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(画像掲示板より引用)


 【link】

net bunker」◆日本政府:北清事変の仏兵を国挙げ治療

「何かを斬る」:清と中国の関係

『神の子洪秀全 その太平天国の建設と滅亡』(ジョナサン D. スペンス著,慶應義塾大学出版会,2011.12)

『上海歴史探訪 近代上海の交友録と都市社会』(宮田道昭著,東方書店,2012/12)

『清初軍事史論考』(阿南惟敬著,甲陽書房,1980/11)

 阿南大臣のご子息(故人)が軍事研究に発表した論文をまとめたもの.
 清の軍事度について詳しすぎるほど述べている.
 これ以上の本を見たことないし,多分ない.
 ただ,論集であるため,読み手にある程度の知識を要求しており,まったくの初心者には辛い.

 実はコレとっくに絶版な上,当時の定価18000円だった.
 どうしても欲しかったので文華堂で購入したが,23000円もとりやがった.
 くそっ!
 ほぼ同時に購入した「パンツァータクティク」と並べると,もはや高笑いをするしかない.
 財布には埃しか入ってない.
 明日から夕食は雑草だ.

------------軍事板,2002/11/18

『西太后』(加藤徹著,中公新書,2005.9)

『文字の大陸 汚穢の都 明治人清国見聞録』(草森紳一著,大修館書店,2010.4)


 【質問】
 緑営と漢軍八旗ってどう違うの?

 【回答】
 大雑把に例えれば,警察と自衛隊の違い.
 緑営の任務は保安・警備・警察ってあたり.
 漢軍八旗の任務は国防・軍事・戦闘ってあたり.

 まだ明が健在だった頃は,清に帰順した漢人は少なかったから,緑営しか編成されなかったが,明が衰え,乱れてくると,明を見放して清に帰順する漢人が増えてきた.
 それなら漢人にも八旗をやらせるか,ってな話で漢軍八旗が編成された.
 だから作られた時期と任務が違う.

世界史板
青文字:加筆改修部分

▼ 緑営が創られたのは清の入関後で,八旗漢軍は入関前に創られていた筈.
 そもそも八旗漢軍は満洲語では火器部隊と表現されており,「漢人」「中国・支那(ニカン)」に相当する語句は使われていない.
 たまたま火器を操れる人間に,明から投降した漢人が多かったから,八旗漢軍という《漢語訳》が創られたに過ぎない
(漢軍八旗とか漢人八旗という表現は誤り.そんなものは存在しない).
 「漢」軍という表現にエスニシティを見いだすのは誤りです.

 逆に八旗満洲にも,民族的には漢人やモンゴル人である人たちが多数含まれており,満洲族だけの集団ではありません
(主力は満洲族でしたが).

HASU in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 HASUさんが仰るとおり,清初に対する歴史用語の初歩の段階で誤っています.
 思うにWikipediaの「緑営」の記述が現時点で

>順治元年(1644年)に明の滅亡に伴って満州人の清が入関する以前に
>帰順した漢人によって編成され,緑色の旗を標としたために,緑営と呼ばれた.

となってしまっており,これを引き写してしまっているのではないか,と.

 なお八旗漢軍の成立過程自体は,下記のサイトに詳述されており,参考になるかと思います.
http://honin.spaces.live.com/blog/cns!9DAA889CEE2D0AB0!3807.entry

じょーぢ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 少年マガジンで連載してた「中華一番」に出てくるリー提督の「提督」という役職は,清の軍隊と関係あるんでしょうか? 序列的にはかなりの高官になるんでしょうか?

 【回答】
 ていとく0【提督】
(1)艦隊の総司令官.また,海軍の将官.
(2)中国の官名.武官の最高位.清代では総督の下で一省の軍政をつかさどり,緑営を指揮した.提督軍務総兵官.
(3)全体を統括しとりしまること.
「雷王は十二万人を―し/経国美談(竜渓)」

 某所のweb辞書(三省堂の国語辞典)による.
 普通,提督というと(1)だが,お前の質問の場合は(2)になるだろう.

軍事板


 【質問】
 乾隆帝(けんりゅうてい)って誰?

 【回答】
 乾隆帝は清朝の第6代皇帝(1711~1799).

 治世初期には皇帝権の伸長に努め,朋党,皇族の結党を禁じ,中期には外征に力を尽くし,モンゴルのジュンガル部を制圧し,天山北道・南道を完全に支配し,さらにチベットを制圧し,ビルマ・ベトナムも内乱時に介入して朝貢国にするなど,中国史上,版図を最大のものとした.
 末期には各地に反乱が発生し,衰運のうちに嘉慶帝に譲位しましたが,退位後は太上皇帝(上皇)となり.上皇時代も事実上の権力者となった.


 【質問】
 18世紀半ば以降の,漢族や英仏の雲南進出状況は?

 【回答】

 以前,清国が雲南地域の支配をするのに改土帰流と言う統治政策を採ったと言う話を書いたのですが,今回はその後の雲南の話なんぞ.

 清が改土帰流政策を大規模に進めた結果,従来この地域で権力を握っていた在地権力である土司勢力は大幅に縮小し,清末に至っては,土司勢力は下位のものも含めて100余しか残っていません.
 しかも,その土司の大半は既に力が弱く,殆どの土司は有名無実と化していました.

 この土司勢力が後退していくに従って,18世紀半ば以降,漢族が大量移住し始めます.
 従来は,こう言った痩せた高地での農業生産力は酷く低かったのですが,この頃になると16~17世紀頃に中南米大陸生まれの薩摩芋,馬鈴薯,玉蜀黍と言った作物が清に伝播.
 それらの作物は,痩せた土地や山地での生産力を飛躍的に向上させて,清の漢族人口は爆発的に増加し,彼らは新たな土地を求めて雲南の平地は元より,山地にも進出する事になります.

 この他銅や錫,金,銀と言った豊富な鉱産資源も内地の人々を雲南に惹き付け,漢族の大量移住によって雲南の人口構成は大きく変化し,従来少数民族の世界であった省西南部の普?府も,19世紀半ばには漢族が多数を占める地域に変貌しました.

 この様な漢族の大量流入による人口構成の変動や,田地の不足,清朝政府の財政難,地主や商人等による土地の併呑と集中,鉱山業の衰退による鉱山労働者の失業と流民化,山地への漢族流入に伴う少数民族との対立等の社会矛盾が拡大し,各地で民衆叛乱が発生しました.
 その最大のものは,19世紀半ばに回族が中心となって起こした回民起義と呼ばれる大反乱で,この叛乱勢力が大理に立てた政権は16年も持続し,清朝の雲南支配に大きな打撃を与えました.

 ところで,19世紀半ば以降,清末の雲南社会に大きな意味を持ったのは,英国とフランスを中心とする列強の進出でした.

 先ず英国は,1875年2月,英国雲南遠征隊の通訳だったマーガリーがビルマとの国境に近い盈江付近で漢族,回族,チンポー族,タイ族などの民衆によって殺害された所謂「マーガリー事件」に乗じて,1876年に煙台条約を締結して雲南とビルマ間の国境貿易の権利を獲得.
 1886年にはビルマを併合し,清朝とビルマとの間の朝貢関係を事実上消滅させました.
 フランスも清仏戦争の結果,天津条約を締結して清朝はヴェトナムに対する宗主権を解消させます.
 更に日清戦争で日本が敗れたのを機会に,1895年6月に「続議界務商務専條」を,英国も1897年2月に「?緬界務商務続議附款」をそれぞれ有利な条件で締結し,清朝との国境線を一応確定させました.

 また,英仏は清朝と交渉して雲南の対外貿易の窓口となる海関の設置権を獲得する事に成功します.
 フランスは1887年に蒙自に,1895年に思茅に海関を開く事,関税については輸入税を3割,輸出税は4割減らす事を清朝に承認させます.
 こうして1889年に蒙自が,1897年に思茅が貿易都市として開放されました.
 英国は騰越に海関を設置し,思茅を英国にも開放する事,関税についてはフランスと同等にすることを1897年に清朝に認めさせ,騰越の海関は1902年に設置されました.

 一方,昆明では,列強の法外な要求を阻止し,自らの利権を守る為に,士紳と呼ばれる地元指導者階級が自ら進んで海関を設置することを雲貴総督の丁振鐸に願い出て承認され,1910年に昆明南門の周囲10余里が対外貿易の場と定めました.
 しかし,英仏両国は領事を昆明に移して,その海関を完全に無視して自由に行動しました.

 また,英仏は雲南の鉄道敷設権を巡っても争いました.
 この競争に勝利したのはフランスで,1898年4月の清仏協定で●越鉄道の敷設権を獲得し,1901年にインドシナ雲南鉄道会社を発足させました.
 工事は1904年に開始され,多額の費用,多数の労働者の犠牲,6年の歳月の末,1910年4月1日に漸く開通に漕ぎ着けます.

 一方で英仏は共同で隆興公司を設立し,清朝との間に雲南各地の鉱山を開発する協定を1902年に締結しました.
 しかし,この協定は箇旧労働者を主体とする反仏暴動や,雲南各地の紳士の抵抗,即ち利権回収運動により,清朝は契約破棄を余儀なくされ,この計画は失敗に終わりました.

 鉱山開発では後退がありましたが,3つの海関開設と,●越鉄道の開通は,雲南省の対外交易を大いに発展させました.
 綿製品を中心とする多くの外国製品が雲南に流入する一方で,箇旧鉱山の錫など省の鉱物資源が大量に国外へと輸出されました.
 雲南の輸出入総額は,蒙自に海関が開設された1889年の約15万海関両から,10年後の1899年には約547万海関両に急増し,以後,ほぼ順調に拡大して1910年には約1,367万海関両に達します.
 この輸入と輸出のバランスは,1909年まで入超が続きましたが,1910年に初めて出超を記録しました.
 この3つの海関の貿易では,蒙自関の比重が圧倒的に高いものがありました.
 この原因は,箇旧産の錫が蒙自から輸出されたことと,●越鉄道の開通で此処が外界との貿易で最も便利になった為でもありました.

 こうした国境貿易は,雲南社会に大きな影響を与えました.

 特に大きな影響を与えたのは大量の洋糸,つまり外国製綿糸の輸入です.
 洋糸の普及で,土糸,即ち手で紡ぐ国産綿糸は使用されなくなり,洋糸を用いた土布,即ち手織り綿布の生産が手広く行われる様になりました.
 また,従来煙草は雲南国産のもので賄えていましたが,英米煙草会社が中国人商人を用いて昆明,蒙自,思茅,騰越に販売所を設け,紙巻煙草を販売したので,雲南国産品は市場から駆逐されました.
 搾油業は食用と夜間照明用の油を供給していましたが,●越鉄道の開通後,米国のスタンダード・オイルと英国のアジア石油のランプ油が大量に輸入される様になり,雲南の搾油用作物の栽培と搾油業を圧迫する様になります.
 広い需要があった省西部鶴慶の手工業製の針は,良質で安価な外国製針に取って代わられました.

 当然,こうした物資を輸送するルートも整備されます.
 山岳と高原地帯がその大半を占め,河川の多数は急流で水運に適さない雲南省では,伝統的な輸送手段は荷馬を利用したキャラバンである「馬幇」と人が荷を担ぐ「背夫」の2種類が運送業の主流でした.
 対外貿易の拡大は,馬幇による物資輸送を活発化させ,昆明を起点とする馬幇運輸の幹線路が整備されました.

 1つ目は東線で,昆明から曲靖を経て貴州省の貴陽に至るもの,昆明から曲靖を経て貴州省の畢節に至るもの,昆明から昭通を経て四川省の宜賓に至るものの3ルートがあり,最後のルートが最も重要なルートでした.

 2つ目は南線で,昆明から玉渓を経て蒙自,広南から広西省に入って百色,北海に至るもの,昆明から蒙自,ヴェトナムに入ってラオカイ,ハノイ,ハイフォンに至るものの2ルートがあり,蒙自海関が開設されて以後は,後者のルートが最も重要なルートになりました.

 3つ目は西線で,昆明から下関,徳欽からチベットに至るルート,昆明から下関,騰越を経てビルマに入りバモーに至るルート,昆明から玉渓,元江,景洪に至るルート,昆明から元謀を経て四川省の西昌に至る4ルートがありました.

 これら馬幇交易の発達は,省中部の玉渓,南部の箇旧,蒙自,西部の下関,保山,東北の昭通,曲靖などの中継市場を出現させ,昆明がこれら交易の結節点になりました.
 外国貿易と省内外の交易の拡大に伴い,雲南の商業活動は活況を呈し,昆明,大理を中心とした省西部,省南部の建水等の竹には,漢族,ペー族による商幇が形成され,大商人の中には省内や省外,更に国外にまで支店を作る者も現れる様になりました.

●=さんずいに真

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/17 23:47
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アヘン中毒が中国にだけ広まったのはなぜでしょうか?

 【回答】
1.清朝当局の取り締まり能力が低かった.
2.イギリスが対中貿易の大幅な輸入超過に苦しんだ.
3.中国人商人のモラルの無さ.

 輸出する方もする方だが,輸入する方も無ければ貿易は成り立たない.
 それだけ清朝が末期状態で,人心が腐敗・堕落していたということ.
 21世紀になっても毒入りギョーザ事件を起こすような国柄です.
 19世紀となればどうだったか.
 他人が中毒死しようがどうしようが,金儲けのネタになれば知ったことではないという悪徳密輸業者が,大勢いたわけです.

世界史板,2009/04/15(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アヘン戦争のとき,実は清国の軍事力はイギリスに勝っていた.
 ところが清朝政府のあまりの腐敗のために兵士を召集できず,また指揮系統や規律が乱れに乱れ,結果敗退した.
 アヘン戦争は実は清国にとって勝てるはずの戦争だったのだ.

……ってこれ本当ですか?

 単純に1840年の時点での英国と清国を比較して,どちらが上だったのか?
 それを実際の戦力に変える能力は別として,軍備の量と質はどちらが上だったのか?

 以上の点,よろしくお願いします.

 【回答】
 加藤徹の『西太后』なんかで読んだ程度だけど,林則徐の指揮していた広東は,イギリス軍も寄せ付けないほどの防衛体制だった.
 けど,沿海の他の地方の防衛は全然駄目で,各個撃破されたとかいう話だったような.

 海軍では議論の余地無く,質量共に英国が上.
 沿岸部に関する限り,清朝が勝つ見込みは全く無い.
 広州からいきなり天津に現れた英国艦隊は,清朝を大変動揺させた.

 陸戦に関してもイギリスの方が上でしょ.
 戦術や個々の兵士の能力・士気・装備ともに隔絶している.

 対する清朝は人員は多いだろうが,正規兵は殆ど役立たずな状態だったし,武器も劣ってたはず.
 軍閥の私軍で漸く戦ってたって状態なんだし.
 日清戦争のときもトータルの兵力や物量では清国のほうが優っていたけど,運輸の不便などからあまり意味が無かったとか聞くね・・・

 また,清国で初めて近代的装備や戦術を導入したのは,太平天国の乱時の「常勝軍」だったらしいから,阿片戦争の頃はまだ伝統的な軍隊で戦っていたのではないかな.

 ただ,英軍も内陸に進撃して清朝を打倒出来る兵力は無かった(するつもりも無かったけど).

世界史板
青文字:加筆改修部分

▼ 軍閥の私軍は当時存在しません.
 いわゆる軍閥のはじまりは,太平天国の乱において興った楚軍,湘軍,淮軍らに端を発します.
 また数的優位というのも非常に怪しく,当時の清軍は相当弱体化しており,個々に孤立した守備部隊が,局地的に兵力的優位に立つ英軍によって各個撃破されていったのが実情です.
 また林則徐により,広東の海防は他の地域よりは確かに充実していましたが,英軍を水際で撃退できるようなレベルではありません.
 実際川鼻の海戦では,林則徐の指揮下にあった水軍は大敗を喫しております.(ただし林則徐は北京の中央政府には勝利と報告)
 油断した英軍が平英団(対英蜂起した民兵集団)に苦戦したことを除けば,軍事的に清側が得点を挙げたことはほぼ無いです.

 清の軍事力が西洋列強のそれにある程度対抗できるようになるには,太平天国の乱を待たないといけないでしょう.
 その後は少なくとも中央アジアで回族をおさえながらロシアと対峙し,ベトナムでフランスと競り合える程度には,清の軍事力は回復することになります.

じょーぢ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 阿片戦争以降の,中国での阿片の取引状況は?

 【回答】
 戦前の中国に於いて,阿片の取引単位は,輸入物のインド産阿片(英国インド政庁の専売阿片)とペルシャ阿片,中国の国内産阿片で異なっています.

 インド産阿片1箱の中身は,凡そ160ポンド(72.576kg)とされていますが,箱によって,また前年ものと当年ものでも多少乾燥度が違い,中身に差があります.
 台湾総督府製薬所での計量では,1箱に罌粟の花弁で包んだ,直径6寸余の球状の柔らかい阿片が40個入っていて,1個の重さは約3斤ですが,罌粟の包皮の重量を差し引けば1個の正味は2.5斤,これが40個あって100斤となり,日本の重量単位,即ち1斤=600gに引き直して,1箱60kg入りとして台湾総督府は買入れていました.
 ところが,これが中国国内に入ると,罌粟花弁の包皮も含めて取引される為,1箱が72.595kgで取引され,台湾に持ってきた正規輸入品を上海に横流しするだけで,45%高くなったと言います.

 ペルシャ産阿片の場合は,形状は様々です.
 これらは1896年当時,1箱が140個入りで,ペルシャでは1個1ポンドで加工されていました.
 従って,1箱の正味は140ポンド(63.5kg)の筈が,台湾で計量した所,平均105斤(63kg)とかばらつきがあったりします.
 こちらも,1910年代にペルシャ政府の専売制が施行されると,計量のばらつきは無くなり,1個1ポンドで加工され,1箱が160個入りで1箱72.576kgに変わりました.

 これらの阿片は上物として取引されていた訳ですが,中国国内産の阿片は,1担=100斤,1斤=16両,1両=16銭の単位で取引されています.
 当時の中国の重量単位では,1担が59.6816kg,1斤は596.816g,1両が37.301g,1銭が2.33gなのですが,北方と南方ではこの単位が異なり,上海では1担が60.453kg,1斤は604.53g,1両が37.78g,1銭は2.36gと,少し重かったりします.
 因みに同じ北方でも,満州地方まで北上すると,10両が1斤になるので,換算が大変だった訳です.

 中国国内での取引は,卸売り段階では担,斤単位で取引されますが,普通,阿片は1両単位で相場が立っていました.
 なお,関東州の場合,関東都督府の阿片価格,つまり大連の阿片相場は日本の10匁(37.5g)単位で価格が表示されていたのですが,これは上海など関内での阿片相場に合わせたものでした.

 阿片相場の表示も,国内産と輸入産で異なり,輸入阿片の場合,1箱単位の取引では輸入港での輸入価格を基に海関両で相場が立っていました.
 後にこうした阿片は輸入が禁止されますが,インド産阿片は海関両で取引され続け,以前から全て密輸品だったペルシャ産阿片は,国産阿片と同じ輸入地の現地貨幣で取引されています.

 海関両と言うのは,海関,つまり税関所在地の各地の銀の量目が異なるので,関税徴収の為に統一基準として設定されたもので,上海の場合は上海銀元,即ち墨銀,所謂メキシコ・ドルであり,元=10角=100分(1ドル=100仙)での取引が行われていました.
 1924年当時の上海銀元のレートは,海関両70両であり,大連では海関両1両を邦貨1円63銭で換算しました.

 生阿片から煙膏を作ると,混ぜ物(料子膏)を混入しない場合,インド産阿片で60%,ペルシャ産で80%の量の煙膏となり,手間も掛かるので価格は上がります.
 金持ちであれば両単位で購入出来ますが,大多数の貧民にとっては煙膏の売買単位は更に小さく銭単位となり,更に貧窮者の場合は,1包と言う1回の吸引分を煙館で購入して吸引することになります.
 この1包の量目は,地方によってまちまちでその量も可成り違いました.

 基本的に,阿片は高価な嗜好品でした.
 従って,1両100元を超える煙膏もありましたが,一方には小さな丸薬の様に1分で購入出来るものもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/07 23:46

 ヴェトナム戦争が終結し,冷戦が終わるとカンボジア内戦も終結して,この地域の社会情勢は大きく変わりました.
 黄金の三角地帯に於ける罌粟栽培は既に下火になり,かつてのヘロインの中継地であったチェンマイは観光開発に脇,雲南からメコン河を往来する船の就航も行われる様になりました.

 最も大きな変化は,改革開放政策により社会主義の統制経済から,大きく資本主義経済の受入へと大きく舵を切った中国です.
 この政策は当初文化大革命で疲弊した農村に受け入れられ,農村はそれまでの人民公社体制から,請負分を供出すれば自由に商品作物が生産出来るようになり,国営商店の野菜などは淘汰されていき,農民が持ち込む自由市場に活気が溢れました.
 一方で,共産党の権威が失われ,1985年秋に起きた天安門広場での小さなデモを皮切りに,1987年の上海学生デモ,そして,1989年の天安門事件へと連なっていきます.

 そうした話はさておき,1985年頃から,中国での犯罪情報を知る方法として重宝されたのが,交番前に張出された絵入りのパネルです.
 そのパネルの中で,早くも1986年春,長春にある警察署のパネルには,「家庭の幸福の為阿片の吸食は止めよう」と言うスローガンが掲載される様になっています.
 つまり,1949年から3年間で撲滅させた農村の罌粟栽培が,再び活発化した証しでした.
 また,吉林省の辺境にある民営の漢方薬店からは,睡眠薬に阿片が混ぜられたりするようになります.

 この頃から,嘗て阿片が生産されていた甘粛省や寧夏の少数民族地区では,ちらほらと罌粟畑が現れ始めました.

 1950年代に成功した不正阿片禁絶の成功は,土地革命を通しての農村部への党権力の浸透と,集団化や人民公社化による農業生産への統制の徹底により維持されたばかりでなく,従来,国民党の支持基盤となっていた幇会勢力を反革命勢力として撲滅し,流通と販売の組織を徹底して消滅させた事が最大の要因でした.

 しかし改革開放政策は,農村の改革から都市の改革へと進展し,沿海発展戦略による経済特区の設定や,外資の積極導入へと移行すると,香港や台湾から幇会のメンバーが再び本土に入り込み,1980年代半ばには,麻薬の中国ルートが切り拓かれていました.

 そして,大陸中国自身が国内の麻薬かを報道しだしたのも,1980年代後半からです.
 当初は,その頃未だ機能していた黄金の三角地帯から雲南に持ち込まれ,これが中国経由で香港,マカオへと密輸出されていたのですが,この密輸の増加に伴い,国内でも麻薬吸引の悪弊が拡がっていきました.

 これに対抗すべく,1982年には中国政府は雲南に特別編成の麻薬捜索隊を発足させ,1983年には麻薬犯罪を重点対象に指定し,取り締まりの強化を図っています.
 1985年になると,国連の国際麻薬条約に加入し,関係諸国との協調体制の下,国際条約にリンクした取締法規の整備も進められました.

 これにより,国連の機関に取締状況を伝えるデータも提出される様になりますが,1990年以降の中国国内でのヘロイン蔓延の勢いは凄まじいの一言です.
 1989年のヘロイン押収量は世界第11位の559キログラム,1990年には世界第4位の1,651キログラム,1991年になると世界第2位に躍進して1,919キログラムと,アフガーン戦争で不法栽培が拡がったアフガーン産阿片の流出路となったパキスタンの5,667キログラムに迫り,1992年には遂に4,489キログラムとパキスタンを抜いて世界第1位となり,1993年も4,459キログラムと押収量は減っていません.
 また,阿片の押収量も,1989年世界第9位の289キログラムから,1990年に6位の814キログラム,1991年5位の1,980キログラム,1992年2,680キログラムの3位,1993年には3,354キログラムに達し,中毒・常用者も青少年を中心に1991年15万人,1992年25万人,1993年はそれを遙かに上回ると推計しています.
 因みに,日本はヘロインが1989年で28キログラム,1990年9キログラム,1991年25キログラム,1992年12キログラム,阿片が1990年に8グラム,1991年に11キログラム,1992年に14キログラムですが,最近は随分此等の押収量は増えているようです.

 この為,1990年12月に全国人民代表大会常務委員会は,20グラム以上のヘロイン等の麻薬を販売目的で不法に所持する者は最高を死刑とする「麻薬取締りに関する決定」を採択し,厳罰体制で対応する事になりました.
最近,日本人が処刑されたのも記憶に新しい所ですが,1993年には雲南,江西の南西国境地帯を重点地区として,全国で麻薬事件26,191件を摘発,40,834人を検挙し,7,677人を送検,6,137人を裁判に掛け処罰,内1,410人は無期懲役又は死刑(執行猶予付死刑を含む)を宣告したと言うことです.

 一方,麻薬中毒者の更正の為,全国に251箇所の「戒毒所」を設け,1992年までに延べ4万,1993年には延べ5万人の強制治療を行ったそうです.
 この「戒毒所」は収容人員140人ほど,収容人員のうち25歳以下の男子が90%で,その殆どが社会復帰を果たし,再入院は2割ほどとのこと.
 ただ,阿片やヘロインの蔓延が続く,雲南省では全然対策が遅れ,戒毒所の設置は1994年になって漸く設置規則が公布されたところです.

 とは言え,1995年の報道では,雲南では新規中毒者が減り,沈静化の兆しを見せつつあるとされ,1994年に雲南を重点地区に,「禁毒非常時」体制を敷き,その1年で,ヘロイン販売犯6,632人を検挙し,うち,1,644人を懲役若しくは執行猶予付死刑に処し,466人を銃殺.
 この結果,雲南のヘロイン押収量は,1994年には2,710キログラムと,前年の3,545キログラムから2割減と言う結果になったそうです.

 ただ,懸念されるのは,従来の黄金の三角地帯からの流入だけでなく,雲南の国境地帯に数十のヘロイン工場があり,押収されたエーテルや無水酢酸は四川省産とのことで,黄金の三角地帯が北上して,雲南や広西の少数民族居住地区に拡がっていった形です.
 残りの押収阿片は各地の辺鄙な山間部,辺境の山林地帯の小さな罌粟畑から押収されたものであり,吉林の森林地帯,甘粛や寧夏の少数民族地域,何れもこの地域は雲南や広西を含めて発展から取り残された貧窮地区で,これらの地区が貧窮から逃れる手っ取り早い手段として,罌粟栽培に走ったと考えられます.
 最近では,北朝鮮からの流入もあるとされていますね.

 因みにこれらの阿片嗜好者は,従来と違う点が1点あります.
 従来,麻薬というのはそれなりに高かった為,中毒者は収入の多い壮年者であり,阿片嗜好者は老人に多かったのですが,先の記述の様に,戒毒所の収容者は若年層に多く見られる事です.
 この流れは,米国のヘロイン蔓延の末端が,黒人や中南米移民の若者に支えられているのにも似ています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/18 22:51


 【質問】
 上海租界(シャンハイそかい)って何?

 【回答】
 上海租界は,1842年の南京条約により開港した上海に設定された租界(治外法権や行政権がある外人居留地)です.
 当初,英米仏がそれぞれ租界を設定していましたが,第1次世界大戦後にフランスの法租界(フランス租界)と,それ以外の公共租界(共同租界)とに再編されました.
 他に,本当は租界ではないはずなのに租界側が不法占拠していた,虹口から北四川路沿いに虹口公園までの地域(通称:日本租界)と,租界西側の滬西地区もありました.

 【参考ページ】
http://www.geocities.jp/keropero2000/china/shanghai04.html
http://ww1.m78.com/topix-2/shanghai.html
http://www.shwalker.com/category/category_detail/588
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1429/colo/shanghai.html
http://www1.vecceed.ne.jp/~y-satoh/travel/shanghai/sokai.html

【ぐんじさんぎょう】,2009/1/29 01:06
に加筆

<↓以下,当時の魔都・上海に棲んでいそうな人物>

・金髪天然パーマとケツアゴ眼鏡の二人のホスト

ぎんなんそう in mixi,2009年01月28日 00:11

 探偵 濱マイク

HASU in mixi,2009年01月28日 02:24

 黒い丸めがねのチャイナ服の風船君

 シャンハイグラウンドのホンジンヤウは,実は風船くん

風船くん in mixi,2009年01月28日 19:12 & 21:04

 マツコ・デラックス

koz@ in mixi,2009年01月28日 19:17

 ゼンジー北京

新所沢の三等兵.◆Uk in mixi,2009年01月28日 19:29

 北斗神拳の使い手

丼炒飯 in mixi,2009年01月28日 22:25

 自分の心の狭さのせいで女性を振ったのに,何だか中国の広さに心打たれて,もう一度その女性とやり直そうとする身勝手な旅人
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4421/index.html

ぎんなんそう in mixi,2009年01月28日 22:44

 陸遜

しまだ in mixi,2009年01月29日 00:41

 間黒男

フナムシ in mixi,2009年01月30日 03:38

 鷲巣巌

新所沢の三等兵.◆Uk in mixi,2009年01月28日 23:35

租界の勢力地図はこちらに(^^;
faq05h.jpg
faq05h01c.jpg

よしぞうmaro' in mixi,2009年01月28日 06:59

幾つか買った旧軍写真の一枚
おそらく上海のフランス租界あたりで撮られたものなのか,軍帽の日本兵と一緒に写ったモロッコ兵やフランス兵が珍しい.

よしぞうmaro' in mixi,2007年03月29日02:43


 【質問】
 なんで清代末期の中国人は,義和団の乱とか色々な教案事件でキリスト教に対する嫌悪感を露にしてたのに,太平天国の乱の時は「自分はキリストの兄弟で,儒教は邪教である」とかいって反乱をおこした基地外の軍に身を投じて,10年以上も戦えたの?

 【回答】
 1858年の天津条約の項目の一つが,キリスト教布教の自由を認めることだった.
 つまり太平天国の乱の頃は,表立ってキリスト教は布教されていなかったということ.
 だから中国人民にも反宣教師感情も無かった.
 反宣教師感情が醸成されたのは,天津条約後に特権を得た宣教師が中国内陸部に進出し,横暴を極めるようになってからのこと.

 太平天国軍の通過した土地では,村落が破壊され,物資も奪われた.
 住民は家も食料も失い,男も女も太平天国軍についていく以外に生きる道がない.
 こうして太平天国軍は,通過する土地の住民を吸収し,移動していくにつれて雪だるま式に巨大な軍勢にふくれあがっていった.
 兵士たちやその家族にしてみれば,別にキリスト教思想に共鳴したわけでもなんでもなく,そうする以外に食うすべがないから,しかたなく太平天国に身を投じただけ.
 これは太平天国に限らず,中華では,王朝に対する民衆反乱軍によくあるパターン.

世界史板,2010/02/27(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平天国の乱による死者が2千万人以上という,第一次世界大戦さえ上回る数字をよく目にするのですが,信憑性あるのでしょうか?
 もし本当だとしたら,ここまで数値が跳ね上がった原因は何なのですか?
 太平天国軍が徹底した虐殺や殲滅戦を行なったのか?
 逆に清軍がそうしたのか…

 【回答】
 2千万人以上とも5千万人以上ともいわれている.
 確かなことは分からない.
 推定値に過ぎない.
 でも一定の信憑性はあると考えてよいと思ふ.

>もし本当だとしたら,ここまで数値が跳ね上がった原因は何なのですか?

 いや,別に跳ね上がってないが.
 中国史ではごく普通のこと.

 古来飢饉や戦乱が起きると,シナでは恐ろしい数の人間がバタバタ死ぬのだ.
 飢饉は戦乱を生み,戦乱は飢饉を呼ぶ.

 黄巾の乱から三国時代の数十年にわたる戦乱では,5千万人いた政府把握人口が,数百万人に激減している.
 1810年には山東・河北・湖北で洪水や霜害により,大飢饉が起きて3千万人近くが死亡,
 1849年や1878年の大飢饉でも1300万人以上が死んだ.

 第2次大戦後でも,毛沢東は大躍進政策によって2000万人を餓死させたという.

 太平天国の乱のころ清朝の人口は4億を数えたが,これは当時の生産力としてはギリギリの人口範囲.
 戦乱で農村が荒れれば,あっというまに飢餓状態に.

 しかも太平天国の乱は,太平天国軍vs清軍という単純な構図でもない.
 乱に便乗した,太平天国と無関係な農民同士の抗争や暴動もあるし,太平天国の内部でも内紛というか粛清というか,そういう殺害も起きている.
 元々中国の農村というのは,しっかりした治安維持機構が無い.
 だから統治といっても徴税機構だけに等しい.
 反乱というのは,もう税金は払わないよということ.

 で,清はそうした地域に軍隊を派遣する訳.
 ところが,撃退されると.
 軍隊といっても有力な政治家の私兵だから,簡単に投降して太平天国軍に寝返ったりもする.

 中国史ってナイーブな日本人の理解を超える,超どろどろした世界なのです…….

世界史板
青文字:加筆改修部分

▼ 上記補足.
 回答者も「政府把握人口」と書かれておりますが,史書にある戸籍はまさしく,「当時の政府が把握していた人口」に過ぎません.

 例えば隋の大象年間(579-581)の記録では,天下統一前の隋の人口は約900万人で,南朝陳の人口は200万人となっていますが,統一後の大業五年(西暦609年)の人口は4600万人で,なんと四倍になっています.
 当然,この時代にわずか三十年で,人口が四倍になるなど考えられないことです.
 これは,混乱期の人口統計に限界があること,戸籍外人口が極めて大きくなることがあることを如実に示しています.

 たしかに中国史では,日本では考えられないような規模の餓死者数が記録されることは珍しくありませんし,実際に人口崩壊を起こしていた可能性が高い事例――三国時代の記録がそうです.ただ,これもそのまま受け取るわけにはいかないものと思います――もありますが,あの戸籍の記録が「政府把握人口」に過ぎない,ということは強調しておきたいと思います.

 【関連リンク】
「Togetter」◆(2012/05/31) 中国史における人口動態に関する議論

名無しルーデル神教教徒 in FAQ BBS,2013/4/8(月)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 でも,天国の乱死者二千万人って独ソ戦でのソ連側死者に匹敵するぞ.
 関連しての回族大虐殺などは聞くけど,いくら内戦状態とはいえ,近代戦争以前の戦いで2千万人って,ちょっとありえなくね?
 組織的にやられたルワンダ虐殺ですら,その四十分の一もいかないし.

 【回答】
 人口が違います.
 当時の中国はルワンダの100倍とはいわないが,50倍以上の人口がいました.
 期間も違う.
 太平天国の乱は約15年だから,ルワンダ内戦のおよそ3倍ぐらい.

>近代戦争以前の戦いで二千万人ってちょっとありえなくね?

 関係ない.
 石や斧だって殺す気があれば殺せます.

>いくら内戦状態とはいえ

 内戦というのは当たらない.
 乱です.国の乱れです.
 飢饉や増税により餓死も起きます.
 捻軍等,時期はほぼ重なるが,太平天国とは異なる農民反乱も起きます.
 外国人の宣教師や使節団や居留民が殺され,アロー戦争が起きます.
 農民同士の抗争も起きます.
 太平天国内でも権力闘争や路線対立の内紛が起きます.
 軍といっても勝手に加わる匪賊もいるので,略奪・強姦・殺人は朝飯前.
 それがまた自警団にやり返される.
 2千万人とは何をどう数えたか分からないし,どういう死を含んでいるか含んでいないのかも分からない.
 しかし戦闘による戦死だけではない.
 古来より農民反乱が頻発する国柄ですから,鎮圧も徹底的.老人・女子供にいたるまで虐殺されるのです.
 それが中国では当たり前なのです.

 日本では城主が自害すれば,兵士でも助命されるのが普通だから,大抵の日本人には理解しがたいところだと思ふけど.

世界史板
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 アロー号事件はどのようにして,中国でワイン醸造が始まるきっかけとなったのか?

 【回答】
 さて,中国の酒と言えば,大抵の場合,「老酒」と言う答えが返ってきます.
 しかし,山東省では少し違います.
 それはドイツの影響を受けたビールが醸造され,欧州各地の影響を受けた果実酒が作られていたりします.
 山東省での果実酒作りの本場は煙台です.
 この港が欧州列強各国に開港されるや否や,各国から果物の品種が導入される様になりました.
 特に林檎,桜桃,梨,葡萄は「煙台」ブランドになると相当高価な品となります.

 「煙台林檎」は日本から移植された「富士」で,これは美味い,爽やかであるなどの評判から「紅富士」の名で東南アジアにまで輸出される様になりました.
 「煙台葡萄」は生食用と共にワイン用にも栽培されています.

 その中国でのワイン醸造は,遠く漢代に遡ります.
 武帝の命で西域と交流を進めた張騫が西域から葡萄を持ち帰り,それと共に彼はワイン作りの職人も連れて帰りました.
 漢代で作られ始めた葡萄酒は,唐代になると隆盛を極めます.

 ところが,唐までは都を南部の長安に置いたのですが,宋が成立すると華北に都が置かれ,華北では湿度と発酵菌の問題でワイン作りが上手くいきませんでした.
 しかし,呑兵衛はそうした状況でも活路を見出すもの.
 中国伝統の麹を用いた酒造りの手法を,葡萄酒にも応用しました.
 葡萄酒の元々の作り方である,葡萄に付いた天然酵母を使って葡萄ジュースを発酵させるより,麹を使う方が腐敗や酸敗が無く,確実に発酵させられる為,近代に至る迄,中国ではこうした醸造法での葡萄酒作りが行われていました.

 時代は下って,19世紀中期以降の清代.
 既に清朝に往年の勢いはなく,阿片戦争以後,列強の進出が盛んになり,アロー号事件の後処理として,1858年に英仏米露の4カ国との間に締結された天津条約,1860年に英仏との間に締結され,九龍などが割譲される事になった北京条約によって,様々な港が外国に開放されました.
 1866年には煙台の港も開放され,英仏連合軍が駐屯し,1930年代までに英,仏,露,米,日,デンマーク,ドイツなど17カ国の領事館が置かれていました.
 そして,各国は煙台に競って投資し,港湾も整備して第一級の貿易港に仕上げていきます.

 こうした煙台の隆盛に惹かれて,東南アジアの華僑で大富豪であった張弼士と言う人がやって来ました.
 張氏は東南アジアで手広く商いをしていたのですが,ジャカルタでフランス領事主宰のレセプションに出席して,その宴で出されたワインやブランディーの味にすっかり感動してしまいました.
 丁度その席に,煙台のフランス領事と在住の牧師が同席しており,彼等から煙台が如何にワインの葡萄作りに適した土地か,その葡萄が如何に自然に手に入るかを聞かされ,興味を抱いた張氏は早速調査を行いました.

 其処で出会ったのが,盛宣懐と言う,幾つもの官立企業の役職を兼任する実力者にして,清朝の大立者李鴻章の片腕でもあった人物です.
 盛宣懐からも,張氏に対しワイン工場作りの誘致を受け,1892年,遂に張氏は,煙台に白銀300万両を投じてワイン醸造工場を建設することになりました.
 とは言え,そこは華僑の張氏,何のメリットも無しにワイン工場を作った訳ではありません.
 この工場で生産したワインは,奉天,直隷,山東の三省で15年の専売と3年間の免税が認められていました.

 醸造技師には,自国で醸造技師の経験を持つ二重帝国の領事が職を辞して協力者となり,此処に初めての近代的欧州式葡萄酒工場が作られた訳です.
 この会社は,「張裕葡萄酒醸造公司」と名乗り,ワイン作りには欧州産の葡萄,ボルドーからは上級赤ワイン用のカペルネ(解百納),フランスとドイツの白ワインに使われる最高品種のリースリング(雷司令),バニラの香りを持つブルゴーニュ原産の白ワイン用高級品種シャルドネ(莎爾徳納),その上麝香の香りを持つ赤ワイン用のマスカット(?瑰香)の改良品種であるハンブルクが導入され,本格ワインの醸造が始まりました.

 当時,欧州ではフィロキセラにより葡萄は壊滅的な被害を被っていましたが,中国では東北地方の山葡萄の根がその害に強いことを独自に発見し,それを欧州産の葡萄に接いでみると,葡萄の木は台木の特徴を受け,寒さに強く糖度も高まり,色素も良くなり,更に虫害や病気にも強くなって安定した品質の良い葡萄が収穫出来たそうです.

 この煙台産葡萄からは,赤ワイン(紅葡萄酒),白ワイン(白葡萄酒),ベルモット(味美思),ブランディー(白蘭地)が生産されました.
 主力商品は,?瑰香を原料とする甘いワイン「煙台紅葡萄酒」で,海外向けには芝罘の名を付けて,「芝罘紅葡萄酒」の名称で輸出しています.
 その他にはワインに漢方薬を漬けた一種の薬用リキュールである「煙台味美思」,ワインを蒸留して作ったブランディー「白蘭地」も作りました.
 この「白蘭地」1919年のパナマ博覧会で金賞を受賞したので,「金奨白蘭地」と呼ばれました.
 更に,雷司令を原料とした「雷司令白葡萄酒」など15種類が作られています.

 中国のワインは,紅葡萄酒,白葡萄酒の甘口タイプと干紅葡萄酒,干白葡萄酒と書く辛口タイプがあります.
 一般には「干」が付くと「辛口」ですが,それは欧州風ワインの事を指します.
 とは言え,中国人の嗜好はは「干」が付かない甘口ワインが好まれています.

 先程も書きましたが,中国酒と言えば,蒸留酒の白酒が主です.
 中国ではアルコール度数50~70%に近いものがあります.
 酒杯に入れた白酒に火を付け,その残りが少ないほど良い酒とされました.
 祝いの席では白酒が出され,宴席の途中に乾杯を幾度も行う,まぁ,ロシア人に通じる飲み方をしていますが,最近の若者は白酒よりはワインを飲む様になっているようです.

 でもって,甘口ワインが好まれるのは,辛口の持つ酸味と苦味を中国人は嫌うらしく,それで甘くて口当たりの良い甘口赤ワインが好まれると言われています.

 更に時代は下って,1975年,日本でもそうですが,中国でもワインブームとなりました.
 この為,中国でも安くて甘いワインから本格的高級ワインへの脱皮が始まります.
 元々,日本は中国ワインの輸入国でしたが,日本社会の嗜好変化に伴い,それが中国のワイン業界に影響を与えたと言われています.
 そして,技術向上と近代設備を得る為に日本企業と提携し,「中日友誼葡萄酒有限公司」が設立され,様々な試行錯誤が繰り返されていました.
 その技術を吸収した後,1987年には煙台地区11箇所の醸造所を合併し,「煙台張裕葡萄酒醸造公司」が誕生しました.

 「煙台葡萄酒造廠」の解百納干紅葡萄酒はアルコール度数12%,糖分0.5%,総酸0.6%の辛口タイプ,吉林省の「通化葡萄廠」の通化葡萄酒はアルコール度数15%,糖分14%,総酸0.6%と相当甘口のワインです.
 最近出回りだしているのは,「張裕解百納干紅葡萄酒」で,アルコール度数15%未満で総酸も低くて軽い味ですが,このワイン1本は1級給与取得者の月収10%分で,勿論,殆どは輸出用だそうです.

 中国が海外から国賓を迎えた時催す宴を「国宴」と言いますが,国内から選ばれた銘酒が「国宴酒」として「乾杯酒」となります.
 それには従来は白酒の「茅台酒」が選ばれていましたが,日中国交正常化の際,田中角栄が飲んだのもそれで,それが切っ掛けで日本でも有名となりました.
 当時の茅台酒は貴重品で,一般国民が日常飲めるものではありませんでした.
 その後,茅台酒から醸造酒の「紹興酒」へと代り,今ではワインでも「国宴酒」に出される様になっています.

 更に,中国の洋風化…所謂,「ヌーベル・キュイジーヌ・シノワ」と言われた新感覚料理の台頭などがあり,庶民にもワインが出回る様になっています.
 現在は,煙台の「張裕」,沙城の「長城」,天津の「王朝」が三大ブランドで,国内の60%,国産メーカー全体では80%のシェアを占めており,ワイン消費量は鰻登りに増えています.
 また,味も従来の甘口から辛口へと嗜好が変化してきており,需要が確実に増えてきています.
 これには,関税の引き下げで海外メーカーが進出してきたことも関係しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/31 23:44


 【質問】
 義和団の乱(1899)に際して出兵した8カ国の中にオーストリアやイタリアが含まれてますが,この国々も中国に権益があったんでしょうか?
 また,北京議定書(1091)のとき,ベルギー・オランダ・スペインが加わってるんですが,なんでですか?

 【回答】
 オーストリアはドイツと共に青島に権益を持ち,イタリアも上海などの共同租界に権益を持っています.
 ちなみに,第一次大戦の日本軍による青島攻撃では,オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の巡洋艦が最後まで抗戦していますし,第二次大戦まで,イタリアは軍艦を中国に駐留させており,あまつさえ河川用砲艦を保有していました.

 また,ベルギー,オーストリアなどは宣教師による布教活動の自由を清朝に認めさせていますし,鉄道敷設権も有していたはずです.

(世界史板)

 「北京燃ゆ――義和団事変とモリソン」(ウッドハウス・暎子著・東洋経済新報社・1989年)によれば,

 (1900年)6月20日午後4時,最期通牒の時間切れに始まった義和団・清軍の砲撃は翌朝まで休みなく続いた.
(中略)
 オース トリア館は1日ももたなかった.
 一両日の激しい砲撃に参ったオーストリア兵は,海軍中佐フォン・トーマンの指揮の下,さっさとフランス館に退却した.
 (この)オーストリア館の早期放棄を正当化する充分な説明はなかった.
 トーマンの弱腰は続き,彼はイタリアにも勧めて一緒にフランス館に入った.
(中略)
 先に,トーマンは,自分の中佐という兵位の高いことを理由に,自ら篭城軍総指揮官を任じていたが,この失策のため,総指揮権は各国公使の総意のもとに(イギリス公使) マクドナルドに譲られることになった.

(p.105-106)

 このトーマン中佐は7月7日に砲撃のために戦死した.

(p.128)

 「義和団事件」,「北清事変」などと呼ばれているこの事件については,直後にかなりの日記や体験談,回顧録などが出版されたようですが,なにしろ百年も前の話になっているので,捜すに苦労するのは間違いないです.

(権兵衛さん in 世界史板)


 【質問】
 19世紀末に中国分割が行われて,日,露,英,仏,独の勢力範囲が決定しますよね.
 あの勢力範囲というのは,いつ無効になったのでしょうか?
 資料集などを見ると,北伐の頃の地図には,日本以外の列強の勢力範囲は全く消えています.

 ロシアは,日露戦争後極東から撤退し,ドイツは,第一次世界大戦中に日本に山東省を奪われるので,この両国の勢力範囲が消滅するのは分かるのですが,英仏の勢力範囲はどうなったんでしょうか?
 考えられるのはワシントン会議なのかな,と思うのですが.

 【回答】
 会議とかではなく,アメリカの門戸開放政策にもとづく「通牒」を,日本以外が拒否しなかったことで,中国の門戸開放と領土保全の原則が認められた形になり,1900年以降,個別条約による租借地そのものの存続は別として,後背地を勢力圏とすることは認められなくなった.
 日本も,日露戦争前にアメリカが,ロシアの満州進出を領土保全の原則に反すると非難したことで,アメリカの門戸開放政策方針に従うことになり,中国の門戸開放・領土保全についての合意が形成された.

 しかし,その後は日本が満州における利権の独占を試みて,この原則に反するとして非難され,満州事変や日中戦争,さらにはアメリカとの軍事対立に至ることになる.

世界史板
青文字:加筆改修部分


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