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◆◆◆◆◆◆ロケット関連人物
◆◆◆◆◆ロケット恐怖症
<◆◆◆◆運搬手段
<◆◆◆核武装論議
<◆◆装備調達関連
<◆日本/自衛隊(JSDF)FAQ目次
<東亜FAQ目次
【質問】
池田健とは?
【回答】
航空系の東大教授.
1954年2月,糸川英夫らと共に,AVSA研究班を結成.
論文は,
「石けん膜の実験に用いる液について」(1954.2.1)
「自動車の振動試験法とその結果について」(1955.2.1)
「強化ポリエステルの耐熱強度試験」(1956.4.1)
「ロケット・エンジン燃焼室の耐圧試験」(1956.4.1)
「フェノール樹脂の耐熱性について」(1965.7)
「石けん膜によるねじり応力の測定」
他に,「SSRの機体設計について」など,SSRに関する執筆文書あり.
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(朝日新聞社,2003.10.30),p.65
http://porta.ndl.go.jp/servicedp/openurl?au=%E5%8F%A4%E7%94%B0%E3%80%80%E5%BA%B7
http://porta.ndl.go.jp/servicedp/openurl?any=%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002453455
http://www.isas.jaxa.jp/publications/hokokuUT/index02.html
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/16 21:21
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【質問】
垣見恒男とは?
【回答】
「日本初のロケットエンジン開発者」
1928年,滋賀県生まれ.
陸軍士官学校に入校するも,終戦により退学.
旧制学習院高等科卒業後,東大第1工学部入学.
1953年,卒業後,富士精密に入社し,その年に始まったロケット開発に参加。
1955年,ペンシル・ロケット設計.
以後,ベビー,カッパロケットを設計し,ラムダ,ミューロケットの構想設計にも携わった.
モットーは,「1. あわてるな 2.あせるな 3.あたまにくるな 4.あきらめるな 5.あてにするな」
【参考ページ】
『昭和のロケット屋さん』(ロフトブックス編.エクスナレッジ,2007.12.19),p.8
http://www.suginamigaku.org/totte/41kakimi/index.html(写真も)
【ぐんじさんぎょう】,2010/06/06 21:00
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【質問】
齋藤成文とは?
【回答】
齋藤成文(しげぶみ)は,電気系の東大教授・工学博士.
1919年9月,東京生まれ.
慶応幼稚舎,同普通部卒.
1941年12月,東京帝国大学工学部電気工学科卒業.
太平洋戦争中,海軍短期現役士官として,艦船用レーダー開発に従事.
第2艦隊司令部付として,レーダー整備に尽力した後,海上護衛総司令部佐伯訓練隊にて海防艦の電探指導に当たる.
終戦間際に航空機用レーダー開発に転じ,海軍三沢航空隊において,1式陸攻に装備するパノラマ式マイクロ波電探の飛行試験を行う.
終戦直後,東京大学第2工学部助教授に就任.
後,MIT客員教授.
1954年2月,糸川英夫らと共に,AVSA研究班を結成.
1957年11月,東大生産技術研究所教授.
1964年6月より,東大宇宙航空研究所教授を併任し,科学衛星計画のキー・メンバーに.
1969年6月より,宇宙開発事業団非常勤理事を兼務.
1974年6月より,宇宙開発委員会非常勤委員.
1980年4月,東大を定年退官し,同大学名誉教授となる.
1980年6月より,常勤宇宙開発委員.
1985年4月〜1993年3月,郵政省電気通信技術審議会会長.
1986年8月より,同委員会委員長代理.
1991年3月末,任期満了し,退任.
1991年11月〜1993年3月,日本国際宇宙年協議会会長.
1993年12月〜 科学技術庁顧問.
1994年4月〜 且汾「代衛星通信・放送システム研究所取締役会長.
その他,通信・放送機構運営評議会会長,月・惑星協会代表幹事,財団法人日本宇宙フォーラム最高顧問.
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(朝日新聞社,2003.10.30),p.65
『宇宙開発秘話』(斎藤成文著,三田出版会,1995.8.30),p.138,
344-345, 348
【ぐんじさんぎょう】,2010/06/13 21:00
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【質問】
沢井善三郎とは?
【回答】
電気系の東大教授.
1949年,中央大学にて新設された電気工学科の非常勤講師を兼任.
1954年2月,糸川英夫らと共に,AVSA研究班を結成.
空中線安定方式の研究を行う.
1969.2.25〜1971.2.26 社団法人計測自動制御学会会長.
論文は,
『直流電動機電機子電流の速応制御』[1960.1.1]
など.
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(朝日新聞社,2003.10.30),p.65
http://www.sice.or.jp/annai/rekidaikaichou.html
http://www.isas.ac.jp/publications/shuhoUT/cont02.html
http://porta.ndl.go.jp/servicedp/openurl?any=%E9%9B%BB%E6%A9%9F%E5%AD%90
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/23 21:00
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【質問】
高木昇とは?
【回答】
(1)
電子工学者で東京大学名誉教授.
1908年6月19日,東京生まれ
1931年,東京帝国大学工学部電気工学科卒業
1942年,東京帝国大学第二工学部教授
1950年:東京大学生産技術研究所教授
1954年2月,糸川英夫らと共に,AVSA研究班を結成.
東京大学の宇宙空間観測観測グループのリーダーとして、観測ロケットの打ち上げ、科学衛星の開発や打ち上げ等、宇宙電子工学の分野で貢献。
1964年:東京大学宇宙航空研究所所長(初代 1969年まで)
1965年:科学技術庁宇宙開発推進本部長(1967年まで)
1969年:東京大学退官 日本大学理工学部教授(1979年まで)
1986年:東京工科大学学長(1996年まで)
2005年5月28日,没.
(2)
大戦末期の日本海軍芙蓉部隊(夜間戦闘機隊)における戦闘第八〇四飛行隊飛行分隊長(大尉)
(3)
山一抗争で活躍した,二代目山健組秀政組の行動隊長.
山之内幸夫著『悲しきヒットマン』のモデルとなった.
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(朝日新聞社,2003.10.30),p.65
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%98%87
http://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%98%87
http://www.isas.ac.jp/ISASnews/No.217/tokushuu-03.html
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/22 21:00
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【質問】
玉木章夫とは?
【回答】
玉木章夫(たまきふみお,1915‐1973)は,航空系の東大教授.
▼理学部物理学科出身で,空気力学が専門.▲
大正4年10月16日生まれ.
▼慶應義塾付属幼稚舎(小学校相当),旧制1中,1高,そして▲東京帝大卒.
東京帝大航空研究所,東大生産技術研究所につとめ,昭和27年東大宇宙航空研究所教授,47年所長となる.
1954年2月,糸川英夫らと共に,AVSA研究班を結成.
ペンシル-ロケットから衛星「おおすみ」まで日本のロケット開発に尽力.
▼斎藤成文によれば,糸川退官後は玉木がロケットの基本設計を,一身に引き受けて担当したという.▲
また,1960年代には,東京大学航空研究所にて衝撃波管の実験を始め,日本の衝撃波研究の道を拓く.
昭和48年9月7日,癌のため死去.
著作に『飛しょう体の空気力学』(東京大学出版会,1974)など.
『故玉木章夫先生の業績と追憶』という出版物もあるらしいが,詳細不明.
▼ 斎藤成文によれば,その研究態度は理学士的ではなく,工学マインドが徹底した技術者であったという.
また,己を律するのに厳しく,曲がったことの大嫌いな正義感溢れる性格であったが,しかし,厳しい性格の中にも慶應幼稚舎ボーイらしいユーモアある茶目っ気も持っていたという.▲
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(朝日新聞社,2003.10.30),p.65
http://kotobank.jp/word/%E7%8E%89%E6%9C%A8%E7%AB%A0%E5%A4%AB
http://www.isas.ac.jp/ISASnews/No.204/shochu.html
http://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/picture/03.shtml(写真引用元)
http://www.swsoc.jp/sw.htm
『宇宙開発秘話』(斎藤成文著,三田出版会,1995.8.30),p.301-302
お祝いの花束を受け取る玉木章夫(左)と森大吉郎
内之浦@東京大学鹿児島宇宙開発観測所にて
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/18 21:00
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【質問】
戸田康明とは?
【回答】
▼戸田康明(とだ・やすあきら)は▲中島飛行機⇒富士精密の技師.
▼祖先は藤原鎌足まで遡る.
北海道大学に進学し,寺田寅彦門下の中谷宇吉郎の研究室で人工雪の研究を行い,理学博士の学位を得る.▲[6]
その論文名「 空気流にさらされたる冷却露の研究」(欧文).
学位授与年度, 1944. [5]
▼中谷から大学への残留を勧められるも,中島飛行機に入社.
エンジンのシリンダーの研究を行う.▲[6]
誉エンジン開発に当たり,シリンダーヘッドの冷却フィン構造と冷却効率の関係を研究.[4]
戦後,糸川の打診に応じ,富士精密がロケット・エンジン開発に取り組み始めた当時の技術部長.[1]
富士精密では糸川の中島飛行機時代の同僚、中川良一が取締役をしており、その指示を受けた同社荻窪工場の技術部長が戸田康明だったという.[2]
ロケット・エンジンは彼には未経験だったが,▼日本油脂の村田勉博士と接触し,朝鮮戦争時のバズーカ用に生産されていた,全長123mm×直径9.5mmのダブルベース火薬の提供を受ける.▲[6]
1962.8 には,日本ロケット協会代表幹事に就任している.[3]
【参考ページ】
『日本の宇宙開発』(中野不二男著,文春新書,1999.7.20),p.65[1]
http://www.jaxa.jp/article/interview/sp1/prologue_p2_j.html[2]
http://www.jrocket.org/chairman.html[3]
誉 (エンジン) - Wikipedia[4]
http://www.lib.hokudai.ac.jp/db/K04.php[5]
▼『はやぶさ』(吉田武著,幻冬舎,2006.11.30),p.67-68▲
【ぐんじさんぎょう】,2010/03/28 21:00
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【質問】
林紀幸とは?
【回答】
「日本一たくさんロケットを打ち上げた男」
1940年,三重県生まれ.
宇治山田商工高校卒業.
1958年,東京大学生産技術研究所糸川研究室に技官として就職.
のちにロケット班長.
2000年退職.それまでに打ち上げに立ち会ったロケットは430機以上.
【参考ページ】
『昭和のロケット屋さん』(ロフトブックス編.エクスナレッジ,2007.12.19),p.8
【ぐんじさんぎょう】,2010/06/05 21:00
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▼ 林と糸川の接点については,的川泰宣が以下のように述べている.
――――――
本を読めば分かることばかりを喜ぶ学生の反応に,すっかり講義への情熱を失った糸川は,キ44の試作機がフラッターを起こして空中分解し,非業の死を遂げた親友のテストパイロット林三男へのお詫びの気持ちから,その事故究明に没頭するようになった.
そして林の子息の父親代わりとなって,面倒を見るようになった.
その子息は,後に宇宙科学研究所のロケット・オペレーションを指揮した林紀幸である.
――――――『やんちゃな独創』(的川泰宣著,日刊工業新聞社,2004.5.31),p.74-75
▲
【質問】
星合正治とは?
【回答】
星合正治(ホシアイ・マサハル)は,電気系の東大教授.工学博士.
東京大学生産技術研究所第3代所長(1954-55)
1954年2月,所長当時,糸川英夫の進言を受け入れ,同研究所内にAVSA研究班を結成.
同年,日本放送協会 放送文化賞受賞.
ブラウン管の基礎となる電子管の,日本国内における研究の功績が認められた模様.
1955年,浅野賞受賞.
1959年,日立中央研究所所長就任.
星合3原則を提唱する.
@お手本のある研究はとりあげまい.
Aプロジェクト中心に協力しよう.
Bタイミングよく成果をあげよう.
博士号の学位を持った日立グループと日立造船グループの関係者(在籍者とOB)の集りである日立返仁会の第2代会長(昭和47年〜53年).
また,ラジオ教育研究所の理事なども歴任.
著書:
『真空工学』(オーム社,1936)
『電子とその作用』(共著,オーム社,1936)
『電子管』(オーム社,1937)
『日立製作所中央研究所の歴史と概要「日立評論別冊論文集日立製作所中央研究所創立二十周年記念論文集」』(日立評論社,1962)
『電気工学原論』(共著,コロナ社,1962)
『電気工学汎論』(オーム社,1964)
等など.
また,
『星合正治先生の思い出』(星合正治先生追憶記念会,コロナ社,1988.4.15)
という本が自費出版されている.
富士通名誉会長・山本卓眞は,彼の教え子.
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(朝日新聞社,2003.10.30),p.65
http://library.main.jp/index/jst15280.htm
http://www1.ocn.ne.jp/~equator0/booklist.htm#hoshiai
http://www2.iee.or.jp/ver2/honbu/11-aboutus/data-18/index030.html
http://www.hitachi.co.jp/rd/henjin/outline/installment/index.html(写真引用元)
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2005/0508/myphoto.html
http://www.jaxa.jp/article/interview/sp1/prologue_p1_j.html
http://www.nhk.or.jp/bunken/bunkasho/s-bunka_50_hu.html
http://www.rakuyukai.org/kaiho_backnumber/200/7.htm
http://www.aist.go.jp/ETL/jp/gen-info/history/nenshi/1939-03.html
http://www.tamashin.or.jp/r-shiryo/newarraival/book109.html
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/20 21:00
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【質問】
野村民也とは?
【回答】
電気系の工学者.
1923年,東京生まれ.
先祖は白虎隊につながる会津藩士だという.
1945年,東京帝大卒業.
東京大学大学院修了後、28歳のときに、東京大学生産技術研究所(生研)に助教授として着任.
1954年2月,糸川英夫らと共に,AVSA研究班を結成.
1966-70 ロケットの打上げの実験主任として,「おおすみ」打ち上げなどに従事.
「おおすみ」打ち上げでは、70年2月に成功するまで4回失敗。「悲劇の実験主任」と呼ばれた。
しかし失敗にあっても,終始毅然とした態度だったという.
のち,宇宙研所長.
定年後,富士通顧問・芝浦工業大学教授を経て、宇宙開発委員,
1991年,宇宙開発委員長代理となる.
1996年,宇宙開発政策大綱改訂に当たり,「月を一つの重点にすべし」と主張.これが後の探査機「かぐや」開発の端緒となる.
1999年暮れ,創設されたNPO日本惑星協会(TPSJ)の理事長.
2003年8月,「おおすみ」が大気圏に突入して燃え尽きた際には、4回の失敗について「その中で技術を習得できたことで、その後の科学衛星打ち上げが非常にうまくいった」と,当時を振り返った。
2007.5.31 15:22,呼吸不全のため,東京都新宿区の慶応大病院にて死去.
論文は,
『大気球用測距装置』
『136MHz角度追尾受信装置』
『ドップラ追尾受信装置』
『科学衛星データ受信装置』
『科学衛星トラックキングおよびデータアキジション地上設備』
『科学衛星データ伝送装置』
など.
著書に
『宇宙空間観測30年史』
があるというが未確認.
妻:和子.
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(朝日新聞社,2003.10.30),p.65
http://d.hatena.ne.jp/hayabusafan/20070612/p8
http://www.planetary.or.jp/magazine/YMC070606.txt
http://www.planetary.or.jp/about1_1.html(写真引用元)
http://www.47news.jp/CN/200706/CN2007060901000554.html
http://www.isas.jaxa.jp/publications/hokokuUT/index05.html
http://www.isas.ac.jp/ISASnews/No.217/tokushuu-04.html
http://www.isas.jaxa.jp/ISASnews/No.327/ISASnews327.pdf
http://kadenjohakyu.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-d1df.html
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/25 21:00
を加筆改修
【質問】
森大吉郎とは?
【回答】
航空系の東大教授.
1954年2月,糸川英夫らと共に,AVSA研究班を結成(当時,助教授)
▼ 斎藤成文によれば,森を長とするロケット構造班の総ざらいの検討と改善の努力が,「おおすみ」成功へと繋がったという.
玉木亡き後は,構造関係のみならず,ロケット全般の取り纏め役を務めた.
のち,宇宙科学研究所初代所長.
1981年4月より,宇宙科学研究所初代所長.
1983.11.25,病没.
1983.11.25,胃癌のため死去.▲
論文は,
『ロケットの機体構造試験装置の試作』
『鋼溶接チャンバの開発』
『ミューロケット発射装置』
『S-520ロケット用尾翼の試作』
『S-520 ロケットモータケースの試作』
『上段ロケット用金属モータケースの研究開発』
など.
▼ 斎藤成文によれば,どちらかというと無口で,あまり心中を人に語らず,熟慮の上,断行するというタイプだったという,
また,胆玉の大きい,己に自信を持った研究者だったという.▲
▼ 以下は,そうした森大吉郎に関するエピソード.
--------------------------
林(紀幸) 森大吉郎先生とおっしゃる,宇宙研の初代の所長をやった,構造の大家がいたわけですけど,その先生は図面が来ると,サインした人の名前だけを見るんだそうです.
信頼できる人のサインだと,中身を見ないでそのままハンコを押して返してた.
その代わり,自分が知らない人だと,徹底的に図面を調べる,そういうやり方でやってました.
それでもロケットの成功率は,あの程度だったんだけど(笑).
--------------------------『昭和のロケット屋さん』(ロフトブックス編.エクスナレッジ,2007.12.19),p.71
▲
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(朝日新聞社,2003.10.30),p.65
http://www.isas.jaxa.jp/j/isasnews/backnumber/1984/ISASnews035.pdf
http://www.isas.ac.jp/publications/hokokuUT/index03.html
http://porta.ndl.go.jp/servicedp/openurl?au=%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E3%80%80%E6%B7%B3%E6%AC%A1%E9%83%8E
http://www.jrocket.org/chairman.html
『宇宙開発秘話』(斎藤成文著,三田出版会,1995.8.30),p.303-306
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/24 21:00
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◆◆◆◆◆◆◆糸川英夫
【質問】
糸川英夫とは?
【回答】
日本のロケット開発の父.
1912.7.20,西麻布生まれ.
父親の壮吉は,実業高校校長であり,英夫は次男.
父親の影響により,幼いころからキリスト教会の日曜学校に通い,オルガンなど音楽にも興味を持つ.
リンドバーグの大西洋無着陸横断成功に影響され,第一東京市立中卒業後,旧制東京高校の理科甲類に進学.
1935年,東京大学工学部航空学科卒業後,航空技師として中島飛行機に入社.
九七式戦闘機,隼,鍾馗などの設計に関わり,隼開発では蝶型フラップを考案.
1942年3月,中島飛行機を退社し,千葉県千葉市弥生町に新設された,東京大学第二工学部航空機体工学科助教授兼航空研究所研究員に就任.
戦後,航空機開発はGHQによって禁止されたため,当時通院していた東大病院医師から,脳波診断機を作ってもらえば大いに助かるのだが,という話を聞かされ,東大に音響工学講座を開設し,「ペンレコーダー式の脳波測定器」を開発.
麻酔深度計の設計や,ストラディバリウスの音響解析にもたずさわる.
1948年,同教授.
1952年11月,渡米.図書館の一冊の雑誌から,ロケット航空機開発への情熱を刺激さる.
1953.10.3,経団連主催で講演会を開き,ロケット開発を訴え.
1954年2月,生産技術研究所内に,1975年までに20分で太平洋横断する旅客機の実現を目標とするAVSA研究班を組織.
1955.1.3,毎日新聞に「ロケット旅客機」の記事が載る.
1955.4.12,東京都国分寺市で,初のペンシル・ロケットの水平発射実験.
1956年,カッパロケット打ち上げ.
1967年,東大を退官し組織工学研究所設立.
1976〜1983年,日本BCL連盟会長.
1999.2.21,死去.
2003年,小惑星 25143 が彼の名にちなんでイトカワと命名さる.
2005.11.19,イトカワに,日本の小惑星探査機「はやぶさ」が着陸した.
【参考ページ】
『はやぶさ』(吉田武著,幻冬舎,2006.11.30)
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/07 21:00
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【質問】
朝日新聞の糸川叩きは,どのようなものだったのか?
【回答】
科学部記者・木村繁を中心として,糸川英夫と東大ロケットを批判する記事を,1967年3月から繰り返し掲載するようになったという.
以下,朝日新聞の見出し.
「入り乱れる宇宙開発経費 各省庁で63億円 一元化の声高まる」(1967/3/1)
「経理に疑惑,ロケットの東大宇宙航空研 契約書も作らず発注」(3/9)
「会計検査院決算で注意」(同)
「豪華な知名士招待」(同)
「ロケットは誰のもの,すっきりしない産学協同 研究主体あいまい 疑惑招く金の動き」(3/11)
「予算に伴わぬ組織」(同)
「まるでロケット業者 東大宇宙研」(3/13)
「輸出商社も教授が左右 社党議員,国会で追及へ」(同)
「疑惑を生んだ背景,東大宇宙研」(3/16)
「予算に伴わぬ機構 一部教授の思いのまま」(同)
「政治家と結びつく」(同)
「糸川教授が辞意表明」
「疑問だらけ 日の丸衛星」
「学術会議が指摘 一通も出されぬ報告書」
「米から抗議文 糸川発言」
「金使う以上は慎重に」
「各方面から疑惑にメス 教授会や職組も乗り出す」(以上,3/21)
「再燃か宇宙開発の一元化」
「東大の疑惑≠ェ口火 『宇宙開発庁』の計画も」
「業者までもが2本立て」(以上,3/26)
「ロケット研究体制質す 衆院予算委 納得ゆかぬ経理面」
「会計検査院 東大宇宙研で指摘」
「宇宙開発体制急ぎ一元化を図れ 首相 二階堂長官に指示」
「東大宇宙研 疑惑の解明は不問」
「不満を残す教授会 所長責任追及の声も」(以上,3/28)
「東大ロケット でたらめ,また新事実 余計な予備品買う 完成直後やり直し工事」(3/29)
「宇宙研にインド軍人が留学 平和目的に違反?事情知らず受入れ」
「軍事利用に歯止めを」(以上,4/10)
松浦晋也はこのバッシングの背景に,反糸川勢力の情報リークがあったのではないかと推測している――が,どのような根拠を元にそう推測したのかは明らかにしていない.
(「一切証拠は残っていない」とも記している)
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』第2巻(笹本祐一著,朝日新聞社,2007.10),p.119-121
▼ 上記に関し,
『はやぶさ』(吉田武著,幻冬舎,2006.11.30),p.139-140
にて,朝日新聞の木村繁記者に対する,強い調子の批判文章がありましたので,紹介させていただきます.
------------------------
1965年(昭和40年),朝日新聞の木村繁記者は米国に行き,NASAの施設を見学するとともに,ジェット機の弾道飛行中に生じる無重力状態を体験して記事にした.
そして帰国後は,「本場の宇宙開発」を体験した唯一の新聞記者という立場から,目立った発言をするようになった.
雑誌『科学朝日』において,無誘導ロケットを完全否定し,あれでは人工衛星は上げられないと断言したのも,そのひとつである.
なぜ,教養学部の科学史科を卒業しただけの一記者が,我が国第一級の専門家集団である宇宙研の計画に対して,こうまで断言できるのか,その異様な感覚は全く理解できない.
学部や職種,実際の経験の有無だけで,その発言を訝るものではない.
科学や技術には,芸術同様に,長くその分野で修行しない限り,いかなる天才にも決して身につかない独特の感覚があり,そうした感覚を有する専門家が,さらに集団で議論を交わし,その中で,
「何を採り,何を捨てるか」
を最後の最後まで悩みぬいて,ようやく結論を導くのである.
宇宙開発のようなビッグ・サイエンスの場合,特にその傾向は強い.
それは,まさに科学的裏づけを持った妥協の産物≠ナあり,入試問題の答のような明朗快活なものではないのである.
NASAで何を学んできたのかは知らないが,おそらくはあちらで仕入れた知識が元になっているのであろう.
まさに「虎の衣を借る狐」としか表現しようのない態度である.
当時,「無誘導による人工衛星」などというアイデアは,世界の誰も考えもしなかったものであり,糸川グループ以外の誰に聞いたところで,肯定的な返事が得られないことは明らかであった.
外部からの批評は極めて重要であり,多方面からもっと多彩に,もっと執拗に行われるべきものであるが,それは専門外の者が持つ知的素直さ≠ノ根差したものでなければ,全く意味を持たない.
借り物の知識自慢など,愚の骨頂である.
特に,1967年3月1日から始まった朝日新聞の一連の報道は,明らかに,朝日対宇宙研という団体戦ではなく,木村対糸川という個人の関係に引きずられてのものであった.
しかも,社説を含めて5回にも及んだその内容たるや,経理の杜撰さを指摘するに際して,
「買っていない部品でも買ったとし,ロケットで打ち上げたことにしてしまえば,どこにも証拠は残らないだろう」
といった調子で,
「……らしい」
「……ではないか」
という憶測や仮説の目立った文章が主であったため,他のマスコミは全くこれに追随しなかった.
『記事は某紙の完全な独演で,他のマスコミ各紙・各局はこれを黙殺した』(週刊サンケイ,1967年12月29日号)
というのが,木村独演会の総括であった.
----------------------
まだ記事自体は読んではいませんが,想像以上に酷い内容だった様子です.
2010年04月06日 01:47,消印所沢
▲
▼ 糸川教授へのパッシングは,ISASの内紛説もあるので紹介しておきます.
『NASAを築いた人と技術』(佐藤靖著,東京大学出版会,2007.5),p.201
--ここから
三回目の打上げ失敗の少し前,糸川は東京大学教授の職を辞している.
これは一九六七年三月,朝日新聞がISASの会計処理のずさんさを非難する一連の記事を掲載し,糸川らの責任を追求したためである.
このスキャンダルの背後には,ISASの内紛があったとする見方もある.
糸川らが生産技術研究所からISASに移ってきて以来,彼らと旧航空研究所出身の教授らとの間には,つねに確執があったとされる.
航空研究所には,戦前から脈々と受け継がれてきた基礎研究重視の伝統があった.
その伝統の中を生きてきた教授らにとっては,プロジェクト指向の新しい技術開発に取り組んでいる糸川らは,新入りでありながら,法外な予算と不相応な政治力を手にしている存在であった.
彼ら航空研究所出身の教授が,朝日新聞と組んで,新入りに教訓を与えてやろうとしたようだ,という憶測もあるが,実際のところは明らかになっていない.
--ここまで
ちなみにこの「航空研究所出身の教授ら」は,後にNALの設立メンバーとなり,ISASから分離したらしいです.
2010年03月27日 13:30,kz78
▲
▼ 『宇宙へのパスポート』第2巻にも,東大内での反糸川感情について,以下のように書かれていますね.
---------------------------
糸川は,ロケットのために必要とあれば,それがどんな人であれ会いにいって説明したし,たとえ東大教授らしからぬ振る舞いと非難されることであっても臆せずに行った.
年末の次年度予算編成に追われる大蔵省に,自ら焼き鳥を下げて陣中見舞いの差し入れをしたことすらある.
IGY(国際地球観測年)終了後,一時は半額にまで落ち込んだロケット研究の予算は,政界官界財界を横断する彼の活動によって,また増加していった.
その一方で,東大の中でも外でも,糸川への反感が少しずつ育ちつつあった.
派手な発言と行動への嫌悪感,政治家と話をつけて多額の予算を引っ張ってくることへの反感,大学は研究の場でありロケット開発のような技術開発に手を出すべきでないという反対意見――加えて糸川の,人を人とも思わないようにとれる態度が,周囲に感情的な鬱積をも作り出していった.
---------------------------p.74
また,イデオロギー的な反ロケット感情もあった模様.
同書より.
-------------------------------
東京大学の職員組合は,糸川の研究室に押しかけ,
「かつて軍用機を作った糸川先生は,戦後,医療機器で人の命を救う研究を志したのではなかったのか.
そのあなたが人を殺す兵器の研究に戻るのか」
と詰問した.
そんなことを気にする糸川ではない.
さっさと雲隠れして,組合の追及をやり過ごした.
---------------------------p.65-66
上記引用文章はロケット研究スタート直後のエピソードですが,その場限りで組合側の反ロケット感情が納まったとは,とうてい思えません.
2010年03月28日 16:14,消印所沢
▲
▼ 余談かつヨタ話で恐縮なのですが...
>朝日新聞(木村繁記者)の反糸川キャンペーン
は,糸川先生と木村記者が,この当時,銀座のママを取り合っていたせいでは?,という話をよくお聞きしますね.
まぁ,両名とも鬼籍には入られていますので,真相は藪に中ですが,文藝春秋で小説にもなったとか.
このことに言及したページのアドレスをはっておきます.
http://homepage3.nifty.com/time-trek/else-net/topics-06-02-21.html
http://www.asahi-net.or.jp/~FT1T-OCAI/jgk/Power3rd/Extra/itokawa.html
2010年03月20日 01:27,ふくすけ
以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分
本サイトとしては,真偽不明と言うしかない.▲
【質問】
1967年3月,なぜ糸川英夫(右写真)は東大宇宙航空研究所を辞任したのか?
【回答】
松浦晋也は,朝日新聞からのバッシングにより,「素早い判断力が,このときは捨て鉢に働いたのではないか」と推測している.
朝日の批判の核心は,ロケット研究の会計処理が不明瞭になっているということだったが,確かに航宇研の会計は不明瞭になっていたという.
それは,ロケットの急速な拡大に応じて予算も増えていたのに,事務処理の手順も人員も追いついていなかったためだとされる.
また,糸川自身も出納は気にしない性格であって,よく言えば鷹揚,悪く言えばルーズだったためで,もし糸川の傍らに経理のスペシャリストがいれば,このような問題は起こらなかっただろうと松浦は述べている.
その後,二度と彼はロケット研究にはかかわらなかったという……
なお,「アメリカからの圧力」説もネットでは散見されるが,根拠不明.
【参考ページ】
『宇宙へのパスポート』2(笹本祐一著,朝日新聞社,2007.10),p.119-120
http://www.as-1.co.jp/home/bewell/pdf/vol16.pdf
http://heliosphere.blog33.fc2.com/blog-entry-1248.html
http://www.movie3mai.net/l1-Itokawa.html(写真引用元)
【ぐんじさんぎょう】,2010/03/23 22:02
を加筆改修
▼ ロケット開発関係者の一人である斎藤成文は,この件について以下のように述べている.
――――――
糸川先生を現代ロケット生みの親,フォン・ブラウン博士と比較する人がいる.
フォン・ブラウン博士も大変個性の強いワンマン的性格で,論敵も多数いたとのことである.
日本国際賞の宇宙分野で受賞者を選定するために読破したから,アポロ計画においてフォン・ブラウン博士がサブシステムの担当者として優れた成果を収めたのは,当時のNASAのウェッブ長官とドライデン首席副長官がいたことによると知ることができた.
米国が国を挙げて取り組んだアポロ計画には,フォン・ブラウン博士を指揮下に置く,更なる偉大な指導者がいたのである.
我が国では残念ながら,糸川先生をカバーする人がいなかったことが,悲劇の元であった.
L(ラムダ)-4S型ロケットが2度にわたって失敗し,世上の批判を受けて,他に類を見ないロケット開発技術者・糸川英夫教授を大学から失ってしまった.
――――――『宇宙開発秘話』(斎藤成文著,三田出版会,1995.8.30),p.298-299
▲
▼ 『昭和のロケット屋さん』にも,辞任した理由について,ヒントを与えてくれそうな話が掲載されている.
以下引用.
----------------------------
笹本 現場での糸川先生は,どういう人でした?
林 そうですね,糸川先生は「10年で仕事を変える」ということを,ずっと言っ
てきた方です.
(略)
林 それはね,たまたまそうなったんですよ.
先生は昭和10年に東京大学出ましてね.
それで昭和20年の終戦まで,飛行機やってました.
その後の10年間は,脳波と音響工学をやってたんです.
そして昭和30年ごろからロケットを始めてるんです.
ロケットを一番長いことやってたんですね.
昭和42年(1967年)までですから,12年やっていた.
で,ちょうどたまたまそのころにハタと気がついたんじゃないですか?
「10年で仕事を変えるといいぞ」
っていうこと.
はじめから言ってたわけじゃなくて,後から気がついて言い出したことだろうと思うんですよ.
垣見 昭和42年に糸川先生が,朝日新聞にバッシングされて,東大を辞めざるをえなくなって,それで組織工学研究所というのを作ったわけですね.
それがちょうど10年目ぐらいなんですよ.
組織工学研究所でいろんなことを新しくやるときに,セールスポイントとして人生10年説っていうことを唱えだしたんです.
林 糸川先生が10年ごとに人生の区切りを迎えたっていうのは,やっぱり偶然だと私も思います.
たまたまちょうど10ねんずつになってる.
自分が大学卒業してから10年で終戦になるなんて計算,とてもできるとは考えられないでしょ.
でも,そこに気がつくところが凡人じゃないですね.
たぶんたまたまだろうけど,それに気づいてそれに乗っちゃうところが,また糸川先生のすごいとこだと思うんです.
垣見 そういうわけで,歴史は後で作られてるんですよ.
(場内笑)
垣見 それをいかにも本当らしく思ってる人もいるわけですけどね.
林 ですからたぶんですね,この昭和42年の前の40年ころには,「俺はロケットはもう終わってもいい」と思ってたんではないかと思いますね.
そういう意味からすると.
確かに大変な人でした.
天才と呼べる人は,あの人を除いてはいないとさえ思います.
すごくシャイな方で,照れ屋ではありましたが,人間的な方であったということを付け加えておきます.
あさり ただ,そのシャイな性格ゆえに,糸川先生は誤解されることも多かったような.
宇宙研の中でも,同じエピソードでも評価が違う人がいっぱいいるんで.
林 ええ,それは確かにそうだと思います.
特に誤解される部分ってのはあると思いますね.
糸川先生がおやめに成ったのは昭和42年の3月20日ですが,その2ヶ月くらい前にですね,先生が糸川研究室の人間を全員集めた.
「皆さん,私は宇宙研の所長をやります.
糸川研究室の仕事はもっと大変になりますが,覚悟をしておいてください」
と言われたんです.
それからまもなく辞めちゃったわけで,その間に何が起こったか.
「糸川を所長にしたらこれは大変だ」
と思った人が,何人かいたと思います.
それで足を引っ張り出した.
そういうことと,それともう一つは,宇宙開発事業団,その当時は宇宙開発推進本部っていったんですが,そのときの連中が,
「これ以上,糸川にイニシアチブを取らせていては,われわれの時代は来ない」
と,そういうふうに踏んだのではないかと思います.
まあ,それが全ての原因ではないと思いますが.
(宇宙開発事業団から発注を受ける)三菱重工の画策ではなかったのだろうかという話もございます.
松浦 「三菱の陰謀」という説を採用して,梶山季之が『作戦−−青』★という小説を書いていますね.
★小説雑「オール読物」1967年5月号,つまり糸川辞任直後に発表された短編小説.ロケット博士として有名な「宇宙技研」の「藤原三郎教授」に,新聞三大紙の一つである「東洋新聞」が攻撃を開始し,やがて教授は辞任する.
しかしそれは,藤原教授の固体ロケットが上手くいっている一方で,自分たちの液体ロケットは失敗が続いている「技術開発庁」と「太平洋重工業」の陰謀だった−−というストーリー.
ラストでは,太平洋重工業も,アメリカを思わせる「某外国のメーカー」に踊らされているだけだったというオチがつく.
梶山季之は小説家になる前,「週刊新潮」「週刊文春」などが創刊された週刊誌ジャーナリズムの草創期に,数々のスクープをものにした,凄腕のルポライターでもあった.
61 2010年05月28日 22:09 消印所沢 垣見 実は私,糸川さんから
「東大の教授で帰って来い」
と言われたことがあるんですよ.
でも断ったんです.
私は本郷の第1工学部出身で,私の恩師も第1工学部.
第1工学部は,糸川さんたちの千葉の第2工学部に対してやきもちがあるんですよ.
第2工学部が予算をたくさんとって,あれだけのことをやっているとね.
相当な額,一つの大学全部の予算くらい持ってっちゃいますから.
「あんなロケットのために,自分たちのところに予算が回ってこない.
これは糸川が悪いんだ」
と.
こういうやきもち焼くんですよ,東大の教授ってのは本当にもうしょうがない.
それでね,こういう話があるんですっていうことを恩師に言いにいったんです.
そしたら恩師が
「ああいいよ,行け.
その代わり,お前は私のところからは破門だ」
と.
そのほうが辛いんです,私には.
だから宇宙研に行くのをやめた.
林 これは,なぜ糸川英夫先生が宇宙研を去って,ロケットから手を引かなければならなかったか,というところの根幹にある問題でもあってね.
人間関係というのはいかに難しいか,そういうことを物語っていると思います.
糸川先生のやり方も,ちょっとアレだったのかもしれませんけど.
松浦 いや,「ちょっと」じゃなくて「だいぶ」でしょう(笑).
----------------------------『昭和のロケット屋さん』(ロフトブックス編.エクスナレッジ,2007.12.19),p.158-161
2010年05月28日 22:02 消印所沢
▲
▼ ちなみに以下は,『はやぶさ』(吉田武著,幻冬舎,2006.11.30),p.142より.糸川退官時の模様.
---------------------------------
研究所のスタッフには,
「何を聞かれても,すべては糸川が悪いのです,と答えなさい」
と言い残して糸川は去った.
糸川は,広く自らの真意を伝えるため,当日夜のNHKの生放送に出演して,辞任に至る経緯を語った.
ラムダの打ち上げも近い,関係者に静かな環境で実験に取り組んでもらいたい,という糸川の想いが全国に放送された.
-----------------------------------
2010年04月10日 22:08,消印所沢
以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
アメリカは糸川博士を忌避していた,というのは本当なのか?
【回答】
中野不二男によれば,NASAのウェッブ長官は糸川について,「意図的にアメリカとの協力をゆがめた背景がある」と報告しているという.
糸川らはロケットの自主開発を指向しており,これは「技術協力」という形をとって,日本の宇宙ロケット開発をコントロールしたいアメリカ国務省にとっては,阻害要因になったという.
(技術を日本に提供することに関しては,NASAや米国防総省もまた,消極的だったが)
なぜコントロールしたがったのかといえば,
「日本の固体ロケットの能力を持ってすれば,今後3年以内に独自で核弾頭ミサイルを開発できる」(ACDA
Arms Cotrol and Disarmament Agency の宇宙評議会ワーキング・グループ・レポート「宇宙開発における対日協力・軍備管理の検討
Space Cooperation with Japan ・Arms Control
Consideration)
と警戒していたからだと,中野は述べている.
国務省にも科学音痴がいたようで……
【参考ページ】
『日本の宇宙開発』(中野不二男著,文春新書,1999.7.20),p.44-62
【ぐんじさんぎょう】,2010/03/26 21:00
を加筆改修
『日本の宇宙戦略』(青木節子著,慶應義塾大学出版会,2006.11)にて関連しそうな記述があります.
糸川氏についてでは無いですが.
p.535.
--ここから
当時,米国の外交政策担当者たちは,アジア地域の安全保障に関しては,二つの懸念があったとされる.
一つは,「両弾一星」(原爆,水爆,衛星)の保有を悲願とする中国が,一九六四年10月に核実験を行ったことに起因して,日本が核武装を考えるのではないか,という懸念であり,もう一つは近い将来,東大宇宙航空研究所のMー3ロケットが日本自身の転用により,中距離弾道ミサイルにされるのではないか,それに付随して周辺諸国に輸出され,弾道ミサイルの拡散が進むのではないかという懸念である.
この二つの懸念に対処するために,米国の政策担当者は,次のような方法を検討していたという.
前者に対しては,米国は,日本が自前のロケットで衛星打上げに成功するなど,宇宙先進国の一国となったことが証明できれば,中国から受けた国家の矜持に対する衝撃を,和らげることができるのではないかと推測し,そのロケットを持たせるために協力してもよい,と考えるようになっていた.
原爆保有よりもむしろ宇宙の進んだ平和利用の実現により,国家の威信が高まる,というふうに日本は考えるのではないか,また,他のアジア諸国も日中の科学技術力について誤った認識を持たないのではないかと考えたという.
米国にとっては,西側の一員としての日本が,中国や他のアジア諸国に対して国家威信を効果的に示す位置に立つことが好ましかったのである.
また,第二の懸念の芽をつむために,ロケット技術提供の引換として,同時に米国水準の輸出管理法の遵守条件を課して,日本が弾道ミサイルを保持したり,ミサイル供給国となったりする可能性を断ち切ろうとした.
これが当時の米国の,対日軍備管理政策のあらましであったとされることがある.
--ここまで
この本は,「国際宇宙法」というタイトルにすべきだったんじゃないかなぁと思います.
日本のことなんて,半分も書いてない.
2010年03月27日 13:02,kz78
また,『NASAを築いた人と技術』(佐藤靖著,東京大学出版会,2007.5),p.202には……
--ここから
米国技術への依存を避けるISASの姿勢は一貫していた.
ISASは,海外の機関とのデータ交換や共同プロジェクトへの参加といった形での国際協力は行ったが,自らの研究の自律性を損ないかねない形で技術援助を受けることは,あくまで拒んだ.
このISASの固い姿勢は,米国側から見ると「日本の非協力政策」と映るほどであった.
NASA長官のジェームス・ウェッブは,
「日本は米国の関与なしで,独自の路線を歩む決断を,明確な意識を持って下した」
との見方を示し,米国との協力に対する「まったく計算ずくで凝り固まった反対」を主導する人物として,糸川を責めた.
--ここまで
ただし,ISASの独自技術指向は,糸川氏の去った後も,ISASの組織文化として根付きつづけることになりますが.
2010年03月27日 13:30,kz78
以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分
>今後3年以内に,独自で核弾頭ミサイルを開発できる
(引用元:朝目新聞)
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