c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆文化保護
<◆◆アイヌFAQ
<◆日本 目次
<東亜FAQ目次
「その1」は発見できず
「Togetter」◆(2011/12/11)「マルマルモリモリはアイヌ語」というデマと,アイヌ語の真実
「泳ぐやる夫シアター」◆(2011/03/01) やる夫で学ぶアイヌ文化
「ここギコ!」◆(2010/10/09)アイヌ語は将来公用語にする事を前提とした施策を打つべき
「ストパン」■(2009/02/22)[言語]UNESCO,日本には8つの危機的言語があると指摘
浜田隆史/オタルナイ・レコードのホームページ
アイヌ語ページあり
「北海道新聞」◆(2013/03/29) アイヌ民族の遺骨 研究目的で墓地から発掘して数百体分が混在 収蔵数は計1014体 北海道大学,ずさん管理認める
(キャッシュ)
【質問】
アイヌとキリスト教の関係について教えられたし.
【回答】
アイヌとキリスト教の関係ですが,まず,伝道を行ったのが北の隣国であるロシアです.
彼の国は,修道士をカムチャツカ経由で樺太や蝦夷地に派遣し,未だ蠣崎家の勢力が及んでいない頃に,これらの地で,アイヌを教化していきました.
また,カソリックでは,アンジェリスと言う宣教師が,1618年に松前家の千軒岳にいる和人切支丹を訪問する際,蝦夷渡航の目的が蝦夷住民の霊魂救済を目的としたと報告書に記載しています.
その後,一旦布教は途絶えますが,1859年の開国後,1863年にはローマ・カトリックのメルリー神父と,ギリシャ正教のマアホフ司祭が函館に到着し,布教活動を開始します.
プロテスタントが訪れたのはそれより遅く,1874年の聖公会(CMS)海外伝道協会のデニング司祭が函館に来てからです.
しかし,カトリックやギリシャ正教が和人中心の布教だったのに対し,CMSはアイヌ伝道を主眼に据えていました.
元々,様々なキリスト教宗派がアイヌ伝道を試みていますが,和人がアイヌに伝道をするのには問題がありました.
1つ目は言葉の問題,
2つ目は明治期になると北海道に移住する和人が増えて,彼等に対する伝道に精一杯であり,とてもアイヌにまで手が回らなかったこと,
3つめが和人に対する不信感です.
デニングの後を継いだのが,1879年に北海道に来たCMS宣教師のバチェラーです.
彼は,1879年以来,ずっと北海道に住み続け,1941年に太平洋戦争勃発によって日本を去るまで,アイヌに対する伝道を続けて,「アイヌの父」と慕われました.
何故,バチェラーが慕われたのかと言えば,
1つ目に,アイヌに寄り添い,苦しみ,日本人からの虐げを共にした点,
2つめに,アイヌの言語と文化に馴染み,彼等に判る方法で伝道した点,
3つめが,現地のクリスチャン・リーダーを育てた点,
4つめが,アイヌの人々を外の世界に知らせ,その全体を記録した点,
5つめに,聖書翻訳と識字教育に努めた点です.
識字教育と言うのは,文字を持たない民族の為に,言語学的調査と研究を行い,表記法を考案し,読み書きを教えること,また,近代宣教論の1つである文化脈化,即ち,その民族の文化を壊さず,なおかつ聖書の教えも曲げず,両者の接点を深めようというもの,そしてその両者の方法の実践を,期せずしてバチェラーは行っています.
これらの具体化策として,札幌にバチラー学園,そして道内12カ所にアイヌ学校が建設されていきます.
しかしながら,日本人として民族の同質的発展を重視する明治政府によって弾圧を受け,アイヌ語教育が禁止されて閉鎖を余儀なくされました.
ただ,バチェラーの評価については,現在のところ,余り芳しいものではありません.
その主な理由として,
1つめは,バチェラーが天皇を過度に崇敬したこと,
2つめには,1904年にセントルイスの万国博覧会の「学術人類館」に,9名のアイヌを送って見世物にしたと言うもの,
3つめが,北海道沙流郡二風谷で,スコットランド人の医師マンローがイヨマンテ(熊送り)を撮影して,これを世界に紹介しようとした際に,これを怒り,「野蛮な儀式」を世界に知らしめるのに反対したことです.
とは言え,天皇への過度の崇敬はともかく,2つめに関してはバチェラーはアイヌ救済を北海道庁に訴え,その関連でアイヌの窮状を世界に知らしめようとした行動でしたし,3つめに関しては,19世紀末から20世紀にかけての時代背景からすれば,これを野蛮な儀式と切り捨ててしまうのも,無理はないと言うべきものです.
まぁ,現在でこそ様々な批判もありますから,まぁ一概には言えません.
さて,当時はCMSのバックアップによって,バチェラーだけでなく,様々な女性宣教師が各地でアイヌの伝道に従事しました.
その1人である,E.M.ブライアンは平取で,アイヌの女性伝道師と共に,アイヌ女性に対する伝道,児童伝道,医療活動を行っています.
また,和人達の中でも,彼等に同情的な人々もいました.
横浜組合教会の2代目牧師である小矢部全一郎は,1900年に「北海道旧土人救育会」を設立し,私立虻田実業補習学校を設立し,アイヌ教育に当たりました.
因みに,この「北海道旧土人救育会」の
会頭は二條基弘侯爵,
幹事は小矢部全一郎,加藤政之助,坪井正五郎等であり,
評議員には,板垣退助,二條基弘,大隈重信,片岡健吉,辻新二,近衛篤麿
と言った蒼々たる政治家や元勲が連なっています.
この学園の学園長には,和人クリスチャンである吉田巌が就任しています.
また,三浦政治と言う人は,利尻郡沓形村美也古呂小学校校長を務めていた1917年に,内村鑑三や札幌独立教会員の宮部金吾北大教授等によって洗礼を受け,アイヌ子弟の教育環境改善の為に,春採コタンでアイヌ連帯を叫ぶなどして,その生涯をアイヌの為に捧げています.
更に,この中から育ってきたアイヌのクリスチャン・リーダーは,アイヌ文化に様々な足跡を残しました.
その中でも特に,アイヌ出身で正式な司祭となった向井山雄を始め,伝道者として活躍した金成太郎,清川戌七,辺泥五郎,江賀寅三等もそうですし,女性伝道師としては,『アイヌ神謡集』で有名な知里幸恵の叔母金成マツ,同じく母の金成ナミ,更にバチェラーの養女となった歌人バチェラー八重子が知られています.
向井山雄は,地元伊達町議会議員,漁業組合役員,北海道アイヌ協会(後のウタリ協会)の初代理事長を務めましたが,この設立総会には全道から700名のアイヌ代表が集まり,役員名簿にはアイヌ・クリスチャンが多かったそうです.
その向井山雄の実姉八重子が,バチェラーの養女となった歌人バチェラー八重子です.
また,知里幸恵は,バチェラーが教えたアイヌ語を表記するローマ字に自らの表記法を工夫し(余談ながら,バチェラーの考えたアイヌ語表記法は,西洋文化の押しつけで,自分たちの言語を破壊すると,知里幸恵の弟で知里真志保北大教授等,言語学者から酷評されています.),金田一京助の下でアイヌ民族の口承叙事詩ユカラを,1922年に世界初のアイヌ文学として著しています.
知里幸恵死去後は,金成マツがユカラ伝承者として大学ノート約160冊に渉るユカラを残しました.
このほか,バチェラーは医療や福祉などのアイヌ救済事業を行い,その下で育った人々が,バチェラーの遺志を継いで,アイヌの地位向上に務めています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/02 22:37
さて,アイヌの信仰話の続き.
1894年当時,アイヌ・クリスチャンは,胆振,日高の11ヵ村に合わせて2,240名程度で,信徒数は最高潮の時期で約3,000人ほどに膨れあがっていました.
これは,当時のアイヌ総人口の凡そ17%に達していますが,今日のアイヌ・クリスチャンの総数は全く不明になっています.
その大きな理由としては3つ挙げられます.
1つは第一次大戦後のリセッションの中で,CMSの財政が危機に陥り,アイヌ伝道者へのサポートを打ち切った事です.
バチェラーは,Ainu Missionary Society(AMS)を発足させ,本国に資金の必要を訴えましたが,その願いは叶わず,アイヌ伝道者は自給を強いられ,江賀寅三は司法書士と行政書士の免許を取得して,代書業を静内で営業し,伝道牧会に励んでいます.
和人である森山諭牧師は,そんな彼等の為,「アイヌ伝道内地宣教会」を立ち上げて支援していますが,このほか聖公会の一部和人宣教師は北海道に渡り,その伝道師の一人である芥川清五郎は白老を中心に活躍し,その墓は彼を慕うアイヌによって建立されましたし,医師の太田博愛は平取で開業して,後に道議会議員となって,アイヌの福祉向上に努めました.
その後,アイヌ伝道は日本人によって引き継がれましたが,一部の人々の働きがあっても,日本の同化政策強化の進展で,和人伝道師の中にはアイヌの言葉を使わせない者もいるなど,和人とアイヌの蟠りは深く,未だに進展してはいません.
2つめの理由は,福音がアイヌの文化脈や世界観に十分に浸透できなかったことが挙げられます.
これは,教化と言う側面が強すぎ,彼等の世界観にまで十分噛み砕けなかった事が考えられます.
3つめの理由は,同化政策が教化された結果,和人との違いが薄れていたり,アイヌの人々も差別視されるのを避ける為に進んでアイヌであることを明らかにしない事,更に,各地域のキリスト教会員名簿にも民族名を記録していない事などが挙げられます.
従って現在,アイヌのクリスチャンの数と言うのは,文字通り「神のみぞ知る」と言う世界になっています.
数十年前までは,平取,新冠,有珠,白老,鵡川,白人,幌別,室蘭など各地に聖公会アイヌ教会がありました.
しかし,そこでアイヌの信徒数を調べようとしても,「この教会に,アイヌ・クリスチャンはいません」と「白い嘘」をつかれてしまうそうです.
そうなった理由の最大は,同化政策とそれに伴う差別であり,それは未だに解消されて居らず,北海道庁の調査では,アイヌの人々が,
「物心ついた時から,何らかの差別を受けたことがある」
と言う割合は16.8%あるそうです.
差別を受けた場面は,職場が39.1%,次いで学校が21.7%等となっており,高校進学率は道民平均の98.5%に対して93.5%,大学進学率も38.5%に対して17.4%と格差が依然としてあります.
余談ですが,アイヌ語の賛美歌に「エスカネエンオマプ」と言うのがあります.
日本語で書くと,「主,我を愛す」であり,これは世界中で歌われている賛美歌ですが,これのアイヌ語訳は,こうなっています.
「エスカネエンオマプ,カンピオツタアイヌ,エスオキラシタネプ,クシトマシヨモキ」,
日本語訳すると,
「主われを愛す,聖書の中に記されてある,イエスは全能のお方ゆえ,私は何も恐れない」
となります.
ところで,本土の和人クリスチャンや福音派教会にとっては,まだアイヌその他,日本の民族問題に対する理解が足りないようです.
本来,福音派教会の教えとは,全人的(Holistic)な救いの理解と実践が必要なはずで,1974年の「ローザンヌ誓約」に於いて謳われている「キリスト者の社会的責任」,そして,2000年の日本伝道会議でも「沖縄宣言」の中で「和解の福音を共に生きる」事を掲げていますが,北海道を除くと未だその動きが鈍いと言われます.
又,その福音と文化の理解と実践と言う面から言えば,アイヌのアイデンティティとはその文化であり,アイヌの宗教とは切り離せません.
アイヌの伝統文化には,北方圏で自然界と共生する知恵として,先人達が培い伝えてきた教えがあります.
これを単に土俗宗教と捕えるのではなく,神の一般恩恵と捕えなければならない訳です.
即ち,宗教と習俗は切り離して考えなければならないのです.
元々,福音派と言うかキリスト教自体は海外の宗教ですから,この考えは和人の世界に於いても,通用する訳ですし,発展途上国への布教と言う面でも通用する考え方ですが….
ふと考えてみるに,こうした伝道のあり方と言うのを軍の方も学ばないと,結局は異世界での統治の失敗に繋がるのではないでしょうかね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/03 23:14
【質問】
帝政ロシア時代の,アイヌへのハリストス正教布教活動について教えられたし.
【回答】
ロシアと言えば,宗教はハリストス正教です.
しかし東進の時に,この宗教を広めた担い手は宣教師では無く,狩猟家やコサックでした.
この点,ポルトガルやスペインのように,伴天連が教えを広める役割を果たしたのとは趣を異にします.
彼らは専門的な用語を駆使せず,解りやすい言葉でハリストス正教の教えを伝えるようにしたので,先住民をハリストス正教に帰依させることは然程困難ではありませんでした.
また,カムチャツカの先住民に対しては,ハリストス正教を理解させ,その信者を増やす為にロシア語の教育が開始されました.
こうして,コサックの児童の他,カムチャダールの子供達も無料でロシア語の教育を受けることが出来ました.
更に1731年以降は,政府がカムチャツカと千島列島の先住民に対する新政策を展開します.
これは,ハリストス正教に改宗したカムチャダールや千島アイヌは,10年に亘ってヤサークの取立てを免除すると言うものでした.
その結果,ロシア人はハリストス正教をカムチャツカから千島列島の第3島シリンキ島まで布教することが出来ました.
当時,千島アイヌの宗教は多神教であり,自然崇拝を行っていました.
千島アイヌが信仰した神は,ポーワンカムイと言う太陽神,ワッカカムイと言う水神,チラマカムイと言う火の神,カンナンカムイと言う雷神,キンタカムイと呼ばれる狐の神などであり,これらの神様を祀る偶像として,幣の古い形である「削り掛け」,即ちイナウを祀っていました.
千島アイヌはイナウを崇拝し,この前に供え物をすることで神様を鎮めようとしました.
しかしロシア人にとって,千島アイヌの固有宗教とハリストス正教の両立は,理解の外にありました.
千島列島に渡航したロシア人達は,政府の方針に従って,千島アイヌの固有宗教の根絶に力を注ぎました.
その最初の試みは1734年です.
シベリア当局の指示に従って,ノヴォグラブリェンニィが第9島のチリンコタン島にまで南下し,千島アイヌと接触した際,ヤサークを取り立てた他に,彼らに洗礼を施しました.
ただ,当時洗礼を受けた千島アイヌは,パラムシル島の僅か数人に過ぎませんでした.
しかし,1747年にペトロパブロフスク教会のホトゥンツェフスキー掌院から,千島列島に派遣されたイオサフ修道司祭は,シムシュ島とパラムシル島に居住していた250名の内,56名に洗礼をして,ロシア名を与えることに成功しました.
その後,カムチャツカから毎年司祭や宣教師が訪問した結果,ハリストス正教に改宗する千島アイヌの数が次第に多くなっていきます.
1756年には遂に商人のロムが,シムシュ島のマイロップ湾に聖ニコライ教会を建設し,1800年までに男77名,子供87名の164名の千島アイヌ全員に洗礼を施しました.
この164名は,ロシア人に「新たに洗礼を受けた者」と呼ばれています.
因みに,千島列島に於けるアイヌの定住地は,シムシュ島,パラムシル島,ラショワ島でしたが,その活動圏はカムチャツカ南岸から中部千島にまで広がり,集落の全員が遊牧民の如く,カムチャツカや南千島に出稼ぎをし,島を移動しながら,出発後数年して元の場所に戻るという生活をすることも珍しくありませんでした.
その為,宣教師達も絶えず島から島へと移動しなければなりませんでしたが,1800年までには彼らの布教活動は,主に第14島であるウシシル島に居住した千島アイヌが中心となっていました.
しかし,1801年からカムチャツカ司祭は南千島に居住した蝦夷アイヌの間にも,ロシアのハリストス正教を広めることを試みました.
この為,カムチャツカ司祭は蝦夷アイヌをロシア正教に改宗させる為に,ラショワ島の千島アイヌ数名を択捉島に派遣しました.
彼らには,銅版画及び祈祷書を持たせ,ロシアの神様の話をし,十字架を首に掛けたら幸せになり,病気にならず,長生きすると言う事を蝦夷アイヌに説得するようにしたのです.
一方でハリストス正教の影響力を強める為に,千島アイヌをハリストス正教に帰依させると共にロシア語の教育にも力を注ぎました.
良く,ロシア人は文盲で云々という話がありますが,意外にも一種の植民地であったシベリアの先住民族に対しては,日本の寺子屋並の教育を施していたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/25 23:37
青文字:加筆改修部分
さて,千島アイヌへの教育の話ですが,1749年,カムチャツカ掌院によって北千島に派遣されたコサックのシェリンは,シムシュ島に学校を設立し,千島アイヌの大人にはロシア正教の教義を,子供にはロシア語の読み書きを教えています.
1752年にはシェリンの職は同じコサックのペレジュヌィに継承され,1755年にはロシア語教育担当としてコサックのロジュノフが任命されました.
ロジュノフが島を去ると,同校で教育を受けた千島アイヌが自ら教鞭を執るようになり,1756年,シムシュ島の学校は聖ニコライ教会に移され,1785年まで存続していました.
この学校では絶えずシムシュ島とパラムシル島の子供15名程がロシア語の教育を受けていました.
この様にロシア人が講じた対策の結果,千島アイヌはロシア語の聖書を読み,ロシア語の聖歌を詠むようになります.
しかしながら,宗教においては未だにハリストス正教の教えを理解できず,ハリストス正教が齎されて1世紀近く経っても,民族固有の宗教に執着していました.
但し,ロシア人の前ではハリストス正教の信者を装い,首に十字架を掛け,小さい聖像を革袋に入れたまま持ち,イコンの前で十字を切るような事をしていました.
こうして,ロシア人の前ではハリストス正教に帰依しているようなふりをしていましたが,ロシア人が島を去ると,彼らは十字架やイコンを放置したり,子供達に玩具として与えたりしてしまっていました.
それでも,時が経つにつれて,彼ら千島アイヌはイエスを自分が崇拝する『神々』の一つとして受入れる様になり,カムイ信仰者でもハリストス正教徒になっていきます.
1830年にシムシュ島とパラムシル島を訪れたインノケンティ師は,次のように報告しています.
――――――
島民は殊に信仰篤く,会堂(祈祷所)に参拝して欠席すること無く,また良く家業に励んでいる.
彼らは朝夕の祈祷,スポタ(土曜日)・日曜日・大祭の日の祈祷は欠かしたことが無い.
大祭の初週及び終週には魚油を使用しないで,只海藻或いは野菜のみを食べて精進し,仕事に出る時は必ず祝福を受け,また夏季は毎朝夕1箇所に集まって祝福を受けた.
大祭日には雪と雪との中間の凹所に布を張って,雪の上で潔白なツェレラ(千島に産する草)や柏の枝を布いて神礼を執行した.
――――――
この様に,千島アイヌは積極的に礼拝に参加する他,シムシュ島のマイロップ湾に新しく教会堂を建設する為の毛皮の寄付を行いました.
この毛皮は1837〜38年射掛けて,オホーツク市で合計4,135ルーブル55コペイカの金額で販売され,この金額で教会堂の聖像画などが購入されました.
教会堂も1840年に,ノヴォ・アルハンゲルスクから送られた木材で建設されました.
新しい教会堂の聖別は,アトカ教区の司祭ニェツヴェトフによって行われ,この教会では,千島アイヌの結婚式やお葬式の場となりました.
因みに,千島アイヌがロシア人と接触する前は一夫多妻制を敷いていましたが,ロシア人にはこれがキリスト教と対立すると見做されて禁止されました.
この禁止を受入れた千島アイヌは,以後,ハリストス正教の教えに従って一夫一婦制を取入れ,結婚式もロシア風に挙げるようになりました.
また,葬儀においてもハリストス正教の影響が出ています.
改宗前は,死んだ人をキナという名の筵に巻き,埋葬して,死体が埋められた所に墓標を立ててイナウを挿しました.
そして,死者を浅く埋めて二度とその場所を訪れず,又死者について語ることはありませんでした.
更に死者の家は見捨てられ,再び中に入ることがありませんでした.
しかし,ロシア正教に改宗した後は,葬儀は司祭によってロシア風に行われるようになります.
つまり死体を棺に納め,正教会で通夜を行い,通夜の晩には信者が交代で夜通し聖詠経を読み上げ,お祈りをします.
翌日,棺は墓地に埋葬し,墓には十字架を立てて墓参りも習慣となって行きました.
こうして,ロシア司祭は千島アイヌの生活にとって,欠かせない存在になります.
この為,シムシュ島に建設した教会堂に常任の司祭を派遣してくれるように,当時千島列島を支配していた露米会社当局に依頼しました.
その際,彼らは司祭の扶養の為毎年600ルーブルの毛皮を寄付することを約束しましたが,司祭を定住させる為には住居,燃料補給,仕事に見合った給料が必要なのに,それだけの費用を賄うだけの毛皮を寄付できる千島アイヌが少なかったので,その依頼は拒否されました.
結局,千島列島でロシア司祭の訪問は,1年1回に制限されました.
司祭が来島した時は,洗礼,結婚式,葬式を実施しますが,司祭が島を去った後は,千島アイヌの首長かロシア人商人が代行しています.
因みに,この司祭の来島は,1870年まで続けられました.
ところで,千島アイヌはアイヌ語の名前を持っていました.
赤ん坊の出産に立会った産婆が名付け親で,産婆の頭に思い浮かんだ言葉や,島を訪問したロシア人から取った物が多かったようです.
女子の名に付けられた「〜mat」と言う語尾は「女」と言う意味であり,男子の名の語尾「〜aino」または「〜kuru」は「人」を意味しました.
また,生まれた赤ん坊に新しい姓名を付けずに,男の子には父の名,女の子に母の名を付ける場合もありました.
ロシア人が渡島し,ハリストス正教が持ち込まれると,洗礼名が付けられるようになって行きます.
洗礼名の他,ロシア系の名字が付けられることもありました.
しかし,自分のアイヌ語名を放棄せずに併用する例もあります.
例えば,ワルワラ・ヤビマット・ストロージョフや,イワン・イワシピ・プレナンと言った名前は,初めが洗礼名,次がアイヌ語名,最後はロシア姓と言うハイブリッド型も多く見受けられました.
衣服も,鴨や鷲の羽,狐,海獣の毛皮で出来た典型的なパーカを着用し,パーカの下にはカムチャダールから導入した鹿革のオユと呼ばれる半ズボン,アシカ革製の下着,オルマカを履きました.
足には高い耐水性を持つトド或いはアザラシの皮で作った,膝上までの長靴を履き,冬期には靴底に柳製のかんじきを付け,頭には海獣の毛皮で作られた帽子を被り,夏季には草の帽子を被っていました.
この様な典型的な民族衣装が,正教が入って以後は,男子はロシアで作られたルパシカ,ズボン,ロシア製の中折れ帽子が物々交換に入ってきて,狩猟に出かける際のアザラシ皮の長靴に代って,露米会社から入手したゴム長靴を履いていました.
女子も花形模様のカナキンで作った,プラーティエと呼ばれる筒袖のドレスを着るようになります.
また,彼らが特に重宝したのが木製の足型で,海獣皮の長靴を作るのに重宝しています.
髪は北海道のアイヌと異なり,男子は長く伸ばしていた髪は散髪してロシア風に短くし,髭も伸ばさなくなりました.
女子は髪の毛を頭の真ん中で左右に分け,お下げに編んでぐるぐると頭に巻き付け,風呂敷のようなプラトーク
と言う頭巾を被っています.
なお,洋服を着たのは,ロシア人と直接交易できるような富裕層であり,一般の人達は,完全に洋装に移行したのでは無く,民族衣装と併用するケースが多かったようです.
また,アイヌ独特の入れ墨の習慣も無くなりました.
と言うか男子の場合,入れ墨を唇の真ん中にだけ施したのですが,ロシア人との接触時には既にしなくなりました.
女子の場合は,ハリストス正教に改宗する際,司祭に禁じられ,以後は完全に入れ墨が無くなってしまいます.
千島アイヌの生活用具にも,変化が現れました.
元々は骨,石,木,粘土でしたが,骨器や石器,土器の類は鉄器に替えられていきました.
これはロシア人接触までは,日本人から蝦夷アイヌが入手した鉄器を,更に千島アイヌに転売し,千島アイヌはそれをカムチャダールと交易して売り渡していました.
ロシア人接触後は,この流れが逆になります.
いずれにしても,鉄器の入手後は,粘土製のものは鉄器に切り替えられていきました.
他に,千島アイヌが使用し始めた鉄製の道具は,難破船によって齎されました.
17世紀末からロシア人やイギリス人,オランダ人などが千島列島という未知の島々に興味を抱き,この近辺に姿を現わしますが,難破船も少なくありませんでした.
大嵐の際に海岸に打ち上げられた難破船は,千島アイヌにとって宝船であり,難破船の板や釘付き柱を拾い集め,釘を抜きました.
そして,その釘を石で研いだり,火で加熱してから石で打ち,ナイフや鎌に仕立てていきました.
鉄器として最も影響を与えたのは鏃です.
従来は流木を利用して弓を作り,その鏃には石や骨製のものに毒を塗って使用していましたが,その代わりに釘から出来た鉄製の鏃を作り出し,この他難破船から取り出した硝子瓶の破片も鏃として利用しています.
狩猟用具としては,ロシア人などと接触して銃を入手したりもしています.
それはフリントロック式のものもありましたが,最新式のリボルバーや単発ライフルも持ち込まれていました.
この他,嗜好品として酒類,煙草,お茶が持ち込まれるようになります.
ワインをあげると,彼らはそれが無くなるまで飲酒を続けたり,踊ったり歌ったりしました.
煙草については,吸うのでは無く煙草の葉を直接口に入れて噛みました.
お茶は,ロシアの碑茶,中国茶,日本茶を好み,外国産のお茶が無ければ,「ニチャイ」なる葉を煮出してお茶の代わりにしています.
露米会社は,1828年以降千島アイヌとアレウトを海獣,特に猟虎の猟師として雇い入れ,彼らのパンを支給した結果,パン食の習慣が出来ましたし,獣肉を料理する方法も,従来の海水で浸して,焼いて食べると言う調理法だけで無く,毛皮交換で得た砂糖やソースを用いるようになりました.
因みに,最初に教育のことをあげましたが,ロシア語教育の結果,千島アイヌのロシア語の読み書きはある程度出来る様になっています.
しかし,話す時には最も簡単な言葉だけを用い,名詞の男性形,女性形,中性形と言った区別はせず,目上も目下も同じ言葉を用いていました.
勿論,アイヌ語が廃れた訳では無く,アイヌ人同士ではアイヌ語を喋っていますが,喧嘩の際にはロシア語の悪口を言い合ったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/26 23:45
【反論】
そもそも近代国家が存亡を賭けて戦うようになったその時代,領土画定が急務だった時代に,日本が急いで沖縄もアイヌも「国民化」することにしたのは,国家として当然の行為ではないか.
「同化」という言葉を使って負のイメージ操作をしたいのだろうが,これは「民族浄化」ではない.
あくまでも「国民化」である.
ある国に帰化すれば,何代か先には同化することになる.
――――――『わしズム』 2008/11/29号,p.2
【再反論】
どうしてそこで彼は思い至らないのだろう.アイヌと琉球は望んで「日本」に組み入れられたのではない事に.アメリカに移民した人間が,次第にアメリカに同化し,例えばO・J・シンプソン裁判で名を馳せたL・イトウ判事のように,声だけでは日系人とわからないようになってしまう,というのは,まあ当然だろう.
彼らは自分の意志でその国を選んだのだから.
だが,アイヌと沖縄はわが国の領土拡張――要するに侵略によって「日本」に組み込まれた.
何故,彼らにまで移民と同じ論理を押しつけるのか?
何故,彼らが国家の論理を内面化せねばならないのか?
ぼくは,祖先から受け継いだ文化は大事にすべきだと思う.
近代化の波の中で地域の伝統文化はだいぶ失われてしまったけれど,その残滓のようなものはぼくやぼくの家の中にずっと生きている.
それを踏み躙られたら悲しいし,踏み躙る事を正当化する論理は悔しい.
まして,われわれの選んだ政府ではなく,軍事力で進駐してきた政府がそれを言うのだとしたら.小林はその程度の想像力も持ち合わせずに「保守」だの何だのと寝言を言っているのだろうか?
〔略〕
ところで,もし先の大戦で日本がアメリカの植民地になって同化政策をしかれていたとしたら,小林は何と言うのだろう?
これは「アメリカ国民化」だから当然,と嘯くのか?
もしそうだというのなら,論理の一貫性だけは認めてやってもいいが.
「ストパン」■(2008-11-06)[アイヌ否定論]小林よしのりは自分の主張の独善性に気付くべきだと思う
青文字:加筆改修部分
Mukke 2008/11/23 21:36
というかですね,当時「同化」以外の選択肢がなかった訳じゃないんですよ(最初からこれを提示していればよかったのですが).
――――――
「衆議院で東条貞は,アイヌ政策の根本方針を質問している.
東条は,アイヌに対する政策が,同化を促進することを目的にしているのか,それともアイヌを民族として保護することを目的にしているのか,と質問した.
[……]
東条は,後者の考えであった.
アイヌを種族として保護する方針を求め,同化を促進しないように生活の向上を行っていくというのである.
答弁に立った内務大臣の河原田稼吉は,『一視同仁』の考えから,アイヌに対する漸進的な同化を進めることが政府の方針である,と明確に答弁している」
――――――麓慎一『近代日本とアイヌ社会』山川出版社(日本史リブレット57),2002,pp.77-78
これは1937年,旧土法改正の審議の時の議論です.
明治期,とは言いませんが,昭和期にはアイヌの独自性を認める考えもあった訳です.
「ストパン」■(2008-11-06)コメント欄
青文字:加筆改修部分
▼ 【追記】
――――――
近代国民国家成立時点での「同化」は,「民族浄化」ではない.「国民化」である!(小林,p.57)
一方中国は,帝国主義が終焉を迎えた後の時代に,「独立国家」であるチベットを軍事力で侵略し,128万人のチベット人を虐殺し,民族浄化を行っている.
拷問も民族浄化も,チベットでは今も続いているのだ.
アイヌとチベットは,いかなる意味でも全く次元が違う話だ.(同)
――――――『SAPIO』 2009.7.8号
上記は『世界』に掲載された,古木杜恵氏による小林批判の記事
(「『敵』を捏造する言説,差別を流通させるメディア」『世界』2009.6,pp.189-196)
の中の,
――――――
しかも,かつて小林は[……]中国政府のチベット民族への同化政策を民族浄化と弾劾した.
ところが,「日本国民としてのアイヌ」では,日本政府のアイヌ民族に対する同化政策を肯定するばかりか,<差別の解消と同化の達成は表裏一体だった>(『わしズム』〇八年秋号)と,ゴーマンをかますのである.
(古木,p.191)
――――――
という文章に対しての反論.
……これを本気で言ってんのか,こいつは?
近代国民国家成立時点での同化政策※3が,「『国民化』であり不可欠なもの」だなんてのは,明治政府の理屈に過ぎない.
それをアイヌ(及びその他の少数民族)が甘受すべき理由は,どこにもない.
だいたいそんなことを言ったら,ひとつの国家を形成していた沖縄はどうなるんだ
(独立してなかった,とか言うなよ.
それを言うならチベットだって,モンゴルと相互承認しあってただけだったし,そもそも前近代の東アジアの国際秩序に,近代的な「独立」の概念はない).
そしてそれに続けて,小林はこうも言う.
>「さらに『アイヌは先住民族か』という問題は,文化人類学の純然たる学術上の議論である.」
>「アイヌはいかなる意味でも「民族」の定義にあてはまらない.」
「自分がアイヌだと思えばアイヌ民族」とか,「一滴でもアイヌの血が混じっている者,及びアイヌと結婚した者がアイヌ民族」とか,正統な学者が聞いたら卒倒しそうな奇妙奇天烈な定義をひねり出さない限り,アイヌを「民族」とは主張できないのが現状である.(小林,pp.57-58)
むしろこれ聞いた方が,「正統な学者」は卒倒するわ.
僕は歴史学徒に過ぎず,文化人類学はよくわからないけれど,それでも流石に
「学術的に『民族』は定義できる」
なんていうのは,文化人類学における常識でも何でもない,ただの妄想だということはわかる.
この理解が間違っているってんなら,僕は「民族」云々の話をwebで語るのを一切やめたっていい.
まあ,なんだ,そういう主張は,せめて以下の本を読んでからにしような,な?
『民族という虚構』(小坂井敏晶著,東京大学出版会,2002/10)
「民族」を構成してる要素なんて,ひとつひとつを掘り下げていけば途端に怪しくなる.
最終的に,民族を民族たらしめているものが何かといえば,それは自意識に他ならない.
大和民族は,様々な異なる宗派を信仰しており,相互理解の難しい方言を話しているが,「同じ民族」としてのアイデンティティを持っている.
だがセルビア民族,クロアチア民族,ボシュニャク民族を分け隔てているのは宗教で,彼らの言語は相互理解が比較的容易だ.
「民族」に,恣意によらない絶対的な境界線なんて存在しようがない.※5
小林はこのような珍説を振りかざすのみならず,実際にアイヌである多原香里氏を,「『アイヌ民族』と自称する」と書いている.
多原氏による撤回要求に対し,『わしズム』編集人(小林ではない)※6は,
「多原氏が主張されている『個人がどの民族に帰属しているかは,帰属意識によって決定される』という,その『帰属意識』はすなわち『自称』と同じことではないかというのが,小林氏の見解」
と回答した(古木,同).
よし,わかった.
じゃあ,小林は「自称日本民族」でいいんだよな?
帰属意識ってのは自称に過ぎないんだろ?
だが,学術的に導出され得る「民族」なんてのが存在しない以上,あんたの抱いている「日本人」への帰属意識もまた,自称に過ぎないよ.
※1:何でその本を持ってたかというと,北海道旅行をした時に白老に行き,なんか面白そうなので買ってそのまま本棚の肥やしにしていたから.小林がアホなことを言い出したとき,すぐに取り出せる状態にあったのは幸運だった.
本棚から出したら,汚部屋に埋もれてどっか行っちゃったけどorz
※3:そもそも,「同化政策」を「民族浄化」と呼べるかどうかという問題はあるが
(僕は「ジェノサイド」であるとは思うが,「民族浄化」とはちょっと違うと思う),
「民族浄化」という語は学術的な意味を離れて虐殺やジェノサイド一般を含む語として使用されている感があるので(これは「ジェノサイド」という語も同じ),そこは問うまい.
※4:とかいう僕も読んでる途中だったり(マテ
※5:「だから民族なんて嘘っぱちだー,そんなもんなくなっちまえー」と主張しているわけではない,念のため.
参照→真に他民族を尊重するということ - Danas je lep dan..
※6:『わしズム』は,「小林よしのり責任編集」を標榜しているので,小林自身の見解と見なしても差し支えない.
「ストパン」■(2009-07-06)[アイヌ否定論]じゃあ,その「正統な学者」とやらを連れてこいよ
青文字:加筆改修部分
▲
【珍説】
――――――
小林
結局,同化を云々する前に,近代化を受け入れざるを得ないんだよ.
(……)たとえば明治政府がアイヌに文字を教育したのも,
「あいつらのアイデンティティを奪って同化してしまえ」
と考えていたわけじゃないとわしは思うよ.
単に,近代化に必要な教育をしただけでしょう.
――――――宮城能彦,富岡幸一郎,小林よしのり「“単一民族”と言っただけで謝罪を求めるのは言葉狩りだ」『わしズム』28,2008,p.55
【事実】
いやいやいやいや.日本政府はアイヌを「日本人」にしようとしていましたよ.
彼らは「野蛮人」だから「文明化」するためには彼らの習俗を日本式に改めなければならない,と言って.
あんたはそれを擁護していたんじゃなかったの?
何で擁護する側のロジックも知らないの?
だいたい,ニュートラルに「近代化に必要な教育」をさせたけりゃ,日本語じゃなくてフランス語かドイツ語でも習わせればいい.
日本語だって江戸時代以前は,近代化に必要な語彙なんて揃ってませんでしたよ?
ていうか「日本語」という統一体自体がなかったし
(森有礼が「英語公用語化」を唱えたのも統一的な言語がないという状態への悲観的な観点からだった).
どうしてそこでナチュラルに「日本語」が選択されてるのか,ってのが問題なんだけど.
しかしどこかで聞いたようなロジックだな.
「政府がチベット人に漢語を教育したのも,『あいつらのアイデンティティを奪って同化してしまえ』と考えていたわけじゃないとわしは思うよ.単に,近代化に必要な教育をしただけでしょう」
「結局,同化を云々する前に,近代化を受け入れざるを得ないんだよ」
ですよね!
中国政府は反動的な仏教僧に近代的な教育を施したり,チベットに鉄道を引っ張ったり,近代化に向けて努力してますよね!
あーえらいえらい.(皮肉)
「ストパン」■(2010-04-13)[アイヌ否定論]アイヌ民族を否定するひとの認識はこの程度です
青文字:加筆改修部分
【珍説】
――――――
「アイヌ民族の日」に何を祝い祭るのか.(……)
――――――的場光昭『「アイヌ先住民族」その真実――疑問だらけの国会決議と歴史の捏造』展転社,2009,p.173
【事実】
これは的場が,有識者懇の次のような主張
――――――
このため,「アイヌ民族の日(仮称)」の制定など,全国的に期間を集中して,先住民族としてのアイヌ民族に関する歴史や文化について,国民の理解を深める広報活動や行事を実施すること,公共の場等において積極的にアイヌ文物等を展示していくことが必要である.
また,アイヌの歴史や文化に関する映画やドラマの作成,通信や放送による教育の充実など,民間も参加した,多様な担い手による啓発の取組を行っていくことなども重要である.
こうした様々な啓発活動の積極的な実施を通じて,広く国民の理解の促進を図っていくことが必要である.
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainu/dai10/siryou1.pdf
――――――
を取り上げた上での批判.
的場は自分で引用した文章が読めないのか.
似たようなことを小林よしのりも述べているけど※2,国が「○○の日」と銘打って啓発活動をやるのなんて,よくある話で,それに向かって「何を祝い祭るのか」なんて,見当違いと言うほかない.
それとも,的場や小林は「北方領土の日」や「竹島の日」にもケチをつけるのだろうか.
的場はこのように,その本の後半部分で,有識者懇談会の報告書を転載し,それへの「私見」を書いている.
そこでは,彼がどのように文章を曲解しているかがあらわれており,興味深い.
※2:アイヌの運動を「利権狙い」と決めつけ,彼らを「自称アイヌ」と呼んで恥じない小林よしのりの醜悪な姿 - Danas je lep dan..
また,『WiLL』の先月号でも述べていたように思う(買ってないので曖昧).
さて言い出しっぺはどっちでしょうか.
「ストパン」■(2010-04-03)[アイヌ否定論]的場光昭『「アイヌ先住民族」その真実』のデタラメ(3)
青文字:加筆改修部分
【質問】
以下の意見はどうでしょう?
――――――
今さら熊送りの儀式や,女性の口の周囲のイレズミを復活させられるわけもない.
時代の変化に耐えられる文化は,放っておいても残るし,因習は消えていくのが自然である.
――――――『わしズム』 2008年 11/29号,p.49
【回答】
このコマには,仔熊に向けて矢を放つアイヌの男たちと,口の周りに入れ墨をしたアイヌの女たちの絵が描かれている.
え? 熊送りを「因習」「消え去るべきもの」扱いですか? 何だそれ.んなもんは和人の価値観だろ.
――――――
イオマンテ - Wikipedia
冬の終わりに,まだ穴で冬眠しているヒグマを狩る猟を行うが,そこに冬ごもりの間に生まれた小熊がいた場合,母熊は殺すが(その際前述のカムイ・ホプニレを行う),小熊は集落に連れ帰って育てる.
最初は,人間の子供と同じように家の中で育て,赤ん坊と同様に母乳をやることもあったという.
大きくなってくると屋外の,丸太で組んだ檻に移す.
やはり上等の食事を与える.
1年か2年育てた後に,集落をあげての盛大な送り儀礼を行ってヒグマを屠殺,解体してその肉を人々にふるまう.
これは宗教的な解釈では,ヒグマの姿を借りて人間の世界にやってきたカムイを一,二年間大切にもてなした後,見送りの宴を行って神々の世界にお帰り頂くものと解釈される.
ヒグマを屠殺して得られた肉や毛皮は,もてなしの礼としてカムイが置いて行った置き土産であり,皆でありがたく頂くというわけである.
――――――
――――――
つまり,生まれたばかりの仔グマというのは,故郷であるカムイモシリへの長旅に堪えられるだけの力がまだついていない.
そこで,人間がその仔グマをいわば里子として育て,ひとりで親元へ帰れるようになったところで,おみやげをたくさんもたせて,いわば故郷へ錦を飾らせて帰してあげるという発想なのである.
仔グマは愛玩用のペットなのではなく,お客さんからあずかっている子供なのだ.
だから,食事のときでもまず真っ先に一番いいところを仔グマのためによそり,無事食べ終わったのを見届けてから家族が食事するといった具合で,下にもおかぬもてなしをするわけだ.
――――――『アイヌ語をフィールドワークする ことばを訪ねて』(中川裕著,大修館書店,1995.2),p.112
――――――
こうして,アイヌモシリ「人間の世界」,カムイモシリ「カムイの世界」,ポクナモシリ「あの世」という三つの世界は,カムイの人間界への来訪,(本書ではふれていないが)カムイと人間の結婚,死,誕生,そしてさまざまな形態の「送り」によって,相互につなげられ,交流が行われている.
人間の生活している世界はその一部分でしかなく,そしてそこにおいても,人間の営みは他のあらゆるものとの関わりの上で成立しているというのが,アイヌの基本的な世界観なのである.
――――――同上,p.117
ご覧のように,熊送りは単に現代に生きるわれわれの目から見て残酷に見えるというだけの事であって,アイヌにとってそれは因習でも何でもなく,むしろやらない事が熊への失礼にあたるような儀礼なのである.
それをあっさりと否定しながら,一方で捕鯨や靖国神社を擁護する小林って何なの?
現代の目線でアイヌ文化を「因習」扱いしていいと言うのなら,欧米諸国に倣って捕鯨や死刑に反対してくれよ.※1
あと,熊送りは既に何度か行われている.
http://www.ainu-museum.or.jp/iyomante/index.html
この程度の事も知らずに,
「復活させられるわけもない」
なんていう戯言を吐く小林〔略〕は,現在行われているアイヌ文化の伝承について無知で,その上に他民族の文化を見下すオリエンタリズムに染まっているのである.
「差別はいけない」と言いながら,その口で,アイヌの文化を貶めて恥じないのだ.
アイヌに対する偏見を増幅させる役割を担っておきながら,何が「差別はいけない」だ.
恥を知れ,小林よしのり.
※1 捕鯨や死刑に反対する人が,上述の(愚劣な)主張をするのであれば,その正しさはともかくとして,一応筋は通っている.
だが小林は捕鯨に賛成しているのだ!
これを,アイヌに対する上から目線での差別と言わずして何と言おう.
<以下,コメント欄>
Mukke 2008/11/07 00:10
小林は,「何故鯨と熊は違うのか?」を示さねばなりません.
それができないのなら単なるダブスタです.
「ストパン」■(2008-11-05)アイヌ文化を上から目線で断罪する自称反差別主義者
【質問】
入れ墨の風習についてはどうなのですか?
【回答】
Mukke 2008/11/09 15:27
ぼくは,入れ墨を自由意志で入れるのであれば何ら問題ないと思いますが,それをすべてのアイヌ女性に強制する事はできないと考えます.
この点について,ぼくは小林に特段の異論がある訳ではありません.
ぼくが問題にしたいのはイオマンテです.
(少し不正確な言い方になりますね.
イオマンテというのは熊のみに限らない言い方ですから).
「ストパン」■(2008-11-05)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【反論】
秋味 2008/11/09 05:09
上記引用の小林の文章は,アイヌを自称し,アイヌのアイデンティティーを持つと自認する人が,装束を着てクマを矢で射抜く行為を否定している文章ではありません.
もしそうなら,ダブスタだと言ってもいいし,捕鯨を持ち出す意味もあるでしょう.
ですが論旨は,「アイヌ文化の「振興」のために道や国から補助金が出ているのがよくわからない」であり,「失われた文化を人工的に復活させようとする計画に国民の税金を使っていいのだろうか?」です.
問題提起をしているのです.
このブログが小林への反論であるためには,上記の論旨を覆さねばならないでしょう.
つまり,「アイヌの文化振興のために,税金から6億3千万円以上もの金をかけなくてはならない」ことを証明してください.
【再反論】
Mukke 2008/11/09 15:27
失礼しました.
ぼくの書き方が悪かったようです.
イオマンテが重要な宗教的儀礼である以上,他の生活習慣(「日本文化」でいうなら,ちょんまげ,お歯黒など)と同列に置くというのは疑問を感じます.
また,「失われた文化」云々にしても,その「文化」を失わせたのがアイヌの主体的な選択の結果ではなく,わが国の同化政策である事,その文化の継承を願う人びとが存在する事,といった事を考え合わせるなら,ぼくには小林の言説は,同化政策への正当化であるとしか読めないのです.
同化政策の正当化というのは,同化させられた相手の文化の軽視にも繋がっているでしょう.
>「アイヌの文化振興のために,税金から6億3千万円以上もの
>金をかけなくてはならない」ことを証明してください
これは先に述べたように,そもそもアイヌ文化が消滅の危機に瀕してきた,というのにはわが国の責任が大な訳です.
また,少数文化の復興・維持には多くのコストがかかります.
少数文化を,少数であるがゆえに滅びるに任せよ,と放っておくのが正しい事とは思えません.
わが国はそこまで貧しい国だったのでしょうか(物質的な意味ではなく).
そのコストを受容してでも,文化的多様性を維持する事,少数文化が消滅しないようつとめる事は,大事な事です.
文化は金で換えられるものではありません.
「ストパン」■(2008-11-05)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【反論】
秋味 2008/11/12 04:01
Mukkeさんは,「同化政策」と何度も繰り返していますが,「同化政策」というキーワードだけで批判していませんか?
実際,どのような政策があったのかが問題だと思うのですが.
【再反論】
Mukke 2008/11/13 20:03
言語・風俗の禁止,伝統的狩猟法の禁止,土地の剥奪,樺太・北千島アイヌの強制移住,などでしょうか.
また,政策として遂行された訳ではないにせよ,アイヌに対する著しい差別――そもそも官吏や教師にも差別意識剥き出しの人間はいた訳で,一部の不届き者のやった事だとするには,規模と影響が大きすぎる――は非難されてしかるべきでしょうね.
ちなみに,同化が必然であったなどとは思えません.
明治期の議員にも,アイヌの文化保護を唱えた人物はいたのですから.
「ストパン」■(2008-11-05)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【反論】
秋味 2008/11/12 04:01
>その「文化」を失わせたのがアイヌの主体的な選択の結果ではなく,
>わが国の同化政策である事
政府が「イオマンテを禁止する」法律を作ったとでも言うのでしょうか?
アイヌが自分で手放した習慣でしょう.
血統的に同化したとしても,日本の各地で祭事が続くように,イオマンテを続けることは可能です.
そして,崇める者がいない神社では祭りが廃れるように,イオマンテも自然消滅したのではないですか.
【再反論】
Mukke 2008/11/13 20:03
イオマンテについてですが,ぼくは大きな勘違いをしていたかもしれません.
いつまでやっていたかどうか,ぼくはまだ調べられていないのですが,十数年前に出版された本の中で,古老のひとりが熊牧場の熊を指して,
「イオマンテをやらないの? 可哀想に」
と言った,という描写を見つけました
(『アイヌ語をフィールドワークする ことばを訪ねて』(中川裕著,大修館書店,1995.2),p.114)
ひょっとしたら,同化政策の中でも細々と続いていたのかもしれません.
もうちょっと調べてみる事にします
(いつまでかかるかは分かりませんが……).
>少数であるから滅びよ,と言っているのではありません.
>継続の意志が存在しなくなったから滅びたのです.
>それを復活させる行為を助成するべきかどうかが問題
だから,それを継続する意志を失わせしめた背景には,わが国の同化政策がある訳ですよね?
単に「やる気をなくした」で済む問題とは思えないのですが.
あと,少数の文化が何らかの援助なしに,その独自性を保つのは難しい――ドイツのソルブ人の例などを見ても――ので,その点は多数派からの配慮が当然あってしかるべきでしょう.
「ストパン」■(2008-11-05)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【反論】
秋味 2008/11/12 04:01
>文化は金で換えられるものではありません.
はい,文化は重要です.
ですから日本はすでに,芸術文化振興基金として500億円もの税金を投入し,文化振興を行っています.
正式に申請し,奨励すべき芸術的,文化的行為であると認められれば,ウタリ協会もここから助成金を得られるでしょう.
【再反論】
Mukke 2008/11/13 20:03
少数民族の伝統文化保護は,別枠でなされるべきでしょうね.
例えば,
http://j.peopledaily.com.cn/2007/03/30/jp20070330_69409.html
のように.
少数派が文化を保ち,或いは復元させる,というのは,多数派のそれ以上にコストがかかる事が予想されますから.
われわれは,仮に,歴史上迫害した事のない少数民族であっても,その文化保全には力を尽くすべきだと思います.
「ストパン」■(2008-11-05)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【反論】
あああ 2008/11/15 19:23
「民族浄化」という語は,定義が一定しないややこしい語のようなのでこれは使わないようにして,これ以後は替わりに「エスノサイド(民族性の根絶)」という言葉をあてたいと思います.
中国政府→チベット系の政策も,明治日本→アイヌ系の政策も,Mukkeさんから見れば同律のもので,量の差があるだけで質的な差はないということですね.
旧日本の同化政策は,エスノサイド(民族性の根絶)と同律の政策であると.
>言語を禁止というのは……
旧日本の場合は言語を直接禁止したわけではなく,故郷でしゃべり継ごうと思えばしゃべり継げたと思います.
しかしまあ,アイヌ系の言葉は統一が取れた「国語」ではなかったので,(「国語」というのは,意図的な近代化の産物ですよね),結果的に元の各部族の言葉は,日本語(の標準語)を公用語にすれば相対的に廃れるでしょう.
(日本語も福沢諭吉などがずいぶんと改造を加えて,近代化しやすいよう調整したといいます.
「自由」や「権利」という日本語なども,一説では福沢が発明したと言われています)
>文化を禁止……
旧日本の場合は直接禁止したわけではなく,故郷で民俗生活を残そうと思えば残せたでしょう.
しかしまあ,近代化によってアイヌ系の人々の伝統的習俗は結果的に縮小したので,それもそうだと言えますね.
(ただし日本人の伝統的習俗も,近代化しやすいようずいぶん改造が加わったので,これは少数派への差別的待遇ではなく,近代社会全体の現象ですね)
>積極的に彼らを「日本人」に同化しようと試みた……
たしかに,日本の政策によって,狩猟と祭祀を中心とした前近代のアイヌ系の生活をする人は少なくなったので,アイヌ系の人たちが‘当時からそれら伝統習俗を,心から大切にしていた’ならば,これは日本の罪科といえるでしょう.
…………‘弱者の視点や都合’を何よりも徹底して第一に優先する見方に立てば,こういう立論となると.
「あの時代は仕方なかった」
とか
「あの時代ほかにどういう手段があったの?」
とか,それは別にして考えることとすれば,こうなるわけですね.
【再反論】
Mukke 2008/11/16 01:08
たとえ禁止されていなかったとしても,公教育で日本語が教えられ,アイヌ文化は遅れたものなのだと教えられ,アイヌであるがゆえに差別に遭う.
このような状況で残せるとでも,本気で思っていらっしゃるんですか.
あと,例えば死者が出た後家を焼き払う慣習は,明白に禁じられていました.
>「あの時代は仕方なかった」とか「あの時代ほかにどういう手段があったの?」とか,
>それは別にして考えることとすれば,こうなるわけですね
仕方ない事でも,必然なんかでもない.
先住民族の文化を破壊しなければ,近代化が成し遂げられない,という訳では決してないんですよ.
確かにあの時代,多くの国はそのような態度をとっていたのかもしれません.
しかしそれは,日本を免罪する理由には成り得ません.
「ストパン」■(2008-11-05)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【反論】
あああ 2008/11/16 23:15
明治期のアイヌ系の人たちは,「できるだけ自民俗を残したい!」と思う人たちばかりだったのでしょうか.
【再反論】
Mukke 2008/11/17 22:49
無論,日本人に積極的に同化しようとした人もいたでしょうね.
その内の何人かは,日本人の若者が日本文化に嫌気がさして,アメリカ文化にどっぷり浸かるように,アイヌ文化を自ら捨て去ったのかもしれません.
しかし,例えば残存する差別をおそれ,子供に文化を教えようとしなかった,という例もあります.
さて,後者のような理由で文化を放棄した人びとに対して,わが国が何ら責任を負っていないとでも?
「ストパン」■(2008-11-05)コメント欄
青文字:加筆改修部分
◆◆◆◆アイヌ語
【質問】
アイヌ語って何?
【回答】
アイヌ民族の言語.
日本語との共通点があまりなく,孤立した言語であると考えられているが,系統や語族は不明.
北海道,樺太,千島列島に分布していたが,千島列島では話者は既に消滅しており,樺太でもおそらく消滅.
日本でも流暢に話せる話者は,15人しかいない.
ユネスコから,「極めて深刻」な消滅の危機があると認定されるほどの大ピンチ状態.
2011.1.29
【質問】
北海道などの地名の意味を教えてください.
【回答】
宣教師ジョン・バチラーの『アイヌ語地名考』その他によれば,以下の通りだという.
和地名 | アイヌ語 | 語源・意味 |
旭川 | chiu-pet | 「急なる河」 これを日本人が chiup-pet(太陽の河)と聞き誤り,「旭川」という訳語をつけた. |
足寄(あしょろ) | ash-so-oro-pet | 「直立せる瀧を持つ河」 soは単独で瀧ならびに裸岩を意味. |
厚別 | 次の4種類別に発音される. 1) a-pet 「股の流,歯の流」 2) ap-pet 「魚叉の河,魚叉」 3) at-pet 「紐,組み糸,,糸の河」 4) aus-pet 「オヒョウの河」 |
|
網走 | apa-siri-kotan | 直訳すれば「銛の頭の地」 apは「銛の頭」,aは存在を示す動詞の単数形. 「apa」で「戸口」「入口」「海から見た河口」. 「戸の地」を意味し,おそらく樺太からの入口の義. |
石狩川 | isikari-pet | 曲河 sikari:回り行く,または河を塞ぐ,大いなる裸岩の場所,または岩.獲物ある地. |
イワオヌプリ | iwau-nupuri | 硫黄山 |
得撫(うるっぷ) Остров(うるーぶ) |
urup-pet | 紅鮭河 |
江差(えさし) | esash-kotan | 汀の浪の場所,または汀の浪の響の場所 |
蝦夷(えぞ) | iso-mosiri | 獲物多き場所 |
襟裳岬(えりもざき) | eremu-not | 鼠岬 |
長万部(おしゃまんべ) | osamanbe-kotan | ヒラメの多い場所 |
樺太 | karapto-mosir | 下なる湖の国.おそらく樺太の高地の湖水か. 樺太の実名はyaun-mosir. |
釧路 | kus-ru | 通路.貫路. |
国後(くなしり) | kunna-siri | 黒地,黒い島 |
札幌 | sat-poro-pet | 甚だしく乾燥せる河 |
空知 | so-rap-ti-pet | 瀧河 rap:下る ran の複数形 ti: soの名詞に属する複数助辞 |
対雁(といしかり) | toi-isikara-pet | 甚だ曲がった河 toi:最上級 |
十勝 | tok-a-ti-mosir | 上方に広がる国,または突出する国. tuk:生長する,上方に広がる,突出する ati:「ある」の複数形 at:otと同じ.otはo(保つ)の複数形 |
苫小牧(とまこまい) | 1) to-mak-oma-i 2) to-mak-omai 3) tumak-oma-i 4) tomak-oma-i |
1) 沼の後ろの場所 2) 沼の後ろから来る流れ 3) 4) 谷地 |
新冠(にいかっぷ) | ni-kap-kotan | 木の皮の場所 |
登別(のぼりべつ) | nupuri-pet | 濁りたる川 |
函館 | ushun-ges | 湾の低き端 函館は,函の砦の意味で,河野加賀左衛門が建てた古い砦にちなんで命名. |
歯舞(はぼまい) | hap-oma-i | ハナウドの場所 ハナウドは,hara, hap, pittokとも呼ばれる一年草 |
美唄(びばい) | pipa-i | 烏貝の場所,沼地の場所 pip:沼地 |
富良野 | 1) huru-an-nu-kotan 2) hura-nu-kotan |
1) 真の小山のある場所 2) 小山ある地 nu:名詞の複数 |
幌別 | poropet | 大河 poro:大 |
室蘭 | mo-ruan-kotan | 徐々に下る道の谷 |
夕張 | yupara-nupuri | 鉱水沸口の山 |
稚内(わっかない) | wakka-nai | 水谷 |
以上,『アイヌ語地名ファンブック』(本多貢著,彩流社,2005.12.25)の「付録」より,有力説らしきものを拾い上げた.
なお,
「全ての日本の地名は,アイヌ語で解読できる」
と主張する人もいるそうだが,牽強付会の域を出ているようには思われず,実際,それを支持している人も少ない模様.
【質問】
アイヌ語のような,実質的に滅んだ言語を公用語にしても,子供の負担が増えるだけでは?
【回答】
以前,国際先住民サミットで「アイヌ語の公用語化」という提案がなされた時,ぼくは以下のエントリを書いた.
先住民族サミット「アイヌ語を公用語に」提言
- nasturtium
これに関して,例えば,
「実質的に滅んだ言語を公用語にしても子供の負担が増えるだけだ」
といった見解が聞かれる事がある※1.
「そんな事に何の意味があるのか」
と.
けれどそれは,結局
「日本語なんて日本だけでしか通じないじゃないか.
英語を公用語にしようぜ」
と,程度は違うものの同質な論理なんじゃないかと思う.
「滅びた」「滅びつつある」と思われた言語が復興した例は幾つかある.
イスラエルのヘブライ語,連合王国のウェールズ(カムリー)語などが有名だ.
後者の場合,偏見や差別で話者が減っていたが,保存運動が功を奏した.
アイヌ語は,確かに消滅しかかった言語かもしれない.
しかし一般に思われている以上に話者,もしくは話者と成り得る人はいるし※2,アイヌ語のテキストも刊行され,アイヌ語を学びたい,祖先の言語を取り戻したいという人は大勢いる.
また首都圏の大学でも,アイヌ語の講座が開設されている例がある(早稲田大学など).アイヌ語の復興は不可能ではない.
祖先の言葉を取り戻したいという思いは,利便性とかそういったものの為に否定されてよいものではない.
無論強制になってしまってはよくないが,アイヌの人びとが,剥奪され,失ってきた民族性を取り戻したいと願うのであれば,われわれはそれに真摯に応えるべきではないのだろうか.
これは決してアイヌの為だけではない.
アイヌの言語を尊重する事は,日本をより豊かな国にするだろう(物質的な意味ではなく).
「単一民族国家」という虚構のもとに圧殺されてきた多様性に光を当てる事は,アイヌにとっても日本にとっても必要だと,ぼくは思う.
※1 例えば,西村眞悟「アイヌ先住民族決議の背後にある日本悪しかれ史観の嘘」『正論』平成20年8月号,p.86.
この論説に対しては,以前に批判した事がある.
西村眞悟衆議院議員のアイヌに関する認識はデタラメだ - nasturtium
を参照.
この論説はかなり酷いので,いずれきちっと批判したい(多分予告倒れ).
※2 中川裕『ことばを訪ねて アイヌ語をフィールドワークする』大修館書店,1995,pp.186-188,田村すず子「アイヌ語は,いま」『月刊言語』2000年1月号,pp.113-114.
「ストパン」■(2008-09-26)[民族][言語]母語を取り戻そうという渇望
▼ ちなみに『月刊言語』 2009年07月号(大修館書店)誌上において,佐々木冠「日本の言語状況――多様性は失われるのか」(pp.8-15)は,長い間培われた日本列島の言語的多様性と,その多様性が,死滅の危機に瀕している現状を紹介し,しかしながら諸「方言」と「共通語」の混淆により,新たな形の多様性(「ネオ方言」「変容方言」など)が生まれてきていることを指摘している.
また,同誌の佐藤知己「アイヌの人々とアイヌ語の今」(pp.16-23)では,アイヌ語の現状が述べられている.
これまでぼくが参考にしてきた,アイヌ語の現状についてのレポートは,10年近く前のものだったから※1,最新のものが出るのは有り難い.
大事な箇所.
――――――
我々は日常,自分が子供の頃から慣れ親しんできた言語を用いて,同じ言語を話す相手と会話する,という状況を半ば当然のこととして,何の疑問も感慨も抱かないで生活している.
しかしながら,アイヌ語話者にとっては全然「あたりまえ」ではない,ということを理解する必要がある.
たとえアイヌ語で話したくても,自分の子供や孫はアイヌ語がわからない.
家族でさえアイヌ語が通じない,というのが現実なのである.
それでは,家族以外で,たとえば同年配の幼なじみ,といった友人とならアイヌ語で話せるのではないか,と思うかもしれないが,それすらまず望めないのが普通である.
あくまでも私の個人的な体験によるものであるが,アイヌ語話者が一人いたとして,ほぼ同じ方言を話す同年配の別の話者がもう一人いる,という例はほとんどなかったと言ってよい.
アイヌ語で会話したくても,話し相手がいないのである.
もし我々が同じ状況に投げ込まれたら,と考えると,事態の深刻さが想像できるだろう.
ちなみに,アイヌ語の文法記述の中で,終助詞の意味,用法には未解明の点が少なくないが,その背景には,このような話者数の激減による,会話資料の少なさが要因の一つとしてあるのである.
――――――(pp.18-19)
そして,残された数少ないアイヌ語話者たちの多くが自らの知識を残しておきたいと考えていること,言語復興の土台としての文化復興の重要性,アイヌ語教育の現状,アイヌ語の言語学的面白さ※2,などが述べられる.
西岡敏「琉球語の危機と継承」(pp.40-48)では,危機に瀕している琉球諸語の多様性とその現実について書かれている.
琉球語内部での多数派と少数派(たとえば,宮古語話者は沖縄語を理解するが,沖縄語話者は宮古語を理解しない),若年層での「ウチナーヤマトゥグチ」使用の話などが興味深かった.
また,「多くの若者たちが『方言』を話せるようになりたいと考えている」(p.46)が,「上の世代と『方言』で話したいという気持ちがあるものの,『方言』の敬語が正しく使えないために,[……]標準語(日本語)を使わざるをえない」(p.47)という現実があるということは盲点だった.
※1:田村すず子「アイヌ語は,いま」『月刊言語』2000年1月号.
ただ,こちらの記事の方がよく纏まっている気がするので,両方を見るのがいいと思う.
※2:「外国に現地調査に行かなくても,国内にこんなに興味深い言語がある」(p.22)のだそうだ.
「ストパン」■(2009-06-20)[民族][言語]日本列島の言語的多様性を守っていくために
青文字:加筆改修部分
▲
【反論】
――――――
小林
(……)子供たちにアイヌ語を教えるのはいいけど,それでほかの授業時間数が減ってもいいのか?
――――――宮城能彦,富岡幸一郎,小林よしのり「“単一民族”と言っただけで謝罪を求めるのは言葉狩りだ」『わしズム』28,2008,p.56
【再反論】
そうですね,
「じゃあまず,日本の義務教育課程において大きな時間を占めている,漢字学習を削減しましょう.
あんなの無駄ですよ.
どうしてあんなに複雑で非能率的な文字を憶えないといけないんですか.
日本語は少なくとも平仮名のみの表記にすべきですし,最終的にはラテン文字表記にしましょう.
そうすれば漢字を憶える分の時間を,英語や数学にまわせますよね!」
……小林は,当然,上記のような主張にも賛成するのだろうな?
何故大和民族だけが非能率な民族語の教育に時間を割くことが当然視され,アイヌ民族のそれは教育にとって重荷であるかのごとく語られるのか?
アイヌ語が重荷だというのなら,漢字や仮名という日本語圏でしか通用しないツールだって,重荷だというのに.
だがそれでも,ひとはその重荷を背負おうとするのだ.
何故か?
それが文化だからだ.
伝統がわれわれの背骨をなしているからだ.
「ストパン」■(2010-04-13)[アイヌ否定論]アイヌ民族を否定するひとの認識はこの程度です
青文字:加筆改修部分
そもそも,選択科目にするという話だったのでは?
【質問】
アイヌ語は本質的に,近代生活に不適な言語なのでは?
【回答】
Mukke 2009/02/15 19:26
こういう事を大真面目に言う人がいるのが困りものですよね.
たとえば日本語だって明治期に,多くの外来語を摂取してきた訳で.
そもそも英語やフランス語だって,近代化の過程で語彙を拡充していった訳で.
それがアイヌ語では不可能なんてのは,馬鹿げたレイシズムの発露に過ぎません.
借用語なり,造語なり,幾らでも方法はあるのですから.
「ストパン」■(2008-11-06)コメント欄
青文字:加筆改修部分
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ