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◆◆ラオス
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<東アジアFAQ目次
【質問】
ラオスの公用語は?
【回答】
ラオスの公用語は,ラオス語,現地の言葉ではラーオ語と言います.
専門的には単音節声調言語と言うそうで,基本的な語は一音節語で,音節全体に音の高低の抑揚である声調が掛かります.
基本的に,中国語と同じ様に,語の意味は声調によって決定されるので,万一声調を誤ってしまうと全く違う意味に取られてしまいます.
中国語で良く言われる"ma",つまり「馬」と「お母さん」等が同じ音ですが,声調で分けていると言ったあれです.
ラーオ語でも,「来る」「犬」「馬」は総て,"maa"ですが,同じ"maa"でも,「来る」と言う場合は中くらいの高さからやや高く上がり,「犬」を表すには低めに始まって高く上がります.
でもって,「馬」を表す場合は,「犬」と逆に高めに始まって低く下がります.
ラーオ語は,言語学的にはタイ・カダイ語族タイ諸語南西タイ語群に属します.
つまり,タイ語と同じ語群に属する言語な訳です.
で,このラーオ語とタイ語,何が違うのかと言えば,方言程度の差異しかありません.
それも,東京弁と,琉球語,薩摩方言,津軽弁の様な,それこそ標準語の話者が聴いても理解出来ない(ある意味語弊はありますが)ものではなく,大胆に言ってしまえば,精々が東京弁と京都弁程度の差異でしかありません.
例えば,タイとラオスの両方で「行く」を意味するのは"pay"と言う単語です.
タイ語の場合,この発音は平坦な声調となるのですが,ラーオ語では低めに集まって高く上がるという声調となります.
つまり,この両言語の違いとは,良く関西人と関東人の違いで引き合いに出される「箸」と「端」の発音の違い程度でしかありません.
なので,話者という観点から見れば,ラオスの人々は子供でもタイ語を理解することが出来ます.
また,文字に関しても,ラーオ語とタイ語はインド系の文字を用いています.
こうしたタイ語の理解というのは,これまで見てきた様に,タイとの間に様々な歴史的な出来事があった為と言うのもありますが,最近ではテレビとラジオの存在が大きくなっています.
首都のビエンチャンは,タイとは指呼の間に有ります.
また,ラオスの人口密集地は,中国国境地帯を除けば,大体メコン川沿いに有ります.
メコン川の向う側はタイです.
電波は余程の事が無い限り,国境地帯を意識していません.
従って,視聴環境さえ整えられれば,タイの放送を視聴するのは極めて簡単であり,電波も強く届きます.
また,社会主義の名の下で発展してきたラオスは,その国営放送のコンテンツが非常に貧弱で,娯楽要素は殆どありません.
この為,国民の多くはラオス国営放送に対する興味が無く,対岸からやって来るタイの番組を熱心に視聴しています.
こうして,そもそも余り差異の無い隣国の言語であるタイ語が,自然と自分たちの生活の中に入り込んでいきます.
更に,出版媒体でも最近中進国として活況を呈してきているタイの方がラオスを凌駕しています.
特に最近では経済の発展で英語熱が非常に高まっているのですが,英語の教科書や辞書,学習参考書の何れもが,ラオス国営出版社のラーオ語のそれよりタイ語の方が充実していることから重宝されており,日常生活にタイ語が入り込んできています.
この為,幾らラーオ語の純潔性を保とうとしても,庶民生活にタイ語が深く浸透してきている為,それを維持するのに苦労しているのが現状です.
とは言え,ラオスの人々は無条件でタイを受け容れている訳ではありません.
確かに,東南アジアに於いて,タイの生活様式はラオス人にとって憧れの的です.
ただ,今までにも何度も見ていた様に,ラオスと言う国を構成している民族であるラオ族は,実際には大部分がメコン川を渡ったタイ側に居住しています.
このタイ側のラオ族居住地域は,バンコクから見て東北に当たることから,「東北」を表すイサーンと呼ばれています.
そして,バンコクを含む中部タイの人々は,昔からこの地域を蔑視していました.
バンコクの様な都会の人々から見れば,イサーンはタイで最も貧しい地域であり,イサーン=「田舎者」と言うイメージが根強くあります.
更にその「奥地」にあるラオスもイサーンと同じく田舎扱いされる意識が根強くあります.
例えば,タイの芸能人がラオスを見下したりして屡々問題になっていますし,2003年にタイの女優がカンボジアに対する問題発言をして,カンボジアのタイ大使館が襲われた際にも,ラオス国内ではカンボジアに対する支持があったりした程であり,必ずしも両国の関係は良好な状態を保っているとは言えません.
言語も同様で,ラーオ語はメコン川を渡ると公用語としての地位を得ますが,タイ国内ではあくまでもタイの「東北タイ方言」と言う位置づけです.
そして,映画の中でイサーン出身の若者が地元の言葉を喋ると,「田舎者」扱いをする場面が出て来たりします.
都会のタイ人にとって,タイ語東北タイ方言=ラーオ語が「田舎者」の言葉の象徴となっています.
ただ,複雑なのが,タイ語とラーオ語はそれぞれ異なる国家の公用語である事です.
即ち,標準語と方言の格差に匹敵するものが,東北タイから国境であるメコン川を越えて持ち込まれ,公用語対外国語の構図になると言う訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/16 23:09
青文字:加筆改修部分
【質問】
ラーオ語の正書法について教えられたし.
【回答】
『広辞苑』は,「正書法」の事をこう書いています.
> 語を綴る際の正しい綴り方.
> また,一言語を書き表すのに,正しいと認められている規則の体系.
> 正字法.
ブリタニカ国際大百科事典ではもう少し詳しく,
> 規範として社会で認められている単語の綴り方(日本ではかなづかい),またはその体系をいう.
> 例えば,英語で「夜」はnightと綴るのが正しく,niteは正しくないとされるが,この様に正しいとされる綴り方が正書法である.
> 正しいというのは社会で承認されていることであり,合理的かどうか,話し言葉に忠実かどうかとは無関係である.(以下略)
と説明しています.
言う間でも無く,正書法とは単語の「正しい」綴り方の規則のことであり,しかしそれでは一体どの様な方法が「正しい」方法なのかと言えば,全言語に共通する普遍的な基準がある訳では無く,総ては当該社会に於て,「正しい」と認められているかどうかに委ねられていると言う事で,例え実際の発音とかけ離れた著しく難解な綴り字であっても,それが使用者集団に於いて承認されているのならば,「正しい」方法であると言う事になる訳です.
つまり,世界の諸言語でも,正書法の決定には単なる合理性を超えた判断が伴うケースが多くあります.
その背景には,屡々正書法を採用する各集団に固有の諸事情…例えばナショナリズム…が反映されており,そう言う意味では正書法の決定というのは極めて政治的な問題でもあります.
長々と書いてきましたが,これはラーオ語でも例外的では無く,ラーオ語の正書法を巡っては植民地時代以降,様々な立場から多様な意見が出されてきました.
それらを大きく纏めると,発音する通りに綴るべきだとする音韻型の正書法,パーリ語やサンスクリット語からの借用語に関しては,その元の形を綴りに反映させるべきであるとする語源型の正書法の2つに別れます.
前者は特に語源型の正書法を採用しているタイ語正書法との差異化を意識した方法ですが,後者もタイ語の存在を無視していた訳ではありません.
では,語源型正書法と音韻型正書法の違いとは何か.
ラーオ語の語彙には,純ラーオ語と呼ばれる元からの語彙と,主としてパーリ語,サンスクリット語などからの借用語彙とがあります.
語源型正書法とは後者,即ち借用語に関して,元の形を反映させた正書法のことであり,タイ語ではこの方法を採用しています.
一方,音韻型正書法とは借用語であれ,純ラーオ語であれ,発音する通りに綴る方法であり,現在のラーオ語の正書法はこの方法を採用しています.
ラーオ語とタイ語の表記については,それぞれラーオ文字,タイ文字と呼ばれる独自の文字が使用されています.
とは言え,両文字は非常に似通った形をしており,ラーオ文字は26字(後に27字),タイ文字には42字の子音字があります.
因みに,タイ文字の直接の起源は13世紀末にスコータイのラームカイヘーン王によって創られたスコータイ文字であると言う説が有力ですが,最近ではこれは偽造では無いかと言う説もあったりします.
まぁ,起源は扨措いて,ラーオ文字に付いては,スコータイ文字からの派生という説や,既にスコータイ文字が創造された当時にはラーオ文字の元となる文字が存在していたと言った説があったり,その起源は明らかではありません.
勿論,この背景には,タイ文字からラーオ文字が派生したとは考えたくない,ラオス側のナショナリスティックな感情が隠されているのですが….
しかしいずれにせよ,タイ文字もラーオ文字も元を辿っていくと,古代インドの文字を起源としており,それが東南アジア大陸部に伝播する過程で,独自に発展を遂げたものであると考えられる訳です.
ところで,似通った形とは言え,ラーオ文字が26(27)文字の子音に対し,タイ文字には42文字の子音があります.
ラーオ文字よりもタイ文字の方が15〜16文字多いのは,タイ語の表記に必要な文字以外に,サンスクリット語とパーリ語の元の音に対応させる為の同音異字が多数存在する為です.
例えば,ラーオ語でもタイ語でも「銀行」は「タナーカーン」と言います.
これはパーリ語のdhana(財)とag?ra(家)を合成して創った言葉ですが,ラーオ語では発音の通り,thanaakhaanなのに対し,タイ語ではdhanaagaarと綴り,語源の音dhとgとrを辿ることが出来るものとなっています.
また,「動物」は両言語ともにサンスクリット語のsattva(衆生)からの借用語である「サット」ですが,ラーオ語ではsatと綴るのに対し,タイ語ではsatvと綴り,語末の文字を黙音字とすることで,此処でも語源の形が残されています.
サンスクリット語の?c?rya(阿闍梨)を語源とする「教師」,つまり「アーチャーン」も,ラーオ語ではaacaanですが,タイ語ではaacaaryとなり,末子音字rと語末の黙音字に語源の形が残されています.
この様に,綴りに語源を反映させたタイ語の正書法は,ラーオ語の正書法と比べて遙かに複雑である反面,同音異義語の区別がラーオ語よりも付けやすいものとなっています.
例えば先の「サット」は,satvと綴ることで,同じ発音で「誠実」を表す「saty」(末尾のyが黙音字)との区別が一目で付けられる様になっていますが,ラーオ語ではどちらも同じsatと綴るので,文脈から意味を判断する必要があります.
そう言う意味では,語彙数が少なくて国民が覚えやすい反面,文章読解力が必要になるのがラーオ語な訳です.
元々,ラオス国内でも現在の正書法に統一されるまでは,タイと同じく語源型正書法を支持する勢力,音韻型を支持する勢力,両方の折衷案を支持する勢力など様々な意見が存在していました.
現在のラーオ語の正書法は,内戦期にパテート・ラーオが解放区で用いていた正書法を,革命後に新政権が全国へと普及させたものです.
そう言う意味では,この正書法は極めて人工的なものだったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/19 23:32
青文字:加筆改修部分
さて,植民地期,ラオス理事長官府官房長であったフランス人,ローラン・メイエと言う人が書いた"Cours
de Langue Laotienne"(ラーオ語講座)冒頭の民族誌に於いて,こう書き記しています.
> ラーオ語はインドシナの言語の中で,最も単純で容易な言語である.
因みに,植民地の言語というのは,以前アフリカ諸国の言語を取り上げた際にも出て来ましたが,各地へ布教に乗り込んだキリスト教宣教師や言語学者達が,現地語の記述や辞書の編纂を行い,植民地化が達成されると,原住民教育の為にそれに基づいた現地語の標準化が実施されていきます.
ラオスに於いても19世紀半ば以降,フランス人宣教師や植民地調査団などによってフランス語とラーオ語の辞書や会話集等が編纂されています.
メイエの著作は,1924年にヴィエンチャンで出版された語彙集と簡単な文例などからなる,フランス語によるラーオ語の学習書です.
何故ラーオ語が単純で容易な言語なのか.
メイエによると,彼はこう著しています.
> 言語と文字の豊かさについて,例えば,宗教文学,道徳文学の遺産の様な,パーリ語,サンスクリット語の起源の保存について,カンボジアはシャムの2倍,ラオスの3倍,豊かである.
> 即ち,もしクメール語の豊かさを3とするならば,シャム語は2,ラーオ語は1である.
実は此処には数字のマジックがあり,そう言った括りで言語を考えると誤った結論に至る典型だったりするのです.
メイエに依れば,「言語の豊かさ」が,「文字の豊かさ」と「パーリ語,サンスクリット語起源の保存」と共に語られています.
クメール語にもタイ語,ラーオ語と同様に,多くのパーリ語,サンスクリット語起源の借用語が含まれています.
クメール文字でサンスクリット語を表した最古の碑文は,5世紀のものと推測されており,クメール文字は13世紀にスコータイ文字が出来るずっと以前から,サンスクリット語の表記に使われていた文字でした.
従って当然のことながら,クメール文字にはパーリ語とサンスクリット語に対応した33の子音字があり,今日のカンボジア語の表記にも,語源型の正書法が用いられています.
メイエは正書法に直接言及してはいませんが,「文字の豊かさ」を挙げていることから,インド系言語に対応した文字数を持っているかどうかが,彼が言語の序列を決定する際の,一つの判断材料であったと言える訳です.
メイエがパーリ語,サンスクリット語というインド系言語の要素を重視したのは,それらが印欧語族に属する言語だったからです.
欧州では19世紀以降,比較言語学が発達する中,「他者」の言語に対する「我々」の言語,即ち印欧諸語の優位性を構築する,欧州中心主義的な言語理論が発展していきました.
つまり,こうした言語理論は,「我々(欧州)」と「他者(植民地の被支配者)」との関係を「差異」から「優劣」の関係へと変換し,植民地主義の正当化に貢献するのに使われることになります.
勿論,メイエもその時代の人間ですから,この考え方を自然と受け容れ,クメール語,タイ語,ラーオ語の序列を決定したのは,その印欧語との関係性を重視したが故な訳です.
ただ,クメール語,タイ語,ラーオ語の3カ国語の対比をしたのはメイエ位で,他の植民地期のフランス人が出版したこの手の本では,ラーオ語とタイ語に限定しての記述が主流でした.
彼等の記述では,タイ語とラーオ語,タイ文字とラーオ文字は同一の起源を持つとされ,タイ語とタイ文字が他の民族との交流の中でより完璧な形へと,通時的な進化を遂げていったのに対し,ラーオ語やラーオ文字は原初の儘留まっているとされていました.
そして,大半はラーオ語を進歩から取り残された言語であるとして,タイ語の下に置き,中にはラーオ語を「シャム語のパトワ(俚言)」とまで言い切る者もいました.
ところで,インドシナに於いて,最高統治者はフランス人ですが,官僚層はヴェトナム人もしくは中国人が担い,現地人が更にその下と言う社会構造が多く執られました.
ラオスでも例外では無く,フランス人の下にヴェトナム人が官吏として働き,ラーオ人はその下,更に各種の少数民族がいるという構造でした.
従って,ヴェトナム人さえきちんと教育していれば,他の原住民を統治者に必要とはしなかったのですが,流石にそれでは国が回らない事に気がつき,1917年になって漸く6年間の初等教育が一部で実施される様になります.
そして,教育を実施すると言うことは,それまで等閑にされてきた正書法の問題とも取り組まねばならなくなる訳です.
この切っ掛けは1918年にルアンパバーンの弁務官であったメリエールが,ラーオ文字に代えて,シャム文字のラーオ語表記を提案したことに依るものです.
既に見た通り,ラーオ語とタイ語は殆ど異なる事が無く,ほぼ同じ音韻体系であるので,シャム文字でラーオ語を表記することは不可能なことではありませんでした.
メリエールは,既に活字が存在していたシャム文字の採用こそが,教科書を始めとしたラーオ語書物出版の為の,最も簡便で経済的な方法であると主張した訳です.
これに対して猛然と反対したのが,ヴィエンチャン理事長官府の官吏であったペッサラートでした.
ペッサラートは,シャム文字の採用はラーオ文字のみならず,ラーオ語,ラーオ文字の消滅に繋がると強く反対し,あくまでもラーオ文字による正書法の確立を主張しました.
因みに,ペッサラートはルアンパバーンの副王の家系で,フランス留学経験のある数少ないラーオ人エリートの1人でした.
彼にとって,ラーオ語,ラーオ文学は「ラオス人の魂」であり,それをシャム文字で表記することは,ラオスの「シャム化」に繋がるものと考えたのです.
これに賛意を示したのが,ラーオ語正書法会議への参加を求められたフランス極東学院所属の考古学者で,当時バンコクの国立図書館長をしていたジョルジュ・セデスです.
セデスは,ラーオ語の標準化を,「シャムの政治的影響からラオスを守る為のプロジェクト」と称していました.
此処まで大きな犠牲を払いつつ折角獲得したインドシナの領土です.
フランスにとってもラーオ文字の維持は,ラーオ語とタイ語の境界を明確化し,シャムの脅威からラオスを守る「保護者」として,フランスの植民地支配を正当化する為の重要な切り札だった訳です.
こうした流れを受けて,1918年以降,フランス植民地政庁により,ラーオ語正書法を確定する為の会議が幾度となく開催されていきますが,そこで出された意見は大きく分けて3つに収斂出来ます.
1つは,タイ語の様にインド系借用語について,元の形を綴りに反映させるべきであると言う意見(語源型)と,発音通りに綴るべきであると言う意見(音韻型),そしてローマ字化と言う選択肢です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/20 23:09
さて,ラーオ語正書法の話ですが,先述の通り,考え方は3つありました.
1つ目は語源型,2つ目は音韻型,3つ目がローマ字化です.
語源型正書法を支持したのは,仏教高等教育を受けた人々であり,その中心となったのが先述のマハー・シラー・ウィーラウォンでした.
マハー・シラー・ウィーラウォン,通称マハー・シラーは,1905年東北タイ,ローイエットのラーオ人家庭に生まれ,バンコクで仏教高等教育を受けた後,1930年に25歳でヴィエンチャンへと渡りました.
マハー・シラーはラオスに渡る前は東北タイの寺院でパーリ語の教師をしており,そうした経験がラーオ語正書法に対する彼の考え方に少なからぬ影響を与えることになります.
マハー・シラーはラオスに渡ると間もなく還俗し,1931年にはペッサラートの指示に依り,仏教協会付属のパーリ語学校教師に就任しています.
嘗てヴィエンチャンは,この地域の仏教教育の中心地として栄え,シャムやカンボジアの近隣上座仏教国からも多くの僧侶が留学してきていました.
しかし,1827〜28年のアヌ王による戦乱の結果,ヴィエンチャンが徹底的に破壊されてしまうと,その伝統は廃れ,逆にラーオ人の僧侶達がバンコクへ留学する様になっていました.
これを脅威と感じたフランスは,上座仏教を通じてのシャムとラオスとの関係を断ち切る為に,ラオスに於ける仏教の復興を名目に仏教協会を立ち上げたのです.
仏教協会にはパーリ語学校の他に図書館が設置されており,ペッサラートが館長を務めていました.
しかし,パーリ語学校と行っても,マハー・シラーの着任当初は,学校に教科書もカリキュラムも存在せず,生徒数も僅かに5名を数えるのみでした.
その為,先ず何よりも教科書を編纂する必要に迫られたマハー・シラーは,ペッサラートにタム文字の使用を止め,ラーオ文字でパーリ語を表記出来る様,ラーオ文字に14の子音字を加えることを提案しました.
ラーオ人の間では従来,原則として俗語であるラーオ語の記述にはラーオ文字が,聖典言語であるパーリ語の記述にはタム文字が用いられており,仏典を読むにはタム文字の知識が必要でした.
同じインド系であっても,ラーオ文字とは系統を異にするタム文字を読むには特別な学習が必要であり,お子のことはラーオ人の僧侶達にとって大きな負担となっていたのでした.
そこで,マハー・シラーは
・子音字を加えれば,ラーオ語の表記にパーリ語の語源を正確に表すことが可能となり,同音異義語の区別が容易になること,
・仏教教育制度の確立に必要なパーリ語教科書や教理教科書の出版が容易になり,僧侶がタム文字学習の負担から解放されること,
・タム文字の知識の無い者にも,広く仏教教義を普及させることが出来る
とし,文字の追加は聖俗両方の領域にとって有効であると主張しました.
因みに,シャムでは19世紀末以降,チュラロンコーン王(ラーマ5世)の異母弟ワチラヤーン親王によって教法試験制度の成立を核に,近代的な仏教教育制度が整備されていました.
文字に関しても,嘗てはパーリ語の記述にはコーム文字と呼ばれる文字が用いられていたものが,タイ文字によってパーリ語を記述する様になり,タイ語やタイ文字による教理教科書や経典のタイ語訳などが,多数出版されていました.
これら一連の改革により,シャムでは僧侶達の学習が飛躍的に効率化しただけで無く,パーリ語の知識が無い人々でも,タイ語で仏教の教理について学習することが可能となり,仏教の「世俗化」も進んでいきます.
そして,こうしたタイ語,タイ文字による教科書は当時,バンコクへ留学していたラーオ人僧侶達によってラオスにも持ち込まれ,ラーオ人僧侶達の間では,タイ語の教科書によって仏教の学習をすると言う事態を招いていました.
ラーオ人僧侶にとっては,バイラーンと呼ばれる貝葉文書に手書きのタム文字で書かれたパーリ語経典を読むより,タイ語,タイ文字により教科書や解説書を読んで学習する方が,遙かに容易であったことは疑いの余地がありませんでした.
つまり,ラオスに於いて仏教教理の学習=タイ語学習ともなりかねない状況となっていた訳です.
マハー・シラーは仏教を通じてのシャムの文化侵略を憂慮し,タイ語の影響力を遮断する為にも,また,ラオスに於ける仏教教育の近代化の為にも,ラーオ文字に14の子音字を追加する必要があると考えたのです.
この提案は,1932年にペッサラートを議長に開催された正書法会議の中で採用され,1935年には仏教協会から,マハー・シラーによる『ラーオ語文法』が出版されました.
ただ,この方法は14の子音字の追加に加えて,黙音字符号や特別な末尾子音字の使用など,大衆が学ぶには複雑すぎるとして,公教育の採用はならず,仏教協会内だけの使用に止められました.
これに対し,発音通りに綴るという音韻型正書法を支持したのは,主としてフランス式世俗教育を受けた人々でした.
当初は,先述の語源型が支持されていたのですが,公教育に使うにはハードルが高すぎ,1938〜1939年の正書法会議の中で徐々に音韻型を推す声が有力なものとなっていきます.
この頃になるとマハー・シラーとペッサラートが先の仏教協会による正書法を支持したのに対し,他の多数委員は,教育の普及の為,できる限り発音に即した簡易な正書法を採用すべきだとの意見が多数を占め,フランス当局もこの時点では音韻型正書法に賛成していました.
激論の結果,最終的に音韻型を推す意見が採用され,1939年8月9日の理事長官布告により,ラーオ語正書法が正式に決定されました.
音韻型が優勢になった原因は,語源型正書法の難解さと共に,ラーオ人エリートの間で語源型の正書法が,タイ語の正書法を真似たものと認識されていたことが挙げられます.
例えば,仏教協会編『ラーオ語文法』では,パーリ語,サンスクリット語のnagara(都市)を語源とする「ナコーン」(都)を,ngrとタイ語と全く同一の方法で綴っています.
この綴りは,母音符号を付すこと無く,ngrの3文字の子音のみでnakhoonと読ませるもので,タイ語の正書法の中でも特に語源の形を維持したものといえます.
それに対し,例えば1936年に出版された"Syllabaire
Laotien, Baep Son An Phasa Lao"(ラーオ語の音節)という冊子を出版した小学校長のターオ・ボンは序文で,仏教協会の正書法を次の様に批判しています.
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繰返し繰返し,ラーオ文字の改革の問題があった.
ある人々は,現在用いられているラーオ文字のアルファベットは不十分で,「正しく」言語の総ての語を書き写すことが出来ないと考えている.
その結果,彼等はシャム文字であれ,タム文字であれ利用して,それを完全なものとすることを提案している.
ラーオ文字のアルファベットは考えられている様な貧弱なものでは無い.
現在,使用されているもので,我々の言語の必要性を十分に満たしているものと考えている.
正書法が規則を持つ事で,価値を増すことは事実である.
しかし,盲目的にシャムの正書法に従う必要は全く無い.
最も良い表記とは,最も単純で容易に学習出来るもの,つまり最も純粋に音声に沿ったものでは無いだろうか.
一般大衆の間に知識を普及させるという実際的な関心に於いて,万人の理解出来る表記を持つ事は好ましくないことであろうか.
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パーリ語を表記出来ないので,ラーオ文字を不完全とする語源型支持者の意見を,「シャムの正書法に従う必要が無い」と言う意見で退け,ラーオ語を表記するには,既存の27文字のラーオ文字で十分だとの主張を行います.
また,この主張は一方で文字の少なさ故に,ラーオ語をタイ語の下位に置くという言語の「序列」に挑戦しようとしていました.
これはフランス人が決めた序列に挑戦するものでもありましたし,そう言った序列の存在を理解するだけのフランス語能力をラーオ人が持ち始めたことを意味します.
ところで,1943年,タイの大タイ主義に対して,ラオスではラオス刷新運動が行われていました.
その中で,ヴィエンチャンの印刷所所長であったカターイ・ソン・サソリットもターオ・ボンと同様の試みを提案しています.
ただ,カターイはどちらかと言えば,音韻法支持ではなく,ローマ字支持者なのですが.
カターイがこの頃に出版したフランス語の小冊子"Alphabet
et Ecriture Lao"(ラーオ語の文字と表記法)"に於いて,カターイはラーオ文字とタイ文字が共にスコータイ文字を起源とし,歴史のある時点まで並行に進化を続けてきたこと,しかしその進化は,ラオスに於いては規範が固まった時点で止まったのに対し,タイでは改革が行われ続けた為,2つの文字への分裂が生じたと説明しています.
その際,カターイはラームカムヘーン王が実際にはラーオ人であるとの主張を行い,ラーオ文字こそがスコータイ文字の直系子孫で,タイ文字はそこから派生したに過ぎないとしていました.
そして,タイが文字を増やし,語源型正書法を持った事を,「パーリ語に夢中になった学者達の仕業」「一つの言語が同時に,民衆の現在的な問題と,文献学者の好みという相反するものを満たすことが出来ない」と否定的な「進化」と捉え,それに対して,「ラーオ文字は総ての極東の中で最も合理的最も良く整理された土着の文字である」としています.
つまり,今まで文字が少ないと言うことが,遅れているとか言われていたことが,逆に少ない事が効率的なことだと言う風に逆転させた訳です.
但し,カターイの主張には,「極東の中で」と言う限定が為されていました.
つまり,世界を見渡せば,ラーオ文字以上に合理的で良く整理された文字が存在しているとカターイは考えていた訳です.
それがローマ字であり,ラーオ文字のローマ字化が3つ目の考え方として浮上してきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/21 23:00
【質問】
ラオ人の王国の消長について教えられたし.
【回答】
東南アジアと言うのは,基本的に中国の影響の強い場所で,この地域で一番大きな国家を作り上げた地域が,中国に朝貢し,その冊封を受ける事で,地域としてのアイデンティティーを成り立たせていました.
そして,冊封を受けた地域は,それを後見として,より小さな国家に対して朝貢,貿易,或いは徴兵を促すことになります.
欧州的な国家と言う概念はそこには存在せず,どちらかと言えば,大小の権力者の統治域が複雑に絡んだ国家連合的なものであり,屡々それは入り組んだ形になっています.
これを最近の欧米の研究者達から出て来た言葉で,「マンダラ」と呼びます.
「曼荼羅」と言えば,我々が思い浮かべるのは宗教的なそれですが,それに似た感じと言う事で,こうした概念をもってきたと思われます.
1253年,フビライ汗の率いるモンゴル軍は雲南の南詔国を下し,更に南進しました.
ビルマ人マンダラの中心だったパガンは破壊され,モンゴル軍はカンボジアに侵攻する為にメコン川中流域に進撃しました.
この頃,既にカンボジア,即ちクメールの勢力は既に弱体化しており,その隙を突いてタイ系のマンダラであるラーンナー,それに南にスコタイが形成されました.
両マンダラとも,元朝に朝貢したので,モンゴルの影響力が強いものがあります.
14世紀半ばには,2つの有力なマンダラが形成されました.
1つは1351年に形成されたアユタヤです.
ラーンナーと共にタイ系世界を以後4世紀に亘って二分したタイ系シャム人のマンダラは,その後強大になり,1438年になると従来有力マンダラとしてタイ系世界に君臨していたスコータイを吸収しました.
もう1つは従来の有力マンダラであるタイ系ラオ人のラーンサーンで,その中心地はその後ラオ人にとってルアンパバーンと呼ばれることになるシエンドーンシエントーンでした.
ラオ人の戦士が,恐らくクム族であろう先住民からシエンドーンシエントーンを奪って以来,この地には小さな規模のラオ人のムアンが存在していました.
ラオ語年代記に記された最も古い年号は1271年で,この年にある王家が権力を握り,その支配者はパーリ語で「認められた者」を意味する「パニャー」の称号を持っていましたが,この称号は仏教の強い影響を示しています.
ラーンサーンの創始者であるファーグムは,パニャーの王家の血を引く王子でした.
ファーグムは,伝説に寄ればシエンドーンシエントーンから父王によって追放され,何とかカンボジアに辿り着いてアンコールの王宮で最終的にクメールの王妃と軍を手に入れます.
そして,シエンドーンシエントーンに戻す途中,その軍と共に戦い,進軍路沿いのムアンに派遣を認めさせました.
そして,シエンドーンシエントーンに戻ると,ラーンサーンというマンダラを纏めて統治構造を整備し,周辺の勢力であるヴェトナム,ラーンナー,アユタヤと条約を結んで境界を定めたと言われています.
とは言え,あくまでもこの頃のマンダラの範囲は,北ラオス山間の狭い盆地のムアンとメコン川中流域に点在していたムアンを統合したもので,本質的には忠誠と保護による封建制でした.
しかし,その成立の仕方は欧州的な封建制では無く,領主の為に農奴があくせく働くと言うよりは,自由農民が,代々の支配者一族の土地で植付けと収穫の時期に働き,祭りの様な特別の機会や戦争に要請されて奉仕するというある程度の義務を負うものでした.
しかし,ファーグムは,クメールから軍を連れてきた所詮成り上がりの新参者でした.
1368年,ファーグムはクメールの妃が死去し,明による元朝の滅亡がクメールの勢力を弱めることになり,後ろ楯を失ってしまいます.
結局,宮廷の旧勢力にファーグムは追放され,ファーグムの長男,ウンフアンが王名をサームセーンタイとして即位しました.
その名は「30万のタイ系の人々の王」であり,その数字は戦闘時に召集出来る王の軍隊の人数でした.
サームセーンタイ時代,ラオ人のマンダラの構造,ラオ人の権力の雛形が確立されていきました.
社会は3つの階級,貴族,自由農民,奴隷で構成される様になりました.
その下にラオ・トゥン,つまりその土地の少数民族が置かれ,彼等は一般的に奴隷(カー)と呼ばれました.
自由民は戦争で捕虜となったり,罪を犯して罰せられたり,負債を負うと奴隷になりました.
ただ,奴隷と雖も,酷い扱いを受けていた訳ではありませんでした.
ラオ人王宮の富は,貢納,税,そして交易から生じていました.
マンダラは緩やかな構造となっており,王国を構成しているムアンの支配者或いは領主(チャオ・ムアン)は,規定の貢納を行って,定期的に王宮に出向き,命じられた時に人に武器を納められる用意をしておけば,事実上自治を認められていました.
税を課せられるのは地域の中心地に限られ,普通は物品,つまり食糧や村の職人が作った手工芸品(陶器,銀製品,絹織物,刺繍等)の納入の形を取っていました.
交易品はより価値のある品で,その多くは,象牙,犀角,安息香,スティックラック(漆器を作る際に使う樹脂)などの森林産物が主ですが,絹,鉄,塩もありました.
因みに,近隣マンダラとの力関係は変化しやすく,境界は比較的流動的でした.
これは辺境のムアンが圧力を加えられると,忠誠心を変化させるのが常であった為です.
更に新しい村が出来ると,新しい土地が開墾され,境界もはっきりしませんでした.
しかし,何れにしても,商人が1つの商売区域からもう1つの商売区域へ移動する交易のルートが確立すると,それがマンダラの大まかな範囲と言えました.
ラーンサーンについては,コーラート高原に於ける境界ははっきりしないことが多かったのですが,メコン川を下ってカンボジアに接する部分と,ペッチャブーン山脈を横切ってアユタヤに接する部分は,はっきり定められていました.
しかし,東北と西北,即ちヴェトナムの国境とラーンナーの国境は簡単に変化しました.
ジャール平原にあるシエンクワンのムアンプアン,東北部のシップソーンチュタイは西北部のシップソーンパンアーと同様に,強大なマンダラが競合する地域であり,自分たちを支配しようとする1つ或いは複数のマンダラに様々な機会に応じて朝貢したからでした.
戦争は東南アジア大陸部の風土病的な存在で,歩兵と象部隊からなる大規模な徴兵部隊による戦いでした.
ラーンサーン,つまり,「100万頭の象」と言う名は,正に軍事力がどれほどのもので有るかを表していました.
とは言え,タイ系マンダラとは共通の祖先であると言う意識から,協定を結ぶ事が可能で,共通の祖先を持たないと認識されていたヴェトナム人やビルマ人の様な人々とは,はっきりと区別されていました.
ラーンサーンが最も酷い被害を被った戦争が,1479年にヴェトナムによる侵攻と,16世紀後半タイ系世界を震え上がらせたビルマによる一連の侵攻であった事は当然でした.
信仰の面ではこの時期に上座仏教が導入されました.
しかし,王位の継承に関して,厳格に長子相続を適用する為の規定が無かった事が,王家の衰退に繋がりました.
往々にして王には多くの息子がおり,王位の継承で戦争が起こることも屡々でした.
ラーンサーンに数年以上に亘って君臨する王がいた時には強大になりましたが,そうした王程,その絶頂期に死亡しました.
例えば,ポーティサララートは熱狂的な仏教徒で,総ての精霊(ピー)信仰を根絶しようとしましたが,息子のセーターティラートをラーンナーの王に任じた直後に,象から落ちて押し潰されて死に,セーターティラートはラーンナーからラーンサーンに戻ってしまい,ラーンナーの王位を失う事になって,この2つの王国の統合の機会を逸してしまいました.
そのセーターティラートの時代,ビルマ軍はタイ系世界に侵攻しました.
1558年にチェンマイが陥落し,ラーンナーは以後2世紀以上に亘ってビルマに朝貢し続けることになりました.
ビルマの脅威に対しては,ラオ人は防御を固めるという対抗手段を執っています.
1560年,セーターティラートはアユタヤと戦略的な同盟を結び,この年に都を南部のビエンチャンに移すことになりました.
当時,ラオ人の定住地はメコン川に沿って,南のチャムパーサック地方やコーラート高原に向かって拡大して行ったので,今までの都では北に偏りすぎることになった為です.
新しい都の建設には4年掛かりました.
防御の為の城壁に加え,新王宮,仏教寺院の建設,エメラルド仏を安置する為にパケーオ寺が,更に偉大なインドの王,アショーカ王を起源とする聖地に巨大なタート・ルアン仏塔が建立されました.
セーターティラートはパバーン仏をシエンドーンシエントーンに残し,町をルアンパバーンと改称する事によって,良き宗教者として行動しました.
また,ルアンパバーンにワット・シエントーンを建立する様に命じもしています.
しかし,ビルマの脅威は続き,1569年には戦略同盟を結んでいたアユタヤが陥落,ラーンサーンだけがビルマの前に取り残されることになります.
ビルマは一度ビエンチャンを占領しますが,セーターティラートはゲリラ戦を展開し,数ヶ月後,補給物資の欠如によりビルマは撤退を余儀なくされました.
その後,セーターティラートは1570年に権力の絶頂期を迎え,隣国のカンボジアへの侵攻を行います.
しかし,彼の軍隊は大敗北を喫し,北へ退却する途中で王は行方不明になってしまった為に,ラーンサーンは又も王位継承争いが続いて衰退し,今度はビルマの侵攻を受けるが儘になってしまいました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/01 22:44
青文字:加筆改修部分
さて,ラオ人の国ラーンナーは,ビルマの脅威に曝され続け,遷都まで行いましたが,そればかりではなく,毎度毎度の王位継承争いにより,国力を低下させていきます.
1637年,スリニャウォンサーが王位を勝ち取ると,やっと平和で繁栄した時代を迎えることが出来ました.
それは王の57年間に及ぶ治世の間続いたのです.
この頃,この遠隔の地にも西洋人がやって来ました.
最初にやって来たのはオランダ商人で東インド会社社員であるゲルリット・ファン・ウストフと言う人物で,その直ぐ後にイタリアのジュスイット会宣教師のジョバンニ・マリア・レリアがやって来ました.
ファン・ウストフが僅か2ヶ月しか滞在しなかったのに対し,レリアは布教の許可が得られなかったのにも関わらず5年間滞在してラオ語を学びました.
この頃にはラオ人はシャムの王権概念を吸収しており,王は町と見まごう程の広大で豪華な王宮にいて,人々とは隔絶されていました.
その中で王は,官吏や廷臣達に傅かれ,音楽,舞踊,演劇を楽しんでいました.
2人は期せずして,その貿易による富は莫大なものがあると書き残していますが,その様な富の大部分はビエンチャンが仏教研究の一大中心地であるが故に,サンガ,つまり,仏教寺院に寄進という形で渡る事を嘆いていました.
なお,カンボジアやビルマからやって来る僧は,ファン・ウストフが「ドイツ皇帝の兵士の数よりも多かった」と書き残しています.
とは言え,西洋人の訪問はこれっきりで,スリニャウォンサーの治世が終わるまでには以後,誰もやって来なかったりします.
これ以後,ラオスという国はチベットの様に遠く,謎めいていましたが,貿易という経済的観点からすれば,この時代に大きな時代のうねりが来ていました.
即ち,欧州諸国との海上交易の進展により,海に面している国には有利になり,ラオスの様な内陸国は不利になっていったのです.
因みに,スリニャウォンサーは,晩年,意固地と言うか宗教的に厳格になってしまい,不義の罪により,たった1人の息子を死刑にしてしまいます.
その為,彼が死去すると王国は再び長期の後継者争いに突入してしまいました.
今回はこれまでと違い,この王位継承者争いは破滅的でした.
ヴェトナムとシャムの双方が介入し,王国は最初2つに,遂には3つの別々の小王国に分裂する結果になってしまったのです.
そしてそれぞれが王国である事と,ラーンサーンの後継者である事を主張しました.
この為,ラオ人の国家は致命的に弱体化し,ラオ人の力がその後復活することはありませんでした.
結局,1世紀も経たないうちに3王国総てが,新興の強力なシャム人マンダラの支配下に落ちてしまいます.
なお,18世紀のラオ人王国の歴史は,西洋人の様な外部の記録者による一次資料が無く,しかも,年代記があっても,それは宗教的に王が多額の寄進をしたとか,仏像の話に終始して,政治的な出来事や外国との関係,経済活動や社会的変化には全く触れられていない,暗黒時代と言える状況だったりします.
1760年代にビルマの新王朝が再びタイ系世界を侵攻します.
1763年,チェンマイが陥落し,1765年にルアンパバーンが,1767年4月7日にはアユタヤが陥落しました.
この時はシャムの都が掠奪に遭ったのですが,中国人を父に,シャム人を母に持つタークシンと言う名の若き軍事指揮官によりシャム軍は目覚ましい復活を遂げ,その後10年の内に,タークシンはラーンナーからビルマを追い出しただけで無く,ラオ人の3王国総てを支配下に置いてしまいました.
とは言え,ラオ人は戦わずに優勢なシャムの地からに平伏した訳ではありません.
タークシンは,シャムの臣下に入りたいと主張したあるラオ人反乱者が死刑にされたと言う事を口実にして,先ずチャムパーサック,そしてビエンチャンを侵攻しました.
ビエンチャンは,ルアンパバーンのラオ軍の支援を受けたシャム軍に4ヶ月包囲された末に,遂に降伏します.
シリブンニャサーン王は何とか逃れましたが,翌年死去してしまいます.
都は徹底的に掠奪に遭い,王族が人質になっただけで無く,エメラルド仏を含む仏像の殆どがバンコクへ持ち去られました.
また,ラオ人の数百世帯がシャムの都の北,チャオプラヤー平野に強制移住させられました.
ついでに,ルアンパバーンは,ビエンチャンを裏切ってシャムを支援したにも関わらず,シャムの朝貢ムアンになってしまいました.
ただ,シャムも近代国家と言える存在ではなく,東南アジアにある1つのマンダラであり,中央集権体制的な統治体制ではありませんでした.
この為,ラオ人の3王国やチェンマイの様な多くの小王国には完全な自治が許されていました.
圧力が掛けられて,次第にビエンチャンからバンコクへ忠誠心が傾いていったコーラート高原の小さなムアンでも,自ら税を徴収し,自らの法を行使することが出来ました.
バンコクの承認が必要だったのは,反抗的な臣下を討伐する為に必要な軍隊を出す許可,ムアンを統治する高官の任命,死刑宣告の3つの事柄だけでした.
ラオ人の王国に課せられていたのは,王とウパラート(副王)はシャム王宮の承認を受けなければならない事と,近隣の王国に戦争を仕掛けてはいけないと言うことだけでした.
また,ビエンチャンはシエンクワンを統治するプアン王国に対して自らの宗主権を強化することは許されていました.
バンコクチャクリ朝の創始者であるラーマ1世は,ラオ人世界の出来事に強い関心を示していました.
シリブンニャサーン王の長男,ナンターセーンはビエンチャンに戻ってシャムの朝貢国として統治することを許され,ビエンチャンは再建されて人口も増えていきました.
数年後,強制移住させられた住民の帰還も一部が許される様になります.
1804年,アヌウォンが2歳年上の兄を継いでビエンチャンの王になりました.
アヌウォンは,仏教徒の王として期待された通りのやり方で統治を開始しました.
新宮殿が建設され,サンガへ気前よく寄進することで自身の徳の高さを占めそうとしました.
例えば,シーサケート寺を中心とする新しい寺院が建立されたのがその1つです.
外交的には,シャムの他,ヴェトナムの阮朝との間にも朝貢関係を復活させました.
シャムはアヌウォンの忠誠心を非常に信用していたので,彼の息子をチャムパーサックの支配者に任命することに同意しました.
ただ,シャムに対してはラオ人の怒りが静かに高まっていました.
シャムがラオ人農民に刺青を施し,強制労働に駆り立てるという政策を実施したり,アヌウォンがバンコクでラーマ2世の葬儀に参列した際に無礼な扱いによって侮辱を受けたりしたことも一因です.
何れにしても,アヌウォンはシャムの軛から脱することを決意していました.
その戦略は極めて単純で,全コーラート高原を掌握し,総てのラオ人を本国に連れ戻して統合すると共に,ルアンパバーンやチェンマイなどシャムへの朝貢国と域外の同盟国,特にヴェトナムからの支援を受け,ラオの独立を宣言すると言うものでした.
1826年末,その行動を開始する時が来ました.
ビエンチャンの3部隊とチャムパーサックの1部隊からなるラオ軍は,コーラート高原を突き進み,コーラートに達しようとしていました.
チャオプラヤー流域やコーラート高原南部のラオ人は国へ戻る為に北へ向かったのですが,非常に大人数で向かったのでその動きは緩慢でした.
この為,シャムには対応するだけの余裕が十分にあり,シャムの3部隊が出動して呆気なくコーラート高原は奪取され,ラオ人は退却しました.
この迅速なシャムの動きはアヌウォンの想定の範囲外でした.
アヌウォンとしては,英国がビルマに侵攻しようと第1次英緬戦争を行っている最中で,シャムはその英国の動きに神経を尖らせている時期だったので,ラーマ3世はラオ人攻撃に兵力を割く余裕がないと見ていました.
しかし,実際にはシャムは既に英国と条約を締結しており,後顧の憂い無く,ラオ人攻撃をすることが出来ました.
シャムは大規模で装備の行き届いた軍隊を差し向ける余裕があり,情報面でもラオ人より格段に勝っていたのです.
1827年5月中旬,ラオ人がビエンチャン南面に築いた最後の砦を,シャム軍はあっさり破り,ビエンチャンは再びシャムに蹂躙されました.
アヌウォンはメコン川を下って逃げ,都は破壊されて,王宮も民家も掠奪されて焼かれてしまいました.
人々は強制的に再移住させられ,1828年にアヌウォンが僅かな軍隊と共にこの地に舞い戻ってきた際には完全に破壊されてしまっていました.
この叛乱は極めて高く付き,その後,王は捕らえられてバンコクで残酷な監禁状態におかれて死去しました.
こうしてビエンチャン王国は地図上から消されただけで無く,ラーンサーンのマンダラの面影も消えてしまったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/02 23:07
【質問】
ラオスがフランス領になるまでの経緯を教えられたし.
【回答】
さて,ラオ人の独立の動きがシャムによって阻止された時,フエのヴェトナム王宮によるラオ人朝貢国への支援は緩慢なものがありましたが,ラオ人の領域に於けるシャムの前進政策と,カンボジアに於けるヴェトナムの前進政策は,直ぐにこの地に於ける2大勢力の衝突を齎しました.
1834〜47年にかけて続いたシャムとヴェトナムの敵対関係は,カンボジアに置いて協同で影響力を行使するという政治的協定が締結されたことで終結しました.
共同主権は,ジャール平原でも行使されることとなり,ヴェトナムは此処をチャンニン,ラオ人はムアンプアンと呼びました.
一方で,シャムの覇権に対するラオ人の抵抗は完全に鎮圧出来ず,メコン川の東側では,この地域のラオ人エリートが自治を守る為にヴェトナムの支援を要請しました.
シャムはこの地の人口を出来るだけ減らし,彼等とヴェトナムとの間を不毛の地とすることでそれに対抗します.
因みに,現在でもラオ人はラオスよりもタイに多く住んでいたりしますし,ちょっとしたことで両国の関係は緊張関係となります.
しかし,コーラート高原へのラオ人の再移住は続き,彼等は口承でシャム支配へのラオ人の抵抗の歴史を語り継ぎ,独自のラオ文化は強靱に保持されました.
こうして,コーラート高原のムアンに,ラオと言うアイデンティティが継承されていきました.
ところで,1830年代,新しい移住者がラオスの西北部にやって来ます.
彼等はミャオと言う蔑称で知られているモン族やヤオ族で,別名をラオ・スーン或いは「山頂ラオ」,更に細かく言えばチベット・ビルマ語族に属する少数民族でした.
彼等はクム族よりも標高の高い所に定住し,換金作物として阿片を栽培しました.
信仰は仏教では無い独自の神であり,首長やシャーマンに従って,孤高を守っていました.
実際,ラオ人の権力者は,交易の為に彼等が山を下ってきてムアンプアンの朝貢構造の中に入るまで,彼等の定住に気がつかない事が多かったりします.
19世紀中期のラオスは,メコン川中流域とコーラート高原のラオ人のムアンは総てシャムの属国になっており,ルアンパバーンのみがバンコクとフエだけで無く北京にも朝貢することで,独立と言う体裁を保っていました.
朝貢の見返りに,中国は支配者に王である事を示した印璽を与えたのは,琉球などと似た様な感じです.
シャムによる搾取と植民地的支配が為されていたにも関わらず,ラオ人社会は何とか命脈を保っていました.
奴隷,金,象牙,角,獣皮,森林産物の交易は相変わらず続いていましたし,蜜蝋,カルダモン,象牙,絹がシャムの権力者から貢納或いは物納の税として徴収されました.
但し,要求に従うのが嫌で,物品がラオ人の町を出発するのは要求から数年後と言う事も屡々でした.
この様な抵抗にも関わらず,政治的にはラオ人のムアンは分裂状態に置かれており,婚姻その他の手段で新たな政治的同盟を結ぶという企ても為されませんでした.
ラオ人ムアンの支配者達は,自分の小さな領土を守ろうと懸命で,小さな村を新たに支配下に入れて大きなムアンを再建しようと活動していたのはチャムパーサック王国のみでした.
こう言う状況なので,シャムのカールアン(弁務官)が,シャムの直接統治を主張し始めた時には既にラオ人のムアンは抵抗出来る状態ではありませんでした.
歴史にIFはありませんが,もし,この時期にシャムのチェラーロンコーン王,即ちラーマ5世が日本に倣った改革を進めていたとすれば,インドシナ半島の勢力図はヴェトナムとシャムで二分されていたと思われます.
逆に言えば,シャムの政治的停滞に付け込んだのが,インドシナ半島に進出したフランスだったのです.
1870年の普仏戦争の屈辱的な敗退の後,フランスの帝国主義者は植民地獲得による帝国の拡大によって国家の威信を再建しようと努めました.
1873年12月,ヴェトナム北部のトンキンで,フランシス・ガルニエが死んだことを利用して,フランスはフエのヴェトナム宮廷にフランス人理事官を派遣し,ハイフォンとハノイにフランス軍の駐留を認めさせ,その影響を拡大する機会を得ました.
北ヴェトナムで中国人匪賊が不穏な活動をして一般市民の間に不安が高まると,1882年にハノイの駐屯軍を増強します.
この中国人匪賊,黒旗軍として知られるホー族がフランス人司令官を死に至らしめ,彼の首を掲げて紅河デルタ地帯の村々を荒らし回ったことで,フランスは怒り狂い,軍隊を派遣しました.
フエ宮廷は平和を懇願し,1883年8月,条約が調印されて,中部と北部ヴェトナムはフランスの保護領となりました.
それに引き続いて翌年調印された条約では,ヴェトナム全域をフランスが保護する事になります.
そして,この2つの条約が,一時的にせよヴェトナムの属国となっていたラオス地域をフランスが強く要求する根拠となりました.
バンコクでは,チュラーロンコーン王と彼の臣下が事の成り行きを関心を持って見つめていました.
フランス保護領がヴェトナム全域を対象としたその年,フランスの探検家はラオス地域を体系的に調査し始めました.
インドシナに於ける帝国拡大を促す報告書,書物,地図,パンフレットなどが大量に出版され,ヴェトナム領という名目で出来るだけ広大な領土を要求しようとしたフランスの意図が明らかになりました.
シャムは周縁地域を曖昧な形で支配しようとすることでフランスの意図を挫こうとしますが,フランス外務省はそれに対して陰険に抗議しました.
その後の数年間,はっきりと区切られた国境を持つ中央集権的領域国家と言う欧州の概念と,朝貢関係を基礎にした,幾つもの付属的な中心を持つ東南アジアのマンダラモデルとが衝突を起こします.
その過程の中で,フランスはシャムとヴェトナムとの間で朝貢関係に伴う概念が以前から異なっていたことを利用しました.
ラオスの現地首長(チャオ・ムアン)にとって朝貢関係にあると言う事は,現地の自立性を最大限維持する為に敵対する勢力とバランスを取る為の実用的な手段でしたが,これはシャムには能く理解されていました.
一方,ヴェトナム人にとって朝貢関係に入ると言うことは,帝国の秩序と慈悲の恩恵に預かることを望んでいると解釈されました.
当然,ヴェトナムから見れば,一時でも朝貢を行っていたと言うことは,行政区分の中に入っていると言う理解になり,それがヴェトナムの行政文書に記されることになります.
勿論,本音と建て前の使い分けが出来るアジア人から見れば,これは方便的なものであると最初から理解している訳ですが,こうした記録の存在は,インドシナの足場を西に拡大しようとしていたフランスにとっては,天からの賜物とも言うべきものでした.
そして,その目的の為に強力な人物がラオスに送り込まれることになります.
彼の名は,オーギュスト・パヴィ,彼は見た目は小柄で弱そうに見えるのですが,知性,活力,勇気と胆力の持ち主でした.
彼は17年間をコーチシナ,カンボジアで軍人として過ごし,その間,彼方此方を旅して回り,熱心に記録を取り,一緒に生活し働いてきた人達とどの様に付き合っていくべきかを学んでいました.
また,パヴィは語学の才にも恵まれ,出会った人にフランス臣民となる見込みがあると見さえすれば,深い関心を寄せました.
一方で,シャムの官吏に対しては,激しい嫌悪感を剥き出しにし,彼等に打ち勝とうと固く決意していました.
そのパヴィがルアンパバーンの副領事に任命されたのは極めて偶然の賜物でした.
当時,フランスは間接的にシャムに対して英国をけしかけることに多大な関心を示し,英国がシャムに圧力を掛けると,それを利用して西への拡大を果たそうという動きをしていました.
英国がチェンマイに領事を任命する許可を得た時に,フランスは英国と同等の権利をフランスに保証するという協定を利用して,パヴィをルアンパバーンの領事に任命しようと画策しました.
とは言え,ルアンパバーンとトンキン間の国境画定の為のフランス・シャム共同国境委員会設立の話し合いは纏まっておらず,1886年5月の暫定協定では,ルアンパバーンに副領事を派遣することと,そこでフランスが貿易を行う事のみが認められました.
この協定は,深読みをすると,シャム側のルアンパバーンに於ける宗主権を承認すると言う事を暗黙の内に認めている訳であり,フランスとしてはそれを批准するのは気が進まなかったりします.
兎にも角にも,1887年2月,パヴィはやっとルアンパバーンに到着することが出来ました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/03 23:09
青文字:加筆改修部分
さて,フランスはルアンパバーンにパヴィと言う人物を送り込むことに成功しました.
パヴィは,ルアンパバーンに到着すると,そこに監視の為に派遣されていた2名のシャム人弁務官(カールアン)から「丁寧な」歓迎を受けました.
1ヶ月後,シャムの司令官であるワイウォラナートと言う腎盂仏がシップソーンチュタイ平定の遠征から人質を連れて戻ってきました.
そして,シップソーンチュタイはシャムの土地であると主張し,北ラオスに住み着いている全住民,タイ族もホー族(中国人)も総て現在その地に於けるシャムの宗主権を認めていると言い放ちます.
これに対し,パヴィはシャム側の既成事実を黙認するしか有りませんでしたが,運命の神はパヴィに微笑みかけました.
パヴィはその後,ウー川を探検しに出掛けますが,そこで白タイ族の首長であるカムフム(ヴェトナムではデオ・ヴァン・チとして知られている)が間もなくルアンパバーンに攻撃を仕掛けるという話を耳にします.
パヴィは急いでルアンパバーンに戻り,危機が差し迫っていると警告しますが,ワイウォラナートは人質と共にバンコクに出発してしまっており,町は事実上無防備状態となってしまいました.
そこにいたシャムの守備軍やラオ人の援軍も,カムフム襲来の噂に恐れを成して逃げ出してしまいました.
そして,ルアンパバーンはカムフムと600名程のホー族,山地タイ族の兵士からなる混成軍の手に落ち,町は掠奪を受けてしまいました.
その頃,パヴィは燃える王宮に向かい,年老いた王を救い出して負傷者と共に川を下ってパークライへ脱出し,病気の王の世話をしていました.
この出来事が年老いて病を得て弱っていたウンカム王の琴線に触れ,王はシャムの代わりにフランスの保護を受けるという感謝の声明を出すに至ります.
ただ,パヴィがウンカム王にルアンパバーン保護というフランスの大義を押しつけることに成功したとは言え,それが正式となり,拡大して行くには後数年を要することになります.
探検と1888年の交渉により,パヴィはトンキン領内にシップソーンチュタイを含めることに成功しました.
しかし,ルアンパバーンへは2名のシャム人弁務官が再び舞い戻ってきており,シャムはルアンパバーンの忠誠心を未だ維持出来ると考えていました.
一方,パヴィは他のラオス領であるカムムアン地方に狙いを定めます.
その地方はメコン川から東のルアン山脈の分水嶺にいたる地域で,フランスとシャムの新たな対決の舞台となりました.
ただ,その地域には既にシャムの所有権が主張されており,フランス軍の駐屯小部隊が分水嶺のラオス側,ナーペーに駐屯していたにも関わらず,パヴィはシャムの存在を認めざるを得ませんでした.
とは言え,帝国の拡大を目指していたパヴィにとって,領土の所有はフランス領インドシナとシャムの国境を決定する如何なる根拠にもならないと見做すものでした.
「ラオスをフランス領にする」と言うパヴィの決意は,フランス議会に於いて多数派を形成していた植民地党に支持されていました.
植民地党はインドシナの国境線をメコン川に,そして更にそれを超えて拡大して行く様に望んでいました.
彼等は最終的にはシャムの併合を思い描いていたのですが,その第1段階として,先ずはメコン川東岸の支配権を握る事を目標に定めました.
これについては,パヴィは東岸のラオスのムアンに対するシャムの宗主権を認めることを拒否し,その上で,「適切な時期に」「事実上の理事官を奴隷制廃止の為の弁務官」として派遣するという提案を外務省に行い,それを実現させました.
同じ様な手段はルアンパバーンを確実にフランスの保護国にする為にも使われました.
何れの地域でも,シャムの駐屯軍は撤退させられています.
フランスの政策はより攻撃的になりました.
現地の詳細な知識が無ければ国境協定の交渉が出来ないと言うことを口実に,パヴィはラオスにフランスの影響力を拡大させる為,第2次探検に乗り出しました.
測量技師や科学者など3つに分けられたチームは,南部,中部ラオスの地図作製や探検を開始しました.
一方で,パヴィ自身は北部からシップソーンパンナーまで旅をしました.
この探検終了後,よりフランスの存在感を増す為,現在は北部カンボジアであるストゥントラエンとルアンパバーンの間に,メコン川に沿って「貿易取扱所」を4カ所設置します.
これに対し,シャムは緊張が高まっているので,話し合いの機会を持ちたいとの申し入れを行いますが,パヴィはより断乎とした行動を取る様,本国に迫っていたので,その話し合いは拒否されました.
そして,新しいインドシナ総督,ジャン・ド・ラヌサンは「膨張政策」の積極的な支持者でした.
1892年2月,パヴィはバンコクのフランス総領事に任命されます.
それは大臣級の地位で,ラオスの外でシャムと交渉することが任務でした.
フランス議会や外務省は共にメコン川の領有がフランス領インドシナの未来にとって経済開発の為の生命線であると言う確信を日増しに強くしていました.
総ての議論は,フランスの主張,その最も重要なものは,以前ヴェトナムに朝貢していた領土を引き継ぐのはフランスの権利である事であり,それを補強する為に様々なものが利用されました.
自然の境界線をどう考えるか,民族の同質性をどう考えるかという2つの議論は,パヴィが「境界線と民族」と呼んだものですが,諸刃の剣で,フランスに不利となって跳ね返ってくることも有り得ました.
そこで,パヴィは外務省に,タイの名の下に全タイ系民族居住地の境界まで支配しようとするシャムの要求を拒否するのは無論のこと,メコン川を国境として受入れる様にとの誘いを拒否する様に働きかけました.
因みに,メコン川のことをフランスの植民地党は「我々の川」と呼んでいたりします.
ただ,そのパヴィの助言は退けられ,フランスは取り敢えずメコン川をフランス領インドシナの境界として確保しようとしました.
それには英国の圧力もあります.
フランス政府は頑ななシャムの抵抗と英国の圧力に直面し,かつてのラーンサーン王国の総て,つまりシャム自体を要求するのは過大な要求であると考え,その結果として将来のラオス国家は小さく,そして,ラオ人の大多数が国外に住むという歪な国になってしまった訳です.
その英国の反応は,1892年頃にフランス政府にも聞こえる様になりました.
元々,メコン川の中流域には外国の駐在事務所が殆どありませんでした.
英国の考えとしては,シャムがフランス領インドシナと英国領ビルマの間で独立した緩衝地帯として機能することを望んでおり,英国はメコンの中流域よりも上流域に関心を持っていました.
ただ,英国政府の対応は,シャム政府の誤解を招きました.
シャムは,フランスに楯突いたら,英国が支援してくれると言う認識を持ったのです.
そこで,バンコクの政府は当初メコン川東岸地域の譲渡を拒絶しました.
シャムはその地域の統治を強化し,駐屯軍を増強しました.
その間にシャムの官吏とフランスの「貿易取扱所」との間で小競り合いが増え始め,フランス人の忍耐が限界に達し始めてきました.
そんな折,2つの事件が勃発します.
1つは,フランス人商人3名がカムムアンとノーンカイのシャム人知事の命令によりメコン川中流域から追放されたこと,もう1つは,病気で落ち込んでいたルアンパバーンのフランス副領事がサイゴンに戻る途中で自殺したことです.
この事件を奇貨として,シャムがグズグズしている内に,パヴィはカムムアン南部のメコン川東岸の全軍事拠点からの即時撤退を含む要求をシャムに突きつけました.
パヴィが正式にフランス領であると主張した地域は,嘗てヴェトナムが「所有」していた土地でした.
シャムの宮廷がこれらの要求を拒絶した時,ド・ラヌサンはフランスの行政的支配を主張する為に,問題の土地にフランスの3個銃隊を派遣しました.
こうして,ラオスをフランスに組み込む第一歩が踏み出されます.
しかし,フランスの進出に対して,更にシャムは抵抗を試みます.
中部の銃隊はメコン川西岸へシャムの8個小隊を平和裡に撤退させましたが,北部と南部の銃隊は抵抗に遭いました.
南部では,シャム軍がコーン島のフランス拠点を包囲,攻撃し,フランス人士官が捕らえられました.
北部では,シャムの奇襲でフランス人司令官率いるヴェトナム人部隊が3名を除いて皆殺しにされました.
この事件はフランス議会,特に植民地ロビーを激高させ,パリの政府は賠償金を要求しました.
一方,シャムではフランスの横暴に排外行動が激しくなっていきます.
英国籍の人々の避難の必要性が生じて,英国は軍艦3隻をチャオプラヤー川河口に派遣しました.
フランスも直ぐ様それに倣いますが,河口の砂洲の外に停泊するようにとの指示にも関わらず,強引に2隻の軍艦を上流に向かわせました.
1893年7月12日,2隻の軍艦は河口を防備しているバークナームの砦から砲撃を受け,1発が軍艦に命中しました.
これに対し,2隻の軍艦は撃ち返しつつ上流をバンコクまで遡り,そこで王宮へ砲口を向けたまま停泊します.
植民地ロビーは即時のシャム併合を声高に叫びますが,国民はそれよりも遙かに穏健であり,7月20日に出されたフランスの最後通牒は,
・メコン川東岸全領土と中州全島に於けるフランスの権利を認めること,
・全シャム軍の撤退,
・軍事衝突の補償とそれに関わったシャム人の処罰,
・200万フランの賠償金の支払い要求
に留まりました.
期待した英国の支援を受けられず,シャムの王宮は降伏より他に為す術はありませんでした.
1893年10月3日,最後通牒の条件に沿って条約が調印され,条約にはメコン川西岸に25kmの幅で非武装地帯を設けることが付け加えられました.
但し,その地でシャムは文民統治を続ける権利を保持し,フランスは領事館と商業拠点を作る権利を得ました.
そして,メコン川東岸に居住していた人は誰でも自由に東岸に戻ることが出来ました.
こうして,第2ステップが完了して,フランス領ラオスの形が出来始めました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/04 23:16
さて,1893年,フランスはシャムからメコン川東岸地域を割譲させるのに成功します.
そうなると,次の関心は2つの地域,コーラート高原とルアンパバーンの北西地域に絞られました.
パリとサイゴンでは,メコン川東岸地域の領有は,フランス領インドシナ拡張の第1段階に過ぎないと理解されていました.
新たに獲得した東岸の領土に派遣された行政官は,メコン川西岸の豊かで人口の多いラオ人の土地は依然としてシャムの手の内にあり,「人口が少なく荒廃した国」がフランスの手に委ねられた事がよく判っていました.
それ故,フランスは仏領インドシナをコーラート高原全域からチャオプラヤー川流域にまで拡大しようとしました.
その間,北部では嘗てルアンパバーンに朝貢していた総ての地域だけで無く,シップソーンパンナーを構成している12のムアンの内8つ…但し,それらのムアンの第一義的忠誠心は中国或いはビルマにあったのですが…をフランスは要求しました.
そうして,1895年7月,清朝と結んだ条約により,フランスはその領域のごく一部,ルアンナムターとポンサーリーの一部を獲得しました.
しかし,英国がケントゥンのあるシャン州をメコン川東岸の朝貢ムアンであるムアンシンをも含めて要求した事で事態は更に複雑になります.
ムアンシンは1893年のシャムとの条約に於いてフランスも要求していた土地でした.
当時の英国の政策は,シャムを英領インドと仏領インドシナとの間の緩衝国とし,東南アジアに於けるフランスとの紛争は可能な限り抑えていこうというものでした.
故に,英国としてはメコン川上流の細長い部分を清朝又はシャムに譲渡しようとしていたのです.
一方で,フランスはムアンシンを併合してメコン川を支配しようと決意していました.
この為,この地に派遣された共同委員会は境界に関して合意に至らず,英国のグルカ兵が一時的にムアンシンを占領すると,東南アジアに於ける英仏の対立に火が付く恐れが生じましたが,両国とも戦争を避ける道を選びました.
ただ,その後の交渉は遅々として進まず,フランス政府はメコン川東岸の領土を緩衝地帯とする為に提供しては如何かという提案に断乎反対しました.
結局,最終的に折れたのは英国で,英国は,英領シャン州と仏領上ラオス(仏領編入当初,ラオスの行政区分は上ラオスと下ラオスに分けた)の境界を,メコン川の一番水深の深い所を結んだ線とすることで合意し,その代わりにフランスはシャムの中立と独立を認めました.
ムアンシンはフランスの支配下に入りましたが,1896年1月,ロンドンで調印された英仏協定に依り,チャオプラヤー川中部流域に於てのみシャムの独立を認めると言う事が決定されたのみで,他の地域への言及が為されなかったので,各列強がシャム中部以外の地域に利権を求めるのは自由であるとされました.
この協定に依り,英国はマレー半島に,不らんんすは西カンボジアやコーラート高原を含めたメコン川流域に利権を拡大させていきます.
その後の数年間,フランスは圧力と交渉によりラオスの領土を拡大しようと努力しますが,パリの政府はこの地域への関心を既に失いかけていました.
1902年,シャム軍が民衆叛乱を鎮圧する為にメコン川に沿った非武装地帯に入り込んだ出来事を,パリの政府が改選の名目として利用しなかった事は,インドシナ在住のフランス人官吏を失望させました.
ある官吏は,
「我々が軍事行動を執っていれば,完全に,簡単に,シャムの支配地であった諸州をカンボジアに併合し,メコン川右岸の全地方を我々のラオスに再統合することが出来たはずである.
それにより我々のインドシナでの立場は益々強固になり,我が植民地は自然の境界によって形成されたであろう」
と書いています.
結局,1904年2月にフランスは,メコン川西岸の2つの地域,サイニャブリーとチャムパーサックの一部を併合したに過ぎませんでした.
とは言え,フランスはノーンカーイ,ムックダーハーン,ケーマラートとその他4カ所に商業拠点を確保しており,メコン川中流域25kmの足場は確保していました.
その2ヶ月後,英仏は英仏協商を調印し,チャオプラヤー川流域以外のシャム領について各々の影響範囲を認め合う一方で,相互にシャム領併合の目論見を放棄しました.
ただ,この協定は英仏がシャムと新たな条約を結ぶ事を阻害するものでは無く,フランスは1907年にシャムからカンボジア西部を割譲する条約を,英国は1909年にマレー半島北部の4州をシャムから割譲する条約をそれぞれ結び,その見返りに両国は治外法権を撤廃しました.
なお,1907年の条約に於いて,仏領ラオスはサイニャブリー県のダーンサーイに向かって南に張り出した小さな部分を,シャムに還すことになっています.
取り敢えず,これで仏領インドシナの形は出来上がり,それと共に区域内の行政区を定めました.
それに伴って仏領ラオスは,北東と南東の境界が変更されました.
特に1893〜1903年にかけて行われたフアパン,1895年に行われたシエンクワンがトンキンからラオスに譲渡されたのが注目すべき事でした.
一方で,1904年にストゥントラエンはラオスからカンボジアに移譲され,1904〜1905年に掛けて分水嶺の西側,中部高原の一部がラオスでは無く南ヴェトナムに割譲されました.
こうして,シップソーンチュタイの山地タイ族や中部高原の少数民族はヴェトナムの支配下に置かれ,カンボジア北東でラオ人は少数民族となりました.
しかし,一番の問題は,東側の少数民族の分断では無く,西側のラオ人の分断でした.
メコン川が仏領ラオスの境界になった事で,ラオ人は人口が大きく異なる2つの地域に分断されてしまったのです.
初期のシャムによる人口減少化政策はメコン川の西側,特にコーラート高原のラオ人やプアン族に集中して行われました.
メコン川の東側の人口は疎らで,シャムの統治下にいるラオ人の5分の1に過ぎなかった為です.
そして,ラオ人は仏領ラオスの全人口のやっと半分を満たすに過ぎず,残りは多くの少数民族によって構成されていました.
本来,フランスは以前ヴェトナムに朝貢していた領域としてメコン川東岸を要求した以上,以前ビエンチャン王国の一部であったと言う同じ議論を持ち出してコーラート高原を要求してもおかしくなかったのですが,パリの政府はその機会を逃してしまいました.
1893年と1904年の条約の間の重要な時期に,更なる領土獲得にフランスが失敗したのは,2つの問題の為でした.
その1つはハノイとサイゴンで考慮すべき事であり,もう1つはパリで考慮すべき事でした.
即ち,ハノイとサイゴンに於いては,東南アジア大陸部での権力関係を考慮するだけで良かったのに対し,パリでは欧州での権力関係を考慮しなければならなかったと言う問題です.
その中でも英国の存在はハノイとサイゴン,パリの双方で際立っていました.
フランスは,東南アジア大陸部に於いて3つの権力だけを視野に入れていました.
ビルマの英国,ヴェトナムのフランス,シャムの3つであり,カンボジア,それ以上にラオスは仏領ヴェトナムの単なる付け足しでしか過ぎません.
フランスはヴェトナム人を,非常に活動的で,歴史的に近隣の弱くて「適合」し難い人々へ支配を拡大させていくことを運命づけられた膨張主義的な人々であると見做し,今はその運命をフランスが引き継いだのだと考えていました.
一方でフランスの眼からすれば,ラオ人とカンボジア人は嘗て栄えた時代もあった人々と映っていました.
当時,ラオスとカンボジアの王国は衰えており,ラオスとカンボジアが近代国家として育っていく為の核を作る事が可能だと本気で思っている人々は殆どいませんでした.
それ故,フランス人にとってインドシナは5つの部分からなる1つの存在で,最終的には3つの独立した国家となるべき3つの領域ではありませんでした.
メコン川がインドシナとシャム東北部の境界と言う事になってしまうと,メコン川東岸のラオ人の地域は,分断された人々と権力の中心と言うよりは,仏領インドシナの拡張部分で,フランスの利益と更なる栄光の為に開発されるべきものだと常に考えられる様になりました.
とは言え,フランスは常に東南アジアに軸足を置いていた訳ではありません.
最も心を砕いていたのは欧州で英国と権力のバランスを保つことでした.
ビルマで攻撃的且つ支配的な勢力である英国でも無く,シャムに影響力を及ぼしている外国の中で強力なライバルとなっている英国でも無く,英仏協商の締結に至った様に,フランスがここ数年来,潜在的敵と言うよりは味方と見做す様になっていたのが英国との関係でした.
1902年になって,サイゴンやバンコクのフランス人官吏が如何なる見解を示したにせよ,フランス外務省は英国外務省に対し,フランスはシャム併合の意図はないこと,条約によってフランスが自由にその影響力を拡大出来る地域に於いてさえその様な意図は無い事を明らかにしました.
それは翻って言えば,コーラート高原をシャムの支配下に置いたままにすることを英国に保証した事に等しい訳です.
こうして,ラオ人の大多数はバンコクの支配を受け続けることになり,フランスは大ラオス国家再建の望みを捨てましたが,実際,その頃にはフランスは大ラオス国家再建への関心を失っていました.
最終的な境界線が確定し,仏領ラオスは23万6,800平方kmの面積を占めることになりました.
それはフランス本国の約半分の面積でした.
ヴェトナムとは山脈を境界線として東側を1,957km,中国とは北を416km接していました.
メコン川は230kmに渡ってビルマのシャン州とラオスの境界線となりましたが,全長1,730km中920kmはシャムとの境界線でした.
南ではラオスは492kmカンボジアと接していました.
住民は民族的に混じり合い,人口は希薄であり,その多くは文盲の自給農民で,彼等は交易品として価値のあるものは殆ど生産していません.
実際,時間の経過と共に,開発しさえすれば資源の豊かな土地であるに違いないとの認識が広まりますが,タイ,ヴェトナム両国の脅威から脱して独立を志向するラオ人国家の復興であるとは見做されず,インドシナの1地区として,ヴェトナムの単なる後背地,フランス資本を投入し,ヴェトナム人の労働力を投入して開発されることを待っている処女地という位置づけが為されていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/05 23:24
【質問】
フランス領時代のラオスは,どのように統治されていたのか?
【回答】
さて,1893年にフランスとシャムの条約により仏領となったラオスですが,当時の仏領ラオスは様々な地域から構成されていました.
北部のルアンパバーン王国はメコン川の両側に拡がっていたのですが,サイニャブリー県はまだシャムの支配かに有った為,不完全な王国となっていました.
ただ,この王国はフランスの完全な保護下にあった支配者に統治されている統合的な政治的実体でした.
中部ラオスにはその様な結合力は無く,直接的或いは間接的に以前からバンコクとフエの両宮廷に朝貢していた小さな地域的ムアンから構成されており,バンコクもフエもメコン川東岸地域には殆ど関心を抱いていませんでした.
この地域にはヴェトナム軍を指揮していたフランス人士官によって暫定的に軍政が敷かれていました.
南部はチャムパーサック王国の子孫がシャムの朝貢国として未だに権力を行使していました.
しかし,チャムパーサックはルアンパバーンと異なり,中心がメコン川の西岸にあり,1893年以降もシャムの手中にありました.
その為フランスは,ルアンパバーンと同じ様な保護国にすることを拒まれ,チャムパーサックの東岸領域のみがフランスの直接支配下に組み込まれました.
この地域は1904年の条約締結時に初めて,王都を含めて王国の請願領域の一部分がフランスに引き渡されました.
この時,王族の多くはバンコクに亡命しましたが,王子チャオ・ニュイはチャムパーサックに残ることを選びました.
この結果,フランスはチャムパーサック王国を復活させなかったものの,チャオ・ニュイの特別な地位を認め,新しい都,パークセーでチャムパーサック県の知事に任命しました.
ただ,チャオ・ニュイはシャムで高位の者に与えられる称号,ラーサターニーを授けられていましたが,王としてシャムから正式に承認されてはおらず,更にフランスはより曖昧な扱いをして,1934年に60歳になると他の官吏と同様に否応なく隠退させられ,知事の地位も失う事になります.
保護国であるルアンパバーンとその他のラオスの直接支配地域との間に存在していた植民地領有上の違いは,仏領インドシナ全体としては法的に未解決の問題を抱えていました.
1917年4月,フランスはルアンパバーンに「特別保護国」と言う地位を確定しましたが,1930年の植民地博覧会の前に再びこの問題が浮上してきました.
フランスの国民議会は,ルアンパバーンが保護国では無い事,王との間に結ばれた協定は行政権についてだけである事,従ってラオス全土はフランスの植民地であると決定しました.
これに対し,シーサワンウォン王からの反発があった為に,1931年12月と1932年2月に王と植民地相との間で文書が交換され,この決定が修正されました.
その後,ルアンパバーンはフランス保護国の地位が認められますが,ラオスその他の地域との関係は不明瞭なままでした.
フランスは王がラオス全土の統合のシンボルになる事さえ認めませんでした.
ラオス全土の統一は,フランスでは無く,第2次世界大戦中に成長した自由ラオス運動,ラオ・イサラによって宣言されました.
1946年8月,フランスとラオスとの暫定協定の協議の際に,初めてフランス当局はルアンパバーン王の支配権を拡大してラオス王とすることを承認しました.
ちょっと先走りすぎたので,一端話を1893年に戻すと,ラオス領は当初ヴェトナムの管轄下に3つの地域に分けられていました.
1895年,ラオスは2つの地域,カムムアンから北の「上ラオス」とそれより南の「下ラオス」に分けられました.
各地域はルアンパバーンとコーンに駐在している「司令長官」によって統治されることになりました.
1899年になると,ラオスは1つの行政区となります.
最初はサワンナケート,後にビエンチャンに理事長官が派遣されましたが,この変化は,ポール・ドゥメ総督によるインドシナの政治・財政機構再編によるものでした.
この時,インドシナ連邦の行政とトンキン,アンナン,コーチシナ,ラオス,カンボジアの5地区に分けられた各地区の行政との責任が分担されました.
それによると,連邦は消費税,関税,酒,塩,阿片の専売と言った間接税を財源に,治安,関税,通信,大規模公共事業を受け持ち,一方,各地区の行政は人頭税と行政手数料などの直接税を財源に,教育,公衆衛生,司法を受け持つ事になりました.
この変化は仏領ラオスにとって有益なものでした.
少なくとも行政の費用は,一般予算から充当できるようになったからです.
新首都のビエンチャンは,ルアンパバーンとバンコクの中間点に位置し,どちらの連絡にも都合が良く,その上,この首都は嘗てシャムによって破壊された都を復興すると言う意味もあったりします.
ラオスはポンサーリー,上メコン(後にルアンアナムターと改称),フアパン,シエンクワン,ビエンチャン,ターケーク,サワンナケート,サーラワン,アッタブー,バサック(チャムパーサック),コーンの11県とルアンパバーン王国によって構成され,各県はフランスの理事官(ルアンパバーンは弁務官)の管轄下に置かれました.
各理事官は財務と行政を担当する文官と,現地人保安隊の県分遣隊の軍事指揮官によって補佐されました.
ルアンパバーン以外は直接統治で,ルアンパバーンは1916年にポンサーリーを失いますが,1933年にはフアパンの一部を得ることが出来ました.
ルアンパバーン王国では,1904年に父から位を引き継いだシーサワンウォン王が行政を掌っていましたが,実際に行政運営を行っていたのはチャオ・ブンコン副王(ウパラート)で,彼は1888〜1920年まで先頭に立っており,それを世襲のタオの称号を持つ2名の王族が務めるラーサウォンとラーサワット,即ち右大臣と左大臣が補佐し,更にその下にパニャーの位を持つ高官が3名おり,これにに3名を加えてホーサナーム・ルアン,つまり最高評議会を構成していました.
総ての高官は貴族出身でした.
一方,司法は代々7名の判事によって行われており,近衛兵は宮殿や謁見の際の儀式に気を配り,治安維持は別の役人が行っていました.
王国はいくつかのムアン(クウェーン)によって分けられ,それぞれ各地の有力貴族である,チャオ・クウェーンによって統治されており,チャオ・クウェーンも又,3名の役人に補佐されていました.
その他の地域では,フランス人理事官が司法権の行使から税金,公共事業に至るまで,総てに於いて責任を負っていました.
法や秩序の維持は現地人保安隊の管轄であり,フランス人指揮官の下に各県都に1部隊ずつ配置されました.
現地人保安隊は当初ほぼヴェトナム人によって構成されていましたが,時間が経つにつれてラオス人も徴兵される様になりました.
ただ,当初はラオス人は優秀な兵士にはならないとされていて,1904年の段階で現地人保安隊はラオス人591名に対して,ヴェトナム人が723名とヴェトナム人優越となっていました.
植民地当初は最小限の行政官しかいませんでしたが,県の行政が拡大し人口も増えてくると,理事官の補佐,植民地秘密警察であるインドシナ公安庁職員,会計官,郵便局長,学校教員,医師なども行政機構に含まれる様になり,必要に応じて様々な職種の行政官が加わる様になりました.
ただ,上中級官吏は殆どがヴェトナム人であり,ラオス人は通訳,見習い事務官,掃除夫,「苦力」等の下級官吏として雇われました.
県の下には更に郡(ムアン,山地の少数民族ではコーンと称され,任命されたチャオ・ムアン或いはナーイ・コーンによって統治された)に分けられ,どの郡もいくつかの村(バーン)が集まって出来た区(ターセーン)に分けられました.
因みに,それぞれの村にはナーイ・バーン或いはプー・バーンと呼ばれる村長がいました.
直接統治の県に於いてさえ,フランス人官吏の数は非常に少なく,遠隔地の小さな県ではたった3〜4名しかいないことも屡々で,フランスの統治は実質的に間接統治でした.
これはラオ・トゥンやラオ・スーン等の少数民族管理に於いてよりはっきりしており,例えばラメット族の場合,上メコン内の県に居住するラメット族の小集団に対してフランスはラメット族のムアンを創設し,ラメット族の村長を任命しました.
そのムアンは,ラオ人のチャオ・ムアンの管轄下にあったルー族の徴税人によって監督されています.
そして,そのチャオ・ムアンは,殆どがヴェトナム人である県の行政職員に報告をしました.
こうして作られた民族的階層構造は,統治上都合が良かったりします.
汚職,搾取,きつい強制労働,税に対する不満はフランスでは無く,1つ上の階層に向けられる傾向にあり,不満が高じる状態に至れば,その階層を入れ替えることによって簡単に解消出来ましたから,フランスの統治には頗る都合の良い仕組みでした.
しかし,伝統的関係が覆されたことで,後の時代には民族対立の火種となってしまったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/06 23:32
青文字:加筆改修部分
さて,フランスと言えば人権宣言の国です.
フランス統治初期の行政官は軍人も文官でも,無知で未開な民族であるラオ人に秩序や啓蒙思想を教え込もうと躍起になりました.
村落数や人口の調査が行われ,首長が任命されていきます.
法と秩序の整備に加え,フランスが関心を抱いていたのは,奴隷制の廃止と税の2つでした.
奴隷制の廃止は「文明の使者」としてのフランスの道徳的な責務からであり,税はその費用を賄うものでした.
実際,シャムの布告にも関わらず,奴隷狩りは実際続いており,奴隷売買も広まっていました.
1893年以降,奴隷貿易廃止の為に迅速な措置が執られ,フランス人官吏は,伝統的にラオ人を主人として仕えてきたラオ・トゥンの一部民族も事実上の奴隷制と見做してこれを廃止させ,債務奴隷を根絶する為の調査を行っています.
ところで,日本でも税制論議が喧しい昨今ですが,仏領ラオスでも新植民地の統治費用をその植民地自体で捻出出来るかどうかと言う問題がありました.
1893年以前,ラオス南部のラオ・ルムとラオ・トゥンはチャンパーサックのシャム人弁務官に現金か現物のどちらかで人頭税を支払っていました.
これは当該地域のラオ人貴族によって徴収されていましたが,ラオ人貴族自身もまた伝統的に,必要に応じて現物か労働力で税を要求しています.
当初,フランスの税はそれと同等の税率で徴収され,現物又は現金での支払が可能であり,老人,僧侶,官吏,元奴隷は慣習的に免除されていました.
公共事業の為の賦役はラオ・ルムとラオ・トゥン共に1年に10日課せられていましたが,始めから評判が悪く,現金による追加支払いをすることで免除される事も可能でした.
ラオ人貴族がこれまで同様,税を徴収している限り,当然,人々の税負担は重くなりました.
1896年時点で増税されて現物支払いが許されなくなって,現金支払いとなり,ラオ・ルムとラオ・トゥン,ラオ・スーンの間で格差が生じる様になりました.
ラオ・ルムでは人頭税が2倍になり,ラオ・トゥンとラオ・スーンではより多くの賦役が要求され,住民の負担が益々増えます.
その上,アルコールの専売がラオスにも適用される様になり,全世帯がアルコールを消費してもして無くても,アルコール消費税を支払わねばならなくなります.
後に,そのアルコール消費税は倍になりました.
他のもの,特に阿片と塩の専売もラオスに適用される様になりました.
旅券の発行や火器の登録などにも手数料が要求され,シャムに輸出する商品や家畜へも税が課されました.
当初,土地に税は課せられていませんでしたが,1935年になって遂に導入されました.
ラオ人と違ってヴェトナム人には賦役の義務は課せられませんでしたが,人頭税はラオス人の2倍支払う必要がありましたし,中国人はラオ人の人頭税の5倍で,商店を経営している場合は更に税が課せられました.
これらの税額自体は重すぎる様には見えませんが,商店の場合は価格に税額が上乗せ転嫁され,結局,購入するラオ人に税負担が重く伸し掛かるという,累積効果が低所得者層に及び,社会の貧困層にとっては重い,時には過重な負担となっていきます.
1910年,1896年と比べると歳入が3倍に伸張したラオスの全予算90万ピアストルの内3分の1強を直接税で賄っており,間接税は16万ピアストルに過ぎませんでした.
これ以外の不足分はインドシナの連邦予算から直接補填されるという赤字体質でした.
とは言え,道路など基幹インフラに対する支出を増加させなければ,ラオスへの投資は呼び込めない訳ですが,それへの投資に対する連邦予算からの補填はどんどん少なくなっていきます.
その結果,歳入の増加にも関わらず,ラオスの予算は1896年と1911年の間でたった12.5%しか増加しませんでした.
ラオスで採算がとれる様にするには,人口を増加させて税の原資を増やすか,或いは天然資源を開発するかの2つの方法しか無いことが明らかでした.
短期的に見ると,歳入が増えたのはラオ・ルムが賦役の代わりに現金で支払うことを奨励されたことであり,もう1つはインドシナで最も利益の上がる専売であった阿片販売が奨励されたこともありました.
こうしたフランス統治下での新しい税制は,行政上,統治が強化,中央集権化が為され,それまで主流であったバーター取引経済から交換の手段に貨幣を用いる貨幣経済へと徐々に変化していきます.
例外的な事例を除いて税は現金で支払わねばならず,人々は税を支払う為に販売可能で市場価値のある商品の生産を強いられる様になりました.
ただ,ラオ・ルムの農民は比較的平等であり,豊かな土地を手に入れる事が出来て,米を余計に生産するのは簡単であったし,一方,ラオ・スーンやラオ・トゥンは阿片や森林産物を売ることが出来た為,ヴェトナムの様に貧しく土地もない地方出身のプロレタリアートの形成はありませんでした.
人頭税よりも不満が大きかったのは,一定期間,18〜45歳の間全男子に課せられた賦役でした.
伝統的な労働とは,家の新築,儀式の準備など,特別な目的の為に為されるものであり,ラオ人は強制労働,特に横柄な役人の指揮下での道路建設を人間としての価値が貶められることであると感じていました.
地域の状況を考慮せず,穀物の植え付け期や収穫期,又は森林産物の収穫期に賦役が要求されることもありました.
財力を持っている人はこの賦役を現金を支払うことで逃れる事が出来ましたが,ラオ・トゥンでは人口の少ない山岳地帯での道路建設労働力を要求される為に,この様な手段での逃避は出来ませんでした.
これらの賦役は,荷物運搬や徴用と言った形で要求は増し,不満がどんどん蓄積されていきます.
にも関わらず,世紀の変わり目になると,フランスは仏領ラオスの当初の成果に自信を持つ様になります.
骨格だけであれ,行政機構が設立され,奴隷の捕獲,売買は非合法化され,債務奴隷は廃止の方向に進んでいきました.
ボーラウェーン高原東側のラオ・トゥンにはフランスの統治下に入る者が増えて行きました.
税が徴収され,労働力により植民地統治のインフラ,例えば住居,役所,兵舎,牢舎,道路などが整備されていきました.
更にカトリック教会が小さな足場を獲得し,少数のフランス人入植者が土地を手に入れていました.
表向き,ラオス人はフランス帝国主義を受動的に受け容れている様に思えました.
ラオス人の反応については明日にでも…
てことで,もう少しこの話し続ける.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/07 21:45
【質問】
フランス領時代のラオスにおける反仏抵抗運動には,どんなものがあったのか?
【回答】
さて,フランスの支配についてラオス人はどう思っていたか.
最初の頃は,シャムの苛酷な税取立から解放してくれた存在として歓迎する人々もいましたが,直ぐに伝統的な経済関係の破壊や,ある民族集団を他のグループと対立させたりする統治手法が,ラオス人の伝統的社会構造に衝撃を与える様になります.
また,フランス軍は屡々侵略的で無神経であったりした事から,抵抗が広がって行きました.
勿論,新たな税制や手数料のシステムは何処でも評判が悪く,それにも増して賦役が嫌われました.
ただ,シャムの方もフランスの領土的野心に直面して,それなりの軍備を整えなければならなくなったり,鉄道などのインフラ整備の為に増税しており,また,フランスにつけいる隙を与えない様,コーラート高原の統治を強化していたので,メコン川を越えて人々が逃げ出すと言う事は殆ど有りませんでした.
中央集権化は,今まで自分たちのことは自分たちで決め,気に入った相手と交易し,奴隷を所有するというラオス人の伝統的な自由を失い,また地方の首長等は世襲的権利としてその地位を認められるのでは無く,次第に権力を現在握っているフランス或いはシャムから役人に任命されることでその地位を認められる様になっていきました.
こうした統治上の変化や増税は,富のどれかの源泉が失われたり減少した時に起きます.
北部の富の源泉は阿片であり,南のそれは奴隷でした.
この様にして,結果的に不満が高じていった訳です.
こうした変化に対する抵抗は,当初は消極的なものでした.
例えば,フランスの法に従わなかったり,フランス人役人への協力を拒否したり,巧妙に人口を少なく申告して(時には35%と言う時もあったり),税を逃れたり,少なくしたりするのですが,稀に他の場所へ移動してしまう事もありました.
1895年,北部のフアパン県で不穏な動きがありましたが,最初の大規模な暴動は南部ラオスで起きました.
これは所謂「聖なる人の叛乱」と呼ばれ,これは伝統的な千年王国的信仰がフランスとシャム両方の権力に対する怒りに結び着いたものです.
この叛乱,シャムではメコン川西岸に起きたそれを手早く鎮圧したのに対し,フランスは手間取り,ボーラウェーン高原一帯にフランスの権威を回復出来たのは実に1910年であり,叛乱集団の一部は東側の山中でその後25年に亘って叛乱を続けていきました.
この叛乱のそもそもの原因は,サーラワンのフランス人弁務官がラオ・トゥンを「納得」させよう…つまり,彼等に税の支払いと賦役の義務を受け容れさせること…とした時に,やり方が拙かったので引き起こされました.
自称「聖なる人」が,非常に大きな影響力を獲得しつつあった事に恐れを成して,弁務官は彼を尊ぶ為に建てられた寺院を焼いてしまったのです.
これが叛乱の火に油を注ぐ結果となります.
1901年4月,弁務官と彼の護衛は,燧発銃で武装したラオ・トゥン数百名に攻撃され,これを切っ掛けに叛乱は益々拡大しました.
叛乱の指導者はバク・ミー,信者達からはオン・ケーオと呼ばれる人物でした.
彼はアラック族のラオ・トゥンで,以前から超自然的な力を持っていると公言していた僧でした.
数週間の内に叛乱は,忽ち南ラオスの高原一帯に拡大し,6月には叛乱に加わるラオ・ルムの数も増えました.
そこにはラオ・ルムの貴族層も増え,メコン川の西岸には椰子の葉に記された秘密のメッセージである,ライテンと言うものの流布で広まり,その知らせを聞いた信奉者が加わりました.
半年の内に,フランス人1名と現地人保安隊員100名が殺され,土地や収穫物が甚大な損害を被り,ほぼボーラウェーン高原一帯が暴徒の手に落ちました.
因みに,この叛乱の性格は,救世主待望的で千年王国的なものでした.
オン・ケーオは自らをチャオ・サデット,つまり偉大なる王…これは将来,弥勒を待望するメシヤニズムに於て全能者を連想させる称号…であると宣言し,ラオスからフランスを追い出そうとしました.
民衆の仏教信仰に於いて,弥勒は「人類を罪から救う為」,定めの時に此の世に降臨します.
弥勒の治世は,正義と豊かさに満ちた治世となり,総ての意志は仏法に基づいて為されます.
例え,プー・ミー・ブン自身が弥勒でなくても,彼は彼の信奉者に神秘的な力を与え,偉大な宗教的,軍事的指導者(チャッカワット)となる徳を持っていました.
どちらにしても,プー・ミー・ブンは,現在の悲惨な状況に変わるべき黄金時代への期待を提供しました.
プー・ミー・ブンと宣したオン・ケーオの下には,有能な部下が多数集まってきました.
その中では,メコン川のシャム側で叛乱を率いていたオン・マンや,ニャーフン族のラオ・トゥンであるオン・コムマダムも含まれており,彼等はそれぞれ自分の叛乱一派を率いていました.
一方,こちらもプー・ミー・ブンと称したポー・カドゥアトも,サワンナケートのラオ・ルムの中に支持者を獲得していきました.
1902年初めには,叛乱はピークに達しました.
3月,オン・マンはメコン川西岸の非武装地帯にあるケーマラートの町を占領し,掠奪して,更にウボンへと進みました.
シャムは即座に軍隊を増強し,オン・マン等と戦闘を繰り広げました.
この結果,300名以上の反乱者が殺され,400名以上が捕らえられ,オン・マンは逃れ,オン・ケーオと再合流します.
ビエンチャンとハノイのフランス当局は,この事件に驚き,25kmの非武装地帯の安全と自らの地位を確保しようとしますが,その地のフランス人役人は,より差し迫った問題を突きつけられました.
1902年4月21日,殆どがラオ・ルムであった2,000名強の叛乱勢力が,何事かを唱えながら,サワンナケートに通じる2つの守備拠点を攻撃したのです.
その2つの守備拠点は,現地人保安隊の分隊によって守られていましたが,オン・ケーオの信奉者は,自分たちは不死身で弾丸は仏陀への奉納花とされているチャンパーに変わると信じており,3回に及ぶ自殺的攻撃を行いました.
結果,約150名が殺され,それ以上が負傷したと言います.
この虐殺の後,フランスは叛乱を即座に鎮圧する様になりました.
現地人保安隊の4つの分遣隊が,サワンナケートの西側に集中的に派遣され,叛乱に加わった首長達は撃たれ,村々は焼かれました.
こうした軍事行動の結果,8月に漸く抵抗は終息しました.
ポー・カドゥアトはセーポーンへ退いたものの,執拗な追跡を受け,1903年に殺されました.
オン・ケーオとその他の指導者達,ラオ・トゥンの叛乱勢力の一部は,その間にセーコーン川の南東山地からボーラウェーン高原の東の拠点に撤退しました.
その後の2年間,フランスは南ラオスを平定していましたが,その平和は仮初めのものであり,叛乱勢力は未だに広範囲の支持を得ていました.
例えば,ニャーフン族の伝統的首長の4分の3は,叛乱勢力と共にありました.
1905年11月,オン・コムマダム指揮下の叛乱勢力は,39名のラウェーン族を虐殺しました.
サーラワンに赴任したばかりのフランス人弁務官は,叛乱の鎮圧を決心しますが,実行には困難が伴い,1907年10月になって,やっとオン・ケーオとその信奉者が降伏します.
ただ,オン・コムマダムとその一派だけは,依然としてアッタプーの山地で抵抗を続けました.
そして,以下の様な政治的要求を,フランス当局に対して行います.
その要求とは,
・ボーラウェーン高原ではチャオ・ムアンをラオ・ルムからラオ・トゥンの首長に代えること,
・高原をラオ・トゥンだけの居住地とすること,
・減税すること
の3つの条件です.
弁務官は,オン・ケーオが降伏すれば,信奉者達も彼を信じなくなるだろうと考えていたのですが,それから3年の間,オン・ケーオは威信を失墜するどころか,反対にプー・ミー・ブンとしての名声を保ち続けました.
弁務官は,「この忌々しいカー・アラック族」にうんざりしてしまいます.
1910年11月11日,オン・ケーオは遂に逮捕され,翌早朝,逃げようとしたとして銃剣で刺殺されてしまいました.
2日後,弁務官は降伏の条件を話し合う為,オン・コムマダムと話し合いを持ちました.
お互いに武器の不携帯を確認しあいましたが,弁務官は彼等が頭に触らないことを知っていたので,帽子の中にピストルを隠し持ち,至近距離からオン・コムマダムを撃ちました.
しかし,負傷したにも関わらず,コムマダムも彼の兄弟も逃げ,激怒した弁務官は抵抗する村々を焼き払い,オン・ケーオの首を人々の前に曝した上,その部下3名を死刑に処し,ギロチンにかけて,他の者はヴェトナムの海岸沖に浮かぶ悪名高いプロコンドル島の刑務所で長期刑を宣告されました.
コムマダムは負傷したものの生き延びて,その後も執念深く闘争を続けました.
ただ,精神的支柱たるオン・ケーオが死んだことで,その影響力は低下したと,フランス当局は認識しました.
しかし,コムマダムは未だ未だ大きな勢力を保っていました.
この為,1914年に賦役の負担が増え,増税が実行された時には当局はラオ・トゥンよりもラオ・ルムに負担が多くなる様に気を配りました.
そうして雌伏すること10年の後,1924年になるとコムマダムは地域全体に密使を送って部族内で連絡を取り合い,密かにその存在感を増していき,1年後にフランス当局に対し,全ラオ・トゥンの為の統一的な行政とラオ・トゥンの慣習的な権利の尊重を要求する手紙を書きましたが,彼の威信の低下を誤認していたフランス当局は返答を拒否しました.
1930年代初めになると,コムマダムの下に再び支持者が集まり始め,これまで続けてきたフランス当局への挑戦の最終段階に取りかかる様になりました.
即ち,フランスへの抵抗の新しい形,ラオスの革命的な独立運動を刺激する様な形を取り始めていたのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/08 22:52
青文字:加筆改修部分
南部でも長期に亘る叛乱が起きましたが,北部でも同様に叛乱が頻発します.
ポーラウェーン高原と同様,根底に有ったのは,伝統的な権力構造や関係の断絶,伝統的な貿易パターンや富を生み出す種々の手段への干渉,税負担の増大,そして面倒で屈辱的な賦役労働であり,これらは社会的・民族的ヒエラルキーの底辺にいる人々にとって特に重く感じられました.
ラオ・ルムのエリートから見れば,状況はそれほど悪くも無く,ムアンのレベルでは以前のヴェトナムやシャムと同様,フランスも現地の統治体制をそのまま維持するのが良いと考えていました.
県レベルにのみ,フランスの統治が課せられますが,現地のラオ人貴族からすれば,これは単ににっくきシャムから新しい覇権に移っただけのことであり,フランスの統治は気紛れな強制的要求を突きつけることが少なくなった分,ラオ人貴族を保護する事になりました.
税金は支払わねばなりませんでしたが,元々シャムにも貢納という形の税金を支払っていたので払う先が変わっただけのことでした.
そして,彼等はその税を自身で負担せず,それを支配する人々につけ回しするだけだったのです.
ラオ・ルムの農民もそれ程苦しくはなっていません.
税は個々に取り立てられたものの,村長がわざと住民の数を少なく報告して低い税率で纏めて支払うのが常であり,自然は豊かでそれなりに農地は増やせましたし,また人口密度も低かったりします.
更に,ラオスの低地は,新しい交易の機会や交通通信の進歩,治安の確保,更には保健衛生,教育,農業や畜産プログラムなどの恩恵をより享受しやすかったりします.
こうした条件は,ラオ・トゥンや北部のラオ・スーンには有り得ませんでした.
ラオ・トゥンやラオ・スーンは,低地ラオの役人に税や賦役の形で最大限搾り取られた上,物資運搬の為の人員要求が屡々行われました.
それでいて,彼等の取り分はラオス低地の人々よりずっと少ないものでした.
北部最初の大規模暴動は,ポンサーリーで起きました.
ポンサーリーはムアンシンと共にかつてはシップソーンパンナーの一部であり,ルー族居住地でした.
ラオスと中国との間に人為的な国境が引かれた為に,昔からのルー族の国が分断され,ラオスに合併された地域には政治的不安定が生じました.
ルー族の首長にとって,これまでの遙か遠い中国との朝貢関係は,フランスによって次第に導入されてきた直接統治程重荷ではありませんでした.
そして,実際にフランスの存在はルー族首長の伝統的な権威,即ち,この地域は元々自らの封土に於いて,従属下にあるラオスの地方貴族と言うよりも,寧ろ独立した君主だったのですが,それを危うくし,同時に中国領シップソーンパンナーとの経済的,社会的な関係を弱めることになりました.
フランス進出後の約10年間の内に,フランスと,ポンサーリーのルー族世襲的首長だったワンナプームとの関係は悪化し,1908年3月,遂にフランス人弁務官が個人的に彼の逮捕を企てるに至りました.
ワンナプームは逃れ,ルー族が叛乱を起こしました.
フランスが威信を回復するには2年の月日が掛り,その結果,ワンナプームは捕らえられて,部下が逃がそうとしたものの発覚して殺されました.
その4年後がムアンシンのルー族にとって転換期となりました.
元々,この地にフランスの統治が完全に及ぶ様になったのは,1904年になってからです.
ムアンシンはそれまでチャオ・フォーの称号を持つルー族の世襲君主に統治されてきました.
年老いたチャオ・ファーはフランスに為されるが儘で,1907年に没しましたが,その跡を襲った息子のオン・カムは,フランスの存在と,自身の権力や特権に対する制約に非常に怒っていました.
1914年12月,再び両者の関係は嫌悪になり,チャオ・ファー・オン・カムは,中国のシップソーンパンナーに逃れてそこで反旗を翻します.
それから2年間,ルー族の武装部隊はフランスに対して機動力を活かしてゲリラ的に戦いました.
フランスの権威をその地域に再び確立する為に,遠征隊3隊が派遣され,ムアンシンは君主統治国からフランスの直接統治のムアンに格下げされるに至ります.
それに先立つ1914年11月,40数名の山地タイ族に支援されたほぼ同数の中国人の一団が,サムヌアのフランス行政の拠点を攻撃,掠奪し,フランス人理事を殺害,武器や阿片現金を強奪しました.
フランスは1ヶ月後に町を奪還しますが,叛乱はあっと言う間にヴェトナム北西部やポンサーリーに拡大しました.
ルー族,山地タイ族,クム族までもが中国人主導の叛乱に加わりました.
この叛乱は多分に中国情勢も絡んでいます.
と言うのも,丁度その頃,中国本土では既に雲南の項で取り上げた様に,辛亥革命に端を発した大戦争が行われていた為です.
理想的な国作りを提唱した人々は,その思想を,周辺の国々に住む中国人達にも広げ,それに影響された人々が,同じ様に,理想的な国を作ろうと立ち上がった部分がいくらかあります.
ともあれ,1915年2月にはラオス北東部の殆どの地域は叛乱勢力の手に落ち,治安回復の為に派遣されたフランス軍2個中隊は撤退を余儀なくされました.
1915年11月,160名のフランス人と2個梯団に分けられた2,500名の植民地軍,物資や弾薬,大砲を引く800頭の輜重牛馬からなるフランスの大遠征軍がトンキンから派遣され,6週間に及ぶ戦闘の末,2個梯団は叛乱を四散させて中国国境の北に追い払うことに成功しました.
ポンサーリーは軍政下に置かれることになり,1916年3月に第5軍区となりました.
中国との国境線のヴェトナム北部には既に4つの軍区が設置されていたのですが,更に1軍区が増えた訳です.
この叛乱の反仏的性格は,中国人指導者が出した宣言の中に非常に明確に示されていました.
叛乱の原因は権力又は特権の喪失にあったのではなく,阿片が専売制になったので利益の多い非合法の阿片取引が出来なくなったことにありました.
北ラオスの中国人(ホー族)は,これまで,ラバのキャラバンで南中国からやって来る阿片商人の仲介者と言う役割を果たしていました.
各地の生産者,主にモン族の人々は自分たちの分は消費しつつ,残りはフランス経営の専売会社である阿片公社に売ることになっていました.
しかし,この地域の阿片は品質が劣ると考えられていましたので,ラオスでの阿片生産は余り奨励されていませんでした.
中国人業者は公社の為に仲介人として働いていると思われていましたが,実際にはより高い価格で中国人密輸商人に売り続けていました.
ところが,不法に阿片を所持している人々に厳しい罰金が科される様になると,中国人商人だけでなく,ラオ人の役人も賄賂という最大の収入源を失ってしまいました.
一方,タイ族の場合はそれとは異なる理由で叛乱に加わりました.
彼等は阿片の生産もしなければ取引もしていません.
彼等は,シップソーンチュタイの伝統的タイ族首長によって取り立てられていた税にフランスからの税負担が加わったことで,フランスを非難したのです.
より公正な行政秩序を作ろうという中国人の主張に反応したのは,首長達では無く,失うものが殆ど無い,最も貧しい立場の山地タイ族でした.
北部の少数民族の中では,モン族だけはこの叛乱に与しませんでした.
それどころか,フランス側につく者もいました.
しかし,彼等も3年も経たないうちに叛乱を起こすことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/09 23:11
さて,ラオスの叛乱は,本国が第1次世界大戦で苦戦している最中に頻発しました.
南部の叛乱はラオス統一を求めたタイ側住民との連携の下で生まれた叛乱でしたが,北部の叛乱の1つはどちらかと言えば中国の辛亥革命に影響を受けた中国系の人々が起こした叛乱でしたが,本音の部分では阿片取引という生活手段の維持を目的とした叛乱した.
中国系の叛乱にタイ系の人々も乗っかったのは,これまた税負担の問題であり,重税感が増す貧民が加わった事に依ります.
一方,北部山地に住んでいたモン族には余り反仏感情はなく,寧ろ,フランスを支持する動きを見せていました.
しかし,1918年に南中国で蜂起したモン族が大弾圧を受けて北ヴェトナムやラオスに脱出するとその動きも変容してしまいました.
彼等難民は,中国人被害者に抱いた「反役人」感情を,そのまま山地タイ族の首長に対して持ち込みます.
北ヴェトナムでは,釣り上がる一方の税をフランスの代わりに名目的であれ徴収していたタイ族首長に対してモン族の怒りが爆発し,1918年10月末,頂点に達して,数百名の武装したモン族がディエンビエンフー近くのタイ族の村を襲撃します.
叛乱の指導者はパーチャイと言う名のモン族シャーマンで,彼はモン族の独立王国を作ると言う救世主的な約束を公言していた為,フランスからは「魔術師」とか「狂人」と呼ばれていました.
この叛乱が起こるや否や,フランスはヴェトナム北西部に官憲を再配置したことから,間もなく叛乱は鎮静化し,バーチャイとその支持者はラオスに撤退しました.
そして,今度はバーチャイとその仲間達は1919年前半にラオス国内に叛乱の種を蒔き,10月にはその種から北東部の各地での反乱が拡大することになります.
標的は,フランス人は別として,タイ族より寧ろラオ人でした.
電線は切られ,村は焼かれ,住民は逃げざるを得ませんでした.
クム族の村人は事実上の奴隷となってモン族叛乱兵の為に,輜重任務や防御施設建設任務に就かされていました.
ただ,モン族全員が叛乱を支持していた訳でなく,伝統的首長の中にはバーチャイに嫌々従っていた者もいました.
1919年9月から1920年4月にかけて,フランス軍は反乱に対する大規模な掃討戦を繰り広げ,1920年中には現地人保安隊がこの地で統制の取れた鎮圧活動を行った為,モン族の多くはフランス当局に屈服しました.
首謀者は即決裁判で処刑され,武器は取り上げられた上,与えた損害に対しては賠償金が課せられました.
こうして,1921年3月までに叛乱は終息し,バーチャイと2〜3名の忠実な部下達は山に逃亡しましたが,1922年11月,ラオ・トゥンに待ち伏せされて殺されました.
この叛乱を総括したフランス当局の任務報告では,植民地支配構造によって民族間の緊張が生じたのが主要原因であると述べていました.
特に税金については,モン族の村から税を徴収するのはプアン族やタイ族の役人ですが,その徴収額は植民地当局が定めた税率の実に3倍に達しました.
これは徴税人がフランスの課した税に加え,プアン族の首長に納める伝統的な貢納を強要していた為であり,1920年4月には,今後モン族は,税徴収について,「他の民族に任せるのでは無く」,モン族の税徴収に責任を持つモン族首長を選び,自ら管理すべしと言う布告が出されています.
モン族の首長のことを「キアトン」と言います.
これは元々ラオスの県当局の管轄下にありましたが,バーチャイの叛乱後は,キアトンはターセーン(区又は郡)の長に任命されました.
このターセーンの中で最も重要なのは,ラオスとヴェトナム国境にあるノーンヘートでした.
この戦略的に重要な地域のターセーンには,モン族の名家ロー家のキアトン,ローブリヤオが任命され,その秘書には義理の息子であるリー家のリーフォンが就任します.
しかし1938年,フランス当局はノーンヘートのターセーンを,隠退して代替わりしていたローブリヤオの長男からリーフォンに代えてしまいました.
これはローブリヤオ家を酷く怒らせました.
彼等にとっては,ターセーンの交代を,名誉を傷つけられたものであると考えたのです.
数年後にリーフォンが死去した際,ローブリヤオ家の次男ファイダーンとリーフォンの長男,トビー(因みに,彼は高校を卒業した最初のモン族となった)との間で選挙が行われ,トビーが勝利しました.
とは言え,ロー家の怨念は中々消えず,両家に生じた不和は,モン族の共同体を分裂させ,ラオス内戦の要因の1つとなって行きます.
こうした植民地期の叛乱の特徴は,切っ掛けがフランス行政当局が最初に押しつけた新しい行政的支配と増税によって引き起こされたのですが,それらはフランス人に対すると言うより,ラオス内部の民族対立構造によって拡大されたと言う見方も出来ます.
実際,平地ラオの人々から見れば,これらの叛乱は地方の「奴隷」や「野蛮人」達の叛乱でした.
また,フランス当局も,これらの叛乱を未開人の非道理的な迷信によって引き起こされた争乱と斬って捨て,地からで押さえつける政策を採り続けます.
とは言え,実際には低地ラオでも1920年にビエンチャンで元教師であったクーカムと言う人物による反税運動がありました.
ただ,短期間の暴動で首謀者が逮捕され,鎮圧されたので,大きな反植民地運動のうねりにはなりませんでした.
そうした成功体験があったが故に,こうした平地ラオ人の動きは植民地当局から完全に無視された訳です.
こうした叛乱のもう1つの側面としては,戦後に発生したラオ・イサラ,パテート・ラオと言った革命的ナショナリズムの起源という見方があります.
ラオスと言う国は先述の通り,フランスが切り取った地がラオ人の住んでいる地域の大部分を含んでいなかったと言う,成り立ちからして不幸な形で始まっているので,ラオ人と言う1つの民族集団のみで独立運動を動かすのは不可能でした.
それ以外の,地域を構成する少数民族グループを独立運動に巻き込むかと言う戦略を考えた時に,こうした少数民族が率先して行った叛乱を,「反植民地運動の嚆矢」と言う位置づけにすることで,少数民族を賞揚し,「国民一丸」となって,反仏,反米闘争を戦うと言う一種の虚構として用いたのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/14 22:54
【質問】
「ラオス刷新運動」とは?
【回答】
既に見た様に,19世紀半ばまでにラオ族の諸王国は総てシャムの支配下に置かれていきます.
それに対し,インドシナへの進出を目論んでいたフランスがこの地域にも食指を伸ばし,英仏シャム3国の駆け引きの結果,1893年10月にメコン川を国境線として左岸地域をフランス領として,フランス領ラオスが誕生しました.
その後,フランスとシャム,中国,英国との間で幾度かの外交交渉を経て,最終的に20世紀初頭にはラオスと周辺諸国の国境線が決定されました.
ラオスの中には,保護国としてルアンパバーン王国が存在していましたが,王の名誉的並びに儀礼上の特権を伴う統治権を認める形で王国はそのまま省となっていきました.
この「フランス領ラオス」は,従来この地域を支配した如何なる王朝の領域とも完全に一致しない完全な人工国家であり,植民地期にはこうした事実を踏まえて,フランスがこの地域の保護者として振る舞い,「フランス無くしてラオス無し」と言う考え方を正当化する為のツールとなっていきます.
とは言え,この国境線画定に関して,ラオ人は全く絡んでおらず,総てこれは統治者同士で勝手に決めたものであることに注意しなければなりません.
既に幾度も触れた様に,ラオ人はメコン川の両岸に広く住んでいたのであり,この国境線画定により,右岸側は「ラオス人」,左岸側は「タイ人」と呼ばれ,別々の国民として歩んでいくことになります.
因みに,1905年に東北タイのローイエットに生まれたラオ人で,後にラオスに渡って,『ラーオ語文法』や『ラーオ語辞書』などを編纂した,マハー・シラー・ウィーラウォンと言う人は植民地化へと至る一連の出来事を1973年にこう記しています.
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1828年にヴィエンチャンのアヌ王がシャム軍に敗北して捕らえられ,バンコクで投獄された後にお亡くなりになると,ラオス王国の全域がタイの直接支配下に置かれた.
それ以降,国の統治も,人民の教育も,仏教風習の実践も,仏教教育も少しずつ衰退していった.
1893年には,フランス人がやって来て,メコン川左岸のラーオの地を総て,タイから奪い取っていった.
それを見たタイは,1899年にかつてはラーオの領土であった,イサーン地方の領域を総てシャムの領土とし,ラーオ人であった人々を,タイ人とすることを宣言した.
以後,メコン川右岸のラーオ人はタイ国民となり,タイ人となり,タイ文字だけを学習する様になった.
ラーオ文字(シャム人は,タイ・ノーイ文字と呼んだ)とタム文字に関しては,最初の内は,読み書き出来る者がいたが,タイ政府が郡教育長管轄下の学校を各地へ拡大して行くにつれ,総ての寺院で実施されていたラーオ文字とタム文字の教育は次第に無くなり,現在では全く行われなくなってしまった.
これが古来より,イサーン地方のラーオの領土に広く普及していたラーオ文字とタム文字の最期であった.
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この文章から読めるのは,東北タイ出身者にとっては,フランスの植民地支配は「保護者」であるどころか,メコン右岸(東北タイ)に居住したラーオ人の「タイ人化」を促進したものとして受け止められていた訳です.
因みに1899年には,シャムが中央集権化を進める中で,東北地域に設置した「ラーオ・カーオ州」を「ターワンオークチアンヌア(東北)州」に改名しました.
これは領土上の取り決めでは無いにしろ,州名から「ラーオ」を取り外すことで,この地域の住民がラーオ人では無く「タイ人」であると示そうとする政治的な意図があったと考えられています.
本国政府では意図しなかったにしろ,現地政庁では,仏領「ラオス」の住民とメコン右岸の住民との同質性を主張して,メコン右岸へと触手を伸ばそうとしていました.
その為,フランスの領土的要求を拒絶し,この地域をシャムに止めておく方法として,ラーオ人の「タイ人」化を実施し,ラオスのラーオ人と東北タイの住民が異なる民族である事を明確にしておく必要がありました.
その際に執られたのが,タイ語やタイ文字による教育を通しての「タイ人」化であり,1910年以降,東北地域へのタイ語,タイ文字教育が本格的に導入される様になります.
この様に,フランスが持ち込んだ近代概念である国境線と言うものは,嘗てはなだらかな法源の連続体を成していた地域に,否応なしに言語上の国境線を持ち込む事になりました.
初期の近代国家の定義が,1言語=1国家=1国民を原則とするならば,タイ語,タイ文字の教育は,「ラーオ人」を「タイ人」へと統合していく為の必要不可欠なプロセスとなった訳です.
「ラーオ語」はメコン右岸では最早「ラーオ語」では無くなり,「タイ語」の「東北タイ方言」乃至は「イサーン語」としての道を歩むことになります.
こうしてラーオ人は2つの国民へと分断されていきます.
とは言え,シャムは日本と比べると大国とは言えません.
ただ,先ほどのマハー・シラー・ウィーラウォンが,ラーオ人の没落を,アヌ王の敗北にまで遡っている事でも分かる様に,ラーオ人からすれば,シャムはフランスが到来する前からの支配者であり,この「旧支配者」は欧米を手本に近代化を急いでいました.
日本同様,19世紀半ばにモンクット王(ラーマ4世王)の治世から近代国家建設に着手しており,言語に関しても,タイ語正書法の標準化はモンクット王の治世より始められ,1920年代には,教科書局によって近代語彙が検討されて,辞書が出版されるなど,徐々にタイ語の「近代化」も図られていきました.
一方,シャムにとって「ラオス」「カンボジア」は,フランスによって奪われた失地であり,国境線が決定された後もその領土的要求が消え去った訳ではありません.
シャムの「失地回復」への思いは,1938〜44年までのピブーン政権に於いて「大タイ主義」と結び付きました.
ピブーンは1939年6月に国名をシャムからタイに改称しますが,この背景にはラーオ族を含めたタイ(Tai)系民族とクメールまでをもタイ(Thai)国民として取り込もうとする膨張主義的な狙いがありました.
そして,第2次世界大戦勃発でドイツに降伏したフランスが弱体化すると,フランスとの間に国境紛争を仕掛け,日本の調停により,有利な形でそれを終結させて,タイは「失地」の一部回復に成功するのです.
こうした事件は,「旧支配者」即ちタイが「ラオス」にとって脅威であり続けていくと言う事を,ラーオ人達に改めて示すものとなります.
この頃にはヴェトナム人に代わって,漸くラーオ人エリートが植民地当局の下級官吏に採用される様になり,彼等が台頭していく時期です.
そこでフランスは,大タイ主義のラオスへの浸透を防ぎ,ラオスを植民地として維持していく為,ラオス刷新運動(ラーオ・ニャイ運動)と言う文化運動を推進していきます.
ラオス刷新運動では,フランスは大タイ主義の脅威からラオスを守る「保護者」とされ,フランスの庇護の下,タイとは異なる「ラオス人」としての国民意識を醸成することを目指しました.
そして1941年1月には,運動の発信装置として,初のラーオ語紙である"Lao
Nhay"(大ラオス)新聞が創刊されています.
この新聞では,ラーオ語の正書法や近代語彙の問題,ローマ字化の議論などが掲載され,言語に於いても「ラーオ語」を「タイ語」とは異なる言語として確立していこうとする積極的な試みが見られました.
また,方言差の問題や少数民族のラーオ語教育についても言及しており,「ラオス人」エリートの間で,「ラオス」全域を覆う均質な国民語として,ラーオ語を作る必要性が認識されていきました.
一方,1945年3月,日本軍の仏領インドシナ処理により,フランスはインドシナから一時撤退を余儀なくされます.
4月になると,その間隙を突く形で,名目的なものではありましたがルアンパバーン王国の独立が宣言され,これを契機に,ラオス各地での抗仏独立運動が盛んになります.
そして,「ラオス人」ナショナリズムもまた,次第にフランスの庇護下を離れて,自らの国家を渇望する様になり,太平洋戦争終了後の政治的空白期に各地の抵抗勢力は活動を活発化させて,ラーオ・イサラ(自由ラオス)運動と呼ばれる独立運動へと発展していきます.
その後,1946年のフランスによる再植民地化,1949年のフランス連合内での協同国として条件付独立を経て,1953年にラオス王国が完全な独立を達成しました.
しかし,独立運動の過程では,左右両派の対立が生じており,1950年にホー・チー・ミンが指導するヴェトナムの支援を受けた左派パテート・ラーオが抗戦政府を樹立し,ヴィエンチャンの王国政府と激しく対立するようになり,そのまま30年戦争と呼ばれる内戦が激しくなっていきました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/17 23:11
青文字:加筆改修部分
【質問】
ラオスにおける創姓の経緯は?
【回答】
ラオスと言う国は,隣国ヴェトナムと違い,中国の影響を余り受けず,姓氏は広まりませんでした.
ラオスの人口の内75%を占めるLao族は,古くからインド文化の影響を強く受け,原始的な農村生活を営んできています.
Lao族の社会の基礎単位は夫婦と未婚の子女から成る小家族であり,家の概念は夫と妻と言う1代限りの横の結びつきが重要な意味を持っており,祖父から父,父から長男と言う縦の家系意識は薄かった為,人々には名のみ有って姓(家名)を名乗る必要性はありませんでした.
この国に姓を創る動きが出て来たのは,1944年,当時フランス人の統治下にあった現地政府が,創姓登録を定めて啓発普及に努め,戦後,ラオス王国として独立した後も,此の動きは引き継がれていきます.
しかし1960年代当時,未だ姓の登録が為されていない国民は200万人中約35%もいたりするので,中々徹底しているとは言い難かったりします.
ラオス人の名は,1語または2語から成っています.
一方,姓は1語から成るものが一般的です.
初めて姓を創るに当って,ラオス人はそれぞれの職業や部族,出身地の名称を用いず,原則的に父の名を以て姓と定めました.
例外として,祖父より上の先祖に文武に優れた人がいた場合,父の名の代わりにその人の名を姓としたり,王から特例で姓を授けられた場合にはこれを父の名の後に続け,1語に纏めて用いました.
例えば,Deng Abhayと人の場合は,Dengと言う人が姓を創る時,父の名Abhayを姓に決めたケースですし,Nith
Singharajと言う人の場合は,Nithと言う人が姓を創る際,父の名Singに王から賜ったHarajを付け加えて姓にしたケースです.
また,各種称号が名前の前に付きます.
名前だけの人は,この称号を名前の前に併用する慣習です.
ラオスはタイの一部だった事があるので,その用法はタイとほぼ同一になっています.
男性の称号としては,Phanathan,Than,Thaoの3つがあります.
Phanathanは,身分の高い人が用いる称号で,「閣下」に当ります.
Thanは上流社会の人,Thaoは一般庶民が用いる称号ですが,両者は15歳前後の少年に用いる称号です.
但し,本人が望めば姓名の一部として成人後も引き続き使用して差支えない,とされています.
謂わば,英語のMasterとMisterと同義と言えそうです.
女性の称号としてはNang,Sao,Dengの3つがあります.
Nangは都会の女性が使用し,Saoは地方の女性が使用します.
Dengは廃れつつあり,殆ど使用されていません.
女性は結婚した際に,夫の姓名の前にNang(またはSao)を付けて呼ばれます.
謂わば,Miss,Mrsになりますが,未婚の場合,Nangsaoと1語の称号を付け,結婚するとNangにする用法も見受けられます.
ラオスはセイロン派の小乗仏教が主流で,Lao族530人に対して,1つのワット(寺院)があり,58人に1人の割合で僧侶が居ます.
終身僧籍にある僧侶には,学識,修行の段階に応じてChan,Thit,Xiengの3種で呼び分けられ,世俗的なThaoは用いられません.
現在,革命が行われ,共和制に移行したので,官吏の称号が用いられていない可能性がありますが,王国時代は,功労のあった官吏には,本人一代限りで使用を認められた栄誉称号がありました.
これは,公式,非公式に用いるかどうかは本人の意志に委ねられているものです.
これには4種あり,最高位がChao Phagna Louang,それに次ぐのがChao
Phagna,その次がPhagna,最下級がPiaと言うもので,何れも氏名の前に記述されます.
現在なら兎も角,1970年頃,旅券は手書きが主流,更にその入国審査後の受容れ,外国人登録も手書き書類ですから,この辺の称号とか姓名の有無なんか,結構困ることが多かった様です.
特に,称号や性別なんかは外交官で記入し間違えたら偉い目に遭うケースがあったとか.
入管の職員なんかも結構戸惑ったでしょうし,ともすれば,書き間違えとか誤認があったかもしれません.
そう考えれば,今,盛んに騒がれている北朝鮮工作員の成り済まし入国なんかも案外,簡単にできたのではないか,と思ってしまいます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/22 21:24
【質問】
ラオス内戦について教えられたし.
【回答】
ラオス内戦,別名「30年闘争」は,1975年12月2日の社会主義革命に至るまで続き,ラオスの国家建設を著しく遅らせることになります.
内戦話は後日詳しく書くことにして,今日は言語に特化してみたり.
内戦は,米国を中心とした西側陣営を背後に置いた王国政府と,ソ連,ヴェトナム,中国と言った社会主義陣営を背後に置いたパテート・ラーオの勢力争いであり,それぞれの支配地域では,個別に国家建設を進める構図になっていました.
従って,ラオスと言う1つの統一国家なのに,中には2つの政府がある為,統一した国内政策を採ることが困難でした.
言語についてもこれは同様で,王国政府とパテート・ラーオがそれぞれ異なる正書法を採用し,政治的な分裂が,ラーオ語の分裂をも引き起こす事態になっていました.
ただ,両者共にラーオ語は,「タイ語とは違う」と言う立場を執っていました.
タイは戦後の1954年9月に,米国主導の東南アジア集団防衛条約に参加し,その軍事組織である東南アジア条約機構(SEATO)の本部をバンコクに誘致するなど,西側諸国との関係を強めていきます.
更にヴェトナム戦争では,タイの空港を米軍が戦略基地として利用し,それらの空軍機が,パテート・ラーオ解放区への攻撃を行うなど,経済援助を見返りとした米国への軍事協力を実施していました.
従って,王国政府から見れば,タイは同盟国とも言えましたが,パテート・ラーオから見れば,タイは正しく反共を掲げ,米国への軍事協力を行う「敵」でした.
しかしながら,王国政府もタイを一方的に味方視するのには抵抗があります.
パテート・ラーオの支配地は,サムヌアとポンサリーを中心とした北部ヴェトナム国境沿いの山岳地帯であり,タイからは比較的離れています.
対して,王国政府の支配地は,メコン川流域の都市部を中心としており,この地域はメコン川を挟んでタイと対峙し,タイ語の影響をより受けやすい状況にありました.
当時のタイは,開発政策を推し進め,著しい経済成長を遂げていたのですが,その姿はメコン対岸の貧しいラオスにある王おっ区政府にとって,大きな脅威に映りました.
特に,内戦という状況下にあり,しかも国の地理的条件が内陸国というのでは,政治的,経済的にタイに依存せざるを得ない関係であり,仮に「旧支配者」であるタイが野心を起こしてしまえば,容易にラオスと言う国は,地図から消え仰せてしまいます.
これは,嘗ての東北タイが辿った運命と同じです.
従ってタイの脅威を退け,国家としての「ラオス」独立を維持していく為には,「ラオス人」が「タイ人」とは異なる存在である事を明確に示し,その政治的な独立を正当化しておく必要があったのです.
その際,タイに対する「ラオス」の独自性を主張する上での切り札とされたのが,ラーオ語とラーオ文字でした.
こうした事情の下,王国政府に於いても,ラーオ語をタイ語とは異なる言語として「創り」上げ,言語面での「旧支配者」からの独立を揺るぎないものにしておく試みが種々なされていくことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/18 23:12
青文字:加筆改修部分
【質問】
ラオスに対する中国の,兵器等の援助について教えられたし.
【回答】
経済発展のための原材料を求めて中国は,開発援助を通じてカンボジア,ラオス,ベトナムに急接近しているという.
2008年1月に書かれたthe Congressional
Research Service (CRS)の報告書では,東南アジア,特に低発展国,例えばカンボジアへの支援で中国が飛び抜けていて,2007年には689百万ドルであるが,米国はNGO中心の55百万ドルに過ぎない.
1990年代には西側と日本が中心であった援助も,今ではフンセン首相は,人権にうるさい国連機関や,フンセン一族の森林不法伐採を糾弾するNGOなどを追い出すところまで来ている,と述べられている.
日本の外交官は,カンボジアの和平を直接主導したのは日本政府だ,と言う自負があったが,2008年の初め,カンボジアのフンセン首相は,日本政府ももう少しカンボジアの援助に力を入れてはどうか,と発言している.
日本の援助はフットワークが悪く,インドシナ三国が欲しいダムと石炭火力も,日本では捨てられたものだからだという.
ラオスも同様で,中国からの178百万ドルに上る交通インフラ支援と2006年の45百万ドルの経済支援に比べて,米国は2005年〜2007年,僅かに4.5百万ドル.
中国は,ラオス現首相のベトナムとの関係維持の方針にもかかわらず,次世代への布石とするため,ラオス軍隊の近代化や留学支援に援助の手を差し伸べているという.
詳しくは,
Chinese Aid Wins Hearts, Twists Arms in Southeast
Asia
および,
「日刊 アジアのエネルギー最前線」,30 Oct
2008
を参照されたし.
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ