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◆◆六日戦争以降 a hatnapos háború
◆中東戦史
<中近東FAQ目次
『第三次中東戦争全史』(マイケル B. オレン著,原書房,2012.2)
【質問】
第三次中東戦争とは?
【回答】
1967年6月に起きた,通称「6日間戦争」と呼ばれる戦争.
この戦争は,その後の領土問題が形作られたところから,中東戦争の中でも,最も重要な戦争と言える.
エジプトのナセルとパレスチナ人たちは,ゲリラ攻撃でイスラエルに継続的にダメージを与えていた.
そして,エジプトはティラン海峡を封鎖して,紅海とイスラエルの海運を封鎖した.
この当時のナセルの行動について,ナイは以下のような分析を行っている.
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ナセルは,十分な戦争準備ができていたわけではないが,イスラエルとシリアの戦争の可能性が高まるとの観測を行い,もし両国間に戦争が起こればこれに参戦してもいいだろうと考えていた.
ナセルは国連に対し,平和維持軍をエジプト国境から撤退するように要求した.
イスラエルはナセルが戦争準備をしているのを見て,これを待つのではなく,先制〔攻撃〕することを決定した.
イスラエル軍は,エジプト空軍がいまだに地上にいる段階でこれを叩き,シナイ半島全域を占領したのみならず,シリアからゴラン高原を取り,ヨルダンからは西岸を獲得したのである.
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この段階で,米ソが介入して,両者に停戦するよう圧力をかけた.
1967年11月に国連安保理は,イスラエルが占領地域から撤退するのを交換条件として,平和と承認を得られることを求めた決議242号を通過させた.
しかし,この242号には意図的に曖昧な部分が盛り込まれていた.
この決議には「国連の公用語」として,数カ国版が用意されていて,その中には「すべての領土」ではなく単に「領土」と書いてあるものもあった.
つまり,一部は返還されないかもしれない・・・との意思が含まれていた.
さらに,パレスチナ人の地位についても曖昧で,彼らは難民として扱われ,「ネーション」すなわち「国民」とみなされなかった.
ここでも,「根本的な解決」とはならなかった.
・第三次中東戦争は,エジプトやパレスチナのゲリラ攻撃,ティラン海峡封鎖などが直接的な原因となった.
・イスラエルはナセルの戦争準備を見て,先制攻撃を仕掛けた.
・結果,米ソが仲介し,国連決議242号で,イスラエルの撤退が呼びかけられたが,これには曖昧な部分があり,火種は依然として残った.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
第三次中東戦争(1967年当時)の,アラブ側,イスラエル側の空軍力はどれくらい?
【回答】
その当時,アラブ側はイスラエル側に比べて4倍の航空力を誇っていた,
ただし,錬度や運用面,連携などにおいては,イスラエル側が圧倒していたと言える.
以下,イスラエル・エジプト・シリア・ヨルダン・イラク各空軍の空軍力.
<イスラエル>
・ミラージュⅢC戦闘爆撃機66機(101,117,119の3個飛行隊)
・シュペル・ミステールB-2戦闘爆撃機35機(1個飛行隊)
・ミステールⅣ-A戦闘爆撃機40機(2個飛行隊)
・ウーラガン戦闘爆撃機40機(2個飛行隊)
・スド・ボートゥール(Sud Vautour)ⅡA戦闘爆撃機25機
・フーガ・マジステール練習機60機
<エジプト空軍>
・Mig-21戦闘機/邀撃機180機(9個飛行隊)
・Mig-19戦闘機80機(4個飛行隊)
・Mig-15およびMig-17戦闘機150機(5個飛行隊)
・Su-7B戦闘爆撃機30機(1個飛行隊)
・Tu-16爆撃機30機(2個飛行隊)
・IL-28爆撃機40機(3個飛行隊)
<シリア空軍>
・Mig-21戦闘機36機(2個飛行隊)
・Mig-17戦闘爆撃機90機(4個飛行隊)
・IL-28爆撃機6機(1個飛行隊)
<ヨルダン空軍>
・ホーカー・ハンターMk.6戦闘爆撃機22機
・F-104A戦闘機6機
<イラク空軍>
・Mig-21戦闘機20機(2個飛行隊)
・Mig-19戦闘機15機(1個飛行隊)
・Mig-17戦闘爆撃機20機(2個飛行隊)
・ホーカー・ハンター戦闘爆撃機33機(3個飛行隊)
・li-28爆撃機10機(1個飛行隊)
・Tu-16爆撃機12機(1個飛行隊)
【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),167-174ページ
【質問】
それだけの航空兵力差がありながら,イスラエルに追い詰められるアラブ合同軍が不思議です…………
【回答】
それに関しては以下の通り.
イスラエル国防軍/空軍は,他のアラブ諸国に先駆けてまず,エジプトの空軍力を集中的な奇襲攻撃作戦によって叩く計画を立てた.
1956年のスエズ紛争における英仏軍の攻撃で,エジプト空軍は空爆で打ち負かすことができることが実証されていた.
訓練や計画,迅速な整備及び再発進準備といった質的違いが,アラブ側の計画が1日2回の攻撃であったのに対し,イスラエル側はパイロット1人あたり1日6回の攻撃飛行を可能にした,
イスラエル側はまた,先制攻撃と効果的な情報活動という強みを持ち,これによって無駄な出撃を抑えながら,爆撃機と高性能戦闘機を格納している最重要航空基地を標的とすることが可能だった.
奇襲攻撃や1機当りの出撃回数,パイロットや支援要員の訓練の優位性が勘案すると,イスラエル対エジプトの航空戦力比はイスラエルに軍配が上がった.
イスラエルが及ばなかったのは,アラブ側の全空軍力が集結した場合に対してのみであった.
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),169-170ページ
つまり,アラブ側が勝っていたのは「ハード面のみ」であって,運用面・戦略・パイロットの錬度・後方支援体制,すべてにおいて,イスラエルはアラブ側を圧倒していたわけです.
まぁF1が何台揃ってようが,動かす奴が素人じゃぁ,ベテランの運転するスカイラインに負けるわな.
(from 『頭文字D』(うそ))
【質問】
第三次中東戦争を分析すると,どんな感じ?
【回答】
数で劣るイスラエルだが,先制攻撃作戦とパイロットの差や運用面,後方支援体制でそれをカバーしたと言える.
この戦争でイスラエルは,アラブ側の航空機451機を破壊し,このうち58機を空中戦で,3機をAAAで,それ以外は空爆で破壊した.
詳細は以下の通り.
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イスラエル国防軍/空軍は3297ソーティの出撃を行ったと報じている.
イスラエルのジェット機は,対地攻撃によってアラブ空軍に対し,猛烈な一撃を与えた後,地上部隊に対して効果的な支援を行った.
イスラエルは46機を失い,23機が重大な損傷を受けたと発表している,
失った航空機のうち,4分の3は対空砲火によるものである.
数年後,1973年から1977年までイスラエル空軍司令官を務めたペンジャミン・ペレド(Benjamin Peled)少将は,格闘戦で10機が撃墜されたことを明らかにしている.
その他の情報筋は,11機がアラブ軍戦闘機に撃墜され,1機が空中戦後に燃料切れによって失われたとしている.
乗組員の損失としては,24人が死亡し,18人が負傷し,7人が捕虜となった.
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イスラエルのパイロットは非常な優秀さを発揮した,
訓練では機動と30mm機関砲が重視された.
使用したミサイルはマトラ530とシャフリルで,シャフリルはイラクのTu-16 1機に損害を与えた(その後,高射砲で撃墜された)
イスラエルパイロットの優秀さは,以下の記述からも分かる.
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ミラージュⅢCはイスラエルの主力戦闘機であり,アラブ軍機撃墜の主役となっている.
また他のイスラエル戦闘機や戦闘爆撃機も,空中戦で大きな勝利を挙げた.
シュペル・ミステールはマッハ2のMig-21を撃墜しているし,亜音速のボートゥール・ミステールⅣでさえも,ホーカー・ハンター撃墜の記録を残している.
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この戦争において,イスラエルはMig-21を,中高度において優れた格闘戦用戦闘機と評価している,
Mig-21は,加速性能と旋回性能では,ミラージュⅢCよりも高性能だった.
ただし,Mig-21は損傷に非常に弱く,30mm機関銃数発で炎上または爆発してしまうことが多かったようだ.
Mig-17に対しても,旋回性能に優れているため,命中弾を与えるのが難しく,頑丈なので,撃墜するのに多数の弾を撃ち込まなければならない,
このため,Mig-17に対するイスラエルの評価は高いようだ.
アラブ側のパイロットについては以下の通り.
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アラブのパイロットは,戦闘機の性能限界まで使った戦闘を使わなかったため,イスラエルのミラージュⅢCに乗るパイロットは,15機のMig-21を含む48機を撃墜することができた.
イスラエルによると,イラク軍とヨルダン軍のパイロット技量は優れていたが,エジプト軍のパイロットは人によって技量に大きな隔たりがあり,シリア軍パイロットは一番低い,と判断されている.
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総括としては以下の通り.
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イスラエルは奇襲攻撃と高度の戦闘技術を持って,エジプト,シリア,ヨルダン,イラクの航空戦力を地上で撃破し,敵の数的優勢を覆し,アラブ軍の士気を瓦解させることに成功した.
この緒戦における攻撃に成功したため,イスラエルは航空優勢を手に入れ,直ちにイスラエル地上軍の進撃速度を高めることに貢献したのである.
もし航空優勢を得るために激しい空中戦が行われたとすると,双方とも疑いなく大きな損害を出し,戦争はもっと長引いたことであろう.
この戦争では,かなり新式の兵器が使われたが-マッハ2の戦闘機,滑走路破壊用爆弾,地対空ミサイル,空対空ミサイルなど-電子戦や新型ミサイルが重要な役割を果たすことはなかった.
結局のところ,6日間戦争は古典的な戦争で,細心の作戦計画と,激しい訓練,兵力の迅速な運用,そして戦術的イニシアチブの発揮が勝利をもたらしたのである.
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引用部分は『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),183-188ページ
【質問】
六日戦争が,南アラビア連邦からの英軍撤退のきっかけとなった経緯は?
【回答】
さて,1960年代後半のエジプトは,アラブ世界の盟主として君臨していました.
そして,サラセン帝国もかくやという勢力圏を築き上げます.
それは後に砂上の楼閣の様に消えてしまったのですが,エジプトはシリア,イラク,スーダン,リビアと友好関係を樹立し,シリアとは連邦を構成していたりします.
勿論,ナセルの関心はそれだけにあらず,南アラビア連邦の動揺を通じてアラビア半島南部での影響力を強めようとし,それが結局イスラエルの軍事行動を誘発する事に繋がりました.
これが1967年に勃発した第3次中東戦争,所謂六日戦争です.
この戦争が勃発する1ヶ月前まで,英国政府内では中東で戦争が起こるとの予測は一般的ではありませんでした.
既に1948年の第1次,1956年の第2次中東戦争において,イスラエルは中東に於ける軍事的優位を獲得し,安全が脅かされているとは言い難い状況にありました.
他方,エジプトのナセルはイエメンで軍事的に関与しており,イスラエルに挑発的な行動を取る理由が無いと考えられており,米ソはヴェトナム戦争を始めとする様々な地域での事態に忙殺され,中東には全く関心を払っていませんでした.
これらを根拠に,イスラエルの地位は安定していると言うのが英国政府部内の分析でした.
そして,こうした判断に基づいて英国は,中東に於ける政治的及び経済的な負担を最小化する方針を打ち出し,政府部内の中には「英国の中東利権を守る最良の方法は,アラブとイスラエル刊の紛争から身を遠ざける事である」と言う見方さえありました.
英国の中東政策は,所謂二枚舌,三枚舌外交と言われる悪評高いものですが,その根底には親アラブとも親ユダヤとも付かない政策に於いて,英国の利益を防衛するという目的を,一貫して据えています.
その目的を達成するには,この地域の勢力均衡であると考えられており,1965年にスチュワート外相は,中東問題はイスラエルとアラブとの間で平和的解決が為されるべきであるとする一方で,両サイドに対する兵器供給の均衡を維持する事が最も重要であると述べていました.
しかし,アラブとイスラエルとの間の緊張は,緩和にほど遠い状態にあり,ソ連はアラブ側に,西側,特にフランスがイスラエル側に軍事支援を与えていました.
パレスチナゲリラはイスラエルへの攻撃を繰返し,シリアはそのパレスチナを支援していました.
1967年5月16日,エジプトは不穏な動きを取り始めました.
スエズ危機以降,シナイ半島に停戦監視の為に駐留していた国連緊急軍(UNEF)を撤退させ,ティラン海峡をエジプトの支配下に置きます.
ティラン海峡はシナイ半島とアラビア半島の間にあり,アカバ湾から紅海へ抜ける航路に有ります.
従って,此処を封鎖すればイスラエルは海路によって紅海やアラビア海へと抜ける事が出来なくなり,このエジプトの行動は疑う余地の無い対イスラエル挑発行為であり,戦争勃発の可能性すら孕む危機となりました.
この状況に対処する為,フランスのド・ゴール大統領は英米仏ソの4カ国協議を提案し,英国はこれを支持しました.
当時,モスクワを訪問したブラウン外相は,ソ連がアラブ側を支持している事を確認しており,大国同士の均衡を取って問題を解決するには,フランス提案は望ましい形式であると考えられた為であり,英国はこの頃丁度欧州に於いてEEC加盟申請に乗り出した所でもありました.
当時,EECに関してはド・ゴール大統領は英国の加盟に難色を示しており,中東政策でフランスとの協調姿勢を見せることでフランスに恩を売り,対欧州政策を成功させる為には無駄では無いと言う期待が持たれていた事もあります.
こうして,フランスが提案した協議の枠組みへの参加を,米ソに呼びかける役割を英国は意図的に演じました.
しかし,米ソが関心を示す事は無く,英国の思惑通りに事は進みませんでした.
6月5日,イスラエルは空軍力による攻撃を皮切りに,アラブ側に対する戦争に乗り出します.
ナセルの挑発行動に呼応した先制攻撃でした.
10日までに,イスラエルはヨルダン領のヨルダン川西岸地区,エジプト領のガザ地区とシナイ半島,シリア領のゴラン高原を占領しました.
戦闘は実質6日間で終結した為,この戦争は六日間戦争と呼ばれる様になった訳です.
この戦争では,英国は注意深く中立を守りました.
もし,アラブ側に荷担したとなれば,石油供給に大きな損害を受ける事が予測された為です.
結局,スエズ運河はエジプトとイスラエルとの軍事境界線となり,運河の通航は封鎖される事になりました.
その為,エジプトは運河からの収益を得られなくなり,財政難に陥りました.
親イスラエル政策の観点からすれば,この運河封鎖は効果的な手でしたが,英国から見れば,この運河封鎖は石油輸入に支障が出る事から歓迎すべき事態ではありませんでした.
他方,米国はスエズ運河への依存度が低い為,この問題を巡ってイスラエルと対立するつもりはありませんでした.
この運河と石油貿易を巡る問題は,それから1ヶ月間英国政府を悩ませる事になりましたが,この問題が解決されたのは,8年後の第4次中東戦争後の1975年6月のことでした.
また,六日間戦争はアラブ側の大敗でした.
従って,この戦争の切っ掛けを作ったナセルの影響力は決定的に低下する事になりました.
その為,南アラビア連邦のナショナリスト闘争でも,ナセルの支援を受けていたFLOSYの力は失われ,NLFが最終的な勝利者になります.
こうした状況を鑑みて,ブラウン外相は6月20日の下院演説で,英国軍の早期撤退を主張しました.
英国軍がFLOSYとNLFとの内戦の混乱に巻き込まれない様にするためには,既に1968年1月と決められていた撤退期限を前倒しして,撤退日程を早めるべきであると表明した訳です.
その危惧の念も間もなく現実となり,9月にはNLFがFLOSYを武力で打倒し,混乱の中,南アラビア連邦は事実上の解体に追い込まれました.
軍事力の泥沼的関与を回避するために,英国政府は,連邦政府と交わした安全保障の確約は,体制崩壊によって無効になった事を先ず表明し,早期撤退への道筋を明確に打ち出しましたが,その後,南アラビア連邦が無政府状態に陥らせない方策については目処が立っていませんでした.
政策の優先順位は,アデン周辺の無政府状態の回避より,英国の軍事的関与削減の方が上位にあった訳です.
10月末の閣議では,11月の英国軍撤退が正式に決定されました.
ところが,懸念された無政府状態は起こりませんでした.
FLOSYを打倒したNLFが,その支配体制を確立していく過程で,英国支配の正統な後継者を標榜する戦略を採ったためであり,英国とは此の点で話が纏まり,11月21日からジュネーヴで始められた交渉の結果,英国はNLF側に政権を委譲する事を承認し,それに加えて新政権に対して援助を与える事にも合意しました.
これを受けて11月29日には独立に関する合意メモランダムの調印が行われ,同時に南アラビア連邦に駐留する最後の英国軍の撤退も完了して,30日には南イエメン人民共和国が独立,12月12日にはアラブ連盟へ,14日には国連の加盟が承認され,アラビア半島南部に一党独裁国家が新たに出現する事になりました.
英国としては,この政府を許容する事で,この地域が無政府状態に陥る事を回避した訳です.
そして,この地から撤退した軍事力の一部はバーレーン,アラブ首長国連邦の一部であるアブダビやドバイ,オマンに配備されました.
この配備の背後には,1961年に英国から独立したクウェート防衛を補強する事にありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/02 22:40
青文字:加筆改修部分
【質問】
南アラビア連邦とは?
【回答】
さて,1960年代の英国は,所謂「英国病」と言われる位の経済危機に苛まれていました.
この為,世界中に展開していた軍事施設を維持する負担に耐えられず,特に「スエズ以東からの撤退」を模索しました.
インドが独立したこの頃,中東に於ける英国の最も重要な軍事拠点がアデンでした.
英国がアラビア半島南端に位置するアデンを獲得したのは1839年の事.
英国がこの不毛の地に狙いを定めた理由は,紅海からインド洋に至る海路を支配する為でした.
その思惑通り,エジプトの地にスエズ運河が開通すると,アデンは,地中海からスエズ運河,紅海を通過し,インド,極東,オーストラリアに至る海上輸送ルートを確保する上で,重要な位置を占める様になります.
更に,蒸気船の時代になると,アデンはインド洋に向かう船,或いはスエズ運河に向かう船に搭載する石炭や石油の貯蔵地としての機能も果たす様になります.
この為,英国はアデンを直轄植民地とし,この地を根城に中東の安定化に神経を尖らせていました.
そして,この地を安定的に保つ為,後背地として西のイエメンや東のオマーンの間に位置するアラビア半島の南端を保護領としたのです.
時代は下って1956年,スエズ運河を巡って,エジプトとイスラエル,英国,フランスが激しい戦闘を行います.
その結果,スエズ運河の通航はこれまでの様に自由では無くなり,また,これによりペルシャ湾での混乱が発生した経験から,中東の不安定化は欧州への石油供給を脅かすものである事が強く認識される様になり,英国政府はアデンの基地としての有用性を改めて高く評価する様になり,この地に最高司令官本部を設置すると共に,アデンは中東に於ける英国の主要な軍事拠点となり,1957~59年には駐留英軍の数は従来の4倍に達しました.
更にマクミラン政権は,アデン周辺の政治的安定を確保する為に,1959年以来,アラビア半島南部の保護領を南アラビア連邦として発足させ,1963年1月にはアデンをこれに加入させました.
ところが,アデンは周辺地域と異なり,人口25万人を擁する商業都市であり,連邦を構成する他の過疎で未発達な周辺地域とは異なっていました.
この為,アデンは元々連邦に参加する事を望んでいなかったのです.
加えて,南アラビア連邦の政府指導部は指導力を欠いており,発足以来常に不安定な状態が続いていました.
そんな国に英国によって半ば強引に編入させられたので,アデンのアラブナショナリストは,国民解放戦線(NLF)を結成して連邦の自治を主張しました.
そして,南アラビア連邦から英国の支配力を排除し,共和国である北イエメンとの合同を目指す様になります.
NLFは良く訓練された民兵組織を擁する組織であり,英国側は非常事態宣言を発してそれを押さえ込もうとしました.
しかし,1960年代はナショナリズムの昂揚と共に,英国やフランスなどの植民地保有国への風当たりが非常に強い時期でもありました.
当然,こうした英国の姿勢は国連によって非難され,国連は英国が発したアデンに対する非常事態宣言を直ちに取り下げる事,そして,南アラビア連邦の独立日程を提示する事を要請しました.
英国はこれに屈し,1964年にそれらの要請に従う事を決定しましたが,急進的アラブナショナリスト達の反発を抑える事は出来ませんでした.
何故ならば,英国政府が南アラビア連邦の独立後も,親英政府による国の運営を求め,更にアデンの英国軍基地の保有継続も求めていた事が挙げられます.
これに対し,アラブ民族主義勢力は大いに反発していました.
折も折,1962年には隣接するイエメンで,エジプトのナセルに触発された軍部が王政を転覆させてイエメン・アラブ共和国を樹立し,その後内戦に陥っていました.
この動きに,アデンのアラブ民族主義勢力は大いに鼓舞されていました.
元々,イエメン北部の王政は南に対して領土的野心を持っており,英国はこれを脅威と見做していましたが,内戦勃発に際して,英国はサウジアラビアと共に王政側に支援を与える方針を採りました.
これに対して,ナセル率いるエジプトは共和制側を支持すると共に,同時にアデンのアラブ民族主義にも支援を行った事から,NLFの反政府活動は益々活発化していきます.
マクミラン政権は,こうしてアラブ民族主義と言う虎の尾を踏ん付けてしまった訳です.
そして,このまま退場を余儀なくされ,1964年10月に発足したウィルソン労働党内閣に後始末を押しつける事になります.
この為,ウィルソン政権の対南アラビア連邦の政策は,アデン基地を維持する事,そして,連邦の安定性を取り戻す事の非常に困難な2つの事を行わねばなりませんでした.
その為にウィルソン政権が採ったのは,1つはマクミラン政権が排除したアデンの急進派ナショナリストとの連携を模索する事であり,もう1つはこの問題を巡って拗れていた国連との関係改善でした.
1964年12月にはグリーンウッド植民地相がアデンを訪問し,アデン市民が望む形での南アラビア連邦の支配構造を調整していく方針を打ち出しました.
この頃はまだウィルソン政権は,前政権と同じくアデン基地の維持に拘り,その為にも南アラビア連邦の問題を可能な限りアラブナショナリズムの希望に添う様に解決して,エジプトのナセルとの関係改善に繋げたいと考えていました.
しかし,アデンとの関係改善は容易には進みませんでした.
NLFは12月からアデンでキャンペーンを展開し,人々に対し英国との交渉に応じない様に呼びかけ,他方,穏健な民族主義は存在感を薄め,アデンは日に日に不安定感を増していきました.
そして,1965年3月の時点で,英国合同情報委員会の分析で,既に連邦政府は英国軍の支援無しには独立を維持出来ない状態にあるとされ,遂に6月になると南アラビア連邦政府側は英国政府と交渉を継続する意志のない事を明らかにすると共に,駐留英国軍の撤退と南アラビア連邦の解体,そし て,イエメン共和国として独立する事を要求するに至りました.
9月1日,NLFのテロにより,南アラビア連邦議会議員が暗殺される事件が起きます.
これを契機にして,23日にはヒーリー英国防相が座長を務める海外政策防衛委員会は,アデンを英国政府による直接統治に切り替える決定を下しました.
それを契機に,現地勢力は英国側に非協力的になり,英国の政治的影響力は低下の一途を辿ると共に,アデン基地の保持は次第に困難になると共に,現地警察は連邦政府に協力せず,テロ事件が急増しました.
この為,今後もアデンの基地を維持するには,莫大な費用が必要になると予測される様になりました.
この様な情勢の中で,英国政府はグローバルな防衛関与の全体像を見直し,アデンから撤退する事を検討する様になりました.
ところで,英国合同情報委員会では,南アラビア連邦に於けるテロ活性化の背景にはナセルの支援があるとみていました.
南アラビア連邦が独立すれば,エジプトがそれに対して軍事侵攻する可能性さえ議論されていましたが,実際にナセルはNLFから分派した複数の勢力に対して支援を行い,穏健派政治家を含めた幅広いナショナリスト集団の連合体である非占領南イエメン解放戦線(FLOSY)を形成して,アラビア半島南部に於けるエジプトの影響力拡大を試みていました.
こうしてアデンではNLFとFLOSYの2つの大規模集団が活動を始めるのですが,両者とも互いに相手をアラブナショナリズムの代表と認めなかった為,1967年1月頃からは両勢力の間で武力衝突が生じる様になり,政治的解決が困難な状態に陥ります.
この為,ブラウン外相は1966年12月頃には,アデンを含むこの地域に,安定し秩序の整った国家を形成する事が英国政府の目指す事であると考えていたものの,それとは裏腹に海外政策防衛委員会が,南アラビア連邦に於ける英国の軍事的関与を,1968年1月1日から撤退させる決定を下しました.
また,1967年3月の時点で,英国政府の分析では,南アラビア連邦政府は恐らく独立までは体制を維持する事が出来るものの,対外に反発し合うナショナリスト集団を抱えているので,将来に亘ってそれを持続するのは困難であろうと言う見通しを立てました.
これを受けてブラウン外相は,南アラビア連邦を11月1日に独立させる計画を練り始めました.
これは,独立前に連邦政府が瓦解すれば,英国軍が長期的に秩序安定活動に引きずり込まれる事が想定された為でした.
これを避ける為に早期に独立させ,連邦軍創設を許容して英国は軍事的関与から手を引き,かつ南アラビア連邦を国際連合に加盟させる為の道筋を付ける事を目指す事になります.
早速,英国は南アラビア連邦へ空軍と海軍を派遣し,独立した国防体制が確立するまでの半年間,対外的脅威,特にエジプトからの攻撃仁対する補償を与えると共に,外交ルートを通じてエジプトの南アラビア連邦に対する圧力を緩和する様要請しています.
それに合わせて,国連の枠組みで連邦政府を安定化する方策も打ち出されました.
この英国の要請を受けて国連の代表団が4月にアデンを訪れますが,英国の根回しが上手くいかず,代表団はNLFともFLOSYとも全く接触出来ずに5日間を無為に過ごし,何らの成果も挙げずに引揚げてしまうと言う失態を遣らかします.
こうした事態を受けて新しい高等弁務官を英国は指名しますが,両者の交渉は殆ど進展しませんでした.
状況が不透明さを増す中,5月にサウジアラビアのファイサル国王が英国を訪問し,サウジアラビアの安全保障に確約を与える要請を行います.
また,アデン政策では英国を支持していた米国も,将来アデン周辺が親エジプト地域になる事に強い懸念を抱き始めました.
こうしてエジプトの影響力拡大の動きが見られる中で,南アラビア連邦を巡る状勢は混沌としていった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/01 23:12
青文字:加筆改修部分
【質問】
第四次中東戦争(消耗戦争)とは?
【回答】
1969年から1970年にかけて行われた,いわば消耗戦,後のヨム・キープル戦争の前哨戦と呼んでもいいかもしれない.
この時期に,ナセルは,ソ連の支持の元,スエズ運河の通行妨害などの「いやがらせ」をイスラエルに対して行い,これに刺激され,イスラエルとエジプトの間に数次に渡って空中戦が行われた,
しかし,この戦いは膠着状態となり,徐々に下火となった.
・第四次中東戦争は「消耗戦」であった.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
ゲリラ戦・コマンド部隊による襲撃,砲撃・航空攻撃がほとんどで,大規模な地上軍の動員が行われないのが特徴.
イスラエル・アラブ側双方ともに,戦力の建て直しと,立て直した戦力への攻撃がメインで,それがダラダラ続いたことから「消耗戦争」と呼ばれてる.
ただ,消耗戦争において,航空攻撃の発達は目覚しく,SA-2・SA-3といった対空ミサイルや,最新の電子戦システムなどが使用されたことは,特筆すべき.
エジプトは,ソ連から130機以上のジェット機を購入した(Mig-21FL・BFMなど)
イスラエルは,第三次中東戦争では,ほとんどの航空機を「航空攻撃」(空爆)で破壊したため,エジプト側のパイロット損失はそんなに大きくなかったので,かなり早期に戦力を立て直すことができた.
で,エジプトは,イスラエルの報復行動を引き出すために,シナイ半島へ限定的な航空攻撃を敢行.
この当時のイスラエルは,防空網が手薄で,この攻撃にはそれなりに損害を受けたようだ.
なお,有名な「エイラート号事件」(小型のミサイル艇が,イスラエルの駆逐艦を撃沈した事件)が起こったのも,この一連の攻撃中.
また,国連決議242が出されたのもこの時期.
国連決議242は簡単に言うと,イスラエルとアラブ側にDMZを作ろうということと,パレスチナ難民問題を解決しようというもの(ただし,意図的に曖昧になっている部分がある)
まぁ,消耗戦争ってのは,第三次中東戦争と第ヨム・キプール戦争の間の「準備期間」に行われた,相手への牽制と見ることも可能だろう.
ただ,準備期間と呼ぶには双方の行動は激しいので,〔ナイ教授などは〕「戦争」としてカウントしてるんだと思う.
ますたーあじあ in mixi,2007年05月30日21:43
ただしこの消耗戦を一つの戦争としてカウントし,第4次中東戦争と呼ぶのは,どちらかといえば少数派.
消印所沢
なお,キッシンジャーの「外交」でも「消耗戦争」を一つの戦争としてカウントしてました.
アメリカでは,少し日本と見方が違うのかも?
それとも,軍事的に見た場合と,政治的に見た場合の差かな?
ますたーあじあ in mixi,2007年08月06日22:12
【質問】
消耗戦争で使用された兵器ってどんなの?
【回答】
イスラエル側はF-4,A-4といった,当時最新鋭と言えるであろう戦闘機を使用し,また,地対空ミサイルホーク,対空対ミサイルであるAIM-9やAIM-7,そして国産ミサイルシャフリル2を使用した.
特にAIM-9(B,D,Eだから初期型)とシャフリルを使用したようだ.
ただし,この時点でのミサイルは「敵を先に見つけて」攻撃すれば当るという類のもので,相手の戦闘機動に対しては,あまり効果がなく,その場合は相変わらず機関砲が使用された.
また,ヘリコプターを使用しての敵陣地への爆撃などを行い,これが相手に対する抑止力と一定効果があったようだ.
コマンド部隊はナイル(Nile)にかかる2つの橋,変電所1箇所を破壊し,ナジ・ハマディ(Naj Hammadi)ダムに損害を与えた.
この強襲はエジプトを震撼させ,攻勢から防勢へと姿勢を転換させた.
以後4ヶ月,エジプトは顕著な砲撃攻勢を停止することになる.
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),196ページより
アラブ側は,Mig-21の新型(IFL・BFM)といった戦闘機の他,Su-7B戦闘爆撃機などを入手,地対空ミサイルSA-2・SA-3といった,強力な地対空ミサイルを使用した.(ほんの一部ではあるが,SA-6も使用している〔1970年8月3日に使用〕
これも数は少ないが,Su-15なども入手していた.
ヘリコプターもエジプトが4個飛行隊を保持してはいたが,イスラエルほど有効に運用できなかったようだ.
おまけ,
フランスから輸入禁止措置を受けたミラージュⅤ(ミラージュⅢの簡易爆撃型)の代わりに,ネシェルを開発したのもこの時期,
この「ネシェル」にJ79(ファントムのエンジン)を乗せるなどして強化したのが「クフィル」である.
ますたーあじあ in mixi,2007年06月06日21:00
【質問】
消耗戦争時の,イスラエル,アラブの航空戦力はどんなもん?
【回答】
エジプトは,ソ連の支援を受けて,第三次中東戦争時の80%まで戦力を回復,
シリアは,それなりに戦力を回復,
イスラエルは,A-4スカイホークなどをアメリカから購入して,数はともかく,質はさらに高まった.
以下,航空戦力を以下に書くと
・エジプト
Mig-21 戦闘/要撃機 110機
mig-19 戦闘機 80機
Mig-17 戦闘機 120機
Su-7B 戦闘爆撃機 40機
IL-28 爆撃機 40機
Tu-16 爆撃機 20機
それに加えて
4個輸送機飛行隊
4個ヘリコプター飛行隊
+訓練部隊があった.
パイロット750人
訓練生 400人
・シリア
Mig-21 60機
Mig-15/Mig-17 戦闘爆撃機 70機
Su-7B 戦闘爆撃機 20機
イスラエル
ミラージュⅢC 戦闘機 60機(3個飛行隊)
シュペル・ミステールB2 戦闘爆撃機25機(1個飛行隊)
A-4Hスカイホーク 戦闘爆撃機48機(2個飛行隊)
ミステールⅣ-A 戦闘爆撃機35機(1個飛行隊)
ボートゥールⅡA 戦闘爆撃機15機(1個飛行隊)
おまけ
消耗戦争時のエジプト陸軍
・550両のT-55
・300門の重砲
・450門の野砲
・1,200問の迫撃砲
・800両以上の軽装甲車
この装備を保有する6個師団のうち,3個師団をスエズ運河沿線に配備.
これは,シナイ半島西部において,イスラエルの20倍の戦力だった.
ところで,疑問
ミラージュⅤをフランスから輸出禁止されて「モサドが設計図を盗んで作った」という話があるけど(ネシェルのことだと思うが),これってどれくらい信憑性あるんじゃろ?※
ますたーあじあ in mixi,2007年05月31日22:59
※ほぼ事実と考えられています.
消印所沢
【質問】
エイラート号事件って何?
【回答】
六日戦争直後の1967/10/21夕,イスラエル駆逐艦「エイラート」を,エジプトのミサイル艇コマール型2隻がSS-N-2a「スティックス」対艦ミサイルを発射,撃沈するという大金星を挙げた戦闘.
以下,某自営業ふうに解説.
「艇長,スエズ運河西方,ポートサイド港沖にイスラエルの駆逐艦です.パロトール※のようです」
「やつら,もう戦争は終わったと思ってるな.エジプト海軍魂を教育してやるか.
『スティックス』ファイア!」
Bakoooom!
「命中!」
「まだ生きてるぞ」
「情け無用! ファイア!」
「敵は機関砲で迎撃してます!」
Zuh-dooom!
「敵艦機関部に被弾!」
「BRABO!」
2時間後.DD「エイラート」
「艦長殿,我々は脱出すべきです」
「散々だ,こいつは魔女のバアさんの呪いか」
「艦長,それは論理的ではありません」
「くそったれ,総員退艦だ!」
「警報! ミサイル!」
「何!?」
BAKOM!
「畜生! エジプト軍の反復攻撃だ!」
「艦長,エイラートが沈みます」
「戦友,助けてくれ!」
Vuoooo!
Zumm!
「わァァ!」
「何だ??」
「ミサイルの4発目です.海面の火に誘導されたようです」
「今のでだいぶん乗組員が死んだぞ」
「畜生,魔女の婆さんに誓って復讐してやる!」
満載排水量85tの小船が2300tの大型艦を撃沈したこの事件は,エイラート・ショックと呼ばれ,小国海軍を中心に高速ミサイル艇が売れまくることになった…….
だから決して誰かさんの言うように
「水平線の彼方から飛んできた4発のミサイルのうち,3発が相次いで命中.
2300tの『エイラート』は轟沈.
なにしろ,4発目が命中しなかったというのは,飛来した時,すでに標的が海中に没していたから,という凄まじさだった」
(林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.96-97)
とかいった,「4発連続発射⇒轟沈」という流れではなかったので,念のため.
【参考文献】
『図説 中東戦争全史』(学研,2002.10)
※ちょっと笑ったので原文ママ
消印所沢
>水平線の彼方から飛んできた
エジプト海軍はポートサイド港の中からミサイルを撃ってきたわけですが,エイラートはその港の哨戒監視行動中だったわけで,つまり水平線の彼方からではない.
そもそも,艦対艦戦闘で超水平線射撃をするには,衛星や味方航空機からの敵位置情報データリンクが必要なわけですが,コマール級にそんなリンク機能は無い.
水平線の彼方から・・・なんてのはあまりにも「詩的表現」過ぎます.
小説ならばそれでもいいのでしょうが,これは軍事学を銘打った本であり,戦史を語っている時に嘘を書いてはいけません.
「エイラート」轟沈の模様
(うそ)
【珍説】
そもそも4半世紀に渡って無視されてきたパレスチナに,今これだけ世界の注目が集まっているのは,1972年のミュンヘン・オリンピックで,PLOに属する8人のテロリストが,イスラエル選手11人を人質にし,殺害した事件がきっかけじゃないか!
小林よしのり『新ゴーマニズム宣言2 テロリアンナイト』 P.136
【事実】
過去25年の間に,パレスチナはたびたび注目されてきました.
この本の著者は,「戦争論」なる著作物まで出している割には,入植地を巡る紛争も,オスロ会議も,湾岸戦争でフセイン大統領がどんなプロパガンダ攻勢に出たかも,インティファーダも,レバノン紛争の原因が何であるかも,それ以前の中東戦争も,ご存じないようです.
ちなみに第3次中東戦争(6日戦争)は1967年,第2次中東戦争(スエズ動乱)は1956年,PLOの結成は1964年,「ファタハ」のテロ活動開始は1965年です.
そのきっかけは第1次中東戦争(パレスチナ戦争)で,これは1948年勃発です.
【質問】
イスラエル海軍が子犬を実戦参加させたことがあるというのは本当か?
【回答】
フランスで建造されたイスラエル向けのミサイル艇が,フランスが武器禁輸措置を取ったため,シェルブール港に留め置かれたときのこと.
イスラエルの取った対抗手段は,ダミー会社を使って「北海油田の探査用ボートに」ミサイル艇を買い付け,フランスが気がつく前に,強行出航してイスラエルに向かうことだった.
艤装にかかっている間,「石油会社の社員」になりすましていたイスラエル乗組員の一人が,フランスの女とねんごろになったのだが,身分を明かすわけにもいかず,別れることになった.
このとき,女が乗組員に贈ったのが,テリアの子犬だった.
・・・が,この子犬に何か特殊な能力があることに,乗組員は気がついた.
わけもなく吠えだし,身体を震わせると,その後必ず,敵レーダーの逆探知装置に反応がある.
艇長はその後,ミルーと名づけたこの子犬を,実戦に同行させてみたが,少なくとも数回,逆探知装置の反応より先にミルーが吠えだし,戦闘において貴重なアドバンテージを与えてくれた.
最新鋭電子装置より,優秀な逆探知装置だったのが,テリアの子犬であった.
ソースは,
「ザ・モサド 世界最強の秘密情報機関」
デニス・アイゼンバーグ ユリ・ダン エリ・ランダウ
時事通信社
◆◆第4次中東戦争以後
【質問】
なぜトルコはキプロスに派兵したのか?
【回答】
トルコ首相,ビュレント・エジェヴィト Bülent Ecevit は当時,出身政党,共和人民党とは全く正格の異なる国民救済党と連立を組んでおったそうな.
その国民救済党に度々譲歩を強いられたエジェヴィットは考えた.
「そうだ,早期解散・選挙を行って,単独与党政権を樹立すればいいじゃん」
そのための人気取り政策に利用されたのが,折から緊迫の度を増していたキプロス問題じゃったげな.
ちょうどキプロスでは,1974年7月15日にはクーデターが起こり,初代大統領,マカリオス大主教が亡命して,サンプソン政権が全島を制圧しておった.
よおし,やったるべ.
そこで7月と8月の2度に渡り,島北部を軍事支配下に収めたのじゃった.
エジェヴィトの目論みは成功.トルコ国民はこの強硬政策を熱狂的に支持し,彼は一時期,国民英雄視される向きがあったげな.
ところがどっこい,事態を憂慮したアメリカが乗り出してきたのじゃった.
国連平和維持軍をキプロスに派遣する一方,75年2月4日には,トルコに対する制裁措置として,武器輸出禁止を決定したのじゃ.
この武器輸出禁止と,軍事援助停止,それにキプロス派兵による多大な出費(74年だけで13億ドルと算定されている)とが,この時期にトルコを襲っていた石油ショックの効果を倍増させ,将来におけるトルコの経済危機の引き金となってしもうたのじゃった.
エジェヴィトの,解散の目論みは外れて,74年9月に総辞職することになり,彼が再び政権の座に就くには,77年まで待たねばならなかったそうな.
万骨散って,将も散る…….
(永田雄三 from 「世界現代史11 中東現代史1」山川出版社,'82,抜粋要約)
また,ギリシャ系住民によるトルコ系住民の虐殺も要因です.
1950年代に,キプロスのギリシャ系住民の民族主義運動が一連のテロルを通じて,キプロスとギリシャの同盟<エノシス=ギリシャ本土への併合>を達成しようとした.
イギリス領キプロスのトルコ系警官の数は人口に比例せず多かったため,テロリストの格好の標的になった.
こうした状況の下で,イギリスはトルコがキプロス問題に介入するのを歓迎した.
それにより,イギリスはトルコとギリシャのバランスをとり,キプロスからの部分的な責任放棄を容易にできたからだ.
1959年から60年に,イギリス,ギリシャ,トルコの各政府は,独立キプロスが憲法を制定することで合意した.
憲法によって少数派のトルコ系住民は,国政への参加,居住地での自治,文化的権利の保護を保障された.
しかし,そうした妥協でよく発生するように,成立した統治システムは扱いにくく,トルコ系住民とギリシャ系住民の双方による拒否権の犠牲になった.
1963年になると,ギリシャ系指導者が抜本的な憲法修正に乗り出した.
いずれにしても,ギリシャ系の大衆は,歴史的権利からも多数派としての権利からも,キプロスは自分達のものだと信じていた.
その結果,政治的緊張が爆発し,トルコ系住民を対象とする虐殺が,広範囲に渡って発生した.
1964年には,トルコ系住民の半数が,キプロス全土の僅か1.6%の地域に押し込められた.21
もっとも,そこはトルコ系住民自身の地方政府によって運営されていた.
1960年憲法の保証人だったイギリスも,また,アメリカも,こうした状況を元に戻すために何も行わなかった.
その後も小競り合いが続き,やはりギリシャ系住民により,多くのトルコ系住民が犠牲になった.
さらに,1974年にはキプロスでクーデターが発生し,ギリシャ系指導者だったマカリオス大主教を退陣に追い込み,ギリシャとの同盟を宣言したが,ギリシャの軍事政権も威信を高めようとしてクーデター支持を表明した.
しかし,この時も英米や国際社会は何もせず,ギリシャは譲歩を拒否した.
この結果,トルコ政府は,1960年憲法の保証人としての権利を盾に,キプロスに軍事介入したのだった.
トルコの軍事介入の結果,キプロスの37%がトルコ系の支配下に入った.
14~20万人のギリシャ系住民がキプロス北部のトルコ系住民の飛び地から逃れ,逆にトルコ系数万人が反対方向へと流れた.22
こうした事実上のキプロス分割は,依然として未解決のままで,25年以上経っても国際社会からは承認されていない.
それはまた,依然としてトルコとギリシャの主な対立点の一つである.
簡単に戦争へと発展する恐れもあり,バルカン半島や地中海東部全域での緊張を煽りかねない.
21 V.Calotychos (ed.), Cyprus and its People, Westview, Boulder, 1998: Calotychos, ch.1, p.7.
22 ギリシャ系住民のほうの数字は,まだ議論されている.
ギリシャ側の資料に基づき,カロティコスは,キプロス北部の故郷を去ったギリシャ系住民は,17万人から20万人に上ったとしている.Calotychos (ed.), Cyprus and its People, p.7を参照.
これに対し,概ねトルコ側の資料に基づき,C.H.ドッドは14~16万人だったとしている.C.H.Dodd (ed.), Cyprus. The Need for New Perspectives, Eothen Press, Huntingdon, 1999, p.10.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.257-258
【質問】
トルコのキプロス侵攻の結果,対外関係はどうなったか?
【回答】
アメリカとの関係が悪化したという.
以下引用.
アメリカとの関係が一時悪化した時期もあった.
1974年7月,キプロスで起きた軍事クーデターを機に,トルコがトルコ系住民保護を名目に出兵した「キプロス侵攻」を巡ってである.
国連はトルコ軍の撤兵を決議,アメリカ議会も
「トルコ軍はキプロス侵攻に,アメリカが供与した武器を使用した」
と非難してトルコに武器禁輸措置をとった.
此れに対してトルコは,領内にある米軍基地を閉鎖,共同防衛協定を破棄して報復した.
だが,それ以上の関係悪化は,アメリカにとって許されなかった.
1979年1月のイラン革命,79年12月に起きたソビエトのアフガニスタン侵攻で情勢が一変し,トルコの持つ戦略的価値が一段と高まったからである.
80年1月,2億5千万ドルに上る軍事援助協定が結ばれ,アメリカはトルコ領内の12の基地使用が可能になった.
園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.203
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