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東亜FAQ目次

1953年1月8日付の「人民日報」
「琉球群島は,尖閣諸島,先島諸島,大東諸島,沖縄諸島などから成る」
と2行目に書かれている


 【質問】
 尖閣諸島が初めて記録に現れるのは?

 【回答】
 東経123度28分から124度34分,北緯25度44分から56分の間に位置する8つの小島嶼群を尖閣諸島と呼んでいます.
 この島々は東シナ海大陸棚の東縁にあります.
 総面積5.48平方キロメートルで,その内,魚釣島が3.80平方キロメートルと最も大きく,久場島が0.87平方キロメートル,南小島が0.35平方キロメートル,北小島が0.31平方キロメートル,大正島が0.05平方キロメートルとなっています.

 久場島は諸島唯一の火山島で,溶岩や軽石が認められています.
 その他の島嶼や岩礁は,殆どが第三期八重山層群の礫質砂岩や第三期に噴出した角閃石安山岩から出来ています.
 殆どの島は急峻で,岩山が突っ立ち,垂直の海食崖に取り囲まれています.
 北上する黒潮の一部が,この諸島海域を横切って東シナ海に流入しているため,大陸棚の沿岸流との間に潮目が形成され,回遊魚の良い漁場となっています.

 この尖閣諸島が記録に表れてきたのが冊封琉球使禄が最も早いと思われます.
 福建省の福州を出帆した船が,那覇港を目指して航海する場合は,幾つかの標識島を目指して,その北側を通るのが常でした.
 封舟の最高責任者であった冊封使は,封舟が那覇港に正しく航行しているかを確認するため,絶えずこれらの標識島に注意しなければならなかったのです.

 勿論,官僚である冊封使に航海の経験など全くありませんでしょうから,その航路や標識島について,教示する人物がいたはずです.
 それは封舟に貼駕,即ち添乗していた,航海に習熟している琉球の看針通事でした.

 この中国語が出来る琉球の人物は,実質上,封舟の航路を決定する一等航海士の役割を果たしていました.
 その際,標識島の呼び名は,中国の使臣や船員との共通語である中国語が用いられました.
 例えば,冊封使録に於ても,看針通事が久米島を「久米山」と呼んでいたのですが,冊封使は古米山,姑米山,粘米山など様々な文字を用いています.
 同様に,尖閣諸島も様々な書き方が為されています.
 魚釣島は,釣魚嶼,釣嶼,釣魚台などと書かれていますし,北小島は黄麻嶼,久場島は黄尾嶼,黄毛嶼,久場島,大正島は赤尾嶼,赤嶼,久米赤島となっていました.

 因みに,明代の場合,中国の領土であれば,1461年に完成した地理書である『大明一統志』にきちんと記されています.
 もし,尖閣諸島がその中に記されていれば,冊封使は伝聞では無く,きちんと知識として心得ており,『大明一統志』に書かれた通りの島名を書いたはずですが,尖閣諸島は,『大明一統志』の巻89以降の「外夷」を含めて調べても記載されていません.
 しかし,冊封使は,『大明一統志』を使録の「群書質異」に引用しているので確かに読んでいるはずです.
 ここに出ないとすれば,先ず,中国が古代から自らの領土として認識していたと言う主張は,崩れていくわけです.

 明代,そして清代については,福建から出航した船が,那覇港に渡航する際に通るルートは次のようになります.
 小琉球→?籠嶼→花瓶嶼→彭佳山→釣魚嶼(魚釣島)→黄尾嶼(北小島)→赤嶼(大正島)→粘米山(久米島)→馬歯山(慶良間諸島)→那覇港・大吉

 一方,那覇港から福州に航海する場合は,那覇港を出港して,もし順風を得られなければ,慶良間諸島の安護の浦か,久米島で風待ちをし,中国浙江省から福建省の方向へ進路を取り,中国の沿岸が見えると,標識島によってそれが何処かを確かめ,?江の河口に進路を修正します.
 従って,尖閣諸島を通る事は有りません.
 尖閣諸島を通る場合は,夏至の頃の,南からの季節風を受けた航海のみに限られるのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/17 22:51
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明の時代から,中国は冊封使を琉球に派遣しているが,その冊封使は福建省福州を発して,台湾の北を経て尖閣諸島の沖合いに達し,さらに久米島から那覇を結ぶ航路を用いていた.
 それを示す諸々の文献によれば,久米島からが琉球で,尖閣諸島の赤尾嶼までは数百年も前から中国領だったのでは?

 【回答】
 それは単に,尖閣諸島を航路の目標としているだけであり,それら文献にも,尖閣諸島を中国領であるとする積極的記述は存在しない.
 また,琉球から中国へ派遣された使船の回数は,中国からの使船の回数の10倍以上もあり,「航路にしていた」ことが領有権の根拠であるとする中国の主張が正しいと仮定してみても,琉球のほうに,より強い領有権があったことを示す根拠にしかならない.
 控え目に見ても,冊封使の時代の尖閣諸島の所属は,未定だったとしか言うことはできない.

 【参考ページ】
太寿堂鼎『領土帰属の国際法』(東信堂,1998.8.28),p.201

冊封使(首里城祭「冊封使行列」2010にて再現されたもの)
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/26 20:30
を加筆改修

▼ 尖閣諸島が中国領であるとの主張の1つ目に,この明代の『琉球冊封使録』での記述が挙げられます.

 最初の冊封使録に書かれた1534年5月11日の項には,
「古米山が見えた.つまり,琉球の領土である」
という記述があります.
 一方,その次の冊封使録には,1561年閏5月1日の項に,
「5月1日,釣嶼を通過した.3日に赤嶼に着いた.赤嶼は琉球地方を境する島である.更に一日の風で,姑米山が現れるはずであった」
とあります.

 1534年の記述では,久米島を琉球領と認めているが,赤尾,黄尾,釣魚等の尖閣諸島が琉球領では無いとし,一方,1561年の記述では,赤嶼を「界スル山」であるとした場合,福州から出航し,花瓶嶼,彭佳山等中国領であることは自明である島々を通り,更にその先に連なる,中国人が以前からよく知り,中国名も付けられている島々を航海して,その列島の最後の島,即ち赤嶼に至ったとしています.
 そして,順風でもう1日航海すれば,琉球領の久米島を見ることが出来ることを思い,来し方を振り返って,この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル島」だと感慨に耽った,則ち,「界」するのは,琉球と,彼がそこから出発し,且つその領土である島々を次々に通過してきた中国と界するもので無ければならないと言う訳です.

 因みに,1561年の冊封使が辿った標識島を使録から取り上げると,東湧山,小琉球,黄茅,釣嶼,赤嶼です.
 東湧山は中国固有の領土ですが,小琉球は台湾を指し,明代に中国固有の領土ではありません.
 なお,本来の台湾は,『明史』巻323の列伝210外国4にある「鶏籠」のことですが,元代は「瑠求」となっていました.

 中国派の2つ目の論拠としては,1561年に編まれた胡宗憲の『籌海図編』と言う書物があります.
 胡宗憲は,明の進士で兵部右侍郎として軍務を総督した人物で,倭寇の平定に功が有った人物です.
 この書は,嘉靖年中,倭寇対策のために書かれたもので,南北沿海の要衝,入貢の始末,戦守計略等を記録したものです.
 この中の「沿海山沙図」の福七,福八に跨がって,福建省の羅源県,寧徳県沿海の島々を描いています.
 此所に取り上げられた島々に,「鶏籠山」,彭加山,釣魚嶼,化瓶山,黄尾山,橄欖山,赤嶼が描かれています.
 一見して,福州南方の島々で,台湾の基隆沖から東に連なるものですが,きちんと比定された資料はありません.
 にも関わらず,これを中国領以外の地域は入っておらず,一方で尖閣諸島がその中に入っているから明確に中国領だと主張しているのです.
 また,この図には「鶏籠山」が書かれていますが,先述の様に,鶏籠は,中国の正史である『明史』に於て明確に外国列伝に入れており,『籌海図編』では総てが中国領であると言う主張は出来なくなるのです.

 それでは,明代では無く清代に尖閣諸島は中国領となったのだと言う主張はどうでしょう.

 清代の封舟では,尖閣諸島辺りで,過溝の祭典が挙行されました.
 明代から既に,中国近海と琉球近海とは違った海であると言う観念がありました.
 但し,近代法で言う「領海」と言う観念では決してありません.
 一般的には中国の近海は滄水,即ち,青緑色の海であり,琉球近海は黒水,つまり,黒色の海であると考えられていました.
 例えば,1576年に封舟に乗り組み,冊封副使を務めた謝杰の記録でも,「渡航には滄水から黒水に入り,帰航には黒水から滄水に入る」との記述があります.

 とは言え,特に目印があったり,本当に色が変わる境目があった訳では無く,ただ漠然としたものであり,誰も此所だと明確に答えられるものでは有りませんでした.
 そして,慣習的に尖閣諸島の辺りで,過溝の祭が行われました.

 大抵は,中国側の船員や護衛の兵員が,冊封使に申し出て奉修するのですが,何故兵隊がこれを執り行ったかと言うと,護衛兵を指揮する将校の中に,海の様々な行事に通じている者,幾度も封舟に乗船している者もいたりして,海上で風雨が強くなったり,異常があったりすると,模型の小さな船を五色に塗って,道士に祈祷をさせたり,こっくりさん的な降箕の法を用いて媽祖の示しを受けたり,?と呼ぶ占いをしたりと,色々な海上儀礼が奉修されました.
 過溝もその1つで,2つの海の界である黒溝・黒水溝が恐れられたのは,『元史』巻210列伝97の「瑠求」の次の記述に因ります.

------------
 瑠求は,南海の東,漳,泉,興(化),福の四州の界内にある.
 彭湖諸島と瑠求とは向かい合っているが通航していない.
 天気が清明な時に,それを望むと,仄かに煙や霧のようで,その遠いことは,幾千里か分からない.
 西・南・北の岸は総て海で,彭湖に至って次第に低くなり,瑠求に近付くと,これを落漈と言う.
 ?とは,水が走り下って,回らない事である.
 凡そ西岸で,漁船が彭湖へ行くと,既に下り,暴風に遭って落漈に漂流すると,回られるものは,百に一つである.
------------

 実はこの瑠求は台湾のことであったりします.
 ただ,字面が似ていること,またそこに至るまでの記録が殆ど無いことから,冊封使達はそれを区別することが出来ず,ただ一向に,琉球の近くに落?があり,百に一つも帰れないと恐れるばかりでした.

 古代より中国人は,あらゆる河川の水が海に流れ込んでも,海の水位が上がらないのは,海の底に絶えず河川の水を流出している場所があるからだと考えていました.
 例えば,『荘子』秋水では,そこを尾閭と読んでいます.
 東海,又は扶桑の東の海底に,広さ四万里,厚さ四万里の大石があり,そこから百川の水が排出されているのだと考えたのです.
 また,沃?と言う名前も持っています.
 落漈も同根の発想であり,冊封使にとっても,この落漈と黒溝は同一視されており,海の難所と目されていました.

 しかし,琉球人の船乗りはこの航路を幾度も航海しており,黒溝と言う難所の概念はありません.
 1799年の冊封副使である李鼎元の記述には,琉球人の夥長(航海士)に黒溝の場所を問われて,
「黒溝などありません」
と答えており,ただ,
「釣魚台が現れた所で,神に御供えをして海をお祭りします」
と答えています.
 この夥長は60歳で,那覇と福州の間を8度も往還しており,その度毎に詳しく観察して,目標とすべきものを会得していた人物でした.
 李鼎元は,経験のある人物のこの答えを聞いて,黒溝など元々無いのだと言う合理的な判断を下しています.

 中国領を主張する人は,この黒溝の存在がそのまま,中国と琉球の自然国境となっていたのだと言うのです.

 ところで,明代には台湾は明確に外国領土でしたが,清代には『清史稿』(中華民国は正史を編纂出来なかったので,『清史』は原稿状態のままです.)の志46地理18に「台湾」が明白に記されています.
 明末に台湾はオランダに占領されましたが,明の遺臣である鄭成功がオランダ人を退去させて一族で移住します.
 そして,清に対するゲリラ攻撃を繰り広げたのですが,1683年に清朝は台湾を平定し,政治的に支配するようになりました.
 しかし,当時朝廷の考えとしては,澎湖諸島だけを領有し,台湾本島そのものは放棄すべきであるとの考えが非常に強かったと言います.

 従って鶏籠山は中国領になりはしたものの,基隆東北沖合の彭佳嶼,棉花嶼,花瓶嶼が果たして中国領か否かは極めて曖昧なままです.
(現在は中華民国の基隆市所管ですが)
 そして,尖閣諸島も又,清代の領土と確定されるような決定的な証拠はありません.
 …神の手でもあれば別ですが.

 清代の中国領を確定する文献としては,『清会典』図説の輿地が最も近いと思われます.
 1899年版では,既に台湾は日本に割譲されていますが,未だご丁寧に台湾省全図,台湾府図,台南府図,台東州図が掲載されています.
 但し,その何れの図にも,彭佳嶼,棉花嶼,花瓶嶼は出ていませんし,まして,どの図にも,尖閣諸島は描かれていません.
 台湾ですら書いてある『清会典』に尖閣諸島が描かれていないと言う事は,清代に於ても,尖閣諸島が中国の領土であると言うのは根拠の無い話であると言っても罰は当たらないことでは無いでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/18 22:10
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 無人島などの帰属未定地域の領有権は,最初に発見した国にあるのか?

 【回答】
 否.国家が領有の意思を持って,無主の地を実効的に占有することが必要となる(これを「先占」と言う).
 ここで言う,国際法の「無主の地」とは,まだどの国の領有にも属していない土地と言うことであり,その上に人が住んでいたとしても,国家の領土でなければこれを先占することができる.
 逆に言えば,無人島を発見しても,これに国旗を掲揚するなどの象徴的な領土編入行為を行っただけでは,有効な先占とはならない.
 通説では,「発見」には未成熟の権原(inchoate title)を認め,発見した国に,相当期間の優先権をもたらすとするが,実効的占有が後に続かなければ,領土取得は成立しない.

 尖閣諸島の場合,仮に中国が主張するように,本当に尖閣諸島発見は中国が先だと仮定しても,その後,実に1970年まで放置していたのだから,「先占」の要件を全く満たさない.

 【参考ページ】
太寿堂鼎『領土帰属の国際法』(東信堂,1998.8.28),p.11

【ぐんじさんぎょう】,2012/10/08 20:10
を加筆改修


 【質問】
 江戸時代の林子平「三国通覧図説」が,「尖閣諸島は中国領という証拠」ってどういうこと?

 【回答】
 「三国通覧図説」では,清国とともに尖閣らしき島が赤色で塗られている.
 日本は緑色.
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_01547/ru03_01547_0002/ru03_01547_0002.html

 中国側はこれを根拠の一つにして,領有を主張している.
 しかしよく見ると,小笠原は赤色,台湾は黄色,ロシアは赤色.
 台湾は中国ではないという証明になってしまう.
 しかもロシア,小笠原と中国が同じ色.
 つまり,色は国境で分けてるわけではない.

軍事板,2010/09/30(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 尖閣諸島が日本の領有となったのは,いつからか?

 【回答】
 明治時代に入ってから.
 日本政府は1885年以来,沖縄県当局を通じるなどの方法で,尖閣諸島の調査を行い,慎重に見極めた結果,この諸島が清国に所属する証跡がないと判断.
 1895年1月,閣議決定により,魚釣り島および久場島を沖縄県の所轄とし,標杭を建てることを決めた.
 1896年,魚釣島など4島が,民間人に貸し下げられ(後に有料で払い下げ),これらの島では,羽毛採取や鰹節製造などの事業が営まれた.
 1896年4月,沖縄県に郡制が志向されると,両島は間もなく八重山郡に編入され,北小島,南小島と共に国有地に指定された.
 久米赤島(赤尾嶼)については,上記の措置は遅れたが,1921年に国有地に指定され,大正島と改称された.
 こうした民間人に対する措置,調査活動,海難救助などを通じ,日本政府は尖閣諸島を実効支配した.

 【参考ページ】
太寿堂鼎『領土帰属の国際法』(東信堂,1998.8.28),p.202

【ぐんじさんぎょう】,2012/09/29 20:50
を加筆改修


 【質問】
 古賀辰四郎って誰?

 【回答】
 古賀辰四郎(こが・たつしろう,1856.2.23~1918.8.15)は,福岡県八女郡山内村※生まれの商店主.
 1896年より,尖閣諸島八島のうち魚釣島,久場島,南小島,北小島の四島を明治政府から30年間無料で借受け,開拓事業に従事.
 1909年,養殖興業の功績を認められ藍綬褒章を受けた.
 その後,島の開拓は,辰四郎の子,古賀善次が引き継ぎ,全盛期には200人を超える人たちが,魚釣島に居住して産業開発に努めた.

※ ウィキペディアでは「山田村」とされているが,古賀と同郷の人物の証言によれば,山内村が正しいという.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%BE%B0%E5%9B%9B%E9%83%8E
http://senkakusyashintizu.web.fc2.com/page053.html
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/2a13san1108-koga/
http://senkakujapan.jugem.jp/?eid=89
http://www.seinensya.org/undo/ryodo/senkakushoto/070426history.htm

【ぐんじさんぎょう】,2011/02/25 21:10
を加筆改修


 【質問】
 日本による尖閣の領有権確定は,「日清戦争の結果の下関条約」によるもの?


 【回答】
 全く事実に反する.
 下関条約には,尖閣諸島の帰属についての何の記述もない.
 尖閣諸島を日本の領土に編入する閣議決定こそ,日清戦争終結直後の1895年に行われたものだが,実地測量はその10年も前の1885年から始められている.
 勿論この閣議決定は,下関条約とは関係がない.

 では,なぜこのような虚言が流布されるのか?
 それは中国の宣伝戦略に起因する.
 中国は,日本による尖閣諸島の領土編入が,「帝国主義的な膨張」の一環であるかのように印象付けたいのだという.
 以下引用.

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尖閣を巡るPR合戦をどう戦えば良いのか?  冷泉彰彦(作家・ジャーナリスト)
ニューズウィーク日本版2012年10月3日(水)11時49分,

 それにしても,先週末にニューヨーク・タイムズに掲載された尖閣諸島領有権に関わる中国側の広告はインパクトがありました.
 この新聞はカネさえ払えば,テロリストに近い筋の主張から何から何でも掲載するのですが,それにしても2面見開きで買い付けるというのは異例です.
 そこに巨大な魚釣島のカラー写真が掲載されているのですから,ビジュアル的にも大変に目立つ広告でした.

 問題は,この広告が相当な「効果」があったようだという点です.
 例えば,アメリカの公立高校に通っている日本人の生徒によれば,普段は親日的なアメリカ人の生徒(複数)から,
「あの広告の主張は本当なのか?
 尖閣は日本のものと思っていたが,中国の主張にも一理あるようだ」
と言われたそうです.

 とにかく,PRに力を入れて,最後には米国世論を中国の味方とまでは行かなくても,日本の味方はさせないようにという,かなり強固な意図を感じます.
 そして,今回のものはある程度の効果を挙げていると言わざるを得ないのです.

 何が問題なのでしょうか?
 カネに糸目をつけない,2面見開きでのカラー広告という戦術でしょうか?
 そうではないのです.

 問題は,この広告の中で,あるいは同時期のLAタイムスの誤報もそうですが,日本による尖閣の領有権確定が,「日清戦争の結果の下関条約」によるものだという情報操作があることです.

 どうしてこの情報操作が問題なのかというと,日本国内では実感は薄いかもしれませんが,世界の中では「旧日本の帝国主義」というのは世界史の中では悪玉であり,その「帝国主義的な膨張」の一貫だということになると,尖閣の領有権に関しては日本の味方をする気が「失せて」しまうからです.

 ちなみに,帝国主義的な膨張というのは欧米列強も散々やったわけですが,どうして日本だけが悪玉になっているのかということには,2つの理由があります.
 1つは,帝国主義の最たるものであるナチスドイツとの同盟で最後の世界大戦を終盤は一国で戦ったこと.
 そしてもう1つは,その帝国主義的な戦争を行った「国体(国のかたち)」を護持したためです.

 ですから,中国としては,尖閣諸島の領有権確定を「日本の帝国主義」に結びつけ,それに日本が反発すれば,「現代の日本の主張は現在形での帝国主義である」というデタラメな批判が可能になるという,全く身勝手なロジックを持っているわけです.
------------

 【参考ページ】
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.72-74

【ぐんじさんぎょう】,2012/12/10 20:40
を加筆改修



 【反論】
 日清戦争に先立つこと9年前の1885年,明治政府は尖閣諸島に国標を建設することを,「清国ノ猜疑ヲ招ク」として見送っている.
 また,1894年12月に内務省より外務省へ出された,国標建設に関する協議文書の中には,
「其ノ当時ト今日トハ事情モ相違ニ付キ」
という一文があり,これは清国との関係の変化のことだとも考えられる.
 つまり明治政府は,尖閣諸島を完全な無主地とは認識しておらず,清国の影響が及んでいると考えており,戦争に勝ったという,清国との関係が最も有利になるタイミングを図って,日本領土に編入したのではないか?

 【再反論】
 編者の私見だが,明治政府の判断は,リアルな国際関係の現実を判断したものに過ぎないと思う.

 もうみんな忘れ去っているかのようだが,日清戦争前の清国は,東洋一の大国だった.
 日清戦争に日本が勝てたのも,清国ではこれを李鴻章の私戦と認識し,他の軍閥がそっぽを向いていたからであって,清軍が全兵力で戦っていたなら,勝敗はどうなっていたか分からない.
 西太后が建造費を横領し(異説もあるが)なかったなら,北洋艦隊はさらに強大になっていたはずで,そうなっていたら黄海海戦に勝てたかどうかも分からない.

 しかも,チベット問題などに見られるように今もそうだが,中国は決して国際ルールを遵守するような国ではない.
 このことは明治政府も,長崎事件における清国水兵の乱暴狼藉,およびこの事件に対して謝罪しない清国の姿勢を見て,身に染みていたに違いない.

 ゆえに,いかに日本側に理があっても,それをネタに清国の猜疑を招いて,紛争になるような事態は避けようと考えるのも当然であろう.
 隣の無法者が少しおとなしくなったので,それを機会に,垣根近くにある自分の財産を回収した――1895年の領土編入は,いわばそんな感じだろう.

 【参考ページ】
『竹島・尖閣諸島の本』(宝島社,2005.11.25),p.72-74



 【質問】
 中国の,反帝国主義感情と尖閣問題を結びつけるプロパガンダに,日本はどう対抗したら良いの?

 【回答】
 冷泉彰彦は,事実関係をしっかり認識することが肝要だと述べている.
 以下引用.
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尖閣を巡るPR合戦をどう戦えば良いのか?  冷泉彰彦(作家・ジャーナリスト)
ニューズウィーク日本版2012年10月3日(水)11時49分,

 これに対抗するためには,まず尖閣諸島の領有権確定は,下関条約(1895年5月)とは全く無関係であり,1879年の沖縄県設置後に同県による調査後,県政整備の一貫として1895年1月に領有権の宣言に至っているという経緯を確認することが必要です.
 また,この1879年の沖縄県設置という問題を「琉球処分」という名称で,日本の帝国主義的な行動の1つであるようなニュアンスで捉えることが,自分の正義感なり,自尊心の満足になるという考え方があります.これは,沖縄=琉球というのが,実に平和的な「国のかたち」を持っており,それを尊重したいという気持ちの現れとして,一定の理解は可能という時代が続いていました.

 ですが,今回のPR合戦にも見られるように,中国がある事ないこと取り混ぜて攻勢をかけて来ている中では,沖縄県設置という事件は,50~60年代の激しい祖国復帰運動の結果としての,現在の沖縄の安定的な形での日本への帰属へ続く文脈で理解すべきでしょう.

 もう1つは,日本の「国体(国のかたち)」についてです.戦争集結にあたって,国体の連続性はあるにしても,その後の長い戦後という時間を通じて日本の国体は帝国主義的な歪みから修復されているという点です.このことは,日本の官民が合わせて胸を張って良いわけで,現在形で日本が自国の領土の保全を図ることは帝国主義でも何でもないのです.

 こうした3点,尖閣諸島の領有権確定が下関条約とは全く無関係であること,沖縄県設置という事件は現代から遡って考えれば帝国主義的な行動ではないこと,そもそも現代の日本の国体(国のかたち)は帝国主義的な歪みから完全に修復されているということ,これら3点をしっかり確認することが肝要と思います.

 この3つの問題に「ぐらつき」があっては,どんなに派手な広告を米紙に出して対抗しても,相手の思う壺ということになる,ここは大切な局面であると思います.
------------
 ただ,こうした意見で一つ問題なのは,幾ら日本人が正しい認識を持っていたとしても,そのことが国際世論を正しく導くことには直結しないという点.
 まず,日本人の考え方を世界に伝達する有効な報道機関が,日本には存在しない.
 かといって,NHKを国営化するなり,国営放送を新たに作るなりしたところで,現状を鑑みるに,単なる天下り機関としかならない可能性が高く,全く悩ましいところ.

 【質問】
 日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で,尖閣諸島の領有権を放棄したのではないのか?

 【回答】
 そのようなことは決してない.
 日本が同条約第2条(b)により,全ての権利を放棄したのは台湾と澎湖諸島であり,尖閣諸島は台湾には含まれていない.
 1895年の下関条約により,日本に割譲されるまで,清国が統治していた台湾の北端は,鶏籠嶼(今の基隆嶼)とされていたからである.
 また,同年の閣議決定により,正式に日本が尖閣諸島を領有して以来,同諸島は沖縄県の所轄であって,日本の植民地時代の台湾も,尖閣諸島をその一部に含んでいたような事実は存在していないからである.

 【参考ページ】
太寿堂鼎『領土帰属の国際法』(東信堂,1998.8.28),p.202-203

【ぐんじさんぎょう】,2012/10/03 20:50
を加筆改修


 【質問】
 尖閣諸島領有権を中国が主張し始めたのは,いつからか?

 【回答】
 公的には1971年になってからで,先ず中華民国(台湾),次いで中国共産党政府が,尖閣諸島を自国領とする見解を表明し,沖縄の日本復帰に際して,尖閣諸島もが日本に復帰することに抗議した.
 何故そんなことを言い出したかといえば,1968年秋,日本・中華民国・韓国の専門家が中心となり,国連アジア極東経済委員会の協力を得て行われた学術調査の結果,東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性のあることが指摘されたため.
 これにより,尖閣諸島が中国側の関心を惹くことになり,1970年に,尖閣諸島を中国領とする議論が起こった.

 要するに中国の領有権主張は,資源獲得が目的であることが明白であって,歴史的経緯だの何だのは後付けの理屈に過ぎない.

 【参考ページ】
太寿堂鼎『領土帰属の国際法』(東信堂,1998.8.28),p.202-203

【ぐんじさんぎょう】,2012/10/02 20:50
を加筆改修


 【質問】
 尖閣諸島を巡る中国の態度の変遷を教えてください.

 【回答】
1953年(昭和28年)1月8日:
 中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が,
「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」
と題した記事を掲載.
 尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し,琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介する.

1958年(昭和33年)11月:
 北京の地図出版社,『世界地図集』発行.
 尖閣諸島を日本領として扱い,「尖閣群島」と日本名で表記.

1965年(昭和40年)10月:
 中華民国国防研究院,『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版.
 尖閣諸島を日本領として扱い,「尖閣群島」と日本名で表記.

1970年(昭和45年)1月:
 中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」(1970年1月初版)において,尖閣諸島は日本領として扱われ,「尖閣群島」という日本名で表記されている.

 1969年~70年に行なわれた国連による海洋調査で,推定1095億バレルという,イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告される

1971年12月30日:
 中華人民共和国が外交部声明という形で,尖閣諸島の領有権を主張.

 中国は1971年以前,領有権を主張したことない.

2010年
 「中国指導部は,尖閣諸島など東シナ海の領土・領海問題を,台湾,チベット,新疆問題と同じ「核心的国家利益」と位置付けた」と報じられる.
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101002-00000074-jij-int

軍事板,2010/09/23(木)
青文字:加筆改修部分


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