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◆◆レバノン紛争
<◆戦史
<中近東FAQ目次
【質問】
レバノン紛争とは?
【回答】
1982年にイスラエルがレバノンに侵攻したことによって起こった紛争.
そもそもレバノンは,キリスト教・イスラム教が共存する「安定した聖域」「真の多元主義・多様性を持つ唯一の地域」と言われていた.
(ムスリムにしたところで,スンニ・シーア・ドゥルーズ各派に分かれていたし,キリスト教徒も同じような状態)
さらに言うと,PLOもレバノンに本拠地を置いていた.
だが,いったん内戦に突入すると,外部勢力に次から次へ干渉する口実を与える国になってしまった.
北部ではシリアが自分たちの秩序を押し付けるようになったし(これは,パクス・シリアとかシリアのくびきとか言われてるね),1978年にはイスラエルがリタニ川までの南部レバノンに進出した.
1982年6月に,当時の国防相(後の首相)アリエル・シャロン(Ariel Sharon)は,そこからさらに進出することを決定,
当初は「北部イスラエルを防護するため」として,「25マイル以上の進出はしない」と言っていたが,実際にはさらに北上して,首都ベイルートを10週間にわたって包囲,
この包囲によって,PLOはベイルートから撤退した.
レバノンのキリスト教徒指導者バシル・ジェマイエル(Bashir Gemayel)はイスラエルと平和条約を結んだんだけど,例によって暗殺,条約は反故状態になってしまった.
で,レバノンはさらに混沌状態になっていく.
1985年にはイスラエルはレバノン全域から撤退したけど,南部のバッファーゾーンは2000年まで占領を続けた.
この一連の中東戦争について,ナイ教授は以下のように分析を行っている.
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中東の経験が指し示すことは,エスニシティ,宗教,ナショナリズムの絡む地域紛争は,苦渋に満ちた,解決の極めて困難な紛争になりやすいということである.
〔両陣営の〕強硬派が,相手側の強硬派をますます強硬にさせる.
アラブ側が和を講じるのに消極的だったのは,彼らがイスラエルを正当化することを望まなかったからである.
彼らの拒否が,イスラエル内でアラブとの和を結ぶことを欲しなかった勢力の国内的地位を強めることになった.
お互いの強硬派が,事実上,国境を越えて同盟を結んだようなもので,妥協を欲する穏健派を困難に陥らせたのである.
1973年と1977年にサダトは,あえて危険を冒した.
そのツケは彼の命で贖うことになってしまった.
10年後にイスラエルのイツハク・ラビン(Yitzhak Rabin)首相も,平和のための危険を冒し,命を落とした.
このような極端が支配する世界では,信用と協力は困難である.
囚人のディレンマこそ,このような地域政治を正確に映し出すモデルである.
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・レバノン紛争は,イスラエルの侵攻で始まった.
・レバノンには,キリスト教徒・イスラム教徒が共存していたが,一度内戦になると,他国の干渉をさまざまに受ける口実となった.
・中東地域において,平和を訴えるものは暗殺されるという,かなり恐ろしい事実が存在する.
しかし,本当に「和平」を訴える人はことごとく暗殺されているイメージがある.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
レバノン紛争は何故起こったのか?
【回答】
イスラエル軍がゲリラ基地の存在するパレスチナ難民キャンプの攻撃を始め,それに対し,レバノン国内の様々な政治勢力が,双方に味方したためだという.
以下引用.
内戦の発端は,パレスチナ難民キャンプの多くが反イスラエルのパレスチナ解放勢力の軍事基地となり,これに対してイスラエルが難民キャンプの攻撃を始めたことにあった.
また,レバノン国内で主流派を形成するキリスト教徒右派も,レバノン内のパレスチナ人の存在はイスラエルの攻撃を招き,レバノンの平和と安定を脅かすとして,パレスチナ難民の攻撃を開始した.
さらに,この戦いは,キリスト教徒右派対パレスチナ人に同情と支援を送るイスラム教徒や左翼勢力との戦いに発展して,本格的な内戦に突入する.
1975年から76年にかけてのことだった.
この時点で,レバノン分裂を恐れた隣国シリアが軍事介入,アラブ平和維持軍として駐留することになり,内戦は一応収拾に向かった.
しかし,それはパレスチナ問題という根本原因が解決されないままの一時停戦にしか過ぎなかった.
佐藤健爾 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.140-141
【質問】
レバノン紛争は誰のせい?
【回答】
基本的にはシリアの大シリア主義と,ヨルダンで好き勝手した挙句ブラックセプテンバーで叩き出されたPLOのせい.
イスラエルには間接的にな責任はあるにせよ,シリアやPLOの足元にも及ばない.
レバノン内戦は1975年から,
イスラエルのガリラヤ平和作戦は1982年.
ファランヘの民兵とPLOがベイルート市内で銃撃戦やらかしたのがレバノン内戦の始まり.
平和だったレバノンに突然イスラエルが侵攻した訳でも何でもなく,内戦状態のレバノンの一つの勢力=PLOからのロケット弾攻撃を阻止する為,南部レバノンに侵攻したわけで.
【質問】
レバノン紛争の経緯は?
【回答】
ブラックセプテンバーでヨルダンを追い出されたPLOは,レバノンの地に腰を据え,再び対イスラエル闘争に精を出す.
レバノン南部は実質的にPLOの支配下に落ち,「ファタハ・ランド」と呼ばれるようになる.いわばレバノンという国の中に,もう一つの国ができたわけだ.
さてレバノンは国土の南北にわたって2つの山脈(レバノン山脈,アンチ・レバノン山脈)が縦断しており,その特異な地形から,古来より様々なマイナー宗教の隠れ家となってきた.
このモザイク国家の政治形態は,宗派ごとに政治ポストを配分するというもので,主導権はキリスト教マロン派(ローマ・カトリック系)が握っていた.
西欧寄りの思考を持つ彼らとしては,無差別テロをも辞さない闘争方針,また自分たちの国家の南部を支配して好き勝手を行い,あまつさえイスラム教徒を扇動して体制の転覆すら窺うPLOの存在が非常に面白くないわけで,両者の武力衝突は避けられない運命だったと言えよう.
内戦は,イスラム教徒を味方に引き込んだPLO側が優位に立った.
レバノン革命,遂に成るといったところだったんだが,ここで突如,シリアが介入してくる.
シリア軍はなんとキリスト教徒側に加勢し,PLOを攻撃.アラブの大義はどこへ行く.
上まあ大シリアの復活を夢見るアサド大統領としては,レバノンはシリアの良く言えば保護対象,悪く言えば属国であり,「漏れの舎弟に何をする」.レバノンはモザイク国家のままの方が都合が良かったのだ.
結局,サウジアラビアとクウェートが仲介に乗り出し,とりあえず内戦は終結した.
休戦でどうにか体制を立て直したPLOは,シリアとキリスト教民兵が不仲に陥り,両者の衝突にイスラエルが武力介入したことで,これを好機と見,イスラエルへの越境攻撃を再開する.
野砲やカチューシャ・ロケットによる連日の攻撃に業を煮やしたイスラエルは,レバノンにおける脅威を実力によって排除する決意を固め,PLOによる駐英大使狙撃事件を口実に,レバノンへの軍事介入を開始する.
いわゆる「ガラリヤの平和作戦」である.
国境を超えたイスラエル軍は,キリスト教民兵を先導役にレバノン南部へ突進.
毎度のことだが,ゲリラが正規軍と正面から衝突しても勝ち目は絶無である.
鎧袖一触で蹴散らされたPLOはベイルートまで撤退し,最後の抵抗を試みる.
市街を包囲したイスラエル軍は,イスラム教徒地区に向け無差別に砲撃.
アラファトは「兄弟」であるアラブ諸国に向け救援を要請したが,ひとつとして応える国はなかった…
地元の長老連から「迷惑だから出てってくれ」と最後通牒を突きつけられたPLOは,海を越えてチュニジアへと撤退する.
ここにPLOの軍事組織は完全に壊滅し,イスラエルと隣接する拠点を失ったことで,武力による革命路線の可能性は潰えたのだった.
1982年9月14日,レバノン紛争の「完全勝利」に酔うイスラエルに激震が走った.
イスラエルの盟友にして次期レバノン大統領に選出されていたファランジスト党党首,バシール・ジェマイエルがシリア情報機関の長い手によって暗殺されたのである.
突然の暗殺に血迷ったイスラエル軍参謀本部は,ファランジスト民兵が主張する「PLO残党による犯行」説に従い,ベイルートのPLO難民キャンプを包囲,イスラエル軍の監視の下,民兵に「捜索」を行わせる.
しかしファランジスト民兵といえば,義勇兵というよりは単なるチンピラゴロツキ(by
打通さん)の集団である.
指導者を殺られて頭に血が上った連中が何をするかは,火を見るより明らかなわけで…
彼らの「捜索」が終わると,サブラ&シャティーラ両キャンプには1000名近くの死体が転がっていた.
やがてこの虐殺事件が明らかにされ,イスラエル政府は国内外から囂々たる非難を浴びることになる.
テルアビブでの抗議集会には40万人の市民が集まり(イスラエルの人口を考えればとんでもない数である),
世論の圧力に抗しかねた政府はシャロン国防相(当時)と参謀総長を更迭.ベギン首相も政界からの引退を表明.
介入の大義を失ったイスラエル軍は,アマルなどシリアの意を受けたイスラム教徒民兵との戦闘で損耗を続け,遂にはその人的経済的負担に耐えきれなくなり,レバノンから完全撤退する.
こうして「レバノン」はイスラエルの人々に大きなトラウマを残した.
【質問】
ガリラヤ平和作戦のT-72について教えられたし.
【回答】
1982年6月6日,イスラエル軍はガリラヤ平和作戦を発動.
この作戦の目的はイスラエル北部国境を越え,レバノンへ侵攻,PLOの軍事拠点を制圧し破壊するもの.
当時レバノンには,PLOとシリア正規軍が駐留しており,イスラエルと激しく壮絶な戦闘を繰り広げた.
この作戦時,アビグドル・カラハニ大佐は第七機甲旅団を指揮していた.
同旅団はメルカバMk1を装備していた.
6月10日頃にシリア第1機甲師団の(主力はT-62戦車)の戦線の突破に成功したイスラエル戦車大隊(主力はセンチュリオン戦車)が,強力な新型戦車を装備した部隊に包囲されたという報がもたらされた.
この新型戦車こそが,シリア本土から,状況を打開するために急遽派遣された,第3機甲師団のT-72戦車であった.
この知らせを受けた軍は,カラハニ大佐の第7機甲旅団を救援に向かわせた.
6月11日,メルカバとT-72は,レバノン北東部のシリア国境付近のベッカー渓谷で遭遇した,
この時メルカバ部隊は高地側に陣取っており,3000〜4000mの距離から砲撃を開始し,次々とT-72を撃破したという.
対するT-72は,有効な反撃が出来なかった模様.
この戦闘でT-72は9輌撃破,対するメルカバは損害無しという報告がされている.
イスラエルはこの戦闘の他にも,T-72と交戦しているが,いずれもメルカバの圧勝という報告書が提出されている.
ガリラヤ平和作戦の一連の戦闘で,イスラエル軍は,撃破したT-72を捕獲しようとしたが,残念ながら出来なかった.
が,コマンド部隊を送り込み,2輌のT-72の装甲厚や装備の調査に成功.
この情報を元に米国CIAが,詳細なT-72に関する報告書を作成した.
詳細な装甲データは,ここでは割愛させてもらう.
ちなみにセンチュリオンとM60の砲弾では,T-72の装甲貫徹は難しいが,メルカバに搭載された新型砲弾ではギリギリ可能である.
しかも高地から撃ち下ろすのように射撃すれば,装甲への着弾角度が深まって,4000mからでも貫徹可能という.
報告書によれば,T-72からのメルカバへの攻撃は,射撃精度の低さから,命中が殆ど期待できなかった模様.
T-72の主砲及び弾薬の精度から換算して,その結果,
高さ2mの目標に対しては
APFSDS弾 2100m
HEAT弾 960m
言葉が出ない程の低射程・・・・・orz
照準機は最大4000mまで照準可能ということだが,砲と弾薬の精度が低いので,3000〜4000mでは話にならない.
つーかWW2レベルで戦ったということになる.
また,砲弾も輸出用の簡略型.
ソ連仕様の砲弾は,侵徹体はダングステンーバイト弾芯だが,輸出用の侵徹体は全鋼製に変更され,貫徹能力が大幅に減少.
同書によれば1000〜2000mの交戦距離であれば,T-72はメルカバに対して有効な反撃が出来ると推測している.
ただ,渓谷地ではそのような可能性は0%では無いが,湾岸戦争のような平野地では,絶望的な性能である.
その後,ソ連もT-72M1という,焼け石に水のような改修を行ったが,どちらかと言えば砲と弾薬を,本国型にすべきだったと考える.
これはこれで無理な相談かもしれないが.
【参考ページ】
グランドパワー 2007年7月号イスラエル軍戦車メルカバ(3)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年06月07日22:18
青文字:加筆改修部分
【質問】
レバノンの戦乱は,古代遺跡にどのような損害を与えているのか?
【回答】
艦砲や空爆で破壊されたり,陣地構築材料とするために破壊されたりしているという.
以下引用.
さて,レバノンのことはもうご存じだと思います.
レバノンは,海岸にある遺跡がイスラエル軍の艦砲射撃や空爆で崩れています.
ですから,フェニキアの遺跡の中に機関砲があったりというのは日常茶飯事であるし,特にイスラエルとの国境に近いテュロスは,かなり破壊されています.
それがレバノンの現状です.
〔略〕
これはジェラージュ(古代名ゲラサ)の円形広場です.
この遺跡のすぐ横に村があって,パレスチナ・コマンドが逃げ込んだ事から,イスラエル空軍に破壊されましたが,現在,この通りかなり復元されて,元の形に戻りつつあります.
〔略〕
ビブロスの古代港は,フェニキア海上民族の地中海の重要な貿易港だったところです.
復元された港の一部が,またイスラエルに破壊されてしまって,また平らになりました.
訪れるたびに形が変わっているという,かわいそうな人類の文化財です.
〔略〕
今はこの〔テュロスの〕遺跡の中に,機関砲からレーダーまであるそうです.
もちろんイスラエルとの国境に近いだけに,この遺跡はかなりの破壊を受けているということです.
このような状態〔本の図版の状態〕で見ることはもう,全く不可能になってしまいました.
このフェニキアの都市は今,小さな石片に変わりつつあります.
バールベック.これはバッカスの神殿です.
今,僕が撮影しているこの位置は,半分ぶら下がってザイルにカメラを結んで撮った写真ですが,ここの柱の7本あるうちの2本が,度重なる左右両派のレバノン内紛の時,どっちの反乱軍か知らないけど,柱頭なりその柱を切りとって,それを陣地構築に使ってしまったそうです.
転がっている遺跡の石も同様に,陣地構築などに使われ始めてきたということですね.
並河萬里〔写真家〕 from「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.254 & 280-285
【質問】
サブラ・シャティーラの虐殺について教えてください.
【回答】
1982年,レバノンのバシール・ジュマイエル大統領が爆殺されたことを受け,これはPLOの仕業(実際はシリア軍情報部の犯行)であると主張したジュマイエル配下のキリスト教マロン派民兵が,当時レバノンに駐留していたイスラエル軍の援護のもと,ベイルートにおけるPLOの拠点であった,サブラ,シャティーラの両難民キャンプを包囲,女子供を含む1000名弱を虐殺した事件です(主にゲリラと疑われた若い男性が狙われました).
イスラエル軍は自分の手は下さなかったものの,キャンプを厳重に包囲した上で,夜間はサーチライトや照明弾を使って民兵の行動を“援護”しました.(武器を供与したという話もあります)
ことが明るみに出たことで(ちなみにこの事件を最初に報道したのはベイルートにいたただ一人のユダヤ人記者でした),イスラエル政府は内外から轟々たる非難を浴び,当時のシャロン国防相のクビが飛びましたとさ.
20年後,虐殺の指揮を採っていたとされるエリー・ホベイカ(まあ胡散臭い人です)が,「真実を明かす」と発表した直後に車ごと爆弾で吹っ飛ばされたりしてるんですが,それはまあ別の話ということで.
▼ 町山智浩さんのブログで紹介されていた,第一次レバノン戦争のサブラ・シャティーラの虐殺を描いたイスラエル製アニメ映画『ワルツ・ウィズ・バシール』
http://jp.youtube.com/watch?v=Dx_ReLp3Lsw
悲惨な事件ですが,映像は独特の絵柄で美しいです.
公式サイト(↑以外の動画や静止画が観れます)
http://waltzwithbashir.com/
参考:Sabra and Shatila massacre
http://en.wikipedia.org/wiki/Sabra_and_Shatila_massacre
日本語でよく引用される被害者数3000人というのは,パレスチナ側が好んで引用する推定値の上限みたいです.
中東問題で日本の視点がしばしばアラブ寄りなのは,興味深い現象です.
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◆◆航空戦
【質問】
1973年以降の中東(シリア,エジプト,イスラエル)の空軍力ってどんなもん?
【回答】
各国共に大幅に増強されている.
それまでの戦争/紛争を踏まえての新型装備を,それぞれ導入している.
●シリア
シリアの場合,ヨム・キプル戦争で損耗したMiG-21,Su-7B,MiG-17などをソ連からの航空/海上輸送により急速に回復した.
シリア空軍は上記の機体と合わせて,MiG-21MFやMiG-23,MiG-25,Su-20C等の新型戦闘機や,Mi-8,Mi-24などの輸送/武装ヘリコプター部隊の拡大を行っている.
更にフランス製のSA321輸送ヘリや,HOT有線対戦車ミサイルを装備したSA342ガゼルといったヘリコプターをも導入した.
SAMや機関砲の方は,SAM等の軍需物資引渡しを受け,建て直しに成功している.
SA-6高射隊やレーダー,高射砲の更なる追加配備も行われている.
80年代,90年代には,SA-8やSA-11の移動式SAMや,SA-5長距離SAMがシリア防空網に加わった.
ソ連崩壊後は,部品価格の上昇や入手が困難になったことに耐え,航空機数を維持したり,訓練プログラムを維持していた.
90年代半ばにはロシアより数個飛行隊のMiG-29を.98年には1個飛行隊のSu-27を導入している.
なお,現在でも数個飛行隊のMiG-21MFとMiG-23/27を所有していた.
●エジプト
エジプトの場合,かつてはほぼソ連式で空軍を固めていたが,ロシア・中国・西側の方式を混ぜた空軍へと転換した.
エジプトはMiG-21は今も多数保有しているが,Su-7B,Su-20は一線を退いた.
その補充用としてフランス製のミラージュVE,ミラージュXを,アメリカからF-4Eを購入し,中国からは相当多数のF-6(MiG-19),F-7(MiG-21)を手に入れた.
更に,フランスから追加のミラージュVとミラージュXを購入すると共に,ミラージュ2000戦闘機も確保している.
70年代後半から米国が行ってきた軍事援助により,200機以上のF-16や,エジプトで生産されたM-1戦車を先鋒とする強力な陸軍部隊,改善/能力向上がオ紺割れたロシア式システムによって構成された強力な防空部隊を整備することが出来た.
エジプト空軍のヘリコプターは,当初はフランス製のSA342ガゼル,英国ウェストランド社製のコマンド・ヘリコプターで構成されていたが,後に米国製のCH-47,UH-60,AH-64Aが追加された.
輸送機部隊には,30機あまりのC-130とDHC-5バッファローが導入されたし,E-2CホークアイとB-707改装の空中給油機も導入した.
またエジプトでは,独仏共同開発のアルファジェット練習機と中国製航空機(多くはイラクに運ばれた)の組み立てが行われ,エジプト及びその他アラブ諸国向けの兵器多数が製造された.
●イスラエル
73年の戦争以後,イスラエル指導部は教訓を生かし,空陸両軍を大幅に拡大した.
80年代に入るまでにヨム・キプル戦争以前と比べ,イスラエル空軍は飛躍的に増強された.
制空戦闘の分野ではF-15,多用途飛行隊にはF-16がアメリカより供給され,多用途飛行隊には更にイスラエル製のクフィールの追加により大幅な改善をみせた.
また,E-2C早期警戒機を購入し,監視と航空任務の統制力を強化した.
イスラエルの企業は,戦場上空を飛行し,情報活動に使用するためのビデオ映像を送ることの出来る無人偵察機の1種を開発した.
以前一線で活躍していたF-4とA-4は,各種電子戦装置のほか,高度な兵器やセンサーを搭載していた.
A-4はN型が配備されると共にE,F,H型からクフィールと交代,もしくはTA-4と共に訓練に用いられた.
そして,ミラージュとネシェルは一線を退き,アルゼンチンに譲渡された.
クフィールは性能に限界があるとされ,F-16が十分に供給されるまでの短期間だけ空軍に在籍した.
80年代後半,2個飛行隊のF-4がクルナス2000型に改造された.
これによって構造の強化,最新のアビオニクス,優れた対地レーダーを搭載するといった改装が行われた.
アラブの防空網に対抗する為,イスラエルはスタンダード,シュライク,マーベリックの各ミサイルやレーザー誘導および電子光学式誘導爆弾といった米国製スタンドオフ兵器の引渡しを受けた.
イスラエルの軍事産業はそれに加えて多種多様なセンサーポッドや電子妨害システム,爆弾,各種ミサイルを開発し,レバノン上空に実戦投入した.
イスラエルはさらに地上部隊支援用としてTOW対戦車ミサイルやロケットポッドを積むヒューズ500DとAH-1Sも配備し,レバノン紛争に投入している.ヘリコプター部隊には90年代にヘルファイア対戦車ミサイルと夜間戦闘を可能にするFLIRを装備した2個飛行隊のAH-64Aを購入することになった.
陸軍も新型自走砲,地対地非誘導ロケット,更に米国製ランスミサイルを購入し,火力支援能力を大きく強化した.
ランスミサイルは元々,戦術核弾頭を運用するものであったが,イスラエルのものはクラスター爆弾型弾頭を搭載していた.
これは836個のBLU-836子爆弾を内蔵し,直径1kmに渡って被害を与えられたため,特にミサイル陣地攻撃に有効であった.
防空網強化としては,米国製の改良されたホーク,チャパラル,レッドアイの各種SAM,20mmバルカン砲や,アラブ側から取り上げたSA-7によって大幅に強化されていた.
更に,イスラエルは世界初のミサイル防衛システムの一つであるアローを米国と共同開発し,配備している.
90年代後半には,中距離弾道弾を導入し,戦略攻撃能力を高めた.
1987年9月19日にはジェリコUミサイルのブースターを使い,衛星を打ち上げている.
2回目以降に打ち上げられた衛星には偵察システムが搭載された.
詳しくは『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),
P277〜282を参照されたし.
ガゼル gazelle ヘリコプター
【質問】
レバノン紛争における航空作戦の始まりは?
【回答】
1982年春に,イスラエルとレバノンの国境地帯で砲撃とゲリラの襲撃が頻発したのを受けて,アリエル・シャロンが攻撃をやめない限り,国境を越えて攻撃する旨を表明.
この緊張状態の中,1982年6月4日に,ロンドンに駐在していた大使シュロモ・アルゴフがアラブのテロリストから襲撃を受けて重傷を負った.
この報復として,イスラエルがレバノン南部全体を60回以上に渡って爆撃したのが最初.
これに対してPLOは大砲とロケット弾でイスラエル入植地を集中攻撃し,戦線が拡大することになった.
ますたーあじあ in mixi,2007年12月13日17:31
【質問】
レバノン紛争における制空戦闘はどのように推移したの?
【回答】
1982年6月6日のレバノン侵攻戦から8月までに,イスラエルは85機のシリア軍ジェット機と,多数のヘリコプターを撃墜したと言われている.
これに対し,イスラエル側の損害はゼロというのがイスラエルの主張だが,米軍筋の情報では,少なくとも2機のA-4と,1機のF-4,数機の攻撃ヘリコプターが撃墜され,F-16含む数機がAAAとSAMによって損害を受けたと言っている.
シリア側の撃墜の多くは,6月8日から11日にかけて行われたベッカー高原での格闘戦によるものである.
イスラエル側のレバノン侵攻に対して,シリアはMig-21,Mig-23,Su-22や,ガゼル,ハインドなどの攻撃ヘリコプターがレバノンに向けて出撃した.
これらの機がレバノンに入るとすぐに,イスラエルのF-15,F-16を主力とする戦闘機部隊に襲い掛かり,そこに大規模な空中戦が展開されたという.
以下はそのときの状況.
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F-16ファイティングファルコンは当時まだイスラエルの装備となってから2年も経過していなかったが,44機のシリア機を撃墜し,さらに約40機がF-15の軍門に下った.
イスラエルのF-15はこれで,シリアのMigに対して58対0の完勝記録を樹立したことになる.
別のシリア軍のジェット1機はイスラエルのF-4に撃墜された.
シリア軍機の損失の大半はMig-21であったが,少なからぬ数のMig-23,Su-22,そしてヘリコプターも撃墜されている.
アメリカの情報筋によると,撃墜機のうち7%未満が機関砲によるものだと言う.
空中戦で撃墜されたシリア機のほとんどが,赤外線ホーミング・ミサイルにやられている.
シャフリル,新型のバイソン(Python)3(共にイスラエル製),そしていくつかの型のAIM-9D/GならびにL型サイドワインダーが使用された.
全方向攻撃能力を持つAIM-9Lは,素晴らしい性能を示したと言われる.
正面から,あるいは側方見越線上から,赤外線ホーミング・ミサイルで攻撃することを初めて可能にしたのである.
F-15はレーダー誘導式のAIM-7Fスパローを装備していたが,これも大きな威力をしめした.
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―――『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),p.295
以上,「無敵イスラエル空軍」をお伝えしました.
F-15大活躍の巻ですな.
もっとも「F-15の被撃墜ゼロ」には,結構怪しいところもありますが.
ますたーあじあ in mixi,2007年12月19日
【質問】
レバノン紛争における,イスラエル空軍圧勝の要因は?
【回答】
航空機の性能差,兵器の信頼性・性能,パイロットの技量差という面も大きいが,早期警戒機や事前偵察,戦術偵察などを使用して革新的な戦術を使用した面を軽視してはならないだろう.
イスラエル国防/空軍では1966年から1982年にかけて,エースを達成したとして30数人のパイロットを輩出した.
彼の多くは未だに在郷軍人として活躍しているため,彼らの成功談の全容が分かるのは,まだ先になりそうだ.
対SAM戦闘では,RPVスカウトやマスチフなどを利用した事前偵察機と,EC-707,E-2ホークアイなんかを使用した早期警戒機,RF-4E,OV-10,RC-12Dなどの航空戦術偵察機が大きな役割を果たした.
(無論地上からの偵察情報もだが)
これらの情報はリアルタイムで指揮システムに伝達され,速やかに前線のパイロットや前線指揮官に伝えられたという.
以下引用.
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航空戦の分野では,イスラエル軍の指揮官は,シリア軍機の離陸から,そのコース,数まで正確に把握していた.
またシリア機と地上管制員間の通信もモニターされ,必要なら妨害されていたと言われる.
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―――『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),p.296
レバノン紛争においては,さすがにシリア空軍とイスラエル空軍では比べるのも・・・というレベルだと思う.
ますたーあじあ in mixi,2007年12月20日21:40
【質問】
レバノン紛争で,イスラエルは敵側(シリア)の防空網に対して,どのように対抗したのか?
【回答】
レバノン紛争時,シリアはSA-6高射隊15,SA-3高射隊3,SA-2高射隊2の合計200発の即時発射可能な対空ミサイルを,レバノン国境に沿って配備していたし,その後SA-8対空ミサイルまで用意していたようだ.
これに対して,ヨム・キープル戦争で大きな被害をイスラエルに出させた,ソ連式の相手防空網に対する研究を,アメリカの支援の下,10年かけて行っていた.
この結果,ソ連式の統合防空網を撃滅することに成功している.
ただし,後述するように,相手側の油断やミスも多かった.
イスラエルはベッカー高原で,23ヶ所のSAM施設を破壊したが,これは1年前から電子/光学センサーを付けたRPV(遠隔操縦無人機)を使って,相手陣地に対する偵察を行い,事前情報の収集を行っていたことが大きい.
シリアの防空網を破壊するのにイスラエルが用いた戦術は,アメリカがベトナム戦争で使用した戦術に改良を加えたもので,ジャミング・ブラフが広範囲にわたって行われ,ロケット・有人/無人機を使って赤外線用の囮が多数散布されている.
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イスラエルのラファエル・エイトン(Rafael Eiton)中将は次のように語っている.
「SAM部隊に対する攻撃には,地上部隊の大砲だけでなく,新型のコンピュータ誘導式地対地ミサイルも使用された.
これは長射程砲より命中率で勝っていた.そして各対空ミサイル部隊を,ある程度無力化すると激しい航空攻撃を加え,1個1個潰していった.」
航空攻撃にはシュライク対レーダー・ミサイルも使用されたが,イスラエルはまた対レーダー・シーカーを装備した新型のゼーブ(Zeev=狼)地対地ミサイル(恐らくアメリカのスタンダード対レーダーミサイル)も使用した,と報ずる説も多い.
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―――『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),p.293-294
さらに,ベッカー高原における防空システムの損失のうち,シリア側のミスも大きくイスラエルの勝利に貢献した.
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ベッカー高原における防空システムの損失は,責任の大半はシリア側にあるとする意見が強い.
明らかにされている情報から判断するに,シリアはその戦術的な優位性を有効に利用しなかったようである.
ベッカー高原にひとたび布陣するや,多くのミサイル部隊は位置を変えることもしなければ,生存性を高めるための地中埋め込みもしなかった.
レーダー電波放射統制もまずかった.
多くのレーダーがドローン追尾に使用され,その使用周波数と位置を暴露してしまったのである.
ダミー放射源と囮のSAMを使わなかったことが,レーダーの寿命を縮めることとなった.
イスラエルによる攻撃が始まると,シリア川はミサイル部隊の位置を隠すために,濃密な煙幕を展開したとも伝えられるが,地形は平坦で開けている上に,それ以前からRPVを使って十分な情報が得られていたため,これはほとんど効果を挙げられなかった.
どうしてもこの対空部隊制圧に目が行ってしまうが,イスラエルのF-4Eファントム,クフィール,A-4スカイホーク,F-16はまたPLO,シリア軍陣地と戦術的目標に対する攻撃のため,数百回に及ぶ出撃をおこなっている.
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―――『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),p.293-294
イスラエルが事前準備やハードウェアの活用方法を戦術化し,それを長い時間を掛けて研究していたのとは対照的に,シリア側は油断からか,それを活かせてないという感じ.
どれだけハードがあっても,最終的には「運用・活用」するための準備・訓練が明暗を分けるって感じかねぇ.
ますたーあじあ in mixi,2007年12月14日16:20
【質問】
1982年以降,レバノンで空中戦はおこなわれたの?
【回答】
イスラエルは,以降20年に渡ってレバノン南部一帯を「安全保障地域」として占領し,度々戦闘が起き,空中戦や爆撃なども行われている.
また,対テロ活動においても,空軍力は大きな役割を果たした.
1985年10月1日に,イスラエルのF-15が2400キロにわたって飛行し,チュニジアのPLO本部を爆撃した
(この時点では,F-15Eはまだなかったから,F-15のBかDを爆撃に使ったと言うことか)
この攻撃で,シリアはレバノン上空におけるイスラエルの航空活動に対する妨害を開始,1985年11月20日には,イスラエル機の偵察飛行を脅かした,シリアのMig-23が2機,イスラエルのF-15に撃墜された.
対テロ対策についても,以下のように空軍力を活用したようだ.
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イスラエル機はレバノン上空での活発な飛行活動を続け,防衛の名の下,あるいはイスラエル軍や入植地に対する攻撃の報復として,再三にわたってテロリストの拠点を攻撃した.
湾岸戦争中には,イスラエル国防軍/空軍はイラクのSCUDミサイル攻撃に対する報復措置として,その戦闘機を大挙してイラクを攻撃しようとしたが,米国の外国努力及びミサイル防衛のためのパトリオットミサイルの迅速な配備を受け,思いとどまっている.
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―――『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),p.296
1985年以降は,イスラエルとアラブ側に空中戦は発生しておらず,イスラエル・エジプト・ヨルダンの3カ国間で平和条約が結ばれている.
しかしながら,戦闘機と攻撃ヘリコプターによる数千回もの空襲でレバノンの目標が攻撃されており,2001年にはガザとヨルダン川西岸にまで拡大している.
この小競り合いが結局は,イスラエル−ヒズボラ紛争の火種になったのだろうね.
にしても,F-15BだかDだかをそのまま爆撃機として使用するイスラエルの柔軟性というか,思い切りはすごいね.
ますたーあじあ in mixi,2007年12月22日20:58
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