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「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【序章】

「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【第1話,第2話】

「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【第3話】

●三国志

「D.B.E. ミニ型」「三国志」の英雄・曹操の墓発見…中国テレビ報道
>中国だからどうか… などという偏見混じりで見たものの,結構マジっぽい感じ?

D.B.E. ミニ型」:諸葛亮

D.B.E. ミニ型」:中国で銃器約188万丁など押収
>押収したのは,このほか軍用銃弾385万発,雷管1317万個,放射性物質2176個など

D.B.E.三二型」:【三国志】もしも馬謖が 松岡修造だったら 【泣いて馬謖を斬る】

D.B.E. ミニ型」(2010/10/16)◆(情報元everything is gone) 横山三国志の「むむむ」を全て集めてみた

「SLPY」:曹操喫茶って絶対売れると思うんだ・・・

「SLPY」:特攻の拓風に三国志を語るスレ

「Togetter」◆(2013/05/11) 曹操と曹騰の間に挟まれた謎の人物曹嵩

「VIPワイドガイド」:りょ・・・・・呂布だー!!呂布が出たぞー!!!!うわー!!」

「朝目新聞」関係ないAAに三国志の台詞を喋らせるスレ  (of SLPY)

朝目新聞」●日中で違う三国志についての認識 曹操編  (of 「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む /by D.B.E三二型)

朝目新聞」(2010/09/30)●暇だから孔明ん家と赤壁行ってきた

「おはようwwwお前らwwwwwwww 」:三国志の時代に2ちゃんがあったら立ちそうなスレ

「戦国・三国ちゃんねる」:実は三国志で一騎打ちなんてやってないんだよバ~カ

「メガとんトラック」◆(2010.2.21)「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む:日中で違う三国志についての認識 呂布編 - livedoor Blog(ブログ)

●書籍

『五胡十六国〔新訂版〕』(三崎良章著,東方書店,2012/11)


 【質問】
 三国志はそんな詳しくないんだが,演義か正史かで,カトリックとプロテスタントくらいには違うのか?

 【回答】
 『三国志』は,陳寿の著した歴史書.
 司馬遷の史記と同じ様なもので,中国の官製の歴史書.
 俗に『正史』と呼ばれてるのはこっち.

 『三国志演義』は,羅貫中の著した小説作品.
 上の『三国志』を元に,七割が正史・三割が創作とされてる.
 日本の吉川英治の小説は,こっちを元にしたもので,横山光輝やコーエーは,更にこの吉川作品を元にしてる.
 このため紛らわしいが,日本で『三国志』というと,この演義の方を指すことが殆ど.

 ちなみに例外は蒼天航路で,正史を元にしてる.

漫画板,2013/07/12(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 張角って誰?
Ki Zhang Jiao?

 【回答 válasz】
 後漢末に蜂起した黄巾の乱の首領で,道教の源流の一つ「太平道」の唱導者.

 生年不詳.
 鉅鹿(河北省中部)出身.

 干吉(かんきつ)神人から授けられたと称する「太平清領書」の説に接し,黄老道(善道)を信仰.
 その教法は五斗米道と似て,病気の治癒を中心とした.
 張角は大賢良師または大賢と自称し,また黄天泰平あるいは大医にして善道を事とす,とも称して,弟子を四方に派遣し,治病に従事させた.
 各地で師とよばれたこれらの弟子は,病人に罪を反省させて神前に懺悔告白させ,おふだと霊水を飲ませて神の許しを請うための祈りを唱えさせた.
 十余年間,華北大平野など8州で数十万の衆を集め,大小の「方」という組織に編成し,渠帥(きょすい)の下で軍隊化した.

 184年,政府の弾圧に伴い,数十万の信徒を従えて黄巾の乱を起こしたが,同年病没.

2022.5.13


 【質問】
 曹操が暗記するほど読んだといわれる書は孫子ですか?

 【回答】
 Yes.
 しかし暗記なんてレベルじゃない.完璧に理解した上で,孫子の完成度をぐーんと高めたのが曹操.
 現在テキストとして用いられる孫子は,大抵の場合,曹操が孫子に注釈をほどこした「魏武注孫子」.

 そんなわけで,
「そもそも孫子を著したのは曹操なんじゃねぇの?」
なんていう人までいたりする.
 ま,さすがにそりゃないだろうけどね.

(世界史板)


 【質問】
 ウィキペディアには,
>後漢末・三国時代を舞台とする説話や講談は古くからあり,
>すでに北宋の時代には劉備と蜀漢を善,曹操と魏を悪役とするイメージが
>定着していたという記録がある.

とあるんですが,なんで蜀が善という考え方が広まったんでしょうか?

 【回答】
 劉備は漢の皇室の分家の末裔だから,後漢の正当な後継者で,曹操は後漢から天下を簒奪した悪党,という構図.
 これが日本だけの見方ではない証拠に,中国人は長年関羽を関帝(神様)として祀ってきた.
 っていうか三国志演義はまさにこの構図.

 曹操は宦官の孫だったり,徐州で大虐殺やったり,儒者を弾圧したりしたので,在世当時から大悪人としての風評が大きかった.
 劉備はまあ,やってることはただの弱小軍閥の親玉なんだが,「漢朝・劉氏」で売り込んだので,当時から評判はよかった.
 シナ人の多くは今も漢民族と自称するし,孔明・関羽・張飛とか民衆に人気のある武将もいるし,判官びいきもあるし.
 陳寿が『三国志』を書いたのは晋の時代だが,晋は魏から禅譲された形で簒奪しているので,前代の魏はあんまりよく書かれず,陳寿の母国であった蜀漢は,正統王朝に準ずる形式(先主伝など)で書かれた.

 また晋が江南へ移ると,もといた華北よりも江南文化をひいきにするようになったが,孫呉をあまりもちあげると治安上よろしくないので,民間に人気のある蜀漢を持ってきて称揚した.
 習鑿歯という人は,蜀漢に仕えた人物の子孫だったが,東晋の末に軍閥の桓温が帝位を簒奪しようとしたので,
「魏は簒奪者であり,晋が蜀漢を滅ぼして,ようやく漢が滅んだ」
という蜀漢正統論を説いたという.

 まあ,蜀を実際に倒したのは魏の軍なんだが,すでに司馬氏が完全に実権を握っていた頃.
 漢人が北方民族に圧迫されてたのと,魏が漢を簒奪し蜀を苦しめたのを重ね合わせ,北伐を繰り返した蜀の孔明を善玉にしたのが,原因のひとつではあろう.

 ただし,関羽が神格化されたのは意外に遅く,唐宋の頃にようやく護法神として信仰された程度.
 「関帝」とされて,信仰が国家規模で盛んになるのは,南宋以降になる.

世界史板,2010/05/20(木)
青文字:加筆改修部分

▼ 上記回答ですが,誤解を招きかねない点,説明が不足している点があると考えます.

>っていうか三国志演義はまさにこの構図.

まず,この箇所ですが,宋代に三国志を題材としたものは「三国志平話」であって,演義ではなく,しかもこの違いは無視できるものではありません.
 三国志平話においては,高祖に粛清された韓信,彭越,英布が曹操,劉備,孫権に,加害者である高祖と呂后が献帝と伏皇后に,そして天界での裁判において,韓信らの冤罪を証言した?徹が諸葛孔明に,裁判を進行させた司馬仲相が司馬仲達に,それぞれ生まれ変わると言う設定から話が始まるもので,「三国志演義」とは色彩がかなり異なります.

>陳寿が『三国志』を書いたのは晋の時代だが,
>晋は魏から禅譲された形で簒奪しているので,
>前代の魏はあんまりよく書かれず,陳寿の母国であった蜀漢は,
>正統王朝に準ずる形式(先主伝など)で書かれた

 蜀志における劉備の伝が,諡号の昭烈帝を使わず,「先主伝」とされていることからも明らかなように,陳寿の「三国志」は蜀漢を正統王朝とはしていません.
 また,漢魏革命は「魏武輔漢の故事」とも言われ,後世の禅譲の模範となっており,その影響は,「清室優待条件」の
「大清皇帝辞位の後尊号猶を存して廃せす,中華民国は各国君主を待つの礼を以て待遇す」
にも見ることが出来ます.
 これは東漢の献帝が魏の文帝に禅譲し,山陽公となったあとも,皇帝としての自称などを許されたことに由来しています.

 蜀漢正統王朝説を大成させたのは,南宋の朱熹でしょう.
 司馬光が「資治通鑑」において,三国時代の年号を魏のもので統一したのに対し,朱熹は「資治通鑑綱目」で蜀漢のそれを使い,蜀漢こそが正統王朝であるとの立場をとっています.
 こういった流れで,元代には科挙に蜀漢正統王朝説が取り入れられ,この文脈上に,明代に劉備を善玉とする「三国志演義」が成立したのです.

名無しルーデル神教教徒 in FAQ BBS,2010/7/27(火)
青文字:加筆改修部分

 【参考ページ】
三国志平話 - Wikipedia
三国志平話とは?
三国志平話とは
資治通鑑綱目 とは - コトバンク
中国社会の変化と北方民族の進出
~ 曹操の評価 ~


 【質問】
 軍師という熟語は,諸葛亮の軍師中朗将からというのは本当ですか?

 【回答】
 いいえ.

 中国では,周の文王が呂尚を師に立て,子の武王のときついに殷を滅ぼしたことが『史記』+に見えるように,古くから軍師にあたる者が存在しました.

 ある程度効力のある官職として文献に始めて出てくるのは魏志の武帝紀の中にある
「三年春正月,公許に還り,初めて軍師祭酒を置く.」
のくだりかと思われますが,光武帝の時代,隗囂が反乱を起こした際に部下を「軍師」に任命してるということがあったようなので,単純に一番最初というとこっちになるのかな?^^

(「はてな」)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 三国志には,劉備玄徳が田舎の農家で人肉を食べる生々しいシーンが出てくるけど,中国で人肉食はありえたことなの?

 【回答】
 「三国志演儀」は創作,脚色てんこ盛りで資料には成り得ない.
 中国では昔から三国志は人気のある話で,数多くの「三国物語」と言える話があり,曹操を主人公にした物,孫権を主人公にした物,劉備を主人公にした物と様.
 どの話も主人公の敵は悪逆非道な人として書かれ,敵の人格をおとしめるエピソードも数多くある.
 劉備の人肉食のエピソードは,そのネガティブ・キャンペーンの一つと思われる.

 しかし正史三国志,魏志ゾウコウ伝(字が出ない)には,袁紹に攻められた軍閥の主・ゾウコウが篭城のさなか,最後に自分の愛妾を殺して肉を入れた粥を作って配り,感激した兵士達は全滅するまで戦ったという記述がある.

 また,マンガの「蒼天航路」には,董卓が反逆者の目をくりぬいたり腕をぶっちぎったりして,さらに釜茹でにして余興とし,列席者は恐怖に青ざめるが,董卓だけは一人平然と煮えた人肉を食う!……というシーンがあるが,これと全く同じ記述が正史の董卓伝に登場する.
 初期の「蒼天」は,こういう正史ネタが細かくちりばめられてあって感心したもんだなぁ.

 さらに,「魏志」の太祖武帝紀(曹操の伝記)なんかを通読すると,
「なんたらの何年に飢饉が発生し,人が人を食い合った.」
「ひどいありさまで,人が人を食い合い…」
とかサラっと出てきたりする.
 正確な引用は出来ない…ちくまから出てる三国志・魏志(1)だが,ダンボール箱の底に埋まってるだろうから掘り起こせない(°∀°)
 もちろん飢饉のときに人肉食が流行るのはその他の世界の地域でも似たようなものだろうが,中国の場合は前述のゾウコウ伝に限らず,晋の文公に介子推が腿の肉を裂いて献じた話とか,敵を辱めるためにそいつの死体を料理する,漢の彭越の話とかあって,「嫌悪すべきもの」とは限らず「忠誠や愛情を示すポジティブなもの」として描かれることも多いのは否めない.

 16世紀に著された有名な漢方の研究誌「本草綱目」では,人間の各所の肉のみならず,髪の毛や排泄物や精液に至るまで,その薬用としての利用方法・効能が書き記されている.

 薬用以外だったら「両脚羊」というものが,宋の「ケイ肋編」(だったかな? また漢字が出ないが,鶏に似た字)という本
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4270_14876.html
に,食材として登場する.
 昔,立ち読みした本に同じ出典でその製法まで記してあってウボァーって思った事がある.
 農村で女性を捕まえたり買ったりして,手足頭を切り落として腹を割いて,内臓全部出して塩をすり込んで干すんだったか.

 で,そこには結びとして

 經傳詩文によつて,支那人の長所美點を會得するのも勿論必要であるが,同時にその反對の方面をも,一應心得置くべきことと思ふ.
 食人肉風習の存在は,支那人に取つては餘り名譽のことではない.
 されど儼然たる事實は,到底之を掩蔽することを許さぬ.
 支那人の一面に,かかる風習の存在せしことを承知し置くのも亦,支那人を理會するに無用であるまいと思ふ.

と,書かれている.

 それから,これはもう最近の話になっちゃうが,文化大革命では「反革命分子」「資本家」「階級の敵」をリンチし,八つ裂きにして肉やら臓器やらを民衆が我先にとつかみとり,家に持ち帰って食ったとか,そのような指摘が中国人自身からされていたりする.
 ソースは「食人宴席」(鄭義著,)
 著者は天安門事件で指名手配されたバリバリの民主化運動家,訳者は大陸大嫌いの台湾人・黄文雄なので,いささかバイアスがかかっているかもしれんが,しかし,記述としては,西洋人や日本人の支那旅行記に散見される,
「死刑のあと,死刑執行人や見物人の間で人肉の売買が始まる」
というヤツと一致しており,まるきりガセネタと言い切れない面がある.

 平時から市場に人肉が並んでいる様子
http://hk.geocities.com/ennet369/
(グロ注意)

 中国の人肉食は,普遍的とまでは言いきれないものの,他地域の文明と比べてハードルが低いのは明らか.
 それを決定付ける,たったひとつの究極的な証拠,などというものはないが(というか不可能だ),しかしそれを裏付ける膨大な史料や証言には事欠かない.

軍事板

 武帝紀の該当部分,抜き出しますね.

「この年(興平4年=西暦194年),穀物は一石五十余万銭に高騰し,人間同士が食い合うほどだった.そこで軍吏や兵士の新たな募集を取りやめた」

 この光景を目の当たりにしたあと,曹操は屯田を推し進めていくようですね.

 次にゾウコウ伝.
 ()は私の入れた分で,[]は本文中の挿入です.ちなみに筑摩書房の世界古典全集版です.

「袁紹はゾウ洪の手紙を読み,降伏の意が無いことを知ると,兵を増強して激しく攻め立てた.
 城中では料米が底を突き,(中略:内容は城中の一致団結振り)最初はまだ鼠を掘り出し,[獣の]筋や角を煮て食べていたが,後にはもはや食べられるものはまったくなくなってしまった.
 主簿が,内むきの台所に米三斗(漢代の斗は今の升に近い:約5.4リットル)があるから,半分に分けて少しずつ粥を作りたいと言上した.
 ゾウ洪はためいきをついて,
『わしだけがこれを食べてなんとする』
といい,薄い粥を作り,みんなに分けてすすらせ,自分の愛妾を殺して将兵達に食べさせた.
 将兵達はみな涙を流して,顔を上げられるものも無かった.
 男女七,八千人が枕をならべて死亡したが,離反したものは一人も無かった」

 さらに董卓なのですが,董卓自身が人肉を食う,と言うのは蒼天航路のほうだけで,正史にはありませんでした.おそらくレス主の方が言うのは

「かつてビ(眉+おおざと,董卓の本拠地)に出かけ砦を巡察することになり,公卿以下そろって横門の外において送別の宴をもよおした.
 董卓はあらかじめ幔幕を張って準備しておき,酒宴となると,反乱した北地郡の降伏者数百人を中へ引き入れ,席上,まずその舌を切ってから,手足を切ったり,眼をくりぬいたり,大鍋で煮たりした.
 まだ死にきれない者が,杯やテーブルの間を倒れて転げまわり,集まった人々がみな慄然としてさじや箸を取り落としても,董卓は平然として飲み食いを続けていた」

というシーンをアレンジした,「蒼天航路」の宴席のシーンだと思われます.
 私,この漫画読んだのですが,人を食っていたか失念してしまいました.なんにせよ,「漫画の話」です.

 んで,個人的に興味深いのは曹操の幕僚グループ,程イク(日の下に立)の話.

「『世語』にいう.
 そのむかし,太祖(曹操)が食料に欠乏したとき,程イクはその出身の県を略奪し,3日分の糧食を提供したが,人間の乾肉をかなりまぜた.
 その結果,朝廷における人望を失った.
 だから官位は公にまで上らなかったのである」

 世語は,註にに引かれた野史の中では比較的成立年代が古いようですので,比較的当時に近い時代,人肉を食料とすることは余りよい印象をもたれていなかった,すくなくとも公卿のすることでは無いと思われていたことの証左になると思います.

 その他,王忠は飢饉のときに人をたべたことを,曹丕が馬の鞍に髑髏を下げてからかったと言うエピソードがあります.

黒木竜 in 「軍事板常見問題 mixi別館」

▼ なお,中国語の「人肉」には,「人間の肉」以外の意味もあるので,注意が必要.
 現代の,ネット社会での話限定ですけどね.
 以下引用.

――――――
4) 人肉
 昔々,犯人を指名手配し,各賞金稼ぎが賞金首を狩っていた.
 この賞金首は人肉と呼ばれた.
 今,「人肉」は様子を変え,最短時間である背後の真相の「致命的な奥の手」を暴き出すという意味になった.

 「人肉」,正式名称は「人肉捜索」は,現代の情報テクノロジーを用い,全国各地のインターネット利用者の力を集めて,各自が各種のルートを使ってターゲットの断片的な情報を入手,その後,すべてを取りまとめて「人肉」ターゲットの完全な資料をつくることである.

 従前のネットのサーチエンジンと比較して,「人肉捜索」は人と人との間の情報伝達にさらに依存するもので,したがって,これでようやく真の「人を基本にする科学技術」であると言う人もいる.
 「人肉捜索」は中国のインターネットでは何年も行われていることだが,少しも衰える気配はない.
 昨年発生した「人肉捜索」は,高級たばこを吸っていることで問題になった南京市江寧区不動産管理局の周久耕局長,一夫二妻で問題になった江蘇省徐州市泉山区区委の董鋒書記等である.
 中国のネット利用者が成長し続ける限り,このような人間の力による捜索体験は発展し続けるだろう.
〔聯合早報,2009年1月25日〕

――――――電子マガジン《中国最新情報》  No.476 2009年2月17日

(朝目新聞より引用)


 【質問 kérdés】
 司馬懿って誰?
Ki Si-ma Yi?

 【回答 válasz】
 三国時代の魏の権臣(179~251).
 曹操より4代に仕え,諸葛孔明との交戦,遼東の公孫氏討滅など大功を立てる.

 179年,河内郡(河南省)温県の豪族の生まれ.

 曹操の知恵袋といわれた荀彧の推薦で出仕.
 もっとも,曹操には才能を警戒され,高位につくことはなかった.

 だが曹丕には重用され,陳羣(ちんぐん)と並んで行政の最高位にのぼり,その遺詔により明帝・曹叡(在位226~239)を補佐すべき重臣に指定さる.
 230年,明帝により大将軍・大都督に任ぜられ,呉,蜀に対する戦争指導の最高責任を負い,諸葛孔明の指揮する蜀軍と対決.
 234年,五丈原で孔明を病死に追いこみ,蜀の脅威を根絶.
 238年,遼東太守・公孫淵を討ち,朝鮮半島北部の楽浪,遼東などの4郡を魏の版図とした.
 内政面では屯田経営に力を注ぎ,魏王朝の一基盤をなした.

 斉王即位後,重臣である曹爽と対立を深め,一時失脚したが,240年,クーデターを起こして曹爽と何晏を殺害.
 曹爽勢力を一掃して魏の実権をとった(正始の政変).
 その後,王淩(おうりょう)の乱を未然に阻止.
 そして九品官人法の内容を変えて,司馬氏が朝士の代表者的性格を得るのに成功し,受禅によって孫の司馬炎が晋を建国する基礎を築いた.

 251年没.

2022.5.10


 【質問 kérdés】
 司馬炎って誰?
Ki Sima Yan?

 【回答 válasz】
 西晋の初代皇帝(在位265~289).

 236年,司馬昭の長子として生まれる.
 265年,魏の元帝・曹奐(そうかん)から禅譲を受け,晋(西晋)王朝を開く.
 『周礼(しゅらい)』を政治理念として,旧来の太尉・司徒・司空のほかに太保・太傅(たいふ)・太宰の三公を置き,六曹(りくそう)尚書や六軍の編成を行った.
 また,曹魏が宗室を押さえすぎて帝室を孤立させた弊にかんがみて,宗室や子弟を藩屏として各地に封建し,諸王で朝官に就任していない者をすべて封国に就かせた.
 その封国は戸邑の多寡により三つに分け,3軍5000人から1軍1000人までの軍隊を配属させた.

 268年,賈充(かじゅう),杜預(どよ)らに漢・魏の律令を参照してつくらせた晋律が完成.

 280年,呉王・孫晧を降伏させ,天下再統一を遂げる.

 同年,屯田制を廃し,人民に一定の土地を支給して租を徴収する占田・課田制を施行.
 1戸を課税単位として調を納める戸調式を制定した.
 また,官人に対しては,官品の上下に応じて占田の面積と衣食客および佃客(でんきゃく)の人数を定めた.
 他方,天下和平を口実として,刺史から民政・軍事の権限を剥奪し,州郡の兵を廃止.

 だが,呉平定後,武帝は政治を怠り,妓妾との遊宴にふけった.
 結果,外戚・楊駿と宗室・司馬亮の争いを招き,これは八王の乱の先駆となった.

 290年,没.

2022.5.14


 【質問 kérdés】
 賈南風って誰?
Ki Jia Nanfeng?

 【回答 válasz】
 西晋の第2代恵帝の皇后.

 257年,西晋の高官である賈充の三女として生まれる.

 272年2月,正式に太子妃に立てられる.
 だが彼女は残虐で嫉妬心が強く権謀を好み,さらには身重の側室を嫉妬心から胎児ごと手に掛けた事すらあったため,司馬炎は激怒して賈南風を金墉城に幽閉し,司馬衷との離婚を命じようとした.
 しかし最初の皇后の楊艶の従妹である楊芷(楊皇后)が再び賈充の功績を理由に取りなしたので,司馬炎はようやく思いとどまった.

 ところで司馬衷は暗愚であり,朝臣も民衆も後継に相応しくないと思っていた.
 そのため和嶠や衛瓘らが遠回しに皇太子廃立を勧めると,司馬炎は東宮の官員を集めて宴を開き,尚書でも解決に苦慮する難題が書かれた文書を見せて「太子に決裁させる」と宣言し,これをもって太子にふさわしいかどうかを見極めようとした.
 これを聞いた賈南風は,部下の張泓に下書きを書かせ,それを司馬衷に手直させたものを司馬炎に提出した.
 この回答に満足した司馬炎は大いに喜び,皇太子廃立は取りやめとなった.

 290年4月,司馬炎が死去すると,司馬衷が新たな皇帝に即位(恵帝)し,賈南風は皇后に立てられた.
 即位当初は外戚の楊駿(皇太后楊芷の父親)が実権を握っていたが,291年3月,賈皇后らはクーデターを起こし,楊駿やその一党を誅殺.
 汝南王司馬亮と太保衛瓘が朝政を司ることになった.

 賈南風は日増しに道理に反する行いが増えたので,東安王司馬繇は皇后廃位を考えたが,賈南風はそれを察して司馬繇を罷免し,帯方郡に移した.

 彼女はまた,過去の一件より衛瓘を憎んでおり,かつ,司馬亮と衛瓘が政権を掌握していて賈氏の権限が抑え込まれている事に不満を抱いていた.
 そこで,司馬亮・衛瓘と対立していた司馬瑋との結び付きを賈南風は強め,6月,司馬瑋の部下が司馬亮と衛瓘を誣告.
 賈南風は恵帝に要請して,司馬瑋に対し司馬亮・衛瓘を免官させるよう命じる詔勅を作らせた.
 司馬瑋はこれに従って,自ら統括している北軍を動かし,配下の公孫宏・李肇・清河王司馬遐らに司馬亮・衛瓘を逮捕・誅殺させた.

 夜が明けると,太子少傅張華は董猛を賈南風のもとへ派遣し,「独断で重臣を殺した罪」で司馬瑋を誅殺すべきと勧め,賈南風も張華に同意.
 張華は恵帝へ,司馬瑋が詔書を偽造し,司馬亮と衛瓘を独断で殺害したと報告.
 これを受け,恵帝は諸将へ司馬瑋逮捕を命じ,司馬瑋は逮捕・処刑さる.

 292年2月,一切の物資を,庶人に落とされ幽閉されていた楊芷に与えないように命じ,水も食事も絶たれた楊芷は8日後に餓死.

 司馬亮・衛瓘・司馬瑋らの粛清により,賈南風は賈謐(妹の賈午の子)・郭彰ら一族と共に,朝廷の実権を握り天下を欲しいがままとした.
 賈南風自身は執政に関わる事はなく,専ら遊興に耽る日々を過ごした.
 彼女は外で若い男を見つけると,竹箱に入れて宮中に運びこみ,行為に及んだこともあったが,秘密を守るため,彼等の多くは事を終えた後に殺害されたという.

 296年夏,長安を守っていた征西大将軍・趙王司馬倫が洛陽に召喚されると,彼は賈氏一派に取り入るようになり,賈南風からも信任されるようになった.

 299年6月,賈謐は皇太子司馬遹へ無礼な態度を取った事を成都王司馬穎に咎められ,逆上して賈南風へ司馬穎を讒言.
 賈南風は司馬穎を平北将軍に任じて鄴の鎮守を命じ,朝廷から追い出した.

 同年12月,賈南風は謀略を巡らせて,司馬遹を庶人に落とさせ,王夫人や息子の司馬虨・司馬臧・司馬尚らと共に金墉城に監禁さる.
 これに憤った,司馬遹の元部下であった右衛督司馬雅・常従督許超らは,賈南風を廃して皇太子の復位を果たさせる事を目論み,強大な兵権を握る趙王司馬倫に協力を仰ぐべく,司馬倫の腹心の孫秀へ協力を持ち掛けた.
 しかし孫秀は賈南風廃立の謀略をわざと漏らして賈南風に司馬遹を殺害させ,その後仇を取るという大義名分で賈南風を廃して政権を掌握する事を提案した.
 かくして賈南風廃立・皇太子復位の計画の噂が流れると,賈南風は各所に配置していた宮婢からこの情報を入手し,ついに部下の孫慮に命じて司馬遹を暗殺させた.

 300年4月3日,司馬倫と孫秀は梁王司馬肜・斉王司馬冏らと共に賈南風討伐を決行し,宮中へ突入.
 賈謐はその場で殺され,賈南風は庶人に落とされ,建始殿に幽閉された.
 賈氏一族も尽く捕らえられて皆殺しにされ,賈南風自身も9日,金屑酒(金粉入りの毒酒)を届けられて自殺させられた.

2022.5.15


 【質問 kérdés】
 司馬亮って誰?
Ki Sima Liang?

 【回答 válasz】
 西晋の皇族で八王の乱の八王の一人.

 生年不詳.
 司馬懿と伏夫人との間に生まれる.

 曹魏の頃に散騎侍郎に任じられ,万歳亭侯に封じられた.
 後に東中郎将に転任し,広陽郷侯に爵位昇進.
 257年,諸葛誕の乱鎮圧に従軍するが,失策を犯して免官.

 その後復職を許され,校左将軍・散騎常侍・監豫州諸軍事に任じられると共に仮節を与えらる.
 後に祁陽県伯に改封され,鎮西将軍に昇進した.

 265年12月,甥の司馬炎(武帝)が西晋を建国すると,司馬亮は扶風王に封じられ,食邑1万戸を与えらる.

 270年6月,鮮卑の禿髪樹機能の反乱が起こると,司馬亮は配下の劉旂・敬琰らに秦州刺史・胡烈の救援を命じたが,両者は敵軍を恐れて進軍しなかったため,胡烈は孤立無援となり戦死.
 これにより司馬亮は平西将軍に降格となり,劉旂は斬罪.
 司馬亮は軍司・曹冏と共に上奏し,責任は自らの過失にあるとして劉旂の死罪を免じるよう請うたが,武帝は訴えを退け,司馬亮の官爵を全て剥奪.

 しばらく後,改めて撫軍将軍に任じらる.

 同年9月,呉の西陵督・歩闡が西陵城ごと西晋へ降伏すると,武帝の命により司馬亮は歩闡の身柄受け入れの任に当たる.
 だが実際に受け入れに当たる前に,西陵城は陸抗の侵攻により攻め落とされ,歩闡は処断さる.

 277年8月,汝南王に改封され,鎮南大将軍・都督豫州諸軍事に任じらる.

 しばらく後,再び中央に召喚され,侍中・撫軍大将軍・後軍将軍・太尉・録尚書事・太子太傅等の官職に任じらる.

 289年11月,武帝崩御が崩御して司馬衷(恵帝)が後を継ぐと,外戚の楊駿が武帝太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じられた楊駿が朝廷の全権を握る.
 楊駿は密かに,石鑒らに司馬亮の討伐を命じたが,石鑒は従わなかった.
 これを知った司馬亮は許昌へ逃亡する.

 291年1月,恵帝の皇后・賈南風は楊駿の権勢を妬み,李肇を許昌に派遣して司馬亮へ楊駿討伐に協力するよう持ちかけたが,司馬亮は応じず.

 同年3月,賈南風は恵帝の弟である楚王・司馬瑋と結託して楊駿とその三族,また側近の者を尽く捕らえて誅殺.
 楊駿死後,恵帝は司馬亮を太宰・録尚書事に任じて剣履上殿・入朝不趨の特権を与え,当時太保の位にあった衛瓘と共に輔政の任に就ける.
 司馬亮はまず人心を得ようと考え,楊駿討伐の功績として1081人を侯に封じたが,御史中丞傅咸はこの封爵は過剰であるとして司馬亮を諫めた.
 また,司馬亮は実権を握るとほとんどの政務を自ら行ったので,傅咸は細かな事案は各部門に任せるように再び諫め,また過度の権勢の拡大やこれに媚び諂う勢力の増長への警戒を促したが,司馬亮は聞き入れなかった.

 そのころ,甥の東武公・司馬澹は弟の東安公・司馬繇と対立していたが,司馬亮へ讒訴.
 司馬亮はこれを信じて司馬繇を罷免し,帯方郡に移らせた.

 一方,司馬亮は司馬瑋を,横暴で殺人を好む人物として忌み嫌っており,衛瓘と協議してその兵権を奪うべく司馬瑋を北軍中候から解任したが,後任の臨海侯・裴楷は司馬瑋の逆鱗を恐れて辞任.
 司馬亮は再び衛瓘と謀り,司馬瑋を始めとした諸王に封国への帰還を命じたが,司馬瑋はさらに激怒してこの命令を撥ね付け,同じく司馬亮と衛瓘に不満を持っていた皇后の賈南風と結託.
 同年6月,賈南風は恵帝に詔を作らせると,司馬瑋は自ら統括している北軍を動かし,司馬亮と衛瓘の討伐を掲げて挙兵し,長史公孫宏と積弩将軍李肇に命じて汝南王府を包囲.
 司馬亮は武力闘争を躊躇しているうちに捕縛され,北門の壁下で世子の司馬矩と共に殺害さる.

 そして彼の死がきっかけとなり,八王の乱に発展していったという.

2022.5.16


 【質問 kérdés】
 八王の乱って何?
Mi az "A nyolc herceg háborúja"?

 【回答 válasz】
 西晋末,外戚間の抗争に宗室・司馬氏が巻き込まれ,8人の藩王が政権を争った内乱(291~306年).
 司馬炎(武帝)死後,その子・恵帝の暗愚に乗じ,妃の賈氏 (かし) は汝南王や楚王を謀殺 (291)し,賈氏一族が以後10年間にわたり政治を独占.
 301年,趙王倫が賈后誅滅をはかって挙兵して以後,内戦が続き,その際,諸王が軍事力に導入した北方諸民族が華北に自立,永嘉の乱が始まって西晋王朝は滅亡した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%B9%B1-114754
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-025.html
https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%B9%B1/

2022.1.6


 【質問 kérdés】
 司馬乂(しばがい)って誰?
Ki Sima Ai?

 【回答 válasz】
 八王の乱の王の一人.

 277年,晋朝初代皇帝・司馬炎の6男として生まれる.
 13歳で長沙王に封王される.
 291年,兄の司馬瑋が汝南王・司馬亮と衛瓘を討った際にこれに参加し,乱後に瑋が罪人として裁かれると,実弟である乂もこれに連座して常山王へと降格された上で,任地である常山へと赴任させられて中央から遠ざけられた.
 301年,趙王・司馬倫が恵帝衷から帝位を簒奪した事に対して斉王・司馬冏,成都王・司馬穎,河間王・司馬顒らが決起(三王起義)すると,乂もこれに参加.
 功績を挙げて驃騎将軍などを与えられた上,長沙王復位.
 302年,冏と不仲となっていた顒は近臣と謀って,洛陽にいる乂を動かし,乂が敗死したら冏討伐軍を動かし,洛陽へ総攻撃をかける作戦を立てる.
 乂はこの計に乗せられて,洛中で100人の兵を調達して宮中へ突入し,恵帝の身柄を確保.
 百官を恫喝して冏を引き渡させ,これを討った.
 冏討伐後,乂は恵帝へと忠誠を誓ったが,顒と穎はそれぞれ宮中に刺客を送り込んで乂を暗殺しようとするも,いずれも露見して乂に抹殺さる.
 303年8月,ついに顒と穎は乂討伐の兵を挙げる.
 恵帝は乂を太尉・大都督・中外諸軍事という軍権トップに任命し,顒・穎連合と対決する姿勢を見せる.
 同年夏,顒の家臣・張方と穎の家臣・陸機(陸遜の孫)・石超・牽秀らが二手から大軍を率いて洛陽を目指し,進撃を開始.
 これに対して乂は張方を止めようと家臣の皇甫商を派遣したが突破され,張方軍は洛陽へ侵入して略奪を働き,乂は洛陽周りに籠もって戦うことを余儀なくされる.
 しかし建春門に穎軍の陸機が迫ると,乂は恵帝衷と共に出馬してこれに当たり,馬に戟を括り付けて突撃させて混乱した敵を散々に破り,将軍16人を討つという大勝を挙げた.
 あまりの大敗に陸機は「司馬乂と通じてわざと大敗した」と讒言され,穎により三族滅を言い渡された.
 続いて顒軍の張方にも乂は痛打を与え,洛陽周りから叩き出した.
 乂の軍勢の強さを畏れた張方は,正攻法での勝利は難しいと考え,洛陽の堰を破壊して水の手を断つという手段に打って出て,洛陽は深刻な水不足となる.
 それでも乂の軍勢は士気旺盛で,顒・穎軍を寄せ付けなかった.

 年が明けて304年になっても,乂軍将兵の士気は異様は高く,張方は洛陽攻略を諦めて長安へ撤退することを考え始めていた.
 だが,洛陽にいた東海王・越は,城内の窮状から限界は近いと判断し,乂を密かに捕縛して降伏しようと謀った.
 そして,ある夜中に乂は捕縛され,全ての官を解かれて監禁され,官軍は張方に降伏.
 しかし開城した官軍は,張方軍が撤退も考え始めているほど士気が低かった事を知って即座にこれを後悔し,乂を奪還すればまだ戦えるのではないかという雰囲気が漂いだす.
 この不穏な空気を察した越は,もはや乂を生かしてはおけぬと思い,張方に密かに連絡して乂の監禁先に兵を出させ,引き釣り出された乂は張方の陣中で生きたまま焼き殺された.
 享年28.

https://www.youtube.com/watch?v=Hxts8Ptl-T4

2022.3.20


 【質問 kérdés】
 五胡十六国って何?
 Mi az Tizenhat Királyság?

 【回答 válasz】
 中国,華北の地に,304年前趙(趙)の建国より439年北魏(魏)が統一するまでの間に,五胡が建てた13国(成,前趙,前燕,後趙,前秦,後燕,後秦,西秦,後涼,北涼,南燕,夏,南涼)と漢族の建てた3国(前涼,西涼,北燕)の総称.
 五胡は後漢・三国時代のころから中国の北西部に侵入していたが,晋の八王の乱に乗じて蜂起し,華北に割拠.
 439年,北魏により華北が統一され,それ以降,華中の漢民族と対立する南北朝時代に入った.

2022.1.8


 【質問 kérdés】
 羯(けつ)って何?
Mi Jie?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代の五胡の一つ.

 「羯」という名称は,2~3世紀に中国北部に南下した匈奴の19の構成種族の一つで,山西省中部山間部に入居したKhes(あるいはKit.石を意味するエニセイ語)を,「去勢した羊(ひつじ)」を意味する「羯」と音訳したのが由来,とする説が有力.
 319年に後趙を建国した石勒は羯族出身だが,後趙王室がその姓氏を石と称したのもKhesの意訳と思われる.
 また,山西省の羯に居住したことに由来するという説もある.

 彼らは隆鼻,深目,長鬚(ちょうしゅ;長いあごひげ)という身体的特徴をもっていたことから,その民族系統を,匈奴に服属した中央アジアのイラン系民族とする説もある.
 ただし,匈奴系の諸部族全般,さらに北方民族全体を指して羯と呼ぶこともある.

 魏晋南北朝時代の4世紀に華北に侵入.
 上述したように,319年に羯族の石勒が後趙を建国するが,351年に後趙が滅亡すると羯族は分散したという.

2022.4.24


 【質問 kérdés】
 石勒って誰?
Ki Shi Le?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代,後趙の初代君主(在位319~333).

 274年,山西省武郷県付近の,匈奴系の羯族の小部族首長の家の生まれ.
 しかし南匈奴に従って南遷してきた羯族は当時,漢人の蔑視と経済的困窮のなかにあり,石勒も飢餓に苦しんだ末,西晋の軍閥によって山東方面の地主に売り飛ばされて奴隷となった.
 その後,群盗の仲間に入ってその首領となり,八王の乱に乗じて勢力を伸ばしたが,南匈奴族の劉淵が漢(匈奴漢)の帝位につくと彼に降り,続いて劉聡の部下となって,永嘉の乱では劉曜や王彌らと共に活躍.

 しかし劉聡死後は劉曜に対抗し,襄国〔現・河北省邢台県付近〕を拠点として山東,河南,および河北を経略.
 次第に漢から自立する傾向を強め,318年,漢が靳準によって滅ぼされると,同年,長安にあった劉曜が前趙を建国したことに対抗して自ら趙王の位につき,後趙を建てた.
 329年,前趙を滅ぼしてほぼ華北を統一.
 330年,帝位についた.
 外政では江南の東晋と対峙.
 内政では帰服した漢人の統御にすぐれた手腕を示し,律令制定や歴史書編纂事業等,中国の伝統的な制度や文化を尊重.
 また,学校を建て,学者を重用し,官吏の登用にもよく意を用いた.
 さらに仏図澄を礼遇し,仏教の普及にも貢献した.

 333年7月崩御.次の帝位には石弘が就いた.

2022.4.28


 【質問 kérdés】
 石虎って誰?
Ki Shi Hu?

 【回答 válasz】
 五胡十六国の後趙の第3代皇帝 (在位 334~349) .

 生年不詳.
 羯 (けつ) 族の石勒の甥.
 性質は残忍であったが,武将としての統率力をもっていたので石勒に信任され,石勒の片腕として華北統一に勲功を立て,国軍の全権を掌握した.
 石勒死後,その跡を継いだ石弘を殺して居摂趙天王と名乗り,都を鄴に移した.
 彼は政務を皇太子・石邃(せきすい)にゆだねて遊猟と酒色にふけり,豪奢な宮殿を造営して国力を疲弊させた.
 石邃も乳母を信任したので,朝政は私情に左右された.
 また,再三外征の軍を起したが実効はなかった.
 さらに兵権を分掌する諸王たちのため,君主権はたえず動揺した.
 349年,帝位についたが,同年没.

 その後まもなく,石遵や次の石鑒は冉閔 (ぜんびん) 将軍に殺され,351年には冉閔は独立して魏と称し,石氏一族を滅ぼした.
 羯族も漢人による大虐殺が行われて衰えた.

2022.4.26


 【質問 kérdés】
 冉閔(ぜんびん)って誰?
Ki Ran Min?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代の冉魏の初代天王.

 生年不詳.
 父親の冉良は漢民族の出で,漢(後の前趙)の将軍の石勒に捕らえられるが,勇猛さを買われて石勒の甥である石虎の養子となり,名を石瞻としていた.
 そのため冉閔の名ははじめ石閔だった.

 石虎旗下の武将として後趙を支えるが,349年に石虎が崩御して後継者争いが発生すると,司空の李農らと結んで,石遵を助けて帝位に立てた.
 だが,石遵が冉閔を皇太子とする約束を果たさなかったので,約半年後に石遵を殺害.
 石鑒を帝として立て,大将軍に任ぜられて実権を握った.

 だが,石鑑も石閔の専横を恐れて排斥を図ったため,350年に先手を打って殺害.
 また,後趙が漢人から3万人の婦女を徴発したり財産の大半を没収するなど苛政を続けていたことへの報復として,配下の漢人武将や漢人民衆らを煽り,石氏の一族数十人を処刑.
 それのみならず,20万人にも及ぶ羯族等の民衆を虐殺した.
 鼻が高く鬚が多いのが非漢人の外見的特徴であったことから,外見のみで巻き添えに殺された漢人が半ばを占めていた.
 この大虐殺の影響は四方に波及し,数百万の胡族が各地に交錯,互いに殺略しあうという事態が生じた.
 また,このために中原では農耕自体が不可能になり,大飢饉に見舞われ,盗賊が横行した.

 350年2月,帝位に就き,国号を大魏(冉魏)と定めた.
 同年4月,上述の司空・李農を処刑し,権力を集中させた.
 ただし,漢人至上主義に基づく漢人のみの国家であったため,異民族の勢力圏にあった華北地方においてはその勢力基盤は脆弱で,支配領域は鄴周辺のわずかな地域に限定され,後趙の残存勢力とも争わねばならなかった.
 そこで冉閔は,当時江南にあった東晋に共闘を申し入れたが無視された.

 351年4月,劉顕の寝返りで襄国(現・河北省信都区)を勢力としていた石祗を殺害し,後趙を滅ぼすことに成功.
 だが同年7月,劉顕は自立を目論んで冉閔から離反し,鄴を攻撃.
 だが冉閔に敗北してしまい,襄国へ逃げ戻った.

 同年12月,東晋の桓温の北伐により兗州・徐州・豫州・荊州の刺史達が東晋へ帰順.

 352年1月,その頃皇帝を名乗って自立していた劉顕を殺害.
 だが羌族の姚襄の軍に対し,死者10万を出して大敗.
 同年4月,前燕の慕容恪らが幽州から南下して冉魏を打ち破り,冉閔は処刑された.

 その後,鄴に残った皇太子の冉智が東晋に救助を求めると,東晋は先に伝国璽を求めた.
 同年8月,伝国璽は41年ぶりに司馬氏の手に戻り,9月に冉智は部下の手で捕らえられて幽州に送られ,冉魏は完全に滅んだという.

2022.4.27


 【質問 kérdés】
 苻生って誰?
Ki Fu Sheng?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代の前秦の第2代皇帝.

 略陽郡臨渭県(現・甘粛省天水市秦安県の東南)出身の氐族で,初代皇帝苻健の三男.
 幼い頃から無法な行いを繰り返しており,祖父の蒲洪(後の苻洪)からは強く忌み嫌われていた.

 成長すると勇猛になったが,性格は凶暴で殺戮を好み,また多量の飲酒を好んだという.

 350年1月,蒲洪が大都督・大将軍・大単于・三秦王を自称し,自らの姓を苻に改めると,蒲生もまた苻生と名を改めた.
 351年1月,苻健が天王・大単于の位に即くと,苻生は淮南公に封じられた(前秦の成立).
 352年1月,苻健が帝位に即くと,淮南王に進封された.

 354年3月,東晋の征西大将軍桓温が前秦への侵攻軍を率いて到来すると,苻生は兄の皇太子苻萇・叔父の丞相苻雄・従兄の衛大将軍苻菁・弟の北平公苻碩らと共に迎撃を命じられ,5万の兵を率いて駐屯した.
 桓温との交戦が起こると,苻生は自ら陣頭に立って敵陣に突入し,10数回に渡って出入りして敵旗を奪い取り,将軍の応誕・劉泓を始め10数人の武将を討ち取って1000人を殺傷した.
 だが,桓温もまた兵を率いて力戦したので,最終的に前秦軍は大敗を喫した.
 しかし前秦軍は関中の作物を尽る刈り取る焦土作戦を展開した上で,後退して守備を固め侵攻を阻んだ.
 これにより東晋軍は兵糧不足により撤退を開始したが,苻生らは桓温を追撃し,潼関において幾度もこれを撃破し,数万の兵を討ち取った.
 同年7月,桓温撃退の功績により,苻生は中軍大将軍に任じられた.

 355年4月,先の皇太子苻萇戦死に伴い,皇太子に立てられる.
 同年6月,苻生の従兄・苻菁は兵を率いて東宮に入り,苻生を殺して自立を図ろうとしたが失敗し,処刑さる.

 即位した苻生は,皇后の梁氏や他多くの群臣を処刑.
 即位以前からの寵臣の趙韶を右僕射に,趙誨を中護軍に,董栄を尚書に任じたが,趙韶・董栄らは奸佞な人物であり,大いに朝政を乱した.

 356年2月,前燕皇帝・慕容儁が配下の慕輿長卿らに兵七千を与え,軹関より攻め寄せると,この侵攻を知った苻生は鄧羌を救援に差し向け,この戦いで慕輿長卿を討ち取り,2千7百を超える首級を挙げる大勝利を得た.
 同年4月,関中攻略を目指していた前秦の姚襄が進軍すると,苻生は苻黄眉・苻道・苻堅・鄧羌に歩兵騎兵合わせて1万5千を与え,姚襄討伐に向かわせた.
 前秦軍は偽装退却を用いて姚襄を本陣から引き離した上で攻撃.
 乱戦の中で姚襄は斬り殺され,その軍は戦意を失い降伏した.
 弟の姚萇は敗残兵を纏め上げると,苻生に降伏した.
 苻黄眉は長安に帰還したが,しかし苻生はこれを一切賞さず,逆に幾度も衆人の目前で苻黄眉を侮辱した.
 苻黄眉はこれに激怒し,苻生を殺害して自立しようと謀ったが,事前に露見してしまい,誅殺され,連座して多数の王公・親戚が殺害された.
 さらに苻生は,別の従兄弟であった清河王苻法や,その兄弟らまでも殺害しようとの計画を侍婢に漏らしたが,この侍婢はこの事を当の苻法へと報告.
 これを聞いた苻法は,他の朝臣らと共に壮士数百を率いて宮殿へと突入した.
 また,苻法の弟である苻堅も兵数百を率いて宮殿に迫ると,宿衛の将士はみな武器を捨てて苻堅に従った.
 この時,苻生はまだ酔い潰れて眠っていたが,苻堅の兵により別室に連行され,越王に降格された上で殺害された.
 357年のことだった.

2022.4.26


 【質問 kérdés】
 苻堅って誰?
Ki Fu Jian?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代の前秦第3代君主(在位357~385).

 338年生まれ.
 氐(てい)族の人.
 苻健の弟にあたる苻雄の子.
 357年,暴君・苻生(苻健の子)を殺して自立,大秦天王と称した.

 漢人の名宰相・王猛らの補佐を受け,徳治主義を標榜.
 明堂を建て,藉田の礼を行い,学校を建設して儒学教育の振興を図り,また魏・晋以来の士族の戸籍を復活した.
 一方,農業を奨励し,治安の回復に力を入れ,長安と諸州の間に整った並木道を通し,一定の間隔に駅と亭を置いた.
 五胡諸国中第一の名君と評される.

 このように国内をよく治めたので国力が強大となり,370年に前燕,376年に前涼と代を滅ぼして華北統一に成功.
 また,東晋から四川を奪い,呂光を派遣して西域を従えた.

 他種族に対しても寛大で,彼らを本拠の関中に多く移し,逆に氐族を東方に分置した.
 だが,天下統一を目指した東晋遠征において,淝水の戦い(383)に敗れると,これら諸族はいっせいに再独立運動をおこし,385年,苻堅は羌族の姚萇(ようちょう)に幽閉され,自害した.

2022.4.21


 【質問 kérdés】
 淝水の戦いについて教えてください.
Kérem, mondja meg a Fei-shui castaról.

 【回答 válasz】
 中国統一をかけた東晋遠征において前秦が敗れた戦い.

 華北を統一し,東晋から四川を奪った前秦の苻堅は,自ら100万と号する大軍を率いて南下し,寿陽を落とした.
 これに対し東晋は,宰相・謝安の甥・謝玄が建康(現在の南京)防衛にあたる北府軍団を中核とする8万の衆を率い,両軍は淮水の支流,淝水を挟んで対峙した.
 苻堅は先鋒を偽って退かせて東晋軍を誘ったが,兵は混乱して退却をやめず,そこを謝玄に強襲されて全軍総崩れとなり,「風声鶴唳(風の音や鶴の鳴き声にもおびえつつ)」逃走.
 苻堅も負傷した.

 この敗戦によって前秦治下の各種族が独立し,華北は以前にも増して分裂の状態を迎えた.

2022.4.22


 【質問 kérdés】
 魏晋南北朝時代について教えてください.
Kérem, mondja meg Wei, Jin, északi és déli dinasztiákról.

 【回答 válasz】
 三国の分立(後漢の滅亡)以降,五胡十六国を経て,南朝・北朝がそれぞれ誕生し,隋によって統一されるまでの時代を指す.

 司馬炎(武帝)が樹立した晋が,帝位をめぐる争いと北方民族の侵入で弱体化し,侵入してきた匈奴によって首都洛陽,ついで長安を占領されて滅亡(316年),
 翌年,王族司馬睿(しばえい)が建康(呉の首都としては建業.現在の南京)で即位した(東晋).
 東晋の成立により,華北の漢人の貴族・豪族や多くの農民が戦乱を避けて江南に移住してきており,開発途上にあった長江の中・下流域が急速に発達した.
 だが東晋も約100年余で倒れ(420年),その後は宋・斉・梁・陳の4王朝が短期間に興亡した.
 これを南朝と呼ぶ.

 一方,華北では五胡十六国の中から,鮮卑族の拓跋氏(たくばつし)の建てた北魏(386年―534年)が華北を統一(439年).
 北魏は内争から東魏・西魏に分裂.
 さらに東魏は北斉に,西魏は北周にかわられた.
 これら北魏以降の5王朝を北朝という.

 この時代,北朝では異民族の武人政権で質実剛健の気風を生んだが,南朝では門閥を形成した貴族が政権を左右した.
 また,4世紀後半から仏教が盛んとなり,西域から僧侶が来中して仏典の翻訳などに活躍し,さらに道教が北魏の寇謙之(こうけんし)によって初めて教団化された.

2022.6.20


 【質問 kérdés】
 東晋って何?
Mi Keleti-Jin?

 【回答 válasz】
 西晋滅亡後,その王族が江南にて再興した国家.

 司馬炎が建国した西晋が匈奴の侵入を受けて滅んだ後,司馬氏の一族の司馬睿が江南で317年に晋を再建.
 呉の建業(現・南京)を建康と改称し,都とした.
 これを東晋という.
 東晋は元帝・司馬睿から恭帝・司馬徳文まで11代,420年までの102年間,江南地方を支配.
 華北が北方民族(胡人)の五胡十六国に分割されていた間,漢民族の文化を維持,発展させた.

 東晋を支えたのは,司馬睿とともに華北から移動してきた王導などの門閥貴族であったが,彼らは江南の土着の豪族と融和を図る必要があった.
 江南の豪族も晋の皇帝の一族司馬氏を迎えてその権威に服従することで,利害が一致し,当初は比較的安定した政治が行われた.

 383年,華北の前秦(氐が建国した王朝)の苻堅が,中国統一を目指して南下すると,淝水の戦いで迎え撃ち,その南進を食い止めた.
 以後,淮河を境界とした南北で対抗するという形勢が定まった.
 淝水の戦いにおける東晋の勝利は,その軍事力を支えていた北辺守備隊である北府と言われた軍団の勢力を増大させることになった.

 華北から移って江南を支配した東晋政権に対し,江南の豪族はたびたび反乱.
 また,東晋政府は華北政権との戦いの財政負担を農民に求めたので,農民の中に不満が蔓延していった.
 そのような社会不安を背景に,長江下流域でかつての民間信仰・五斗米道の流れをくむ孫恩という人物が,水上労働者を組織して399年に反乱を起こした.
 この反乱の鎮圧に向かったのが,北府を指揮した劉裕だった.
 402年,劉裕に攻撃された孫恩の反乱軍は海上に逃れたが,孫恩が海中に身を投じると信徒も次々と投身したため,鎮圧された.
 劉裕はその後も散発的に続いた孫恩教団の残党を討伐し,さらに豪族の反乱を次々と鎮圧して名声を高めた.

 403年12月には,北府軍に対抗していた西府軍の桓玄が,東晋の安帝から禅譲されるという形をとって帝位につき,国号を楚とした.
 だが404年2月に劉裕がクーデターを起こし,桓玄を首都から追放.
 安帝を再び帝位に就けて復活させた.
 実権は劉裕に移ったことは明らかだったが,劉裕はなおも20年近く,東晋皇帝に仕える形をとった上で,420年に東晋最後の皇帝恭帝から禅譲を受ける形で帝位(武帝)について宋(劉宋)を建国.
 東晋は名目上も滅んだ.

2022.4.20


 【質問 kérdés】
 赫連勃勃って誰?
Ki He-lian Bo-bo?

 【回答 válasz】
 五胡十六国の大夏の建国者.

 生年不詳(381年説あり).
 南匈奴の右賢王去卑の子孫.

 初め後秦の保護を受けていたが,407年,後秦にそむいてオルドス地方にて独立.
 天王大単于と称し,国を夏と称した.
 のち赫連に改姓.

 417年,東晋の劉裕が後秦を滅ぼした際,勃勃はその留守を襲って長安を奪い,418年,あらためて皇帝として即位.
 性格残忍で,人民はその非道な政治に苦しんだという.

 425年没.
 431年には北魏の侵攻をきっかけにして,大夏も滅亡した.

2022.4.23


 【質問 kérdés】
 劉宋って何?
Mi Liu Song dinasztia?

 【回答 válasz】
 南朝最初の王朝(420~479).

 彭城郡(江蘇省)の下級武将,劉裕(武帝)が建国.

 武将時代に劉裕は,桓玄を討って東晋を再興.
 また,南燕,後秦を滅ぼして内外に勲功をあげ,東晋の安帝を絞殺してその弟・恭帝を建て,恭帝から禅譲を受けて建康(南京)に王朝を開いたのが劉宋だった.
 その後,劉裕は恭帝も暗殺している.

 その死後,長子の少帝が継いだが,かわって第2子の文帝が擁立され,その治世30年は元号にちなんで「元嘉の治」と繁栄をたたえられた.
 しかし晩年,北魏討伐に惨敗して国勢を傾け,皇太子・劉劭に斬殺された.

 兄の劉劭を討って即位した孝武帝は,身分の低い寒人を寵任して皇族や貴族を弾圧し,専制政治を行った.
 これ以降,前廃,明,後廃と暴君が続き,軍閥・蕭道成(後の南斉の高帝)が後廃帝を暗殺して順帝を擁立したのち禅譲を迫り,劉宋は8代で滅びた.
 その後,蕭道成は宋の皇族を一人残さず滅ぼしている.

 なお,5世紀の日本の大和王権の「倭の五王」が,使節を南朝の宋に派遣したことが『宋書倭国伝』に記されている.
 倭の五王の遣使は次の斉と続く南朝の諸王朝に対して行われ,朝鮮半島の高句麗・新羅・百済と対抗するために,倭国の支配権を承認してもらう狙いがあったと思われる.

2022.4.14


 【質問 kérdés】
 南斉って何?
Mi Nan-qi?

 【回答 válasz】
 南北朝時代の南朝の第2王朝 (479~502)
 479年,宋の将軍・蕭道成が宋の順帝より受禅して建国.
 483年,その子武帝が即位し,戸籍の検定,税制の整備などを行う(永明の治).
 しかし,武帝およびのちの明帝は寒人(門地の低い層出身の官僚)を重んじ,顕官を退ける施策を講じたため貴族の支持を失い,また 24年間に7代も皇帝が代って皇族間の殺戮が悲惨をきわめたため,国情は度々動揺.
 500年,武将・蕭衍が挙兵し,502年,受禅の形で即位.
 南斉は滅びた.

2022.4.14


 【質問 kérdés】
 蕭衍って誰?
Ki Xiao Yan?

 【回答 válasz】
 南朝,梁の皇帝(在位502~549).

 464年,蘭陵(江蘇省武進)の生まれ.
 父親・蕭順之は南斉王朝建国者・蕭道成(高帝)の族弟で,創業の功臣.

 早くから文武両道にわたる教養と才幹で将来を嘱望され,竟陵王蕭子良の〈八友〉の一人に数えられた.
 斉末,北魏の侵攻に雍州襄陽(湖北省襄樊市)へ出陣し,498年,その鎮将,雍州刺史(ようしゅうしし)となる.
 兄の蕭懿が南斉末の暴君・東昏侯に殺されると,幕府の属官および襄陽地方の豪族・土豪と共にを結集するとともに荆州(湖南省)の軍団とも同盟.
 501年,東昏侯の非を責めて挙兵.
 都の建康(現・南京)を襲って南斉を滅ぼし,502年,禅譲によって梁王朝を建国.
 彼の治世初期には官制の改革をはじめとする諸種の政策によって,頽廃していた南朝の貴族制の改革に努め,比較的安定した時代となった.
 また,彼自身は熱心な仏教徒であるとともに,多数の著述もある知識人でもあり,南朝仏教の黄金時代を招いたが,晩年は仏教に溺れて政治が顧みられなくなり,ついに北朝の反臣・侯景によって建康を落とされ,幽閉されて549年死亡.
 諡号は武帝 Wǔ dì.

2022.4.13


 【質問 kérdés】
 北魏って何?
Mi Észak-Wei?

 【回答 válasz】
 南北朝時代の北朝側の国(386~534).

 鮮卑の拓跋珪(道武帝)は前秦の配下にあったが,淝水の戦いで前秦が大敗すると,その瓦解に乗じ,内蒙古の盛楽(現・内モンゴルのホリンゴール)に都して建国.
 398年には平城(山西省大同)に遷都し,大魏皇帝を称した.
 道武帝は諸部族を解散して族長から統率権を奪い,部族民を皇帝権に直結するという画期的な改革を行い,漢人官僚を重用して統一国家の整備に努めたが,急激な改革は国内に動揺をもたらし,帝はその子に弑(しい)された.

 政権の安定に意を用いた第2代明元帝を経て,孫の太武帝は漢人名族・崔浩をブレーンとして四囲の征服に乗り出し,439年までに夏 (か) ・北燕 (ほくえん) ・北涼を併せ,華北を統一して江南の宋に対し,南北朝時代を形づくった.
 この過程で被征服民を強制的に首都周辺やその他の要地に移住させ,その故地には鮮卑兵を主力とする中央軍を派遣して軍政支配を行った.
 太武帝はまた,新天師道を唱える道士・寇謙之を信任して廃仏を断行.
 さらに漢人貴族を政界に招致するなど,漢文化尊重に傾いたが,彼も非業の最期を遂げた.

 その後しばらく宮廷内の混乱が続いたが,文明太后・馮氏(第4代文成帝の皇后)は事態を収拾して実権を握り,第6代・孝文帝の後見役として均田制,租庸調制,三長制,俸禄制などを断行し,農村の再建や財政の確立を図った.

 太后が死んで孝文帝が親政すると,朝廷内における胡族の言語,風俗を禁じ,胡姓を漢姓に改め,漢人貴族制を胡人に及ぼすなど,一連の漢化政策を行った.
 拓跋氏もこのとき元氏と改めた.
 また494年,都を洛陽に移し,南朝と対決する態勢を固めたが,徹底した漢化政策は鮮卑系軍人の不満を招き,その死後反動の気運が起こって政争を生み,鮮卑人近衛軍士の暴動事件に続いて,524年,北辺長城地帯の鎮民が蜂起した(六鎮の乱).
 内乱は全国に広がり,そのなかから鎮民出身の軍閥,高歓と宇文泰が華北を東西に二分して争った.
 534年,高歓のいただく孝武帝が洛陽を出奔し,長安の宇文泰についたことから,北魏政権は東魏と西魏に分裂した.

2022.4.17


 【質問 kérdés】
 北魏分裂について教えてください.
Kérem, mondja meg a Észak-Wei kettéváltról

 【回答 válasz】
 北魏は六鎮の乱を経て武人の力が強くなり,高歓と宇文泰により別々の皇帝が擁立されて東魏と西魏に分裂.
 その後,高氏の北斉と宇文氏の北周がそれぞれに取って代わった.

 まず,鮮卑の出身といわれる高歓が孝静帝を立てて北魏の実権を握り,534年,鄴に都を移して東魏を建国.

 次いで,北魏末に陝西・甘粛方面の反乱を討伐するため中央から派遣されていた軍が,武将宇文泰を中心に自立.
 宇文泰は535年,北魏の一族である文帝を擁し,長安に都して西魏を建国した.
 その国力は東魏に比べて貧弱であったが,北鎮系の軍と現地の漢人豪族とが協力して,府兵制,六官の制など一連の復古的革新政策を打ち出し,よく東魏に対抗した.

 東魏の高歓とその子高澄は550年戦死.
 同年,その第2子・高洋は帝位を譲らせて北斉を建て,東魏は滅んだ.

 一方,西魏は東魏と対抗すると同時に,南朝の梁の内乱に乗じて長江上流地域を獲得.
 中国再統一の第一歩を示した.
 そして556年,泰の世子の宇文覚が,3代恭帝から帝位を譲り受けて北周を建て,西魏も滅んだ.

2022.4.18


 【質問 kérdés】
 宇宙大将軍・侯景について教えてください.
Kérem, mondja meg három sorban. "Az Univerzum múlt, jelen és jövő tábornoka, Tábornok Az összes haderő parancsnoka a hat irányban" Hou Jing-ről

 【回答 válasz】
 南北朝末期の武将で,侯景の乱の首謀者.

 鮮卑系,拓跋氏の国家,北魏の武将・爾朱栄の部下として,524年の六鎮の乱において頭角を現す.
 北魏が東西に分裂すると東魏の高歓の旗下に入り,河南大行台として河南方面の軍事を任じらる.
 高歓死去後,その長男・高澄との仲が険悪になったため,彼が支配する州郡の軍勢を率いて,南下して南朝・梁の武帝に帰順.
 その後,梁と東魏の間に和議成立の情勢となり,身の危険を悟った侯景は,梁に対して反乱.
 梁都・建康を包囲して大量の餓死者を出させた後,549年に陥落させ,武帝は台城に幽閉されて失意のうちに憤死.
 武帝崩御後,侯景は簡文帝を擁立し,自らは相国,さらにはそれに加えて宇宙大将軍・都督六合諸軍事に就任.
 しかし簡文帝が自立する動きを察知すると弑殺し,豫章王蕭棟を擁立.
 551年10月,蕭棟から「禅譲を受け」,自らが皇帝に即位,
 国号を漢としたが,わずか在位5カ月で殺害された.

 侯景の遺骸は分割されて,首は江陵城門に掛けられ,両腕と両脚は北斉の文宣帝へ送り届けられ,胴体は建康の市に曝された.
 建康の民は侯景の肉を膾として喰らったという.

2022.1.25


 【質問 kérdés】
 楊堅って誰?
Ki az Yang Jian?

 【回答 válasz】
 隋をおこし,初代皇帝・文帝(在位581~604)となった人物.
 541年生.
 おそらく鮮卑族の一族で,父親の楊忠は西魏の十二大将軍の一人.
 楊堅の長女が北周の宣帝の皇后となり,外戚(がいせき)として北周の政治の実権を握り,宣帝の子・静帝の禅譲を受けて即位し,隋朝を開く.
 首都を長安(西安)に定め,その政治は節約を重んじ,また,開皇律,官制,均田制,兵制などを定める.
 それらは次の唐代の律令制の基礎となった.
 突厥を討った後,589年,南朝の陳を滅ぼし,中国の再統一を果たす.
 性格は疑い深く,皇太子の勇を廃し,次子の広(煬帝)をたてたが,最後は広に殺されたといわれる.

2022.1.22


 【質問 kérdés】
 独孤伽羅って誰?
Ki Dugu Qieluo?

 【回答 válasz】
 隋の文帝楊堅の皇后.

 544年,北周の大司馬・独孤信の七女として生まれる.
 伽羅14歳のとき,独孤信は楊堅を見込んで彼女を嫁がせる.
 581年,楊堅が帝位につき,隋を建てると,伽羅は皇后に立てられた.

 楊堅が朝政を見るとき,皇后は宮官に皇帝の判断を報告させ,過失がある場合には遠慮なく諫めた.
 また,皇后は読書を好み,古今の知識に通じた.
 そして生活は倹約を重んじ,華美なものを好まなかった.

 一方で嫉妬深くもあり,楊堅が後宮に他の女性を迎えることを許さなかった.
 皇后は諸王や朝士が側妾に子を産ませることを許さず,そうした者がいると必ず楊堅に勧めて排斥させた.
 好色家だった皇太子・楊勇の太子妃・元氏が突然死した際には,これを皇后は太子の愛妾・雲氏が殺害したものと思いこんだ.
 そして皇后は高熲を追い落とし,楊勇を廃嫡して次男の楊広を太子に立てさせた.
 彼が後の煬帝である.

 602年8月,永安宮で死去し,太陵に葬られた.

2022.4.20


 【質問 kérdés】
 煬帝って誰?
Ki Yang di?

 【回答 válasz】
 隋の第2代皇帝(在位604~618年)

 569年,文帝楊堅の次男として生まれる.
 581年,晋王に封ぜられ,南朝陳の併合には行軍元帥となり,突厥侵入や江南の鎮撫に手腕をみせた.
 589年,南朝の陳をほろぼして全国を統一.
 こうした功績と母后・文献独孤の偏愛を巧みに利用し,600年,失脚させた兄の楊勇にかわって皇太子となる.
 604年,文帝が死ぬと大臣・楊素とはかって遺詔を改竄し,楊勇などを殺害したうえで即位.
 文帝が女婿・柳述らのすすめで再び楊勇を立てようとしたため,これを察知した煬帝が先手を打って文帝を弑逆したのだという説もある.
 対外的には積極策をとり,突厥に備えて万里の長城の修築を行い,吐谷渾(とよくこん)を討って西域への道を通じ,林邑(チャンパ.現ベトナム南部)・琉球(台湾)を討った.
 他方,豪華を好み,宮殿や黄河~長江間の大運河の建設,そして上述の長城などの大事業を行い,国費欠乏を招いた.
 612年,第一次高句麗遠征.
 113万の兵力と,その倍の輸送隊を動員したが,高句麗完全制圧には失敗.
 613年,第二次高句麗遠征.
 しかし後方で楊玄感の反乱が起こり,これは2か月で鎮定されたが,こののち各地に反乱が起こり,隋末の反乱期に入る.
 614年,第三次高句麗遠征.
 しかし軍中,江都(揚州)の離宮で臣下の宇文化及に暗殺された.

2022.4.11


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