c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆華僑 Tengerentúli kínai
<◆中国FAQ
<東亜FAQ目次
【質問】
世界華商大会とは?
【回答】
世界各地のシナ系企業経営者等が一同に会する,いわゆる華僑の世界大会です.
主催は日本中華総商会,世界華商大会・中華年組織委員会です.
1991年にシンガポールのリー・クワンユー(李光耀)氏が提唱して始まったもので,2年おきに開かれており,今回の第九回大会では,世界三十三カ国・地域から三千六百人が参加予定です.
主要な関係者は以下のとおりです.
変換できない漢字はすべてひらがな標記にしてます.
シンガポール共和国内閣顧問 李光耀
新日中友好21世紀委員会 日本側座長 小林陽太郎
同 シナ側座長 鄭必堅
台湾両岸共同市場基金会董事長 粛万長
神戸華僑総会名誉会長 林同春
日本中華総商会会長 黄輝庭
実行委員長 蒋暁松
日本国際貿易促進協会会長 衆議院議員 河野洋平
国土交通大臣 観光立国担当大使 冬柴哲三
社団法人日中友好協会会長 平山郁夫
日本経団連会長 御手洗富士夫
駐シナ日本大使 宮本雄二
中共政治局常務委員 全国人民政治協商会議主席 か慶林
中共全国人民政治協商会議副主席 中華全国工商業聨合会主席 黄孟復
中共商務部長 薄き来
中共国務院華僑事務弁公室主任 陳玉傑
中共国務院新聞弁公室主任 蔡武
駐日シナ大使 王毅
北京五輪組織委員会執行副会長 王偉
上海市副市長 楊雄
ノーベル物理学賞受賞者 楊振寧
台湾工商協進会理事長 黄茂雄
レノボグループ会長 柳傳志
香港の衛星テレビ大手・鳳凰衛視(フェニックステレビ)総裁 劉長楽
北側一雄(衆議院議員 公明党)
中馬弘毅(衆議院議員 自民党)
井戸敬三(兵庫県知事)
太田房江(大阪府知事)
関淳一(大阪市長)
水越浩士(神戸商工会議所会頭)
森下洋一(松下電器産業株式会社相談役)
張富士夫(トヨタ自動車株式会社取締役会長)
黄孟復(中華工商業聯合会主席)
フィデル・ラモス(フィリピン元大統領)
霍震寰(香港中華総商会 会長)
姜斯憲(海南省副省長)
王偉(北京奥委会副主席)
ジョセフ・エース・ドゥラノ(フィリピン観光大臣)
董松根(国際貿易促進協会副会長)
鍾燕群(上海世博実行委員会副主任)
李軍(交通銀行頭取)
蔡天寶(シンガポール中華総商会会長)
鄭明如(タイ中華総商会会長)
孫暁華(中国工商業聯合会副主席)
許又声(国務院華僑事務弁公室副主任)
張小舒(香港中華教育基金主席)
王紀言(鳳凰衛視社長)
李康(BOAO HOLDINGS 社長)
白岩松(CCTVキャスター)
呉歓(画家)
■運営組織は以下のとおり
名誉主席
林同春,李光耀,粛万長,鄭必堅,小林陽太郎
主席
黄輝庭
第一副主席/実行委員長
蒋暁松(兼務)
副主席
顔安,厳浩,羅い文,李堅,任政光
戦略本部
防衛大学校長 五百旗頭真,朱建栄,福川伸次等
顧問委員会
兵庫県知事 井戸敏三,神戸市長 矢田立郎,神戸商工会議所 水越浩士,
神戸国際貿易促進協会会長 新尚一,日本華僑華人聯合総会会長 曾徳深,
神戸中華総商会会長 林同春,日本新華僑華人会会長 呉智深
北京にも事務局あり.
■スポンサー
【オフィシャルスポンサー】
全日本空輸株式会社,BOAO(海南博?投?控股有限公司),中国海油(中国海洋
石油総公司),松下電器産業株式会社,鳳凰衛視(フェニックステレビ),
トヨタ自動車株式会社
【REGIONAL SPONSOR】
アサヒビール株式会社,アサヒ飲料株式会社,交通銀行,川崎重工業株式会社,
神戸製鋼所,オムロン株式会社,株式会社ストリーム,株式会社ヤクルト本社
【SUPPLIER】
株式会社アシックス
■講演予定者
黄茂雄 (台湾工商協進会理事長)
柳傳志 (レノボグループ会長)
楊振寧 (ノーベル物理学賞受賞者)
劉長楽(鳳凰衛視総裁)
余秋雨(作家)
鄭海泉(HSBCアジア太平洋地区主席)
張蘊嶺(中国社会科学院アジア太平洋地区主席)
楊大利(シンガポール国立大学東亜政治経済研究所教授)
陳賢進(東方鰐服飾有限公司社長)
許有声(中国国務院華僑事務弁公室副主任)
安井三吉(神戸大学名誉教授/孫文記念館館長)
五百旗頭真(神戸大学名誉教授/防衛大学校長)
船橋洋一(朝日新聞社主筆)
小鹿健平(アジア防災センター主任研究員)
福永久雄(バンドー化学株式会社経営企画部長)
森本章夫(神戸新聞社 前論説委員長)
近森健三(東京海上日動リスクコンサルティング株式会社事業継続グループグ
ループリーダー)
黄燐(神戸大学大学院経営学研究課教授)
山崎登(NHK解説委員)
黒川清(内閣府特別顧問/前日本学術会議会長)
巴徳年(前中国医学科学院長/現中国医師会副会長)
福島雅典(京都大学医学部付属病院教授)
少徳敬雄(松下電器産業株式会社客員/前松下電器産業株式会社代表取締役副
社長)
邵立勤(中国科学技術部高新技術研究発展中心顧問/戦略研究部研究員)
杉田定大(経済産業省中国経済産業局長/前内閣府官房知的財産戦略推進事務
局参事官)
森下竜一(大阪大学医学部教授/アンジェスMG株式会社取締役)
呉智深(茨城大学工学部教授)
唐駿(盛大総裁)
呉文繍(日本アジア証券株式会社相談役)
厳浩(イーピーエス株式会社代表取締役社長)
李堅(株式会社SJホールディングス代表取締役会長兼社長)
野田智義(特定非営利活動法人ISL理事長)
山本良一(東京大学教授)
野口直人(松下電器産業(株)環境本部長/役員)
菅野伸和(松下電器産業(株)環境渉外企画担当部長)
平田育夫(日本経済新聞社論説委員長)
秋山喜久(関西広域機構会長)
安藤忠雄(建築家)
森浩生(森ビル株式会社専務取締役)
福川伸次(機械産業記念事業財団会長)
田原総一郎(ジャーナリスト)
曽子墨(鳳凰テレビキャスター)
小島明(日本経済研究センター会長)
重村力(神戸大学工学部建築学科教授)
【質問】
京都の在日華僑について教えられたし.
【回答】
華僑と言えば,神戸,横浜,長崎と言った場所に多く定住していますし,明治初期には大阪とかにも定住がありましたが,他の地域には殆どと言って良い程住んでいません.
それが変わるのは,1970年代後半の日中国交正常化によって,中華人民共和国との国交回復が為されてからです.
バブル期になると,低賃金労働力として中国人の受け入れが進み,その後も定住して新たな華僑となっている人々も多くなります.
京都の在留中国人人口は,1903年に統計を取り始めてからは僅か15名,1911年にやっと100名に達し,1928年に漸く1,084名と1,000名を超え,1930年には1,164名とピークに達しました.
しかし,満州事変の翌年1932年には帰国する中国人が相次いで669名まで減少し,日中戦争勃発によって更に減って328名にまで落ち込みます.
その後,太平洋戦争による中国人労務者受け容れ政策で再び上昇し,1945年6月の京都府庁文書『知事引継書』によれば,中国人が389名(内訳は華僑254名,留学生135名),台湾人575名(内,学生,生徒419名),満洲国人15名(内,留学生13名),これに加えて「華人労務者」189名の合計1,165名となっていますが,台湾人は日本人扱いであり,満洲国人は中国人に含まれていないので,実質は578名となっていました.
因みに,「華人労務者」の多くは大江山ニッケル鉱山で鉱夫として働いていた人々です.
戦後,台湾人が日本人の範疇から消え,その他の地域から移ってきた華人労務者達が住み着いたりしたので,1948年には1,518名に達しますが,新中国成立で大陸に帰還した人もいて1949年には909名に落ち込みます.
しかし,概ね1,000~1,200名前後で推移していきます.
日中国交正常化により,1972年には1,000名を割り込み,989名となりますが,1979年の改革開放政策により再び増えて1,000名を越えて1,044名となり,1988年には2,467名と2,000名を突破,1990年に3,353名と3,000名を越え,1992年には4,187名と4,000名を突破し,1995年には5,114名と5,000名の大台を突破し,1999年に6,275名と6,000名に達して,2001年には8,080名と8,000名を突破しました.
因みに,京都府では2002年の統計で外国人は56,229名登録されており,うち15.7%に当たる8,829名が中国人です.
日本全国で見ると,外国人1,851,758名中,中国人は22.91%に当たる424,282名なので,中国人人口が高い順番に並べると京都は11番目で僅かに2.08%を占めるに過ぎませんが,戦前には1,000名を切っていても,全国で7番目となっていました.
京都の中国人は,当然のことながら京都市内が一番多く,7,256名が住んでおり,宇治市523名,福知山市195名,城陽市105名と続いています.
在留資格別では全国平均と比べて,教授や留学生,就学生の占める割合が極めて高くなっています.
総人口に占める割合は,全国平均では教授0.57%,留学生17.39%,就学生8.35%なのですが,京都のそれは教授で1.63%,留学生31.83%,就学生13.67%と,就学生以外は全国平均のほぼ倍です.
その出身地域は,戦後直ぐの頃は,日本と大陸中国との国交が新中国成立で途切れ,中華民国との間での関係が長く続いていたことから半分が台湾省出身者で占められていましたが,日中国交正常化以後は大陸からの移住者が増え,比例して台湾省出身者は減少して今は1割を切っています.
その中でも特に,遼寧省,吉林省,黒竜江省の東北三省出身者の増加が際立っており,他に北京市,上海市と山東省出身者もそれに次いで増加しています.
一方で,多くの華僑を世界に送り出している広東省は全国で倍にもなっていなかったりします.
全国的な東北三省出身者の増加は,中国残留孤児の帰国者対応とか同じく中国残留婦人の関係者とかであるとされていましたが,孤児1名に10名,20名の関係者が来日しているとも言えますが,それでも総数は50,000名くらいであり,2002年の統計では,遼寧省で59,366名,吉林省で40,660名,黒竜江省で47,474名ですから,それを大幅に超えます.
つまり,大量の留学生,就学生,新華僑が来日していると考えられる訳です.
ところで,現在京都に住んでいる中国人は幾つかにグループ分け出来ます.
1つ目は,戦前から住んでいる華僑とその子弟達であり,老華僑と呼ばれる人々です.
その中には戦前日本の植民地であった為に日本国籍であり,戦後,その中国編入に伴って中国国籍を回復して新華僑と呼ばれていた台湾省の人々や,「満州国」からの留学生やビジネスマンも含まれています.
現在,各都道府県にある華僑総会は,ほぼこの人々によって構成・運営されています.
これらの人々は,以前,南西諸島の砂糖黍の話でも取り上げたように,日中国交回復前に大量脱籍が起き,徐々に日本国籍を選択する人々が増えています.
特に日本の国籍法が,1985年に父系主義から父母両系主義に変わったことと,二重国籍を認めない中国の国籍法によって,更にその傾向が強まっていると言え,以前留日華僑聯合総会と呼ばれていた組織が,日本華僑華人聯合総会へと移行したのもその一環と言えます.
2つ目は,1980年代以降に大量に来日している留学生,就学生,研修生と就職して新華僑と呼ばれている人々です.
留学生と就学生は,既に見たように京都の中国人の半分近くを占めています.
このグループの人々の文化水準は高く,中国のみならず欧米を始め全世界に広くネットワークを持つ人々です.
2002年に西日本新華僑華人聯合会が設立し,2003年には日本新華僑華人会が設立されましたが,その中心は新華僑でした.
また,留学生達は主な大学に京都地区中国人留学生聯誼会を結成しています.
これらの留学生が卒業して日本で就職すると,新華僑へと移行する訳です.
3つ目は,中国帰国者とその関係者達です.
京都市内では左京区の岩倉や南部の向島団地と小栗栖団地に日本国籍取得者を含む約1,500名が,更にその近辺の宇治市や城陽市に多数集住しています.
教育委員会の資料では,2002年9月1日現在で,日本語指導の必要な中国帰国児童,生徒数は165名(内,中国国籍は117名)であり,16の小中学校に分散しています.
宇治市の平盛小学校には48名が在学し,彼等は神戸南京町と交流を持っているそうです.
これら残留孤児や残留婦人本人は日本人ですが,配偶者や周りの人々は中国人そのものです.
一部は馴染めずに帰国しましたが,殆どの人達は華人或いは新華僑として住んでいます.
ただ,これらの人々には中々行政の支援が届かず,教育水準や生活水準が低いままに置かれていたりし,中には色々と問題を起こすケースもあったりします.
4つ目は目立たなくなってきてはいますが,中華民国国籍取得者,つまり台湾出身者です.
戦前から住む台湾省の華僑は,「特別永住」という在留資格を持っています.
2002年の統計では,全留日台湾省民に占める比率は,全国平均10%に対して,京都は14%となっていて,兵庫の53%は別格にしても,大阪の18%とほぼほぼ拮抗していたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/13 23:19
青文字:加筆改修部分
さて,中国大陸から京都に来た人々と言えば,最も多いのが学僧です.
例えば,鎌倉建長寺の開山となった蘭渓道隆は,1246年に来日すると最初京都の泉涌寺来迎院に入宋僧の友人である月翁智鏡に招かれ滞在していました.
後に執権北条時頼の厚遇を受け,建長寺を開山しますが,後に再入洛し建仁寺の11世となっています.
兀庵普寧は1260年に来日し,博多から東福寺の開山となった円爾弁円に招かれました.
後に鎌倉に赴いて蘭渓道隆の跡を継いで建長寺の2世となりますが,何故か5年で中国に帰りました.
一山一寧は1299年に元の使者として来日しますが,処刑され掛けたり,幽閉されたりして,散々な目に遭います.
しかし,その後は建長寺の10世に迎えられ,更には京都南禅寺の3世として招聘されて,後宇多法皇に看取られて入寂するなど波乱の生涯を閉じました.
近世では隠元禅師が有名です.
元々,彼は長崎三福寺の中国僧から招請を受けて,1654年に厦門から鄭成功が仕立てた船に乗って来日しました.
長崎では興福寺と崇福寺に住み全国から集まった禅僧を指導していました.
当初,約束は3年でしたが,全国に隠元の名は轟き,京都の妙心寺から省政の動きがあり,龍渓宗潜の住持する摂津富田の普門寺に入りました.
此処で3年過ごしますが,その間中国から再三の帰国要請があったそうです.
しかし,1658年,遂に隠元は江戸に上り,4代将軍家綱の謁見を受け,その後,宇治に広大な寺領を賜い,此処に中国式の寺である万福寺を建立しました.
この時,万福寺造営には,建築工匠を始め仏師,裁縫師,靴匠に至るまで多くの工人を中国から呼び寄せたと言われ,その中でも仏師范道生は有名です.
以後,13世までの住持は総て中国僧でした.
現在では,日本人の住持になっていますが,読経は今でも当時の中国僧が伝えた明音で行われているなど,伽藍配置や仏像は勿論のこと行事や生活習慣に至るまで,総て中国式となっています.
この他,商人や職人を始め様々な中国人が日本にやって来て,京都に根を下ろしました.
饅頭を伝えたとされる林浄因の墓は建仁寺にあり,外郎を伝えた薬種商の陳外郎も京都で祇園祭の蟷螂山を援助していました.
他に千家十職の一閑張を作った飛来一閑も中国人です.
明治になると外国人の進出が始まりますが,京都に関しては日本人も外国人も旅行免状とは別に入京免状と言うものが必要で,原則として外国人の入市を拒否していました.
よって大阪や神戸のように簡単に華僑が定住出来る状況ではありませんでした.
但し,1870年8月22日,京都府は「居留支那人窃に童男女買取禁止の事」と言う布達97を出しています.
これによると,開港地に居住している中国人が京都に出没して貧困者から子供を買っていたのか,生活苦から開港地の中国人に子供を売っていたのか真相は不明ですが,兎に角,こうした事実を京都の社寺にもれなく伝える様に,また,そう言う事実を聞き込んで知らせれば褒美を取らせるとしています.
許可を得て京都に住んだ中国人としては,1871年に製茶の為,呉徳万,保記と言う2名が雇ったとの記録があるのが初見です.
これは以前にも取り上げた産業振興の為,勧業場で事業を展開した内の1つとして,山城国綴喜郡多賀村に南山城製茶会社を興し,この両人を雇って窮民に対して中国式緑茶製法を習得させ,その製品を米国に輸出したものです.
因みに,この2人は元々大阪の居留地にいたドイツ人レーマン・ハルトマンに雇われていたもので,雇用期間を終えた後,彼等は呉徳美と言う同業者と共に,京都の他の茶製造会社に雇われています.
1876年には,阿君,阿仙と言う2名の製茶職人が山城国宇治に住んで同じく製茶職で雇われています.
1878年になると王治桜が筆工として雇われ,他に鼎と言う人物も京都府の御雇外国人として雇われています.
その産業振興に関連して,1871年に日本最初の博覧会として京都博覧会を開催しました.
これは内国製品166点,清国製品131点,外国製品39点が展示されましたが,外国製品は神戸在住のフランス人レオン・ジュリー,ドイツ人レイマン両氏の出品が大部分で,清国製品は殆どが古銭と書画の類,日本製品も骨董品ばかりで,産業振興という面からはちょっと企画倒れの代物でした.
当時この博覧会開催で当局が最も頭を悩ませたのが,外国人の入洛に関する事でした.
日常的に外国人は京都の町に住んでおらず,彼等が入洛した際に止める宿,食事,通訳は勿論の事,生活習慣の違いで,京都市民とどんなトラブルを起こすのかが判らず,色々と検討を繰り返したと言います.
『京都博覧協会史略』に依れば,宿料金は上中下に分け,それぞれ朝,昼,夕三食のメニューを書き込み,別に洋酒の種類を書き入れ和洋両文に訳して数百部配布したと言います.
この時の外国人入京規則とは次のようなものです.
------------
外国人入京規則
1. 京都に於て博覧会開場の日は来る3月10日を以て初とし,此日より50日間外国人入京縦覧を許すべし.
但し入京を願う者は左の3条の規則に従うべし.
1. 大阪,兵庫両所に於て其自国の領事へこの入京切手を手渡すべし.
領事より之に其国名人名番号を記載し其印を押し願人へ配達すべし.
但し入京の間所々にて右切手を検査すべき事あらば之を示すべし.
その検査を拒む者或いは其切手所持せざるもの通行を免さず.
1. 滞京中遊歩するは京都府管轄外に出るを許さず,府内は勿論入京の途中狩猟発砲は一切之を禁ず.
及び都で諸人の立ち入るを許さざる場所へ入るべからず.
但し江州琵琶湖は京都管轄外といへども遊覧する事を許すべし.
尤其規程は東は彦根南は草津駅北は堅田までを限りとすべし.
1. 会場へ所持の品差出度者は前以て自国領事の手を経て大阪,兵庫の内官庁へ申出其指図を受くべし.
尤品物差出す者は開場1週日前より入京し閉場後1週日滞京を許すべし.
明治5年2月 京都府
------------
そして,外国人入京規則を発布すると同時に,外国人保護の為に警吏を設置し,この制度を広く開港開市場の関係者に通知しています.
------------
博覧会の節入京の外国人を保護すべき為京都府庁より「ポリス」を置き日夜巡回なさしむべし.
其「ポリス」は左の雛形の通り印を付くべし.
万一外国人へ狼藉不作法を仕掛くる者あるか又は外国人道路に迷い,或は俄に病気等差発る事ある時は其外国人より直に此印ある人を目的に其趣申開けば可成丈懇に取り扱うべし.
因って入京の外国人は旅宿へ着の節,兼て渡し置く入京免許の印鑑を此「ポリス」に示すべし.
明治5年2月 京都府
------------
因みに「ポリス」の記章は,黒字の服に赤線を2本附け,両線の間に白地を以て「GUARD」と入れてありました.
此の博覧会での通訳は,大阪,兵庫は勿論の事,今の福井県の一部である足羽,長崎,豊岡,宇和島,広島などから集めて凌いだと言います.
因みに,それから随分時代が下りますが,1885年4月に京都の旅館で1泊以上した外国人は75名で,国籍は英国51名,米国8名,ドイツ9名,フランス4名,清国1名,韓国2名,翌5月は総数131名で,清国人は3名,1886年の総計765名中,清国人は5名でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/14 23:28
青文字:加筆改修部分
【質問】
在日華僑組織について教えられたし.
【回答】
さて,内地雑居令が出てからも明治年間に京都に住んだ在留中国人は極めて少なく,特に女性は少なかったと言います.
これは全国的な傾向で,初期の在日中国人は単身で出稼ぎに来る職人や商人或いは留学生が殆どだったからです.
なので,京都の例では無いですが,横浜の華僑学校のあるクラスでは半分以上の母親が日本人でした.
京都の繁華街である四條繁栄会に,「四条通麩屋町より柳馬場まで立売東町商店中」と言う,1902年12月14日の日付の入った双六仕立ての広告が保存されています.
これは町内40余の店が色鮮やかな特徴ある方で紹介されているもので,その中の1軒に,「支那雑貨東華洋行」とあり,店の中に弁髪の男性と店員らしい女性が描かれています.
華僑達が京都で互助組織を作った最初が,1923年2月に結成された「僑日共済会京都支部」です.
大元の僑日共済会は,後に関東大震災で殺された王希天を会長とし,中国人労働者の生活と権利を守る為に設立された組織で,特に東京南葛飾郡大島地区で働く中国人労働者を中心に結成されました.
当時,大島町には60軒以上の中国人労働者の宿舎があり,千数百名が住んでいました.
その出身地は浙江省温州が多かったそうです.
王希天という人物は周恩来の友人で,周恩来の先輩に当たり,周恩来を経済的に支援していたそうです.
王は大正デモクラシーの世の中で労働者の権利を獲得する風潮が出て来ると,中国人労働者の労働条件の改善の為に此の組織を作り,常に先頭に立って闘っていました.
1922年9月21日に東京に僑日共済会を設立すると,翌年に大阪,京都に支部が出来ます.
因みに,名古屋では友人の王兆澄が先んじて東京と同じ様な組織を作り上げていました.
関東大震災では,デマの流布により朝鮮人が殺されましたが,巻き込まれて多くの中国人も殺されました.
大島町でも700名以上の中国人が殺されたそうです.
話を戻すと,1922年7月の統計では,京都に中国人は552名居住していました.
この内,学生は121名,家族が168名なので,有職者は263名です.
その内訳は,理髪関係者が半分以上の150名を占め,呉服行商人が79名と3割に達しています.
残りは,飲食店関係14名,洋服12名となっています.
この辺の比率は神戸の華僑でも大して変わっていません.
4年後の1926年9月の統計では,合計812名居住し,学生109名,家族221名で,有職者の内,理髪関係者は7割の339名を占め,呉服行商人が97名と2割,残りが飲食関係31名などとなっており,理髪関係者が圧倒的多数を占めていました.
ただ,僑日共済会京都支部の支部長は,江西省出身で京大留学生の熊恢と言う人物で,会を運営していたのは留学生ばかりでした.
後に,浙江省出身で京大留学生の竺華雲が支部長になりましたが,学業に忙しく,華僑労働者としっくり行かなかった事から会では学生以外の責任者を探していたのですが,見つからず,取り敢えず事務所だけを三条通大橋東3丁目の張瑞華方に置きました.
商人達の互助組織として,「神阪京華僑聯衛会」と言う組織を上海総商会長虞洽卿の来日を切っ掛けに設立しようと言う試みが出ていました.
福建省出身の人々は,呉服行商人の生業を中心としていました.
彼等は1924年,岡崎公会堂に集まり,「中華民国福州同郷会京都本部」を設立します.
会長は翁其雲で会員数100余名とほぼ総ての福州人が加入し,仮事務所を上京区松屋町通丸太町下ル呉服行商林中美方に置きました.
この会では,会則の中に会員の指定は学齢に達すれば中国学堂に入れると言う文言が入っていましたので,親たちの間では学校の設立もその目的の中に入っていたものと思われます.
府庁文書には,寄付や会費で4~500円の基金を有し,1927年の北丹後地震では府の救護本部に180円50銭の拠出をした記録が残っています.
留学生達は,本国での国民革命の進展や,日本の国内情勢に敏感に反応し,共産主義に関わる人達も出て来ました.
共済会支援の他にも,理髪業者との繋がりは保っており,1926年には華僑理髪聯合会京都本部を設立して,会長には江西省出身で京大留学生の蒋思道を選出し,中国人に対する取締緩和運動を展開していました.
また,留学生が進めていた国民と支部設立運動に協力し,理髪業者の中からは福州出身者を中心に10数名の役員が国民党に入党して,1927年1月23日に国民党支部が成立しました.
因みに,国民党の支部は50名程度で作る事が出来,最終的には70名が集まって,その内30名が左派であると,1927年7月の府庁の知事引継書に書かれていました.
なお,国民党はその後再編され,1931年2月8日に中国国民党駐京都分部設立大会に引き継がれていきます.
1928年になると念願の学校である,京都華僑光華小学校が中京区聚楽廻西町163番地に開校しました.
この学校について,本土から視察に来た国民党の役人が大阪の華僑達を前に「京都の華僑は立派である.人口も少なく,貿易商などの金持ちもいないのに立派に華僑学校を運営している」と褒めたそうです.
開校当時,此の学校には教師が3~4名,生徒が4~50名いたと言われています.
因みに,大阪でも華僑学校の設立が進められていたのですが,省間の対立が後を絶たず,全然進まなかったので,それを役人が皮肉ったとも言える訳ですが.
しかし,1931年に満州事変が起きると,3分の1の華僑が帰国してしまい,10月8日には校董会を解散し,1932年2月15日限りで休校する事になりました.
ただ,情勢が落ち着くにつれて再渡来してくる者も多く,1933年には上京区黒門通下立売下ル橋西2丁目の陳志良方を仮校舎に再開しました.
その後,竹屋町通大宮西入角に移り,1937年の日中戦争勃発で閉校した際には,油小路一条上ルに移転していました.
此の学校の校長は,ずっと王謙と言う人物が就いており,彼は又国民党京都分部の責任者であり,常任委員でもありました.
ところで,1930年9月,福州人達は宇治の黄檗山万福寺で,念願の普度勝会を開催します.
今までは,この祭りをするのは,長崎の崇福寺で行っていました.
しかし,崇福寺管長の薬師寺和尚がある時,皆わざわざ長崎まで来なくとも,総本山の黄檗山万福寺が京都にあるでは無いかと言い,京都での法要が始まりました.
これは一時中断があったものの,現在まで毎年続けられている行事となっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/15 23:31
青文字:加筆改修部分
【質問】
神戸中華同文学校とは?
【回答】
ところで昨日だったか,神戸中華同文学校の校門に放火した馬鹿がいたらしいですねぇ.
何処にも馬鹿はいるものですが,こうした馬鹿は隣国でデモやって愛国無罪とか宣っている連中と同じレベルですよ.
少なくとも日本人なら柳に風と受け流さないと,一々相手していては,益々相手の術中に嵌まってしまいます.
で,この神戸中華同文学校について今回は取り上げてみたり.
因みに横浜にも華僑の学校は有ります.
しかし,戦後,横浜の場合は,2つの中国に分裂した際,華僑総会と共に,学校も,中華人民共和国系の横浜山手中華学校と中華民国系の横浜中華学院に分かれました.
一方,西にある華僑の拠点である神戸についても,同じ様に分裂の危機があったのですが,李万之と言う人望の厚い教育者がいたために,総会も学校も分裂を免れています.
華僑と言うのは以前にも取り上げましたが,出身省別に固まる傾向にあり,その出身省の中で婚姻なども為されています.
しかし,神戸の華僑の場合は,省を越えた交際があり,台湾人と広東人,上海人と福建人と言ったカップルも多く成立しています.
これは,神戸の華僑の殆どが,神戸中華同文学校の卒業生であり,その家族であるからと言われています.
卒業生は校友会に属し,この校友会が,省の垣根を越えた交際を促していたのです.
その中心にいたのが,李万之でした.
この学校が出来た切っ掛けは日清戦争でした.
1895年の下関条約により,台湾と澎湖諸島は日本に割譲され,元来対岸の福建省南部から移住してきた漢民族系の台湾出身者は日本国籍となりました.
彼等が話す言語で最も多かったのが福建系の閔南語だったのですが,日本国籍になると台湾出身者の子弟は,日本の学校に通学することを強制されました.
台湾から渡り,神戸に定住した華僑もまた,子供達が学齢期を迎えるようになると,日本の学校に入れねばなりませんでした.
一方で,母国の伝統的な文化と言語を習得させるために,自分たちの学校が必要だと考えるようになります.
そんな中,怡和号当主,麦少彭を中心とした華僑数名が奔走し,1899年9月,中山手通3丁目24番地のトア・ロードに面した川西清兵衛所有の宅地約17,715平方メートルを瀧川儀作の斡旋で借地契約を結び,その地に木造瓦葺き2階建て延べ750平方メートルの校舎を建て,1900年3月1日に神戸華僑同文学校の開校式を挙行しました.
因みに,この神戸華僑同文学校の名誉校長となったのが犬養毅でした.
当時,この学校は戊戌の政変で清朝に追われた梁啓超の肝煎りで発足したことから,誰もが校長になることを尻込みし,校長の成り手がいなかったため,見るに見かねた犬養毅が名誉校長を買って出たそうです.
当時の神戸は広東人が多数派であった事から,発足した神戸華僑同文学校では広東語による授業が行われました.
その後,同じく広東語で授業を行う華強学校と広東語圏外の子弟のために北京語で授業を行う中華学校の2校が創設されましたが,1928年に華僑は2つの学校を合併して神阪中華公学となりました.
この学校の校舎は,現在の神戸税務署がある旧華強学校の校舎が流用されました.
そして,暫くは広東語を用いる神戸華僑同文学校と北京語で授業を行う神阪中華公学の2校体制で推移します.
しかし,1931年の満州事変,1937年7月7日の盧溝橋事件を切っ掛けとした日中戦争の勃発に伴い,華僑は激減し,生徒が激減して2校に合併の機運が生じ,1939年9月13日,両校は合併して現在の名称神戸中華同文学校となりました.
翌年の1940年3月,汪兆銘が重慶を脱出して南京に中華民国維新政府を樹立すると,華僑に対して,汪政権を支持するように強制してきたり,日本官憲が華僑に対して締め付けを強化するなど,学校関係者は,このままでは華僑が民族教育を維持するのが困難では無いかと危惧していました.
こう言った情勢の下で神戸中華同文学校の理事者達は,華僑子弟の民族教育を守り通す決意を固め,長期的視点に立って教師陣を補強しようと画策しました.
特に国語教育を通じて中国人のアイデンティティの形成をより強めようと,国語教育と歴史を重視するカリキュラムが編成され,これは現在でも脈々と継承されています.
ところで,李万之と言う人物は,1914年に天津に生まれ,河北省第1師範学校を卒業して,1935年9月,神阪中華公学へと単身赴任してきました.
当時は日中関係がギクシャクしていた時代,更に盧溝橋事件の勃発で,日中が戦争状態に突入すると,学校の寄宿舎にある教師の部屋に警察が無断で立入り,本棚の書籍を調べたり,私物を点検して反日教育の証拠になるものが無いかあら探しをしていたそうです.
特に,本国から来て間もない教師は特に念入りに調べられたりしています.
この様な情勢で2校合併を迎えたのですが,1941年に李万之は帰省中に当時の校長に辞表を送ります.
と言うのも,校長とは教育に関する考え方や価値観が根本的に違っており,これ以上,同文学校にいたくなかった為でした.
辞表を送った後は,河北省豊潤県の中学校で教師として働いていました.
そんな日々を送っている間に神戸の華僑教育の環境は益々悪化し,日本側に弱腰の校長に対して教師までも浮き足立ち,このままでは生徒に正しい国語教育を行うどころか,中国人としてのアイデンティティを確立させることさえ危ぶまれる雰囲気が充満しつつある事が伝えられてきました.
そして,学校の理事者達が白羽の矢を立てたのが李万之で,彼等は李万之に対し,同文学校の校長として復帰し,現在の状況を打破するために尽力するように要請してきました.
これに心動かされた李万之は,理事者達と書簡を交わして,李万之と共に刻苦奮闘出来る教師を探すことにしました.
理事者からの条件は,心身共に強健で,献身的,そして李万之と共に直ちに神戸に赴任することが可能な,意志堅固な者を3名と言うもの.
そこで李万之は,神戸で教育活動に挺身すること厭わないものを探し求め,募集活動を行いました.
彼は面接に際して,神戸での勤務は連日連夜,特高警察や外事課刑事の監視下で民族教育を遂行する必要のある事,それは神経をすり減らす緊迫した状況下での教育の実践であり,目立ち過ぎると,反日分子では無いかと目を付けられ,最悪の場合,検挙され,拷問される危険を覚悟しなければならないことを特に強調しました.
1943年7月,李万之は正確な国語により教育に優れ,高い水準の文学的素養を持つ王曰英,中国人としての強固なアイデンティティを持った農民気質の李蔭軒,そして中国の民間芸術の感性を備えた李平凡の3名を候補者リストに挙げました.
因みに,本国から招聘された校長を始めとする旧来の教師達は,華僑の教育を本国の制度に合致させ,母国の上級学校への進学に重点を置くカリキュラムに固執して,侵略する側の国の土地で生活し,生きていかねばならない立場にある生徒達への理解に欠けていました.
つまり,従来のやり方は中国人としての誇りと自覚を持たせ,中国人としてのアイデンティティを確立させる一方で,日本社会との関係も良好なものとしなければならない日本在留華僑特有の問題性に関する理解が不足していたのです.
準備も整い,李万之はいよいよ神戸に赴任する決意を固めました.
この年,李万之はまだ29歳.
この若い校長は既に神戸の華僑社会で指導的立場にある人々から信頼され,若年ながら学校長としての責務を遂行する力量と風格を備えていました.
そして,自らが神戸華僑の教育事業を生涯背負っていかなければならない立場にある事を強く意識し,2度目の赴任には不退転の決意で,妻子も連れて行くことを決断しました.
同時に,教導主任として赴任する李蔭軒も,同じく2人の息子を連れて行くことに家族の同意を得ていました.
こうして,8月半ばに天津を出発,鉄道で大陸を北上し,朝鮮半島南端の釜山まで行く事になりました.
列車が天津発だったので何とか座席を確保した彼等でしたが,車中は超満員で,トイレに行くには特に女性にとっては勇気が必要だったと言います.
釜山からは関釜連絡船で下関に向かい,そこから更に山陽本線に乗り換えて,クタクタになりながら三ノ宮駅に9月5日に到着しました.
そして,彼等は赴任したのですが,それを潮に,前任の校長は彼等を待ち構えていたかのようにそそくさと帰国していきました.
いよいよ,李万之と彼の同志達の戦いが幕を切りました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/21 00:03
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次大戦後,神戸中華同文学校はどうなったのか?
【回答】
さて,1945年6月20日,B29爆撃機530機が神戸に飛来し,焼夷弾の雨を降らせます.
この爆撃で神戸市外は壊滅的な打撃を受け,中山手通2丁目と3丁目にあった中華同文学校の校舎は2箇所とも焼失してしまいました.
実は中華同文学校は,学校だけで無く,学生からも犠牲者を出しています.
1945年5月11日の昼近く,凡そ100機の艦載機が神戸市東部の川西航空機工場の爆撃を行いました.
そして,大して大きいとも言えないこの工場に,無数の爆弾を降らせたのですが,この工場には,華僑挺身隊と言う組織に加わっていた華僑の若者達が,僅かな報酬と食糧の特別配給を得る為に働いていました.
この日の爆撃では多くの死者が出たのですが,その中には李万之の長女と,李蔭軒の2人の息子がいたのです.
そんな悲劇をもたらした戦争も,8月15日にやっと終わりました.
焼け出された華僑は,焼け跡を整理して,トタン板や焼け残りの木片を拾い集めてバラックを建て,臨時の住まいを確保しました.
中山手通3丁目にあった同文学校本校舎の運動場は,臨時の住居を建てる格好の場所となり,学校当局は非常時に鑑み,一部の華僑がバラックを建て始めるのを黙認しました.
あくまでも学校当局が空襲によって罹災した同胞の窮状を理解しての措置でしたが,それが裏目に出ました.
彼等は,それを奇貨として彼等はバラックを少しずつ本格建築にし,遂には既得権を主張するようになりました.
結果的に,学校は後に旧校の土地に校舎を再建するのを断念せざるを得ませんでした.
李万之とその家族も家を失い,2人の息子を失った李蔭軒主任,アレさんと呼ばれていた用務員(校工)の翁阿来,それに焼け出されて住居を無くした2,3の華僑の家族等と共に,暫くの間長田区滝谷町に有る神阪中華義荘という華僑墓園の一隅に身を寄せることになりました.
そして,焼失を免れたお堂のコンクリートの床にゴザや筵を敷き,臨時に住居としましたが,元々このお堂には,将来,死者を故地に帰すために棺が幾つか安置されていました.
その重い棺を生活空間確保の為に,数人の男達が必死になって移動したそうです.
そうこうしている内に,生徒の父兄や卒業生達が駆け付けてきて,涙を流しながら互いの無事を喜び合いました.
一方で李万之は,生活場所を確保するや,徒歩で中山手通方面に赴き,学校関係者や生徒,卒業生,そして同僚の安否を尋ねて回りました.
間もなく,神戸に米軍第8軍が進駐してきます.
それと共に,大阪の御堂筋本町に中華民国政府駐大阪代表部が開設され,劉増華代表が着任してきました.
劉代表は神戸の華僑有力者や学校関係者を訪ね回りましたが,李万之も直ちに学校関係者や神戸の代表的華僑指導者達と共に劉代表に面会して,華僑の保護と学校の再開に対する支援を要請しました.
この時の劉代表の対応が予想外に暖かなものだったので,華僑達は今までの官僚に対する冷めた感情が払拭されて,一種の安堵の念を抱く様に成りました.
劉増華は在任中,良く同文学校を視察に訪れ,2人の息子と1人の娘を大阪から同文学校に通学させています.
因みに,この2人の息子達は現在米国在住ですが,日本に来た際には必ず長田区の中華義荘に生花を携え,恩師であった甘亦雅の墓前に額ずくと言います.
残念なことに,劉増華は間もなく大阪を去り,後任には当時の典型的な高踏的な態度で華僑と接し,有力者に媚びる典型的な国民党官僚がやって来て,再び華僑達との関係は疎遠になっていきます.
1946年11月,神戸華僑の権益を守るため,大陸各省出身の華僑の組織で,李万之が会長を務めていた神戸華僑総会と,台湾省出身者で構成され,陳義方が会長を務めていた台湾省民会が合併し,名実ともに神戸の全華僑を構成員とする,留日神戸華僑総会が成立しました.
作家の陳舜臣によると,この時期,合併した旧神戸華僑総会の会員よりも,台湾省民会の方が会員数が多かったと言います.
当時の神戸華僑総会の雰囲気は,大陸との国共の争いとは別の次元で,新たに祖国に復帰した台湾同胞を温かく迎え,台湾出身であろうと大陸出身であろうと,同じ漢民族同士,協力し合っていこうと言う意気軒昂たる機運に満ちていました.
華僑総会を代表する会長や役員選出に当たっては,何処からも干渉されることの無い,全く自由な条件の下で,華僑の意見と利益を代表し得る公平で高潔な人物が理事として選ばれ,李万之は満場一致で初代神戸華僑総会会長に選ばれました.
その当時,異人館通りで知られる山の手の北野町4丁目に,一際目立つ美しい白亜の洋館がありました.
これを神戸華僑総会の事務所兼集会所に使用するため,広範な神戸在住華僑から集められた総会の公費で,この建物を購入しました.
因みに当時は未だ,協会の組織が法人格を持たなかったため,土地や建物の所有権登記は華僑総会会長の李万之の名義で行われたのですが,理事達はこの行動を咎めることは無かったと云います.
それだけ,李万之は高潔な人物だった訳です.
ところで,華僑達が緊急の課題として認識していたのが,教育活動の早期再開でした.
特に台湾省出身者は,今まで日本語教育のみを受けざるを得なかった分,彼等の子弟に対してはきちんとした中国語教育の重要性を認識していました.
そこで,多くの台湾省出身者が,大陸各省出身者と共に,影に日に動き,資金を拠出しました.
ただ,当時は台湾省出身者が大陸各省出身者と行動を共にすると,国民党特務のブラックリストに挙げられる恐れがありました.
当時,神戸には特務機関が常駐していたのです.
また,当時の神戸中華同文学校では中国の近現代史の歴史教育に,日本の学校で使われている教科書を用いていました.
台湾に退いた国民党にとっては,日本の教科書には都合の悪いことが書かれていました.
李万之は歴史教育に関しても,史実と客観性を尊重する方針を貫いていましたから,彼等は華僑の子弟を神戸中華同文学校に入学させることを嫌っていました.
そして,当時台湾当局は中国近現代史をありのままに教える神戸中華同文学校を偏向教育を行う学校と決めつけていたのでした.
こうしたことから,同文学校に寄付する者達に対して,台湾の国民党系総領事館は神経質な対応をしていました.
時には,献金者名簿の提出なども求めてきたのですが,同文学校に寄付金を拠出する善意の者に不都合が無いように,拠出された時の条件に,公開は絶対不可と言われた者の氏名は,誰が何と言おうとも,命に賭けて絶対公開しませんでした.
李万之は献金者名簿を整理する際,帳簿書類を殊の外慎重に扱い,存命中は勿論のこと,その人が亡くなられた場合でも,厳格に守秘義務を守りました.
こう言った骨太の方針を貫いた李万之に対して,神戸の華僑達は絶大な信頼を抱いたと言います.
話が少し先走りましたが,1946年1月,李万之は神戸市に教育活動再開のために協力を要請しました.
当時の中井一夫市長等神戸市関係者からも積極的な反応があり,校舎として兵庫区内に空襲で一部被災し廃校となっていた大開小学校の校舎を借用することになりました.
生徒の通学には比較的便利な市電中山手通三丁目停留所から,大開小学校に近い兵庫の上沢通四丁目停留所まで,神戸市交通局から生徒専用車を登校時と下校時に特別配車するという配慮も為されました.
とは言え,生徒,特に低学年生徒には不便な通学条件であり,父兄の間でも何とか徒歩通学圏内でと言う要望も高まりました.
ともあれ,再開した学校には多くの台湾省出身華僑の子弟が入学してきました.
李万之は,日本の小中学校に通学していた台湾籍同胞の子弟に便宜を図り,北京語による授業について行けるよう特別班を設け,甘亦雅が特別版教育を受け持ちました.
彼女は学校の教師としての報酬は一切辞退し,終生ボランティアに徹しました.
そして,彼女は李万之校長と共に日本の学校から転校してくる台湾籍生徒の為に北京語の特訓を実施したと言います.
この様に,大陸各省出身者と台湾省出身者が分け隔て無く暮らし始めたことから,台湾省出身者と大陸各省出身者とのカップルが増加しました.
こうした動きは,他の華僑居住地域には無いもので,神戸独自のものだったりします.
これは,戦後の中華同文学校の大陸,台湾との平等な教育の賜物であり,華僑社会でも,大陸出身者と肩を並べて積極的に台湾出身者が活動している素地でもある訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/21 23:55
青文字:加筆改修部分
さて,1955年初頭から始まった,神戸中華同文学校の新校舎建設と,学校法人格の取得手続きには,広東省出身の有力者である陳徳仁,福建省出身の有力者の林同春,林康秀等と共に,台湾省出身の有力者の王昭徳や李義尚等も奔走しています.
王昭徳は華僑信用金庫の前身である華僑福利合作社の創設者であり,李義尚は台湾帽子業界の雄,高砂商行の経営者と,共に台湾省出身神戸在住華僑の中で重要な地位を占めていました.
この活動をしていた1950年代当時,日本政府は中華民国政府との外交関係を維持したので,大阪には中華民国大阪総領事館があり,神戸にも国民党本部直属支部の駐在員が公然と華僑達への監視活動を強めていました.
そして,彼等が校舎再建の活動を始めた当時,中華民国政府僑務委員会は学校の運営について4つの要求を出して来ます.
1つ目は,「反共抗ソ」の国策を擁護する事.
2つ目は学校の董事会を即座に改組すること.
3つ目は教職員は董事会によって招聘すること.
4つ目に台湾から教員を派遣すること.
しかし,王昭徳も李義尚も色々言い訳や理由を述べ立てて国民党の要請を拒否し,学校への協力を続けました.
この為,当時,戒厳令下にあった故郷の台湾に帰ると,恐らく拘束されて2度と日本に帰れなくなると言う状況に陥り,李義尚等は終生生れ故郷に帰ることを断念していました.
1957年5月に敷地問題に目処が立ち,学校債権問題は募金活動へと進展します.
学校建設資金の募金運動は,神戸華僑の歴史始まって以来のスケールで展開され,地元の華僑のみならず,日本各地や香港在住の卒業生,実業家からも募金が集まりました.
一方で国民党からの干渉も強くなり,1958年5月,当時日本に於ける中華民国の代表である中華民国政府大阪総領事は一部の華僑を召集し,李万之校長と李蔭軒主任の更迭を条件に3,000万円の資金提供を持ちかけてきました.
そして,李万之校長と李蔭軒主任は台湾に来るように求めます.
李万之と李蔭軒は,中華民国政府が実際に校舎の建設資金を全額負担するのであれば,台湾に行くのも吝かでは無いと考えていたようです.
しかし,この要求がニュースとして驚く程の早さで華僑社会に拡がると,神戸の華僑達は,忽ち中華民国政府に対する強い拒否反応と嫌悪感を覚えるようになりました.
当時の中華民国政府のやり方を見ると,誰しもが台湾当局の指示に従って両名が台湾に向かえば,恐らく両名とも生きて帰れないであろうと考えていました.
学校董事会は「寄付には付帯条件を付けるべきでは無い」,家長会は「学校教育の中立性を堅持するべき」という点で一致し,校友会はこの2つの見解に基本的に賛同した上で,「建校問題と改組問題は分離して考えるべきで,後者に関し,校長と主任を更迭する理由も必要も無い」と言う意見を纏め,最終的に神戸華僑達は台湾の中華民国政府の要求と提案を固辞しました.
一方で,こうした要求に屈する必要が無いよう,校舎建設資金の募金運動に対する機運が驚く程高まり,1人暮らしの貧しい暮らしをしている老婦人でさえもがその乏しい収入の中から懸命に貯め込んだ5円,10円の少額貨幣で3万円,5万円と言った金額を李万之の許へ役立てて欲しいと持参してきました.
同文学校校友会の卒業生である大学生やサラリーマンも立ち上がり,「有銭出銭,有力出力」,つまり,財力の有る者は資金を拠出し,元気な者は募金運動に繰りだそうと言うスローガンの下,一致団結して草の根運動を展開します.
日本企業からも色々と支援の申し入れがありましたが,この情報が大阪に駐在していた中華民国政府系の機関に伝わると,彼等は直ちに人を派遣して中止を申し入れてきました.
結局,一部の企業は台湾からの大型商談や契約が来なくなるのを恐れてその話は立ち消えとなります.
しかし,中には経済的リスクを負って彼等を支援した日本企業もありました.
例えば,従来から有形無形の協力をしてきた東京銀行に対しても,中華民国政府当局は学校に関する協力の中止を申し入れてきました.
これに対し,当時の東京銀行のトーアロード支店長は銀行の業務に第三者から干渉される筋合いは無いときっぱり断り,一貫して中華同文学校に対する積極的な協力姿勢と営業方針を変えませんでした.
中華民国政府からの妨害は続きました.
学校法人設立についても,妨害と干渉の手を伸ばしてきましたのです.
学校法人設立を許可させまいと,国民政府系の政府組織に属する数名の者が兵庫県庁を訪れ,同文学校の学校法人設立申請書類を受理しないよう申し入れ,妨害工作を行って帰って行きます.
しかし,兵庫県庁は淡々と学校法人設立申請書類を受理しました.
この様に,神戸華僑達の力を結集して神戸中華同文学校は,1959年9月30日,新たな出発を始めました.
この落成式は,募金運動にかけずり回った人々,来賓,総ての学校役員,関係者等の列席の下で華やかに挙行され,学校法人の理事長には陳徳仁,副理事長には林同春,鄭義雄が就任しました.
なお,この問題を切っ掛けに,近年まで国民政府と神戸華僑の関係はギクシャクしており,此の後の国民党による神戸華僑に対する一般的評価は,党の指導を拒否した大陸寄りの集団というレッテルが貼られていました.
勿論,北京からも大物を中心として相当額の寄付金が寄せられたのも事実ですが,その後の文化大革命の熱気にも惑わされず,その事実は却って中華人民共和国の『大字報』で批判されたくらいです.
それでも,神戸中華同文学校の中立政策は揺るいだりはしません.
終始一貫,国民党旗を掲げることは無く,1972年の日中国交正常化まで五星紅旗を掲げることもありませんでした.
教育内容にしても,香港出版の繁体字教科書を教材として使う方策などが講じられました.
戦前のカリキュラムは本国の上級学校に進学することを目標とする,所謂国内志向型でした.
その為,国語教育の水準は中国国内に合わせていたので,国語の教課程度は高かったりします.
しかし,戦後は中国の国内事情が変化するに従い,華僑達の日本定住率が高まり,それに沿う形で同文学校のカリキュラムは,日本の上級校に進学することを前提としたものに変化していきました.
先述の様に,神戸の華僑は,同文学校卒業生が占める比率が高く,生徒は勿論,父兄もそして教師についても同様です.
従って,生徒にしてみれば,教師の中に両親の友人や親類もいると言う状態であり,生徒が非行に走る余地が少ないと言われ,また,上級生と下級生は同族的雰囲気であり,いじめのような現象は極めて稀にしか発生しなくなっています.
この様な点で,同校を視察に来る近隣の小中学校教職員の多くは,高い評価と羨望の目で見られますし,中学部卒業生の高校入学試験合格率も極めて高く,多くの公立高校からも,同校出身の受験生が歓迎されているとされています.
そう言う意味では,日中の正に架け橋となっているのが神戸中華同文学校であり,その中立的姿勢は評価出来るもので,同校に対する攻撃は的外れな訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/09/22 23:24
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ