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「4-traders」●(2012/07/19)India's ONGC to Continue Exploration in South China Sea Off Vietnam
ベトナムの経済水域,南シナ海のブロック128で,インドを絡めた原油ガス探査

「An Arms Watcher」◆(2011/06/13)ベトナム,露製潜水艦を「防衛用」として追加購入 −中国の南シナ海進出警戒か

「An Arms Watcher」◆(2011/06/15)ベトナム,32年ぶりに徴兵令を施行

「An Arms Watcher」◆(2011/09/26)インド,ベトナムの潜水艦乗組員の訓練を支援か

「Dalje.com」◯(2012/03/09) Vietnam forges ahead with nuclear power
ベトナムは福島後も原発開発計画を進める,ロシアの炉が2014年着工,日本を含めた安全への教訓を学ぶ,しかし一部では反対

「FLOT.com」◆(2010/10/26)Работы над фрегатами "Гепард" для Вьетнама близки к завершению
ベトナムのフリゲート艦"チーター",竣工間近

「Military Technology」◆(2013/08/13) Vietnam’s third Varshavyanka-class submarine to be floated out this month

「OOSKA」◯(2012/07/06)Hydropower Causing Drought in Vietnam

「Platts」◯(2012/06/22)Vietnam raises import taxes on oil products from Friday

「SBWire (press release) 」◯(2012/10/12) Vietnam Oil Markets, 2012 - New Market Research Report
ベトナムの石油市場の2012年報告書刊行,他国との比較も

「Strategy Page」◆(2013/09/21) PROCUREMENT: Vietnam Stocks Up On More Su-30s

「VIETJO ベトナムニュース」◆(2011/06/13)ズン首相,「海と島の主権を断固として守る」

「Viet Nam News」◯(2012/09/16)More tremors shake central power plant
ベトナム中部で頻発する地震は,ダムの影響と判断

「VietNamNet Bridge」●(2012/10/21)Ninh Thuan nuclear power plants may not be kicked off as schedule
ベトナムの最初の原発,2014年着工は,本当に可能か

「VietNamNet Bridge」◯(2012/10/25) Vietnam to host international nuclear expo 2012
ベトナムは2012年原子力博覧会を主催へ

「VietNamNet Bridge」◯(2012/10/26) Vietnam to set up new safety requirements in post-Fukushima period
ベトナムの原発,福島事故を受けて,安全基準の見直しへ

「VietNam Net Bridge」◆(2013/08/05) Vietnam to launch micro satellite into orbit

「VietNam Net Bridge」◆(2013/08/10) After terror bombings in 1972, father and son become “wild men”

「VietNam Net Bridge」◆(2013/10/11) Foreign friends praise General Giap's legacy

「VietNam Net Bridge」◆(2013/10/11) Portrait of General Vo Nguyen Giap in foreign newspapers

「VOR」◆(2012/04/22)ベトナム 正体不明の病気との闘いに国際援助要請

「VOR」◆(2012/04/23)ベトナム 米艦隊が到着

「VOR」◆(2012/05/03)ベトナム 過激主義の容疑で米国人が逮捕

「VOR」◆(2012/06/04)ベトナム政府 自国領内での米兵遺体捜索を許可

「VOR」◆(2012/07/27)ロシアとベトナム 戦略パートナーシップを強化

「VOR」◆(2012/07/28)ロシアの物資補給基地,ベトナムに出現

「VOR」◆(2012/08/09)ロシアとベトナム合弁企業「ベトソヴペトロ」 石油採掘2億トン超える

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「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/09/23) ◆ベトナムのエネルギー政策,作ったのは東電だった?|ハフィントンポスト

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/09/23) ◆Gas industry transparency in Vietnam | China Post
ベトナムのガス産業界は,透明性が求められている

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/11) ◆Government sniffing out sub-standard hydro projects | VietNamNet Bridge
ベトナム政府,チャチエン国立公園内の2つの水力プロジェクトを中止

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/13) ◆Environment pollution costs 3% of GDP in VN | VietNamNet Bridge
ベトナム,専門家が環境問題を警告,GDPの3%が失われる

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/30) ◆Vietnam in top 10 overseas remittance recipients | VietNamNet Bridge
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「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/31) ◆The beauty of Vietnam's last Queen | VietNamNet Bridge
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「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/11/11) ◆ロシア建造の最初の潜水艦「ハノイ」をベトナムに引き渡し|日刊ベトナムニュース

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/11/20) ◆Hydropower reservoirs discharge water, lowland people flooded out | VietNamNet Bridge
ベトナム,水力発電所の放流で,下流住民が被害

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/11/23) ◆Breaking news hydropower plants nationwide | Tuoitrenews
ベトナム政府,全国のダムを総点検,河川の安全の観点から

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/11/23) ◆Vietnam dams reviled over high death toll | Thanh Nien Daily
ベトナムは,ダムの放流などで,被害が大きくなったと

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/11/27) ◆EU timber policy slows illegal logging in Vietnam | Deutsche Welle
ベトナムの不法伐採,EU基準が減らす

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/11/28) ◆Vietnam's Saigon River poisoned to death | Thanh Nien Daily
ベトナム,サイゴン河,汚染で死んでいる

日経◆(2013/04/15) ベトナムで国名変更案
 「ベトナム社会主義共和国」から「ベトナム民主共和国」へ.

「暇は無味無臭の劇薬」◆(2013/06/19) 「ベトナム人がベトナム文化を語りつつアオザイ画像を貼っていくスレ」海外の反応

ベトナムの声放送局

「六課」:ロシアはベトナムと潜水艦売却交渉を行なう

「六課」:ベトナムはロシアから潜水艦を購入する

「六課」:ベトナムがロシアから潜水艦を購入する契約に調印

新「六課」◆(2012/04/06)ロシア太平洋艦隊海賊対処部隊はベトナムを訪問する

新「六課」◆(2012/08/14) ベトナム海軍向けキロ級潜水艦の1番艦は8月末に進水する

新「六課」◆(2012/08/28) ベトナム向けキロ級潜水艦の1番艦は進水した

「六課」ACS◆(2013/03/22) アドミラルティ造船所は新たな輸出用潜水艦の建造契約を結ぶ
 ヴェトナム向け

「六課」ACS◆(2013/02/16) ベトナム向けキロ級潜水艦2隻は2013年中に引き渡される

『現代ベトナムを知るための60章〔第2版〕』(今井昭夫・岩井美佐紀編著,明石書店,2012/10/30)

『フォーの国のことば ベトナムを学び,ベトナムに学ぶ』(冨田健次著,春風社,2013/3/28)

『民族という政治 ベトナム民族分類の歴史と現在』(伊藤正子著,三元社,2008.10)

●原発問題

「Energy Digital」◯(2012/09/26) Vietnam Set to Power Up With Help From Nuclear Countries
ベトナムは強力な原発推進を目指して,関係国の強力要請
http://bit.ly/QwTywI
http://bit.ly/PF3Xom

「Steel Guru」●(2012/08/06)Vietnam to make sure nuclear power plant meets safety standards
ベトナムは,福島事故後も,変わらず原発政策を継続する

「togetter」◆(2011/11/10)原発建設できなければベトナムは飢え死にするか?

「Tuoitre News」◆(2012/08/24)Vietnam examines future nuclear infrastructure
ベトナム政府は,ニントウアン原発建設のためのワークショップを開催

「VietNamNet」●(2012/06/08) Vietnam attends atomic forum in Russia
ベトナム原子力調査団,ロシアでロスアトムと接触

「VOR」◆(2012/12/07)ロスアトム,ベトナムに原子力エネルギーについてのメディア複合施設を開設

「VOV」◯(2012/09/16)Vietnam commits nuclear safety regulations
ベトナムが原発建設でIAEAの安全規定を順守すると

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/09/10) ◆ベトナム電力公社職員 原発安全対策など学ぶ 福井|MSN産経ニュース

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/09/10) ◆ROK to actively cooperate with Vietnam on energy, nuclear power | Global Times
ベトナム,原発開発で,韓国の支援を得る

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/09/11) ◆President Park's Visit Heightening Expectations of Vietnamese Nuclear Power...| BusinessKorea
ベトナムの原発開発,大統領の韓国訪問で協力促進か

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/11) ◆US, Vietnam sign civil nuclear deal | Bangkok Post
ベトナムと米国,平和核協定に調印

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/18) ◆Vietnam attracts nuclear investors despite fears over safety ollowing...| Washington Post (blog)
ベトナムは,危険の意識の中でも,果敢に原子力に挑戦,2030年までに500億ドル

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/18) ◆Vietnam's Nuclear Energy Plan Stepped Up Despite Safety oncerns | Huffington Post-by Eline Gordts
ベトナムの原発開発,安全に懸念しながらも,順調に進んでいる

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/23) ◆The US-Vietnam Nuclear Deal | National Review Online (blog)
ベトナムとの原子力平和協定で,ケリー国務長官が進展を示唆

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/10/25) ◆Deal Spotlights Vietnam's Ambitious Nuclear Plans | Voice of America-著者: Marianne Brown
ベトナム,米国との間で,米国原子力企業が事業参入,協定成立,米国議会の承認が必要

「日刊 アジアのエネルギー最前線」 (2013/11/06) ◆Vietnam's Nuclear Energy Plan Likely Part of Russia Talks | Wall Street Journal (blog)
ベトナムの原発建設,来週はロシアのプーチン大統領が来る


 【質問】
 「ヴェトナム」と「ベトナム」,正しい表記はどちら?

 【回答】
 お好きな方をどうぞ.

 どちらの表記も英語のVietnamもしくはベトナム語のVi?t Namをカタカナ化したもの.
 前者は語頭のVを「ヴ」にしているので,なんだか原語に近そうだが,直後の二重母音「i?」(イエorィエ)や,Namのaが長母音(言語学的に厳密に言うと違うらしいが)であることを無視している点で五十歩百歩.
 所詮,日本語の表記では声調を表せないのだし,慣用に従えばいいと思うよ.

 ちなみに,しばらく前まで使われていた外務省表記「ヴィエトナム」は全く普及しないまま「ベトナム」に変更になってしまいました.

HASU in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 仏印時代の,日本人の扱いを巡る日仏の対立について教えられたし.

 【回答】

 以前,フランスの外国人概念について書いた事がありましたが,フランスでは,法の保護を受ける「国民」と言うのは,政治的決定に参加する意味での市民であり,それは即ち本国の白人を意味します.
 一方,植民地の先住民達は国籍だけはフランスですが,在来の慣習法を維持し,民法を始めとするフランス法には服していないとされて,市民では無いとされ,その法的権利や保護は享受し得ないとされていました.
 もっとも,慣習法を放棄してその他の条件を満たした先住民には,市民の資格を得る道が開かれていましたし,アンティル諸島などの革命前からのフランス植民地では,1848年革命による奴隷制廃止と共に,解放奴隷を含む全フランス人は市民とされたので,奴隷の子孫である黒人もまた市民と見做されていました.

 また,「文明国」出身の外国人は,本国人に準ずる法的保護と権利を享受しましたが,植民地に隣接する国の出身で,それ故に当該植民地の原住民と人種,慣習,制度,一言で言えば文明が極めて近い外国人は原住民と同一視されていました.
 で,アジアにあるフランスの植民地である仏領印度支那から見て日本という国は,正に「文明が極めて近い外国」であり,日本人は,「原住民と同一である」という位置づけでした.
 この為,日本人が仏領印度支那に行くと法的保護を受けられないばかりか,「アジア系外国人としての通常の滞在規則」の中に置かれ,移住民登録を課されたり,移動許可証を携帯を義務づけられるなど旅行の自由を制限され,1年以上の居住者は人頭税を支払わされました.

 1901年,パリ駐在日本公使の本野一郎は,仏印で日本人に対してはこうした義務を免除し,欧州人と同等に扱うように求める日本政府の意向をフランス外務省に表明し,これは外務省から植民地省を通じてインドシナ総督府に伝えられました.

 その2年前の1899年,オランダに於いて法改正が行われ,蘭印で日本人が欧州人と同様の法的扱いを受ける事になると,オランダ議会での審議や在日オランダ大使の見解に注目し,植民地省,インドシナ総督府の他,香港,バンコク,東京の在外公館などから情報を収集し,その過程で,蘭印での変化が,仏印での日本人の扱いにも影響を及ぼすとの見方が出されていました.

 そして,インドシナ総督府内では,各領土政府及び移民行政担当部署の間で協議が行われました.
 既に日本ではフランスと同じ様な制度が機能しており,数年前から日本に対する治外法権を放棄した欧米諸国の国民に,日本の法律が適用されている以上,日本国民をアジア系外国人として清国人,インド人,マレー人等と同等に扱い続けるのは,日本の現在の政治的及び精神的地位に照らして適切では無かろうし,現状の変更は法的及び財政的にさしたる困難無しに可能だろうと言う結論を出していました.
 しかし,最終決断は数年経っても行われず,駐仏日本公使はフランス外務省に対し,総督府指導の要望や,インドシナでの日本人に対する屈辱的な扱いについての抗議を繰返しました.
 この為,外務省は植民地省に対し,情報を逐一伝えて早急な対応を求めました.

 フランス外務省の立場としては,1894年の法権回復,日清戦争での国際戦争放棄の尊重,義和団事件での軍事的役割,日英同盟を経て,日本が国際法上の完全な主体である事に議論の余地が無いと言うものでした.

 そんな折,事件が発生します.

 1904年5月,関税事務視察の命を帯びた日本政府大蔵省の官吏2名が,ビルマからシンガポール,バンコク,香港を経て仏印のハイフォン港に入港しました.
 ハイフォンの検疫担当官吏は,1等客室の他の欧州人には何らの診察もせずに上陸を許可しながら,2名には上陸を拒絶し,9日間の検疫を命じました.
 その理由は,日本人はアジア人だからと言うものです.

 かくして,連行された2名は検疫用の病院に収容されましたが,その「病院」と言うのは,草深い浅瀬に建つ竹垣の壁と草葺きの屋根に土間の小屋で,寝具は粗末で不潔な筵のみであり,食糧はおろか飲料水さえ与えられぬまま,アンナン人の番人と巡査によって監視されました.
 翌日,日本政府より税関視察の命を受けた大蔵省官吏である事を述べた書面に旅行許可証を添えてハイフォン市長に送ると,その翌日に拘禁が解かれ,以後も通院による検査を受ける事を条件に,やっとホテルへの東宿を許可されました.

 当時,日本は日露戦争の最中であり,ロシアを支援していたフランスには反日感情が渦巻いていました.
 この為,視察への支障を懸念して,トンキン理事長官と面会して便宜を乞うた所,外国人に関する一切の事務はインドシナ総督府の所轄であり,旅行許可証も総督府より受けるべきものだとの回答を受けます.
 そこで,ハノイの総督府に直行した2名に対し,総督府の担当者から,旅行許可証は身分の証明のみで税関の様な官営施設の視察には,日本政府の依頼が必要な為,東京の駐日フランス公使に電報で照会し,判断結果を至急知らせると説明を受けました.

 しかし,数日経っても音沙汰が無く,痺れを切らせて再び総督府に赴くと,公使の返電は到着したものの,両人が日本税関の官吏であると記すに留まり,委細は東京発の書状に依るというので,それを待っていると言う人を食った様な返事.
 両人は旅行許可証と電報により,我々が日本の大蔵省官吏である事は既に明白であり,関税事務視察以外の如何なる他意も無いので,この上公使の書面を待つ必要があるか再考して欲しいと総督府に書面で訴え,電報でも催促したのですが,回答は得られません.
 とうとう,ハイフォン到着から1ヶ月経ってやっと,視察が許可されると言う屈辱を受ける羽目になります.

 2人の帰国後,「囚人に等しき不法の取扱い」を被ったという報告を,大蔵省は外務省に送り,本野公使は再びフランス政府に抗議を申し入れました.
 本野はデルカセ外相に対し,大蔵省の報告を詳細に伝え釈明を求めると共に,インドシナの日本人の地位に関する年来の主張について改めて注意を促し,英国植民地では日本人と欧州人との間に地位の差は設けられず,又本国でも日本人は列強国民と同様に遇されている以上,植民地での日本人の処遇は理解しがたいと抗議しています.
 尤も,英国植民地である英領インドでも同じように,植民地の日本人の処遇は差別的だとして1908年以降,英国政府に抗議しているのですが,この頃はインドの事情を把握し切れていなかったようです.

 デルカセ外相は本野の抗議を再び植民地相に知らせ,日本の強い要求に照らして,植民地省と総督府が身体検査や人頭税,旅行証明書等の変更を前向きに検討する事を望み,英領植民地に於ける外国人の地位に関する調査を添付しました.
 また,デルカセは本野公使に,植民地相に速やかに報告し,善処並びに総督府からの詳細な情報を依頼したと回答する一方で,在日フランス公使館は日本大蔵省の官吏2名について知らされていなかった為,インドシナ当局宛の紹介状を発行せず,故にハイフォン港の担当官は彼らを日本政府の官命を帯びた者と識別出来なかったのであろうと弁解しましたが,本野公使はこの弁明に不満を持ちました.

 この事件を契機に植民地省は,日本人の扱いについてインドシナ総督府に情報を求め,総督府は報告書を作成して提出しました.

 その報告書では,現状として,インドシナに居住,滞在,又は通過する日本人は,1871年の法令でアンナン法の管轄とされた者以外のアジア系外国人に分類されるとしています.
 この法令は,仏印に於いて「清国人,カンボジア人,シャム人,チャム人,スティアン人,混血(カオドクのマレー人)」は全てアンナン法の管轄,それ以外の外国人は全て人種に関わりなくフランス法に服すとし,故に日本人は司法上フランス法の適用を受け,欧州系外国人と同様の法的保護の対象となり,また原住民に課せられる税を免除されます.

 しかし,一方で日本人は他のアジア系外国人同様,移住民登録(そして登録料が屡々「人頭税」と認識されている),インドシナ内の移動及び出入国の許可証類の取得を義務づけられるとされ,唯一例外的にコングレガシオンへの所属義務を免除されるとしています.
 衛生検査に関しては,法規上は必要な検査等に国籍・人種の別は無いものの,一般に欧州人に対しては規定の手続きを省略するとされましたが,非欧州人に衛生検査を行う理由は,「純粋に,彼らの社会階層と生活様式が,大量のアジア人移民には期待出来ない衛生を補償する為」であり,故にアジア人でも生活水準が欧州人に近い者は,丁寧に扱われるとしていました.

 以上の様な理由から,インドシナに於いて日本人は,欧州人と同様の最恵国待遇,即ちフランス人と同じ法的保護と権利を享受する地位には無いものの,特権的アジア系外国人として他のアジア人には無い自由を享受する,と結論づけました.

 そうした状況整理の結果を挙げたのですが,総督府は日本政府の要求受け入れについては否定的な見通しを示しました.
 この最大の理由は,日本人に対する警戒です.
 当時,僧侶に変装してインドシナ内で情報収集を行う日本軍人スパイや反仏的政治活動家の潜入が警戒されていました.
 例えば,コーチシナで薬商人を装っていた人物は,フランス人の奴隷にされてきたアンナン人は,他の黄色人種と接近してこそ利益があると言った言動を繰返し,現地当局により追放されています.

 総督府の考えは,
「原住民との人種的類似性を利用して,彼らの指導者として振る舞う様な政治活動家を,我々と対等なものと認めれば,我々の支配の基礎である精神的な威信が失われる恐れがあり,この種のプロパガンダを阻止する為に,厳重な監視を可能にする行政的規制を維持すべきだ」
と言うものでした.

 要は,日本人はインドシナ住民の圧倒的多数を占める現地人との識別が困難で,非日本人が日本人を装ったり,その逆の可能性を恐れていました.
 報告書では,
「日本人には外国人に関する1904年4月7日の法令を純粋に適用し,アジア人を対象とする移民官吏を免除する事は出来ない.
 この法令は欧州人には十分である.
 彼らは現地人には適用出来ないからだ.
 しかし,簡単に現地人の間に紛れ,身を隠す事の出来る日本人には,不十分である」
と書いています.
 また,日本人の滞在と移動の自由を増せば,日本の経済進出を促す事になり,フランス資本に対する深刻な競争相手となると言う懸念も強くありました.

 更に,日本に対しこうした最恵国待遇を認めてしまうと,清国も同様の要求をして来るだろうという点が問題視されました.
 日本人の数は少ないので,扱いの変更が可能になるとしても,数が遙かに多い清国人をも同様に扱う事は,許可証類発行料等財政収入の面からも認めがたく,日本人に認める扱いを清国人に拒む事は正当化が困難だとも考えられました.

 こうして,現地総督府としては,条約や法令に明記せずに,現場責任者に対する指導によって,地位の高い,或いはフランス外交当局から紹介を受けた日本人には規則を穏便に適用する事で,衝突を避けると言う運用で逃げる方法を選択します.
 つまり,日本にとっての問題は課税などによる経済的損失よりは,自尊心とメンツであるとフランス側は見ていたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/27 23:31
青文字:加筆改修部分

 さて,仏印では,日本人は中国人などと同じく,現地人と同等の権利しか与えられませんでした.
 本国外務省では,こうした状況が清国や日本で反仏感情を呼び起こし,外交・通商上の不利益を齎しかねないと言う懸念を持ち,植民地省に対して是正を促しますが,その出先機関たる総督府では,その職務自体を内政事項と見做して,対外関係上の考慮に基づく外務省の干渉を嫌いました.
 この為,仏印ではこうした門戸開放は進まなかった訳です.

 日露戦争後,フランスはドイツへの対抗上,ロシアの関心を欧州に向けさせ,かつ仏印の安全と清国での権益を保護する為に,アジア状勢の安定を望み,日露関係の改善を歓迎しつつ,自らも対日接近を図ります.
 フランスの当初の提案は,清国の現状維持及び清国に隣接する日仏の植民地・保護領等の秩序維持でしたが,日本側は仏印に対する最恵国待遇の適用を要求しました.
 日仏関係は1896年に日本側が法権の回復を果たし,日仏通商航海条約を締結しました.
 その条約は,フランスの各植民地にも適用されたのですが,日本商品との競合を恐れた仏印財界の圧力によりインドシナは除外されていました.

 この為,フランスはこの条約が失効する1912年までの暫定措置として,条約条文では無く議会の承認を要さない付属宣言に盛り込む事を承諾しましたが,これも裏で仏印財界の抵抗がありました.
 1907年6月10日に調印された日仏協約の付属宣言書では,日本帝国官吏及び臣民は仏印に於いて,又仏印出身者は日本帝国に於いて最恵国待遇を受ける事が謳われました.

 これを受けて,フランス外務省は植民地省に対し,日仏協約に関連する情報の提供を求め,これに対して総督府は1908年2月,
「インドシナに於いて異なるカテゴリーの外国人に与えられる属人的地位」
と言う文書を植民地省に提出しますが,それに依れば,仏印に於いて外国人は,
「欧州人及びそれと同一視される者,加えて文明国の資格を我々が求める国の出身者」

「アジア系外国人」
に大別され,日本人に関しては,
「この呼称に付随する特定の意味を伴ってアジア系外国人と明示的に見做された事は,嘗て1度も無い」
としています.
 これを文字通り読めば,1896年条約の植民地適用により,日本人への制限的規制は不可能になったと考えられます.

 しかし,実際には総督府は条約や法令を全く正確に把握していませんでした.
 1896年条約の仏印適用について完全に誤解し,適用の法的効果についての理解もあやふやでした.
 しかも,総督府は「アジア系外国人」の定義や実数,税制度について全く把握しておらず,日本人の取扱いは成文化されていない慣行の類としていました.

 1911年,改正日仏通商航海条約は,両国間の最恵国待遇の植民地等への適用を別途定めるとし,仏印以外の植民地はそれを諒解しましたが,仏印のみは関税を巡る不満を理由に拒絶し,この条約の代わりに,1907年の付属宣言書を引き続き適用する事になります.

 こうした曖昧な規定運用は,1912年5月に再び火を噴きます.
 フランス汽船の2等船室に乗ってフランスに向かう途上の日本人技師1名が,サイゴン港到着時に港湾衛生当局によって,欧州人には課されない上陸前衛生検査の為に港の中国人苦力用の施設に拘留されました.
 事情を知らされた在サイゴン日本名誉領事は,直ちに部下を港湾衛生局長の下に遣わし釈放を求めますが,局長は
「自分にとっては日本人はあくまでアジア人であり,その様に扱われるべきだ」
と主張して釈放を拒否しました.
 名誉領事はコーチシナ知事にその釈放を要請し,知事は電報と意見書を衛生局に送る一方,領事自身と知事の秘書官が現地に向かって交渉に当たり,日本人技師は上陸・拘留から半日後に漸く釈放されました.
 この事件を受けて,領事は知事に対し,こうした屈辱的な事態の再発を防ぐ為にも,日本人を最恵国待遇国国民として扱う様,港湾衛生局長に指導する事を求めました.

 インドシナ総督は,事件は衛生局長の過誤に依るものだったと非を認め,インドシナ全体を管轄する衛生医務所検査医に訓示を発した事を,訓示の写しと共に領事に知らせました.

 その訓示では,日本人は欧州人と同様に扱われるべき事を,監督下の担当官に徹底する様指示し,その根拠として,1896年,1907年,1911年の各条約を掲げ,サイゴン港湾衛生局長の行動は全く規定に反するもので,コーチシナ知事が即座に釈放を命じた事は正しかったと述べています.
 そして,事件を起こした医師に然るべき注意を与え,インドシナの衛生担当諸部局の責任者に公式の指導を行って,こうした事態の再発を防ぐ様に指示しました.

 この訓示を受けた衛生医務所検査医は,トンキン,アンナン,コーチシナ,カンボジアの各衛生局長宛に,アジア人条約の取扱いに関する指示を発し,日本人はあらゆる状況に於いて欧州人と同様に扱われるべきであるとして,その根拠として総督訓示にあった諸条約を列挙しました.

 この訓示の写しを入手した在サイゴン日本名誉領事は,東京の外務次官宛に事の一部始終と総督府の回答,及び上記の訓示が発せられた事を報告し,これに対し次官と外相は,非常に満足すべき解決であったと評価し,この1件は決着がつyきました.

 1904年の大蔵省官吏の事件よりも,今回の事件は仏印総督府側の態度が明確に異なります.
 とは言え,これは騒ぎ立てたからとも言え,末端では,例えば中国人と同じ手続きで令状も無く未決檻に拘留されたとか,欧州人に許されていた小銃購入を,「アジア系外国人」と言う理由で市助役に拒否され,市長を経てトンキン理事長官にまで問い合わせた末に許可を得た,と言う日仏協約後も日本の外務省に報告されています.
 未だ未だ現場担当者レベルでは,日本人を特別扱いすると言う意識が浸透していなかった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/28 23:10


 【質問】
 20世紀はじめ頃に日本へ亡命して来ていたという,コンデ侯(亡命名・阮福民)という人物に関して教えて下さい.
 植民地支配者フランスによってヴェトナムの王位を約束されながら,独立運動の為に日本に亡命して来た,という事ぐらいしか知りませんので,どうか宜しくお願いします.

 【回答】
 クオン・デ(Cuong Dê,彊柢)は阮朝初代・ザーロン帝から数えて,5代目の直系子孫.
 直系ではありましたが,当時の皇太子,景(カイン)皇子が早死(21歳)のため,即位は第二夫人の子ミンマン帝となり,クオン・デは即位できなかったのでありました.

 そこに目をつけたのが,ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠).
 当時,ヴェトナムには,日露戦争の日本勝利に刺激を受けた改革派が,ベトナムの若人の教育の必要性を感じ,日本への留学を奨励した,ドンズー(東遊)運動というものが起きておりまして,ファンはその運動の指導者でありました.
 ファンは,独立運動に利用するためにクオン・デを誘い,
1904年,維新会(Duy Tan Hoi )なる組織を作りまして,クオン・デ(彊鹸)をその盟主に推戴いたします.
 会の綱領はヴェトナムの独立回復と立憲君主制の樹立.
 その2年前に孫文が東京で旗揚げした,「中国革命同盟会」に刺激を受けたともいわれております.
 この時クオン・デは22歳でありました.
 若気の至りと申せましょうか.

 1905年にはチャウがドンズー運動のために渡日,1906年にはクオン・デも渡日いたしまして,維新会の会長に就任.
 活動の中心は日本に置かれることになりましたが,ヴェトナム国内でもドンズー運動のための資金捻出,留学青年の送り出しのための活動と共に,抗仏武力闘争の準備活動が進められたのであります.
 クオンデは犬養毅,大隈重信,宮崎滔天(とうてん),頭山(とうやま)満らと会い,人脈を拡げていったのでありました.
 目的は,日本を動かして独立の支援を得ること.

 さあ,これに脅威を感じたのが,ヴェトナムを植民地としていた当時の
フランス政府であります.
 そこでフランスは日本政府に圧力をかけ,彼らのベトナム本国召還を迫ります.
「我が国に刃向かうテロリストを匿うとは何事だ.さあ返してよこせ.さあ返せ.さあ,さあ,さあ,さあ!」

 日本政府はフランスとの関係を悪化させるわけには行きませんでした.
 なぜならフランスから借金をしなければならなかったからです.
 日露戦争の戦争債券償還のための借款目的とする,日仏協約(1907年6月10日締結)の交渉が進められていたのであります.
 この条約を締結しなければ,また,日本は欧米諸国がもつ東南アジアの市場から締め出されてしまうという懸念もありました.

 日本政府はクオン・デに国外退去を命じます.
 彼はやむなく1909年10月30日,神戸港発の日本郵船の客船「伊豫丸」で上海経由香港に向かうことになりました.
 上海には,フランスのシュレテ(秘密警察)が待ち構えております.
 11月3日,伊豫丸,上海に入港.
 さっそくシュレテが乗客を検問し,ときには身体検査まで行いました.
 夜は夜で,水上艇が数隻,サーチライトで伊豫丸の周辺を照らし続け,クオン・デが泳いで脱出しようとしたときには逮捕せんと見張りました.

 しかしクオン・デは見つかりません.
 実はこのときクオン・デは,日本人のボーイに変装していたのです.
 しかもなんと,シュレテは身体検査までしていながら,クオン・デの変装に気付かなかったのでありました.

 辛くも虎口を脱したクオンデはその後,欧州などに逃避の旅を続けましたが,第一次大戦のさなかの1915年,再び日本に戻り,新宿中村屋の相馬愛蔵,黒光(こっこう)夫妻のもとに身を寄せます.

 第二次大戦中,彼は日本軍に協力します.
 それは日本軍がフランスから祖国を解放してくれると,期待してのものでした.
 しかし,日本軍にはヴェトナム人を支援する気などないと分かり,失望したまま,終戦を日本で迎えます.
 フランス政府による逮捕の恐れがあるため,隠遁生活の毎日を送ることになりました.

 1950年,帰国の機会がありましたが,船は上陸できず,バンコクから戻ってくることになります.
 1951年,東京・日本医大病院で,彼は肝臓癌のため死去しました.

 次のような伝説があります.
 1906年,クオン・デが日本に渡るため,突然姿を消したとき,妃は子供を抱き,毎日城門に立って,同侯の帰りを待ち続けたそうです.
 その頃王宮の池に,ヒヤシンスのような紫の花をつけた浮き草が無数に浮かびました.
 人々は妃の心情を憐れみ,その花は現在でもヴェトナムでは,「日本の花(ホア ニャット)」と呼ばれているとのことです.

 それでは『クオン・デ伝』の一席,これにて読み終わりといたします.

 【参考ページ】
東遊運動,悲劇の王子クオンデ候 - vietnamhuetourism
亡命生活40年クオンデ候の流転 - vietnamhuetourism
ベトナム人と日本人
日仏協約 とは - コトバンク
http://www.yale.edu/seas/phan%20boi%20chau.pdf
http://vi.wikipedia.org/wiki/C%C6%B0%E1%BB%9Dng_%C4%90%E1%BB%83

クオン・デ(左)とファン・ボイ・チャウ(右)
(こちらより引用)

日本史板,2006/08/23(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 定番ものなんですが,WW2終結からベトナム独立,その後の分裂そしてベトナム戦争のアメリカ・ソ連の介入の事を扱った本はありませんか?
 要はベトナム史なんですけど,どうもフランスからの独立からベトナム戦争につなげられないので.

 【回答】
歴史群像アーカイブ5「アジア紛争史」(平成20年10月30日,学研,1000円)
 国共内戦,中台紛争史,仁川上陸作戦,中共大反攻,インドシナ戦争,ベトナム戦争I・II,ラオス・カンボジア内戦(裏表紙より)

ZII ◆RPvijAGt7k :軍事板,2011/08/06(土)
青文字:加筆改修部分

松本完「ベトナム戦争」中公新書
三野正洋「わかりやすいベトナム戦争」光人社NF文庫

 どちらもyouの指定する範囲が書かれているYo!
 安いから買っちゃいnayo!

ハルバースタムの「ベスト・アンド・ブライテスト」

 まぁ,ベトナム戦争というより,アメリカの同時代史というべき内容だけども.

古田元夫『歴史としてのベトナム戦争』大月書店

 軍事面は詳しくないけど,いい本だよ.
 出版社名見て引くかもしれんが(笑)

 ただ,大外のベトナム戦争扱った通史には,質問者の言う程度のことはちゃんと書いてあると思うんだが.

 まあ,日本のベトナム戦争関連の書籍だと,中国の存在と干与はばかって,微妙にぼかしてる場合があるから分かりにくくはなるんだが.
 あと,社会主義北ベトナムの侵略性な.

軍事板,2011/08/06(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 以下のリスト以外で,「ベトナム残留日本兵」「新ベトナム人」について少しでも扱っている文献等を教えてください.

http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/01036/pdf/0001.pdf
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2006/00197/pdf/0001.pdf
http://www.geocities.jp/vietnammoi_2006/index.htm
自衛隊「影の部隊」情報戦秘録

 【回答】
『帰還せず 残留日本兵六〇年目の証言』 青沼 陽一郎

 著者があまりにも軍事に無知かつ勉強不足――「擲弾筒」を「敵の弾頭を持っていた」とか――なので,
「こんな奴でも本が出せるのか」
と,読んでてイラつくが.

『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人』 吉沢 南

 自分も未読なので,もし読んだら書評お願いします.

『陸軍中野学校6 続ゲリラ戦史』 畠山清行

加茂徳治「クァンガイ陸軍士官学校」

 ただ,そこに出てる資料のソースの一人の本なんで,内容がかなり被っています.

 隣の国だが(初期にはヴェトミンと行動を共にするが),山根良人「ラオスに捧げたわが青春―元日本兵の記録」

 他にもきっといろいろあるんだろうけど,未帰還日本兵関係本は蘭印が多いかな.
 仏印はネットでも意外に情報あるようですね.

 あと,その件についてどこで興味を?
 万が一,隼三型再生なんて単語が関わってくるルートでの興味なら,その元ネタたる中国の東方老航校を調べた方がいいでしょう.
 一次資料を含め,ネットにいくらでも転がっていますが,活字ならまず,古川万太郎「中国残留日本兵の記録」.
 もし,この憶測が当たってたら,また質問して.

軍事板,2011/08/20(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヴェトナム戦争が結局北側の勝利に終わったあと,米軍が撤退して放棄していった米国兵器が大量に北側の手に渡り,統一ヴェトナム軍の装備になったと聴きます.
 実際ヴェトナムのカンボジア侵攻の記録映像などを見ると,AK持ったヴェトナム兵が,隊列組んでるM113に乗っていたり,中越紛争の映像でヴェトナム兵の後ろにM48やM41がいたりしていますが,これらの捕獲兵器は何時まで使われていたのでしょうか?
 今でもヴェトナム軍の装備として使われているのでしょうか?

 【回答】
 UH-1,F-5やA-37なんかの空物は80年代に入る前後に現役を退いた.
 友食い整備の限界が来たってこともあるが,大半がイランやイスラエルや南米のどこだったか(チリ? ベネズエラ?)等に輸出されたといわれている.
 APCなど車両は報道写真などからみて,80年代半ばまで稼動していたと思われる.

 ちなみにベトナム各地にある戦争公園には,90年代始めまで米軍兵器が展示されていたが,その後急速になくなりつつあるようだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

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HASU in 「軍事板常見問題 mixi別館」
2010年08月29日 02:51


 【質問】
 ヴェトナム戦争後のヴェトナム経済の歩みは?

 【回答】
 コーヒーには,大きく分けて2種類があります.
 1つは南米やアフリカの高地などで栽培されているアラビカ種であり,レギュラー・コーヒーとして流通している種類,もう1つは独特の焦げ臭さや泥臭さがあり,苦味も強いロブスタ種と呼ばれるものです.

 ロブスタ種は,その特徴から,1912年にはニューヨーク・コーヒー取引所の職員が,「実用価値無し」と判断して取引を差止める程の「粗悪品」扱いでした.

 しかし,第1次大戦中,ブラジルからのコーヒー輸入を絶たれたオランダでは,蘭印で生産されるものを中心に大量のロブスタ種を消費するようになり,その消費量は以前オランダで一般的だったブラジル産アラビカ種を凌駕するようになりました.
 そして,1920年頃には,ジャワ島産コーヒーの約80%はロブスタ種になっています.

 このオランダのロブスタ・ブームを受けて,インド,セイロン,アフリカの各植民地でもロブスタ種が生産される様になり,第2次大戦後にこれらの植民地が独立しても,主力輸出産品とされていきます.
 と言うのも,アラビカ種は,栽培に適切な自然環境を選び,病害虫にも弱い為,それを防除する為に大量の資金が必要でした.
 ところが,ロブスタ種は自然状態の儘でアラビカ種よりもずっと気候の変化に強く,病害虫に耐性があり,しかも大量のチェリーを収穫出来ます.
 1954年,エチオピアとケニアではそれぞれ62万袋と21万袋(1袋=60kg)のアラビカ・チェリーを出荷しますが,アフリカ全体では,コートジヴォワールやアンゴラを中心に全コーヒー生産の約80%に当る480万袋のロブスタ種が出荷される様になっていました.

 この頃になると,かつて自国のコーヒー取引所からロブスタ種を追放した米国も,輸入コーヒーの約10%がロブスタ種になっていました.
 当時の米国では,コーヒー・メジャーと呼ばれる大企業が値下げ合戦を繰り返しており,各社は販売価格を下げる為に,アラビカ種の比率を下げてロブスタ種を増していきます.
 こうして,この安い新ブレンドは米国系コーヒー企業の主力商品に成長し,ロブスタを30%混ぜたレギュラーコーヒーが売り出されるようになり,インスタント・コーヒーに至っては,ロブスタを50%以上含む商品が一般的となり,中にはロブスタ100%と言うものも表われる様になります.
 これらの商品の影には,コーヒー豆から抽出されたエキスを混ぜて,開封時の豊かな香りを保つなど,品質の劣化を誤魔化す技術が発展したのもありますが.

 1956年にはロブスタの全世界での取引比率は22%を占めるようになり,1960年になると遂にニューヨーク・コーヒー取引所はロブスタを公認する事になります.
 これについては,既存のアラビカ種生産国,特にブラジルにとって脅威以外の何者でもありませんでした.
 元々,ブラジルにしてからが,エチオピアやケニアなどの原産地よりも安価なアラビカ・コーヒーを大量生産する事で現在の地位を築いていたのですが,それよりも安価なロブスタ種が伸びていくと,現在の地位が危うくなります.
 その為,ブラジルは1958年に米国もオブザーバーとして参加した中南米コーヒー協定で,自国とコロンビアがそれぞれ生産されたコーヒーの40%と15%を貯蔵に回す事と引き替えに,アフリカ諸国のコーヒー輸出制限を求めると共に,自国産の「コニロン」と言ったロブスタ種の生産を増強し,インスタント・コーヒー業界に大量の豆を売り捌く様に努力していきました.

 簡単にブラジルの優位は揺るがなかったのです.
 その生産量は,他の追随を許さず,長い間後続を大きく引き離して首位を独走し,2位のコロンビアにその背中を見せないくらいで,3位グループに至ってはコロンビアの姿も見えない状態でした.
 ところが,ここ20年,集団の後方から猛然とスパートを掛け,一気にコロンビアを抜き去り,更にブラジルを視界に捉える国が表われました.
 実は,この国はアジアの国で,つい40年前には猛烈な戦争を米国と繰り広げていました.
 そう,その国こそ,ヴェトナム社会主義共和国です.

 1980年代まで,ヴェトナムは全コーヒー生産国の中で40位以下のコーヒー生産量に過ぎず,約67,000袋を出荷するに過ぎませんでした.
 しかし,1990年代になると急激にロブスタ種の生産を増強し,1999年には当時最大のロブスタ種生産国だったインドネシアの生産量を上回り,ブラジルに次いで世界第2位の生産国に上り詰めています.
 特にその80%以上がロブスタ種で,2004年にはヴェトナムは71万トンのコーヒーを輸出しますが,これは世界全体のコーヒー流通量の13%,世界全体のコーヒー流通量の3分の1を占めるロブスタ種に限って言えば,その40%がヴェトナム産になっています.

 元々,ヴェトナムは1859年にフランスの侵攻を受け,保護国という名の植民地となります.
 1887年にはラオス,カンボジアと共にフランス領インドシナ連邦に編入され,フランスの植民地経済に組み込まれました.
 この時,初めてアラビカ種のコーヒーノキが導入されましたが,海外輸出には程遠く,植民地内のフランス人に消費されるだけの小規模生産に過ぎませんでした.

 その後,日本の進駐,占領を経た後,血みどろのフランス,米国,そして南ヴェトナムとの戦争を続け,1975年には漸く国を統一して,共産党主導のヴェトナム社会主義共和国となりました.
 これをきっかけにヴェトナムは,ソ連や東欧諸国との関係を緊密化させつつ,経済基盤の1つとしてコーヒー増産政策に取りかかります.

 しかし生産性は上がらず,1979年に起きた中越紛争やカンボジア侵攻によって国際的イメージは低下し,海外輸出もままならず,更に,後ろ盾のソ連が1985年以降,西側諸国との協調路線を採り始めると,ヴェトナムとして国家の生き残りをかけて新しい政治・経済改革を打ち出す必要に迫られる様になります.

 こうして1986年から開始されたのが,ドイモイと呼ばれる経済開放政策です.
 政治に関しては,従来の共産党一党独裁体制が維持されたものの,経済に関しては社会主義的平等政策は影を潜め,配給制が廃止されると共に市場経済を受入れ,外交は全世界との友好関係を目指す全方位外交が採択されていきます.
 これにより,外資の導入が活発となり,都市部では大きな経済成長が見られると共に,農村部でも権限の強い農業共同組合の権限が縮小され,農民は私的な農園を経営し,その生産物は自由に市場で売買できるようになりました.
 反面,国民間の貧富の格差が急激に広がり,農村部から都市部への人口流入が顕著になるなどの問題も噴出しています.

 全方位外交を進めるに当り,荷物となり障害となっていたカンボジアからは1989年に撤退を完了し,1991年には中国と関係を正常化,更に1995年には米国との敵対関係の終止符などによって,大きく飛躍し始めたヴェトナムは,1990年に農業銀行を創設し,1993年に農地法を制定する事により,小規模農園経営や農業の個別化を更に進展させました.
 特に農地法は,個人的な農地の利用権を,米,砂糖黍,玉蜀黍などの通常作物の場合で20年間,コーヒーやゴムと言った樹園地の永年作物の場合で50年と長期間に亘って承認し,その農地の交換,譲渡,賃貸借も公認するものでした.

 かつて農協が管理していた農地は,各農民に平等に分配され,農機具も農民に売却され,多くの小農が誕生しました.
 当初は1世帯当りの土地保有面積は,土地環境に応じて20〜30ヘクタールに限定されていましたが,1998年になると,貸借による農地取得の面積が無制限とされました.
 丁度この頃,ブラジルの不作でコーヒー価格が跳ね上がり,多くの農民はコーヒー生産を選択した訳です.

 こうして1995年以降,中部高地でコーヒーの大量生産が開始されました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/28 23:03

 1995年以降,ロブスタ種に特化した形で,ヴェトナムはコーヒー生産を拡大させていきます.
 この中心地は,中部高地の省,即ち,コントゥム省,ザライ省,ダクラク省,ダクノン省,そしてラムドン省なのですが,この辺りに住んでいるのは,ヴェトナムの中でも比較的多いキン族だけでなく,モンタニャールと呼ばれる少数派の先住山岳民族が居住しています.

 このモンタニャールは,かねてから政府の国民統合政策に反発していたのですが,コーヒーの利益を享受する様になるにつれて,その反感も薄れ,ダムや送電線の建設計画も持ち上がるなど,この地域の経済開発が進み,円滑にヴェトナムと言う国家に統合されるかに見えた矢先,2000年にコーヒー価格が暴落して,コーヒー生産に関わる借金を返済出来ない小農や零細農が増えて,彼らは一層困窮し,再び中央政府に対する反発が強まっています.

 元々,モンタニャールはアニミズムを信仰していたのですが,南北対立時に米国がこの地に進駐すると,親米的な反共主義者を増やす為に行った米国の戦略活動,即ち,聖職者を派遣して彼らをプロテスタントに改宗させ,共産主義を無宗教で無慈悲な存在として煽る形で,米国の勢力下に置き,この地のヴェトコンに対立させようとした結果,多くが目論見通りプロテスタントに改宗し,共産党の統合政策に反対するデガ(マラヤ系エデ語で「森の人」を意味する)運動を展開し,政府とゲリラ戦を行う様になりました.

 結果的には,米国から切り捨てられ,共産党政府によって鎮圧されてしまいますが,その後もデガ運動の復興を恐れた政府によって,ドイモイが開始された後も,コーヒー農民の債務返済期日の延長,モンタニャールを優遇する土地の配分,モンタニャール語の尊重,穏健派プロテスタント教会の公認など,モンタニャールへの懐柔政策を打ち出しています.
 しかし,それでも政府を信頼しない約1,000人のモンタニャールはカンボジアとの国境を越えて難民となり,中には米国に移住する者も出る様になりました.

 また,この中部高地でのコーヒーブームを見た他の地域の人々が,挙って,中部高地に土地を得て労働者を雇い入れ,違法な焼畑を行って開拓を進めていきました.
 開発出来る土地が少なくなり,人口が増えると,農地や宅地が増えて地価が上がり,それが更なる乱開発を招いて森林の破壊や地下水の枯渇を引き起こし,生態系にも悪影響を及ぼしています.
 尤も,小農中心の生産刺激を行っているので,ブラジルなどの様に大農園を作れず,しかも個々の小農の資本力は小さいので農地を拡大しないと生産が増大出来ません.
 この為,環境破壊が進み,後には不毛の地が増すと言う状況に陥っている問題が出て来ています.

 更に当初,ヴェトナムの農民達は,政府から生産ノルマとして1ヘクタール当り2トンの収穫を課せられており,それが達成出来なければ,農地を失う可能性もありました.
 その為,その土地を失うまいと,農民達は必死にノルマを達成する為に働き,結果として土地当りの生産性は,インドネシアを遙かに上回るほどとなり,収穫の増大が,ヴェトナムをコーヒー王国ブラジルに匹敵するほどの国にのし上げました.

 この収穫量の増大は,結果的に需給関係を崩し,21世紀に入ってコーヒー価格が低迷した最大の理由にされています.
 しかし,ヴェトナムが生産量を増大する前から世界のコーヒー市場は不安定化しており,1995年のコーヒー価格急騰で,全世界的にコーヒー生産が拡大したのが,価格暴落の遠因となっています.
 加えてコーヒー多国籍企業が,この高騰に対応して,利潤の確保の為,低品質でも低価格のロブスタ種を大量に買い漁り,自社ブランドに混入した事で,それまでのブランド・コーヒーの生産に多大な打撃を与えています.
 因みに,インスタント・コーヒーを世界のシェアの半分以上を生産しているネスレ社は,そのインスタント製品の主原料として,大量のロブスタ種のコーヒーをヴェトナムから驚くほど安い価格で仕入れています.
 こうした事も,コーヒー価格大暴落の原因の一つでした.

 こうして,2002年になるとコーヒーの輸出価格は,1995年の7分の1にまで落込み,2006年,中部高地農民は生産コストの約60%でコーヒーを販売する事を余儀なくされました.
 コーヒーの輸出金額も,1995年には6億ドル有ったのが,2006年には4億撮りに落込み,小規模コーヒー農家は軒並み大きな打撃を受け,好調時に生産拡大の為に買入れた設備投資や消費財のローンや借金に追われる羽目になりました.

 悪い事に,ヴェトナム産ロブスタはロブスタ種の中でも低品質な方で有る為,その価格は国際市場平均価格の凡そ40〜80%の価格で取引されており,また,品質の高さを求め始めた世界のコーヒー消費者達のニーズには応えられず,その成長は悪循環に陥っています.

 品質向上が最優先課題ですが,少なくとも,コーヒーブームの際に,植え付けられるだけ植え付けたコーヒー農園の存続を検討する必要があります.
 土壌や気候の合わない土地に造られた不適格農園を縮小しつつ,環境の整った優良な農園に於ける効率性を高めて,品質管理を徹底しなければ,今後,ヴェトナムのロブスタ種が生き残るのは至難の業です.

 更にコーヒー生産は小農や零細農中心である為,コーヒー生産以外の農産物を生産しない,完全なコーヒー・モノカルチャーとなっています.
 この為,市場価格の動向に左右されやすく,市況が崩れた時には,借金をして自分達の食物を調達する事になりかねません.
 従って,コーヒー・モノカルチャーを脱するのも課題です.

 その上,中部山岳地帯は,ヴェトナム戦争中,米軍の枯葉剤作戦によって,広範囲にダイオキシン汚染が拡がっている地域だったりします.
 ダイオキシンは水溶性ではないので,コーヒーノキが根から土中のダイオキシンをそのまま吸い上げる事はないとされていますが,それに対する不安の声が後を絶ちません.

 しかし,米国との関係を維持するのに腐心するのと,自国産農産物の安全性に疑念を抱かれない様にする為,枯葉剤に関する言及を自ら避ける様になっています.
 何処かで,再びこの話が出て来ると,ヴェトナム産の農産物は一切売れなくなりますからね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/29 23:17


 【質問】
 ヴェトナムの原発建設計画を教えられたし.

 【回答】
「VNA」:Nuclear power for energy security
および
[ 日刊アジアの開発問題 No.193 2007/11/28]
によれば,2020年に最初の1号機を投入し,順次増やして1100万kwに持って行く考えだという.
 以下,同メール・マガジンより引用.

――――――
 ベトナムがどの程度的確に計画を進めているか,と言う問題になってくるが,国会承認などの法的手続きを非常に重要視しているように窺える.
 立地については,タイやインドネシアに比べれば余り心配していない様子で,候補地転住民の90%は建設に同意している,として如何にもベトナムらしい.
 技術の問題については,今のところ,フランス,日本,韓国,ロシアを上げているが,人材養成については,日本に依存している感じである.
――――――

 候補地の問題が後々,尾を引きそうな悪寒……

▼ 【追記】
「Vietnam.net」Government establishes nuclear power steering board
(Last update 09:19, Thursday, 06/05/2010 (GMT+7))

および
「日刊 アジアのエネルギー最前線」,2010.5.6号
によれば,ベトナムの原子力開発は,2009.11.25,国会の77%の賛成で開発の方針が決まり,2010年,ハイ副首相を中心とする推進委員会を組織したという.
 2014年着工,2020年運転開始の予定.
 ニントウワン県にてPWR型を2基建設.合計出力4000MWという計画.

完成予想図
上記記事より引用)

 なお,ヴェトナムの原発建設には,日本も技術を売り込もうとしているが,政府間の原子力基本協定が欠けているなどの問題があるため,ベトナム政府の反応は極めて鈍いという.
 ヴェトナムと,ロシア,フランス,韓国との間には,既に二国政府間の原子力基本協定がある.
 詳しくは,
Nuke bill’s success will depend on legal hair-splitting
Pramit Pal Chaudhuri and Anirudh Bhattacharyya, Hindustan Times
Email Author
New Delhi/New York City, August 26, 2010

および,
「日刊 アジアのエネルギー最前線」,2010/8/27付
を参照されたし.


 【質問】
 軍事情報 第413号(最新軍事情報) 平成21年(2009年)12月21日より

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ベトナムは,支那と友好関係にある共産国家です.
原子力燃料は支那から入手するという噂もあります.
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1.あわせてベトナムは,ロシアに対し原発1号機の建設を依頼しており,
2014年の建設開始,2020年までの完成を望んでいる.
1.ベトナムは近年になって生産能力を拡大させており,その多くを支那に
頼っている,あわせて生産能力拡大に必要な電力を確保する必要がでている.
1.ちなみに,0901〜0907における支那からの電力購入量は約22億KWとされる
----

という記述の信頼性は?

 【回答】
>原子力燃料は支那から入手するという噂

 与太話を信じてどうする?と言うのが本音.
 現在の中国の状況では,絶望的なぐらい足りない電力に対し,必至になってそれを供給するために,しゃにむになって原子力発電所を建設しているのが実態.
 しかし,原子力発電所の建設が出来ること(中核部分は輸入・もしくは輸入技術にしろ)と,核燃料(もしくは原子燃料,間違っても原子力燃料とは専門従事者は誰も言わない)を供給できるのには,天と地ほどの差がある.
 核燃料供給に渡っては様々な障害があり,中国はそれを着実に乗り越えようと手段を選ばず,ありとあらゆる方法でアプローチしているが,現在の中国に絶対的に足りないのが「ウラン濃縮能力」.
 もちろん,中国では核兵器や原子力潜水艦などの軍用が最優先されるであろうことは,軍事専門家だけではなく誰の目にも明らか.

 そのような中,中国国産
(とは言っても,その大半は輸入技術であるし,商用炉の中核部分は未だに国産出来ないようだが)
の原子力発電所は輸出できても,そこで使用できる加工成形済みの核燃料を輸出できる可能性は,極めて小さいと言える.
 もしその能力があるのであれば,中国からウラン本体を輸出するようなことは一切せずに,国内生産に回すのは明らかであるが,そのような動きは聞いたことがない.

 以上より,先の話は原子力発電所の輸出と核燃料の供給の戦略的な違いを理解していない,与太話の類と評することが出来る.

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1.あわせてベトナムは,ロシアに対し原発1号機の建設を依頼しており,
2014年の建設開始,2020年までの完成を望んでいる.
1.ベトナムは近年になって生産能力を拡大させており,その多くを支那に
頼っている,あわせて生産能力拡大に必要な電力を確保する必要がでている.
1.ちなみに,0901〜0907における支那からの電力購入量は約22億KWとされる
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 以上より,ロシアからの原子力発電所供給と,核燃料供給のお話しと,他の中国との結びつきとのお話しを混同した可能性が極めて強い.

 なお,蛇足であるが「支那からの電力購入量」は電力量(キロワット×時間)で表すべき量であり,その時々の電力の流れ(キロワット)で表現するのは不適切である.
 そのため,上記にある「支那からの電力購入量」は,その情報が正しい限り「約22億kW時」と見るのが正解である.
 そして,そのような見方が出来なければ,電力の輸出入でやりとりされた金額がいかほどの物であるのか(大雑把に言えば約100-200億円規模と見積もるべき),それがベトナム経済にとってどれほどの意味を持つのか,軍事経済学的にも正しく考慮することが出来ないことを意味する.

 〔略〕

へぼ担当 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年12月22日 00:11


 【質問】
 ヴェトナムの天然ガス資源について教えられたし.

 【回答】
 ブロックBで知られているベトナム南部沿岸の西南部の沖合ガス田は,4〜7兆立方フィートTCFのガス埋蔵量を持っていて,25年以上の発電所の運転に耐えられる量.
 シェブロンが事業運用に当たっており,ペトロベトナム PetroVietnam と政府を相手に,ガス配分量,パイプラインの所有権とそのルート,他の技術的な仕様について,協議を進めているという.
 ガスの一部(年間200万〜250万トン)は,プクオック島沖のロットBガス田 Lot B oilfield offshore Phu Quoc Island から,カマウ発電所 Ca Mau Province based gas electricity fertilizer complex 及びカントー Can Tho City のオモン発電所 O Mon Electricity Centre に送られる計画.
 パイプラインのうち,246kmは海底で,160kmが陸上になり,完成予定は,2011年7月.
 ベトナム軍第9軍司令部 Military Zone 9 が,このパイプラインの警護および工事の一部に当たることで,ペトロベトナムと協定を交わしたという.

 詳しくは
PetroVietnam may join gas pipeline project in Mekong Delta
http://my.reset.jp/adachihayao/index091007A.htm
http://steelguru.com/news/index/2009/10/06/MTE0ODgz/PetroVietnam_may_join_gas_pipeline_project_in_Mekong_Delta.html
および
「日刊 アジアのエネルギー最前線」,2009.10.7付
を参照されたし.


 【質問】
 「ディン・ティエン・ホアン」型フリゲートについて教えてください.

 【回答】
 ロシア海軍の「ゲパルト」級警備艦と同型で,2006年12月に契約調印.[4][5]
 2隻とも2011年にベトナムへ引き渡されています.[1]
 こちらは輸出用のプロジェクト11661E「ゲパルト3.9」です.[1]
 乗員は,士官の50%近くを1988年〜1990年に生まれた若手で固めているそうです.[2]

 さらに,2隻の「ゲパルト5.3」型を購入する契約を,ヴェトナムはロシアとの間で結んでいます.[4][5]

 なお,「ディン・ティエン・ホアン(丁先皇)」の名前は,大瞿越丁朝の建国者,丁部領(ディン・ボ・リン)の尊称にちなみます.[4]

 【参考ページ】
[1]http://rybachii.blog84.fc2.com/blog-entry-524.html
[2]Dan sï quan 8X trên chiê'n h●m Ðinh Tiên Hoàng - Tiê'n Phong Online
[3]http://vi.wikipedia.org/wiki/%C4%90inh_Ti%C3%AAn_Ho%C3%A0ng_(HQ-011)
[4]http://vi.wikipedia.org/wiki/%C4%90inh_Ti%C3%AAn_Ho%C3%A0ng
[5]http://en.wikipedia.org/wiki/VPNS_Dinh_Tien_Hoang_(HQ-011)

ゼレノドリスク工場で建造中の2隻
1番艦「ディン・ティエン・ホアン」
2番艦「ル・タイ・トー」
(こちらより引用)

●=aの下に「・」

【ぐんじさんぎょう】, 2013/08/13 20:00
を加筆改修


 【質問】
 2010年現在の中越国境の,警備状況について教えてください.

 【回答】
 1020キロメートルの長さのある広西チワン族自治区とベトナムとの間の陸上の国境線上では,ほぼ毎日のようにベトナム人が国境にある小さい道から中国に入ってきており,公安警察の国境警備隊が,その取締りに追われているという.
 広西チワン族自治区防城港市公安国境警備支隊の樊啓支隊長は,
「山や川が連なる地理条件が,1000キロメートル以上の中国とベトナムの国境線は完全に開放的な国境線にさせており,人々は小道や川を通って数分で互いの国境内に到達することができ,このことは我々国境警備コントロールに極めて重大な挑戦となっている」
と述べている.

 密入国者が絶えない背景として,中国の沿海地域における,「用工荒」労働力の不足があるとされている.
 同自治区崇左市人的資源・社会保障局の莫紹仁副局長によれば,
「ベトナム労働者は苦労に耐えるし,賃金待遇は中国人労働者の半分程度で済む」
として,大変「歓迎」されているという.
 また,防城港市公安国境警備支隊の樊啓支隊長は,
「2009年年末以降,ベトナム北部の山岳地帯では持続的に干ばつに遭っていて,もともとベトナムで農業をしている農民が大量に中国に密入国し,出稼ぎのチャンスを探している」
と述べている.
 広西チワン族自治区崇左は中国の主要なサトウキビ生産地域だが,現地の若い労働力の多くは広東で出稼ぎをしており,家で留守をしているお年寄りや女性では重労働はできないという事情もある.
 崇左市労働部門の調査によると,崇左市の日常の農村労働力不足は3万人前後だが,毎年のサトウキビの搾汁の季節になると,労働力不足は5万人に達し,これらの労働力不足の多くはうわさを聞いてやってきたベトナム人で埋めていると,莫紹仁副局長は述べる.

 広西チワン族自治区公安国境警備総隊の統計によると,2009年以降,広西チワン族自治区公安国境警備総隊が捕まえた密入国者は225件1820人で,上陸阻止4839人,送還2218人.

 【参考ページ】
『経済参考報』,2010年4月30日
「中国最新情報」2010年5月11日にて翻訳されたもの)


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