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冬の北海道
(画像掲示板より引用)
「Close To The Wall」■(2010-04-26)[本]小笠原信之 - アイヌ近現代史読本
『アイヌ史の時代へ (北大アイヌ・先住民研究センター叢書3)』(佐々木利和著,北海道大学出版会,2013/6/5)
『アイヌと松前の政治文化論 境界と民族 歴史科学叢書』(菊池 勇夫著,校倉書房,2013.5)
『先住民族の「近代史」 植民地主義を超えるために』(上村英明著,平凡社,2001/04)
アイヌに関する文献を読んでいて,参考文献として挙げられていたので読んだ本.
先住民族の領域が国家に組み込まれる(=植民地化される)中でどのような事が起きたか,彼らは国家からどのように扱われたか,という内容.
前半はアイヌなど日本の,後半は世界の先住民族が対象となっている.
アイヌは「未開人」との眼差しを注がれ続けた.
アイヌ語研究の泰斗金田一京助ですら,アイヌが「日本」に同化する事を当然視していた事からも,それは窺えるだろう.
人類館事件は有名だが,オリンピックと同時に行われた「先住民族スポーツ大会」の事は,あまり知られていないように思う.
セント・ルイスで行われたそれにはアイヌも参加し,他の多くの先住民族と同じく「見せ物」にされた.
それを扱うのが第1章「近代オリンピックと先住民族――文化とスポーツの国際化と民族差別」だ.
第2章「アイヌ民族と『日本人』の極地探検――先住民族の『遺産(知的所有権)』とその収奪の歴史」では,白瀬の南極探検に協力した樺太アイヌを扱い,先住民族の知的蓄積が帝国主義に利用されていく過程を追う.
先住民族の蓄積は,世界各地で利用されていながら,その正当な対価を彼らは得てこなかった.
アイヌと並び,沖縄人も先住民族と定義付けをする事ができる.
第3章「近代国家日本と『北海道』『沖縄』の植民地化――アジアにおける『先住民族』形成の一事例」では,アイヌモシリと琉球がどのような論理で,「日本」に併合されたかを扱う.
幕府や明治政府が対外的に主張した論理は,冊封体制と呼ばれる東アジアの国際秩序体系をなぞったものだった
(例えば,ロシアに対しては,アイヌが日本に対し「朝貢」しており,それゆえに日本の属民である,との論理が組み立てられた).
第4章「大規模『水銀中毒』と先住民――技術革新と経済成長,そして環境破壊と人権侵害」では,南米が植民地化された後,ポトシなどの鉱山開発によって有毒物質が垂れ流され,深刻な被害を先住民社会にもたらした事を取り上げる.
水俣病の何世紀も前に,このような問題は起きていたのだ.
技術革新の裏には,公害病で苦しむ名も無き先住民族がいた.
周知の通り,アメリカ合衆国はネイティヴ・アメリカンを迫害した.
だがアメリカは彼らを迫害しただけでなく,彼らから政治体制を学んでもいた.
第5章「『合州国』と『国際連合』を生み出した先住民族――先住民族の政治的知恵としての『連邦制』」では,アメリカの建国が先住民族によるイロクォイ連合にヒントを得たものである事が扱われる.
アメリカの先住民族は,今でも広範な自治権を持ち(独自のパスポートを発行している民族さえある),独自の社会を維持している.
翻ってわが国ではどうだろうか,と考えてしまう.
第6章「核開発と先住民族の『核植民地化』――核開発を可能にした民族差別の構造」では,ウラン鉱山や核実験場の立地が,先住民族の土地に集中している現状.
核開発は,多くの先住民族の犠牲の上に成り立っている現状を告発する.
ビキニ環礁での水爆実験は有名だが,その他にも多くの核開発が先住民族の土地を収奪して行われ,多くの被害者をうんだ
(アメリカはネイティヴ・アメリカンの,イギリスはアボリジニの,フランスはポリネシア人の,ロシアはネネツ人やチュクチ人の,中国はウイグル人の土地を実験に利用した).
著者はそれを「核のレイシズム」と呼び,弾劾する.
本書はその題の通り,先住民族の辿った近代史とはどのようなものだっかかを素描している.
彼らは劣位に置かれ,権利を奪われ,近年になってようやくその声が世界に響くようになってきた.
無論,声をあげる事もできずに消滅してしまった民族もある.
先住民族問題は,帝国主義と国民国家の生み出した近代的な問題である.
それゆえ,その問題は国民国家の相対化という視点から語られる必要があろう.
だがナショナリズム論の多くは,構築主義の立場に立つものではあっても,著者が指摘するように優位にある民族のそれを俎上に上げるだけで(アンダーソンなど),先住民族についてあまり触れてこなかった.
先住民族問題について考える時には,彼らの辿った苦難の歩みに思いを馳せない訳にはいかない.
本書はその点で,先住民族について考える上で必携のテキストだろうと思う.
――――――「ストパン」■(2008-11-09)[読書][民族][歴史]近代的問題としての先住民族問題
『北方探検記 元和年間に於ける外国人の蝦夷報告書』(H.チースリク編,吉川弘文館,1962年)
最近,必要があって読んだが,なかなかおもしろかったので紹介したい.
江戸時代初期,江戸幕府がキリスト教禁止政策を採ったにもかかわらず,果敢にも日本国内に潜入し,布教活動を行い,遂には殉教したイエズス会宣教師がいた.
ジェロニモ・デ・アンジェリス神父とディエゴ・カルワーリュ神父である.
彼らが日本,特に東北地方や当時蝦夷地と呼ばれた北海道を探検し,イエズス会に報告した報告書が,イエズス会本部に保管されていることが,昭和時代に聖心女子大学のH.チースリク氏によって発見された.
それを全文翻訳し,解説したものが本書である.
江戸時代初期の東北地方・北海道地方について書かれた史料は,日本国内には意外に少なく,外国人の目から見た当時の同地方を記述した貴重な史料となっている.
北方史的には,松前の殿様が宣教師に,
「天下(徳川将軍)はキリスト教を禁止したが,松前は日本ではないので,自由に布教してよろしい」
と述べたことが,当時の国家意識を物語る記述として注目されてきたそうである.
もちろん,アイヌ民族の文化や風習についても記述されている.
それ以外にも,南部と伊達がむちゃくちゃ仲が悪く,布教に比較的寛容であった伊達政宗が,南部の幕府への讒言で失脚しないよう,宣教師たちが配慮し,南部領内での布教を敢えて避けたとか,佐竹義宣の妻がキリシタンで,夫から棄教を迫られて拒絶して激怒されたとか,大名の名が「佐竹右京大夫殿」とか「津軽越中殿」などと記されているのに,伊達政宗と上杉景勝だけがなぜか,「政宗」「景勝」と下の名で呼び捨てにされているとか,興味深い記述がたくさんあった.
ちなみに宣教師たちは,日本語とポルトガル語をごちゃまぜにした言葉を話していたようで,報告書にも日本語の単語をたくさん,そのまま書いているそうである.
しかし,私がいちばん感動したのは,宣教師たちがいかなる困難をものともせずに,果敢に布教活動を行っていることである.
そもそもまず,日本に行くのにものすごく苦労している.
シチリア島出身のアンジェリスは,ジェノヴァからリスボンに行き,そこでインド行きの船に乗ったが,喜望峰で暴風雨に遭い,九死に一生を得ている.
しかも,その後イギリス軍に見つかり交戦,降伏し,捕虜としてイギリス本国まで連行されたりしている.
それでもアンジェリスはあきらめずに,日本を目指し,遂に到着したのである.
ちなみにマカオで1年以上滞在し,日本語を学んでいる.
日本に着いてからも苦難の連続である.
徳川家康が最高権力者であった時代には,表向きはキリスト教は禁止であったが,実際は事実上黙認で,家康の居城静岡にも布教所があったほどである.
だから来日当初は,布教は比較的順調であった.
しかし,家康の最晩年に禁教方針は強化・徹底される.
その後は,すさまじい貧困と闘いながら,鉱夫や商人などに変装し,日本人信者の助力を得て,日本国内で潜伏活動をする.
奥羽山脈を越えるときは,関所を避けるため,真冬の大雪が積もった,道のない道を命がけで徒歩で越えた.
禁教方針が強化されたとき,外国人宣教師は全員国外追放となったので,それに従って国外に退去すれば,少なくとも殺害されることはなかった.
しかし,アンジェリスは日本にとどまることを決意する.
カルワーリュは一度国外に出たものの,すぐにまた日本に戻ってくる.
そして2人とも,最後には遂に逮捕され,処刑されるのである.
アンジェリスは江戸で火刑に処せられる.
カルワーリュは仙台で捕らえられ,真冬の広瀬川に裸でつけられるという,残虐な方法で処刑される.
死体はバラバラにされて川に流されたが,首だけは残され,今でも信者が大切に保存しているそうである.
外国との貿易を重視する伊達政宗は,前述したように当初はキリシタンに寛容だったが,幕府の弾圧が強化されるに伴い,自領でも弾圧を開始したのである.
彼らをそこまで駆り立てた情熱は,何なのであろうか?
キリスト教に対する篤い信仰なのだろうか?
それとも,日本という国を深く愛していたのだろうか?
私は,彼らの不屈の闘志に感動を覚えるのである.
――――――「新はむはむの煩悩」,2010年11 月29日 (月)
【質問】
シャクシャインの戦いにおける,アイヌ軍の編成,武器,兵糧について教えてください.
どこを見ても詳しい資料がありません.
どなたかアイヌ史に詳しい方お願いします.
【回答】
アイヌ自身が文字を持ってなかったので,詳しい文献は残ってません.
松前藩の兵士が毒矢や山岳戦で苦戦した記録があるだけです.
まあアイヌは狩猟民族ですから,狩りの為の道具や狩猟チームがそのまま戦闘に応用できました.
逆に統一国家を持てなかったので,アイヌ軍は諸族連合にすぎず,大和側の工作であっさり協力が瓦解したりします.
この辺の事情は,アイヌより早く同化された蝦夷達の記録からもうかがえます.
モッティ ◆xH11P.V9Ag in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
帝政ロシアによるアイヌ人統治の歴史について教えられたし.
【回答】
さて,今日からはまたアイヌの話に….
と言っても,北海道のアイヌでは無く,千島のアイヌの話です.
16世紀末に東進を始めたロシア人は,17世紀末までにシベリアとカムチャツカに到達します.
その目的は,大航海時代のポルトガルやスペイン人と同じで,両国の人間が,新世界を目指し,香料を得ようとすると共にカソリックの支配圏を拡げようとしたのに対し,ロシア人は,欧州との交易の為に,毛皮を獲得するのが第1の目的であり,第2の目的は,自国の支配権を拡げると共に,ロシア正教の普及にありました.
そう言う意味では,大航海時代の両国と大して変わらなかったりします.
それが海から行くか,陸から行くかの違いだけです.
シベリア,カムチャツカに住んでいた先住民のキリスト教化政策の基礎は,彼らをロシア文化に併合し,同化させることにありました.
つまり,先住民が信仰していた異教を排除すると共に,多民族の習慣や生活様式をロシア様式に統一し,心の底からロシア人としてしまおうと言うものです.
そう言う意味では,スペイン人やポルトガル人よりも徹底していたと言えます.
この様に,東へ東へと進み,18世紀初頭にロシア人は千島列島に辿り着きました.
東方に進出したロシア人は商人,狩猟家,シベリア及びカムチャツカの様々な町で集められた農夫,そしてその中には懲役刑や流罪に処せられた人々も勿論いました.
こうした人々はキャラバンを組んで,東に向かったのですが,キャラバンを統率する為の航海者や先導者の他,発見した諸地域に関する情報を集め,その地域からヤサークを取り立てる為にコサックが1〜2名同行していました.
ロシア人の東進中に,狩猟で得た毛皮は税の形で,国庫に大きな収益を齎し,発見された諸地域の先住民から取り立てたヤサークも,国庫の収入源となったからです.
帝政ロシアでは政府も,この動きを後押ししていました.
これは,先住民をロシアの支配下に置けば,ロシア帝国の領土が拡大されていく為に他なりません.
女帝のヨアンノヴナは,1733年9月20日付の布告で,次のように書いています.
――――――
国庫に負担を掛けず,商人,狩猟家は遠方への道を自ら探し出した方が良い.
カムチャツカ等,以前に未知で会った地域はこの様に商人,狩猟家の御陰で発見されたのだから.
――――――
こうして毛皮獣の狩猟を推進するよう,プリエンシチェエフ知事に訓令しました.
但し啓蒙君主らしく,先住民と接触する際には彼らを虐待せず,親切に扱うようにと言う警告を出しています.
ロシア人は東進を続け,1697年にはカムチャツカに達しました.
「カムチャツカの征服者」と呼ばれたアトラーソフは,コサック隊と共にロパトカ岬に達し,そこから千島列島を望見し,同地のカムチャダールからこの島々に関する事情を聞きました.
また,アトラーソフは東進の際,ユカギール,コリヤーク,カムチャダール等の先住民から,ヤサークとして多数の猟虎,黒貂,狐などの貴重な毛皮を取り立て,極東に商人の関心を起こさせると共に,カムチャダール集落で捕虜となっていた,日本人漂着者の伝兵衛と言う人物と面会を果たしています.
この伝兵衛はモスクワに連れて行かれ,1702年にはピョートルI世に謁見しました.
ロシア人には道で会った日本及び日本と,カムチャツカの中間にある島々についての伝兵衛からの報告は,ピョートル1世に日本との交易に関心を持たせ,シベリア当局に対し,日本に至る航路の探索と千島列島に関する情報を集める切っ掛けになりました.
その後,ロシア人は毛皮を求めながらカムチャツカを経由し,日本への道を探り,千島の存在を確かめることに務めました.
しかし,先住民であるカムチャダールの抵抗を受け,千島列島に渡航するまでにはそれから数年の歳月を要することになります.
ロシア人による千島列島の実際の征服と探究は,1711年から開始されました.
1711年,アンツィフェロフとコズィレフスキーを首領とするコサック隊が,千島列島の最北端にあるシムシュ島と2つ目の島であるパラムシル島に足を踏み入れました.
彼らの千島遠征の目的は,ヤサークの徴収により島民をロシアの支配下に置くことであり,島民の習慣,来島する人に対する彼らの反応,島の自然環境についての情報を得ることでもありました.
アンツィフェロフ等は先ずシムシュ島に赴きますが,この島には千島アイヌの他,ロシア人からの迫害を逃れる為に渡島したカムチャダールが居住すると言う事を確認したものの,ヤサーク徴収の目的は,彼らの方が大勢で,余りにもアンツィフェロフ等が無勢だった為に叛乱を起こされて目的を達成できず,這々の体で帰るしか有りませんでした.
1713年,コズィレフスキーは再び同じ目的で,コサック隊と共にシムシュ島とパラムシル島に到着しました.
島民は今回もロシア人と交戦しましたが,ヤサークの取り立てについては成功を収め,また,千島の他島並びに千島アイヌの日本人との物々交換に関しての情報を得ることが出来ました.
最初,ロシア人は北千島4島の千島アイヌにだけヤサークを課しました.
狩猟が出来る千島アイヌだけで無く,ロシア人は出会った全員から主に猟虎を中心とする各種の毛皮を取り立てたのです.
ロシア人はヤサークを支払った者の姓名を記録し,受取証を手渡しました.
この形態は1731年まで続き,1731年以降はシベリア当局の命令で,ヤサークの数量が決定され,1人に付き毛皮1枚と制限されるようになりました.
毎年交代した徴税人はヤサークの新支払人の名を書き加えましたが,島を去ったり死亡した人物の姓名を削除しなかった為,結果的には記録された納税義務者の人数が増加したにも関わらず,納税額が増えていませんでした.
これに対しシベリア当局は,徴税人の活動に不満を抱き,もっと積極的な対策を講じることにするよう請求しました.
その為,ロシア人はヤサークの徴収を強化し,北千島を去った人間の分も残留者から求めるようになったのです.
しかしながら,この政策は逆効果でした.
ヤサークの支払いは島に留まった人々の負担になりましたが,未納税額は絶えず徐々に増加しました.
そこで,ロシア人は死者の分も要求し始めることになり,更に自分の安全を保障する為に,千島アイヌを人質に取る制度を導入し始めました.
当然,これに対する抵抗が始まります.
ヤサークを支払う為の十分な獲物が北千島にいないと言って,狩猟にかこつけ,ロシア人が未だ渡来していない南の千島に移住し始めたのです.
彼らはロシア人から「逃散人」と称されました.
彼らは第2島のパラムシル島を去り,第7島のシャシコタン島から第9島チリンコタン島までに逃れ,更にそれ以南,主に第14島のウシシル島にまで逃れました.
チリンコタン島までの逃散人は偶に,ヤサークを支払いにパラムシル島に帰っていましたが,それより南の島に移住した逃散人は北千島に戻らず,ヤサークの支払いを止めました.
こうして,ヤサークの支払いが滞った事は,逆に南千島に対するロシア人の興味を惹くことになり,次第に千島列島を南下し始めます.
そして,逃散人を追いかけて,ヤサークの取り立てをして千島アイヌをロシアの支配下に置こうと努めた訳です.
再びロシア人は,千島列島を南方に進行する際に,出会った千島アイヌ全員の名を記し,既にヤサークを課している島民からも毛皮を徴収しました.
こうした二重課税のパターンは非常に多く,1734年にノヴォグラブリェンニイに依ってロシアに従属させられ,ヤサークが課せられた第5島オンネコタン島から第9島チリンコタン島までの千島アイヌの大部分は,ヤサークの支払いを終えて出稼ぎに来た第2島パラムシル島の人々だったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/23 23:46
青文字:加筆改修部分
帝政ロシアでは先住民の統治手段として用いた方法は,先住民の首長を利用しての先住民の間接支配でした.
千島でも,千島列島を管轄したボルシェレツク当局が,首長ストロージェフ・ニコライに島回りをさせて,逃散人を北千島に帰島させることと,南千島に居住していた島民をロシア支配下に置くことを司令しています.
ストロージェフは,逃散人を連れ戻すのには成功しませんでしたが,「千島アイヌを説得する為には彼らに貢ぎ物を与え,相応しい人を首長として任命すれば,彼らを従属させるのは困難では無い.但し,彼らにはロシア人が彼らを人質に取らない事を保障する必要がある」という報告を当局に寄せています.
1755年には,ストロージェフに代って,商人レビエヂエフ・ラストチキン,シェリホフと通訳アンチピンが千島列島に派遣されました.
今回の課題は千島列島の自然環境と島民の習慣を調査し,日本人との接触に当たって,彼らがどの様なロシアの文物を好むのか,これらの交換で,日本のどんなものが手に入るのか,如何に日本に関する情報を集めるかであり,副次的な任務として,どの国の支配下にも置かれていない島民をロシアの支配下に置き,出会った逃散人からヤサークを取り立て,彼らを北千島に帰すことも指示されていました.
ただ,逃散人がパラムシル島に帰るのを望まない場合はそれを強制しないことになっていました.
更に,千島アイヌと接触する場合は,彼らに貢ぎ物を提供し,暴力による要求をしてはいけないとも厳命されていました.
ラストチキン等の一行は,前任者と同様に逃散人を北千島に連れ戻すには失敗しましたが,南千島の4島に住む蝦夷アイヌ1,500名からヤサークを徴収し,彼らをロシアの支配下に置きました.
1761年にはソイモノフ・シベリア知事が,ヤサークとして徴収されている毛皮の種類と枚数,ヤサークを支払っている千島アイヌの数,彼らの職業を調査するように命じました.
また,その他にどの様な方法で南千島の島民をロシアの支配下に置くことが出来るかと言うことに関心を持ちました.
この課題を果たすことをボルシェレツク当局から委任されたのが,カムチャツカの首長であったブチン・ヤコヴとパラムシル島の首長であるチキン・ノヴォグラブリェンニイの2名でしたが,千島列島の第7島であるシャシコタン島にまで南下したにも関わらず,島民から情報を得ることはおろか,ヤサークを取り立てることも出来ませんでした.
1766年にブチンが死んだ後,チキンはボルシェレツク当局によって再び南千島に渡航しました.
チキンの同行者としては,シムシュ島の首長チュプロフ及びコサック・チェルニィがいました.
今回は前回と異なり,千島列島を南下し,そこに居住する島民に対する乱暴な行動や不正を行わず,彼らを懐柔しながら説得してロシアの支配下に置くことになっていました.
また,パラムシル島の女子を含めた63名の逃散人をパラムシル島に帰らせ,毛皮や品物の形でヤサークを徴収するものの,必要以上の徴収はしないこと,また,彼らには貢ぎ物を渡して懐柔することが指示されました.
更に,千島アイヌと他民族との交易,彼らの習慣,宗教,生活様式,性格,衣装,彼らが所有する武器,千島の資源,特に銀鉱や金鉱,真珠の調査並びに彼らが居住する島に日本人が渡るかどうかを確認することも指示されました.
チキンの仲間は千島列島に到着した後,命令通りに千島アイヌの人口を調査します.
その結果,1766年時点で第1島シムシュ島,第2島パラムシル島,第14島ウシシリ島に居住していた千島アイヌ262名の内,121名からヤサークを徴収することになりました.
当時,第18島である得撫島まで南下したチキン等は,同島の千島アイヌからヤサークとして猟虎の毛皮4枚並びに狐の毛皮5枚を徴収することにも成功しました.
しかし,彼らを懐柔するのに長けていたチキンが此処で急死し,その後チュプロフとチェルニィが探検隊の責任者となります.
チェルニィは狡猾で獰猛な人物で,渡航した島で出会った逃散人は尽く逮捕し,小屋を作り,チェルニィの犬に餌をやる為に海獣の狩猟を強いられました.
罪を犯した逃散人は,刑罰として革紐で縛られました.
1768年,チェルニィは第19島の択捉島まで南下し,そこに居住した蝦夷アイヌをロシアの支配下に置くことに成功します.
しかも,同島の首長は第19島の択捉島より南方にある大きな島,つまり蝦夷ヶ島までの蝦夷アイヌをロシアの支配下に置くことに協力する事をチェルニィに約束しました.
このまま行けば,今頃,北海道はロシア領になっていたかも知れません.
ところが,チェルニィは先述の通り,狡猾且つ獰猛な人物でした.
1769年の春,チェルニィは第18島得撫島を去った後,北上し始めました.
第16島のシムシル島に到着した時,彼の横暴さに恐怖を抱いた逃散人は,パラムシル島に帰ることを拒絶します.
逃散人は南千島に留まることを許されたらヤサークを支払い,ロシア人が親切に扱ってくれたら後に北千島に戻ることをチェルニィに約束しました.
しかしながら,チェルニィはその申し入れを拒否し,彼らを強制的に第14島ウンシル島に連れて行きました.
同島でも彼らは再び解放を哀願しますが,チェルニィは相変わらず拒否した上,一番頑固な者に対して身体刑を執行し始めました.
彼らは同族の女子2名が後ろ手に縛られているのを見て,恐怖の余り,ある者は断崖に逃げ,又ある者は船で海に逃れました.
逃れるのが間に合わなかった女子は殺され,男子6名が連れて行かれました.
手をきつく縛られた結果,1名が船で死亡し,その死骸は「ロシアではこの様に扱う」と言いながら,海に投げました.
生き残った者達は,第5島オンネコタン島まで北上させられ,昼は船を漕がされ,夜は足を縛られました.
彼らが解放されたのは,オンネコタン島でのことですが,彼らはチェルニィが行った残酷な行為には口を閉ざすと言う事を宣誓させられています.
3年に亘るチェルニィの巡航の結果は,ヤサークとして徴収された猟虎の毛皮600枚,大量の熊,狐の毛皮ですが,逃散人を北千島に帰すことは相変わらず失敗しました.
その上,チェルニィが島民を乱暴に扱った結果,彼らはロシア人に対する憎悪の念を抱き始め,ロシア人とその手先との接触を避けることになります.
1770年には猟虎の狩猟の為,ヤクーツクの商人プロトジヤコノフが千島列島に渡航しました.
この一行はチェルニィよりも乱暴で,第18島得撫島で越冬した際,千島アイヌから食糧や日本製の様々な物品を略奪し,彼らを脅迫して,ヤサークの支払いを要求しました.
これにはアイヌ側も流石に立腹し,1771年と1772年に逃散人と蝦夷アイヌの連合軍が,プロトジヤコノフの仲間22名を殺害しました.
プロトジヤコノフは這々の体で逃げ帰りますが,それでも猟虎の毛皮215枚を持って帰っています.
1778年にも再び南千島の蝦夷アイヌをロシアに服属させ,日本人との目的を試みるという目的で,シャバリンが千島列島に渡航しました.
今度は懐柔の方が中心で,これにより択捉島のアイヌ47名をロシアに服属させることが出来ました.
この様に,ロシアでは狩猟家,商人,コサックとその影響下に置いた先住民の首長が,入れ替り立ち替り千島にやって来た訳ですが,急速に拡大したロシア帝国としては,征服された地域を巡視する困難や,先住民を酷使した結果,周辺地域の離反が強まり,1779年にはエカテリーナII世が,既に支配下に置いた千島列島の島民からのヤサークの徴収を中止し,今後は彼らに強制せずに,寧ろお互いの物々交換や狩猟の利益の為に友好的な関係を維持することを命じています.
しかし,この命令は末端まで実施されず,ヤサークは絶えずカムチャツカ当局に徴収されていたのです.
1812年の調査では,千島アイヌが当時払っていたヤサーク高は,猟虎の毛皮41枚,狐の毛皮23枚です.
これは露米会社が千島列島で植民地を設立し始めた頃に明らかになりました.
そこで,露米会社当局はヤサークの不法徴収を中止させる為,大蔵大臣に文書を出しました.
ヤサーク中止の理由としては,ヤサーク高が余りに少なく,これを徴収するのに千島列島に管理を派遣するのは国庫負担であり,露米会社の活動と千島アイヌの自由を束縛すると言うことを挙げています.
なお,ロシア人は千島アイヌからのヤサーク取り立て中止により,アイヌが日本との貿易で仲介者の役割を果たすことを期待し,日本の港の開放に繋がるのでは無いかと言う期待を持っていました.
情報を受けた大蔵大臣は,イルクーツク当局に説明を求めます.
その報告書により,千島列島では相変わらずヤサークの徴収が続いていることが判明しました.
千島列島のロシアに近い3つの島に住む千島アイヌ51名は,268ルーブル40コペイカのヤサークを支払っていたのです.
大蔵大臣は,1830年9月に千島アイヌのヤサーク徴収を完全に中止する様,シベリア委員会に依頼し,1830年11月9日にシベリア委員会はカムチャツカに近い千島列島に居住する千島アイヌからのヤサーク取り立て廃止を命じ,,千島列島を露米会社の管轄下に置くことになります.
ところが,カムチャツカの長官には,千島列島を露米会社の管理下に置くという情報が伝わらなかったので,1831年に千島アイヌから猟虎の毛皮4枚,黒狐の毛皮20枚,赤狐の毛皮14枚のしめて1,312ルーブルに達したのですが,これを発見した露米会社当局は,この毛皮を市場価格で販売し,受け取ったお金を露米会社の千島支部に譲渡することを大蔵大臣に要請します.
以来,ヤサークの徴収は停止されますが,狩猟した毛皮を露米会社に提供することになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/24 23:53
【質問】
理解不能 2008/10/05 12:56
あのさー,アイヌの人たちが,旧土人法が2度目に改正された1930年代に伊勢神宮を訪れて,日本人になれたと喜んで俳句を詠んだ事を知らないのかい?
そもそも,土人法自体,戦前の国会で否決されそうになると,沙流系アイヌ人が上京して可決させるために,請願活動までしてますよね?
これも,『暴力的に日本国家』に入れようとした行為でしょうか?
【回答】
Mukke 2008/10/05 22:07
あー,あなたの発言の元ネタってこれかな?
http://iza0606.iza.ne.jp/blog/entry/652248/
まず,あなたの発言の間違いを指摘しておくと,この時詠まれたのは詩ね,俳句ではなくて.
そして上記の詩は,河野本道『アイヌ史/概説――北海道島および同島周辺地域における古層文化の担い手たちとその後裔』北海道出版企画センター,1996,p.142-143に載ってるんだけど,その数頁後にこう書いてある.
――――――
ところが,日中戦争,日ソ軍事衝突,第2次世界大戦と続いたとりわけ顕著な戦時下において,国内的に差別する対象を認め,あるいは,国外的に敵対する対象を見定めたことにより,多くのアイヌ系の者としては,積極的に大日本帝国の国民(臣民)として生きることこそ,社会的地位の向上が果たし得るという錯覚に陥ったと考えられる.
確かに以前の経験からしても,多くのアイヌ系の者にとって,戦争は「和人」と肩を並べることのできる,あるいは,「和人」を追い越すことさえできる絶好のチャンスであった.
しかし,大日本帝国の帝国主義の破産とともに,すでに大日本帝国の国民化し,それを積極的に担ったアイヌ系の者の生き方は,もはやあえなく通用しないものとなってしまった.
――――――p.144-145
旧土法に関しては,取り敢えず次のURLを.
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20080329/1206788178
そんなに単純な話じゃないんだよ.
例えば,「アイヌ」は遅れた存在だから早く「和人」に追いつけ,という教育がなされた事例だってあるんだ.
そういう教育を受けてきた人たちが,「文明化」を喜び,日本人になれたと言って詩を詠む.
これを「彼らも喜んでいたじゃないか」といって片付けてしまうのは,あまりに表面的なものの見方しかできていないんじゃないか?
あとはまあ,クナシリ・メナシの戦いとか色々あるよね.
その辺りも含めて,ぼくは暴力的だったと思うよ.
「ストパン」■(2008-10-04)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
もちろん日本の歴史の中でアイヌを不当に扱った側面があったことは否定できません.
でも日本が北海道を開拓しなかったら,どうなっていたでしょうか?
明治維新が始まったころ,ロシアは南下政策をとっていました.
これは一年中,海が凍らずに利用できる不凍港を確保するためです.
そのため当時は,北海道周辺に多くのロシア船が出没していました.
ロシアが北海道を占領する危険性が,大いにあったのです.
その頃の日本とロシアの国力は,桁違いです.
ロシアと戦っても勝てる見込みは全くありませんでした.
下手をすれば,日本はロシアに軍事占領されていたかもしれないのです.
だから明治政府は北海道開拓使を設置し,早急な開拓を行ったのです.
そうして主権を確立していきました.
さて,その頃のアイヌに自らで近代化を行って,軍事国ロシアに対抗する力はあったでしょうか.
残念ながら無かったというしかありません.
当時,世界は植民地主義の弱肉強食的な時代でした.
今の価値観では考えられないのですが,欧米列強の侵略は全世界に及び,大東亜戦争直前にアジアで独立を果たしていたのは日本,タイ,チベットの三カ国だけでした.
明治政府は必死で富国強兵・殖産興業に努め,欧米の植民地に日本がなってしまわないように努力したのです.
もし日本が北海道を開拓しなければ,アイヌはいずれにしろロシアによって滅ぼされたでしょう.
チェーホフの著書『サハリン島』には驚愕の事実が書いてあります.
「千島,樺太交換条約でロシア領になった樺太のアイヌ人の人口が,30年足らずで半減している」と.
チェーホフ
北海道開拓は日本にとっても,アイヌにとっても避けられない道だったのです.
国民が知らない反日の実態 - アイヌ問題
――――――
【再反論】
これは全方位反日認定に定評のある※1,「国民の知らない反日の実態」というサイトだが,……頭が痛い.
取り敢えずツッコミ所としては,
・あれ? 北海道が日本領なのは確定事項?
・ロシアが酷いことしたからといって,日本が良いことしたとは言えないよね?
・開拓の過程でアイヌの土地を奪ったことは,ガン無視かよ?
・朝鮮の独立は日本が奪ったよな?
……他にあるひといたらどんどん挙げてって下さい.
一々数え上げるのも虚しいわ.
※1:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/35.html
「ストパン」■(2009-06-20)[アイヌ否定論][デムパ]アイヌへの支援を「反日」と呼ぶ醜悪さ
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
「アイヌ民族」と自称※6する新党大地副代表の多原香里氏は,こんなことを言っている.
「かなり前のことなのですが,ある日本人男性に
『北海道は日本領になって良かったのだよ.
そうでなければ,あなたたちアイヌ民族はロシアに侵略されるところだったのだから』
と言われたことがあります.
私は
『日本よりロシアの方が良かったわ.
彼らは民族という単位を尊重しているし,ロシア語は国連公用語の一つだもの』
と答えたことがあります.
はたして,日本人は私たち新参者の国民に
『日本国民になって良かっただろう』
と,堂々と問うことができる材料を持っているのでしょうか」
ちなみに多原氏は母親がアイヌ系だが,父親が和人だから,半分以上,和人である.※2
――――――
――――――
「そして,本当にアイヌはロシア人になった方が幸せだったのか?」※3
「アイヌはロシア人になった方が幸せだったなんてことは,日本のサヨク学者でさえ言っていない.」
「上村英明氏は次のように書いている…」
「カムチャッカ半島に渡り,ロシア国籍を取得した千島アイヌのその後も不幸なものでした.
これらアイヌは半島中部に強制移住させられますが,故郷に近い南部に勝手に再移住したため,ロシア政府によってコサックに奴隷として売られました」
「多原香里氏は日本の政党の副代表で,2度も国政選挙に出馬している.」
「そんな人物が,
『日本よりロシアの方が良かった』
とか
『彼らは民族という単位を尊重している』
などという説を公言しているのは,実に不安である.」※4
――――――
【再反論】
これは多原が,佐藤優との往復書簡の中で次のように書いたことへの「批判」.
――――――
かなり前のことなのですが,ある日本人男性に
「北海道は日本領になって良かったのだよ.
そうでなければ,あなたたちアイヌ民族はロシアに侵略されるところだったのだから」
と言われたことがあります.
私は
「日本よりロシアの方が良かったわ.
彼らは民族という単位を尊重しているし,ロシア語は国連公用語の一つだもの」
と答えたことがあります.
はたして,日本人は私たち新参者の国民に
「日本国民になって良かっただろう」
と,堂々と問うことができる材料を持っているのでしょうか.
内国植民地と被支配民の忘却が,支配者に無神経な論理を与えているようにも思えます.
日本人は,植民者としてまた支配者としての自分を,日本を意識していないようです.
(……)
この支配者対被支配者の関係を解消し,植民地主義に代わる新たな接着剤を見つけない限り,少なくとも南北端の日本国家統合は崩れ行くと想像しています.
(……)
結局のところ,沖縄の人たちもアイヌ民族もその個性を消して,日本人のようになることはできません.
また,そのように努力している彼らを,日本人は包摂しようとはしません.
それならば,お互いの違いを乗り越え認め合うという寛容の心が,これから国家統合を支えると想像しています.
(……)※1
――――――
ちなみに多原は,『部落解放』誌上に連載を持っており,そこで小林への反駁はなされているらしいが,残念ながら僕は,それを参照する機会に恵まれていない.
この他にも,小林はチェーホフの『サハリン島』の叙述などを引き合いに出し,いかにロシアがアイヌに対し非道な扱いをしてきたか,ということを強調する.
さて,一読していただければわかるだろうが,小林はふたつの誤謬をおかしている.
ひとつめは,多原の発言を,本心からの願望であると捉えていることである.
この往復書簡を読むと,多原が「ロシアの方が良かった」と発言しているのはこの一度きりであり,その他の箇所では日本のアイヌ政策批判,そして日本国家の枠内における地位向上を語っている.
素直に読めば,多原の発言は皮肉や売り言葉に買い言葉といった類のものであって,それを彼女の政治的主張と思う方がどうかしている.
ふたつめは,ロシアの民族政策について無知だということだ.
小林は「『彼らは民族という単位を尊重している』などという説」と呼ぶが,小林が例示した帝政期はおくとしても,ソ連,および現在のロシア連邦においては,少数民族の言語・文化が,少なくとも形式上は尊重されていたことはもはや,ロシア史や少数民族問題を論じる上では常識である.
ソ連では,少数民族の人口に応じて共和国,自治共和国,自治州,自治管区といった単位が形成され,独自の民族語の地位もそれなりに高かった.
(そもそもロシア語は建前としては公用語ではなかった)
現在のロシア連邦も,内部に幾つもの少数民族地域(タタールスタン共和国など)を抱えている.
アイヌ語や琉球(諸)語の存続を許さなかった日本と比べたら,雲泥の差であろう.
彼らが「民族という単位を尊重」しているのは間違いない.※7
無論,その「尊重」といっても度合いがあって,リトアニア人やタタール人などの,数が多く,存在感のある民族に比べて,数が少ない北方の少数民族であるアイヌは,果たして自治地域を貰えただろうか?という疑問もあるし――ただ,人口が四桁のコリャーク人でさえも自治管区の地位を享受していたことを思えば,数万人規模のアイヌは自治管区を貰えていたかもしれない――,国境地帯に居住し日本と関わりを持っていた少数民族という立場からすれば,スターリンの強制移住の対象となる恐れもあったであろう――朝鮮人がそうなったように.
また,民族の伝統を受け継ぐ指導者が,粛清される可能性も高かった.
それでも.少なくとも彼らは「民族」という単位を重んじ,形式的にはその文化を尊重する政策を採用したし,今もしている.
これは中国も同じだ.
日本の少数民族政策は,この2ヵ国と比べたら制度面において明白に遅れていると言わざるを得ない.
そのような多原の真摯な批判を,小林は無知と曲解に基づいて葬り去る.
多原は「民族としての尊厳」から
「(たとえ物質的に満たされていなくても,民族としての存在が公的に承認される)ロシアの方がマシ」
だったと言った.
それを小林はいつの間にか,物質的豊かさの問題にすり替える.
ことアメリカに関しては,日米同盟堅持を主張する親米派を,
「物質的豊かさよりも誇りが大切だ!」
として非難する小林だが,どうもアイヌに関しては違うらしい.
他にも小林は面白い主張をしている.
――――――
アイヌは北海道・千島・樺太に存在した「民族」だと多くのアイヌ関係の本に書いてあるが,広大な北海道,および海を隔てた樺太・千島に,統一された民族が存在したわけがない.※5
――――――
本州は北海道よりも広くて,九州や四国,沖縄とは海で隔てられているから,そんなところに統一された民族が存在したわけはないですよね!
自爆してどうする.
※1:佐藤優,多原香里「日本の国家統合としてアイヌ・沖縄問題を考えよ!(上)」『月刊日本』2008年7月号,p.65.
※2:小林よしのり「国民としてのアイヌ」『わしズム』28,2008,p.39.出典注記は枠外に存在する.
※3:同.
※4:同,p.40.
※5:同,p.41.
※6:ここでの「自称」という醜悪な表記について,多原は抗議したが,マトモに取り合ってもらえなかったらしい.
その顛末については以下のエントリで扱った.
じゃあ,その「正統な学者」とやらを連れてこいよ - Danas je lep dan
※7:イスラーム圏諸民族へのソ連/ロシアの政策を見る限り,その意見には納得できない.
簡単に言えば,「尊重するための制度がある」=「尊重されている」,ではないように思えるのだが……? (編者)
「ストパン」■(2010-06-20)[アイヌ否定論]皮肉も理解できず,ロシアへの無知を晒す小林よしのり
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
――――それと,最近北海道の平取町とか,阿寒町あたりで「アイヌ暴動」とかありましたか?
聞いたことがない.
というかね,北海道の出来事を無理矢理中共の植民地支配に擬することからして,ちょっと感覚がずれていると思うんだ.
もっとも,アイヌに対する贖罪意識というようなものは,少なくない数の道民(国民)が持っていると思うから,そういう部分につけ込んで,結果として中共の野蛮な植民地支配を,正当化する言説につなげていくという危うさというものは,常に我々の中にあると思うね.
和人はボートピープルになれ? - さぼてん日記
――――――
【再反論】
誰もそんなことがあったなんて言ってないし,中共のチベット支配を正当化してもいない
(カルデロンのり子さんの残留を擁護することは,不法入国を正当化することになるのだろうか? そんなわけはない!).
そもそも,僕はちゃんと示しているが,僕の元エントリは,ウイグルに対する中共の支配を批判するエントリから,派生した議論が元になって書かれたものだ.
ウイグル情勢が酷すぎる件 - Danas je lep dan.
だいたい,僕のブログのカテゴリ一覧を見れば「チベット」というカテゴリがあり,そこでは中共のチベット支配が激しく批判されていることがわかったはずだ.
僕は過去以下のように書いてきているのだが,それに気付かず「中共の野蛮な植民地支配を正当化」しているなどと評されるのは,あまりにも,あまりにも屈辱的だ.
――――――
見事なエスノサイドですね.
最低です.
中国はチベット民族を破壊しようという意志を,行動で表しています.
このような蛮行を,ぼくは絶対に許せません.
中国は文明国でありたいのなら,このようなエスノサイドを即刻中止し,チベット人の伝統や文化を伝える自由を承認すべきです.
それはチベットの為だけでなく,中国の為にもなる解決策であり,何故中国がこれを執拗に拒み続けているのか理解できません.
チベットで行われているエスノサイドについてのメモ - Danas je lep dan.
――――――
――――――
われわれは要求する.
チベットに自由を.ジェノサイドを中止し,少数民族が尊重される真の多民族社会を.
(……)
それができないというのなら,中国に世界の指導者の一員たらんとする資格はない.
チベット動乱から半世紀 - Danas je lep dan.
――――――
――――――
中国の統治は「解放」なんかではない.
それはチベットの隷属,植民地化に過ぎない.
「チベットの繁栄」というのは,チベットに入植してきた漢人たちの繁栄であり,そしてそれを支持する一部のチベット人の繁栄に過ぎない.
チベットの誇る文明は,共産党の介入によって引き裂かれてしまっている.
そんなものを,われわれは断じて「繁栄」とは認めない.
いつわりの「農奴解放記念日」 - Danas je lep dan.
―――――――
そして,上のような認識に立ちながらも,それでも,個々の漢人がチベットから追放されるようなことは許されないと考えて書いたのが,「故郷」をめぐる一連のエントリだ.
奪われた祖国を求めて - Danas je lep dan.
故郷権(Heimatrecht) - Danas je lep dan.
これらの主張を「侵略者を利するものだ」として批判するのは構わないし,そういう批判は出てきて当然だとも思っているが(実際,ブコメで批判されたことがある),主張の内容を履き違えて頓珍漢な批判をされるのは耐え難い.
しかしながら,僕はid:saboten2008氏に希望を見出してもいる.彼はアイヌの先住民族としての尊厳を認めている.
そして,「開拓」をめぐる意見の相違の根底には,彼の,みずからの祖先への誇りがある.
そこについて,彼と話をすることはできるのではないか.
「開拓」を肯定するあまり安直にアイヌ否定論に飛びついていない辺りに,僕は対話の可能性を見出したい(とはいえ,「的場と同じ立場に立つ」と言っていたのには引っかかるが……的場の主張を吟味した上で的場を支持しているのか,それともそうでないのか).
「ストパン」■(2010-03-12)[デムパ]あまりにも酷すぎる曲解と,一抹の希望の光
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
開拓が悪であるという以上,その担い手が非難を免れることはないのだろう.
ならば彼らが望むことは何なのか.
私たちから故郷を奪い去るということなのか.
開拓者は抹殺されるべきか - さぼてん日記
――――――
【再反論】
上記エントリで取り上げられているのは,おそらく僕の
鈴木宗男議員の先住民族観を批判する - Danas
je lep dan.
であろう.
違う.そうではない.
歴史の針を元に戻すことはできない.
今更,北海道がアイヌだけの天地になるなんてことはできない――今更,エストニアをエストニア人だけの国にすることができないように,或いは南アフリカを黒人だけの国にすることができないように.
だから,すべきなのは,過去に犯した過ちや罪を認め,その認識の上に立って共通の未来を建設することである.
和人は北海道で生きていかねばならないし,そうすべきなのだ.
誰も故郷を奪われてはいけない.
その思いは,おそらく僕とid:saboten2008氏にある程度共通するものだろう.
そして,彼がアイヌの独自の民族としての尊厳を認める以上は,そこに歩み寄りの余地があるのではないか――僕は,そう期待している.
「ストパン」■(2010-03-12)[デムパ]あまりにも酷すぎる曲解と,一抹の希望の光
青文字:加筆改修部分
【珍説】
――――――
そもそも,「和人に奪われた土地や資産」という観点がおかしい.
平成13年当時の教育出版の中学歴史教科書にも,
「土地を所有する観念のなかったアイヌの人たちの土地を,持主のない土地として没収し,国有地にして奪った」
という表現がみられた.
所有する概念のない者から奪うということ自体が矛盾であり,教科書の表現としては不適切だが,実際には奪うどころか,明治32年制定の北海道旧土人保護法により,
「北海道舊土人ニシテ農業ニ從事スル者,又ハ從事セムト欲スル者ニハ,1戸ニ付土地1萬5千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得」
としたのである.
――――――『正論』 2008年12月号,的場光昭「『単一民族』否定論の押し付けに異議あり――中山発言に小躍りした面々に問う.批判に名を借りたアイヌ反日化の“悪意”はないか」(pp.233-234)
【事実】
「近代的な土地を所有する観念」をアイヌは持っていなかったというだけであって,「ここは俺らの共有地.向こうはあいつらの共有地」的な認識はあった.
そこに和人が入ってきて土地を開墾しだしたのを,「奪った」って言っているんだよ.
センセイは「旧土法で土地を与えたじゃないか」と開き直るが,そういうのを普通は「盗人猛々しい」という.
アイヌに「与えた」土地の,元々の持ち主は誰でしたか?
その程度の事も分からないのだろうか.
他にも突っ込み所は満載だけど,時間がないので今日はこの辺で.
しかし,『正論』ってこんなレヴェルの文章でも通るんだね.
こんなもん読んでたら,そりゃ空軍のエリート軍人だってアホになるわ.
※ 的場センセイについては,くどいようだけれど,
西村眞悟衆議院議員のアイヌに関する認識はデタラメだ - nasturtium
を参照.
「ストパン」■(2008-11-18)[アイヌ否定論][デムパ]要するに,明治日本は盗賊の論理で動いていた訳ですね
青文字:加筆改修部分
【珍説】
――――――
富岡 アイヌの場合,定住して農耕をするわけではなく,自然の中で狩猟する民族ですからね.
そういう意味では
「ここはわれわれの領地だから,日本人は出ていけ」
という論理は成り立たない.(……)
――――――宮城能彦,富岡幸一郎,小林よしのり「“単一民族”と言っただけで謝罪を求めるのは言葉狩りだ」『わしズム』28,2008,p.58
【事実】
いや,狩猟民にもテリトリーはあるから.
ていうか,誰のものでもないからって,他人が勝手に入植してきたら,そこで「狩猟」が成り立つわけないじゃん.
ちょっとは常識を働かせてくれ,頼むから.
だいたいそんなことを言ったら,インディアンやアボリジニやモンゴルはいったいどうなるんだ.
内モンゴルは誰も使ってない土地に漢族が入植して切り開いた,とでも言うのか?
「ストパン」■(2010-04-13)[アイヌ否定論]アイヌ民族を否定するひとの認識はこの程度です
青文字:加筆改修部分
ちなみに狩猟民や遊牧民のテリトリーと,農耕民のそれとの対立は,世界各地で見られ,ときとして流血沙汰にまで発展している,
そんなことは,民族問題を語る上での初歩だと思ったのだが,「小林よしのりと愉快な仲間たち」にとっては違うらしい.
【質問】
鐘の音 2010/04/14 00:39
アイヌって,農業をやってなかったでしょうか?
私の記憶では,どう思い出してもやっていたことになっているのですが.
当然,シャモが来る前に狩猟採取のほかに農耕はやっていた民族のはず.
【回答】
Mukke 2010/04/14 20:49
それは聞いたことがあります(多原氏の本などで).
しかし残念ながら僕は,前近代のアイヌ史については不案内なため,その規模などがわかりませんでした.
なので,ここでは富岡の主張が事実と仮定した上で,その言説のおかしさについて述べるという体裁をとっています.
なお同コメント欄によれば,『アイヌ神謡集』等からも分かるように,アイヌは古くから農耕を行っていたという.
以下引用.
――――――
s-ryoo 2010/04/15 09:24
〔略〕
アイヌが古くから農耕を行っていた事は,『アイヌ神謡集』を読めば判ります.
「梟の神が自らうたった謡」には,このカムイユカルが作られた時代において,既にアイヌの社会に貧富の差があった事が示唆されています.
貧富の差があったとは,すなわち農耕が行われていたという事です.
17世紀のアイヌの農耕遺跡が見つかっていますから,17世紀頃までは農耕が行われていたのでしょう.
アイヌが農耕を放棄せざるを得なくなったのは,アイヌが金属精錬の技術を持たなかった為でしょう.
和人との交易によって入手していた農機具が,和人との力関係のバランスが崩れて入手出来なくなった時,既にアイヌには石器で農機具を作る技術は失われていて,狩猟採集生活へと撤退せざるを得なかったのでしょう.
ただし千島アイヌと呼ばれる事もあるクリル人は,ほぼ純粋な狩猟採集民だったようです.
言語の上ではクリル語はアイヌ語の方言のようなものだったようですが,衣食住など文化の違いが大きく,私はクリル人はアイヌには含めず,独立した民族と考えるべきだと思います.
日本書紀には「粛慎(みしはせ)」という民族が,阿倍比羅夫と戦ったと書かれていますが,私はこの「みしはせ」こそがアイヌであり,misihaseはアイヌ語で首領を意味するnispakeから来ていると考え,「蝦夷(えみし)」はアイヌではなく,東北地方の住民の先祖であろうと推定します.
s-ryoo 2010/04/15 09:40
狩猟採集民であっても,入会(いりあい)権というものが有りますね.
入会権とは,その土地で自由に狩猟が出来る権利です.
ネイティブアメリカンと白人とのトラブルは,土地の私有という概念の無かったネイティブアメリカンの側では,白人に入会権を認める代償として金を受け取ったつもりだったのが,白人はこれで自分の土地になったと考えて,柵を作り,ネイティブアメリカンが立ち入れなくした.
この考え方のズレにあったと読んだ事があります.
――――――
――――――
鐘の音 2010/04/16 00:18
前近代のアイヌの農業について,ちょっとだけ調べてみました.失礼します.
参考にしたのは
『アイヌ文化の基礎知識』(監修:アイヌ民族博物館 1993年 草風館)
『日本の食生活全集48 聞き書 アイヌの食事』(萩中 美枝 他 1992年 農山漁村文化協会)
の2冊です.
稗,粟などが栽培されていたようです.
日高地方のアイヌの祭壇には,必ずヌカを祭るムルクタヌサと呼ばれる場所があり,使わなくなった臼などの畑作に関連する道具を神におくるという風習があり,少なくとも日高地方のアイヌの生活には密着していたのではないかと思います.
畑は,家の近くや川沿いの土の柔らかい土地が選ばれ,簡単に土地を耕した後,種をまき,肥料はやらず除草は数回行い,ピパと呼ばれる貝包丁で,穂だけを摘み取りました.
肝心の規模については詳しく判りませんでした.申し訳ございません.
ただ,女性や老人が主に農耕をやっていたと言うことから,食生活の需要を全てまかなえるほどではなかった想像しています.
――――――
「ストパン」■(2010-04-13)コメント欄
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
[……]ですが,昨今のアイヌ論議には,肝心な部分が欠けてゐるのではないでせうか.
アイヌの人々に対する「差別」や「迫害」は,事実に基づかないことまでが様々に論じられても,国家のために北海道開拓に尽くした屯田兵や,民間の開拓民の労苦が,話題に上ることはありません.
それどころか,アイヌの人々を「差別」し,「迫害」した張本人であるかのやうな悪イメージさへ持たれてゐるやうに思ふのです.(p.143)
――――――鎌田告人「『アイヌ被害者』論では語れぬ北海道開拓使の真実」
in 『正論』平成21年1月号,pp.143
【再反論】
著者の鎌田氏は比布神社の宮司で,日本会議上川幹事長(同,p.143).
彼は上記文章に続けて,北海道に入植した屯田兵や開拓民が,いかに苦労して未開の大地を「開拓」していったか,という物語を滔々と語り始める.
当然ながら,彼の紡ぐ「物語」にアイヌはいない.
まるで北海道全土が,誰のものでもない「未開の地」で,和人の入植者が振るう斧を待っていたとでも言うかのように.
いや,おそらく彼にとってはそうなのだろう.
彼にとっては,北海道を「開拓」した人びとの労苦のみが見るに値し,彼らが――「勤勉」な「開拓者」だった彼らが――追いやり,差別した人びとの辛苦はどうでもいいのだろう.
そしてわれわれが振り払うべきは,批判すべきはそのような無関心である.
「ストパン」■(2008-12-14)[アイヌ否定論][デムパ]「同胞のいない歴史」を超えて
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
今の北海道があるのは,いはゆる「和人」がアイヌから土地を奪ひ,富を略奪したからあるのではありません.
屯田兵やその家族,民間の開拓民,さうした先人達が未開の地を拓き,我が身を犠牲にして守り抜いてきたからこそ,北海道はあるのです.
アイヌの文化,伝統は尊重され,継承されなければなりませんが,そのために北海道開拓と防衛の歴史が歪められ,先人達の功績が貶められては誠に申し訳ないと思ひます.
死者は語らずと言ひます.
なればこそ先人の名誉を守り,その偉業を称へることこそは,今日に生きる我々の使命であり,責務であると〔ママ〕.
――――――鎌田告人「『アイヌ被害者』論では語れぬ北海道開拓使の真実」 in 『正論』平成21年1月号,pp.149
【再反論】
こうして物語は紡がれてゆく.
アイヌのいない物語が.
収奪も抑圧も差別もない,「美しい」物語が.
違うだろう.
国民としてのわれわれが受け継ぐべきは,本当にそんな歴史なのか?
それは単なる自己満足に過ぎない.
本当に右派がアイヌを「国民として」統合しようと願うなら※,そのような汚点すらも「国民=われわれの歴史」として,包摂していく覚悟が必要なのではないのだろうか.
正当化ではなく,自己と切り離しての断罪でもなく,自己の行為としてそれを受け入れる姿勢こそが,われわれに求められているのではなかろうか.
過去や同胞を切断して成り立つ「国民の歴史」を受け入れるというのは,実に愛国者らしからぬ振る舞いであり,著者の鎌田氏,およびこの原稿を通した『正論』編集部には,猛省を求めたいところである.
※ 無論,この「統合」というフレーズ自体が日本中心主義の産物ではないか,といわれれば窮するしかないのだけれど.
「ストパン」■(2008-12-14)[アイヌ否定論][デムパ]「同胞のいない歴史」を超えて
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
上記は一つの例だが,最近,アイヌ擁護の立場から北海道開拓を糾弾する論調をよく目にする.
元々,私は「アイヌ問題」に関しては,政府はアイヌの側についてもその歴史的経緯を考慮し,誠実に対応するべきであるという考えであり,このようなことを言う人に対して,あまり厳しいことは申し上げない方がいいかと思っていたが,これはちょっといかがかなと思う.
というのも,開拓農民そのものが,「収奪」「差別」「抑圧」の対象であったことについて,あまりにも無頓着過ぎるからである.
「収奪」とは内地の大資本によって,「差別」とは彼らを「追放」「疎外」した内地によって,「抑圧」とは北海道の過酷な自然環境,わが国辺境としての軍事的安全弁たる位置付けによってである.
(……)
そして「道民のいない歴史」へ - さぼてん日記
――――――
【再反論】
最初に一言言っておきたい.
トラックバックは,僕も送らずにひとを批判することはあるから,送ってこないのは別に構わない.
だが,僕の文章を引用したり,或いは僕の文章を改変して僕を批判するのであれば,最低限,典拠は明示して欲しい.
無論,典拠が示されているエントリもあるのだが,典拠が明示されずに批判するエントリが多すぎる.
それでは,引用が元の文脈から完全に切断されてしまう.
その引用の仕方は,あまりにも不公正だ.
漠然とした「風潮」や「よくある意見」を批判するのであればともかく,特定個人の文章を取り上げて批判する以上,それは最低限の節度ではないかと思う.
上記エントリは,ほぼ確実に僕の
「同胞のいない歴史」を超えて - Danas je lep
dan.
というエントリを元にしていると判断しても良いだろう.
さて,開拓農民が収奪され,差別される存在であったというのは,おそらくその通りなのだろう(内地から追いやられた佐幕派が入植したケースもある).
けれど彼らがアイヌへの収奪・差別・抑圧に荷担し,その受益者であったというのもまた,事実である.
抑圧者が,別の視点から見れば被抑圧者であったという構造において,被害者であり加害者であった人びとに目を向ける必要がある,というのは同意だ.
だが,だからといって北海道全体が,まるで「無主の地」であったかのように描くことが許容されるわけではない.
「ストパン」■(2010-03-12)[デムパ]あまりにも酷すぎる曲解と,一抹の希望の光
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
「北海道に入植した屯田兵や開拓民が,いかに苦労して未開の大地を「開拓」していったか,という物語」があるという.
物語,作り話,そうするとたとえば「さぼてん日記」の筆者は,その虚構のなれの果て(のひとつ)ということになるのだろうか.
アイヌ民族など北海道の先住者に対する相応の補償や,歴史的再評価は確かに必要であろうが,そのために,我々大多数の道民を虚偽の産物として,国民の歴史から排斥することが,愛国者として正しい行為であるとは思えないのである.
我々の祖先が未開の大地を開拓したことは,ここ〔=北海道〕で生を受けた我々にとって譲ることのできない,最も基本的な事実である.
それを「物語」として観念的に断罪することが,何を意味するのか,冷凍庫の中で頭を冷やして,少し考えて見てもよいのではないかと思う.
そして「道民のいない歴史」へ - さぼてん日記
――――――
【再反論】
曲解はやめて欲しい.
僕はきちんとエントリで書いたはずだ.
――――――
こう言って彼は,北海道に入植した屯田兵や開拓民が,いかに苦労して未開の大地を「開拓」していったか,という物語を滔々と語り始める.
当然ながら,彼の紡ぐ「物語」にアイヌはいない.
まるで北海道全土が誰のものでもない「未開の地」で,和人の入植者が振るう斧を待っていたとでも言うかのように.
いや,おそらく彼にとってはそうなのだろう.
彼にとっては,北海道を「開拓」した人びとの労苦のみが見るに値し,彼らが――「勤勉」な「開拓者」だった彼らが――追いやり,差別した人びとの辛苦はどうでもいいのだろう.
そしてわれわれが振り払うべきは,批判すべきはそのような無関心である.
「同胞のいない歴史」を超えて - Danas je lep dan.
――――――
誰も開拓民の払った労苦を否定してはいない.
僕が「物語」と呼んで批判しているのは,「北海道全土が誰のものでもない『未開の地』で,和人の入植者が振るう斧を待っていた」ということが,暗黙の内に示される鎌田の語り口である.
だいたい,僕は「物語」を「作り話」の意味で使ってなどいない
(使う時もあるが,今回はそれではない).
「史実が都合の良いように歪められた語り」を,物語と呼んでいるのだ.
「ストパン」■(2010-03-12)[デムパ]あまりにも酷すぎる曲解と,一抹の希望の光
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
そうはいっても,一方で「アイヌの土地を,人権を守れ」と叫びつつ,他方で「日露友好万歳,千島樺太引揚者なんて知らねえよ」と居直る若い人を見ていると,当方いささか笑いを催してくるのである.
どこかに掲示してあった「民族浄化」の定義によれば,引揚者はことごとくその被害者である.
国家権力によって土地と生存を奪われたというなら,その点に関してはアイヌとまったく同じである.
彼らはその上に「郷土があること,または,あったこと」すら滅却されようとしているのである.
彼らはアイヌ民族などと異なり,日本人と民族的差異がないというただその一点により,国家はもちろん,マスコミから無視され続けている.
ワーケ - さぼてん日記
――――――
【再反論】
僕のことではないというなら別に構わないが,少なくとも僕は「千島樺太引揚者なんて知らねえよ」なんて言ってない.
――――――
北方領土を故郷とする日本人は,高齢化が進行している.
既に何人ものひとが,故郷の土を踏まぬまま亡くなっている.
こんなに悲しいことはない.
交渉さえ終わり,問題が解決しさえすれば,彼らは――そこが日本領であれロシア領であれ――故郷に帰れるのだ.
択捉島を放棄するにしても,領土要求の放棄と引き替えに,日本人旧島民への便宜を図ってもらうことだってできるだろう.
そして現在,近くにあるのに行けないこの島々に,旧島民だけでなくすべての日本国民が足を踏み入れられるようになる.
これは日露双方にとっての利益だ.
鳩山政権で北方領土はどうなるのか(追記あり) - Danas je lep dan.
――――――
――――――
まずは,紫音さんがされたように,自分の考える解決のようなものを書き出してみます.
(……)
7.日本国民の内,ソ連による占領以前に同地域に居住していたもの,およびその直系の親族とその配偶者は,かつて居住していた島に帰還できる.
彼らが択捉島に帰還する場合,ロシア政府およびサハリン州政府は,日本語による行政サーヴィスや,ロシア語講座の設置といった処置を講じねばならない.
その費用は日本政府が援助できる※2.
(……)
9.7で規定された日本国民による国後島以南の島々への居住を,日本政府は支援する.
また,その際にロシア国民との間に発生したトラブルについては,日露両国の法曹が参加する機関,もしくはロシア連邦の法曹が協力する,日本国の法廷によって解決されるものとする.
(……)
12.日露両政府は,サハリン島およびウルップ島以北のクリル列島についても,上の条項に基づいた処置がとられるよう協議する.
北方領土問題についての私見 - Danas je lep dan.
――――――
以上のエントリが示すように,僕は旧島民のことも考慮に入れた上で三島返還を主張している.
「あいつはこう言っている」などと決めつける前に,せめて同じ人間が同じカテゴリで書いた,他の文章ぐらい参照してはどうか.
「ストパン」■(2010-03-12)[デムパ]あまりにも酷すぎる曲解と,一抹の希望の光
青文字:加筆改修部分
【珍説】
――――――
このような状況下で,明治八(一八七五)年の樺太・千島交換条約によって,樺太アイヌは日露どちらかへの帰属を自らの意志で決定したのです.(……)
――――――的場光昭『「アイヌ先住民族」その真実――疑問だらけの国会決議と歴史の捏造』展転社,2009,pp.61
【事実】
千島樺太交換条約締結後,それまで日露雑居地であった樺太に居住していたアイヌ800人以上が,北海道の対雁(ついしかり)に強制移住させられた.
それは多くの概説書に記された有名な事件だが,否定論者はこれに狙いを定めたようだ.
まず的場は,ロシア人の樺太での先住民族への支配がいかに過酷なものであったかを述べ※1,そして上記のように続けている.
この条約によって,アイヌは日露どちらかの国籍を選択させられた.
的場は無視しているが,その際,日本国籍を選択したアイヌは,樺太に留まることが許されなかった.
日本側の役人が,樺太島民に発した布告をみよう.
――――――
第六,全島ノ土人永ク我ガ臣タラン事ヲ欲セバ更ニ所属ノ地ニ赴クベシ.
又在来ノ地ニ永住ヲ願ハバ其ノ籍ヲ改ムベシ.※3
――――――
また,この布告の一月前,東京で調印された交換条約附録もみよう.
――――――
第四條 樺太(サカリヌ)島及クリル島ニ在ル土人ハ現ニ住スル所ノ地ニ永住シ且其儘現領主ノ臣民タルノ權ナシ故ニ若シ其自個ノ政府ノ臣民タラン?ヲ欲スレハ其居住ノ地ヲ去リ其領主ニ屬スル土地ニ赴クヘシ又其儘在來ノ地ニ永住ヲ願ハヽ其籍ヲ改ムヘシ各政府ハ土人去就決心ノ爲メ此條約附?ヲ右土人ニ達スル日ヨリ三ヶ年ノ猶豫ヲ與ヘ置クヘシ此三ヶ年中ハ是迄ノ通樺太島及クリル島ニテ得タル特許及義務ヲ變セスシテ漁獵及鳥獸獵其他百般ノ職業ヲ營ム?妨ナシト雖モ總テ地方ノ規則及法令ヲ遵奉スヘシ前ニ述フル三ヶ年ノ期限過キテ猶雙方交換濟ノ地ニ居住セン?ヲ欲スル土人ハ總テ其地新領主ノ臣民トナルヘシ
千島樺太交換條約附録 - Wikisource
(強調引用者)
――――――
ちなみに和人は,ロシア領樺太に留まって生活することが認められている.
――――――
第一條 交換濟ノ各地ニ住ム日本及露西亞ノ臣民現ニ其所有セル地ニ在住セント願フモノハ自個ノ職業ヲ十分營ムヲ得且其保護ヲ受クヘシ又現在所有地界限中ニテ漁獵及鳥獸獵ヲ爲スノ權ヲ有シ且其生涯中自己ノ職業上ニ關スル償ム税ヲ?スヘシ
千島樺太交換條約附附録 - Wikisource
――――――
先住民族だけが故郷からの退去を迫られたのだ.この条約の孕んでいる差別性について,的場は口を噤んだ挙げ句,より恥知らずな主張へと突き進む(⇒別項へ)
※1:的場光昭『「アイヌ先住民族」その真実――疑問だらけの国会決議と歴史の捏造』展転社,2009,pp.60-61
※3:樺太アイヌ史研究会編『対雁の碑 樺太アイヌ強制移住の歴史』 北海道出版企画センター,1992,p.59
「ストパン」■(2010-04-09)[アイヌ否定論]的場光昭『「アイヌ先住民族」その真実』のデタラメ(4)
青文字:加筆改修部分
【珍説】※1
――――――
樺太アイヌの山辺は,樺太千島交換条約の際に,9歳で北海道対雁(ついしかり)に移住する.
サヨクはこれを「強制移住」と糾弾するが,山辺の叙述では移住はアイヌ自身の選択であり,しかも移住後3年間は食料を支給され,学校卒業後に働いた漁場も豊かで,何一つ不足はなかったという.
しかし,明治19年にコレラと天然痘で,樺太アイヌ移住者の1/3ほどにあたる三百数十人が死んでしまう.
サヨクはこれを,和人が樺太アイヌを強制移住で死に追いやったと喧伝する.
だが,この年は全国でコレラと天然痘が大流行し,14万人もの死者が出ているのだ.
サハリン・アイヌは,もともと暮らしていたサハリンに残るか,それとも日本の領土へ移住するかを選択するように求められた.
〔千島樺太交換条約締結〕当時,サハリン・アイヌの多くは漁場で雇われており,雇い主である伊達,栖原ら漁場請負人が漁場を閉鎖して引き揚げることを決めたことから,全体の約3分の1に相当するサハリン・アイヌが,対岸の北海道・宗谷地方への移住を決心したといわれている.
「このころまでに,彼らの生活は漁場がなくては成り立たなくなっており,漁場主との深い関係,そして日本政府の保護を信じたことが,サハリン・アイヌを移住に踏み切らせた」
と,この問題に詳しい田崎勇氏は述べている.
また,日本政府の理事官長谷部辰連が島民に出した布達では,日本人は日本国籍のままでサハリン島に残って自分の職業を営むことができたが,先住民は国籍の属する領土内に居住しなければ権利を得ることができなかったために,日本国籍を選んでサハリンに住み続けることはできなかった.
このこともサハリン・アイヌの決断に少なからぬ影響を与えたものと思われる.
移住は翌1876年(明治9年)の9月から10月にかけて行われ,宗谷に旅立った人数は841人にも上ったといわれている.
しかし,開拓使は当初から,彼らをさらに内陸の北海道中央部・石狩地方対雁(現在の江別市)に移し直して,農業に従事させる方針であった.
説得が続けられたが,どうしても内陸への移住は聞き入れられない.
逆にサハリン・アイヌの側から
「石狩の地は海に遠く,生活ができない.
集団での生活は,病気の流行には危険である.
強行するなら単独で樺太へ渡り,途中海で死んでもいとわない」
などとの強い請願書が提出されるほど,反対は強硬であった.
サハリン・アイヌの人々が
「石狩か厚田地方の海に近いところならば」
とまで譲歩したことから,開拓使は彼らを船に乗せることに成功し,銭函沖辺りで,対雁移住がもはや変更できないことを申し渡した.
船中は騒然としたという.
しかし,この時サハリン・アイヌには既に抵抗する余地は残されていなかった.
開拓使は,移住させた人々が農業に意欲を示さないのを見て,労働に耐える者は海の近くに出して漁業に従事させる.
しかし,最初は順調だった漁場経営も,のちに不漁続きで困難に陥り,1886年(明治19年),1887年(同20年)とコレラ,天然痘が流行すると,人口も一挙に半減して,労働力も失われた.※2
――――――『わしズム』 2008.11.29号,p.37-38
【事実】
ああ,確かに移住は「樺太アイヌの選択」だね.途中までは.
しかし幾ら言葉を繕っても,「騙し討ち」としか表現の仕様がないだろ,これは.
で,食糧を支給したとか言ってるけど,上に挙げた状況で食糧支給しない国家があるとしたら,それはどれだけ鬼畜なのさ.
んな当たり前の事持ち出されて正当化されるような事か,これが?
病気の件にしても,アイヌ自身が
「集団で住んだらいずれ病気が大流行しかねない」
って危惧している訳で,「仕方ない」で済む話じゃないだろう.
小林がソースとして挙げた本は,まだ読んでいないので,その本についての論評はしないけれど,小林の言い分は明らかに史実を歪めている.
ああ,確かに樺太アイヌの移住は自らの意志だったさ.
(国籍規定の先住民差別を除けば.
それともこの規定も,「国防上の理由」とやらで正当化されるのだろうか?)
けれど対雁移住までのプロセスを見ると,開拓使が彼らの意志を無視して,強引に彼らを希望とは違う場所に移住させてしまった事は明白であって,それを「強制移住」というんじゃないか.
いつもの事だけど,本当に史実の歪曲が大好きな人だよなぁ.
※1 「珍説」というより「悪質な歪曲」という表現が正確だが.
※2 小坂洋右『流亡――日露に追われた北千島アイヌ』北海道新聞社(道新選書),1992,pp.25-27.強調引用者.〔〕内は引用者が補った.
「ストパン」(2008-11-11)■[アイヌ否定論]どう見ても強制移住です,本当に有り難うございました
青文字:加筆改修部分
Mukke 2008/11/13 20:07
最初,宗谷に移住したアイヌは,樺太よりも環境が良いと喜んで,そこに定住する決意を固めていたようです.
けれど無理矢理,黒田清隆開拓使長官が移住させてしまった(反対する官吏もいました).
その結果,多くの死者を出した――.
日本近代史の暗部としか言いようがないですね.
同コメント欄
青文字:加筆改修部分
【珍説】
――――――
開拓使は日本への帰属を希望した樺太アイヌ(百余戸,八百数十名)を一旦宗谷へ落ち着かせたものの,自然環境が厳しく生活維持は困難であり,また彼らを樺太付近に置くことは国際紛争のもととなることを恐れ,石狩の対雁(現江別市)へ移住させることにしました.
ロシアが自国の少数民族保護と称して,国境を超えて兵を進めるということは,現在でも行われていることを思えば,強国ロシアを恐れる開拓使の判断は当然でした.
開拓使が提示したこの移住に,樺太アイヌたちは異議を唱えたため,酋長格十人が江別太を実地踏査して,結果がよければ応ずることになりましたが,結局彼らは移住を拒否し,開拓使はさらに厚田・石狩の漁場を与えることによって,はじめて双方の合意が得られたのでした.
――――――的場光昭『「アイヌ先住民族」その真実――疑問だらけの国会決議と歴史の捏造』展転社,2009,pp.62
【事実】
わー.すげー紳士的な交渉の風景っすねぇ(笑)
さて,では実際にどのようなプロセスで移住が行われたのかを概観してみよう.
そもそもアイヌは,祖先の墳墓のある故郷を捨てて他の地に移住するつもりなど,さらさらなかった.
だが,彼らの生活はあまりにも,和人の漁場請負人と緊密に結びついており(彼らは白米を常食とするようになっていた),また島に残留した場合,ロシア人による苛烈な統治を受けることになるという恐怖もあった※5.
そして結局,彼らのうちかなりの数が,日本政府による保護を信じて移住を決意することになる.
開拓使は当初移住に消極的であったが,徐々に彼らを石狩に移住させる方向に傾いていく.
だが樺太アイヌは,それに強硬に反対する.
せめて少しでも故郷に近い場所として,彼らは宗谷への移住を望んだ(開拓使は,その裏に彼らを労働力として確保したい,かつての漁場請負人たちの策動があったのではないかと疑った).
結局,冬が間近に迫っていたので開拓使側が折れ,明治8(1875)年9月,樺太から宗谷へと彼らは渡った※6.
彼らの宗谷での暮らしは,比較的に安泰なものであったという.
だが,在来の宗谷アイヌとの対立が生起した.
そして何よりも開拓使じしんが,この移住を一時的なものと見なしていたのである.
開拓使は,いずれ彼らを石狩に住まわせるつもりであった.
この間,アイヌに同情的なことで知られ,「アツシ判官」とまで呼ばれた官吏松本十郎は,より好適だと思われる北見への移住を献策したが,開拓使長官黒田清隆はそれを拒絶した※7.
開拓使はアイヌの説得を始めた.
徐々に彼らの態度は軟化し,石狩を視察してもいいと言うようになる.
彼らを連れて石狩への視察行が組まれた.
そこで,彼らは移住への承諾書に拇印を押させられることになる.
彼らが帰った後,開拓使に嘆願書が提出された.
そこには,
・海から遠すぎて漁業ができない.俺らは漁撈の民.どうやって暮らせと(海業無之候テハ兎角身成行不相立)
・こんなごみごみした土地に密集して住まわされたら伝染病の危険がある(第一瘡○[「悪」にまだれ]流行ニ係リ候テハ一人モ存命無覚束)
・うっかり承諾書にハンコ押したことは,家宝を差し出し,押した連中の役職を剥奪して償う
・それでも連れてくというなら,樺太に帰る.
途中で溺れ死んでも構わない(私共手造船へ乗組,浪波ノ為海死致候共決シテ厭イ不申)※8
などの抗議が書き連ねられていた.
だが,開拓使は移住計画を進めていた.
当時の開拓使文書には,
「ただしアイヌに対して,そのことが漏れぬように取りはからえ」
というような意味の文言が見出せる※9.
開拓使は彼らを農耕民に変え,北海道「開拓」の一翼を担わせようとしていた.
開拓使は,石狩・厚田の漁場を提供すると言った.
対雁移住による農民化ではなく,沿岸部で漁民として生きる道を提示され,ついにアイヌは折れた※10.
1876年6月,彼らを乗せた船が宗谷を発つ.
ちなみに松本十郎によれば,銃を持った巡査が配置されアイヌに銃を向けて船に乗せたという※11.
そしてこの巡査は,開拓使が,アイヌからの「苦情百出」を予想して配置したものだったのである※12.
何故,そんな予想が立てられたのか.
それを知るためには,船の中で何が起きたのかを知る必要があろう.
樺太アイヌ史研究会の本から引用する.
――――――
七等出仕鈴木大亮は,彼等に対し,移住先が対雁であることをどこで宣告すべきかについて苦慮していた.
いよいよ船が銭箱沖にさしかかった時,彼は一同を集め対雁移住がもはや変更できない旨を申し渡した.
果たせるかな船中は騒然として,官吏の慰諭警官の制止も聞かぬまま船は石狩川を遡り,対雁に着し上陸したが,彼等は強硬な態度を変えず,口約に違反した旨を責め,対雁に永住する意志は無いと居家建設を拒み,仮小屋のまま数日を過ごした.※13
――――――
樺太アイヌは,最終的に,石狩・厚田の漁場を提供されることで,居を構えはじめることになる※14.
さて,この過程を見てなお,
――――――
樺太から宗谷への移住は彼らの自由意志に基づいて,宗谷から対雁への移住は双方の合意に基づいて行われたというのが事実です.※15
――――――
と言いつのることはできるだろうか.
これが合意といえるのなら,逆に何をもって強制といえるのだろうか.
中共のチベット侵略も,「十七条協定に基づいていたから合意の上の行動」だとでも?
的場は,樺太アイヌに対し大きな予算が組まれたことを挙げ,彼らに対し
「いかに多額の資金援助がなされたか想像してください」※16
と言っているが,無理矢理連れてきたのなら責任を持って援助して当然だ.
的場の理屈でいえば,誘拐犯が連れてきた子供を手厚くもてなせば,罪が減じられるとでも思っているのだろうか(そりゃ情状酌量の対象程度にはなるかもしれんが).
そもそも開拓使が彼らを強制移住させなければ,そこまでの予算が必要となったかどうか怪しい.
農業経営の資本金などにも,かなりの予算がつぎ込まれたからだ.
また,的場は樺太アイヌに伝染病が流行し,350人以上(!)の犠牲者が出たことについて,通説を批判し,
「『強制移住』がストレスとなり,体力を低下させたため,多くの犠牲者を出したのではなく,衛生知識の欠除による要因が大きかったのです」※17
と,アイヌに責任をなすりつけるが,アイヌ自身が
「そんな狭いところに押し込められたら,伝染病の流行にやられる!」
として反対していたことは,都合良く無視する.
的場は,「強制移住」を主張する人びとは,
「こうした事実をどこにも書かないで,著書や記事で“強制移住事件”という言葉を使い我が国の歴史を貶しめ歪曲しています」※18
と言う.
だが,日本国民であるアイヌの歴史を貶め,歪曲しているのは的場の方だ.
このことを僕は何度でも言う.
同胞に対するこのような不正義を許していいものだろうか?
否.
※5:樺太アイヌ史研究会編『対雁の碑 樺太アイヌ強制移住の歴史』 北海道出版企画センター,1992,p.65
※6:同,pp.72-74.
※7:同,p.92-97.
※8:同,pp.100-102.返り点などは省略した.
※9:同,p.103.
※10:同,p.107.
※11:同,p.111.
※12:同,pp.115-116.
※13:同,p.116
※14:同,pp.116-117
※15:的場光昭『「アイヌ先住民族」その真実――疑問だらけの国会決議と歴史の捏造』展転社,2009,p.62.強調原文ママ.
※16:同.
※17:同,p.67.
※18:同
「ストパン」■(2010-04-09)[アイヌ否定論]的場光昭『「アイヌ先住民族」その真実』のデタラメ(4)
青文字:加筆改修部分
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