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◆◆◆◆歴史的経緯
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東亜FAQ目次


(こちらより引用)


 【link】

「2chradio」◆(2010/10/09)竹島問題】 韓国政府,日本の巡視船に対して射撃を許可していた!安倍元総理が明かす「竹島周辺で銃撃戦の可能性」

「2ちゃん的韓国ニュース」◆【韓国】W杯で恒例キャンペーン 日本ユニフォームを着て「独島は韓国の地!」の旗を振る<丶`∀´>

「Footballnet」◆(2012/10/18)独島プラカード問題に対するKFAとFIFAのこれまでの経緯まとめ

「U-1速報」◆(2013/05/30) 「韓国民団が国際裁判所の竹島訴訟に完全勝訴する自信を表明」 日本領海を韓国漁船に平等開放する事を求める

「VOR」◆(2012/08/02)韓国,竹島付近で軍事演習を予定

「VOR」◆(2012/08/10)日本 駐韓国大使召還を検討
「VOR」◆(2012/08/10)韓国大統領の竹島訪問で,駐韓日本大使が召還

「VOR」◆(2012/08/11)日本 竹島問題を国際司法裁判所へ
「VOR」◆(2012/08/11)国際司法裁判所での竹島問題解決に韓国「一考の価値もなし」

「VOR」◆(2012/08/12)韓国 独島領有主張のサッカー選手を擁護

「VOR」◆(2012/08/12)韓国サッカー選手 五輪メダルを剥奪

「VOR」◆(2012/08/13)北朝鮮 日本にトクト(竹島)領有権 主張放棄を要求

「VOR」◆(2012/08/13)日本 領土問題にもかかわらず韓国との経済関係発展を継続

「VOR」◆(2012/08/14)韓国人数十名が竹島に遠泳

「VOR」◆(2012/08/15)東京で韓国大統領の竹島訪問への抗議行動

「VOR」◆(2012/08/17)韓国 領土問題で日本の国際裁判所への提訴提案を支持しない

「VOR」◆(2012/08/17)日本 領土問題で韓国との対話を延期

「VOR」◆(2012/08/21)日本 韓国との領土問題を国連国際裁判所に付託提案へ

「VOR」◆(2012/08/22)APECサミットでの日韓首脳会談 見送りへ?

「VOR」◆(2012/08/22)日本政府 駐韓国大使をソウルに戻す意向

「VOR」◆(2012/08/24)玄葉外相 韓国の行動 「極めて遺憾で非礼」

「VOR」◆(2012/08/30)韓国外務省:「トクトに関する領土問題は存在しない」

「VOR」◆(2012/09/06)韓国,竹島で軍事演習行なう

「VOR」◆(2012/09/08)韓国 トクト周辺での防衛演習に対する日本側の抗議を却下

「VOR」◆(2012/09/09)クリントン長官,領土論争で日韓に冷静さを呼びかけ

「VOR」◆(2012/09/19)韓国外相,「独島」問題を国連の議題に

「VOR」◆(2012/09/28)日韓外相会談 島の領有権問題は平行線

「VOR」◆(2012/10/05)日韓,日本海の島々をめぐり批判の応酬

「VOR」◆(2012/10/22)日本 韓国の議員に対してトクト訪問を控えるよう要求
「VOR」◆(2012/10/23)韓国の国会議員,竹島上陸

「VOR」◆(2012_10_29)韓国 竹島(トクト)の峰の名称を変更

「VOR」◆(2012/12/21)日本政府 竹島の日をやめる

「蒼き清浄なる海のために」◆(2010/10/09)竹島周辺海域で海保と韓国海警が銃撃戦!?

朝目新聞」:●「民主党の主張で」 "竹島",明記が消えることに…学習指導要領

有田芳生 @aritayoshifu in twitter◆(2012/08/16)
 韓国の李明博大統領は,1965年の日韓基本条約反対闘争で逮捕,半年の獄中生活を送っている.
 「親日」がポーズだったことは,経歴からも明らかだ.
 竹島上陸も本音の実行.
 統一教会の文鮮明教祖も,竹島に上陸している.
 韓国中心主義からくる行動だった. pic.twitter.com/wM0kYqTE

エルエル」◆(2010年2月2日)NYで「独島は韓国領」広告,中国では「宇宙全体が韓国だろ?」

「ジャックログ」◆(2013/02/25) 【公共の中立性www】韓国大統領就任式は生中継80分,竹島の日式典は1分!…NHKが韓国大統領就任式を生中継,ネットでは疑問に思う声多数
「にゅーすまとめログ」◆(2013/02/25) 【テレビ】「アホかと.誰が見るんだ?」「どう考えても異常」…NHKが韓国大統領の就任式を生中継 疑問に思う声多数

「人民網」◇(2012/08/31)韓国,日本との島嶼紛争の国際司法裁判所付託を拒否

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2012/08/30)【山田厚史の「世界かわら版」】反日に走らす「韓流経済」の深き“影”
> 竹島の領有権を巡って韓国で反日感情が火を噴いた.
> 愛国主義の背後には躍進する経済という光に潜む深い“影”がある.
> それは広がる格差と不平等だ.
> ささくれだった人心をどの方向に誘導するか,それが政権の課題となり,「ポピュリズム」の標的を日本に向けた.

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2012/09/06)日韓通貨交換は“有事”の備え 協定見直しの経済的影響は些少

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2012/09/07)竹島問題で日本経済が被る影響は本当に小さいか? 盛り上がる「韓国制裁論」の是非を冷静に考える

「中央日報」◆(2012/08/11)李大統領の独島訪問 政権末期反映しさまざまな背景

「帝國ブログ」:白熱する竹島問題を出来る限り軍事的に考えてみる.

「ニュー速」:【韓国】「日本政府の全面戦争宣言と見なす!」 市民団体が相次いで声明発表 …竹島問題で
痛いニュース(ノ∀`):韓国デモ隊,日本大使館前で“日本の国鳥キジ”をハンマーで叩き殺して気勢…竹島問題で
痛いニュース(ノ∀`) ;“キジ惨殺デモ”,韓国ネチズンに不評…「海外に知れたら韓国のイメージが…」

「ワールド&インテリジェンス」◆(2012/08/10) 李明博が竹島上陸


 【質問】
 実際の所,竹島って元々どっちの領土だったの?
 日本の領土だった時期があれば韓国の領土だった時期もあったの?

 【回答】
 ただの岩でもともと無人島.
 ただ日本側はアザラシ漁でちょくちょく使ってたけど,韓国側にそんな資料は一切なし.
 そんな島だったので,日本は国際的な手続きに則って明確に日本領としただけ.
 韓国の主張は全て妄想.

 第2次大戦後になって,韓国は李ラインを一方的に宣言する.
 その口実のひとつが,「竹島は韓国領」.
 李承晩ライン廃止までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数 抑留者数:3929人
 拿捕された船の数:328隻 死傷者数:44人
 死者の中には,娘が生まれたばかりの若い漁師も居た.赤ん坊は,生後数ヶ月で父を殺された.
 抑留された被害者は,日韓漁業協定が成立する1965年まで抑留され,韓国に人質として利用された.その年月,最大13年.

 日本政府は,彼らを帰してもらうために,在日朝鮮人の犯罪者を仮釈放して,在留特別許可を与えた.その犯罪在日朝鮮人の数,472人.
 韓国は国際法上認められていない,自称”平和線”によって拿捕された漁民を人質として利用し, 日韓条約と日韓漁業協定を韓国に圧倒的有利な内容で締結させた.

 しかも漁業資源については,日韓漁業協定で
「竹島付近は共同で管理しましょう」
って約束したのに,その約束を破って,共同管理を行う気配すらない.

 今日の竹島問題は,韓国が日韓漁業協定を誠実に履行していれば起こらなかった問題なんだ.
 こんなこと書くと「嫌韓厨」っていわれるかもしれないけど,韓国が「日帝36年」を口実に,約束を破ったことがことの本質なんだよ.

(日本史板)


 【質問】
 竹島が日本領であるという根拠は何ですか?

 【回答】
 日本の主張を引用します・・・

 竹島が発見された正確な年月は不明ですが,少なくとも江戸時代初期には日本人に知られていたようです.
 元和4年(1618年)米子の大谷甚吉,村川市兵衛という人たちが幕府から許可を得て鬱(うつ)陵島へ渡り,アワビ,アシカ等の漁猟,木竹の伐採などを行っていました.このうつ陵島へ渡る途中の寄港地として,また漁猟地として竹島を利用していました.

 その後,江戸幕府は朝鮮との争いのため,元禄9年(1696年)うつ陵島への渡航を禁じこの島を放棄しましたが,竹島については日本の領土と考え渡航を禁じていませんでした.

 明治時代に入り,日本人によるうつ陵島への渡航が再び始まりました.
 明治16年(1883年)には日本と朝鮮両国の通商に関する規則の成立により,多くの漁民がうつ陵島に行くようになり,その途中竹島に寄港していました.
 明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ,アシカ等の漁猟に従事していました.

 このような状態が昭和27年の李ライン宣言で大きく様変わりしたのは先に述べたとおりですが,このように竹島は歴史的にみて日本の領土であることは疑いありません.
http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/take4.html


 明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が,竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました.
 これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し,島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました.
 これに基づいて,島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました.

 さらに,同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録,漁業取締規則によるアシカ漁業の許可,仮設望標の設置,知事の視察,また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われるなど,国際法の要求する諸要件は完全に充足されました.

 一方,竹島及びその周辺には中井氏らによる漁舎の構築,連年の出漁が行われており,第二次大戦の終結に至るまでわが国の実効的支配が続いていました.

 国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです.
http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/take5.html

 外務省のサイトも紹介します.

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/

2.竹島領有権に関する我が国の主張

(1) 竹島領有に関する歴史的な事実

 以下のような歴史的事実に照らして,我が国は,遅くとも17世紀半ばには,実効的支配に基づき竹島の領有権を確立していたと考えられ,1905年(明治38年)以降も,閣議決定に基づいて近代国家として竹島を領有する意志を再確認した上で,同島を実効的に支配してきた.

 (イ) 日本は古くより竹島(当時の「松島」)を認知していた.
 このことは多くの文献,地図等により明白である.
(注:経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地(ヨチ)路程全図」(1779年)では,現在の竹島を位置関係を正しく記載している.
 その他にも明治に至るまで多数の資料あり.)

 (ロ) 江戸時代の初期(1618年),伯耆藩の大谷,村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け,毎年,同島に赴いて漁業を行い,アワビを幕府に献上していたが,竹島は鬱陵島渡航への寄港地,漁労地として利用されていた.
 また,遅くとも1661年には,両家は幕府から竹島を拝領していた.

 (ハ) 1696年,鬱陵島周辺の漁業を巡る日韓間の交渉の結果,幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが(「竹島一件」),竹島への渡航は禁じなかった.

 (ニ) 日本は1905年(明治38年),1月の閣議決定に続き,2月の島根県告示により竹島を島根県に編入し,竹島を領有する意思を再確認している.
 その後,竹島は官有地台帳に掲載され,また,竹島でのアシカ漁は許可制となり,第二次大戦によって1941年(昭和16年)に中止されるまで続けられていた.

みつき. in mixi


 【質問】
 江原道民新聞によれば,竹島は,
> 西暦512年に新羅将軍異斯夫(イサブ)が木を削って作った獅子を船に分けて
> 乗せ「降参しなければこの猛獣を放つ」と威して新羅に服属させた土地
だそうですが,これは本当ですか?

 【回答】
 それは今の鬱稜島のことです.
 当時,竹島に人は住めないし,住む理由も無い.
 あの海域で人が住めるのは鬱稜島のみ.


 【質問】
 昔は「竹島」は,鬱陵島の名だったの?

 【回答】
 Yes.
 今の竹島は,昔は松島と呼ばれており,今の鬱陵島が,昔は竹島と呼ばれていた.
 その後,以下の経緯を経て,名前が「スライド」した.
1) 日本には古くから,「日本海上,隠岐寄りの位置に松島(今の竹島),朝鮮寄りの位置に竹島(別名:磯竹島,今の鬱陵島)の2島がある」という知見があった.
2) 1840年,シーボルトが日本での知見に基づき,ヨーロッパ人の航海により命名されたダジュレー島(鬱陵島)と,それより朝鮮寄りの位置にあると想像された架空の島アルゴノート島に,それぞれ松島,竹島の名を当てた地図を刊行した
3) 実測の結果,アルゴノート島が架空の島だと分かり,「竹島」の名が消えた.また,英仏の船が今日の竹島を測定し,リアンクール・ロックス,ホーネット・ロックスと命名した
4) 明治政府がリアンクール・ロックス,ホーネット・ロックスを正式に日本領に編入.その際,(3)の段階で消えていた「竹島」を転用して,その島の名とした.

 つまり,みんな栗田のせい,じゃなかった,シーボルトのせい.

 【参考ページ】
太寿堂鼎『領土帰属の国際法』(東信堂,1998.8.28),p.127

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/17 20:20
を加筆改修


 【質問】
 韓国が竹島領有権の根拠としている,6世紀にあったとされる于山 Ouen-San 国は,竹島のことなの?

 【回答】
 于山国とは,1145年に編纂された朝鮮半島最古の文献史料『三国史記』に登場する国名
 同書に曰く,
「512年6月に于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ.
 于山国は溟州のちょうど東の海の島にあり,別名を鬱陵島という」
 韓国は,「この于山国は,現在の鬱陵島と独島(竹島)を含んでいるので,512年から独島(竹島)は韓国領」と主張している.
 しかし,この記述には鬱陵島以外の島のことは全く記されておらず,国名が于山国であることから,鬱陵島の本来の名が于山島である可能性が高い.

 というか,普通に読めば,「于山国=鬱陵島だよ」という記述でしかないわなあ…

 【参考ページ】
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.12
http://ja.wikipedia.org/wiki/于山島
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/5.html
http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=21

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/02 20:50
を加筆改修


 【質問】
 『高麗史』地理誌には,于山国が鬱陵島と竹島から成ることが書かれているのでは?

 【回答】
 高麗の史書である『高麗史』地理誌蔚珍県(現在の慶尚北道蔚珍郡)には,鬱陵島は
「県の真東の海の中にあり,新羅のときは于山国と称した.
 武陵とも于陵とも言う……
 于山と武陵は本来2つの島で,互いに距離は遠くなく,天気がよければ眺めることができる」
と記されており,韓国側の見解では,晴れていれば鬱陵島から竹島が望めるので,この于山島を竹島と考えるのが自然だとしている.

 けれど,この解釈は誤りである可能性が高い.
 なぜなら朝鮮時代の地理誌では,島は陸地からの距離と,島が所属する地方官庁からの方角を示すことが原則であり,「眺めることができる」は,韓半島本土から眺めることができる,と解釈するのが自然.
 よって『高麗史』の記述は,韓半島から見た鬱陵島のことを指していると考えられている.

 そもそも,無人の小島の名を国名にしている,と解釈すること自体,おかしな話だし.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8E%E5%B1%B1%E5%B3%B6
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.12

faq120830.jpg
faq120830b.jpg
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/03 20:50
を加筆改修


 【質問】
 『東国文献備考』には,于山島とは竹島のことだと書かれているのでは?

 【回答】
 韓国側の主張によれば,『東国文献備考』輿地考(よちこう)の中に,
「輿地志に云う,鬱陵,于山,皆于山国の地.于山は則ち倭の所謂松島なり」
と書かれているという.
 しかしこの記述は,『輿地誌』(1656年成立)からの引用であり,しかも『東国文献備考』のものは,『彊界誌』という別の書物からの孫引き.
 しかもまた,引用の過程で,当時の朝鮮の通説に従って改変されており,これらのことから,『東国文献備考』は史料としての正確性がない.

 そもそも,繰り返すが,無人の小島の名を国名にしている,と解釈すること自体,おかしな話だし….

 【参考ページ】
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.12-13
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/54467178.html
http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/modules/news/article.php?storyid=107017145
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_ninchi.html

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/18 20:10
を加筆改修


 【質問】
 日本で1667年に編纂された『隠州視聴合記』には,「日本の領土は隠岐島まで」と書かれているんじゃないの?

 【回答】
 それは(たぶん意図的な)誤読.
 隠州視聴合記 (松江藩士・斉藤豊仙著 1667年)には,実際には次のように書かれている.

---------------------
隠州在北海中故云隠岐島,従是,南至雲州美穂関三十五里,辰巳至伯州赤碕浦四十里,未申至石州温泉津五十八里,自子至卯,無可往地,戍亥間行二日一夜有松島,又一日程有竹島,俗言磯竹島多竹魚海鹿,此二島無人之地,見高麗如自雲州望隠州,然則日本之乾地,以此州為限矣

翻訳
(1) 隠州(隠岐島)は北海中(日本海)にある
(2) これより南,雲州(島根県東部)美穂関まで35里.東南,伯州(鳥取県西部)赤崎浦まで40里.南西,石州の温泉津(ゆのつ)まで58里.北から東には行くべき地なし.
(3) 北西の間,二日一夜の所に松島(現・竹島)があり,また一日程行くと竹島(現・鬱陵島)がある.
(4) 俗に磯竹島という.竹・魚・アザラシが多い.
(5) これら2島は無人島で,高麗を見るように雲州より隠州を見るようである.
(6) ならば即ち,日本の北西の地,この島をもって境とする.
---------------------

 韓国側の主張は,(6)の「この島(此州)」を隠岐島と解釈するものだが,(2)からの流れを見れば分かるように,「この島(此州)」とは(5)の「これら2島」のこと.
 つまり,竹島と鬱陵島とを日本領としてある文書であり,この『隠州視聴合記』は,竹島が日本領であることの歴史的証拠となっている.

 【参考ページ】
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.14
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/5occupation.html
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-221020.html

隠州視聴合記(佐藤家本,古代歴史博物館所蔵)
(こちらより引用)

同書の国代記部分
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/13 20:00
を加筆改修


 【質問】
 「江原道図」の「子山」は竹島なのでは?
 以下ソース.

――――――
"独島,江原道の地表記..18世紀地図日で発見"
2010/08/23,聯合通信

 〔略〕
 24日,産経新聞インターネット版によれば神戸市立博物館が朝鮮時代の木版印刷古地図の「江原道図」を保管中の事実が最近,明らかになった.
 同紙は地図に記載された地名から推し量ると,この地図が1684〜1767年間に朝鮮で流通したと見られるとし,当時の韓半島古地図が実際に確認されたのは初めてだと付け加えた.

 地図には鬱陵島(ウルルンド)の南側に,「子山(独島の過去の名前)」という島が描かれている.
 産経新聞は,独島が実際には鬱陵島の東南側92kmの地点にある点を考慮すれば,南側に描かれたこの島は独島ではないと断定した.

 同紙は一歩進んで,安龍福(アン・ヨンポク)が1696年,日本に渡って「子山は朝鮮領土」という認定を受けた事実に言及し,
「この地図(江原道図)の'子山'は実際の竹島(独島の日本側地名)と方向や距離が異なるところに描かれており,別の島である可能性が大きい)と書いた.
 安龍福は日本で朝鮮の土地だと認められた「子山」は独島とは違う島だと主張した.

 だが,専門家によれば産経新聞の解釈とは正反対で,この地図は朝鮮が独島を江原道に属した自国領土と認識していたという,もう一つの根拠と解説される.

 保坂祐二世宗大独島総合研究所長は
「当時は絵地図だから方向や距離が不正確だったし,朝鮮には経度や緯度の概念がなかった.19世紀になって初めて正確な地図が出てくるから,日本側の主張は韓国の実像をよく知らない発言」
と指摘した.
 保坂教授は引き続き
「江原道図に独島を示す子山島を描き込んだことは当時,朝鮮が独島を自国領土と認識していた事実を見せるもの」
と話した.

 また,日本側の推定と異なり,この地図は安龍福が日本に渡った17世紀末でなく18世紀に描かれた可能性が高いと指摘した.
 保坂教授は「'子山'は安龍福が独島を指して初めて使った地名で,歴史書物上では1728年に刊行された粛宗実録に初めて登場した」
として,
「この地名が載っているのを見れば,この地図は1730年代以後に出てきた可能性がある」
と話した.
――――――

 【回答】
 物理学的にありえない.
 1959年刊行『江原道誌』上巻の冒頭に収録されている絵図,「江原道古地図」の右側には,
「鬱陵于山両島 天気清明蔚三両地登高皆見」
 すなわち,
「鬱陵于山両島は天気清明である時,蔚珍・三陟の両地から高く登ると皆見ることができる」
とある.
竹島は半島からは見えないので,江原道図に書かれているのは竹島ではない.

http://blog.goo.ne.jp/takeshima-2005/e/2a225a317b79151d7c3feaabb418d7a0
を参照されたし.

>「当時は絵地図だから方向や距離が不正確だったし,
>朝鮮には経度や緯度の概念がなかった」

 それはつまり,当時の韓半島側の記録は,どれも信頼性がないということでしかないね.

 ゆえに,韓半島側のどのような記録であろうと,竹島が韓国領であるとする証拠にはならないと,保阪は認めたも同じだね.


 【質問】
 安龍福(アン・ヨンポク)って誰?

 【回答】
 安龍福(1657年? - 没年不詳)は,朝鮮国慶尚道東莱県釜山に住んでいた漁夫。
 1693年(元禄6年),当時の李氏朝鮮政府が渡航を禁じていた鬱陵島へ,不法に渡り漁労していた時,この島を開発していた日本人に遭遇し,日本へ連行さる.
 そして幕府から,「今後,竹島(当時日本では,鬱陵島を竹島と呼んでいた)に渡海しないように」と申し渡された上,朝鮮へ送還された.

 現在の韓国では,竹島領有を日本に認めさせた英雄とされており,「将軍」と称されていて,当時民間外交を行った漁夫として中高教科書にも取り上げられているが,全くそんな事実はない.

 【参考ページ】
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.16-17
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%BE%8D%E7%A6%8F
http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=256

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/15 20:10
を加筆改修


 【質問】
 安龍福は実際には,日本ではどのように扱われたのか?

 【回答】
 韓国では安龍福は,隠岐島主に,
「朝鮮人が自分の領土に入っただけなのに,なぜ拉致したのか」
と抗議し,幕府に鬱陵島を朝鮮領土と認めさせたとされている.
 しかし日本側の記録,「朝鮮人口上書」などには全くそんな記述はなく,安のホラ話である可能性が高い.
 日本側の記録では,鬱陵島で漁を行っていた,米子の大谷家や,鳥取藩の鳥取城下の町合所などを宿舎として,事実上の軟禁下に置かれていたという.

 【参考ページ】
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.17
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%BE%8D%E7%A6%8F
http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=256

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/16 20:10
を加筆改修



 【質問】
 米子の大谷家,村川家って何?

 【回答】
 江戸幕府から「竹島(現在の鬱陵島)渡海免許」を得て,あわび・ワカメ漁を行っていた漁業事業者.
 当時,李氏朝鮮が行っていた,鬱陵島の「空島政策」により,無人となっていた同島を,日本側では無人島と判断して,1618〜1696年の間,漁業事業を行っていた.
 大谷家,村川家は1年交替で,2月頃に米子を出港し,隠岐島で風待ちした後,3月〜7月に漁を行うのが,例年の行事だった.

 【参考ページ】
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.13-16
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%BE%8D%E7%A6%8F
http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=256

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/13 15:36
を加筆改修


 【質問】
 日本の竹島編入は,日露戦争中の1905年2月,韓国が日本によって外交権を奪われていく過程で行われたことなので,無効なのでは?

>「侵略者の日本がまず反省すべき」…日本知識人1300人が声明
>http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2171247&media_id=56
(元ソースは中央日報)

 【回答】
 事実無根.

 まず,「外交権を奪われていった」とするのは,従来からの韓国側の言い分の鵜呑みである.
 韓国政府は,1904年2月の日韓議定書,同年8月の第1次日韓協約により,日本は韓国政府に対する数名の日本人外交顧問の勤務を保証させたと述べ立てている.
 しかし実際には,日韓協約第2項により,韓国政府は日本政府の推薦する外国人1名を外交顧問として傭聘することに同意しただけであり,実際に傭聘されたのも,アメリカ人スティーブンスだった.

 また,仮に,竹島編入のなされた1905年2月以降,日本の行為に対して抗議しうる地位に韓国がなかったとしても,そのことによって直ちに編入措置が無効となるわけではない.
 韓国が1904年以前には,竹島に実効的支配を及ぼしうる完全な地位にありながら,全く支配権を及ぼしていない.
 例えば竹島におけるアシカ漁業を取り締まる必要があったにもかかわらず,韓国はこれを放置していた.
 近世以前にも,韓国が竹島を実効的占有していたと見なすことのできる事実は皆無であり,仮に韓国が先に発見していたのだとしても,「先占」の要件を全く満たさない.

 【参考ページ】
太寿堂鼎『領土帰属の国際法』(東信堂,1998.8.28),p.144-145

【ぐんじさんぎょう】,2012/10/09 20:10
を加筆改修


 【珍説】
 日本は侵略戦争で独島(竹島のこと)を強占した

盧武鉉・韓国大統領

 【事実】
 日本は日露戦争末期の1905年2月に竹島を島根県に編入したという経緯はある.
 しかしあの戦争は,“日韓戦争”では決してなかったし,また日露戦争を「日本による韓国に対する侵略戦争」という歴史認識は単純かつ一方的.

黒田勝弘のソウルの風 −日露戦争を韓国への「侵略戦争」と言い募る盧政権の「歴史歪曲」−

 盧武鉉大統領がえらく歴史づいている.
 〔略〕
 たとえば最近では,小泉首相の靖国神社参拝を非難・攻撃するため,靖国神社付設の「遊就館」の資料を大量に取り寄せ勉強したという.つまり幕末維新からの近代日本の戦争史を勉強したのだ.
 その結果,現在の日本を批判するのに「侵略戦争」とか「国粋主義」「戦争美化」といった言葉がよく登場する.

 ところで盧大統領は,日本海の竹島周辺を含む排他的経済水域での日本の海上保安庁の海洋調査に対し猛反発し,「一戦も辞さず!」的な雰囲気だった.
 その際の日本非難では
「今まさに,過去の不当な歴史で取得し,侵略戦争で確保した占領地に対する権利を主張する人ひとがいる」(4月20日,宗教者の国家朝食祈祷会で)
などと述べている.
 それ以前にも
「日本は侵略戦争で独島(竹島のこと)を強占した日まで記念している」(三・一独立運動記念日演説)
などと,竹島がらみでしきりに「侵略戦争」を強調しているのだ.
 この「侵略戦争」とはどの戦争をいうのだろう.竹島がらみだから日露戦争のことかしら.
 日本は日露戦争末期の1905年2月に竹島を島根県に編入したという経緯はある.
 とすると盧大統領の歴史観では
「日本は日露戦争で竹島を奪った,日露戦争は韓国に対する侵略戦争だった」
ということになる.
 しかし日露戦争は日本がロシアと戦争したのであって,韓国と戦争をしたわけではない.
 当時,日露は朝鮮半島への支配権をめぐって争い,日本が戦争に勝ったため結果的にはその後,朝鮮半島−韓国は日本の支配下に入った.
 しかしあの戦争は,“日韓戦争”では決してなかったし,また日露戦争を「日本による韓国に対する侵略戦争」という歴史認識は単純かつ一方的である.

 韓国外交通商相の対日抗議声明でも「侵略戦争時,強奪した独島」とあるが,あの島に対する日本の領有権主張を“強奪”としたいため,韓国流にいえば“歴史歪曲”が行われている.

黒田勝弘 from "SAPIO" 2006/5/24号


 【神話】
 竹島は,1953年4月20日に地元民間人で結成した「義勇守備隊」(隊長=故ホン・スンチル)33人が.米軍から小銃と機関銃を盗み取って警備.
 日本の水産高等学校の実習船を拿捕(だほ)したり,日本の海上保安庁所属の巡視船などを数度に渡って銃撃戦の末に撃退したりするなど.1956年12月に警察へ防御任務を引き渡すまで3年8カ月間,守り抜いた.

(韓国では有名な逸話)

 【事実】
 最近出た「報道」(と呼んでいいのかどうか微妙だが)によれば,誇張された話なのだという.
 事実は,
・ワカメを獲るために竹島に入り,その際,警察から「島の警備もやってくれ」と頼まれ,『義勇警察』という名目で武器を貸与された.
・1954年12月には,同守備隊は警察官として特別採用され,警察官として任務に当たっていた.
・その前の1954年7月にはすでに,鬱陵警察署が予算を使って竹島に哨所を置いていた
・銃撃戦などなかった
・人数は最大でも21人.
のだという.

 以下引用.

 〔略〕
■事実と異なる結成,解散の時期■

 これまでに分かっている記録によれば,「独島義勇守備隊」は1953年4月に創設,3年8カ月間,独島に常駐して数度の戦闘を行ったとされる.
「ホン・スンチル隊長が独島へ初めて入ったのは1954年5月.
 軍を除隊したホン氏が鬱陵島の在郷軍人会を結成すると,当時の鬱陵警察署長が鬱陵郡主,漁業協同組合理事と協議し,鬱陵島最大の利権事業であった独島のワカメ採取権を3年間与えたことによって独島義勇守備隊が始まった」
 慶尚北道・浦項で会ったキム・サンリ氏(78)は当時の状況を鮮明に記憶していた.
 1954年当時,鬱陵警察署に勤務していたキム氏は「独島義勇守備隊」について,「もともとはワカメを取るため入った人々なんだ」と語る.
「当時,日本の巡視船がしばしば出没するため,危険だということで銃器をくれといったが,警察では民間人に銃器を与えることができず,『義勇警察』という名目で武器を貸与した.
 ワカメを取るというキム氏に対し,独島警備も一緒にやってくれと頼んだ」
とキム氏.

 ホン隊長をはじめとする民間人たちが「独島義勇守備隊」として独島に初めて上陸したのが1954年春というのは,元守備隊員たちを通じて確認することができた.
 同守備隊の第一戦隊長として名前が挙げられているソ・ギジョン氏(78歳,蔚山市)は
「1954年春,ホン・スンチル隊長と6人が初めて独島に入った」と語る.
「1954年8月に除隊したらホン・スンチル氏に呼ばれ,『独島義勇守備隊で一緒に働く気はないか』と言われた.
 話を聞いてみたらよさそうなので一緒にやることにした.
 私は後で合流したが,その数カ月前にすでに何人かが(独島に)行ってきていた」
とソ氏.

 同守備隊の解散時期も事実とは大きく異なる.
 現在,政府は「独島義勇守備隊」が1956年12月まで,3年8カ月間,活動したと認定している.
 しかし,生存している元守備隊員の証言によれば,結成された年(1954年)の12月には事実上活動を中断していた.
 隊員の一部が警察に特別採用され,警備任務の態勢が警察に引き渡されたのだ.
 ソ・ギジョン氏は
「1954年12月,独島義勇守備隊員のうち9人が鬱陵警察署の警察官として特別採用された.
 その後には守備隊ではなく警察官として独島警備任務を行った」
と証言する.
 「独島義勇守備隊」の第2戦隊長だったチョン・ウォンド氏(78歳,鬱陵郡)も
「1954年12月に警察官として特別採用された」
と振り返る.
 こうした元守備隊員らの証言を裏付ける資料は,鬱陵警察署の拝命記録(勤務名簿)にも残されている.

 証言と記録を総合すれば,守備隊の実際の活動は1954年4月から同年12月までの8カ月間のみだった.
 ソ・ギジョン氏も
「義勇守備隊で活動したのは長くても8カ月にもならない」
と証言した.

漁をする韓国漁船(ロイター)■「ワカメ取り」が任務■

 ならば,独島に常駐して警備したとされる残る期間における「独島義勇守備隊」の活動は何だったのか.
 当時の状況を記憶する鬱陵島の老人たちは「ワカメ採取をしていただけ」と口をそろえる.
 1953年から鬱陵警察署の刑事として10回余り,独島警備隊長を務めたチェ・ホンシク氏(85歳,鬱陵郡)は
「ホン・スンチル隊長がワカメ取りに行っていたのは,年寄りの鬱陵島の人たちはみんな知っている」
と話す.
「ホン隊長が残した手記は見たが,3年8カ月の間,独島を守ったとの記録は95%がウソだ.
 鬱陵島の人々に尋ねれば,『ホン隊長がいつ独島を守りにいったのか.ワカメ取りに行ったんだろう』という話が大部分だ」
 チェ氏はさらに
「1954年7月,鬱陵警察署が予算を使って独島に哨所を置き,8月から警備を始めた」
と語り,
「独島義勇守備隊が警備を行ったと主張しても,2〜3カ月にもならない話だ」
と指摘した.

 鬱陵島などで警察官生活を送った後,浦項で引退生活を送っているパク・ビョンチャン氏(79歳)も「ホン隊長は独島に30人ほど連れて行ってワカメ取りをした」と明らかにした.結局,ホン隊長が1953年4月20日から「独島義勇守備隊」を創設し,1956年12月まで3年8カ月間,独島を守ったとの記録の多くは,事実と異なるということになる.

 「独島義勇守備隊」が独島を守り,警備任務を助けたのは,長く見ても8カ月.残る期間は鬱陵島で最大の利権事業であるワカメ取りだけに専念したというのが生存者たちの証言なのだ.

今は武装した警官が警備しているが……(ロイター)■実際にはなかった「銃撃戦」■

 記録上の同守備隊の「戦果」は華麗だ.
(1)日本の水産高等学校の実習生を拿捕=1953年6月,
(2)日本の巡視船に発砲=1953年7月,
(3)日本の警備艇3隻を撃退=1954年4月,
(4)日本の巡視船を銃撃戦で撃退=1954年8月23日,
(5)日本の巡視船3隻と航空機1機を発砲で撃退(1955年11月).

 だが,上記の通り,守備隊は1954年4月ごろにワカメ取りのため結成され,独島に上陸した.
 結成前から戦闘が行われたというのは無理がある.
 いったいなぜ,このようなことになったのか.
 理由は簡単.
 直接経験してもいないことを無理矢理に「戦果」としたためだ.
 元隊員や警察官たちの証言がこれを裏付ける.

 ホン隊長の手記には,日本の水産高等学校の実習船の船長と船員を捕らえ,補給品を押収し,「独島は韓国領」という教育を施した上で送り返したと書かれている.
 だが,ソ・ギジョン氏は
「ホン隊長は実習船が来た時,独島にいなかった」
と語る.
 ソ・ギジョン氏の証言によれば,実習船を拿捕,物品を押収し,あるいは教育を施して送り返したという主張は事実でない.
 また,その当時,ホン隊長は現場を守ってもいなかった.

 1953年7月に起きた巡視船への発砲も守備隊の戦果ではない.
 当時,鬱陵警察署の警備班長だったチェ・ホンシク氏は
「(巡視船の)船長に私が直接会い,送り返した」
と証言する.
「1953年7月,日本政府が領土表示板を設置したとの報告を受け,それ撤去するため(独島に)行った際,日本の巡視船が接近してきた.
 私と独島で生態系調査をしていた中学校の先生2人が巡視船に上ったところ,船長がわれわれに,
『島から出て行け』
と言い,言い争いなった.
 結局,双方が退却することとなったが,われわれ側の船員が突然小銃を何発か発射し,巡視船が驚いて退却した」
 チェ氏は
「発砲してはならないと話していたんだが,船員の1人がミスを犯した.
 後で日本の雑誌に大きく掲載されたそうだ」
と振り返り,当時の雑誌記事まで見せてくれた.
 チェ氏の証言によれば,同事件は守備隊とはまったく関係なく起きた韓国と日本の間の摩擦だった.

 1954年に相次いだという日本の巡視船・警備艇との「銃撃戦」も実際にはなかった.
 ただ,1954年9月ごろ,日本の巡視船の接近を防ぐために迫撃砲何発かを撃ったとの証言はあった.
 ソ・ギジョン氏は
「54年9月ごろに日本の巡視船が接近した.
 接近しないよう信号を送ったが,近づいてきた」
と語り,
「迫撃砲4,5発を撃ったが,そのうち1発が巡視船の後方の海に着弾した」
と指摘.
「その後にはどのような銃撃戦も発砲もなかった」
と振り返った.
 1955年に起きたと記録にある日本の巡視船との銃撃戦などについても,「事実だ」と証言する生存者はいなかった.

 ホン隊長が当時,私財を投げうって武器を購入し,哨所を建てたという記録も事実ではない.
 ホン隊長の娘は
「父が当時で1億ウォン相当の私財を投げうって武器を購入したと聞いている.
 当時は戦争(朝鮮戦争)中だったので,金さえ出せば武器を買えた」
と語るものの,いかに戦争中とはいえ,銃器を買ったり奪ったりしたとの話は釈然としない.
 実際,鬱陵警察に当時勤務した警察官は
「武器は鬱陵警察が貸与したもの」
と証言する.

■事実からかけ離れた記録■

 これまで知られてきた守備隊の規模は,ホン隊長まで含め33人.
だが,ソ・ギジョン氏は
「最初に独島へ入ったのは,私も含めて17人.船の船員4人まで含めても21人だけだ」
と語る.
 元警察官のイ・ギュヒョン氏(鬱陵郡)は
「33人の中には,独島に一度も行ったことのない人まで含まれている」
と話す.

 1966年4月12日,「独島義勇守備隊」は朴正煕大統領から勲章を受けている.
 この際に勲章を受けたのは11人.
 33人いたはずの守備隊員のうち11人だけが勲章を受けたというのも釈然としない.
 ソ・ギジョン氏は,勲章を受けた11人の中にも「ニセ守備隊員」がいたと証言する.

 生存者たちの証言を総合すれば,これまで知られてきた「独島義勇守備隊」33人のうち,半分近くは独島警備とは無関係だった.
 実際に守備隊にかかわった人たちのうち9人は1954年12月,警察官として特別採用された.
 その後,彼らは民間人ではなく警察官として独島警備の任務にあたった.
 従って,民間人の「独島義勇守備隊」が33人だとの記録は,歴史的事実とはかけ離れたものに思える.

キム・ヨンギュン
(以上,オーマイニュース〔韓国版〕10月30日−11月1日掲載の抄訳)

オーマイニュース」,2006-11-0211:53

 歴史に関する韓国のいい加減さは,比較的良く知られた話だが,もっとも,オーマイニュース日本版もソースとしてはかなり信頼度が落ちるレベルなので,できればクロス・チェックしたほうがよい情報だと愚考する.


 【質問】
 テポドン2騒動のすきに韓国の海洋調査船が竹島のEEZに侵入.中国のも尖閣諸島沖のEEZに侵入していますが,もしかして中朝韓でツルんでる?

 【回答】
 韓国は慌てふためいているところから見て,その可能性は低そうだ.
 中国も公のコメントを出すまでに時間がかかっており,発射時刻を知らなかった可能性が高い.
 なお,海洋調査船については海保の巡視船が張りついていて無線で警告しているが,シカトされている模様.

軍事板

 ちなみに,件の調査船は領海にも侵入している.
 以下引用.

韓国調査船,EEZ内に14時間=一時領海侵入,離脱を確認−海保

 調査船はさらに竹島に接近し,同7時45分,竹島から12カイリ(約22キロ)内の日本の領海に侵入した.
 領海から出たのは午後2時すぎだった.

時事通信,2006/7/5


 【質問】
 海流調査,なんのためにやってるの?

 【回答】
 海流調査は潜水艦の活動にも大きな影響を与える.
 海流の調査を無断で行うって事はそういう風にとられる.

軍事板

韓国海洋調査船「海洋2000」
(こちらより引用)


 【質問】
 なんで侵入した韓国調査船を攻撃しないの?

 【回答】
 日本の法律には,EEZでの非無害航行や領海侵犯に対する罰則規定がありません.

軍事板


 【質問】
 李明博・韓国大統領の竹島上陸事案について,3行で教えてください.

 【回答】
 支持率低迷にあえぐ李大統領が,パフォーマンスのために行った対日強硬策の一つで,2012.8.10,竹島に上陸し,約1時間半滞在した.
 日本政府は,李大統領の訪問計画が明らかになった9日,ソウルの日本大使館を通じて中止を申し入れていたが,当然のごとく無視された.
 また日本政府は,上陸後は駐韓大使を一時帰国させたが,何の影響も与えなかった.

 小川和久はこの事案について,以下のように指摘している.

--------------
軍事アナリスト 小川和久 @kazuhisa_ogawa in twitter◆(2012/08/11)
韓国大統領の竹島侵犯もメドベージェフの国後,択捉侵犯も護衛戦闘機を随伴し,厳密には対領空侵犯措置の対象.
その角度からの事前警告があってしかるべき事案.
それぐらいの姿勢をとる日本国であれば,領有権問題が解決しないまでも,両国トップの侵犯はない.
「訪問」と記した外務省は責任をとれ.
--------------

 【参考ページ】
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/120810/mcb1208101412029-n1.htm
http://www.asahi.com/international/update/0810/TKY201208100228.html
http://www.asahi.com/politics/update/0810/TKY201208100400.html?ref=reca

竹島にて,コンクリート製の韓国国旗の前で説明を受ける李明博大統領(左から3人目)=東亜日報
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/08/18 20:58
を加筆改修


 【質問】
 李明博が竹島に上陸した動機は?

 【回答】
 韓国メディアは,以下のような見方をしている.[1]
・任期終了まで,領土問題や歴史問題で強気の姿勢を取るという意志表明
・「密室処理」との批判を浴びて寸前に締結延期になった韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA)をめぐる,国民の不信感の払拭
・身内や側近の不正などもあり,8月の世論調査で支持率が18%にまで落ち込んだ現政権が,ムードを変え,行き詰った政局を転換させるため

 3番目については,黒田勝弘も同様の見方をしている.[2]
 そしてまた,
> 政権末期の李大統領が大胆な行動に踏み切ったのは,ひとえに「独島を訪問した初めての大統領」という業績を,歴史に残したい政治的計算からだ.[3]
とも述べている.

 【参考ページ】
[1]http://japanese.joins.com/article/329/157329.html
[2]http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2012/08/0810takeshima/
[3]http://sankei.jp.msn.com/world/news/120810/kor12081021120014-n1.htm

「韓国領」と書かれた岩に触る李明博大統領(AP)
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/08/19 20:40
を加筆改修

▼ 一方,大礒正美は,李明博が日韓条約破棄を狙っている可能性を指摘している.
「国際政策コラム<よむ地球きる世界>No.161」
において大礒は,
1) 韓国の憲法裁判所が
「慰安婦の賠償請求権問題で具体的解決のために努力しないのは憲法違反」
という判断を下している.
2)  しかし日本は日韓基本条約で「完全かつ最終的に解決済み」として相手にしない.
3) 「それなら日本を最大限に挑発して強い反発を起こさせ,それを理由に基本条約破棄を宣言するのがいい」と李が考えたのではないか
――と,このように推測している.
 この推測のほうが,「李が突如理性を失った」と考えるよりは,可能性がありそうに思える.

2012.9.3


 【質問】
 竹島上陸などの李大統領の対日強硬策に,日本はどのように対処すればいいのか?

 【回答】
「日本政府および外務省は,問題から逃げるな.
 逃げずに"竹島紛争"を国際的に認知させることができれば,日本は有利になる」
という一点に集約される.

 佐藤優は,「李明博大統領は,もはや現実的に対日外交を行うという発想を捨てている」ので,
「日本国家の名誉と尊厳を賭して,対決を辞さないという基本方針を外務省は組み立てるべきだ」
として,以下のように提言している.

------------
 外務官僚は,9月,ロシアのウラジオストクで行われるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会合の際に予定されていた日韓首脳会談を延期することを考えているようだが,大きな間違いだ.
 日韓首脳会談の席で,野田佳彦首相が李明博大統領に対し,竹島が日本の領土であるというわが国の立場,並びに李明博大統領の一連の反日発言が,一方的な歴史観に基づく侮辱的なトーンで,日本として受け入れることはできないと,毅然と伝えるべきだ.
 また,両首脳の合同記者会見を行い,その席で,野田首相が李明博大統領に対して,
「竹島は日韓の紛争になっているので,外交交渉によって解決しよう」
と呼びかければよい.
 そうすれば,国際社会に竹島を巡る紛争が日韓に存在するという印象を強く植え付けることができる.

〔中略〕

 筆者の考えでは,
「李明博大統領の感情的発言の結果,国際的に独島(竹島に対する韓国側の呼称)問題が,領土問題と認識されてしまった.
 その結果,韓国は日本との交渉を余儀なくされた.
 李明博大統領は,独島問題で日本にとってつけ込む隙を与え,韓国の国益を毀損した」
という状況を,9月のウラジオストクAPECサミットでつくり出すことが,李明博大統領と韓国外交に対する最大の打撃になる.
(2012年8月15日脱稿)
------------[1]

 また同氏は,次のようにも述べている.

------------
 日本国家が一体となって,迅速に目に見える形での反撃を行わなくてはならない.
 ここで重要なのは国権の最高機関である国会の動きだ.
 衆議院,参議院がただちに「竹島返還に関する国会決議」を採択することが効果的だ.

 〔中略〕

 日本も韓国に対して,相互主義の原則で対応すべきだ.
 日本外務省は,その存在を強調しないが,1965年6月22日,日本と韓国の外務大臣間で交換された「紛争の解決に関する交換公文」という名の,重要な外交文書がある.
 椎名悦三郎外相と韓国の李東元外務部長官の間で,
「両国政府は,別段の合意がある場合を除くほか,両国間の紛争は,まず,外交上の経路を通じて解決するものとし,これにより解決することができなかつた場合は,両国政府が合意する手続に従い,調停によつて解決を図るものとする.」
という合意がなされた.
 衆参両院が「竹島返還に関する決議」を採択し,政府に対して日韓間の紛争である竹島問題の外交交渉による早期解決を要請すべきだ.

 それとともに島根県の条例(2005年3月25日島根県条例第36号)により定められた,2月22日の「竹島の日」を,全国規模に拡大する決定を,政府は至急行うべきだ.
 日本政府は,1905年(明治38年)1月28日に竹島を島根県に編入することを閣議決定し,同年2月22日に島根県知事が所属所管を明らかにする告示を行った.
 2005年に島根県議会は,この年が竹島に関する閣議決定と島根県告示から100周年にあたることを記念して,同年3月16日,2月22日を「竹島の日」とする「竹島の日を定める条例」を制定した.
 「竹島の日」を全国化することで,竹島の領土権の早期確立を目指した運動を推進し,竹島問題についての国民世論の啓発を図る姿勢を,日本の政府,国会と国民が一体になって示すことが重要だ.
------------[2]
------------
 竹島問題が紛争であることが国際的に認められれば,韓国は外交交渉から逃げられなくなり,日本に有利な情勢が生まれる.
李明博大統領のポピュリズム的冒険が,どれだけ韓国外交にマイナスになるかを,日本政府,国会,マスメディア,有識者,国民の力を結集して,韓国に思い知らせる必要がある.
------------[3]

 以上,長文の引用になったが,

------------
 嫌な大統領に指導されていても,韓国は隣国だ.
 お互いに引っ越すことはできない.
 外務官僚は,日韓首脳会談を延期し,逃げるという姿勢を改め,李明博大統領の暴言を封じ込める現実的方策を考えるべきだ.
------------[1]

という同氏の言葉が,総論に近いであろう.

 ちなみに他の主な外交評論家の名前でも,ざっと検索してはみたが,具体的な提言はしていない,または,そもそも記事がない,というガッカリする結果に終わった.
(発言データをお持ちの方は,提供していただけると幸いです)

 【参考ページ】
[1]http://blogos.com/article/44907/
[2]http://blogos.com/article/44946/
[3]http://blogos.com/article/44706/

【ぐんじさんぎょう】,2012/08/30 20:40
を加筆改修


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