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◆◆◆国共内戦以降 Kínai polgárháború
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「地政学を英国で学んだ」◆(2013/04/24) (フランス革命の)結論を出すにはまだ早すぎる?
 周恩来語録について

『中華人民共和国誕生の社会史』(笹川裕史著,講談社,2011.9)

 出ていた事自体知らないという不覚を取ったが…
 かの「銃後の中国社会」の笹川氏が,更に数倍パワーアップして戻ってきた!
 文句なしの名著.
 今の中華人民共和国がどうしてこうなったのかが,国府の大後方たる四川省の,戦後状況の滅茶苦茶さから見えてくる.
 档案の研究はなお続けている模様なので,この先の時代の分が待ち遠しい.

-----------------軍事板,2011/10/25(火)

『中国革命と軍隊 近代広東における党・軍・社会の関係』(阿南友亮著,慶應義塾大学出版会, 2012/08/22)
>中国革命=「土地革命」の常識を覆す

『中国文化大革命の大宣伝 上』(草森紳一著,芸術新聞社,2009.5)
『中国文化大革命の大宣伝 下』(草森紳一著,芸術新聞社,2009.5)

『私は「毛主席の小戦士」だった―ある中国人哲学者の告白』(石平著,飛鳥新社,2006.10)

 失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは,祖国から消えうせた「論語」であり,「礼節」であり,「江南の春」の風景であった.
 自分たちがゴミのように投げ捨てたものが,日本には息づいていた・・・.
 共産党政権に洗脳され,騙され続けた知識人の慟哭と,祖国への決別の手記.

 著者は哲学者です.
 岡崎久彦さんの紹介を通じて知った本ですが,そのご指摘どおり,著者の日本理解の深さは刮目すべきものです.

――――――おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)12月18日

 【質問】
 国共内戦で美式中国軍は,なんで負けてしまったのでしょうか?

 【回答】
 アメリカからの援助が滞り,補給が途切れてしまったから.
 アメリカ式と言うことは潤沢な補給が前提となりますので,それが途切れてしまえば戦力として機能しません.
 まぁ,どこの軍隊でも同じ話ですが.

 その援助が滞った原因は,中国政策における全権大使であったジョージ・C・マーシャルの暗躍が,大きな要因となっています.
 マーシャルは非常に容共的で,共産主義者のシンパと言われていました.
 まず,国民党に不利な停戦協定を持ちかけたり,それを共産党が破ってもスルーしたりしました.
 また,「中立政策に反する」と称して援助を停止し,一方でソ連の共産党の支援は見て見ぬ振り.
 それが原因で戦線が膠着すると,
「戦争での決着をつけるのは無理だから,彼らを政府に参加させるべき」
とまで言い放ちます.
 そして,戦前から中共の脅威を警告し続けたウェデマイヤーの報告を握りつぶし,議会からの援助議決を牛歩戦術で遅らせます.

 そうしている内に国民党の敗北は決定的になり,南京は陥落.
 蒋介石は台湾に逃れることになりました.

 この経緯から,「中華人民共和国の建国者は毛沢東ではなくマーシャル」と言う皮肉もあります.
 この時の援助停止と物資枯渇は,蒋介石にとってトラウマになったようでした.
 その為,台湾に逃れた後に援助や物資が切れても戦える軍隊として,装備は米軍でありながら旧日本軍式の軍隊の構築を始めました.
 それには旧日本軍の将校団である白団(ぱいだん)が大きく関わっています.

ue ◆WomMV0C2P. in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 国共内戦の時,国民党にアメリカはそこそこ支援していたのに,負けた原因はなんですか?

 【回答】
 その支援にも係わらず,敗戦直前まで日本にボコボコにやられていたから,蒋介石の能力を疑問視する声がアメリカから上がっていたのと,戦争が終わって援助が減らされた為.
 それだけでなく国府軍の内部でも,彼に対する不満が噴出していた.
 彼の国内での政治生命はある意味,アメリカからの援助で繋がれていた節があった.

 その間隙を共産党に突かれた.彼らは国共合作と言いつつ大戦中は前線は国府軍に任せ,農村を中心に支持基盤を作り上げ,力を蓄え,他の軍閥への切り崩し工作を進めていった.

 他にもソ連からの支援等,様々な要素が重なり,国府軍は台湾へと追いやられていった.
 共産党が土地改革などの飴をぶら下げて,民衆の支持を取り付けていったのに対し,国民党側はインフレ抑制の失敗や,官僚の腐敗により,民衆の離反を招いたよう.
 また,国民党の支持母体は資本家や地主層.
 でも,日本軍によって東部の資本家は全滅状態.
 農民は土地改革を進める共産党に支持して,地主を追い立てる.
 しかも国民党の役人や軍人は腐敗しきっている.
 これでは勝てんよ.


 【質問】
 中国共産党は戦後の国共内戦を日本軍の装備で戦ったと聞きました.
 これはどうやって入手したのでしょうか?

 【回答】
 入手方法としては時期によって変化しています.

1:戦前~戦時中ですが日本軍が物資調達に阿片を利用しているのに目を付けて,阿片を栽培し,それを中古武器とバーター取引して,これを使用.

2:戦後,北支,満州で武装解除された日本軍の装備を接収したものを使用.

3:内戦の後半は満州の接収したの兵器工廠の生産が軌道に乗ってきて,ここで生産した兵器を使用.

 なお,第一項は中共的には無かった事になっています.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 第二次大戦直後の蒋介石の雲南討伐について教えられたし.

 【回答】

 さて,1945年8月,日本が無条件降伏し,日中戦争は終了します.
 中国は戦争に勝利したのですが,国内では政治・軍事の両面で,国民党と共産党の対立が激化しており,経済は長期の戦争により荒廃していました.
 これを打開する為に挙国一致政府を樹立し,難局を乗り切ろう,そして経済再建を行おうとしますが,国民党と共産党,それに諸党派の合作の試みは不調に終わり,国民党が独自に行った経済再建計画も失敗に終わりました.

 結局,日本との戦争が済んで1年もしない1946年から国共内戦が始まり,それから政治・経済は更に混乱を極めました.
 そして,抗日戦争勝利から僅か4年後の1949年には国民党政府の大陸支配は崩壊し,10月には中華人民共和国が成立することになります.

 この時,雲南も激動の波に翻弄されました.
 その最初の動きは,蒋介石による龍雲政権の打倒でした.
 日本が敗北する僅か5日前の1945年8月10日,かねてから雲南を国民党政府の支配下に入れることを狙っていた蒋介石は,昆明防守司令の杜聿明を重慶に呼び,龍雲を雲南から除くための準備をするよう命令しました.
 蒋介石にとって,龍雲を打倒する際の最大の障害は,龍雲に絶対的な忠誠を誓っていた雲南軍の存在でした.

 折しも,フランス領インドシナ北緯16度線にほくに駐屯する日本軍の降伏受理は中国が担当することになり,これ幸いと蒋介石は,第1方面軍総司令の盧漢に雲南軍を率いてヴェトナムに行き,その任務に当たるよう命令しました.
 蒋介石はこうして雲南軍主力を雲南から遠ざけようとしたのです.

 龍雲は蒋介石の命令に疑いも持たず,盧漢が率いる雲南軍をヴェトナムに派遣しました.
 但し,国民政府はヴェトナムに於て宗主国であるフランスの特権を,事実上承認する方針でしたが,盧漢と雲南軍の士官や兵士達はヴェトナムの独立運動に共感し,フランスの植民地行政府を嫌悪していたので,龍雲は盧漢に,もし後方で事件が起きたら大至急軍を帰すこと,また,日本軍を武装解除した武器の一部でホー・チー・ミンを支援することを命じています.

 ヴェトナム派遣の盧漢の第1方面軍は第60軍と第93軍の2国軍と2個師の計8個師で,降伏受理には充分な兵力でしたが,蒋介石は中央軍2個軍と1個師を雲南軍の後詰めとしてヴェトナムに送り込み,1個軍は国境の河口に配置して,雲南軍を後方から監視する体制を取りました.
 雲南に残った雲南軍は,龍雲の次男が率いる第24師と憲兵団,警護大隊のみなのに対し,中央軍は昆明周辺に第5軍を主力とする強力な部隊を駐屯させており,龍雲の昆明留守部隊は事実上中央政府軍に包囲されている状態でした.

 こうして,軍事上の配備を終えた蒋介石は,龍雲打倒のための司令部を,機密保持のために西康省の静かな山中の都市,西昌に置きました.
 10月2日,蒋介石は宋子文,陳誠,何応欽,李宗黄,関麟徴等を西昌に召集して緊急会議を開催し,雲南省政府の改組を決定しました.
 そしてその日の午後,何応欽,李宗黄,関麟徴は蒋介石の命令書を持って昆明に飛びました.
 その命令書の中味は以下の通りでした.

1. 軍事委員会委員長昆明行営,昆明警備司令部,昆明憲兵司令部は
  一律に撤廃.
  昆明行営主任,陸軍副総司令,雲南省政府委員兼主席兼軍管区司令
  龍雲は解職.
  雲南の地方部隊は昆明防守司令官杜聿明が接収・改編.
2. 盧漢を雲南省政府主席に任命し,その着任までは雲南省民政庁長の
  李宗黄が代行.
3. 龍雲は軍事委員会軍事参議院院長に任命.

 10月3日朝5時,杜聿明は各軍に行動を起こすように司令します.
 龍雲の部隊は不意を打たれ,殆ど無抵抗の儘武装解除されましたが,省政府所在地の五華山にいた警護部隊2個連は頑強に抵抗を続けました.
 中央軍が軍事行動を起こした時,城内東南の威遠街にある公邸にいた龍雲は後門から脱出し,路地を通り抜けて五華山に登りました.
 次いで,龍縄租と龍雲の腹心の軍人である張冲も五華山に潜入し,山上で警護部隊の指揮を執りました.

 杜聿明の第5軍は夜明けには五華山を除く全市を支配して戒厳令を敷きますが,五華山には直ちに進撃出来ず,その周囲を包囲しました.
 突然の攻撃に激怒した龍雲は,至急電を打って盧漢に軍を率いて直ちに雲南に帰還するよう命令し,且つ各県の県長に地方部隊を昆明に派遣して,杜聿明軍を攻撃する命令を出します.
 しかし,無線電信局と電報局は逸速く中央軍と特務によって監視されており,龍雲の命令は発信されることはありませんでした.

 この日,蒋介石はハノイの盧漢の下に使者を送り,盧漢を雲南省に任命するとの親書を手渡しました.
 盧漢はこの親書の意味を疑いましたが,彼の軍隊は中央軍に包囲されて動きが取れず,降伏受理の仕事に専念するしかありませんでした.

 龍雲が五華山を死守する構えを崩さないことから,事態は膠着状態に陥ります.
 この膠着状態により,城外にいる雲南軍や地方軍が新たな行動を起こし,事態が拡大する事を恐れた李宗黄と杜聿明は雲南の元老で省政府委員の胡瑛に調停を依頼し,胡瑛は蒋介石の親書を持って五華山に登りました.

 胡瑛は龍雲に対し,今,蒋介石と戦えば昆明は破壊され,数十万の民衆の生命財産が損失を受けること,盧漢の軍隊は帰路を絶たれており,中央軍と雲南軍の兵力差は隔絶していることなどを説明し,平和的解決の道を選ぶよう説得しました.
 更に10月5日の夕方には,龍雲との関係が良好な行政院長である宋子文が専用機で昆明に到着し,龍雲に軍事参議院院長の職に就任するよう勧め,更に彼の身の安全を保証しました.
 これらの説得の末,遂に龍雲は抵抗を断念し,6日午前,宋子文,何応欽とともに昆明を出発して重慶に向かいました.

 龍雲が去った後,杜聿明の部隊は雲南各地に進駐して民間の武器を押収し,龍雲の腹心の部下達を逮捕し,総ての地方部隊を第5軍に編入して,雲南の龍雲勢力を消滅しようとしています.
 しかし数日後,杜聿明は雲南問題の処理が不適切だったとの理由で,突然杜聿明を免職,処罰し,関麟徴を雲南警備司令に任命しました.
 これは蒋介石の芝居で,龍雲の怒りを鎮めると共に,雲南の人々の不満を和らげるための措置でしかありません.
 結局,杜聿明はその後,東北保安司令長官に任命されています.

 ところで,昆明の民主勢力は龍雲追放の政変には何等有効な対応が出来ませんでした.
 杜聿明は政変の際に西南連合大学の教員と学生に対する警戒を厳重にして,彼等が龍雲支持の動きをすることを防止しました.
 事件当時,西南連合大学も外との通信や交通が完全に断たれた状態であり,教員や学生達が龍雲側の動きを知る事が出来ませんでした.
 従って,龍雲を支持した民衆も余りに事態が急に進んだので,手の打ちようがありませんでした.

 こうして龍雲の18年間の統治は終焉を迎えます.
 雲南の地方政権は,彼が雲南を去ると瓦解し,完全に中央政府が雲南を手にした様に思えました.
 しかし,龍雲が育てた民衆達は,民衆運動を継続させ,新たな局面を迎えることになったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/02 23:27
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南討伐後,国民党政府はどのような雲南統治を行ったのか?

 【回答】

 さて,10月6日,龍雲政権は国民党軍により終わりを告げ,その代わりに中央から統治者がやって来て,雲南は完全に国民党政権に組み込まれることになります.
 その実権を握っていたのは,雲南警備司令で陝西省出身の関麟徴と,李宗黄でした.
 李宗黄は民政庁長の身分で省政府主席代理に任命され,更に国民党支部主任と省軍管区司令の職も兼任します.
 この李宗黄は,省西北の鶴慶県出身で,1910年代には雲南都督府参謀処長,雲南市政督辯を務めていましたが,1924年に国民党中央候補執行委員に当選後は,雲南に帰ることなく,中央の要職を歴任していました.
 特に彼は蒋介石と関係が深く,中統(CC)に属していました.

 蒋介石の意図は雲南省に中央の政令を貫徹させ,再び雲南を半独立地域にしないことにあり,李宗黄はこれを受けて雲南の中央集権化を実現しようとします.
 李宗黄は行政院県政計画委員会副主任,中国地方自治学会理事長などの職にあった人物で,雲南で実施しようとした政治の主たる内容も国民党の施行する地方自治の完成でした.
 彼は雲南省訓団主任も兼任し,1946年度には省政府所属の幹部・職員から各県の保甲長に至るまで69,200余名を訓練する計画を立て,3年間で彼等を「三民主義の闘士」に仕立て上げようと企図した他,更に「三民主義の新雲南」の実現を目標とする施政綱領を作成します.
 それは,雲南を国民政府の支配下に組み込もうとするものでした.

 李宗黄が権力を奪取して真っ先に取り組んだのは,龍雲が培っていた雲南の地方勢力の一掃,及び共産党地下組織と民主勢力の弾圧でした.
 李宗黄は関麟徴と組んで,農村では逃亡した雲南軍兵士を取り締まるという名目で粛清工作を進め,都市では戸口調査を行い,特に昆明では,各学校で左派系の学生を逮捕し,多くの学校の校長を入れ替え,民主派の教師を解任し,新聞出版法を制定し,世論を厳しく統制しようとします.
 しかし,この性急な中央化政策は,雲南の人々の反感を買い,「擁盧・倒関・駆李の潮流」が急速に形成されていきました.

 この様な状況で,雲南の政局は不安定になり,蒋介石は盧漢を起用せざるを得なくなります.
 元々10月の政変に当たって,蒋介石が盧漢を省主席に任命したのは,雲南の人々を懐柔するためで有り,何れ李宗黄を正式な省政府主席に昇進させるつもりだったのですが,その目論見が早くも崩れ始めた訳です.

 11月5日,蒋介石は重慶に到着した盧漢に省主席への就任を求め,これに対し盧漢は雲南省警備司令部を廃止するか,少なくとも別に雲南省保安司令部を設立し,省主席が司令を兼任することを要求します.
 蒋介石は,雲南省保安司令部を設立して盧漢が司令を兼ねることを許可しますが,雲南省警備司令部撤廃は認めませんでした.
 また蒋介石は,盧漢が第60軍と第90軍の人事の調整を行う事,雲南省の政府委員と各庁長の人選は盧漢が行政院長の宋子文と協議して処理することを承認します.
 こうして盧漢は,蒋介石の譲歩を得て省主席就任に同意し,雲南軍を2個軍6個師に再編しました.
 しかし,この雲南軍は1946年2月,蒋介石の命令で東北の前線に派遣されてしまいました.

 11月20日,雲南省政府が改組され,政府委員には盧漢,民政庁長兼任の李宗黄,胡瑛,繆嘉銘,張邦翰等が任命されました.
 盧漢は25日に昆明に飛び,12月1日に正式に雲南省主席に就任しました.
 とは言え,この時期,李宗黄は民政庁長として,関麟徴は雲南警備司令として,尚雲南の政治・軍事に睨みをきかせており,盧漢の権力は未だ弱体でした.
 しかし,昆明の民衆運動はこの頃から大きな昂揚を見せ始め,雲南の政局に影響を与えることになります.

 この時期,国共間で内戦勃発の危機が拡がり,中国各地で内戦反対の運動が活発化していました.
 重慶では11月19日,各界の人々により反内戦連合会が設立され,反内戦運動を全国に拡大するように呼びかけました.
 そして,21日には昆明で,西南連合大学・雲南大学・中法大学・英語専科学校の各学生自治会が連席会議を開き,25日に反内戦時事集会を開催することを決定します.
 これに対し,省主席代理の李宗黄は,その集会開催を阻止するために,24日夜,党政軍各機関の長を召集して連席会議を開催しました.
 会議では,「各団体・学校の総ての集会及びデモは,もし本省の党政軍機関の許可を得ていなければ,一律に厳禁する」との議決が為されました.

 にも関わらず,25日の19時から,時事集会が西南連合大学の図書館前広場で6,000余名を集めて予定通り開催されました.
 集会では費孝通等西南連合大学の4教授が演説し,内戦の制止や連合政府の成立などを訴えましたが,演説が行われている間,大学の外からは繰り返し銃声が聞こえ,時には流れ弾が会場の上空を飛んだりしていました.
 国民政府第5軍麾下の部隊が校舎の周囲を包囲し,集会に対する威嚇射撃を繰り返したのです.
 この他,特務も潜入して集会進行を妨害しました.
 しかし集会は続けられ,昆明4大学全学生の名義で,国共両党に内戦制止を求める通電が採択されました.

 26日,西南連大学生自治会は内戦反対と前日の軍隊や警察の暴行に抗議して,即日罷課,つまり学生のストライキに入ることを宣言します.
 雲南大学など市内の大学,中学の自治会も罷課を決議し,その動きは29日には全市44校の大学,中学の内31校にまで拡大しました.
 28日には,罷課参加校は罷課連合委員会を結成して「罷課宣言」を発表し,直ちに内戦を制止し,平和を要求する,諸外国が中国の内戦を助長することに反対する,民主的な連合政府を組織する,人民の言論,集会,結社,デモ,人身の自由を保障すると言う4項目の主張を掲げました.
 また,雲南の党政軍当局に対しては西南連合大学を射撃した事件の責任追及や,集会・デモを禁止した24日の不法な禁令の取消,学生の身体の自由を保障し任意に逮捕しないことなどを要求しました.

 当然,李宗黄はこれに反発し,27日に各学校及び憲兵・警察の責任者を召集して緊急会議を開催し,各学校当局に思想上問題のある学生の名簿を提出し,28日には授業を再開するように命じました.
 また,27日から30日にかけて特務は至る所で学生を殴打し,憲兵は街頭で反内戦を宣伝する学生を逮捕しました.

 29日,西南連合大学の教授会は,25日の集会の時に軍隊が大学を包囲して発砲したことに対する抗議書を発表,30日には,民主同盟昆明支部が学生運動を支持する声明を出しました.

 こうして,昆明では日に日に緊張が高まっていき,12月1日に遂に暴発することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/03 22:57
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「12.1事件」とは?

 【回答】

 さて,12月1日,昆明の学生に対し,数百名の軍人と暴徒が棍棒,天秤棒,更には手榴弾までも持ち出して,雲南大学,西南連合大学,同附属中学,昆華女子大学,新華日報昆明営業所などを襲撃し,中学校の教員1名,師範学院の男女学生2名,工業学校の学生1名の計4名が殺され,重傷者25名,軽傷者30余名の犠牲者が出ました.
 聞一多は,この事件を聞いて,
「『一二.一』は中華民国建国以来,最も暗黒の一日である」
と記しています.

 この事件の発生後,罷課連合委員会は毎日,100~150組の宣伝隊を昆明の街頭に出し,事件の真相を社会の各界の人々に訴えました.
 12月6日には,34の大学・中学の学生が連合して,「第二次罷課宣言」を発表し,当局に対し,12月1日の首謀者の関麟徴,李宗黄等を厳罰に処すること,当局は殉難した学友の弔慰金と負傷した学友の医薬費を負担する事,総ての公私の損害を賠償することを要求しました.

 更に罷課連合委員会は,4~24日まで4名の殉難者の公葬を西南連合大学の図書館で挙行します.
 公葬には各界から700余の団体,延べ15万人以上の参列があり,国民党や国民党政権に対する一大デモンストレーションになりました.

 そして,学生達は教員達にも罷教を呼びかけ,これに呼応して4日,西南連合大学の教授会は7日間の授業停止を決定,6日には昆明の30の大中学校教員298名が連名で「罷教宣言」を発表し,即日罷教を開始します.
 また,省臨時参議会の昆明委員会も,2日,学生代表の陳述と要求を聴取した後,省政府に対策を講じて暴行を制止し,学生の安全を保障し,社会秩序を維持する事を求める決議を採択しました.

 12.1事件に対する抗議は,昆明だけでなく省内各地に,更に全国に拡がります.
 省内では昭通,大理等10数県の小中学校の教員や学生が抗議集会を開き,罷課と募金によって昆明の学生運動を支援し始めていますし,重慶と成都では,12月9日,昆明で殺害された教師と学生を追悼する数千人規模の集会が開かれました.
 1946年1月13日には,上海で追悼大会が開催され,孫文の妻である宋慶齢を始め各界の要人など2万人が参加しています.
 その他,西安,貴陽,遵義,武漢,広州,長沙,杭州,南京,南昌,福州,桂林,延安の各都市でも大衆的な支援活動が行われました.
 更に事件のニュースは海外にも伝わり,各地の華僑達の間で昆明の学生運動に対する支援の動きが拡がりました.

 こうした抗議行動の拡がりによって打撃を受けた国民党と国民党政権は,昆明の民衆運動に対する対応を変更せざるを得なくなります.
 国民党中央は雲南の党政軍当局に電報を打ち,「暫く武力鎮圧を停止し,事態の拡大を避ける」と命令したと言われており,公然と行われていた特務の活動は弱まっていきます.
 そして,12月7日には関麟徴が蒋介石に自らの処分を願い出て,蒋介石は関麟徴を「停職」に処し,「処分の議を待つ」様に命令しました.

 同時に国民党政権と雲南省政府は罷課を中止させるために様々な方策を打ちます.
 7日,蒋介石は「昆明の教育界に告げる書」を発表し,
「此の度の事件に対しては…公平な責任ある処置を執るべき」
としながらも,「現在の総ての問題は授業の再開」が前提であるとし,
「そうでなければ政府は如何に青年を愛護しようとも,教育を守り,秩序を安定させる職責を放棄出来ない」
と述べ,罷課に対する強硬な態度を取る可能性を示唆します.
 この様な状況下で,盧漢の立場は非常に危ういものでした.
 省主席として表に出ざるを得ず,そして事件収拾に失敗すれば失脚の可能性すらあったからです.
 そこで彼は学生に同情しつつも,蒋介石の意に沿って,学生達に授業の再開を強く求めました.
 11日,国民政府教育部長朱家?は,重慶を訪れた梅貽琦西南連合大学常務委員に対して,政府は必要な時には西南連合大学を解散させる可能性があると迫りました.

 国民政府の圧力が強まる中で,大学当局と教授会は苦しい選択を迫られました.
 11日と12日,西南連合大学と雲南大学はそれぞれ17日に授業を再開することを決議しましたが,学生はこれを拒否,17日,西南連合大学教授会は学生に対し20日に授業に戻る事を求め,さもなければ教授達は已むなく辞職するとの決議を採択しました.
 雲南大学の教授80名も学生に復学を求める文書を発表し,18日,熊慶来雲南大学学長は国民政府教育部に「責任を取って辞職する」と言う電報を打ちました.

 こうした闘争を指導してきたのは共産党の雲南工作委員会ですが,この状況の変化に対応して闘争戦略を変更しました.
 このまま罷課を継続することは,次第に大衆の支持を失い,学校の前途に対しても不利であると判断したのです.
 省工作委員会と西南連合大学の党支部責任者は協議の上,復学条件の内で早期に実現することが困難な李宗黄,関麟徴等の処罰要求は長期の闘争目標とし,其の他の条件について一定の結果が得られれば復学することを決定しました.

 18日,西南連合大学学生自治会は代表大会を開催し,激しい討論の末,復学の条件を変更する決議を採択します.
 更に20日,代表大会は授業再開の条件を正式に決定しました.
 その内容は,以下の通りです.

1. 李宗黄・関麟徴の免職とその後の法による処罰
2. 集会・デモを禁止した11月24日の不法な禁令の取消
3. 人身の基本的自由の保障

 罷課連合委員会の代表大会もこの条件を承認し,西南連合大学と雲南大学の当局もこの学生の要求変更を歓迎し,辞表を取り下げて政府との交渉を進めました.
 折しも中国の内戦を調停する目的で派遣された米国特使マーシャルが20日に上海に到着し,それへの配慮から蒋介石は反内戦運動に対する強硬政策を緩和せざるを得なくなります.

 蒋介石は盧漢に電報を打ち,学生に対し譲歩するように指示しました.

 この結果,24日に雲南の支配者として君臨していた李宗黄は悄然として昆明を去りました.
 そして25日には,罷課連合委員会は「復課宣言」を出し,授業は27日から再開されました.

 この学生の授業放棄に端を発した騒動は,国民党の立場を更に弱めることになります.
 また,雲南を中央政権の支配下に組み込もうとした蒋介石の野望を体現していた李宗黄,関麟徴等は雲南を退去し,再び盧漢を中心とする雲南の地方勢力が権力の座に返り咲きました.

 しかし,成立当初の盧漢政権は尚弱体でした.
 軍事面では,雲南に蒋介石の許可を得て省保安本部が置かれ,4個の保安大隊と独立大隊を組織することが計画されましたが,省政府は経費を負担するだけで,人事・編成・訓練などの実権は雲南警備司令の霍揆彰が握っており,盧漢は部下のいない司令官でしかありませんでした.
 政治面では,盧漢が雲南に帰る前に,李宗黄が政府委員の張邦翰と胡瑛を抱き込み,李宗黄は中央から,張邦翰と胡瑛は雲南で,相呼応して盧漢に圧力を掛けました.
 財政経済面では,龍雲の追放後,蒋介石の命令で雲南全省経済委員会と雲南省企業局の資産は凍結され,空襲を避けて昆明西郊の海源寺にあった富?新銀行所有の金銀は封印されて,省政府は関与出来ませんでした.
 つまり,政治,経済,軍事のあらゆる面で盧漢には,省主席という政治上の地位以外は何もなかったのです.

 ところが,盧漢が蒋介石から雲南の権力を取り戻す機会が間もなくやって来ます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/04 23:23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南における盧漢の「新政」について教えられたし.

 【回答】

 さて,盧漢は龍雲から政権を引き継いだ形でしたが,当初,殆ど蒋介石の操人形同然の状態でした.
 しかし,蒋介石とその配下の余りにも無能な統治により,雲南の権力を取り戻す機会が間もなく訪れます.

 1946年1月,平和を願う国内世論と米国の調停を背景に,重慶で政治協商会議が開催され,平和と民主主義への希望が中国国民の間に広まります.
 因みに,この会議には雲南から無党派代表として繆嘉銘が出席していました.

 しかし,国民党内ではこの政治協商会議に対する反発が強く,3月の国民党第6期第2回中央委員会では,政治協商会議の決議を骨抜きにし,国民党の一党独裁を維持する決議が採択されます.
 内戦の危機は深まり,東北では4月上旬より国民政府軍が交通の要衝である四平街を攻撃し,5月半ばに占領しました.

 ところが5月30日,東北で国民党政権の内戦に従事させられていた雲南軍第60軍第184師の1個団が蜂起し,集団で共産党側に寝返るという事件が起こりました.
 これは国共内戦に於ける最初の国民政府軍の蜂起で有り,蒋介石は非常に衝撃を受けて盧漢を南京に呼び,東北に赴いて雲南軍を慰撫するように求めました.
 これに対し盧漢は,この機に乗じて,蒋介石に省保安司令部と保安団に対する実権を自分に与えるように要求します.
 この要求は直ぐには容れられませんでしたが,1つの布石にはなりました.

 昆明の12.1運動は,1946年3月17日に挙行された4名の犠牲者を埋葬するための出棺デモを以て終息し,民衆運動は停滞期に入ります.
 と言うのも,5月4日に今まで昆明の民衆運動の中心を担っていた西南連合大学が僅か8年という歴史で終焉を迎えたためです.
 この大学の学生が去った事は民主運動の力量を大いに低下させました.

 また,西南連合大学最後の学生グループが昆明を去った7月11日夜に,昆明を訪れていた李公樸が国民党特務によって暗殺されました.
 昆明の国民党特務は,暗殺リストの筆頭に李公僕と聞一多を載せていたと言われており,李公樸はその最初の犠牲となったのです.
 15日午前,雲南大学の至公堂で,李公樸殉難の経過報告会が開かれ,会場は1000余名の人々で埋まったのですが,その中に国民党特務も紛れ込み,会の進行を妨害します.
 これに怒った聞一多は,
「本日,此処に特務はいるだろうか.君,立ちなさい.立派な男なら前に出なさい.出て話すんだ.何の理由があって李先生を殺したのか!」
と特務達を詰問した後,「暗黒を打ち破り,光明を戦い取る」為に死を恐れぬ決意を表明して演説を結びます.
 果たしてこの日の夕方,聞一多は西南連合大学教職員宿舎近くで,数名の特務に狙撃され,47歳の生涯を終えました.

 李公樸,聞一多の暗殺は,全国に非常な衝撃を与え,全国から抗議と蒋介石及び霍揆彰に対する責任追及の声が湧き起こります.
 対応を迫られた蒋介石は,7月末に事件の調査と処理のため陸軍総司令の顧祝同と東北から帰ってきた盧漢を昆明に派遣し,結果,霍揆彰は免職処分となり,下級の特務2名が下手人として死刑となりました.
 その機会を捉えて盧漢は,顧祝同を通じて蒋介石に対し,再度,軍隊の指揮権を要求すると共に,保安団隊に対する指揮の実権を獲得しました.
 こうして,雲南に於ける軍の支配権の相当部分を取り戻した盧漢は,それまで見かけ倒しでしかなかった省保安司令部を急速に充実させ,蒋介石に申請して2個保安総隊の増強を認めさせます.

 1949年初めには保安団隊は18個団に拡大し,更に省西部には第184師が新たに編成された事で,新雲南軍の兵力は3旅1師の合計21個団,兵員は3万余名に達しました.
 保安団隊の他,省内の省と県の中間行政単位である専区と県の武力も強化され,各専区には常備兵からなる保安営が,各県には予備役からなる自衛隊が設置されました.

 又,盧漢は軍組織だけでなく行政組織に於ても人事制度の確立を主な内容とする所謂「新政」を推進しました.
 盧漢は自ら専区と県の各級官吏の政治実績を調査し,県長試験を挙行し,地方行政員の訓練団を創設して管理の質の向上に努めました.
 重要な専区の責任者には盧漢に長く従ってきた軍人を配置し,重要な交通上の沿線の県長にも,軍人が宛てられました.
 県には参議会が設立され,社会の公論によって地方官の行政体質を正そうとしました.

 民衆支配のためには,都市では戸籍を厳しく検査し,農村では保甲制度を厳密にして連座制を実施し,民間の武器を登記させて,県毎の共同防衛組織を強化しました.
 当時は国共内戦が激化し,社会でも大きな変動が続いていた時期でもあり,盧漢は一連の行政改革と民衆支配の強化によって,雲南の安定を強化しようとしていました.

 1945年末に設立された雲南省参議会に於ても,中央勢力と雲南の地方勢力との尖鋭な対立が存在しました.
 選挙で選ばれた約140名の省参議員の内には,蒋介石に忠実な人々が少なからずおり,国民党の党組織が彼等を指揮していました.
 他の一派は大多数が唐継堯,龍雲,盧漢に従っていた紳士達です.
 彼等には「?人治?」,つまり,雲南人が雲南を治めると言う排外意識が強く,人数も多かったりします.
 その代表的人物は省参議会成立時に議長に選出された?自知です.
 更に軍閥政権にしては珍しく共産党員や共産党シンパの知識人達も少数ながら議席を維持していました.

 共産党の雲南党組織と雲南の民主派は,蒋介石の支配に反対し,国民党勢力を駆逐するという点では盧漢等の地方勢力と利害を一致させていました.
 盧漢が省主席に就任した時,中共雲南省工委は党中央と南方局の指示に基づき,
「蒋介石と盧漢の矛盾を利用し,盧漢をリーダーとする地方実力派に対しては闘争もし味方にもするが,味方に取り込むことを主とし,集中的に蒋介石反動派に打撃を与える」
との方針を採りました.

 それが如実に表れたのが,霍揆彰の後任,何応欽の甥で雲南警備司令を務めていた何紹周の失脚事件です.
 盧漢は尚雲南の軍事指揮権が何紹周の手中にあった為,自ら蒋介石に何の罷免を要求すると共に,省参議会が何の犯罪行為を告発するよう裏工作を行います.
 省参議会内の共産党秘密党員も参議会で何の駆逐を働きかけ,結局,1949年2月に雲南警備総司令部の廃止を宣布し,何紹周を他のポストに異動させました.
 地方勢力はこの様に共産党や民主派の協力を得て中央勢力の排除に成功したのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/05 23:25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南省が中華人民共和国の支配下に入るまでの動向について教えられたし.

 【回答】

 さて,国共内戦は当初蒋介石率いる国民党政権側が優勢でしたが,共産党は指導下の軍隊を人民解放軍と改称し,体制を整えて1947年夏から全面的な反攻を開始します.
 農村では,共産党は全面的な土地改革を実施し,農民層の支持を獲得,都市では,インフレの昂進と戦争の出費による経済危機と生活破壊が進む中で,民衆の内戦反対,飢餓反対の運動が高揚し,多くの資本家達も反国民党の態度を取るようになりました.

 そんな中で,1948年秋から1949年1月にかけての遼瀋,淮海,平津の三大戦役に於て人民解放軍が相次いで勝利し,1948年11月には全東北を占領し,1949年1月31日には北平に入城しました.

 この情勢の劇的な変化は,雲南にも大きな影響を齎しました.
 上海で始まった反米扶日運動…これは日本を反共の基地として育成する米国の政策に対する反対運動です…に呼応して,昆明では1948年6月17日に大学生と中学生が雲南大学で大規模集会を開き,蒋介石をもした人形を焼き,市街デモを行いました.
 これに対し国民党政府は,雲南警備総司令等に命じて7月15日を頂点とする大弾圧を加えました.
 この為,この学生運動は,「七・一五反米扶日運動」と呼ばれました.

 一方,農村では1947年末,中共雲南省工作委員会が全省で武装闘争を開始することを決議し,1948年以後,省内各地に革命根拠地が建設されます.
 1949年5月,人民解放軍が長江渡河作戦に成功すると,広州に逃れた国民政府は雲南,広西,貴州の三省を最後の抵抗拠点としようとしましたが,中共中央はこれを阻止するために三省の党組織を統一し,新たに人民解放軍?桂黔辺縦隊を組織しました.

 また,共産党の統一戦線工作も雲南の各分野で進められました.
 中共雲南省工作委員会は,元共産党員でその後関係が切れていた楊青田等3名を民主同盟代表として参議会に送り込み,省参議会内で反蒋闘争と盧漢獲得工作を進めます.
 また,軍政機関,新聞,保安団隊,更には国民党の軍隊,警察,果ては特務にまでその工作を進め,影響力を拡大して行きました.

 盧漢の立場は複雑でした.
 彼の地位は次第に強化され筒はありましたが,尚強力な中央政府軍が省内に駐屯しており,国民党特務や憲兵が彼の権力を制約していました.
 他方,民主運動が次第に昂揚し,共産党の武装革命勢力が省の南部や東部で発展して,昆明に脅威を与えていました.

 こうした厳しい状況の中で,盧漢は動揺を繰り返します.
 1949年2月,南?街の中央銀行昆明支店が50元の金円券を偽札として兌換を拒否し,怒った一部の民衆が銀行内に乱入し,器物を壊す事件が発生します.
 これを聞いた盧漢は現場に駆け付け21名を射殺し,100余名を逮捕しました.
 盧漢の強硬措置は,各界民衆の憤激を引き起こし,共産党の通信社である新華社も彼に警告を発しました.
 但し,この事件は国民党特務の仕業と判断したとの説もあります.
 兎も角,この事件が盧漢にとって重要な転換点となったと言われています.

 盧漢に対し,共産党は雲南の党組織と党中央,華南局などが多方面からの工作を進めました.
 1949年5月,盧漢は中共中央から北平への代表派遣の要請を受け,早期の共産党員で中共華南局と盧漢との仲介者の役割を果たしていた宗一痕を北平に派遣します.
 宗は蜂起の決心を記した盧漢の文書を持参して,周恩来や朱徳と会見しました.
 周恩来は,盧漢の蜂起についてこれを歓迎するとし,過去のことは咎めない,そして蜂起の時期は直ぐに行わなくても良いとの認識を示しています.
 8月,昆明に帰った宗からの報告を聞いた盧漢は大変喜び,蜂起への確信を深めたとされています.

 盧漢は蜂起のための準備を各方面から進めました.
 広州に遷都した国民党政権は,西南防衛計画を立て,雲南に綏靖公署を成立させて盧漢を主任に任命しました.
 名義上,雲南にある中央政府軍の指揮権を獲得した盧漢は,綏靖公署の命令によって保安団隊を2個軍に拡大編成しました.
 また,四川省の省主席である潘文華と鄧錫侯,西康省の劉文輝等と連絡を取り,同時に蜂起を起こす計画を立てました.

 しかし,国民党と共産党とが雲南を舞台に鎬を削る状況の下で,盧漢の蜂起実行までには未だ時間が掛かりました.
 8月14日,龍雲は香港で記者会見を開いて蒋介石と決裂するとの態度表明を行い,翌日の新聞は,龍雲が雲南での蜂起を策動していると報道しました.
 因みに,龍雲は南京に滞在して特務の監視を受けていましたが,1948年12月8日に南京を脱出して香港に行き,反蒋活動を進めると共に,使者を雲南に派遣して,盧漢に起義を促していたりもします.

 8月24日,台湾から重慶に飛んだ蒋介石は,盧漢に重慶に来るよう強い圧力を掛けました.
 盧漢は已むなく9月6日,重慶に赴き,蒋介石と会見します.
 蒋介石の国民党政府にも既に往年のような力はありませんでしたが,それでも,盧漢を国民党政府に繋ぎ止めるために,盧漢に雲南軍2個軍分の武器支給を認め,それと引き替えに,雲南省参議会を廃止すること,左派人士と共産党員を逮捕すること,左派系の学校と新聞を閉鎖すること,剿匪指揮部を設置して,?桂黔辺縦隊を攻撃することを盧漢に要求します.

 9月8日,盧漢は昆明に帰り,9日には多数の軍隊と警察が出動して容疑者を逮捕しました.
 10日,盧漢は省参議会の解散を宣告し,左派系新聞社とされた『正義報』『雲南日報』などを閉鎖し,雲南大学を解散させました.
 一見,盧漢が再び日和見に転じたみたいに見えますが,実は盧漢は,予め共産党員や民主人士に対して避難をするよう通知しており,以後,1ヶ月に亘って400余名が逮捕されたのにも関わらず,雲南の共産党責任者は誰も逮捕されませんでした.
 当時の国防部保密局(軍事統計局の改称後の名称)雲南機関長の回想に依れば,この弾圧のために昆明に派遣された保密局長の毛人風は,血の債務を盧漢に分担させて蒋介石に従わざるを得なくさせるために100余名の銃殺名簿を作って盧漢の許可を求めますが,盧漢は,それは人数が多すぎ,証拠も不十分だと判決を延期しました.
 更に,11月始めに昆明に来た代理総統の李宗仁に寛大な措置を要望し,逮捕者全員を釈放させています.

 10月1日,北京で中華人民共和国の成立が宣言され,人民解放軍総司令の朱徳が解放軍全兵士に対して迅速に国民党軍の残余部隊を粛清し,総ての未解放の国土を解放するように命令しました.
 11月,人民解放軍は西南に進撃し,14日に貴陽を,30日には重慶を占領しました.
 この間の21日,解放軍第2野戦軍の司令である劉伯承と政治委員の鄧小平は,西南の国民党軍に対して抵抗を止めて,「光明」の側に身を投じるように呼びかけています.

 この時蒋介石は,国外と通じる雲南を大陸最後の拠点として保持しようと画策し,雲南駐屯の国民党軍兵力は,1万余名から4万余名へと増強されます.
 一方,盧漢は12月始めに蜂起の挙行を決意し,2日,新たに設立した昆明警備軍司令部の命令で昆明に戒厳令を敷くと共に,共産党組織に対し,蜂起への支援を依頼しました.

 12月9日,西南軍政長官の張群が昆明に到着します.
 これを絶好の機会と見做した盧漢は,その日の夜に翠湖東路の盧漢の公館で張群歓迎の宴会を開き,その場で張群始め国民党政権及び国民党の軍政の要人を逮捕しました.
 次いで盧漢は全省の人民と部隊に「雲南蜂起」を宣言し,更に,雲南綏靖公署と雲南省政府の名義で国民党の反動政府を離脱し,中央人民政府の命令を待つように布告しました.
 同じ日,西康省の劉文輝と四川省の鄧錫侯,潘文華も蜂起を宣言し,大陸での大勢が決したことを知った蒋介石は,10日午後2時,成都を飛び立って大陸を離れ,台湾に遷都しました.

 雲南省に残存していた国民党政府軍部隊との戦闘は1950年2月中旬までに終了し,省全土が中華人民共和国の支配下に入りました.
 2月20日,人民解放軍第4兵団が兵団司令の陳?及び宋仁窮,周保中に率いられて昆明に入城しました.
 3月10日には雲南人民政府が成立し,陳?が主席に,周保中,張冲,楊分清が副主席に任命されました.

 因みに,張冲は1938年第60軍第184師師長として武漢に赴いた際,既に共産党に接近し,葉剣英に会って共産党入党を希望していました.
 そして,184師には中京の地下党組織が作られています.
 戦後,1946年末に張冲は延安に赴き,1947年2月に共産党に入党しました.

 以後,雲南省は正式に中華人民共和国の支配下に入ったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/06 23:30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中華人民共和国支配下となった後,雲南省の政治指導者たちはどうなったのか?

 【回答】

 辛亥革命の指導者の1人だった李根源は,西南軍政委員会委員,全国政治協商会議委員などを務め,反右派闘争を生き抜き,1965年に86歳で北京で死去しました.

 抗日戦争を戦った龍雲は,中央人民政府委員,西南軍政委員会副主席,全国人民代表大会常務委員,全国政治協商会議常務委員,国防委員会副主席,国民党革命委員会中央常務委員などの職を歴任しましたが,1957年にソ連の中国支援のあり方と人民政府の雲南に於ける民生・民族政策を批判したため,右派と認定され失脚しました.
 しかし,追放までは為されず,1962年6月27日に北京で病没しています.
 因みに,1980年にその右派認定は誤りであったとされ,名誉回復が為されました.

 1949年に蒋介石に大陸での反抗を諦めさせた盧漢は,雲南省軍政委員会主席,西南行政委員会副主席,全国人民代表大会常務委員,全国政治協商会議常務委員,国民党革命委員会中央常務委員など,龍雲と同じ様な要職を歴任しました.
 また,彼は文化大革命の際でも,国民党政権側で共産党員を弾圧すると言う動きをしたにもかかわらず,その慎重な言動により大した迫害を受けることなく,1974年5月,北京で病没しました.

 省参議会議長だった?自知は,西南軍政委員会委員,雲南省人民政府副主席,雲南省人民政府副省長に任ぜられましたが,1957年に紳士だった前歴を咎められて右派とされ,雲南省参事室参事に左遷されました.
 彼も1967年に病没しましたが,1979年に名誉回復されています.

 雲南省の経済建設の責任者だった繆嘉銘は,1949年に米国に移住しますが,1979年に改革・開放後の祖国に帰国し,全国人民代表大会常務委員,全国政治協商会議副主席,対外経済貿易部特約顧問などを歴任して,祖国の経 済発展の基礎を築き上げて,1988年に北京で死去しました.

 こうして見ると,雲南省の統治者というのは意外に共産党政権下でも厚遇されていたと言えます.
 多分それは,周恩来,朱徳と言った中国共産党の重鎮達と彼等が良好な関係を維持していたからでしょう.
 また中ソ対立後には,四川省と並んで雲南省をソ連からの攻撃に対する兵站後方地域として重視した現れであったかも知れません.

 現在の中国はどうなっているかはよく分かりませんけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/07 23:01
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中華民国滅亡後,蒋介石に従っていた軍閥の指導者たちはどうなったのでしょう?
 部下ごと共産党に投降し,地方の重職を得たりしたのでしょうか?
 そしてその後,呉三桂よろしく粛清されたりあるいは北朝鮮への義勇軍に志願させられて使いつぶされたりとか.それとも命からがら台湾に逃亡したのでしょうか?

 【回答】
 兵力90万人のうち,40万人が寝返りましたから,幾人かは要職に就いたものもいたでしょうが, 大抵の場合は,1950年からの朝鮮戦争で中国援朝義勇軍として磨り潰されています.
 また,生き残ったものも,1950年代終わりから60年代末に掛けての大躍進とか文化大革命によって,粛清されています.

 台湾に逃れ得たものは,上級職が主です.
 現地軍の場合は,雲南を経てビルマに亡命し,数万人が其処を拠点に中国に対するゲリラ戦を実施していますが,1950年代にビルマ政府が国連に提訴,1953~54年にかけて,6500人が台湾に引き揚げられ,1961年には更に4500人が引揚げました.
 しかし,奥地で自活を続けた段希文将軍麾下の部隊は,そのタイ北部近辺を実行支配し続け,その部隊が資金源としていた芥子栽培が問題になり,1970年代からタイ政府の討伐を受けることになります.
 但し,タイ側にも残留国民党政府軍が参加していて,彼らはその地方の自警部隊としてタイ政府から認められるものもありました.

 また,香港にも吊頚嶺(首つり村)と言う一角があり,この地域に2万の国民党軍残党が住んでいました.
 1956年に3日間の暴動を起こし,1960年代には台湾にだいぶ吸収されました.
 一部の住民は香港返還後,別のマンションにかたまっているようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


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