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◆◆イラン=イラク戦争以降
◆戦史
中近東FAQ目次


 【link】

「スパイ&テロ」◆写真館27 イラン=イラク戦線その他 (10/08)


 【質問】
 イラン=イラク戦争の原因とは?
 また,なぜ長期化したのか?

 【回答】
 この戦争は,イラク側の侵攻で始まったが,大きな原因の一つとして,イランのイスラム革命が挙げられる.

 イランのシャー(君主)の統治下では,イランはイラン=イラクの水路について,すべての領有権を主張していた.
 だが,1979年のイラン革命でシャーが退位すると,イラン国内の混乱に乗じて,イラクのサダム=フセインは攻撃の機会を見出した.

 また,イラン革命は,イラク内部に宗教的対立をもたらした.
 イラク国内にはスンニ派とシーア派がいたが,フセインは,格段宗教色を鮮明にしない世俗的な国家元首だった.

 イランのシーア派原理主義者たちは,イラクのシーア派に対して,フセイン打倒に立ち上がるように促した.

 これについて,ナイ教授は以下のような見解を示している.

--------------------------------------------------------
 この国境を越える宗教行動は,サダム・フセインが多くのイラク人シーア派を指導者を殺害したことで失敗に終わった.
 他方,イラクにも誤算があった.
 イランはアラブ人の国家ではないが,イラク国境沿いの地方には少数民族としてかなりのアラブ人が住んでいる.
 そこで,イランのアラビア語を話す地方ではイラク軍は解放者として歓迎されるだろう,とイラクは考えた.
 しかし,そうはならなかった.イラクの攻撃は,イラン人を結束させてしまったのである.
 両者による誤算のあと,戦争は,サダム・フセインが当初狙った短期間で決着のつくうまみのある戦争とはならず,泥沼化し長期化した.
 イラクは何とか抜け出そうとしたが,イランが許さなかった.攻撃を受けた側としては,イラクに戦争終結の決定権を握らせる気はなかったのである.
 イランの精神的指導者であったホメイニ師は,サダム・フセインが失脚するまでイランは戦争を終結させないだろう,と語った.
 10年近く,ほかの諸国はこれを見守るだけであった.
 サウジアラビアやヨルダンなどの保守的なアラブ諸国は,イランの革命勢力をより恐れていたため,イランよりもイラクを支持した.

(略)

 同じアラブのシリアは,世俗的であっても過激であるなどイラクといろいろな意味で共通項を持つが,バランス・オブ・パワーの理由でイランを支持した.
 シリア人は,力をつけつつある隣国イラクに対して,遠方にあるイランに対して以上に懸念を持ったのである.
--------------------------------------------------------

 これに,外部勢力の関与が加わり,事態が複雑化した.
 アメリカは,イランの勢力増大を懸念して,イラクに対し,秘密の援助を行ったし,イスラエルは,イランの原理主義者がイスラエルの撲滅を掲げていたにも関わらず,イランに米国製の武器を送った.
 このイスラエルの行動は,バランス・オブ・パワーの論理で説明可能である.
 イスラエルは,イラン・イラクの両方を恐れていたが,イラクのほうが「距離の近接性」によって,より脅威であったため,「敵の敵は味方」の論理により,イランへの援助を行ったのである.

 こうして,宗教,ナショナリズム,野心という要因が絡み合った結果,誤算が大きくなり,均衡勢力の論理から戦線が拡大し,制御困難状態となって,10年近く戦争が続いたのである.

 まとめると,
・イラン・イラク戦争の直接的原因は,イランのイスラム革命にある.
・イラン・イラク両方に誤算があった.
・バランス・オブ・パワーの論理が,戦線を拡大し,戦争が長期化した.
といったところか.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 イ・イ戦争でイラクが初期の段階でテヘランに侵攻せず,イランに反撃する機会を与えた原因は何ですか?

 【回答】
 テヘランは遠いから.イラク側からみてスカッドくらいしか届かない遠くにある都市である.
 イラン・イラク戦争ではそーんなに遠くまで進撃できるとは思っていなかった.
 イラン側でもバスラを目指したのだが,イラク側の反撃にあい,いたずらに消耗するに終わっている.

 イラク側の戦争目的はフゼスタン(石油が多くでるし,アラブ人が多く住んでいる地域)をイランから切り取ることと,イランとの国境であるシャトルアラブ河の航行権を確保することが主眼だった.


 【質問】
 イラン・イラク戦争において,弱体化していたはずのイラン軍が,イラク軍の進撃を止めることができたのは何故か?

 【回答】
 王制時代の将校が急遽呼び戻され,彼らの勇戦敢闘によるところが大きいという.
 以下引用.

イラクの思惑は見事に外れた.
 バニサドル大統領の呼びかけに応え,パイロット達は勇敢にバグダッドへの報復爆撃に飛び立った.
 そして,革命後,軍を追われていたり,反革命容疑で獄中に繋がれていたりした「シャーの軍隊」のパイロットまでが,バニサドル大統領の命令で原隊に呼び戻され,ファントム戦闘爆撃機に乗り込んで出撃していった.
 出撃を見送るイラン国営テレビのカメラに向かい,
「自分はある事情で軍を離れていた.
 しかし今,祖国イランのため,イランだけのために戦う」
と語る印象的なシーンもあった.
 イスラム革命のためにとか,ホメイニ師のためにとかいう言葉をいっさい省いたこのパイロットが,言外に込めた思いは理解に難くない.正規軍の名誉と復権,そして政治的発言権のために……ということであろう.
 イラク軍電撃作戦の行き足を止めたのは,これら正規軍将兵,特に将校団の勇戦敢闘によるところが大きい.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.54

 〔サルポレザハブの町から,〕来た道とは違う国境沿いの間道を10キロほど走ると,山かげに大きな鉄条網を張り巡らした前線基地にさしかかった.
 撮影は厳禁だという.
 イラン軍のヘリコプター基地で,対地上攻撃用の武装ヘリコプター「コブラ」が10数機,山肌を縫うようにして作戦任務から戻ってくるところだった.
 開戦初頭のイラク軍機構部隊の出足を止めたのは,他ならぬこの基地のヘリコプターが搭載するアメリカ製の対戦車ミサイルであったと聞いていたが,〔略〕

同,p.86

 我輩は海軍の人間なので,陸戦にはあまり詳しくないことをまず断っておくぞ.

 で,イラン・イラク戦争長期化の原因であるが,我が軍の見解では(我輩の理解するところでは), まず,サダム・フセイン大統領に全面戦争の意思がなかったことが挙げられる.
 彼は我が軍を見くびり,一押しするだけで我が軍が崩壊し,中にはイラク軍に呼応して反乱する部隊も出るだろうという希望的観測を抱いておったらしい.
 また,我が国の少数民族やアラブ系民族も決起して,反乱を起こすだろうと考えておったようだ.
 それからまた,中東での戦乱には大国が停戦のために介入するのが常であったので,この戦争でも一ヶ月ぐらいすればアメリカかソ連が和平を仲介するだろうと考え,それを待っていたふしがある.

 第2に,イラク軍の作戦上の不手際が挙げられる.
 開戦当初,イラク軍は航空支援もなく,歩兵部隊の協同もなく,戦車部隊だけを突出させた.
 そのため我が軍の対戦車ヘリの攻撃により,大打撃を受けておる.
 そのために初期の攻勢が頓挫したと考えられる.

 第3に,中部戦線,ケルマンシャーハン州では,山岳地帯で道路網が大部隊の機動に適さないことがあげられる.
 そのため,我が軍もイラク軍の更なる東進を特に警戒はしておらなかったし,この方面が助攻でしかないこともあって,イラク軍も国境地帯の占領だけで足を止めておる.

 ちなみに南部戦線のフゼスターン州にも地形的難があってな.平坦だが塩分を含んだ湿地帯であるため, 初期の停戦交渉が破談に終わった後の10月攻勢では,我が軍の決死的な奮戦もあり,ホラムシャハルは残念ながら10月末に陥落したものの,重要な石油精製基地のあったアバダンでは,スターリングラードもかくやという包囲下での徹底抗戦により,11月末までなんとか持ちこたえた.
 11月末からは雨季が始まり,車輌部隊の移動は困難になったため,アバダン攻略をとうとうイラク軍は諦めたのである.

 まこと,アッラーは,正しく信仰する者を特別の御許しで導かれる.

イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw in 軍事板


 【質問】
 以下の記述は妥当なものなのか?

――――――
王政イラン軍の張子の虎ぶりはイラン・イラク戦争で発覚してしまっている
開戦当時はまだ動く兵器も多かったのに連戦連敗,F-14もミグ21に落とされる醜態を晒した

結局正規軍は後方に待機して民兵が人海戦術で突進して押し返す羽目に陥っている
それも前線が突破されると容易く正規軍はイラク軍に国内を蹂躙され責任のなすり合いが発生

また両国の空軍・防空網が余りにザルだったため,
ろくに空中戦が発生せずお互いの戦闘機がスイスイ相手国内に素通り出来る状態だった

正直な話,イスラエルに一定の善戦をしたこともあったアラブ諸国とは較べるべくも無い
そのため指導層は自国の軍をまるで信用していないので特に正規軍の冷遇ぶりは酷いものがある

――――――いわゆる「新新FAQ」

 【回答】
 不当に正規軍を貶める,アンフェアな記述と言わざるを得ない.

 まず,常見問題にも文献引用されておるように,イラン・イラク戦争勃発時,我が国の正規軍は
・階級的な秩序が失われ,指揮系統が混乱していた
・アメリカ製主体の兵器は,アメリカとの関係悪化により修理部品調達ができなくなり,可動率が悪化した
ことによって弱体化しておった.
 つまり「王立イラン軍が張子の虎であった」のではなく,単なる革命後の混乱による弱体化に過ぎぬ.

 イラン・イラク戦争に関するくだりは,デタラメとしか言いようがない.
 これまた常見問題にも文献引用されておるように,むしろ逆に,暴虐なるイラク軍を食い止めたのは,現場に急遽復帰した正規軍将校団の力によるところが大きい.
(むろん,革命防衛隊の死力を尽くした戦闘ぶりも,いささかも否定するものではない)

 いわゆる「新新FAQ」を編集しておるのが何者かは知らんが,少しは調べてから載せろと言いたい.

 革命の混乱下にあっても,我が祖国の危機の前には,イラン軍人の尚武の気風はいささかも衰えてはおらず,革命防衛隊であろうが正規軍であろうが,祖国愛において優劣はなかったのである.

イラン元国防相 ◆2ahDXUIKbw by mailform


 【質問】
 たぶん湾岸戦争の時だと思いますが,当時のイラク軍の補給艦か輸送艦か何かが,途中寄港したエジプトで抑留されてしまい,そのまま10年以上放置されてたと思うのですが,その船の艦名と,今どうなっているのかを教えてください.

 【回答】
 改ストロンボリ級補給艦のアグナデーンAgnadeenですね.
 イライラ戦争の関係でエジプトのアレクサンドリアで抑留され,引き続き湾岸戦争関連で解放されず,今でもそこにいるみたいですよ.
http://wikimapia.org/1132151/Stromboli-Class-AOR-Agnadeen-built-for-Iraq

 このほか改ルポ級フリゲート4隻とアル・アサド級コルベット6隻も,同様にイライラ戦争や湾岸戦争の影響で引渡し拒否されました.
 改ルポ級4隻は1993年にイタリアが接収し,哨戒艦に改装しています.
 コルベットのほうは4隻がマレーシア海軍に売却されました.
 残る2隻はラ・スペツィアに係留されており,新生イラク海軍が購入することになりかけましたが,その後の検査で予想以上に保存状態が悪化していることが判明し,中止となったようです.
 おそらくスクラップになるのではないかと.

◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イランでは,イラン・イラク戦争などで戦死者が出た家ではどうしたか?

 【回答】
 豆電球を飾り付けた電飾ツリーを飾ったという.

 光と火は同じもので,死者の魂が迷わないよう,3日間,灯をつけっ放しにする習慣だ.
 これはゾロアスター教が起源だという.

(林茂雄「イスラムのシルクロード」,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.78,抜粋要約)

 また,聖廟の片隅に写真を飾ることもあるようだ.
 以下引用.

 晴れ渡った空をバックにした,堂々たるサバラン山の姿を仰ぎながら,ファクラバット村に着いた.
 サバラン山はこの国で2番目に高い山であり,その標高はモンブランに迫るものだ.
 〔略〕

 〔略〕 のどかな村の広場には,カフェと理髪店に加えて,スレイマンのモスクが建っている.
 スレイマンというのは,シーア派第8代イマーム・レザの異母兄弟とされる人物である.
 レザはマシュハドで毒殺された.
 スレイマンはファクラバットで殺された.
 モスクはそれから何度も建て直されているが,私がこれから訪れようとしているのは,このモスクの中にある彼の墓なのだ.

 先ず,モスクの中を突っ切って,幅2m,奥行き3mくらいの小部屋に行く.
 そこに緑色の布で飾られた,彼の墓がある.
 全体はガラスの窓と,高さ2mの鉄格子で守られている.
 静かな雰囲気の中で時折,信者が聖人の魂に少しでも近付こうとして,鉄格子を掴み,敬虔に目を閉じて,そこに額を押し付ける.

 モスクの主たる部屋の一角の壁に,イラクとの戦争の前線で死んだ若者15人の写真が掛けられている.
 500軒しか家がなく,地理的にも敵地から遠いファクラバットの村でさえ,15人の命が奪われたのだ.
 イラン−イラク戦争の犠牲者を,我々は原理主義者であろうと想像しがちだ.
 テレビは人命の喪失を簡単に報じてしまう.
 しかし写真を見てしまった私には,戦死者が,人格を持っていない百万人という数字だけで把握される,無名のイラン人のことではなくなった.
 私にとって,この戦争とはモノクロの顔写真であり,15歳にもならなかった少年達の,こちらをまっすぐ見る視線であった.その目には誇りと無邪気さ,優しさと苦しさが混ざり,こう訴えかけてくるようだった.
「僕は死んだんだ!」

(フィリップ・ヴァレリー Philippe Valery 著「シルクロード紀行 いくつもの夜を越えて」
西東社,2005/7/20,P.124-126)

イラン・イラク戦争(イランでは「押しつけられた戦争」と呼ばれる)での戦死者(イランでは「殉教者」と呼ばれる)称揚の壁絵
(こちらより引用)


 【質問】
 イランイラク戦争で米国はイラク支持したわけですが,具体的にはどんな(どの程度の)協力をしたんですか?

 【回答】
 米国のイラクに対する支援は政治的・間接的なものが中心でした.
 特に,イランによるイスラム原理主義の輸出を恐れる湾岸アラブ諸国をまとめて,イラクに資金援助をさせたりしています.
(これが後の湾岸戦争の原因の1つになったり.いやあ,笑える,もとい複雑だねえ.)

 直接的な行動としては,ペルシャ湾でのタンカー航行の安全を守るという事で軍事介入し,イランの武装ボートなどを攻撃排除したりしています.
 この過程でイラン民間航空機を撃墜したり,航路を守っているはずのイラクにエグゾセ撃たれてOHペリー級「スターク」が被弾したりしています.
 逆に,イラン・コントラ事件のような形でこっそりイランに武器を流したりも米国はしています.


 【珍説】
 「1980年代の初め,イランはアメリカの利害を損なう湾岸地域における最大の脅威だと見られていた.そこでアメリカ政府と同盟国はイラクをそそのかしてイランに侵攻させた.
 その際,イラク軍に隣国イランを打ち砕くためのハイテク兵器を大量に与えたのだ.」

ジョエル・アンドレアス著「戦争中毒」(合同出版)p26

 【事実】
 いいえ,当時のアメリカがイラクに対しハイテク兵器を大量に供給した事実はありません.
 当時のイラク軍の主要装備は,ソ連・フランス・中国の兵器が殆どです.

週刊オブイェクト,2006年08月21日


 【珍説】
 アメリカは弾頭をイラクに供与することで,スカッドの設計情報を入手した.
 1980年代の軍事雑誌を丁寧に漁れば記事は見つかるはずですよ.
 アメリカは報道管制が厳しいから,そういう分野は日本かイギリスです.

 【事実】
 それはドイツ.スカッド改「アル・フセイン」の設計にはドイツ人技術者が関っていた.

 アメリカがイラクに債務保証を与えたり,偵察衛星写真などの情報提供やったり,サウジやエジプトなんかが保有する米国製兵器の譲渡を許可したりしたのはほんと.量的には大したこと無いけどね.

 弾頭うんぬんは弾頭そのものを輸出したんじゃなくて,開発に必要な資材やコンピュータなどの民生用ダブルユース可能なものの輸出を許可した話がなぜか大きくなってるな.

 このあたり,資料が入手しにくいことはなく,ネットでもいくらでも探せるし,アメリカ政府サイトにすらある話.
 なに報道管制とか言ってんだか.

 あと,UH-1なんかを民生用として輸出したとかもある.汎用ヘリを25機,捜索救難用の民生用としてイラクへ輸出.
 実はアメリカからイラクへ直接売られた“兵器”はこれだけ.
 もちろんこれを「兵器だ!」と言い出すと,トヨタのランクルも兵器になってしまう.
(その辺りの情報を,ちゃんと把握している反戦左翼もいる)

 他にはライセンス生産している第三国からのクラスター爆弾の輸出を承認したとかはあるが,このあたりの話は,膨大な機密解除資料などですでにかなりの部分が明らかにされている.
 で,その結果ですら,民生用として売ったとかの話しかないんだよな.

 ドイツ企業が80年代から化学兵器開発やシェルター建設に関与してたのも広く認められている事実.

 ところで戦争末期にブラジルが,大口契約を取っていて,結構大量の兵器を売り払っているのに注目.

「週刊オブイェクト」コメント欄


 【質問】
 最近,中東あたりに興味を持って戦後の歴史を調べていたのですが,イラン・イラク戦争時にイランへ武器支援を行った国の中にイスラエルがあるという話は本当でしょうか?
 イラン・イラク戦争時に,イスラエルは1982年からレバノンに侵攻して,その後,イランの支援を受けたヒズボラの攻撃を散々受けているので,にわかには信じられない話なのですが.

 【回答】
 本当.いわゆるイラン・コントラ事件の一部.これは米議会の調査によって既に明らかになっている.

最初に我が国に話をもちかけてきたのはマヌケル・ゴールバニファルという男だった.
我が国で商売している実業家.
我が軍情報部は彼をCIAの情報屋だと見ていた.
CIAは1984年に彼に解雇通知を突きつけたそうだが,
我が軍情報部は「誰が信じますか,そんな話(笑)」.

我が国は探りを入れてみた.
そして分かったのは,
奴の背後で糸を引いているのはアミラム・ニールとオリバー・ノースらしいということ.
ニールは当時のイスラエルの首相ペレスのテロ問題顧問.
ノースのほうは今さら説明は不要だろう.
連中の目当ては,レバノンで人質に取られているアメリカ人たちの解放.
とりわけウィリアム・バックリーという奴だ.
バックリーは公式にはアメリカ大使館の政治担当職員という肩書きだったが,
実はCIAのベイルート支局長.
1984年3月に「イスラム聖戦」に誘拐されていた.
CIAも堕ちるとこまで堕ちたものだよ.(笑)

連中の意図がどうあれ,我が軍は兵器を欲していた.渇望していた.
なければ国が滅ぶ.
我が国がイラクの19番目の州となっても
後のクウェイトのときのように国際社会が助けに来たりはすまい.
むしろひそかに喝采を叫ぶだろう.
今は亡きホメイニ師は言った.
「まずは実際に武器をこの目で見てみることじゃ」.
大アヤトラの決裁を受けて交渉続行.
1986年5月,ノースとロバート・マクファーレン元国家安全保障問題担当補佐官が我が国に極秘入国した.
後に有名になった「レーガン大統領のサイン入りの聖書」を携えて.
こちらも「イスラム聖戦」に指示.
1986年7月29日,別の人質,ローレンス・ジェンコ牧師を解放させた.
バックリーは1985年には殺されていた.
拷問であらいざらいしゃべらされた後で.

しかしゴールバニファルはそのときまだイスラエルから武器を受け取っていなかった.
イスラエルは代金前払いにしか応じなかった.
さすがはシャイロックの血統というべきか.(笑)
我が国はもちろん
金を持ち逃げしかねないシャイロックに対して先払いする気はなかった.
そこでゴールバニファルがつなぎ融資を受けたのが
アドナン・カショォギィというサウジアラビアの億万長者.
モサドのマネーロンダリングの金庫番だ.

取引成立.
我が国は5億ドル相当の武器を手に入れ,
イスラエルは5億ドルを手に入れ,
アメリカは更なる人質ベンジャミン・ウェア牧師を取り戻した.
武器取引はやがてアメリカとの直接取引きとなった.
売却代金を使ってニカラグアのコントラを支援するため.
共産主義はイスラームにとっても敵であるから
我が国には別段の不都合はない.
3番目の人質解放も行われた.
みんなハッピー.
ハッピーエンドで終わるはずだった.

へまをしたのはノースだった.
1987年,米上院特別調査委員会が,
ノースがポインデクスター元国家安全保障問題担当補佐官宛てに書いたメモを見つけた.
ノースたちは起訴された.
ニールは証人として呼ばれる予定だった.
その矢先彼は飛行機事故で「死んだ」.

実刑を受けたのはノースだけ.
他の者たちは実刑を免れた.
アメリカ人もユダヤ人もサウジアラビア人も怪しい実業家も.
ノースからレクチャーを受けていた副大統領ジョージ・ブッシュは大統領にさえなれた.
我が国はサダム・フセインとの間で休戦となった.
大アヤトラの,この休戦についてのコメント:「身を切られるより辛い」.
戦争末期
わが国の当時唯一の友好国シリアによるパイプライン封鎖によって
イラクは戦費が枯渇していた.
武器調達さえ順調ならば
我が軍は確実にバスラを確保できたはずだった.

最後にニールだが,彼は顔を変えて今も世界のどこかにいる.
もし「この事件はシオニストの陰謀だったのだ!」と誰かが言ったとしても
我輩はあえて否定はせぬよ.

(イラン国防相 ◆2ahDXUlKbw)


 【珍説】
 イラクがイランと戦争をしていた80年代,私はCIAのイラク担当分析官だった.
 イラン・イラク戦争でのイラク勝利を予期した人間は私を含めごく少数だった.(Stephen C. Pelletier

 【事実】
 当時,殆ど孤立していたイランに比べ,イスラム革命の波及を恐れた内外の後押し,石油利権確保のために王政諸国への革命波及を望まない欧米諸国,国内イスラム教徒への影響を恐れるソ連という強力なバックアップがイラクにはあり,大勢の人々がイラクの勝利を予想していた.
 また,イラン・イラク戦争の結果は痛み分けと言うべきで,どちらが勝ちとは言えない.開戦から2年間ほどは,シャット・ル=アラブ河対岸のホラムシャフルなど,イラク領内に占領地を維持する優位にイラクはあったが,その後戦況は悪化して,南部のファオを占領されてバスラ付近まで後退を余儀なくされ,国内はシリアのパイプライン封鎖によって困窮するなど,むしろイラクが不利な状況にあった.
 最終的にはイラクがまた盛り返すけど,一時はほんとやばかったんよ,イラクは.


 【珍説】
 アメリカはイラン・イラク戦争のときは,イラクをバックアップしていた.
 それが今度はイラクを攻撃するのはおかしい.(西部邁)

 【事実】
 外交にはフレキシビリティが必要.

 外交は国益を守るためにあるものであって,いかようにも変えられる.
 チャーチル,ルーズベルトは共産主義国の独裁者スターリンと組んだし,ニクソンは,イデオロギーの全く違う毛沢東,周恩来と組んで,訪中し,国交正常化に努力した.
 「敵の敵は味方」なのだから,筋や理論を通せといっても無茶.国益のためには悪魔と結ぶこともある.生存のためにはやむを得ない.

 詳しくは,「反米論を撃つ」(恒文社21),P.27-28,田久保忠衛の記述を参照されたし.

「もしヒトラーが地獄に攻め込んだら,私は議会で,悪魔を助けるよう演説するだろう」(W. チャーチル)


 【質問】
 イラン・イラク戦争は古代遺跡にどのような損害をもたらしたのか?

 【回答】
 発掘中の現場が平らにされるなどしているという.
 以下引用.

今回のイラク・イラン戦争においても,あの緑の園の周辺にあるササン朝ペルシアの,まだ未発掘であった遺跡が,逆にブルドーザーで平らにされている現状も見てきましたし,それから昔の未発掘の丘ですね,テルとかテペという砂の山ですけれども,それも軍隊が移動するということから平にしたところもありました.
 これが現状です.
 それと同時に,イラクにありますササン朝ペルシアの,クテシフォンという宮殿がありますが,至近弾が落ちまして一部崩れておりました.非常に残念なことだと思います.

 〔略〕

 ペルセポリスは,皆さんご存じの,イランで一番大きな建造物ですが,このたびのどさくさで,アバダーナ東面階段左右の壁面に朝貢者達の彫刻がありますが,その一面を誰かに持ち去られてしまったそうです.
 これはフランスの専門家達が入った時のニュースを,去年の暮れに聞きました.
 その一部がイギリスのオークションに出るのではないかということです.
 今回のどさくさと彼らは言っていますが,おそらく,イランのシャーの軍隊と反政府軍がぶつかり合った時に,この周辺は激しい戦闘が行われていますので,今度のホメイニ政権になってからではなくて,その以前ではないかと僕は思っています.
 〔略〕

 イランのケルマンシャーからバグダードに抜ける国道がありますが,その近くで拓大が発掘調査していた,ダムになるはずだったところですね,短時間で発掘オリンピックが行われた有名な地です.
 その周辺には機甲師団なり兵員輸送車なり,もうそれは大変な混雑ぶりでしたし,そのために,せっかく新しく掘られた盛り土も,ブルドーザーで平らにされていましたが,発掘地帯には入っていなかったようです.
 それからティグリス川を中心にした未発掘の遺跡も数ヶ所,機甲師団が自由に走り回れるよう平らにされているところを見て来ました.
 イランと共に,非常に残念なことだと思いました.

並河萬里〔写真家〕 from「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.253-267


 【質問】
 イラン・イラク戦争に於ける革命防衛隊の戦意は?

 【回答】
 狂信的と言えるほど戦意旺盛だった模様.
 以下引用.

 イラン・イラク戦争の初頭,革命防衛軍の兵士達は,最前線の港街ホラムシャハルの市街戦で,戦車を先頭に侵入したイラン軍〔原文ママ〕に最後の一弾を撃ち尽くすまで戦った後,あるいは棍棒を,あるいはナイフを使って殺されるまで抵抗し,決して降伏しなかったという.
 イラク側から従軍したある欧米系記者は,イラク軍将兵の談話として,「イランの革命防衛軍兵士は,ひとりひとりがホメイニ師自身の手から小さな黄金の鍵を与えられ,この鍵を身につけて殉教すれば,天国の門が直ちに開かれると信じこまされている」という記事を打電していた.
 中性のイランに実在したという,麻薬によって集団を繋ぎ止めたという暗殺者教団のイメージをうまく盛り込んだイラク側の作り話であろうが,ひょっとしたらあるいは,と思わせるだけの素地が,革命防衛軍の体質の中に既に定着しているのかもしれない.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.60


 【質問】
 イラン・イラク戦争(1980-1988)で最も活躍した戦闘車両は?

 【回答】
 イラン・イラク戦争では,秘蔵ッ子のシャー・チーフテンよりもM60A1の方が活躍.イラクのT62と500両規模の戦車戦を展開している.
 もっともイラク機甲兵力を一番苦しめたのは,コブラ搭載のTOWと,パスダランによるRPGの肉迫攻撃だったりするが.

 むしろ影の立役者は,三菱のドーザーとトヨタのランクル.
 イラク側のドーザーは突破戦力として機甲軍から絶大な信頼を得,フセインが直々に感謝状を出そうとした程.丁重にお断りしたが.

 イラン側は,トヨタのランクルを最高の機動戦力と褒め称えた.砂漠で一度も修理しないで何時でも動いてくれたのは,この車だけだったそうだ.

(軍事板)


 【質問】
 イラン・イラク戦争におけるイラク空軍の損失は?

 【回答】
 1980年9月22日,イラクのイラン進攻により,イラン・イラク戦争が始まったのは周知の事実ですが,その後,1983年夏までのイラク空軍の喪失機体は総計79機.
 その中には,以下の機種が含まれます.

・MiG-25×1機
・ミラージュF1×6機
・MiG-21,MiG-19/F-6,Su-7B及びSu-20×計35機

 いちばんスコアを挙げたのは,イラン空軍のトムキャットではなくF-4ファントムであり,これは主に,フェニックスではなくスパローAAMによって達成されました.

 ちなみにイラン空軍機も,同時期(1983年夏)までに,ほぼ同数(80機)を喪失しております.

シア・クァンファ in mixi

イラン空軍のファントム
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01a14.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01a14b.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 イラン・イラク戦争において,イラン空軍のトムキャットは,どの程度の活動をしていたのか?

 【回答】
イラン空軍
http://www.iiaf.net/aircraft/jetfighters/F14/f14.html
から要約すると

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 イランが「共食い」によってそれらを維持して,わずか15-20機のトムキャットしか飛ばすことができなかったと推測されます.
 トムキャットは,その強力なレーダーによるミニAWACSとしての役割で貢献し,戦闘時には慎重に危険から遠ざけられました.
 イラクの指揮官は,イランのF-14がそのエリアで行動している事が分かっている場合,接近しないようにパイロットに命じておりました.
 トムキャットの存在は,敵を脅えさせ,かつイラクの戦闘機を送り返すのに十分でした.
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 稼働率は悪いし,敵には接近しないし,敵も近寄って来ないんじゃ,ガンガン撃墜出来ないじゃないか(笑)
(まあ,ある程度は「抑止力」としては役に立っていたようだけど(^^;)

 F-14に撃墜された3機(ミラージュF.1EQ×2機,MiG-21×1機)は,「禁令」を破って接近し,返り討ちに逢ったのかな?
(いくら「ミニAWACS」的運用とは言え,サイドワインダーとスパローくらいは積んでいただろうし)

シア・クァンファ in mixi

 また,重要なコンピュータ部分を取り外されており,全く活躍できなかったとする文献もあります.
 以下引用.

 これに加え,兵器の部品不足,整備不良も深刻な問題になっていた.
 パーレビ前国王が革命直前アメリカから買い込んだ最新鋭戦闘機F14,70余機は,アメリカ軍事顧問団の引き上げと共に,射撃管制装置など重要なコンピュータ部分を取り外されて,全てが無用の長物と化し,F4,F5などの第一線機およそ400機も,部品不足や整備の不良で3分の2は飛べない状態にあったと言われていた.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.51-53

 一方,オスプレイの本には,巻末にイラン空軍のF-14撃墜数として
「このリストではイランの退役F-14パイロット,F-4及びF-5パイロット,イラクの退役MiG-21,Su-20/22及びMirage F1 EQパイロット,イランの公式記録,スピアヘッドなどのアメリカ海軍ドキュメント,ウォー・コミュニケスなどの報道情報によって得られた159機の確定撃墜が上げられています.
 また,その中の1つのソースでしか上げられていない34の不確定撃墜が載っています」
と小さく注意書きして,アペンディックスに撃墜機数リストが載っています.

 本文中に「撃墜数30と言う数字はおそらく正しいだろう」としていながら,なぜ159機の「確定撃墜」を載せているのかは謎です.
 と言うか,注意書きを裏返すなら「2つ以上のソースで確認できる物は確定撃墜としています」となるわけですが……,それって「確定撃墜」ではなくて「報道されたのが『確定』の撃墜」ではないかと…….

 この辺の謎はそのうち著者にメールで問い合わせてみようとは思っています.
 ちなみにこの本,現役イラン空軍将校に対するインタビューの話はかなり怪しいです.
 ねじ曲げられて載っていると言うのではなく,「そもそもこいつら嘘付いてるだろ」みたいな……(^^;
 信じられそうなのは亡命した退役イラン空軍将校,退役したイラク空軍将校,退役/現役アメリカ軍将校の話くらいでしょうか.

 ただ,同書は意外と中身はまっとうです.
 機体は何らかの不調を抱えまくりで,スクランブル離陸する直前に戦闘不能になったり,地上部隊との連携が悪いので味方の対空砲や対空ミサイルに撃たれる話もちらほら出てきたり.
 中には,対空砲の炸裂する煙を敵機と見間違えて,対空砲火が炸裂する真ん中で高G機動して機体を穴だらけにしてみたりと,まあイラン空軍パイロットの練度のほどがうかがえるシーンもあったりしますが…….
 空中戦の最中にエンジンストール起こして空中戦どころじゃ無くなったり,フェニックスミサイルを使える資格を持った搭乗員が少ない上に,ミサイルその物がそもそも貴重品なので持たせてもらえないとか…….
 「極貧部隊大好き作家の火葬戦記ですらここまでひどくないぞ」みたいな感じです.

 だから余計に「なんで159機?」という気にさせられます.
 思うに
「正確にはわかんないんで,とりあえず思いつく限り上げてみた.この中のどれかが本物だと思うんで,それで勘弁して」
みたいな感じなのでは無いかと……(汗

 インタビューに答えてる退役イラン空軍将校も,フライトマニュアルか整備マニュアルでも覚え込んでなければ不可能なコメントをしてますし…….

 まあ,
「我が軍のトムキャットは,130機を超える敵機を撃墜している」
と叫んでる現役将校がいることだけはガチですが(爆笑

in mixi


 【質問】
 イラン・イラク戦争におけるトムキャットの損失は?

 【回答】
 イラク側は,イランイラク戦争において11機のF-14を撃墜したと発表しているが,実際にイラク空軍機に撃墜された事が確認できるのは3機のみ.
 こちらも,約4倍の開きが有ります.

 現実には,イランイラク戦争中に12機のトムキャットが失われているが(さらに,戦争開始前に2機が墜落している),イラン側は,これらの殆どは事故によるもので,イラク空軍機との交戦中に失われた機体は1機のみ,それも敵機との交戦中にエンジンが失速したのが原因であり,敵機の攻撃によるものではないと発表している.
 ちなみに,イラク空軍機に撃墜された3機のF-14は,いずれも,マトラR550マジック空対空ミサイル(赤外線誘導)によるもの.

・1982年11月21日:ミラージュF-1EQ戦闘機により撃墜
・1983年3月:MiG-21により撃墜
・1984年7月1日:ミラージュF-1EQ戦闘機により撃墜


 この内,1983年3月の損失が,上記の「敵機との交戦中にエンジンが失速して墜落」とイランが主張しているもの.
 さすがに,「超旧式」のMiG-21が「最新鋭」のF-14を撃墜した,などとは認めたくなかったのでしょう(笑)


 フランス製のR550マジックは,フォークランド紛争でもアルゼンチン空軍が使用し,ブリテン海軍航空隊のシーハリアー相手では振るわなかったのですが,イランイラク戦争で,当時最新鋭のトムキャットを3機撃墜した事で一矢報いた,と言えるかな.

 トムキャットに撃墜された事が確認できる3機も,ミラージュF-1とMiG-21だったコトも興味深いですね.

 当時のイラク空軍の戦闘機は,ソ連製のMiG-21,MiG-23,MiG-25,フランス製のミラージュF-1が有った.
 この内,MiG-25は戦闘機相手に使える機体ではないので問題外.
 MiG-23はMiG-21よりは新しい戦闘機だが,当時中東諸国に輸出されたのはダウングレードバージョンであり,レーダー誘導空対空ミサイルの運用能力がカットされていた.
 同様のダウングレード版MiG-23はシリアも保有しており,イスラエル空軍機と交戦したが,対戦相手のイスラエル空軍は「MiG-21にも劣る」と酷評.
 MiG-21と同様のAAMしか運用出来ないのならば,まだ運動性が高いMiG-21の方がマシ,というコトですね.

 同じ「可変翼機」とは言え,主翼が自動制御のトムキャットと,手動制御で3パターンの角度しか選べず,ましてや敵機との交戦中に主翼角度を変えるのは不可能というMiG-23では勝負になるはずも無く,そうなると,どうにか太刀打ちできるのはミラージュF-1のみであり,その他ではMiG-21くらいしか使えない,というコトになる.
(しかも,別記のように,イラク空軍上層部は,トムキャットには接近するな,と命じていたようなので,交戦の機会はよけい減る事になる)

 あと,気になるのは,敵機との交戦以外で失われたトムキャットがけっこう多いコト.
 イラン空軍のF-14Aのエンジンは「コンプレッサーストールを多発させ,スロットル操作には注意が必要」な初期型の「TF30-P-412」ではなく,「その欠点を改善」した「TF30-P-414A」なので,その点では,幾らかマシになっていたはずなんだけど,それでも,エンジントラブルを根絶するには至らなかったようです.

 イランはトムキャット79機を入手し,開戦前に2機喪失し,77機でイランイラク戦争に突入.
 アメリカの支援が無くパーツ供給も途絶えた為に稼働率は悪化し,常時動かせるのは多くて20機程度という状況下で,敵機と戦わずして9機が失われたのは,大変痛かったと思われ.
 酷評すれば,イラン空軍のトムキャットにとって,イランイラク戦争は「航空撃滅戦」どころか「航空自滅戦」だった,という事になりますか.

シア・クァンファ in mixi


 【質問】
 イランでの,空襲下の生活の様子は?

 【回答】
 灯火管制を守らない市民が多かったり,ロシア人達が,イラク軍が落としていったソビエト製爆弾が炸裂して立ち上る黒煙を見物していたりと,どこかのどか.
 以下引用.

 そして夜毎の灯火管制.
 二度,三度と対空砲火の音を聞いた.ホテルのバルコニーに出てみると,赤い弧を描いて,曳光弾が暗い夜空に上がってゆくのが見えるが,その弾道が動かない.「敵機」の爆音も聞こえない.
「灯火管制を守らない市民が多いので,ああやって警告しているんですよ」
 イラン人の友人が,笑いながらそう言った.

 本物の空襲もあった.
 空港に近い自動車工場が直撃弾を受けたのだった.
 イラン国内の発電所工事現場から一時帰国するため,私達と同じホテルに泊まっていたソビエト人技術者達が,パンツ一枚の裸体でバルコニーに鈴なりになり,イラク軍が落としていったソビエト製爆弾が炸裂して立ち上る黒煙を,ガヤガヤと見物していた.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.24-25


 【質問】
 ソ連外交官誘拐事件とは?

 【回答】
 1985年9月30日,ベイルートで4人のソ連外交官が,「イスラム解放機構・ワリド軍団」と名乗る親イラン・ゲリラグループに誘拐されたことがあった.
 翌日,人質の一人,アンドレ・カタコフ(だったかな?)は射殺体で発見された.

 10月中旬,ボロディロフ駐イラン・ソ連大使が,我が国のベラヤチ外相と極秘に会談した.

 その3日後,人質は解放された.

 一説にはKGBがシーア派幹部12人を捕らえ,
「人質を解放しなければ彼らを皆殺しにする」
と通告したという.

 あくまで「聞いた話」だがね.

イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw in 軍事板


 【質問】
 1988/7/3,ミサイル巡洋艦USS「ビンセンス」は,イラン航空のエアバスA300をなぜ撃墜してしまったのか?

 【回答】
 米海軍は,その前の「スターク」誤爆事件によって神経を尖らせており,また,イラン空軍のF-14はそれまで時折,民間旅客機の信号を出していたため,「ビンセンス」は民間機を同空軍機と誤認したようだ.
 以下引用.

 当時続いていたイラン・イラク戦争では,ホルムズ海峡を航行する民間タンカーが攻撃目標となって被害が発生しており,アメリカ海軍はその警護も兼ねて,ホルムズ海峡近くで海軍の軍事演習を実施.
 イランはこれに対して挑発的な監視行動をとり,F-14が連日発進していた.
 さらには,2年前にはアメリカ海軍フリゲート艦「スターク」が,イラク空軍機による誤射を受けて乗員37名が死亡する事件も起きており,米海軍もイラン・イラク空軍機の行動には神経を尖らせていた.
 そして,当時発進していたF-14はときおり,民間旅客機の信号(ATCトランスポンダーの反応電波)を出していた.

 事件当日,イラン航空のA300は当然,管制機関から指示されていたATCトランスポンダーのモード3にセットして飛行していた.
 このことはビンセンスでも確認されていたが,それ以前の行動から,F-14などのイラン空軍機である可能性も否定できない.
 イラン航空機に対してビンセンスからは,軍事遭難信号(MAD)と国際航空防衛信号(IAD)により警告が与えられたが,旅客機にはMAD受信機は装備されておらず,パイロットはIADをモニターしていなかったか,真剣に受け止めていなかったと考えられる.
 A300はビンセンスに接近を続け,艦対空ミサイルが発射された.
 それはA300に命中し,乗員16名を含む,A300搭乗者290名全員が死亡.

 もしイラン空軍が,この事件以前に,軍用機が通常のIFF運用を行っていて,民間機を模擬していなければ,あるいはこの事件は避けられたかもしれない.

 ただし米側の最終報告書では,ビンセンス側にも標的確認に基本的な不備があったことも記載されている.

(小林健「航空ファン」,2003/6,p.57,抜粋要約)

 これに関し,江畑謙介は,イージス・システムでも脅威の最終判断を行うのは人間であり,そこに誤判断が生まれる余地があると指摘している.
 また,イージス・システムのコンピュータ・のソフトウエアは,「接近して来るものは,まず敵」と疑ってかかるように書かれているという.

  イージス・システムは何度も書くが,洋上において米空母を守るためのシステムである.西側生存の生命線は海上交通路であり,その確保と洋上戦に最も大きな力を持っているのが米大型航空母艦である.
 したがってソ連が米国と事を構えるとした場合,洋上においては米空母の撃破をまず第一に考えねばならない.それにはかなりの犠牲を払っても,ひきあうものである.このような目標を「高い価値を持つ目標(ハイ・バリュー・ターゲット)」といって,たとえばTu26バックファイアー爆撃機のような機体を使って,何十機かで同時集中攻撃をかける.防御側の能力を飽和状態にさせるためである.
 イージス・システムはそのような攻撃にも十分対処できるように設計された.同システムを構成するハードウエアの中で,最大の特徴である上部構造物壁面上四面に備えられたSPY1フェーズド・アレイ・レーダーは,コンピューターと連動し,数百(二百以上といわれる)の目標を同時に探知,追尾,識別し,そのうち,脅威度の高い目標二十個以上に対して,ミサイルを発射誘導できる能力を持つ.

最終判断は人間が行う

 ところが問題はここにある.「脅威度の高い」とは,どうやって判断するか? コンピューターが各種の判定基準と照らし合わせて行うのだが,たとえば,こちらに向かって来る目標は,遠ざかっていたり,あらぬ方向に進んでいるものより「脅威度は高い」.それが増速していれば,減速しているのより「怪しく」,降下してくるのであれば,これは「危ない目標」と考える,といった具合である.
 その作業をコンピューターが瞬時に行うから,多目標対処ができるのだが,その「脅威度の高い」目標を攻撃するか否かを決めるのは人間である.
 イラン航空機を撃墜した場合も,イージス・システムのコンピューターは,こうした判断選択を行い,さらに「各種電子情報」に基づき,敵味方の識別作業も行ったはずである.
 その中には当然,あの海域での民間定期航空路線のスケジュールも入っていたはずで,イージスのコンピューターは多分,
「『イラン航空の655便がまだ来ていないから,それである可能性はあるが・・・』,目標はこちらに向かって来る,脅威度のレベルは赤のほうだ」
というようなことをビンセンス艦内の戦闘指揮所のスクリーン上に表示してきたであろう.
 あるいは始めの『 』の中は表示されていなかったかもしれない(その可能性が大きい).
 イージス・システムのコンピューターは決して「目標が敵である確率一〇〇%」とはいっていないはずである.

 しかし,戦闘指揮所内にいて,そのわずか半時間前にイランの高速艇相手の戦闘を交えたばかりであり,イラン側の報復攻撃をピリピリしながら警戒している人間には,コンピューターのいってきていることが,「一〇〇%敵」と映っても不思議ではない.
 これはコンピューターの問題ではなく,人間が人間である限り永久について回る問題である.

 もっとも,イージスのコンピューター・ソフトウエアにも問題がない訳ではない.前述のように,イージス・システムは大洋上で空母を守るためのシステムであり,そのソフトウエアは,「接近して来るものは,まず敵」と疑ってかかるように書かれている.まず「民間のものか,中立国のものかもしれない」と疑ってかかるようにはなっていないのである.
 したがって,スクリーンの表示には「脅威度」としては示されても,「不確実度」とは示されない.
 そのスクリーンを見る戦闘状態にある人間が,初めから敵と疑ってかかっても,あながち責められるものではないかもしれない.
 イージス・システムは確かに洋上航空管制所として使える能力を持ち,ベイルート沖やリビア沖で実際にその任務に投入された.しかし,それは同システム本来の使い方ではなく,今回の事件も使用場所を誤ったことから生まれた悲劇といえなくもない.

(江畑謙介 from 日本財団図書館)


 【質問】
 イランによる国外の反体制派暗殺は,どのように行われたか?

 【回答】
 イランはイスラーム革命以降,一貫して暗殺を続けてきた.
 強硬なホメイニ路線が徹底していた80年代中旬までが,その最盛期かというと,現実はその逆で,ホメイニの指導力が低下したその晩年,88年から急速に増え,93年辺りまでがそのピークだった.
 暗殺の主舞台となったのは,亡命者達の本拠地パリだが,他にもベルリン,ウィーン,ドバイ,ラルナカ(キプロス),イスタンブール,ローマなど,少なくとも20カ国以上で350人以上がこれまでに殺害されたと言われる.
 特に89年以降,反政府ゲリラの司令官や元閣僚クラスの有力活動家が集中的に狙われている.

 テロの計画・実行がどのようなメカニズムになっているのかは分かっていない.
 おそらく革命初期は,過激聖職者集団であるイスラーム共和党上層部が決定し,イスラーム宣伝局などを作戦司令部として,革命防衛隊が実行していたと推察される.
 その後,権力構造安定と共に,暗殺システムも徐々に整備されたようだ.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.61-62,抜粋要約)


 【質問】
 バクチアル暗殺事件とは?

 【回答】
 1991年8月,王制時代最後の首相シャープル・バクチアルが,パリ郊外の自宅で暗殺された事件.
 実行犯は3人.1人はすぐに逮捕されたが,残る2人はスイスへ逃亡,ベルンのイラン大使館員ゼイノル・サルハディの保護を受けたことが確認された.

 フランス捜査当局の追跡により,後に在パリ・イラン大使館員とラジオ特派員が犯行に関与したとして逮捕される.
 裁判途中で重要証人の息子が暗殺されるなどの妨害も発生したが,94年12月の判決では,大使館員に無罪,ラジオ特派員に禁固10年,実行犯のイラン人に終身刑が下された.
 暗殺を指揮したのがイラン情報部のイスタンブール支局だったことが,裁判の過程で明らかにされている.

 バクチアルは,イラン宗教裁判所で死刑判決を受けた79年にフランスへ亡命.
 80年にパリで一度,暗殺未遂に遭っている.
 そのときは,PLOの傭兵4人を指揮して実行に当たった,イランの工作員アニス・ナカシェが逮捕され,82年に終身刑の判決を受けた.

 ナカシェは90年,レバノンでヒズボラが誘拐したフランス人人質との交換で釈放され,そのままイランに帰国.英雄として迎え入れられている.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.63-64,抜粋要約)


 【質問】
 ミコノス事件とは?

 【回答】
 1992年9月,ベルリンで開催中の社会主義国際大会に出席していた,イランの反体制クルド人組織「イラン・クルド民主党」の代表者3人と通訳1人が,レストラン「ミコノス」で会食中に殺害された事件.

 その後,ドイツ捜査当局に,首謀者としてイラン人食品雑貨商カゼム・ダラビ(実はイラン情報部員)と,実行犯としてレバノン人4人(実はヒズボラ兵士)が逮捕され,裁判が93年5月からベルリン地裁で開始された.
 逮捕者の他にも,少なくともイラン情報部員3人の関与が確認されたが,いずれもイランに逃亡.
 内1人については,成功報酬としてイラン政府からベンツを与えられていたことが判明している.

 さらに96年3月,検察庁がテロ教唆容疑者として,イランのアリ・ファラヒヤン情報相の逮捕状を請求,それが発行されたため,この裁判は国際的な注目を集めることになった.
 同年8月には,バニサドル元イラン大統領が証人として出廷,独自の情報網から得た情報として,
「イランの権力中枢には,
アリ・ホセイン・ハメネイ最高指導者,
アクバル・ハシェミ・ラフサンジャニ大統領,
ファラヒヤン情報相,
アリ・ベラヤチ外相
(以上,いずれも当時)らで構成する秘密会議があり,テロ作戦はそこで決定された上,情報部に指令される」
と証言した.
 96年11月のファラヒヤン情報相起訴に際しては,テヘランのドイツ大使館前で官製デモが行われ,担当した検事への脅迫も相次いだという.

 97年4月,ベルリン地裁は,レバノン人1人を無罪とした以外,残る4人に有罪判決を言い渡した.
 量刑は,
指揮官役のカゼム・ダラビ:終身刑
実行犯アッバス・ラエル:終身刑
実行補助役ユセフ・アミン:禁固11年
同ムハマド・アトラス:禁固5年3ヵ月
だった.
 さらにこの判決では,イラン政府中枢の関与が断定されたが,これによりイランとEU諸国は,大使召還合戦で一時的に外交断絶状態となった.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.64-66,抜粋要約)


 【質問】
 レバノンの89年内戦はなぜ起こったか?

 【回答】
 事の発端は,88年に任期切れで元首の座を降りたジェマイエル大統領が,後任大統領を決められなかったことである.
 彼は,政府軍司令官ミシェル・アウンを暫定首相に任命したが,レバノンでは大統領はマロン派キリスト教徒,首相はスンニー派,国会議長はシーア派と決まっている.
 マロン派のアウンの首相就任にイスラーム教徒は反発,スンニ派のサリム・ホスを首相に押し立てるに及び,レバノンは二重権力状態に陥った.

 一方,権力集中を目指すアウンは,各民兵組織の資金源を絶つため,「違法港」を封鎖.政府の許可を得ない,言わば密輸品の取引や武器の搬入を阻止したのである.
 これは民兵組織にとって死活問題であり,89年3月からレバノンは,キリスト教徒対イスラーム教徒の構図で内戦に突入した.

 この内戦はアラブ連盟により89年9月に停戦に漕ぎ付け,サウディアラビア・アルジェリア・モロッコの3国委員会は,サウディのタイフでのレバノンの「国外議会」開催を提案した.
 さらに,イスラーム教徒の権利拡大を骨子とする「国民和解憲章」の叩き台を作り,レバノンの国会議員達に審議を促したのである.その審議が新たな火種にもなりかねないから,安全な外国で「国会」を開けというのだ.

 行こうか行くまいかとキリスト教徒の議員達は迷ったが結局,定数の3分の2弱,計63人の議員がタイフに集まり,同年9月30日から3週間に及ぶマラソン討議の末,同憲章を採択.国民議会(国会,定数99)の定数を128に増やし,キリスト教徒とイスラーム教徒の定数配分を,従来の6対5から5対5にする.また,スンニー派の首相が率いる内閣の権限大幅強化を決めた.
 賛成59,反対1,棄権2,欠席1.
 これがレバノン独立以来の憲法(国民協約)に代わる国民和解憲章,いわゆる「タイフ合意」である.

 同憲章に基づき,レバノン国民議会は同年11月5日,マロン派キリスト教徒,ルネ・ムアマドを新大統領に選出.
 ムワマドが同月21日に暗殺されると,直ちに同じマロン派のエリアス・ハラウィを後継大統領に選出した.
 両者とも親シリアの政治家であり,大統領選出の議会はシリア軍支配下のレバノン北部,クライアトで開かれた.
 こうしてアウンは権力の根拠を奪われたのである.

 アウンの散り際は,決して美しかったとは言えない.
 湾岸危機たけなわの90年10月,いよいよシリアが強硬手段に出るとの情報が流れると,大統領府の周りにはキリスト教徒数千人が集まり,アウンを守る「人間の鎖」を作った.
 だが,シリア空軍による空爆の前日,これらの人々にアウンは退去を命じた.
 そして空爆開始直後にフランス大使館へ逃亡.
 これは,反シリア闘争の「英雄」とし手のイメージを大きく損なうものだった.さっさと逃げ出すくらいなら,立て篭もっていた意味がない.

 マロン派を擁してレバノンを独立に導いたのはフランスである.
 シリアはフランスが内戦に介入しないよう,「新たな十字軍」という言葉をしきりに使って牽制した.
 アウンの仏大使館への逃亡は,「やっぱり最後の頼みはフランスじゃないか」という印象を与えた.これには,シリアに批判的な人々も,複雑な表情で沈黙せざるをえなかった.

 アウン失脚後,レバノンのハラウィ政権は,シリアの後押しにより着々とレバノンの「正常化」を進めていった.
 空爆2日目には,ベイルートを東(主にキリスト教徒居住区)と西(主にイスラーム教徒居住区)に隔てるグリーン・ラインを撤去し,翌91年7月にはレバノン南部への政府軍進駐も実現.形の上では国の治安を政府軍が一手に握った.

 その過程であらゆる民兵組織にハラウィ政権は武装解除を命じ,
「なぜ我々が民兵組織なのか」
と抵抗するPLOに対しては,難民キャンプに激しい攻撃を加え,力づくで武装解除を実現したのである.
 政府軍とPLOが戦火を交えたのは91年7月初旬.湾岸戦争終結から4ヵ月余り後のことである.死者は65人を数えた. 

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.341-347,抜粋要約)


 【質問】
 インティファーダって何よ?

 【回答】
 建国以来,長年にわたって与党の座にあった労働党に替わり,大イスラエル主義を掲げるリクードが政権を奪取したことにより,占領地の行政も大きく変わった.
 軍政から民政への転換が行われ,パレスチナ人に対する寛容な政策は終わりを告げる.
 占領地の完全併合を狙うリクード政権は,露骨に当地の行政への介入を始めたのである.
 親PLOと目される指導者たちは次々に解任され,一部は国外追放の憂き目にあった.
 抵抗運動の拠点とされる大学は閉鎖され,アラビア語の新聞社は発禁命令を受ける.
 併合への地ならしといったところであろうか.

 これらの弾圧に対し,遂にパレスチナ人の怒りが爆発する.
 ガザ地区においてイスラエル軍のトレーラーとパレスチナの車2台が衝突し,パレスチナ人4名が死亡した交通事故をきっかけに,イスラエルへの抗議を叫ぶパレスチナ市民のデモ・暴動が自然発生し,それは燎原の火の如く占領地全土へと広がる.
 これが世に言う『インティファーダ』である.
 完全武装の兵士に対し,投石だけで立ち向かう市民という絵柄には大きなインパクトがあり,世界の耳目をパレスチナに集めることに成功した.

 この巨大なピープルズ・パワーには,当然に既存の各パレスチナ人組織も注目し,PLOや,ハマスなどのイスラム原理主義組織は,その力を取り込もうと努力する.
 やがてインティファーダはこれらの組織に指導されていくことになった.
 (皮肉だが,このあたりからインティファーダの衰退が始まる)

(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME)

 私はかつてガザ〔のインティファーダ〕取材中,イスラエル軍が発令した無期限外出禁止令下で生活し,パレスチナ人が言う「家畜の生活」の一端を経験した.
 ゴム弾の直撃を受けて失明した少年の悲しげな顔を見つめ,手足を切断して病床に横たわる男達の呻き声も聞いた.
 そうした事情を知れば知るほど,ガザの平穏に安堵感を覚える.「不合理な平和」も「正しい戦い」もあるだろう.でも,もういいじゃないか,あんな状況はたくさんだよ,という気分になる.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.38)

 若者が,何本かの古いタイヤに火をつけた.それをイスラエル陣地に向かって転がす.赤い人黒い煙で,辺りが霞む.
 青年は,長い紐の端に石を挟み,それを振り回して勢いをつけて飛ばす.
 少年はパチンコに石を挟んで飛ばす.
 度胸のある若者は,装甲車ギリギリまで寄って,こぶしほどの石をぶつける.

 イスラエル兵はゴム弾を撃つ.ゴムとは言うが,プラスティックのように相当硬いから,頭に当たれば死ぬ.昨日は2人,今日は3人.毎日,確実に青少年が死んでいく.

 少年が投げる石が,私の足に当たった.頭にも小さな石が当たった.面白半分に狙われているのだ.
 案内のライド〔元ファタハ兵士〕が,リーダー格の青年を呼びつける.
「この人は日本人なんだからやめろ」
「アメリカの報道に頼まれてるんじゃねえのー」
「違う,日本で放送するんだから」
 同じホテルに,アメリカCBSテレビのクルーがいた.彼らはヘルメット,防弾チョッキなど完全装備だったが,そのわけが分かった.アメリカのジャーナリストは青年達から狙われているのだ.

 少年だけでなく,明らかに10歳以下の男の子もいる.ブロックを割って手頃な石を作り,それを運んでいる.みんな元気で嬉しそうだ.TVゲームより面白いのだろう.文字通りのストリート・ファイターだ.
 運悪く死亡すると,今度はストリート・ヒーローになる.
 ヒーローの葬儀デモが行われる.遺体を担いだデモは,入植地入り口にあるイスラエル陣地に向かう.
 そこでまた争乱が起きる.
 そこでまた青年が死ぬ.
 やりきれない繰り返しだ.
 子供達の中には,親に誉められるために石を投げる子供もいる.逆に親に反抗して石を投げる子供もいる.
 親は子供達を止められない.親も子供達に国家を保証できなかったし,未来を与えることもできなかったと思っているからだ.
「あんたらがだらしなかったから,イスラエルに負けたんだ.
 負けたから,俺達にはいまだに国家を持てないんだ」

 青年達は,海の向こうには何があるのか,山を越えれば何が見えるのか,それを知りたがっている.
 この狭いガザ地区に閉じ込められ,押し込められて,もううんざりしているのだ.
 若者達は夢を実現するために石を投げる.命を賭けて.
 日本では国家主義に反対する.ここでは若者達が国家を切望する.
 日本では自衛隊に批判的だが,ここでは軍隊組織を切望する.
 国家がないから,国の軍隊がない.軍隊がないから,テロリストになるか石を投げるしか方法はないのだ.

(橋田信介「戦場特派員」,実業之日本社,2001/12/20, P.329-331)


 【質問】
 インティファーダで子供が投石するのを,親はどう思ったか?

 【回答】
 ジャーナリスト橋田信介の報告によれば,次の通り.

「奥さんに質問する.
『自分の子供が石を投げに行くのに同意しているのか?』
『ここは自分達の土地,それをユダヤ人は奪うのだから仕方ない』
『それで自分の子供が亡くなったらどうするんだ?』
 奥さんは,頭に巻いたスカーフに手をやって,
『悲しいけど,運命だと思って諦める』
と答えた.ライド〔夫〕を見やると,別に亭主が強制した答のようには思えなかった.
 20年も30年も生と死のナマの現場を体験し続けていると,本当にそうなるのだろうか.

(「戦場特派員」,実業之日本社,2001/12/20, P.318)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 インティファーダ晩期,イスラエル占領地でパレスチナ人によるパレスチナ人殺害がなぜ頻発したのか?

 【回答】
 密閉された状況の占領地では,イスラエル兵が行政拘束と称し,逮捕状なしにパレスチナ人を拘束,国際法上の根拠もなく外出禁止令を発令する.
 主に投石だけが闘争手段のパレスチナ人達は,戦車さえ投入するイスラエル軍には当然ながら叶わない.
 最大の頼りは,自分達の闘争と「殉教」をマスコミが世界に報じてくれることだが,マスコミも,1987年暮れからのインティファーダには些か飽きてきていた.

 ここに至って,本来,外に向かうべきパレスチナ人のエネルギーは,内向を余儀なくされた.
 イスラエル軍との戦いと,「協力者」粛清は表裏一体をなす行為である.「協力者」とは,イスラエル治安当局・秘密警察などに情報を流し,報酬を貰うパレスチナ人を言う.
 「協力者」狩りがやむまでに犠牲者は千人を優に超えた.
 だが,これらの犠牲者が実際に「協力者」だったかどうか.
 「協力者」が確かに存在するとしても,占領下の疑心暗鬼が,無実の同胞を殺してしまうこともあるだろう.
 イスラエル軍との戦いが壁にぶち当たった分,闘争のエネルギーは「協力者」殺しのほうに向けられたのではないか,と私〔布施〕は考えていた.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.294-295,抜粋要約)


 【質問】
 オスロ合意に至る経緯は?

 【回答】
 イスラエル・ラビン首相は,どうにも困っていた.
 占領地の経営が人的・経済的とも,完全に行き詰まっていたからである.入植地の維持に注ぎ込まれる金額は年を追って増大しており,またインティファーダをはじめとするパレスチナ側の抵抗運動により,社会不安が問題化,結果としてイスラエルの経済を破綻させていたのである.
 頼みの綱であるアメリカも,前シャミル政権(リクード)が中東和平に関して不誠実な態度をとり続けた為,その怒りを買い,財布のひもが極めてきつくなっていた.
 このままでは国自体が破産してしまう…

 PLO・アラファト議長も,やっぱり弱り果てていた.
 湾岸戦争で,うっかりフセインへの支持を匂わせたばっかりに,メイン・スポンサーである産油国の援助を失い,経済的にどうにもならないところまで追い込まれてしまったのである.
 また,彼らに代わって台頭しつつあるイスラム原理主義組織の動きも見逃せなかった.
 このままではPLOの存続すら危うくなる…

 この時点で既にアメリカの肝いりでワシントンにおいて二国間交渉が行われていたが,お互いの面子を賭け,文章の一字一句について争う不毛なものになり果てていた.
 誰もが中東和平について絶望視していたが,軽々に動けぬトップに代わり,事態を打開しようと秘密裏に交渉を開始した人々がいた.
 イスラエルのペレス外相とPLOの大立者アブ・マゼン(のちのPA初代首相)のグループである.

 ノルウェー外務省の熱心な仲介,バックアップを受けたイスラエル,PLO両代表団は,オスロ郊外のホテルや山荘で極秘に会談を重ねた.
 交渉者たちは寝食を共にし,朝から晩まで激論を繰り返す内,どうやら合意の形が見えてくる.
 こうして一向に進展の見えないワシントン会談に代わり,オスロ・チャンネルが交渉の本道となった.

 93年9月13日,両国首脳はワシントンにおいて「パレスチナ暫定自治協定」に署名.
 内容はイスラエルとPLOは相互を承認し,エリコとガザで自治権が委譲されるというものであった.
 イツハク・ラビンがアラファトと握手したとき,まるでクトゥルフと握手するような嫌な顔をしていたのは忘れられない.

 が,それはともかく,これで中東和平は劇的に進展すると思われた.
 …が,この動きを快く思わないものたちがいた.
 イスラエルの極右勢力と,パレスチナの非PLO系過激派組織である.

 95年11月4日,イーガル・アミンという名前の狂信的ユダヤ教徒の銃弾により,ラビン首相が射殺される.イスラエル建国以来,初めての元首暗殺であった.
 期を同じくして『ハマス』やイスラム聖戦などのイスラム原理主義組織により,テロ活動が激化する.
 情勢の悪化は治安回復を公約に掲げるリクードの復権を招き,和平の空気は霧散した.

 で,まあ,以後,両者の関係は悪くなったり良くなったり悪くなったりで現在に至る.

(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME他)


 【質問】
 どんな過程で和平合意に至ったのか?

 【回答】
 イスラエルとPLOの秘密交渉は1992年12月初め,ロンドンのホテルでのヤイール・ヒルシュフェルトとアブ・アラ(アハマド・クレイ)の密会で幕を開けた.

 ヒルシュフェルト(51)は,中東史が専門のハイファ大学教授.
 イスラエルのヨシ・ベイリン外務次官と一緒に90年末に設立したNGO「経済協力基金」の事務局長として,アラブ・イスラエルの経済協力を推進している.
 政治的にはペレス外相のブレーンである.

 アブ・アラは,アラファトの側近.経済問題に明るく,後にPAの経済通商産業相になった人物である.

 ヒルシュフェルトは秘密交渉以前,15年に渡って占領地のパレスチナ人と接触していた.
 91年10月に中東和平交渉が始まってからは,パレスチナ代表団のファイサル・フセイニ顧問団長,広報担当のハナン・アシュラウィらと極秘の意見交換を重ねた.
 だが,表の交渉,裏の接触とも行き詰まり,「第3の選択肢を探さねばならなかった」とヒルシュフェルトは言う.

 両者の密会をアレンジしたのは,ノルウェーの中東問題シンクタンク「応用社会科学研究所」事務局長のタルジ・ラーセンだった.
 当時,ロンドンでは中東和平多国間協議の経済協力分科会が開かれ,イスラエル側はベイリン,パレスチナ側はアブ・アラが出席.ヒルシュフェルトもベイリンの相談役としてロンドンにいた.

 ヒルシュフェルトは言う.
「初めてアブ・アラと会った時,まず彼の真摯な態度に感心した.
 彼は,
『我々(PLO)は,あなた達(イスラエル)との合意を求めている』
と言った.
 その反面,彼はイスラエル・パレスチナ関係の現実を認識していないという印象も持った.
 これは仕方がない.彼ら(PLO関係者)は当時,パレスチナ人と切り離されてチュニスにいたわけだから.
 私はまず,この認識の大きなギャップの橋渡しをする必要があった.このギャップは天と地ほどのものだった.

――どちらが天から地に降りたのか?
「アブ・アラが降りてきたんだ(笑).我々ももちろん歩み寄った.これはシンメトリックなものだった.我々もチュニスの実情は知らなかったのだから」

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.61-62,抜粋要約)


 【質問】
 「アラファト万能論」とは?

 【回答】
 テロのマスター(達人)だったアラファトなら,テロ予防のマスターともなりうる,という主張,というか希望的観測.

 オスロ合意に至るまでの秘密交渉の際,イスラエル側が最も気にかけたのは,80年代から台頭していたハマスへの対応をどうするかだった.
 パレスチナ側から参加したPLO経済局長アフマド・クレア(通称アブー・アラ)は,ハマスが和平プロセスを妨害することを懸念するイスラエル側首席交渉代表,ウリ・サビール外務次官(ラビン政権の外相だったペレスの側近)らに,アラファトがいかにゲリラ戦の全てを知り尽くしているかを説いた.

 イスラエル側は,テロのマスターだったアラファトが,「テロ予防のマスター」としても実力を発揮できるとのアブー・アラの説明を最終的に受け入れ,首相のラビンも合意が纏まった後,クネセト(イスラエル国会)で野党への説得材料に「アラファト万能論」をしばしば用いた.

 だが,亡命先のチュニジアから94年夏にガザに移り住んだ後,アラファトは十分にハマスのテロを抑えられなかった.
 ハマスの容疑者を投獄するが,暫くすると釈放するというやり方は,イスラエル・メディアから「パレスチナ自治区にあるのは回転ドア付きの刑務所」などと皮肉られる材料となり,アラファトはテロを阻止する気がないとの意見も出た.

 96年5月末のイスラエル公選では,右派政党リクードのベンヤミン・ネタニヤフがペレスを僅差で破った.多くのアナリストが指摘したペレスの敗因は,ハマスによる3連続テロ事件だった.
 一連のテロ発生後,選挙前にペレスとは,エジプトのムバラク大統領に呼びかけて,当時のクリントン大統領,エリツィン大統領ら主要国の大どころを集め,「反テロ首脳会議」をエジプト紅海岸のリゾート都市シャルム・エル・シェイクで開催した.
 ところが和平のパートナーであるアラファトは,強いプレッシャーを受けて前夜はよく眠れなかった様子で,側近に抱きかかえられるようにして宿舎に到着,
「テロ予防に魔法の杖はない」
と弱音を吐いた.アラファト自ら「テロ予防のマスター」になり得ないことを認めたわけだ.

 首相公選では治安に厳しいイメージを打ち出したネタニヤフの前に,「和平の創設者」と賞賛されながらも,理想に囚われがちで現実への認識が希薄との批判を受けていたペレスは敗れ去った.
 これを境に中東和平プロセスは停滞,さらに混迷の局面へと向かうことになった.

(中西俊裕=日経新聞国際部記者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.68-70,抜粋要約)

before

after


 【質問】
 何故アラファトは,オスロ合意後もハマスのテロを抑えられなかったのか?

 【回答】
 (1) パレスチナ経済を支えるため,イスラエルへの出稼ぎを認めざるを得ず,その中にテロ犯が混じる可能性は排除し難いという物理的要因.

 (2) 北部などイスラエル国内に住むパレスチナ人――イスラエル側はアラブ系イスラエル人と呼ぶ――が協力者ないし実行犯として役割を果たすことが,イスラエル側の取締を困難にするという要因.

 (3) パレスチナ社会に潜む「内なる溝」の問題.
 アラファトらPLO幹部は,離散民としてヨルダン,レバノン,チュニジアなどのアラブ諸国に居候しながら解放運動を展開してきた.
 一方,ハマスのメンバーら,イスラエル占領下で留まり,同国の抑圧に耐えてきたヨルダン川西岸,ガザのパレスチナ人がいる.
 残留組,特にハマスなどイスラーム系組織の間ではPLOが秘密交渉の形で「生煮えの合意」を勝手に纏めたとの不満が絶えない.
 また,東エルサレムやラマラなど大都市に住む知識層には,ゲリラ時代のワンマン強権体制をアラファトが続けるのではないかとの懸念が常にあった.
 2001年夏にアラブ連盟のスポークス・ウーマンとなった人権活動家,ハナン・アシュラウィはオスロ合意直後の93年,アラファトに花を持たせて
「自己の歴史観を持つ人物」
と持ち上げたが,アラファトが自治区に入ってきた94年に私〔中西〕と会った際には,自治警察が不透明な理由で民間人を拘束した事に懸念を表明して,
「自治政府が巨大なアイアン・フィスト(鉄拳)に変わりはしないか」
と不信感を露わにした.
 アラファトは,こうした自治区の溝を意識するため,ハマスにも強く当たれない面を引きずってきた.

(中西俊裕=日経新聞国際部記者 from 「だれでもわかるイスラーム」,
河出書房新社,2001/12/31, P.68-69,抜粋要約)


 【質問】
 「聖地のトンネル」事件とは?

 【回答】
 1996年9月下旬,イスラエル当局は,「嘆きの壁」付近を起点として「神殿の丘」側面部を通る地下トンネルを開通させた.
 これを『聖地への冒涜」とするパレスチナ人が,大規模な抗議行動を起こし,イスラエル治安部隊とパレスチナ警察隊との銃撃戦にも発展.双方合わせて70人を超える死者が出た事件.

 トンネル自体が,丘の上のイスラーム寺院に直接,悪影響を与えるとは考えにくい.
 しかしイスラーム教徒にすれば,「嘆きの壁」周辺も「不可分の宗教財産(ワクフ)」であり,地形などを勝手に変える事は許されない.
 しかも,トンネルの出口がイスラーム教徒の居住区内に勝手に作られ,そこから観光客がゾロゾロ出てくるのは看過できない事だったろう.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.53,抜粋要約)


 【質問】
 カタールにおける1996年のクーデター未遂事件とは?

 【回答】
 MEMRI記事から纏めると,以下のようになる.

 1996年,アール・サニ(Sheikh Hamad bin Khalifa Aal Thani)がカタール Qatar の首長になった後,前首長である父親が,アール・サニを退位に追いこもうとした.

 その後,2005年になって,カタール内務省はカタール人5266名の市民権を剥奪した.女子供老人を含む人達で,全員がアル・グフラン部族の出身者.この部族はアール・マッラ族の下位集団である.
 表向きの剥奪理由は,この部族がカタールとサウジの二重国籍者であること.
 しかし本当の理由は別にあるようで,アール・マッラ族の一部がこのクーデータ騒ぎに関与したため,と思われる.

 カタール当局は,剥奪処置に続いて,電気,水道をとめた.
 給料もカットし,教育,保健その他の福祉厚生の対象からはずした※2.
 公務員だけに給料が支払われていないのか,それともカタールに居住するこの部族全員に支払われていないのかは不明.
 そのため,多くの人がやむなく国外に出た.約3500名が,近親者のいるサウジ南部へ移住した.市民権剥奪発表当時国外に居た者は,カタールへの再入国を拒否されている.

 カタールの市民権法第15条は,罪を犯した者の市民権剥奪を認めているが,こ の処罰は罪を犯した本人だけに適用されるのであり,本人の家族等に連帯責任をとらせるものではない.

 この一方的処置で,湾岸諸国特にサウジが批判の火の手をあげた.
 カタール政府に処置の取り消しを求めた人権団体もいくつかある.
 サウジの新聞各紙も一斉にカタール当局を非難し,アル・ジャジーラTVが一切報道しないので,その沈黙も批判した.

 アール・マッラ族の人々は,ウェブサイトをたちあげ,状況の深刻さを世界に訴えると共に,カタール政府に理不尽な処置の取消しを求めている.

 【質問】
 2000年9月以降,イスラエル・パレスチナ間の緊張が一気に高まったのは何故か?

 【回答】
 当時のイスラエル野党「リクード」党首シャロンが,旧市街の神殿の丘(イスラーム教徒の聖地で,パレスチナ人が管轄している)を訪れたことに始まる.これは明らかに挑発だった.

 93年〔原文ママ〕の和平合意に基づき,パレスチナ国家独立に向けて曲がりなりにもユダヤとパレスチナの和解はある程度,進展していた.
 残された最大テーマは,エルサレムの帰属問題と,3000万人を超えると言われている,周辺のアラブ諸国に離散したパレスチナ難民の帰還問題だった.
 右派であり,パレスチナ自治政府へのイスラエル政府の過度の譲歩に反対するシャロンは,パレスチナ人に「エルサレムは絶対渡さない」と宣言すると同時に,彼らの反発をきっかけに,イスラエル国内の和平派へも打撃を与えようとしたのだ.

 シャロンの戦略はまんまと成功した.
 パレスチナ人は爆弾テロやイスラエル兵殺害に走り,子供達はユダヤ人めがけて石を投げた.
 しかもアラファト議長は,94年の和平合意の前提であったパレスチナ刑務所に収容していた対イスラエル・テロリストまで街に放ってしまった.

 どちらかというとリベラルなユダヤ人ジャーナリスト,I.ピンハス氏(60歳)は,
「アラファトは,この地でユダヤとアラブの共存を願う者全てを裏切った」とまで断言する.そしてこう続けた.「2000年7月のキャンプ・デービッドの会議でバラク(イスラエル首相,当時)は,この地に平和を取り戻すために妥協に妥協を重ね,ウェストバンクの90%と東エルサレムを自治政府の統治下に置くとまで言った.
 これは彼の政治生命を左右しかねないほどリスクの大きな譲歩だった(事実,この取材の直後辞任).
 それをアラファトは蹴ったのだ.
 理由は簡単だ.紛争が続くことにより,彼の権力は維持され,この血に民主主義国家が存在することを嫌う周辺アラブ諸国に支持されるからだ」

(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.112-114,抜粋要約)


 【質問】
 2000年9月以降,イスラエル世論はどう変わったか?

 【回答】
 一般のイスラエル人の考え方を,共存に否定的なものに変えたという.
 以下引用.

――――――
 旧市街のありさまに辟易した私〔大高〕は,旧知の友人,ドロンと新市街で会う事にした.
 しかし,彼の考えもまた変化していた.
 かつて,
「東エルサレムもヨルダン川西岸もパレスチナ人に返してしまってオーケー」
と言っていた,ヘブライ大学の大学院生であるドロンは,こう言った.
「今回の一連の出来事は,ユダヤのリベラルな人間まで変えてしまった.
 決定的だったのは,西岸ラマラでイスラエル兵がパレスチナ群衆によって壮絶なリンチを受けたことだ.罪のない兵士が耳を削がれ,目をくり抜かれ,最後に火炙りにされた.
 僕らは,いつの日かパレスチナ人と共存可能になると信じていた.
 でもパレスチナには,そうした思想はゼロだったのさ」
 私が答えかねていると,彼はこう続けた.
「パレスチナの子供達のサマー・キャンプで何が教えられているか知っているかい? 銃の扱い方と誘拐のし方なんだ.
 貧困地帯ではテロリスト集団ハマスが,
『ユダヤ人を殺せば殉教者として天国に行ける』
と教育している.
 だから,インティファーダの前線に少年たちが出て石を投げる.
 そんな事はアラファトが,
『大人の問題に子供が口を出すな』
と言えば済むことなのさ.
 それを,世界の同情を買おうとして,子供を盾にしてむしろ煽っている.
 しかも,イスラエルから年に250億ドルもの援助を受けながらだ」

 ドロンの言葉を受けながら,ピンハス〔I.,ジャーナリスト〕氏の言葉を思い出していた.
「和平合意の前提は,暫定自治政府が対イスラエル・テロを抑制するというものだった.
 そのためにイスラエルはパレスチナ警察創立に協力し,武器まで与えた.
 しかしその武器が今,我々に向かって火を吹いている」

 ピンハス氏やドロンのような考え方は,2000年9月以降,特に過激でもないユダヤ人一般の考え方になってしまったようだ.
 例えばドロンと会ったカフェの,25歳のウェイトレスは,
「こんな状態で怖くないか?」
と尋ねると,
「『本当の平和が欲しければ,戦争準備を怠るな』
というのがイスラエルの諺.仕方ないですよ」
とさらりと言ってのけた.

――――――(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.118-119)

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 クリントンから小ブッシュにアメリカ大統領が変わったことで,中東情勢に変化はあったのか?

 【回答】
 クリントンの中東和平関与を否定して,中東紛争から距離をとることを表明した.

 ただし,その9ヶ月後に9.11が発生,ブッシュ政権は「テロとの戦い」を全面に押し出した.

 2002年に,イラクとの緊張が深まると,サウジアラビアや他のアメリカに友好な中東諸国は,まずイスラエルとPLOの情勢に目を向けるべきだと主張,
 このとき,イスラエルは,パレスチナゲリラへの報復として,西岸の諸都市を再占領,数ヶ月に渡って,アラファトを包囲していた.(本当にもとの木阿弥ですな)

 この情勢を受けて,アメリカは,EU・ロシア・国連との四者で平和に向けての「ロードマップ作成」を打ち出した.

 イスラエルでは,自爆テロへの防御策として,西岸とイスラエルを隔てる防御フェンスを建築(良くテレビなんかで出てくるね)しだした.
 これに対してアメリカは,2005年までに,イスラエルとパレスチナを「2つの国」として紛争の最終解決を目指す,と表明.
 2002年6月には,アラファトが首相になったあとに,ロードマップを発表する,とブッシュは語った.

 国連安保理は,西岸からのイスラエル撤退を決議した.

 で,2003年春にサダム・フセインがイラクから排除されたことにともなって,イスラエルの安全は大幅に向上,この地域で,イスラエルに強力な軍事的脅威を与えていた勢力が一つ消滅したことで,パレスチナとも新たな動きが見られるようになった.
 これについて,以下のようにナイ教授は述べている.

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 アメリカとイスラエルの双方が受け入れられる動きとして,アラファトは,アブ・マッゼン(Abu Mazen)としても知られるマフムード・アッバス(Mahmoud Abbas)をパレスチナ暫定政府の首相に任命した.
 2つの国として最終解決を求める,4者のロード・マップが公表された.
 アッバスはパレスチナ武装グループの間で3ヶ月の停戦を交渉し,シャロンとアッバス,ブッシュは,和平交渉のためにヨルダンのアカバで6月に会談した.
 ブッシュとシャロンは政権について以来,これはイスラエルとパレスチナの指導者が直接話し合う最初の機会であった.
 しかし,停戦は維持できず,2度目の会談は延期された.アラファトもアメリカもイスラエルも自分を妨害したとして,アッバスは辞任した.
 アッバスに代わってアフマド・クレイ)Ahamed Queria)を任命することで,アラファトは対応した,
 イスラエルは防御フェンスの建設を続けた.
--------------------------------------------------------

 その後,2003年の秋には,イスラエル・パレスチナの包括的な交渉が非公式にジュネーブで行われて「ジュネーブ合意」が一応成立した.
 これは,キャンプ・デーヴィットや,タバでのクリントンが提案した概要に則していて,さらに
・エルサレムの地位
・イスラエル人入植者
・1948年に流出した難民家族について,パレスチナの限定的な「帰還権」を認めること.
などの難問を織り込み,これを解決しようとしていた.
 ジュネーブ合意自体は非公式なので,法的な根拠はなかったものの,お互いが難問に対して合意できるということを示したという意味では,貴重だった.
 2003年12月,当時の国務長官,コリン・パウエルは,イスラエル政府の強い抗議を無視して,ジュネーブ合意の当事者たちと会見した.
 このパウエルの行動について,ナイ教授は,以下のように述べている.

--------------------------------------------------------
 複数の専門家が認めるように,イスラエル=パレスチナ紛争の解決を確認するほうが,解決への道を確認するよりも容易なことを,このエピソードは示している.
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<まとめ>

・アメリカの大統領が変わったことによって,アメリカは,一端,中東紛争から距離を置こうとした.

・しかし,9.11が起きて,テロとの戦いを主眼にすると,これらの問題を無視できなくなった.

・イスラエルとパレスチナは,非公式ではあるものの,ジュネーブ合意を取り付けた.

・イスラエルとパレスチナ紛争の解決には,解決方法を確認するほうが,解決へ至る道を提示するよりも有効である.

 一応,先に進んでるようには見えるけど,やっぱしバランス悪いと思うし,結局,ヒズボラの問題もあるので,一朝一夕には行かないと思う.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 イスラエルによる2003年のガザ侵攻はなぜ起こったか?

 【回答】
 イスラエル流の「テロ予防戦争」.パレスチナの武器密輸行為がきっかけ.

「先頃,レバノンからパレスチナのガザに武器を密輸していたのが海上でイスラエル海軍に拿捕されたことで,こうした密輸行為をしていたのが明らかになった.
 ところが,パレスチナPFLPGCによる武器の密輸はこれまでにも何回も行われてきたし,同組織のジブリール議長がこれからも行っていくと述べている.
 それが明らかになった結果,イスラエル政府はパレスチナ側が本格的に戦争を行う意思を固めたと判断したようだ.
 それ以前にも,イスラエル側はパレスチナ側に対して徹底的な対応をしなければならないと考えていたようだ.

 今回,武器の密輸が明らかになったことで,彼らの判断はますます強固になった.それにより,彼らはアラファト及びその一派を壊滅するか,もしくは追放するのではないかと考えている.
 現実に,最近,パレスチナからのアラファト一派の追放に関する噂がアラブのマスコミや首脳の間で話題になってきている.
 エジプトのムバラク大統領は,つい最近のインタビューの中で,アラファト追放に関して聞かれたことに対して彼は特に否定しなかったが,もしそうなれば,同地域は暴力とテロの混沌とした状態に陥るだろうと述べている――同氏のような人物がこうしたことを述べるということは,その可能性が大きいということだ.
 また,アラファト自身も,自分が追放されることについては否定していない――ただ同氏はその後でもパレスチナに非合法で潜入できると述べているが.
 概して中東の上層部の情報筋の間では,アラファトが追放される可能性が非常に大きいと判断しているようである」

拓殖大学海外事情研究所教授 佐々木良昭
「中東政策に見る米石油メジャーの壮大な戦略」
from 『商品先物市場』 '01 Jul.


 【質問】
 シリアとイランとの間で2004年に締結された,包括的戦略合意とはどんなものなのか?

 【回答】
 kojii.net別館ブログ,09/24/2007付によれば,2004年時点では,経済・軍事の両面で協力するという内容.
 しかし2005年暮になって深化し,国際社会から制裁を受ける事態に対する備えを盛り込んだという.
 すなわち,
・シリアはイランに対して,ヤバい事態になったときにイランの兵器やその他の重要物資,汚染物質などをシリア国内で保管すると申し出
・シリアは,Hizbullah に対する武器・弾薬・通信機材の支援を継続
・イランは,シリアが西側諸国から経済制裁を受ける事態になったときに経済援助を行うと申し出.
 シリア国内の石油関連施設や工場への支援,シリアが制裁措置によって海外と商取引を行えなくなった場合のイランによる代行取引,シリアに対する武器・弾薬の提供,シリア軍兵士の訓練,大量破壊兵器に関する装備・技術の引き渡し等.
・西側諸国で迫害,あるいは嫌がらせを受けたシリア軍幹部をイランは歓迎する,という意志表明も
・シリアで軍事的衝突が発生したときにイラン軍兵士を投入すると表明.

 参考 :
JDW 2005/12/21 "Iran and Syria sign mutual assistance accord"

 ラッパロ条約,あるいは南アフリカとイスラエルの軍事協力などの史実を見れば分かるように,このような展開になるのは必然と言えよう.
 「敵は各個撃破すべし」は,兵法の基本のはずなのだが…….


 【珍説】
 〔略〕
2006年秋の時点で言えば,米国とイスラエルのせいで中東情勢は一段と不安定になり,一時は原油価格の高騰という事態まで招いた.
 〔略〕

林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.136

 【事実】
 前段について言えば,中東情勢に関与するプレイヤーの名前の中に,イランやシリア,そしてそれらの国が支援しているヒズボラが出て来ないのは,非常に不自然極まりないですね.
 もしかして,イスラエル・ヒズボラ紛争に至るまでの経緯について,テレビ報道レベルの知識しかないのでは?
 そしてもしかして,イランの核開発問題などはまったくご存じない?

 後段について言えば,イラク情勢の混迷は,原油高騰の原因の「一つ」でしかありません.
 他にヴェネズエラ情勢や,中国の原油輸入増加などが高騰の原因なのですが,ホホイに限らず,原油高騰の件でアメリカを非難する人間に限って,その件で中国の名前を出すところを見たことがありません.
 実に不思議な話ですね(笑).


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