c

「アジア別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆辛亥革命以降 Xinhai forradalom
<◆◆戦史
<◆中国
東亜FAQ目次


 【link】

朝目新聞」●毛沢東がいつのまにかイケメンに・・・   (of アルファルファモザイク)

『現代アジアの肖像2 蒋介石と毛沢東』(野村浩一著,岩波書店,1997.4)

 2/3くらいまで読み進んだ.
 日中戦争期,国民党支配地域後方での過酷な徴発と徴兵については,『銃後の中国社会』が最初にやったのかと勝手に思ってたけど,この本でもさらっと書いてあるね.
 国民党「軍」は,1944年段階で崩壊寸前だったとしてる.

 著者は毛沢東礼賛の人だったらしいが,さすがにこの段階では多少反省したらしきことが,後書きに書いてる.
 でも,ぼやかした書き方なので,知ってる人がみれば潔くないこと,甚だしいと感じるだろうね.

――――――軍事板,2010/12/01(水)
青文字:加筆改修部分

『蒋介石研究 政治・戦争・日本』(山田辰雄・松重充浩編著,東方書店,2013.4)

『辛亥革命と日本』(王柯, 櫻井良樹, 濱下武志, 趙軍, 安井三吉, 姜克實, 汪婉, 呂一民, 徐立望, 松本ますみ, 沈国威著,藤原書店,2011/11/22)

『西太后―大清帝国最後の光芒』(加藤徹著,中央公論新社,2005/09)

『総合研究 辛亥革命』(辛亥革命百周年記念論集編集委員会編,岩波書店,2012/09/28)

『覇王と革命: 中国軍閥史1915-28』(杉山祐之著,白水社,2012/11/22)

『毛沢東』(竹内実著,岩波新書)◆(2010/05/15) 「山形浩生 の「経済のトリセツ」」


 【質問】
 清朝末の雲南省近代化について教えられたし.

 【回答】

 さて,19世紀末から20世紀にかけての雲南は,鉄道により外界との交通が開始されたことで,経済は緩やかな成長が始まり,新たな産業が興り,交通網も昆明と海関を中心としたネットワークが出来ていきます.

 同様に,通信に関しても大きく発展し始めました.

 郵便については,雲南郵政総局が1896年に蒙自に設置されましたが,1901年になるとこれは昆明に移転しました.
 電信線は,1886年に昆明~蒙自が開通し,以後,次第に省の東・南・西の3大幹線と,四川省,貴州省,江西省とを結ぶ国内線,更にヴェトナムとビルマとを繋ぐ国際線が敷設されていきます.

 雲南に於ける近代工業は,1870年代初めに昆明にフランス人技師を招いて開設された官営軍需工場雲南機器局が最初です.
 以後,官営企業として,1906年に造幣廠,1908年に陸軍製革局,1910年に省営印刷局である官印局が何れも昆明に設立されました.
 これらの企業は何れも規模は大きくなく,労働者数は精々100~200名程度のものでした.

 官が監督し,商人が経営に当たる官督商辯や官民共同出資・経営事業である官商合辯の企業は,雲南省では主に鉱業部門で成立し,1904年には錫鉱業の分野で官商合辯の蒙自官商公司が設立されました.
 蒙自官商公司は,1909年に箇旧錫務公司へと改組され,ドイツ製機械を購入し,運搬・選別・精錬分野で機械化を実現しました.
 また,1910年に成立した中国最初の水力発電所である耀龍電灯公司も官商合辯企業で,省商会の商人達が発起して資金を集め,省政府資金も導入して設立したものでした.

 また,20世紀に入ると民間資本の蓄積も進み,民営の鉱工業も現れ,清最末期にはマッチ製造業8,食品業3,巻煙草業2等20余の企業が生まれました.
 ただ,その大部分は昆明にあり,他に昆明東南の呈貢,省南部の建水,省東北の東川,宣威,昭通に1~2の工場が有るだけでした.

 とは言え,列強を始めとする国々や日本などと比べると,まだその規模は小さく,技術的にも未だ低い水準にありました.
 資本金は官民共同出資の会社でない限り,ほぼ1万元未満であり,中国に於ける1工場当りの平均の資本額である18万元から見ても非常に小さなものでした.
 また,機械化の程度も部分的で,殆どは手工労働に依存していましたし,場所は昆明に偏るなど,上海の様な沿海の先進地域に比べると,20年以上は遅れていました.

 ところで,19世紀末から20世紀にかけての清朝は,国勢が衰えて半植民地国家に成り下がりました.
 東北部や西方はロシアの勢力が浸食し,沿海部には,上海に租界を置いた英国やフランスを始めとして,青島や膠州湾を抑えたドイツ,福建と台湾などには日本など各国が浸食してきましたが,同様に雲南などの西南地域も,これらの地域に劣らず列強の進出が激しかった所でした.
 雲南の場合,フランスのインドシナ総督府は,この地域をインドシナの付属地と見做して,軍の派遣と総督府官僚の常駐権を勝ち取ろうとしていました.

 この様に国が乱れ始めると,中国と言う国は地方からの叛乱が勃発し,その叛乱は国全体を覆って,中央政府が倒される状態になります.

 当然,外的勢力の進出は,雲南に住んでいる人々のナショナリズムを刺激せずにいられませんでした.
 1906年に執筆された「雲南の将来」と言う論文では,政府は東三省よりも雲南地域を軽視している為,
「官吏が雲南を盗んで売ってもこれを罪とせず,外国人が雲南を侵略してもこれを問わない」
と政府批判が行われていますし,1907年には,楊振鴻が書いた「雲南の官吏が外に媚びる醜状」と題した論文では,
「我が雲南が今,日々悲境に陥り,至る所外国人によって分割・割拠されるのは外国人の力では無く,官吏が我々を売ったからである」
と官吏達の責任を追及すると共に,
「我が雲南は今日,侵略者を防ごうと欲するならば,先ず内通者を殺さねばならない.
 もし内通者を殺さなければ,彼らは近い将来,我々を欺き我々を売って,侵略者を引き入れるだろう」
と過激なことを主張しています.

 そして,「雲南存立の責任は雲南人にあり」として,多くの知識人が反清運動に身を投じていきました.

 その主体となったのは,日本に留学した青年達と清末に創立された新式軍隊です.

 清末に教育制度が改革されます.
 これは,伝統的教育機関である省,府,州,県の書院を学堂に改めて,学堂の卒業生を官吏に採用することを目的にしています.
 1904年に公布され,全国に実施された新学制では,初等教育として5年間の初等小学堂,4年間の高等小学堂を設置し,中等教育として5年の中学堂,高等教育として3年の高等学堂,3~4年の大学堂,その他に師範学堂と実業学堂が設置されました.

 雲南では,1903年2月に昆明に雲南高等学堂が開校し,以後,各府,各州,各県に中学堂や小学堂が作られていきました.
 なお,1907年に雲南高等学堂は師範学堂と改称します.

 この他,法政専門学堂,外国語学校に当たる方言学堂,工鉱学堂,農業学堂,工業学堂,商業学堂が設置されると共に,女子教育の為に1908年に女子師範学堂が,1910年には女子職業学堂が設立しています.

 清末に海外留学した学生の行き先は,日本が最も多かったのですが,雲南地域でも同様で,1902~11年までに雲南から258名が留学生として海外に行っていますが,その内229名が日本を留学先に選んでいます.
 他に,3名がベルギー,26名がヴェトナムでした.
 雲南省政府は1902年に最初の官費留学生10名を日本に派遣しますが,1905年には急増して官費と私費の留学生は100余名に達しました.
 この内,東京振武学校で軍事を学んだ学生が30余名と多数を占め,他の80余名が政治,法律,師範,工商などの科目を専攻しました.

 軍事を専攻した雲南の留学生としては,楊振鴻,李根源,羅佩金,唐継堯等がおり,彼らは先ず振武学校に入学し,次いで陸軍士官学校に進学するというコースを辿りました.
 彼らが軍事を専攻したのは,救国の為には軍事力の強化が最も早道であると考えられたからです.
 雲南の場合,1904年の日本留学生の多くが陸軍士官学校第6期に進学し,中国人留学生全体199名中22名が雲南からの留学生でした.

 勿論,清朝が海外に留学生を派遣したのは,体制を守る人材を育成する為でした.
 しかし,日本に留学した学生達は,明治維新以来資本主義強国の道を歩んでいる日本と対比して,清朝専制体制下の自国の立ち後れを痛感する事になります.
 彼らは,欧米諸国や日本の政治,経済,文化を学び,自国の進むべき道を模索して,革命思想に触れ,急速にその思想を受容れていきました.
 特に雲南からの留学生の場合はこの傾向が顕著であり,辛亥革命前に帰国した数十名の留学生は,その殆どが革命の火種となり,雲南での辛亥革命の中核になりました.

 教育の改革と並行して行われたのが軍制の改革です.
 従来から清朝親衛隊として活動すべき八旗や緑営は今や無用の長物と化し,それに代わる新たな新軍を創設しようとするものでした.
 新たに士官を養成する武備学堂が新設され,1907年には36鎮の編成が計画されて,雲南には1909年に第19鎮が編成されました.

 この第19鎮は,第37協と第38協からなり,第37協の下に歩兵第73と第74の2個標が,第38協の下に歩兵第75と第76の2個標が置かれました.
 各協と標は,第37協とその管轄下の2個標が昆明とその周辺地域に,第38協と第76標が大理に,第75標が臨安(現在の建水)に配備されました.

 雲南新軍の定員は,第19鎮が10,977名,巡防軍が24,442名で,全省総兵力は35,419名でした.
 因みに,協は日本軍の旅団,標は連隊を指します.

 一応,新軍として編成と装備だけは欧米軍並のものが整備されたのですが,士官と兵士の軍事技術と素質は極めて低いものがありました.
 そこで,雲南政府は日本に留学生を派遣すると共に,清朝政府の指令に従って軍事学校を作り,軍事教育の強化を図ります.
 先ず,1899年に武備学堂を創立し,1906年には陸軍小学堂と陸軍速成学堂が,1909年には軍医学堂が設置されました.
 しかし,これらの初級軍事学校を折角設置しても,新軍を育成する為の教員が不足しており,学生も整っておらず,士官育成も侭ならない状態でした.

 この為,清朝政府は,正規の軍事学堂の不備を補う為に,新軍と巡防軍の在職の中下級軍官を訓練する為の陸軍講武堂を設立する命令を各地の政府に下します.
 雲南省でも,1909年9月に雲南陸軍講武堂が正式に発足しました.

 ただ,こうした清朝政府を防衛する陸軍部隊の育成の為に設置した学校が,辛亥革命では政府を倒す方に回ったのですから皮肉なものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/18 22:10
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南省における清朝打倒運動について教えられたし.

 【回答】

 1905年8月,東京で中国同盟会が結成され,清朝打倒を目指す革命運動は新たな段階に入ります.
 同盟会は本部を東京に置き,当初,中国の内外に9支部を設置しました.
 雲南省は,福建・広東・広西の南部各省と共に,香港に設置された南部支部に属していましたが,1906年初めになると雲南支部が正式に成立しました.
 支部長には1904年に官費留学生として訪日し,早稲田大学政治経済科に籍を置いていた呂志伊が推挙されました.

 雲南支部の成立前後に同盟会に参加していた日本留学生には,楊振鴻,李根源,羅佩金,唐継堯,李鴻祥等69名の名前が記録されていますが,呂志伊が支部長在任期間に同盟会に紹介し入会した者だけで100余人と言われているので,実際にはもっと多くの人々が同盟会に加入したものと考えられています.

 同盟会雲南支部は,1906年春から順次会員を帰還させて,雲南省内での革命運動を推進しようとしました.
 楊振鴻等は昆明始め各地に公学会,興漢会,誓死会等,公開或いは秘密の団体を組織し,革命運動の伝播に努めました.
 例えば公学会とは,社会の文明化を図り,国民の幸福を増進し,本省の危険な局面を救うことを3大目的として1906年8月に成立した団体で,英国による緬騰鉄道路調査の企てに際しては,商界,学界の人々を結集して省政府に抗議するなどの活動を展開しました.

 この雲南支部は『雲南雑誌』と言う機関誌を発行していました.
 これは東京で孫文や黄興が,支部の楊振鴻,呂志伊,李根源等と会談した時に提案したもので,同盟会雲南支部はこの建議を受容れ,4月に神田区三崎町にあった雲南同郷会の家屋に雲南雑誌社を設立しました.
 創刊号は10月15日に発行され,1911年の武昌蜂起後に停刊するまで,23号と特刊『?粋』1冊を刊行しました.
 発行部数は当初3,000部でしたが,間もなく1万部を突破し,同時期に各支部が発行していた機関誌の中で最も長く,最も発行部数の多い雑誌でした.

 『雲南雑誌』には英仏の侵略行動から民族の権益を防衛することを呼びかけ,清朝の腐朽と売国政策を攻撃した論文の他に,国家・人民・主権・民主主義などについて解説した啓蒙的論文などを掲載しました.
 また,雲南を紹介する文章も掲載しましたが,これは「未だ郷土を愛することを知らずして,国を愛しうる者はいない」と言う事で,郷土愛と愛国心を結びつけて,民衆にナショナリズムの感情を惹起させる為のものでも有りました.

 この様な形で,革命思想の啓蒙を図っていたのは,孫文が辺境革命思想と言う戦略を練っていた為です.
 この戦略に呼応する形で,南方の辺境地域を中心に清朝打倒の武装蜂起を繰返しました.
 雲南では,1908年4月30日に,会党の首領で同盟会員の黄明堂が孫文の命を受けて,同盟会員200余名を率いて,ヴェトナム国境に位置する河口を攻撃しました.
 清軍兵士の一部がこれに呼応し,蜂起軍はその日の内に河口を占領して雲貴都督府を設立しましたが,清朝政府は直ぐ様討伐軍を派遣して,5月26日に河口を攻略し,黄明堂等はヴェトナムに撤退しました.
 予め,清朝政府から蜂起軍鎮圧に協力する様に求められていたフランス植民地当局は蜂起軍を武装解除し,シンガポールに強制護送して,その地で蜂起軍を解散させました.

 河口蜂起の失敗後,楊振鴻は雲南西部で武装蜂起を起こす計画を立て,11月に騰越に入り,蜂起準備を進めます.
 彼は12月25日夜に永昌城を攻撃する計画を立てていましたが,予め城内に潜入していた同志と連絡が取れず,蜂起は不発に終わりました.
 楊振鴻は,その後官憲に追われましたが,革命工作中に感染したマラリアが悪化し,1909年1月2日に僅か35才で病没してしまいました.
 雲南での革命幹部最初の犠牲者でした.

 民間の秘密結社や同盟会では,武器の入手などが儘ならず,中々武装蜂起が成功しませんでした.
 その為,雲南省に於いて辛亥革命勃発時に主力となったのは省の新軍です.

 1909年9月に設立された雲南講武堂の指導部は,雲貴総督が兼任する督辯の下,校長である総辯,教務担当主任である監督,庶務担当主任である提調によって構成され,総辯には清朝に忠実な高爾登が,監督と提調には,日本の陸士6期卒業の李根源と張開儒がそれぞれ任命されました.
 1910年4月に保守的で経営能力に欠ける高爾登が辞任し,李根源が総辯に,湖南籍の沈汪土が監督に就任することになりましたが,総辯,監督,提調の3名とも,日本留学時に中国同盟会に加入していたので,講武堂首脳は総て革命派が握ることになりました.

 李根源は1904年に日本に留学して,1905年に同盟会に加入しました.
 日本陸軍士官学校卒業後,1909年に雲南に帰り,講武堂の監督に任命されたのですが,この時彼は革命党員である事は周りに秘匿しており,監督に就任した後は,日本の陸軍士官学校の卒業生で同盟会員及び革命思想を持つ者を多数教官に推薦しました.
 こうして,唐継堯,羅佩金,李鴻祥,顧品沈,謝汝翼,江西省出身の李列鈞,四川省出身の劉存厚等同盟会員が教官に招聘されました.
 その結果,日本陸軍士官学校卒業生は24名に達し,他の学校の卒業生を含めると日本留学生出身者は29名になり,教官総数の7割が日本で軍事教育を受けた人々でした.
 この為,雲南講武堂の軍事教育は,日本の軍事理論と軍事教育思想によって実施されることになりました.

 雲南陸軍講武堂の教官を政治的態度によって分類すると,中国同盟会員が17名,革命を支持していた者が10名,革命のシンパが5名で,教官総数41名の78%が革命派でした.
 当然,こうした革命派が多数を占めると言う事は,教育と軍事訓練の場で様々な手段を講じて,学生に対する革命教育を行いました.

 例えば,1910年に?越鉄道の開通式が昆明駅で行われた日の朝に,李根源は学生達にこんな訓話を行っています.

 今日,フランスは?越鉄道を昆明まで敷設したが,我国は鉄道を敷設出来ないばかりで無く,おめおめと国家主権を外国人に贈ってさえいる.
 我々軍人は領土を守り,国を防衛する責任がある.
 皆は学校に有っては努力して学習し,将来,誓ってこの恥辱をそそがねばならない.
 彼らはまた,フランスが管轄する郵政局が清朝政府の検閲を受けないことを利用して,国外から同盟会の機関誌である『民報』や『雲南雑誌』,鄒容の書いた『革命軍』など革命派の出版物を講武堂に持込み,密かに学生達に閲覧させました.
 当然,こうした動きは省政府の知る所となり,教育責任者に当たる省の提学使が役人を派遣して講武堂内を捜索しましたが,学生達が出版物を隠した為,役人達は何も発見できませんでした.

 雲南講武堂内では,先進的学生達を同盟会に獲得する働きかけも積極的に行われました.
 後に毛沢東と共に井岡山に革命根拠地を建設した中国革命の元老である朱徳も,此処で同盟会に加盟した学生の一人でした.
 彼は,四川省の小作人の家に生まれ,軍人を志望して昆明に出た後,1909年に雲南講武堂に入学し,その後数週間で勧誘を受けて同盟会に入会しました.

 雲南講武堂は,革命までに3期650名の学生を教育しました.
 此の後,彼らは雲南新軍第19鎮の各営で下級士官乃至見習士官に任官され,雲南蜂起に参加することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/19 23:06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 孫文って誰?

 【回答】
 孫文(1866~1925)は中国革命の先導者で,日清戦争に際して,ハワイで興中会を組織し.華僑・会党と組み.翌年10月に広州で最初の挙兵を試みたが失敗.
 その後.日本に亡命しましたが,1911年10月.辛亥革命の勃発を知って帰国後.臨時大統領に推されて.中華民国を発足させたが.まもなく南北妥協して.次いで軍閥袁世凱と交代.
 その後.袁世凱の大勢力に反抗して第2次革命を起こしたが破れ,中国国民党を改組し.中国共産党と手をに
ぎるなどしたが,北京で病没した.


 【質問】
 辛亥革命は,ナショナリズムが高揚した結果起きた反動革命だって本当ですか?
 帝政の担い手であるはずの地方郷紳が,革命に加担したが証左だとか…
 また,郷紳が革命に加担したのも,清朝が満族であることが大きな原因で,もし漢族の帝政だったら,中国が共和制になることはなかった,というのはありえるんでしょうか?

 ソースは大学の教授です.

 【回答】
 完全にそうとは言えないかもだけど,かなりそういう面はあるよ.
 辛亥革命以前に出版された『革命軍』という本の中には,
「わずか500万人の禽獣同然の満州人を皆殺しにし,260年間残虐に耐え忍んできた大恥辱を洗い流さん」
と書いてあるんだけど,そのように強烈な民族意識で革命をとらえる人も少なくなかったんだ.
 実際にこの本が,中国の国内外で100万部以上も売れていることも考慮すると,ナショナリズムと満州人に対する反感が当時,そうとう高まっていたことは疑いないと思う.

 こうして清朝の鉄道国有化問題に反対する暴動と,各地の革命軍の呼応があいまって,革命が起こったんだね.

世界史板,2010/05/09(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 昆明蜂起までの経緯は?

 【回答】

 さて,清朝に反抗する人々は中国同盟会を結成し,各種の活動をしていましたが,雲南では清朝を守る体制側の陸軍講武堂と言う,士官養成学校に中枢部に同盟会の会員が入り込み,この学校を中心に革命思想を広め,徐々にこの地の部隊を革命派に染めていきます.

 とは言え,雲南の新軍は1909年の創設以来,清朝に忠節を尽す北洋派の軍人によって掌握されていました.
 第19鎮の直接の指揮官で師団長に当たる統制の鍾麟同と,師団参謀長に当たる総参議の靳雲鵬は革命を敵視する北洋派であり,中級士官の大多数も北洋派でした.
 従って,この段階では,雲南の新軍は清朝にとって頼りとなる軍事集団でした.

 しかし,1911年の春から夏にかけて,新軍内に2つの大きな変化が生じました.
 1つは,昆明に駐屯する第37協の統領(旅団長)に蔡鍔が就任した事であり,もう1つは講武堂の教官だった革命派の軍人達が相次いで新軍の中級士官に任官した事でした.

 蔡鍔と言う人は湖南省の出身で,1898年に長沙の時務学堂に入学し,変法派の梁啓超や譚嗣同に学んだ人です.
 翌年,日本に留学して1903年に日本陸軍士官学校第3期生として優秀な成績で卒業し,帰国後は,1905年から広西省の新軍総参謀官等を歴任しました.
 1911年,雲貴総督の李経義は,李根源と羅佩金の推薦によって蔡鍔を雲南に招き,蔡鍔を7月に第37協の統領に任じました.
 朱徳に依れば,蔡鍔は外見上は細く弱々しい「典型的な知識階級」だったものの,「当代の最も輝かしく活動的な指導者で,生まれながらの組織と行政との才幹」を持っていた指導者だったと言います.
 しかも彼は同盟会の会員では無かったものの,革命派と協力して,雲南での革命派の地盤固めを行いました.

 蔡鍔が第37協の統領に就任した事は,革命派が新軍を掌握するのに有利な条件を提供しました.
 先ず,羅佩金が第37協第74標の統帯(連隊長)に任官され,元の第74標統帯で北洋派の曲同豊は第38協統領に昇進したものの,その場所は州都昆明から遠く離れた大理で第76標の指揮を執る事になり,革命鎮圧が困難な地に置かれ,これも革命派にとって有利な状況となりました.
 更に,第37協の管帯(大隊長)等の中下級士官にも革命派や革命のシンパが多数登用されました.

 こうして,第37協の中では,北洋派は第76標統帯の丁錦,第1営管帯の成維錚,第2営管帯の斉世傑のみで,第3営管帯は同盟会員の李鴻祥,第74標統帯は羅佩金,第1営管帯は唐継堯,第2営管帯は劉存厚,第3営管帯が雷飆と,この部隊は総て同盟会員で固められ,第19砲標統帯は革命シンパの韓建鐸,第1営管帯の劉雲峰,第2営管帯の謝汝翼の2名が革命派,第3営管帯の庾恩暘は同盟会員,第19馬標統帯の田青年は革命シンパ,教練官の黄毓成は同盟会員,第19機槍営管帯の李風楼は革命派,第19工程営管帯の韓風楼も革命派,第19輜重営管帯の范毓霊も革命シンパと,18名の隊長の内15名が革命を支持する人々で占められていました.

 更に革命派の軍人達は,雲南講武堂で学び訓練を受けた学生達を,下級士官や見習士官として新軍と巡防軍に計画的に配置していきました.
 配置された士官達は,配属された部隊内で兵士への革命工作を進めます.
 新軍の兵士は皆挑発された農民であり,清朝の腐敗した統治,地主の搾取,軍隊に於ける虐待と給料の上前はねに強い不満を持っており,「我々は兵士大衆の中に深く入り,革命の宣伝を進め,革命の種は次第に兵士の中に蒔かれていった」と後に朱徳は回想しています.
 因みに,朱徳はこの頃兵士達の勧めで秘密結社の哥老会に加入する事になり,この庇護の下で更に兵士達への政治工作は危険の少ないものになりました.

 1911年夏,四川省で清朝の鉄道国有化に反対する保路運動が発展し,9月には武装闘争が始まりました.
 そして,10月10日,武昌の新軍が蜂起し,中華民国湖北軍政府を樹立しました.
 世に言う辛亥革命の始まりです.

 武昌蜂起のニュースは雲南にも伝わり,革命派の間に大きな興奮を巻き起こしました.
 彼らは直ちに蜂起の準備に取りかかりました.
 当初,昆明では革命党員の間で蜂起の指導者を誰にするかを巡って意見の対立がありました.
 李根源や羅佩金等は,
「雲南の革命は雲南人が指導すべきである」
と主張したのに対し,唐継堯,李鴻祥,劉存厚等は,陸軍士官学校の先輩で才能があり,新軍の中で地位が高い蔡鍔を推挙しました.
 この為,一時は革命派の中で分裂も辞さない対立が起きたのですが,結局李根源と羅佩金が譲歩して,蔡鍔を指導者とする事が決まりました.

 10月16日から28日にかけて昆明で,秘密の軍事会議が5回に亘って開かれ,武装蜂起計画が練られていきます.
 総ての会議に出席したのは唐継堯と劉存厚で,第2回から蔡鍔も参加しました.
 一方,羅佩金は第2回目に参加しただけで,李根源に至っては1度も参加していません.
 これは指導者を巡る対立に関係があると言う説と,李根源は別の秘密の仕事があった為であると言う説があり,真相は定かではありません.

 蜂起準備が昆明で進められていた時,省西方の政治・経済・文化の中心地の1つで,辺境防衛の要衝でもあった騰越で武装蜂起が起きました.
 楊振鴻は,この地に革命の種を蒔き,その死後は楊の影響で同盟会に加入した張文光が干崖(現在の盈江)土司の同盟会員刀安仁と連携して,哥老会と新軍,更に少数民族の中で革命工作を進めていました.
 4月,広州蜂起の報が伝わり,張文光等は騰越で蜂起を図りますが,事前に察知されて張はビルマに逃れました.
 しかし,武昌蜂起が起きると,彼は直ちに帰国して,騰越地域の革命党員を結集し,統治の新軍内の革命党員とも連絡を取って蜂起を準備しました.
 蜂起は27日夜に始まり,1昼夜の戦闘を経て騰越を占領する事に成功します.
 28日には,蜂起軍の軍人と紳士,商人,学生代表が自治公所で会議を開き,張文光を都督とする滇西軍都督府を設置しました.

 昆明では,省政府が総督署と五華山の防備工事を開始するなど革命勃発に備えていましたが,騰越での蜂起の成功により更に緊張が高まりました.
 10月30日夜8時頃,城外北の北較場で北洋派士官と革命派の第73標との間で衝突が起こり,これを切っ掛けに革命派の秘密会議が予定していた時刻,31日午前3時よりも早く武装蜂起が行われました.
 これは,旧暦で9月9日に当たるので,後に「重九起義」と呼ばれています.

 遂に昆明でも武装蜂起が始まったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/20 23:26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 昆明攻防戦は,どのような展開だったのか?

 【回答】

 さて,武昌蜂起が起き,雲南省でも騰越地域が清朝に反旗を翻すと,省都の昆明も風雲只ならぬ動きを見せ始めます.
 そして,予定より少し早く,昆明でも北洋派と革命派の軍の間で衝突が始まりました.

 第73標の蜂起部隊は昆明の北門から城内に突入し,清朝を支持する部隊と激しく戦闘を繰り広げます.
 雲貴総督の李経義は,信頼していた蔡鍔に対し南郊の巫家壩に駐屯する第74標を率いて救援に駆付ける様に命じます.
 予定より早く蜂起が開始された事を知った蔡鍔は,第74標の部隊を集めて清朝打倒の起義を呼びかけ,士官と兵士達は,「革命軍万歳」を三呼してこれに応えました.

 蔡鍔は直ちに部隊を率いて昆明城に急行し,第73標と協力して清朝側の部隊と激戦し,31日昼までに総督署と五華山を占領しました.
 総督の李経義は逮捕されましたが,蔡鍔と李根源は嘗ての上官に敬意を表して丁寧に雲南から送り出しました.

 昆明の重九起義に於ける蜂起軍の損害は,死者150余名,負傷者300余名,清朝側は死者200余名,負傷者100余名でした.
 この戦闘は,発火点となった湖北省を除けば戦闘が最も熾烈で代償の大きなものでもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/21 23:37
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南軍都督府とは?

 【回答】

 騰越と昆明に和して,雲南各地でも革命が始まりました.
 西部では騰越の滇西軍都督府が,革命を拡大する為に軍を三方に進発させ,大理で合流する計画を立てました.
 ところが大理には,11月1日,昆明に成立した雲南軍都督府から革命への呼応を促す電報が届き,第38協統領曲同豊等新軍の軍人は情勢を見て革命の側に着く事を決意して,2日,曲同豊と官吏,紳士は府の役所前で反清革命支持を宣言しました.
 しかし,騰越軍は引き続き大理に進軍し,25日に大理軍との武力衝突が起きます.

 雲南軍都督府は李根源を派遣し,李は両者の対立を調停して,1912年2月1日には滇西軍都督府を消滅させました.
 南部では臨安に昆明蜂起の報が伝わると,11月1日夜,当地の革命党員と新軍,紳士の代表が秘密会議を開いてこれに呼応し,翌日南軍軍政府を設立します.
 7日,臨安の蜂起軍は蒙自に向けて進軍し,これを占領しましたが,蒙自には清朝側の勢力が強く,この地の有力者が新軍参謀と結託して12月3日にクーデターを起こしました.
 これに対し,雲南軍都督府は軍政部長となっていた羅佩金を派遣して叛乱を鎮圧しました.

 昆明での戦闘が激しかった以外,雲南では比較的速やかに反清革命が成功し,全土が昆明の雲南軍都督府の元に統一されました.
 こうして,雲南からは清朝勢力が一掃されることになります.

 辛亥革命に於いては,清朝支配から各省が独立を宣言したのですが,その独立の方法は様々で,成立した政権も,革命派の政権あり,立憲派の政権あり,旧官僚の横滑り政権,及びそれらの勢力の連合政権など様々な形態を採っていました.

 雲南省の場合でも,昆明,騰越,臨安の様に革命派が武装蜂起によって革命を成就させた地域がある一方,大理の様に保守派の軍人と官吏・紳士が革命側に寝返った地域もあります.
 また,蒙自の様に革命軍が侵攻し支配下に置いた地域もありました.
 ただ,他の地域と異なり,これらは比較的革命派が武装蜂起という形で革命を達成させた省であり,その為,辛亥革命は他の地域と異なってかなり徹底したものとなり,旧支配層に与えた影響も大きなものがありました.

 また,軍人が前面に出ていたのは,この省での市民階級が未だ未成熟であった事を示しています.

 兎に角,1911年11月1日,昆明五華山の師範学堂の地に「大中華国雲南軍都督府」または,「大漢雲南軍政府」が発足し,蔡鍔が雲南軍都督に推挙されました.
 雲南軍都督府は,成立後直ちに全省に対して,雲南起義の
「主要な目的は専制政体を取り除き,善良な国家を建設し,漢,回,蒙,蔵,夷,苗各族を結合して一体とし,共和を維持し,以て民権の強化と国力の伸張を期する事にある」
と声明しました.

 新政府が掲げた政治綱領の主な内容は,国名を「中華国」と定め,国体を民主共和国体と定めて,中国の各民族を連合して統一国家を作り,政治を改良し,民権を発達させ,漢,回,蒙,蔵,夷,苗各族を一体と見做す事にありました.
 更に建設の順序は軍政の時代から約法の時代に進み,次第に民主憲政の時代に進むとしていましたが,当然,これらの政治綱領は,将来的に全国の統一政府が成立すれば,統一政府の命令に従って処理されるというものでした.
 また,雲南軍都督府は同時に「満洲を討伐するの檄文」と題されたものには,
「韃虜を駆除し,中華を恢復し,民国を創立し,地権を平均する」
と言う同盟会四大綱領が謳われていました.

 因みに,軍法,約法,憲法の順を踏むという建設方式は孫文の三序構想そのものでした.
 つまり,雲南軍都督府は,孫文の思想そのもので革命を発展させようとした訳です.

 この様にして成立した雲南軍都督府は,英仏に対してもかなり強硬な態度を取ります.
 雲南軍都督府が両国領事に提出した覚書の主要点は次の通りです.

1. 貴国の官吏人民は中立を厳守する事
2. 貴国の鉄道は清政府に代って軍隊と軍用品を運輸してはならない.
3. 貴国の官吏人民の生命財産は本都督府が確実に保護する事を承認する.
  但し,第2条に違反すればこの条を取消す.
4. 貴国が新政府と締結した条約は引き続き効力を有する.
5. 今後,貴国の中国旧雲南省に関する総ての交渉案件は,本都督府と直接交渉して始めて有効になる.

 雲南軍都督府の政治組織は,成立時には参議院と参謀,軍務,軍政の3部から成っていました.
 参議院(後に参議処と改変)は軍事と政治を参議する機関で,院長には李根源が就任しました.
 参謀部は軍事上の総ての計画を所管し,軍務部は軍備上の総ての事務を主管しました.
 軍政部は内政上の総ての事務を主管し,李根源が軍政部総長を兼任しました.

 この様に,雲南軍都督府は典型的な軍事政権でしたが,三権分立の原則を一定程度採り入れ,省諮議局を臨時省議会に改めて立法機関とし,軍政部の民政司の下に審判局を設けて司法機関としたのです.
 1912年5月,1院3部制は,1院2庁1司制に変更されました.
 軍政部は政務庁,参謀部は参謀庁となり,軍務部は軍務司となりました.

 こうして,雲南では武装蜂起の過程で激しい戦闘が起こったのにも関わらず,革命後は社会秩序が極めて安定した状態であり,共和制国家の地方政権として組織も比較的完備したものだったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/21 23:37
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南軍都督府の隣省派兵について教えられたし.

 【回答】

 さて,政権を清朝から奪取した雲南軍都督府は,人事を大幅に刷新し,各部局の主要責任者は基本的に同盟会員か革命シンパによって占められ,同時に一群の腐敗した県知事とその他地方官吏が更迭されて,青年知識人が登用されました.
 軍隊に於いても,青年軍人が登用され,清新な政権をアピールしました.

 ただ,財政問題は深刻なものがありました.

 雲南省そのものがそもそも貧しい省であり,清朝の時代でも歳出が600余万銀元(両)に対し,歳入は半分の300余万元に過ぎず,中央政府と隣省からの援助金160余万元を受けて,尚100余万元が足りませんでした.
 勿論,辛亥革命で清朝から独立してしまうと,中央政府からの援助と隣省からの援助が途絶え,更に隣省の革命支援の支出が多額に上りました.

 これは,塩税を中央へ送金する事を停止し,省の金庫に蓄えられていた塩税収入200余万元を繰り入れる事によって解決しました.
 元々,塩税は年平均300万元が徴収されていたのですが,清朝時代はこれが地方の収入にはならず,総て中央政府に送られていたものとなっていました.
 その他,都督府が実施した釐金税と呼ばれる,太平天国の乱以後に各地が実施した国内関税の整理,富滇銀行の開設,不要な機関の廃止,一部軍隊解散などが行われ,財政を好転させるのに繋がりました.

 特に,1912年1月と6月の2度に亘って棒給の節減が行われた効果は,非常に大きなものがありました.
 この棒給節減では,上官程削減率を大きくする方式が執られ,その結果,都督の蔡鍔の棒給は大隊長のそれと等しくなりました.
 しかも,都督の蔡鍔が率先した事により,朱徳曰く,
「雲南では廉潔さが一時の気風となった」
と言います.

 …税金上げるしか能の無い某国政府に聞かせてやりたい台詞ですな.

 この様な行財政改革により,貧しい省と言われていた雲南省の財政は,1912年には雲南弊で20万元近い剰余金を出し,更に軍政府は,財政危機にあった共和国中央政府に数十万元の援助金を送る程になっています.

 財政改革だけでなく,教育面では学生司(後に教育司)を特設し,小学教育の普及を重視して,曲靖,昭通,蒙自,普?,永昌,麗江に初級師範区を分設し,同時に外国語教育に力を入れ,欧米や日本に留学生100余名を選抜して送り出しました.
 実業面でも,鉱業促進の為に鉱務暫行条例を制定し,昆明に鉱物化学検査所と地質調査研究所を設立し,特に菓旧の錫鉱山と東川の銅鉱山の保護と開発に努力したほか,農林業の面でも雲南農務総会,農業局,蚕林実業団を設立して,開墾森林畜牧章程を制定し,棉の栽培と製茶法の改良を進めました.
 工業面でも,全省模範工場の設立や商品陳列所の整頓,勧業工場を興して,市場を開拓します.
 これらの政策も,一定の成果を挙げ,雲南の資本主義社会や経済の発展を促進しました.

 一方,雲南軍都督府が取り組んだもう1つの問題は,隣省の革命支援でした.

 四川省では武昌蜂起の約1ヶ月前に各地で保路同志軍が武装蜂起し,四川全省が内乱状態となっていました.
 四川各地には,革命派,立憲派,清朝官吏,軍人,団練と呼ばれる住民自衛武装組織等による独立政府が林立し,他方,清朝側も新軍を中心とする強力な軍隊を派遣して革命勢力の鎮圧に躍起となっており,四川の情勢は極めて緊迫していました.
 当時,革命軍は武漢で戦闘を繰り広げ,長江上流の四川に於ける革命の成否は武漢の戦局に大きな影響を与える事になりました.
 そこで,同盟会の指導者である黄興や湖北軍政府都督の黎元洪は,雲南軍都督府に電報を打ち,派兵して四川の革命を支援する様に要請しました.

 11月11日,雲南軍都督府は援川軍1個師2個梯団の派遣を決定し,14日に第1梯団が昆明を出発して昭和通り経由で四川の叙州に前進します.
 次いで,第2梯団が貴州の威寧,畢節を経由して四川の瀘州に向かいました.

 丁度この時期,四川情勢は大きく変化します.
 22日に重慶で革命派による蜀軍政府が成立し,12月8日,成都で革命派が主導権を握る四川軍政府が誕生しました.
 その数日後に雲南軍は叙州と瀘州に到着しましたが,四川情勢の変化を受けて蔡鍔は前進の中止を命じ,雲南軍は叙州と瀘州一帯に暫く駐屯する事になりました.
 四川省南部に駐屯した雲南軍は,有名な塩の産地である自流井と貢井等の地を占領しますが,これに不満を抱いた四川軍との間で,1912年2月中旬,自流井北方で武力衝突が起きました.

 2月20日,成都の軍政府と重慶の蜀軍政府の代表が事態打開の為に自流井に到着し,援川の雲南軍指導者と協議して,両軍は北伐隊を組織して清朝討滅に力を注ぐ事にします.
 しかし,2月12日の時点で清朝最後の皇帝溥儀は退位を宣告しており,目標を失った雲南軍は雲南に帰還する事になりました.

 貴州省では,1911年11月3日,革命派知識人,哥老会,新軍兵士から成る自治学社が主体となって武装蜂起を起し,大漢貴州軍政府を創立します.
 しかし,清朝に反対しさえすれば旧支配層も仲間と見做すとの態度を革命派が取った為,軍政府には官僚,地主,商人などから成る立憲派の憲政党や,団練の指導者の大地主など旧支配層が加わり,軍政府は複雑な内部対立を抱える事になりました.

 更に政府が哥老会の掌握に失敗した事により,都市と農村の治安が悪化し,立憲派や旧支配層はこれを利用して軍政府の切り崩しを図るなど,雲南軍が貴州に入ったのは,省内の状況が混沌としていた時でした.
 元々,蔡鍔が貴州省に雲南軍を進駐させた本来の理由は,危機に陥っていた湖北の革命軍を援助する為でした.

 11月に漢陽が清軍によって占領され,黄興や黎元洪は長江以南の各省が北伐軍を組織して湖北省を援助する様に要請をしていました.
 これに応えて,蔡鍔は援川軍に続いて北伐軍を組織し,唐継堯を司令官に任命しました.
 当初,北伐軍の進軍ルートは瀘州に入り,援川軍と合流して中原に向かう予定でした.

 ところが,1911年末,自治学社の指導者で枢密院議長の張百麟が貴陽を離れて巡視に出掛けた隙に,憲政会などの保守派は雲南軍を貴州に導入して革命派を排除する計画を立てます.
 彼らは蔡鍔に電報を打ち,雲南の北伐軍に貴州を通過して,哥老会が引き起こしている争乱を平定する様に要請をし,蔡鍔はこの要請を受容れて雲南軍を貴州省に入れ,それから北伐を行う事にしました.

 1912年1月28日,唐継堯が率いる雲南北伐軍は昆明を出発し,3月3日,貴陽を占領して無差別の大虐殺を引き起こします.
 3月4日,憲政会などが支配した貴州省議会は唐継堯を臨時都督に推挙し,5月に臨時大総統となった袁世凱も,唐継堯を貴州都督に任命しました.
 そう言う意味では,蔡鍔は唐継堯に裏切られた訳です.

 元々,蔡鍔は強力な中央政府を待望する国家主義思想の持ち主であり,「中央政府が成立すれば,各省は当然統一政府に従属すべきである」としていました.
 しかし,実際には省単位の地方主義の芽が育ち始め,唐継堯の様な大局を見る目のない軍人が出る様になって来た訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/22 22:53
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南軍都督府が軍事政権となるまでの経緯は?

 【回答】

 1912年1月1日に孫文を臨時大総統とする中華民国が成立しますが,革命派を中心に更正された新政府は立憲派の協力を得られず,財政難も深刻でした.
 結局,孫文は清朝軍の最高実力者である袁世凱と交渉の道を選び,皇帝の退位を条件に袁世凱に臨時大総統の地位を譲りました.
 2月12日,宣統帝は退位を宣言し,此処に清朝は滅亡しました.
 そして,臨時大総統に就任した袁世凱は,首都を南京から北京に移し,権力の強化を図ります.

 他方,3月11日に公布された暫定憲法である臨時約法に基づいて国会が開設される事になり,革命派系の国民党,立憲派系の共和党,民主党,統一党などの諸政党が次々に誕生します.
 雲南省では,5月6日に蔡鍔を中心に統一共和党の雲南支部が結成されました.
 この統一共和党は,4月11日に南京に成立した同盟会系の政党で,「全国の統一を強固にし,完璧な共和政治を建設し,世界の趨勢に従い,国力を発展させ,務めて進歩を図る事」を目的としていました.

 8月25日に同盟会は統一共和党など4つの小政党と連合して国民党に改組され,雲南省でも同盟会と統一共和党の雲南支部が合体して国民党雲南支部に改組されました.
 当初,雲南の国民党支部は支部長に蔡鍔を推挙しましたが,蔡鍔は統一共和党からの離脱を声明し,国民党雲南支部長への就任も固辞した為,李根源が支部長に就任しました.

 1912年末から国会議員選挙が実施され,衆参両院870議席中国民党は392議席を占めて第1党となります.
 此処に,中央では大総統の権限強化を図る袁世凱と議院内閣制の実現を目指す国民党との対立が激化する事になります.
 袁世凱は,1913年3月20日,国民党指導者の宋教仁を暗殺し,4月27日には国会の反対を無視して,英仏独露日の5カ国借款団と2,500万ポンドの借款契約,所謂善後借款を結んで自己の政治資金を確保しました.

 更に袁世凱は国民党系の都督を罷免した為,7月12日に李列鈞が江西省で,15日には黄興が南京で反袁世凱の武装蜂起を起し,上海,安徽,広東,福建,重慶の各地が独立を宣言します.
 これが所謂第二革命と呼ばれるものでしたが,圧倒的な軍事力を誇る袁世凱がこれを2ヶ月余で鎮圧し,孫文等の革命派は再び日本に亡命を余儀なくされました.

 この時,雲南の蔡鍔,貴州の唐継堯,四川の胡景伊,広西の陸栄廷の4都督は第二革命に対して一様に反対の立場を取りました.
 雲南都督府は李列鈞等蜂起参加者に電報を打って,蜂起中止の圧力を掛けました.

 8月3日に重慶で熊克武が独立を宣言して第二革命に呼応すると,袁世凱は唐継堯を滇黔連軍総司令に任命し,同時に湖北,陝西,雲南,貴州の都督に熊軍を包囲討伐する様に命じます.

 唐継堯は貴州軍を重慶に向けて進軍させ,蔡鍔も四川省南部に派兵しました.
 9月12日,貴州軍は重慶に侵入し,熊克武はその前日に逃走して,貴州,雲南軍と,熊軍との直接戦闘は避けられました.

 蔡鍔が第二革命に反対した理由は,彼自身の考えとして,中央政府に強力な権限を集中させる事で,内憂外患に曝され,国家存亡の危機に際している中国を統一し,統一後も富強国家への道を歩む為にも,中央集権国家の誕生を待ち望んでいた為です.
 それ故,中国を分裂させようとする国民党を非難し,蔡鍔は国民党を過激派と呼んで,「過激派や破壊に従事し,もしその目的を達成できるなら,全国を犠牲にしても意に介さない」と述べました.
 これは,当時,多くの中国人が渇望していた平和と社会秩序の安定を希望したものであり,蔡鍔が第二革命の反対したのも,社会思潮の反映でもあった訳です.

 ところで,第二革命後,袁世凱は西南3省への進出を図りましたが,比較的強固な政権を維持していた雲南省は警戒すべき存在でした.
 袁世凱は取り分け蔡鍔を「才能はあるが,陰謀を持っている」と見なし,彼が雲南にいる事は危険であると考える様になります.
 蔡鍔も又,辺境で尚且つ貧しい雲南では,彼の遠大な計画を実現させ,大局に対応する事が出来ないと言う思いから,この地を去る事を希望し,1913年9月28日,袁世凱は蔡鍔を北京に移る様に命じ,蔡鍔は唐継堯を雲南都督に推挙します.

 こうして蔡鍔は10月9日に昆明を起って北京に向かい,11月末に唐継堯は貴州から昆明に帰って,雲南都督に就任しました.
 唐継堯が雲南都督になり,雲南に於いて蔡鍔が理想とした政治は,終わりを告げます.

 それから間もない12月8日,大理で辛亥革命時に騰越蜂起に参加した楊春魁を指導者とする叛乱が起きます.
 これは,大理地区に於ける重税に対する反対を切っ掛けとするものでした.
 確かに,蔡鍔は財政の立直しを行い,農業税等各種税金の一時的な軽減を行いましたが,相次ぐ軍事出兵で歳入不足が露呈すると,再び税金を重くし,民衆の生活は悪化していました.
 楊春魁は,
「孫文と李根源等の命令を奉じる第二革命である」
と称し,蜂起軍は大理を支配下に入れて袁世凱からの離脱と独立を宣言しました.

 この蜂起に対し,唐継堯と雲南軍師長の謝汝翼は袁世凱政府の命令を受けて大理に出兵し,叛乱を鎮圧します.
 李根源と張文光もこの叛乱に巻き込まれ,李根源は日本に亡命し,故郷の騰衝にいた張文光は謝汝翼軍に襲撃されて射殺されました.
 こうして,理想を奉じて発足したはずの雲南都督政府は,民衆を抑圧する軍事政権への道を辿り始めました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/23 23:13
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南が反袁闘争の基地となったのは何故?

 【回答】

 清朝最後の皇帝宣統帝が退位し,中国は孫文を元首とする共和国になったのも束の間,孫文を排して国家権力を握った袁世凱は,独裁体制を一層強化しました.
 1913年10月に臨時大総統から正式な大総統に就任した袁世凱は,1914年1月に国会を廃止し,5月1日には臨時約法に替えて大総統の権限を著しく強化した中華民国約法を公布しました.

 しかし,第1次大戦の勃発により,欧米諸国から新たな借款を入手する事が不可能になった他,1915年1月に欧州大戦のドサクサに紛れて日本が対華21箇条要求を突きつけ,5月に袁世凱がそれを受諾せざるを得なくなると,袁世凱政権は財政的も政治的にも窮地に立たされます.
 彼はこの政治的危機を更なる独裁体制の強化によって乗り切ろうとし,新たな皇帝制度の創設に踏み切りました.
 1915年12月12日,大総統の諮問機関である参政院が袁世凱を「中華帝国皇帝」に推戴すると,袁世凱は即位を受諾しました.

 そして,1916年は洪憲元年とされ,袁世凱は1月1日に洪憲皇帝として即位する事になりました.

 この帝政復活の動きが公然化すると,中国の広範囲の階層で反対運動が起きました.
 既に1914年7月,孫文は亡命先の東京で中華革命党を結成し,党員を中国各地に派遣して反袁闘争を組織していました.
 一方,中華革命党の秘密結社的性格を嫌って欧事研究会を組織した黄興等も,孫文の反袁闘争を支持します.
 更に,袁世凱の与党である進歩党の中からも,梁啓超等が反袁世凱の隊列に加わりました.
 梁啓超は国体変更と帝政復活に反対する論文を北京と天津の新聞に発表しました.
 これら各派が反袁闘争を進めるに当たって注目したのが雲南でした.

 孫文は呂志伊を,黄興等は李根源を雲南に派遣し,梁啓超,蔡鍔等も雲南と貴州を討袁の基地とすることを決定しました.

 雲南が反袁闘争の基地として選ばれたのは,軍事的に圧倒的な袁世凱政権と戦う上で,雲南に特殊に有利な条件があった為です.
 地理的条件から見れば,雲南は険しい山々によって守られた険要の地です.
 又,省の南部と西部は仏領インドシナのヴェトナムとラオス,そして英領ビルマと接していますから,後方から攻め込まれる危険性が無く,しかも国外の革命党員との連絡が容易であるという利点がありました.

 軍事的に見れば,雲南軍は雑多な地方軍の中でも突出して質量とも強力な軍隊でした.
 雲南軍は,辛亥革命後に2個師1旅,約15,000名に拡充され,武器もドイツのクルップ社製を中心とした先進的なもので装備されていました.
 以前,蔡鍔が,
「雲南軍の精鋭なる事,全国に冠たり」
と述べたのは誇張ではありませんでした.

 政治的に見ても,当時の雲南の権力者の多くは,元同盟会員か革命シンパであり,彼ら自身も強固な共和主義思想の持ち主でしたし,民衆の中にも辛亥革命の洗礼を受けて共和主義の影響が拡がっていました.

 雲南に於ける反袁闘争の出発点は,1915年9月11日に羅佩金等中下級士官が組織した秘密軍事会議でした.
 会議では多くの血で購った民国を袁世凱に私物化されるのは我慢ならないとの認識の下,投票により全会一致で帝政に反対する事を議決しました.
 また,羅佩金等士官は,袁世凱によって雲南都督に任じられた唐継堯に対する方針を決めます.

1. 適当な時期に唐継堯に態度を明らかにする様要求する.
2. 帝政に反対であれば指導者に擁立する.
3. もし中立ならばヴェトナムに送り出す.
4. 帝政に賛成ならば殺害し,羅佩金を指導者とする.

 こうした過激な要求に対し,当初唐継堯は躊躇しましたが,士官達が自分を殺害しかねない位の態度を示しているのを見て,危害が自分に及ぶのを恐れ,又梁啓超や蔡鍔が各種ルートから唐継堯に袁世凱の帝政に反対する様督促した事もあり,やっと態度を反袁に決めました.
 尤も,それとは逆に早くから唐継堯が帝政復活の方針に反対していたという説もあります.

 12月17日に中華革命党の李列鈞,欧事研究会の熊克武等が,19日には蔡鍔が昆明に到着します.
 蔡鍔は,8月15日,袁世凱の帝政復活運動が公然化した直後,天津に梁啓超を訪ね,帝政復活反対の闘争を進める事で合意しますが,袁世凱の注意を逸らす為,表向き梁啓超を批判し,帝政への賛成を装いました.
 その上で,蔡鍔は病気療養を理由に北京を脱出し,12月2日に日本に渡り,袁世凱の目を欺いて密かに台湾,香港,ハノイを経て雲南に入りました.
 12月21日,唐継堯と蔡鍔は軍事会議を開催し,李列鈞と熊克武等がこれに参加します.
 雲南の動きは既に袁世凱の特務によって察知されており,これを秘密にすることは不可能となっていました.
 この為,会議参加者は一致して蜂起を繰り上げることに同意し,23日に唐継堯等は袁世凱に帝政取消を要求する電報を打ちました.
 これに対し,袁世凱からは何も応えなかったので,25日,唐継堯,蔡鍔,李列鈞等は全国に通電を発し,雲南独立,帝政反対,袁世凱討伐を宣言しました.
 27日,唐継堯は省議会で国民大会を開いて独立を宣言し,昆明の市民は各家に自発的に「擁護共和万歳」の標語を張って国旗を掲げました.

 護国戦争はこうして始まったのです.

 雲南独立を宣言した唐継堯,蔡鍔等は,中華民国雲南都督府を設立し,袁世凱討伐軍を護国軍と命名しました.
 また,諸外国に対しては,袁世凱の帝政発足以前の各種条約は承認し,外国人の生命,財産を保護する事,帝政発足後の条約は承認せず,袁世凱政府を支持する国には反対する事を宣言します.

 護国軍は3個軍に分れて四川,広西,貴州の3方面に侵攻する作戦計画を立てました.
 四川に向かう第1軍は,蔡鍔を総司令とし,護国軍の主力です.
 兵力は6,000余人に及び,武器の多くはドイツ製で部隊の素質も良く,戦闘力は比較的強力でした.
 広西に入る第2軍は李列鈞を総司令とし,貴州に入る第3軍は唐継堯を総司令としていますが,両軍とも新編成の部隊であり,士官と兵士の素質や装備は第1軍より劣っていました.

 雲南では軍拡充の為,緊急に兵士の徴募が行われました.
 昆明には徴兵事務所が置かれ,退役士官と兵士を召集し,壮丁を募集して,集中的に訓練を施しましたし,各県の保安団と保商団を徴集して各部隊を補充し,義勇軍4,000名を徴募して第2軍に編入しました.
 その結果,正規軍の規模は従来の12個師から36個師に拡充され,総兵力は3万名近くになりました.

 ただ,雲南の省財政は以前と殆ど変わらず,寧ろ,以前は自由に使えていた主要歳入源である塩税が,1914年4月以降は善後借款の担保になった為,再び中央に取り上げられてしまい,兵力増強は過重な負担となります.
 この為,都督府は省内各機関の預金を下ろし,余剰な機関を整理統合し,中等以上の学校を閉校して,それらの費用を軍費に転用しました.
 また,塩税収入は再び差し押さえ,各地の紳士や商人から献金を集め,各県に献金額を割り当てました.
 更に在外華僑からも募金を集め,雲南の中国銀行の預金を引き出し,更に諸機関,各県,銀行,貴州省や広西省から借金して資金を集めました.

 これにより,護国軍が出動する際には士官と兵士に3ヶ月の給料を事前に支給し,将校の給料の半分は省に止め,家族が月ごとに受け取ることが出来る様にしました.
 この様な施策により,護国軍は兵力の点では国軍である北洋軍に遙かに劣勢だったものの,士気の点では北洋軍を遙かに上回っていたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/24 23:23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 護国戦争の戦闘経過は?

 【回答】

 さて,その雲南軍改め護国軍は,雲南から周辺の3省に攻め込む事になりました.

 対する袁世凱は湖南,四川,広西の3省から逆に雲南に侵攻する計画を立てていました.

 湖南省から貴州省を経て雲南を攻める第1路軍は総兵力約4万名,
四川省から雲南を攻める第2路軍は総兵力約4万2,000名
であり,北洋軍巨頭の曹錕が両路軍総司令として,重慶から指揮を執りました.
 第3路軍は,始めヴェトナムから昆明へと侵攻する計画でしたが,フランス植民地当局がこれを拒否した為,広東省と広西省の連合軍を広西省から動員して雲南を攻めると言う計画に変更します.
 この様に,護国軍と北洋軍の主力は四川省に展開しており,四川省が護国戦争の主戦場となりました.

 蔡鍔は,北洋軍の援軍が四川省と貴州省に到着しない内に,叙州,瀘州,重慶という戦略上の3大要地を占領する作戦を立て,第1軍を2手に分けて四川の叙州と瀘州に進軍させました.
 更に,1916年1月22日に貴州省が独立を宣言すると,貴州軍は護国軍第1軍の右翼軍として編成され,重慶と湖南の双方向に進軍します.
 しかし,護国軍が雲貴高原の山岳地帯の行軍に手間取っている間に,北洋軍は長江の水路を利用して先に四川南部に到達した為,護国軍は苦戦を強いられる事になりました.

 四川での戦闘は,叙州と瀘州を主戦場に一進一退の激戦が続きました.
 護国軍側は一時叙州を占領し,国の内外に衝撃を与えました.
 また,瀘州では蔡鍔自ら護国軍を率い,北洋軍精鋭の呉佩孚軍と激闘を繰り広げますが,双方とも決定的な勝利を得られず,3月下旬には休戦状態になりました.
 ただ,護国軍は兵力的には圧倒的に有利な北洋軍に対し旺盛な士気を以て戦い,敵の雲南への進撃を阻止することに成功しました.
 これは,戦略的には護国軍側の勝利であり,帝政に反対する全国の人々を励まし,護国運動の発展を促しました.

 一方,湖南省に進撃した護国軍の東路軍は,2月始めから約3週間の戦闘で,州西部の8つの県城を攻略して,長江下流域の各省を震撼させました.
 3月に入ると北洋軍の反撃が始まりますが,3月15日に独立を宣言した広西省の軍隊が湖南省に侵攻し,省西部の戦闘も膠着状態に入りました.

 又,袁世凱は,広東省の将軍で雲南省蒙自県の土司出身である龍済光と兄の龍覲光に命じて,東南方面から雲南を攻撃させようとしました.
 龍覲光部隊は2月下旬に広西省から雲南に入って,省境の広南県城を占領し,3月10日,土司軍と連合して箇旧を占領します.
 これは護国軍の後方を攪乱させようという意図で行われたものですが,護国軍は直ちに反撃して広南と箇旧を奪還し,龍覲光軍と土司軍を一掃しました.

 こうして武力による雲南制圧は失敗し,袁世凱は苦境に陥ります.
 広西省の独立に次いで,広東省,湖南省,広西省などで討袁に呼応する動きが相次ぎました.
 北洋軍の将軍達も袁世凱に対し,帝政の取消を求め,日本,英国,ロシアなどの列強も中国に動乱を起こすとして帝政に反対を表明しました.
 3月22日,袁世凱は帝政の取消を宣布して事態の収拾を図ろうとしますが,討袁軍はあくまでも袁世凱が大総統の地位を辞することを要求しました.
 その後膠着状態が続きますが,6月6日,袁世凱が失意の内に病死すると,南北両軍の交渉は進展し,6月末に和議が成立して,護国戦争は終結し,国内の統一が回復されました.

 その護国戦争指導者の1人である蔡鍔ですが,以前から結核を病んでおり,袁世凱の下を脱出し,雲南に着いた時に既に相当な状態まで病勢は進行していました.
 それに加えて四川での戦闘で更に彼の健康を蝕み,護国戦争終了後に四川督軍兼省長に任ぜられたものの,病気を理由に辞職して治療の為日本に渡り,11月8日,福岡の病院で死去してしまいました.
 僅か34才の若さだったと言います.

 しかし,この護国戦争は,全国に雲南の名を轟かせたものの,以前からの貧しい省である雲南にとっては,貯金通帳の底まで引っ攫えた戦争でありました.
 戦争に対する雲南の支出は少なくとも1,000万元に達し,1915年の省財政歳入440余万元の倍以上でした.
 戦争時期に集められた資金の内,かなりの部分は返還しなければならないものでしたが,返済能力に欠ける雲南省政府は富?銀行の紙幣増発に頼らざるを得ず,それは必然的に通貨価値の下洛を招きました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/25 22:49
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 靖国戦争とは?

 【回答】

 袁世凱の死後,中国は強力な中央政府が地方を統制するという機会を逸し,軍閥と呼ばれる地域政権が抗争を繰返す時代になりました.
 北洋派は段祺瑞を首魁とする安徽派と馮国璋を首魁とする直隷派に分裂し,各地方でも大小様々な軍事政権によって支配が為されます.
 西南地域は,雲南の?系,広西の桂系に代表される西南派によって支配されました.
 西南派は,北洋派との関係で言えば直隷派に近く,孫文と時には提携し,時には対立する複雑な関係にあります.
 雲南を支配してのは,唐継堯であり,その統治時期は1913~27年にかけての長期間に及びました.

 この唐継堯は,護国戦争に於いては蔡鍔,李列鈞と共に護国三傑と呼ばれる重要な役割を果たしますが,その護国戦争後は,一転,積極的な対外拡張政策,つまり,「大雲南主義」を採用しました.
 それは貴州省と連合して四川省を狙い,貴州省と四川省を確保した後,広東省,広西省,湖南省と組んで南方6省同盟を形成し,北洋派と対抗しようというものでした.

 唐継堯は自らを「中原の第1流の人物」と見なし,「孫文は共和を創造したが,我唐某は共和を再び作った」と述べて,孫文と同格であることを主張しました.
 そして,彼は西南王となり,更には中原に打って出て,中国の主になるのを夢見ていました.

 とは言え,唐継堯は個人的野心から対外拡張政策を行ったのでは無く,戦略的観点から雲南省の安全を確保するには,四川省と貴州省を掌握する必要があると考えていましたし,経済的側面から見れば,四川省の豊かな物産は貧しい雲南省から見て大きな魅力でした.

 また,雲南では,護国戦争中に8軍にまで拡張した軍隊の処理が深刻の問題でした.
 雲南軍当局は「就食隣省」,つまり,隣省で自省軍隊を養わせると言う政策を採用し,省外にいる雲南軍には各地に駐屯する様命令して,雲南への帰還を許しませんでした.
 当然,この政策は各地で紛争を起こしましたが,取り分け,四川省の軍人や政治家は唐継堯の政策に不満を持ち,逆に四川省の不安定化に繋がっていきました.

 1917年以後の中国の政治情勢は,大局的に見れば北京政府と広東軍政府の南北構想の形で展開しました.
 北京政府の実権を先ず握ったのは安徽派の段祺瑞であり,彼は日本の援助を背景に武力により中国を統一しようとします.
 これに対し,孫文等は「護法」を掲げて1917年9月に広州に広東軍政府を成立させ,北京政府に対する護法運動を展開しました.

 唐継堯は段祺瑞の武力統一政策に対抗する為に護法運動を支持し,9月に成立した第1次広東軍政府に於いては,桂系軍閥の陸栄廷と共に元帥に選出されました.
 しかし,大元帥孫文の下位に置かれることを嫌い,元帥の職を受けませんでした.
 唐継堯としては,「護法」の大義名分を掲げて合法的に四川省を雲南省の支配下に置くことにあり,広東軍政府の成立により四川出兵に対して合法性を獲得する事になりました.

 こうして,唐継堯は西南王になる事を目指して,再び四川省に出兵したのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/25 22:49
青文字:加筆改修部分

 さて,四川に於ける戦争は,1917年4月と7月,成都での四川軍,雲南軍,貴州軍の混戦に始まります.
 7月,唐継堯は雲南軍を靖国(せいこく)軍と改名し,貴州軍を含む約5万の兵力で四川での戦争を開始しました.
 この為,この戦争を靖国戦争と言います.
 これに対し,北京政府の支持を受けた劉存厚等の四川軍は反撃を加え,雲南軍に大勝しました.

 この敗北原因の1つは,雲南軍の支配に苦しむ四川の軍隊と民衆が,唐継堯の四川侵攻に対し一致して戦ったことに有ります.
 唐継堯の腹心の将軍の1人は,四川の「総ての兵匪団警及び男女老幼は等しく雲南軍を敵視」していること,他方,雲南軍は「瓦解して収拾できない状況」にあり,金銭を着服するなど腐敗が拡がっていることを報告しています.
 辛亥革命やその後の護国戦争で蔡鍔が作り上げた革命を遂行し,四川省民から歓呼して迎えられた精鋭部隊の面影は全く無く,今や同じ四川の人々から唾棄される侵略軍へと変質していました.

 しかし11月になると,戦局は靖国軍に有利に展開し始めました.
 四川軍の中には熊克武等護法運動を支持する勢力が四川靖国軍を形成していました.
 四川軍主力が,瀘州と叙州付近に集中している間に,四川靖国軍と雲南軍の一部が重慶を攻撃し,11月4日にはこの長江流域の重要都市を占領しました.
 次いで雲南,貴州,四川の靖国連合軍約10万は熊克武を総司令として成都に向けて進撃し,1918年2月20日,成都を占領する事に成功します.
 こうして,四川奪取と言う唐継堯にとっての靖国戦争の目標は一応達成されたのです.

 重慶を占領した唐継堯は,熊克武を四川督軍兼省長に任命しましたが,それは宣伝の手段に過ぎず,靖国連合軍の再編制を実施して護法に参加した四川軍を自己の指揮下に置き,雲南軍を四川省中部の自貢,南部の瀘州,三峡の入口である万県と奉節等戦略上の要地と富裕な地域に配置します.
 更に唐継堯は,滇川黔靖国軍総司令名義で,1918年9月,雲南,四川,貴州,湖北,河南5省の軍指導者を重慶に召集して連軍会議を開催した上,28日,軍政府総裁就任式を挙行します.
 因みに,それより前に北京政府との和平交渉を図った雲南,広西派は孫文の指導権を排除する為に,1918年7月に広東改組軍政府を組織していました.
 これにより,政府は7名の総裁の合議制となり,唐継堯,陸栄廷,孫文,岑春?等が総裁に選出されたのです.
 そして,軍政府総裁となった事で,唐継堯は栄華を欲しいままにして,絶頂を迎え,「西南王」とまで称される程になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/26 23:23


 【質問】
 靖川戦争とは?

 【回答】

 軍政府総裁となった事で,「西南王」とまで称される程,栄華を欲しいままにしていた唐継堯ですが,彼の黄金時代は長く続きませんでした.
 既に四川の軍人は雲南軍の四川支配に不満を持っており,唐継堯との対立を深めた熊克武も雲南軍の駆逐を図りました.
 こうして,1920年5月,四川軍と雲南・貴州連合軍の戦争が再び始まり,四川軍は敗北しましたが,陝西省方面にいた劉存厚と提携し,北京政府の指示を得て靖川軍を結成します.
 そして,靖川軍は反撃に出て11月に雲南・貴州軍を四川省から駆逐する事に成功しました.

 雲南軍が四川から駆逐されると,唐継堯の指導力に疑問を抱いた軍人達も出て来ました.
 駐川滇軍第1軍軍長の顧品珍が,唐継堯に対して叛乱を起こします.
 顧品珍は昆明出身で,唐継堯と同い年であり,更に日本陸軍陸士6期の同期であり,雲南講武堂の教官となり,辛亥革命と護国戦争に参加するなど,経歴も同じ様なものでした.
 護国戦争後は,唐継堯と顧品珍は上官と部下の関係となりましたが,両者の間に大きな対立はありませんでした.

 しかし,四川での戦闘により,そこに駐屯していた3万余名の雲南軍は,四川から駆逐されると1万余名に激減すると言う事態に陥りました.
 兵士達は士気を低下させ,故郷への帰還を切に望んでいました.
 こうした兵士達の意向と,唐継堯の指導力に疑問を抱いた上層部との思惑が一致し,顧品珍は1921年2月,昆明に進撃すると,唐継堯は親族と腹心の部下を伴って香港に亡命を余儀なくされました.

 雲南軍総司令兼省長となった顧品珍は,戦争を止め民を休ませることを政策として掲げて,民衆の支持を得ることに成功しました.
 ところが,雲南でも新文化運動の影響で市政や教育,文化の面で革新的な動きが生まれていたのに関わらず,保守的な顧品珍はその動きに目を瞑り,彼ら新文化運動の担い手を抑圧する様になります.
 また,治安強化の為に土匪の討伐に力を注ぎますが,以前の唐継堯は討伐と懐柔の二面政策を採っていたのに対し,顧品珍は徹底した討伐政策を採り,それに反発した土匪の跳梁を引き起こしたことで,在地の支配者である紳士層から不満が出る様になりました.
 この様に,顧品珍は軍事的に成功しても,政治的に失政を重ねた為,民心は彼から離れていきます.

 これに対し,唐継堯は復帰の機会を虎視眈々と狙っていました.
 唐継堯は,広西省各地に駐屯していた雲南軍を糾合して雲南への進軍準備を始めました.
 当時,広東に護法政府を再建し,北伐の実施を企図していた孫文は,唐継堯に北伐の参加を要求しますが,唐継堯はこれに従わず,1922年に雲南に入りました.

 顧品珍軍の兵力は,唐継堯軍を上回っていましたが,唐継堯軍を軽視した上に,内部が不統一でした.
 他方,唐継堯率いる雲南軍は故郷帰還を願って一致団結しており,更に土匪勢力も味方に付けました.
 その上,唐継堯は滇越鉄道や東方匯理銀行などの雲南に於けるフランスの利権を擁護していた事から,フランスも密かに唐継堯を支持し,鉄道輸送や情報面で唐継堯を援助しています.

 こうして,各地で連戦連勝した唐継堯軍は,3月24日に昆明に入り,25日には顧品珍が戦死して,顧軍は瓦解しました.
 4月8日,唐継堯は省議会から省長に推挙され,再び雲南の統治者に返り咲くことが出来ました.

 復帰した唐継堯は,先ずは長年の戦争で疲弊した軍と民衆を休息させる為,当面省内の安定に力を注ぎ,省外の問題には関わらないことが良策だと考えました.

 1920年代には湖南省から華中や華南の各省に波及した連省自治運動と言うものが花盛りでした.
 これは,各省が省憲法を制定して省自治を実施し,次いでそれら自治各省が集まって連省憲法を制定して連邦国家を建設しようとする運動です.
 勿論,この考え方は一枚岩では無く,内戦により全国的な改革が困難な状況の中で改革の焦点を戦術的に省レベルに移行しようとした革新的知識人と,省の自立により在地に於ける自らの政治的経済的権力を確保しようとする軍人や紳士と言った方向に二極化されたのですが,唐継堯は当然後者でした.

 とは言え,それはおくびにも出さず,
「現在,救国の方法は,連省自治に勝るものはない.…民治の潮流は又遍く天下に流れ込んでいる」
と述べて,連省自治を支持します.

 唐継堯は湖南省の自治に見習って,雲南民治実進会を組織するのですが,それは唐継堯の利益を妨げない範囲内で存在が認められたに過ぎません.
 省憲法については,雲南省議会が「雲南省憲法準備処組織法」を議決しましたが,唐継堯は国の憲法の成立後,それに依拠して省憲法を制定すべきだとして,省憲法審議の延期を言い渡しました.
 その後,唐継堯は法制委員会を組織し,「雲南省政府暫行組織大綱」を制定して,それに基づいて省政府の改組を実行しました.
 この組織大綱には,省長の民選や任期の規定はなく,省長の権限を制約する条文もなく,唐継堯に終身省長の権利と無制限の独裁的権力を賦与したものでした.

 また,法制委員会は県,市,村の自治章程を制定,頒布しましたが,この章程は不識字者,阿片吸引者,正当でない営業者,宗教関係者から選挙権,被選挙権を剥奪し,教師と在学生の被選挙権を停止していました.
 これ,当時の雲南では不識字者と阿片吸引者が多数を占めており,これらの人々を排除した民治は紳治と官治でしか無かった訳です.

 何となく,こうした流れを見ていると,某関西の市長(当時)がやりたがっている様な事とダブってくるのですが,気のせいでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/26 23:23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 孫文の後継者と言われた汪兆銘が,現実には蒋介石に取って代わられたのは何故?

 【回答】
 自前の軍隊を持っていなかったから.支那では自分の軍隊を持って初めて一人前の政治家.

 汪兆銘は完全な文人だったので,乱世ではそれが仇となった.
 対する蒋介石は,黄埔軍官学校の頃からの国民党の軍事部門の生え抜き.
 この差は大きい.

 汪兆銘は,自前の軍隊を持たない故に,あちこちを転々として最終的には日本の力に頼らざるを得なかった.
 もっとも,蒋介石は国民党のテロ組織である『藍衣社』を使って政敵の暗殺を度々行い,ファシスト独裁を行なったってのもあるが.

 重慶からの脱出の際にも,汪兆銘は暗殺されかかっている.
 二人は,ソ連のスターリンとトロツキーの関係と似たようなものと思ってよい.


 【珍説】
 革命勃発の報を受けて急遽帰国したのは,孫文だけではなかった.
 日本に留学して1910年に東京の陸軍士官学校を卒業し,砲兵隊の見習士官として日本軍に勤務していた蒋介石も,その一人である.

林信吾「防衛黒書」p.57

 【事実】
 林信吾氏に限らず,
「蒋介石は日本の陸軍士官学校を出た(または入学した)」
と誤解してる人が多いですが,実際は違います.

――――――
 (引用者注:蒋介石は)1906年,通国陸軍速成学堂(保定軍官学校の前身)に入学,翌1907年初め,日本に留学し,当時,陸軍士官学校の予備校として清国陸軍部によって東京に設立されていた振武学堂に入学した.
 (中略)
 1909年(引用者注:1910年の誤記)11月,振武学堂を卒業の後,12月,新潟県高田の日本陸軍第十三師団野砲兵第十九連隊に士官候補生として入学した.

――――――野村浩一「現代アジアの肖像2:蒋介石と毛沢東」(岩波書店)p.48-49

 その後1911年10月に辛亥革命が起こると,蒋介石は直ちに帰国してます.
 よって,蒋介石が日本の陸軍士官学校を卒業したという事実はありません.
 それどころか入学さえしてません.
 蒋介石が卒業した振武学堂は,あくまで陸軍士官学校の予備校です.
 しかも見習士官と士官候補生を混同してます.

 図書館で蒋介石の伝記とも言える「蒋介石秘録」(サンケイ新聞社)を調べてみましたが,蒋介石が来日中陸軍士官学校に入学した事実はありませんでした.
 「蒋介石秘録」は出版時期や出版媒体等の関係上,蒋介石賛美のバイアスが強い書籍ですが,来日時の経歴は日本側の記録も参考にしており,信憑性が高いと判断します.

 これについて山崎雅弘氏は以下のように書いてます.

――――――
 ちなみに,一部の文献には
「蒋介石は日本の陸軍士官学校に留学した」
との記述があるが,陸軍士官学校への入学資格は振武学校(原文ママ)を卒業後に一年間の部隊勤務を経て初めて得られるものであり,蒋介石は結局,この条件を満たすことができなかった.

――――――山崎雅弘「蒋介石伝」(学研「歴史群像」2008年6月号)p.67

モーグリ in FAQ BBS


 【質問】
 中華民国建国後,地方軍閥が割拠したのは何故でしょうか?

 【回答】
 軍閥政府が割拠した最大の原因は孫文が作り出したといってよいでしょう.
 いいか悪いかは別として,国民党との政治的取引によって中華民国の大総統となった袁世凱は,帝政をしき,強力な権力の基で列強に対抗しようとします.
 ところが孫文はこれに反発,第三革命を起こし,これを阻みました.
 日本の大隈重信も中国の強大化を懸念し,孫文を支援.
 結局,清王朝の間に郷勇等を作り,力をつけていた豪族らが軍閥を起こし,列強が非常に介入しやすい土壌を整えましたとさ.
めでたしめでたし.

世界史板

現在は「桑マン」として活躍中の袁世凱


 【質問】
 中国の軍閥はどのように隆盛し,どのように没落したのか?

 【回答】
 今日は,軍事専門古書店「軍学堂」が主催する軍事学セミナーを受講しに,横浜まで行ってきました.
 だいたい,月に一度のペースで行われており,案内は毎回届いているのですが,所沢から横浜までは遠いですので,体力的,その他の都合が良い時でないと,なかなか受講できなません.幸い今日は天気も良く,風邪も全快したので,横浜まで足を延ばしてみる事にしました.

 一般的に中国の「軍閥」と言うと,山賊の頭領的な捉え方をされていると思うのですが,その実態は清朝末期の「新建陸軍(新軍)」(西洋式陸軍)で正式な教育を受けたエリート軍人達が,地方に赴任した折りに中央のコントロールが効かなく成った連中であり,また,明治後期から大正中期までの日本は,中国の士官学校へ多くの教官を赴任させ,また多くの中国軍人を日本へ留学させており(福島安正陸軍大将が中心になって推し進めたらしいです),その「人脈」から多くの貴重な情報を得る事ができた事,さらには,その「情報分析」が日露戦争の勝利に大きく貢献した事など,結構耳新しい事を拝聴できました.

 ところが昭和初期に成り,教官の派遣を止め,留学生の受け入れも滞り,そのネットワークが消滅してしまった事により,必要な新しい情報を得られなくなり,日本は古い情報を基に大陸に介入し,結果的に泥沼にはまり込んでしまったとの事.
 背景には「中国は変わる筈が無い」と言う「驕り」に近い感覚と,「情報」に対する軽視が昭和初期の日本(陸)軍内に有った事が挙げられるみたいです.

 中国の軍閥そのものは,対日戦の過程で国民党軍と共産党軍に吸収されて消滅してしまうのですが,中央集権国家を形成するにあたって,通らざるを得ない過程ではなかったかと思います(日本,ドイツ,イタリアなんかも同様でしたし).

 もっとも中国人民解放軍は,鄧小平が大規模に軍制改革を行う近年まで,各軍管区ごとに独立性を持ち,「軍閥的色彩」をある程度は残していましたが….

 この教訓を今に生かすとしたら,脅威に感じるのなら(感じればこそ?)交流を絶ってはいけませんね.
 「情報は人なり」ですから,どんな形であれ繋がりを持っておけば,何らかのルートで情報は入って来るものです.
 問題は,得た情報を如何に料理するかが,一番難しそうですけどね.

 ともあれ,受講料,交通費合わせて¥3,500の価値は十分有ったと思います.
 いやぁ,久々に軍ヲタ分を補給したってところですかね.

新所沢の三等兵◆Uk in mixi, 2008年03月23日03:00


 【質問】
 清朝が崩壊してから,中国にはいろんな軍閥がありましたが,なんで張一族の満州だけは世襲で権力基盤が固まったりするなど,王国化してたんですか?

 【回答】
 辛亥革命は南方で起こったもので,革命勢力の基盤が南方であるのに対し,満州は北洋軍閥の勢力範囲であったというのが一つ.
 袁世凱は,その北洋軍閥の軍事力を権力基盤として北京政府を打ち立てたが,これは辛亥革命を利用して政権を奪取した反革命勢力であった.
 袁世凱の死後は北洋軍閥は分裂して,北京政府内の権力闘争が起きるのだが,張軍閥は北洋軍閥の分派みたいなものなのだ.

 そして大きな要因として,日本が日露戦争の講和条約であるポーツマス条約によって,露西亜から南満州鉄道関連を中心とする満州利権を得ていたことがある.
 日本の立場としては満州利権を担保する為には,満州に安定した政権が確立されて治安が維持された方が都合が良い.
 そこで日本は,張軍閥の権力基盤固めに積極的に協力したのだ.

 ところが張軍閥は,権力基盤が固まると日本を裏切り,反日姿勢を露にした.
 こうしたことが満州事変,満州国建国へとつながっていく.

 3つ目の要因は蒋介石の政治姿勢.
 蒋介石は北伐で北京政府を打倒したものの,日本との正面衝突を避けるため,満州にまでは深入りせずに反中国共産党闘争を優先させた.

 まとめると歴史的経緯,日本という利害関係者の存在,北伐の限界あるいは国民党の政治事情といった,3つの要因で説明できると思ふ.

世界史板
青文字:加筆改修部分


目次へ

「アジア別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ