幕末〜西南戦争FAQ

目次(並びは,ほぼ年代順)
◆幕末
◆リンク集
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◆幕末 the final years of the Tokugawa shogunate
【質問】 オランダからの風説書で,アヘン戦争やアジア植民地化を知ってただろうに,幕府は黒船来航まで何の対策もしてなかったのですか?
【質問】 鎖国していた幕末日本に,何で外国の情報が入って来てたんですか?
【質問】 日本は,黒船がやってくるまでは海軍のようなものは無かったんだろうか?
【質問】 ペリー艦隊来航以前に,幕府が蒸気軍艦保有を計画したことはなかったのか?
【質問】 日本=デンマーク間で修好通商条約が結ばれるまでの経緯は?
【質問】 「薪水給与令」←これなんて読むの? あと,内容を簡単に説明して.
【質問】 浦賀に来た黒船って,当時の米海軍の主力艦だったのですか?
【質問】 ペリー艦隊来航後,幕府はどのように海軍力強化を図ったのか?
【質問】 日本の戦前の国旗って2種類あったじゃないですか.使い分けはなんですか?
【質問】 幕末に日本から派遣された留学生は,どんなことを学んだのか?
【質問】 攘夷論者ばかりだった朝廷は、外国の武力にはどう対抗しようと考えていたのでしょうか?
【質問】 新撰組のトップなのに,どうして近藤勇は局長と呼ばれるのでしょうか?
【質問】 薩英戦争での薩摩,英国双方の被害はどれくらいだったんでしょうか?
【質問】 坂本竜馬暗殺には西郷隆盛が一枚噛んでいたとのことだが,本当だろうか?
【質問】 「水戸藩衰退の原因を作った元凶は水戸光圀」というのは本当ですか?
【質問】 薩長「官軍」の大将をした皇族は征大将軍と言わなかったのですか?
【質問】 太平の世が長く続いた後の戊辰戦争は,戦術的に戦国時代に比べて稚拙だったでしょうか?
【質問】 もし江戸城開城交渉が失敗していたら,江戸はどうなっていただろうか?
【珍説】 「『米百俵』精神こそ,改革を進めようとする我々にとって必要(小泉純一郎)」???
【質問】 ブリュネは最終的にフランス陸軍参謀総長になったって本当?
【質問】 「昔の日本人は走ることができなかったので,強兵目的から,学校教育に体育が取り入れられた」って本当?
◆◆装備
◆◆◆陸軍関連
【質問】 幕末〜西南戦争で国内各勢力が使っていた銃には,どんなものがありますか?
【質問】 南北戦争同様,同時期の戊辰戦争も、刀や槍による死者は、ほとんどいなかったのでしょうか?
【質問】 日本刀は槍等より武器として劣っていたそうですが,なのに何故,戊辰戦争や西南戦争で日本刀が威力を発揮したのですか?
【質問】 官軍の指揮官が赤いたてがみを付けてるのはなぜですか?
【質問】 戊辰戦争のころまで使われていた木砲って,どの程度の射程があったのでしょうか?
◆◆◆海軍関連
【質問】 幕末,日本の大砲は欧米のものと比べ,どの程度の性能差があったのですか?
【質問】 薩英戦争で使われたアームストロング砲は,どのくらいの威力があったんでしょう?
【珍説】 「大阪港に停泊していたのは,開陽丸の戌辰戦争の第一の功績」???
◆建軍期
【質問】 大名は明治になって爵位を与えられたが,そのランクはどうやって決められたのか?
【質問】 明治日本が兵部省を廃止して陸軍省・海軍省の2つに分けたのは何故でしょうか?
【質問】 明治以後,広島にはなぜ軍事上重要な施設が集まったのですか?
【質問】 明治の国軍草創期に,仏式と独式のどの軍制を採用するかで論争があったようですが,両者の利点・欠点を教えてください。
◆西南戦争 Satsuma Rebellion
【質問】 軍旗は床の間にあった、という説はどうですか?
【質問】 西南戦争での薩軍の抜刀攻撃で苦境に陥った経験が、後の日本陸軍を白兵戦至上主義に導いた・・・って話、ホントですかねえ?
【質問】 官軍上陸地点が日奈久だったのは,どういう判断だったのか?
海舟庵(連絡不能)
「ザイーガ」:【やってみる】なんでも幕末の古写真風にしてしまう「幕末古写真ジェネレーター」
松菊庵(桂小五郎)(相互リンク)
歴史資料館(幕末軍艦について詳しい.ただし閉鎖中)
◆幕末 the final years of the Tokugawa shogunate
【質問】
オランダからの風説書で,アヘン戦争や欧米によるアジアの植民地化を知ってただろうに,幕府は黒船来航するまで何の対策(軍備,外交)もしてなかったのですか?
【回答】
どういう本読んで,そう思ったんだか.歴史ドラマの見過ぎか?
アヘン戦争の結果を知ってたから,軽々に戦争を起こさないよう,外国船打払令を緩和して,外国船が来たら薪水の補給をしてあげるよう全国に伝えてたし,ペリー来航の7年前にもビッドル提督というのがまったく同じ目的で浦賀に来てるし,1853年にペリーがやってくるのもオランダからの通知で知ってた.
そういう流れがあって開国を決めたの.
黒船見て慌てふためいて即座に決意したんじゃない.
来航した黒船

(うそ)
【質問】
幕末まで日本は鎖国していたのに,何で外国の情報が入って来てたんですか?
【回答】
「鎖国」って交流の完全シャットアウトのことじゃないから.
以下引用.
鎖国は日本人の海外進出に大打撃を与えましたが,これによって我が国への西欧文化の渡来は全く途絶えたわけではありません.
西欧文化はオランダ船か,または中国船によって少しずつではあるが確実に輸入されたのであります.
さらにオランダの使節は,毎日のように江戸に上がり,将軍に謁見しました.
オランダの施設が将軍に謁見した最初は,1609年(慶長14年)のことですが,その後,寛永年間(1624-28年)からは毎年の行事となり,1764年(明和元年)からは貿易量の縮小により,1年おきでよいと通告したが,オランダ人は相変わらず毎年参府したのであります.
1790年(寛政2年),再び貿易量の縮小を図り,以後,オランダ人の上京を4年一次とし,幕末までその制が続きました.
オランダ使節の上京は,大名と同じ待遇を受け,在府中の宿舎は日本橋本石町長崎屋と決まっていました.
使節は途中はもとより,江戸滞在中も,表面上は一般人との面会を禁止されていましたが,内々には医師や有識者と会うことができました.
幕府の上層部はこれによって海外の知識を得,ヨーロッパの優れた珍貨を入手することができたのであります.
長沢和俊 in 「魅惑のシルクロード」(講談社,1981/10/15),p.47-48
まあ,幕末時点の技術格差を見ると,質問者のような錯覚を覚えてしまうかもしれないけど,その格差の原因は別のところに求められるべきだろうね.
【質問】
海軍ってどの時代から独立した軍隊になったんだろうか?
日本は黒船がやってくるまでは海軍のようなものは無かったんだろうか?
【回答】
勝海舟(写真)は日本国海軍(幕府海軍),日本の主権者が国軍として創設した海軍の初代司令官.
竜馬は海軍兵学校初代校長(みたいなもの),生徒には日清戦争時のGF長官伊藤祐之などがいた.
海軍とは,
「海洋国益保護,海洋法秩序の維持,海難救助,海洋調査,海洋における国家主権の維持,海上交通の防護」
が任務であって,陸軍の支援を主目的にしていた日本の戦国時代の「水軍」とは根本的に違う.
昔のは海軍ではなく海賊勢力.
誰かの命令に従って動くわけではなく自分たちの意と慣習のままに動き回ってた.
それが厳島合戦辺りになると陸上勢力の統制下に置かれる有力な水軍というのも出始めたわけだ.海上交通権を握る為に戦う部隊という点では「海軍」だな.
海軍という概念ができたのが大航海時代〜植民地の時代.
ヨーロッパでは,それまではおまけ程度だった海軍(といえないがそれに順ずる存在)が,一気に重要な役割を果たすようになった.
一方,日本ではそんな時代はなかったので,発達どころか江戸時代にわざと退化させた.
で,海軍がなぜ重要になったかというと,言うまでもなく植民地とのルートの確保やらなんやらでとにかく「海」が重要になった.
それに早く気がつき,海軍の整備を進めたのがスペインやオランダ・そしてイギリス.
この辺が近代海軍(つまり現代につながる海軍の元)の原型じゃないかな?
時代が進み,場所も日本に移って明治維新になると,当然どの国のさらに進歩した海軍を持っている.
日本が近代国家を作るにあたって海軍力は重要なわけで,当時の欧米列強の海軍を手本に海軍を整備したといっていいと思う.
「海軍」って言葉がいつできたのかは知らんが,先述のように,海軍というと19世紀後半から現代ぐらいを指す.(本格的な海軍,制海権やシーレーンの防衛などを行うとすると)
だから日本において「海軍」と言えば19世紀から現代に至る,海上戦力を保有した国家の軍隊の1組織ってこと.
長ったらしく書いてしまったが,こんなもの所詮「言葉遊び」であって,結論なんか絶対出ないと思うけどね.
【質問】
幕末における,幕府のスループ整備状況は?
【回答】
[quote]
古来より異船ニ紛候品御停止と申も深き御趣意有之故之儀と被察,殊ニ新規新法之儀ハ万事差支多きものニ有之,右スループ之儀ハ外国より渡来いたし候節之御設け二候処,異様之品ヲ以対揚仕候は実以御国体ニ相拘,残念之儀ニ御座候,抑日本之儀ハ古来より神国と相唱へ,一姓血統世界第一之御国柄二候処,蛮夷鴃舌鳥獣同様もの用ひ候品態々模擬製作いたし,夷狄之風俗ニ任せられ候ハ可恥之甚と奉存候,尤浦賀奉行追々申上候通,実用便利之品二は可有御座哉ニ候得共,伊豆守儀蛮夷之事実逐一論究考策仕罷在候事共被存,全西洋者流紙上之論談之趣ヲ尤と存,追々申上候哉ニて,古来よりの御制度ニ違ひ候而も已ならす,蛮夷え対御外聞二も拘り,自然日本之御恥辱を引出やう之次第二も可成行哉と恐入候義に御座候
[/quote]
19世紀に入り,オランダの外海防衛力が弱まり,かつ,欧米諸国の東方進出が顕著になってくると,英国や米国,フランス,ロシアから果てはデンマークに至るまで,日本に軍艦を派遣して通商を求める様になってきます.
幕府としても安穏としておられず,海防に強化する事になる訳ですが,水野忠邦政権の時代は,松平定信政権に反発する勢力が主体であったことから,海防は陸上からの砲撃を以て良しとすると言う時代が続きました.
しかし,その戦法は依然として甲州流軍学に立脚したものであり,19世紀から欧州各国で発達してきた歩兵,騎兵,砲兵を主体とする戦闘とは相容れないものだったりします.
これを改める動き,例えば,1840年に実施された高島秋帆とその門下による西洋流軍学を用いた徳丸原での演習は,幕府の鉄炮方から酷評されます.
つまり,これらの諸兵科戦術を用いると言う事は,全員が火器を執って集団で戦うと言うものであり,従来の様に個人が刀槍を手にして,個人と戦うと言う戦術とは相容れないこととなり,それを受容れると言う事は,支配階級として日本に君臨してきた武士の立場を危うくする事になります.
この為,高島秋帆の演習は,万人から受容れられるものではなく,モルチール筒(臼砲)とホーイッスル筒(榴弾砲)各1門を高島秋帆から買い入れ,幕臣一人に高島流砲術を皆伝する様に命じただけで終わりました.
当時の時代的には,一方の端に西洋技術を導入することが,技術だけではなく,様々な分野に波及する事を恐れ,新たな外国技術の導入を認めない現状維持論派と,他方の端には有用であれば,西洋技術を積極的に摂取すると言う西洋文化摂取論派,そして,中間的な存在として風俗や言語などの日本の制度の根幹に関わる分野の欧化を防いで,有用の西洋技術のみを摂取せよと言う選択的摂取論派の三つに分かれていました.
例えば現状維持論派は鳥居耀蔵に代表され,西洋文化摂取論派は高島秋帆に,そして,選択的摂取論派は徳川斉昭に代表されますが,水野忠邦政権の幕閣では現状維持論派が多数を占めていました.
さて,海防と言う観点から見れば,当時の湾岸防備,特に江戸湾内の防備はお粗末の一言に尽きました.
松平定信も,万一の場合は戦闘ではなく降伏の使者となる覚悟を定めていましたが,それから何ら進展していません.
一度,ロシア船などによる乱暴狼藉を契機に異国船打払令が打ち出されますが,阿片戦争の結果を見るに異国を刺激して全面戦争になるのを恐れ,これを撤廃し,薪水給与令に変更し,緊張緩和に相務める様になります.
しかし,水戸徳川家の徳川斉昭等はそうした措置を手緩いとして,その復活を度々建議しています.
これを復活させようと幕閣で図ったのが,水野忠邦の跡を襲って老中首座となった阿部正弘でした.
彼の異国船打払令復活の前提にあったのは,海軍力の強化でした.
外国と事を構えるにしても,戦力がなければ意味を為しません.
その為にも,洋式船を建造して,諸外国の船に対抗できるようにしなければ成りませんでした.
ところが,水野忠邦政権末期の1842年10月の法令では,三本帆の禁止が通達されています.
これは異国船との誤認防止の意で設けられた可能性が高く,これを通達することにより,諸家の遠見番所で和船を異国船と見誤り,海防の為に動員をかけて諸家の疲弊を招かない様にする為のものと考えられます.
当時,幕府の海防掛には,先述の三派閥のうち,現状維持論派が多数を占め,更に意思決定が彼らによって為されており,洋式船の導入など以ての外と言う空気が醸成されていました.
この三本柱の禁止通達が有ったことで,洋式船の建造に対するハードルが高くなった訳です.
実際,各大名家が洋式船を建造する事を悉く却下しています.
例えば,水戸徳川家や佐賀鍋島家が「バッテイラ」と言う小型の西洋型短艇を建造するのを阻止していますし(しかし,彼らはその意向を無視して,小型船なら禁令に違反しないであろうと考え,密かに建造した),宇和島伊達家でも,非常時の属島との往来用に小型洋式船の建造を幕府に願い出て一蹴されています.
1846年にJames Biddleが率いる米国東洋艦隊の来航時,その2隻の船には,江戸中の大砲を寄せ集めても対抗出来ないことが明らかとなり,幕府,その中でも矢面に立った浦賀奉行が執拗に海防強化を申し出てきます.
守旧派ばかりの中心を為していた海防掛は,その提案に悉く抵抗を続けます.
その中で抵抗していたのは,洋式船の導入と,屯田兵,農兵制の採用を海防の任を担っていた諸大名家に認める事でした.
但し今度の洋式船は,水戸や佐賀が建造した「バッテイラ」から発展した「スループ」であって,大船建造の禁に触れないとした根回しをしていましたが….
取り敢ず,阿部正弘は,海防掛の抵抗を退け,先ずスループ1隻の建造を浦賀奉行に命じました.
それでも,3本帆の禁令を楯に海防掛は抵抗し,ではと言う事で2本帆柱に変えると,「本邦之船ハ帆柱一本」とまで言い切って,結局帆柱は1本にして建造が進められました.
更に,この船をモデルに,江戸湾海防を担っている諸家にも同型船が建造されます.
しかし,これまた海防掛は大小目付,勘定方も含め抵抗します.
曰く,識別用に塗らせた赤黒の塗装は,前例がないと抵抗.
曰く,船号として何丸と言う名前が無いと抵抗.
元々,こうした多数建造船は,「何々形何番」と船名を付けるのですが,それは無視.
曰く,帆装は…これは認められました.
彼らの論理は,江戸城内では通用しましたが,船を見続けている浦賀奉行には通用しませんから.
結局,スループ船の建造を認めさせられた訳ですが,冒頭に掲げた様な罵詈雑言を書き残していたりする訳です.
今も昔も,全く官僚ってのは代わりませんねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/23 21:44
1850年,スループ第一船の蒼隼丸が完成します.
そして,5月26日,浦賀にて蒼隼丸の乗り試しが行われました.
この時,蒼隼丸と従来の押送り船との競争が行われています.
その結果,順風では差が無く,逆風では当然の事ながら蒼隼丸の方が勝り,凪では,櫓を漕ぐ押送り船の方が櫂を漕ぐ蒼隼丸よりも早かったとあります.
一方,蒼隼丸が装備していた船首の3貫目ハンドモルチール筒2門と両舷の150目ダライハス筒6門については,風の順逆に関わらず,周旋自在に目標を捕えられ,揺れも酷くなかったと言う事で,期待通りの性能であったことが証明されました.
蒼隼丸形は,長さ55尺,幅13尺,深さ4.2尺で,船体は24挺の肋材で構成し,長さ12尺の櫂を22挺備えるもので,大きさ自体は30挺立前後の関船に等しく,押送り船より4割程度大きいものでした.
帆柱は原案では3檣縦帆だったものが海防掛の反対にあって,2檣横帆に改め,長さ25.5尺の弥帆柱と長さ38.5尺の本帆柱に梯形の帆を掲げることになり,その帆柱は起倒式としていました.
帆の面積は,弥帆5端,本帆9端で面積比3割程度で,押送り船の弥帆3端,本帆6端と大して面積比は変り有りません.
武装は,先述の通り,船首に3貫目のハンドモルチール筒(臼砲)2門,両舷に150目ダライハス筒6門を備えており,中々強力なものではありました.
この第一船蒼隼丸は,竣工から僅か2ヶ月後の7月1日,砲の発射薬を作る製薬所が無い為に,開いた船艙で合薬を製造中に,火を発して船艙2棟と共に,焼失してしまいました.
この時は蒼隼丸の他,日吉丸,千里丸も同時に焼失し,廃船同然の下田丸を半焼してしまい,浦賀奉行所保有の御備船の3分の1を失うこととなり,大型船は30挺立の長津呂丸1隻が残ったに過ぎませんでした.
現状維持論派が多数を占める海防掛にとっては勿怪の幸い(この焼失をネタに伝奇ものの時代小説が一冊書けるかも)とばかり,代船建造など何処吹く風と頬被りを決め込みました.
しかし,西浦賀蛇畠町の丸屋弥市と言う人物が,御備米1000俵,土蔵1棟,及び蒼隼丸形船1艘の建造費の上納を願い出ます.
浦賀奉行所では,米も金も無く,有事の際には町人に諸色を立て替えさせて炊き出しをすると言う為体状態ですので,これを奇貨(と言うか,本人の意思か,奉行の示唆かは定かではないにせよ)として,1851年1月11日に幕府はその上納を認め,3月10日には土蔵の建築を認めると共に,蒼隼丸形船の建造を浦賀奉行に下します.
それには,第二船は,櫂を櫓に変更し,塗装は中止して白木造りとするとし,1850年12月に現状維持論派が巻返しを図って,「砲撃自在で進退弁理の船」は洋式軍艦であるから,異国船に紛れ込まさない様に,その建造に掣肘を加えると言う意味での洋式船建造禁止の通達が幕閣で取上げられ採択されたと考えられるも,今回に限りその例外として認めると言う一文が加えられています.
つまり,完全に幕府内では現状維持論派がほぼ完全勝利を収めたと言うべきかも知れません.
兎にも角にも,第二船晨風丸が1851年6月に完成します.
船体は杉材で,矧目には瀝青を塗布して防水し,銅板で舷檣を包み,備砲は艦首に3貫目ハンドモルチール筒1門,胴木両端に150目ダライハス筒6門を搭載しています.
因みに1854年までに浦賀奉行所では,日吉丸,千里丸の2艘を建造して,全部で4艘のスループを保有していましたが,うち3艘は焼失してしまいました.
しかし,同型船は江戸湾を警備していた彦根井伊家と会津松平家が6隻を建造していました.
同じく江戸湾警備の忍松平家と川越松平家は,計画はしていたものの,建造に至ってはいなかった様です.
当時,江戸湾防備は,1851年3月に下田警備を韮山代官江川太郎左衛門に移管し,有事の際の出兵を,小田原大久保家,掛川太田家,沼津水野家に命じ,1852年4月に竣工した鳶巣,鳥ヶ崎,亀ヶ崎の3つの台場を川越松平家に引き渡しました.
5月には西浦賀の警備を彦根井伊家の管轄となり,浦賀奉行は港内警備と異国船応接を担当するだけの存在となります.
これだけの体制を取っておけばもう安心と考えたのでしょう.
海防掛の目付は防備強化策が行われる1850年の段階ですら,迅速な「蒸気船やバッテイラ之類」の侵入の可能性を認めたものの,それらは「打払焚沈候も容易」と簡単に片付けています.
彼らが如何に陸上防備に重きを置き,時代の流れを読んでいなかった事かうかがい知れますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/24 21:12
【質問】
薩摩軍艦「昇平丸」建造までの経緯は?
【回答】
薩摩では,当主である島津斉彬を中心に,幕府よりも大船主義者だったりします.
元々,1844年以来,薩摩が領有していた琉球にも,欧米の艦船が頻繁に来航する事になった事から,琉球防衛上の観点からも,海軍力の整備が急がれました.
1852年10月15日,斉彬は襲封後,初めて江戸に参府しますが,22日には早くも老中阿部正弘に伺候し,琉球防衛の為の軍艦建造を諮り,阿部から賛同を得ました.
この時,阿部自身は,米国艦隊の来航について,幕府の評議が定まらないと心配げに語っていたと言います.
12月初旬,斉彬は軍艦の雛形を阿部に見せますが,彼は海防掛と老中の両名に届書を提出する様にアドバイスします.
と言っても,これはあくまでも表向きの届書で,27日に留守居が届書1通と琉球船の絵図2枚,異国船の絵図1枚を月番老中の牧野に,届書案1通と琉球船の雛形2艘,異国船の絵図1枚を阿部に差出しました.
1853年2月8日,海防掛奥右筆組頭に対し,届書を提出した事を以て承認と見なして良いか確認し,間違いない旨の回答を得ます.
なお,建造地については琉球を予定していましたが,1854年の斉彬と阿部の会談の結果,桜島で建造しても良い事になりました.
その届書には,非常時に藩兵を大島から琉球に派遣する為には,大砲を搭載し,安全にと回する船が必要であるが,国元で「軍船」,つまり洋式軍艦を建造するのは,禁令に抵触する上,他にも響くので公許は得られないであろう.
よって,琉球船に肋材(まつら)を多数入れて堅固にし,舷側の彩色の砲門を真の砲門に仕立て,万一の場合は大砲を搭載し,平時には島々を回る輸送船として用いたい.
従来,届けずに建造していた琉球船に大砲を搭載しては風聞も自ずと立とうが,琉球防御の為の船であって,通常の琉球船と同様に鹿児島と琉球の間で用い,領外には出さない,としていました.
琉球では元来,清への朝貢の為にジャンクを建造し,3回ほど中国と行き来した後,戦闘用の艤装を撤去して薩摩に派遣していました.
これを楷船と言い,斉彬が計画していたものも軍船仕立ての琉球船を建造するものも同型になる筈でした.
ところが,実際に桜島で起工した琉球船は,1854年12月12日に洋式軍艦昇平丸として完成します.
つまり,当初の届書に書かれていた琉球船は名目上だけのもので,実際には洋式船を建造していた訳です.
これが成立したのは,元々琉球は幕府にとって見れば,建前上外国と言う存在でしたので,其処でどんな船を建造しようが,国内法上何ら問題はないと言う立場を取る事が出来ました.
こうした老中阿部正弘黙認の上,洋式軍艦を建造していたのは,他にも水戸徳川家,肥前鍋島家が挙げられます.
海防掛が頑迷であるが故に,阿部もこうした苦肉の策を執らざるを得なかったのでしょうが,これが結果的に幕府の寿命を縮めた事は否めないのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/02 22:21
【質問】
ペリー艦隊来航以前に,幕府が蒸気軍艦保有を計画したことはなかったのか?
【回答】
あった,と言えるかもしれない.
天保後期,江戸湾防備をする為には,羽田・下田両奉行所の設置,川越松平家,忍阿部家による相州,房総の警備,鉄砲方の増強,大筒組の創設など陸上警備に重点が置かれ,海上での阻止は余り顧慮されていませんでした.
とは言え,幕府は不可解な動きをしています.
1843年4月,蒸気罐及び蒸気船が
「山海之運行自在之製作ニて,近頃イギリス抔ニては別て精巧工夫も盛ニ相成候由」
を聞き及んだ幕府が,オランダ商館長に対し,長崎で製作可能か,本国の注文が可能かを質し,それぞれの場合の経費と江戸間での回航費を見積もらせています.
商館長は,蒸気罐と蒸気船についての簡単な説明を行った上,本国への発注可能性も経費も不明なのでバタヴィアに照会すると回答していました.
この蒸気船,長さ150ft程度の船で,教育の為に航海士以下10名の乗組員を日本に招聘した場合の給料や年間経費までも問い合せていたりします.
因みに仕様には,「船之沈ミ深サ成丈浅方可然」となっており,遠浅の江戸湾内での使用を想定していた事が伺えます.
ただ,本国への照会に対する回答期限は幕府側は一切付けておらず,本当に導入する気があったのかどうかは,未だに不明な部分が多かったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/18 22:15
【質問】
ペリー艦隊以外の外国艦隊来航の動きは?
【回答】
Perry以前の異国船の来訪ですが,1840年代に入ると,とても来訪が多くなります.
元々は1845年,英国の香港総督John Davis卿が蒸気船Vultureに坐乗し,フリゲート艦Vestalと共に日本に赴く予定でした.
日本側にHolland商館から齎された情報がこれです.
しかし,デンマーク艦隊が齎した広東の暴動の情報を得て,その鎮圧に動くこととなり,Vultureとフリゲート艦Vestal,それにもう1隻の蒸気船Nemesisは日本行きを諦め,広東へと向かいます.
このレースに参加していたのは,英国だけではありません.
フランスは,Cecile提督率いる東洋艦隊のフリゲート艦Cleopatraとコルヴェット艦VictoreuseとSabineの3隻を率いて,日本沿岸の測量を行うと言う名目で日本に向かいました.
前にも出て来ましたが,米国はJames Biddle司令長官率いる戦隊が98門の大砲を持つ戦列艦Colombus,コルベット艦Vincensを率いて日本に向けて中国から出港しました.
もし,この英国艦隊が江戸に来ていたのなら,Matthew
Calbraith Perryの例の示威行動は全く歴史の教科書に残らなかった事でしょう.
因みに,当時,英国と米国は色んな意味で角逐を繰り広げていました.
米国は西へ向かって進み,英国は東に向かって進んでいました.
その対立点が丁度日本と中国だった訳ですが,他にもOregon領有を巡り,米国と英国は一触即発の状況でした.
歴史にIfはありませんが,この時,英国艦隊が江戸に来ていたら,もしかしたら,日本を巡って,英米戦争が勃発していた可能性もあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/26 22:10
【質問】
デンマーク艦隊は江戸幕府とどんな交渉をしたのか?
【回答】
春は人事異動の季節ですが,今日,受容れ先の部長さんから電話が掛ってきました.
どうやら,今回の人事異動で,私の辞令発令を素で忘れていた様です.
偶々,一括発令があったから事なきを得ていますが,これが無かったら私は一人宙に浮いていた事になってたりします(>_<).
さて,昨日出来なかった日本人とデンマーク人との対話の続きです.
先日,米国のJames Biddle艦隊が日本を訪れた事から,今度は余裕を持って日本人は応対しています.
しかも,98門の大砲を持つ巨艦ではなく,今回は小さなコルベットですからね.
川越松平家家中の橋本深美と浦賀奉行所の通詞堀達之助とBille提督との対話は,日本側が書類を入れた箱を取り出したことから始まりました.
その中には片方にはオランダ語で,もう片方はフランス語で書かれた書類がそれぞれ2通入っていました.
2通の書類の内,1通には,
「日本は鎖国をしているので,直ちに退去すべし」
と書かれており,もう1通には,船名,旗の意味する所,出港地,航海の目的,日本に到着した理由を書けと言うものでした.
Bille提督はドイツ語とフランス語で回答を行い,それなりに意思疎通自体は出来ていたようです.
更に日本側の事情聴取は続き,船の寸法,マストの高さ,大砲の数,火薬や砲丸の数,銃や小銃の数など,事細かに聞いてきたので,好い加減,Bille提督も答えるのが嫌になり,日本に上陸したい旨申し入れます.
日本側としては,浦賀までなら可能としますが,江戸湾への侵入は断固拒否します.
また当初,日本側は多数の部下を船に乗せていたのですが,Bille提督は乗員に砲を操作させ,威嚇した為,船に残るのは少人数に留まり,兎にも角にも,浦賀に向けて進みました.
ところが,まともな航海図を持ってきていなかったので,城ヶ島を回った所で,航海を断念.
これ以上,日本に関わらないことを決め,航海中の日本船を停船させて,日本側の人々を移乗させ,日本から離れてしまうことにした訳です.
その日本側ですが,前回,James Biddle艦隊を発見し,江戸表に一報を入れていた田原三宅家では,渡辺崋山以来海防に力を注いでいたのですが,この米国艦隊来航を機に,更に有事対応を強化していました.
そんな網の中に,Bille提督のGalathea号がやって来た訳です.
この一報もすかさず江戸表に伝えられると共に,以後,各地の遠見番所からの注進が続々やって来ています.
勿論,この情報は浦賀奉行所にも伝えられ,奉行所では早速警備体制が取られると共に,通詞の派遣,検使の選任などが行われ,準備万端整えられていました.
そして,先述の話が展開されます.
因みに,この時に彼らは,その観察力を十分に発揮し,備砲のみならず士官の所持する武器などの装備,乗組員数に加え,砲の寸法まで報告書に書き加えられています.
結局,彼ら双方とも不完全燃焼の儘,交流?は終了した訳ですが,一件落着の後,浦賀奉行以下用人,与力,同心,通詞に加え,川越松平家家中の家来達には金千疋から百疋(銭換算で25,000文〜2,500文)が「御肴料」として御上から与えられ,川越松平家の一番船に坐乗した橋本深美以下の家来達には別に銀2〜3枚が褒賞として下賜されています.
Matthew Calbraith Perryの時と違って,未だ幕府としても逼迫している状況に無かったのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/28 22:04
【質問】
浦賀に来た黒船って,当時の米海軍の主力艦だったのですか?
それとも二等か三等艦だったのですか?
まー徳川幕府相手ですから,最新鋭の戦闘艦は必要ないでしょうが.
【回答】
二流艦どころか,当時のアメリカが派遣できるなかで最新の艦で編成された艦隊.サスケハナ号(画像右)とポーハタン号は,米墨戦争に勝利するために建造に着手された最新鋭の蒸気軍艦です.
旗艦「サスケハナ」は外輪と帆走の混装で,当時のフリゲイトとしては最大級.
ところが,この2隻が完成する前にあっさりと米墨戦争は終わってしまい,
「過剰装備ではないか? 縮小せよ」
という議会からの批判が起こります.
というわけで海軍は,
「これらの最新鋭軍艦はこんな事にも使えますよ」
というアピールもかねて,あれほどの豪華な最新鋭大艦隊――二度目の日本派遣で動員された軍艦は「当時のアメリカ海軍の持つ長距離行動可能な蒸気艦全て」――で日本にやってきたというわけ.
そういう背景がなければ,極東の小国を開国させるという目的としては,とてもコストパフォーマンスの合う話じゃないです.
なお,一度目の派遣には議会の同意が得られず,ペリーは外交使節では無く艦隊司令官として日本に来ています.
よって,ペリーの取れる行動にはかなり枷が填められており,軍事行動も許されていませんでした.
要するに,「拒否したら江戸が火の海になる」というのは杞憂に過ぎなかったわけです.
【関連リンク】
「D.B.E. 32型」:あの黒船の中身はこうだった!! ペリー艦隊旗艦徹底図解(
in かーずSP)
\
【質問】
「薪水給与令」
これなんて読むの?
あと,内容を簡単に説明して.
ペリーから三国干渉までを水曜までにマスターせなあかん.どうしよう.
【回答】
諦めて寝ちまえ.
【しんすいきゅうよれい】1842(天保13)7月異国船打払を停止し,漂流船には薪水を給与し,援助することを命じた海防令.
アヘン戦争の情報が日本に伝わり,憐恤を名目に発砲が戦争につながるのを回避した.
発令と同時に海防掛老中を置き,諸藩に海防強化を命じた.
【いこくせんうちはらいれい】1825(文政8)2月の海防令.外国船を二念なく打払うよう命じたところから無二念打払令とも呼ばれる.
前年の常陸大津浜の英捕鯨船員の上陸事件などから,国家間の戦争には至らないという予想のもとに発令.
アヘン戦争の情報が伝わると,天保薪水給与令に転換した.
ペリー来航後が海防強化がもっとも緊急課題となった時期で,江戸品川沖に台場が構築された.
海防問題は朝廷の発言力を高める糸口になり,はやくから伊勢神宮海防問題では幕府を越えて津藩などに独自の指令を出すようになった.
日米修好通商条約後も幕府は,海防強化の後に鎖国に戻ることを朝廷に約したため,海防は国是のようになり,攘夷に置換されるようになっていった.
【質問】
デンマーク艦隊の,幕府との接触までの航跡は?
【回答】
さて,我らがデンマークのBille提督.
彼の立場は,結果的には道化に近い状態だったりする訳ですが,英米仏の三カ国を手玉にとって中立国としてのデンマークを江戸幕府に印象づけ,デンマークの国旗を掲げた船が日本の港を自由に出入り出来る様にすることを目的に,一路,「思いつきで」日本に向けて出港した訳です.
彼は舟山列島を出港し,黄海を横切って,一路日本に向かいます.
彼の手元には,1804年に作成された地図と,最新の英国の地図,1840年に作成されたSieboldの地図に加え,フランスの航海図まで持っていました.
先ず彼は,1804年の地図に掲載されている,Cap.Tschesma,Hoener,Cap.Tschitschagoffを目指します.
最初のが野間岬,次が開聞岳,最後が佐多岬です.
目指す所は其処だったのですが,彼は植民地になりうる島嶼を探すべく,大隅海峡の南側にある種子島,屋久島,St.Claire(黒島),Volcano(硫黄島),Appollos(竹島),Julie(馬毛島),Serigo(岩島)や,その野間岬の北西にある所謂甑島列島の最大の島Meac(下甑島),真南のSymplegaden(鷹島?),そして,フランスの航海図にスケッチされていたSt.Claire北西75kmにあるMorrison's
Rock(宇治群島)を吟味し,フランスの航海図にだけある宇治群島を目指します.
そして,Morrison's Rockの東北東30kmの地点に3つの岩島を発見しました.
本当は,1804年の地図にSymplegadenと記載されていたものだったのですが,その当時の経度計算のミスで,Bille提督は混乱させられ,新島の発見と思い込んで,Niddingenと名付けています.
また,宇治群島の南に2つの島を発見し,AnholtとLaesoeと名付けました.
これらの島は,日本語名称では草垣群島と呼ばれているものです.
これらの島を通過後,航路を佐多岬に向けて取り,硫黄島,竹島,馬毛島,屋久島を南に,開聞岳と佐多岬を北に見,出航後3日で日本近海に近付きますが,暴風に襲われ,7日後に漸く天候が回復し,遠州灘沖浜名湖南に達して,測深などを行っていました.
これは実際は,田原三宅家1万6千石の領地,即ち田原半島の辺りだったりします.
東に進路を変えますが,翌日は再び大嵐,出航後9日目に漸く東にVolcanic(三宅島)を目にし,Broken(新島)を確かめ,午後にVries(大島)を目撃し,遂に念願の浦賀水道を目前にした…と勘違いしていた訳で,実際には,未だ鎌倉沖に停泊していたに過ぎなかったりします.
出航後10日目,再び雨が降り,潮に流された為,岬を越える為に東に向かいます.
三浦半島を回ると,陸から船が何艘もやってきて,武装船に誰何されました.
暫くすると,その船から日本人の隊長がお供を連れてやってきました.
そしてBille提督の船は,20艘ほどの見栄えのしない船に取り囲まれてしまい,彼らは50人ばかりの兵士をBille提督の船に乗船させてきました.
これが,デンマーク人として初めて日本人が公式に接触した瞬間となりました.
隊長は川越松平家の橋本深美,通詞は浦賀奉行所の堀達之助でした.
こうして,日本人とデンマーク人との奇妙な遣り取りが展開されます.
通詞を間に挟み,ドイツ語や低地ドイツ語を駆使し,更に中国で発行されていた西洋人向け日本語辞書を利用して何とか意思の疎通は図れたようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/26 22:10
【質問】
日本=デンマーク間で修好通商条約が結ばれるまでの経緯は?
【回答】
日本が開国して後,1858年に米国や英国,フランス,ロシア,オランダの5カ国と修好通商条約が締結される事になりました.
ならば,中国貿易に乗り出しているデンマークも乗り遅れるな,とばかりに,商業関係者が政府を突き上げ,修好通商条約を結ぶ様圧力を加えます.
しかし正式な関係を結べていないデンマークは,オランダに外交折衝を依頼するしかありません.
1861年3月,オランダ領事のJan Karel de Witはデンマークの全権交渉者に任命され,彼は長崎奉行を通じて幕府にデンマークとの通商条約締結の為,江戸に赴く許可を願い出ます.
しかし,幕府は道中の身の安全を保証しかねると言う理由で彼の参府を断りました.
ところが,1860年,幕府は既にポルトガル,プロシアとの間に修好通商条約を締結しました.
これはde Witにとっても寝耳に水の話で,他にベルギーやスイスとの交渉も察知しました.
前任者のJan Hendrik Donker Curtiusは幕府から,「新たに西洋諸国との条約は締結しない」という言質を取っていましたので,de
Witは強硬に抗議しました.
しかし,けんもほろろに断られ,これらの国々はその方針が示される前から交渉を進めていたのだ,今頃になって言ってきたデンマークとは違う,と言われてしまいます.
結局,de Witを通じた交渉は不首尾に終わりました.
1862年,開港延期を求めるべく,幕府は西洋諸国に竹内保徳を団長とする使節団を送り込みます.
この使節団には他に松井康直,京極高朗,柴田貞太郎が随員としており,通詞として森山多吉郎,福地源一郎,福沢諭吉を英語とオランダ語,立広作がフランス語,箕作秋坪と松本弘安がオランダ語の担当として随行しました.
この際,ハーグで在オランダ大使のP.Bille
Braheが竹内使節団と交渉を持つ様に政府から指令されますが,此処でも交渉に失敗します.
とにかく開港を遅らせたい幕府にとって,新たな貿易関係の締結は邪魔者でしかなかった訳です.
これで一旦デンマークと日本の交渉は停滞を余儀なくされますが,1864年2月には,スイスが日本と修好通商条約を結んだというニュースを知らされる事になります.
デンマークにとっては,日本との通商関係が成立すると言う事は,日本と中国との交易関係に参入できることになります.
当時から,デンマークは優秀な商船隊を育成してきました.
日本との通商関係が成立すれば,日中間の物資輸送に参入出来る様になり,それによる莫大な利益を期待出来る訳です.
デンマークの分析では,日本の幕府は,日本と列強各国との貿易が進めば,場合に依れば英国が清に対して行った様に,アヘン貿易の様な一方的な交易をしかねない事を恐れ,英国とのバランスを保つ為に米国やフランスに接近し,かつ,アヘン貿易に興味を示さないスイスやプロシアの様な国と交易関係を確立させる事で,英国の圧力を回避しようとしていると見ていました.
つまり,デンマークもその「アヘン貿易に興味を示さない国」の一つであるから,通商関係成立の目がある,と見ていた訳です.
加えて,1864年と言えば,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争がデンマークの敗北に終わった年でもあります.
彼の国にとって,この敗北を打ち消し,国としての纏まりを保ち,再び国際社会に復帰する為にも,日本との通商関係を成立させ,国際舞台での成功を勝ち取りたかったと言う側面もありました.
丁度,幕府が,フランスの仲介でイタリアと通商条約を締結する交渉を開始するという情報が届きました.
であれば,以前の約束は完全に反故となっています.
デンマークの通商関係構築は,再び,オランダ公使であるD.de
Graff van Polsbroeckが担当する事になりました.
1865年6月,彼は先ず幕府に対し,デンマークが何時までも通商関係を結べないのは許容出来ないと,脅しを掛ける事にします.
前回は,オランダだけがその交渉の仲介をしていたのですが,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争の敗北で,デンマークが威勢を失い,プロシアの勢力が増した為に,均衡外交を標榜する英国が,これ以上のプロシアとフランスの伸張を嫌って,オランダと共にデンマークの側面支援に当たる事になりました.
1866年2月,英国公使Parkesは幕府に書簡を送り,英国は公式にデンマークを助力すると言う姿勢を表明しました.
3月15日,老中水野和泉守忠清と松平周防守康直,後者は竹内使節団で活躍した松井康直ですが,彼らは幕府が長州征伐で不在である事を言い訳に,デンマークとの通商関係は,日本国民がそれを有利と為すまで待ちたいと言う浮世離れした見解を出します.
既に,3月7日,薩摩と長州は連合して幕府を倒す事を決定しており,幕府は瀬戸際に立たされていました.
8月1日,ベルギーが修好通商条約を締結し,更にイタリアと通商関係を結ぶ為,幕府の全権交渉者が任命される事が判明しました.
Polsbroeckは激高し,1861年から交渉を行っているデンマークを蔑ろにするとは何事か,場合によっては,オランダ本国政府に報告するが,そうなると非常に不愉快な事態を招く事になろう,と恫喝します.
8月18日,翻訳付のデンマーク国王ChristianIX世の書簡が幕府に呈示され,8月22日,Polsbroeckは,幕府の江連加賀守尭則と横浜で会談し,彼は正式にPolsbroeckに謝罪した上で,デンマークとの通商条約締結に向け,将軍の裁可を待つと返答しました.
但しフランスの援助を得ている関係上,イタリアとの通商条約締結の動きも無視出来ないと付け加えています.
8月25日,イタリアとの通商条約が締結されました.
次はデンマークの番…だったのですが,8月29日,徳川14代将軍家茂は急死してしまいます.
こうなると,幕府が将軍の喪だ何だかんだと言い出すのは必至なので,Polsbroeckは9月20日に書簡を発して,幕府側の全権交渉者の任命を願い出,10月4日には江連との会談を行いました.
江連はその席上,新将軍は一橋慶喜となる事を報告し,条約交渉は喪中につき,遅延すると応えますが,Polsbroeckは,英国との通商条約は12代将軍家定の喪中に行ったではないかと食い下がりました.
これは受容れられず,次いでPolsbroeckは条約締結確約の老中の書状を要求しました.
江連も流石にこれには腹に据えかねたのか,国主が亡くなったら西欧でも国中が喪に服するのではないのかと反問しますが,Polsbroeckは,大勢の使節団を載せた軍艦をデンマークも派遣すればいいのかと詰問します.
この話,実はイタリアがこうした手段を用い,僅か11日の滞在で通商条約締結に成功しました.
この例を引いて,軍艦の圧力が無いと日本とは交渉出来ないのか,と皮肉った訳です.
江連は,この皮肉にも動じず,すかさず,Polsbroeckは軍艦一隻に匹敵すると答えています.
この丁々発止の遣り取りの後,やっと10月29日に条約締結をするとの回答が,老中井上河内守正直,松平周防守康直,松平縫殿頭乗謨の連名で送付されてきました.
ところが此処でも引き延ばしに遭い,50日経過しても何の音沙汰もなかった事から,Polsbroeckが催促したところ,12月21日,全権交渉者に外国奉行柴田日向守剛中,栗本安芸守鯤,目付大久保帯刀の3名を指名し,通訳に福地源一郎が当たる事になりました.
しかし,任命の知らせはあっても決定の知らせはなかったので,再度催促した所,12月29日に漸く全権委任状を呈示する事になります.
12月30日,やっと条約の検討に入り,条約自体はベルギー,イタリアと締結したものを元に作成し,条約文は,日本側が日本語2通,オランダ語1通,オランダ側はオランダ語1通,フランス語2通を作成する事で合意,条約本文は,貨幣の条項をデンマーク通貨にすれば良い事,オランダ語条約文はオランダ側で2通用意する事を伝えました.
1867年1月6日,福地源一郎とオランダ領事館の秘書が調整し,1月12日,苦節6年,漸く日本と丁抹の通商条約が調印されました.
これは,イタリアの11日に次ぐ短期間での条約締結でした.
1月30日,将軍のいた大坂に条約締結が伝えられ,2月3日には通商関係にあった各国領事に伝えられました.
これは徳川幕府の調印した11番目の条約で,最後の条約でした.
7月25日,ChristianIX世と首相の署名した条約批准書とPolsbroeck宛の批准委任状を携えて,スイス人de
Bavierが到着し,8月15日,幕府は小笠原壱岐守長行の署名した書状で,小出大和守秀美が全権に任命しましたが,直後に彼が勘定奉行となった為,代行で石川河内守俊政が条約の批准書に名を連ねる事になりました.
10月1日,通商条約は発効の運びとなり,11月1日に在横浜デンマーク領事としてde
Bavierが任命される事になりました.
そして徳川将軍家の批准書は,漆塗りの箱に入れられ,12月16日に国王の名に於て公示される事になりましたが,此の間,11月9日には大政奉還を申し出,1868年1月2日に征夷大将軍が廃止されました.
時代は明治に移っていった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/16 22:23
【質問】
ペリー艦隊来航後,幕府はどのように海軍力強化を図ったのか?
【回答】
Matthew Calbraith Perry艦隊に完膚無きまでにやられた幕府は,今更ながら江戸近郊防備の為に海軍力の整備を企図します.
先ずは手っ取り早くオランダに対し,Matthew
Calbraith Perry来航後の1853年10月には,早くもオランダに対し,軍艦を7〜8隻発注することにしましたが,折も折,欧州ではクリミア戦争が勃発し,局外中立を守るオランダは武器・艦船を輸出出来なくなりました.
この為,1854年9月に発注をやり直し,コルベットを2艘を発注した他,海軍伝習の為の教官団の派遣を依頼することになります.
しかし,それだけでは防備の為の海軍力は不充分であり,1853年7月浦賀の御備船として,老中から浦賀奉行に対し,必要とする軍艦案を提示する様命令します.
それを受け,浦賀奉行は8月に洋式軍艦4隻を建造する案を提示しました.
2隻は先に焼失した下田丸・蒼隼丸の代船で,長さ108尺,幅27尺,深さ18尺,大砲10門搭載の二檣軍艦で,ブリッグ形式の本格的な軍艦,残り2隻は日吉丸・千里丸の代船で,前者よりは小さく軽めに造り,費用は前者より1割減となった応接並びに偵察用の軍艦でした.
浦賀奉行の案は,勘定奉行,町奉行,寺社奉行,所謂三奉行の賛成を得,又,海防掛の抵抗空しく,それ以外の目付にも異論が無かった為,承認されましたが,隻数は下田丸・蒼隼丸の代船1隻と日吉丸・千里丸の代船2隻の合計3隻になりました.
1854年5月には,前者に属する本格的軍艦である鳳凰丸が完成します.
この艦は,隻数が減じられた分,設計を見直したのか,最終的には長さ120尺,幅30尺,深さ19.5尺と一回り大きく,帆走設備もブリッグ形式からバーク形式となっています.
こうして幕府自ら大船建造に邁進した訳で,また,幕府としても大名諸家の力を宛にする必要があり,1853年9月15日,遂に大船建造令の解除を布告しました.
丁度,将軍徳川家慶が薨去し,家定が新将軍に就任する事になり,代替りの武家諸法度の公布があった為,これは第5条に「大船製造可言上事」と独立して定められ,1854年9月25日に公布され,成文化されました.
但し,この大船建造解禁の主旨は第一義として,江戸湾防備の船を建造する事にあり,諸大名家の海防の為の船は,その充足後とされているのが味噌です.
12月5日に薩摩島津家が蒸気船3隻を含む15隻の軍艦建造計画を幕府に提出した折りも,老中阿部正弘から島津家に対し,費用は公儀から下付するので,完成次第2〜3隻の上納を打診され,島津斉彬はこれを了承し,1855〜56年に建造された船のうち,昇平丸など3隻が幕府に献上されています.
また,韮山代官江川太郎左衛門が砲の鋳造と砲台築造で手一杯の為,老中阿部正弘は海防参与に命じていた水戸徳川家の徳川斉昭に対し,領内の蘭学者鱸半兵衛による軍艦建造を依頼し,彼はこれに応え,1856年5月に旭日丸を竣工させました.
これも,江戸湾防備の為の船だったりします.
このほか江川太郎左衛門に命じて,蒸気船の製造を命じましたが,工業的基盤が整っておらず,これについては芳しい成果が上がっていません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/01 23:54
【質問】
日の丸の旗はどのようにして誕生したのか?
【回答】
日本でも国産洋式船が建造され始めると,西洋船との識別が必要となります.
其処で,日の丸が採用される事になる訳ですが,従来の説では日の丸は,1853年11月に洋式軍艦を建造する計画で,日の丸の帆印と白木の垣立を日本船の標識とする事を,薩摩島津家当主島津斉彬が発案したとされていました.
しかし実は,それに先立つ8月初旬,浦賀奉行が幕閣に提出した大型艦の仕様帳に,異国船の識別について,こう記しています.
[quote]
御船御保方宜様惣体白ミツタ塗二仕,帆繰方之儀,異国船似寄候二付,目印之船・帆・艀共惣中黒に仕,本檣上二日之丸御吹貫南蛮小車を以引上,艫二日之丸四半御印相建候積
[/quote]
つまり中黒の船体と帆,本檣上の日の丸の吹貫,艫の日の丸の四半,これが奉行の案であり,奉行所では帆の中黒により幕府船であることを示しているので,日の丸を日本船の標識としている訳です.
9月4日に老中は,軍艦の絵図面を下げ渡して,評定所一座・勘定奉行・大小目付に次の様に諮問しました.
[quote]
船々不紛様日本之惣印ハ旭の丸を附候方ニ可有之哉,右ハ帆印又ハ別段にも印を建候歟,成丈明らかに見分り候様致し,公儀御船ハ其浦々之印,諸家之船ハ其家々の印をも相建候方可然哉
[/quote]
公儀の「浦々之印」とは長崎,大坂,浦賀と言った配備先を示したと思われます.
これに対し,評定所一座は,惣船印は白地中黒の帆印,幕府船は檣上の日の丸の吹貫と日の丸の幟,大名船はその家の印を付けた幟を主張し,大小目付は,紅旭は茜染で褪色しやすい為,惣船印は中黒の帆印,幕府船の船章は日の丸を唱え,勘定奉行は,変色しやすく遠望しがたい旭の丸を不可とし,惣船印は白紺交えの帆印,幕府船は白紺交えの吹貫,大名船は半月の吹貫を勧めました.
評定所一座と大小目付が日本惣船印に日の丸を選ばなかったのは,1673年以来,朱の丸印とか日の丸船印と言えば,幕府御用船の標識となっていたからと思われます.
この評議は万事多難な折から一旦中断しますが,鳳凰丸完成時に再燃します.
1854年6月,再び勘定奉行・同吟味役・目付からなる大船製造掛に前の案を諮問した所,御国総船印は白紺布交えの吹貫,帆印は白地中黒とし,幕府船は日の丸の幟,藩船は在来の印を用いると言う答申が来ました.
これを老中阿部正弘が徳川斉昭に諮った所,日本の日を表す日の丸の幟を日本総船印とし,源氏の中黒を幕府船に用いるべきなのに,逆にするとは不見識だと一蹴されてしまいました.
以後1ヶ月,斉昭と幕府との間で折衝が繰り返された挙げ句,結局,7月9日には日本惣船印は白地日の丸の幟,幕府船は白地中黒の帆印と白紺交えの吹貫を用い,藩船は各家の定めた別の船印,帆印を使う事に決定しました.
その日本惣船印を最初に掲げたのは,1854年5月に完成した鳳凰丸が最初です.
巷説では,12月に完成した薩摩献上の琉大砲船昇平丸とされていますが,実は違っていたりします.
因みに,鳳凰丸は昇平丸より3ヶ月遅く起工していながら,完成は8ヶ月も早くなっています.
これは,昇平丸が造船蘭書,翻訳書に基づき,忠実に洋式造船法をなぞったのに対し,鳳凰丸は異国船の実地見分(例えば,デンマーク船の様な)に基づいて得られた知見を基に,手慣れた和式の工作法を駆使しながら,洋式構造の簡略化を行ったからであるとされていたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/01 23:54
【質問】
日本の戦前の国旗って2種類あったじゃないですか.今でもつかう真ん中に日の丸と,その周りに光がさしてるパターン.
使い分けはなんですか? 光が差してるイメージのほうの国旗は海軍専門ですか?
【回答】
国旗というか,船舶旗と軍旗,或いは軍艦旗です.
日の丸は,元々船舶旗です.
江戸時代初期に,朱印船,回船の表徴旗として使用したのが始まりで,1854年,薩摩藩島津斉彬の建議を受け,幕府が,「異国船に紛れざる様,日本総船印は白地に日の丸幟」と定めました.
維新後,1870年10月3日の太政官布告第五十七号によって,商船規則の中で日本船舶が必ず掲げるべき国旗と定めただけで,厳密に言えば法的に国旗ではありませんでした.
法的に定められたのは,1999年の所謂国旗・国歌法に定められてからのことです.
ちなみに,後述の所謂軍艦旗が定められるまで,軍艦の表徴旗としても使用されています.
旭光旗には二種類有ります.
ひとつは日布,紅日光線章,或いは陸軍国旗と言い,これは1870年5月15日の制定です.
陸軍ではこれを連隊旗として使用されています.
もう一つ,こちらがの方が人口に膾炙していますが,同じ旭日文様でも,海軍の方は制定が遅く,1889年10月7日に公布された海軍旗章条例によって,旭日旗,即ち通称軍艦旗が定められました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
幕末に日本から派遣された留学生は,どんなことを学んだのか?
【回答】
1853年,Matthew Calbraith Perry艦隊が日本に来て,幕府に国書の受け渡しを迫った時,海防掛の陸上砲撃撃退案は破綻しました.
と言うのも,この艦隊は,遠浅の江戸湾に恐れを為して,今までの船が長崎や,精々来て浦賀までで引き返したのに,測深船に護衛を付け,神奈川沖に迄やって来たからです.
海防掛は,地理不案内な異国艦隊が座礁した所を砲撃する政策を採っていたのに,殆ど制海権が無い状態でこうした戦法を採ろうとした所に無理がありました.
結局,この事件を切っ掛けに,海防掛への信頼は地に落ち,大船建造が解禁される事となります.
これは又,現状維持論派の敗北をも意味しました.
こうして,遅れていた分野を一気に取り返す為に,幕府は積極的に欧米への留学生を派遣し始めました.
1860年には,修好通商条約を批准する為,幕府から初めて国外である米国に使節団を送りましたが,その使節団には優秀な学生を同行させていました.
1862年にも,オランダに一団の学生が派遣されました.
そのうち5名が造船から戦術まで海軍関係の科目を専門に学び,2名が法律,経済,国際関係,2名が最新医学,6名が手工業分野での技術習得が目的でした.
このうち,海軍関係の科目を学んでいた5名の中に,榎本武揚と赤松則良がいます.
榎本は,開陽丸の船長含みとして,長崎で学んでいた航海術を究める他,砲術,造船,国際法について学んでいました.
また,赤松則良も航海術を学び,1860年の遣米使節団に参加,オランダで物理,化学,造船を学んでいます.
因みに,前者の生涯は有名ですので其の後は割愛しますが,後者は,1870年に海軍学校の教授となり,1876年から横須賀造船所で軍艦の建造に従事して,最後は中将に上り詰めました.
彼らが留学中の1863年冬,プロシアとデンマークとの間で,シュレスヴィヒ=ホルシュタインを巡る帰属問題が発生しました.
11月にデンマーク国王ChristianIX世が,本国のみならずシュレスヴィヒに適用される新憲法に署名し,その効果がホルシュタインにも及ぶと発表した事で,プロシアとの間に緊張が高まりました.
プロイセン宰相Otto von Bismarckは,1864年2月にプロシアと同盟を組む二重帝国の兵合わせて6万をシュレスヴィヒに送り込み,其の後,ユトランド半島に侵攻します.
結局,デンマーク軍は大敗し,10月に和平条約を結んでシュレスヴィヒとホルシュタインの領有権を手放す結果となりました.
この戦争で近代戦がどの様に戦われるのか,興味を示した榎本武揚は,赤松則良を誘って,戦争術の体験実習を行いに,観戦武官として前線に赴くことを提案します.
彼の提案は受容れられ,若いオランダの下士官2名を引き連れて前線に赴くことになりました.
彼は先ず,ハーグにあるプロシアとデンマークの両国領事館と交渉し,紹介状を入手します.
そして,折しも侵攻の行われる1864年2月に出発しました.
彼ら一行は,オランダ人下士官の提案により,英領インド人に間違われない様工夫を凝らしました.
榎本と赤松は自家製の日本風の上着に羅紗のズボン,大小の刀を差し,長靴を履いて羅紗の帽子を被り,更に背中にはオランダ製の皮のランドセルと言う出で立ちで,その姿は何処でも注目の的となりました.
3月,彼ら一行はハンブルク近郊のアルトナに到着しますが,デンマーク軍は既に南シュレスヴィヒに塹壕を築いた防御線に撤退していました.
しかし,プロシアと二重帝国の連合軍は難なくこれを突破し,デンマーク軍はアルス島とデュビョルの要塞まで撤退しました.
その頃,制海権は圧倒的にデンマーク側にありました.
榎本は,デンマーク海軍が敵陣を砲撃する為に,装甲艦Rolf
Krake号をアルス海峡に派遣したことを耳にしますが,デュビョル要塞が先ず陥落し,デンマーク軍はアルス島のソンダーボルク要塞まで撤退して,両軍は海峡を挟んで対峙する形で漸く膠着状態となりました.
榎本一行がプロシア側前線に着いたのは,デュビョル要塞陥落の3日前です.
全てが混沌とした状態で,観戦武官用の宿もなく,農家の納屋で藁に潜っての観戦でした.
そして,デュビョル要塞が陥落し,アルス海峡を挟んでの対峙で膠着状態に成った為,今度はデンマーク側から観戦することにし,一旦ハンブルクに戻り,オランダ領事からの紹介状を入手して,リューベック経由でコペンハーゲンに着きました.
コペンハーゲンへは陸軍省と王宮を訪れ,町で一泊した後,同国陸軍参謀本部のAbrahamson中佐が引率する形で,ソンダーボルク要塞へと渡ります.
此処でも,ホテルが取れない押しかけ観戦だったので,将校倶楽部で椅子を並べて寝ていたりしますが,彼らの出で立ちは注目の的となり,the
Timesの記者がわざわざ本国に彼らの様子を書き送ったりしているくらいです.
数日間,精力的に彼らは,この要塞の施設,外堡,塹壕を見学し,翌日,アルス海峡に錨を降ろして,プロシア側前線に睨みを利かせていた装甲艦Rolf
Krake号を見学しに行きます.
この船は,スクーナー形帆走設備と蒸気機関を併用した船で,俗に言うMonitorに属する艦になります.
1863年に英国で建造された最新鋭の艦で,68ポンド砲を4門装備し,4.5inの装甲板が艦と砲塔に施されていました.
謂わば,喫水線こそ浅いものの,オランダで建造されていた開陽丸に似た性格の船で,北海沿岸では随一の艦とされていました.
が,陸軍は老朽化した武器を装備して,実力を発揮出来ず,しかも,陸海軍間の不和が災いして完全に役立たず状態に成っています.
兎にも角にも,彼らはこの艦を見学し,翌日はいよいよ前線に赴きました.
狙撃兵の銃弾を避ける為,匍匐前進を行い,途中,Abrahamson中佐がデンマーク軍の陣地の配置並びに地形について説明しています.
彼らの両陣営への滞在は,数日程度と極めて短いものでしたが,両陣営の軍人達にも強い印象を残していました.
また,榎本達もその中でも精力的に軍人達と会話を試みていたことが,様々な記述に書かれています.
この観戦が果たして戊辰戦争や箱館戦争に生かされたのか,極めて疑問が残ったりしますけどね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/30 20:55
【質問】
孝明天皇や、その取り巻きの公家は、攘夷論者ばかりだったそうですが、外国の武力についてはどう対抗することを考えていたのでしょうか?
子供向け歴史マンガに見られるような、本気で「日本は神の国だから」などと思っていた、というわけではないと思うのですが…
【回答】
孝明天皇は攘夷論者でしたが、政務は幕府に委任しているから両者仲良くやろうという、いわゆる公武合体論者でもありました。
要するに「幕府! しっかり攘夷せんかゴルァ!」で、朝廷が自力で攘夷することは出来ないし、その方策を自分で立てる立場でもないが、意見を聞かれれば攘夷を主張する、ということでしょう。
そういう朝廷に幕府が伺いを立てたのが混乱の始まりですが、孝明天皇も幕府が結んだ通商条約は、やむをえない事情があったとして認めました。
運用面では,京都に近い兵庫(いまの神戸)の開港はあくまで拒むなど,頑固な主張もみられますが。
【質問】
新撰組のトップなのに,どうして近藤勇は局長と呼ばれるのでしょうか? なぜ組長と呼ばれなかったのでしょうか?
【回答】
組長とか局長とか名称に意味はありません.
新撰組は会津の一部局でもありませんし,そもそも局長が二人いたことからもわかるように,局長とは取りまとめくらいの意味しかありませんので,上下関係はありません.(日本史板)
【質問】
新撰組質問
1:いつも刀を使っているイメージがあるけど,鉄砲持った相手には鉄砲で応戦したの?
2:現代で言うところの警察っていっているけど,無抵抗の相手は斬らずに捕縛していたの?
3:戦死者はいたの?
4:解散したのは何時?
5:敵は長州藩士&浪人なわけだが,浪人はともかく長州藩士を斬るのはまずくないの?
6:同郷の見回組とは仲は悪かったの?
【回答】
分かる範囲で.
1,戊辰戦争以降を別にして,鉄砲相手の記録はないと思いました.
2,無抵抗の相手は捕縛しています.
3,いました
4,京都で活躍した頃の新撰組は,江戸帰還後の甲陽鎮撫隊への改組およびその後の敗走,永倉達の離脱で解散状態になりますが,そのメンバーの一部が会津戦争および箱館戦争でも新撰組を名乗っています.
最後の隊長は相馬主計という人物で,箱館戦争終了後に政府の捕虜となりました.
このときが完全なる新撰組の消滅ということになります.
5,長州藩士の場合,禁門の変後は,在京していること自体が犯罪行為でした.
6,手柄争いのライバルではありましたが,実質的には警邏地域がまったく違うので,衝突したようなことはなかったようです.
【質問】
伊東甲子太郎(いとう・かしたろう)って誰?
【回答】
幕末の尊皇攘夷論者で,新撰組の参謀格でした.
剣の達人であり,文武に優れ,しかも水戸藩の旗本の息子という良家の生まれ.
後に新撰組から離れることになり,1867/12/13夜,待ち伏せた新選組によって七条油小路にて暗殺,死体は御陵衛士をおびきおせる囮として放置される,という羽目になりましたとさ.
【質問】
薩英戦争(1863/8/15〜8/17)での薩摩,英国双方の被害はどれくらいだったんでしょうか?
【回答】
イギリス側は戦死者13人・負傷者50人,司令官も死んでます.
薩摩側は戦死者5人・負傷者十数人と死傷者はイギリスより少ないんですが,洋式工場の集成館,鋳銭所など城下町の1割を焼失,拿捕された蒸気船はすべて沈められるなど物的被害が大きい.
薩摩が序盤奮闘できたのは,台風で海が荒れてたのも一因です.
日本史板
【質問】
馬関戦争(1864)後の交渉は,どのようなものだったのか?
【回答】
時は幕末.
米英などの連合艦隊に無謀ともいえる攻撃を仕掛けた長州藩は,その後反撃を受けて完敗.講和しなければならないこととなりました.
長州藩の全権には誰がよいか.
藩内でいろいろ議論された結果,当時罪に問われて謹慎していた高杉晋作が選ばれ,高杉以下,伊藤俊輔(後の博文)など長州藩全権団は,連合艦隊旗艦の船上に向かいました.
講和会議の席で先方は,長州領内の海上にある小さな島「彦島」の期限付き租借を,さりげなく持ち出してきます.
高杉は,連合国が提示した他の条件はすべて呑みましたが,領土租借に関しては一歩も引きませんでした.
そしてついに,その条件を取り下げさせることに成功します.
上海に行った際,植民地・清国の惨状を目の当たりにした高杉には,当時は何気なく見えたであろう「領土の期限付き租借」が何を意味するかを,深いレベルで洞察できたようです.
高杉の任務はいわば降伏の使者に当たるわけですが,交渉の席では
「もしどうしてもというのなら,もう一戦してもいいぞ」
と言ったとも伝えられています.
交渉に当たった高杉の胸中にあったのは片々たる小理屈や技といったものではなく,「お家,お国のため」という誠に武士的な思いのみだったと推察されます.
だからこそ,修羅場でもっとも危険なものが見抜け,堂々たる態度で交渉に当たれたのだと感じます.
もし高杉が領土租借を呑んでいたら,彦島は香港やマカオのような植民地になっており,わが歴史は大きく変わっていたことでしょう.
時代背景もあるでしょうが,高杉という20代の若者にこういう芸当をさせた中核にあったのは,やはり,武士道に尽きるように思います.
わが国最大の財産は武士道にある,と改めて感じる次第です.
その後明治に入り,日清戦争でわが国は勝利を収めました.
講和会議は下関で行なわれましたが,会議には伊藤博文(往時の俊輔)が参加しています.
そのとき,長州藩の講和会議のことを問うた人に伊藤は,
「高杉は,なんともえらいやつじゃった」
と目に涙を浮かべて答えたそうです.
往時と逆の立場になった自分の姿と,若くして逝った高杉がなしたことの大きさを改めて思い,感慨無量になったのでしょうか.
なお,以下は,おそらくわが国で,高杉をもっとも的確に評価した小論を含む一冊です.
ぜひご一読ください.
「武士道 戦闘者の精神」(葦津珍彦著,徳間書店,1979)
「自分は困ったと思ったことがない.武士は困ったと思ってはいけない」(高杉晋作)
【質問】
幕末の小説を読むと撒兵とか、撒兵隊とかよく出てきます。
これって、どういう意味なんでしょう? 読みはさっぺい、さんぺい? 今でも使われているんですか?
【回答】
読みは”さっぺいたい”.
幕末期に御家人により編成されフランス式訓練を受けた、幕府直属の近代歩兵部隊のことです。
他に傭兵により編成された「歩兵隊」もありました。
詳しくはこちらで。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/hack/sensou.html
ちなみに撒兵隊の撒兵は、蘭語で工兵の事をサッペウスと言う事から来ているそうな。
英語ではa sapper。
【質問】
「幕末において水戸藩が目立った動きをできなかったのは,『大日本史』の編纂を明治後期まで延々と,藩財政の1/3を使ってまでやっていたからだ.
それを始めた水戸光圀が,その元凶」
というのは本当ですか?
【回答】
それが水戸藩の役目だったのだから仕方がない.
光圀が勝手に始めただけなら,ただでさえ財政圧迫しているのに,明治後期までやるわけがない.
もっとも,水戸光圀公は名君ではなく,とんでもない暴君だった.
放漫財政で藩財政を破綻に追い込み,領民には重税をかけ,仏教を弾圧して多数の寺院を破壊した.
光圀が無茶苦茶したせいで,水戸藩は藩士からの借金無しでは藩の経営ができなくなり,光圀の養子は藩主失格の烙印を押された末に,水戸藩からは将軍を出さないという伝統までできてしまったとさ.テラヒドス.
その結果,失政の責任をとらされるかたちで隠居に追い込まれている.
【質問】
薩長「官軍」の大将をした皇族は征大将軍と言わなかったのですか?
【回答】
東征軍大総督といった。有栖川宮熾仁親王が務めた。
大村益次郎が作詞をしたこの歌の「宮さん」とは有栖川宮熾仁親王のこと。
宮さん宮さんお馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ
一天万乗の 一天万乗の
帝王に手向いする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す薩長士
トコトンヤレ トンヤレナ
【質問】
坂本竜馬暗殺には西郷隆盛が一枚噛んでいたとのことだが,本当だろうか?
本当だとすると,西郷は何故竜馬を?
【回答】
竜馬暗殺自体,その首謀者には諸説あります.
そのうち,西郷関与説は以下のようなものです.
・15代将軍徳川慶喜が大政奉還を申し出たその日,薩長ら武力討伐派は朝廷から倒幕の密勅を得る事に成功する.
龍馬は当初,薩長と手を結び,倒幕運動を進めてきた.
しかし,ここへ来て龍馬は幕府は倒すものの徳川家は存続させる立場に転じたこととなる.
つまり,あくまで徳川家討伐をめざす薩長にとって龍馬は裏切り者,政敵として排除するべき人物となった.
西郷さんを黒幕とする薩摩藩陰謀説を採れば,何がそこから見えてくるのでしょうか?
竜馬の「大政奉還」策にあわてた薩摩藩は,あくまでも武力倒幕.
なのに「大政奉還」戦わずして大政を奉還されては,確かに適わないとなってきます.それでは,幕府を木っ端微塵に退けて,新しい日の本(日本)は生まれない.
薩摩藩にとってあくまでも近代国家とは,各国列強に組するのではなく,武力においても,胆力においても独立した国家を指していたようです.
その為にも,各国にへっぴり腰の幕府が邪魔.これを武力によって粉砕する.
しかし竜馬の考えは,そうではなかったのですね.戦わず,穏便に何事も,新しい政府に譲渡しなさい的な,譲り合いの,のちの近代国家だったようです.
「KAORUBOMBAYE-ALLFORYOU:竜馬暗殺・西郷黒幕説」
(以上,「はてな」から)

【質問】
島原の乱では幕府側に実戦経験者がほとんどいなかったため,大苦戦を強いられたという話をききましたが,してみると太平の世が長く続いた後の戊辰戦争は,戦術的に戦国時代に比べて稚拙だった,ということがあるのでしょうか?
【回答】
海外からの情報は入ってきていましたし,外国人教官による近代軍制教育もありましたから,島原の乱ほどではありませんでした.
それに,その前に天狗党の乱や征長戦が二回に渡ってありましたから,戦いの記憶が全くない状態で戦争を始めたわけではありません.
尤も,幕府や有力大名家ならまだしも,1万石程度の小さな大名家などでは未だに甲州流軍学,と言うところもあったみたいですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
もし江戸城開城交渉が失敗していたら,江戸はどうなっていただろうか?
【回答】
いよいよ官軍が江戸に入ってくるというとき,勝は,江戸住民すべてを退避
(現在の千葉県に)させるための船を準備し,最悪の場合は
「江戸を焼き払っ て敵と戦い,これを殲滅する」
という「江戸焦土戦」の覚悟をもっていました.
――余談ですが,新撰組の甲府行きは,邪魔者を追い払ったのではなく,江戸焦
土戦に呼応する支作戦[中山道ルートの官軍への遅滞作戦]の実働部隊という意味合いがあったと思います.
新門辰五郎らに対し,いざというときには受持ちの各所で火をつけろ等といっ
た具体的な策をいい含めるなど,勝は実に周到な準備をしていたようです.
幸い,官軍の代表だった西郷隆盛との談判がうまくいき,官軍の無血入城が実現
したため,高額の金と手間をかけたこれらの準備は,すべて無に帰しました.
維新後,このことについて聞かれた海舟は
「交渉ごとというのはね,言葉に迫力がないとできねえもんだよ.
幕府代表者の俺が,いざとなりゃあ江戸を焼け野原にするっていう本気の覚悟をしていたから,それが西郷にも伝わり,実のある話ができたんだよ」
ということを述べています.
西郷と勝の談判は,両者の友情にばかり目が行きがちな我々が想像するよ
うな,甘っちょろいものではなかったはずです.
先人の遺産を今に活かすよう心がけたいものです.
【質問】
上野戦争って何?
【回答】
さて,〔2008年〕2月9日.
大山閣下に上野戦争の話を聞きながら不忍池周辺を回ったときに,
「彰義隊ってなに?」
「大村益次郎って?」
「奇兵隊って何?」
と云う,呟きが聞こえてきたのですが…… (w`;
「高校時代,世界史とってたんだから,仕方がないじゃ〜ん」
と云う,呟きも聞こえてきたのですが,安心してください!
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・) < 藤原さんも,高校時代は世界史でした!
/JベタJ \__________
それはともかく,大山閣下から聞いた話と,藤原さんの知識を使って,上野戦争について語ってみたいと思います.
さて, 慶応4年,新政府の代表,西郷隆盛と,幕府側の代表,勝海舟の会談により江戸は無血開城を果たしました.
しかしながら,幕府の意に反して新政府に敵愾心を剥き出しにする連中がいました.
,., .,r.,
,! ヽ,:' ゙;.
. ! ゙;; } せっかく無血開城したのに……
゙; ii ,/
,r' `ヽ,
,i" _, _ ゙;
!. ・ ・,!
ゝ_ x _n;
/`''''''''''''G´。 ,.゚)
! 二つo ,ノ゙
゙''::r--、::-UJ'
゙'ー-‐゙ー-゙'
勝海舟は,この過激分子を穏便に江戸から追い出していきます.
榎本武揚率いる幕府海軍には 「ちょっと,蝦夷地で新国家作ったら? 出来たら,新国王に将軍の従弟でもなんでも王様につけちゃえば?」 と云って追い出し,新撰組の近藤勇には 「ちょっと甲州へ行ってこいや!」 と云って,甲州へ追い出し,幕府陸軍は脱走するに任せ,関東方面の反新政府勢力の力を削いでいきました.
で,結局残ったのが,上野寛永寺の 『彰義隊』 でした.
無血開城後,江戸に入府した新政府軍の兵士の数は3,000名前後.
その数では江戸の治安を守れるワケもなく,治安活動の一端を勝海舟の斡旋により,上野寛永寺になんとな〜く集まっていた,旗本とか侍っぽいのとかの集団 『彰義隊』 に委ねることになりました.
ところがこの 『彰義隊』 治安維持をするどころか,商家から金品をゆすったり,新政府軍の兵への闇討ちして彼らが身に着けていた布を集め,
./\___/ヽ
/ ⌒ |||| ⌒ \
/ (●) (●) \ わ〜い! ボク3つ集めたぉ〜
| 三 ⌒(__人__)⌒三 |
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ /
/ // オレは5個集めたぜ
| :::::::::::(⌒) | | | /
ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー'´ ヽ / /
| | l||l 从人 l||l
l||l 从人 l||l
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、
バン! バン!
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
とやってたもんで,新政府側は,
i'⌒ヽ べ お は
う
〈⌒\_| | き
く ら ら
/⌒ヽ__ :} |⌒|/i、_/`ヽ か
さ み
/⌒| i、_ノ `-' / _ノ !!
で
|__ノ|冫ノ / ヽ-'/
| / / _、-''~"~ ̄~`'''-,,_
| | _,,ノ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ,
/⌒ヽ
`-、__, \ /::::::::::_,,-、/)::))::):::::::::::ヽ、
/ ̄\_/{ iー'/⌒i
\ \/⌒ヽ|:::::/iノ__.〜_(/ |/
|/iノi:::::::ヽ |{ ヽ i、___ノ
/ / ~)
\ .| ヽ `y、__r'i ●ヽ、 __〜
ヾ::::::} ,! `-、__ノ i___ノ(_/
\ { (ソ ヽ`,:-‐'`
トr'`●`ヽ|:::::/ ( |
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'""~ ̄~~""´``\ \
((`‐--‐"ヽ`‐、‐'ノ |/⌒i _、-''
ノ _,、‐(_/
゙'''‐‐‐--、,,_ i`'‐''¨ `''‐'| ,)) _`ー' `''))´
./ /_,、-'' /
`'-、__\ | \// /
 ̄ヲ (( /,,,,ノ | _,、-''‐----
''''゙
""'-,, `'-\
`'-、` 、  ̄ ̄_ _/ ̄ |_,、-''
`'-、,,,______,,,,、-''|
`'-、_ ̄ ̄,、-'' _,、‐''¨
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>{}< |
と思っていた,折も折. 当時,横浜のフランス,イギリス領事館から,
r ‐、
| 仏 | r‐‐、
_,;ト - イ, ∧l英│∧
新政府の諸君!
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、
l 彰義隊のせいで江戸の治安は最悪だ.
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | これでは,その内戦争になる.
│ /───| | |/ | l ト、
|
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入
r ‐、
| 仏 | r‐‐、
_,;ト - イ, ∧l英│∧
さすれば,戦火に負われた住民が,
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、
l 難民となって,横浜へ流れてくる.
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| それでは,
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | ウチラの商売の邪魔になってしまう!
│ /───| | |/ | l ト、
|
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入 |
r ‐、
| 仏 | r‐‐、
_,;ト - イ, ∧l英│∧
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、
l
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)
だから,早くなんとかしてくれたまえ!
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | なんだったら,我々が成敗するよ!
│ /───| | |/ | l ト、
|
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入 |
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧ 外国に介入されるのって,イクないよね……
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u そうだね.
`u-u'. `u-u' あとで何か要求されちゃいそうだし……
と云うことで,幕府,新政府共に 「彰義隊撃滅」 で意見の一致をみる.
ここで,京都から江戸へ派遣されたのが,
_ /⌒ヽ
/ /  ̄ `ヽ
/ (リ从 リ),)ヽ
| | | . ' .Y |
| (| | " ヮ " | | 京都から贈り物がきたぞ〜♪
| ヽ`>,_ .ノ_ノ
|l (⌒) [水] l
|l /| └n/l二二二.l
リ/ `ー`//ヤマト便/)
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大村益次郎でした.
大村に科せられた任務は,
・速やかなる彰義隊の殲滅.
・できるだけ,市街地に被害を及さないように.
と云うものでした.
で,先ず大村がやったことは,
,..-‐‐―‐‐-..,
,-'´ `‐,
,i' `i,
,l l,
,|._ _.|,
〈_``ー=== ╋ ===‐'´_〉 ┌―――――――――――――
l ``ー-.、____ ,...-‐'´.l | 来る5月15日.
ヽ、_| `ー' / `ー' |_,ノ | 上野寛永寺を攻撃します.
/ `‐、_ `ニ' ノ \ < 当日は,ご迷惑をおかけします.
i'´ , |``r===r'´| ,___ヽ_
.| 新政府
.| i,  ̄\/ ̄ | ╋ | └―――――――――――――
と云う看板を寛永寺周辺に立てること
でした.
この看板を見た彰義隊の内で 「なんとなぁ〜く参加していた者」 たちは,15日までに寛永寺から逃げ出します. その数,2千. 要は,寛永寺に篭っていた者の2/3が逃げ出したワケです (w`;
残った1千は,もう新政府に対する敵愾心の塊のような奴ばかり.
しかし,逆に言えば,関東の過激派がこの一角に集結したワケで,これさえ潰してしまえば,江戸の治安も一気に改善されるワケで……
彰義隊の殲滅さえ出来れば,新政府にとって美味しい状況だったワケです.
で,運命の5月15日.
この日,一日で彰義隊の殲滅を目論む新政府軍は,寛永寺正面に薩摩藩,搦め手の谷中方面に長州藩,不忍池を挟んで側面にアームストロング砲を装備した佐賀藩を配置し,根岸方面をワザと開け,その先に敗走してきた彰義隊兵士を捕まえる関東諸藩の兵士を配置して,完璧な布陣で戦いを挑みます.
一方の彰義隊側は,
/ ̄ ̄ ̄ \ ホジホジ
/ ― ― \ 戦争になったら,奥羽列藩同盟が援軍にこないかなぁ〜
/ (●) (●) \
| (__人__) | 旧幕府陸軍が助けにこないかな〜
\ mj |⌒´ /
〈__ノ
ノ ノ
と云う他力本願もエエトコのものでした.
でもまぁ,戦争の準備はそれなりにしており,寛永寺周辺に畳を衝立代わりに並べておりました.
まぁ,誰が教えたのかわかりませんが,畳一枚の衝立では防弾効果がないので,畳を二枚 (二重) にして弾を防ごうとしたのですが…… やっぱりそれではダメで 簡単に貫通 されてしまったようです (w`;
で,彰義隊は,いざとなったら江戸の町に火をつけて市中を混乱に陥れ,その隙に寛永寺からの脱出を考えていたようなのですが,この年の梅雨は記録的な長雨で,しかも当日も雨だったようで,この策は将に,水泡に帰します.
んで,塹壕も掘られたのですが,当時の塹壕は,衛生面の問題もあり,敵側の土を堀代わりに掘って塹壕にしていたそうで,非常に背の低い,寝て銃を撃つのがやっとのモノだったようです.
寝た状態で先込式の銃に弾を込めるのは,実際に実験された大山閣下の話では 「出来るようなものじゃない!」 とのコトなので,当日午後になって,やっとスナイドル銃の使い方をマスターした長州藩により谷中方面があっさりと抜かれてしまうのも推して知るべし,と云うところでしょう.
で,ここが上野戦争の正面となった,
多分この辺りが寛永寺の黒門口.
(成人向け映画館の真横だ!)
2〜300m程? で激しい銃撃戦が行われました.

で,彰義隊陣地から,薩摩藩の陣地を望む.

午前中は薩摩藩と対等に戦った彰義隊ですが,午後になり,搦め手の谷中方面での戦況が思わしくなく,また,それまで不忍池に着弾していた佐賀藩のアームストロング砲が寛永寺内に着弾するようになり,なんだかんだ云っても死ぬのは嫌だし,そういえば根岸方面に新政府の軍勢は居ないしで,徐々に戦意を失って来たトコロで,ええかっこうしぃの西郷隆盛の突撃命令により,薩摩兵が突撃を開始したせいで,黒門の彰義隊は一気に壊走を始めます.
でもまぁ,元気な奴はいるもんで,本殿への石段で,元新撰組の原田佐之助が奮戦し,薩摩兵を2名切り殺したそうなんですが,自身もここで負傷し後送. この時の傷が元で,2日後に死んでしまいます.
で,薩摩兵がこの階段を上りきったとき,上野戦争の幕は下りました.

寛永寺から脱出した彰義隊兵士の殆どは,諸藩の警戒線に捕まり,半年ほど投獄され,こってり油を絞られたあと,解放されそれぞれの生活へ戻っていったそうです. そして圧倒的な新政府側の力を思い知らされたせいで,二度と新政府に歯向かうことはなかったそうです.
新政府側の戦死者は42名.
この数は,一見少ないように思えますが,当時は一般兵士を教育する機関がなかったため兵の補充は難しく,それゆえに重い数字として受けとめられました.
以上が 『上野戦争』 のあらましになるかと思うですが……
ベタ藤原 in mixi,2008年02月17日23:14
つけ加えるとすれば,寛永寺に輪王寺宮殿下がおわしましたので,彰義隊には
「さすがに新政府軍も攻撃を控えるんじゃね?」
という,あま〜い見通しがあったことですかねぇ.
銚子電鉄応援中・大山 in mixi,2008年02月18日
【質問】
すみませんが,長岡城の弱点を教えてください!!
【回答】
戊辰戦争での落城は,攻め手の戦力が圧倒的に有利だったから仕方が無い.
さらに,長岡城は元から篭城を真剣に考慮した防御力はないし,防御といえど城一つで出来るもんじゃなくて,その他の地勢等を考慮した防御戦略が必要で,周辺高地の抑えとかも要るから,この城一つでは何ともいえない.
長岡城は堀直竒によって1605年頃築城が始められたのを,牧野忠成が引き継いで完成させたもの.
つまり,戦国時代が終わってから作られた城なので,防御力は高くなく,平時の政庁に,城としての外観を与えたというくらいのものになってしまった.
その城壁は薄く,しかも低かった.砲兵がそれなりに揃えば,あっという間に破壊されるだろう.
天守閣などない.せいぜいでやぐらに毛が生えた程度で,統一的な防御戦の指揮には不向き.
大規模な備蓄倉庫みたいな施設も見当たらない.真剣に篭城を配慮していないわけだ.
だから,長岡藩は北越戦争で同盟軍に加わった瞬間から,積極的に野戦に打って出た.
郊外の要地を押さえて,官軍が長岡藩の支配領域に入ることを防ごうとしたわけだな.
これは一旦成功はするんだ.
だが,まったく防御の供えのなかった市街西部郊外の信濃川を渡河した官軍の奇襲攻撃によって,長岡城は落城となる.
その後は,市街の北部郊外で連続的な野戦が繰り広げられた.
んでもって,長岡藩兵は市街北東部郊外の沼沢地を渡渉するという奇襲攻撃によって,長岡城を奪還.
だが,長岡藩の命運はここまでなんだな.
指揮を執っていた藩執政の河井継之助が流れ弾で重傷を負う.
連続した戦闘で兵数も激減.
後は官軍の反撃に抗することが不可能となり,長岡城も再占領されることになった.
【珍説】
「今の痛みに耐えて明日をよくしようという『米百俵』精神こそ,改革を進めようとする我々にとって必要ではないでしょうか」(小泉純一郎,2001年5月,初心表明演説)
【事実】
歴史家・加来耕三によれば,歴史の流れの前後を欠いた,無意味な見方だという.
以下引用.
「〔略〕
この挿話――こと歴史学から見た場合,とても今を一所懸命に生きる人の参考にはなりえない.
なぜか? この挿話には,前と後が欠落しているからだ.
物語に前後を加えてみる.
幕末の越後長岡藩7万4千石に,一人の英傑が登場した.河井継之助と言う.
彼は,官軍にも付かず,佐幕派諸藩とも手を結ばず,自藩のみの『中立』を藩是として纏め,官軍側へ談判に及んだ.
もとより認められるはずもなく,佐幕派諸藩と合流を余儀なくされた長岡藩は,結果として三度戦火を受け,継之助は傷がもとでこの世を去り(享年42),藩は降伏するに至った.
この時点で大参事に抜擢された小林虎三郎は,継之助より1歳の年下.『中立』の無謀さを説き,最後まで反対したが,遂に容れられず,閉居していた人物である.
官軍に刃向かって『国賊』となった長岡藩は,石高を一気に2万4千石に削られた.
〔略〕
藩士の家族は三度のお粥にすら満足にありつけず,その惨状を見かねた支藩の三根山藩から,米百俵が送られてきた.
『これで一息つける』と喜んだ藩士達に,虎三郎はこの百俵で学校を立てる,と宣言した.
〔略〕 山本有三の戯曲『米百俵』の言葉を借りれば,次のようなセリフを吐いた.
『――人物がおりさえしたら,こんな痛ましい事は起こらなかったのだ.(中略) 俺のやり方は,回りくどいかも知れぬ.すぐには役に立たないかも知れぬ.しかし,藩を,長岡を,立て直すには,これより他に道はないのだ』
ここが重要であった.
虎三郎は,勇ましい論を説いて『中立』を藩論とした河井継之助と,それを受け入れた長岡藩を,心底から憎んでいた.
あのような論が出たとき,冷静に物事を考え,反対できる人間が多数いなかったことが,虎三郎には悔やまれてならなかった.
換言すれば,彼の作ろうとした学校は,そうしたリベラルな人材を育成する学校であったと言える.
では,その後,虎三郎によって建てられた国漢学校はどうなったのか?
後身は,旧姓長岡中学校と名を変えた.この学校からは,幾多の人物が各界に輩出している.
だが,ここで注目すべきは,そうした卒業生の中に山本五十六がいたことである.
五十六は,
『1年や1年半は存分に戦ってみせるが,その後は責任は持てない』
と公言しつつ,開戦へ踏み込んだ.
後年,井上成美大将は,
『あのとき,山本さんが,戦争しても日本は敗れます,とはっきり言っていれば,日本は開戦にはならなかっただろう』
と回想している.
山本五十六の言動は,幕末の河井継之助とどこが違うのであろうか.開戦時の日本人の多くも然り.酷似したものであったとすれば,小林虎三郎が必死に求めた『米百俵』の理想は,本当の意味で成就したと言えるのであろうか.
歴史を部分=『点』で捉えてはいけない.前後を持った『線』として繋いでこそ,見えてくる真実もあるのである」
(「米百俵≠ノ学ぶ真実」 from 「正論」 '01 Dec.)
【神話】
戊辰の役の末期,榎本武揚率いる旧幕府残存勢力は,蝦夷地に渡り,「選挙」によって総裁を初めとする「閣僚」を選出し「蝦夷共和国」を「建国」した.
この「蝦夷共和国」は,「オーソライズ・デ・ファクトー(事実上の政権)」として列強諸外国からも承認を受けていた.
(「帝國電網省」;このサイトに限らず,他にも
この「神話」を信じている人は多いが・・・)
【事実】
「選挙」って言ったって,「投票」したのは旧幕府軍幹部(今でいうところの将校クラス)だけだからねえ.箱館住民は参加していないし,旧幕府軍でも,末端の下士官とか兵卒は除外.
例えが悪いけど,イラクとかに居るイスラム過激派勢力が,身内だけで指導者や幹部を選出したようなもの.
とてもじゃないが,「共和国」「共和制」と呼ぶのは無理があると思う.
それに榎本軍は,軍資金調達のため,地元住民から何だかんだと税金を取り立てたり,贋金作ってばら撒いたりしていたので,地元箱館での評判は悪かったし.
理想だけは御立派だったが,理想だけではやっていけないのが現実・・・・
あと,「オーソライズ・デ・ファクトー(事実上の政権)」の件は,実際には,以下のような経緯だった.
1:榎本軍,箱館占領.
2:榎本艦隊,箱館に入港した英仏の軍艦に対し,国際法規で定められたとおりの礼砲(21発)を撃って歓迎.
(当時,榎本は海洋関係の国際法規にいちばん詳しい日本人だった)
3:英仏軍艦艦長,榎本を表敬訪問.好印象を持つ.その後,榎本に以下のような覚書を送ってよこした.
・我々は,この国内問題(新政府と旧幕府軍の対立)に関しては「厳正中立」の立場をとる.
・「交戦団体」(戦争遂行可能な独立国家に準ずる団体)としての特権は認めない.
・「オーソライズ・デ・ファクトー(事実上の政権)」としては認定する.
……と言うわけで,榎本に好印象を持った出先の軍艦艦長が,本国の意向を無視して勝手に書いた覚書でしか無かったわけだ.
(英仏両公使は
「彼らはオーソライズ・デ・ファクトーではない」
「交戦団体権を与えるのに必要な条件を備えていない」
と訓令していたんだが)
だが榎本は,この覚書(当然,英語で書かれているが,彼は英語は堪能)を読むなり,
「これは便利な文章だ.いかようにも解釈できる」
とほくそ笑んだ.
彼自身は,この覚書に関し,こう考えていた.
・外交用語では,「局外中立」の場合だけ「厳正中立」と言い,「国内問題」の場合は「内政不干渉」と言う.
(つまり,「国内問題」に対して「厳正中立」などと言う事自体がおかしい)
・「交戦団体」とは,分離独立・政府転覆を企図した場合で,土地よこせなどの実力行使などは次元の低いもので該当しない.
(下で述べるように,榎本自身は,別に日本からの「分離独立」や「新政府転覆」を企てているわけでは無いので,「交戦団体」認定を受ける必要性は無い)
・「オーソライズ・デ・ファクトー」とは,占領を完了し,相当に安定し,ほとんど国家の体裁を具えたものを指す.
今の場合,まだそこまで行っていないが,おそらくは用語不慣れと箱館の好印象のため,不用意に発した言葉であろう.
それはさておき,予想外の好印象を得た榎本は,この覚書を振りかざし,
「我々はオーソライズ・デ・ファクトーなり」
と内外に宣伝したんだね.
当時の日本人の中で,国際法規,特に海洋関係や戦争関連にはずば抜けて精通していた榎本は,自分たちの実態がオーソライズ・デ・ファクトーには程遠い有様だった事くらい,とうに承知していたんだが.
それに第一,榎本の本当の望みは,蝦夷地に,自分が頂点に立った独立国家を創る事ではなく,徳川家を迎えて旧幕府の人々で蝦夷地に渡り,同地を開拓するというだけの事だったんだけどね.
「蝦夷共和国」や「オーソライズ・デ・ファクトー」なんぞは,そこに至るまでの「つなぎ」でしか無かったんだ.
蝦夷地に立て篭る榎本一党を討伐する時,当初,明治政府は,徳川昭武に榎本軍討伐を命じていた.
これを察知した榎本は,徳川昭武が来たら彼に降伏し,そのまま彼と共に蝦夷地にとどまろう,などという事も考えていたという.
その可能性に思い至ったのかどうかは分からないが,徳川昭武の派遣は取り止めになった.
榎本サンは,当時の日本ではずば抜けた国際法通だったし,確かにトップの器ではあったかもしれないが,実のところ,彼にはトップに立つ意思は無かったんだね.
あくまでも
「本当にトップに相応しい人を迎え入れるまで,自分が代行を務める」
という感覚でしか無かったんだ.
明治政府とは別に独立政権(国家)創るのなら,その前の奥羽越列藩同盟の時に,東北諸藩が一致団結していたら,経済的にも,独立してやって行ける「独立国」が創れただろうけど・・・・
(わざわざ皇室分家の輪王寺宮まで迎えて「国王」にするつもりでいたんだから)
ついでに,上記サイトに,もひとつツッコミ.
>フランスは早速,日本への売却を留保していた装甲砲艦・
>甲鉄(ストーンウォール・ジャクソン号)を維新政府側に売却
ストーンウォール・ジャクソン号を維新政府側に売却したのはアメリカですが何か?(笑)
【質問】
五稜郭はなんであんな形になったの?
【回答】
安倍晴明に由来する陰陽道の五芒星によって,日本を鎮護するため……ではなく,設計当初,外国軍との撃ち合いを想定したから.
そもそも五稜郭は,日米和親条約による函館開港を契機に築城された.
設計を担当したのは,蘭学者の武田斐三郎(たけだ・あやさぶろう).
当時,ヨーロッパでは大砲の撃ち合いによる戦闘が一般化していることから,外国軍と幕府が交戦した場合も,そのような戦いになると予想された.
そこで築城もまた,そのような戦闘に対応した,欧州の稜堡式を取り入れた.
武田が参考にしたのは,フランスの城らしい.
当初の設計では,五芒星どころか十芒星だったのだが,幕府の財政難により保塁を半減.……まあ,外国の脅威も低くなっていたしね.
工事もまた財政難により遅れて,1857年から始まって1866年までかかっている.
「徳川埋蔵金」なんて何の話なのやら(笑)
ps. 長野県佐久市にある五稜郭(龍岡城)も,たまには思い出してあげてください.かしこ.

written by 土方歳三(うそ)
【質問】
映画「ラストサムライ」のモデルになったフランス軍人ブリュネは,最終的にフランス陸軍参謀総長になったって本当?
【回答】
ブリュネ関連の各国wikiを見てみると,日本語,英語,ドイツ語では1898年に陸軍参謀総長になったとある.
しかし母国フランスのwikiでは,1898年にgeneral
de division(陸軍少将)になったとあるが,参謀総長になったという記述がない.
日本で一旦,軍を退役し,フランス帰国後に軍法会議にかけられた男が,普仏戦争で軍役に復帰でき,参謀総長にまでなった,というのはちょっと考えられない.
元上官のひきがあったとはいえ.
60歳という退役間近の歳で少将にしてもらった,という方がまだありそうな話.
ということで記述内容については,信頼性に疑問符がつくという気がする.
軍事板
【質問】
明治維新の目的って何? これ↓ってホント?
――――――
そもそも幕藩体制に幕を引き,明治政府が近代国家を作ったのは,武士が戦争を独占する時代を終わらせ,百姓・町民でも武器をとって国防の義務を果たせる徴兵制を実施するためであり,これによって日本は四民平等を達成したのである.
徴兵制と近代国家はセットなのだ.
赤紙を出されるのがそんなに嫌なら,
「幕藩体制に戻せ,民主主義なんかいらない!」
と主張すればよろしい.
――――――小林よしのり in 『SAPIO』 2005/8/10号,p.63
【回答】
まあ,「徴兵制を実施するため」なんてのはトンデモもいいところでしょう.
一般的に言われているのは,「日本の独立の保全」.
アジア全体が植民地化の危機に晒されていましたので,日本もそうされないため,日本を豊で強い国にしようというもので,
「そのためには幕府じゃダメじゃん」
と考えた人たちが勝った,というところでしょうね.
【質問】
諸侯の爵位は,どういう基準で決めたの?
【回答】
戊辰戦争後の実高をもとに決められてたはず.
だから山内家は侯爵だが,江戸期には山内家より石高の多い伊達家は伯爵.
島津・毛利は特例で公爵.
薩長土肥は明治維新の功績大,とされて優遇された.
日本史板
青文字:加筆補修部分
【質問】
これは本当ですか?
「着物の所為で,昔の日本人は殆どが走れなかったそうな.走るのは,飛脚と馬夫とか忍者の特殊技能.
薩摩や長州が鳥羽伏見で圧勝したのも,西洋風の練兵で走り方と鉄砲の撃ち方をよく仕込まれていたから.
明治になると,赤紙で集めてきた兵隊がみんな揃って走れない.最初の訓練は走ることだったそうな.
小学校の制度で,子供の頃から走る練習をしておかないと強い兵隊にならないからと,軍隊の訓練を取り入れたから,それが連綿といまでも体育が軍隊風で体育会系が上下に厳しいとかと,脈を保っている」
【回答】
軍事教練の予備段階として,というのは,体育が学校教育に取り入れられた理由の一つだが,昔の日本人が走れなかったというのは誤り.手を振って走る西洋式の走り方が出来なかっただけ.狂言,歌舞伎,落語など古典芸能における走る動作を見ればわかる.
昔の日本人は同側歩,つまり右足と右手を同時に前に出す歩き方だった.
これは今でも細かい所に残っていて,畑を耕す時の鍬を持つ動作も,剣道の動作も,右手右足が前に来る.相撲の動きもそう.こういう動きを「ナンバ」と言う.能や歌舞伎でも重視される.
もっと言えば,日本人には手を振って歩くと言う身体動作の伝統がなかった.もちろん,走れなかったと言うのは嘘.養老先生と甲野なんとかって武道家が対談でそういう意味の事を言っていたので,一部に誤解があるが,いわゆる手を脚とを連動させての全力疾走ができなかっただけで,日本人的な主観においての走る動作はできた.
ただし,現代の我々の目から見ると,上半身を固めた非常に窮屈な走り方で,全力疾走であっても,現代の小走りに近いフォームだったと考えられている.
日本人は膝関節を多用した歩き方で,股関節を大きく前後に動かす欧米人の歩き方とは,基本的に異なる.歌舞伎の藤娘などの練習で,膝を帯で縛って歩く練習をするが,日本人はわりとこういう状態でも歩けてしまう.股関節を使わない歩き方を日頃からしているから.欧米人ではこうはいかない.
逆に,膝をいっさい曲げずに股関節を大きく前後に動かす歩き方はできない.
日本人がふくらはぎと太腿の前面(大腿四頭筋)が大きく発達し,欧米人や黒人が大臀筋上部と太腿の裏側(大腿二頭筋)が大きく発達しているのはそのせい.
走ると言う行為自体,一見似ているようでも,実は使ってる筋肉とかには大きな違いがある.
だから,欧米人的な意味では「日本人は今も走れない」とも言えない事もない.
いわんや,幕末〜明治の頃はなおさら.
日本人は上半身と下半身の連動がヘタクソで,欧米人や黒人に比較して,僧帽筋※や肩甲骨周辺の筋肉に無意識に力が入り易い傾向がある(肩こりになり易い)ので,火事などでパニックに陥り全力疾走する時は,両手をバンザイした状態で走ったりしたようだ.左右に上手く振って慣性モーメントを得られない以上,上に上げて走る邪魔にならないようにしたのだろうか.
中国の武術でも,本当に威力のある打撃は同側歩なので,モンゴロイドに共通の動きなのかもしれない.
ちなみに,左足を前にして刀を振り下ろすと,相手に避けられた時に自分の脚を斬ってしまう.同側歩にあわせた技が発達したのだろう.
アラブ圏の友人に聞いた話なので確証はないが,アラブでは100年ほど前までは,石を投げる場合はサイドスローやアンダースローしか存在しなかったとか.オーバースローで投げると言う文化が存在しなかったからだとか.
実は野球のオーバースローも,野球発祥の初期の頃は,存在しなかったらしい.より速い球を投げるために,人工的に発明された投げ方らしいのだ.
身体操作の文化は,実はわりと短いスパンでガラッと変わってしまうのかもしれない.
ついでにいうと,今の若い人は西洋式歩行に慣れて来たので,着物を着たときにさまにならない.
そこで,昔は使わなかった数々の矯正用具を使用し,半ば拘束するような着付けをするので,着物は窮屈という話になる.
上半身を動かさず,ということは着崩れをせずに歩くには,能楽や茶道でも稽古して貰うしかなくなって来ている.
春秋の筆法を使えば,日本的な意味では「今の日本人は歩けない」と言えない事もない.
※坊さん(キリスト教か?)の帽子の形に似た筋肉ですね.首の後ろのヤツ.
僧帽弁ってのも心臓にあったなあ...と.
◆◆装備
【質問】
幕末〜西南戦争で国内の各勢力が使っていた銃には,どんなものがありますか?
【回答】
最初に火縄銃に換るものとして導入されたのが,1830年頃のオランダのゲベール銃で,これを国内で盛んに模造し,火縄銃は第二線級兵器になります.但し,1万石程度の弱小大名家では火縄銃と弓という家も多々ありました.
次いで,幕府が購入し歩兵隊の装備としたのが,フランス製ミニエー銃です.
これが戊辰戦争での主力銃の一つとなり,諸藩で使用されています.この銃も,国内で盛んに製造されています.
幕府軍は慶応2年にフランス製シャスポー銃2000挺をナポレオン三世から送られましたが,それは江戸城に保管されたままで,後に押収され,大阪鎮台の教導団で使用されました.他に還納されたものも合わせて,6000挺がありました.
紀州徳川家は,ドイツ製のドレイゼ銃7,600挺を購入し,他の諸藩も合わせると,13,343挺が明治政府に献納されています.
なお,このうち,8,492挺は大阪鎮台の第8,9,10連隊に支給され,その後西南戦争で第1旅団,第4旅団,別動第1,第4旅団によって使用されました.
エンフィールド銃は英国製で,九州から東北諸藩に広く売りさばかれており,前装式エンフィールド銃は12,000挺,後装式に改造されたものは1,500挺,後の調査では更に増え,53,023挺が使用されていました.
なお,明治政府では西南戦争まで使用されています.
ちなみに,彰義隊の装備銃はこれが主力でした.
エンフィールド銃を後装式に改造したのがスナイドル銃で,各藩,特に西方諸家にて良く用いられていましたが数は少なく1500挺程度でした.
このほか,ツンナール(ドレイス)銃(一時大阪鎮台が使用),アルビニー銃(近衛歩兵第1連隊の全部,第2連隊の一部が使用),マルチニー銃(ベルギー製),レミントン銃,ピイポジーマルチニー銃(海軍省に譲渡)など全部で39種類の形式が確認されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
米国製の連射可能なスペンサー銃は,明治3年兵部省が行った全国諸藩の銃砲調査によれば,
彦根藩 528挺
鹿児島藩 1,150挺
あったとされています.
ただし,鹿児島県史第三巻(S16)では1,050挺とあります.
これについて詳しく触れているものには,「軍事史学」通巻49号第13巻第1号 南坊平造論文があります.
ただし,この論文明治維新初期の全国諸藩の銃砲戦力を精査したものです.
問題は,原資料が公的機関のものでなく,閲覧不可能なことです.
また,南坊平造論文では表により銃数の違いがあるので,照合する必要があります.
・西南戦争を記録する会編「西南戦争之記録」第一号(2002.9
),
・大正3年陸軍砲工学校教材資料
にも同一の記録が掲載されています.
ちなみに西南戦争当時,スペンサー銃は長・短合計1,204挺は使用され,115,132発は消費されたとされています.
「征西戦記稿」附表.明治20年 陸軍文庫版などに記載されています.
| ちなみに調練方式は, | |
| フランス式: | 幕府軍の他,土佐山内家,豊津毛利家,鳥取池田家,函館蠣崎家,館林秋本家,彦根井伊家,米沢上杉家,大多喜大河内家など. |
| 英国式: | 薩摩島津家,佐賀鍋島家,岡山池田家,尾張徳川家,関宿久世家,熊本細川家,徳山毛利家,阿波蜂須賀家,高松松平家,高徳戸田家,明石松平家,古河土井家,長尾本多家,岡崎本多家,三上遠藤家,舞鶴牧野家,田原三宅家など. |
| オランダ式: | 水戸徳川家,前橋松平家,高崎大河内家,川越松井家,高遠内藤家,下館石川家,福岡黒田家,小田原大久保家,沼田土岐家,烏山大久保家など. |
| プロシア式: | 紀州徳川家 |
| となっています. | |
眠い人 ◆gQikaJHtf2
スペンサー銃

【質問】
アメリカ南北戦争での戦死者の死因は、ほとんどが銃や大砲によるもので、銃剣やサーベルでの死者はコンマ以下だったらしいのですが、ほぼ同時期に起きた日本の戊辰戦争も、刀や槍による死者は、ほとんどいなかったのでしょうか?
また、戊辰戦争の戦死者数はどのくらいなのでしょうか?
【回答】
概算ですが、鳥羽伏見戦を除いた、東海道東上〜第二次函館戦争までの兵員参加者は164,456名(但し、奥羽列藩同盟の兵員は記録が散逸しており、推定…以下同じ)、戦死者(戦病死、刑死含む)は8,717名、戦傷者は4,718名、自刃163名、婦女子の自刃172名、その他93名、行方不明19名となっています。
戊辰戦争の戦死者に関しては地域によって異なります。
奥羽列藩同盟と戦闘を行なった弱小諸家(津軽とかその辺)は結構刀槍での負傷が多かったようですし、水戸家中の内紛でも同じく刀槍による負傷が多かったみたいです。
対して、会津戦争や長岡戦争になり、西方諸家と対峙すると、今度は銃創による死者が多くなっています
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
維新ものの映画やドラマで,官軍の指揮官が,歌舞伎みたいな赤いたてがみを付けてるのはなぜですか?
【回答】
指揮官の印。味方の兵士が、どこに指揮官がいるかすぐ見分けられるように。
ちなみに赤をかぶるのは土佐藩。
薩摩藩は黒.
長州藩は白。
それぞれ赤熊(しゃぐま)、黒熊(こぐま)、白熊(はぐま)という。
元はチベットなどにいる、ヤクという牛の仲間の毛。
江戸城に秘蔵されていた物を、無血開城後に戦利品として官軍が被るようになった。
ゆえに、それ以前の戦いで官軍が被っているのは、厳密に言えばおかしい。
会津や五稜郭はともかく、鳥羽伏見とかで被ってる時代劇とかね。
【質問】
錦の御旗には意味があったのか?
【回答】
幕府軍の士気を挫く効果があった.
土佐藩脱藩の志士で、後に明治政府で宮内大臣を務めた田中光顕は晩年、その時の様子をラジオ番組でこう語ったという。
「錦の御旗を押し立てて進軍していくと、敵の陣地の守備兵のひとりが、妙な旗を見上げて
『それはなんじゃ?』
と聞いた。
『これは錦の御旗じゃ』
と言う。
不思議そうに
『それはどういうものか?』
と聞き返すので、
『天皇の旗である。我々は皇軍である』
と威張った。
幕府の守備兵は
『それでは我々は賊か』
と青ざめていった。
『そういうことになる』
と答えると,あわてふためいて逃げるように走り去った。
それから幕府軍は戦意を失い、退却していった――」
http://osaka.yomiuri.co.jp/katati/2004/040105.htm
【質問】
日本刀が実際の戦闘では槍等より武器として劣っていたそうですが,なのに何故,戊辰戦争や西南戦争で日本刀が威力を発揮したのか分かりません.
【回答】
戊辰戦争や西南戦争の頃の日本で使われていた鉄砲は,前装式だったり,薬莢が紙製(当時としては珍しくはない)なので雨だと使えなかったり……と,かなり使用に制限のかかる代物.
作動機構がより確実なだけで,火縄銃と大差ない.
射程距離も短く,単発式のものが殆どで,まだ「銃剣」というものが普及してないため,訓練度の高い日本刀を持った人間と戦うと,一発目で相手を倒せなければ,刀の間合いに踏みこまれてあっさり斬り倒された.
このあたりは,スコットランドのハイランダーに苦労したイギリス軍と似ている.
更に鎧をつける習慣が廃れてた(とはいっても和式の鎧は防御力低いけど)ので,例え江戸時代になって細くなった”打刀”でも対人威力は高かった.
つまり「日本刀がよりマシ」だっただけで,「最良」ではないってこと.
【質問】
戊辰戦争で鎧を着なくなったのはなぜか?
【回答】
先祖代々の鎧を着たことにより,被弾して体内に鎧の破片がめり込み、ショックや感染症で死亡した例が多かったため.
後期には皆,鎧を捨てている。
戦闘前に清潔な下着や服に着替えるってのは,それなりの意味がある。
【質問】
日本では,砲身を木で作った木砲が戊辰戦争のころまで使われていますが,木砲ってどの程度の射程があったのでしょうか?
また,海外にも木砲はあったのでしょうか?
【回答】
ぶっちゃけ,実用性はゼロだそうです.その性能は,比較的初期の大砲にすら劣ります.
現在,日本各地で「木砲」として伝えられているものは,実際はすべて花火筒だと言われています.
戊辰戦争のころの新政府軍は,当時の西洋の新型火砲を装備しており,その性能差は絶望的なものでしょう.
◆◆◆海軍関連
【質問】
薩英戦争,下関砲台占拠,黒船来航・・・
この頃,日本の大砲は欧米のものとは比べものにならなかったらしいけど,どの程度の性能差があったのですか?
【回答】
下関・鹿児島で用いられた80斤榴弾砲は,弾量25kgで射程1,400m
彰義隊戦争で用いられた20拇臼砲は,弾量18kgで射程1,300m.
一方,薩英戦争で用いられた英国艦隊の68ポンド前装滑腔砲は射程3,000mですが,
Armstrong砲は,110ポンド砲で弾量50kgで3,600m,40ポンド砲で弾量18kgで3,500m
となっています.
つまり,各大名家の大砲の射程外から発射できるわけです.
ちなみに,島津家の大砲は,6〜80ポンド砲が合計62門,20〜29cm臼砲が10門,その他大筒が10門.
このほかに,18または24ポンド砲を1門搭載した10.9m程度の小さな船が12隻ありました.
これらは,全て前装滑腔砲であり,弾丸は球形中実弾が大部分で,炸裂弾を発射できたのは臼砲しかありませんでした.
当時,この戦争に参加した伊東祐亮は,
「当時,こちらから撃ち出す砲弾は,砲の先端から込めてガタガタと回転させ,それから照尺を定めて漸く発射,その後砲身を綺麗に拭いて,また先端から弾丸を込めると言う,極めて時間の掛かる仕組みだったから,5〜7分掛かって漸く一弾を撃ちだしたものだ.
こんな幼稚な時代だったから,この時英艦から発射された砲弾を見てみんなびっくりした.
未だ見たことのない長さ一尺六寸(45〜48cm)の弾丸を,臍の緒切って以来初めて見たのだから,魂消たのも無理はない」
と,回顧談で述べています.
他にも英艦は鹿児島の街を焼き討ちするのに,ホールロケットというロケット弾を用いています.
下関砲台には,当初30門しか砲がありませんでしたが,後に整備に努め,
18ポンド砲21門,
24ポンド砲27門,
30ポンド砲2門,
80ポンド砲2門,
150ポンド砲1門
で,これらは全て青銅製前装滑腔砲でした.
対して,四カ国連合艦隊の備砲は280門に上っています.
英国艦隊は,
8インチ砲66門,
32ポンド砲64門,
68ポンド砲2門,
110ポンドArmstrong砲7門,
40ポンドArmstrong砲8門
など.
フランス艦隊は6.4インチ前装旋条砲20門程度.
オランダ艦隊は,6.3インチ前装旋条砲8門,30ポンド砲8門など,
米国の民間船は,8インチ砲1門となっていました.
ついでに,砲台守備兵力は2,000名,対する四カ国連合艦隊は総兵力5,000名で,その兵力差で,殆ど損害を受けることなく,兵力2,000名の上陸で砲台を占領し,60〜100門の砲を破壊しています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
薩英戦争で使われたアームストロング砲は,どのくらいの威力があったんでしょう? 彰義隊の戦争で使われたのと同じくらいなんでしょうか?
【回答】
薩英戦争で使用された英国艦船装備のArmstrong砲と,彰義隊相手に使用されたものとは,全く違います.
前者は確かに,火災などを発生させはしましたが,21門から365発の砲弾を発射したのに,14発に1回は故障を起こしたため,英国海軍は後装式から再び前装式施条砲に戻っています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
薩英戦争で使われたのは,110ポンド砲アームストロング砲.ライフリング付き後装砲で50kgの炸裂弾を約4kg飛ばせた.
これは当時の最大の砲68ポンド砲が30kgの丸弾を2.3km程度しか飛ばせなかったのに比べると,圧倒的な性能差だった.
110ポンド後装アームストロング砲,68ポンド前装キャノン
http://www.stvincent.ac.uk/Heritage/Warrior/guns.html
1860年就役の戦艦 HMSWarrior (9200t)
http://www.stvincent.ac.uk/Heritage/Warrior/
薩英戦争の英国艦隊の旗艦はフリゲート艦ユーリアラス Euryalus 35門,2300t
http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Euryalus_(1853)
ただ薩摩藩にとって運が悪かったのは,英海軍がアームストロング砲を装備していたのは,ほんのわずかの時期なのに,そこで戦争をすることになってしまったこと.
1860年に装備され,1863年の薩英戦争他での事故多発が原因で翌年には廃止され,その後20年以上後装砲は使用されなかった.
初期のアームストロング砲には尾栓の構造に問題があり,砲身が過熱して膨張すると尾栓が割れたり吹き抜かれたりして大事故になった.
アニメ画像で詳しく解説している日本語サイトもある.
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/ArmstrongBL/armstrongBL.htm
彰義隊戦争で使われた後装砲については,詳細は不明.
司馬遼太郎氏の小説に出てくる描写はかなりトンデモなので,あまり信用しないように.
【質問】
幕府軍の主力艦「開陽」の性能は?
【回答】
開陽は1863年9月16日にオランダで起工したもので,1865年11月2日に進水,1866年9月10日に仲介した貿易商社に引き渡し,試験の後,12月1日にオランダを出港,喜望峰周りで翌年4月30日に横浜到着.
ところが,オランダ士官が回航し,そのまま教官として残る予定だったはずが,幕府が英国に教官を依頼したので,オランダが艦の引き渡しを拒み,2ヶ月すったもんだの挙げ句,6月22日にオランダに違約金を支払った上,漸く引き渡しを受けています.
艦種 木造3本マスト・シップ型フリゲート.
排水量 2,590t
上甲板長さ 72.08m
垂線間長 68.60m
型幅 13.04m
深さはキール上面から砲甲板まで7.20m
喫水 前部5.70m,後部6.40m
蒸気機関 2シリンダ横置トランクピストン型1基(ピストンの断面積1.958m²,ストローク0.838m)
出力 400NHP(幕府公文書や造船所作成図面では350NHPとしているが,断面積とストロークから410.6NHPの理論値を得られることから,400NHPが正しいと思われる)
ボイラ 角形煙管式4基(圧力20psi(1.4kg/cm²)
速力 約10kts(公試時)
石炭庫容量 400t(全力運転で8日分)
帆面積 2,097.8m²(総面積)
プロペラ前後串形配置のタンデムプロペラ2枚(直径4.826m,毎分回転数58回転)で昇降式(翼幅が通常のものより半分程度で,帆走時の抵抗が減少する利点があり,更に帆走の際は水線上に引き揚げ可能)
完成時の備砲 16cm鋳鋼施条前装クルップ砲×16,30ポンド鋳鉄滑腔前装砲×8,30ポンド鋳鉄カロネーデ×1,12cm青銅ホウイツアー×2,7cm青銅施条前装砲×1,7cm青銅施条前装砲×2,12cm青銅臼砲×2の合計34門ながら,実際にはダールグレン砲を搭載していた部分もあり判然としない.なお,クルップ砲,30ポンド前装砲は砲甲板上に,残りは上甲板上に配置されている.
乗員429名(幕府定めの乗員数であり,造船所の設計上は350名).
以上,出典は,元綱数道著「幕末の蒸気船物語」(成山道書店)からでした.
スペックだけ見ると,開陽は甲鉄より強そうに見えるが,開陽は木造艦,甲鉄は装甲艦なので,防御に関しては甲鉄が有利だね.
あと,開陽は船体の割りに重武装(当初は砲26門だったが,後に追加されて35門になった),
木造船体に新式鉄製艦用の機関を搭載したため,喫水が浅く,アンバランスな軍艦だった.
【質問】
開陽の戦歴は?
【回答】
開陽の初実戦出動は,元綱数道著「幕末の蒸気船物語」(成山道書店)によれば,1868年1月27日(慶応4年1月3日),阿波沖海戦です.
この時,薩摩島津家の春日丸と,現在の徳島県沖で日本初の軍艦同士の砲撃戦を行っています.
とは言え,双方とも損害は殆ど無く,しかも死傷者無く終わっていたりする訳ですが.
幕府の期待を担って就航した開陽でしたが,就航直後,大政奉還と王政復古の大号令という大事件が起こり,徳川300年の治世は終焉しました.
しかしながら,武力で幕府を倒したかったのに,「先手を打たれて」拍子抜けした薩摩藩は,江戸で戦闘行為を誘発させるべく各地で扇動を行い,扇動に載せられた幕府側は,12月25日に薩摩藩邸・佐土原藩邸を焼討しました.
任務を達成し,意気揚々と翔鳳丸に乗って江戸脱出を図る薩摩藩の扇動者たち.
と,その時,彼らの前に,颯爽と(?)立ちはだかった者こそ・・・・
「ひとつ,人世の生血を啜り,
ふたつ,不埒な悪行三昧,
みっつ,醜い浮世の鬼を,退治てくれよ!開陽丸!!」
(註:むろん実際には,こんなコト言ってません)
・・・誰あろうキャプテン榎本武揚指揮する江戸幕府艦隊最新鋭艦・開陽だったのです.
開陽は「不審船」翔鳳丸に砲火を浴びせながら追跡し,そのまま大阪湾に向かいました.
(というわけで,これが「開陽の初実戦出動」という事になると思われますが)
さて大阪湾に到着した開陽は,そのまま大阪湾の警備に就きました.
一方,戦闘回避を望む徳川慶喜は,12月28日に,辞官・納地の受諾を回答.
が,そんな事なんざ知ったこっちゃ無い我等がキャプテン榎本は,翌年1月2日,薩摩藩の平運丸を砲撃.きっと開陽の誇る砲35門の重火力を使いたくてウズウズしていたのでしょう.
このお陰もあって,鳥羽伏見の戦いが発生.
自分たちが戦の発端の一因になった事など,露ほども自覚していないキャプテン榎本,勢いに乗り,阿波沖で薩摩の春日丸,翔鳳丸を砲撃,翔鳳丸は由岐浦で座礁しました(これが「阿波沖海戦」.開陽にとっては「3度目」の「実戦」という事になりますな).
ついに,江戸以来の仇敵・「不審船」翔鳳丸を討ち取った開陽.
それにしても,この頃のキャプテン榎本,なかなか積極的で,旧海軍で言うところの「行き足が有り」ますね.
後の東北での戦いの時にも,これくらいの積極性を見せて欲しかったところですが.
(どっかのバカ殿なんか,さっさと見捨ててね(笑))
この辺りまでなら,映画化しても良さそうですね.
(ちょうど復元艦も有るし)
その後,鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜の江戸への逃亡の手助け(笑)
さらに,この時,艦長榎本武揚は不在だったため,置き去り(笑)
その後の東北での戦いの時も,何もしないで傍観(笑)
あげく,箱館であえなく座礁,沈没・・・・
役立たずにも程が有る(笑)
【珍説】
幕末,鳥羽伏見の戦いの後に,徳川家臣団は大阪城に立て篭もり薩長軍と戦おうとしていた矢先,総大将の徳川慶喜(右写真)が密かに開陽丸乗船,急遽江戸に立ち帰ってしまった.
こうして,第二次大阪冬の陣を回避したのであるが,もし大阪に開陽丸が停泊していなかったら,将軍は江戸に帰ると言わなかったろうし,第二次大阪冬の陣は避けられなかったであろう.
第二次戦では薩長軍が勝つとは限らぬし,明治維新は無かったかもしれない.
大阪港に停泊していたのは,開陽丸の戌辰戦争の第一の功績ではあるまいか.
【事実】
なぜ開陽丸が「大阪港に停泊していた」のかと言うと,江戸から「不審船」翔鳳丸を追いかけてきたため.
この論法で行けば,「明治維新を潤滑迅速に成就させた」「戊辰戦争の第一の功績」は,開陽丸を大阪港まで連れてきた翔鳳丸に帰するんじゃないのか?大石サンよお.
ついでに,
開陽丸は神のようなものに命じられてこの世に生を受け,神のようなものに命ぜられるままに動き,沈んだ.
その結果,明治維新を潤滑迅速に成就させた,と思う.
コレは・・・「開陽丸教」ですか・・・(笑) 「神軍艦・開陽丸」ですか?(笑)
やはり,全ての軍艦に,開陽神は宿っておられるのでしょうか(笑)
【質問】
新政府軍の主力艦「甲鉄」の性能は?
【回答】
造船所 アルマン・ブラザース造船所(仏 ボルドー)
艦種 木造2本マスト・ブリッグ,ラム付2軸装甲艦.
排水量 1,358t
全長 60.00m
垂線間長 47.44m
全幅 10.00m
型幅 9.00m
深さ5.20m
喫水 前部4.20m,後部4.60m,平均4.40m
蒸気機関 横置直動式2基,出力 1,200IHP(開陽の400NHPもIHP換算すれば同程度)
速力 10.8kts
プロペラ 直径3.6m×2(2軸2舵)
完成時の備砲 300ポンド前装滑腔Armstrong砲×1,70ポンド施条前装滑腔Armstrong砲×2
装甲 バッキング厚 チーク材76mm
船体装甲板厚 125〜90mm,32mmの2重張り
(外板の外側に76mmのチーク材の上に装甲板をボルト止めし,その範囲は舷側の全周に渡り,上下方向は喫水線上1.5m,水線下1.2mの錬鉄製で,中央部で125mm,前後部が90mm.この装甲に更に32mmの錬鉄板を張り巡らし,備砲周囲にも140〜102mmの装甲板を張り巡らしている)
ちなみに,この装甲板,廃艦後は,石川島造船所で製作された,浅草発電所用200kW発電機の鉄心材料となったそうです.
以上,出典は,元綱数道著「幕末の蒸気船物語」(成山道書店)からでした.
【質問】
「甲鉄」を官軍が入手するまでの経緯は?
【回答】
甲鉄は,南北戦争当時の南軍がフランスはボルドーにあるL'Arman
Fresres造船所に発注したram付木造装甲艦です.
1864年に実質完成しましたが,北軍からのクレームにより出港が差し止められ,デンマーク海軍に売却,Staerkodderとなりました.
しかし,南軍は,デンマーク海軍からこれを入手し,Stonewallに艦名を変更.
ところが,米国に回航した時点で南北戦争は終了しており,余剰軍艦となった訳で.
さてさて,1861年8月,1854〜1858年に掛けて導入した観光丸,咸臨丸,朝陽丸,蟠龍丸の4隻だけでは海防に不安が残った幕府は,新艦補充のため,米国領事ハリスにフリゲートとコルベット1隻ずつの購入を求め,併せて留学生の派遣を決めたが,当時,米国は南北戦争の最中で,軍艦建造は無期延期となり,フリゲートはオランダに振替(これが開陽ね),留学生もオランダに派遣となりました.
1862年10月,ハリスの後任としてブルーインに再度軍艦建造の件を依頼し,コルベット2隻,砲艦1隻をMexico銀60万ドルで発注します.
このうち,コルベット1隻が富士山丸になる訳で.
しかし,1866年4月5日に富士山丸が漸く引き渡された訳ですが,残りの契約がなかなか履行されないので不審に思った幕府が調査してみると,ブルーインは幕府の注文を米国政府に取り次がず,自分の個人的な仕事として引き受けていたことが判明.
幕府は富士山丸以外の2隻分の契約はキャンセルして,約50万ドルの回収に成功します.
この時,渡米した幕府勘定吟味役小野友五郎を正使とする訪米団は,途中,咸臨丸の渡洋に同乗したM.ブルックと再会します.
彼は,旧南軍に属し,海軍技術士官として,装甲艦Virginiaの設計を担当した人で,彼のアドバイスに従って,装甲艦の余剰艦を探し,結局,
Washington海軍工廠に係留中のStonewallを購入することとし,船価40万ドル,回航費10万ドルのところ,4分の3を支払い,残りの金額で,11インチダールグレン砲1門,新式連発銃を購入(これが無かったらね〜)し,同艦はケープホーン周りで回航され,1868年5月に横浜に到着しました.
が,艦が日本に到着した頃,戊辰戦争が起こったので,アメリカは,幕府側にも新政府にも引渡しを拒否した.
筋から言えば,既に戦争前に購入しているんだから,幕府側に引き渡すのが当然なんだけど.新政府に肩入れしていた英公使パークスは,何だかんだと理屈を捏ねて幕府側への引渡しを妨害した.
そして岩倉具視の努力の甲斐もあって,アメリカはストーンウォール・ジャクソンを新政府側に引き渡し,甲鉄と命名された.
仮に,幕府側に引き渡されていたら,開陽の代わりに榎本艦隊旗艦になっていた・・・・かな?
【質問】
戊辰戦争当時,なぜ新政府側は,幕府が購入した旧米軍艦ストーンウォール・ジャクソン号の入手に躍起になっていたのか?
【回答】
戊辰戦争開始時,新政府軍艦隊は,旧幕府軍艦隊(榎本艦隊)に比べて貧弱だったから.
ちなみに,榎本艦隊の主要軍艦
・開陽(1866年竣工,オランダ製)
排水量2,590t,全長72.8m,幅13.4m,速力10ノット,
兵装:16cmクルップ砲×18門,他17門(合計35門)
・回天(1855年竣工,元プロシア艦を英に転売,次いで米に転売されたのを幕府が購入)
排水量1,678t,全長69m,幅10m,速力12ノット,
兵装:砲×13門
他に4隻の軍艦が有り,これらはだいたい100t強.
コレに対し,ストーンウォール・ジャクソン号入手前の新政府軍艦隊主要軍艦.
・春日(1863年竣工,イギリス製)
排水量1,015t,全長73m,幅9m
兵装:砲×6門
・陽春(1864年竣工,アメリカ製,秋田藩より徴発)
排水量530t,全長55m,幅10m
兵装:砲×6門
この他に軍艦4隻
ハッキリ言って,勝負になりません.開陽どころか,榎本艦隊で二番目に強力な回天とマトモにやり合える軍艦すら無いんだから.
新政府がストーンウォール・ジャクソン号入手入手に躍起になったのも当然でしょう.
岩倉具視は
「ストーン号さえ有れば,"鬼の開陽"は有って無きも同然.開陽無き所に榎本は無い」
などと言っていたそうですが,確かに,そう期待するのも当然ですね.
ただ,甲鉄が新政府軍に就航した頃,"鬼の開陽"は,あっけなく箱館沖で座礁沈没していたので,海軍力は一気に新政府軍優勢になった.
ちなみに,一部で
「開陽が座礁沈没したから諸外国は中立を撤廃し,アメリカはストーンウォールを新政府に引き渡したのだ」
と信じている人がいるが,ぜんぜん関係有りません.
確かに,ストーンウォールが新政府に引き渡されたのは開陽が座礁沈没してから一ヶ月以上後だけど,当時,新政府側は,開陽が沈んだ事を知らなかったし.
◆建軍期 Establishing Force
【質問】
なぜ明治日本は「帝國」を名乗るようになったのか?
【回答】
欧州列強と対等たらんとする姿勢を示すためだという.
以下引用.
明治時代の日本は「文明的」な列強諸国の仲間入りをしようとして,国内の西洋化を決意し,列強諸国に範を求めた.
その際に帝政ドイツが手本として好まれたのも十分理にかなっていた.
日本の君主がエンペラーと自称したのは――イギリスの女王でさえ1876年に(インド)皇帝であると宣言したのだから――それ以下ではヨーロッパ列強諸国の支配者達より自分が劣っていると認めることになるからだった.
天皇は近代的な軍服を着用し,自らが最高司令官を務める軍を閲兵した.
しかし現実には天皇は,伝統的にこうした役割を一つとして担うことがなく,西洋の伝統からすれば君主というより高位の聖職者に近い存在だった.
明治維新後も天皇は,ヨーロッパの皇帝がある程度は行ったように,閣僚同士の間を取り持ったり,政策を決定したりすることはなかった.
それでも,裕仁天皇は白馬に跨り,戦果を挙げた部隊を閲兵することで,帝國に特有の役割を自ら演じきり,日本でも西洋式の概念が確立したことを示した.
西洋の人々には,天皇の姿は邪神にとりつかれているかのように映ったが,それは西洋の世論は当然,天皇の姿にヨーロッパからもたらされた象徴主義を見出したからだった.
異質な文化的環境に言葉や概念が移植されると,同じような用語法や象徴主義でカムフラージュされていても,全く異なる意味を帯びるようになるものである.
日本の天皇制も,こうした犠牲になったというのは,まったくの誇張というわけではない.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.68-69
例えば,「皇帝」という言葉も当初,ローマ時代の状況では,成功を収めた将軍を意味していた.
ローマ期には君主まで意味するようになったが,常に軍事的な意味合いが強かった.ローマ皇帝とは必ず,何よりも軍の最高司令官だったのである.
この千年紀に,西洋の伝統においては,「皇帝」という言葉は他の意味も帯びるようになったものの,軍事的な意味合いは絶えることなく,18世紀以降になると再び新たな力も得た.
ドイツとロシアの最後の皇帝には,軍服