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(画像掲示板より引用)
「U-1速報」◆(2013/05/06) 「韓国自慢の防火対策技術が悲惨すぎる結末を全世界に露呈」 1000年間韓国ソウルを守護した崇礼門の魔力
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中立性の点で疑問がなくもないが,大まかに近代史を掴むために
「アジアニュースまとめ」◆(2013/05/06) 【日韓】韓国国会に「東アジアの歴史認識を正す特別委員会」設置へ-米中欧ASEANらと日本に圧力
「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-13) 閔妃暗殺と織田純一郎
『朝鮮王朝がわかる! 歴代27人の王,500年に及ぶ壮大な人間ドラマ 世界記録遺産『朝鮮王朝実録』をもとに総力解説!』(六反田 豊著,成美堂出版,2013.5)
『朝鮮古代史料研究』(濱田耕策著,吉川弘文館,2012/12/6)
【質問】
戦史を含め,韓国の歴史観には何故トンデモ珍説が蔓延り易いのか?
【回答】
産経新聞ソウル支局長,黒田勝弘によれば,事実はこうあるべきじゃないという「べき論」的史観で固まっているという.
したがって,「べき論」によって事実を認めたくないあまり,史観が狂うのではないかと思われる.
以下,黒田の発言を引用.
井沢元彦 その歴史認識ですが,韓国は清国を単に宗主国として位置付けています.
どう考えても属国の位置に置かれていた.
それを解放したのが,いわゆる日清戦争の勝利ではないですか.
ところが韓国では,そうとは絶対に教えていない.
その点を韓国人はおかしいとは思っていないのでしょうか?
黒田 専門用語では「服属」ですが,日本の新しい教科書がそういう表現を使ったのはけしからん,直せと対日要求項目の1つになっている.
まあ,一般の人々は,中国の支配下にあったと思っています.
〔略〕
黒田 日本のおかげで「中国のくびき」から解放されたという事実を認めたくない,あるべき姿じゃないとの「べき論」的歴史観で固まっている.
〔略〕
黒田 韓国は今に至るも,学問的に,圧倒的に日本の影響,日本のものが残ったわけです.
例えば,辞書,事典のたぐいは殆ど,日本のものからの重訳です.ロシア文学からギリシャ神話から,あらゆる世界の古典もそうです.
韓国の知的社会は,そういう土台の上に形成された.
それを,先生方はみんな知っている.
しかし,それを絶対に教えないですね.
〔略〕
黒田 日本の知的財産を利用して韓国の知識世界が形成されたため,近年,それに対する自己批判というか,自らの手で辞書を作ろう,自分達で原典から直接翻訳しようという動きや声が出てきました.
その際に,こういう論理になるんです.他者の,しかもあろうことか日本の知的財産を密かに利用して,学生達に教え,自分の業績を打ち立ててきた旧世代はけしからん≠ニね.
そこには,日本の知的世界のこの社会における貢献については認めたくないし,言及しないという意識構造がありますね.
――――――『SAPIO』 2003/11/26号,p.93
▼ このような状態になってしまう背景として,日本のそれとは大きく異なる,韓国人の歴史観がある模様.
木村幹・神戸大教授(朝鮮半島地域研究)によれば,韓国では歴史的事実よりも,歴史に関わる「物語」が重視されるのだという.
そこでは「民族」の価値が強調され,そうした歴史観にそぐわないと「歴史の歪曲」と見なされてしまう,と木村は述べている.
以下引用.
――――――
私事で恐縮だが,一昨年からはじまった「第二期日韓歴史共同研究委員会」の研究委員なるものを引き受けてから,もう1年半以上になる.
委員会には,古代史部会,中世史部会,近現代史部会,そして教科書小グループの四つの下部委員会があり,筆者はそのうちの教科書小グループの研究委員を務めている.
そもそも日韓間で最初に本格的な国家間プロジェクトとしての歴史共同研究が始まったのは,2002年のことであった.
第一期の委員会には,筆者も研究協力者(委員の下で研究に従事するもの)として参加させていただいた.
こうして開始された「第一期日韓歴史共同研究委員会」は,2005年に報告書を提出して終了し,2007年からは第二期の委員会がはじまった.
筆者も目出度く(?)研究協力者から委員へと昇格した.
しかし,仕事は厄介であった.
すぐにわかったのは,日韓の間では,歴史教育の目的が全く異なる,ということだった.
日本では一般的に,日本史や世界史に関わる「事実」を教えることに重点が置かれている.
だから,各種の教科書から一定の「物語」を読み取ることは難しいし,また,教育現場でもその読み取りは重視されない.
しかし,韓国では歴史的事実よりも,歴史に関わる「物語」に重きが置かれている.
そこでは,「民族」の価値が強調され,近代史でも,如何に韓国人が日本に抵抗したかが,重視される.
日韓の教科書の違いには,「歴史観」の違いが表れている.
例えば,韓国人が歴史問題などにおいてよく使う言葉に「歪曲」がある.
注意すべきは,この言葉が「歪曲された事実」という形だけでなく,「歪曲された歴史観」という形でも使われることだ.
そこには,「絶対無二の歴史観」が存在し,それ以外の歴史観は,事実の如何に拘わらず「誤りだ」という認識が存在する.
――――――読売新聞 2009年1月19日<日韓共同研究 歴史教育 目的に違い>
▲
韓流誇大妄想史観の一例
(画像掲示板より引用)
【質問】
韓半島の歴史を,3行で教えてください.
【回答】
前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め,後に周王朝がこれを侯国に封じたのが,同地の国家の始まりで,その後,三国時代等を経て,936年に高麗が半島統一.
高麗は13世紀,モンゴル帝国に降伏するなどして衰えると,1392年に李成桂によって滅ぼされ,李成桂は李氏朝鮮を建国.
1905年に日本の支配下に入った後,1948年に南北それぞれ独立し,1950年の朝鮮戦争を経て,現在に至る.
<戦史略年表>
前12世紀 箕氏朝鮮興る
前194 衛氏朝鮮建国
前108 前漢の武帝,衛氏朝鮮を滅ぼし,楽浪郡など郡県設置
前57 朴赫居世,半島南部に新羅建国
前37 朱蒙,卒本地方(現在の中国の桓仁)に高句麗建国
前18 朱蒙の子,温柞,百済建国
150頃 馬韓・弁韓・辰韓の勢力強くなる
206 後漢,公孫康が帯方郡設置
313 高句麗,楽浪郡を滅ぼす
314 高句麗,帯方郡を亡ぼし,中国の郡県支配終わる.
391 高句麗,広開土王即位
612 高句麗の乙支文徳将軍,薩水で隋軍を撃破(薩水大捷)
645 高句麗,安市城の戦いで唐軍に勝利
660 新羅・唐の連合軍により百済滅亡
662 白村江の戦い
668 高句麗滅亡
676 新羅,三国統一.高句麗の北半分は,唐の領土となる
698 高句麗の将軍出身の大祚栄,震国(後の渤海)建国
713 国号を震国から渤海へと改める
896 赤袴の乱
900 甄萱,後百済を建国し,現在の全羅道と忠清道を支配
901 弓裔,後高句麗を建国し,後三国時代始まる.
918 王建,弓裔を追放し高麗建国
926 契丹により,渤海滅亡
935 新羅の敬順王,高麗に投降し新羅滅亡
936 高麗,後百済を滅ぼし後三国統一
993 契丹の第一次侵攻.高麗国境を襲うが,のちに和約.
1009 康兆の政変:武臣の康兆が王権交代を図るが,後に契丹に殺される
1019 帰州大捷:契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退
1107 尹グァン,別武班を率いて女真征伐
1126 李資謙の乱
1135 妙清の西京遷都運動,金富軾の官軍に鎮圧される
1170 武臣政変:文臣中心から武臣政権になり,権力争い起こる
1176 公州(忠南道)鳴鶴所の亡尹・亡所尹が公州占領する民乱起こる
1179 慶大升,都房(私兵集団)政治を始める
1182 全州(全羅南道)民乱.官奴が中心になり州の官吏を襲撃
1198 万積の乱:公私奴隷開放を掲げ,開京で乱を起こそうとするが,失敗
1231 蒙古の使者殺害を機に,蒙古が高麗へ第一次侵入.後,講和.
1259 高麗,蒙古軍に降伏
1270 三別抄(精鋭軍隊)の対蒙抗争.開京遷都に反旗を翻すが失敗
1359 紅巾賊侵入(〜1361)
1364 高麗,倭冦対策で倭人万戸府設置
1376 崔瑩,倭冦征伐
1377 崔茂宣の建議で火薬武器製造(火トゥ都監設置)
1380 李成桂,倭冦討伐
1388 威化島回軍.李成桂反対派の崔瑩を除去.昌王を王位に就ける
1389 対馬倭冦征伐
1392 李成桂,高麗を滅ぼし,李氏朝鮮建国
1398 第一次王子の乱:五男芳遠,世子冊封に不満を抱き反乱
1400 第二次王子の乱:芳遠の実兄,芳幹の乱.芳遠により鎮圧
1419 応永の外冦:倭冦の被害に対し,対馬を攻撃
1433 女真族の侵入を防ぐため,鴨緑江方面に四郡設置
1437 北方防衛のため,豆満江方面に六鎮設置.
1467 李施愛の乱
1506 朴元宗の乱:燕山君廃位追放.晋城大君が中宗に即位
1510 三浦倭乱:三浦で起こった日本人居留民の暴動事件.日本との通交中断
1519 己卯士禍:趙光祖の改革に対する中宗と勲旧勢力の親衛クーデター
1554 倭冦と女真族の侵入に備える軍事機構として,備辺司設置.
1555 乙卯倭変.三浦倭乱による貿易規制に対し,倭人が全羅道の一部を占領
1559 林巨正の乱:民衆を代弁する義賊の乱(〜1562)
1592 壬辰倭乱(文禄の役)
1597 丁酉再乱(慶長の役)
1623 仁祖反正:西人派が北人派を一掃し,仁祖を王に擁立する武力政変
1624 李ファルの乱:仁祖反正後の論功行賞に対する不満
1627 丁卯胡乱:後金(後の清)鴨緑江を越え侵入
1629 平安道・黄海道の流浪民の明火賤集団により漢城攻略
1636 丙子胡乱:清が君臣関係を要求し侵略.世子を人質として清へ送る
1646 林慶業の乱:下層民衆反乱
1654 第一次羅禪(ロシア)征伐:黒龍江へ侵略した羅禪を,清の要請で撃退
1658 第二次羅禪征伐:朝鮮の鳥銃軍,再度ロシアを撃退
1688 京畿道楊州で弥勒信仰者が漢城に侵攻しようとするが失敗
1697 義賊,張吉山の乱
1728 李鱗佐の乱:政界から追放された過激派勢力が政権を奪取しようとする
1811 没落両班,洪景来の乱.農民とともに平安道で起こる
1845 イギリスの軍艦サマラン号が済州島と西海岸を測量
1846 フランス軍,カトリック教弾圧に抗議し忠清道に入り書簡を渡す
1866 平壌洋擾:アメリカの武装商船ゼネラル・シャーマン号焼打ち
1871 辛未洋擾:アメリカの艦隊が江華島に侵入,撃退
1875 日本の軍艦雲揚号江華島へ侵入.武力示威を展開.永宗島占拠
1876 日本と江華島条約(日朝修好条規)締結
1882 壬午軍乱:旧式軍隊への差別待遇に対する不満爆発
1885 巨文島事件.イギリス,巨文島を占領し,ポール・ハミルトンと命名
1897 「大韓帝国」宣言
1905 乙巳条約締結され,日本の保護国となる
1907 朝鮮軍隊解散
1908 義兵,ソウル近郊まて侵攻するが,日本軍の反撃で撤退
1909 安重根,ハルピン駅で伊藤博文射殺.翌年旅順で処刑
1910 韓日合併条約調印
1942 朝鮮での徴兵制実施
1945 8.15光復:日本の降伏により植民地支配から開放
1948 済州島暴動
大韓民国政府樹立.李承晩大統領就任
半島北部でも北韓単独政府樹立
1950 米韓相互防衛条約
朝鮮戦争勃発
1953 板門店で休戦協定調印
1961 クーデターにより朴正熙軍事独裁政権誕生
1965 韓国軍のベトナム派兵開始
1968 1.21事態:北の武装工作隊,ソウル市で交戦
北朝鮮,米国の情報艦艇プエプロ号を拿捕
顕忠門国立墓地にて朴大統領暗殺未遂事件
青瓦台事件:北朝鮮特殊部隊による大統領官邸襲撃未遂
1973 金大中事件:金大中,東京にて拉致され,ソウルで解放
1974 在日朝鮮人青年,文世光による朴大統領狙撃事件.陸夫人死亡
非武装地帯南側に,北朝鮮側からの地下トンネル発見
1976 板門店蛮行事件:ポプラ下枝伐採をめぐり米将校が殺害
1977 非武装地帯の北側に迷い込んだ米軍ヘリコプター撃墜
1979 10.26事態:金載圭KCIA部長,朴正熙射殺
全斗煥,軍事クーデターで実権を掌握
1980 光州民主化運動.戒厳軍の介入で鎮圧.多数の死者を出す
1983 大韓航空機撃墜事件;ソ連領内に迷い込んで撃墜さる
アウンサン廟全斗煥大統領暗殺未遂事件
1986 金浦空港爆弾テロ事件
1987 大韓航空機爆破事件
6.29宣言:新しい民主憲法公布され,軍事独裁終わる
1991 南・北韓,国連同時加入
金正日書記,軍最高司令官に就任
1992 IAEA査察団,北朝鮮の寧辺の核施設を査察
1994 金日成主席死去
1996 韓国東岸で北朝鮮潜水艦発見
1997 北朝鮮高官,黄長Y,韓国へ亡命
1998 金大中大統領就任.対北韓包容政策表明
北朝鮮の潜水艇,韓国東海岸で発見.乗組員全員死亡
北朝鮮の東部沿岸から「テポドン」ミサイル発射.日本上空を越え三陸沖に落下
1999 韓国西海の北方領海を北朝鮮警備艇が侵犯.韓国海軍と交戦となり退却
2001 金正男(金正日総書記の長男)の日本密入国騒動
2002 西海・延坪(ヨンピョン)島西方海上で,南北海軍の間で交戦
金正日総書記,日本の小泉総理と平壌で首脳会談,日本人拉致や不審船の行為を認める
北朝鮮,IAEA査察団を国外退去させ,核施設稼動準備はじめる
2003 北朝鮮が核開発表明,日米中韓などで6カ国協議
2005 北朝鮮,核兵器製造・保有を公式に認める
2006 北朝鮮,テポドン2を含むミサイル7発を発射.日本海に着弾
北朝鮮,地下核実験を実施
2009 北朝鮮,ミサイル発射.日本上空を通過し太平洋に落下
2010 韓国哨戒艦「天安」撃沈事件
延坪島砲撃事件.
金正恩が人民軍大将,党中央軍事委員会副委員長に選任される
2011 金正日死去
【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/seung/korea/nenpyou.html
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Korea
http://www.wombat.zaq.ne.jp/zenchokyo/Chosensi.html
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/d02_korea/korea.html
http://www.d2.dion.ne.jp/~yoo1tae5/korean/koreahistory1.html
【ぐんじさんぎょう】,2012/06/18 20:10
を加筆改修
檀君は?(笑)
御座候 in mixi,2012年06月06日 22:28
人類発祥からやらないと(笑
ゆずこせう in mixi,2012年06月06日 22:41
え? 朝鮮半島でビッグバンが始まるところからじゃないの?(笑
さかきまもる in mixi,2012年06月08日 19:31
【質問】
韓国人は単一民族なのですか?
▼ 【回答】
韓半島(朝鮮半島)では,石器などが発見されていることから,数万年前から人が住んでいたと思われるが,現在の朝鮮民族との直接のつながりは明らかでない.
朝鮮民族の起源については,西暦元年前後に韓半島に南下してきたグループが,その基礎.
元々,韓半島には,高句麗人,百済人,伽耶人,新羅人が住んでいて,済州島には済州人が住んでいた.
考古学的に証明できるのは高句麗から――衛氏朝鮮は証明できていない――で,4世紀頃までに,鴨緑江付近で興った高句麗が南下して,楽浪郡(漢の領地)を滅ぼし,韓半島は北部の高句麗,南部の新羅,百済の三国が対立する三国時代に入った.
(更に南には,日本と深い関係があったとされる任那を含む加羅連合があったが,後に解体され,新羅に統合された)
この百済・高句麗等は,満族の系統に分類されるツングース系他民族国家だったとされている.
高句麗・百済の支配層は扶余系とみられ,新羅とは別系統の言語を話した.
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされており,このことから言語をもって民族の基準とすると,朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる.
しかしながら,新羅自身も『三国史記』によると,4代目の王が倭国北東から渡来した王であったり,『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王が派遣されていたという記述があるなど,朝鮮民族としての意識の形成が,いつ頃から生じたものかは不明瞭.
この新羅は『梁書』新羅伝によれば,雑多な系統の移民から成る多民族国家だった模様.
6世紀中頃に加羅諸国を滅ぼして吸収し,次いで唐と同盟を組んで,百済や高句麗を滅ぼした後,唐を追い出して,まんまと韓半島全域を手に入れる.
これにより新羅人は,半島全域に分布を広げた.
しかし5〜6世紀ごろから,今の韓国・朝鮮人である,高麗人(コリアン)が進入してきて,彼らが半島の新たな支配者となった.
だから,彼らは韓半島に後からやってきた新参者で,韓半島の原住民ではない.
高句麗人,百済人,伽耶人,新羅人は,それぞれ支那,満州,日本に亡命したり,衰退したり,滅ぼされたりしている.
済州人は高麗人によって滅ぼされた.
しかし9世紀末になると,新羅の国力は衰える.
すると,百済・高句麗の再興を図る勢力が出てきて,後百済・後高句麗・新羅の3国が鼎立,後三国時代となる.
このうち後高句麗から918年,高麗が興る.
高句麗後期も「高麗」を正式な国号としており,建国した王建は後高句麗の将軍だったので,区別をつけるために王氏高麗とも呼ばれる.
そんなわけで高麗も高句麗継承を主張.
同じく高句麗継承を主張した渤海の亡命者を積極的に受け入れ,渤海が滅びると渤海の旧領領有を計画したり,『三国史記』や『三国遺事』を編纂したりしたことを重視すると,朝鮮民族としての民族意識の萌芽は,高麗の時期に形成された可能性が高い.
その後,モンゴル人の支配時期には混血化が進み,その前後に中国人とも混血が進み,ほぼ現在の朝鮮民族と同様の民族が成立する.
民族としての純血がどうこう言う主張は,遺伝子検証すれば科学的に与太話だと証明できちゃうよね,現代では.
もし遺伝子的に嫌いな民族の血が混じってると証明されたら,自決でもするのかね?,過激なレイシストとかは.
なお,「民族」は遺伝子学的にではなく,民族意識をもって定義されるのが通説的.▲
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97▲
【質問】
檀君(タングン)神話は真実なのか?
【回答】
神話はしょせん神話.
実在説は,イデオロギー過剰のトンデモ説に過ぎない.
出土品には明らかに後世のものが含まれていたり,年代測定に疑問があったり,あまりにもご都合主義な「人骨発見」だったりしている.
以下引用.
雄山閣といえば,歴史学書出版の老舗である.
そこから発行されているトンデモ本のタイトルは「朝鮮民族と国家の源流――神話と考古学」.
「考古学選書」シリーズの一冊となれば,あくまで学問的なものと思うところだが,学術用語の並んだ内容をよく検分すると,これが実にキテルというかイッちゃってしまっているのだ.
1993年1月から2月にかけて,偉大なる首領の指導のもと,平壌近郊江東(カンドン)郡文興(ムンフン)里大朴(テバク)山の陵墓から2体の遺体が発見され,科学的調査の結果,紀元前3010年のものであると判明した.
これは,朝鮮建国の祖,檀君王が実在したことを証明するものであり,遺骨は王とその妃のものと結論された.
いや,そもそもこの調査の目的こそ,檀君実在の証明であり,その陵墓の発見であった.
しかし,この陵墓の形状は,紀元前一世紀に建国された高句麗の様式とそっくりであり,出土品には,中国でさえも紀元前1000年以後にようやく使われるようになった青銅器(帯金)までが含まれていた.
ちょっと待てよ? 紀元前3000年と前1000年じゃ,2千年の違いがある.
ここでどうやら,この「発見」の歴史的「意味」がうっすら見えてくる.
すなわち,わが古朝鮮帝国は,東亜の中心を僭称する中国より千年も古い歴史的大文明だったのだ.
ところがである.
陵墓には,科学的年代計測の結果以外の,時代を示す確たる証拠は残されていないのだ.
では,なぜ檀君の陵墓だと分かったのか? 実は1936年には,檀君を敬う民間の有志によって,こここそが檀君だとする改修工事が行われ,その記念碑は一部破損しながらも現存していたのだ.
ところで,肝心の遺跡の詳細は,今世紀初頭の文献によれば,日本人が盗掘,「古仙人」が掻かれていた壁画が消し去られたりしたため,以後は全く不明なままになったらしい.
この「古仙人」が檀君であることは想像に難くない.(「朝鮮民族と国家の源流」149ページ)
証拠はあった.日帝が全部ぶちこわしたのだ.
無敵の論理である.
最初の陵墓改修が行われたのは,日本ではファナティックな愛国思想のもと,かつては素朴な信仰の対象だった,いわゆる神武天皇陵を,荘厳なる姿へと改修させる作業がちょうど完了したばかりの時代のことである.
ただ,1993年に発掘された檀君とその妃の遺骨には奇妙な点があった.
同様の年代と思しき周辺の遺跡には,この2体ほどに完璧な遺骨は過去発見されたことがなかったのである.
そこで,檀君遺骨発見ののち,1993年から1994年にかけての平壌近郊では,大規模な調査・再調査が行われることになった.
結果は,ああら不思議.とうに詳しい調査がなされた地域から,「檀君と同時代」と科学的に証明されることになるはずの遺骨ならびに遺品の大量出土であった.
かくして,1993〜1994年以後,こうした時代錯誤に辻褄を合わせるため,従来の公認歴史学・考古学は,全面的に書き換えられることとなった.
〔略〕
なぜなら,金日成主席が,
「われわれは,主体的な立場から檀君と古朝鮮の歴史で,歪曲されたり誤ったものを,すべて正さなくてはなりません」と述べた.(前掲書)からだ.
〔略〕
さて,檀君とはいかなる王か,あるいは神か?
13世紀に成立した「三国遺事」(1280)によれば,天孫の子,桓雄(ハンウン)(または「恒雄」)が天井から降臨,その子,檀君王険(タングンワンゴム)(または「檀君」)により,紀元前2333年に古朝鮮帝国が成立したとされる(金両基「韓国神話」,青土社).
〔略〕
日本の敗北による独立回復(光復)後は,南北どちらの政権においても,あくまで公認の史観においては,「三国遺事」の記述そのものは純然たる伝説にとどまるとされた.
それも当然だろう.同書によれば,檀君の寿命は1908年にも達したとされるのだ.
ただし,こうした伝承そのものは,紀元前10〜8世紀に古朝鮮部族連合が成立したのを反映しているというのが定説となった.
〔略〕
歴史の見直しに当たって,まず問題となったのは,檀君遺骨の年代測定が「三国遺事」の記述よりも遥かに古いことだった.
このため,引っ張り出されたのが,反政党派の稗史,民間に伝えられる「揆園史話(キウォンサハ)」,「檀君古史(タングンコサ)」,「桓檀古記(ハンダンコギ)」,「檀君世紀(タングンセギ)」,「太白逸史(テバクイルサ)」などの「歴史」文献だった.
ついで93年の暮れには,石器時代の岩絵や土器,古墳出土の陶器,磚(せん,敷き瓦)などに記された紋様をハングル以前の古代文字(神誌文字)だとする異端学説が,これまた公認のものとなった.
甲骨文字以前の民族固有文字.ハングル(訓民正音)は,1433年,世宗(セジョン)王によって作られた.
民族固有の文字としては,当然,中国の漢字や日本のひらがなよりも後のことになる.
日本や中国におくれをとるとは,これは民族の教え,偉大なる主体思想に反するものではないか!
そこで引っ張り出されたのが,「寧辺志」なる史料に残る文字らしきもの16個だった.漢字以前の民族独自の文字.
何の事はない.わが日本の偽字,主として江戸中期以降のウルトラ・ナショナリズムのもとででっちあげられた神代文字の北朝鮮版だ.
いや,驚くなかれ,同書には収録されていないが,北朝鮮では,ほかならぬ日本の神代文字が,古朝鮮文字から影響を受けているとさえ,論じられているのだ(「朝日新聞」,1993年12月8日夕刊).
また,「朝鮮民族と国家の起源」を丁寧に読み解くと,1993年から94年にかけての集中的な調査ならびに再調査の結果,得られた全ての遺物の年代が,檀君神話に合わせて修正されている事に気付かされる.
この本の存在を,と学会でも最も早く報告(イーハトーブ出版刊「と学会白書 vol.1」に収録)した原田実氏は別の誌面で,コマ形土器で千年,青銅器で2千年,遼寧式青銅剣で1600年,遺跡の形式で3千年もの時代錯誤が存在すると指摘している(「古朝鮮問題」『偽史列伝』11,「季刊邪馬台国」65,1998年夏).
原田氏は,こうした錯誤の理由を,放射線年代計測技術の未熟さに求めている.
しかし,この好意的解釈には,筆者は同意できない.
まず,生前の金日成主席が韓国系の米国人ジャーナリストに自慢したように,年代計測にはアメリカやドイツの最新機器が使われている(「朝日新聞」1994年7月17日).
〔略〕
しかもその上,それら遺物の中には,計測のミスでは説明できない,どう見ても偽造の,しかも近代以降に作られた遺物が含まれているのだ.
前12世紀の硬質鋼製の鏡と,前7世紀の炭素工具構成の鉄刀が,その代表といえるだろう.
もしかすると歴史偽造に対する,科学者のひそかな抵抗の結果なのだろうか,同書は,江東郡で発見された低炭素鋼の高度が極めて高いことから,錬鉄ではなく,高温鎔鉱炉で生産されたと断じている.
また,同じ地方の別の遺跡から出土の鉄刀は,分析によれば,極めて質の高い炭素工具鋼だった.
この論文は,
こうしてみると,平壌一帯ではすでに紀元前12世紀には質の良い鋼鉄が生産されており,紀元前7世紀頃からは炭素工具鋼が出現したことが分かる.(前掲書37ページ).
と記している.
ところが,同じ質の鋼材は,るつぼか鎔鉱炉がなければ製造できず,こうした製法が西欧で実用化されたのは14世紀,炭素工具鋼にいたっては,18世紀半ばにようやく試作されている.
なんと2,400年もの時代錯誤遺物(オーパーツ)である.
from 「トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!」
(光文社,1999.1.30),p.298-304
きっと,真実を知っている考古学者が,死んだ目をしながら「理論」構築に取り組んでいるんだろうなあ…….
【質問】
檀君狂詩曲は,北韓のみの現象なのか?
【回答】
いいえ.
軍事独裁下の韓国でも,過剰な愛国者が「歴史観が占領時代に偏向させられた」として,民間史料を元にした,幻想の「古代朝鮮帝国」を教科書に載せるよう要求し,アカデミズムを吊るし上げた.
それに対し,アカデミズムがそうした民間史料を精査した所では,偽史であるとする証拠となる,記述の矛盾点がポロポロと見つかったが,1990年の改訂教科書でも「古代朝鮮大帝国」の誇大な版図が,絵解きで掲載されているという.
以下引用.
1990年代に入るまでは,最も声高にこれら稗史文献の正統性が叫ばれたのは,北朝鮮ではなく,自由主義陣営の防壁たる軍事独裁下の大韓民国においてであり,1987年の民主化の直前には,国是とさえもなりかけていたのだ.
比較的手軽に日本語で読める,こうした事情を伝える文献は,僅か3点を数えるに過ぎない.
「別冊歴史読本」『古史古伝の謎』に掲載された,趙仁成(チョウ・インソン)の「韓国における古代史論争と『揆園史話』『檀奇古史』『桓檀古記』」と李基東(イ・ギドン)の「古朝鮮●域論争」,それに,やはり趙仁成の「『揆園史話』と『桓檀古記』の史料的価値について」(「東アジアの古代文化」62,1990)だ.
この韓国版檀君騒動は,1970年代半ばから1980年代にかけての教科書をただす大衆運動,最終的には「民族史を正す国民会議」に糾合される運動により,頂点に達した.
我が国の歴史教科書は,占領時代の屈辱的史観に汚染されている.
こうした偏向を正すため,在野の研究者・市民による広範な運動が必要である…….どこかで聞いた話ではある.
事の始まりは1974年.
標的となったのは,この年に制定された中学高校用国定歴史教科書だった.
既に述べたように,檀君神話はあくまで伝承で,歴史的な事実そのままを記録したものではないというのが,独立回復なった新生大韓民国歴史学会の共通認識だった.
こうした公式史観に噛みついた在野史家達が根拠としたのは,『揆園史話』や『桓檀古記』といった,古朝鮮王朝の系譜を精緻に記した民間史料だった.
これら資料によれば,古朝鮮は,はるか古代に建国された,シベリアからモンゴルまでの領域をも支配する大帝国だったことになる.
その年代や支配の領域は各種史料によって異なり,紀元前2400年とも前4000年とも言う.
繰り返そう.古朝鮮帝国は,チグリス・ユーフラテス,インダス,黄河に匹敵し凌駕する大文明だったのだ.
しかも韓国においては,檀君を信仰する民間侵攻が,昔から根強い影響力を持っていた.
こうした団体の一部やファナティックな愛国主義を称揚する軍部勢力の支援のもと,彼らは反権威主義,反体制を賞する歴史教育是正運動を展開した.
古代の韓国が,日本はもとより中国よりも強大で高度な文化を有するという「事実」に反対する学者連中は,民族の敵,日本帝国主義のスパイだというわけである.
彼ら愛国の志士達は,1978年には「国定教科書誤謬是正および正史確認訴訟」を実行に移し,1981年には,国会での公聴会開催を成功させ,また,世に知られた学会長老を日本植民地主義の文化間諜として告訴,国会や公開シンポでは,学会権威への吊るし上げが繰り返された.
体制派学者対在野愛国者という表面的な対立図式は,実は陰では,ややこしいことに,民主派知識人・学生層対軍部・右派連合の抗争をも同時に意味することになった.
ところでこのころ,韓国における教科書是正運動を,不思議な形で助勢することになった日本人がいる.
いわゆる古史古伝の研究者として知られた鹿島昇(かじま・のぼる)氏である.
韓国の運動家との連動のもとで,氏が1982年に復刻・日本語訳した『桓檀古記』(新国民社)は韓国に逆輸入され,歴史見直し運動をブームへと押し上げる役割を果たした.
もっとも,反体制派を自称する右派運動家に対する学界も,権威主義という点では誉められたものではなかった.
こうした稗史史料は,アカデミズムの世界では,はなから相手にされず,批判という側面からさえもまともな調査研究が行われたことがなかったのだ.
だが,プロの研究者コミュニティが本気になれば,その力量はすごい.
ようやく開始された学界での再検討の結果,これら史料の信頼性は克明に検証されることになった.
『揆園史話』には「文化」という言葉が,カルチャーの意で使われているが,本来の漢語は「文治強化」の略であり,英語からの訳語としての現在の語法は,明治初年の日本に起源を有する.
ほぼ最古の用例は,1874(明治7)年の「萬國史略便覧」で,これ以前の,例えば1862(文久2)年刊行の「英和対訳袖珍辞書」には,「Culture……,教導,修繕」と記されている(「明治のことば辞典」東京堂,1986.『外来語の語源』角川書店,1979).
時代錯誤はこればかりではない.同じ『揆園史話』には,1823(文政6)年に書かれた李朝期朝鮮の史書を参考にしなければ書けない内容が記されていたし,執筆されたとする日付よりも遥かに後の地名や神の名も多く用いられていた.
また,『桓檀古記』は秘蔵のまま長く伝えられ,1907(明治40)年に初めて一般の目に触れるようになったとされているが,ならば一体,そこに記されている「冥王星」という言葉はなんなのだろうか? 冥王星の発見は1930年のことなのだ.しかも,確認された限りで最も古い同書のテキストは,その1930年以後のものなのである.
こうした怪しげな記述は,残る「檀君世紀」や「太白逸史」にもはっきりと,しかも数多く読み取れた.
アカデミズム側の詳細な分析の結果は,これら民間「史料」が成立したのは,最大限遡っても1920年以後であるという,信頼性の高い結論だった.
〔略〕
偽史にまつわる反証が提出されるや,韓国では今度は,植民地支配の時代にあって,「揆園史話」を賞揚した人士や宗教者,団体が「親日派」であったかどうかが問題となった.韓国において,歴史上の親日派とは,植民地支配に積極的に協力した,民族への裏切り者のみを意味する.
少なくとも,果敢な抵抗で知られた檀君を奉じる大■教(テジョンギョ)は,植民地時代にあって,偽書に依拠したりなぞしなかったではないかと,リベラル派は「歴史見直し」派に対して反論した.
そして遂に1987年,国定教科書の改訂内容が決定されるに当たって,彼ら在野反権威の歴史研究者達による見解は,全面的とは言わぬまでも,かなりに渡って盛り込まれることになった.
しかし,同じ年の6月29日,盧泰愚大統領による民主化宣言がなされてのちは,この,民族史を正す国民運動は,次第に勢いを失ってゆく.
だが,1990年に刊行された改訂版教科書には古朝鮮大帝国の誇大な版図が絵解きされ,今日に至っている.
●=彊の弓偏の下の部分に「土」
■=人偏に「宗」
from 「トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!」
(光文社,1999.1.30),p.307-
韓国の教科書における「古朝鮮大帝国の版図」(日本も古朝鮮大帝国の一部だった??)
(画像掲示板より引用)
【質問】
ソウルは昔から首都?
【回答】
間違い.
少なくとも歴史的に古いのは平壌だな.
3世紀くらいから記録が残ってる.
各王朝によってその都度首都が変わってる.
大概は出自に関係したところや,勢力範囲を選んでいる.
平壌が首都だったのって高句麗時代だけだからね.
統一新羅は金城で高麗は開城だし.
ソウルは経済的や交通の要衝として重要な都市だった.
結局,李氏朝鮮以降ソウル(漢陽)を「新しく首都にした」ってわけだし,歴史伝統が無いところを首都にする理由は経済と交通での重要位置だからだし.
李氏朝鮮から日本統治時代と,近年の中心都市はずっとソウルなわけで,そういう意味では京都と東京の関係といったら,一番わかりやすいかもしれない.
まあ,オーストラリアのキャンベラとシドニーみたいな関係だよな.
でもって,いくら危険でも経済重要都市という関係上,捨てることも出来ない,と.
軍事板,2008/09/18(木)
青文字:加筆改修部分
百済時代,建国から熊津(久麻那利)に遷都するまで,首都だったことに皆,触れてないなあ.
水上攝堤 by mail,2009/6/10
【質問】
馬韓・辰韓・弁韓の時代から新羅の統一までの,朝鮮半島の歴史が全く理解できないのですが,どうすればいいんですか?
なんか日本もかなり噛んでたらしいし….
【回答】
馬韓を構成していた国の中の百済国が強勢となり,馬韓を統一.
同様に辰韓は新羅が統一.
弁韓は統一されず,加羅国などの小国の分立状態.
半島の北方には高句麗.
この国が一番強勢だったが,中国に接していたため何度も戦争をしかけられ,ついに滅亡.
弁韓(日本名は任那)は百済と新羅によって裂き取られ,併合され滅亡.
日本は近攻遠親策から新羅と敵対し,百済と同盟していたので,唐・新羅連合軍が百済を攻めたときに,百済救援のため出兵して戦ったが惨敗(白村江の戦).
百済は滅亡し,半島は新羅が統一した.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
百済と倭国の関係は 英国と米国みたいなもんでそ?
【回答】
いや,全然違う.
史料によれば,
百済の主な住人は不明だが,倭人ではない(おそらく新羅と同種).
百済の支配層は扶余系.
倭国の主な住人は倭人.
倭国の支配層も今のところ,倭人であることを否定する証拠なし.
ということになってるので,百済と倭国は今のところ人種的関連はない.
半島南部に倭人が住んでいたことは,史書にもある.
ただ,百済の支配的住民層が倭人だったというのはさすがに無理があるね.
ちなみに日本の神話だと,どっちかというと百済よりは新羅と縁がある話が多い.
世界史板
青文字:加筆改修部分
▼ ただなあ,言語的には,高句麗・百済の扶余系が多いと思うんだよなあ.
高句麗語の数詞との一致数や,百済旧都「古莫那羅=コムナル」と「久麻那利=くまなり」,の表記とか.
「南加羅」を「ありしひのから」と読む点は,私は訓読みの元祖では,と思ってますし.
白村江(はくすきのえ)とかも.
水上攝堤 by mail,2009/6/10
▲
【質問】
中国に侵略されまくった朝鮮半島の戦いで,唯一の勝利と言える,隋の侵攻を跳ね返した高句麗ですが,小国であった高句麗が,数十万人を動員した隋の3度の侵攻を,全て跳ね返した勝因は何だったんでしょうか?
【回答】
2回目の侵攻に対する勝利のことを言っているのであれば,これは高句麗の将軍乙支文徳(ウルチムンドク)が隋軍相手に,ちょろっと戦っては負けたフリして退却,を繰り返し,平壌手前で降伏を申し入れた.
「停戦ラインまで下がったら,うちの王様が正式に礼をとりにいきますから」
との条件に,補給線が伸びきっていた随軍も承諾.
停戦ラインまで後退を始めた隋軍に,乙支文徳が温存していた兵力で奇襲をかけ,潰走させた.
まぁ,隋軍の大将(宇文述)がそもそもあんまりやる気無かったって話もあるんだが.
それ以外の2回については,基本的には「撃退した」というよりは「頭をさっさと下げて帰ってもらった」の方が正しいかとは思います.
隋来る
↓
頭下げて朝貢の約束する
↓
ばっくれる
↓
怒った隋,また来る
を繰り返しているうちに戦費がかさむわ,部下の反感は強まるわで,滅亡への道まっしぐら.
でも最大の原因は,やはり煬帝の暴走かとは思います.
軍事板
▼ ま,跳ね返した高句麗も,疲弊したから間もなく滅亡し,第2の祖国,渤海誕生に繋がるわけですが.
水上攝提 by mail
▲
【質問】
韓国海軍に KWANGGAETO-THE GREAT「広開土大王」(在位391-402)という駆逐艦がありますが,高句麗の韓国での歴史的位置づけはどうなっているのでしょうか? 鴨緑江以北に興った高句麗の王はやはり韓国の祖なのでしょうか? 民族的にも同じなのでしょうか?
【回答】
(1) 韓国の歴史認識は,アカデミズムと,ナショナリズムに根ざした在野の歴史家で,かなりの相違があります.
現在の韓国の歴史教科書が檀君を神話と明記せずに5000年の歴史(半万年と言っています)があると記載しているのは,ナショナリズム主導の在野の歴史家が政治的に運動した結果です.
このような事態を背景に,過去の歴史の建て直しと称して,古代の朝鮮が広大な領土や勢力圏を持つ強大国であったという主張もされており,かつての高句麗やその北方も領土としています.
(2) 現在の朝鮮半島は韓国と北朝鮮に分かれており,特に北朝鮮は高句麗を先祖として位置付けています.韓国も上記のような事情で先祖としています.
(3) 韓国朝鮮人はもともと,女真系民族を「オランケ」という蔑称をもって呼び,野蛮人だと見なしていましたが,ナショナリズムの肥大化とともに,現在では扱いをあいまいにして,使い分けている状況です.
【質問】
小学生のときに使っていた歴史の教科書に,日本兵と思しき人物が,広開土王碑に碑に手を加えている写真が載っていたことを覚えています.
あれは改ざん写真だったのでしょうか?(HN "昭和38年生まれ")
【回答】
その写真を見た韓国の学者イ・ジンヒという人が
「日本による朝鮮支配を正当化する為軍部が改竄した」
とする説を発表しましたが,90年代に入って中国で取られた拓本が発見され,その拓本と日本の軍人が取った拓本が一致することから,単に拓本取ってただけで何も手を加えていないことが判明しております.
ただ,韓国では任那日本府と共に否定されます.
なお,厳密に言うと,日本の軍人が現地で取ってきたのは,いわゆる拓本ではなく,「墨水廓填本」とか「双鉤加墨本」などというものです.
これは,先にとられた文字の見づらい拓本の字画をなぞって,別紙に文字の輪郭を写しとり,その輪郭の外を墨で填めて拓本らしく仕立てたものです.
【質問】
「中国吉林省輯安県にある好太王碑を日本軍の砲兵大尉,酒勾景信と参謀本部が改竄した」
と在日朝鮮人学者の李進熙が主張してますが,この説の真偽はともかく,何故参謀本部が好太王碑文に深く関わったのでしょうか? 本来は学者の領分では?
【回答】
深く関わったわけではないです.
単に酒匂さんが参謀本部から派遣された諜報員だったので,酒匂さんは,持ち帰った資料を,職場で分析しただけの話です.
碑文のサイズが幅2m×高さ6mとあっては,自宅で広げられないでしょ?
鷂 ◆Kr61cmWkkQ
【質問】
356年,辰韓12国を斯盧が統一して建国した新羅については,唐と組んで白村江の戦で日本を敗退させたり,任那を滅ぼしたり,唐にまで圧迫を加えたりと,とても強国のイメージがあります.
なぜ新羅はこのように強国だったのでしょうか?
【回答】
新羅が強いんじゃなく立ち回りが上手かっただけでは?
▼ 任那を滅ぼしたのは百済だし,その百済を滅ぼしたのは唐だし,新羅は唐の属藩に収まるしかなかったわけだし.
任那を滅ぼしたのは百済だし,その百済を滅ぼしたのは唐・新羅連合軍だし,新羅は唐の属藩に収まるしかなかったわけだし.▲
唐の側も遠交近攻策として新羅を利用したんだろう.
実際に高句麗,百済,白村江の戦いで敵を滅ぼしたり撃破しているのは唐なんだし.
新羅自身は高句麗と百済に結構攻め込まれて敗退してる.
後に新羅と唐が対立した時に,新羅の軍隊だけでは唐に勝てないと確信した新羅は,高句麗人・百済人・靺鞨人の編成部隊である,「九誓幢」と呼ばれる9つの部隊が活躍したお陰で,唐を朝鮮半島から追い出す事が出来た訳だし.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
高麗って何?
【回答】
1)
高句麗の別名.
2)
渤海の別名.
3)
後高句麗の将であった王建が,後高句麗を乗っ取って918年に建国した国であり,936年には後百済を滅ぼして韓半島を統一した.
文臣(文班)と武臣(武班)を官僚とする,両班(ヤンパン)という政治制度を導入したが,文臣と武臣の対立が続いた.
対外的にはモンゴルの襲来をしばしば受けたが,1259年,元朝に降伏して属国となり,元末期にには倭寇と中国の紅巾軍の進入により弱体化,1392年,李桂成によって滅ぼされた.
4)
上記により,韓半島自体が高麗と称されることがしばしばある.
韓半島で焼かれた茶碗が,「高麗茶碗」と呼ばれるのもこのため.
実際には李氏朝鮮時代の作が多い.
山上宗二の『山上宗二記』に曰く,「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ,当世ハ高麗茶碗,瀬戸茶碗,今焼ノ茶碗迄也,形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」
高麗割高台茶碗を奪い合う,古田織部と荒木道糞(村重)
(『へうげもの』より)
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/高麗
http://en.wikipedia.org/wiki/Goryeo
http://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B3%A0%EB%A0%A4
http://www.lifeinkorea.com/information/history1j.cfm
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/d02_korea/korea.html
http://verdure.tyanoyu.net/kouraicyawan.html
【ぐんじさんぎょう】,2012/07/01 20:30
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【質問】
李氏朝鮮って何?
3行で教えて!
【回答】
1392年に高麗の武将・李成桂によって建国された,韓半島最後の王朝.
世宗大王治世期には安定したものの,その後,勲旧派vs士林派,続いて朋党政治と呼ばれる,官僚や王族の争いが続き,そんな中,壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)によって,国土は焼け野原.
次いで,丁卯・丙子胡乱によって清朝の属国とされた上,日清戦争後は,今度は日本の強い影響下に置かれることとなり,1910年8月には日本に併合されて,李朝は消滅した.
>李(り)朝の始まり…イソンゲいさんで国(1392)をたて
http://kids.gakken.co.jp/jiten/7/70018570.html
だそうです……
【参考ページ】
http://navicon.jp/feature/f0001familytree.pdf
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse419.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/7/70018570.html
http://togetter.com/li/247748
【ぐんじさんぎょう】,2012/06/20 20:10
を加筆改修
【質問】
李氏朝鮮時代の度量衡は?
【回答】
韓国の食肉店で肉を買う場合,パック売りで無ければ,グンという単位かそれをグラム換算した600gが一つの単位で用いられます.
グンとは斤の事であり,日本の尺貫法と同じく,1グン(斤)は600グラムになります.
今日では法的に使用が禁じられていますが,韓国では未だに1グンとか半グン,或いはその何倍と言う計算方法で注文しています.
支払の場合の,店主の遣り取りも同じです.
例えば,客が「牛肉1グン下さい」に対し,切った肉がそれを少し越えると,店主の方は「1グンと少し越えるけど,このまま包みますか?」てな具合.
この様な東アジアの計量体系は,伝統的に度量衡と呼ばれてきました.
度は長さ,量は体積,衡は重さを表し,それらを表す単位として,日本や中国,朝鮮半島では,尺,升,両が用いられ行きました.
日本では,明治期に伝統的な度量衡の単位を,メートル法に基づいて調整した尺貫法が作られましたが,韓国では1961年の「計量法」により,商取引と科学,産業の各領域でメートル法の専用が規定されましたが,日常生活では日本式の尺貫法と習合した伝統的な度量衡,インチの様な英米式の「非法定計量単位」が依然として残っています.
政府としては,牛肉の1グン(斤)を筆頭に,米の1マル(斗),32インチテレビ等と言う形で固着した慣習的な単位を幾度かに渡る啓蒙と制度整備を通じて排除を行い,2007年7月以降,慣行的に黙認してきた土地・建物面積のピョン(坪)と貴金属の重さを量る際に用いていたドンの使用を禁止しました.
確かに,こうした禁止に対しては,抵抗が無いわけでもありませんでしたが,これらの単位は植民地期に導入され,今は日本ですら使わない「植民地の残滓」であるとして主張をして乗り切りました.
とは言え,その単位の権威は未だに残っており,金相場の報道では,1グラムではなく,3.75グラム単位の金価格が為されていますし,アパートの面積は依然として100平方メートルでも,105平方メートルでも無い105.6平方メートルです.
後者に関しては,日本と同様,1ピョン≒3.3平方メートルだから,従来通りの表記では32坪になる訳です.
李氏朝鮮の時代,その記録の中で最も大きな比重を占めるのは,その乱れと整備に関するものです.
一番問題になっていたのは,記録の誤った計器を使ったり,目盛りを騙すというものです.
特に,穀物取引や収税と直結する量器が,最も乱れの酷いものでした.
朝鮮の伝統的な量器は,四角の箱状のドェ=スン(升),とマル=デゥ(斗)で,『経国大典』「工典」度量衡條では,10勾=1合,10合=1升,10升=1斗と規定されています.
しかし,日本の韓国併合の際に行われた地方の度量衡器調査に依れば,郡や県ごとに量器の大きさにかなりの差がありました.
実際,日本の当時の升に比べると,ドェは最小は山清の8合6勺で,最大は固城の2升6合9勾まで,斗と比べ,マルは最小が永川の2升2合4勺,最大は尚州の5升4合6勺と相当な差があります.
また,地方別に調査されたドェに対するマルの大きさは,最低1.3倍から最大で4.5倍になりました.
固城のドェは,永川のマルよりも大きいのです.
一応,王朝時代の『續大典』に依れば,こうした計量器は毎年秋に全国から公用,私用を問わず総ての斗斛を集めて検査と烙印を行い,法定規格にそぐわないものは,違令律によって論罪すると記されていたのですが,全く守られていませんでした.
長さの基本単位は,古代中国に由来するチョク(尺)ですが,『経国大典』では長さの単位を10釐=1分,10分=1寸,10寸=1尺,10尺=1丈と言った10進法の尺度で規定していましたし,日常では成人の背丈に該当するギルや,両腕を拡げた幅のパルと言った人体由来の単位,また,歩(=5〜6尺)や里と言った地理的距離なども,頻繁に用いられていました.
また,尺も計量対象によって異なる数字が用いられました.
『経国大典』では,量田に使用する周尺,黄鐘尺,建築用の営造尺,礼器製作用の造礼器尺,布を測る布帛尺と5種類あり,黄鐘尺を1とすると,周尺は0.660,営造尺は0.899,造礼器尺は0.823,布帛尺は1.348になり,布帛尺は周尺の2倍以上になります.
この黄鐘尺の大きさも,他の基準で定められていません.
これは「黄鐘」と言う高さの音を出す律管の長さが基準とされているのですが,その「黄鐘」の音の高さはどの様に定められるのかが不明なのです.
この為,朝鮮後期に至る過程で,尺の絶対的かつ相対的な大きさは徐々に変化していきました.
勿論,当時の材料や技術では,環境変化により変形しない原器を作るのが難しいので,それを周期的に整備しても,時が過ぎれば基準自体が曖昧になる可能性も否定出来ません.
これは独り朝鮮だけの問題では無く,尺を単位とした国では間々起きる事です.
また尺度の一部は十進法ですが,歩や里はそう言った単位系では無く,体積は勺,合,升,斗までは10進法ですが,それ以上の場合は小斛平石は15斗,大斛全石は20斗と規定されていますし,重さの単位については,法的には黄鐘律管を一杯に満たした水の重量を88分と定め,10釐=1分,10分=1銭,10銭=1両としましたが,実際に最も多く用いられたグン(斤)は『経国大典』で16両に規定され,またそれは100斤で大称,30斤又は7斤で中称,3斤又は1斤で小称と言う奇妙なスケールとなっています.
中称と小称の「或いは」と言うのは,時代によって変わるという意味では無く,実際に『経国大典』に規定しているものであり,どれが本当の単位か判りません.
因みに,この単位は,王朝末期まで削除されませんでした.
尤も,商取引の場面では,精密な計量よりも,駆け引きと掛け値を通じて,当事者同士が値段を定め会うもので,量器の升や斗で穀物を測る場合は,平斗と言う棒状のものを使って,穀物を量器の高さ一杯に満たすこともあり,また高捧と言い,穀物を量器の上に山積みに盛る事もありました.
当然,定められた量におまけを加えるのも慣行であり,穀物の場合には,乾燥による体積減少や,搗精過程での損失分も問題になります.
本来は,重さで計量するべきなのでしょうが,大量の穀物を入れたり重さを量る適当な容器がありませんでした.
どの地域に於いても,前近代の政治が定めた度量衡と言うのは,基本的に儀礼的なもので,それを日常生活で然程使う物ではありません.
あくまでも,礼楽の一部という位置づけだった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/15 23:54
青文字:加筆改修部分
李氏朝鮮末期の1894年,甲午改革政権の中枢と言える軍国機務処が作成した制度改革案には,通貨改革の他に,当然のことながら度量衡制改革も含まれていました.
これは,従来工曹が所管してきた度量衡制事務を,新設の農商衙門工商局に移し,10月1日から内務衙門で「新式」度量衡器を頒布することになっていましたが,多くの改革案と同様,この度量衡制改革もまた日の目を見る事はありませんでした.
ただ,度量衡事務に関しては農商亜門とこれを継承した農商工部に移管されましたし,それ以前まで度量衡事務を担当してきた平市署は廃止されました.
しかし,全国的貨幣制度がまともに施行されないまま,日本貨幣まで通用する状態になったのと同じく,この時期の度量衡制は,依然として支離滅裂な状態でした.
1896年12月10日付の『独立新聞』論説では,度量衡の乱れが国内各地方間での取引や外国貿易上大きな障害になっていると批判しながら,度量衡を統一して度量衡器の製作・修理・販売を厳しく規制することを要求しています.
とは言え,これが一気にメートル法導入にまで進む,進歩的な主張では無く,従来の度量衡制の整理と単位の統一に留まっています.
因みに,日本でも同様に度量衡の多様化と乱れ,特に長さの単位の混乱が著しく,明治維新以降,各々異なる大きさの旧式の尺を加減した「折衷尺」が制定されたこともありましたが,先進国の動きを逸速く取入れ,徐々に尺と貫の大きさをメートル系の絶対的基準に合わせていきました.
メートル法は,人体や生活周辺の特定事物の大きさでは無く,自然に伴う客観的な数字として導き出された単位です.
即ち,1メートルとは,当初,北極から赤道までの四分子午線の長さの1,000万分の1として定義され,1792年から7年間に亘る実測によってその長さが定められたものです.
全ての尺度は10進法に従う様になり,長さ・体積・重さに対する厳密な数学的関係も確立されました.
1886年に日本もメートル条約に加入し,1891年には尺,即ち曲尺をメートル系に合わせて再規定した新たな計量体系を法律で頒布しました.
この法律は尺と貫をそれぞれ長さと重さの基本単位として規定しつつも,白金とイリジウムの合金で出来た棒と分銅,即ちメートルとキログラムの原器をその物質的基準として提示しました.
こうして,1尺は1メートルの10/33,1キログラムの14/4として規定されました.
1891年の法律では,この新たな曲尺基準の尺貫法と日本伝統の鯨尺,そしてメートル法を共に用いることとしましたが,1909年の法律改正では曲尺とメートル法を優先ししつつ,鯨尺と英米式のヤード・ポンド系も併用すると言う方法を採りました.
そして,この基準が大韓帝国の度量衡制でも適用されました.
先ず行われたのが,朝鮮の営造尺と日本の曲尺の統一です.
1902年7月19日,宮内府に全国の度量衡事務を担当する平式院が設置され,10月10日に平式院から度量衡規則が頒布されました.
これは重さの単位が貫では無く,その100分の1の両として定められた以外,その第1条と第2条の内容は,1891年に制定された日本の度量衡法と全く同じものでした.
即ち,チョク(尺)とニャン(両)の規格をメートルとキログラムの原器に対する比率で定めました.
これはメートル系という外部基準で,尺の正確な長さを規定するという試みでしたが,長さは日本と全く同じ比率で,10/33メートル,両は1キログラムの15/400として規定しました.
また,日本で鯨尺が残されたのと同様,測地の為の周尺と布を測る際に使う布帛尺は,補助単位の一種として残されました.
従来,最も乱れていた体積については,円筒状の金属製の量器を導入することにより,「市升」の4分の1の大きさに大幅に減らし,升や斗などの大きさを新たに規定する一方,小斛平石15斗や大斛全石20斗の規定を無くして,1石10斗に統一しました.
ところが,量器は穀物計量と直結していたので,この措置はかなりの混乱を惹起し,新規格では1升4合2勺となる「旧1升」や同じく新規格では4升1合6勺となる「旧市升一升」などに該当する長方形の箱状の容器を造り,「従来の慣用によって30個年に限り用いる」という措置を執るしか有りませんでした.
なお,度量衡器の製作は平式院が独占していましたが,これは大韓皇室収入確保の為の措置であり,大韓帝国政府は,日本第一銀行から15万円を借款してこの事業に着手しました.
この曲尺と営造尺を一体化させようとした原因は,1890年代に日本人が大挙して朝鮮半島に渡り,大量の日本製品が流通する様になった事で,日本の尺貫法もまた韓国で知られたのが一因ですが,それを全面的に受容れる切っ掛けとなったのが,日本による韓国の鉄道敷設に伴う大規模測量と土木工事だったとされています.
1899年,日本人が建設した京仁鉄道が完成し,1901年には京釜鉄道の工事が開始されます.
その工事には多くの韓国人が単純労働力として動員されましたが,「尺」と言う同じ文字を用いながら,韓国と日本の単位が多少異なっていたので,これらを一致させる必要性が浮上してきました.
当時,京釜鉄道の設計に参加した笠井愛二郎は,日本の曲尺の1.01倍の大きさであった測量と営造尺を,曲尺と同じ大きさと規定することでこの問題をクリアしようと試みます.
そして,こうした試みが1902年の度量衡規則に影響を及ぼした可能性がありますし,また,平式院の監督には日本人の井上宣文技師が雇用されており,井上は1902年の規則改定に大きな役割を果たしていました.
1905年に大韓帝国政府は度量衡業務を農商工部に移転し,同時に法律第1号度量衡法を公布しました.
この度量衡法で最も大きな変更点は体積の単位である勺,合,升,斗の大きさを1902年の3倍に増やしつつ,石を150升から100升に調整して日本の尺貫法に合わせます.
従って,1902年には約6リットルだった1斗は,1905年になると約18リットルに調整されました.
1909年9月20日の法律第26号度量衡法では,尺,升,貫を基本単位としました.
メートル・キログラム原器に基づいた基本単位の規定は削除され,第2条に「尺,升,及び貫は日本度量衡法の所定と同じとする」と規定されました.
長さの単位については,1905年法令で1里=1,386尺=2,100周尺としていたものを,新たに日本式の間(=6尺)や町(=6間)と言う単位を導入しつつ,1里=36町=12,960尺として調整しました.
従って,新しい1里は以前の韓国の単位では約10里となる計算になります.
また,面積については,結,負,束,把などと面積や収穫量の概念が混在していた韓国の伝統的な単位を無くし,坪(=6尺×6尺)を基本単位とする日本式の単位を全面導入しました.
重さについては,伝統的な両の代わりに,その100倍に当たる貫を基本単位としつつ,残りの単位の名称については朝鮮式の釐,分,銭を日本式の毛,厘,分,匁に変更しました.
当時,大韓帝国は形式的に存続していましたが,既に日本の保護国であったことから,この法律の起草も他の法律と同様に,政府にいた日本人によって行われたと考えられます.
これは,韓国併合を目前にして,既に日本の法律をそのまま韓国にも依用し始めた事例の1つでした.
とは言え,実生活では依然として,旧来の度量衡が用いられていたと思われます.
これは,1904年と1906年に造営された宮廷建物にも,法律に規定された新しい「尺」ではなく,他の尺が使われており,またそれらの用尺の大きさには一貫性があったことから,民間の匠人組織別に共通の基準尺があったのでは無いかと考えられています.
つまり,政府が幾ら叫ぼうとしても,民間では慣習的な度量衡が現実として厳然と存在していたわけです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/16 23:27
青文字:加筆改修部分
【質問】
呉允謙って誰?
【回答】
呉允謙(1559-1636)は,海州生まれで,李氏朝鮮王朝中期の宰相.
1617年,通信正使として日本に派遣され,伏見城で徳川秀忠との間に国書交換を行い,帰国時に文禄・慶長の役のときの捕虜,約300人を連れ帰った.
1627年,丁卯胡乱の際には,皇太子・皇太后と共に江華島へ移った.
【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.6
【ぐんじさんぎょう】,2011/01/02 21:00
を加筆改修
【質問】
大清皇帝功徳碑とは?
【回答】
1636年,丙子胡乱の後,立てられた石碑.
井沢元彦らによれば,これは朝鮮が清の植民地になったことを示す石碑だという.以下引用.
別名,三田渡碑.ソウル市松坡区石村洞にある.最寄駅は地下鉄8号線石村駅.
1636年,朝鮮に臣下としての礼を尽くすよう求める清が,10万人の兵を率いて朝鮮に攻め込み(丙子胡乱),朝鮮軍は南漢山城に留まって抗戦したものの,結局,清の軍隊が留まっている漢江の三田渡で降伏.
この際に,朝鮮の仁祖王は清の太宗(名はホンタイジ,太祖ヌルハチの第8子)に対し,頭を地面に擦り付けて土下座した.
太宗は,仁祖王が逆らった罪を許すとし,その功徳を刻んだ記念碑を立てるよう要求して,1639年に建てられたのが,この碑.
朝鮮側にとっては,これまで格下と見ていた満州族の支配下に入ることを約束した屈辱的な記念碑であり,韓国では「恥辱碑」とも呼ばれている.
丙子胡乱後,清と朝鮮の間に結ばれた協定では,朝鮮は毎年多額の貢ぎ物を献上する他,王と大臣の子女を人質として差し出すこと,清が求める際には援軍を派遣すること,等が取り決められ,実質的に,朝鮮は清の植民地だったと言える.
碑文は全面左側はモンゴル文字,右側は満州文字,裏面は漢字に刻まれている.
( from SAPIO 2003/9/24号,小学館,p.101)
金完燮 毎年,清にお金や貢ぎ物を納め,今で言うGNPの20%あまりを清に貢いでいたとの説があります.
井沢元彦 かなり搾取されていたわけですね.
金 ええ.しかも,このとき満州族は,多くの朝鮮人を連行しており,その数は説によって30万〜50万人,全人口の10〜20%に上ったと言われています.
朝鮮政府は後に連行された人々をお金で取り戻したのですが,その身代金の支払いによって,朝鮮の経済は破綻に追い込まれ,以後は,朝鮮という国自体を維持することが,ほとんど難しい状態にあったのです.
(同)
【質問】
以下のような文章を見つけたのですが,朝鮮半島に対する「野心」がそんなに早くから日本政府にはあったのですか?
――――――
明治政府は極めて早い段階から,安全保障上の観点から朝鮮に対する関心を高めており,日本の野心を妨げる可能性のある存在としてロシアの存在を警戒するようになったと言えるだろう(そういう認識を最も早く示したものの一つは,1875年の榎本武揚の「樺太問題・朝鮮政策につき意見書」であろう).
ちなみに,朝鮮を日本の安全保障に直結させて考える発想は,1969年の佐藤(栄作)・ニクソン共同声明にも繰り返されるもので,それだけ日本の支配層に根強いものとみるべきである.
――――――浅井基文 in 『自衛隊をどうするか』(岩波新書,1992/1/21),p.32
【回答】
別に「野心」というものではなく,地政学的に見た場合,朝鮮半島が日本の安全保障に直結するという考え方はごく自然なものです.
別に「支配層」(笑)に限った話じゃありません.
地政学的に言いますと,半島国家というものは,狭隘地なんですね.
狭い通路.
キャット・ウォークみたいなもんです.
シベリア・中国方面から太平洋に進出するためには,まず日本海に出なきゃいけません.
そして日本海に出るには,朝鮮半島を通らなきゃなりません.
逆に,その進出を阻みたいなら,反対にその狭い通路を閉じなきゃならない.
閉じる為には,これもやはり半島に出ていかなきゃならない.出て行って,相手の前に立ちはだからなきゃなりません.
そんなわけで,ロシアや清が大勢力である以上は,朝鮮半島で日本と衝突するのは時間の問題たったといえますね.
「野心」などとは別次元の話です.
そもそも1875年の軍備,とりわけ海軍力を見れば,日本にどんな「野心」が持てたのか?と小一時間(ry
【質問】
独立門とは?
【回答】
朝鮮が清から独立したことを記念して建てられた門.
以下,引用.
ソウル市西大門区顕詆洞にある.最寄駅は地下鉄3号線独立門駅.
1894年の日清戦争で清が日本に敗れ,その講和条約である下関条約第1条によって清の朝鮮に対する支配権は失われた.
これにより,朝鮮は宗主国である清からの独立を果たすことになった.
この「清からの独立」を記念して97年に建てられたのが独立門であり,決して「日本からの独立」を祝って建設されたものではない.
独立門が建てられた場所には元々迎恩門と呼ばれる門があった.
この迎恩門とは,清からの使節を迎えるための門で,使節が来るたびに朝鮮王はこの門で土下座して清の使節を迎えたとされる屈辱的な場所でもあった.
かねてより朝鮮の独立を願っていた開化派の徐載弼は,甲申政変失敗の後,日本に亡命し,その後,米国に渡っていた.
彼は帰国後,96年に独立協会を結成.
この独立協会が,朝鮮の永久独立を宣言するために,屈辱的な迎恩門を取り壊し,その跡地に,パリの凱旋門を模した独立門を97年に建設した.
ちなみに独立門の脇には徐載弼の銅像が立っている.
( from SAPIO 2003/9/24号,小学館,p.102)
金完燮 ソウル市民にアンケートをとれば,おそらく大多数の人々は,独立門を日本支配からの解放の象徴と答えるでしょうね.清国からの独立を意味するものだと認識している人は,3%ぐらいではないでしょうか.
(同)
また,以下のコラムでも,類似の指摘がされている.
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/column/seoul/news/20050428org00m030117000c.html
さらに,日韓歴史共同研究委員会の報告書でも,朝鮮の独立門について同様の記述
がある。
日韓歴史共同研究委員会のページの一番下のPDFファイル「開港後近代改革論の動向と日本認識(金度亨)」の287ページ中ほどに,独立門につい ての記述があるが,それによれば,
自主・独立はもちろん,民族国家の成立において 当然解決されねばならぬ重要な課題であった。
たとえ、「独立」が日清戦争での日本の勝利の結果もたらされたものであることを認めながらも、 多くの人々は実質的な独立国家にならねばならないと考えていた。
独立教会を作り、 独立門を建立したのもこのよう な雰囲気に下で可能であった。
俄館播遷を進めた勢力は,独立を記念するために
「古き日の恥辱を雪ぎ、後人の標準を作り」、
また
「世界へ広く告げ、後孫たちに朝鮮が明ら かに独立したことを伝える形跡」
として独立門の建立を進め、王室でもこれを積極的に後援した。
【質問】
韓半島におけるプロテスタント布教の始まりは?
【回答】
さて,1868年,江戸幕府から政権を委譲された明治新政府は,朝鮮と新たな関係を求めようと努力をしますが,明治政府の国書の受け取りさえ拒絶する朝鮮に対し,苛立ちを強めていき,政府部内には武力による修好条約の締結,所謂,征韓論が声高に主張される様になります.
1875年,軍艦雲揚を朝鮮領の江華島に派遣して示威行為を行い,その挑発の結果,砲撃した相手に反撃を加え,武力衝突を起こします.
そして,雲揚号事件を契機として,1876年,朝鮮との間に,今までの経験を生かした不平等な日朝修好条約を締結し,清国の影響が極めて強かった朝鮮に,日本人の足場を築くとともに,在留邦人保護を目的に軍隊を駐留させ,その後,あらゆる面での影響力を拡大していきました.
日朝修好条約により,朝鮮からの第1次修信使として金綺秀一行が来日し,1880年に第2次修信使として金弘集一行が来日します.
その後,発展した日本を見学する目的で,朝鮮は62名からなる紳士遊覧団を派遣しますが,その1人であった農業担当の安宗洙は,日本の農学者にして日本初のメソジスト派キリスト教信者として有名な津田仙の自宅を訪問し,掛け軸の言葉(山上垂訓)に感動して帰国しました.
この安宗洙の感動を聞かされたのが,1882年に派遣された遊覧団の一員となる李樹延です.
李樹延は王妃の甥であり,当時朝鮮改革推進派の先駆者であった閔泳翊の親友でした.
彼は来日後早速津田仙を訪ね,農学とともに掛け軸の言葉を学ぶことを願いました.
津田仙は,彼にキリスト教の真理を教え,漢文聖書を与えました.
そして,彼はクリスマスの日に初めて津田仙と共に築地教会のクリスマス礼拝に参加して,忘れられない感動を覚えます.
その後,彼は,津田仙の紹介で組合教会の指導者長田時行から聖書の基本教理を学び,また一致教会の牧師安川亨から仏教とキリスト教の違いを学び受け,信仰告白に至り,1883年4月29日,東京の露月町教会(現在の日本基督教団芝教会)にて安川亨牧師の司式で洗礼を受けるに至りました.
尤も,李樹延が朝鮮最初のキリスト教信者ではなく,それより前に1879年に満州に於いて受洗した徐相崙一行に比べると遅かったものの,朝鮮の貴族階級である李樹延の受洗は大きな影響を与えることになります.
ところで,李樹延の参加していた紳士遊覧団一行は朝鮮に帰国しますが,李樹延はそのまま日本に留まり,農学の学びを口実にして聖書の学びに熱中します.
1883年5月11日,東京新栄教会で開かれた全国基督信徒大親睦会にも参加し,そこで李樹延は,奥野昌綱牧師の提案により朝鮮語で代表祈祷を行い,有名なエピソードになりました.
李の交わりはどんどん広がり,当時日本聖書教会の総主事であったルーミス宣教師の勧めによって聖書を朝鮮語に翻訳することに着手し,1883年中にマルコ福音書の翻訳を終えて出版の運びになりました.
また,教理問答書である「真理問答」も翻訳し,「朝鮮天主教小史」の執筆にも時間を注ぎました.
日本よりも遅れている朝鮮の文明開化を求めるには,福音宣教であると確信した李樹延は,1884年3月,親交あるルーミスの名前で,"The
Mission Review of World"に寄稿し,9月にはノックス宣教師の名前で,"The
Foreign Missionary"に"The condition
of Korea"と言うタイトルで朝鮮宣教への緊迫性を訴えました.
そして,12月13日には遂に自分の名を出して,"The
Mission Review of World"を通して,次の様に米国の教会に訴えました.
「もし,アメリカ教会が朝鮮に宣教してくれないなら,神様は別のルートで朝鮮に宣教師を送ってくれるはずであるが,残念ながらアメリカ教会が神の怒りから免れる道はないであろう」
結構挑発的な文言です.
この挑発に応え,長老教会の宣教師であるアンダウード,メソジスト教会の宣教師アペンゼラーと言う2名の若者が立ち上がり,1885年1月25日に横浜に来日し,李樹延から2ヶ月間,基礎朝鮮語を学び,李樹延が翻訳した朝鮮語聖書を持参して4月5日に朝鮮の濟物浦(現在の仁川港)に上陸しました.
これが朝鮮における,最初のプロテスタント教会布教の始まりとなった訳です.
因みに,その後,改革派を支援する為に李樹延は帰国の途につきます.
当時,朝鮮では守旧派と改革派がせめぎ合っていましたが,不幸にして守旧派勢力により,禁教の令を侵したという理由で李樹延は逮捕,処刑されてしまいました.
こうして,朝鮮の布教は頓挫したかに見えますが,李樹延が蒔いた種は徐々に広がりつつありました.
1887年,明治学院に松山出身の士族の息子が入学します.
彼の名を乗松雅休と言います.
1888年,プリマス・ブレズレンと言う会派のH.G.ブランドと言う宣教師が来日し,築地で伝道活動を始めました.
ブランドはケンブリッジ大学を卒業すると単身,日本に乗り込んできましたが,ブランドの所属するプリマス・ブレズレンと言う会派は所謂教派を否定し,組織だった宣教活動も行わず,個人の手弁当での宣教に終始しました.
この為,聖書と祈祷と霊感を重んじ,形式主義に陥りつつあった近隣の教会をして,「教会荒らし」として忌避されたのです.
しかし,ブランドは人間が出来ていたのでしょう.
1890年,乗松はそれまで属していた日本橋教会を離れ,ブランドの影響を受けた仲間と共に国内伝道の旅に出ました.
そうして数年間を関西や北陸で過ごした後,1896年12月23日,朝鮮の京城にやって来て,日本人初の海外伝道者となります.
乗松は,李樹延の話を聞いて彼の意志を継ぐべく行動したとも言い,日清戦争後の朝鮮の事情を聞いて,希望のない朝鮮の人々に神の愛を知らせることこそ唯一の生ける道であると確信し,純粋な福音宣教の為に朝鮮に渡ったとも伝えられています.
乗松は1900年からソウル郊外の水原に移住し,苦しい伝道生活を始めました.
元々,プリマス・ブレズレン派は教会としての後ろ盾が何もない為,経済的に困難を極め,飢えで昏倒したことさえあったと言います.
しかし,彼は貧しいながらも少しずつ信者を獲得し,朝鮮語を話し,朝鮮に溶け込む希有の日本人となりました.
例えば,1906年に乗松が帰国する際には,水原で送別の集会があり,日本人がたった1人立ち会っただけで,後は全部朝鮮人であり,しかも,20里,30里離れた地から草鞋穿きでやって来た人もあるくらいで,しかも彼らはすべて乗松との別れを惜しんで涙を流していたとあります.
当時は日露戦争に勝ったばかりで,日本人の鼻息も荒く,日本人が朝鮮から去ると言うと,悪魔でも払う様な感じであったと言いますが,それだけ民衆に慕われ,民衆に溶け込んでいたことを示すエピソードです.
因みに乗松氏は1921年2月,小田原で「骨は必ず朝鮮に埋めてくれ」と遺言して死去しました.
その通り,水原に朝鮮人の手によって,彼の墓と記念碑が建てられました.
戦後,日本支配の痕跡が次々と撤去されていく中で,この1922年に建てられた記念碑は,独立後の韓国で殆ど唯一の日本人記念碑となっています.
それは漢文ですが読み下すと,こう書かれています.
――――――
生きるも主のため,死ぬるも主のため,始め人のため,終わりも人のため,その生涯忠愛,おのれ主の使命を帯びて,その一切の所有を捨て,夫婦同心福音を朝鮮に伝う,数十年の風霜,その苦しみいかにぞや,心肺疼痛し,皮骨凍飢し,手足秒廃す,その朝鮮における犠牲きわまりぬ,しかるに動静ただ主に頼り,苦に甘んずるの楽しみを改めず,その生涯は祈祷と感謝なり,わが多くの兄弟を得,会するに主を同じくす,主の名は栄を得,その生涯苦にしてまた栄なり,臨終の口に朝鮮の兄弟のことを絶たず,その骨を朝鮮に残さんことを願う,これわれらの心碑となすゆえんにして,しこうして主の再臨の碑に至るなり
――――――
因みに,乗松雅休の韓国への影響は今でも大きく,韓国水原を中心とした韓国基督同信会の関連集会が全国に230カ所あり,伝道出版社始め9つの協力団体が活発に活動しているそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/21 23:40
【質問】
韓半島における,日本のキリスト教政策は?
【回答】
さて,1905年,日本は大韓帝国と保護条約を締結し,朝鮮の外交権を手中にして,その政府を監督する為,ソウルに韓国統監府が設置されました.
初代統監になったのは伊藤博文ですが,伊藤は,メソジストの宣教師を招いて,
「政治上一切の事件は不肖之に任らんも,今後朝鮮における精神的方面の啓蒙強化に関しては,冀ば貴下等其の任に当られよ,斯くてこそ朝鮮人民誘導の事業は初めて完きを得べし」
と,宣教師を懐柔する様な約束をしています.
この目的は,彼等の発信力が国際世論を動かし得る事を良く理解していた,伊藤の政治的判断であり,宣教師の影響下にある朝鮮のキリスト教を,その統治下に置く計画だったと言います.
その後も,統監府は教会を経済的に支援するなどの活動を続けていきます.
この政策のおかげで,宣教師達は日本の統監政治を褒め,朝鮮人達に抵抗を止める様に勧めたり,中には,
「日本統治は,朝鮮が他の国に統治されるよりもずっと良いし,また朝鮮が自らの手によって治めるよりも遙かに良い」
とまで言った者も現れる始末でした.
ところが1910年,朝鮮併合によって統監府が朝鮮総督府となり,初代総督に寺内正毅が就任すると,掌を返した様に,朝鮮のキリスト教指導者への警戒心が増すことになります.
1911年,「朝鮮教育令」が公表されると,朝鮮のキリスト教と国体・天皇の対立は不可避であるとの認識に達し,総督府は宣教師のキリスト教系学校活動に打撃を与える為,「寺内総督暗殺未遂事件」をでっち上げました.
これは後に「105人事件」と呼ばれる冤罪事件で,数多くの有力なキリスト教指導者や信者が逮捕され,彼等が中心になって行っていた「愛国啓蒙運動」に大打撃を与えました.
この様な状況下で,日本組合基督教会では1910年10月,第26回定期総会で,
「全会一致を以て朝鮮人伝道の開始」
を決議し,朝鮮伝道部の主任として,渡瀬常吉が任じられました.
この背景には日清戦争の勝利により,朝鮮に於ける日本の権益が国際的に認められた事があります.
その威光を以て,遅れている朝鮮と言う国に日出づる国からキリスト教を布教しに行くと言う生臭い目的がありました.
三国干渉などで,この「朝鮮伝道論」は一旦下火になりますが,日露戦争での勝利により,この動きは再燃します.
元々,組合教会は何人かを朝鮮に派遣していましたが,それは偵察程度のものであり,本格的に宣教師を送り込む様になったのは,朝鮮併合の後の事です.
元々,この動きが出たのは朝鮮総督府の方からで,最初,日本基督教会の植村正久に話を持ちかけますが,植村はそう言った生臭い動きを拒否し,組合教会の海老名弾正に依頼し,その承諾を得て,直弟子の渡瀬常吉が派遣されることになったという経緯があります.
因みに,渡瀬常吉が派遣されるのにはもう2つ理由があり,伊藤博文を始め日本の政財界の支援の下にあった大日本海外教育会による京城学堂の学堂長を8年間務めた経歴があったからでもあり,その結果,「朝鮮教化の急務」による朝鮮伝道論を持論としていたからでもあります.
渡瀬の考えは,
「朝鮮併合は,日本が世界の大勢に順応した結果である.
東洋の平和を永遠に保証する為,日本帝国存在の必要と同時に,朝鮮一千五百万民衆の幸福を観念した結果である」
と,日韓併合を全面的に肯定すると共に,
「吾人は併合後に於ける帝国の施設が,着々朝鮮民族の幸福を増進しつつあるを信ずる者である」
とまで言い切っています.
そして彼の考えでは,朝鮮人の教化には二重の問題があると考えていました.
その二重の問題とは,
「人類としての教化問題と国民としての教化問題である」
と言い,続けてこう述べています.
――――――
朝鮮人を教化せんとする宗教家は,朝鮮人を人類同胞の立場より,之を単に宗教的信仰に導くと云ふに止めず,更に一歩を勧めて日本と併合せられた朝鮮人として,其の最も幸福なる道行きは如何にすればよいかと云ふ事を考へ,多少彼等の心中には反抗心があっても,それを説き暁して日本国民として立つの覚悟に到着せしめねばならぬ.
此れは朝鮮民族の幸福を希ふの自然の衷情より自然に到着する要点である.
若し朝鮮民族が日本国民たるの自覚を持つことを拒み,長く反抗的状態を有して居るならば,其の不幸は一通りではない.
進歩もなく,発達もなく,随って希望もなく,自暴自棄あるのみである.
――――――
そして,この伝道には外国人宣教師ではなく,日本の宣教師のみ担うことが出来ると主張します.
時を経ても,人間の考えることなんか殆ど変わってないと思う主張に,しばしば出会うのですが…
それだけ,日本人は発展がないのかしらん.
この主張には,組合教会内の一部に批判者がいたものの,1911年から朝鮮伝道は急ピッチで進められ,1918年末には教会数150,信徒数14,387名を擁する程に拡大しました.
この裏には当然,朝鮮総督府から約6,000円に上る支援金や,有力財閥からの寄付が存在した訳ですが….
組合教会の朝鮮伝道部に所属する教会のうち,50教会は他教派からの加入で,専任教師は71名で47.3%,教会人総数の43.7%に当たる620名は未受洗者であり,会堂を持つ教会は,全教会数の29.3%である44教会に達しました.
当然,こうした「作られた」伝道で勢力を急拡大したとは言え,それは砂上の楼閣に過ぎません.
1919年に起きた,朝鮮独立運動の大きなうねりである三・一運動を契機に,朝鮮人信徒が組合教会を離脱し,勢力が急激に,1920年末に15,000名を誇っていた信徒が,1921年末になるとたったの2,955名になってしまいました.
こうした急激な信徒数減少により,それまで陰に陽に支援してきた朝鮮総督府から「見捨てられ」てしまいます.
この為,日本組合基督教会は10月の年次総会で朝鮮伝道部を廃止し,朝鮮に於ける所属教会を分離独立させ,其の名称を「朝鮮会衆基督教会」と変更して,伝道事業から撤退するに至った訳です.
結局,先述の乗松雅休氏の様に,真に人々の懐に飛び込まない様な布教の仕方は,全く受け入れられなかったのです.
ところで,朝鮮でのキリスト教信仰の特徴は,朝鮮半島にキリスト教が入る以前,既に海外で生活していた朝鮮人社会に信仰の群れが形成されていたことにあります.
最初の信者となったのは,満州で人参交易に従事していた徐相崙で,1879年にスコットランド宣教師のジョン・ロスによる宣教を受けたのが切っ掛けで,徐はその後,ロスを助けて朝鮮語の聖書翻訳にも携わっています.
また,日本では李樹延が津田仙の伝道で日本人牧師の安川亨から洗礼を受けたのも,1883年の事で,まだ本国での宣教が開始されない時期でした.
その李樹延は,既に東京に来ていた朝鮮人留学生達に伝道を行い,1906年,彼等は東京朝鮮YMCAを設立します.
そこで礼拝をしていた留学生達は,更にYMCAとは別に教会を設立することで意見が一致し,朝鮮長老教会に牧師の派遣を要請したのが,今日の在日大韓基督教会(東京教会)の始めとなっています.
1909年になると,朝鮮イエス教長老会は東京在住朝鮮人信仰の群れの為,1907年に平壌長老会神学校第1期卒業生7名のうちの韓錫晋牧師を日本宣教師に任命し,東京に派遣しました.
韓牧師の任命理由は,欧米化した日本社会に対応できる開花された人物であり,朝鮮併合と言う状況に置かれていた東京の留学生達を守れる民族意識のある人物であり,朝鮮より先にキリスト伝道が開始された日本で活動できる優れた人格者であり,優秀な留学生を知識面でも指導できる学者であると言う4つの理由から選任されました.
韓牧師は滞日わずか3ヶ月だったのですが,韓牧師が東奔西走したお陰で,日本に於いて朝鮮人信仰者の組織が整備されたと言います.
そして朝鮮併合後は,布教の対象を,留学生から日本のブルーカラーとして雇われた庶民階級へと移し,伝道の地域も当初の東京周辺から関西地域へ,そして九州,中部,北海道へと広がっていきます.
また,日本の敗戦後も在日韓国人宣教の為に,大韓イエス教長老会統合,合同,大神,合正,基督教長老会,大韓監理会,大韓聖潔教会の7つの教団が宣教師を派遣し,在日大韓基督教会には,教会数96,教職116,信徒約7,000名ほど居り,在日大韓基督教会に属していない単立系教会と日本の教団に属している教会も同じくらいあるそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/22 23:27
【珍説】
1895年,日本人暴徒らが朝鮮高宗の皇后である明成皇后〔閔妃〕(1851〜1895)を殺害した乙未事変当時,明成皇后が殺害された地点と殺害の過程を詳しく記録した日本側の資料が初めて公開された.
当時日本の京城駐在一等領事 内田定槌が作成したこの報告書は,乙未事変の直後,直接現場を調査した後,事件発生から3か月足らずの1895年12月
21日,本国に真相を報告した内容で,信憑性が非常に高いと評価される.
報告書は1895年10月8日未明,景福宮に乱入した日本人たちが高宗と明成皇后の寝所のあった乾清宮に侵入した経路と,皇后殺害の地点,皇后の遺体をしばらく安置した場所と遺体を燃やした地点を記している.
学界では,これまで暴徒の一員だった日本人と目撃者などの手記,証言を根拠に,明成皇后が玉壺樓の室内で殺害されたとし,これを土台に光復以後,政府は玉壺樓の近くに「明成皇后遭難之地碑」を立てたりもした.
李泰鎭教授は
「室内ではなく,宮廷の庭先で多くの人が見守る中,殺害されたということは,当時の状況が刺客による暗殺ではなく軍事作戦同様の宮城占領事件だったことを意味する」とし,「日本が殺害場所を長い間隠蔽したという点から,彼ら自らこの事件が明らかな蛮行であったことを認めたと言える」
と話した.
【事実】
この発表については,この質問状に見られるような多くの疑問点があり,全く信用できない.
なお,この質問状と,李の回答,それへの再反論などの梗概は,以下で読める.
日本の原資料にも当たっておらず,資料にも載っていないことを記事が捏造していたことが明かに.
一次史料で読むバファリン作戦
「NAVER総督府」◆(2006/10/06)バファリン作戦
「獄長日記」◆(2006/10/01)一次史料に見るバファリン作戦(一)
李がなぜ教授で通用するのか謎.
まあ,日本にも和田春樹のような東大教授もいるが.
【回答】
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuusandai
によれば,
・日韓併合(1910)以前の欧文資料や日本語資料では,この写真の説明を「正装の韓国夫人」「宮中の侍女」「女官」などとしているのであり,「閔妃」とするものは全くない.
・朝鮮王室の慣例では王妃はクンモリをしないと推測できる
・にも関わらず,「閔妃」であると広く流布されているのが実状
ということから,閔妃ではなく女官である可能性が高い.
また,同サイトによれば,閔妃の写真は存在しないという.
さらに,
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi051.html
によれば,世界風俗写真帖 第二十図(1901年発行)に掲載されていた写真なのだそうで.
記述を信用すると,普段からクンモリをして働かせていたということでしょうか.
纏足みたいなものかもしれません.
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