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◆◆◆三国時代以降A három királyság korszaka
<◆◆戦史
<◆韓国
東亜FAQ目次


 【link】


 【質問】
 百済と倭国の関係は 英国と米国みたいなもんでそ?

 【回答】
 いや,全然違う.

 史料によれば,
百済の主な住人は不明だが,倭人ではない(おそらく新羅と同種).
百済の支配層は扶余系.
倭国の主な住人は倭人.
倭国の支配層も今のところ,倭人であることを否定する証拠なし.

ということになってるので,百済と倭国は今のところ人種的関連はない.

 半島南部に倭人が住んでいたことは,史書にもある.
 ただ,百済の支配的住民層が倭人だったというのは,さすがに無理があるね.

 ちなみに日本の神話だと,どっちかというと百済よりは新羅と縁がある話が多い.

世界史板
青文字:加筆改修部分

▼ ただなあ,言語的には,高句麗・百済の扶余系が多いと思うんだよなあ.
 高句麗語の数詞との一致数や,百済旧都「古莫那羅=コムナル」と「久麻那利=くまなり」,の表記とか.
 「南加羅」を「ありしひのから」と読む点は,私は訓読みの元祖では,と思ってますし.
 白村江(はくすきのえ)とかも.

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 扶余豊璋って誰?

 【回答】
 扶余豐璋(ふよ・ほうしょう)は,百済最後の王,義慈王(在位641年 - 660年)の王子.
 生没年不詳.
 『日本書紀』によれば舒明天皇3年(631年)3月,日本と百済の同盟を担保する人質として日本に渡る.
 日本側は太安万侶の一族,多臣蒋敷(おおのおみこもしき)の妹を豊璋に娶わせるなど,賓客として待遇した.
 ところが660年,唐・新羅の連合軍が,百済を滅ぼした.
 百済を征服した唐軍は大部分が引き上げ,1万の駐留軍が残るだけだったので,百済の王族である鬼室福信らが,百済を復興すべく反乱を起こしており,豊璋は,安曇比羅夫,狭井檳榔,朴市秦造田来津が率いる日本兵5000と軍船170艘と共に帰国して,これに合流.
 この派兵は,当時大和朝廷にて実権を握る中大兄皇子の意思によるものだった.
 豊璋は百済王に推戴されたが,次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれ,663年6月,豊璋は鬼室福信を殺害.
 これにより百済復興軍は著しく弱体化し,唐・新羅軍の侵攻を招くことになった.

 豊璋がなんでこんなアホなことをしたか,詳しいことは不明だが,
> ただ,豊璋が帰国するとき,日本は彼に織冠の官位を与えたばかりでなく,多臣蒋敷の妹を娶らせた.
> だとすると,たとえ日本の援軍によって百済が復活し(ても),豊璋が国王になれば,復活した百済は日本の属国になってしまうことになる.
> 確かに福信は豊璋の帰国と日本の援軍を要請はしたが,このことを予想できなかったはずだ.
> 豊璋に対する彼の不信感が,内訌の原因になったのではなかろうか.
と,姜在彦は想像している.

 豊璋は周留城(チュリュソン)に籠城して日本の援軍を待ったが,8月13日,城兵を見捨てて脱出し,日本の援軍に合流.
 しかし8月27~28日の白村江の戦いにおいて,日本・百済連合軍は大敗し,豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れた.
 668年,高句麗が唐に滅ぼされると,豊璋は高句麗王族らと共に唐の都に連行され,その中で豊璋だけが嶺南地方に流刑にされたという.

 なお,「中臣鎌足の正体は扶余豊璋」説を唱えている人もいるが,私見では根拠は非常に薄い.
 調べてみると,それどころか「斉明天皇と高句麗の宝蔵王と百済の扶余豊璋は同一人物」説を唱えている人までいるらしい.
 「言ったもん勝ち」かよ……

 【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.58-59
http://www.geocities.jp/zizhitongjianjp/201.html
http://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/201209220000/


 【質問】
 韓国海軍に KWANGGAETO-THE GREAT「広開土大王」(在位391-402)という駆逐艦がありますが,高句麗の韓国での歴史的位置づけはどうなっているのでしょうか? 鴨緑江以北に興った高句麗の王はやはり韓国の祖なのでしょうか? 民族的にも同じなのでしょうか?

 【回答】
 (1) 韓国の歴史認識は,アカデミズムと,ナショナリズムに根ざした在野の歴史家で,かなりの相違があります.
 現在の韓国の歴史教科書が檀君を神話と明記せずに5000年の歴史(半万年と言っています)があると記載しているのは,ナショナリズム主導の在野の歴史家が政治的に運動した結果です.
 このような事態を背景に,過去の歴史の建て直しと称して,古代の朝鮮が広大な領土や勢力圏を持つ強大国であったという主張もされており,かつての高句麗やその北方も領土としています.

 (2) 現在の朝鮮半島は韓国と北朝鮮に分かれており,特に北朝鮮は高句麗を先祖として位置付けています.韓国も上記のような事情で先祖としています.

 (3) 韓国朝鮮人はもともと,女真系民族を「オランケ」という蔑称をもって呼び,野蛮人だと見なしていましたが,ナショナリズムの肥大化とともに,現在では扱いをあいまいにして,使い分けている状況です.

(世界史板)



 【質問】
 小学生のときに使っていた歴史の教科書に,日本兵と思しき人物が,広開土王碑に碑に手を加えている写真が載っていたことを覚えています.
 あれは改ざん写真だったのでしょうか?(HN "昭和38年生まれ")
 【回答】
 その写真を見た韓国の学者イ・ジンヒという人が
「日本による朝鮮支配を正当化する為軍部が改竄した」
とする説を発表しましたが,90年代に入って中国で取られた拓本が発見され,その拓本と日本の軍人が取った拓本が一致することから,単に拓本取ってただけで何も手を加えていないことが判明しております.
 ただ,韓国では任那日本府と共に否定されます.

 なお,厳密に言うと,日本の軍人が現地で取ってきたのは,いわゆる拓本ではなく,「墨水廓填本」とか「双鉤加墨本」などというものです.
 これは,先にとられた文字の見づらい拓本の字画をなぞって,別紙に文字の輪郭を写しとり,その輪郭の外を墨で填めて拓本らしく仕立てたものです.



 【質問】
「中国吉林省輯安県にある好太王碑を日本軍の砲兵大尉,酒勾景信と参謀本部が改竄した」
と在日朝鮮人学者の李進熙が主張してますが,この説の真偽はともかく,何故参謀本部が好太王碑文に深く関わったのでしょうか? 本来は学者の領分では?

 【回答】
 深く関わったわけではないです.
 単に酒匂さんが参謀本部から派遣された諜報員だったので,酒匂さんは,持ち帰った資料を,職場で分析しただけの話です.
 碑文のサイズが幅2m×高さ6mとあっては,自宅で広げられないでしょ?

鷂 ◆Kr61cmWkkQ


 【質問】
 楊萬春って誰?

 【回答】
 楊萬春(ヤン・マンチュン Yang Manchun)は,高句麗末期の将軍.
 名将というより名物将軍.

 645年,唐の皇帝・太宗は兵力10万をもって高句麗遠征を行い,かつて煬帝が苦戦した遼東城(ヨドンソン)を陥落せしめると,安市城(アンシソン)に迫った.
 安市城は戦略的要地であり,その周辺は遼東でも有名な鉄の産地でもあった.

 その安市城の守将が楊萬春であり,兵10万をもって城を守備していた.
 高句麗の宮廷において淵蓋蘇文がクーデターを起して,栄留王および親唐派の貴族たちを皆殺しにした(642年)とき,楊萬春は彼の権力を認めず,淵蓋蘇文の軍勢に安市城を攻撃される結果を招いた.
 しかし城は長期にわたって持ちこたえ,二人は結局妥協.
 淵蓋蘇文は楊萬春の職権を認め,楊萬春は新しい執権者である淵蓋蘇文を承認することとなった.

 さて,唐軍は安市城城外において,淵蓋蘇文が遣わした,城救援のための高句麗軍15万を殲滅.
 城を包囲した.
 しかし城はなかなか陥落しない.
 そこで太宗は,城の東南に土塁を築き始めた.
 しかもただの土塁ではない.
 城の内部が見えるほどの高い山を作り,城を攻撃するという作戦だった.

 ところが豪雨が降って,土塁が土砂崩れ.
 城壁の一部も破壊されるほどであったが,楊萬春はこれを逆手に取って,混乱に乗じて土塁を占領.
 その土塁から唐軍へ逆に攻撃をかけるなどした.

 やがて冬が来て,太宗のモチベーションも下がり,撤兵.
 遂に楊萬春は城を守り切った,という.

 しかしよくよく考えてみれば,そもそも唐軍の侵入を招いた原因は,淵蓋蘇文が親唐派を皆殺しにしたことに太宗が激怒して,
「弑君虐民の罪を問う」
という大義名分を掲げて攻めてきたことにあるのであり,それについて楊萬春はいったいどう思っていたのやら.

 後に高句麗は668年,唐・新羅連合軍によって滅ぼされるが,楊萬春は安市城にて最後まで抗戦.
 気骨を見せた.

 生没年は不詳であるという.

 【参考ページ】
http://www7a.biglobe.ne.jp/~hiro-1969/history-yongesomun-.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Yang_Manchun
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%90%AC%E6%98%A5
資治通鑑/卷198 - 維基文庫


 【質問】
 356年,辰韓12国を斯盧が統一して建国した新羅については,唐と組んで白村江の戦で日本を敗退させたり,任那を滅ぼしたり,唐にまで圧迫を加えたりと,とても強国のイメージがあります.
 なぜ新羅はこのように強国だったのでしょうか?

 【回答】
 新羅が強いんじゃなく立ち回りが上手かっただけでは?

▼ 任那を滅ぼしたのは百済だし,その百済を滅ぼしたのは唐だし,新羅は唐の属藩に収まるしかなかったわけだし.
 任那を滅ぼしたのは百済だし,その百済を滅ぼしたのは唐・新羅連合軍だし,新羅は唐の属藩に収まるしかなかったわけだし.▲

 唐の側も遠交近攻策として新羅を利用したんだろう.
 実際に高句麗,百済,白村江の戦いで敵を滅ぼしたり撃破しているのは唐なんだし.
 新羅自身は高句麗と百済に結構攻め込まれて敗退してる.
 後に新羅と唐が対立した時に,新羅の軍隊だけでは唐に勝てないと確信した新羅は,高句麗人・百済人・靺鞨人の編成部隊である,「九誓幢」と呼ばれる9つの部隊が活躍したお陰で,唐を朝鮮半島から追い出す事が出来た訳だし.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「花郎」って何?

 【回答】
 花郎(ファラン)は新羅の男巫,および男巫を中心とした青年組織.
 後者を特に「花郎徒」と呼ぶ.
 貴人の子弟の社交クラブのような集団であり,一義的には教育的機能を帯びた宗教的機関であった.
 が,時代が下って李朝時代には,花郎は男のシャーマン,シャーマンの夫,芸人,舞童,遊女などを指すようになっている.

 なお,韓国では第二次世界大戦後,ナショナリズム的理由から花郎軍事組織説が定着しているが,根拠に乏しい.
 建国大のシン・ボンニョン教授によれば,朝鮮戦争のとき,李承晩大統領は青年の愛国心が必要であると考え,当時の陸軍本部の政訓監で,のちに精神文化研究院長となった歴史学者 イ・ソングンに,韓国史から青年文化の遺産を発掘するように指示.
 これに従って彼が「花郎徒研究」(1954)を出版し,それから花郎は一夜にして韓国史で最も偉大な青年文化の遺産として注目されるようになったという.

 「日本の武士のルーツは花郎」という珍説は,こうしたプロパガンダ的捏造を,さらに拗らせた産物でしかない.

 【参考ページ】
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/3249/hwarang.html
http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/whis01.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1088850650
http://www.geocities.jp/shakariz77/hwarang.html


 【質問】
 高麗って何?

 【回答】
1)
 高句麗の別名.

2)
 渤海の別名.

3)
 後高句麗の将であった王建が,後高句麗を乗っ取って918年に建国した国であり,936年には後百済を滅ぼして韓半島を統一した.
 文臣(文班)と武臣(武班)を官僚とする,両班(ヤンパン)という政治制度を導入したが,文臣と武臣の対立が続いた.
 対外的にはモンゴルの襲来をしばしば受けたが,1259年,元朝に降伏して属国となり,元末期にには倭寇と中国の紅巾軍の進入により弱体化,1392年,李桂成によって滅ぼされた.

4)
 上記により,韓半島自体が高麗と称されることがしばしばある.
 韓半島で焼かれた茶碗が,「高麗茶碗」と呼ばれるのもこのため.
 実際には李氏朝鮮時代の作が多い.
 山上宗二の『山上宗二記』に曰く,
「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ,当世ハ高麗茶碗,瀬戸茶碗,今焼ノ茶碗迄也,形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」

高麗割高台茶碗を奪い合う,古田織部と荒木道糞(村重)
(『へうげもの』より)

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/高麗
http://en.wikipedia.org/wiki/Goryeo
http://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B3%A0%EB%A0%A4
http://www.lifeinkorea.com/information/history1j.cfm
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/d02_korea/korea.html
http://verdure.tyanoyu.net/kouraicyawan.html

【ぐんじさんぎょう】,2012/07/01 20:30
を加筆改修


 【質問】
 王建って誰?

 【回答】
 太祖王建(ワンゴン Wang Ko^n)は,高麗王朝を創建した人物.
 877年生まれとされているが,その出自は,後世の潤色があって真相不明.
 ちなみに現代中国の史家は,例によって「中国人ルーツ説」を唱えている.
 『編年通録』によると,王建の祖父・作帝建は,その母・辰義と,名も知らぬ中国人商人との間の子だとされているので,まあ全く根拠のない話でもない.
 祖先についてははっきりしないが,松岳(開城)地方に一定の勢力基盤をもち,海上貿易にも関係していた家系らしい.

 新羅末期,反乱軍の一首領,弓裔(クンイェ)に帰順.
 その部将として,早くから軍事的才能を発揮したが,特に水軍活動において目ざましく,後三国期に弓裔の後高句麗国が西南海の海上権を掌握できたのは,もっぱら彼の功績による.
 901年,弓裔は後高句麗国を建国.
 909年に,王建は海軍大将軍となり,913年には侍中(首相)となったが,弓裔は暴君だった.
 どのくらい暴君だったかと言えば,「弥勒菩薩」(おいおい…)と配下に呼ばせていたことからも分かる.
 呼ばないと最悪死刑である.

 結局,「こんな尊大な王様は嫌だ」ということで,918年,部下にクーデターを起こされ,弓裔は殺害.
 クーデターの同志によって推挙され,国王に即位したのが王建であった.

 即位すると,935年,死に体と化していた新羅を吸収.
 翌936年には後百済を滅ぼして,半島統一に成功し,後三国時代を終わらせた.

 彼は国内にあっては中央集権体制を強化.
 対外的には,高句麗遺民によってつくられた渤海を滅ぼした契丹族に強い怨念を抱き,その国・遼を敵視し続け,中国とは冊封を受けて関係を維持した.

 30人以上の子をもうけ,943年に死去した.
 王子が多過ぎて案の定,後継者をめぐるごたごたが起きているが,それはまた別のお話.

 【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.85
http://www.kobemantoman.jp/sub/185.html
http://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E5%BB%BA
http://sasayuri.qee.jp/korearekisi/rekisi/korai/korai.html
http://www12.plala.or.jp/rekisi/kourai.html


 【質問】
 姜邯賛って何?

 【回答】
 姜邯賛(Gang Gam-chan カン・ガムチャン)は韓国海軍の「李舜臣」級駆逐艦の5番艦.
 2005年3月,進水.

 その名は同名の高麗の重臣にちなむ.
 彼は943年,ソウル市冠岳区奉天洞(落星垈)の生まれ.
 初名は殷川.[1]
 36歳で文官として科挙に合格.[1]
 顕宗代(1010‐31)の初めに宰相となった.[1]

 1018年,高麗は契丹(遼)の侵攻を受けた.

 契丹はそれまでに高麗へ4度,侵攻していた.
 993年の第1回目の時は,徐熙の舌先三寸で撤退させることに成功.[4]
 「朝貢」「遼の年号使用」「宋との断交」「高麗は遼へ捕虜を返還する(遼は高麗の捕虜を返還しない)」などの比較的緩い条件で和議を成立させた.[5]
 1010-1011年の第2回目の時は,契丹は高麗の開京まで侵入してこれを焼き払い,上記条件に加えて,毎年の朝貢と顕宗入朝と六州返還を課し,撤退した.[5]
 第3回目は,1015年.
 高麗軍は1016年,蕭世良等の遼軍と郭州で交戦したが大敗.[5]
 第4回目は1017年10月.
 蕭敵烈率いる遼軍が高麗軍の篭る興化鎮を攻めたが,戦果は挙がらず退却.
 守将の鄭神勇は城を守り通して戦死した.[5]

 ちなみに侵攻の理由はたいてい同じで,「高麗が和議の条件を守らなかったから」.[5]

 そして今回が5回目.
 蕭排押率いる10万の契丹軍は,開京近くまで侵入した.[4]
 が,後方補給路遮断を恐れ,撤退し始める.[4]
 高麗側も焦土戦を展開し,食料が契丹軍に渡らないようにしたため,契丹兵は飢餓状態にあった.[5]
 そのとき姜邯賛は71歳という高齢だったにも関わらず,上元帥となって20万余の兵を率いて,撤退中の契丹軍へ襲い掛かり,亀州(クジュ)興化鎮において全滅させた.[1]
 契丹軍10万のうち,生きて帰れた者は僅か数千人にすぎなかったという.[1]
 これを韓国では「亀州大捷」と呼ぶ.

 遂に遼は高麗の武力制圧を断念し,1021年に高麗から再び「臣下の誓いと朝貢を行う」とする使節を受け容れて和を結んだ.

 邯賛は救国の英雄となり,幾多の伝説が,おそらくは後付けで作られた.
 例えば,「元々美男だったが優男は大業を成しにくいと言って天然痘の神を呼んであばたづらになった」など.[2]
 今でもかの国では,この人物のことは教科書で必ず習うという.[3]

 でも,よくよく考えてみたら,「和議の条件を守らなかった」ときの宰相でもあったわけで…

 1031年,死去.[1]
 著書には「楽道梶倨集」,「求善集」などがある.[2]

 英wikipediaをgoogle翻訳すると,「ギャングGAMちゃん」と訳されてしまうが,たぶん悪意はない.

 【参考ページ】
[1]https://kotobank.jp/word/姜邯賛
[2]http://worldbiography.blog62.fc2.com/blog-entry-62.html
[3]http://hwbb.gyao.ne.jp/dongtomo-f35/diary/diary124.htm
[4]姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001), p.107
[5]http://ja.wikipedia.org/wiki/契丹の高麗侵攻

姜邯賛肖像画
(こちらより引用)


 【質問】
 尹瓘って誰?

 【回答】
 尹瓘(ユン・グワン Yun Kwan)は高麗の政治家.
 生年不詳.
 坡州の尹氏一族の一人[2].坡平の人[1].
 文宗(ぶんそう)代に科挙に合格し,以後要職を歴任,粛宗(しゅくそう)代には宰相となった.[1]

 その頃,満州では契丹族が衰退し,代わって女真族が台頭.[3]
 高麗にもたびたび侵入してきた.[1]

 粛宗9年(1104),勢力を伸ばした女真族を征伐せよとの王命を受け,東北面兵馬行営使となって戦ったが,高麗軍は女真の強大な騎兵に対抗できず失敗.[1][2]
 ただ,私見だが,騎兵だけが敗北の要因ではないような気もする.
▼ 姜邯賛もそうだが,武官を軽んじて文官を戦闘指揮官職につけるという悪癖が,高麗の頃よりあって,ただでさえ手強い遊牧民族相手に,素人武将が勝利を得られる可能性は非常に低いだろう.
 姜邯賛もそうだが,武官を軽んじて文官を戦闘指揮官職につけるという悪癖が,高麗の頃よりあったのである.
 ただでさえ手強い相手に,素人武将が勝利を得られる可能性は非常に低い.
 歴史的経緯から見て,建国直後なら武官軽視も仕方ないかもしれないが,それを延々と続けたのはどうだろう?▲

 それはともかく,敗北の後,尹瓘は軍を再編し,別武班(ピョルムバン)を新たに編成した.[2]
 これは騎兵と歩兵から成り,騎兵は神騎軍,歩兵は神歩軍と呼ばれた.[4]
 また,中には奴婢や僧侶で構成された軍もあった[4]というから,なんとなく根こそぎ動員の感もなくはない.

 睿宗3年(1107),尹瓘は別武班17万を率い,咸鏡道方面に進撃.[1]
 女真族を北方に退け,東北地方一帯に九城を築くことに成功した.[1]
 尹瓘はこの功により1108年,門下侍中(もんかじちゅう)という首相職に任命された.[1]

 しかし,女真の高麗侵寇は依然やまず,1109年には大敗.[1]
 高麗は9城を放棄し,女真と講和した.[1]
 ただし,尹瓘の墳墓の案内板では,
>女真が,永遠に背反せず,朝貢を奉ずる条件のもと,城の返却を懇請し,高麗も東北側の女真討伐にのみ国力を傾けることができないため,九城一帯の地を再び女真に返した.
ということになっている.[2]

 睿宗の命によって尹瓘は投獄される.[6]
 これには反対派閥の策謀があったという.[6]
 1110年には釈放され,元の官職に復帰するよう要請されるが,尹瓘は拒否.[6]
 1111年,死去した.[1][6]
 諡(おくりな)は文粛.[1]

 その後,1115年に,女真の完顔阿骨打は金朝を建国.
 金は宋と連合して契丹を滅亡させた後,宋も江南の方に追い払って中国の華北地方を占め,高麗に対しても事大の礼を取るようにと圧迫してきた.[3]
 当時,高麗の最高実力者であった李資謙を中心とした執権者たちは,政権維持の必要性から彼らと戦うのが無理だと判断して,金の要求を受け入れた.[3]
 以後,高麗はようやく国際的に平和関係を維持することができた[3]が,尹瓘の征服地が豆満江以北に広がっていたとする認識が,朝鮮では広く共有されることとなった.[5]
 19世紀後半,李氏朝鮮政府は清朝に対し,間島の領有権を主張するようになったが,その主張の素地となったのが尹瓘の征服についての歴史認識だったという.[5]
 あんな束の間の占領だけで,領有権を主張することに,私見ではかなり違和感を覚えるのだが…

 【参考ページ】
[1]https://kotobank.jp/word/尹瓘
[2]http://krruins.cho88.com/kyonggido/paju/pg710.html
[3]http://sasayuri.qee.jp/korearekisi/cat5/4/post-16.html
[4]http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1228.html
[5]http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu25.data/hokutou25_p125-133.pdf
[6]http://en.wikipedia.org/wiki/Yun_Gwan

尹瓘肖像画
こちらより引用)

in mixi,2015年05月22日

>ただでさえ手強い遊牧民族相手に,素人武将が勝利を得られる可能性は非常に低いだろう.

 女真族は遊牧民というよりは狩猟民で,実際には半農半狩猟+採集+遊牧という感が強い民族ですね.

るーでる@柏葉 in mixi,2015年05月24日 00:29


 【質問】
 妙清の乱って何?

 【回答】
 陰陽地理説というオカルトがもとになって内乱に発展したという,世にも奇妙な物語.

 高麗前期,仁宗時代 (在位1123~1146)の時代,国都・開京(開城)は,門閥貴族の李資謙の乱(1126年)で荒れ果てていた.
 国内が乱れて民心が動揺する中,陰陽地理説が横行.
 その陰陽地理説に通じた,妙清(ミョ・チョン【グ】)という僧侶がいた.
 彼は図讖説(トチャムソル,預言の図)を言い当てることで有名を馳せていた.
 彼は高官の白寿翰(ペク・スハン)たちに取り入り,高麗の中央政界に入っていった.

 1127年,王室の顧問となった妙清は,白寿翰などと共に,首都を西京(現在の平壌)に遷都させようと企てた.
 実は彼らはともに西京出身だった.
 妙清は
「すでに開京の地徳は衰えたから,それの旺盛な西京へ遷都すべし」
と唱えたのである.

 彼はさらに,「称帝・建元」とすることと,女真族の国・金を討伐すべしと主張した.
 これより遡ること1126年,金は仁宗に対し,称臣することを要求してきた.
 高麗では,これに反対する議論もあったが,最大の権臣・李資謙(イ・ジャギョム)らの主張によって「以小事大(小をもって大につかえる)」の礼をとることにし,これによって平和を保った.
 妙清らは,金に対して事大の礼をとっていることに反発したのである.

 これに対して,金富軾(キム・プシク)らが遷都に強く反対.
 中央官僚は,金に対する事大的な開京派と,対金政策における自主路線を主張する西京派とに分かれて対立することになった.

 そこで妙清一党は目的達成のため,様々な権謀術数を用いた.
 あるときは彼らは,密かに大きな餅を作り,その中に油を入れて大同江に沈めた.
 数日すると餅から自然に油が流れ出し,水面に怪しい光を放って浮かび上がった.
 すると妙清は,
「これは河の中に住む神龍のヨダレである」
と触れまわった.

 これ自体は間もなく事実が露見するが,しかし王は妙清の意を汲み(…汲むなよ,おい),1132年,西京(平壌)視察に向かった.
 だが急な暴風雨で,多くの死傷者を出す事故に遭ってしまう.
 それ以後,王が西京遷都に触れることはなくなった.

 遷都実現の望みがなくなった妙清は1135年,西京の分司侍郎の職にあった趙匡(チョ・グァン【グ】)や分司表兵部尚書の柳(ユ・チャム)などと共謀し,西京に自立して,開京の中央政府に対して大規模な反乱を起こした.
 これが妙清の乱の始まりである.
 彼らは国号を「大為」,年号を「天開」とし,その軍を「天遣忠義軍」と名乗った.
 「大」や「天」は,中国に対する「以小事大の礼」によって,使用を避けていた文字である.
 この叛乱には西北部豪族や民衆も参加して,戦いは高麗を二分するような有様となった.

 これに対して仁宗は,金富軾を討伐軍の元帥に任命.
 金富軾はまず,開京に居ながら妙清に通じていた鄭知常(チョン【グ】・チサン【グ】)や白寿翰などを討ち取る.

 続いて金富軾は反乱軍に対し,幾度となく降伏を勧告.
 すると反乱軍の趙匡が,妙清など他の主導者の首を持たせた使者を送り,投降の意思を示した.
 しかし,開京ではこれを認めず,使者を投獄.
 不安を感じた趙匡は投降することをやめ,西京に籠城.

 この内乱は高麗を二分して激しい戦闘が続いたが,金富軾は開京派の元帥として軍を率いて西京で激しく戦い,翌年に乱を平定した.
 激しい籠城戦が1年余り続いたが,1136年2月,官軍の総攻撃により追い詰められた趙匡が自決.
 すると反乱軍は士気を失い,投降して妙清の乱は鎮圧された.

 乱を鎮圧した金富軾は,本来は門閥貴族出身の儒学者であり,その後は,歴史書『三国史記』『仁宗実録』の編纂を行うなどしながら晩年を過ごしたという…

 【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.125-126
https://kotobank.jp/word/妙清
https://kotobank.jp/word/妙清の乱
http://ezkorea.biz/inf8.cgi?mode=main&no=18
http://homepage2.nifty.com/hakunan/garden/seoul_dozo/1126.html


 【質問】
 庚寅の乱とは?

 【回答】
 文官に対する武官の不満が爆発した叛乱.

 高麗王朝の支配階級は文臣(文班)と武臣(武班)であったが,武臣は文臣に比べて劣位に置かれていた.
 科挙制度が定着するようになると,文臣が次第に重く用いられ始め,武臣たちは閑職に追われてのである.
 また,成宗以降は契丹と女真族の侵略に悩まされ,これに対抗するため多くの武臣たちは戦場に駆り出されたのだが,そこで功を建てても大部分の褒章は文臣へと行き,軍の最高指揮権を持つ官職までもが文臣の受け持つところとなり,武臣は益々冷遇される様になった.
 たとえば妙清の乱に際しても,時の高麗国王・仁宗から討伐軍元帥を下命されたのは,武臣ではなく文臣の金富軾であった.

 武臣たちに対する待遇は歳月が経つほど酷くなり,何度か武臣たちが改善を求めたが,却って文臣達の手によって崇文抑武(文を崇め武を抑える)政策を広める結果となった.
 特に毅宗(ウィジョン【グ】)(1146~1170年)は,国王と文臣の遊宴のために武臣や軍人を酷使した一方,文臣・宦官を優遇したため,政治腐敗とも相まって,武臣達の不満が高まっていた.

 このような武臣の不満を背景に,下級武臣である李義方と李高が,高位武臣である鄭仲夫を担ぎ上げてクーデタ計画を練るようになった.

 1170年8月,毅宗が普賢院(現北朝鮮の京畿道長湍郡)に行幸したときのことである.
 文臣達が王と軽口を言い合い遊ぶ間も,武臣達は食事もせずに彼らの警護にあたっていた.
 王は上機嫌で
「今日はとても天気が良いな,武臣たちはシルム(相撲)でも取って見せろ」
と命じた.
 毅宗のこの言葉に,武臣たちは年齢を問わず,これに従った.
 この時の野遊には還暦間近の李紹膺(イ・ソウング)も参加していたが,若い軍卒とシルムをして負けてしまう.

 それを見ていた文臣の韓頼(ハンレィ)という者が李紹膺を,不甲斐無いとなじって頬を殴った.
 これを見た鄭仲夫(チョン【グ】・チュン【グ】ブ)・李義方(イ・ギバン【グ】)・李高(イ・ゴ)などの老武臣達は,その行いに我慢が出来ず激昂.
 彼らは国王命令と偽って軍隊を動かし,文臣達を虐殺した.
 殺害された文臣は,実名が判明する人物だけで46名,その他40名以上.

 鄭仲夫らは軍勢を率いて,そのまま首都・開京(現・京畿道開城市)に入り,街衢所,宮殿,太子宮などを襲い,首都を占領.
 そして毅宗を廃位して,弟の明宗を新たな国王として擁立し,政治の実権を握った.

 この事件を,その年の干支から庚寅の乱と呼ぶ.

 これ以降,朝廷に文臣の姿が消え,多くの官職を武臣が勤めるようになったが,武臣たちはそれまでの鬱憤を晴らすかの様に互いに自分たちの利益を得ることに汲汲とし,国は更に混乱した.
 李高は1171年,法雲寺の僧・修惠や開国寺の僧・玄素らと共謀して,自らが国王になるための反乱を起こそうとするが,事前に察知されて李義方によって殺害.
 李義方は趙位寵の乱鎮圧の失敗が響き,鄭仲夫との権力争いに敗れて失脚し,ついには鄭仲夫の子によって暗殺.
 鄭仲夫は権勢横暴となって周囲の反発を食い,1179年に同じ武臣である慶大升(キョン【グ】・デスン【グ】)の手により殺害され,慶大升も30歳で夭折してしまう.

 一方,1173年には金甫当(キム・ボダン【グ】)が,毅宗を復位させようと反乱を起こした.
 武臣政権側はこれを,文臣をさらに殲滅する好機と捉え,再びクーデターを起こして前国王・毅宗や文臣らを捕殺した.
 その殺戮は文臣家族にまで及び,武臣の中でも大将軍・陳俊(チン・チュン)や郎将・金富(キム・プ)などが無差別殺戮に反対する意見を出したほど.
 これを癸巳の乱と呼ぶ.

 この二つの事件によって文臣は弱体化し,以後100年にわたる武臣政権が続くこととなった.
 でも,そんな武臣たちも子孫は科挙を受けて,新たな士大夫層を形成したという…

 【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.133-134
http://ezkorea.biz/inf8.cgi?mode=main&no=19
http://www.kobemantoman.jp/sub/185.html
https://kotobank.jp/word/庚寅の乱
http://blogs.yahoo.co.jp/asayama55/61601882.html
http://rinshi.sakura.ne.jp/txt/Korea2.html
http://rekishinootoshimono.seesaa.net/article/392112339.html


 【質問】
 「武人時代(ムイン・シデ)」って何?

 【回答】
 高麗王朝において1170年~1270年の間,クーデターを起こした武臣が,政権の実権を掌握していた時代を指し,この政権の事を武臣政権(ムシン・ヂョングォン)と呼ぶ.
 クーデターが起きた背景には,文治政治をとる高麗にあって,政治の実権においても科挙試においても教育制度においても武班(武官)を軽視する「尚武軽視」への,武官達の反感があった.
 この尚武軽視は,高麗建国初期,私兵集団を持つ「旧臣宿将」対策に悩んだ反動と思われる.
 武人時代初期は,権力争いが続き,政権が安定しなかったが,崔忠献が政権を掌握すると,権力を固め,崔氏支配の下で一応の安定を見た.
 だが,モンゴルの脅威に対して敵対政策をとったため(無茶しやがって…),三度の侵攻を受けることとなり,国力は疲弊.
 崔氏4代目の崔竩(チェ・ウィ)は1258年,その家僕だったキム・ジュン(金俊)によって倒され,その後1270年に武臣政権自体も,対モンゴル融和・降伏派の文班(文官)によるクーデターによって崩壊した.

 【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.89-90
http://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%AC%B4%EC%8B%A0%EC%A0%95%EA%B6%8C
http://www.bushin-d.jp/chrono.html
http://kotobank.jp/word/武臣政権
http://www.kobemantoman.jp/sub/185.html


 【質問 kérdés】
 恭愍王って誰?
 3行以上で教えて!

 【回答 válasz】
 恭愍王(コンミンワン,Gongmin of Goryeo,공민왕,1330~1374)は,第31代の高麗王(在位:1351~1374年)
 幼少時は元の宮廷で育ち,元の魏王の娘と結婚した後,元が忠定王に廃位を命じたことで即位.
 つまり,元の後ろ盾を得て即位したのだが,元の衰えと明の台頭を見るや,親明政策を取り始めた.
 韓国的価値観では,こういうのは裏切り行為とは見なされない模様.

 まず1352年,100年以上続いた胡服弁髪令を廃止.

 次に1356年,元の外戚として権勢を振るう奇氏を討ち,高麗国内の親元勢力を排除.
 当時,朝廷内では奇轍(キ・チョル)が権力を握り,親族たちを集めて国政を私物化していた.
 奇轍の姉は元に貢女として奉げられたが,元の皇帝・順貞の太子を生み皇后となると,順貞は高麗にいた奇轍に元の官職を与えた.
 これを受けて高麗朝廷でも奇轍が徳城府院君に封られ,奇轍は横暴を極めた.
 恭愍王はこの奇轍一党を粛清し,征東等処行中書省を廃止した.
 征東等処行中書省の始まりは,元による日本攻略の前線機構だったが,1290年前後に常設組織へ変わり,元による高麗統治の軍政機関となっていた.

 さらには軍備を増強し,武人を登用して,1356年,元に奪われていた鐵嶺以北の領土・双城總管府を奪回した.
 このとき李成桂(イ・ソンゲ)の父・李子春(イ・ジャチュン)は双城總管府内部から呼応して,東北面兵馬使に任命された.

 1365年には僧侶・遍照(ビョンジョ)を国師に登用.
 強大な権限を彼に与え,国政を統括するようにした.
 彼は身分は本来高いものではなかったが,金元命(キム・ウォンミョング)の推薦で朝廷に上がり,王の信任を得た.
 遍照は還俗して辛旽(シン・ドン)と名乗り,改革に乗り出した.
 辛は当時の高麗の混濁した社会を改革しようと田民弁正都監を置き,富豪たちが権勢を利用して奪った土地を以前の持ち主に戻し,奴婢を解放して平民にするなどして民心から支持を得た一方,上流層からは反感を買った.

 しかし,治世後半は中国から紅賊(紅巾軍),南から倭寇の侵攻に悩まされるようになった.
 倭寇は1350年ごろから高麗の南方沿岸に現れ,次第に首都近くまでその行動範囲を広げ,集団規模も大きくなった.
 これを李成桂が壊滅させたのは恭愍王死後,1380年9月のことになる.
 1359年と61年には紅巾軍が北方から侵入.
 61年には紅巾軍に首都を奪われ,李成桂の軍勢によって奪回を果たした.

 また,愛する王妃の急死などの不幸も重なって恭愍王は政治を顧みなくなり,辛旽に政治を一任.
 辛は,王が絶対的に自分を信任してくれることを知ると,彼は次第に傲慢になって傍若無人にふるまうようになった.
 1369年,辛は国王暗殺を企てたとして水原に流罪となる.

 1368年,中国で明朝が成立し,元をモンゴル高原に退けると,恭愍王は親明の立場を表明したが,1371年,親元派の宦官に殺された.
 続く王禑の世では親元派が政権を握り,1374年には辛旽をも処刑している.

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.172-175
http://ezkorea.biz/inf8.cgi?mode=main&no=21
http://world.kbs.co.kr/japanese/archive/program/program_koreanstory.htm?no=29676
http://take8592goole.wiki.fc2.com/wiki/%E6%81%AD%E6%84%8D%E7%8E%8B%E3%81%AE%E9%A0%98%E5%9C%9F%E4%BF%AE%E5%BE%A9

【ぐんじさんぎょう】,2017/4/22 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 倭寇取り締まりを巡る外交交渉はどのようなものだったのか?

 【回答 válasz】
 918年の高麗王朝勃興以来,高麗と日本との間には国家間の外交チャンネルが切れたままだった.

 1367年,高麗は室町幕府の将軍・足利義詮に金竜(キム・ヨン),金逸(キム・イル)を派遣し,倭寇取り締まりを要求.
 幕府側の外交担当者は,当時最高のインテリであった京都五山の禅僧たちが担当した.
 帰国のときは日本の報聘使として天竜寺の僧・梵盪と梵鏐とが同行した.

 1368年,朱元璋(洪武帝)が明朝を建国.
 彼は倭寇を取り締まることができるのは九州にいる武将だと考え,当時大宰府と博多を制圧していた懐良親王を日本国王に冊封した.
 しかし洪武帝の派遣した冊封使が博多に到着した時には,すでに懐良親王勢力は没落しており,冊封使は室町幕府の九州探題・今川了俊に囚われの身となった.

 1375年には羅興儒(ナ・フンユ)が京都を訪問し,倭寇の禁制を要求.
 その帰国の際には,日本の報聘使として僧・良柔が同行した.

 1377年には,鄭夢周が今川了俊を訪問し,倭寇取り締まりを要求.
 今川了俊は,倭寇に拉致されてきた俘虜数百人を高麗に送還した.
 『高麗史』の記述を見るに,概ね北朝を「日本」,南朝を「倭」と書き分けており,倭寇は南朝勢力の者達だと見ていたらしい.
 実際,南朝方に軍資金獲得のため,倭寇となって略奪を行った者がいたようである.

 1378年には,韓国柱(ハン・クツジュ)が周防の大内義弘を訪問し,倭寇取り締まりを要求.
 大内義弘は,朴居士なる人物率いる百八十余名の軍を高麗に派遣し,倭寇討伐に協力させた.

 1389年,高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し,倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き,捕虜100余人を救出したと主張しているが,日本側史料にはこの時期に高麗の侵攻があったという記録はない.

 1392年,李朝朝鮮が成立すると,高麗時代からの外交折衝による倭寇鎮圧策を継承するとともに国防の体制を整備し,新たに倭寇を懐柔する政策を採用した.
 この政策により,倭寇は朝鮮に投降して官職や衣料,住居などを受けるもの,使人(しじん)や商人として貿易に従うもの,従来どおり海賊行為を続けるものなどに分解変質した.

 1396年12月,李成桂は壱岐・対馬討伐を命じ,出立に当たっては成桂が南大門まで見送った,と主張しているが,日本側史料にはこの時期に朝鮮軍の侵攻があったという記録はない.

 1401年,足利義満は九州探題に倭寇取り締まりを命じると共に,僧・祖阿を明に派遣して通交を求めた.
 倭寇取り締まりに手を焼いていた明の太祖は,それまで海禁政策をとっていた.
 これに対して1406年,中国に対して事大外交をとる李朝朝鮮は,日本人に対し冨山浦(現・釜山),乃而浦(現・齋浦)の2港を開いて,居留と貿易に従事するようにした.
 後に塩浦(蔚山)も開港した.

 それ以降,倭寇はその舞台を中国や東南アジアに移した.
 これを後期倭寇と呼ぶ.

 朝鮮沿岸での倭寇は沈静化したが,応永26年(1419年)5月7日,数千名の倭寇が朝鮮の庇仁県を襲撃し,海岸の兵船を焼き払い,県の城をほぼ陥落させ,城外の民家を略奪する事件が発生した.
 これに対し,朝鮮側では対馬掃討を目的として大軍を対馬に送り込んだ(応永の外寇/己亥東征).
 こののち朝鮮では対馬の宗氏を優遇して,日本からの渡航者を管理する役目を与え,倭寇再発の防止に備えたという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日新聞社,2001), p.208-210
http://www.y-history.net/appendix/wh0801-011.html
https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E5%AF%87-154019
http://www46.atpages.jp/mzprometheus/historyfolklore/7474
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf

mixi, 2017.9.14


 【質問 kérdés】
 阿只抜都って誰?
 3行以上で教えて!

 【回答 válasz】
 阿只抜都(アキバツ 아지발도)は,『高麗史』および『朝鮮王朝実録』に登場する,14世紀の倭寇の首領の名前.
 李成桂に討たれたとされるが,正体や出自等は不明.
 ただ,抜都(バドゥ)は蒙古語には割とある名前であるし,高麗は末期まで元朝の影響が強かった.
 また,済州島(チェジュド)には元に支配された時代の牧場があったと言われ,この島の住民がこの時期の倭寇に大きく関わっているらしいという話もある.

 そもそも「倭寇」「倭人」といわれる人々は,単純な「日本人」ではなく,日本でもない朝鮮でもない境界上の地域・海域に住む,帰属のあいまいな人達のことを指すのではないか,と言われるようになってきている.
 当時の朝鮮側の認識でも,「倭人」と「日本人」は別種の存在とされるときもあったという.
 最近では海外の研究の影響を受けて,こうした境界上に住む帰属のあいまいな人間たちのことを「マージナル・マン」という言葉で呼ぶ学者もいる.

 少なくとも,日本人的な名前でないことだけは確かである.

 「高麗史」,「高麗史節要」によれば1380年9月,倭寇が500艘の軍勢で攻め寄せた.
 その首領の名が阿只抜都で,15,6歳の美貌の少年であり,白馬にまたがって槍を振り回し,向かうところ敵無しであったという.
 正直言って,この辺りから早くも話が嘘臭くなっている.

 鎮浦に停泊した船団は軍勢を上陸させ,密集して城壁のように防御態勢をとった.
 これが逆に仇となり,羅世&崔茂宣率いる水軍による,朝鮮半島国家で初の火砲攻撃により撃沈された.
 このあたり,赤壁の戦いの話をコピペしいるような気がしないでもない.

 船を失った倭寇は,陸地で暴れ回り始める.
 8月には咸陽を陥とし,高麗兵500人と守将2人を戦死させると,9月には南原を包囲.

 その討伐のため,軍を率いて出陣したのが,かの李成桂(イ・ソンゲ 리성계).
 倭寇も恐れを知らず,成桂も左足に矢を受けるほどの激戦となった.

 成桂はアキバツを生け捕りにしようと図ったが,配下の李豆蘭が
「生け捕りにしようとすれば,さらに死傷者が出ます.
 それに全身,顔面まで防具をつけていて,射る隙がありません」
と言って反対した.
 ちなみに,この時代の日本(南北朝時代に当たる)には,顎と頬を覆う「頬当」という防具はあっても,顔面全体を覆う「面頬」は無い.
(面頬が登場するのは16世紀後半,戦国時代になってから)
 中国・朝鮮・モンゴルの甲冑にも顔面防具は存在しない.

 成桂は
「では自分が兜を射落としてやる」
と言い,まずアキバツの兜の緒を射て,これを切った.
 アキバツが兜を被り直そうとしたところを,成桂は二の矢を放ち,兜を射落とした.
 直ちに豆蘭が,その隙を狙ってアキバツを射殺.
 首領を失った倭寇は意気喪失し,散々に討ち滅ぼされた.
 倭寇残党は智異山に逃げ落ちたが,70余人に過ぎなかった.
 川の水は赤く染まって,数日は色が変わらず,また,成桂軍は千数百頭の馬を鹵獲したという.
 …いや,それ,絶対に話を盛ってるだろ?

 この戦いは「荒山大捷(荒山の大勝利)」と呼ばれ,その名声が後に李成桂が勢力を築くきっかけの一つとなった,とされている.
 そして李氏朝鮮では,太祖の輝かしい功績として長く語り継がれたという.

 …が,各所に盛られている部分があるような話なので,9割引きくらいで聞いておくのが正解か.

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.174
https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%95%84%EC%A7%80%EB%B0%9C%EB%8F%84
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/wakou.html
https://kotobank.jp/word/阿只抜都
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/izen.html

画像検索でテキトーに見つけてきた「白馬の美少年」
faq170527wh.jpg
faq170527wh2.jpg
faq170527wh3.jpg

【ぐんじさんぎょう】,2017/5/27 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 李之蘭って誰?
 3行以上で教えて!
Ki az Yi Ji-ran?
Kérem, mondja meg a három vagy több sorban.

 【回答 válasz】
 李之蘭(イ・ジラン 이지란,1331~1402)は女真族の武将で,李成桂の腹心.
 女真族の豪族で,元の金牌千戸の地位にあった阿羅不花(アラブカ)の息子.
 本名は豆蘭帖木児(トゥラン・ティムール).
 伝説によれば,李成桂と弓術の腕比べをして,彼と義兄弟の契りを結び,李之蘭を名乗ったという.
 1380年8月,倭寇と戦い以来,成桂の側近として数々の戦闘を補佐.
「李成桂軍団の強さは,李之蘭が率いる女真族騎馬軍団の強さに負うところが大きかったのではないだろうか」
と,姜在彦は推測している.

 それどころか「李成桂=女真人」説まで存在する

----------
1)太祖李成桂の生地の咸鏡道は,15世紀までは女真族の領土であった.その後,第4代世宗の時代になって朝鮮の領土となった.
2)李成桂の父李子春は,高麗王朝の「咸鏡道万戸兼東北面兵馬使」であり,父の死後,李成桂自身もその官職に任命された.
3)李成桂は女真族の酋長の李之蘭と義兄弟の契りを結び,多くの女真族を従えていた.
4)李成桂の高祖父李安社も元朝の地方行政官ダルガチ(達魯花赤)であり,また,5000戸の「千戸長」として高麗の女真族の統治をしていた.
5)李成桂の外兄弟の三善三介は,女真族の族長である.
----------

が,それはさておき.

 李氏朝鮮が建国されると,「開国功臣」という称号を得た.
 晩年は成桂の退位後の隠棲に付き従い,また,数多くの命を殺めたことを悔いて仏門に帰依したという…

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.175
http://ameblo.jp/kanazawa0513/entry-10939791316.html
http://blog.livedoor.jp/hsnemu/archives/3123851.html
http://www.bsfuji.tv/daifusui/chart/chart21.html

李之蘭肖像画
(wikipediaより)

【ぐんじさんぎょう】,2017/5/30 20:00
を加筆改修


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