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「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-13) 閔妃暗殺と織田純一郎

『朝鮮通信使と彦根 記録に残る井伊家のおもてなし』(野田浩子著,サンライズ出版,2019)

 滋賀県の地元出版社であるサンライズ出版が出している別冊淡海文庫の最新刊で,著者は今は立命館大学の非常勤講師ですが,長らく彦根城博物館学芸員をしていた人です.

 この本は文字通り,彦根に立ち寄った朝鮮通信使にまつわるあれこれを書いています.
 最初に,近江から美濃や伊勢に抜ける街道について説き起こし,関ヶ原の合戦の後,交通の要所として佐和山を与えられた井伊直政が,新たな城をどこにするかと検討した結果,佐和山では山がちな地形であることからそれを避け,近場に城地を置くことにした経緯.
 そして,彦根が選ばれた経緯について推理しています.

 彦根が城地に選ばれた後は,どうやって主要街道を彦根に取り込むかと言う交通政策について述べています.
 徳川政権が彦根に城地が決まる前から,街道整備を検討し,京都と江戸を結ぶ街道から,中山道の鳥居本宿を移設し,多賀への分岐点であり,上方の豊臣勢が攻め上ってきた場合の防衛拠点の一環として高宮宿が設置されました.

 彦根へは脇街道を使って繋げています.
 東海道,中山道と言った五街道は,そもそも基幹道として幕府が整備し,それらを補完する街道も五街道の付属街道として道中奉行の管轄下にあり,彦根に繋がる街道は道中奉行の管轄下にありました.
 対して,山陽道や北国街道は脇往還と呼ばれ,勘定奉行支配下ですが,整備は各大名家が分担していました.
 謂わば,国道と県道の違いと言えるのでしょうか.

 彦根に繋がる街道が何故道中奉行支配下となっていたか,と言うと,将軍家の上洛に際しての道筋だったからで,上洛が無くなっても,朝鮮通信使が使う街道として用いられました.
 この結果,彦根に繋がる街道は「朝鮮人街道」と呼ばれていたそうです.

 後半は,朝鮮人街道を通じて長崎と江戸を往還した朝鮮通信使の一行と,彦根の井伊家との交流について触れられています.
 朝鮮通信使は,往還の途次,必ず彦根城下で一泊します.
 彼等はどこにどの様に泊められたのか,そこではどんな接待が行われていたのか,そこに秘められた思惑について,資料を駆使して書かれていて,かなり読み応えがありました.

 当時,国書改竄が明るみに出た柳川一件による,宗家への不信から,幕閣では宗家を介さずに直接幕府が朝鮮との交易を行おうとしたのに対し,それでは無用な軋轢が生じると考えた井伊直孝は,従来通り宗家を介した朝鮮との外交を行おうとして東奔西走しました.

 まだ豊臣秀吉による朝鮮侵攻が生々しく記憶にあり,朝鮮の対日感情も余り良くなかった時に,ここで幕府が直接朝鮮と外交を行うと,下手をすれば更に拗れる可能性もあると考えた直孝は,朝鮮通信使一行をもてなして,日本に対する印象を少しでも改善しようとした様です.

 実際に,朝鮮通信使は彦根での歓待を高評価して,以降もそれが続きました.
 何時しか対日感情の悪化は影を潜め,朝鮮通信使として日本に来た人々は,彦根での人々との交流を心待ちにする様になったそうです.
 こうした草の根交流についても触れていて,彦根での交流の日々を再構築しています.

 交通政策,外交政策から見た彦根という位置づけをよく考慮した本になっていて,また厚さもそれ程では無いのでサクサク読めるのも良いところです.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : 2019-12-27

 【質問】
 李氏朝鮮って何?
 3行で教えて!

 【回答】
 1392年に高麗の武将・李成桂によって建国された,韓半島最後の王朝.
 世宗大王治世期には安定したものの,その後,勲旧派vs士林派,続いて朋党政治と呼ばれる,官僚や王族の争いが続き,そんな中,壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)によって,国土は焼け野原.
 次いで,丁卯・丙子胡乱によって清朝の属国とされた上,日清戦争後は,今度は日本の強い影響下に置かれることとなり,1910年8月には日本に併合されて,李朝は消滅した.

>李(り)朝の始まり…イソンゲいさんで国(1392)をたて
http://kids.gakken.co.jp/jiten/7/70018570.html
だそうです……


 【参考ページ】
http://navicon.jp/feature/f0001familytree.pdf
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse419.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/7/70018570.html
http://togetter.com/li/247748

【ぐんじさんぎょう】,2012/06/20 20:10
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 李成桂が行った軍制改革はどのようなものだったのか?

 【回答 válasz】
 1388年,田制改革と同時に行われたもので,従来の5軍制を3軍制とし,李成桂が三軍都摠制使 삼군도총제부 となって兵権を一手に掌握.
 儒臣である趙浚(チョ・ジュン)と鄭道伝(チョン・ドジョン)とが,それぞれ左軍摠制使,右軍摠制使に任命された.
 兵権が李成桂を頂点として彼らに集中することは,高麗末期の中央集権弛緩によって多くの私兵を抱えていた王族や開国功臣たちにとって,大きな脅威であり,彼らの反発も強かったという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),192-193
http://m.blog.daum.net/history76/14478997?categoryId=199020
http://www.y-history.net/appendix/wh0801-012_1.html
http://www.iclee.or.kr/phpeuc/board.php?board=lee055&page=8&category=7&sort=hit&indexorder=2&command=body&no=1355&PHPSESSID=858acdea4f6f06a82f302122172b3bcd

mixi, 2017.6.6


 【質問 kérdés】
 李朝朝鮮の武科の科挙の方法について教えてください.

 【回答 válasz】
 建前では複数の試験により厳選されることになっていたが,現実には定期試験以外の不定期試験もたびたび行われ,粗製乱造された.

 原則では武科も文科と同じく,3年に1回の式年試が行われる.
 ただし,武科は文科とは異なって小科と大科の区別がない単一科であり,試験は初試・覆試・殿試の3段階のみ.

 初試には,ソウルの訓錬院で行う院試と,各道の兵馬節度使(地方軍司令官)が行う郷試がある.
 初試合格者(合わせて120名)はソウルに集まり,兵曹と訓錬院の管轄の下に覆試が行われ,28名を選抜.
 選抜者は国王親臨の下,殿試を受け,28名の成績順が決められる.
 甲科3名,乙科5名,丙科20名.
 この合格者を先達(ソンダル)と呼ぶ.
 試験科目としては経書および兵書の学科と,弓術,騎射,撃毬の実技がある.

 しかし現実には,式年試以外にも色々な不定期試験が行われた.
 壬辰倭乱(秀吉の朝鮮出兵)の際には,数百名あるいは千数百名の単位で武班が粗製乱造された.
 まあ,戦時であればやむを得まい.

 だが,武班の質の低下は「崇文軽武」の風潮にさらに拍車をかけた.
 両班出身の子弟は武科を忌避し,平民の階級に当たる中人(両班と常民の中間の階級)が多くを占めた.
 また,常民ばかりでなく,賤民も武功の大小によって武班に進出することができた.
 このため,武科は「万科」と呼ばれるようになる.

 なお,武科系統にも取才の制度があり,武科の合格者でまだ官職のない人を登用しようとしたり,解職された人を再び任命する必要などがある時に実施した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.221-223
http://mcarchive.sfc.keio.ac.jp/ekamo/tmpDocRoot/books/sfcac/0302-0000-0560/0302-0000-0560.pdf?20130419143449
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/2518/1/KJ00005449920.pdf
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/10/html/d30352.html

mixi, 2017.9.16


 【質問 kérdés】
 王子の乱って何?
Mi az Herceg lázadása?

 【回答 válasz】
 李氏朝鮮王朝初期の二度に渡るクーデター事件.

 太祖・李成桂には2人の夫人との間に8人の息子がおり,李成桂が王になると誰を太子とするかが問題となった.

 長男・芳雨(バングウ)は,李成桂が高麗を滅ぼし朝鮮を建国したことに反対し,海州(ヘジュ=黄海道)の山奥深くに籠ってしまった.
 そして1394年に39歳で早世する.

 すると王妃・姜氏は,宰相格の鄭道伝を後ろ盾にして,自分の息子・芳碩(バングソク=8男)を太子に決定.

 李成桂が床に臥せるようになった1398年,鄭道伝は遼東遠征を計画.
 朝鮮建国の際の最大の功労者である芳遠(バングウォン=6男)は,この遠征軍の編成を,自分たちの排除の口実と受け取った.
 そこで先妃・所生の王子たちと結束して,
「鄭道伝とその一党が,芳遠たちを殺す計画を立てた」
として,彼らを捕らえて殺した上,その責任を太子に押し付けた.
 これにより太子は廃位となり,同じく姜氏の子である兄の芳蕃(バングボン=7男)と共に流罪となった後に殺害された.

 これを「第一次王子の乱」または「鄭道伝の乱」と呼ぶ.

 乱の後,芳遠は太子の席を,自身の兄である芳果(バングァ=2男)に譲って周辺を驚かせた.
 成桂も,子供たちが互いに殺し合うのを見て,王位を芳果に譲って自らは上王となり,芳果は李朝第2代国王・定宗(チョングジョング)となった.

 しかし定宗は決断力に欠け,自らの後継も芳遠に委ねた.
 密かに王位への野心を抱いていた芳幹(バンガン=4男)は,この決定に不満を持つ様になった.
 前の“王子の乱”の際に功を立てながら評価に不満のあった朴苞(パクポ)は,その芳幹を誘い,挙兵して開城に進軍した.
 芳遠はこれを破り,芳幹を流罪,朴苞を死刑とした.

 これを「第二次王子の乱」または「朴苞の乱」と呼ぶ.

 定宗は急ぎ王位を芳遠に譲位し,芳遠は第3代国王・太宗(テジョング=在位1400~1418年)となり,定宗は上王となった.
 太宗は王位に就くと先ず,これまで乱の起きる原因ともなっていた私兵を廃止して,王権と国防力の強化に努めた.

 芳遠は配流地を転々とし,太宗と世宗の配慮で天寿を全うし,57歳で死去した.

 成桂は太上王となったが,2度に渡った息子達の王位争奪に心を痛め,出家したという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日新聞社,2001), p.202-
http://ezkorea.biz/inf8.cgi?mode=main&no=23
http://rekijonoblog.seesaa.net/article/140871813.html

mixi, 2017.9.12


 【質問】
 李氏朝鮮時代の度量衡は?

 【回答】
 韓国の食肉店で肉を買う場合,パック売りで無ければ,グンという単位かそれをグラム換算した600gが一つの単位で用いられます.
 グンとは斤の事であり,日本の尺貫法と同じく,1グン(斤)は600グラムになります.
 今日では法的に使用が禁じられていますが,韓国では未だに1グンとか半グン,或いはその何倍と言う計算方法で注文しています.
 支払の場合の,店主の遣り取りも同じです.
 例えば,客が「牛肉1グン下さい」に対し,切った肉がそれを少し越えると,店主の方は「1グンと少し越えるけど,このまま包みますか?」てな具合.

 この様な東アジアの計量体系は,伝統的に度量衡と呼ばれてきました.
 度は長さ,量は体積,衡は重さを表し,それらを表す単位として,日本や中国,朝鮮半島では,尺,升,両が用いられ行きました.
 日本では,明治期に伝統的な度量衡の単位を,メートル法に基づいて調整した尺貫法が作られましたが,韓国では1961年の「計量法」により,商取引と科学,産業の各領域でメートル法の専用が規定されましたが,日常生活では日本式の尺貫法と習合した伝統的な度量衡,インチの様な英米式の「非法定計量単位」が依然として残っています.

 政府としては,牛肉の1グン(斤)を筆頭に,米の1マル(斗),32インチテレビ等と言う形で固着した慣習的な単位を幾度かに渡る啓蒙と制度整備を通じて排除を行い,2007年7月以降,慣行的に黙認してきた土地・建物面積のピョン(坪)と貴金属の重さを量る際に用いていたドンの使用を禁止しました.
 確かに,こうした禁止に対しては,抵抗が無いわけでもありませんでしたが,これらの単位は植民地期に導入され,今は日本ですら使わない「植民地の残滓」であるとして主張をして乗り切りました.
 とは言え,その単位の権威は未だに残っており,金相場の報道では,1グラムではなく,3.75グラム単位の金価格が為されていますし,アパートの面積は依然として100平方メートルでも,105平方メートルでも無い105.6平方メートルです.
 後者に関しては,日本と同様,1ピョン≒3.3平方メートルだから,従来通りの表記では32坪になる訳です.

 李氏朝鮮の時代,その記録の中で最も大きな比重を占めるのは,その乱れと整備に関するものです.
 一番問題になっていたのは,記録の誤った計器を使ったり,目盛りを騙すというものです.
 特に,穀物取引や収税と直結する量器が,最も乱れの酷いものでした.

 朝鮮の伝統的な量器は,四角の箱状のドェ=スン(升),とマル=デゥ(斗)で,『経国大典』「工典」度量衡條では,10勾=1合,10合=1升,10升=1斗と規定されています.
 しかし,日本の韓国併合の際に行われた地方の度量衡器調査に依れば,郡や県ごとに量器の大きさにかなりの差がありました.
 実際,日本の当時の升に比べると,ドェは最小は山清の8合6勺で,最大は固城の2升6合9勾まで,斗と比べ,マルは最小が永川の2升2合4勺,最大は尚州の5升4合6勺と相当な差があります.
 また,地方別に調査されたドェに対するマルの大きさは,最低1.3倍から最大で4.5倍になりました.
 固城のドェは,永川のマルよりも大きいのです.

 一応,王朝時代の『續大典』に依れば,こうした計量器は毎年秋に全国から公用,私用を問わず総ての斗斛を集めて検査と烙印を行い,法定規格にそぐわないものは,違令律によって論罪すると記されていたのですが,全く守られていませんでした.

 長さの基本単位は,古代中国に由来するチョク(尺)ですが,『経国大典』では長さの単位を10釐=1分,10分=1寸,10寸=1尺,10尺=1丈と言った10進法の尺度で規定していましたし,日常では成人の背丈に該当するギルや,両腕を拡げた幅のパルと言った人体由来の単位,また,歩(=5~6尺)や里と言った地理的距離なども,頻繁に用いられていました.

 また,尺も計量対象によって異なる数字が用いられました.
 『経国大典』では,量田に使用する周尺,黄鐘尺,建築用の営造尺,礼器製作用の造礼器尺,布を測る布帛尺と5種類あり,黄鐘尺を1とすると,周尺は0.660,営造尺は0.899,造礼器尺は0.823,布帛尺は1.348になり,布帛尺は周尺の2倍以上になります.

 この黄鐘尺の大きさも,他の基準で定められていません.
 これは「黄鐘」と言う高さの音を出す律管の長さが基準とされているのですが,その「黄鐘」の音の高さはどの様に定められるのかが不明なのです.
 この為,朝鮮後期に至る過程で,尺の絶対的かつ相対的な大きさは徐々に変化していきました.

 勿論,当時の材料や技術では,環境変化により変形しない原器を作るのが難しいので,それを周期的に整備しても,時が過ぎれば基準自体が曖昧になる可能性も否定出来ません.
 これは独り朝鮮だけの問題では無く,尺を単位とした国では間々起きる事です.

 また尺度の一部は十進法ですが,歩や里はそう言った単位系では無く,体積は勺,合,升,斗までは10進法ですが,それ以上の場合は小斛平石は15斗,大斛全石は20斗と規定されていますし,重さの単位については,法的には黄鐘律管を一杯に満たした水の重量を88分と定め,10釐=1分,10分=1銭,10銭=1両としましたが,実際に最も多く用いられたグン(斤)は『経国大典』で16両に規定され,またそれは100斤で大称,30斤又は7斤で中称,3斤又は1斤で小称と言う奇妙なスケールとなっています.
 中称と小称の「或いは」と言うのは,時代によって変わるという意味では無く,実際に『経国大典』に規定しているものであり,どれが本当の単位か判りません.
 因みに,この単位は,王朝末期まで削除されませんでした.

 尤も,商取引の場面では,精密な計量よりも,駆け引きと掛け値を通じて,当事者同士が値段を定め会うもので,量器の升や斗で穀物を測る場合は,平斗と言う棒状のものを使って,穀物を量器の高さ一杯に満たすこともあり,また高捧と言い,穀物を量器の上に山積みに盛る事もありました.
 当然,定められた量におまけを加えるのも慣行であり,穀物の場合には,乾燥による体積減少や,搗精過程での損失分も問題になります.
 本来は,重さで計量するべきなのでしょうが,大量の穀物を入れたり重さを量る適当な容器がありませんでした.

 どの地域に於いても,前近代の政治が定めた度量衡と言うのは,基本的に儀礼的なもので,それを日常生活で然程使う物ではありません.
 あくまでも,礼楽の一部という位置づけだった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/15 23:54
青文字:加筆改修部分

 李氏朝鮮末期の1894年,甲午改革政権の中枢と言える軍国機務処が作成した制度改革案には,通貨改革の他に,当然のことながら度量衡制改革も含まれていました.
 これは,従来工曹が所管してきた度量衡制事務を,新設の農商衙門工商局に移し,10月1日から内務衙門で「新式」度量衡器を頒布することになっていましたが,多くの改革案と同様,この度量衡制改革もまた日の目を見る事はありませんでした.
 ただ,度量衡事務に関しては農商亜門とこれを継承した農商工部に移管されましたし,それ以前まで度量衡事務を担当してきた平市署は廃止されました.
 しかし,全国的貨幣制度がまともに施行されないまま,日本貨幣まで通用する状態になったのと同じく,この時期の度量衡制は,依然として支離滅裂な状態でした.

 1896年12月10日付の『独立新聞』論説では,度量衡の乱れが国内各地方間での取引や外国貿易上大きな障害になっていると批判しながら,度量衡を統一して度量衡器の製作・修理・販売を厳しく規制することを要求しています.
 とは言え,これが一気にメートル法導入にまで進む,進歩的な主張では無く,従来の度量衡制の整理と単位の統一に留まっています.

 因みに,日本でも同様に度量衡の多様化と乱れ,特に長さの単位の混乱が著しく,明治維新以降,各々異なる大きさの旧式の尺を加減した「折衷尺」が制定されたこともありましたが,先進国の動きを逸速く取入れ,徐々に尺と貫の大きさをメートル系の絶対的基準に合わせていきました.
 メートル法は,人体や生活周辺の特定事物の大きさでは無く,自然に伴う客観的な数字として導き出された単位です.
 即ち,1メートルとは,当初,北極から赤道までの四分子午線の長さの1,000万分の1として定義され,1792年から7年間に亘る実測によってその長さが定められたものです.
 全ての尺度は10進法に従う様になり,長さ・体積・重さに対する厳密な数学的関係も確立されました.

 1886年に日本もメートル条約に加入し,1891年には尺,即ち曲尺をメートル系に合わせて再規定した新たな計量体系を法律で頒布しました.
 この法律は尺と貫をそれぞれ長さと重さの基本単位として規定しつつも,白金とイリジウムの合金で出来た棒と分銅,即ちメートルとキログラムの原器をその物質的基準として提示しました.
 こうして,1尺は1メートルの10/33,1キログラムの14/4として規定されました.
 1891年の法律では,この新たな曲尺基準の尺貫法と日本伝統の鯨尺,そしてメートル法を共に用いることとしましたが,1909年の法律改正では曲尺とメートル法を優先ししつつ,鯨尺と英米式のヤード・ポンド系も併用すると言う方法を採りました.
 そして,この基準が大韓帝国の度量衡制でも適用されました.

 先ず行われたのが,朝鮮の営造尺と日本の曲尺の統一です.
 1902年7月19日,宮内府に全国の度量衡事務を担当する平式院が設置され,10月10日に平式院から度量衡規則が頒布されました.
 これは重さの単位が貫では無く,その100分の1の両として定められた以外,その第1条と第2条の内容は,1891年に制定された日本の度量衡法と全く同じものでした.

 即ち,チョク(尺)とニャン(両)の規格をメートルとキログラムの原器に対する比率で定めました.
 これはメートル系という外部基準で,尺の正確な長さを規定するという試みでしたが,長さは日本と全く同じ比率で,10/33メートル,両は1キログラムの15/400として規定しました.
 また,日本で鯨尺が残されたのと同様,測地の為の周尺と布を測る際に使う布帛尺は,補助単位の一種として残されました.

 従来,最も乱れていた体積については,円筒状の金属製の量器を導入することにより,「市升」の4分の1の大きさに大幅に減らし,升や斗などの大きさを新たに規定する一方,小斛平石15斗や大斛全石20斗の規定を無くして,1石10斗に統一しました.
 ところが,量器は穀物計量と直結していたので,この措置はかなりの混乱を惹起し,新規格では1升4合2勺となる「旧1升」や同じく新規格では4升1合6勺となる「旧市升一升」などに該当する長方形の箱状の容器を造り,「従来の慣用によって30個年に限り用いる」という措置を執るしか有りませんでした.
 なお,度量衡器の製作は平式院が独占していましたが,これは大韓皇室収入確保の為の措置であり,大韓帝国政府は,日本第一銀行から15万円を借款してこの事業に着手しました.

 この曲尺と営造尺を一体化させようとした原因は,1890年代に日本人が大挙して朝鮮半島に渡り,大量の日本製品が流通する様になった事で,日本の尺貫法もまた韓国で知られたのが一因ですが,それを全面的に受容れる切っ掛けとなったのが,日本による韓国の鉄道敷設に伴う大規模測量と土木工事だったとされています.

 1899年,日本人が建設した京仁鉄道が完成し,1901年には京釜鉄道の工事が開始されます.
 その工事には多くの韓国人が単純労働力として動員されましたが,「尺」と言う同じ文字を用いながら,韓国と日本の単位が多少異なっていたので,これらを一致させる必要性が浮上してきました.
 当時,京釜鉄道の設計に参加した笠井愛二郎は,日本の曲尺の1.01倍の大きさであった測量と営造尺を,曲尺と同じ大きさと規定することでこの問題をクリアしようと試みます.
 そして,こうした試みが1902年の度量衡規則に影響を及ぼした可能性がありますし,また,平式院の監督には日本人の井上宣文技師が雇用されており,井上は1902年の規則改定に大きな役割を果たしていました.

 1905年に大韓帝国政府は度量衡業務を農商工部に移転し,同時に法律第1号度量衡法を公布しました.
 この度量衡法で最も大きな変更点は体積の単位である勺,合,升,斗の大きさを1902年の3倍に増やしつつ,石を150升から100升に調整して日本の尺貫法に合わせます.
 従って,1902年には約6リットルだった1斗は,1905年になると約18リットルに調整されました.

 1909年9月20日の法律第26号度量衡法では,尺,升,貫を基本単位としました.
 メートル・キログラム原器に基づいた基本単位の規定は削除され,第2条に「尺,升,及び貫は日本度量衡法の所定と同じとする」と規定されました.
 長さの単位については,1905年法令で1里=1,386尺=2,100周尺としていたものを,新たに日本式の間(=6尺)や町(=6間)と言う単位を導入しつつ,1里=36町=12,960尺として調整しました.
 従って,新しい1里は以前の韓国の単位では約10里となる計算になります.
 また,面積については,結,負,束,把などと面積や収穫量の概念が混在していた韓国の伝統的な単位を無くし,坪(=6尺×6尺)を基本単位とする日本式の単位を全面導入しました.
 重さについては,伝統的な両の代わりに,その100倍に当たる貫を基本単位としつつ,残りの単位の名称については朝鮮式の釐,分,銭を日本式の毛,厘,分,匁に変更しました.

 当時,大韓帝国は形式的に存続していましたが,既に日本の保護国であったことから,この法律の起草も他の法律と同様に,政府にいた日本人によって行われたと考えられます.
 これは,韓国併合を目前にして,既に日本の法律をそのまま韓国にも依用し始めた事例の1つでした.

 とは言え,実生活では依然として,旧来の度量衡が用いられていたと思われます.
 これは,1904年と1906年に造営された宮廷建物にも,法律に規定された新しい「尺」ではなく,他の尺が使われており,またそれらの用尺の大きさには一貫性があったことから,民間の匠人組織別に共通の基準尺があったのでは無いかと考えられています.
 つまり,政府が幾ら叫ぼうとしても,民間では慣習的な度量衡が現実として厳然と存在していたわけです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/16 23:27
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 癸酉靖難(계유정난 gyeyujeongnan ケユジョンナン)って何?
Mi az Gyeyu Puccs?

 【回答 válasz】
 癸酉靖難は1453.10.10,李氏朝鮮の端宗の叔父・首陽大君(スヤンデグン)が,皇甫仁(ファンボ・イン),金宗瑞(キム・ジョンソ)らの顧命大臣を殺害,政権を奪取した宮廷クーデター事件.

 首陽大君は野心家だったが,自分が二男である以上,王になれないことは理解していた.
 しかし,兄の第5代国王・文宗(ムンジョン)は病弱で,即位してから2年3か月で死去.
 文宗は,弟が政治的な野心を持っていることを心配し,左議政(ジャイジョング)であり,異民族の侵攻から国土を防衛した英雄・金宗瑞と,領議政(ヨンイジョン≒総理大臣)である皇甫仁,右議政(ウイジョング)の鄭(チョン)グブン等に,次の国王の補佐を頼んだ.
 第6代・端宗(タンジョン)となったのは文宗の長男だが,まだ僅か11歳だったからだ.

 結果として政事は3人が掌握する事となり,3人が端宗に上げる書類に前もって黄色く印を付けて提出すると,端宗はそのまま決裁をした.
 これを黄標政事(ファウングピョジョングサ)と呼ぶ.

 これに不満を持つ者が出るようになったが,首陽大君もその一人だった.
 首陽大君は,皇甫仁や金宗瑞に敵意を抱いた.
 これが
「幼き王の補佐と称して権力を思うがままにするとは許さん.
 ここはやはり自分が王になるべきだ」
という自己正当化の発想に至る.

 一方,金宗瑞や皇甫仁は,世宗の三男で首陽大君の弟である安平大君(アンピョンデグン)を後ろ盾につけた.
 これによって,首陽大君派と安平大君派の対立は避けられないものとなった.

 10月10日深夜,首陽大君は,まずもっとも手強い政敵であった金宗瑞を自宅に訪ねてその場で惨殺.
 同時に彼の部下たちは宮廷に大臣たちを招集して,皇甫仁ら主要な大臣たちを一挙に殺害した.
 安平大君は江華島に配流後,賜薬(死薬)をもって殺害された.
 政権を掌握した首陽大君は,勲旧派,すなわちクーデターに参加した功臣たちを登用して,「靖難」に不満を持つ王族や国王を補佐する臣下を圧迫し,1455年には首陽大君が第7代国王(世祖)として即位.
 独裁的な強権政治を行った.
 すなわち,強力な王権を維持するため,官制の改革,法制や軍制の充実に努めた一方,反乱を企てた容疑で弟や甥を含む多数を死に追いやった.

 しかし,彼は晩年に原因不明の皮膚病に苦しみ,また,彼の長男・次男,共に早世.
 庶民はこれを「端宗の実母・顕徳(ヒョンドク)王后のたたりだ」と噂し合ったという.

 20年ほど遅れてきた足利義教っぽい?

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.244-245
http://www.wowkorea.jp/section/interview/read.asp?narticleid=165960
http://ezkorea.biz/inf8.cgi?mode=main&no=27
http://korea.sseikatsu.net/sjyo/

【ぐんじさんぎょう】,2017/9/17 20:00
を加筆改修


 【質問】
 呉允謙って誰?

 【回答】
 呉允謙(1559-1636)は,海州生まれで,李氏朝鮮王朝中期の宰相.
 1617年,通信正使として日本に派遣され,伏見城で徳川秀忠との間に国書交換を行い,帰国時に文禄・慶長の役のときの捕虜,約300人を連れ帰った.
 1627年,丁卯胡乱の際には,皇太子・皇太后と共に江華島へ移った.

 【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.6

【ぐんじさんぎょう】,2011/01/02 21:00
を加筆改修


 【質問】
 大清皇帝功徳碑とは?

 【回答】
 1636年,丙子胡乱の後,立てられた石碑.
 井沢元彦らによれば,これは朝鮮が清の植民地になったことを示す石碑だという.
 以下引用.

 別名,三田渡碑.ソウル市松坡区石村洞にある.最寄駅は地下鉄8号線石村駅.

 1636年,朝鮮に臣下としての礼を尽くすよう求める清が,10万人の兵を率いて朝鮮に攻め込み(丙子胡乱),朝鮮軍は南漢山城に留まって抗戦したものの,結局,清の軍隊が留まっている漢江の三田渡で降伏.
 この際に,朝鮮の仁祖王は清の太宗(名はホンタイジ,太祖ヌルハチの第8子)に対し,頭を地面に擦り付けて土下座した.
 太宗は,仁祖王が逆らった罪を許すとし,その功徳を刻んだ記念碑を立てるよう要求して,1639年に建てられたのが,この碑.
 朝鮮側にとっては,これまで格下と見ていた満州族の支配下に入ることを約束した屈辱的な記念碑であり,韓国では「恥辱碑」とも呼ばれている.

 丙子胡乱後,清と朝鮮の間に結ばれた協定では,朝鮮は毎年多額の貢ぎ物を献上する他,王と大臣の子女を人質として差し出すこと,清が求める際には援軍を派遣すること,等が取り決められ,実質的に,朝鮮は清の植民地だったと言える.

 碑文は全面左側はモンゴル文字,右側は満州文字,裏面は漢字に刻まれている.

( from SAPIO 2003/9/24号,小学館,p.101)

金完燮 毎年,清にお金や貢ぎ物を納め,今で言うGNPの20%あまりを清に貢いでいたとの説があります.
井沢元彦 かなり搾取されていたわけですね.
 ええ.しかも,このとき満州族は,多くの朝鮮人を連行しており,その数は説によって30万~50万人,全人口の10~20%に上ったと言われています.
 朝鮮政府は後に連行された人々をお金で取り戻したのですが,その身代金の支払いによって,朝鮮の経済は破綻に追い込まれ,以後は,朝鮮という国自体を維持することが,ほとんど難しい状態にあったのです.

(同)


 【質問】
 以下のような文章を見つけたのですが,朝鮮半島に対する「野心」がそんなに早くから日本政府にはあったのですか?

――――――
 明治政府は極めて早い段階から,安全保障上の観点から朝鮮に対する関心を高めており,日本の野心を妨げる可能性のある存在としてロシアの存在を警戒するようになったと言えるだろう(そういう認識を最も早く示したものの一つは,1875年の榎本武揚の「樺太問題・朝鮮政策につき意見書」であろう).
 ちなみに,朝鮮を日本の安全保障に直結させて考える発想は,1969年の佐藤(栄作)・ニクソン共同声明にも繰り返されるもので,それだけ日本の支配層に根強いものとみるべきである.

――――――浅井基文 in 『自衛隊をどうするか』(岩波新書,1992/1/21),p.32

 【回答】
 別に「野心」というものではなく,地政学的に見た場合,朝鮮半島が日本の安全保障に直結するという考え方はごく自然なものです.
 別に「支配層」(笑)に限った話じゃありません.

 地政学的に言いますと,半島国家というものは,狭隘地なんですね.
 狭い通路.
 キャット・ウォークみたいなもんです.

 シベリア・中国方面から太平洋に進出するためには,まず日本海に出なきゃいけません.
 そして日本海に出るには,朝鮮半島を通らなきゃなりません.
 逆に,その進出を阻みたいなら,反対にその狭い通路を閉じなきゃならない.
 閉じる為には,これもやはり半島に出ていかなきゃならない.出て行って,相手の前に立ちはだからなきゃなりません.

 そんなわけで,ロシアや清が大勢力である以上は,朝鮮半島で日本と衝突するのは時間の問題たったといえますね.
 「野心」などとは別次元の話です.
 そもそも1875年の軍備,とりわけ海軍力を見れば,日本にどんな「野心」が持てたのか?と小一時間(ry


 【質問】
 独立門とは?

 【回答】
 朝鮮が清から独立したことを記念して建てられた門.
 以下,引用.

 ソウル市西大門区顕詆洞にある.最寄駅は地下鉄3号線独立門駅.

 1894年の日清戦争で清が日本に敗れ,その講和条約である下関条約第1条によって清の朝鮮に対する支配権は失われた.
 これにより,朝鮮は宗主国である清からの独立を果たすことになった.
 この「清からの独立」を記念して97年に建てられたのが独立門であり,決して「日本からの独立」を祝って建設されたものではない.

 独立門が建てられた場所には元々迎恩門と呼ばれる門があった.
 この迎恩門とは,清からの使節を迎えるための門で,使節が来るたびに朝鮮王はこの門で土下座して清の使節を迎えたとされる屈辱的な場所でもあった.

 かねてより朝鮮の独立を願っていた開化派の徐載弼は,甲申政変失敗の後,日本に亡命し,その後,米国に渡っていた.
 彼は帰国後,96年に独立協会を結成.
 この独立協会が,朝鮮の永久独立を宣言するために,屈辱的な迎恩門を取り壊し,その跡地に,パリの凱旋門を模した独立門を97年に建設した.
 ちなみに独立門の脇には徐載弼の銅像が立っている.

( from SAPIO 2003/9/24号,小学館,p.102)

金完燮 ソウル市民にアンケートをとれば,おそらく大多数の人々は,独立門を日本支配からの解放の象徴と答えるでしょうね.清国からの独立を意味するものだと認識している人は,3%ぐらいではないでしょうか.

(同)

 また,以下のコラムでも,類似の指摘がされている.
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/seoul/news/20050428org00m030117000c.html

 さらに,日韓歴史共同研究委員会の報告書でも,朝鮮の独立門について同様の記述 がある。
 日韓歴史共同研究委員会のページの一番下のPDFファイル「開港後近代改革論の動向と日本認識(金度亨)」の287ページ中ほどに,独立門につい ての記述があるが,それによれば,

 自主・独立はもちろん,民族国家の成立において 当然解決されねばならぬ重要な課題であった。
 たとえ、「独立」が日清戦争での日本の勝利の結果もたらされたものであることを認めながらも、 多くの人々は実質的な独立国家にならねばならないと考えていた。
 独立教会を作り、 独立門を建立したのもこのよう な雰囲気に下で可能であった。
 俄館播遷を進めた勢力は,独立を記念するために
「古き日の恥辱を雪ぎ、後人の標準を作り」、
また
「世界へ広く告げ、後孫たちに朝鮮が明ら かに独立したことを伝える形跡」
として独立門の建立を進め、王室でもこれを積極的に後援した。

 【質問】
 韓半島におけるプロテスタント布教の始まりは?

 【回答】
 さて,1868年,江戸幕府から政権を委譲された明治新政府は,朝鮮と新たな関係を求めようと努力をしますが,明治政府の国書の受け取りさえ拒絶する朝鮮に対し,苛立ちを強めていき,政府部内には武力による修好条約の締結,所謂,征韓論が声高に主張される様になります.
 1875年,軍艦雲揚を朝鮮領の江華島に派遣して示威行為を行い,その挑発の結果,砲撃した相手に反撃を加え,武力衝突を起こします.
 そして,雲揚号事件を契機として,1876年,朝鮮との間に,今までの経験を生かした不平等な日朝修好条約を締結し,清国の影響が極めて強かった朝鮮に,日本人の足場を築くとともに,在留邦人保護を目的に軍隊を駐留させ,その後,あらゆる面での影響力を拡大していきました.

 日朝修好条約により,朝鮮からの第1次修信使として金綺秀一行が来日し,1880年に第2次修信使として金弘集一行が来日します.
 その後,発展した日本を見学する目的で,朝鮮は62名からなる紳士遊覧団を派遣しますが,その1人であった農業担当の安宗洙は,日本の農学者にして日本初のメソジスト派キリスト教信者として有名な津田仙の自宅を訪問し,掛け軸の言葉(山上垂訓)に感動して帰国しました.

 この安宗洙の感動を聞かされたのが,1882年に派遣された遊覧団の一員となる李樹延です.
 李樹延は王妃の甥であり,当時朝鮮改革推進派の先駆者であった閔泳翊の親友でした.
 彼は来日後早速津田仙を訪ね,農学とともに掛け軸の言葉を学ぶことを願いました.
 津田仙は,彼にキリスト教の真理を教え,漢文聖書を与えました.
 そして,彼はクリスマスの日に初めて津田仙と共に築地教会のクリスマス礼拝に参加して,忘れられない感動を覚えます.

 その後,彼は,津田仙の紹介で組合教会の指導者長田時行から聖書の基本教理を学び,また一致教会の牧師安川亨から仏教とキリスト教の違いを学び受け,信仰告白に至り,1883年4月29日,東京の露月町教会(現在の日本基督教団芝教会)にて安川亨牧師の司式で洗礼を受けるに至りました.

 尤も,李樹延が朝鮮最初のキリスト教信者ではなく,それより前に1879年に満州に於いて受洗した徐相崙一行に比べると遅かったものの,朝鮮の貴族階級である李樹延の受洗は大きな影響を与えることになります.
 ところで,李樹延の参加していた紳士遊覧団一行は朝鮮に帰国しますが,李樹延はそのまま日本に留まり,農学の学びを口実にして聖書の学びに熱中します.

 1883年5月11日,東京新栄教会で開かれた全国基督信徒大親睦会にも参加し,そこで李樹延は,奥野昌綱牧師の提案により朝鮮語で代表祈祷を行い,有名なエピソードになりました.
 李の交わりはどんどん広がり,当時日本聖書教会の総主事であったルーミス宣教師の勧めによって聖書を朝鮮語に翻訳することに着手し,1883年中にマルコ福音書の翻訳を終えて出版の運びになりました.
 また,教理問答書である「真理問答」も翻訳し,「朝鮮天主教小史」の執筆にも時間を注ぎました.

 日本よりも遅れている朝鮮の文明開化を求めるには,福音宣教であると確信した李樹延は,1884年3月,親交あるルーミスの名前で,"The Mission Review of World"に寄稿し,9月にはノックス宣教師の名前で,"The Foreign Missionary"に"The condition of Korea"と言うタイトルで朝鮮宣教への緊迫性を訴えました.
 そして,12月13日には遂に自分の名を出して,"The Mission Review of World"を通して,次の様に米国の教会に訴えました.
「もし,アメリカ教会が朝鮮に宣教してくれないなら,神様は別のルートで朝鮮に宣教師を送ってくれるはずであるが,残念ながらアメリカ教会が神の怒りから免れる道はないであろう」
 結構挑発的な文言です.

 この挑発に応え,長老教会の宣教師であるアンダウード,メソジスト教会の宣教師アペンゼラーと言う2名の若者が立ち上がり,1885年1月25日に横浜に来日し,李樹延から2ヶ月間,基礎朝鮮語を学び,李樹延が翻訳した朝鮮語聖書を持参して4月5日に朝鮮の濟物浦(現在の仁川港)に上陸しました.
 これが朝鮮における,最初のプロテスタント教会布教の始まりとなった訳です.
 因みに,その後,改革派を支援する為に李樹延は帰国の途につきます.
 当時,朝鮮では守旧派と改革派がせめぎ合っていましたが,不幸にして守旧派勢力により,禁教の令を侵したという理由で李樹延は逮捕,処刑されてしまいました.

 こうして,朝鮮の布教は頓挫したかに見えますが,李樹延が蒔いた種は徐々に広がりつつありました.

 1887年,明治学院に松山出身の士族の息子が入学します.
 彼の名を乗松雅休と言います.
 1888年,プリマス・ブレズレンと言う会派のH.G.ブランドと言う宣教師が来日し,築地で伝道活動を始めました.
 ブランドはケンブリッジ大学を卒業すると単身,日本に乗り込んできましたが,ブランドの所属するプリマス・ブレズレンと言う会派は所謂教派を否定し,組織だった宣教活動も行わず,個人の手弁当での宣教に終始しました.
 この為,聖書と祈祷と霊感を重んじ,形式主義に陥りつつあった近隣の教会をして,「教会荒らし」として忌避されたのです.

 しかし,ブランドは人間が出来ていたのでしょう.
 1890年,乗松はそれまで属していた日本橋教会を離れ,ブランドの影響を受けた仲間と共に国内伝道の旅に出ました.
 そうして数年間を関西や北陸で過ごした後,1896年12月23日,朝鮮の京城にやって来て,日本人初の海外伝道者となります.
 乗松は,李樹延の話を聞いて彼の意志を継ぐべく行動したとも言い,日清戦争後の朝鮮の事情を聞いて,希望のない朝鮮の人々に神の愛を知らせることこそ唯一の生ける道であると確信し,純粋な福音宣教の為に朝鮮に渡ったとも伝えられています.

 乗松は1900年からソウル郊外の水原に移住し,苦しい伝道生活を始めました.
 元々,プリマス・ブレズレン派は教会としての後ろ盾が何もない為,経済的に困難を極め,飢えで昏倒したことさえあったと言います.
 しかし,彼は貧しいながらも少しずつ信者を獲得し,朝鮮語を話し,朝鮮に溶け込む希有の日本人となりました.

 例えば,1906年に乗松が帰国する際には,水原で送別の集会があり,日本人がたった1人立ち会っただけで,後は全部朝鮮人であり,しかも,20里,30里離れた地から草鞋穿きでやって来た人もあるくらいで,しかも彼らはすべて乗松との別れを惜しんで涙を流していたとあります.
 当時は日露戦争に勝ったばかりで,日本人の鼻息も荒く,日本人が朝鮮から去ると言うと,悪魔でも払う様な感じであったと言いますが,それだけ民衆に慕われ,民衆に溶け込んでいたことを示すエピソードです.

 因みに乗松氏は1921年2月,小田原で「骨は必ず朝鮮に埋めてくれ」と遺言して死去しました.
 その通り,水原に朝鮮人の手によって,彼の墓と記念碑が建てられました.
 戦後,日本支配の痕跡が次々と撤去されていく中で,この1922年に建てられた記念碑は,独立後の韓国で殆ど唯一の日本人記念碑となっています.

 それは漢文ですが読み下すと,こう書かれています.

――――――
 生きるも主のため,死ぬるも主のため,始め人のため,終わりも人のため,その生涯忠愛,おのれ主の使命を帯びて,その一切の所有を捨て,夫婦同心福音を朝鮮に伝う,数十年の風霜,その苦しみいかにぞや,心肺疼痛し,皮骨凍飢し,手足秒廃す,その朝鮮における犠牲きわまりぬ,しかるに動静ただ主に頼り,苦に甘んずるの楽しみを改めず,その生涯は祈祷と感謝なり,わが多くの兄弟を得,会するに主を同じくす,主の名は栄を得,その生涯苦にしてまた栄なり,臨終の口に朝鮮の兄弟のことを絶たず,その骨を朝鮮に残さんことを願う,これわれらの心碑となすゆえんにして,しこうして主の再臨の碑に至るなり
――――――

 因みに,乗松雅休の韓国への影響は今でも大きく,韓国水原を中心とした韓国基督同信会の関連集会が全国に230カ所あり,伝道出版社始め9つの協力団体が活発に活動しているそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/21 23:40


 【質問】
 韓半島における,日本のキリスト教政策は?

 【回答】
 さて,1905年,日本は大韓帝国と保護条約を締結し,朝鮮の外交権を手中にして,その政府を監督する為,ソウルに韓国統監府が設置されました.

 初代統監になったのは伊藤博文ですが,伊藤は,メソジストの宣教師を招いて,
「政治上一切の事件は不肖之に任らんも,今後朝鮮における精神的方面の啓蒙強化に関しては,冀ば貴下等其の任に当られよ,斯くてこそ朝鮮人民誘導の事業は初めて完きを得べし」
と,宣教師を懐柔する様な約束をしています.
 この目的は,彼等の発信力が国際世論を動かし得る事を良く理解していた,伊藤の政治的判断であり,宣教師の影響下にある朝鮮のキリスト教を,その統治下に置く計画だったと言います.
 その後も,統監府は教会を経済的に支援するなどの活動を続けていきます.
 この政策のおかげで,宣教師達は日本の統監政治を褒め,朝鮮人達に抵抗を止める様に勧めたり,中には,
「日本統治は,朝鮮が他の国に統治されるよりもずっと良いし,また朝鮮が自らの手によって治めるよりも遙かに良い」
とまで言った者も現れる始末でした.

 ところが1910年,朝鮮併合によって統監府が朝鮮総督府となり,初代総督に寺内正毅が就任すると,掌を返した様に,朝鮮のキリスト教指導者への警戒心が増すことになります.
 1911年,「朝鮮教育令」が公表されると,朝鮮のキリスト教と国体・天皇の対立は不可避であるとの認識に達し,総督府は宣教師のキリスト教系学校活動に打撃を与える為,「寺内総督暗殺未遂事件」をでっち上げました.
 これは後に「105人事件」と呼ばれる冤罪事件で,数多くの有力なキリスト教指導者や信者が逮捕され,彼等が中心になって行っていた「愛国啓蒙運動」に大打撃を与えました.

 この様な状況下で,日本組合基督教会では1910年10月,第26回定期総会で,
「全会一致を以て朝鮮人伝道の開始」
を決議し,朝鮮伝道部の主任として,渡瀬常吉が任じられました.
 この背景には日清戦争の勝利により,朝鮮に於ける日本の権益が国際的に認められた事があります.
 その威光を以て,遅れている朝鮮と言う国に日出づる国からキリスト教を布教しに行くと言う生臭い目的がありました.
 三国干渉などで,この「朝鮮伝道論」は一旦下火になりますが,日露戦争での勝利により,この動きは再燃します.
 元々,組合教会は何人かを朝鮮に派遣していましたが,それは偵察程度のものであり,本格的に宣教師を送り込む様になったのは,朝鮮併合の後の事です.

 元々,この動きが出たのは朝鮮総督府の方からで,最初,日本基督教会の植村正久に話を持ちかけますが,植村はそう言った生臭い動きを拒否し,組合教会の海老名弾正に依頼し,その承諾を得て,直弟子の渡瀬常吉が派遣されることになったという経緯があります.
 因みに,渡瀬常吉が派遣されるのにはもう2つ理由があり,伊藤博文を始め日本の政財界の支援の下にあった大日本海外教育会による京城学堂の学堂長を8年間務めた経歴があったからでもあり,その結果,「朝鮮教化の急務」による朝鮮伝道論を持論としていたからでもあります.

 渡瀬の考えは,
「朝鮮併合は,日本が世界の大勢に順応した結果である.
 東洋の平和を永遠に保証する為,日本帝国存在の必要と同時に,朝鮮一千五百万民衆の幸福を観念した結果である」
と,日韓併合を全面的に肯定すると共に,
「吾人は併合後に於ける帝国の施設が,着々朝鮮民族の幸福を増進しつつあるを信ずる者である」
とまで言い切っています.

 そして彼の考えでは,朝鮮人の教化には二重の問題があると考えていました.
 その二重の問題とは,
「人類としての教化問題と国民としての教化問題である」
と言い,続けてこう述べています.

――――――
 朝鮮人を教化せんとする宗教家は,朝鮮人を人類同胞の立場より,之を単に宗教的信仰に導くと云ふに止めず,更に一歩を勧めて日本と併合せられた朝鮮人として,其の最も幸福なる道行きは如何にすればよいかと云ふ事を考へ,多少彼等の心中には反抗心があっても,それを説き暁して日本国民として立つの覚悟に到着せしめねばならぬ.
 此れは朝鮮民族の幸福を希ふの自然の衷情より自然に到着する要点である.
 若し朝鮮民族が日本国民たるの自覚を持つことを拒み,長く反抗的状態を有して居るならば,其の不幸は一通りではない.
 進歩もなく,発達もなく,随って希望もなく,自暴自棄あるのみである.
――――――

 そして,この伝道には外国人宣教師ではなく,日本の宣教師のみ担うことが出来ると主張します.

 時を経ても,人間の考えることなんか殆ど変わってないと思う主張に,しばしば出会うのですが…
 それだけ,日本人は発展がないのかしらん.

 この主張には,組合教会内の一部に批判者がいたものの,1911年から朝鮮伝道は急ピッチで進められ,1918年末には教会数150,信徒数14,387名を擁する程に拡大しました.
 この裏には当然,朝鮮総督府から約6,000円に上る支援金や,有力財閥からの寄付が存在した訳ですが….
 組合教会の朝鮮伝道部に所属する教会のうち,50教会は他教派からの加入で,専任教師は71名で47.3%,教会人総数の43.7%に当たる620名は未受洗者であり,会堂を持つ教会は,全教会数の29.3%である44教会に達しました.

 当然,こうした「作られた」伝道で勢力を急拡大したとは言え,それは砂上の楼閣に過ぎません.
 1919年に起きた,朝鮮独立運動の大きなうねりである三・一運動を契機に,朝鮮人信徒が組合教会を離脱し,勢力が急激に,1920年末に15,000名を誇っていた信徒が,1921年末になるとたったの2,955名になってしまいました.
 こうした急激な信徒数減少により,それまで陰に陽に支援してきた朝鮮総督府から「見捨てられ」てしまいます.

 この為,日本組合基督教会は10月の年次総会で朝鮮伝道部を廃止し,朝鮮に於ける所属教会を分離独立させ,其の名称を「朝鮮会衆基督教会」と変更して,伝道事業から撤退するに至った訳です.
 結局,先述の乗松雅休氏の様に,真に人々の懐に飛び込まない様な布教の仕方は,全く受け入れられなかったのです.

 ところで,朝鮮でのキリスト教信仰の特徴は,朝鮮半島にキリスト教が入る以前,既に海外で生活していた朝鮮人社会に信仰の群れが形成されていたことにあります.
 最初の信者となったのは,満州で人参交易に従事していた徐相崙で,1879年にスコットランド宣教師のジョン・ロスによる宣教を受けたのが切っ掛けで,徐はその後,ロスを助けて朝鮮語の聖書翻訳にも携わっています.
 また,日本では李樹延が津田仙の伝道で日本人牧師の安川亨から洗礼を受けたのも,1883年の事で,まだ本国での宣教が開始されない時期でした.

 その李樹延は,既に東京に来ていた朝鮮人留学生達に伝道を行い,1906年,彼等は東京朝鮮YMCAを設立します.
 そこで礼拝をしていた留学生達は,更にYMCAとは別に教会を設立することで意見が一致し,朝鮮長老教会に牧師の派遣を要請したのが,今日の在日大韓基督教会(東京教会)の始めとなっています.

 1909年になると,朝鮮イエス教長老会は東京在住朝鮮人信仰の群れの為,1907年に平壌長老会神学校第1期卒業生7名のうちの韓錫晋牧師を日本宣教師に任命し,東京に派遣しました.
 韓牧師の任命理由は,欧米化した日本社会に対応できる開花された人物であり,朝鮮併合と言う状況に置かれていた東京の留学生達を守れる民族意識のある人物であり,朝鮮より先にキリスト伝道が開始された日本で活動できる優れた人格者であり,優秀な留学生を知識面でも指導できる学者であると言う4つの理由から選任されました.

 韓牧師は滞日わずか3ヶ月だったのですが,韓牧師が東奔西走したお陰で,日本に於いて朝鮮人信仰者の組織が整備されたと言います.

 そして朝鮮併合後は,布教の対象を,留学生から日本のブルーカラーとして雇われた庶民階級へと移し,伝道の地域も当初の東京周辺から関西地域へ,そして九州,中部,北海道へと広がっていきます.
 また,日本の敗戦後も在日韓国人宣教の為に,大韓イエス教長老会統合,合同,大神,合正,基督教長老会,大韓監理会,大韓聖潔教会の7つの教団が宣教師を派遣し,在日大韓基督教会には,教会数96,教職116,信徒約7,000名ほど居り,在日大韓基督教会に属していない単立系教会と日本の教団に属している教会も同じくらいあるそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/22 23:27


 【質問】
 李氏朝鮮末期の鉄道敷設権争奪戦について教えられたし.

 【回答】

 西欧列強が後進の地域に進出する手段としては,初期の頃は宗教がその尖兵になっていましたが,産業革命の後は,鉄道,電信の敷設権を現地政府から得て,それを敷設した後,鉄道や電信と言ったインフラを元に,例えばその電信施設,あるいは線路の警備の為の駐兵権を得たり,現地軍の指揮権を握ったり,現地政府への干渉を強めたりして,最終的に植民地化するか,あるいは現地政府を其の儘に,保護国化すると言う形を取っていました.

 で,日本の隣にある半島と言えば,朝鮮半島.
 明治時代,駅逓頭だった前島密は,日本内地の鉄道を中国,シベリア経由で欧州に繋げる為にも,朝鮮半島縦貫鉄道を日本の手で開発する事が急務であると主張しています.

 1894年7月,陸奥宗光外相は,朝鮮半島視察のために,竹内綱を派遣します.
 竹内綱は,朝鮮政府に招聘されていた大三輪長兵衛や尾崎三良と共に,漢城と釜山の間に鉄道の敷設を計画します.
 一方,大三輪長兵衛は,同じく朝鮮政府に在職していた増田信之と組んで,漢城と仁川の間の鉄道も計画しますが,これらは何れも具体化されませんでした.

 しかし,日清戦争で朝鮮半島に軍や軍需品を円滑に輸送する必要が発生した為,日本は漢城~釜山,漢城~仁川の軍用鉄道を敷設する権利を得るため,日朝暫定合同条款を締結し,10月に仙石貢が朝鮮に派遣されてルートを調査し,京仁鉄道に関しては予算措置も執られました.
 この鉄道は日清戦争が日本の勝利に終わったことで,未完に終わります.

 1895年5月,英,米,独,露は,この日朝暫定合同条款を根拠にした京仁鉄道,京釜鉄道の敷設に反対し,更に日本の計画は後退を余儀なくされました.

 日本としては,この日朝暫定合同条款をより具体的な条項にして鉄道敷設を朝鮮側に認めさせようとしますが,親日勢力が弱体化し,親露派の台頭,欧米列強の干渉などがあり,日本側の工作は困難となり,更に8月の閔妃暗殺によって,朝鮮側の反日気運が高まると,米国人のJames R. Morseが京仁鉄道敷設に名乗りを上げます.

 これには日清戦争により勢力を急拡大させていた日本政府に警戒感を抱いた米国公使館の後押しを受けていました.
 1896年3月に,京仁鉄道の敷設権はMorseに与えられ,漢城と義州の京義鉄道敷設権はフランスのFives Lille商会が手にし,この会社は更に漢城と元山間の京元鉄道敷設権にも関心を示していました.
 また,ドイツも京元鉄道,平壌と元山間の朝鮮半島横断鉄道に関心を示し,山東半島からの支配権の延長を目論んでいました.

 勿論,日本は是に反発しますが,列強の威光を背にした朝鮮政府は素知らぬ顔を通します.
 是に於て,日本は方針転換し,取り敢ず,京釜鉄道に標的を定め,渋沢栄一を筆頭に官民挙げての敷設交渉を行いました.

 ところで,京仁鉄道敷設特許権は,契約から12ヶ月以内に着工,完成は着工後3年以内とし,それを守れなければ特許は失効することになっていました.
 Morseは,仁川から1マイル地点の牛角里で1897年3月に着工するのですが,本国での資金調達に失敗し,建設続行が不可能となりました.
 そこで,その敷設権は日本に譲渡することとなり,日本は労せずして先ず第一の鉄道敷設権を手に入れることになります.

 また,朝鮮半島へのロシアの進出を阻止したい日本は,ロシアの満州への進出を認め,日本の朝鮮半島への権益獲得に関してロシアは不干渉とする,所謂満韓交換を行い,京釜鉄道への干渉を消滅させ,大韓帝国政府の親日派の巻き返しで,1899年9月,遂にその敷設権を手中にすることが出来ました.

 更に日本にとって幸運は続き,1899年6月に,Fives Lilleは契約後3年以内の着工が出来なかった為,ロシアへの転売を試みるも,ロシアはシベリア鉄道と満州地域の鉄道建設で資金が無く,また5月に日本にその売却を申し入れますが,何れ消滅する権利であるという判断から,日本も断り,その特許は大韓帝国政府に返納されることになりました.

 これで,日本側としては,この鉄道の権利も日本に転がり込んでくるとほくそ笑んでいたのですが….

 ところがぎっちょん,大韓帝国政府は,意外な反撃を行ったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2007年06月15日
青文字:加筆改修部分

 フランス系の会社や米国人の撤退,ロシアの日本の権益承認などにより,朝鮮半島の鉄道敷設権はこうして日本に転がり込んでくると思っていた矢先,大韓帝国政府は反撃に出ます.

 即ち,1899年に政府は外国人に対する如何なる権益も許可しないと言う声明を発し,フランス会社の特許権喪失の前月には朝鮮半島横断の漢城から元山に至る京元鉄道と,東海岸から北上し慶興に至る咸鏡鉄道の特許を,朝鮮人民族資本である大韓鉄道会社に与えています.
 そして,大韓鉄道は,更に京義鉄道敷設特許権をも受けることになりました.

 9月には,大韓帝国政府自らが京義鉄道,京元鉄道の敷設を行うべく,政府内に西北鉄道局を設置します.
 ちなみに,この西北鉄道局にはフランス公使館書記官が監督に就き,技師はフランス人主体と,政府の鉄道利権にフランスが深く関わっていた訳です.

 更に1902年には矢張り民族資本の嶺南鉄道が三浪津と馬山の間を結ぶ三馬鉄道の敷設権を,1904年には湖南鉄道が,京釜鉄道から分岐する鳥致院~公州~木浦の鉄道敷設権を得ます.

 こうして,民族資本が大韓帝国内の鉄道網を制したかに見えたのですが,如何せん,民族資本には資金の蓄積が乏しく,結局これら路線は政府内部の宮中部所轄の鉄道院を設置し,主要幹線で着工と建設が滞っている区間は,直接その工事に当たることになりました.

 ところが,大韓帝国政府にも資金は無く,1902年,西北鉄道局は京義鉄道の軌間を1067mmに改め,着工することを決めました.
 しかし,日本は京釜鉄道を標準軌で建設中のため,これに抗議.
 大韓帝国政府の説明では,当初狭軌でも後に改軌すると言うものでしたが,日本側はこれを認めると将来,改軌の時にはロシア広軌にさせられることを懸念し,対決姿勢を強めました.

 ただ,大韓帝国政府は1896年の勅令第31号国内鉄道規則で,朝鮮半島に於ける鉄道の軌間は1435mm標準軌とすると言う風に定めてしまっており,これを日本側に指摘されて,狭軌着工は見送られました.

 斯うして,紆余曲折の末,1902年5月に京義鉄道の起工式が為されたのですが,忽ち資金が尽き,1903年1月には工事が一時中断されました.
 此処に手を差し伸べたのがロシア.
 2月に京義鉄道敷設権をロシアが要求し,日本は慌てて京義鉄道の資金を提供すべく,大韓鉄道株式会社に対し,京義鉄道借款契約を行い(政府じゃないのが味噌),その付属約款第2条では,京元鉄道での優先敷設権が認められ,大韓鉄道株式会社の資金難から,それら敷設権は会社が破綻した場合,債権として日本側が差し押さえられる事が出来る様になります.

 その結果,日本は朝鮮半島縦貫ルートの京仁鉄道,京釜鉄道に加え,横断線の京義鉄道,京元鉄道まで手中に押えることに成功します.
 京釜鉄道は,1903年10月に京仁鉄道を買収し,馬三線(嶺南鉄道が権利を持っていた三馬鉄道)についても,傘下におさめることになります.

 京釜鉄道は,社債の元利返還保障を日本政府に求め,資金調達の目処も立ちますが,日露間の緊張が高まった為に,その工事を急ぎ,1904年2月10日の宣戦布告後,3月4日には鉄道大隊を仁川に派遣し,12日から京義鉄道の漢城と龍山(開城)の間での路盤工事に着手,一方の京釜鉄道は,一時は軽便鉄道規格での完成も検討されましたが,結局1905年1月に全通しました.
 1日の工事進行速度は平均1.6km.
 因みに,軽便鉄道用の資材は後に安奉線建設に流用されました.

 京義鉄道は1906年4月3日に完成しますが,こちらも,工期733日で一日平均730m,最大900mとなっています.
 このほか,馬山線は1905年5月完成,京元鉄道も1904年8月に完成しました.

 これら鉄道促成の影には,人夫の現地徴発と言うのを行っており,日本側との軋轢が強まり,日露戦争後の1907年には駅舎の襲撃,鉄道妨害による脱線転覆事故,1909年でも釜山~新義州の列車が釜山~南大門(漢城)に運転短縮されて隔日運転となったり,襲撃で駅舎が全焼するなどの事件が起きています.

 更に,日本側が幹線鉄道網を掌握したことで,朝鮮民族資本による鉄道開業は実質的に不可能となり,最後まで朝鮮民族資本が敷設権を握っていた西南部の湖南鉄道は,京釜鉄道の競合線になると言う抗議を受けて,特許取消となり,1909年5月に消滅してしまいます.
 大韓帝国政府が開業させた鉄道も,農商工部が平壌の無煙炭開発を目的に敷設した京義線大同江から分岐する10kmほどの炭砿専用鉄道一本だけに留まりますが,この鉄道も,開通当初は統監府に委任されていたもので,日本のために作らせた鉄道だったりします.

 もし,1903年の時点で,フランスが積極的に朝鮮半島に介入し,朝鮮半島がフランス植民地になっていたとすれば,日露戦争の展開や,その後の日本の発展がどうなっていたか,興味深いIFになりますね.
 もしかしたら,第一次大戦では同盟側で戦争してたかもしれないですし.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2007年06月17日


 【珍説】
 1895年,日本人暴徒らが朝鮮高宗の皇后である明成皇后〔閔妃〕(1851~1895)を殺害した乙未事変当時,明成皇后が殺害された地点と殺害の過程を詳しく記録した日本側の資料が初めて公開された.

 当時日本の京城駐在一等領事 内田定槌が作成したこの報告書は,乙未事変の直後,直接現場を調査した後,事件発生から3か月足らずの1895年12月 21日,本国に真相を報告した内容で,信憑性が非常に高いと評価される.
 報告書は1895年10月8日未明,景福宮に乱入した日本人たちが高宗と明成皇后の寝所のあった乾清宮に侵入した経路と,皇后殺害の地点,皇后の遺体をしばらく安置した場所と遺体を燃やした地点を記している. 

 学界では,これまで暴徒の一員だった日本人と目撃者などの手記,証言を根拠に,明成皇后が玉壺樓の室内で殺害されたとし,これを土台に光復以後,政府は玉壺樓の近くに「明成皇后遭難之地碑」を立てたりもした.
 李泰鎭教授は
「室内ではなく,宮廷の庭先で多くの人が見守る中,殺害されたということは,当時の状況が刺客による暗殺ではなく軍事作戦同様の宮城占領事件だったことを意味する」とし,「日本が殺害場所を長い間隠蔽したという点から,彼ら自らこの事件が明らかな蛮行であったことを認めたと言える」
と話した.

(朝鮮日報,20051/13)

 【事実】
 この発表については,この質問状に見られるような多くの疑問点があり,全く信用できない.

 なお,この質問状と,李の回答,それへの再反論などの梗概は,以下で読める.
 日本の原資料にも当たっておらず,資料にも載っていないことを記事が捏造していたことが明かに.

一次史料で読むバファリン作戦
「NAVER総督府」◆(2006/10/06)バファリン作戦
「獄長日記」◆(2006/10/01)一次史料に見るバファリン作戦(一)

 李がなぜ教授で通用するのか謎.
 まあ,日本にも和田春樹のような東大教授もいるが.


 【質問】
 この写真の人物は閔妃か?

 【回答】
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai
によれば,

・日韓併合(1910)以前の欧文資料や日本語資料では,この写真の説明を「正装の韓国夫人」「宮中の侍女」「女官」などとしているのであり,「閔妃」とするものは全くない.
・朝鮮王室の慣例では王妃はクンモリをしないと推測できる
・にも関わらず,「閔妃」であると広く流布されているのが実状

ということから,閔妃ではなく女官である可能性が高い.

 また,同サイトによれば,閔妃の写真は存在しないという.

 さらに,
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi051.html
によれば,世界風俗写真帖 第二十図(1901年発行)に掲載されていた写真なのだそうで.
 記述を信用すると,普段からクンモリをして働かせていたということでしょうか.
 纏足みたいなものかもしれません.

SLE某 in FAQ BBS


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