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◆◆戦史
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(画像掲示板より引用)


 【link】

「アジアニュースまとめ」◆(2013/05/06) 【日韓】韓国国会に「東アジアの歴史認識を正す特別委員会」設置へ-米中欧ASEANらと日本に圧力

「楽韓web」◆(2002/11/15) 生きている韓国史教科書(中央日報)

『朝鮮王朝がわかる! 歴代27人の王,500年に及ぶ壮大な人間ドラマ 世界記録遺産『朝鮮王朝実録』をもとに総力解説!』(六反田 豊著,成美堂出版,2013.5)

『朝鮮古代史料研究』(濱田耕策著,吉川弘文館,2012/12/6)


 【質問】
 戦史を含め,韓国の歴史観には何故トンデモ珍説が蔓延り易いのか?

 【回答】
 産経新聞ソウル支局長,黒田勝弘によれば,事実はこうあるべきじゃないという「べき論」的史観で固まっているという.
 したがって,「べき論」によって事実を認めたくないあまり,史観が狂うのではないかと思われる.
 以下,黒田の発言を引用.

井沢元彦 その歴史認識ですが,韓国は清国を単に宗主国として位置付けています.
 どう考えても属国の位置に置かれていた.
 それを解放したのが,いわゆる日清戦争の勝利ではないですか.
 ところが韓国では,そうとは絶対に教えていない.
 その点を韓国人はおかしいとは思っていないのでしょうか?
黒田 専門用語では「服属」ですが,日本の新しい教科書がそういう表現を使ったのはけしからん,直せと対日要求項目の1つになっている.
 まあ,一般の人々は,中国の支配下にあったと思っています.

〔略〕

黒田 日本のおかげで「中国のくびき」から解放されたという事実を認めたくない,あるべき姿じゃないとの「べき論」的歴史観で固まっている.

〔略〕

黒田 韓国は今に至るも,学問的に,圧倒的に日本の影響,日本のものが残ったわけです.
 例えば,辞書,事典のたぐいは殆ど,日本のものからの重訳です.ロシア文学からギリシャ神話から,あらゆる世界の古典もそうです.
 韓国の知的社会は,そういう土台の上に形成された.
 それを,先生方はみんな知っている.
 しかし,それを絶対に教えないですね.

〔略〕

黒田 日本の知的財産を利用して韓国の知識世界が形成されたため,近年,それに対する自己批判というか,自らの手で辞書を作ろう,自分達で原典から直接翻訳しようという動きや声が出てきました.
 その際に,こういう論理になるんです.他者の,しかもあろうことか日本の知的財産を密かに利用して,学生達に教え,自分の業績を打ち立ててきた旧世代はけしからん≠ニね.
 そこには,日本の知的世界のこの社会における貢献については認めたくないし,言及しないという意識構造がありますね.

――――――『SAPIO』 2003/11/26号,p.93

▼ このような状態になってしまう背景として,日本のそれとは大きく異なる,韓国人の歴史観がある模様.
 木村幹・神戸大教授(朝鮮半島地域研究)によれば,韓国では歴史的事実よりも,歴史に関わる「物語」が重視されるのだという.
 そこでは「民族」の価値が強調され,そうした歴史観にそぐわないと「歴史の歪曲」と見なされてしまう,と木村は述べている.

 以下引用.

――――――
 私事で恐縮だが,一昨年からはじまった「第二期日韓歴史共同研究委員会」の研究委員なるものを引き受けてから,もう1年半以上になる.
 委員会には,古代史部会,中世史部会,近現代史部会,そして教科書小グループの四つの下部委員会があり,筆者はそのうちの教科書小グループの研究委員を務めている.

 そもそも日韓間で最初に本格的な国家間プロジェクトとしての歴史共同研究が始まったのは,2002年のことであった.
 第一期の委員会には,筆者も研究協力者(委員の下で研究に従事するもの)として参加させていただいた.
 こうして開始された「第一期日韓歴史共同研究委員会」は,2005年に報告書を提出して終了し,2007年からは第二期の委員会がはじまった.
 筆者も目出度く(?)研究協力者から委員へと昇格した.

 しかし,仕事は厄介であった.
 すぐにわかったのは,日韓の間では,歴史教育の目的が全く異なる,ということだった.

 日本では一般的に,日本史や世界史に関わる「事実」を教えることに重点が置かれている.
 だから,各種の教科書から一定の「物語」を読み取ることは難しいし,また,教育現場でもその読み取りは重視されない.

 しかし,韓国では歴史的事実よりも,歴史に関わる「物語」に重きが置かれている.
 そこでは,「民族」の価値が強調され,近代史でも,如何に韓国人が日本に抵抗したかが,重視される.

 日韓の教科書の違いには,「歴史観」の違いが表れている.
 例えば,韓国人が歴史問題などにおいてよく使う言葉に「歪曲」がある.
 注意すべきは,この言葉が「歪曲された事実」という形だけでなく,「歪曲された歴史観」という形でも使われることだ.
 そこには,「絶対無二の歴史観」が存在し,それ以外の歴史観は,事実の如何に拘わらず「誤りだ」という認識が存在する.

――――――読売新聞 2009年1月19日<日韓共同研究 歴史教育 目的に違い>

韓流誇大妄想史観の一例
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 韓半島の歴史を,3行で教えてください.

 【回答】
 前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め,後に周王朝がこれを侯国に封じたのが,同地の国家の始まりで,その後,三国時代等を経て,936年に高麗が半島統一.
 高麗は13世紀,モンゴル帝国に降伏するなどして衰えると,1392年に李成桂によって滅ぼされ,李成桂は李氏朝鮮を建国.
 1905年に日本の支配下に入った後,1948年に南北それぞれ独立し,1950年の朝鮮戦争を経て,現在に至る.

<戦史略年表>

前12世紀 箕氏朝鮮興る
前194 衛氏朝鮮建国
前108 前漢の武帝,衛氏朝鮮を滅ぼし,楽浪郡など郡県設置
前57 朴赫居世,半島南部に新羅建国
前37 朱蒙,卒本地方(現在の中国の桓仁)に高句麗建国
前18 朱蒙の子,温柞,百済建国
150頃 馬韓・弁韓・辰韓の勢力強くなる
206 後漢,公孫康が帯方郡設置
313 高句麗,楽浪郡を滅ぼす
314 高句麗,帯方郡を亡ぼし,中国の郡県支配終わる.
391 高句麗,広開土王即位
612 高句麗の乙支文徳将軍,薩水で隋軍を撃破(薩水大捷)
645 高句麗,安市城の戦いで唐軍に勝利
660 新羅・唐の連合軍により百済滅亡
662 白村江の戦い
668 高句麗滅亡
676 新羅,三国統一.高句麗の北半分は,唐の領土となる
698 高句麗の将軍出身の大祚栄,震国(後の渤海)建国
713 国号を震国から渤海へと改める
896 赤袴の乱
900 甄萱,後百済を建国し,現在の全羅道と忠清道を支配
901 弓裔,後高句麗を建国し,後三国時代始まる.
918 王建,弓裔を追放し高麗建国
926 契丹により,渤海滅亡
935 新羅の敬順王,高麗に投降し新羅滅亡
936 高麗,後百済を滅ぼし後三国統一
993 契丹の第一次侵攻.高麗国境を襲うが,のちに和約.
1009 康兆の政変:武臣の康兆が王権交代を図るが,後に契丹に殺される
1019 帰州大捷:契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退
1107 尹グァン,別武班を率いて女真征伐
1126 李資謙の乱
1135 妙清の西京遷都運動,金富軾の官軍に鎮圧される
1170 武臣政変:文臣中心から武臣政権になり,権力争い起こる
1176 公州(忠南道)鳴鶴所の亡尹・亡所尹が公州占領する民乱起こる
1179 慶大升,都房(私兵集団)政治を始める
1182 全州(全羅南道)民乱.官奴が中心になり州の官吏を襲撃
1198 万積の乱:公私奴隷開放を掲げ,開京で乱を起こそうとするが,失敗
1231 蒙古の使者殺害を機に,蒙古が高麗へ第一次侵入.後,講和.
1259 高麗,蒙古軍に降伏
1270 三別抄(精鋭軍隊)の対蒙抗争.開京遷都に反旗を翻すが失敗
1359 紅巾賊侵入(〜1361)
1364 高麗,倭冦対策で倭人万戸府設置
1376 崔瑩,倭冦征伐
1377 崔茂宣の建議で火薬武器製造(火トゥ都監設置)
1380 李成桂,倭冦討伐
1388 威化島回軍.李成桂反対派の崔瑩を除去.昌王を王位に就ける
1389 対馬倭冦征伐
1392 李成桂,高麗を滅ぼし,李氏朝鮮建国
1398 第一次王子の乱:五男芳遠,世子冊封に不満を抱き反乱
1400 第二次王子の乱:芳遠の実兄,芳幹の乱.芳遠により鎮圧
1419 応永の外冦:倭冦の被害に対し,対馬を攻撃
1433 女真族の侵入を防ぐため,鴨緑江方面に四郡設置
1437 北方防衛のため,豆満江方面に六鎮設置.
1467 李施愛の乱
1506 朴元宗の乱:燕山君廃位追放.晋城大君が中宗に即位
1510 三浦倭乱:三浦で起こった日本人居留民の暴動事件.日本との通交中断
1519 己卯士禍:趙光祖の改革に対する中宗と勲旧勢力の親衛クーデター
1554 倭冦と女真族の侵入に備える軍事機構として,備辺司設置.
1555 乙卯倭変.三浦倭乱による貿易規制に対し,倭人が全羅道の一部を占領
1559 林巨正の乱:民衆を代弁する義賊の乱(〜1562)
1592 壬辰倭乱(文禄の役)
1597 丁酉再乱(慶長の役)
1623 仁祖反正:西人派が北人派を一掃し,仁祖を王に擁立する武力政変
1624 李ファルの乱:仁祖反正後の論功行賞に対する不満
1627 丁卯胡乱:後金(後の清)鴨緑江を越え侵入
1629 平安道・黄海道の流浪民の明火賤集団により漢城攻略
1636 丙子胡乱:清が君臣関係を要求し侵略.世子を人質として清へ送る
1646 林慶業の乱:下層民衆反乱
1654 第一次羅禪(ロシア)征伐:黒龍江へ侵略した羅禪を,清の要請で撃退
1658 第二次羅禪征伐:朝鮮の鳥銃軍,再度ロシアを撃退
1688 京畿道楊州で弥勒信仰者が漢城に侵攻しようとするが失敗
1697 義賊,張吉山の乱
1728 李鱗佐の乱:政界から追放された過激派勢力が政権を奪取しようとする
1811 没落両班,洪景来の乱.農民とともに平安道で起こる
1845 イギリスの軍艦サマラン号が済州島と西海岸を測量
1846 フランス軍,カトリック教弾圧に抗議し忠清道に入り書簡を渡す
1866 平壌洋擾:アメリカの武装商船ゼネラル・シャーマン号焼打ち
1871 辛未洋擾:アメリカの艦隊が江華島に侵入,撃退
1875 日本の軍艦雲揚号江華島へ侵入.武力示威を展開.永宗島占拠
1876 日本と江華島条約(日朝修好条規)締結
1882 壬午軍乱:旧式軍隊への差別待遇に対する不満爆発
1885 巨文島事件.イギリス,巨文島を占領し,ポール・ハミルトンと命名
1897 「大韓帝国」宣言
1905 乙巳条約締結され,日本の保護国となる
1907 朝鮮軍隊解散
1908 義兵,ソウル近郊まて侵攻するが,日本軍の反撃で撤退
1909 安重根,ハルピン駅で伊藤博文射殺.翌年旅順で処刑
1910 韓日合併条約調印
1942 朝鮮での徴兵制実施
1945 8.15光復:日本の降伏により植民地支配から開放
1948 済州島暴動
   大韓民国政府樹立.李承晩大統領就任
   半島北部でも北韓単独政府樹立
1950 米韓相互防衛条約
   朝鮮戦争勃発
1953 板門店で休戦協定調印
1961 クーデターにより朴正熙軍事独裁政権誕生
1965 韓国軍のベトナム派兵開始
1968 1.21事態:北の武装工作隊,ソウル市で交戦
   北朝鮮,米国の情報艦艇プエプロ号を拿捕
   顕忠門国立墓地にて朴大統領暗殺未遂事件
   青瓦台事件:北朝鮮特殊部隊による大統領官邸襲撃未遂
1973 金大中事件:金大中,東京にて拉致され,ソウルで解放
1974 在日朝鮮人青年,文世光による朴大統領狙撃事件.陸夫人死亡
   非武装地帯南側に,北朝鮮側からの地下トンネル発見
1976 板門店蛮行事件:ポプラ下枝伐採をめぐり米将校が殺害
1977 非武装地帯の北側に迷い込んだ米軍ヘリコプター撃墜
1979 10.26事態:金載圭KCIA部長,朴正熙射殺
   全斗煥,軍事クーデターで実権を掌握
1980 光州民主化運動.戒厳軍の介入で鎮圧.多数の死者を出す
1983 大韓航空機撃墜事件;ソ連領内に迷い込んで撃墜さる
   アウンサン廟全斗煥大統領暗殺未遂事件
1986 金浦空港爆弾テロ事件
1987 大韓航空機爆破事件
   6.29宣言:新しい民主憲法公布され,軍事独裁終わる
1991 南・北韓,国連同時加入
   金正日書記,軍最高司令官に就任
1992 IAEA査察団,北朝鮮の寧辺の核施設を査察
1994 金日成主席死去
1996 韓国東岸で北朝鮮潜水艦発見
1997 北朝鮮高官,黄長Y,韓国へ亡命
1998 金大中大統領就任.対北韓包容政策表明
   北朝鮮の潜水艇,韓国東海岸で発見.乗組員全員死亡
   北朝鮮の東部沿岸から「テポドン」ミサイル発射.日本上空を越え三陸沖に落下
1999 韓国西海の北方領海を北朝鮮警備艇が侵犯.韓国海軍と交戦となり退却
2001 金正男(金正日総書記の長男)の日本密入国騒動
2002 西海・延坪(ヨンピョン)島西方海上で,南北海軍の間で交戦
   金正日総書記,日本の小泉総理と平壌で首脳会談,日本人拉致や不審船の行為を認める
   北朝鮮,IAEA査察団を国外退去させ,核施設稼動準備はじめる
2003 北朝鮮が核開発表明,日米中韓などで6カ国協議
2005 北朝鮮,核兵器製造・保有を公式に認める
2006 北朝鮮,テポドン2を含むミサイル7発を発射.日本海に着弾
   北朝鮮,地下核実験を実施
2009 北朝鮮,ミサイル発射.日本上空を通過し太平洋に落下
2010 韓国哨戒艦「天安」撃沈事件
   延坪島砲撃事件.
   金正恩が人民軍大将,党中央軍事委員会副委員長に選任される
2011 金正日死去

 【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/seung/korea/nenpyou.html
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Korea
http://www.wombat.zaq.ne.jp/zenchokyo/Chosensi.html
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/d02_korea/korea.html
http://www.d2.dion.ne.jp/~yoo1tae5/korean/koreahistory1.html

【ぐんじさんぎょう】,2012/06/18 20:10
を加筆改修

 檀君は?(笑)

御座候 in mixi,2012年06月06日 22:28

 人類発祥からやらないと(笑

ゆずこせう in mixi,2012年06月06日 22:41

 え? 朝鮮半島でビッグバンが始まるところからじゃないの?(笑

さかきまもる in mixi,2012年06月08日 19:31


 【質問】
 韓国人は単一民族なのですか?

▼ 【回答】
 韓半島(朝鮮半島)では,石器などが発見されていることから,数万年前から人が住んでいたと思われるが,現在の朝鮮民族との直接のつながりは明らかでない.

 朝鮮民族の起源については,西暦元年前後に韓半島に南下してきたグループが,その基礎.

 元々,韓半島には,高句麗人,百済人,伽耶人,新羅人が住んでいて,済州島には済州人が住んでいた.
 考古学的に証明できるのは高句麗から――衛氏朝鮮は証明できていない――で,4世紀頃までに,鴨緑江付近で興った高句麗が南下して,楽浪郡(漢の領地)を滅ぼし,韓半島は北部の高句麗,南部の新羅,百済の三国が対立する三国時代に入った.
(更に南には,日本と深い関係があったとされる任那を含む加羅連合があったが,後に解体され,新羅に統合された)

 この百済・高句麗等は,満族の系統に分類されるツングース系他民族国家だったとされている.
 高句麗・百済の支配層は扶余系とみられ,新羅とは別系統の言語を話した.
 一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされており,このことから言語をもって民族の基準とすると,朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる.
 しかしながら,新羅自身も『三国史記』によると,4代目の王が倭国北東から渡来した王であったり,『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王が派遣されていたという記述があるなど,朝鮮民族としての意識の形成が,いつ頃から生じたものかは不明瞭.

 この新羅は『梁書』新羅伝によれば,雑多な系統の移民から成る多民族国家だった模様.
 6世紀中頃に加羅諸国を滅ぼして吸収し,次いで唐と同盟を組んで,百済や高句麗を滅ぼした後,唐を追い出して,まんまと韓半島全域を手に入れる.
 これにより新羅人は,半島全域に分布を広げた.


 しかし5〜6世紀ごろから,今の韓国・朝鮮人である,高麗人(コリアン)が進入してきて,彼らが半島の新たな支配者となった.
 だから,彼らは韓半島に後からやってきた新参者で,韓半島の原住民ではない.
 高句麗人,百済人,伽耶人,新羅人は,それぞれ支那,満州,日本に亡命したり,衰退したり,滅ぼされたりしている.
 済州人は高麗人によって滅ぼされた.

 しかし9世紀末になると,新羅の国力は衰える.
 すると,百済・高句麗の再興を図る勢力が出てきて,後百済・後高句麗・新羅の3国が鼎立,後三国時代となる.
 このうち後高句麗から918年,高麗が興る.
 高句麗後期も「高麗」を正式な国号としており,建国した王建は後高句麗の将軍だったので,区別をつけるために王氏高麗とも呼ばれる.
 そんなわけで高麗も高句麗継承を主張.
 同じく高句麗継承を主張した渤海の亡命者を積極的に受け入れ,渤海が滅びると渤海の旧領領有を計画したり,『三国史記』や『三国遺事』を編纂したりしたことを重視すると,朝鮮民族としての民族意識の萌芽は,高麗の時期に形成された可能性が高い.

 その後,モンゴル人の支配時期には混血化が進み,その前後に中国人とも混血が進み,ほぼ現在の朝鮮民族と同様の民族が成立する.


 民族としての純血がどうこう言う主張は,遺伝子検証すれば科学的に与太話だと証明できちゃうよね,現代では.
 もし遺伝子的に嫌いな民族の血が混じってると証明されたら,自決でもするのかね?,過激なレイシストとかは.

 なお,「民族」は遺伝子学的にではなく,民族意識をもって定義されるのが通説的.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97


 【質問】
 檀君(タングン)神話は真実なのか?

 【回答】
 神話はしょせん神話.
 実在説は,イデオロギー過剰のトンデモ説に過ぎない.
 出土品には明らかに後世のものが含まれていたり,年代測定に疑問があったり,あまりにもご都合主義な「人骨発見」だったりしている.

 以下引用. 

 雄山閣といえば,歴史学書出版の老舗である.
 そこから発行されているトンデモ本のタイトルは「朝鮮民族と国家の源流――神話と考古学」.
 「考古学選書」シリーズの一冊となれば,あくまで学問的なものと思うところだが,学術用語の並んだ内容をよく検分すると,これが実にキテルというかイッちゃってしまっているのだ.

 1993年1月から2月にかけて,偉大なる首領の指導のもと,平壌近郊江東(カンドン)郡文興(ムンフン)里大朴(テバク)山の陵墓から2体の遺体が発見され,科学的調査の結果,紀元前3010年のものであると判明した.
 これは,朝鮮建国の祖,檀君王が実在したことを証明するものであり,遺骨は王とその妃のものと結論された.
 いや,そもそもこの調査の目的こそ,檀君実在の証明であり,その陵墓の発見であった.

 しかし,この陵墓の形状は,紀元前一世紀に建国された高句麗の様式とそっくりであり,出土品には,中国でさえも紀元前1000年以後にようやく使われるようになった青銅器(帯金)までが含まれていた.
 ちょっと待てよ? 紀元前3000年と前1000年じゃ,2千年の違いがある.
 ここでどうやら,この「発見」の歴史的「意味」がうっすら見えてくる.
 すなわち,わが古朝鮮帝国は,東亜の中心を僭称する中国より千年も古い歴史的大文明だったのだ.

 ところがである.
 陵墓には,科学的年代計測の結果以外の,時代を示す確たる証拠は残されていないのだ.
 では,なぜ檀君の陵墓だと分かったのか? 実は1936年には,檀君を敬う民間の有志によって,こここそが檀君だとする改修工事が行われ,その記念碑は一部破損しながらも現存していたのだ.
 ところで,肝心の遺跡の詳細は,今世紀初頭の文献によれば,日本人が盗掘,「古仙人」が掻かれていた壁画が消し去られたりしたため,以後は全く不明なままになったらしい.
 この「古仙人」が檀君であることは想像に難くない.(「朝鮮民族と国家の源流」149ページ)
 証拠はあった.日帝が全部ぶちこわしたのだ.
 無敵の論理である.

 最初の陵墓改修が行われたのは,日本ではファナティックな愛国思想のもと,かつては素朴な信仰の対象だった,いわゆる神武天皇陵を,荘厳なる姿へと改修させる作業がちょうど完了したばかりの時代のことである.

 ただ,1993年に発掘された檀君とその妃の遺骨には奇妙な点があった.
 同様の年代と思しき周辺の遺跡には,この2体ほどに完璧な遺骨は過去発見されたことがなかったのである.
 そこで,檀君遺骨発見ののち,1993年から1994年にかけての平壌近郊では,大規模な調査・再調査が行われることになった.
 結果は,ああら不思議.とうに詳しい調査がなされた地域から,「檀君と同時代」と科学的に証明されることになるはずの遺骨ならびに遺品の大量出土であった.
 かくして,1993〜1994年以後,こうした時代錯誤に辻褄を合わせるため,従来の公認歴史学・考古学は,全面的に書き換えられることとなった.
 〔略〕

 なぜなら,金日成主席が,
「われわれは,主体的な立場から檀君と古朝鮮の歴史で,歪曲されたり誤ったものを,すべて正さなくてはなりません」と述べた.(前掲書)
からだ.

 〔略〕

 さて,檀君とはいかなる王か,あるいは神か?
 13世紀に成立した「三国遺事」(1280)によれば,天孫の子,桓雄(ハンウン)(または「恒雄」)が天井から降臨,その子,檀君王険(タングンワンゴム)(または「檀君」)により,紀元前2333年に古朝鮮帝国が成立したとされる(金両基「韓国神話」,青土社).

 〔略〕

 日本の敗北による独立回復(光復)後は,南北どちらの政権においても,あくまで公認の史観においては,「三国遺事」の記述そのものは純然たる伝説にとどまるとされた.
 それも当然だろう.同書によれば,檀君の寿命は1908年にも達したとされるのだ.
 ただし,こうした伝承そのものは,紀元前10〜8世紀に古朝鮮部族連合が成立したのを反映しているというのが定説となった.

 〔略〕

 歴史の見直しに当たって,まず問題となったのは,檀君遺骨の年代測定が「三国遺事」の記述よりも遥かに古いことだった.
 このため,引っ張り出されたのが,反政党派の稗史,民間に伝えられる「揆園史話(キウォンサハ)」,「檀君古史(タングンコサ)」,「桓檀古記(ハンダンコギ)」,「檀君世紀(タングンセギ)」,「太白逸史(テバクイルサ)」などの「歴史」文献だった.

 ついで93年の暮れには,石器時代の岩絵や土器,古墳出土の陶器,磚(せん,敷き瓦)などに記された紋様をハングル以前の古代文字(神誌文字)だとする異端学説が,これまた公認のものとなった.
 甲骨文字以前の民族固有文字.ハングル(訓民正音)は,1433年,世宗(セジョン)王によって作られた.
 民族固有の文字としては,当然,中国の漢字や日本のひらがなよりも後のことになる.
 日本や中国におくれをとるとは,これは民族の教え,偉大なる主体思想に反するものではないか!
 そこで引っ張り出されたのが,「寧辺志」なる史料に残る文字らしきもの16個だった.漢字以前の民族独自の文字.
 何の事はない.わが日本の偽字,主として江戸中期以降のウルトラ・ナショナリズムのもとででっちあげられた神代文字の北朝鮮版だ.
 いや,驚くなかれ,同書には収録されていないが,北朝鮮では,ほかならぬ日本の神代文字が,古朝鮮文字から影響を受けているとさえ,論じられているのだ(「朝日新聞」,1993年12月8日夕刊).

 また,「朝鮮民族と国家の起源」を丁寧に読み解くと,1993年から94年にかけての集中的な調査ならびに再調査の結果,得られた全ての遺物の年代が,檀君神話に合わせて修正されている事に気付かされる.
 この本の存在を,と学会でも最も早く報告(イーハトーブ出版刊「と学会白書 vol.1」に収録)した原田実氏は別の誌面で,コマ形土器で千年,青銅器で2千年,遼寧式青銅剣で1600年,遺跡の形式で3千年もの時代錯誤が存在すると指摘している(「古朝鮮問題」『偽史列伝』11,「季刊邪馬台国」65,1998年夏).
 原田氏は,こうした錯誤の理由を,放射線年代計測技術の未熟さに求めている.
 しかし,この好意的解釈には,筆者は同意できない.
 まず,生前の金日成主席が韓国系の米国人ジャーナリストに自慢したように,年代計測にはアメリカやドイツの最新機器が使われている(「朝日新聞」1994年7月17日).
 〔略〕
 しかもその上,それら遺物の中には,計測のミスでは説明できない,どう見ても偽造の,しかも近代以降に作られた遺物が含まれているのだ.
 前12世紀の硬質鋼製の鏡と,前7世紀の炭素工具構成の鉄刀が,その代表といえるだろう.
 もしかすると歴史偽造に対する,科学者のひそかな抵抗の結果なのだろうか,同書は,江東郡で発見された低炭素鋼の高度が極めて高いことから,錬鉄ではなく,高温鎔鉱炉で生産されたと断じている.
 また,同じ地方の別の遺跡から出土の鉄刀は,分析によれば,極めて質の高い炭素工具鋼だった.
 この論文は,
 こうしてみると,平壌一帯ではすでに紀元前12世紀には質の良い鋼鉄が生産されており,紀元前7世紀頃からは炭素工具鋼が出現したことが分かる.(前掲書37ページ).
と記している.
 ところが,同じ質の鋼材は,るつぼか鎔鉱炉がなければ製造できず,こうした製法が西欧で実用化されたのは14世紀,炭素工具鋼にいたっては,18世紀半ばにようやく試作されている.
 なんと2,400年もの時代錯誤遺物(オーパーツ)である.

from 「トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!」
(光文社,1999.1.30),p.298-304

 きっと,真実を知っている考古学者が,死んだ目をしながら「理論」構築に取り組んでいるんだろうなあ…….

(画像掲示板より引用)



 【質問】
 檀君狂詩曲は,北韓のみの現象なのか?

 【回答】
 いいえ.
 軍事独裁下の韓国でも,過剰な愛国者が「歴史観が占領時代に偏向させられた」として,民間史料を元にした,幻想の「古代朝鮮帝国」を教科書に載せるよう要求し,アカデミズムを吊るし上げた.
 それに対し,アカデミズムがそうした民間史料を精査した所では,偽史であるとする証拠となる,記述の矛盾点がポロポロと見つかったが,1990年の改訂教科書でも「古代朝鮮大帝国」の誇大な版図が,絵解きで掲載されているという.

 以下引用.
1990年代に入るまでは,最も声高にこれら稗史文献の正統性が叫ばれたのは,北朝鮮ではなく,自由主義陣営の防壁たる軍事独裁下の大韓民国においてであり,1987年の民主化の直前には,国是とさえもなりかけていたのだ.
 比較的手軽に日本語で読める,こうした事情を伝える文献は,僅か3点を数えるに過ぎない.
 「別冊歴史読本」『古史古伝の謎』に掲載された,趙仁成(チョウ・インソン)の「韓国における古代史論争と『揆園史話』『檀奇古史』『桓檀古記』」と李基東(イ・ギドン)の「古朝鮮●域論争」,それに,やはり趙仁成の「『揆園史話』と『桓檀古記』の史料的価値について」(「東アジアの古代文化」62,1990)だ.

 この韓国版檀君騒動は,1970年代半ばから1980年代にかけての教科書をただす大衆運動,最終的には「民族史を正す国民会議」に糾合される運動により,頂点に達した.
 我が国の歴史教科書は,占領時代の屈辱的史観に汚染されている.
 こうした偏向を正すため,在野の研究者・市民による広範な運動が必要である…….どこかで聞いた話ではある.

 事の始まりは1974年.
 標的となったのは,この年に制定された中学高校用国定歴史教科書だった.
 既に述べたように,檀君神話はあくまで伝承で,歴史的な事実そのままを記録したものではないというのが,独立回復なった新生大韓民国歴史学会の共通認識だった.
 こうした公式史観に噛みついた在野史家達が根拠としたのは,『揆園史話』や『桓檀古記』といった,古朝鮮王朝の系譜を精緻に記した民間史料だった.
 これら資料によれば,古朝鮮は,はるか古代に建国された,シベリアからモンゴルまでの領域をも支配する大帝国だったことになる.
 その年代や支配の領域は各種史料によって異なり,紀元前2400年とも前4000年とも言う.
 繰り返そう.古朝鮮帝国は,チグリス・ユーフラテス,インダス,黄河に匹敵し凌駕する大文明だったのだ.
 しかも韓国においては,檀君を信仰する民間侵攻が,昔から根強い影響力を持っていた.
 こうした団体の一部やファナティックな愛国主義を称揚する軍部勢力の支援のもと,彼らは反権威主義,反体制を賞する歴史教育是正運動を展開した.
 古代の韓国が,日本はもとより中国よりも強大で高度な文化を有するという「事実」に反対する学者連中は,民族の敵,日本帝国主義のスパイだというわけである.

 彼ら愛国の志士達は,1978年には「国定教科書誤謬是正および正史確認訴訟」を実行に移し,1981年には,国会での公聴会開催を成功させ,また,世に知られた学会長老を日本植民地主義の文化間諜として告訴,国会や公開シンポでは,学会権威への吊るし上げが繰り返された.
 体制派学者対在野愛国者という表面的な対立図式は,実は陰では,ややこしいことに,民主派知識人・学生層対軍部・右派連合の抗争をも同時に意味することになった.

 ところでこのころ,韓国における教科書是正運動を,不思議な形で助勢することになった日本人がいる.
 いわゆる古史古伝の研究者として知られた鹿島昇(かじま・のぼる)氏である.
 韓国の運動家との連動のもとで,氏が1982年に復刻・日本語訳した『桓檀古記』(新国民社)は韓国に逆輸入され,歴史見直し運動をブームへと押し上げる役割を果たした.

 もっとも,反体制派を自称する右派運動家に対する学界も,権威主義という点では誉められたものではなかった.
 こうした稗史史料は,アカデミズムの世界では,はなから相手にされず,批判という側面からさえもまともな調査研究が行われたことがなかったのだ.

 だが,プロの研究者コミュニティが本気になれば,その力量はすごい.
 ようやく開始された学界での再検討の結果,これら史料の信頼性は克明に検証されることになった.

 『揆園史話』には「文化」という言葉が,カルチャーの意で使われているが,本来の漢語は「文治強化」の略であり,英語からの訳語としての現在の語法は,明治初年の日本に起源を有する.
 ほぼ最古の用例は,1874(明治7)年の「萬國史略便覧」で,これ以前の,例えば1862(文久2)年刊行の「英和対訳袖珍辞書」には,「Culture……,教導,修繕」と記されている(「明治のことば辞典」東京堂,1986.『外来語の語源』角川書店,1979).
 時代錯誤はこればかりではない.同じ『揆園史話』には,1823(文政6)年に書かれた李朝期朝鮮の史書を参考にしなければ書けない内容が記されていたし,執筆されたとする日付よりも遥かに後の地名や神の名も多く用いられていた.
 また,『桓檀古記』は秘蔵のまま長く伝えられ,1907(明治40)年に初めて一般の目に触れるようになったとされているが,ならば一体,そこに記されている「冥王星」という言葉はなんなのだろうか? 冥王星の発見は1930年のことなのだ.しかも,確認された限りで最も古い同書のテキストは,その1930年以後のものなのである.
 こうした怪しげな記述は,残る「檀君世紀」や「太白逸史」にもはっきりと,しかも数多く読み取れた.

 アカデミズム側の詳細な分析の結果は,これら民間「史料」が成立したのは,最大限遡っても1920年以後であるという,信頼性の高い結論だった.

 〔略〕

 偽史にまつわる反証が提出されるや,韓国では今度は,植民地支配の時代にあって,「揆園史話」を賞揚した人士や宗教者,団体が「親日派」であったかどうかが問題となった.韓国において,歴史上の親日派とは,植民地支配に積極的に協力した,民族への裏切り者のみを意味する.
 少なくとも,果敢な抵抗で知られた檀君を奉じる大■教(テジョンギョ)は,植民地時代にあって,偽書に依拠したりなぞしなかったではないかと,リベラル派は「歴史見直し」派に対して反論した.

 そして遂に1987年,国定教科書の改訂内容が決定されるに当たって,彼ら在野反権威の歴史研究者達による見解は,全面的とは言わぬまでも,かなりに渡って盛り込まれることになった.

 しかし,同じ年の6月29日,盧泰愚大統領による民主化宣言がなされてのちは,この,民族史を正す国民運動は,次第に勢いを失ってゆく.

 だが,1990年に刊行された改訂版教科書には古朝鮮大帝国の誇大な版図が絵解きされ,今日に至っている.

●=彊の弓偏の下の部分に「土」

■=人偏に「宗」

from 「トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!」
(光文社,1999.1.30),p.307-

韓国の教科書における「古朝鮮大帝国の版図」(日本も古朝鮮大帝国の一部だった??)
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 箕子朝鮮は実在したの?

 【回答】
 箕子朝鮮(キジャ・ジョソン)は,中国の殷に出自を持つ箕子が建国したとされる,半ば伝説上の国家.
 韓半島の共同幻想上の都合により,あったことにされたり,なかったことにされたりしている.

 箕子自体は『史記』に記述があり,架空の人物とは言えない.
 同書によれば,箕子(胥余)は中国の殷王朝28代文丁の子で,甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であったという.
 殷滅亡後,周の武王は箕子を崇めて家臣とせず,朝鮮に封じたとされている.

 一方,韓国側の古代史書である『三国史記』には,箕子朝鮮に関する記述はなく,『三国遺事』にのみ記述がある.
 前者は高麗王朝によって編纂された正史であるが,後者は僧侶・一然が編纂したもので,正史では無視されている建国神話や古歌謡,民譚などが採録されているもの.

 考古学的見地からは,
・古朝鮮が成立したのは,ほぼ紀元前5世紀ごろであり,箕子朝鮮が実在した考古学的証拠はない
・周時代(前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる,周様式に酷似した出土物が急増しており,考古学的にも否定できない
という見方に分かれる.
 前者が韓国の学界の主流的見解であり,後者が中国の学界の主流的見解.
 この辺りから,政治的・民族主義的思惑が混じってくる.
 中国としては,「古朝鮮・高句麗・扶余・渤海は中国の地方政権だった」ということにしたい.
 韓国としては,中国ルーツなんて認めたくない.民族的プライドが許さない.
 そんなわけで,歴史認識を巡る対立が,ここでも発生している.
 ただ,檀君神話では,檀君は箕子に国を譲って山神になったとされているので,檀君朝鮮を信じている民族主義者にとっては,箕子朝鮮を否定するには無理ある論理展開をしなければならず,論争上不利に思える.


 そんな韓国だが,かつては箕子を朝鮮族の始祖として顕彰し,箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡を作りまくり,箕子朝鮮の王統なるものまで創作された.
 そのほうが,儒教政治だった頃の韓国にとっては
「朝鮮は,孔子以前に『王としての道』が既に伝わっていた,箕子朝鮮以来の王道の国」
と自慢でき,都合が良かったため.

 自慢とは,たとえばこんな感じ.
 以下引用.

------------
> 子,九夷(東方の異民族)に居らんと欲す.
> 或るひとの曰く,陋(いや)しきことこれを如何せん.
> 子曰く,君子之に居らば,何の 陋しきことか之れ有らん.(子罕篇)

> 子曰く,道行われず,桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん.(公治長篇)

 孔子が生まれた魯の国,その隣が斉の国であり,いずれも山東半島の付け根にある.
 山東半島と朝鮮半島とは,海を渡れば一衣帯水であり,古来航路が開かれていた.
 朝鮮の儒者たちは,『論語』のこのくだりを,中国での諸国遊説に絶望した孔子が,朝鮮にあこがれたと理解した.
 つまり箕子朝鮮以来,朝鮮は孔子もあこがれるほどの「東方君子の国」である.
 儒者たちにとって,こんなうれしい話はない.

------------姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.34

 そんなわけで,放っておけば,そのうちまた「主流的見解」とやらは変わるんじゃないの?

 【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen2-kisicyosen.htm
http://db.itkc.or.kr/index.jsp?bizName=MM&url=/itkcdb/text/nodeViewIframe.jsp%3FbizName=MM%26finId=027%26gunchaId=av055%26muncheId=01%26seojiId=kc_mm_a577


 【質問】
 ソウルは昔から首都?

 【回答】
 間違い.
 少なくとも歴史的に古いのは平壌だな.
 3世紀くらいから記録が残ってる.

 各王朝によってその都度首都が変わってる.
 大概は出自に関係したところや,勢力範囲を選んでいる.
 平壌が首都だったのって高句麗時代だけだからね.
 統一新羅は金城で高麗は開城だし.

 ソウルは経済的や交通の要衝として重要な都市だった.

 結局,李氏朝鮮以降ソウル(漢陽)を「新しく首都にした」ってわけだし,歴史伝統が無いところを首都にする理由は経済と交通での重要位置だからだし.
 李氏朝鮮から日本統治時代と,近年の中心都市はずっとソウルなわけで,そういう意味では京都と東京の関係といったら,一番わかりやすいかもしれない.
 まあ,オーストラリアのキャンベラとシドニーみたいな関係だよな.

 でもって,いくら危険でも経済重要都市という関係上,捨てることも出来ない,と.

軍事板,2008/09/18(木)
青文字:加筆改修部分

 百済時代,建国から熊津(久麻那利)に遷都するまで,首都だったことに皆,触れてないなあ.

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 馬韓・辰韓・弁韓の時代から新羅の統一までの,朝鮮半島の歴史が全く理解できないのですが,どうすればいいんですか?
 なんか日本もかなり噛んでたらしいし….

 【回答】
 馬韓を構成していた国の中の百済国が強勢となり,馬韓を統一.
 同様に辰韓は新羅が統一.
 弁韓は統一されず,加羅国などの小国の分立状態.
 半島の北方には高句麗.
 この国が一番強勢だったが,中国に接していたため何度も戦争をしかけられ,ついに滅亡.
 弁韓(日本名は任那)は百済と新羅によって裂き取られ,併合され滅亡.
 日本は近攻遠親策から新羅と敵対し,百済と同盟していたので,唐・新羅連合軍が百済を攻めたときに,百済救援のため出兵して戦ったが惨敗(白村江の戦).
 百済は滅亡し,半島は新羅が統一した.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 高句麗の最大版図は?

 【回答】
 5世紀後半に最大となり,シラムレン河流域の契丹や北部満洲の黒水靺鞨にも勢力拡大した.
 これは,4世紀に華北に進出した前燕が,前秦によって滅ぼされた間隙を縫った形.
 それまでの高句麗は,前燕に臣従していた.
 また,韓半島南部では,475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し,半島の大部分を支配.
 これは5世紀末,百済・新羅連合軍によって南部の領土を奪われるまで続いた.

 もっとも,中国史観で言えば,高句麗も中国の地方政権に過ぎないので,「最大版図」などという概念も空しくなるわけだが.

高句麗の最大版図 - wikipediaより


 【質問】
 中国に侵略されまくった朝鮮半島の戦いで,唯一の勝利と言える,隋の侵攻を跳ね返した高句麗ですが,小国であった高句麗が,数十万人を動員した隋の3度の侵攻を,全て跳ね返した勝因は何だったんでしょうか?

 【回答】
 2回目の侵攻に対する勝利のことを言っているのであれば,これは高句麗の将軍乙支文徳(ウルチムンドク)が隋軍相手に,ちょろっと戦っては負けたフリして退却,を繰り返し,平壌手前で降伏を申し入れた.
「停戦ラインまで下がったら,うちの王様が正式に礼をとりにいきますから」
との条件に,補給線が伸びきっていた随軍も承諾.
 停戦ラインまで後退を始めた隋軍に,乙支文徳が温存していた兵力で奇襲をかけ,潰走させた.

 まぁ,隋軍の大将(宇文述)がそもそもあんまりやる気無かったって話もあるんだが.

 それ以外の2回については,基本的には「撃退した」というよりは「頭をさっさと下げて帰ってもらった」の方が正しいかとは思います.

隋来る
 ↓
頭下げて朝貢の約束する
 ↓
ばっくれる
 ↓
怒った隋,また来る

を繰り返しているうちに戦費がかさむわ,部下の反感は強まるわで,滅亡への道まっしぐら.

 でも最大の原因は,やはり煬帝の暴走かとは思います.

軍事板

▼ ま,跳ね返した高句麗も,疲弊したから間もなく滅亡し,第2の祖国,渤海誕生に繋がるわけですが.

水上攝提 by mail


 【質問】
 乙支文徳って誰?

 【回答】
 乙支文徳(ウルチ・ムンドク Eulji Mundeok)は,高句麗の将軍であり,「兵は詭道である」を地で行った人.
 隋の第二次高句麗遠征(612年)において,隋軍に偽りの降伏を申し入れた後,撤退を開始した隋軍に追い討ちをかけ大勝した.

 すなわち,612年の遠征は,煬帝の親征のもと,113万3800人の兵が,左右それぞれ12軍に別れて進軍.
 それに対して高句麗軍は,遼河沿岸の遼東城(ヨドンソン)をはじめとする防衛ラインで,持久戦を展開.
 半年経っても城を落せなかった隋軍は,宇文述らの諸将が指揮する,30万5000人の別働隊を南下させ,平壤を直撃せんとした.
 このとき乙支文徳は,隋に偽りの降伏をして隋軍の内情を調べ,兵站に無理が来ていることを察知.
 隋軍から抜け出すと,7回戦って7回ともわざと負けることで,隋軍を平壤に引き寄せ,ここでも守城による持久戦を展開.
 疲労困憊して撤退する隋軍を,薩水(清川江)にて前後左右からの包囲攻撃をかけ,これを殲滅した.
 30万5000人のうち,再び遼東城に戻ることができたのは,僅か2700人.
 この戦いを韓国では「薩水大捷 サルス・デチョプ」と呼ぶ.

「本当は偽りではなく,本当に降伏した後で,二重に裏切ったんじゃないの?」
疑う声もあるが,その疑念を裏付けるものは何もない.

 それはともかく,そのような,韓国では今日もなお称えられている英雄だが,6世紀後半に生まれ,7世紀初めに亡くなっただろうこと以外,出自不明.
 名前だけ聴くと中央アジア系のような気もするが,それは現在のハングル読みだからであって,当時の発音は日本語読みの「オツシ・ブントク」のほうが近いらしい.
 まあ,高句麗自体,ツングース系民族であるし.
 戦後の動静も不明だが,韓半島の歴史においては,功臣が罪に陥れられて断罪されることが少なからずあるので,あるいは…

 【参考ページ】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.43
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2004052240068
http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/koreahistory14.htm


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