済援助でトンネルを開通させた.
 このときのソ連の真の意図は,ソ連軍によるアフ【ガ】ーン侵攻において明らかとなる.
 同紛争において,この
トンネルは兵站路として活躍し,そのためにムジャヒッディーン・ゲリラからしばしば待ち伏せ攻撃を受けている.

 したがって今日では,この山脈は「ルーシークシュ(ロシア人殺し)」山脈と言えるかも知れない.

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/336090141787570176
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/336090729900294144
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/336091116891938818
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける情報収集の難しさは何か?

 【回答】
 ノンフィクション・ライター野村進によれば,
「情報の確認を2つかそれ以上のニュース・ソースからすることを,私達の世界では「裏取り」という.
 だが,日本的常識では裏取りができたとしても,アフガンでは情報の正しさが証明されない場合が少なくない」
という.
 彼は根拠として,次のようなことを挙げている.

「後日,釈放された〔柳田〕大元に話を聞き,その理由の一端が分かった.
 アフガン国内では日常的に嘘が飛び買っているというのである.
 例えば,お互いをあまりよく知らないアフガン人同士が道ですれ違ったとき,
『どこに行く?』
と聞かれたほうが,
『カブールに行く』
と答えたら,それはカブールにだけは行かないという意味なのだそうだ.
 つまり,敵か味方か分からぬ人間に,自分の所在地を明らかにすることは,生命の危機を招きかねないいという判断からの嘘なのである.
 ベトナム戦争当時,ベトナム人もよく「嘘吐き」呼ばわりされたものだが,アフガンでのこうした嘘も,生き延びるための,言わば「戦場に知恵」なのであろう.
 とするなら,多民族が交錯するアフガン人のストリンガー(特約記者,ただしほぼ全員が素人)達が聞きかじってくる情報は,かなり疑わしい.
 こう判断した私が頼れるのは最早,パキスタン国内のパシュトゥン人ネットワークしかなかった」

(from 月刊「現代」 '02年1月号)

 ただし,柳田自身,アフ【ガ】ーン滞在経験が短いので,アフ【ガ】ーンの風土に関し,その言葉をどこまで信頼できるかの問題は残る.


 【質問】
 アフ【ガ】ーン人の気質は?

 【回答】
 感情のコントロールができにくいという.
 以下,パシュトゥニスタンでの事例.

 精神鑑定に用いるロールシャッハ・テストは,集団パースナリティー〔原文まま〕――ある集団の成員に共通なパースナリティー――の検出にも役立つというので,わたくしは前からこのテストを用いているが,今度もこれを,ナギールのポーターおよびクリーに対して試みてみた.
 〔略〕
 テストの結果は目下整理中であるけれども,一つだけここではっきりと言えることがある.
 それは,彼らのパースナリティーに,感情のコントロールができにくいという共通した一面のあることを,テストを通して確かめ得たことであって,この点では,度重なる反乱を始め,その多の行動から我々が直に得た帰結と,寸分たがわぬ一致が見出されているのである.

(木原均編「砂漠と氷河の探険」,朝日新聞社,1956/3/10,P.145)

 ただし,ロールシャッハ・テスト自体の信頼性に疑問が持たれている面もあるため,上記記述は何の根拠もない言いがかりになっている可能性もある.
「『心理テスト』はウソでした.受けたみんなが馬鹿を見た」
または簡便には
「嘘つきなロールシャッハテスト」
を参照されたし.

 ただ,アフ【ガ】ーン人の激情性は,松浪健四郎の著作等,他の文献でもしばしば言及されているものではある.


 【質問】
 ノマドの徴兵問題とは?

 【回答】
 ノマドとはアラビアで言うところの「ベドウィン」である.
 彼らは徴兵に応じないのだという.
 ソースが古いが,以下に引用する.

 アフガニスタンでは彼らの壯丁の中から徴兵せんとしたが應じないとの話を聞いた.兵營の中で住むのが嫌なのである.戸外で寢起きするのでなければ健康も衰へるのだと,或る書物に書いてあつた.
 然しノマドでも故國は忘れない.使用する語はアフガン語で,一旦緩急あれば銃を取つて國土の防衞に馳せ參じる.
 慓悍を以て鳴るスレイマン・ヘル族はカンダハルの東方のスレイマン山付近に住む全族ノマドたるパタン族なのである.

(守屋和郎=元アフ【ガ】ーニスタン駐在武官?,「アフガニスタン」,
岡倉書房,1941/11/15,\1.70(外地1.87),p.182)


 【質問】
 アフ【ガ】ーン遊牧民の生活はどんなものなのか?

 【回答】
 絶えず警戒しながら,大集団で移動する.
 教育水準は低く,不衛生になりがち.
 時の権力者はしばしば,彼らを武装させて不穏勢力・反乱勢力に対する圧力として利用している.

 以下引用.

 遊牧民達は長年に渡り,人間と自然の気まぐれをうまく切り抜けてきた.
 19世紀にイギリスの調査官が報告したところによると,土地を所有している諸部族との確執があるため,クチ(その名は移動する≠ニいう意味を持つ)は,1万人もの大きな群れをなして移動しなければ成らなかったという.
 ある調査官はこう書いている.
「彼らは,軍隊が敵国を通るときのように用心深く進んでいく.
 規則正しく行進し,前と後ろには,防御し易い位置に護衛がつき,見張り番がキャンプの見回りをしている」★1

 ボウィンダーとしても知られる,パシュトゥー語を話す遊牧民は,アフガニスタンの王達に奨励され,嫌われているシーア派のハザラ人に圧力をかける手段として,中央部の高原地帯に広がっていった.

 しかし,旧ソビエトの占領下では,古くからの移動ルートのあちこちに地雷が埋め込まれていたため,遊牧民達は冬の間の居住地に留まらなければならず,資源のことで頭を悩ませ,さらに定住民との間に緊張を生じながら,夏になっても彼らと一緒にいなければならなかった.

 ロシア人が引き上げた後も,ムジャーヒディーンの派閥闘争が続き,前線を越えることは危険であるため,毎年のハザラジャートへの移動を断念する人々が続出した.★2

 そして,タリバン勢力が台頭すると,タリバン兵は,厳しい制約を受けず顔も隠していない遊牧民の女達に,無理矢理チャードリーを着せようとした.★3
 しかしまもなく,同じようにパシュトゥー語を話し,土地を求める気持ちの強い遊牧民達の有用性に気付いたタリバンは,実際にクチ族を中央高地のバーミヤンに送り込み,彼らに武器を与えて,そこに住むハザラ人を撃退させた.

〔略〕

「クチはクチなんですよ.
 ロマは,自分は何持っているとか,持っていないとか,そういう事あまり考えない.
 ミルクも,ギーも,ウールも,何でも羊から貰います.
 どこにいい草があるか,天気はどうか,みんな良く知っています.何でも知っていますよ.それが仕事だから知っているんです.
 土地のオーナーと喧嘩になることもあります.
 草を食べるんだったら,オーナーは構わないけど,麦を食べちゃったら,困りますよ.だから,少し喧嘩になります」
 〔略〕
「クチの生活は,とっても汚いよ」 そう言って,〔祖父の代までクチだった〕ハビブは顔を顰めた.「身体じゅう汚れているし,服も汚い.絶対に洗えない.みんあ,くさーいよ.
 部族は勉強しないから,羊のことしか知らない.山,山,山ばっかり.
 水はいつも,ずーっと遠いところにある.
 昔は,世界中の人,みんな部族だったけど,今はみんな教育受けて,パンジャーブ人の生活は,現代的になってきている.
 一生クチみたいな生活しなくてもよくなった」
 ★1 Major Henry George Raverty, Notes on Afghanistan and Baluchistan (1878), Abid Bokhari, Quetta, 1976, p.496
 ★2 United nations Food and Agricultural Organization, Activities of Kuchi Survey Team, Working Paper No.1/99, June 1999, p.5
 ★3 'Afghan Woman Appeals to Taliban to Ease Strictures' by Michel Battye, Reuters, 22 October 1996
 私は,どうすれば遊牧民が再び自力で生きていけるようになるかを知りたかった.
 すると,〔カンダハールの町外れの遊牧民用の難民キャンプで,〕いつのまにか野外会議(ジルガ)が始まり,何人もの男達が首を揃えて,この問題が詳細に検討された.
 激しい議論の末,一家族を支えるためには,百頭の健康な脂尾羊が必要だという結論に達した.
 羊は2歳以上でなければならず,一つの群れ当たり5万カルダール,およそ3千ドルするという.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.410-411, 419 & 442


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにも出回っている密造銃は,どの程度の出来なのか?

 【回答】
 精度はかなり高いようだが,耐久性に問題がある模様.

 ちと,古いデータですが,以下引用.

------------
 プシュト族(パシュトゥン)は射撃の名手と言われているが,彼らの鉄砲は皆,自家製である.
 現に,コーハット〔トライバル・エリアの〕の近くの,ある部族で,わたくしたちは鉄砲を作っているプシュトの鍛冶屋と,それを売るバザールを見た.
 この自家製鉄砲の出来はなかなか見事で,外見はイギリス製,アメリカ製と違わない.
 標準精度も相当良いそうである.
 ただ地金が悪いので,数百発の発射で駄目になるということである.
 銃丸,火薬の類も,もちろん自家製である.

------------(木原均編「砂漠と氷河の探険」,朝日新聞社,1956/3/10,P.84)

 ちなみに中国・雲南省にも密造村のごときものがあるそうな.
 小規模な密造村なら,世界のそこかしこにあるのではないかと愚考いたします.

ダッラの鉄砲鍛冶
(画像掲示板より引用)

軍事板,2005/12/16(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 パシュトゥン民族主義とはどんなもの?

 【回答】
 進藤雄介著『タリバンの復活』p.155によれば,パシュトゥン人たちは,アフガーンで常に支配的立場にあった最大民族であるため,自分たちが政権の中枢にいるべきであると考えているという.
 そのため,政権から疎外されるようなことがあれば,パシュトゥン人たちの不満が増大し,その不満がパシュトゥン民族主義の高揚に発展するそれがあるという.
 ターリバーンが出現し,アフガーニスタンを支配しようとしたのも,パシュトゥン人による支配の復活の試みという側面があったと,進藤は述べている.
 一般に考えられている民族主義からは異質であり,一種の選民思想といえるかもしれない.

【ぐんじさんぎょう】,2010/09/20 21:20
を加筆改修


 【質問】
 パシュトゥン人は死を恐れない,というのは本当か?

 【回答】
 マスコミの作り上げた虚像であり,死を恐れる普通の人々だ,とする見方もある.
 以下引用.

 パターン人〔パシュトゥン人〕は勇敢だと言われる.
 たしかに彼らは臆病ではない.
 そのうえ,ムジャヒディンには
「侵略者を追い出し,イスラム教国を作る」
という「大義」がある.
 聖戦で戦死すれば,「シャヒード」という名誉の称号が贈られ顕彰される.
 だが,彼らは本当に死を恐れていないのだろうか.

 〔略〕
 30過ぎの男だったが,
「あなたもシャヒードになりたいか」
と冗談半分に聞いてみる.
 彼は私の目をさぐるように見つめながら,
「とんでもない」と言った.「家族のためにもまだまだ生きていたい」
 この基地でも,質問したほぼ半数から同じような答が返ってきた.
 独断的な私の結論を言わせてもらえば,パターン(アフガニスタン)のゲリラも,死を恐れる普通の人達である.
 「命知らずのゲリラ」だと世界に喧伝されているが,これはマスコミの作り上げた虚像である.
 彼らは死を恐れながら戦場に赴いていく.身のすくむような恐怖感の中で,圧倒的優勢なソビエト軍と対峙する.
 しかし,彼らはあくまで戦い続ける.そこに,救いようのない悲劇がある.

園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.265

 また,19世紀の英国人は,以下のように評している.

[quote]

「アフガニスタン人は生まれつき勇気があり,丘陵地帯の戦闘では,ゲリラ戦の形態をとっている限り,これに勝るものはない.
 しかし,自分のアイデンティティを抑え組織の一員になってしまうと,完全に自信を無くしてしまう.
 自分たちの民族の長が指揮をとっていて,友人たちと共に戦うのであれば,かたくなに守り抜くような土地でさえも,軍隊に属していると逃げ出してしまうのだ」
―――エドワード・ヘンズマン,1882年

[/quote]
―――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.143

 なお,

 アフガニスタン人は,ちょっとした軽傷でもヒステリックに大騒ぎする.
 そのくせ,重傷を負った時は,難行苦行でもするように,一言も弱音を上げずに我慢する.

Karla Schefter著「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」
(主婦と生活社,2002/9/17),p.94

という特性もあるとか.


 【質問】
 バダル(復讐)の掟には制限はないのか?

 【回答】
 ある.
 「間違ったことが正されるまで」という制限付き.

 〔略〕
 しかしこの地方に独特なこの争いにも限度はあった.
 争いの目的は間違ったことを正すためで,略奪したり相手を奴隷にすることではなかった.
 またパターン族〔パシュトゥン族〕の女性は昔から明るい色の服を着ているので,狙撃兵が彼らを狙うことはなかった.
 プシュトゥワリは平和的な生活を前提にしているのであって,服従生活を強いるためにあるのではない.
 人類学者ルイス・ドゥプリーは,
「厳格な掟,困難な生活を余儀なくされたタフな男達の厳しい掟」
と述べている.
 〔略〕

デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.17

 もっとも,何が正しいのかについて,各人で食い違いがあれば,延々と報復合戦が続くだろう.
 事実,復讐を恐れて一家で山奥に逃れる例もあるという.
 以下引用.

〔略〕
 ときとして,〔カラコルム山中の〕そうした険しい崖の途中に這いつくばるようにして建っている小さい粗末な民家が見えることがある.
 切り石を積んで外壁にしたり泥壁だったりする.
 3,4軒かたまっているところもあり,まるっきりの一軒家もある.
 近くにはむろん,店も畑も水場もない.

 何故,わざわざこのような不便きわまる山奥にぽつんと離れて住んでいるのか?
 サミイ氏の話によると,それらの民家には,それまで住んでいた土地で住めなくなり,遥々山の中へ移ってきた人たちが生活しているのだという.
 たとえばトラブルを起こし,相手を殺してしまった男がその被害者の家族からの血の復讐を恐れるあまり,一族郎党を引き連れて,人目につかないこうした山奥に移り住んでいるのだという.

 ここまで逃げこんで来ても不安は去らず,家長の男は一日中,銃を抱えて見張りをしている.
 働くのは女たちで,ときには子供も交えて高い山の上の畑へと作物を取りに行ったり,深い谷間へ水を汲みに降りていく.
 こうした生活が何十年も,ときには一生続くのだという.

 それほど用心深く暮らしていても,執拗に追って来た復讐鬼の手によって一家全員が撃ち殺される事件がたまにあるという.
 この付近はタマネギ一個のことでもメンツを潰されたとなればたちまち血の抗争事件が発生しかねないという土地柄.
 殺し合いが起こってもあまり報道されず,トライバルゾーンのため軍隊や警察も手を出せないのだという.

加藤久晴著『戦場のシルクロードを行く』(日本テレビ,1984.3),p.70-71

 日本の「サンカ」伝説を地で行く話である.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンの水の水質は?

 【回答】
 コバルトおよび石灰質が多いという.
 以下引用.

 アフガニスタンで生活したときは,大きな茶瓶を購入して,それに水道の水を入れて湯を沸かした.殺菌である.
 水道水には特有のコバルト成分が多く含有されていて,風呂に水を溜めただけでも水は青色になった.しかも石灰質が多いのか,茶瓶の中に石灰がこびりつくのには驚くしかなかった.
 湯を冷まして,それで料理したり飲んだりしたのである.

2004/6/12

(松浪健四郎著「折々の人類学」,専修大学出版局,2005/4/10,p.159)


 【質問】
 コームチョルッグとは?

 【回答】
 皮製の靴,というか皮そのもの.
 防寒性はあるが,雨や雪では滑り易くなるという.

 以下引用.

 起伏の激しい山道を歩くには,丈夫なはきものが必要だった.
 ぼくがはいているコームチョルッグは,紐を外すと,とたんに平べったい1枚の皮になってしまう.
 そのままにしておくと固くなって足が包めなくなる.
 一度ぬいだら,かならず水に漬けておかなければならなかった.
 手入れは大変だが,コームチョルッグはとても丈夫で,しかも軽くて歩きやすい.
 防寒にはもってこいのはきものだが,雨や雪のときは滑り易い難点があった.

フルグラ・コフィ著『アフガニスタンの星を見上げて』(小学館,1989/9/1),p.84

 ムジャヒッディーンはサンダルを履いているという情報もあったが,はて…….


◆◆国境問題

 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにとっての主な国境問題は?

 【回答】
 守屋和郎はアフ【ガ】ーン人の心理の面から考察して,次の3つを挙げている.
 以下引用.

然しアフガニスタンの人々の心理を割つて見れば,最も殘念に思つてる失地は,第1にカシミルからバルチスタン及びシンドに至るパタン族居住地帶,即ちヤギスタンである.
 第2にパミールのジクナン,ローシヤン及デルワズである.
 第3にパンジティである.
 之れ以外の領域に就ては深き怨を持つて居ないかの樣にも見えるのである.
 斯く言ふ理由は上記の領域に就てのみ,アフガニスタンの官民の注意が失地回復の企圖を成した跡が歴然と記録に殘つて居るからである.
 現在のソ聯邦トルキスタンに於ても,ダヂック族,ウズベック族及トルコマン族とが人爲的國境に依り二分されて居るに拘らず,アフガニスタンに在る同族の失地回復の慾求は,南方のパタン族の如く熾烈とは見えないのである.

(,「アフガニスタン」,岡倉書房,1941/11/15,
\1.70(外地1.87),p.233-234)

 国境の変更はそれ以後ないので,失地回復の欲求も変化ないだろう.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンと中央アジアとの国境は,いつごろ,どのようにして確定したのか?

 【回答】
 現在のAfghanistanの領域は,概ねトルキスタンに立てられたトルコ系イスラーム国家の中にありました.
 それらは,ガズナ朝,ホラズム・シャー朝,バーブル,ティムール朝,シャイバーニー朝であり,ブハラ・ハン国の支配下にありました.
 そして,アブドゥッラー・ハンの死後は,Afghanistanの一部はペルシャとムガール帝国との間で分割されます.

 Afghanistan北部のバグディス,ファルヤブ,サリプール,ジュズ地帯,バルフ,サマンガン,バグラン,クンドゥーズ,パンジシール,バダフシャーン,トハルの各州は,19世紀の中頃までブハラ・アミール国の統治領域であり,アミールの皇太子が代々バルフで政務を執っていました.
 つまり,この地域はブハラ・アミール国にとっても非常に重要な地域だった訳です.

 しかし,1873年の英露間の「大芝居」により,トルキスタン南部は祖国から切り離され,インドとペルシャとの間にパシュトゥーン族の人工国家を作ろうとしました.
 そう言う意味では,現在混乱が続いているイラク等のやり方と同じ方法というか源流です.
 これらは翻ってみると,元々トルキスタンの一部であったAfghanistanを,自分たちの意のままにしようとする表れでした.

 18世紀,中央アジアの一部と現在のAfghanistan地域を統合していたのは,アフシャール・トルコ族出身者の王でした.
 1747年,その地域を統べていたナーディル・シャーが突然死去し,彼の国家は空中分解してしまいました.
 無主となった地の内,北部はブハラ・ハン国が進出して自国の勢力圏としますが,南部は英国の援助でパシュトゥーンのドゥラニー族が新たな国家を樹立し,国号をAfghanistanとしました.
 よって,この国は最初からAfghanistan人なる人種も民族もおらず,様々な言語,人種と文化を持ったパシュトゥーン,タジク,ウズベク,トルクメン,カザフ,ハザラなどの複合体として形成されており,以後も民族の団結や,経済,文化,政治面で統合が為されていません.

 19世紀に入り,1850年にはロシアはまだカザフ・ステップ辺りで要塞の構築に忙殺されていましたが,英国は,自分たちが樹立させた人工国家Afghanistanの領域をブハラ・アミール国の領域まで拡大させ,それを強化して,トルクメニスタンに於いてロシアと対抗させようとします.
 この為,英国はAfghanistanに対し軍事・政治的な支援を行い,Afghanistanはそれに応えて,トルキスタン南部のブハラ・アミール国の保護領であったクンドゥーズ,マイマナ,アンドホイのベク政権(地方領主)を攻撃,占領しました.

 戦争の結果,英国の後押しで,ブハラ・アミールに使者が送られ,ブハラ・アミールはチョルジョイとカルシーの町を譲り,シャフリーサブズのベク政権を独立させる様に要求しました.
 長々とした交渉の結果,1860年にブハラ・アミールは自身の軍隊をこの地域に送りますが,全面戦争には至っていません.
 既にこの頃にはロシアがトルクメニスタンに進出し始めており,英国の支援の下でのAfghanistan軍との戦争による疲弊と,ロシアとAfghanistanとの両面作戦を嫌ったものと考えられます.

 結局,その後ブハラ・アミールはロシアに膝を屈し,ロシアと英国との間で幾度かの外交交渉が持たれた後,1873年に先述の協定締結を行います.
 この結果,ロシアはAfghanistan(南部トルキスタン)とバダフシャーンに対する支配圏が認められますが,中央アジアに英国との中立地帯を設ける為に,この地域をAfghanistanに譲渡してしまいました.

 因みに,元々この地域には支配部族であるパシュトゥーンは殆どいませんでした.
 また,ロシアとの権益の境界はアムダリア川となりましたが,元々この境界線自体,歴史的に見て只の一度も民族的かつ政治的境界になった事はありません.

 そんな地域に対し,当時のAfghanistanの支配者であるアブドラーマンはウズベク人とタジク人の同化政策を推進し,彼らをAfghanistan南部に送る政策,所謂アフガン化政策を始めました.
 これに対抗して,北部では幾度も暴動が起きています.
 また,南部トルキスタン地域はAfghanistanに比べると,中央トルキスタン地域との交易を通じて経済水準,文化水準もあらゆる面で勝っていましたが,Afghanistanにこの地域が編入されるとこの地域の経済状態,文化水準は大幅に低下を余儀なくされてしまいます.

 「アフガン化」は,即ち住民のメンタリティや生活水準が低下し,生活水準に起因する住民同士の争いやもめ事は日常的となり,終わりの無い争闘や内乱に巻き込まれていきます.
 そして,「アフガン化」は,ウズベク,タジク,トルクメンの諸権利や固有の言語の減少も招き,こうしたこともあって,北部住民達はパシュトゥーン中心のカブール政権に対する不信感を抱き,それは現在に至るまで尾を引いています.

 時代は飛びますが,1979年から89年に亘って行われたソヴィエト占領時代,カブール政権が弱体化した時には,北部のウズベク人とトルコ系住民の代表であるアブドゥル・ラシッド・ドストゥム将軍と,タジク人のアフマドシャー・マスード司令官は互いに防衛力を強化して並び立っており,これがターリバーンに対抗する北部同盟の基盤となっています.
 彼らは,ソ連軍に対抗するのは勿論のこと,南部のパシュトゥーン族中心の権力にも対抗していた訳です.
 それは,19世紀に自分たちが不当に編入されてしまった地域住民のアイデンティティを取り戻す活動でもあったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/29 23:37


 【質問】
 デュアランド・ライン無効説はどういう理由によるものか?

 【回答】
 協定の性格の定義付けに起因する.
 英国との協定を結んだ当事者が誰なのかを巡り,パキスタンとアフガニスタンとの間で揉めている.解釈次第で協定は無効にも有効にもなるからである.

 以下引用.

 1893年11月12日に,アブドゥルラフマンと英領インド政府のデュアランド大佐との間で締結されたデュアランド・ライン国境画定合意は,現代のパキスタン・アフガニスタン関係にまで影を落としている重要な意味を持つ協定である.
 この協定がアブドゥルラフマンと英国との間の協定なのか,アフガニスタンと英国との間の協定なのか,英国の一方的圧力によるものであったのか,などの問題が残り,その後,アフガニスタン側からこの協定の性格に対する疑問が提起された.
 パキスタン側の研究の多くは当然ながらデュアランド・ラインの合法性を主張するものとなっており,パキスタンとアフガニスタンの国境問題は解決済みとする主張を行っている.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.108


 【質問】
 デュランド・ラインで確定された国境線は,アフガニスタン・パキスタン間のものだけか?

 【回答】
 それ以外にも,
・オクサス(アムダリヤ)川の国境画定
・ワハーン回廊のアフ【ガ】ーニスタンへの帰属
が含まれている.
 デュランド・ラインはパシュトゥニスタン問題を生み出すもとになり,その問題は現在も尾を引いている.

 以下引用.

 デュアランドのアフガニスタン側との交渉過程に関する記録,つまりデュアランドが英領インド外務省に提出した文書によると,これは単にアフガニスタンの南東部のパシュトゥーン民族の分断にとどまらない広範な国境画定交渉であったことが分かる.

 当時アフガニスタンの国境問題は英露間で深刻な問題となっており,ロシア側は1872〜73年の間の両国間の協定に含まれていたオクサス(アムダリヤ)川以北の領土をアフガニスタンが放棄する条項の厳格な実施を執拗に要求していた(Yumas 2003: 47).
 そのため第1に,英国はまず北部のロシア領との国境画定をオクサス川に置くことを強く主張する事になった.
 これはオクサスの右岸がアフガニスタンの北の国境であると同時に,ロシアの勢力圏の南端であることをロシアに確認させる意味を持っていたからである.
 英領インド・アフガニスタン国境画定問題は英露両国間でリンクしてとらえられていたと見られる.

 第2に,アフガニスタンと英領インドの国境画定は,国境周辺のパシュトゥーン系諸民族にどう対処するかという問題と深く関わっていたことである.
 今日オサマ・ビンラーディンが隠れていると言われるこの地域(FATA: 連邦直轄部族地域)は統制不能という意味で英領インド植民地政府にとっても悩みの一つであった.

 第3に,東部ワハン回廊をアフガニスタンに統治させようとしたことである.
 アブドゥルラフマンはワハン回廊をアフガニスタン領として保持する熱意を持っておらず,むしろ撤退の意図さえ表明していたのをあえて説得したものである(Yunas 2003: 45).
 英国はロシア・中国の合意のもとでワハン回廊をアフガニスタンを通じて英国の影響圏に置くことに関心を有していたのである.
 これはアフガニスタンの国境をロシアの意向も考慮に入れて画定しようとする英国側の全体のデザインに沿ったものであった.

 第1の北部国境に関しては,1872〜73年の上記の英露間の協定に沿って,英国の課題はアフガニスタンに対してオクサス川北岸のローシャンとシグナンからの撤退に合意させることであった.
 その見返りとして,ブハラ領となっているダルワーズ地区をアフガニスタンに帰属させることになっていた.
 つまり,オクサス川以北を放棄させる事により,アフガニスタンの北部国境の安定を目指したのである.

 第2の結果は,パシュトゥーン民族がアフガニスタンと英領インドに分断されたことである.
 現在パキスタンの北西辺境州は1747年当時アフガニスタンの領域であったが,英国の前進政策の対象として縮小傾向が続いた.
 19世紀半ばの英スィク戦争の結果,アフガニスタン支配下に置かれていたペシャーワルと現北西辺境州は英領インドの直接支配下に移されることになった.
 デュアランド・ラインによってパシュトゥーン民族のアフガニスタンと英領インドへの分断が固定化されたことは,周知の通りその後,パシュトゥーン問題を生み出した.
 つまり,英領インド,さらに後継国家であるパキスタンとアフガニスタン国家との間の国境に関する係争問題である.
 アブドゥルラフマンは英国の圧力でこの合意を飲まざるを得なかったが,この協定は英国への不信感を強化されるものであった.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.108-109

 アフガニスタン南東側が1893年のデュアランド・ラインによって確定されると,カーブル政権は北の非パシュトゥーン地域の拡大・編入に一層力を入れた.
 それはパシュトゥーン人の入植を促進させ,アムダリヤまでをアフガニスタン内部に強引に組みこむプロセスでもあった.
 その結果,アフガニスタンはパシュトゥーン人の支配下での非パシュトゥーンのタジク,ウズベクなどの多民族と混住する国家としての性格を一層強めることになった.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.109


 【質問】
 パキスタン軍って,アフガニスタンに攻め込む気はなかったのかな?

 【回答】
 可能ならそうしただろうが,実力不足で不可能.

***

 パキスタンの判断や検討については未知.
 パキスタンにとってのアフ【ガ】ーニスタンは,インドとの戦いにおける「戦略的後背地」と位置付けられている.
 アジア経済研究所編『アフガニスタンと周辺国』(だったかな?)では,その戦略的縦深というものにパキスタン軍――パキスタンでは戦略は,ほぼ軍の専管事項――は拘り過ぎ,ターリバーン支援のような失策を生じさせたと指摘されている.


 だがパキスタンにとっては,部族直轄地域や北西辺境州は魔窟.
 国境をまたいでパシュトン人部族が居住しており,自立の気風があり,中央政府の統治が及んで居らず,かつてソ連,近代に入ってからも,その統治に非常に苦労した大英帝国という国があることを,パキスタンは知っている.
(なお,帝政ロシア軍やソ連軍が,デュランド・ラインを跨いでパシュトゥニスタンのパキスタン領側に侵攻した事例は,特殊部隊によるムジャヒッディーン拠点襲撃を除いては,存在しない)

 その上,無理な核兵器開発が祟って,パキスタン軍は装備貧弱であり,【カ】イバル峠を越えて軍をアフ【ガ】ーニスタンへ侵攻させることはできたとしても,兵站がおぼつかないために占領を維持することは,素人目にも不可能.

 ……というわけで,戦略的縦深確保のためにアフ【ガ】ーニスタンをパキスタンの支配下に置くことは,インドからの攻撃に常に脅えているパキスタン軍の悲願でありながら,それだけの実力を持たないため,勢い不正規戦に手を出すことになる.
 アフ【ガ】ーニスタン紛争(対ソ戦)時代のムジャヒッディーン支援に際し,露骨にヘクマチァール派を贔屓して重点支援したのもそのためで,ヘクマチァール派を中心とした親パキスタン政権が誕生することを望んでいた.
 山根聡によればヘクマチァール支援は,パキスタン政府内に「アフガニスタン局」が開設された1974年には,すでに始まっていたという(『ハンドブック現代アフガニスタン』,p.23)

 ところがヘクマチァールという,イスラーム法学者上がりのこの男,アフ【ガ】ーニスタンの政権を取るにはヘタレ過ぎた.
 対ソ戦時代にしてからが,パキスタンの贔屓援助によって,最大の軍勢を誇っていながら,ほとんどロクに戦おうとしなかった.
 一番やる気を見せたのは,最後のソ連傀儡政権ナジブラー政権が倒れ,ムジャヒッディーンの連合政権であるラバニ政権が誕生して後.
 そのラバニの軍を攻撃するため,カーブル市街地を砲撃したときだったという始末.
 しかもラバニ派にはマスードという名将がいて,ヘクマチァール派は不意打ちで勝利を掴むどころか,泥沼の内戦の火蓋を切っただけに終わる.

 結果,アフ【ガ】ーニスタン国内は乱れに乱れ,パキスタンにとっては戦略的後背地の確保どころか,難民がさらに押し寄せるわ,パキスタン側の国境周辺地域も不安定になるわと,踏んだり蹴ったり.
 ……まあ,自業自得ではあるけれど.

 タリバンは確かにあるが,当初は民間組織が支援しているのみで,後に,中央アジアからのパイプラインが,アフガンとパキスタンを通過すれば,通行料で潤うとかいうもくろみがでてきてからISIがでてきたらしい.

 そんなとき,オマル率いるアフ【ガ】ーン人の小グループが,パキスタン領内に逃げ込んでくる.
 なんでも風評では,サンヒザルという小村で,少女を拉致したという軍閥司令官を奇襲攻撃して,その首を吊るししたのだという.
 パキスタン軍諜報機関ISIは,このオマルという男に目をつける.
 詳しい経緯は不明だが,マーティン・ユワンズ著『アフガニスタンの歴史』他によれば,当時,パキスタンの内相をしていたバーバル将軍は,オマルに武器と兵員を与え,軍閥が勝手に関所を作っている道路を啓開し,軍閥を追い払って関所を一掃し,中央アジア陸上交易ルートを確保しようと考えたらしい.
 同時にISIは半年かけて,カンダハール州内に支援グループを複数潜伏させ,オマルが侵攻すると同時にそのグループが決起するよう計画した.

 この作戦は大成功!
 作戦開始からわずか数日で,オマルの部隊はカンダハールを陥落させることに成功する.
 これこそ電撃戦.
 ターリバーンの華々しいデビューである.
 その後のターリバーンの快進撃ぶりは,ラシッド『タリバン』(もう絶版なんだとさ orz)に活写されている通り.

 この成功を見て,パキスタンはヘクマチァールを見限り,ターリバーンに本格的に肩入れするようになった.
 パイロットや正規軍将校まで,ターリバーン支援に差し向けた.
 また,ターリバーンによる武器・弾薬その他調達品の需要に応じ,パキスタン業界も巨額の利益を得たという.
(大西圓 in 『アフガニスタン 国家再建への展望』,明石書店,2007.5.10,p.149)
 そしてその蜜月は,オマルがビン=ラーディンに懐柔され,ターリバーンがアル・カーイダの別働隊のようなものになる頃まで続いた.

(ちなみに後に1999年,カシミール地方のカルギル地区でも,パキスタンは似たような方法,すなわち武装勢力を潜伏させ,支配地域を広げるというやり方を試みたらしいが,インド軍の反撃に遭って失敗する.
 これがカルギル紛争である)


 今ではパキスタン・タリバンやカシミール独立分離運動過激派などとも融合したのか,タリバンは手が終えなくなっているのではないか,一連の国内テロはタリバンが下手人ではないかとも見られているけども,宿敵インドは依然健在で,ますます経済発展を遂げており,パキスタンとしての脅威順位はインドのほうが上.

 それどころかインドの経済発展の結果,国力でも正規軍戦力でも印パの格差はますます開き,その上,インドはアフ【ガ】ーニスタンでの自国のプレゼンスを増大させている.
 深町宏樹(桜美林大学非常勤講師)によれば,パキスタンとインドの間で,アフ【ガ】ーニスタンを巡って覇権争いが展開されているという.
 イラン・チャーバハール港経由で無関税の恩恵を受けつつ貿易を行える,アフ【ガ】ーニスタン・インド・イラン3国間覚書調印(2003年1月)――アフ【ガ】ーニスタンのパキスタン港湾依存度が低下する――も行われている.
 アフ【ガ】ーニスタン国内には,4ヶ所もインド領事館が開設されている.
 これに対してパキスタン政府はバローチ・パシュトゥーン両民族の不満に乗じ,在カンダハールのインド領事館経由でインド政府が「内政干渉」してくるのを恐れている模様だと述べている.
(『アフガニスタンと周辺国』(鈴木均編,アジア経済研究所,2008.3.14),p.92-94 & 98-100)

 それになにより,アフ【ガ】ーニスタンが親インドになれば,戦略的後背地が消えて無くなってしまう.

 その結果,パキスタンはますます核兵器開発と非正規戦に依存せざるを得なくなっている.
 近年インドでしばしば起こるテロは,パキスタンが支援する過激原理主義勢力の犯行だ――インド側はそう見ているし,実際にムンバイ同時多発テロでは,インド軍が国境に集結して圧力をかけた結果,しぶしぶパキスタンは過激原理主義テロ組織「ラシュカレ・タイバ」の人間を犯人として何人も引き渡してもいる.
 同じくムンバイで2006年に起きた列車テロも,パキスタンの過激原理主義勢力の仕業と見られている.
 カンダハールで復興事業に携わっていたインド人が,ターリバーンに誘拐され,首を切断される事件も2006年4月に発生している.
 ISIもアメリカの意に反し,こっそりとターリバーン支援を近年まで続けていたと見られている.

 しかし,そうしたパキスタンの非正規戦依存が,「パキスタン・ターリバーン運動」(TTP)の勢力増大をもたらし,今や当のパキスタン政府を脅(おびや)かすほどになって,さらなる国内混乱を招き,国力低下に拍車をかけるという悪循環に陥っている.
 皮肉なものである.

軍事板,2009/12/17(木)
青文字:加筆改修部分


◆◆国力


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンの貿易品目は?

 【回答】
 現在では,中東調査会のHPを見ても,外務省のHPを見ても「不明」としか書かれていない.

 報道によれば,レーズン輸出が復活しているという.
カンダハルのレーズン工場(AP)
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A31892-2003Jan9.html
という記事によれば,かつては輸出産業だったアフガニスタンの干しぶどう製造が復活している.

 タリバン時代には女性の就労が(一部を除き)禁じられていたわけですが,この工場で働くのは65名の女性従業員で,レーズンの洗浄・選別・パックなどをしています.
 多くは戦争未亡人で,その収入で家族を支えている人が多いとのこと(賃金は1日1.7ドル.なお去年,瓦
礫撤去をする作業員が1日1ドルと報道されていました).

 アフガニスタンのレーズンは70年代には7万トンを輸出していたそうですが,内戦期以後は生産が減少し,トルコやイランなど他の生産国が伸びていました.
 この工場ですでにチェコに100トンを輸出し,現在は英国からの数十トンの注文にかかっているとのこと.

(HN"533" in 軍事板)

 1960年代のデータでは,以下の通り.

------------
 輸入16億アフガニ(ざっと130億円)の内,ソビエトの5億8千アフガニがトップで,トラック,建築資材,鉄製品が目立つし,輸出では,15億アフガニ(120億円)の内,トップがインドの4億4千,ソビエト4億,米3億2千アフガニという順になる.
 カラクル皮など皮製品が3分の1,果実類が3分の1,羊毛・綿花類が3分の1というのがアフガン輸出の大雑把な特徴なのだが,果実はインド,パキスタンに売れ,流行に左右され易いカラクル(アストラカン)のお得意先が米,最も手堅い羊毛,綿花の需要がソビエトという色分けができるのだ.

------------(平野一郎=イラン・アフ【ガ】ーニスタン・パキスタン特派員「シルク・ロードを行く」,朋文堂,1960/8/30, P.276-277)

 ちなみに,1930年代では以下のような貿易が行なわれている.

------------
 最後にアフガニスタンの貿易の振興であるが,貿易の振興だけは,アブドル・ラハマン王は考へ付かず,税を多く掛け過ぎたとの説が,在る本に載つて居た.
 然しアマヌラ王以來合理的な關税が定められて,今は申分ない貿易の振興策を執つて居る.

 アフガニスタン政府は獨逸,ソ聯邦,伊太利等との間にはバーター・システムに依る貿易協定を締結して居る.
 印度との間には是等の協定はないけれども,此の國との輸出入貿易は第1位になつて居る.

 アフガニスタンの輸出入貿易を一覽するに,獨逸からは主に武器,染料,藥劑品,鐵,機械等を輸入してをり,伊太利からは武器の一部,高級綿製品,人絹製品及毛織物類等を輸入して居り,ソ聯邦からは石油,セメント,鐵材,綿布,砂糖等を輸入して居る.
 英國及印度からは石油,セメント,鐵材,高級綿製品其他雜貨を輸入して居る.

 アフガニスタンの輸出は印度に對してはカーペット,乾果物,青果,皮革類,印度を通じて英國へは,カラクル,駱駝毛及羊毛を,獨逸其他の國への輸出は前記のカラクル,カーペット,棉花,乾果物,少量の阿片,棉花〔原文マヽ〕,ラピス・ラズリー(璢璃石)等の寶石,皮革,駱駝毛及羊毛を主たるものとする.
 アフガニスタンが輸出を増加しようとして増産を目指して居る品目は,此の中カラクルと棉花である.
 棉花は年額2萬tの内2千トンを國内消費する他は,獨逸,ソ連,伊太利及印度に輸出して居る.

 日本との間に於ける貿易は未だ直接貿易の状態には立到つて居ない.概ね印度人を仲介として行はれて居るのである.
 日本からアフガニスタンに行くものは,8割迄白い木綿である.
 其の額は正確な統計はないけれども,過去2,3年の平均は5,6百萬留比〔ルピー〕程度であつて,不幸にしてアフガン國産品にして日本の需要するものがないので,日ア貿易は片貿易の状態に在る.
 而して綿布は日本からばかりでなく,露西亞からも澤山入つて居る.印度からも入つて居る.
 ゆえに日本白木綿のアフガニスタンに輸入せられる額は,アフガン需要額の約25乃至30%である.
 アフガニスタン政府は,能う限り個人求償主義及バーター制で貿易協定を結ばうとしているから,片貿易の現状に於ける日ア貿易の調整は頗る困難であり,前途必らずしも樂觀を許さない.
 ア國綿布工場の竣工は,又必然的に日本品の輸入に影響するだらう.日本綿布は,印度がアフガニスタンより多く輸入し同國へ少く輸出してる關係に便乘し,あたかも印度品の如くに印度人によりアフガニスタンに賣られて居るのである.

------------(守屋和郎=元アフ【ガ】ーニスタン駐在武官?,「アフガニスタン」,岡倉書房,1941/11/15,\1.70(外地1.87),p.127-128)

 その他,ラピス・ラズリという特産品も存在する.

------------
 〔略〕アフガニスタンにも有名な貴石≠ェ産出される.「ラピス・ラズリ」だ.
 これも,幸福をもたらせてくれる石として,つとに有名である.
 「トルコ石」「ラピス・ラズリ」共に歴史的な石で,古代エジプト,メソポタミア,古代インド,古代中国の遺跡に,想像できぬくらい用いられた.古代ローマはもちろん,古代ギリシャでも珍重され,いかにして流通したのか驚かされよう.
 〔略〕
 ラピス・ラズリの産地は,アフガニスタンとロシア,天山山脈だけだが,アフガニスタン産が全てにおいて勝る.
 ラピス・ラズリは濃い「水色」というより,濃紺.「ラピス」はラテン語で「石」を意味し,「ラズリ」はペルシャ語で「空」とか「天」を言う.
 古代産地はアフガニスタンだけで,首都カブールでは今も専門店が軒を連ねる.

2004/5/9

------------(松浪健四郎著「折々の人類学」,専修大学出版局,2005/4/10,p.152-153)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 パンジシール渓谷のエメラルド鉱山はいつ発見されたのか?

 【回答】
 1974年だという.
 以下引用.

 〔故マスード将軍の義弟ラシッド・〕モハマディの話によると,28年ほど前に1人の羊飼いが鉱山を発見して一産業を興した.
 アフガン産エメラルドの高級品は今日,1カラット(200ミリグラム)が2000ドル以上する.
 より下級のは1カラット500ドルぐらいで売れる.
「羊飼いは緑の石を見つけて村に持ち帰り,友人に見せました.噂が広まり,1年後には彼らは採掘事業を始めました」
とモハマディは説明した.
「[アフガン大統領だったモハマド・]ダウド・ハーン政権下[1973-78]には,鉱山省が設立されてこの事業を監督しました.
 しかしこの政権が倒れたのち,鉱山はいろいろな人の手に渡りました.
 ソ連による征服とジハードの時代には,ムジャヒディンが鉱山を支配していました」
と彼は述べた.

タニヤ・グースージアン「アフガニスタンのエメラルド」
from 自由ヨーロッパ放送 2002年11月28日

(翻訳: HN"533" in 軍事板)


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンのエメラルド鉱山は現在どうなっているのか?

 【回答】
 現在も採掘は続けられているようだが,
・エメラルドの公的規制機関がないこと
・鉱山のもつ潜在的採掘可能性を予測する設備がない
・鉱山は宝石を切り出すための先進的技術がない
という点で問題があるという.
 以下引用.

パンジシール渓谷のエメラルドの話

 外国の地質学者や投資家たちが,北部アフガニスタンの豊かな天然資源を再び見ようと,少しずつパンジシール渓谷に入って行くようになった.
 この地域を訪れた人々は採掘の潜在的可能性に深い印象を受けるが,23年間の戦争はこの国の宝石資源をほぼ手つかずの低開発状態においたままにしている.

 〔略〕

 〔故マスード将軍の義弟ラシッド・〕モハマディはロシアのビジネスマンであるアレクス・ロガチンスキーとその仲間を5月にパンジシールに招いた.これはロガチンスキーの最初のアフガニスタン旅行で,その唯一の目的はアフガンのエメラルドの潜在的可能性を調べることだった.
 ボザラクの村に散らばる田舎屋敷の一つで,アフガン流に絨毯を敷いた部屋で豪華な夕食を満喫したあと,主人と未来の投資家は薄暗い明かりのついた客間に入り,そこの小さなテーブルのまわりに肩を寄せ合って座った.
 数個のガラスのボールにはダークグリーンの結晶した石の塊が縁までいっぱいに入っていた.
 ロシア人たちは拡大鏡を取り出して,朝食のシリアルのように彼らの前に置かれたこの貴重な緑の石をもっと精密に調べた.
 宝石は原石で,カットされていなかった.訓練された彼らの眼は石の非常に深くまで入っているかもしれない亀裂を探した.
 ロガチンスキーはこのエメラルドは非常に高い品質であることを認めたが,いくつかの問題を起こすかもしれない取引の一側面を見て取った.
「最大の問題は,アフガニスタンにはエメラルドの公的規制機関がないことです.価格を決定する委員会もコンソーシアムもありません.政府は取引をコントロールしていません.数家族が運営しているのです」
と彼は述べた.
 モハマディはこの批判を退けた.エメラルドの価格は石の価値で決まる,と彼は強調した.
「キロあたりいくらで売っているわけじゃない」
と彼は警句を吐いた.

 〔略〕

 モハマド・カシム・ファヒム国防相の下にあるアフガン国防省が,現在は鉱山をコントロールしているが,鉱山は宝石を切り出すための先進的技術がないことに苦しんでいる.
「地表近くに非常にたくさんのエメラルドがあります.…これは山の地下深くに眠っている富を示すインジケーターです」
 モハマディは説明した.「われわれは採鉱のために開発されたものではない鑽孔機を使っていますし,ダイナマイトも使います.ときどき,でたらめな爆発で宝石が損傷したり失われたりすることがあります.
 われわれには爆発物を仕掛ける前にエメラルドのようすをチェックするための新しい機械やレーザー,X線が必要です」
と彼は言った.
 モハマディは西側の服装をパリッと着こなし,このビジネスを「カジノ」にたとえる.
「何年もかけて10万ドルを費やしても,何も得られないかもしれません.
 しかし別の時には,ただ1度で何百万ドルも作れます.
 私たちは,自分の鉱山のもつ潜在的採掘可能性を予測する設備を持っていません」

 800名から1200名のアフガン人労働者が採掘場で働いている.
 これらの労働者の年齢は12歳から65歳にわたり,閉所のトンネルの末端で金属の棒や鉄槌,かなてこ,シャベルを使い,またダイナマイトで破砕された粗石をより分ける辛い作業に従事している.
 彼らは週5日山麓に泊まり込んで働いているが,それは鉱山への道が毎日通うにはあまりに遠いからである.一番近い村にも徒歩で2時間かかる.

 労働者も彼らが掘り出した宝石の小さなかけらを貰っているが,道具類を支給し経費を支払っている実業家はかなり大きな宝石を得ている.
 パンジシール渓谷でエメラルドの取引に携わっているのは30家族ほどで,その大部分は北東部で支配的なタジク人の部族に属している.

 パンジシール渓谷のエメラルド採掘に対する課税は,ソ連占領期からマスードの資金源になっていたが,近年には彼は採掘や宝石の販売に対する統制を強化していた.
 彼が作ったシステムは去年(※2001年)の9月に彼が暗殺されてからも存続している.
 今は誰が取引をコントロールしているのかと聞かれて,モハマディは冗談まじりに答えた.
「誰かだ!」

 タニヤ・グースージアンはアフガニスタンが専門のジャーナリストである.

タニヤ・グースージアン「アフガニスタンのエメラルド」
from 自由ヨーロッパ放送 2002年11月28日

(翻訳: HN"533" in 軍事板)


 【質問】
 アフ【ガ】ーン銅山開発について教えられたし.現代のアフ【ガ】ーン銅山開発について教えられたし.

 【回答】
 この銅山の権益には,中国の他に米国,ロシア,カナダの鉱山企業が応札したが,これらが20億ドル台のところ,中国が一気に30億ドルで権益を取得したという.
 しかしこの地域はターリバーン勢の拠点に近く,もっとも危険な場所であることと,開発までには,道路や電力などインフラ建設が必要で,開発までに相当の年月が必要だろうという.
 しかし,埋蔵量を金額で換算すると,今日の銅価格を基準に300億ドルの銅埋蔵があるという.

 詳しくは
China wins right to explore Afghan copper mine: ministry
および
メール・マガジン[ 日刊アジアの開発問題 No.188 2007/11/23]
を参照されたし.


 【質問】
 ロガール州の銅山の現状は?

 【回答】
 ロシアの推計では埋蔵量世界最大だと言うが,疑問の声もある.
 政治的安定,インフラの整備,安定した金融システムの欠如によって外資導入による開発が妨げられている模様.
 以下引用.

ロガール州の銅山開発(BBC)

 ラジオ・アフガニスタンの放送によると,アフガニスタンの鉱工業相が,ロガール州の銅山の開発について9月までに国際企業数社を招いて契約先を決める意向を示した.
 ロシアの推計では埋蔵量110億トンで世界最大だとのこと.
 昔はソ連が採掘しており,98年にも国際コンソーシアムが組織されたが,内戦で開発は中断したそうです.
 ただ専門家の間には,そんなに大きな鉱山かどうかは検証が必要だと警告する声もあり,ある専門家は外資を呼ぶには政治的安定,インフラの整備,安定した金融システムが必要だと指摘しています.
BBC, 2002/9

#タリバン時代のこの銅山の記事.
http://www.afghan-info.com/Research_Articles/Afghan_minary.htm
 98年11月の記事ですが,旧ソ連の出した推定埋蔵量については再検証が必要だとタリバンの鉱工業相が述べていたとのこと.

(翻訳: HN"533" in 軍事板)


 【質問】
 カラクル皮や絨毯の産業は,いつ頃アフ【ガ】ーニスタンで始まったのか?

 【回答】
 ロシア革命後と比較的新しい.
 革命による動乱の中央アジアから逃れて来た人々によって移植されたという.

 以下引用.

――――――
 〔ロシア革命から1920年のボルシェビキ軍によるブハラ王国征服までの〕一連の激動の中で,多くのタジク人,ウズベク人,トルコマン人がアフガニスタンに流入したが,その際に絨毯産業の伝統的ノウハウとカラクル用羊を持ちこむことになった.
 これがアフガニスタンに移植され,現在に至るアフガニスタンの重要な外貨獲得産業の一つになったのである.

――――――柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.113-114

 ただし,長い戦乱を経るうちに,絨毯はこの写真――画像掲示板より引用――のごとき劣化したデザインになっている.
 これで外貨を稼げるようには思えず,2009年現在も内戦状況につき,絨毯産業が復興できるかどうかは疑わしい.


 【質問】
 日本でアフ【ガ】ーン料理を食べることはできますか?

 【回答】
 「不可能というわけではない」レベル.
 『アフガニスタン料理』(三上稲子・南広子著,中日出版社,1979.1.10)など,レシピが載っているものを探し出して自分で作るか,または数少ないだろうが,アフ【ガ】ーン料理店を探し当てることで,それが可能.
 たとえば『味の地球儀@tokyo』(朝日マリオン21編集部編,WAVE出版,2009.6.27),p.19,184には,四街道市四街道2丁目にあるレストラン『バーミヤン』が紹介されている.


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