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「MURAJIの戯れ言」◆(2010/05/24) 貨幣に見る中国の歴史

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「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第一話 【仕官】 その1

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第一話 【仕官】 その2

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第二話 【家族】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第三話 【流星】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第四話 【兄弟】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第五話 【戴冠】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第六話 【再会】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第七話 【来訪】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第八話 【進軍】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第九話 【離別】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十話 【転機】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十一話 【初陣】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十二話 【誤解】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十三話 【亀裂】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十四話 【覚醒】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十五話 【虎狼】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 総集編 【幕間】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十六話 【意地】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十七話 【刺客】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十八話 【開戦】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十九話 【英雄】

「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫が李斯なようです

「大陸浪人のススメ」:中共の建国以降に帝位についた皇帝たちを挙げたいと思う

「大陸浪人のススメ」◆(2011/02/15)幻の都・パンサン ―謎の中国もどき政権に関する解説―

謎の世界史(中国史)

中国史人物事典

「時は来た!それだけだ」◆(2010/05/02)櫻井よしこ 「歴史上,日本は中国に負けたことがない.日本人の方が勇敢である」


 【質問】
 中国史にどうやって面白さを見出せばいいのか教えてください.

 【回答】
「また反乱で王朝潰れてるよプギャーwwwwwwwwwwww」
な感じで.

世界史板


 【質問】
 中国の王朝名が多すぎて覚えきれません.どうしたらいいですか?

 【回答】
 歌に乗せて覚えるのが楽.

殷周秦漢
三国晋南(北朝)
隋唐五代(十国)
宋元明清
中華民国(中華人民)共和国

夏殷周春秋戦国秦前漢新後漢三国晋南北朝隋唐
五代十国宋元明清中華民国中華人民共和国

殷周 東周 春秋戦国 秦 前漢 新 後漢
ア ル プ ス 一万尺 こ  やり の 上で

魏 蜀 呉  西晋 東晋  宋 斉 梁 陳 隋(南朝)
ア ル ペン 踊  り を  さ ぁ  お ど  り  ましょ

五胡十六  北魏 東魏 西魏 北斉 北周(北朝)
ラーラ ラ ラ  ララ  ララ  ラーラ ララ  ラララ

隋 唐 五代十国 宋 金 南宋 元 明 清
ラーラ   ラ ラララ   ラ ラ  ラーラ ラ  ラ  ラ

(世界史板)

faq05d.jpg
こちらより引用)


 【質問】
 わが国では,在位中の天皇に元号付けて呼ぶのはタブーとなっており,国民は,今上と添えてと呼ぶようになっています(注:この議論がしたい訳ではない)が,中国では(特に明~清)在位中の皇帝は,どう呼ばれていたのでしょうか?
 やはり,諱なのでしょうか?

 【回答】
 昔の中国王朝で皇帝の諱を呼ぶなんて,とんでもない不敬.
 へたすりゃ,それだけで首がとびかねない.

 現代日本だって,たとえば,ある会社の社長が鈴木一郎という名前だったとして,平社員がその社長を「一郎」って呼んだら,場合にもよるけど普通は失礼にあたるでしょ?
 普通は役職で「社長」と呼んだり,「鈴木社長」って呼ぶよね.
 「一郎」って呼んでいいのは,親や親友など,目上か少なくとも対等で,かつ非常に親しい人だけだ.

 それと同じで,というか,それ以上に,昔の中国で大の大人を諱で呼ぶのは失礼なことで,そんなことをしても許されるのは,親とか目上の親族とか師とか,とにかく親しくて目上の人だけ.
 さっきの例で「社長」と呼ぶように,高い地位の役職のある人は,その役職で呼ぶのが無難.
 だから皇帝は「皇帝陛下」とか「天子」と呼ぶ.
 天皇とか皇帝というのは,原則としてその国にただ1人の存在(南北朝時代とかの例外はあるけど)だから,陛下とか天子と言えばそれで通じる.

 ただ,故人の皇帝は複数いるので,故人の天皇や皇帝はただ天子と言うと誰のことだかわからないので,死後には彼らを区別するために名前をつける必要がある.
 つまり,それが「煬帝」とか「昭和天皇」などの諡号.
 これは死んだ後につけられる名前だから,まだ生きている皇帝や天皇をたとえば「平成天皇」などと呼ぶのは,もう死んだものとして扱っていることになり,とても失礼な行為なわけ.
 おわかりかな?

世界史板,2010/02/20(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国の軍隊に関する質問なんだけど
(1) 日本やヨーロッパのように5~6メートルの長柄の歩兵密集陣はなかったのか?
(2) 常に遊牧民による侵攻に頭を悩ませているイメージがあるのだけど,対騎兵用の編成は生まれなかったのか?
(3) 遊牧民系の王朝は騎兵が中心となるのだろうけど,非遊牧民系のそれは歩兵が中心ということはあったのか?
 実際の中国はどんなんだったのかなー,と「レッドクリフ」見ながら思ったもので.

 【回答】
(1)  向こうじゃそのくらいの長さの槍矛類は珍しいものではなかったので,あるにはあったが.特筆されるようなものでも無かったのだろう.

 創作だが,「水滸伝」には鈎鎌槍という特殊武器で,宋の重装騎馬隊を撃破した話があるな.
http://j.peopledaily.com.cn/2003/12/17/jp20031217_35039.html

 また,16世紀半ばの福州での記録だそうだが,

――――――
フアン・ゴンザレス・デ・メンドーサ 『シナ大王国史』 第二部第一巻

 ビレイ(巡撫)はこの日からエスパニャ人たちに何度か見物に出かけることを許可し,そして一行を 特別に歓待することを部下に命じた.
 そのひとつは,月の初めの何日かにわたって,全国内でいっせいにおこなわれる習慣になっている,閲兵の儀式に一行を連れて行ったことで,これはまことにたいへんな見ものであった.

 この閲兵は市の城壁に接している広場で,次のようにしておこなわれた.
 およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)が,ラッパと太鼓の音にあわせて,じつに機敏に行動した.
 まず,合図と同時に進軍隊形をつくり,つぎの合図では密集隊形となり,そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して,整然と射撃をおこない,ふたたびもとの位置にもどった.
 これが終了すると槍隊が散開して,まことに巧妙に目標に襲いかかった.

 その有様を見てエスパニャ人たちは,この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり,もしもかれらの士気が旺盛で,その訓練と兵員数と同様に優っているならば,容易に全世界を征服することができるであろう,と思ったほどである.
――――――

 しかし火器をもたぬ歩兵軍が,騎馬遊牧民の軍隊とオープンスペースで正面からやりあっても,まず勝ち目はない.
 それゆえ万里長城などの途方もない防衛警戒システムを,国家予算を傾けてまで維持したり,内部分裂しがちな遊牧民の一派を,漢土に帰服させたりと,涙ぐましい努力を二千年も重ねてきた.
 それでもやられる時はやられちゃうんですけどね.

(2)  戚継光や孫承宗の編成がそれに当たるかな?
 しかしそれ以前に,小競り合い程度ならともかく,遊牧民のみで構成された軍と戦うようなケースのほうが稀で,たいていは中原の国と遊牧民が手を組んでたり,片方がもう片方を従えてたりってケースの方が多いはず.

 黄仁宇『万暦十五年』に紹介されてた戚継光の対モンゴルの軍編成.

――――――
 敵を迎え撃つ時は,騎兵が前方で敵軍を阻み,戦車が戦闘隊形をつくるに十分な時間を稼ぐ.
 そして敵軍が接近してくると,騎兵は戦車隊の中へ退却する.
 敵の騎兵が百騎以下の場合,この混成旅団はがんとして交戦しない.
 大軍の敵騎兵が襲撃してきて,火器の射程の中およそ二百五十尺以内に入った時に初めて,仏朗機・鳥銃・「火箭」などの一斉射撃を加える.

 火器がその威力を発揮したあとは,歩兵が戦車の後ろから跳び出し,肉弾戦の波状攻撃を加える.
 その際,ラッパの音で歩調が合うよう指揮をとる.
 敵の攻勢が挫かれ,その隊形が乱れ始めると,騎兵も全員,戦車の後ろから出撃する.
 この騎兵は,事実上むしろ馬上の歩兵とも言うべく,地上の歩兵と同様,鴛鴦陣の隊形をとり,さまざまな武器を手に戦う.
 隊伍を組んで突撃し,烈しく迅速に相手を圧倒するモンゴルの騎兵戦法を,戚継光は真似しなかった.
――――――

 ここでの戦車ってのは「車輪付きの大楯」.
 フス派の戦車と似たようなもん.

 ちなみに紹介しといてなんですが,この史料は鵜呑みにするのはちょっとどうかなと思ってます(笑)

(3)  どちらもそんなことはない.
 外来の王朝とみなされるであろう元や清も 多数の歩兵を内包していたし,唐や宋も多数の騎兵を擁していた.
 どちらが中心となるかは,華北と華南どちらに勢力を持っていたかが,分かれ目になると思う.

世界史板,2009/04/13(月)
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
「時は来た!それだけだ」◆(2010/05/02)櫻井よしこ 「歴史上,日本は中国に負けたことがない.日本人の方が勇敢である」
http://tokihakita.blog91.fc2.com/blog-entry-1344.html

 【事実】
 ν速民にまで引かれてるやん.

2010年05月04日 03:37,HASU

 美式中国軍がアップを始めたようです.

2010年05月04日 02:15,島の人

 今,天智天皇が顔を真っ赤にして走っていったんだが.

2010年05月04日 08:09,ゆずこせう

 あの~,白村江で,既に負けてるんですけど.

2010年05月04日 16:06,鉄底海峡

>白村江

 それは『唐』だから違う「中国」じゃない,って言い出しそう.

 さてー,じゃあ,「中国」との対戦成績は,っと.

対中華民国

⇒第二次大戦で負けた.
 降伏文書に中華民国代表の署名があるのは,まるっと無視ですかい……

対中華人民共和国

⇒対戦歴無し.

 ダメジャン.他に「中国」って国はありましたっけ?

2010年05月04日,ゆきかぜまる

>ゆきかぜまるさん

 櫻井よしこ曰く,

> あの時は米国に負けたのであって,中国には歴史上負けたことがない

だそうです.
 ポツダム宣言受諾して降伏したのに,そのポツダム宣言はどの国が出したのかとか,ミズーリ号で降伏文書に調印したときどの国の代表がいたとか,負けてないなら蒋介石が,発生しないはずの対日賠償をなんで放棄できたのか,とかさっぱり説明つきませんけどね(笑)

 ついでに言うと,さすがのよし子さんも日中戦争に「勝った」とは言えないみたいですから,それで清朝以前の王朝を「中国じゃない」と規定すると,中国も日本に負けたことがないことになるんですよね(笑)

2010年05月04日 19:32,HASU

 クライン孝子ファンの僕としては,櫻井さんの人気ぶりに激しく嫉妬しています.

>国民党との戦いは連戦連勝でしたし,人民解放軍は日本軍を見て逃げていきました.

・・・八路軍ってならともかく.

2010年05月04日 20:14,ぴぴ

>人民解放軍

 なるほど,60年余前にタイムスリップした人民解放軍と旧軍が(ry

2010年05月04日 20:18,島の人

 国民党軍は士気が低かったと言われてますが,地方の軍閥の中には士気旺盛で勇敢なとこも有りましたし,八路軍の場合は,へたれだから逃げていたのでは無い訳でして.
 櫻井さんみたいな人が指揮官になったら大変だと思う.

2010年05月04日 20:50,遠吠犬

「戦争は負けたと思ったほうが負けなのだ」

 つじ~んのくせにいいこと言う.
 うう悔しいビクンビクン.

2010年05月04日 21:14,ゆずこせう

以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 殷や周の時代の武将が,戦いの最中使ったことになっている幻術の正体って,何なんでしょう?
 催眠術の類ですかね?

 【回答】
 当時の社会は,当たり前ながら非常に宗教色が強い.
 国王や将軍といった人々は,同時に部族の神官でもあり,彼らにとっての戦争とは,現実の世界で人々が闘争するのみならず,神々の世界で互いの部族の神同士が争う,一種の宗教的儀式に近いものだった.
 もちろん,当時の人間だってホモサピエンスでしかないし,神様なんて実在する証拠は(今と同じく)ない.
 しかし,あくまで当時の人々は,常識以前の問題で神々と奇跡を信じていたし,君主の神聖性も信じていたので,そういう意味で,彼らの現実認識が現実以外のものを見せてしまった,ということはありえるかも.

世界史板


 【質問】
 『史記』ってまるで見てきたように書いてあるけど,春秋戦国時代の記事なんて司馬遷から600~400年ぐらい前の話でしょ?
 紙もなかった時代に,どうやってあんなに資料を集めたの?
 実は司馬遷の作り話が多いのでは?

 【回答】
 左氏伝もあれば戦国策,その他いろいろ参考文献が存在してるし,司馬遷は諸国を巡って裏付け調査を行ってるんだがな.
 甲骨文が解読される以前は妄想だと思われてた殷代の記事でも,王の系譜が史記の通りだったことが分かったりもしている.

 第一,司馬遷の作り話ってどんだけ不信感抱いてるんだよ.
 しかもどんだけ紙に拘ってんだよ.
 後漢代に紙が発明されるまで,中華では記録はなされて無かったとでも言いたいのか?
 既に出てるが記録する素材は竹簡,木簡,場合によっては絹や石碑とかもあるんだが・・・

 春秋戦国どころか神代のエピソードまで書いてあるけど,
「史料にこうあるが信用できない」
とか,
「この神話はいろんなところに類型があるから,真実じゃないにしても何らかの歴史的背景があるのかもしれない」
とか評価を書いてる.
 とても2千年以上前の人間とは思えないよ.



166 :世界@名無史さん :2009/01/07(水) 23:39:54 0

 司馬遷はその後も孜々として書き続けた.
 この世に生きることをやめた彼は,書中の人物としてのみ活きていた.
 現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が,魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を噴くのである.
 あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ,あるいは藺相如となって秦王を叱し,あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った.
 楚の屈原の鬱憤を叙して,そのまさに汨羅に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦を長々と引用したとき,司馬遷にはその賦がどうしても,己自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった.

中島敦 『李陵』 より

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 司馬穰苴って誰?

 【回答】
 司馬穰苴(しば・じょうしょ)は中国春秋時代の斉の国の将軍.
 生没年不詳.
 姓は?,氏は田,諱は穰苴.
 斉の景公(BC547-490)に仕えて大司馬となったことから,司馬氏を称した.

 名宰相晏嬰の推薦により,景公に登用された.
 当時の斉は晋と燕により攻められ,領土を奪われ,景公はこれを何とかしたいと思っていたからである.

 出師前,彼は遅刻した監軍・荘賈を処刑しようとする.
 それを知った景公は使者を出して,公の腹心であった荘賈の助命を命ずるが,このとき穰苴が述べたのが,後世に伝わる有名な言葉,
「将,軍に在っては,君令も受けざる所有り」
(将が軍中にいる時は,たとえ主君の命令であろうとも受けない事がある)
 彼は処刑を実行させ,これにより軍規が厳正になったという.

 司馬穰苴は,軍中にあって,「仁を根本とし,仁によって勝つ」を実践した.
 すなわち,
常に兵士と行動し,
兵士と同じ宿舎で眠り,
将軍用の兵糧や物資は全て兵士に分け与え,
食事も兵士と同じものを食べ,
井戸や竃の管理を自ら行い,
病気の者を見舞って薬を与え,
弱い者にも優しく接する
と言うものであった.
 その結果,司馬穰苴は全将兵に信頼され,病人までもが出陣したいと願い出るほどだったという.

 また,彼は戦闘においては,「五慮」の条件を満たすよう配慮した.
 すなわち,
「順天」→有利な天時と時機をつかまねばならず
「阜財」→十分な物資を準備しておかねばならず
「懌衆」→みなぎる士気がなければならず
「利地」→有利な地形を選ばねばならず
「右兵」→優良な兵器を保有して各種の兵器を組み合わせて使用する.
の5つである.

 斉軍が士気旺盛である事を聞いた晋軍は,直接的な戦闘を回避することにして撤退を開始し,燕軍も解散を決めた.
 司馬穰苴はこれを追撃し,失地をすべて回復した.
 なおかつ彼は,首都へ帰り着くまでに武装を解き,軍令も解いて,誓いを行ってから入城した.
 景公は諸大夫を連れて郊外まで出迎え,兵を労い,礼をなし,宮城へ帰り,穰苴を大司馬に任命した.
 こうして田氏は斉においてますます尊敬を集めることとなった.

 しかしその後,司馬穰苴は古くからの貴族である鮑氏,高氏・国子らに讒言を受ける.
 田氏の隆盛を妬んだためである.
 そして司馬穰苴は,讒言を信じた景公に疎んじられ,解任され,その後病気になって死去した.
 中国史ではよく見かける光景である…

 司馬穰苴の無念の死により鮑氏・高氏・国氏を恨んだ田一族は,その後,田常が斉簡公を殺した際に鮑氏・高氏・国氏らも共に抹殺.
 その後,田氏は田因の時代に斉の国権を,建国の祖である太公望呂尚に連なる姫氏より奪いとり,田因は斉威王となり,司馬穰苴の兵法を研究させて「司馬法」の原案を制作した.
 そして田因は,用兵において司馬穰苴の方法を真似たため,諸侯は皆,斉に入朝した.

 同書は全部で百五十五篇あったとされるが,現存するのは『仁本』・『天子之義』・『定爵』・『厳位』・『用衆』の五編のみである.
 司馬遷は『司馬法』を評して
「その内容は広く深く,三代(夏・殷・周)の戦争についてこれほど詳しく書いてあるものは無い」
と書いているが,現在残っている編は残念ながら兵法そのものより,戦争に於ける儀礼的なことを書いた部分が多い.

 【参考ページ】
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E7%A9%B0%E8%8B%B4
http://juei.kakurezato.com/t-shibajousyo.html
http://www.geocities.jp/sei_taikou/shibajousyo.html
http://kanpihistory.blog.fc2.com/blog-category-22.html


 【質問】
 龐涓って誰?

 【回答】
 龐涓(ほうけん)は,戦国時代の武将にして,孫臏(そんびん)ストーリーにおける咬ませ犬.

 生年不詳.

 若い頃,龐涓は鬼谷の下で,孫臏(当時は孫濱)と共に兵法を学んだ.
 龐涓も秀才だったが,常に孫濱には叶わなかった.
 二人は親友だったが,やがて龐涓は孫濱を妬み,憎むようになった.
 妬みがストーリーに絡むのは,中国の物語では定番.

 その後,龐涓は魏に仕官し,恵王の元で将軍になることができた.
 しかし妬みは消えず.
 そこで龐涓は,偽って孫濱を魏へと招待.
 孫濱を罪に陥れ,彼に脚を切断する刑「剕」と,額に罪人の印である黥を入れる刑に処させることに成功した.
 孫濱は自分の名を孫臏(臏は膝頭の骨の意味)と改め,龐涓への復讐を誓い,斉へ逃亡した.
 当時の斉は,田斉.
 司馬穰苴の一族である田氏が,姜氏から国の支配権を奪った後の斉であった.

 さて,その後の紀元前353年,龐涓率いる魏軍は,趙の首都・邯鄲を攻めた.
 窮地に陥った趙は斉に救いを求める.

 しかし斉軍は邯鄲に急行しようとせず,代わりに魏の首都大梁を攻めた.
 慌てたのは魏軍.
 精兵は前線に出払っており,首都の守りは老兵ばかりだったからである.
 龐涓は夜も休まず軍勢を急ぎ引き返させるが,それを待ち受けていた斉軍の攻撃を受けた.
 強兵として知られた魏軍も,連日の強行軍で疲れ切っており,そこを突かれたのだからたまらない.
 惨敗してしまう.
 これを『桂陵の戦い』と呼ぶ.
 しかも,斉軍には軍師として孫臏がついており,これは彼の策(囲魏救趙の計)であったことを,龐涓は後で知り,後悔したという.
「あのとき殺しておくんだった」
と.
 …いや,後悔すべきポイントが間違っているような気がするのだが.

 次に彼が記録に登場するのは,それから13年後のことになる.
 孫臏の「咬ませ犬」の宿命で,孫臏絡みでしか書物に登場しないためだ.
 しかし当時の魏は,他国との戦争が絶えず,魏の武将である龐涓も,多かれ少なかれそれらの戦争に関与していただろうことは,想像に難くない.

 さて,先の桂陵の戦いの後,この戦いで魏が敗退したのを見た韓は,斉と結び,魏と戦うことにした.
 だが,韓は魏の強さを見誤っていた.
 韓は魏と五度戦って五度負け,逆に魏に滅ぼされそうになった.
 このときの韓への侵攻軍の将が龐涓である.

 そこで韓は斉に援軍を求め,斉の威王は,再び田忌を将軍,孫臏を軍師として韓の救援軍を派遣した.
 斉軍は前回同様,魏の都を攻めようとしたが,龐涓もこれに備えて本国にも精強な兵を残しており,斉軍を足止めする一方,韓攻略隊も引き返させた.
 防衛隊と攻略隊で挟撃しようというのである.
 これを知った斉軍は撤退するが,龐涓は打撃を与えるべく追撃する.
 撤退戦であれば,追撃する側が圧倒的に有利だからである.

 斉軍を追ってみると,斉軍の宿営地の竈の数が,次の日には半減,その次の日はさらに半減,とどんどん減っている.
 龐涓には「魏の兵は命知らずの猛者だが,斉の兵は臆病者だ」という先入観があったから,斉軍では脱走兵がどんどん増えていると思い,更に勢いづいて足の速い騎兵だけを連れて追撃を図った.
 そしてやってきたのが馬陵道の渓谷.
 既に夜半になっており,渓谷の隘路は障害物で塞がれていたが,龐涓は障害物を撤去してさらに進撃するよう命じた.

 と,その地にあった木の枝に,板が吊るされている.
 板には何か書かれている.
 龐涓は火を掲げ,これを読んだ.
「龐涓死于此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん)」
 しまった!罠だ!と彼が気づいたときには,彼が掲げた火を合図に,渓谷の斜面の上から,何千という矢が降り注ぎ,隘路の奥にいた斉軍の伏兵が攻撃をかけてきた.
 自らが負けたことを悟った龐涓は
「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ)」
と言い残して自刎.
 魏の太子・申は捕虜となり,司令官を失った魏軍は,斉軍に蹴散らされることとなった.
 これが世に言う「馬陵の戦い」.
 紀元前341年のことである.

 漫画『キングダム』に登場する龐煖(ほうけん)とは別人なので注意.

 【参考ページ】
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9E%E6%B6%93
http://houzankai.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-bdfa.html
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/chunqiu/sei/sei22.htm

龐涓の最期
こちらより引用)

 最期のエピソードは話が面白すぎるので創作説あり.

唯野 in mixi,2015年05月30日 19:06

 え? ぼうけん??

ギシュクラ in mixi,2015年05月31日 00:10

「上まあ矢張り追撃の好機な訳だろうか」

消印所沢 in mixi,2015年5月31日 14:18


 【質問】
 孫臏の兵法書と孫武の兵法書(孫子の兵法)との,それぞれの特徴や差異などあったら教えてください.

 【回答】
 簡単に比較すると

 孫武
「兵は神速を尊ぶ」「兵は詭道なり」など,精錬された言葉で軍事の基本を簡潔に表す

 孫臏
「防塁が出来る前に敵に攻められたらまずマキビシをまき,馬車や盾で仮の防塁をたて,長槍兵,短槍兵,剣兵,弓兵の順に並べて・・・」
など,かなり具体的で実戦的に書かれてる.
 また,孫武と違って迷信的なことも書かれてるのも大きな差異.
 さらっと流し読みした感じでは,風水や五行説に基づいた兵の運用を書いた書物,という感じ.
 現代日本人が読んでも理解できない部分は多いかも.
 もっとも,その書物が書かれた時代の人間は,そういった事象に行動を左右されていたのは確かなのだから,無意味なものだったとは思わないけど.(現代でも,占いとかそういうものに行動を左右される人間は多いけどね.)
 しかも,現存してるものは1つ(銀雀山の)しかなく,保存状態も良いとは言えない為,虫食い状態で肝心な所が分からない.
 徳間書店から出てるから読んで見てください.

(世界史板)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 劇辛って何?

 【回答】
1)
 特に辛い料理の辛さを示す言葉.
 「激辛」とも表記される.

2)
 (1)より派生した,辛辣なコメントなどにつけられる形容詞.
 例:「セルジオ越後の劇辛トーク」
 もっとも,そう自称するコラムなどは,だいたいにして単なる「世論に対する逆張り」であったり,ただの「老害」であったりする例も散見される.

3)
 劇辛は中国の戦国時代末期の燕の将軍.
 生年不詳.

 趙の出身だが,燕の昭王が斉に対抗するため,臣下の郭隗の献策により,有能な人材を諸国に求めたとき,それに応じて燕に移った.
 同じように燕に移った者には,魏の将軍・楽毅や斉の陰陽家・鄒衍がいる.
 このときの献策が,現代まで伝わる
「先ず隗(かい)より始めよ」
のエピソードであるが,有名な逸話であるので詳細は割愛.

 劇辛は以後,昭王から喜まで5代の燕王に仕えた.

 BC242年,趙将の李牧により武遂と方城が奪われる.
 しかし,喜は,趙がたびたび秦に敗北し,さらに既に名将・廉頗が,出奔し将軍が龐煖に交替したのを見て,劇辛に趙に反撃するのが良いかを諮問した.
 劇辛は趙にいたころ,龐煖と親しくしていたため,
「龐煖は与(くみ)易きのみ」
と答え,趙に攻め入った.

 劇辛は易水を渡って中山路を取り,常山に至った.
 対する龐煖の趙軍は東垣に屯営して塹壕を掘り,塀壁を高くして守った.
 龐煖は言った.
「劇辛は自らの才能を恃んで来ている.
 必ずや敵を軽んずる心があるだろう.
 今,李牧が代郡を守っており,軍を率いて燕軍の退路を断てば, 彼は腹背に敵を受けることになろう.
 これを迎撃するわけだから,彼を虜にできよう」

 燕軍には栗腹の子,栗元もいた.
 栗元は父の仇を討ちたいと欲して劇辛に言った.
「進撃させて下さい」
 劇辛は言った.
「であれば,もう一人をお前の助けとして附けよう」
 劇辛は武陽靖に,栗元とともに出撃するよう令を下した.

 しかし,趙軍は強弩を乱射して応戦.
 武陽靖は箭で死に,栗元は燕軍陣地に逃げ帰った.
 劇辛は大いに怒り,全軍を率いて趙軍の陣地に突入を試みた.
 龐煖は強弩でこれを防ぎ,燕軍には相当の損害が出た.
 龐煖は使者をやって 劇辛に言わせた.
「代の李牧が退路を塞ぎに兵を動かしている.この地にいれば帰れなくなるぞ」
 栗元が劇辛に言った.
「将軍,もし,使者の言うとおりだとすれば,大変危険です」
 劇辛は言った.
「なんぞ李牧を恐れることがあろうか」

 だが,劇辛は兵を退かせた.
 龐煖は兵をやってこれを追跡させる.
 劇辛が龍泉河に至る頃,
「前面に旌旗がはためいて路を塞いでいる」
という報告が入った.
 聞けば,代の李牧の軍だという.
 劇辛は驚いて言った.
「龐煖は私を欺かなかった」
 そこで劇辛は進路を変えて東に進んだが,胡盧河に至ったところで, 龐煖の軍に追いつかれ,戦となった.
 劇辛は兵破れ,言った.
「今更何の面目あって趙の虜囚となれようか」
 劇辛は自ら頸を刎ねた.

 【参考ページ】
http://page.freett.com/lunarwarfare/jin/enn.html
http://www.geocities.jp/shokatusei/QinShihuang/25.html


 【質問】
 古代中国の都市について研究しているんですが,都市を囲ってる城壁ってあるじゃないですか?
 あれって古代はどんな形をしてたんですか?
 現在,南京とかに残っている高さ10メートルぐらいの壁が長方形に何キロも街を囲ってるっていうスタイルは,漢代辺りから変わらないのでしょうか?

 【回答】
 自分の記憶では春秋時代頃には,既に城壁で四角い形に都市を囲っていたと思うよ.
(都市の規模については大から小まで様々)

 一応,四川省成都市郊外にある龍馬古城宝敦遺跡は,長辺110m,短辺600m,高さ7~8mの長方形の城壁に囲まれた,巨大な遺跡であることが判明している.
(約4500年前に形成されたと言われている)

 また,湖南省の城頭山遺跡も龍馬古城宝敦遺跡と同様に,高い城壁(最大高5m)を持った城塞としであることが分かっている.
 城頭山遺跡は直径360mのほぼ正円の城塞都市で,東西南北に城門があり,周りを環濠に囲まれていた.
 その環濠は現在も西側半分が残っていて,中国の発掘調査で,この城壁の最古の物は今から6300年前に築造されたことが判明している.

 中国の城壁都市の形は,前17世紀のエン師遺跡(商のハク?)で固まった.
 この都市から,東西南北を意識した方形の城壁を築き,碁盤の目の道路網を整備し始めた.

 しかしそれ以前(~夏)は違う.
 前26~23世紀の初期の都市は,方角を完全に無視していて,形も楕円形のものすらあった.
 しかも垂直に城壁を築いていたのではない.
 台状に土地を盛り上げて,すり鉢状に凹ませたところを都市にしていた.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 漢代を初めとして,中国の都市は基本的に超巨大な城砦都市ですよね?
 なのに,なんで超巨大で分厚い城壁がいま残ってないんでしょうか?
 あれだけでかければ漢代どころか春秋時代のもあっていいんじゃないですか?

 【回答】
 城壁なら一部は残ってるが・・・
 超巨大じゃなくても,中国からヨーロッパまでユーラシア大陸では,都市を城壁で囲むのは防御のための基本.
 大きいものからショボいのまでいろいろ.
 「超巨大」とまで言っていいのは秦の咸陽,唐の長安ぐらいじゃないかな.
 どちらも滅んだときに破壊しつくされた.

 近現代に入ると城壁が都市発展を阻害し始めたから,洋の東西を問わず一部を史跡としてのこしたりしつつも,基本的には全部ぶっ壊すのが主流.
 ウィーンとかも近代に入ると,城壁ぶっ潰してる.
 北京のもでかかったけど,近代になって邪魔だから壊した.

 また,春秋~漢代は板築.
 土をつき固めていく方法で,秦代の万里の長城もこれ.
 都市が放棄されたら土に還(かえ)っていく.
 後にレンガを積んで作るようになった.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 春秋戦国時代や漢の時代の攻城戦について,漫画とかで見ると
「完全に包囲してる」
とか書いておきながら,包囲中に簡単に外交使節を他国に送ったりしてます.
 一体,あの頃の攻城戦はどんなものだったんですか?

 【回答】
 包囲,といっても城の外周をぐるりと取り巻くようなことはしない.
 せいぜいで,城門前に各部隊を配して交通を遮断.部隊間を哨戒するというのが普通.

 強襲する場合も,城門からそんなに離れた場所を攻めるわけじゃない.
 城門を乗り越えるための攻城装備や衝車,投石器といった城壁の破壊兵器を駆使して,城内に何とか兵の一団を送り込み,城門を中から奪取して開け,本隊を呼び込むというのが普通の攻め方.

 まあ,特殊な攻め方としてはトンネルを掘って,中に兵を送り込もうとしたり,城壁をそこへ落とし込もうとしたり……あとは水攻めに火攻め……

 それと,中世までの中国や欧州,中東で,「城」といった場合,たいていは,「都城」であって,都市一個を丸ごと囲ったもの.
 現存する日本の城だって,ほとんどは天守閣だけが残っているせいでちっぽけに思えるが,実は城下町の中心市街地のほとんどを丸抱えで囲っていた.

 そういった都城をぐるりと,本当の意味で水も漏らさぬように囲い込むのは,中世までの兵隊の動員規模を考えれば,かなり困難.
 まあ,城(都市)の規模にもよるけどね.

包囲中
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 質問です.
 中国の春秋戦国時代,燕の侵略を受けた斉は,田単将軍の下,墨城に2年にわたって篭城して反撃,失地をすべて挽回したとありますが,これほど長期間にわたって一城に篭城し,その間も戦力を保つというのは可能なのでしょうか?
 食糧,武具などはすぐに底をついてしまうような気がしますが.
 日本では三木合戦の際に2年間篭城していますが,食糧輸送できずに最後は食糧が尽きて飢え死に寸前となって降伏ですよね.
 その他の篭城作戦はほとんど数ヶ月です.
 何か食糧輸送などの後方支援部隊がいたということなんでしょうか?

 【回答】
 完全包囲ってのは当時の動員数や戦術では難しく,大抵は包囲側の隙を突いて物資の搬入を行っていたりする.
 三木合戦も2年篭城できたのは支城からの支援と,連絡線が保たれていたから.
 それが断たれたから最後は食糧が尽きて,飢え死に寸前となって降伏する事になった.
 日露戦争の旅順要塞でもそんな感じだったから,戦国時代でもそんなもん.

 後,田単の戦いぶりを見ればわかるが,彼は軍の士気の維持に腐心してる.
 当時の篭城戦は武器や兵糧よりも先に,守備側の士気崩壊の方が先に訪れる.

 また,中国の城は,城というより城塞都市で,都市1個を中に囲んでいる.
 そのうえ,長期戦を想定して1年~数年分の食糧・武器・資材を貯めこんでいる.
 都市だから貯めこんだ資材が尽きるまでは,中で色々な物を作れるし,住民が普段から生活している場だから,日本の城のように城内に避難した領民の居住環境が悪化ということもさほどではない.

軍事板
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 【質問】
 スープが原因で大敗した国について教えてください.

 【回答】
 鄭の隣にあったのが宋という国.
 両国とも小国で,大国の晋と楚の間に挟まれています.
 こうした小国であれば,両国とも連携し合って大国との距離を取って,相手が倒れるのを見ていれば良いのに,何故かどちらも大国の保護を当てにして,相手を蹴落とそうとします.
 結果,宋は晋と,鄭は楚との同盟を結成し,両国は晋と楚の代理戦争を起こす羽目になりました.
 特に,楚の庄王は宋が晋の側に立ったのに腹を立て,鄭に宋を攻撃させることにしました.

 決戦を前に,宋の最高司令官である華元は,部下の士気を奮い立たせる為に,「羊の羮」を振る舞います.
 この羮というのは,米入りのスープで,米を煮ることで澱粉がスープに溶け込み,ポタージュやクラムチャウダー状のものになります.
 ところが,これに有り付けなかった奴がたった1人いました.

 さて,いよいよ出陣の時.

 華元は戦車に乗り込み,意気揚々と部下に出陣命令を下そうとします.
 しかし,戦車を操る御者の羊斟が,「羊の肉を配ることは貴方が仕切ったが,今この戦場では私が仕切る!」と叫ぶや,華元が乗った戦車を敵国である鄭の陣地のど真ん中に突っ込ませました.
 華元は呆気なく捕虜となり,宋は大敗を喫してしまいます.
 『春秋左氏伝』によれば,この戦いで宋が失った戦車は460台にも達したそうです.

 そう,たった1人「羊の羮」に有り付けなかったのは,華元の御者である羊斟だったのです.
 たかが1杯のスープが大敗を呼び込んだ訳で,正に「食い物の恨みは恐ろしい」を地で行く話です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/16 22:13


 【質問】
 秦が中国初の統一王朝とか言いますが,なんで統一できたの?

 【回答】
 秦=プロイセンとイメージすれば分かり易いな.
 現在「ドイツ」とイメージされる国を作ったのがプロイセンであるように,現在想起される「中国」という範囲を作ったのが秦.
 国のあり方も成立の仕方,全国の「統一」の経緯も良く似てる.
 両国とももともと非中国,非ドイツでほとんど外国.
 まっとうな中国人ドイツ人とは扱われず,よくて中央の文化地から離れた辺境の野蛮人.

 プロイセンの軍国ぶりとそれを支える軍隊と国家システムは有名だが,秦も国家体制を整備していく過程では富国強兵が主軸.
 人口増加促進,取った首の数で出世が決まる等,プロイセン張りの富国強兵政策を取って強大化した.
 ただでさえ蛮地に入植した状態で,王族自体が西戎出身じゃないかという説があるぐらいで,自民族や軍隊の構成員が,異民族の蛮族出身者である所に,この半文明の野蛮な民族が完全に文明化されず,もとの荒々しさ,野性が温存された状態であるため,軍隊も精強で戦争に強い.
 国の政策もそれに拍車をかけた.

 プロイセンは厳格な法秩序や体制重視,峻厳な社会体制で知られるが,秦もそれに劣らず「体制」バリバリの国家権力がものすごかった,
 人民にとっては重苦しく,しんどい国だった.

 これら「半スラブの野蛮人」「半西戎」が次々にドイツ諸国,中国の諸国を併合していき,それによって逆に中国化,ドイツ化されていき,固有の言語や文化も喪失していったのも似ている.

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 【質問】
 始皇帝以外の兵馬俑って発見されていないの?
 戦国時代の君主なんて腐るほどいるんだがら,少しぐらい見つかってもいい気が…

 【回答】
 始皇帝の兵馬俑の発見自体が,偶然の産物だからね.
 単に見つかるチャンスが無いだけなんでしよう.

 一応,木製の俑なら陝西省韓城市梁帯村にある周代墓地より発掘されている.
(始皇帝の兵馬俑より500年くらい前の物)

 ちなみに陶俑を副葬品とするのが盛んになるのは秦・漢~隋唐頃だそうだよ.
 漢~隋・唐代は王侯の墓に俑を副葬品にするのは普通で,その中には軍隊を表した兵馬俑もある.
 ただ,サイズがかなり小さい.
 「人形」といって丁度いいぐらい.
 等身大のものは今のところ始皇帝のものだけ.

 また,春秋時代には馬を生きたまま副葬品として墓に埋葬していたとの事.

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