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◆◆北韓史
<◆北韓 目次
<東亜FAQ目次
※「北韓」:朝鮮民主主義人民共和国の韓国側呼称."北朝鮮"と呼ぶより厭味.
(画像掲示板より引用)
『日本帝国主義の朝鮮侵略史1868-1905 征韓論台頭から乙巳五條約(保護條約)捏造まで』(朴得俊編,明石書店,2004.5)
北の学者が書いたわりには,そこまでむちゃくちゃな記述にあふれているわけではない.
「李氏朝鮮は間違った用語なので,朝鮮封建政府と書く」
と,訳者あとがきにあるのが,一応はイデオロギーがあらわれてるけど.
のっけから,
「日本帝国主義は米国帝国主義とともに,朝鮮人民の不倶戴天の仇である」
と飛ばしてるのは,いい調子だったと思う.
正しい歴史認識を深める役には全くたたないけど,北朝鮮が朝鮮王朝末期から日韓併合あたりまでを,どのようにとらえてるかがわかる一冊.
――――――軍事板,2011/09/28(水)
【珍説】
北朝鮮は,けしからん国です.
しかし,それを作ったのは日本です.
国体護持の保証が欲しくて,ポツダム宣言受諾を遅らせたために,ソ連参戦,朝鮮半島分断です.
われわれは韓国,北朝鮮に申し訳ない事をしたのです.
【事実】
冷戦は完全無視ですか?(笑)
(某ブログ・コメント欄)
この件で書くと非常に長くなるが,うんとはしょって大まかに書くと,分断の原因は二つ.
まずアメリカの怠慢.
アメリカは日本の占領政策に対しては大戦中から研究して人材も育成していたが,朝鮮半島な関しては何も考えていなかったに等しかった.
ソ連が朝鮮北部まで進出したのを見て,あわてて1945年9月8日に第24軍団を派遣するも,指揮官ホッジス中将は朝鮮に対する知識は全くなし.
軍団を歓迎して出迎えた朝鮮人を,暴徒と勘違いした日本の特別警察隊が発砲して2名死亡させるが,ホッジスはそれを追認する「斜め上」の始末.
9月6日には呂運亨(画像右)が朝鮮人民共和国の樹立を宣言するも,それを潰して軍政布く.
しかし朝鮮に対する知識がないので日本人の意見を丸飲みしたり,旧朝鮮総督府の日本人を大量再雇用して顰蹙を買ったり,英語の話せる朝鮮人を大衆の代表だと勘違いして,朝鮮人はみんな親米民主主義者だと思ったり,ソ連との管轄分割線の北緯38度線も,何も知らない少佐(だったかな)の二人がテキトーに決めたりしてた.
次に朝鮮側の問題.呂運亨の朝鮮人民共和国が潰された後,国外の朝鮮独立政府大韓民国臨時政府の李承晩,金九らが帰国するとイデオロギー,統一方法などから意見が対立しテロ暗殺が横行,呂運亨,金九といった有力者が次々に殺され,混迷を深める.
そんなほっとらかしとグチャグチャの中,1950年にソ連の後押しを受けた金日成がチャンスと見て北朝鮮軍が侵攻し朝鮮戦争になり分割,冷戦によってその状態が固定されたまま,現代に至ると.
アメリカが明確な占領独立政策を持ち,朝鮮側も一枚岩になってソ連に対抗すれば,分割どころか朝鮮戦争もなかったてことかな.
【質問】
太平洋戦争直後の,ソ連軍による朝鮮半島北部の統治は,どんな様相だったのか?
【回答】
以前,ソ連と日本の外交の話を書いたのですが,結果的に,ソ連と日本との関係は,1945年8月9日に行われたソ連の対日参戦で幕を閉じます.
こうして怒濤のような勢いで,東欧から移された兵力が満洲に雪崩れ込んできた訳ですが,11日にはソ連軍第25軍が中国と朝鮮との間の国境を越え,同時にソ連海軍歩兵が朝鮮半島東岸の幾つかの港に上陸しました.
続く数日の間に,北緯38度線以北の日本軍の抵抗は粉砕され,幾つかの部隊は中央の命令に反して,その後数日間の抵抗を行いましたが,8月15日に日本はポツダム宣言を受容れ,朝鮮半島での組織的抵抗を終了します.
この戦闘行動に参加したのは,第1極東方面軍第25軍の各部隊でした.
8月10日,朝鮮半島での戦争直前に,他の部隊と並んで第17,第39,そして第88特別旅団,それに第386,第393歩兵部隊,第10機甲部隊が加わります.
第25軍を指揮したのはI.M.チスチャコス大将,政治委員はN.G.レーベジェフ中将で,彼らは「軍事評議会メンバー」とされました.
尤も,チスチャコフと,1947年4月に後任となったG.P.コロトコフ中将は職業軍人であり,朝鮮の統治に余り熱心とは言えず,1948年まで朝鮮北部での統治任務に当たった中心人物はレーベジェフ中将です.
その他2名の人物が,この時期の朝鮮北部での民政に深く関わっています.
1人は,1945年10月より始動したソ連民政局(市民管理局)の中心となったアンドレイ・アェクセーヴィッチ・ロマネンコ中将,もう1人が極東第1方面軍の「軍事評議会委員」,即ち政治将校だったテレンチィ・フォミッチ・シュトイコフ大将です.
特に,シュトイコフはソ連による朝鮮半島占領の最初の日から頻繁に平壌を訪れ,ソ連当局の政策を形成し,それを実施すると言う,1945〜48年に於ける朝鮮北部の真の最高指導者であり,ソ連軍と現地政治との監督を行っていました.
シュトイコフは1907年に農民の子として生まれ,1929年にレニングラードの党に工場労働者として入党.
その後コムソモールの積極分子として頭角を現わし,1938年にはレニングラード州党第2書記となりました.
これは,当時,レニングラードの党のボスであったジダーノフに極めて近かったため,その引きを受けて昇進したものです.
因みに,1938年には「反革命犯罪」調査の特別3名委員会のメンバーをジダーノフと交代しています.
これはジダーノフに代って,ソ連共産党にとって第2の重要な党支部であるレニングラード党支部の粛清を担当していたとされています.
1945年までに,シュトイコフは政治将校という職種では最高の地位である大将の地位を得ていますが,ソ連軍全体ではこの地位を有していたのは,当時シュトイコフ以外はたった3名しかいませんでした.
即ち,此処にシュトイコフがいると言う事は,モスクワ中央にいるジダーノフや,その上にいるスターリンと連絡が出来たと言う事になります.
余談ついでに言えば,シュトイコフは,朝鮮民主主義人民共和国が建国された後,その初代大使として赴任します.
が,金日成の積極的な戦争計画に全面的に賛同した為,1950年9〜10月に起きた軍事的大破局の責任を問われて,1950年11月に召還され,1951年2月3日の政治局決定により中将に格下げ.
モスクワから数百キロ南のカルーガ州行政府次長に飛ばされ,その政治的生命が絶たれました.
この他,朝鮮半島北部で活動していたソ連関係者として,A.M.イグナチェフ,G.M.バラサノフ,A.I.シャブシンと言う人物がいます.
このうち,バラサノフは「政治顧問管理部」を担当していましたが,内務人民委員部と関係がある人物であり,この組織が事実上のソ連対外諜報局の平壌支部である事が推測出来ます.
イグナチェフ大佐は北の党機関創設の主要人物であり,朝鮮労働党の名付け親でした.
最後のシャブシンは,1945年以前に朝鮮半島に滞在した経験を持っており,その経験を活かして,朝鮮半島南部での共産主義組織の運営と活動支援を担当しています.
彼らは何れも,ソ連諜報部門のメンバーでした.
また,第25軍政治管理部の一群の将校,通称「第7課」と呼ばれた部門は,朝鮮半島北部でのソ連の政策を決める上で,取分け重要な地位を占めていました.
この組織は軍組織内部に有りますが,軍司令官では無く政治委員直属の組織です.
「第7課」は主に宣撫工作や心理作戦を担当しており,軍が外国で活動したり,駐留する場合には現地当局との関係を維持する事を担当としていました.
この組織で働く人々は,現地の政治に通暁しているか,少なくともその業務を通じて実地教育を受けるようになっていました.
ここには,G.K.メクレルやV.V.コヴィジェンコと言った人々が所属していました.
1947年初めまで,朝鮮半島の問題は基本的には,専ら軍によって扱われており,モスクワの中央当局による監督はどちらかと言えばルーズなものでした.
多くの決定は現地で為され,軍はモスクワに幾つかの問題や計画を伝えたに過ぎません.
党中央委員会が出した朝鮮問題関係文書は,その殆どが軍によって提出されたものであり,共産党中央委員会内部では,朝鮮問題での情報が乏しいと不満を述べている程です.
1948年の段階でも,ソ連共産党中央委員会の職員が,
「対外関係部は朝鮮情勢について,今日に至るまで定期的で詳細な情報を受けていない」
とこぼし,その原因が,
「政治顧問管理部,つまり対外政治警察部門や平壌に展開していた第25軍の第7課は,それぞれ照応する組織に,総ての情報を送っていた」
事にあるとしていました.
特に,1945年夏にこの地を占領下に置いたのは,一種青天の霹靂的なものであり,朝鮮半島の北部には国際関係や対外関係の専門家,更には朝鮮専門家が皆無の状態でした.
占領前の史料からは,朝鮮に対しては純軍事的な計画しか無く,他方その政治的な側面の多くは無視されていました.
これはモスクワも同様で,そもそも朝鮮半島がクレムリンにとって大きな課題になった事は皆無でした.
第二次大戦前の朝鮮政策は,クレムリンにとってはかなりの所,受動的な部分がありました.
確かに,この政策課題はコミンテルンによって扱われ,軍,情報,対外政策機関に多くのソ連系朝鮮人が勤務していたのですが,そこに勤めていた多くの朝鮮系党官僚,軍事諜報将校達は,1936〜38年に行われた大粛清により一掃されており,コミンテルン朝鮮部局も,朝鮮,満洲,日本で地下活動をしていた一握りの人々を除けば一掃されてしまいました.
また,戦前期にはソ連にとって,朝鮮政策というのは,対中国,対日政策に明確に従属させられており,独立した朝鮮政策は全く顧慮されていませんでした.
その結果,1945年8月11日に第25軍が朝鮮半島に入った際には,朝鮮語通訳すらいませんでした.
軍は,日本軍との戦闘のみを考慮し,朝鮮という要因は全く考慮していません.
その為,多くの決定は泥縄式に為されたのです.
例えば,朝鮮半島北部の占領を第25軍に任せるという決定は,戦闘後の1945年8月25日に為されています.
その際,第1極東方面軍総司令官のメレツコフ元帥は,チスチャコフに会ってこの決定を伝えた後,第25軍司令部を咸興に置くか,それとも平壌に置くかの2つの選択肢があると伝えました.
チスチャコフは,純軍事的に平壌を選択したのですが,これが後々の北朝鮮の首都になった訳です.
まぁ,平壌はソ連軍占領地域の中で最も大きな都市であり,且つ最古の都市で,古くからの首都の1つであると言う訳ですから,その選択は至極ごもっともな選択なのですが….
経済分野でも泥縄です.
ソ連軍は朝鮮半島北部の経済を運営し,住民に食糧や生活必需品を渡し,設備関係の応急修理を行い,公共秩序を維持しなければなりませんでした.
しかし,日本人が撤退するにつれ,朝鮮経済は破滅的な被害を被ります.
ソ連側のその後の評価では,朝鮮北部地域の1,034の中小企業の内,日本の撤退で1,015が破壊されたとしています.
そして,残りについても中間管理職,或いはそれ以上のレベルの管理職の日本人達は,占領以前に去ろうとしていたか,間もなく去ろうとしていました.
勿論,治安も悩みの種でした.
彼らが占領した直後の行動は,とても模範的なものとは言い難いものがありました.
窃盗,掠奪,レイプはかなり横行しており,ソ連の米国に於ける広告塔と言われたアンナ・ルイス・ストロングですら,それを指摘している位です.
取り敢ず,9月末までに何とか措置を講じて,軍内部での規律を強化しました.
が,その後も幾つかの問題は続き,例えば,ソ連軍内部資料ですら,1947年1月半ばからの約1ヶ月の間に,平安南道だけでソ連軍は
殺人7件,
障害を伴う暴行1件,
レイプ2件,
窃盗5件,
強盗5件,
掠奪1件
を行っています.
たった1ヶ月でこれですから,占領直後から1948年にかけての重大事犯の総数は,数千件に上ったと推計されます.
尤も,中国の方が悩みが深く,東北部に駐屯した第39軍は,1948年に規律強化のための特別調査が必要だと言う判断が為されています.
しかし,この時期,モスクワにとって遙かに重要なのは,米国との冷戦が進行していたと言う事でした.
この為,治安や経済問題を後回しにしても,朝鮮半島北部での政治的問題の解決を優先させなければなりませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/07 23:07
青文字:加筆改修部分
【質問】
北韓に共産政権ができるまでについて教えられたし.
【回答】
さて,朝鮮半島は当初ソ連にとっては,どうでも良い問題でした.
それは当初,占領計画については軍単位で考えろというスタンスだった事からも判ります.
従来は朝鮮北部の占領やその後の政権樹立について,入念な計画があったのでは無いかとされていましたが,ソ連崩壊後の史料から,そうした計画があったと言うのは,とんでも無い誇張である事が分ってきました.
元々,ソ連としては欧州や中央アジア地域を重視していました.
欧州ではドイツの伸張を抑えるためにも緩衝地帯が必要でしたし,インドからの英国の伸張を抑える為に緩衝地帯が必要でしたが,極東は辺境の地で日本が倒れるとこの地域での脅威が消滅する事から,朝鮮半島北部の占領も一時的であり,重要視していなかったのが正直な所です.
しかし,米国でルーズヴェルトが死去し,トルーマンが政権を引継ぐと,その関係は急速に悪化していきます.
こうして,朝鮮北部地域にソ連にとって「友好的な」政府を樹立する必要に迫られてきました.
戦前の朝鮮半島は,ソ連からすれば,日本がソ連を攻撃する際の橋頭堡と信じられていました.
日本が消滅して米国と冷戦が勃発し,朝鮮半島に親米政権が樹立されると,今度は米軍がソ連本土を攻撃する際の橋頭堡となる可能性がありました.
この為,ソ連にとって安全保障の為に朝鮮半島北部に「防衛の為の緩衝地帯」を作るのが重要政策になっていきます.
これも,従来の研究では,ソ連政府は,朝鮮半島全土を支配する友好的(願わくば共産主義的)政府を樹立するべきだあるとされていたのですが,実際には,ソ連は米国がそうした事態を静観する事はあり得ないとの結論を早い段階で下しており,1946年初春に別個に朝鮮半島北部を支配地とする友好的政府の樹立に動いています.
但し,ソ連政府は少なくとも当初は,米国との究極的妥協の可能性を排除しておらず,1946年3月の段階でも,平壌にいたソ連軍の専門家は将来の全朝鮮政府の構想提案を起案し,モスクワに送っています.
それに依れば,この時期,金日成には相当控えめな国防相の椅子が用意されているに過ぎません.
しかし,信託統治や朝鮮統一政府の計画が米国の反対で頓挫する事が判ると,ソ連当局は北部のみの独立国家樹立を選択しました.
同様に,米国も同じ思考を辿り,朝鮮半島南部を軍政下に置いていた米軍当局は,年老いた民族主義者で米国との関係が深く,頑迷な反共主義者としての信任状を持っていた李承晩を支援していました.
米国の監督下で李承晩等の民族主義者達は独自国家を目指し,初めから反共,西洋風民族主義のイデオロギーを有していました.
米ソ両国では暫くの間話し合いを続けますが,両者とも進んで妥協せず,結局は朝鮮半島は分断されたのは周知の事実です.
1946年頃から,ソ連民生局によって朝鮮半島北部で進められていた政策の骨子は,「人民民主主義」や「人民民主主義革命」と言う理論の考え方でした.
つまり,朝鮮半島北部で進行している事態は,他のソ連による支配(占領)地域と同様,「人民民主主義革命」の段階であると捉えられ,これはやがて「社会主義革命」へと発展する事になります.
この図式に従うなら,統一戦線に支持された「人民民主主義」権力の確立の後に続くのは,全面的民主的改革,即ち,急進的な土地改革,工業や銀行の部分的国有化,両性の平等,そして民主的自由の確立にあるとされました.
尤も,これら宣言された多くの自由とは,単に紙上のものに過ぎず,或いは精々この様な新体制が支持すべきものであって,これに民衆が反対する事は出来ないとされていました.
この段階では,工業の私的所有は,ある程度限界があるとしても一応は保護され,誰も農業集団化を主張せず,しかも非共産党的政党にも寛容ですが,実際には可及的速やかに共産主義者の手に権力が渡る事になったのです.
スターリン的に理解された社会主義とは,後の段階に回されたものの,それは「人民民主主義革命」が真の社会主義的改革の基礎となる,と言うものでした.
この図式は,朝鮮半島北部での共産主義化の試みを図ったものに依り,指導方針とされました.
因みに,1951年に西側のヒュー・セトン−ワトソンなどは,早くもこの段階で典型的な共産主義者の権力掌握についてモデル化しています.
それに依れば,先ず第1段階では,共産主義者は他の勢力と「真の連合」を行い,次の段階では,非共産主義政党が傀儡と化し,共産主義者によって直接統制されない総ての勢力が,政治生活から締出されるような「偽りの連合」,そして,最後には共産主義者以外が全て排除され「一枚岩的な体制」となると言うものです.
セトン−ワトソンの区分は,その後も幾度となく引用されていますが,これは実際のソ連式も似たような形で推移しているので,あながち理由が無いものではありません.
厳密に言えば,ソ連に忠実な朝鮮半島北部の政治体制が共産主義的でなければならない必要は,何もありません.
またそれは,第2次世界大戦後にソ連の統治下に入った総ての政治体制と同様,ソ連型モデルを可能な限り性格に模倣する必要も全くありませんでした.
しかし,実際にはソ連の体制は彼方此方で模倣される事になります.
第1に,占領地域でのソ連の政策を担当した軍人達にとって,ソ連型システムこそあり得るべき最高の体制であり,そしてそれが地球全体へと最終的に拡大する事こそ,人類の幸福への最も確実な方法と信じ切っていましたし,例え信じ切っていないにしろ,それに疑問を挟む事は政治的どころか身体的にも危険が伴っていました.
第2に,ソ連の軍事当局は,ソ連こそ理想と信じた現地での共産主義者の支持に基づく行動を基礎としていました.
彼らは総てのソヴィエト的な政治的・社会的制度こそが模範であり,批判は許されないのだという地元共産主義者の支持を得ていました.
特に,現地の共産主義者は,
「法王自身よりもカトリック的である」
と言って,ソ連側の担当者がやり過ぎと思える位に,モスクワの範例を熱心に模倣した訳です.
但し,朝鮮半島が他の地域と決定的に異なっていたのは,共産主義者の地位です.
欧州や満洲でのソヴィエト化は,かなりの地元共産主義者の支持を得て行う事が出来ました.
元々,これらの地域では組織された共産主義政党が以前から存在しており,更にこれらの地元共産主義者の中にはモスクワで多年の亡命生活を送った人々がおり,ソ連の政治サークルの中で一定の個人的立場を享受していた人々も又多かった訳です.
一方,朝鮮での共産主義的運動はかなり弱いものでした.
確かに1925年に朝鮮共産党は設立されたものの,強力でも無ければ結集力もなく,1928年には党指導者間での対立故に,コミンテルンによって解散させられました.
朝鮮半島南部では,1930年代と40年代に幾つかの組織が地下活動を生き延びたものの,全般的に余りにも弱く,政治的意義は殆どありませんでした.
朝鮮半島北部は更に共産主義者の力が弱く,その影響は殆ど無視出来るものであり,クレムリンから一目置かれるような共産主義者は皆無でした.
その代わりになる人々もいませんでした.
右派民族主義者は,より影響がありましたが,統一した政治勢力と言えるものでもありません.
こうした状況の為,ソ連当局は自らの政策目的の為に,人為的な基盤を作らなければならなかったのです.
そうして人為的な基盤を作る一方で,地元で寄せ集めの共産党を作らなければならなかったし,同時に彼らの側に立ってくれる事を期待した地元民族主義者との合意を作る事も必要になってきました.
1945年の段階で,朝鮮半島北部で一般的に認められた民族主義者と言えば,「朝鮮のガンディー」と呼ばれだ晩植でした.
彼は1882年生まれで,儒教の伝統教育を受けたものの,間もなくキリスト教に改宗し,日本に留学して明治大学法学部を卒業します.
そして,故地に戻って平壌で学校の校長をしながら,民族主義に積極的な貢献を行っており,日本の植民地政策への非武装抵抗を支持していました.
1920年代には経済自立運動の指導者となり,一連の民族主義運動の指導者となりました.
特に,創氏改名に対する抵抗で朝鮮でも名を馳せています.
日本降伏の時点では彼は平壌の郊外にいましたが,降伏の報を受けるや否や直ちに平壌に引き返し,8月17日には「平安南道朝鮮独立準備委員会」を,未だ機能していた日本の植民地当局の暗黙の了解の下で発足させます.
この委員会は
総務,
公共秩序,
宣伝,
教育,
経済,
金融,
日常生活,
地方行政,
渉外
の9つの部から成っており,委員会には彼の他に約20名の民族主義者がおり,その内共産主義者は,総務部長の李周淵,宣伝部長の韓載徳,無任所の金洸鎮の3名でした.
この時期,朝鮮北部の共産主義者は,地下活動に従事していましたが,この組織とは無縁でした.
著明な共産主義者であった,玄俊赫,金鎔範,朴正愛等は,朴がこの委員会と関係がそこそこ有ったものの,委員会には含まれていませんでした.
この様な状況で,意外にも平壌は民族主義的右派勢力の拠点であり,逆にソウルでは共産主義者が決定的とは言えないまでも,相当影響力のある政治勢力となっていました.
尤も,この状況は瞬く間に変わる事になりますが…
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/08 23:17
青文字:加筆改修部分
さて,朝鮮半島では日本の支配が終わった後,民族主義者による独立準備委員会が各地で結成されました.
しかし,この独立準備委員会の中で,共産主義者の数は極めて少なく,しかも共産主義者達の大多数は地下に潜ってしまっていて,この委員会との関係は殆どありませんでした.
一応,殆どの独立委員会は,日本軍の撤退による権力の空白期間を埋める為に,自発的に結成されたものですが,羅津や雄基,清津など東部海岸地域では,ソ連軍部の統制下か,直接の主導によって結成されています.
幾つかの委員会では,日本の植民地当局と並行して機能していましたが,日本軍が撤退すると工業所有物の監督を行いました.
勿論,今までそれを運営していた日本人や,植民地当局に迎合してそれらを運営していた朝鮮人にとっては迷惑千万な事だったのですが,これは多くの場合,これら委員会が民衆から大きな支持を得た訳です.
基本的にこれらの委員会は民族主義者が運営していましたが,南部では共産主義者の影響も顕著でした.
当初,この様な地方行政機関は,
「祖国復興準備会議」
「治安維持委員会」
「国民行政委員会」
等と呼称していましたが,9月初旬以降,これらの名称は一様に「人民政治委員会」と呼ばれる様になりました.
当然のことながら,こうした名称について,韓国の歴史家達は,この呼称がソ連軍当局が押しつけたものであるとしています.
それは明確に否定出来ません.
と言うのも,「人民」と言う呼称は当時のソ連に於ける政治用語として普及したものだったからです.
ただ,これは朝鮮の共産主義者によって使われ,定着した可能性も否定出来ません.
10月初旬には人民政治委員会は,更に人民委員会と再度呼称が変わりました.
朝鮮半島南部では米軍占領当局と,殊に左派が統制している人民委員会とが衝突し,結局,これらの人民委員会は解散させられました.
北部では,ソ連軍占領当局がこれら自称自発的な機構を次第に操作し,それを次第に親ソ的支配構造の中核的制度に据えていきました.
米軍政当局が,南の人民委員会を解散させたのに対し,ソ連軍政当局のそれは極めて巧妙な政治的仕掛けと言えます.
実際にはソ連の政策も,米国に劣らず制限的且つ干渉的ではあったのですが,これを慎重に進めたからこそ,朝鮮の政治的主導性を寛大に擁護すると言う姿勢を取り得た訳です.
それは扨措き,1945年8月26日,第25軍が朝鮮北部地域の臨時行政府となった平壌に到着したその日に,平南独立準備委員会がソ連軍指導部と面会を試みました.
当初,彼らは司令官であるチスチャコフとの接触を試みましたが,彼は職業軍人であるが故に,政治には直接手を触れないようにすると言う姿勢を崩さず,彼との面会は叶いませんでした.
これは,1937年に行われた大粛清の結果であり,軍人が政治に関わるのは危険と言う防衛反応が働いた為であると言われています.
結局,政治向きの仕事は,第25軍の軍事評議会メンバーで且つ政治将校であるレーベジェフ少将に総てを委任し,以後の朝鮮半島北部の暫定統治機構との折衝は,レーベジェフの仕事になりました.
8月28〜29日にレーベジェフは独立準備委員会の代表と初めて会い,代表はソ連指導部の援助と協力を求めました.
余談ですが,一部の西側や韓国の歴史家は,この会議にチスチャコフ自身も参加し,委員会により多くの共産主義者を含めるべきだと発言したとしています.
しかし,ソ連側の史料や当事者インタビューをした限りに於いては,チスチャコフは出席していない事が明確になっていますし,そうした要求も出していません.
確かに,「独立準備委員会」を「人民政治委員会」に名称変更したり,その人的構成を変えよと言う要求は,恐らくチスチャコフ自身の名前で出された筈ですが,それは彼個人の要求ではなく,第25軍の軍指導部の名前で出され,チスチャコフは司令官という立場で名義貸しをしただけの話です.
話を戻して,その会議でどの様な要求が誰から出されたかはよく判っていませんが,兎に角,9月初旬の時点で共産主義者達が委員会に加わったのは事実です.
その間にレーベジェフは委員会メンバーとの会合で,彼らを知る機会に恵まれました.
委員長の゙晩植の印象は,レーベジェフにとって好ましいものではありませんでした.
ソ連側との会談の間中,彼はじっと椅子に座ったままで寝ているかのように目を閉じ,時々,彼は同意,不同意を示すように頭を動かすだけ.
しかし,参加者の中で最も先輩であるかの様に振る舞うと言う,朝鮮に於いて高位にあり,かつ長老的立場にある人が示す態度だったのですが,西欧的価値観に慣れていたソ連軍将校にとっては,その行動は好ましいものとは見られなかった訳です.
ただ,゙晩植は当時平壌で最も人気のある政治的人物でしたから,ソ連軍は彼を味方に付けようと努力しました.
ソ連軍将校達は彼と定期的に逢っては,出現しつつある朝鮮北部地域の行政を指導するよう説得したのですが,その交渉は難航を極めました.
何しろ,彼は右派的心情の持ち主であり,強い反共,反外国的信念の持ち主であり,彼はソ連当局と協力するとしたら,より自主性を要求するやり方を求めていたからです.
しかし最終的に,゙晩植は平南人民委員会議長として,その後は五道行政委員会委員長としての役目を引き受けました.
後者は,朝鮮北部に於ける自治政府の臨時機関であり,ソ連が北朝鮮政府の原型を作る最初の試みでしたが,この機関は短命に終わり,今となってはその痕跡すら残っていません.
何故,彼が担ぎ上げられたのかと言えば,当時朝鮮半島北部で生じている事は,「社会主義革命」と異なった「人民民主主義」の試みで有ると考えられていました.
それには民族的にして一般民主主義的な課題が課せられており,その指導も「進歩的」志向であるとは言え,民族主義的人物によって導かれた方が良いとされていました.
因みに,1945〜47年の事件を
「やがて社会主義革命に転化する反封建,民族解放,反帝国主義」
と解釈する事は,ソ連の官許史学でも広く認められ,これは現在の北朝鮮の官許史学でも認められています.
また,北に於いては共産主義者の影響が未だ小さく,゙晩植や他の知られた民族主義的指導者の威信を利用する方が有益で有るかと思われていました.
この為,当初,ソ連はポーランドやチェコスロヴァキアの様に,朝鮮北部地域でも,共産主義者は重要では有るものの,「進歩的」民族主義者と接触協力した広範囲な連合政権を目指し,この体制は時間がどれ位掛るかわからないものの,究極的な「純粋な共産党員からなる政権」を確立する為の第一歩と見做されていました.
ところで,ソ連は朝鮮半島北部に於いて地方政府を設置する試みと共に,ソ連軍政も自らを再編成しました.
当初,ソ連当局は主要地方や都市部にソ連軍の衛戍本部を設置しましたが,これらの構成員は何れも軍人であり,複雑な政治的,経済的課題を扱うには資格や経験に欠けていました.
短期間の占領であれば,この体制でも良かったのですが,朝鮮半島に於ける行政権の解決が長期化し,占領がより長期に亘る事が明らかになった以上,より専門的な行政が必要となりました.
こうして設置されたのが,朝鮮北部地域の社会・経済問題を扱うソ連民政局(SCA)で,これが公式に発足したのは1945年10月3日でした.
これを直接取り仕切ったのがロマネンコ少将で,その監督にはシュトイコフ大将が総覧しました.
なお,名称は「民政局」ですが政府機関では無く,純粋な軍事機構の一部であり,その職員の総てはソ連軍人でした.
この為,彼らが例えば朝鮮語通訳のような専門家を要求された時には,ソ連で徴募され,ソ連軍人として朝鮮に派遣された人物から選抜しています.
11月15日になってSCAに漸く10部からなる部局が整備されました.
これらの部局は何れも擬似的な省庁であり,朝鮮北部地域の異なった領域に責任が有りました.
これらは,工業,交通,通信,財政,森林,貿易商業,健康,教育,司法,警察で,各部局には7名から50名の人員が配置され,幾つかの部局には例外的に日本人専門家が雇用された事も有りましたが,その構成員の大部分は朝鮮人が充当されました.
職員はソ連当局によって,候補が「進歩的で民主主義的か否か」という基準で選抜され,その部局からは全地方人民委員会に拘束的な命令や法令を出す様になります.
こうして,地方で自治的かつ自発的に生まれた行政機関は,ソ連占領当局に直接服従し,その地方での代表部と化していったわけです.
しかし,ソ連当局は間もなく,地方の民族主義者との同盟が極度に不安定で有ると感じ始める様になりました.
゙晩植は彼の地位を利用して独自の政策を展開し出しますが,それはソ連の監督者の計画と矛盾を来したものになっていました.
この状況下で,ソ連当局は,新しい政治的連合と人物を探し始めました.
但し,完全に゙晩植を置き換えると言うよりも,その補完としての位置づけでした.
9月末頃になると,従来の民族主義者に変わって,ソ連系朝鮮人や亡命していた朝鮮人共産主義者が帰還する様になり,再び政治的情勢が変わっていきます.
ソ連系朝鮮人と言うのは,1945年初秋からソ連の中央アジア当局にて徴募された人々で,著名な地位に就き,良い教育を受け,「政治的に成熟している」人々です.
彼らは第25軍司令部bの命令で平壌に送られました.
また,ソ連軍は軍務に服していたソ連系朝鮮人も探し出し,彼らも又,平壌に送られました.
ソ連軍将校は朝鮮について何も知らない状況でしたが,彼らは単に通訳としてだけでなく,顧問としても政策決定に関与し始めたのです.
例えば,戦車部隊の指揮官として赤軍に勤務していたピョートル崔は軍の顧問となり,後に北朝鮮人民軍に移籍して崔表徳として朝鮮人民軍司令官の1人として暫く北朝鮮に滞在していましたし,兪成哲は1941〜46年にソ連軍諜報部に所属して,1948〜56年に北朝鮮参謀本部の作戦本部長,姜尚昊はソ連のジャーナリストで党幹部でしたが,1945〜59年に北朝鮮で党学校長や内務次官を務めたりしています.
一方,1945年秋に朝鮮の共産主義者達が,獄中や亡命先から復帰しました.
ただ,先述の様に朝鮮での共産主義運動は極めて弱く,1928年の朝鮮共産党の解散や大粛清下でコミンテルン朝鮮部門の殆どの党員が粛清され,朝鮮人共産主義者の様々な集団は完璧な孤立に戻っていました.
1945年に朝鮮北部に戻った共産主義者の中には,1941年から45年の間をソ連で過ごした,満洲での反日ゲリラの少数集団も有りました.
その中に,当時33歳のソ連軍将校で,以前のゲリラ司令官であった金日成もいました.
金日成は,1945年9月末に平壌に戻っています.
ただ,彼が出る幕は未だ有りませんでしたが,タイミング良く帰還したのは確かなようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/09 22:24
さて,1945年9月,朝鮮北部地域には海外での亡命生活から帰ってきた朝鮮人共産主義者や,ソ連各地から集められた「政治的に成熟している」ソ連系朝鮮人が多数流れ込んできました.
これにより,民族主義者と共産主義者の比率は逆転する事になります.
この段階でソ連軍当局は,北朝鮮での地元民族主義者,特に゙晩植個人との提携が失敗に終わった事を理解し始めていました.
この為,ソ連軍当局は,朝鮮北部地域でのソ連の支配にとって代わりの人物を見つける必要性に迫られていました.
当初,この「代わりの人物」なる者の位置づけは,10月には朝鮮北部地域での指導者とみられていだ晩植を「補完」する人物であると見做されており,当時,その地位に最も相応しいのは朝鮮共産党の指導者である朴憲永であると思われていましたが,結局彼は選ばれませんでした.
先ずは,平壌のソ連軍当局でこうした人選が行われたのですが,更に上層部で朴に対するウケが悪かった為です.
と言うのも,元々朴はソウルを活動拠点にしていたが故に,平壌のソ連当局に個人的な知己が無く,従って,金日成よりも信頼が無いと思われたのです.
その上,朴は1930年代初めからコミンテルンに関係していたのですが,スターリンとその周辺が以前のコミンテルンの活動幹部を嫌い,全面的に信頼していなかったのは周知の事実でした.
こうして,朴は拒否されました.
勿論,ソ連系朝鮮人からこうした立場の人物を選ぶのは不可能でした.
彼らの大多数は,ソ連で生まれ育っていて,生まれて初めてこの地に来たので,全く未知の土地でしかありませんから,当然の事ながらこの地にコネクションは全く無かったのです.
こうして消去法で様々な人物が消え去り,最後に残ったのが,以前ゲリラの司令官を務めており,若くて精力的なソ連軍大尉であった金日成でした.
丁度彼は,平壌市の衛戍本部副部長として赴任してきた所もタイミングが良く,彼に白羽の矢が当たり,モスクワとも相談した上,金日成を完全な朝鮮北部地域に作られる統治組織の未来の指導者として選ぶ様になりました.
因みに,1993年に,金日成が1945年9月に指導者候補として承認された際にスターリンに会う為にモスクワを訪問したと言う説が報道されました.
これは戦時中,極東のヴァシレフスキー元帥本部付の将校であった党官僚のI.I.コバネンコが示した証拠を基に,韓国のマスメディアが報道したものです.
ですが,当事者達,レーベジェフ将軍,兪成哲将軍,戦時中第88旅団政治部の情報将校であったI.G.ロボダ,第25軍の政治部将校だったV.V.コヴィジェンコはそれを否定しています.
他の傍証も,この説を否定しているものが多く,もし,金日成を指導者として選択する決定が党中央で為され,それがスターリンの承認の下に行われていたのだとすれば,北朝鮮共産主義者の指導者に何故金日成でなく,金鎔範が選ばれたのか,など,矛盾点が沢山出て来ます.
おまけに,1945年秋の段階で,スターリンと一介の大尉でしか無い金日成との間には越えられない壁があり,会見が出来る状況ではありません.
更に,コバネンコ説を支持する情報源は他に無く,殆ど間違いと言っても過言ではありません.
余談は扨措き,金日成がソ連軍政部の期待の星として表舞台に出て来たのは,1945年9月30日に第25軍第7課長メクレル少佐がお膳立てしだ晩植との会見です.
この会見は,高級料亭花房で行われましたが,この席に金日成も同席しました.
これば晩植を手懐けようとしたソ連の試みの一環でしたが,この席上,゙晩植は,ソ連と協力するのは脇に置いておいて,朝鮮半島に『統一国家』を作る為に彼を助ける様に要求しました.
10月14日,この将来の指導者は大衆の前で初めて語りました.
この集会は北朝鮮に於ける公的な歴史学では,「金日成歓迎の為の集会」であると主張しています.
しかしながら,現代のロシア側の出版物や当時に撮られた写真では,この集会はソ連軍の歓迎集会であり,この席上,金日成は「感謝に満ちた朝鮮民族の代表」として喋ったに過ぎません.
後の宣伝では,10万人の感激に打ち震える人々がこの集会に参加したとされています.
確かに,数万人規模の人々が参加したのは事実でしたが,レーベジェフ将軍が11時に始まった集会の開会を宣言し,金日成を「民族の英雄」「顕著なゲリラの指導者」として幾分誇張して紹介しました.
とは言え,これは誇張もあり,参加した多くの人々は彼の事を見聞きした事も無かったし,大多数にとって金は半分は神話,殆ど伝説上の人物でした.
と言うのも,当時33歳の金日成は,経験あるゲリラ戦の指導者と言うには余りにも若く見えた為で,これ以来,「金日成は偽物」説が流布する様になります.
金日成は,この時の為にソ連系朝鮮人であるミハイル・姜から一時借用した民間の服を着て,胸にソ連赤旗勲章を付け,「ソ連軍の解放軍としての使命」について熱弁を振るいました.
尤も,この時に撮影された写真はその後に修正が加えられ,「朝鮮民族の偉大なる指導者が,迷惑な外国の装飾を付けない様」になっています.
なお,この演説そのものも,ソ連軍第25軍政治部によって書かれ,当時赤軍にいたソ連系朝鮮人の詩人田東赫によって翻訳されたものでした.
従って,金の文章には朝鮮で翻訳されたソ連の文書特有の言い回しがあり,大抵の参加者には理解不能なものだったりします.
因みに,北朝鮮が独立した後も重要な演説草稿に対してのソ連の検閲は続けられ,例えば,1949年に朴トンジョが,8月14日の会議に於ける朴憲永の演説の草稿をソ連大使館の参事官に渡して,その見解をモスクワに聞いてくれる様依頼していたりします.
この集会では,゙晩植も,五道委員会臨時政府,つまり地方自治の形式的な首班として演説しました.
しかし,この集会の議長は,新しく選挙された朝鮮共産党北朝鮮局で,新しく選出された秘書の金鎔範でした.
こうして,゙晩植,金鎔範と共に金日成は朝鮮半島北部を支配する3名の政治家の1人となりますが,此の場合も彼は「同輩者中の第1人者」ですらありませんでした.
当時はまだ゙晩植が,平壌の政治家の中では序列が第1位だった訳です.
とは言え,この集会までに金日成は集会参加の大多数には知られていませんでしたが,重要な職に就いていました.
10月13日,平壌で朝鮮共産党北朝鮮局が,ソ連当局が招集した秘密会議で組織されました.
この局は,技術的には朴憲永が率いる朝鮮共産党中央委員会に従属する事になっており,その任務はソ連統制下の地域での党活動を調整するものとされていました.
その従属的な性格は,ソウルに送られた電文でも「同士朴憲永の政治路線の正しさ」等と言う表現でも表されています.
なお,この局の創設が発表されたのは,10月20日でしたが,この発表は遅れた理由は不明です.
この10月13日の会合は,もう1つ秘密がありました.
1958年以来,北朝鮮の歴史学では,この集会が10月13日では無く10月10日の開催となっており,この日が北朝鮮の公式の休日となりました.
これが何故日付が改められたのかは判っていません.
同時に,1956年以降,北朝鮮の歴史学では,今日の労働党の歴史の始まりであるこの組織名を意図的に歪曲しており,正しい組織名である「朝鮮共産党北朝鮮局」の代わりに「北朝鮮共産党組織局」と呼んでいます.
これは,後に米国と日本の「スパイ」として処断された朴憲永が率いた朝鮮共産党中央委員会への従属を曖昧にする為でした.
ある説では,本来,金日成はこの会合を10月10日に開催したかったのに,分派活動を警戒した朴憲永の反対を受けた為に延期を余儀なくされ,八方手を尽してやっと10月13日に会議を開催して北朝鮮局の設立に漕ぎ着けた事が出来たとし,その後,1953〜56年の南労党の没落によって,金日成はやっとその日付を改竄する事が出来たと言われています.
これは北朝鮮が崩壊しなければ,多分判らないでしょうが.
初代の局の議長は,金日成では無く金鎔範でした.
金鎔範は1930年代,コミンテルンによって朝鮮での地下活動の為に送り込まれた人物でした.
勿論,金鎔範が北の歴史学で省みられる事はありません.
尤も,この人選が必ずしもベストマッチとは言い難いものがありました.
1940年代末には北朝鮮のエリート達は,金鎔範を冷麺と古美術の愛好家としか見ていなかったですし,彼自身トップの地位を目指したり,その地位にしがみつこうと言う努力もしませんでした.
臆病で物静かな金鎔範は政治家と言うより,より積極的で野心的な朴正愛の夫として知られていました.
多分,彼の突然の昇進は,朝鮮半島の混乱と混迷の中で起きた事が原因だと思われます.
結局,金日成はその後を襲って巧みに北朝鮮共産主義者のトップ指導者となりました.
金日成が指導者に就いたのは,1945年12月17〜18日の北朝鮮局第3回拡大総会の席上ですが,当然,事前にソ連の政治家や将軍達の了解の下で行われていたのは疑いの余地が無いものでした.
ところで,北朝鮮局創立の決定は,ソ連軍当局によって政党の設立を許可した1週間後に為されました.
この日が1945年10月13日でした.
これは共産主義者の利害を考慮したものでしたが,他の政治勢力もこの許可を利用しました.
11月3日にば晩植も自身の政党である民主党を設立しました.
当初,゙晩植はこれを真の民族主義的右派政党としようとしていましたが,ソ連当局はこれを許さず,その圧力によりゲリラ派の崔庸健が党の第1副議長になります.
崔は若い頃,゙晩植の弟子でしたが,後に金日成の同志となり,第88特別旅団で共に働いています.
また,秘書長にもゲリラ派の金策が就任しました.
こうして,当初から民主党には当局の手先が入り込んでいたのですが,それでも1945年末の段階に於いても指導者の大多数は真の民族派でした.
解放後数ヶ月して出来た他の政党としては,他に天道教青友党がありました.
これは宗教政党であり,その母体は東学の正統な後継者を任ずる天道教の支持者からなっており,当時極めて強力なものでした.
この政党は,ソ連当局の許可を得て,1946年2月5日に創設されており,民主党よりはもう少し長く余命を保ちました.
因みに,朝鮮半島南部ではそれこそ雨後の筍の様に,数百とは言わないまでも数十に上る政党が出来ましたが,北部ではこれ以上の非共産主義的政党は許されませんでした.
この様な締め付けで,ソ連の意向に沿った政治が行われようとしていきますが,未だ未だ民衆の間では共産主義に対する根強い抵抗がありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/10 23:23
さて,朝鮮半島北部地域で共産党主導の新体制を確立しようとしたのですが,これは初っ端から民衆の抵抗に遭いました.
中でも最も深刻だったのは,中朝国境にある新義州市での衝突で,11月23日に学生デモと暴動が反ソ的スローガンの下で生じました.
結局この抵抗運動は,地方の治安機関と共産党系の民警,それに一部ソ連軍も参加して漸く鎮圧しました.
1946年3月にも,北東沿岸の大都市咸興で学生暴動が発生しています.
首都でも対立が生じていました.
こちらはデモの様な明示的なものでは無く,民族派とソ連に支援された共産主義者との対立です.
この紛争は,1945年12月にモスクワで行われた英米ソの三国外相会議の結果が伝えられた1946年初めに発生しました.
この会議では,朝鮮半島については5年間に亘る大国による合同信託統治が決定されます.
この決定は,独立が約束されていたと思っていた南北地域での国民にとって青天の霹靂とも言うもので,特に民族主義者とその支持者はこれに対する大衆的抗議活動を呼び起こしました.
彼らは,この決定が日本に代って米ソによる新しい植民地支配のヴェールに覆われた決定であると受け止めたわけです.
ソウルでも反託運動は多くの群衆を動員しました.
当初,この運動には南部地域に於ける共産主義者達も参加したのですが,モスクワから数日後に新たな指示が届き,彼らの態度はガラリと変わっています.
それ以上に深刻な問題を齎したのは平壌でした.
1月初旬,ソ連軍当局は平南人民委員会が信託統治に対して支持を表明する様に求めましたが,民族派はこれを拒否します.
委員会委員長の゙晩植は支持表明に署名を拒んだどころか,抗議を表明して辞任してしまいました.
当然,親分が辞任すると子分にも辞任が波及し,民族派の委員は抗議の辞任を行いました.
この事件の後,゙晩植は直ちに逮捕されました.
当初,彼は快適なホテルに軟禁されていたのですが,これはソ連軍当局が゙晩植への説得を諦めていなかったからです.
しかし,この説得は徒労に終わり,彼との関係を断念したソ連軍当局は彼を「通常の」牢獄に移しました.
最終的に゙晩植は,1950年10月に平壌が国連軍の攻撃を受けて陥落する寸前に総ての政治犯と共に「スターリン式の良きやり方」,つまり即決裁判での銃殺に処され,名も無き墓に葬られてしまいます.
1946年2月,民主党は多少はあったかも知れない政治的独立性を一切失う事になりました.
゙晩植は,「南の反動派の繋がり」「日本の公安との秘密の協力」の廉を以て,ソ連の圧力下で告発され,本人不在の儘,党議長職から追放されました.
代って議長になったのは,金日成の盟友でもあった崔庸健です.
その後は,完璧なまでの粛清が続き,数週間以内に゙晩植の大多数の支持者達は追放され,多くが投獄され,それ以上の人々は南に逃亡しました.
その後,民主党は生じつつある共産党権力の指令に完全に従属する様な傀儡の前線組織に変わっていきます.
因みに,1940年代後半,この党がその後も名目的に持続出来たのは,朝鮮北部の人口の中での厄介な層を手懐ける為,党内にこうした人間を置いておいた方が,党外に置くよりも政治的に容易に統制できるためであり,非共産党組織の方が,党外での宣伝の為にも有利だったからでもあります.
追放された民族右派は,新しい状況を受容れる事はありませんでした.
そして,彼らはソ連体制と共産党中心の新体制に対する抵抗を組織しようとしていました.
これら民族派の試みは,南部の民族派の支持を受けています.
最近,韓国で発見された史料によれば,南部民族主義勢力は北側でテロリスト集団を組織する活動に従事しており,1946年2月にはソウルに戻った大韓民国臨時政府の政治諜報部門が,一群のエージェントを北に送り,金日成を含めた一群の政治家を暗殺する試みを行いました.
因みに,1946年春には実際の暗殺の試みがあり,3月1日の大衆集会では金日成に向けて実際に手榴弾が投げつけられ,彼は危うく暗殺されかけています.
なお,この時にはソ連の将校であるYa.T.ノヴィチェンコと言う人物が,勇敢にもこの手榴弾を受け止めた事で助かったそうです…
でもって,ノヴィチェンコ自身も生き延びて,1984年,金日成の招待で平壌を再訪して大歓迎を受けていたりします.
この他にも,南からの工作員による北政府高官への攻撃が為されましたが,殆どが失敗に終わり,金日成の遠縁に当たるキリスト教左派の康良Uの家族だけが犠牲者となったに過ぎません.
何故,北側で抵抗運動が盛り上がらなかったかと言えば,民衆全体に戦う準備が出来ていなかったのは勿論ですが,当時は未だ北の政府に対して民衆が消極的に支持を与えていたからです.
北で行われていた反政府活動と言えば,前述の暗殺や学生達のデモを別にすれば,反共ビラの配布,民族主義者の煽動者の説教,秘密の学生集団の結成,精々特定されない地方幹部への攻撃程度であり,唯一の主要な事件と言えば,1947年2月24日に発生した平安北道での民族主義者による交番襲撃程度のものでした.
これは南部地域と比べると更に明白になります.
1946年末の段階で南部では,左派に率いられた反対派が,米国に庇護された大韓民国臨時政府に内戦を以て挑みました.
これら南部でのストや反政府集会には何十万単位の人々が参加し,何千人もの人々が共産ゲリラに参加する為に山に向かいました.
これらの動きに対し,北側は益々訓練を施し,武装を行い,支援を与えています.
確かに,朝鮮北部地域での治安機構はソ連仕込みであり,その効率性と残虐性は十分な抑止効果はありました.
しかし,現在では信じられない事ではありますが,当時は北の体制の方が南の臨時政府より遙かに人気がありました.
北の政府は南部のそれに比べると効率が良く,そして何よりも腐敗していませんでした.
その土地改革と新法は(あくまでも紙上のみですが),大変民主的に見えました.
民族文化と教育の意義と,それを進める為の成功した努力の結果により,多くの朝鮮人達は平壌の権力の方が,多数派の生活を改善しつつあると信じる様になりました.
また,北で生活出来ない人々は,「足で投票する」,即ち,38度線を越えて南部に逃げる事が出来ました.
こうして,北に残って純化された人々は,新体制を消極的ではあったにしろ支持をします.
従って,南が幾ら刺客を送り込んでも,対立を煽っても,それが結果に中々結びつかなかったのです.
ところで,゙晩植の辞任とその後の逮捕,そして他の民族主義的指導者達も相次いで粛清された結果,五道行政局は静かにその幕を閉じました.
けれども,ソ連が朝鮮北部で政府の原型を作る試みを破毀したわけではありません.
次の試みは,「五道行政局」に代って,1946年2月,北朝鮮人民委員会を作る試みでした.
この組織はソ連民政局の10部制と対応しており,それと対を為す様に10部制となり,この他に宣伝,総務,計画の3つの局が追加されました.
臨時人民委員会の発足後,ソ連民政局は声明を発表し,自己の任務を達成したと声明します.
以後,国の権力は地方行政機関に属する様になり,民政局個別機関の役割は主として諮問的機能に限られると表明しました.
民政局の部局,裁判所や検察の職務は,臨時人民委員会の統制下に服する事になりましたが,あくまでもこれは宣伝に過ぎず,実際の決定作成の機能は固くソ連民政局の手中にありました.
例えば,土地改革はソ連当局が準備し,北朝鮮人民委員会が実施したものです.
1946年晩春までに,もう1つ重要な変更が加えられました.
北朝鮮の共産党は,朴憲永の率いる共産党中央委員会から切り離され,独立した存在になったのです.
朴憲永の共産党は南朝鮮共産党となりました.
この改革の結果,平壌の共産党はより自由を得,一方で,ソ連当局は党の日常活動への統制を高めました.
この分割は,ソ連当局にとって米軍支配下の党中央に口を挟む事に気が進まなかった為でもあります.
こうして,以前の朝鮮共産党北朝鮮分局は北朝鮮共産党中央委員会となりました.
但し,この切り離しは漸進的に進められており,一気に変わった訳ではありません.
ですから,名称こそ1946年4月17日以降北朝鮮共産党と言うのになりましたが,5月の段階で,この問題に直接関与したソ連軍将校すら,独立した権利を持つ党なのか,全朝鮮の政治制度の地域的下部組織に過ぎないのか判らなかったりします.
この新しい北朝鮮共産党の指導者には勿論金日成が就任しました.
しかし,この共産党は新たな政敵との党争を行わねばならなかったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/11 23:30
国家と党機構の創成,経済改革と合せ,統治機構を構成するのに必要なのが,共産主義者を外敵から守る治安機関と軍です.
1946年,ソ連軍が指導し,ソ連軍顧問により訓練され,ソ連軍の装備を持つ北朝鮮軍の最初の部隊が作られました.
勿論,最初から大っぴらに軍隊で御座いとすると,南部での米軍と衝突しかねなかった為,警察軍や鉄道警備隊を装いました.
海軍も同様に,海上警察として偽装されていました.
それから2年した1948年1月,北朝鮮軍は相当な潜在力を蓄え,南部の隣人には深刻な脅威になっていきます.
2月3日には,ソ連共産党政治局は,「北朝鮮人民委員会に民族保衛の部局を作る事,人民委員会最終日に朝鮮人民軍の集会とパレードを『許す』」事を決定します.
このモスクワの決定を受け,2月8日に独自の軍隊である朝鮮人民軍の設立を遅滞なく宣言しました.
多くの朝鮮人下級将校は,中国かソ連で訓練されましたが,将軍達には主として以前のゲリラ派かもしくは中国共産党軍の将校が就任しました.
参謀総長は姜健,彼は旧満州のゲリラ派で第8旅団では金日成と行動を共にした人物です.
一方,警察部隊と治安部隊は1946年に誕生しました.
保安局は崔庸健を中心に,北朝鮮臨時人民委員会の中で創設されましたが,実際には地方警察機構は地方人民委員会の中に既に存在しており,1945年11月に起きた新義州での反共産主義学生暴動の鎮圧に当たっています.
北朝鮮の政治警察を率いたのは,方学世であり,この人物は1946年に朝鮮半島北部地域に派遣されたソ連系朝鮮人でした.
到着すると彼は直ぐに保安部門であり,朝鮮北部で最初の政治警察部門と防諜部門である国家保衛局長となり,以後,彼はその寿命が尽きるまで,北朝鮮での抑圧機構の最高監督者として生き残り,1950年代と60年代に行われた粛清の主要な演出を行いました.
そして,方学世は最後まで金日成の信頼を失わなかった数少ないソ連系の1人であり,エジョフやベリヤの様な最後を終えた訳でも無く,国内の抑圧機関のトップに君臨し続けました.
1980年代末まで彼は最高裁の長官であり,1980年の最後の朝鮮労働党第6回大会で生き延びて,党中央委員にも選ばれました.
そして,1992年に天寿を全うしたのです.
ソ連の援助は,軍事援助,人的援助,経済援助など広範囲に亘りました.
中でも,人的援助は非常に重要なものがありました.
日本が植民地として支配していた間,朝鮮人は高等教育を中々受けられませんでしたし,受けていたとしても,旧体制の特権エリートである人々である事が多く,そう言った人々は早い段階で朝鮮北部地域での改革について行けず,南部に逃亡してしまいました.
一方,逆の流れもありました.
朝鮮南部地域の左派的知識人は北にやって来て,自らの才能で北に奉仕する事を望みました.
当時,北にやって来た知識人,例えば,舞踏家の崔承喜,作家の李箕英,歴史家の白南雲,朴時亨等は北での文化的・知的生活に意味のある持続的貢献も行いますが,朴憲永と国内派が1950年代半ばに没落すると粛清されてしまいます.
こうした人々の数も,北朝鮮の国家建設にはまだまだ足りませんでした.
こうした国家建設の為に必要な人材として投入されたのがソ連系朝鮮人です.
1946年からは朝鮮系学生もソ連の大学で学び初め,1947〜48年の段階で,120名の学生と20名の大学院生がソ連で学んでいました.
勿論,朝鮮北部地域でも持続的に教育への投資が行われました.
その中でも意義の有るものは,1946年夏の平壌での金日成総合大学の創設でした.
この大学は,他の新しい単科大学も含め,民族的にはソ連系朝鮮人を中心としたソ連系講師を雇い,平壌に派遣されていたソ連の学者も雇っていました.
平壌のソ連当局は,工学や科学,それにロシア語教授と言った教育をもっと進めるべきであると考えており,その為にもより多くの専門家や大学教授を平壌に招く為に,モスクワでのロビー活動が必要であるとしていました.
ソ連は若者だけに留まらず,北朝鮮の行政組織を担っている官僚や党幹部教育も努力して手がけました.
1946年夏に民政局主導で高級幹部学校を開校し,ソ連の党幹部教育で教えたソ連型カリキュラムに則って,将来の北朝鮮幹部を教育しました.
1947年,シュトイコフは北朝鮮の為の特別高等教育施設をモスクワに開校する事を提案,1948年にはこれがソ連中央委員会によって認められ,北朝鮮特別学校が開校しました.
因みに,この特別高等教育施設の設置に関しては,スターリン臨席の下で行われた朝鮮問題の審議の中で討論されています.
この学校はモスクワ近郊のナゴルノエに開校され,機密保持もあってナゴルノエ学校と名付けられました.
その生徒数は僅か35名であり,総て北朝鮮労働党か南労党幹部達でした.
彼らはロシア語,マルクス主義政治経済学,ソ連共産党史,弁証法的,史的唯物論,党建設の理論と地理と言った具合の速習講義を受けました.
なお,1日のカリキュラムは10時間と言う促成栽培的講義であり,学生用の高級衣服も含め,総てソ連持ちであり,ソ連の職員は講師を除いて25名もいました.
たった35名の学生の為に,料理人2名,給仕2名,台所係2名,図書館員2名,医者,鉛管工各1名までいると言う至れり尽くせりのものでした.
こうした教育を速成で行わねばならなかったのは,それだけ平壌でイデオロギー教育を行う幹部達が恒常的に足りなかったわけです.
共産主義者が壊滅していた朝鮮北部地域では,他の国々と違ってソ連系朝鮮人を除き,スターリンのソ連で理解された公式的なマルクス・レーニン主義の教義で訓練を受けた人物はいませんでした.
それ故,より正統的で無い(と言うかこれがほぼ真正に近いのですが)マルクス主義者ですら,ソ連の将軍や委員に懐疑的であり,彼らを可及的速やかに再教育する必要がありました.
ところで,南労党は1946〜48年の間に米国によって非合法化されてしまいますが,しかし,その潜在的な影響力は強く,南で最も重要な政治的勢力の1つであり,大衆にかなりの支持を得ていました.
その為,南労党は国内で一連の非合法的な委員会活動を展開しました.
1947年以降,南労党指導部はソ連当局や北朝鮮当局と密接にコンタクトを取り,朝鮮南部地域の統治機関に対して武装闘争を手がけ,国内規模でのゲリラ戦を展開します.
1947年9月には平壌近郊の江東で,南の非公式活動を行う為の専門家養成機関である江東学院を作り,ソ連系朝鮮人である朴炳律がその校長になりました.
当初,学生は専ら道や地方レベルの共産党指導者であり,数ヶ月の教育を受けて南に送り返されました.
幾人かの学生は,一般的な政治教育と並行して,ゲリラ部隊を率いる事になり,この為の軍事訓練も受けています.
1948年以降南でのゲリラ活動がより活発化すると,将来のゲリラ部隊司令官の指導が主たる活動となっていきました.
南北朝鮮地域は,米ソ占領後数ヶ月の間は人と物の移動が行われていましたが,当初暫定的な統治分界線とされた38度線は,ゆっくりと,しかし確実に実質的な国境に変化していきました.
ただ,38度線を挟んだ密貿易自体は,朝鮮戦争勃発まではかなりの量で行われていました.
1947年末になると,総ての現実的目的に沿って朝鮮半島の北側で分離した国家が出現していました.
それは,国境,政府,通貨,立法,軍や警察と言った国家の属性を総て所有していました.
これは独り北だけで無く,南でも同じ様な動きが生じており,こうして朝鮮半島には38度線を挟んで別個の2つの国が存在していきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/15 22:48
青文字:加筆改修部分
【質問】
「北朝鮮共産党」は,どのようにして「北朝鮮労働党」となったのか?
【回答】
さて,朝鮮北部地域の「北朝鮮共産党」は,民族右派勢力の民主党を潰し,朝鮮南部地域の共産党からも独立した存在になり,ソ連の庇護の下,この地域の一大政治勢力として君臨する様になります.
当然,この新しい政党の指導者には金日成が就任しました.
しかし,共産主義勢力にはもう1つの流れがあります.
これは中国から帰国した共産主義者達です.
彼らは北朝鮮共産党に加わる事無く,1946年2月16日に中国共産党支配地域に存在した「独立同盟」を基礎に新民党と設立しました.
この政党は,綱領だけを見れば共産主義者のそれに近いものでしたが,いくつかの争点に於いては共産党よりもやや穏健な立場にありました.
この為,新民党は多くの知識層を含めた人口の比較的富裕層の支持を追加する事に貢献しました.
また,新民党はソ連当局からも評価されました.
この新民党が,粛清され弱体化したとは言え,依然として潜在的な脅威と思われていた民主党への対抗軸として考えられた為です.
新民党は,農民,小ブルジョワ,知識人を結集して,民主党の社会的支持基盤を削減出来ると考えられていました.
その後,7月22日に朝鮮民主主義民族統一戦線が作られました.
これは共産主義の指導的役割の下に,北部朝鮮地域での合法政党を結集したものであり,こうして総ての政党は共産主義者の厳格な指導下,つまり,ソ連当局の統制下に服す事になります.
統一戦線の設立は,東欧諸国で共産党とソ連当局の支配の為に作られた標準的な政治的手法で,この政治手法は「人民民主主義」と言う概念となりました…尤も,西側から見れば「偽りの連合」とでも言うものですが….
総ての政党をこの様な戦線組織に加える事で,共産主義者はこの戦線での内規によって指導的役割を認められ,他の政党や組織は行動の自由を組織的に失う事になります.
更に,この様な戦線組織は,選挙対策上も便利な仕組みとなりました.
1946年夏,金日成と朴憲永は秘密裏にモスクワに赴き,スターリンと話し合って支持を得た後,帰国して直ぐに共産党と新民党は合併しました.
当時,こうした共産主義政党と社会民主主義政党と言った左派政党との合同は,ソ連が事実上支配していた総ての国家で通常行われていたものです.
ポーランドでは,社会党と労働党が統一して統一労働党になり,
マジャールでは共産党と社会党が統一して労働者党,
ブルガリアでは社会党と共産党が統一して共産党,
ルーマニアでは社会党と共産党とが統一してルーマニア労働党,
チェコスロヴァキアでは社会民主党と共産党とが統一して共産党,
アルバニアでは統合すべき少数差は政党は無かったものの,共産党が労働党となります.
しかし,いずれもこれらは1947〜48年の話であり,朝鮮半島北部とドイツのソ連支配地域では統一は早くも1946年に生じています.
ドイツのソ連支配地域では,社会民主党と共産党が1946年4月に合併して統一労働者党になりました.
即ち,朝鮮北部地域とドイツのソ連支配地域は,来たるべき共産党一党独裁の試金石として左派政党の合併試験が行われ,朝鮮北部地域は,新しい政党が労働党と名乗る最初のケースとなりました.
その後,8カ国中5カ国でこの名称が採択されたのです.
時系列的に遡ると,まず統一民主戦線が設立された翌日の7月23日に新民党の中央委員会総会が開かれ,崔昌益議長が共産党との合同を提案します.
当然,この提案は中央委員会全員一致で採択され,金●奉が金日成に公式提案の手紙を書きました.
7月24日8時30分,共産党中央委員会総会がこの提案を「審議」する為に開かれ,1時間後の9時30分には金日成が公式的に同意する事を発表しましたが,当然これらの発表文は予め準備された文書であった可能性が高いものです.
7月27日には双方の中央委員会代表が会見し,7月28日には統一に関する特別委員会が開催され,7月29日には早くも新民党中央委員会第1回会議と,北朝鮮共産党龍王委員会の合同総会が開催され,統一に関する公式声明が採択.
そうして翌月には総ての道,郡,市の下部組織が統合してしまうと言う早業でした.
8月28〜30日に統一した党大会が開催され,これ以後,合同した政党は北朝鮮労働党を名乗りました.
この政党には17万人の党員を擁し,その内13.4万人が共産党,3.5万人が新民党から来ました.
但し,正確な党員数は不明であり,その数字は17〜37万人と大きな差があります.
ただ,そんなに共産主義者はいなかったのでは無いかと言うのが大方の見方です.
事実,3月1日にソ連軍政治総管理部第7課では共産主義者の数を3万人としていますし,5月20日のソ連軍将校の報告では恐らく,北朝鮮政治指導部から得た情報として,党員数4.3万人とモスクワに報告していますから,多く見積もっても17万人程度が妥当では無いかと思われます.
この政党の第1回党大会の名誉議長はスターリンであり,中央委員会と執行部がこの席上で選ばれました.
しかしながら,初代議長に選出されたのは,旧新民党所属で著名な言語学者であった左派政治家の金●奉であり,金日成ではありませんでした.
金日成は北朝鮮臨時人民委員会議長と言う執行機関の長となっていました.
党の最高指導者に金日成でなく,金●奉が選ばれたのは,新民党支持者を安心させる事を意味した可能性が高かった様です.
金日成は次席となりましたが,間もなく真の権力を保持しているのは,旧満州ゲリラ派の金日成とソ連系朝鮮人である事が分りました.
中でも,A.I.ヘガイは党運営の経験に富んでおり,金●奉は象徴的役割に甘んじざるを得ませんでした.
これは,部分的には金日成をソ連軍が支持した為であり,事実ソ連のメディアでは「朝鮮民族の指導者」として金日成は盛んに取り上げていましたが,金●奉は全くと言っていい程取り上げる事はありませんでした.
因みに,後に南部でも左派政党の統一が行われ,南部朝鮮労働党が誕生します.
しかし,1949年に統一するまでは,南北労働党は接触はあったとしても形式的には独立していました.
南部朝鮮労働党の指導者となった朴憲永は,1945年10月から平壌を非公式に頻繁に訪れ,1946年末になると平壌に永住します.
南部の朝鮮人達は,南部でゲリラ戦や非公式活動を行う為にかなりのインフラをこうして北で整備しました.
その後,大韓民国臨時政府が李承晩の下で統治を開始すると,反共の圧力が高まった為に,南部朝鮮労働党の指導部は大半が北に移り住む様になりました.
朴憲永は第25軍幹部との接触を保ち,7月には金日成と共にモスクワで密かにスターリンと会って朝鮮半島の政治情勢を協議したりしています.
●=「木斗」
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/13 23:56
青文字:加筆改修部分
【質問】
北韓の憲法制定プロセスは?
【回答】
朝鮮戦争と言う戦争は,1950年に始まりました.
しかし,実際にはそれより前に戦争は計画されていました.
北朝鮮参謀作戦本部にいた兪成哲に依ると,既に1947年初めの時点でソ連の朝鮮駐留軍部隊の将校達は,南に対する戦争計画を準備し始めていました.
ただ,北の指導者達が独自に南に対する戦争を開始するのは不可能でしたし,それにはモスクワの明示的な支持が不可欠でした.
当初,北の指導部は,ソウルの体制を電撃作戦の一撃で打倒しようと考えましたが,この計画をモスクワに持っていった所,彼らはそれを論駁してしまい,結局,1950年まで北朝鮮指導部と彼らに煽られたソ連大使館は,南に対する攻撃を許可する様,スターリンを説得する事は出来ませんでした.
この軍事的オプションは,北にとっては最初から設定されていました.
1947年3月23日,北朝鮮労働党第2回大会が開催されましたが,これは朝鮮民主主義人民共和国が宣言される前に開催されたもっとも意義ある党大会でした.
この党大会に於いて,副議長を務めた(因みに北朝鮮労働党党首は金●奉)金日成は,朝鮮北部地域を「民主主義の基地」と呼んでいました.
この呼称は,内戦時に中国共産党が支配する地域である「革命根拠地」と同様の意味です.
その後,独立国家となる準備が急速に進み,1947年秋には北朝鮮憲法起草準備が開始され,北の独立は秒読み段階に入ってきました.
11月18日,北朝鮮最高人民会議は,憲法起草作業を始める公式決議を採択し,金●奉を中心とする臨時起草委員会を選出しました.
とは言え,スターリン型の政治体制を取る国に於いては,憲法は顕著なまでに装飾的な意義でしか無く,国家の政治的機構にとって実質的な意味は乏しいものです.
しかし,国民国家の建設というプロセスに於いて,憲法の制定というのは重要な一里塚になりました.
1948年2月初旬には,1936年スターリン憲法に漠然と似て,「人民民主主義革命」と言う概念を採用した「臨時憲法草案」が「公的審議」の為に出来上がりました.
この「公的審議」と言うプロセスを経る事は,1948年2月23日にソ連共産党政治局が決定した事項であり,それに忠実に則って,北側も従いました.
こうして,人民会議の議題に至る総ての事柄が,モスクワの事前承認で確認されました.
因みに,憲法草案は先ずモスクワに検討用に送られ,ソ連共産党中央委員会の専門家が注意深く検討しています.
その結果は必ずしも褒められた訳では無く,ソ連共産党中央委員会国際部は1ダースもの修正意見を付けて,平壌にこれを送り返してきました.
そして,その草案は,モスクワからは否定的に評価されました.
その評価にはこうあります.
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朝鮮民主主義人民共和国臨時憲法草案の主たる欠陥とは,現存する政治経済関係や,国の人民民主主義の発展水準を良く反映してはおらず,逆に悪く反映している.
多くの条文は良く編集されていない.
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この様に否定的な意見が出されたとは言え,実際に最終判断をするのは最高指導部,つまり,ソ連の政治局とスターリン自身でした.
4月24日の深夜から明け方にかけて,スターリン自身が参加して朝鮮情勢に関する特別会議が開催されます.
この会議では,スターリンの他に共産党イデオローグのジダーノフ書記,モロトフ外相,そして,意見を述べる為に平壌からモスクワ入りしたシュトイコフが参加しています.
この会議の議題は,朝鮮半島に於ける軍事問題,政治局で採択された憲法問題,独立北朝鮮国家創立の為の他の問題でしたが,シュトイコフの弁舌が良かったのか,この会議の結果,憲法に関しては草案の批判に完全に与せず,第2条,第14条をモスクワで完全に書替え,第6条を拡大すると言う3点の修正だけ.
しかも,第2条の完全改訂と臨時憲法から「臨時」と言う文字を削ったのはスターリン自身でした.
そして,この会議の結果,朝鮮政府の選挙日程と,平壌に基礎を於くものの,「全朝鮮」を代表する政府を作る計画を最終的に承認します.
4月28日,最高人民会議の特別会議で,憲法は公式的に承認されます.
とは言え,実際にはモスクワで最終的承認が行われていたので,それが覆る事はありませんでしたが.
7月には再度モスクワからの指示で,第5会議に於いては,最終的な祖国統一までは憲法は国家の北半分でのみ有効と言う事になりました.
これ以降,北側指導部は南の政府を一切認めようとせず,朝鮮半島で唯一正統な政府であると言う事になったのです.
勿論,1948年8月15日に発足した大韓民国の李承晩政権も,北の隣人に対して非和解的で,好戦的とは言い難いまでも北と同様な立場を取ります.
そう言った意味で,南北の戦争は,互いの政府にとって,外国勢力に支持された一握りの裏切り者によって占領された地域に対し,大規模な警察行動によって秩序を回復し,正統な権力を打ち立てると言う問題以上のものでは無いと言う訳で,双方で完全に正当であり,且つ憲法的な行為となったのです.
ところで,半島北部に共産党権力を打ち立てる以前に,ソ連の支援を受けた北朝鮮当局は,巧妙な宣伝による策謀を巡らします.
韓国の民族主義者達は,国連に支援されて分離選挙をしようと考えていました.
彼らが正統だとの主張に反論する為に,平壌は全朝鮮レベルでの政党や組織からなる協議会を開催し,これは最終的に単一朝鮮政府を打ち立てる為の妥協と見做されました.
この会議は,4月18日から23日に開催され,ソ連当局も4月12日にこの会議開催に承認を与えます.
つまり,ソ連共産党政治局は「金日成同志」に協議会を開く様「忠告」したのです.
そして,ソ連共産党政治局は協議会の議題を作文しただけで無く,そこで採択される決議まで「忠告」していました.
それによれば,協議会では以下の決議を行うべきとされました.
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1. 朝鮮人民が参加していない「国連」総会と理事会の決定を総て非難する.
2. ソ連による南北朝鮮からの外国軍隊撤兵提案を支持する.
3. 朝鮮から全軍対を即時撤退し,全軍対が引上げてから全朝鮮での統一選挙を実施する.
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この甘い罠に掛ったのが民族主義者の長老で,李承晩に疎んじられていた金九でした.
金日成は,金九に対して,北朝鮮は先に分断政府を作る事はしないと請け合い,金九が平壌でこの協議会に参加し,金日成と友好的話し合いをした事は,北朝鮮にとってかなりの宣伝効果を生み出し,南部の右翼と米国がスポンサーになって行われた分離主義的陰謀に対する,朝鮮統一の確固たる支持者として描く事に成功しました.
元々,北朝鮮当局もソ連民政局も,朝鮮民主主義人民共和国を分離国家とする事には反対でした.
それどころか,全朝鮮半島を代表する唯一の正統政府であるとして提示する事になりました.
今度制定される朝鮮民主主義人民共和国憲法はその点全く曖昧さはありませんでした.
例えば,憲法上,朝鮮民主主義人民共和国の首都として規定されているのは,ソウルであり平壌ではありません.
これは1972年に憲法が改憲されるまで続きました.
4月24日,スターリン臨席の会議の結果,憲法草案と共に,全朝鮮での選挙方針が最終的に決定され,平壌に送られました.
この方針は以下の様なものでした.
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もし,南朝鮮で単独選挙が行われ,(分裂した)臨時政府が形成された場合は,同志シュトイコフは金日成同志に北朝鮮最高人民会議の特別会議を開催し,次の決定を行わなければならない.
1. 朝鮮統一までは朝鮮民主主義人民共和国の臨時(憲法)草案は,北朝鮮で有効で有るべき事
2. 朝鮮最高人民会議の選挙が憲法に従って行われるべき事
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この勧告による選挙は,「共産主義者の」選挙を,南北朝鮮で行われる全朝鮮レベルの選挙とされました.
但し,南では「二段階で非合法選挙」を行うものとされ,第1に各郡では海州に集合すべき7〜8名の代表を選出し,そこで,360名の南部選出最高会議代議員を選出します.
左派の活動家は戸別訪問で,左派に同情的な家を訪ね,票を集めました.
当然,結果は左派に有利であり,投票結果が客観的でありようも無かったのですが,それでもかなりの人々が総選挙に参加しました.
8月21〜26日に約1,100名の代議員が海州に集まり,360名の代議員を選出しました.
8月25日には,北部朝鮮でも最高人民会議選挙の投票が行われ,当局は投票率99.97%と豪語しました.
9月2日,平壌で最高人民会議が開催され,572名の議員が参加しました.
北からは212名が参加し,102名(48%)が北の労働党員であり,天道教清友党と民主党が35名(16%),最高人民会議全体では,南北労働党が157議席(27.5%)を占め,他の集団を圧倒しました.
因みに,第2党は7%にしか過ぎないものでした.
9月8日,憲法は全員一致で採択され,9日に朝鮮民主主義人民共和国が誕生します.
因みに,この国名はN.G.レーベジェフ将軍が提案したものであり,彼は朝鮮側から出されていた「朝鮮人民共和国」という名称を拒否しました.
もし,人民共和国になっていたら,中国よりも先に「人民共和国」を冠した国が出来ていた訳です.
金日成は首相に就任.
一方,金●奉は最高人民会議議長となり,権力の座からは一歩後退します.
10月7日,ソ連政治局はスターリンの名前で1通の指示を送りました.
それにはこうあります.
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朝鮮政府はソ連政府に外交関係を確立する様申し込む事を勧告する.
朝鮮政府に対するソ連政府の回答を承認する.
他の人民民主主義共和国(因みにアルバニアは含まれていない)とモンゴル人民共和国に外交関係を申し込む様勧告する.
------------
この忠告は完璧に実行され,朝鮮民主主義人民共和国は,「偉大な社会主義陣営」に加盟し,新しい1歩を踏み出す事になる訳です.
●=「木斗」
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/16 23:51
青文字:加筆改修部分
【質問】
共産政権誕生直後の,北韓における「改革」は,どのようなものだったのか?
【回答】
さて,政治的に人民民主主義を取る政体で最も重要な儀式は,土地の再配分です.
朝鮮北部では,1946年3月5日には土地改革に関する新法が出て,実行に移されました.
これは北朝鮮人民委員会により発効され,金日成の署名のある文書でしたが,実際にはソ連民政局の専門家の起草であり,この為にレニングラードから招請された2名の農業経済専門家の手に依るものです.
法律に依れば,日本の法人や個人に属する土地や,それらに賃貸借していた人物の土地のみを没収して再配分する事になっていましたが,実際には地主の民族には関わりなく,5町歩を超える土地を持つもの総てに適用され,没収した土地は貧農間で再配分されることになっていました.
形式的には,この様な土地は人民委員会が監督するとされていましたが,実際には地方に於けるソ連民政局とソ連軍当局の緊密なコンタクトと指導の下に置かれました.
この土地改革は法律の17条に於いて,1947年3月までに完遂すべきものとされました.
しかし,実際にはそれはより早く行われ,1946年3月末までには完遂されました.
このプロジェクトは総じて成功し,北での新体制の安定と,土地不足が深刻な南での人気に寄与しました.
ただ,実際には課税が実際厳しく,紙の上での印象とは又別だったのですが….
此の後,改革の全般的スピードは加速されます.
特に,民族主義者と決別した事は重要でした.
8月には産業国有化が進められました.
これも,表向きは地方当局に代わって行われた事になっていますが,土地改革と同様,この政策もシナリオはソ連民政局によって準備されました.
これまた,法令の文言に依れば,日本人とその協力者の所有物のみが国有化される事になっており,この手段は,「社会主義」綱領では無く,「人民民主主義」の範囲内である事が目指されていました.
しかし,実際の所,日本の植民地権力と無縁な企業は,零細のそれでしか無く,大規模,或いは中規模の企業は総て日本の当局と協力せざるを得ませんでしたから,結局,殆どの大企業,中企業は国有化される事になりました.
こうして,南北両地域での経済構造は全く異なる道を歩む様になります.
朝鮮半島南部地域では資本主義経済が維持されましたが,北部地域では着実にソ連型の統制経済に移行していき,1947年2月には朝鮮北部最初の経済計画が採択されています.
更に,この分断を決定づけたのは,1947年12月の貨幣改革であり,北は独自の通貨圏を形成して完全に南から独立してしまうことになります.
土地改革,産業国有化に続く改革として,1946年9月5日,北朝鮮臨時人民委員会は11月3日に道,州,市委員会での選挙を実施する事を決めました.
これにより,更に独立国としての体裁を進める事になります.
今までの人民委員会は選挙機関では無く,ソ連当局により承認された,共産主義者と民族主義者の政治的活動家により構成されていました.
1946年2月以降,総ての重要立法は人民委員会名で為されましたが,この人民委員会は法的な根拠が曖昧な存在でした.
それを選挙を経る事によって,形式上民主的に選出された国民の代表から構成された立法機関を作る事になる訳です.
勿論,この点に於いて,朝鮮労働党が負ける訳がありません.
選挙期間中,望まれない「事件」を避ける為に,特別の行政的・政治的な手段が講じられました.
労働党はソ連軍事当局により許可された総ての政党と社会組織を包含する様な,共産主義者により統制された組織である民主主義民族統一戦線に参加しました.
各選挙区には総ての合法政党,組織を代表する統一戦線から只1人の候補が参加しただけでした.
つまり,有権者には3つの選択肢しかありません.
1つは公認候補に入れるか,第2にその候補に反対票(他の候補に入れる可能性は無いにしろ)を投じるか,最後に棄権するかの3つです.
とは言え,投票は秘密とされたものの,賛成と反対の白と黒2つの投票箱が作られ,反対の投票箱に近付く人達に対して,権力側は容易にスポットを当てて,彼らを監督下に置く事が出来る様になっていました.
また,棄権するのも危険な行為でした.
これは選挙の忌避だけでなく,政府系候補そのものに対する投票の必要性を避けようとしている人間であると見做される為です.
この様な環境で,投票率が低いはずがありません.
公式データは,99.6%が選挙に参加し,そのうちの97%が賛成票を投じました.
11月の選挙に続き,1947年2月には村人民委員会選挙が行われ,これまた公式参加率が99.82%,そのうち86.38%が政府系候補に賛成票を投じました.
3月に郡での人民委員会選挙が実施され,投票率は何と99.9%,賛成はそのうち96.2%となっています.
こうして選出された70,454名の代議員中,29.3%は無党派,57.7%は労働党員でした.
残りの7.7%は今や労働党の傀儡に堕した民主党,5.7%は天道教青友党です.
ただ,既に配分のシナリオが決まっていたとは言え,労働党への議席配分は半分を少し超える位で,まだ非共産党勢力が合わせて4割を占めると言う状態であり,北朝鮮労働党による権力独占はまだ少し先の話でした.
1947年2月17日,平壌で第1回人民委員会大会が開催され,その大会の名において新しく金日成を中心とした北朝鮮政府が形成され,ある種の議会としての最高人民会議が創設されました.
因みに,これらの行動はソ連当局の合意の下,或いは屡々直接の指示に依って為されていました.
例えば,人民委員会会議招集は,1946年12月19日にシュトイコフ大将,メレツコフ元帥とロマネンコ少将が計画した事であり,この段階では朝鮮人は誰も参加していません.
彼らの協議により,人民委員会から秘密投票で選ばれた代議員1,153名が大会に参加する事になりました.
代議員はそこから定員231名の北朝鮮最高人民会議を選ぶ事になります.
その代議員の構成比率もこの席上で決められました.
それに依れば,北朝鮮労働党が総議席数の35%,天道教青友党と民主党は各15%を割り振られ,非党員は35%の議席を得る様にしています.
更に,女性の議席配分は15%に固定される様に意を払い,将来の議員の社会的構成まで予め決められました.
これは40名の労働者,50名の農民,知識人45名,商人10名,企業家7名,聖職者10名,職人10名の合計172名となります.
最初に出た231名とは59名の差がありますが,実はその59名は労働党幹部が占める事になっていました.
これは極めてソ連式で,「正しい社会集団」は,党機関が事前に決定した結果に従って代表を出す事になります.
実際には,最高人民会議議員は237名となり,52名の労働者,62名の農民,36名の知識人,10名の商人,7名の企業家,10名の聖職者,4名の職人が選出され,更にその差である56名は「事務員」となっています.
この事務員は,ロシア語のSluzhashchii(職員)を翻訳したものであり,これが党幹部の事を指していました.
何れにしても,その選挙結果は,将軍達の示唆の通りに進んだわけです.
金日成はその事を全く知らされていませんでした.
それを金日成等党幹部に知らされたのは,将軍達の計画がモスクワに送られて承認を得た後,1947年1月2〜3日の事でした.
まぁ,それにしてもこの選挙結果,何処かの国の政党は喉から手が出る位欲しいでしょうねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/14 23:36
青文字:加筆改修部分
【質問】
北韓は「建国」後,どのように軍備を整備していったのか?
【回答】
1947年2月,金日成を委員長とする北朝鮮人民委員会が成立しました.
これは前年に発足した臨時人民委員会から発展したもので,事実上の政府でした.
これを基礎に,1948年9月に朝鮮民主主義人民共和国が創建され,金日成がその新政府の首班となりました.
これに先立つ1948年2月,朝鮮人民軍が創設されました.
そして国家成立と同時に,ソ連は軍事顧問団を3,000人だけ残して北朝鮮から撤退します.
その際,ソ連軍は保有していた全ての武器や弾薬,装備を朝鮮人民軍に引き渡しました.
それには,T34型戦車60両,自走砲,サイドカー,トラックなどの軍用車輌,Il-10攻撃機,Yak-9戦闘機などの空軍機100機が含まれていました.
1949年3月,金日成は訪ソしてIosif Vissarionovich
Stalinと会談し,3月17日に朝・ソ経済文化協定を締結しました.
これは5箇条から成り,両国間の通商発展,文化・科学・芸術・産業分野の交流・協力関係の促進を協定するものでした.
一方で秘密軍事協定が締結され,兵器供与と軍事訓練の機会の提供が行われる事になっています.
これで引き渡されたのは,空軍向けに,
Il-10攻撃機34機,
Yak-9戦闘機,
Yak-11/18練習機合計60機,
Po-2連絡機4機,
AM-42エンジン(予備用)6台,
パラシュート250セット,
各種部品35万ルーブル分,
陸軍向けにT34型戦車87両,
SU-76型自走砲102両,
BA-64型装甲車57両,
M72型サイドカー122両,
車輌関係の予備部品20万ルーブル分,
小銃15,000挺,
45mm対戦車砲48門,
76mm野砲73門,
122mm榴弾砲18門,
小銃弾薬1,275万発,
各種砲弾21.2万発,
82mm迫撃砲弾7.9万発,
12.7mm機銃弾15万発,
各種牽引車72両,
海軍向けに上陸用舟艇12隻,
魚雷艇などの各種海軍装備,
通信機器など60種です.
これにより,朝鮮人民軍の装備は飛躍的に強化され,
空軍機192機,
戦車173両,
自走砲176両,
装甲車60両,
37mm高射砲24門,
85mm高射砲24門,
82mm迫撃砲1,223門,
120mm迫撃砲172門,
45mm対戦車砲586門,
76mm野砲464門,
122mm榴弾砲120門
を擁するまでになります.
但しこれらの兵器は,Iosif Vissarionovich
Stalinの贈り物ではありませんでした.
彼はきっちり金日成から代金を取り立てています.
つまりソ連側にとって見れば,これは一種のBusinessだった訳です.
見返りは北朝鮮の産品でした.
その総計は,1949年に約2.6億ルーブル分に達しています.
そのうち,金が6.6t,銀は26.8tを占めており,金額的に28%に達し,産出のほぼ全てがソ連向けに輸出されていました.
また,合金鉄は生産された全てが輸出され,
セメント,黒鉛は生産高の5〜6%ですが,
電気亜鉛70%,
銑鉄31%,
化学肥料26%,
その他フェロシリコン,鉛,亜鉛,電解銅,硫安,カーバイド,苛性ソーダ,洗濯石鹸,澱粉,精米など48品目に及んでいます.
このほか,北朝鮮から輸出された鉱物で重要だったのが,モナザイトです.
これは通称「M精鉱」と呼ばれていたもので,放射性元素を含む鉱物でした.
ソ連には1949年に5,700t,1950年上期に2,200t輸出されており,平北・鉄山郡の鉱山地帯では,2.3万人の労働者が24時間態勢で年間1.8万tの黒砂精鉱(モナザイト原鉱)を採掘し,その産出量の半分を選鉱して,ソ連に送り,見返りに戦車,小銃,トラックを得ていました.
こうした現物の他,金日成は兵器供与の見返りとして,清津,羅津,雄基の3港をソ連側に,潜水艦基地として30年間使用する事を認めたと言われています.
北朝鮮成立前の1947年3月25日には北朝鮮人民委員会とソ連対外貿易省が,3港を30年間,朝ソ海運株式会社と言う,北朝鮮とソ連の合弁会社に貸与する事に合意しており,1949年4月には,少なくとも羅津と清津西港を管理していました.
1970年代になっても羅津港をソ連が独占使用しており,1978年12月31日には朝ソ間で,「羅津港使用に関する協定」を締結しており,その使用協定は更に延長されたとされています.
尤も,今は未だ,闇の中だったりしますが.
因みに,Iosif Vissarionovich Stalinは,中国に対しても,供与した軍需物資に対する代価を要求しています.
これは1949年当時でも,ソ連がドイツとの戦争の痛手から回復しきっていなかった事が挙げられます.
この為,経済的な復興を早め,次の戦争に備える為にも,こうした国々からは商行為として,軍需物資の売却をしていた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月06日21:32
北朝鮮は,ソ連から兵器を買い付けていたのですが,流石に,毎回莫大な額の産物を要求されるので,国産化の道を模索していました.
嘘か誠か判りませんが,金日成は,日本の敗戦直後に日本軍の兵器修理所を視察して,兵器工業の育成策を練ったとか….
その兵器修理所とは,1918年9月に東京砲兵工廠所属の朝鮮兵器製造所として創設した,平壌兵器製造所でした.
この兵器製造所は,1945年には仁川陸軍造兵廠に属していましたが,1935年当時の敷地面積は20万坪で,隣接地には平壌兵器補給廠(旧陸軍兵器廠平壌出張所)があり,敗戦時には6,000名(うち朝鮮人5,000名)が働いていました.
この兵器製造所の主要生産物は爆弾と弾丸で,弾丸製造能力は月間18万発(年間200万発強)だったそうです.
因みに敗戦時には,空襲に備えてこれらの施設は平壌から10km離れた岩山の中に,平壌刑務所の囚人を使役して地下工場を建設しており,これは,敗戦時90%まで完成していました.
金日成は,その施設に目を付け,ソ連軍に分捕られなかった設備や,技術者,労働者を総動員し,国内兵器工業の中核に育てる事になります.
1947年9月には,機関銃の試作が開始され,1948年3月にその試作品第一号が完成しました.
これを記念して金日成は,1948年12月12日に,「国家試験射撃行事」を大々的に実施し,この施設を用いて,迫撃砲,手榴弾,弾薬,砲弾の製造をする様,北朝鮮人民委員会副委員長で産業相に就任していた金策に指令しました.
こうして,この工場は1949年2月に設備を拡張し,以後この工場は「65工場」と言う名称で呼ばれる事になりました.
1948年11月に,この工場ではソ連人顧問3名と朝鮮人民軍人1名の統率下に1,500名の労働者が働いていました.
このほか,平壌市平川区域の旧陸軍造兵廠(今の3月25日ベアリング工場),咸興の本宮化学工場でも,機関銃,弾薬,火薬が生産を開始しました.
1949年の生産実績は計画をやや上回り,生産が順調に進展していました.
因みに,こうした兵器の原材料は,自前で供給出来ていました.
鉄鋼は戦前に,普通鋼から特殊鋼までの生産体制が整っており,弾芯用の硬鉛の産出,精錬体制も整っていました.
更に,被甲用の純分99%以上のニッケルについては,1948年に電解ニッケル生産設備を最優先で整備しており,爆薬,火薬についても,戦前の設備を用いて大量産が行われ,それらのうちの一部は,朝鮮半島で日本軍から押収した10万挺の小銃と共に鎮南浦港から大連経由で山東省に運ばれたり,旧満州に運び込まれたりして,国民党軍と戦闘中の中国共産党軍に供給したりさえしています.
但し火薬については,主にコールタールから製造される石炭酸に硝酸を加えて合成した,ピクリン酸であって,TNTについては1950年代半ばにソ連技術者の指導によって製造が開始されるまで国産化出来ていませんでした.
流石に車輌は自給出来ていませんでしたが,1949年8月には朝鮮造船工業元山造船所の後身である元山造船所で,最初の海軍警備艇が建造され,同型船は朝鮮商工鎮南浦工場造船部の後身である南浦造船所でも建造されました.
光学兵器は,戦時中に硝子製造用硼砂工場が立ち上がっていた為,南浦に硝子製造工場を建設し,此処で光学兵器を製造しています.
兵器以外で軍関係のものは,東洋製糸の後身である沙里院紡織工場で,軍服を1949年に30,044着製造し,これは作業服関係の生産量99,383着の30%に当たる数字でしたし,軍靴についても,国共内戦中に中国共産党軍に供給する能力を有しており,他にも民需工場を軍需工場へと次々に転換していった様です.
一方,南は米軍政下で,こうした戦争に繋がる設備の解体を命じ,例えば,三菱製鋼仁川製作所の兵器用鋼製造設備や製品を廃棄させています.
更に,日本人技術者は早急に帰国させてしまい,技術を継承すべき韓国人技術者の育成を図る事はありませんでした.
また,接収した日本企業は,無秩序に払下げられたことによって,産業復興が進まなくなると言う悪循環に陥り,兵器産業は,1949年に仁川の旧朝鮮油脂火薬工場を陸軍兵器工場としたのが最初で,兵器廠としての組織の確立は1950年にずれ込んでしまいます.
金日成が,南部の併合が容易と見なしたのは斯うした事も一つの遠因になったのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月07日23:10
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