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◆◆スエズ戦争以降 a szuezi válság
<◆戦史
<中近東FAQ目次
【質問】
スエズ危機とは?
【回答】
1956年7月にエジプトのナセル大統領が,スエズ運河の国有化を主張したことに始まる,一連の事件.
元々スエズ運河は,19世紀に英仏が建設したもので,イギリスとインドを結ぶ,重要な交易路だった.
スエズ危機が起きた時には,イギリスの輸入の4分の1がこの運河を経由していて,イギリスは,ナセルのスエズ運河国有化に対し「ヒトラー」を比較対象人物として挙げ,危機感を募らせた.
ナイ教授は,その危機感についてこう解説する.
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イギリスの首相,アンソニー・イーデンは,この行為をイギリスにとっての重大な脅威と考えた.
彼はナセルを新たなヒトラーと見なし,1930年代との類推,すなわちヒトラーがラインラント進駐をした時にイギリスが何の行動もとらなかったこととの類推をした.
ナセルのアラブ民族主義へのアピールが中東におけるイギリスの地位を揺るがすのではないかと恐れ,また,ナセルがソ連製の武器を購入していることも懸念した.
この事件が冷戦中に起こったことを忘れないでほしい.
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1956年8月~9月にかけて,英米はスエズ運河使用国連合なる組織を提唱して,スエズ運河の国営化はともかく,管理は運河を使用している国々に任せるべきだと主張した.
これに対して,ナセルは拒否を示したが,この間にイギリスとフランス,イスラエルは秘密裏に計画を立て,ナセルの教唆で「自衛と称して,国境を越えてのゲリラ活動に悩んでいたイスラエルが」これを口実として,エジプトに侵攻することになっていた,
さらに,英仏はそれを「スエズ運河における脅威である」として,介入の口実としようとしていた.
この筋書き通りにイスラエルはエジプトのシナイ地域に侵攻を行い,これについての正当性として,国連憲章第51条を持ち出した.
イスラエルがシナイ半島をスエズ方面に向かって侵攻すると,英仏は「運河の損害を食い止めるために,介入せざるをえない」と宣言した.
国連安保理では,この問題について議論し,英仏の口実を認めずに,停戦を求めたが,英仏は拒否権を使用して,停戦を阻止した,
英仏の目的はナセルの排除であって,それを実現するまで,介入を行うつもりであったのである.
これに対して,当時の国連事務総長である,ダグ・ハマーショルド(Dag Hammarshjold)は,カナダの外相レスター・ビアソン(Lester Pearson)と共に,国連平和維持軍をイスラエル軍とエジプト軍の間に投入することで,両軍を分離させ,交戦をやめさせる計画を立てた.
これによって,英仏はもはや,介入の口実を維持できなくなった.
国連総会では,拒否権が使用できないため,そこでの決議でシナイ地域への国連軍の派遣が認められた.
このときアメリカは,英仏を支持しなかった,
英仏の介入がアラブの民族主義者を怒らせて,中東におけるソ連のプレゼンスが増大する可能性を考えたからである.
このときアメリカは,逆に,ピアソン=ハマーショルドの案に賛成し,イギリスに圧力を加えるために,IMF(国際通貨基金)が,イギリスに借款を与えることを拒否した.
イギリスはポンド危機もあり,結局のところ,これに屈して,停戦合意を受け入れた.(なお,この当時,ソ連はハンガリー介入に手一杯だった)
ここでの英仏の行動について,ナイ教授はこう述べている.
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英仏が停戦を受け入れたのは,アメリカの圧力もあったが,彼ら自身が持ち出した法的口実に絡められてしまったことも理由の一つであった.
イスラエルとエジプトを引き離し,運河への損害を食い止める別の方法が生まれてしまったからである.
11月25日,シナイ半島の敵対勢力同士の間に初の国連派遣軍が投入され,12月末には国連が運河で沈没した船舶を撤去する任務についた.
国際法と国際組織の使用と誤用の典型が,スエズ危機を巡る政治の中心だったのである.
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詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第2次中東戦争について教えられたし.
【回答】
第2次中東戦争(スエズ動乱)は,いろんな意味で後世に影響を与えた.
特に惨敗したアラブ側では,このままじゃいかーんということで様々な改革運動が始まる.
エジプトでは社会主義の影響を受けたアラブ民族主義グループがクーデターを起こし,旧体制(王制)を打倒する.
トランスヨルダンは「戦利品」のウエストバンクを自国に併合しちゃうんだけど,これに怒ったパレスチナ人に国王が暗殺される.
エジプトの革命後,すったもんだあって実権はナセルが握る.
ナセルはスエズ運河の国有化を宣言.加えてソ連に接近することで,大量の軍事援助を引き出し,これに自信を得たナセルはチラン海峡を封鎖するなどイスラエルを挑発.
イスラエルは国是が「殺られる前に殺れ」なのでエジプトへの懲罰戦争を決意.
そこへスエズを奪われて頭にきてた英国が,運河の経営パートナーだったフランスを引き込んで,開戦と同時にスエズへ介入する密約を結ぶ.第二次中東戦争の始まり.
戦争自体はイスラエルがまさに無人の野を行く快進撃,英仏軍もスエズを抑えたんだけど,ここで激怒したアメリカが介入.お前ら何の勝手しとんねんということで3者を撤退させる.
とにかくは直接の軍事的脅威を破砕できたイスラエルはともかく,英仏は完全に面目を失い,逆に(列強の介入を撃退したということで)エジプトは大いに株を上げ,ナセルの主張する汎アラブ主義が世界を席巻することになった.
第二次中東戦争とは,1956年に起きた戦争である,
直接的な原因は,エジプト側からイスラエルへのゲリラ攻撃だが,より大きな原因として,エジプトのスエズ運河支配という目論見があり,英仏がこれに反発し,イスラエルと共謀して,エジプトを攻撃した.
1952年にエジプトのガマル・アブドル・ナセルら,ナショナリストが中心となって,ファルーク国王を打倒し,政権を奪取,ソ連からの支援を受け,スエズ運河の支配権を確立しようとすると同時に,イスラエルへのゲリラ戦を継続的にしかけた.
英仏は,エジプトの「スエズ運河支配」に懸念を抱き,イスラエルと共謀して,エジプトを攻撃した.
だが,ここでアメリカはイギリスへの支援を拒否し(ソ連との直接対峙を避けるため),国連の決議とともに平和維持軍が両軍を分離するために投入された,だが,平和条約は締結されなかった.
・第二次中東戦争の最も大きな理由は,エジプトのスエズ運河支配にある.
・英仏とイスラエルは共謀して,エジプトに攻撃を仕掛けた.
・アメリカはソ連との直接対峙を避けるために,イギリスへの支援を拒否した.
・国連決議によって,平和維持軍が投入され,戦争は終結させられたが,平和条約は締結されなかった.
まぁ,泥沼化へまた一歩という感があるな.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第2次中東戦争(スエズ戦争)についてお尋ねします.
①エジプトでは革命の結果ナセルが政権を掌握,彼は積極的中立政策を採用した.
②その中でソ連の援助によってアスワン=ハイダムの建設に着手した.
③これに対して米・英の経済援助停止でもって対抗した.
④これに激怒したナセルはスエズ運河国有化宣言を表明.
⑤これに対抗して英・仏・イスラエル3国が出兵.(しかし,国際世論の批判で撤退)
という流れですが,この戦争に肝心の米の姿が出てきません.その理由はどうしてでしょうか?
【回答】
アメリカはそれほどエジプト介入に積極的ではなかった.
まず,スエズ運河に利権を持っていたのは英仏であり,アメリカではなかった.
そしてサウジなどのアラブ諸国がエジプト支持の姿勢を見せ,中東へのソ連の影響拡大を阻止するために彼らの支持をつなぎ止めておきたかった.
あと,ソ連が核兵器使用をちらつかせたというのもある.
結局ナセルも反共に回って共産主義者を弾圧するし(1958年以降).
そんなわけでアメリカはむしろ戦争反対にまわり,1957年には戦後の中東への経済・軍事援助を打ち出す一方,
イラクのバース党やサウジのファイサルを支援したり,ベイルートに海兵隊を上陸させて「赤化」を食い止めようとした.
【質問】
'04年4月の「ゴーマニズム宣言」で
「スエズ動乱を利用してアメリカはイギリスを属国化した」
みたいなこと言ってるけど,あれってどうなの?
【回答】
否定も肯定もしようがない論ですな.
論が「価値的に中立だから」というわけではないですよ.
具体的にどんなソースに基づき,アメリカのどんな政策を批判,非難しているのか?
それすら分からないのに批評のしようがないんですよ.
「GVL;ぅGGVDRL;KJ78いP7VBぅ,だからアメリカは悪いやつだ.」
これだと「アメリカは悪いやつだ」しか分かりませんよね.それと同じことです.
例えば,当時のイギリスは既に「勢力」というほどのものを持っていなかったと思いますが,作中ではインド以東を失っただけで,中東ではギリギリで勢力を保持しているように描かれています.
その根拠は不明です.作中でも触れられているバグダッド条約(機構)が根拠にされているっぽいですが.なんでも,当時の中東は大英帝国の生命線だそうで(苦笑).
確かに,スエズ運河とエジプトの英軍基地の確保が帝国の生命を支えると英国は考えており,それを保障する1936年条約を恒久化しようとしていました.
しかし,イギリスのエジプトでの立場は第2次大戦後には急速に弱まっていました.52年のエジプト自由将校団の革命後,54年にはイギリスの完全撤退を決定する条約が取り交わされています.(池田美佐子
from 「歴史のなかの開発」,岩波書店,1997/11/25,
p.159).
ちなみに,イギリス軍がエジプトから完全撤退したのは,スエズ危機の数ヶ月前です.
スエズ危機を待つまでもなく,中東における英国の影響力は殆ど失われていたのです.
「ロイド英国外相にダレス米国務長官は信じられないことを言った
『なぜ君達は徹底的にやって,ナセルを打倒しなかったのかね?』
ダレスこそが国際社会を率い,
あらゆる妨害を行ってイギリスを敗北に追い込んだ張本人だったのに」
という記述も,元ネタがありそうな印象ですが,これもソースは明らかにされていません.
さらに,
「ひとたびアメリカが本気で走り出すと,
イギリス政府は途端にスエズ・シンドロームが甦り,
全力でアメリカについていくしかなくなってしまうのである」
という記述も,コマ左奥に突進する米兵たちに何か訴えながら後を追う英国紳士たちの図と共に描かれていますが,具体的にどんな政策を指しているのかは分かりません.
それに,例えばフォークランド紛争の時,イギリスはアメリカの停戦案を蹴ったのですが.イギリスはどの「アメリカ」について行ったというのでしょう?
また,以下のような見方もあります.
アフ【ガ】ーン攻撃に当たり,ブッシュ政権内部では2つの考え方がありました.
1つは,米軍は軍隊の全勢力を注ぎ込んで戦う.テロ組織のみならずテロ支援国家やネットワークにまで戦域を広げて戦ったとしても,これを根絶できる十分な戦力をアメリカは持っている.そういう強硬派の考え方です.
もう1つは,初めから戦域を拡大したのでは,作戦目的が曖昧になり,実現できない.だからこそ目標を限定し,明確にすべきなのだという考え方です.
この2つの意見が,アメリカ政府の中でぶつかり合い,徐々に後者の意見が支配的になっていきました.それは国家安全保障担当のライス大統領補佐官が,パウエル国務長官に近い考え方をしたからです.
最終的には,最強の同盟国である英国,特にブレア首相が,この限定作戦に強く賛成したことが大きく影響したと考えます.
(森本敏〔安全保障問題専門家〕 from 「『新しい戦争』を知るための60のQ&A」,
新潮社,2001/11/15,P.49-50,抜粋要約)
その3コマ前では,
「英国の最大の外交課題は
米国との関係維持であり,
「あらゆる代償をいとわず,
イギリスの政策を
アメリカの政策に同調させる
ことが安全な道」という認識が
政権与党に広まった」
と書いていますが,これもどんな政策を同調させるのか書いてないので,全く分かりません.
さらに,小林のいう"政権与党"ってのが,保守党なのか労働党なのかも判然としないんです.
文脈からすれば,小林の言いたい政権与党というのは,イーデン政権やマクラミン政権時代の保守党の事なのでしょうが,現在のブレア政権は労働党なんですよね.
さらにまた,アメリカがイギリスに対して怒った理由に,ハンガリー動乱の隙を突かれたということがありますが,いっさいそれは触れられていません.
要は,
「メンツを失ったイギリスは,アメリカについて行かざるを得なくなりました.同盟なんか信じたらダメよ」
という話のようですが,「そこからじゃあどうするの?」という点に関しては,
「『親米』を利用して独立するなんて事はありえない!
イギリスのように,益々,属国化が進むだけだ!
韓国のように感情的な『反』ではなく,
独立自尊の精神を失わぬための,
作法としての『反』を我々は貫かねばならぬ!」
と纏めるだけで,具体的なプランも提示されていません.
普段,小林自身がやってることは,到底『作法としての「反」』には思えないレイシズム剥き出しのものであり,説得力があるとは思えませんし.
そしてまた,ドゴールの対中東政策を誉めてますが,あれはフランス国内でも受けは悪かったんですよね.
NATOも実際には北大西洋理事会・政治委員会・防空警戒管制システム等に参加してるし,アメリカと核兵器の技術情報交換協定も結んでいたりもします.
それらを見ても,フランスが自主独立外交と言えるかどうかは疑問です.
こうした,小林トリミングの技法を使えば,冷戦期のソビエトをアメポチにしたり,プエルトリコを独立自尊の国とする事さえ可能でしょう.
簡単に騙される馬鹿にだけ通じる書き方すりゃいいんだから,楽だよな.
(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo他 in コヴァ板・軍事板出張スレッド)
&(軍事板)
【質問】
スエズ危機が,フランスとイギリスの「国際法の誤用」によって,正当性を失ったというが,それまでイギリス・フランス・イスラエルは,エジプトに介入したではないか?
結局のところ,利害の対立の前では,国際法など無意味では?
【回答】
たしかに,決定的な利害の対立の前では,国際法では国家を縛れないが,その国の政策の方向性について影響を与えている.
「法律」が権力闘争の一部を担っているからだ.
ナイ教授は次のように説明している.
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政府自身が法律論をすることの重要性を認識しているという事実,国際組織の決議を考慮に入れているという事実は,国際法や国際組織がまったく意味のない存在でないことを示している.
1つ警句風にまとめてみよう.
「美徳保持のそぶりが悪徳からなされるとすれば,美徳にもそれなりの価値があることがわかる」
単純に言えば,政府は自らの法的な言い訳に足をすくわれることがある,ということである.
もう一つの例として,国連安保理決議242号がある.
この決議は1967年の中東戦争終結に際して通過したものであるが,戦前の国境への復帰を求めている.
長い年月の間,この決議によって,戦争中に獲得した領土をイスラエルが占領し続けることの正当性が否定されてきた.
この決議は,国連においてイスラエルを守勢に立たせた.
アラブ諸国家は戦争には負けたが,イスラエルに圧力をかけることができた.
1976年にアラブ諸国の連合が,国連からイスラエルを除名しようとした時,アメリカはこれを阻止しようとして,国連総会で大変な政治コストを払わねばならなかった.
このことからも,国際組織における正当性が権力闘争の一部をなしていることがわかるであろう.
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国家は,確かに自らの生存がかかっているときには,自らのもっとも有効な権力形態であり,強制力である「軍事力」を使用する.
この事実は,武力行使に対処する場合に国際法や国際組織が限定的な成功しか収められないことの説明にはなる.
麻薬取引・海洋での船舶衝突・特許侵害などは国際法に任せることができたとしても,国家の生存がかかる場面では,国際法に従うかどうかという話は,また別の話になる.
これこそ,WW1までの「集団安全保障」の問題点だった.
だが,国連憲章では,これを修正した形での集団安全保障システムを作り上げ,少なくとも国際連盟よりも,強制力を持たせることに成功した.
以上を纏めると,
・利害が決定的に対立した場合,国際法や国際組織は,これを抑制することはできないが,その過程や戦後処理などに当たっては,その政策に影響を与える.
・国際法や国際組織などの「正当性」は,権力の一部分を担っている.
・それを覆そうとすれば,大きな政治コストが必要となる.
ということになろう.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第2次中東戦争時のイスラエル軍の兵員輸送手段を教えてください.
【回答】
第2次中東戦争で兵士輸送に活躍したのが,エゲッド社のバス.
弾除けのため窓が小さいのが特徴で,内部はまさに囚人護送車.
今ではイスラエルの排ガス規制に引っかかるので,イベント用として残っているようです.
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CRS@空挺軍 in mixi,2008年10月27日21:00
青文字:加筆改修部分
【質問】
スエズ戦争における,人形投下作戦について教えてください.
【回答】
スエズ戦争において,イギリス軍はスエズ河口のポートサイドに木製やゴム製の人形を投下し始めた.
エジプト軍はこれを空挺部隊の降下と判断し、人形に集中砲火を浴びせた.
これですっかり手の内をさらけ出してしまったエジプト軍に対し、イギリス・フランス両軍は防衛要所を狙って攻撃を加えてこれを粉砕し、その後の降下・上陸作戦を有利に進めることができた
--という話なんだが,この話,1つのサイトにしか出ておらず,原出典も不明で,信頼性には疑問符がつく.
【参考ページ】
http://www.geocities.jp/aydahn42df5/heihou3.html
【ぐんじさんぎょう】,2010/03/11 23:00
を加筆改修
ノルマンディー上陸時の夜間空挺作戦で,人形を降下させたと言う話ならば知っていますがね.
ROCKY in mixi,2010年03月10日 00:26
こことか
http://en.wikipedia.org/wiki/Paradummy#British_paradummies
ここにも
http://home.att.net/~1.elliott/paratrooperdummyhistorysite.html
スエズ戦争については書かれていませんねえ.
ROCKY in mixi,2010年03月10日 00:37
◆◆PLO誕生以後
【質問】
PLOについて教えられたし.
【回答】
第2次中東戦争後,パレスチナの解放を目的として立ち上げられたのがPLO.
それとは別に,ファタハという組織が結成され,これがパレスチナ各地でゲリラ活動を行った.これの頭目がアラファト.
ファタハのゲリラ戦は中東全体の不安定化を招き,またもや緊張感が高まってゆく.
アラブ各国の要請もあって,エジプトはシナイ半島の国連監視軍を撤退させ,またもやチラン海峡を封鎖.
で「殺られる前に殺れ」のイスラエルは再び戦争を決意.第三次中東戦争が始まる.
奇襲効果もあってイスラエル軍は快進撃を見せ,ウエストバンク,ガザ,シナイ半島,ゴラン高原を占領する.
アラブ側は軍事的に完全敗北し,ナセルの権威は地に落ちた.
終戦後,それでもファタハはヨルダンを拠点にゲリラ活動を続け,いくつかの成果を上げる.
で,それを買われ,アラファトが正式にPLOのトップに選ばれるんだけど,PLOの下部組織が勝手に王制打倒運動を始めたのがヨルダン政府の激怒を誘い,精鋭ベドウィンで構成されるヨルダン軍とPLOの間で壮絶な内戦が始まる.いわゆる「黒い9月」.
ゲリラがガチで正規軍に勝てるわけもないんで,PLOはレバノンに逃げていく.
この内戦の仲介に奔走したナセルは過労もあって心臓発作に倒れる.
さて第三次中東戦争でビッグな占領地を得たイスラエルの国内では,あまりにも楽勝だったもんだから,
「これらの土地は神がイスラエルに与えたもうたものだ」
という考えが広まる.
20世紀に何を言ってるんだと突っ込まれるかも知れんが,もともとユダヤ人ってのは宗教を根幹に構成されてる民族であることを思い出していただきたい.
まあそれとは別に世俗的な思想では,
「パレスチナには既にヨルダンというアラブ国家があるじゃないか.だから残りの部分はイスラエルのものだ」
と考える人も増えてくる.
いわゆる大イスラエル主義だな.
この思想の実行,占領の既成事実化,防衛拠点の構築等,さまざまな目的から,イスラエルは占領地に続々と入植地を建設.
それに伴って既存のパレスチナ人の街やインフラを破壊したりする.自分らに都合よく線を引く為に.
当然パレスチナ人は怒る.特に難民キャンプで生まれた第二世代の若者たちがゲリラに身を投じるようになる.
当時は革命路線が華やかりし頃だったから,PLOの一部勢力はあちこちの極左勢力と結びつき,世界各地でテロやハイジャック事件を起こした.日本赤軍の岡本公三によるロッド空港乱射事件なんてのもあったな.
これに対してイスラエルは容赦なく報復(幹部の暗殺,難民キャンプへの攻撃など)したから,ますます両民族の憎悪は蓄積されていったのだった.
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
【質問】
なぜフセイニはPLO初代議長になれなかったのか?
【回答】
ナセルに嫌われたため.
ナセル・エジプト大統領はナセリズムと呼ばれる汎アラブ主義を打ち出していたが,アラブの団結を鼓吹するナセルは,ガザを支配権拡大の足掛かりにしようとした.
パレスチナの一部であるガザは,イスラエル建国に伴う1948年の中東戦争でエジプトに占領されていた.
アラブ高等委員会を率いるフセイニは,48年頃からガザに「パレスチナ政府」を根付かせようとしていたが,ナセルはパレスチナ解放闘争の再編を目指す.
カイロで64年1月に開かれたアラブ首脳会議は,PLO設立を決定.フセイニを嫌うエジプトは,このとき,サウジアラビアの元国連代表,アハマダ・シュケイリを初代議長に据えたのである.
4ヶ月後,PLO結成後初の「パレスチナ会議」が,東エルサレムのオリーブ山頂のホテルで開かれる.
この会議にフセイニは出席しなかった.
だが,フセイニの他にも会議をボイコットした人々がいた.アラファトが率いる武装組織ファタハがそれだった.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.79-80,抜粋要約)
【質問】
アラファトは,どのように権力を確立したか?
【回答】
PLO結成後初の「パレスチナ会議」を,アラファト率いる武装組織ファタハはボイコットした.穏健路線のシュケイリPLOは,しょせんナセルの政治的道具に過ぎないとアラファトらは読んだからである.
そして,その通りになった.
ほぼ3年後の第3次中東戦争でアラブ側はガザも西岸も失い,ナセルの力も衰えた.
するとアラファトはシュケイリをPLO議長の座から引き摺り下ろし,自分が議長に就任(69年)したのだった.
次いでアラファトはフセイニを封じ込める..
一時はフセイニと連携していたアラファトだったが,アラブ諸国の支持を失ったフセイニが,ムスリム同胞団などイスラーム組織の支持に依存したのに対し,PLO議長になったアラファト派,イスラーム武装組織と徹底的に対立.遂にはフセイニ・アラファトの亀裂も決定的なものになったためである.
こうしてパレスチナ解放運動の「顔」になったアラファトだったが,しかし,絶頂期は長くは続かなかった.
70年9月から71年にかけてのヨルダン内戦,いわゆる「黒い9月事件」によって,PLOはヨルダンから追い出される.
PLOはレバノンに逃れるが,今度はイスラエルのレバノン侵攻に遭い,レバノンからの分散退去を余儀なくされ,チュニスへ本部を移動.
その後の経緯は,各項目で述べられる通り.
(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.81-82,抜粋要約)
そして2004年11月,入院先の病院で死去.権力への妄執や,蓄財疑惑が囁かれるなど,晩節は決して誉められるものではなかったと言えよう.
【質問】
中東戦争で,エジプトのアスワン・ハイダムはイスラエルにペイント弾を落とされたとウィキペディアに記載されていたのですが,イスラエルはこのダムを破壊する事は考えなかったのですか?
【回答】
ペイント弾を落としたという話は都市伝説です.
日本語版のWikiにはその記述が残っていますが,元となった英語版では,その記述は事実ではないものとみなされ,削除されています.
【質問】
なぜナセリズムは衰亡したか?
【回答】
1967年の,6日戦争での大敗が主因.
非常に大雑把に書けば,
1967年のアラブ敗北
↓
マルクス主義流入による再編・人民闘争思想
↓
挫折
↓
イスラーム主義台頭
↓
↓(一部の先鋭化)
↓
イスラーム過激原理主義
といった流れ.
事実,6日戦争を境に,ナセル自身,宗教回帰したかのような政策がとられている.
すなわち,エジプトでは敗北の衝撃によって,民衆は宗教に慰めを見出したのだが,政府はその宗教心を取り込むことで権力維持を図っておる.
例えば,エジプト軍兵士にはジハードの意味や重要性,預言者ムハンマドによって戦われた数々の戦闘について記した文書が配布され,1968年4月には,ムスリム同胞団10万人が釈放されておる.
さらに外部要因(1969年7月のアルアクサ・モスク放火)が一層民衆の宗教心を刺激することになっておる.
これら動向をナセリズムと見なすことは,我輩には非常に困難なのである.
まあアラブ民族主義自体,ナセルの台頭→死と盛衰時期を共にしてますから.
すなわち,ヨルダンの9月内戦と,その収拾に奔走したナセルの「過労死」が,衰亡を決定づけたかな,と.
完全にトドメを刺したのは湾岸戦争であり,冷戦終結な気はします.
(イラン国防相 ◆2ahDXUlKbw & イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)
【質問】
中東におけるアメリカの「代理戦略」とは?
【回答】
英軍の「スエズ以東から撤退しちゃうよーん」発表が1968年にされると,ペルシャ湾に危険な空白が生じることをアメリカは危惧しました.
なんたって大事な石油供給源.もし,その地が争奪戦に巻き込まれると,ちょーヤバイ.
でも,当時はヴェトナム戦争がピーク.アメリカには,その真空を埋める余力がありません.
「じゃあ,代わってイランとサウディアラビアに,西側の利益の『守護者』になってもらう」
で,1970~78年だけで,アメリカはイランに200億ドル以上の兵器を売却.
でも,イラン革命が起こって,この戦略は崩壊してしまいましたとさ.
どっとはらい.
詳しくは,Michael T. Klare著「世界資源戦争」(廣済堂出版,2002/1/7),P.91-92を参照されたし.
なお,M. T. Klareは「平和と世界安全保障に関する5大学研究プログラム」理事.
【質問】
オマーン解放人民戦線とは?
【回答】
1960~70年代,ドファール地方においてスルタン体制に反旗を翻した,左派ゲリラ組織.
しかし,1975年には鎮圧され,その後はテロ活動に移行した.
今日では冷戦終結の結果,イエメンが統合したこともあり,殆ど活動を聞く事はない.
当時の活動については以下引用.
総兵力2万人のオマーン軍が最も重視するのは,首都マスカットを除けば南部ドファール地方である.
ドファール地方はオマーンの〔,ホルムズ海峡と共に〕もう一つの傷つき易い地点と言ってよい.
この地方は山また山の山岳地帯であり,その山肌には褐色の乾いた土と岩に辛うじて背の小さな潅木が点々と散らばるだけである.
山間に幾本かの砂漠の川「ワジ」が流れる.しかし「ワジ」は,1年の僅かの期間を見舞う雨季に激しく流れる以外は,乾いた川筋に過ぎない.
アラブの人々はドファールを「アラビア半島の最も弱い肌」と呼ぶ.ドファールから国境線を越えると,そこは南イエメン(イエメン人民民主主義共和国)である.
〔略〕
かつて1960年代から70年代にかけて,このドファールの岩山にゲリラ勢力が陣取り,中央のスルタン体制に反旗を翻した.
それが「オマーン解放人民戦線」である.
南イエメンやソビエトの支援を受けていた彼らは,南イエメン領内のゲリラ基地から出撃し,オマーン軍を悩ませた.
しかしオマーン軍は1975年12月,「ゲリラ勢力の鎮圧に成功した」と発表する.
オマーンと南イエメンも76年,停戦協定を発効させた.
〔略〕
しかし,反政府ゲリラの活動が根絶されたわけではない.
1978年,サララから東に30キロのタカの海岸で,オマーン軍に働くイギリス人技術者五人が襲撃され殺害された.
翌79年にもほぼ同じ地点で,ニュージーランド人がゲリラ3人と18時間に渡って交戦し,殺害されるという事件が起きている.
サララは南イエメンとは国境線から約120キロほど離れており,襲撃事件の起きたタカはさらに遠い.
これは,武器を持った反政府ゲリラが依然オマーンの内奥に残存している事を物語っている.
佐藤健爾 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.118-120
【質問】
オマーン内戦とSASの関わりは?
【回答】
SASは60年代と70年代に多くの時間を費やして,オマーン首長の軍隊がマルクス主義者の長期的な反乱を平定するのに力を貸していた.
私〔Gaz Hunter〕の父は,その活動に深く携わっていた.
その紛争の勝敗を決した重要な戦いの一つで,SASは決定的役割を演じている.反乱軍の拠点であるラドファン山地に,不可能とされていた側から攀じ登り,敵の不意を突いて猛攻を加え,勝利をもたらしたのである.
親父は,その立役者の一人だった.
(Gaz Hunter 「SAS特殊任務」,並木書房,2000/11/1, p.92)
【質問】
1960年代のオマーンの紛争の中でも,「破壊してはならない」という不文律があったものとは?
【回答】
ファラジがそれである.ファラジとはアラビア語で地下水道のことで,ペルシャ語のカナート,アフガーンのダリー語のカレーズと同じもの.
オマーンのファラジは,2000年以上も前に,オマーンを支配したペルシャ人が持ち込んだ.7世紀にイスラームがオマーンに持ち込まれた時までに,ファラジは全土に1万ヶ所あったと推定されている.
ニズワ,バハラ,ルスタークなどの城には,地下深くにファラジの流れがあり,井戸により水を汲み上げたため,敵に包囲されても水に困ることはなかった.
今でも大小2000箇所以上のファラジが使用されている.
数十m置きに縦穴を掘り,穴の底(地下約30m.場所によっては60m以上)から横穴を掘って合わせて1本のトンネルにしたものだが,地盤が弱いオマーンでは,垂直の穴は掘れない.このため,縦穴はクレーター状になる.掘り出す土砂の量は膨大なものだ.
双方から掘り進んだトンネルを地下深くで一致させるのは,現代の測量技術でもかなり難しいが,ペルシャ人がどのようにして地下測量をしたのか,はっきりとは分かっていない.
カブース首長は,石油資源が枯渇して,再び農業に依存しなければならない日に備え,現存するファラジを維持するよう命令を出している.
(林茂雄「イスラムのシルクロード」,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.,抜粋要約)
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